- 子齹(シサ)【文官】
- 鄭の臣。嬰斉ともいう。子皮の子。
B.C.526、3月、晋の韓宣子が鄭を聘問した。子齹は野有蔓草の詩を歌って、韓宣子にお会いできてうれしいという意を寓した。 - 子産(シサン)【宰相】
- 鄭の宰相。氏は公孫、名は僑、字は子産または子美。子国の子。公孫成子、子美ともいう。〜B.C.522。
B.C.565、4月22日、父の子国が晋の機嫌を取るために蔡を討って司馬公子燮を捕えた。鄭人はみなよろこんだが、子産だけは喜ばずに
「小国が文徳もないのに武功を立てることほど大きな禍はありません。楚が鄭の罪を責め正したら、鄭は楚に従わないわけにはゆきません。
そうすると晋が攻めて来るでしょう。楚と晋に攻められたら鄭は今後4、5年経たなければ安らかになれないでしょう」と言った。子国はこれを聞くと立腹して
「お前になにがわかる。国で戦をせよという大命が出たから正卿(子駟)が戦をしたのだ。童子がそのようなことを言うと殺されるぞ」と言った。 B.C.563、10月14日、尉止らが叛乱を起こして、子国と子駟と子耳を殺した。子産はこれを聞くや門の守りを固めさせ、
役人たちを集めそろえ、倉庫を閉めさせ、財貨をしっかりと閉蔵させ、守備を十分に設け、隊列を作って家を出た。
子産は兵車17台を率いて父をなきがらを見舞ってから北宮にたてこもっている賊を攻めた。
子産は子蟜とともに尉止と子師僕を殺し、賊を皆殺しして叛乱を鎮圧した。
子孔は子駟に代わって国政を執った。子孔は盟いの書(載書)を作り、
大夫や役人は官位の順序に応じた職務だけをさせ、直接朝廷の会議に参加できないようにした。そのため大夫や役人たちはこれを不服として子孔を殺そうとした。
子産はこれを止めて、子孔に盟いの書を焼き捨てるように願い出た。子孔は「多くの者が怒るからといってこれをやめれば、多くの者が政治をやることになる。
それでは国が治まりにくいではないか」と言った。子産は「多くの君の怒りにはたてつくことができないし、自分ひとりで欲を独占することはできません。
このふたつの方法で国を治めるのは危険です。むしろ書を焼いて多くの人々の心を落ち着かせる方が上策です」と言った。
そこで子孔は盟いの書を皆の目につくように倉門の外で焼いたので、人々はやっと落ち着いた。 (一説では、子孔は子駟を殺して代わって宰相となり、また自ら位に即こうとしたともいう) B.C.554子孔がわがまま勝手に国政を行ったので、人々は子孔を裁いて有罪とし、子展と子西は国人を率いて子孔を殺した。鄭人は簡公が弱かったので子展を摂政として君事を代行させ、子西を宰相として国政を執らせた。子産は卿に任命された。 B.C.551晋平公が鄭に対して来朝せよと要求した。そこで子産は晋に遣わされて弁明した。子産は「わが君は事あるごとにお伺いをして参りました。もしもわが国の難儀をお救いくださらず、口先だけでお助けくださらないなら、むしろご命令には従わずに、滅ぼされて仇敵の間柄となるかも知れません」と返答した。 B.C.549晋の范匃が晋の政治を行うと、諸侯に多く品物を求めた。 2月、鄭簡公が晋に出かけると、子産は簡公に随行する子西に書面を依頼して、范匃を諌め「もしも諸侯の財貨が晋に集まれば、四方の諸侯は晋から離れるでしょう。そしてもしあなた自身がその財貨を自分の家に集めるとしたら、晋はあなたから離れるでしょう。わたしは国家の長として民を治める者は、財貨の乏しいことを気にかけないで、立派な名声のあがらないことを憂えるものだと聞いています。それに反して、あなたが我々の財物をさらい取って生きている、などといわせてよいものでしょうか」と言った。范匃はこれを聞いて大いに喜び、諸侯に求める幣物を軽くするようになった。 この年、鄭簡公から六邑を与えられたが、辞退して三邑だけを受けた。 子産が宰相となって一年経つと、幼い童らもいたずらをせず、老人は重い物を持たず、未成年者は田を耕さなくてもよいようになった。 二年経つと、市場では掛け値がなくなり、三年たつと、夜も門を閉ざさず、道で落し物を拾う人がなくなり、四年たつと、農具を家に持ち帰ることがなくなり、五年たつと、士には尺籍(軍令を記すもの)がなくなり、服喪の期限は命令しないでも実行されるようになった。 B.C.548、6月24日、子産は子展とともに兵車700台を率いて陳を討ち、陳都を陥落させた。子展が陳の公宮に入ってはいけないと鄭軍に命じ、子産は一緒になってみずから軍を宮門のところで止めた。子産は朝廷に入って捕虜を数えただけで退出した。鄭は陳の司徒に人民を返して治めさせ、司馬に兵符を返して軍事を司らせ、司空に土地の台帳を返して、陳を元通りに治めさせて軍を引き揚げた。 子産は陳の捕虜を晋に献じた。晋人が「なぜ小国に攻め入ったのか」と詰問すると、子産は「先王の定められたおきてに、ただ罪のある者に誅罰を加えよとあります。それに今や六国はかつての天子の地よりも広大になっており、これは小国を侵略しなければどうしてこのように広大になれたのでしょうか」と答えた。これを聞いた士弱はそれ以上詰問することができなくなり、趙武に報告した。趙武は「子産の言葉は道理にかなっている」と言って、その捕虜を受け取った。 B.C.547、3月1日、簡公は陳に攻め入った軍功を賞し、子産には次路(車)と再命の服を与え、続いて6邑を贈ったが、子産は辞退したので、3邑のみ贈った。 5月、秦と楚が攻め入ってきて、印菫父が捕らえられた。鄭人は財貨を贈って身柄をもらい受けようとし、時に子大叔が辞令を作成したが、子産はその口上を見て「これでは菫父をもらい受けることはできないであろう。秦の君が鄭のためにお骨折りになったことを感謝いたしますという方がよかろう」と言ったが、これに従わずに出かけた。はたして秦人は印菫父を渡さなかった。そこで子産の言葉どおりにすると秦人はこれを引渡した。 10月、楚が攻めて来た。子産は「楚王はただ許に対する義理のためにやってきたのだ。思うようにやらせて帰した方がよい。かえって和睦しやすいことになる」と進言したため、子展はこれに従った。
B.C.546冬、鄭簡公が会合から帰国する晋の趙武を垂隴でもてなした。子産は隰桑の詩を歌い、趙武が柔軟の徳をもって手ごわい諸侯をなつけ従えた功をたたえる意を寓した。趙武は子産が自分を教え正してくれることを望んだ。 呉の季札に会い、あたかも旧友のように親しんだ。季札は「鄭の為政者は奢っており、いまにも禍がおこりそうです。政治があなたの手に移ってきましょう。もし政治をなさるなら、かならず礼をもってなされますように」と言った。子産は季札を手厚く待遇した。 B.C.545夏、蔡景侯は晋からの帰途、鄭に立ち寄った。鄭簡公はこれをもてなしたが、蔡景侯は不作法であった。子産は「蔡侯はきっと禍から逃れられまい。晋に行くときもおごり高ぶっており、帰るときには改めているだろうと思ったが、今も不作法である」と言った。 11月、子産は鄭簡公の介添えとなって楚に出かけた。子産は楚の郊外に着くと、土を盛り上げて壇を作らず、草ぶきの小屋を作っただけであった。役人がこれを諌めると、子産は「小国が大国に出かけるときは、ただ宿泊しさえすればよいのです。小国が大国に出かけるときは、よくない報告で行くものです。ですから壇を作ってそれを明らかにする必要はないのです」と言った。
公子たちが寵愛を争って殺しあおうとしていた。しかしある者が「子産は仁人である。鄭が存続しているのも、子産の徳によるものだから、殺してはならない」と言ったので子産は助かった。 B.C.544呉の季札が鄭を聘問して子産に会い、昔からの知り合いのように意気投合した。季札は「鄭の執政(良霄)はおごり高ぶっている。政権はきっとあなたのものになるでしょう。そうなれば礼儀を守って政治を慎むがよろしい」と言った。 B.C.543子産は鄭簡公を助けて晋に出かけた。晋の叔向が鄭の政情を尋ねたので、子産は「伯有はおごりたかぶっており、子皙(公孫黒)は人にへりくだることができません。騒動が起こるのは、ほど遠くないことでしょう」と言った。 6月、子産は陳に出かけて盟いを結んだ。帰国すると子産は「陳はやがて滅びる国だ。仲良くしてはいけない」と言った。 7月13日、公孫黒が駟氏の兵を率いて伯有氏を攻め、良霄は許に亡命した。ある人が公孫黒に味方するよう言ったが、子産は「あの人がどうしてわたしの味方でしょうか。国の災難はどのように治まるかは、誰にもわからないものだ。真実に強くて正しいことを第一として心がけましょう」と答えた。 7月14日、子産は伯有氏の死者のなきがらを棺に納めて仮に葬り、大夫たちの謀議には参加せずに国を立ち去った。子皮が「あの方は死者に対して礼をつくしている。ましてや生きているわれわれに対してはなおさらのことだ」と言ってみずから子産をひきとめた。 7月15日、かくて子産は都に戻った。 7月16日、子産は同行した印段とともに公孫黒の家で盟いを結んだ。 7月26日、良霄は早朝に墓門の水門から都に入り、羽頡を頼って鄭襄公のつくった武器庫に入って武装し、旧北門を攻めた。駟帯が国人を率いてこれと戦った。両軍とも子産を呼んで味方につけようとしたが、子産は「兄弟の仲でありながらこんなことになった。わたしは天の加担する方につきましょう」と言った。やがて良霄が戦死すると、子産はその屍に着物を着せ、自分の膝に枕をさせて哭泣して納棺した。駟氏の者が子産を攻めようとすると、子皮が怒って「礼は国の幹である。礼をわきまえた人を殺すとは、これ以上の禍はない」と言ってこれを止めた。 子皮が子産に政権を譲ろうとした。子産は「国は小さくて大国に圧迫され、公族が大きく君のお気に入りが多いことから治めることはできません」と言って辞退したが、子皮は「このわたしが人々を率いてあなたに従えば、だれが逆らいましょうか。あなたが上手に治めてくれれば、小国とは言われますまい」と言ったため、子産は鄭の政治を行うことになった。 子産は公孫段にやってもらわなければならないことがおこったので、采邑を与えてやらせた。子大叔が「どうして伯石(公孫段)だけに邑を与えるのですか」と諌めたが、子産は「だれもが欲を求めて国の仕事を行う。邑を与えたところで、それは国の邑ではありませんか」と言った。公孫段は心配して邑を返上したが、結局は与えた。 公孫段は良霄に代わって卿に任じられた。子産はその人がらを嫌ったが、事を起こされることを心配して、自分の次の地位を与えて優遇した。 子産は国都と地方における車服類の区別を明らかにし、卿大夫の身分の上下による服務の規定を明確にし、耕地には畦や溝を作って境界をはっきりさせ、農家には組合をつくらせて相互に扶助させた。また身分の高い人たちの中で、職務に忠実で倹約な者に対しては、その功績を認めて賞を与え、驕慢奢侈の者には、その罪を咎めて滅ぼした。 公孫段の一族である豊巻が先祖の祭りのため狩を願い出たが、子産は「ただ君の祭にだけ新鮮な肉を用い、その他の者はありあわせの物でよい」と言った。豊巻は怒って兵を集めて子産を攻めようとしたため、子産は晋に亡命しようとした。子皮が子産をひき止め、豊巻を追い払ったため、豊巻は晋に亡命した。 B.C.542、6月、子産は鄭簡公を助けて晋に出かけたが、魯襄公の喪中ということで面会できなかった。そこで子産は旅館の堀を壊して車馬を入れさせた。晋の士文伯がその無礼を責めると、子産は「持参した品を納められず風雨にさらしてもおけないのでおとがめを重ねた次第です。お役人にはどのようなご命令を下さるのでしょうか」と答えた。晋の趙武は「子産の言うとおりだ。堀の中に諸侯をお入れしたのは、わたしの過ちでした」と言って、士文伯を遣わして不行き届をお詫びした。 子産は有能な人物を選んで用いた。馮簡子、子大叔、子羽、裨らであった。子産が政治を行うこと1年で、民は「われわれの服や冠を使わせないで、田畑をとりあげて組合を作らせた。誰かが子産を殺そうとするなら、われわれが手助けをしよう」と歌いあった。 鄭の人々が村里の学校に集まって政治の得失を批判していた。鄭の大夫鬷蔑は子産に「村里の学校を廃止したらどうでしょう」と言った。子産は「どうして廃止したりしようか。私は人々が批判する中で、人々が善いと言う事を行ない、悪いと言うことを改めるようにしています。人々の批判を止めさせるのは、川を防ぐようなものです。堤防が決壊するとその害は甚大です。ですから人々の批判を聞いて、それを薬として政治の参考にすべきです」と答えた。鬷蔑は「私は今はじめて、あなたが本当におつかえすべき立派な人物であることがわかりました。私は実につまらない人間でした」と反省した。 子皮は子産を誠実な人と考えて、政治を委任した。子産はこうしたうしろだてがあったので鄭をうまく治めたのである。 B.C.541春、楚の公子囲が公孫段の娘を妻に迎えるとき、部下を率いていたため、子産は鄭を襲うと心配して子羽に命じて、これを城外で行わせようとした。公子囲が武器をしまうと約束したため、鄭人は申し出を聴き入れた。 徐吾犯の妹をめぐって公孫黒と子南が争い、子南が公孫黒を戈で斬りつけて負傷させた。子産は「どちらの言い分も正しい場合には年下で身分の低い方に罰があるとするものです」と言って、子南に亡命を勧めた。 6月11日、子南の騒動のため、子産は鄭簡公と大夫とともに公孫段の家で盟いを結んで和合を図り、子産・子皮・公孫段・印段・子大叔・駟帯は盟いを結んだが、公孫黒が無理に押しかけてこの盟いに参加した。子産は騒ぎを恐れてこれを処罰しなかった。 晋平公が病気になったため、子産は命により晋を聘問して病気見舞いをした。 B.C.540秋、公孫黒が謀叛を起こそうとした。このとき子産は田舎に出かけていたが、これを聞いて間に合わなかったら一大事とばかりに駅つぎの早馬に乗って都に帰り、役人に命じて公孫黒を責めて自決を促した。そこで公孫黒は自決した。 子産が政治を行うこと3年たつと、民は「われわれの子弟は、子産が教育してくださった。われわれの田畑は子産が増やしてくださった。子産が死んだりしたら、誰がその後を継げるだろうか」と讃えるようになった。 子産は豊巻を呼び戻して、土地と収入とを返してやった。 B.C.539、10月、子産は鄭簡公とともに楚を聘問した。楚霊王と鄭簡公が一緒に狩をしたとき、子産はその準備をした。 B.C.538、1月、鄭簡公は楚に赴いた。そこで楚霊王は子産は諸侯と会合しようとして「晋はわたしが諸侯を集めることを許すであろうか」と尋ねた。子産は「許すでしょう。晋は諸侯を統御しようとしておらず、大夫たちも主君の誤ちを正そうとしておりません。それに宋の盟いで両国は和睦することを決めております」と答えた。さらに楚霊王は「諸侯は集まるだろうか」と尋ねると、子産は「きっと集まるでしょう。宋の盟いに従うことになり、君の歓心を受けに来ることになり、大国(晋)から責められもしません」と答えた。はたしてその通りとなった。 6月17日、諸侯は申で会合した。楚霊王は会盟の礼を宋の向戌と子産に尋ねた。子産は小国が大国の君と会合する6つの礼を進言した。君子は「合左師(向戌)はりっぱに宋の先代の礼を守り、子産はりっぱに鄭の小国を助けた」と批評した。 楚霊王のおごり高ぶった態度を見て、子産は向戌に「楚君はおごり高ぶって諌めに従いません。十年ともたないでしょう」と言った。 秋、子産は、丘賦を変更し、一丘十六井ごとに丘賦を出させて城外田野の民に対して軍役負担と軍費徴収を始めて不均衡を無くした。国人はこれを非難したが、子産は「どうして害があろう。国にとって利益になるなら死生を顧みずにやりましょう。民をその望むままにさせてはならない。わたしは決して改めません」と言った。 B.C.537晋平公が楚に公女を送るために邢丘まで出向いていた。子産は鄭簡公とともに邢丘に出向いて会合した。 B.C.536、3月、子産は刑法の文を鼎に彫りつけ、国の常法として国民に示した(中国史上初の成文法)。晋の叔向が書面を送って「わたしはあなたに期待していましたが、今はやめました。先王は一定の刑法を制定しなかった。民は条文が定められていることを知ると、上を恐れなくなり犯罪をのがれようとする。わたしは国が滅びようとするときはきまって法律などの定めが多くなるということを聞いているが、それは鄭のことであろうか」と批判したが、子産は「あなたのおっしゃるとおりです。私は不才ですので子孫にいいようにはしてやれません。ただ私は今の世を救おうとしているのです。ただご忠告を頂いた大恩は忘れません」と返事をした。 夏、楚の公子棄疾が鄭に立ち寄ったため、子産は子皮・子大叔とともに柤でこれを慰労した。 B.C.535、2月、子産は公孫洩を子孔の後継ぎに、良止を良霄の後継ぎに立てて良霄の霊をなだめると、良霄のたたりがやんだ。子大叔は「たたりをしない子孔の後継ぎまで立てたのはどうしてですか」と問うと「良霄は不義であるのに彼だけ後継ぎを立てられると批難されないためです。人気取りも必要です。人気を取らないと民は信頼しないし、民は信頼しないと上に従わないものです」と答えた。 子産は鄭簡公の命で晋を聘問した。時に晋平公は病気であった。子産は韓宣子に病気について尋ねると、韓宣子は「わが君の病気は久しく、何をしても治りません。ところが黄熊が寝門に入る夢を見たそうです。何でしょうか」と尋ねた。子産は「昔、鯀が堯の命を犯して殺されたとき、黄熊になって羽山に入ったといいます。これが夏王朝の郊祭となりました。今周は衰えて、晋が実際にはそれを継いでいます。もしや、まだ夏の郊を祭っていないのではないでしょうか」と答えた。そこで晋平公は夏の郊を祭ると、5日にして病気が治り、子産は莒国の鼎を賜わった。 B.C.531子皮が厥憖の会合に出かけようとすると、子産は「晋は蔡を助けることができず、蔡は滅びるでしょう。蔡は小国でありながら楚に従わず、楚は大国でありながら徳義がない。蔡も滅びるが楚王も天のとがを受けるであろう」と言った。 B.C.530、3月、鄭簡公が没した。埋葬のための通路を作っていたら役人の家に突き当たったため子大叔が「諸侯からの弔問客を長く待たせるわけにはいかない」と言ってその家を壊すよう願った。しかし子産は「お客様はわざわざ来てくださったのですから、どうして日中まで延びることを厭いましょう。来客にご迷惑をかけず、民にも害を与えないのなら、そこを避けるべきだ」と言って、迂回して道路を作って日中になってから埋葬した。 夏、鄭定公は斉・衛とともに晋に出かけて新しく即位した晋昭公に挨拶をした。子産は鄭定公の介添として赴いたが、享宴を辞退して鄭簡公の喪があけてからご命令を賜りたいと申し出て許された。 B.C.529鄭定公は平丘で諸侯と会合し、子産は子大叔っともに鄭定公を助けて列席した。このとき子産は貢賦の割り当てについて言い争って、「今は貢賦の決まりがなく、小国は滅亡を待つばかりです。今こそ貢賦のきまりを定めるべき日であります」と主張し、昼から夕刻に及んだため、晋人はその願いを許した。 帰国する際、子皮がなくなったと知らせがあった。子産は悲しみのあまり哭泣して「わたしはこれでおしまいだ。ただあの方だけがわたしを知っていたのに」と言った。 B.C.526、3月、晋の韓宣子が鄭を聘問した。韓宣子は環(たま)を持っていたが、一対のもうひとつは鄭の商人が持っていたため、韓宣子はこれを商人から買い求めようとした。商人が「是非とも執政にお話しください」と言ったため、韓宣子は子産にお願いした。子産は「今、あなたは親善で来られたのに、商人から無理に玉を取り上げようとなさっている。玉を手に入れて、諸侯から信頼を失うことはいかがでしょうか」と言った。韓宣子が「わたしが愚かでした。お断りいたします」と辞退した。 4月、子産は韓宣子の送別の宴で、鄭の羔裘の詩を歌って韓宣子が晋における立派な人物であるという意を寓した。 9月、鄭で日照りが続いたため、鄭定公は屠撃・祝款・竪柎に命じて桑山で雨乞いの祭りをさせ、山の木を切ったが雨は降らなかった。子産は「山で祭りをするのは山林を守るためだ。その木を切っては罪が多い」と言って、3人の役と領地を取り上げた。 B.C.525冬、彗星が大辰の西に現れ、その光が銀河まで及んだ。裨竈が子産に「宋・衛・陳・鄭に火災が起ころうとしております。わたしがおはらいをすれば、鄭には火災が起こらないでしょう」と言ったが、子産は聴き入れなかった。 B.C.524、5月14日、鄭で火災が起こった。裨竈が「わたしの言う通りにしないと、また火災が起こるであろう」と言った。子産は「天道は深遠ではるかにかけ離れており、人智でもって推し量ることのできるものではない。竈はどうして天道を知ろうか。たまには当たることもあろうが」と言って祈祷の供物を与えなかったが、火災も二度とは起こらなかった。子産は火災が起こった時に、晋から来朝していた公子や公孫たちを東門から退出させて、新しく来た他国人を都から出させ、財貨を司る役人や武器を司る役人にはそれぞれの持ち場を守らせ、老いた女官たちを宮外に退出させた。そして司馬と司寇に命じて火を消させた。 5月15日、子産は類焼した家屋を調査してその租税をゆるめ、材木を与えた。3日間、哭礼を行って不幸を悲しみ、都には市場を開かなかった。そして子産は使者を遣わして火災を報告させた。 7月、子産は火災のために特別に社の大祭を行って火災をはらった。 B.C.522鄭に火災があった。定公はこれを祓い清めようとしたが、子産は「徳をみがかれたほうがましです」と言った。 子産は病気になると、子大叔に「わたしが死んだら、きっとあなたが政治を執ることでしょうが、徳ある者だけが寛大なやり方で民を服従させることができます。それに次ぐやり方は厳しいやり方で治めるのが最も良い。そもそも火は激しいので、それで死ぬ者は少ないが、水は弱々しいため、水のために死ぬ者は多い。だから寛大なやり方で治めるのは難しいのだ」と言った。数ヶ月後、没した。子大叔は執政として政治を執ったが、寛大に治めたため、はたして国中で盗賊が増えた。そこで萑符にいる盗賊を皆殺しにすると、盗賊は少し減った。 鄭の人民はみな哭泣して悲しみ「子産はわれらを棄てて死んだのか。われわれはいったいどうしたらよいのか」と言い、親戚を亡くしたようであった。また孔子は彼を敬慕していて、その死を聞いて、涙を流して「あの人の愛は古人の遺風を伝えるものであった」と言った。 生まれつき慈しみ深く人を愛し、君に仕えて忠厚であった。 - 子山(斉)(シザン)【公子】
- 斉の公子。
B.C.542、5月、子山、子商、子周は高子尾のために国外に追放された。 B.C.532田無宇は国外に追放されている公子たちを呼び戻し、子山はもとの領邑の棘を返された。
- 子山(呉)(シザン)【公子】
- 呉の公子。
B.C.506、11月29日、呉は楚に大勝して郢に攻め入り、王宮内に居を定めた。闔閭は身分に応じて居を定め、
子山は令尹の家に落ち着いた。しかし夫概がこれを望んで攻め込もうとしたため子山は立ち去った。
- 子之(シシ)【宰相】
- 燕の宰相。
蘇秦、蘇代と交際していたため、蘇代から宰相を重用するよう燕王噲に進言させたため、大いに信任される。子之は蘇代に百金を贈って、これを自由に使わせた。 また鹿毛寿や国人が子之に国権を譲るよう進言したため、子之は南面して王の政務を取り、一切の国事を決するようになった。しかし国は大いに乱れ、人民は恐れ恨んだ。 B.C.314太子平が民衆を集め、将軍市被に公官を囲んで攻められる。相争うこと数ヶ月、死者は数万に及ぶ。 斉が参戦したため、国外に逃亡する。 - 子駟(シシ)【宰相】
- 鄭の宰相。名は騑、字は子駟。鄭繆公の子。〜B.C.563。
B.C.581、5月、晋は魯・斉・宋・衛・曹とともに鄭を討った。鄭の子然は晋と脩沢で盟い、子駟は晋の人質となった。 B.C.578、6月15日夜、許に出奔していた子如が密かに帰国して鄭の訾から祖廟に入ろうとしたが失敗した。そこで子如は子印と子羽を殺し、引き返して市街に陣を張った。 6月17日、子駟は国人を率いて祖廟で子如の討伐を盟い、子如の軍を追撃して市街に火をかけて全焼させ、子如・子駹・孫叔・孫知を殺した。 B.C.575春、楚は鄭に和睦を申し入れ、鄭は楚と和睦した。そこで子駟は楚の武城に赴いて楚恭王と盟約した。 晋は鄭討伐の軍を発した。鄭は楚に救援を求めて、楚は救援の軍を発した。鄭の使者姚句耳は楚軍よりも先に鄭に帰ったが、子駟に「進み方が早すぎて乱れ、思慮に乏しく隊伍が乱れています。楚軍はおそらく役に立たないでしょう」と報告した。はたして楚軍は鄢陵で晋軍に敗れた。 B.C.574、1月、子駟は晋の虚と滑に攻め入った。そのため衛の北宮括が晋を助けるため鄭に攻め入り、鄭の高氏まで攻め込んできた。 B.C.571鄭成公が病気になった。子駟は晋について楚の負担をのがれたいと申し出たが成公は「楚の君は鄭を助けるために目に矢傷を負われた。こちらから楚に背くのは、盟約の言葉を棄てるようなものだ」と言って拒否した。 7月9日、鄭成公が没した。子罕が君事を代行し、子駟が宰相となって国政を執り、子国が司馬となって軍政を司った。 晋軍が攻めてきたので、鄭の大夫たちは楚に叛いて晋につこうとしたが、子駟は「君の命は変らない」と言って、これを抑えた。 B.C.566冬、鄭釐公が諸侯と会合したとき、子駟はその介添をした。子駟が鄭釐公に朝見したとき、鄭釐公は答礼しなかった。
12月16日夜、子駟は怒って料理人に言い含めて鄭釐公を毒殺させた。そして諸侯には訃報を告げて「わが君は急病により没しました」と言い、
公子嘉を擁立した。(簡公) B.C.565鄭の公子たちは釐公が殺されたので、子駟を討とうと相談していた。 4月12日、子駟は先手を討って子狐・子煕・子侯・
子丁の4人の公子に罪を着せて殺した。子狐の子孫撃と孫悪は衛に逃れた。 冬、楚の子嚢が鄭を討ち、蔡を侵した罪を責め正した。子駟・子国・子耳は楚につこうとしたが、
子孔・子蟜・子展は晋の援軍を待つべきだと主張した。
子駟が「今や民は危急にさらされています。しばらく楚について民の負担をゆるめましょう。
晋の援軍が着たら、その時は晋に着けばよいのです。贈り物をもって攻めてくる者を待ち受けるのが、小国の取るべき道です。攻めてくる者が民を害せず、
民が疲労しないというなら、何と結構なことではありませんか。もしうまくゆかなかったら、この騑が責任を取りましょう」と言ったので、鄭簡公は楚についた。 B.C.564、鄭は諸侯に攻められた。 11月10日、鄭簡公は晋と鄭の戯で同盟し、晋に降服した。このとき鄭の六卿である子駟・子国・子孔・公孫輒・
子蟜・子展とその家来や嫡子が参加した。
晋の盟いが読み上げられると、子駟は足早に進み出て「大国(晋と楚)が鄭に恵みを施さず、武力をもって服従を強要しており、鄭は神々の祭りを受けることができず、
民も土地の利を楽しむことができない」と盟いの文を読んだ。晋が反発したが、鄭はそのまま盟いを結んで引き揚げた。 閏12月、今度は、楚恭王に攻められた。子駟が楚と和睦しようとすると、子孔と子蟜が反対した。子駟と子展は
「われわれが晋に盟ったのは、晋が強い国であるからです。今、楚が攻めてきたのに、晋が助けにこないのは楚が強いということになります。
無理にしいられた盟いというものには実質はないものです」と言って、楚と和睦した。 B.C.563、6月、鄭が楚とともに宋を討つと、衛が宋を救うために衛の襄牛まで軍を進めてきた。 子展「衛を討ちましょう。もし討たなければわが国が楚についているとは言えなくなる。晋に責められ、楚にも責められたら、国はどうにもならない」 子駟「国は疲弊するだろう」 子展「疲弊しても滅びるよりはましではありませんか」 大夫たちがみな子展に同意したので、鄭は衛に攻め入った。 子駟は尉止と争い事をして不和であった。諸侯の連合軍と戦ったとき、子駟は尉止の軍を用いてはならぬと命令した。尉止が捕虜を得たが、
子駟はそれを自分の手柄として「お前の車は身分に過ぎたものだ」と言って、捕虜を君に献上させなかった。尉止は子駟に恨みを持つ司氏・堵氏・侯氏・
子師氏と多くの不平分子を集めて乱を起こした。 10月14日、堵女父・司臣・尉止・尉翩・
司斉・子師僕・侯晋らが叛徒を率いて公宮に攻め入り、
子駟は子国・子耳とともに殺された。 (一説では、子駟は自立して国君になろうとしたため、子孔に殺されたという) - 師摯(シシ)【文官】
- 周王朝の楽師。
周厲王のとき、鄭・衛の楽がおこり正楽がすたれたので、師摯は周の衰えを認識した。 - 駟糸(シシ)【文官】
- 鄭の臣。子游の子。
B.C.523子游が没した。このとき駟糸は幼少であったため、家の年寄りたちは駟帯の弟の駟乞を立てた。のちに駟糸は自分が立てられなかったことを晋に話した。晋人がそのわけを尋ねたため、駟家の人々は恐れたが、子産はそれを許さなかった。 - 師ジ(シジ)【将軍】
- 周王朝の将軍。
斉を討つ。 - 子耳(シジ)【公子】
- 鄭の公子、司空。名は輙。子良の子。〜B.C.563。
B.C.565、4月22日、子耳と子国は晋の機嫌を取るために蔡を討って司馬公子燮を捕えた。 冬、楚の子嚢が鄭を討ち、蔡を侵した罪を責め正した。子駟・子国・子耳は楚につこうとしたが、
子孔・子蟜・子展は晋の援軍を待つべきだと主張した。子駟が「楚につきましょう。
もしうまくゆかなかったら、この騑が責任を取りましょう」と言ったので、鄭簡公は楚についた。 B.C.563、6月、子耳は楚の子嚢とともに宋軍を宋の訾毋で討った。 7月、子耳は楚の子嚢とともに魯の西境に攻め入り、引き返して宋の蕭邑を包囲した。魯の孟献子は
「鄭にきっと禍があるだろう。軍勢があまりにも勢い過ぎます。 もし禍が起こるとしたら、きっと政治をしている3人(子駟・子国・子耳)の身にふりかかるでしょう」
と言った。 10月14日、堵女父・司臣・尉翩・司斉・
子師僕・侯晋らが叛徒を率いて公宮に攻め入り、子耳は子駟・子国とともに殺された。 - 士子孔(シシコウ)【公子】
- 鄭の公子。鄭繆公の子。母は圭嬀。
B.C.565没す。 - 施之常(シシジョウ)【在野】
- 孔子の弟子。字は子恒。
- 子師僕(シシボク)【武官】
- 鄭の臣。〜B.C.563。
子駟が自分の田地の溝を手入れした時に、司氏・堵氏・侯氏・子師氏は田地を侵食されたため、子師僕はこれを恨んだ。 B.C.563、10月14日、子師僕は侯晋・尉止・尉翩・
司斉・堵女父・司臣らとともに叛徒を率いて公宮に攻め入り、
子駟・子国・子耳を殺した。 子蟜と子産攻められて子師僕は尉止とともに殺され、叛乱は鎮圧された。 - 子車(シシャ)【文官】
- 斉の臣。名は捷。斉頃公の孫。
B.C.534、8月15日、欒子旗は高子尾の家を整理するため、高子尾の一味である子成、子工、子車を追放した。 B.C.532子車は田無宇に呼び戻され、禄を増やされた。 - 士弱(シジャク)【文官】
- 晋の臣。士荘子、士荘伯ともいう。士渥濁の子。
B.C.564春、宋に火災があった。晋悼公が士弱に「宋で火災があり、それによって禍福を降す天の道があることがわかったと耳にしたが、
どういうことか」と尋ねた。 士弱「商人は災禍を調べると、それはきまって火災から始まっていました。そこで今回も火災が禍を予告する天の道であると知ったのでしょう」 悼公「必ず禍がやってくるのか」 士弱「禍の有無は道が行われているか否かによります」 10月、晋は諸侯とともに鄭を討ち、鄭は降服した。士弱はその盟いの書を作成した。 B.C.563、諸侯が柤で会合したが、その前に斉の公子光が本会合の前に諸侯と鐘離で会合した。
士弱は「先に諸侯と会合したのは、国を守ろうとしてのことであろうが、無礼なことをしたのは、国を滅ぼすようなものだ。禍から逃れることはできまい」と言った。 B.C.555晋軍は諸侯とともに斉を討った。 12月4日、雍門と西の外城および南の外城を焼き、士弱は劉難とともに諸侯の軍を率いて斉の西南門外の申池の竹や木を焼き払った。 B.C.548鄭の子産が陳の捕虜を晋に献じた。晋人が「なぜ小国に攻め入ったのか」と詰問すると、子産は「先王の定められたおきてに、ただ罪のある者に誅罰を加えよとあります。それに今や六国はかつての天子の地よりも広大になっており、これは小国を侵略しなければどうしてこのように広大になれたのでしょうか」と答えた。これを聞いた士弱はそれ以上詰問することができなくなり、趙武に報告した。趙武は「子産の言葉は道理にかなっている」と言って、その捕虜を受け取った。 - 子朱(晋)(シシュ)【文官】
- 晋の臣。
B.C.547秦景公が弟の鍼を使節として和平交渉によこしたとき、叔向は接待役の子員を呼ぶように命じた。すると別の接待役の子朱が言った。 子朱「わたくしがおります」 叔向「子員を呼びなさい」 子朱「わたくしの番であります」 叔向「わたしは子員にさせたいのだ」 子朱「みな君の臣であり、官位も同じなのに、なぜわたくしを退けるのですか」 叔向「子員は賓客と主人の言葉を言うのに私心はないが、あなたはいつも変える。悪意を持って君に仕える者をわたしは禁止するのだ」 ふたりは争ったので人々が中に入って静めた。晋平公はこれを聞いて「晋は盛んになるであろうか。臣下の争う所は重大である」と言うと、師曠は「公室はおそらく衰微するでしょう。臣下が徳を競争せずに、力で競争してます」と言った。 - 子朱(楚)(シシュ)【公子】
- 楚の公子。息公。
B.C.624冬、晋の陽処父が楚を討った。子朱が救援に出たため陽処父は楚の方城の門まで攻め込んでいたが、恐れて戦わずに引き揚げた。 B.C.618秋、子朱は東夷の方から進んで陳を討ったが陳軍に撃破され、公子茷が捕らえられた。 B.C.617冬、楚穆王と宋昭公は孟諸で狩をした。子朱は申舟とともに左司馬をつとめた。 - 史鰌(シシュウ)【文官】
- 衛の臣。
B.C.544呉の季札が衛を聘問し、遽伯玉・史狗・史鰌・公子荊・公叔発・公子朝に会い、その人物に感服して「衛には君子が多い。まだ心配はない」と言った。 - 子周(シシュウ)【公子】
- 斉の公子。
B.C.542、5月、子周、子商、子山は高子尾のために国外に追放された。 B.C.532子周は田無宇によって呼び戻された。 - 子州支父(シシュウシホ)【神】
- 古の賢人。
堯が子州支父に天下を譲ろうとしたが、子州支父は「ありがたいことですが、わたしは気のふさがる病気にかかっており、天下を治めている余裕はありません」と言って辞退した。 - 師叔(鄭)(シシュク)【文官】
- 鄭の臣。
B.C.653斉桓公が鄭を討とうとしたとき、管仲が「鄭には叔詹・堵叔・師叔という良臣が政治を行っているので攻め取ることはできません」と諌めたので、桓公はとりやめた。 - 師叔(楚)(シシュク)
- →潘尫
- 子叔疑(シシュクギ)
- →子叔詣
- 子叔詣(シシュクケイ)【宰相】
- 魯の宰相。叔肸の六世の孫。子叔疑、叔倪ともいう。
宰相として政治を執ったが、辞職するとき自分の子弟を後釜にすえたため、後世批判された。 - 子叔黒背(シシュクコクハイ)【武官】
- 衛の臣。
B.C.581晋が衛に鄭を討つよう命じた。そこで子叔黒背が鄭を討った。 - 子叔斉子(シシュクセイシ)
- →叔老
- 子叔声伯(シシュクセイハク)
- →公孫嬰
- 子春(シシュン)【文官】
- 楚の臣。ゴ公。
- 師詢(シジュン)【宰相】
- 周王朝の宰相。
B.C.834師龢父の後をついで幼少の太子静を補佐して、執政者として権力を振るった。 共和の政治と考えられたその治世の中期は、師詢の執政時代とされる。 - 子如(シジョ)【公子】
- 鄭の公子。班ともいう。〜B.C.578。
B.C.581、3月、公子班は公孫申が新たに君を立てるという策謀を真に受けて公子繻を擁立した。 4月、鄭人は公子繻擁立を不服に思い、公子繻を殺して太子髠頑を擁立した。そのため子如は許に亡命した。 B.C.578、6月15日夜、子如は許から帰国して鄭の訾から祖廟に入ろうとしたが失敗した。そこで子如は子印と子羽を殺し、引き返して市街に陣を張った。 6月17日、子駟は国人を率いて祖廟で子如の討伐を盟い、子如の軍を追撃して市街に火をかけて全焼させたため、子如は殺された。 - 士燮(シショウ)【将軍】
- 晋の将軍。士会の子。上軍の佐、上軍の将、中軍の佐。范文子ともいう。〜B.C.574。
B.C.592晋の郤克が斉に辱しめられて帰国し、復讐したいと願った。士会は帰宅して士燮に「燮よ、わしが聞くに、人の怒りの邪魔をすればその毒害を受けると。今、郤子の怒りは大変だ。斉でその心を晴らさなければ、必ず晋の国内で晴らすだろう。わしは政権を郤氏に渡して、彼の怒りを晴らさせようと思う。おまえは諸大夫に従って君命を奉じて、ひとすじに敬うように」と言い、士会は辞職して隠居した。 あるとき士燮が遅く退出して帰宅した。士会が「どうして遅くなったのか」と尋ねた。 士燮は「秦から客が来て、朝廷で謎を出しました。大夫には誰も答えられる者が居りませんでしたが、わたしが3つ解きました」と答えた。 すると士会は怒って「大夫たちは目上の父兄に譲って黙っておられただけだ。この子倅めが、朝廷で3回も人を侮辱しおって。わしが晋にこうしていなかったら、この家は潰れるだろう」と言い、士燮は杖で殴りつけられ、冠の留め金を折るほどであった。 B.C.589夏、晋は魯・衛を救うため出兵し、士燮は上軍の将となり、鞍で斉を撃退させた。 9月、衛穆公が没した。士燮は郤克・欒書とともに戦の帰途に弔問し、衛の大門の外で哭礼を行った。 そして帰国するとき郤克が先に帰り、従軍した士燮は遅れて都に入った。 父の士会が「わしがお前を待ち望んでいたことを知っているだろうが」となじった。士燮は「今度の軍は郤子の率いる軍であり、勝利を収めたので、もし先に入城すると、民はわたくしに注目しましょう。ですから、そうはしませんでした」と答えた。士会は「わしは禍を免れるであろう」と安心した。 晋景公は鞍の勝利をほめて郤克に「あなたの力であろう」と言った。しかし郤克は「いいえ、三軍の士が働いたのです。私には何の力がありましょう」と謙譲した。次に士燮が謁見したので、景公は「あなたの力であろう」と言った。士燮は「いいえ、わたしは命を中軍に受け、上軍の士に命じて上軍の士が命を用いたからです。私には何の力がありましょう」と謙譲した。欒書が謁見したので、景公はまた同じ問いをすると、欒書は「いいえ、わたしは命を上軍に受け、下軍の士に命じ、下軍の士が命を用いたからです。わたくしに何の力がありましょう」と謙譲した。 B.C.587冬、士燮は欒書・荀首とともに鄭を討って許を救い、鄭の汜・祭の地を占領した。 B.C.585冬、晋軍は楚に攻められた鄭の救援に出かけた。晋軍は進んで蔡を侵略した。楚の公子申と公子成が申と息の軍を率いて蔡を助け、桑隧で晋軍を防いだ。 趙同と趙括が決戦を望んだため欒書はそれを許そうとした。しかし士燮・荀首・韓厥が「いけません。もともと鄭を助けに来て、はからずも蔡まで来てしまいました。罪なき人を攻め殺してはなりません。そもそも大軍を整えてきたのに、わずか楚の2県を破っても何の名誉になりましょう」と言ったので、欒書はそのまま引き揚げた。 B.C.583趙武が成人して大夫に挨拶回りをした。このとき士燮は「今こそ、自ら戒められよ。賢者は栄光に満ちた時にますます戒めますが、不徳者は栄光のために高慢になります」と言葉を贈った。張孟は「范叔(士燮)の教えは徳を大きくすることができます」と評した。 冬、士燮は魯を聘問して、郯が呉についたため郯を討つ相談をした。魯成公が士燮に物を贈って急いで戦をおこさないように依頼したが、士燮は「君の命に対しては二心を懐きません。朝聘の礼には物を贈るということはありません。君が諸侯よりも出陣をおくらせるならば、わが君は君とのつきあいを断ることになりましょう」と言って断った。そこで魯は叔孫喬如に命じて軍を出させて、晋・斉・邾とともに郯を討った。 B.C.582春、前年に汶陽の田を斉に返したことで諸侯が晋の信義を疑ったため、晋景公は魯・斉・宋・衛・鄭・曹・莒・杞の君と衛の蒲で会合して、馬陵の盟いを忘れないようにした。魯の季孫行父は士燮に言った。 季孫行父「徳を施すことを努めないで、盟いを温めたところで何になりましょう」 士燮は「諸侯を努力して手なずけ、寛大に扱い、忍耐強く裁き、謀反者を討伐することは徳に次ぐやり方です」と弁明した。 あるとき晋景公は武器庫を見回ったとき、楚の鐘儀を見て楚の囚人であるとわかると、縄を解かせて鐘儀を召し寄せていたわった。晋景公は鐘儀との話の内容を士燮に話すと、士燮は「立派な人物です。わが君はどうして彼を楚に返して和睦を行わせるようになさらないのですか」と進言した。晋景公は喜んで鐘儀を厚く礼遇して楚に返して和睦をはかった。 B.C.580晋は秦と和睦して、晋の令狐で会合することとなった。晋厲公は先に到着したが、秦桓公は黄河を渡ろうとせずに秦の王城にとどまり、大夫史顆を遣わして晋と盟った。そのため晋の郤犨が王城で盟うこととなった。士燮は「この盟いに何の利益があろう。盟いの場は信を表す始めである。始めが守られないのに、どうして信を実行することができよう」と言った。 果たして、秦桓公は都に戻ると晋との和睦を破った。 B.C.579、5月、士燮は楚の公子罷と許偃と会合した。さらに郤至が楚を聘問したとき、楚の子反が「もし楚・晋の両君がお会いすることがあったら、それは戦場でしょう」と言った。郤至は帰国してこのことを話すと、士燮は「礼をわきまえない者は約束を実行しないであろう。わたしの死ぬのも間もないだろう」と言った。 B.C.578、5月、士燮は上軍の将として秦軍と戦い、麻隧でこれを大破した。 B.C.576、11月、士燮は魯の叔孫喬如・斉の高無咎・宋の華元・衛の孫文子・鄭の公子鰌・邾人と鐘離で会合し、初めて呉と国交をもち、呉王寿夢と会合した。 B.C.575春、鄭が晋に背いて楚と盟約したため、晋厲公は鄭を討とうとした。 士燮は「諸侯がみな叛けば、はじめて晋は治めることができます。諸侯がなまじ服従しているから、このようにザワザワと乱れるのです。すべて諸侯は災難の元です。鄭を降服させれば憂患はますます大きくなりましょう」と言った。 すると郤至が「それでは王者は憂患が多いのですか」と問うた。 士燮は「わが国は王者でしょうか。王者というのは、その徳を完成しており遠方の人が心服しますから憂患はありません。わが国は徳が少ないのに王者の功績を求めるから憂患が多いのです」と答えた。 また欒書が「われわれの時代に諸侯を失ってはならない。鄭を討ちましょう」と進言したので、晋厲公は鄭討伐の軍を発した。士燮は中軍の佐として参戦した。 士燮は戦を好まず「人臣は、国内で親しみ合ってから、国外のことを考えるべきだと言います。国内で親睦せずに国外のことを考えれば、必ず内紛があります。どうしてしばらく国内の親睦を図らないのですか」と言ったが、聴き入れられなかった。 5月、楚の援軍が来たと聞いて、大夫たちは決戦を望んだが、士燮は晋厲公に軍を還すよう請うて「人君は、その民を正すことに成功した後、武徳を国外に振るうといいます。今わが国の刑は大臣には行わず、小民にだけ残忍に実行しています。こんな状態では、誰に武力を行使できますか。武力の行使ができずに勝つとすれば僥倖です。僥倖で政治をするならば、きっと内憂が生じます。 聖人でないからには、内憂か外患かどちらかがひとつある方が無事です。なぜ鄭と楚をこのままにしておいて、外患としないのですか。退却すれば晋の君臣は反省して禍をふせぐことができましょう。諸侯をまとめることはわれわれにはできません。もしわたしが退いて君臣が和合するならばわたしはそうしましょう」と言ったが、欒書は「それはいけない」と反対して、楚と戦うこととなった。 士燮は再び「徳が無いのに服従する国が多いと、必ず自分が傷つくと言います。晋の徳にふさわしいのは、諸侯がみな叛いて、国が少し平安になることです。今わが国が戦って勝ったならば、わが君はその知を誇り、その功を高しとして教化を怠り、税を重くし、側近を増やし、愛妾の禄を増すでしょう。かえって勝たないほうが晋の福です」と言った。 郤至「韓の戦いでは恵公は捕えられ、箕の戦いでは先軫は戦死し、邲の戦いでは荀伯(荀林父)は大敗した。いずれも晋の恥とするところです。ここで避ければさらに恥を増すだけです」 士燮「先君のときは、戦わねば子孫が弱められて衰えていたでしょう。いま斉・秦・狄の強国が服従しています。楚はほうっておけばよろしいではありませんか」 しかし欒書は聴き入れなかった。 ついに晋は鄢陵で楚と戦った。鄢陵で楚軍が晋軍を圧迫して布陣してきたので晋の軍吏は恐れた。子の范匃が走り出てきて「かまどを崩し、井戸を埋めて広場を作れば、敵との距離を保つことができます」と進言した。 士燮は戈を持って范匃を追いかけて「国の存亡は天命である。小僧に何が分かるか。しかも聞かれもしないのに発言するのは罪である。必ず処刑されよう」と言った。これを聞いて苗棼皇は「無事に災難を免れるでしょう」と言った。 晋軍は楚軍を退けると、楚の食糧を食べることとなった。士燮は厲公の兵車の前に立って「君は幼少で諸臣は不才なのに、わが国は何の福によって勝利を手にしたのでしょう。天は今、楚にさらに徳を修めよと勧めているのです。君と2、3の諸臣は戒められよ。徳こそは福の基本です。徳もなしに福が盛んなのは、基礎がないのに土塀を厚くするようなものです」と諌めた。 士燮は鄢陵の戦いから帰ると、宗祝に「君が驕慢であるのに勝利しました。徳によって勝ってさえ、失敗することを恐れるもの。まして驕慢で勝ったのですからなおさらでしょう。きっと災難が起りましょう。宗祝はわたしのために死を祈ってください。災難の前に死んで免れたいのです」と言った。 9月、晋は魯の叔孫喬如の讒言によって魯の季孫行父を苕丘で捕えた。魯成公は公孫嬰を遣わして季孫行父の釈放を求めた。士燮は欒書に「季孫(季孫行父)は魯で二君にわたって宰相を務めていますが、倹約で誠実な人物です。しかし喬如の言を信じて忠良な人を棄てるようでは、諸侯に非難されます。子叔嬰斉(公孫嬰)は君命を奉じて自身のことを考えず、国家のためを考えて二心がありません。うまく取り計らってください」と言った。そこで晋は季孫行父を釈放した。 B.C.574士燮は鄢陵の戦いから帰ると、晋に禍が来ることを予見して、早く死にたいと考えた。 6月9日、士燮は没し、文子と諡された。 冬、はたして災難が起り、三郤が誅殺され、晋厲公も弑された。 B.C.573悼公の時代、「范文子(士燮)は一身を勤労して諸侯を鎮定服従させ、今でもその功に頼っている」として、弟の士魴はその功により新軍の将に任命された。 - 子捷(シショウ)【武官】
- 楚の臣。
B.C.548秋、楚は舒鳩が叛いたので、これを討った。そこで呉が舒鳩を助けに来た。令尹屈建が急に右軍を率いて舒鳩に攻め入り、子彊・息桓・子捷・子駢・子盂の左軍は呉軍と遭遇したため、退却した。子彊は「このまま長くこの状況が続くと、雨のために低い土地は狭くなって身動きが取れなくなるだろう。すぐに戦ったほうがよい。わたしが兵を率いて敵に誘いをかけるので、精兵を選んで様子を見ていてくれ。わたしが勝ったら進撃し、負けたら援助してくれ」と言ったので、みんなそれに従った。5人の将はまず呉軍を攻撃した。呉軍は逃げ、山に登って楚に援軍のないことを知ると、再び攻撃してきた。すると待ち構えていた精兵がこれに攻めかかり、呉軍に大勝した。楚軍は勢いに乗じて舒鳩を包囲して、これを潰滅させた。 8月、楚軍は舒鳩を滅ぼした。 - 子商(シショウ)【公子】
- 斉の公子。
B.C.542、5月、子商、子山、子周は高子尾のために国外に追放された。 B.C.532子商は田無宇によって呼び戻された。 - 子常(シジョウ)【宰相】
- 楚の宰相。令尹。字は囊瓦。または姓が囊、名が瓦、字が子常ともいう。
B.C.519冬、子常は令尹となり、郢に城壁を増築して呉に備えた。沈尹戌は「子常はきっと郢を失うであろう。呉の侵略を恐れて郢に増築したが、
守り方がもはや小さすぎる。これでは四方の諸侯も守りさえも求めることができない」と言った。
B.C.516、9月、平王が没すると、子常は「太子珍(壬)は幼少であり、
またその母は前の太子建が娶るべき人であった。子西は年上であり善を好む立派な方だ。
年上を立て、善を好む人を立てると国が治まる」と言って、子西を立てようとした。しかし子西が立腹して「太子が立つと国は外(秦)からの援助を受けることができる。
そして世継ぎはすでに決まっているのだからそれを乱してはならない。そんなことを言っている令尹は必ず殺してしまおう」と言ったため、
子常は恐れて太子珍(昭王)を立てた。
B.C.515呉の公子掩余と公子燭庸が楚の潜を攻め囲んだ。
莠尹然と工尹麋が軍を率いて潜を救い、沈尹戌が都城に住む人士と王の馬役の者たちを率いて軍勢を増やし、
呉軍と窮谷で出会った。また子常は水軍を率いて沙水の河口まで進んで引き返し、左尹郤宛と工尹寿が軍を率いて潜に到着した。
そのため呉軍は退くことができなくなった。
4月、呉の公子光が呉王僚を弑したため、呉軍は引きあげた。
費無忌があるとき子常に「子悪(郤宛)はあなたに酒をふるまいたいと言っております」と言い、一方で郤宛には
「令尹があなたの家で酒を御馳走になりたがっております」と言った。郤宛は「この上もないお恵みですが、わたしは卑しい者でお礼の進物を差し上げることはできないでしょう。
どうすればよいでしょうか」と問うと、費無忌は「令尹は武具を好まれる。わたしが選びましょう」と言ってよろいを5つ、武器を5つ取って門に並べるよう勧めた。
いよいよ饗応の日になると、費無忌は子常に「わたしはあなた様に災いをおかけするところでした。子悪は武装兵を門に伏せております。行ってはいけません」と言った。
子常は郤宛の様子を調べさせると、武器が用意してあった。そこで子常は鄢将師を呼び寄せると、
鄢将師は「郤氏を攻め、さらに家を焼き払え」と命令した。郤宛はこれを聞くと、すぐに自殺した。また子常は陽令終とその弟陽令完と陽令佗、大夫の晋陳とその子や弟を殺した。
9月14日、子常が郤宛を殺したことについて国中のそしりがやまなかった。沈尹戌は「あの無忌は告げ口をする悪人です。朝呉を去らせ、
蔡侯朱を追い出し、太子建を国外に去らせ、連尹奢(伍奢)を殺し、今やまた罪なき3人を殺して、
あなたにも災いがかかろうとしています。いったい鄢将師はあなたの命令であると偽って三族(郤氏・陽氏・晋陳氏)を滅ぼしたが、あの三族はわが楚国の良臣です。
今や呉では新しい君が立って国境は毎日安らかではありません。知恵ある者は自分を告げ口する悪人を除いて身の安泰を図ります」と警告したため、
子常は費無忌と鄢将師を殺し、その一族を残らず滅ぼして国の人々に申し開きをし、そのため衆人は喜んだ。 B.C.509蔡昭侯が参朝したとき、子常は裘を所望したが与えられなかったため、楚昭王にこれを讒言して蔡昭侯を3年間抑留させた。
また唐成公も楚に出かけたが、二頭の白い毛なみの名馬があった。子常はこれをほしがったが唐成公が与えなかったため、
これもまた3年も楚に留めた。唐人で唐成公の供と交代する者があり、その名馬を盗んで子常に献上したため、子常は唐成公を帰した。蔡人はこれを聞いて、
蔡昭侯に無理に願って佩玉を子常に献上した。子常は蔡昭侯の供の者に「蔡侯が久しく留まっておられたのは、お前たちが贈る礼物がそろわなかったためだ。
明日のうちにそろえなかったら死罪にするぞ」と言った。かくて蔡昭侯は帰国することになったが、すぐに人質を晋に入れて楚を討つよう請い、また蔡と唐は呉と同盟することとなった。
B.C.508、秋、子常は呉に攻め入ろうと豫章に軍を進めた。すると呉は舟軍を豫章に集めて桐を討つふりをして、その一方でこっそりと軍を巣に進めて、楚を討つ準備をさせておいた。
10月、呉軍は楚軍に対して豫章で不意に攻撃をしてこれを破り、勢いに乗じて巣を攻め囲んで勝利し、巣を守っていた楚の公子繁を討ち取った。
B.C.507闘且が朝廷で子常に会ったとき、子常は財宝を蓄え、馬を集める道を闘且に尋ねた。 闘且は帰宅して弟に「楚は滅びるだろう。さもなくば令尹は災禍を免れないだろう。楚君の宰相となりながら四方に美名を讃えられることもなく、民の衰弱は日増しにひどくなるばかりなのに、貨馬を蓄集して満足せず、民の怨みを招いている。人を礼せず、民を顧みないことは成王・霊王よりもひどいから、自分ひとりでどうやって災禍を防ごうとするのだろうか」と言った。
B.C.506呉王闔閭は伍子胥と孫武に「先年、あなたたちはまだ郢に侵入の時期ではないと言ったが、いまはどうか」と問うた。二人は「楚将囊瓦(子常)が貪欲なため、唐・蔡二国は楚を恨んでいます。まず唐・蔡二国を味方に引き入れるようになさいませ。そうすればよろしゅうございましょう」と答えた。 闔閭はこれを聴き入れ、子常に恨みを持った蔡昭侯とともに楚に侵入した。沈尹戌が子常に「あなたは漢水により添って敵兵が渡るのを防がれよ。わたしは方城の外まわりにいる人々を全部率いて淮水にいる敵の船をたたき壊し、引き返して大隧・直轅・冥阨の隘路をふさぎましょう。あなたが漢水を渡って攻撃し、わたしが背後から攻撃すれば大いに敵を破ることができましょう」と言った。しかし武城の大夫黒が子常に「楚の車は革を用いており、
水のしめりには長く耐えられません。すぐに戦うべきです」と言い、また史皇が「楚人はあなたを憎んで司馬(沈尹戌)を好いております。
彼の言う通りだと、司馬が一人勝ちになります。すぐに戦いましょう」と言ったため、子常はすぐに漢水を渡って敵を攻撃したため、三度戦って三度敗れた。
そこで子常はとても勝てないと思って逃げようとした。すると史皇が「安らかな時には政治を執り、難儀の時には逃げるということでは、いったいどこへ落ち着こうとされるのですか。
あなたはここで死になさい。そうすればあなたの罪は全部消えましょう」と言った。
11月19日、楚・呉の両軍は柏挙に陣を構えた。呉の夫概が5,000人の兵を率いて真っ先に子常の軍を攻撃した。
子常の軍が逃げ出したため楚軍は乱れて呉軍に大いに討ち破られた。子常は鄭に出奔し、史皇が代わって子常の軍を率いたが戦死した。 - 子上(シジョウ)【宰相】
- 楚の宰相。令尹。名は鬭勃。〜B.C.627。
B.C.632楚は城濮で晋と対峙した。子上は子玉の命で「殿の兵士と力くらべの遊びをしましょう。殿にはゆっくりご覧あれ」と晋文公に伝えた。子上は右軍の将となったが、晋軍に破られた。 成王は商臣を太子にしようと思い、子上に相談した。子上は「君はまだ老衰というほどの年でもありません。いま太子を立てて、後で退けるようなことがあれば内乱がおこるでしょう。楚で太子を立てるのは、いつも年少の公子とかぎっています。そのうえ商臣は蜂のような目つきで、豺(やまいぬ)のような声を出し、刻薄な人です。太子に立ててはいけません」と言ったが、成王は聴き入れず、商臣を立てた。 しかし後に太子を廃しようとしたので成王は商臣に殺された。 B.C.627子上は陳と蔡に攻め入った。陳と蔡は和を請うたので、子上はすぐに鄭を討って鄭に出奔していた公子瑕を鄭に入れようとした。しかし公子瑕の車が周氏の池に転覆したため、 鄭の髠屯に捕えられた。 12月、晋の陽処父が蔡を討った。子上は蔡を助け、晋楚両軍は泜水をはさんで対陣した。 陽処父は「あなたが戦おうとするなら、わたしは陣を退却させるので川を渡って陣をしきなさい。それが嫌なら、あなた方が退却して、わたしが川を渡る余裕を与えよ。このまま対陣しても軍を疲労させるだけである」と言った。 子上は川を渡ろうとしたが、成大心が「晋は信義を守らない。もし約束を破って攻められて、負けを後悔しても取り返しがつきません」と諌めたので、子上は退却して陣をしいた。 陽処父はこれを見て「楚軍は逃げたぞ」と言いふらして、そのまま引き上げた。 公子商臣は子上に恨みを持っていたので、子上をそしって「晋から贈物を受けて退却するとは楚の恥である」と成王に言ったため、子上は殺された。 - 子嚢(シジョウ)【宰相】
- 楚の宰相。令尹。名は貞。楚恭王の弟。
B.C.576楚恭王が鄭・衛を討とうとした。子嚢は「晋と盟ったばかりなのに、これに背くのはいけないことではありませんか」と諌めたが、聴き入れられなかった。 B.C.568楚恭王は令尹子辛を処刑し、子嚢を令尹に任じた。 冬、子嚢は命ぜられて陳を討った。 B.C.566冬、子嚢は陳を攻め囲んだ。晋・魯・宋・衛・曹・莒・邾が鄭のイで会合して陳を助けた。 B.C.565、4月、鄭が晋の機嫌を取るために蔡を討った。 冬、楚恭王は子囊に命じて鄭を討ち、蔡を侵した罪を責め正した。そこで鄭は楚についた。 B.C.563、6月、子嚢は鄭の子耳とともに宋軍を宋の訾毋で討った。 6月14日、子嚢は宋の都を囲んで桐門(北門)に攻め入った。 7月、子嚢は鄭の子耳とともに魯の西境に攻め入り、引き返して宋の蕭邑を包囲した。 8月11日、子嚢は蕭邑を攻め落とした。 9月25日、諸侯が鄭を討ち、鄭の牛首に進撃した。 11月、子嚢は鄭の援助に出かけた。 11月16日、子嚢は諸侯の軍と潁水をはさんで対陣した。すると鄭は楚に服従した。 11月24日、諸侯の軍が引き揚げたので、子嚢も引き揚げた。 B.C.562、7月、鄭は諸侯に攻められたため、諸侯と同盟を結んだ。子嚢は援軍を秦に請うた。
かくて秦の右大夫詹は軍を率いて鄭を討つことになったが、鄭は先に楚に降服した。 B.C.561冬、子嚢は秦の庶長無地とともに宋を討ち、楊梁に軍を進めた。晋が鄭を降服させたことに対する報復であった。 B.C.560恭王は重病となり、大夫らを呼んで「わたしは不徳の身でありながら、年若くして国君となったため、先君の覇業を失い、軍を失ったのはわたしの罪です。
わたしの諡をどうか霊または厲としてほしい」と言った。大夫たちは返事ができなかったが、恭王が5度も言いつけたので、大夫たちはようやく承諾した。 9月庚辰、恭王は没した。子嚢は大夫たちと諡について相談すると、大夫らは「王が命令されました」と言った。しかし子嚢は「いけません。
君に仕える者は君の善行を先に考えるべきです。王は南方の部族を鎮撫し、その訓令は中華の諸国に達し、その光栄は大きなものです。この光栄がありながら、
自らの過失を知っておられたのは恭と申し上げるべきです」と言った。そこで大夫らはその意見に従った。 楚の捕虜になっていた鄭の石㚟が子嚢に
「鄭の大夫たちは鄭の卿である良霄を追い払って晋との結束を固くしようとしています。楚は、彼を捕らえているよりは、
彼を鄭に返して鄭の君と臣をいがみ合わせるのが得策ではありませんか」と言ったので、楚は石㚟と良霄を鄭に返した。 B.C.559秋、子嚢は命ぜられて呉を討った。呉が出撃しなかったので、子嚢は軍を引き揚げた。子嚢は殿を務めたが、呉は出撃できないと油断していたところ、呉軍は狭い険路を利用し、そこから伏兵を出して楚軍を攻撃してきた。楚軍は前後互いに救うことができなかったので、敗れて公子宜穀が捕えられた。 子嚢は帰国すると没した。臨終の時に子嚢は子庚に必ず郢に城壁を作って守りを固めよと遺言した。君子は「子嚢のやり方は忠というべきである。恭王に立派な諡をつけることを忘れなかったし、わが身が死のうとする時にも国の防衛を忘れなかった」と評した。 - 子城(シジョウ)【公子】
- →子成
- 司城貞子(シジョウテイシ)【文官】
- 陳の臣。姓は司城。
司城とは宋の官名であり、貞子の祖先は宋の人で、かつて司城の官にあったので、子孫がそれを氏としたとされる。 B.C.495孔子が陳に来た時、司城貞子の家に寄寓した。 - 師触(シショク)【文官】
- 鄭、晋の臣。楽師
B.C.562冬、晋悼公は鄭を征伐してこれを降した。鄭人は晋悼公に贈り物をして、
師触は師悝・師蠲とともに晋に贈られた。 - 枝如子躬(シジョシキュ)【文官】
- 楚の臣。
B.C.529楚平王は枝如子躬に命じて鄭を聘問させ、以前に占領した土地を返させようとしたが、枝如子躬は土地を返さなかった。鄭人がお願いをしたが、枝如子躬は「わたしはまだそのような命令を受けておりません」と答えた。枝如子躬は楚平王に報告をすると、楚平王にシュウ・櫟のことを尋ねられたため、枝如子躬は上服をぬいで囚人の姿をして「わたしは命令を失念して、その地を返しませんでした」と答えた。楚平王は枝如子躬の手をとって「そんなに気苦労に思わなくてもよい。しばらく家に帰って休むがよい」と言った。 - 師縉(シシン)【文官】
- 楚の臣。楽師。
B.C.638楚成王は泓水で宋を破り、鄭の都に入った。 11月8日、鄭文公の夫人が柯沢でもてなしたので、師縉は命ぜられて捕虜と斬りおとした敵兵の耳を夫人に見せた。 - 子辛(シシン)【将軍】
- 楚の公子。右軍の将、令尹。名は壬夫。〜B.C.468。
B.C.575、4月、晋は鄭討伐の軍を発し、鄭は楚に援軍を求めた。楚は鄭救援の軍を出し、子辛は右軍の将として参戦した。 6月、楚軍は晋軍と鄢陵で戦ったが、楚軍は大敗した。 B.C.572秋、諸侯に攻められた鄭を救うため、子辛は命ぜられて宋の呂・留に攻め込んだ。 B.C.570子辛は令尹に任じられた。 子辛は小国を侵略しようとしたので、陳成公は袁僑を遣わして鶏沢の会に参加させて、晋に和睦を申し込んだ。 B.C.568秋、楚人は陳が楚に背いた理由を調べて、子辛があまりにも陳に欲を求めすぎているからであると判断したため、子辛は処刑された。 - 司臣(シシン)【武官】
- 鄭の臣。
子駟が自分の田地の溝を手入れした時に、司氏・堵氏・侯氏・子師氏は田地を侵食されたため、司臣はこれを恨んだ。 B.C.563、10月14日、司臣は堵女父・尉止・尉翩・
司斉・子師僕・侯晋らとともに叛徒を率いて公宮に攻め入り、
子駟・子国・子耳を殺した。 子駟の子子西が反撃してきたので、司臣は宋に亡命した。 B.C.558、2月、鄭がたびたび宋に亡命した尉翩らの返還を要求した。宋の子罕は司臣を人物と見込んで逃がし、魯の季武子にあずけ、その他は鄭に帰した。 - 梓槇(シシン)【文官】
- 魯の臣。
B.C.545梓槇は天文を見て、この年、宋と鄭が凶作になると予言した。 B.C.535、3月、魯昭公が楚に行こうとしたところ、魯襄公が道祖神を祭っている夢を見た。梓槇は「わが君は楚に行かれないだろう。襄公は周公が道祖神を祭る夢を見て楚に行かれた。ところが今は襄公がお祭りをしているからだ」と言った。子服景伯が「行かれるでしょう。襄公は楚に出かけたことはなかったが周公が案内されたのでお出かけになったのです。その襄公が案内するのだから、わが君は行かれるでしょう」と言った。かくて魯昭公は楚に出かけた。 B.C.527春、魯では武公の廟で禘祭を行おうとしたところ、梓槇は「禘祭の日に何か起こるのだろうか。私は赤と黒の不吉な気が宗廟に立つのを見ました」と言った。 2月16日、禘祭の日に笛の舞いが始まると、叔弓が亡くなった。 B.C.525冬、彗星が大辰の西に現れ、その光が銀河まで及んだ。申須が「彗星は古いものを掃いて新しいものを出す兆しである。彗星が大火(大辰)に現れたからには、諸侯にきっと火災が起こるであろう」と予言した。梓槇は「大辰が出てから彗星が現れた。きっと火災が起こるであろう。大辰が出るのは、天道の正しい商暦では4月であり、もし火災が起こるのであれば、きっと四つの国に当たるであろう。宋・衛・陳・鄭であろう」と予言した。 B.C.524、5月に火星が初めて日暮れに見え、5月8日に強い風が吹いた。梓槇は「これは融風というもので、火災の前兆である。7日の後にきっと火災が起こるでしょう」と予言した。5月10日、はたして風が激しくなり、5月14日に風がひどくなり、宋・衛・陳・鄭でみな火災が起こった。 B.C.522、2月1日、太陽が南の極点に至った(冬至)。梓槇は霊気を眺めて「今年、宋に騒動が起こり、国は殆ど滅びそうになるが、3年経てば治まるであろう。蔡には大きな喪があるだろう」と予言した。叔孫婼は「それは宋の戴・桓の二氏であろう。この二氏は身分不相応におごって礼に背いている」と言った。 B.C.521、7月1日、日食があった。魯昭公は梓慎に「どういう兆しであるか」と問うた。梓慎は「夏至冬至と春分・秋分に日食があっても災いはおこりません。その他の月に日食があれば災いをおこします。それは陽気が陰気に勝てないからで、いつも水害が起こります」と答えた。
B.C.518、5月1日、日食があった。梓慎は「大水が出るであろう」と言うと、叔孫婼は「ひでりになるであろう。春分を過ぎでも陽気がまだ陰気に勝っていない。
勝った時にはきっと陽気がひどく盛んになり、ひでりになるだろう」と言った。はたしてひでりになった。 - 示壬(シジン)【神】
- 商王朝の祖先。報丁の子。
- 子人(シジン)
- →語
- 子人九(シジンキュウ)【文官】
- 鄭の臣。氏は子人、名は九。
B.C.632、4月、楚軍が晋軍に破れたので、鄭文公は晋を恐れ、子人九に命じて晋に和睦を申し入れ、楚との同盟を破棄した。 - 子西(シセイ)【宰相】
- 楚の令尹。平王の庶長子。〜B.C.479。
B.C.516、9月、楚平王が没すると令尹子常が「太子珍は幼少であり、
またその母は前の太子建が娶るべき人であった」と言って、子西を立てようとした。しかし子西は「国には常法がある。更めて国君を立てれば国は乱れる。わたしを立てると言う者があれば、誅してくれよう」と言い、太子珍を立てた。
B.C.512徐と鐘吾に亡命していた呉の公子掩余と公子燭庸が楚に亡命してきた。楚昭王は彼らに大きな土地を与え、それによって呉に対抗しようとした。
子西が諫めて「呉光(闔閭)が即位して、民心を収攬しており、これは攻めてくる恐れがあります。
しかるに呉に仇する者を強くして呉を怒らせるのはよろしくありません」と言ったが、楚昭王は聴き入れなかった。
B.C.506楚昭王が呉に敗れて随に逃亡している時、子西は楚王の車服を偽造して四面の道路を警備し、脾洩に朝廷を設けて王が実在するように見せかけた。
そして楚昭王の所在が分かってから、子西はその側へ行った。
B.C.505呉軍が蔿射を柏挙で捕らえたが、子西は蔿射の子が率いた敗残兵とともに呉軍を軍祥で討ち破った。
呉軍が麇に退いて陣を取ると、公子結はそこを焼こうとした。子西は「わが父兄たちが呉と戦って麇に骨をさらしてその骨を拾うこともできないでいる。
焼くのは良くないことだ」と言って反対したが、公子結は「わが楚国は滅んでしまった。戦死した人たちはむしろ焼かれて祀りが続くことを喜ぶであろう」と言って麇を焼き払って呉軍を破った。
楚昭王が帰国すると亹が謁見を求めたので、楚昭王はこれを捕らえようとした。子西は「彼の言い訳を聞きましょう。きっと訳がありましょう」と言ったので、昭王は彼の意見を聞き、考えを改めた。また昭王は、自分を殺そうとした闘懐も賞しようとした。子西は諌めて「一人(闘辛)は賞すべきで、一人(闘懐)は処刑すべきなのに、君は同じにされました。郡臣は恐懼しております」と言った。
楚昭王は「あの子旗の二子のことか。一人は君に礼があり、一人は父に礼があるので賞を同じにしてもいいではないか」と答えて、そのまま闘懐を賞した。 あるとき子西は朝廷で歎息したので、亹がどうしたのか尋ねた。 子西「呉王闔閭はよくわが軍を破り、彼の世継は彼よりも優れているという。だから歎息したのです」 亹「呉を憂えるには及びません。闔閭は確かに名君ですが、夫差は民力を疲弊させて私欲を満たすのを好み、諫言を閉ざしています。これでは先に自滅しましょう。あなたは徳を修めて呉に備えるべきです。呉は滅びるでしょう」
B.C.504公子結が陸軍を率いて攻めたが繁揚で敗れた。令尹子西は喜んで「今こそ治めることができる」と言って都の郢を鄀に移して、
今までの政治を改め正して楚を安定させた。
B.C.489楚昭王が孔子を登用し、封じようとした。子西は「孔丘が封土に拠り、その賢弟子が補佐するならば、これは楚の幸いとはなりますまい」と言って諌めたので、昭王はこれを取りやめた。 昭王は病が篤くなると、子西に位を譲ろうとしたが、子西は承諾しなかった。 秋に昭王が没すると、子西は後継者に指名された閭と相談し、軍を伏せ通行を禁じて、ひそかに昭王の子章を迎えて、王に立てた。 B.C.488子西は公子建の子勝を呉から招こうとすると沈諸梁が言った。 沈諸梁「王孫勝を呼んで、どうしようとするのですか」 子西「勝は剛直な人というから、国境に置こうと思うのです」 沈諸梁「いけません。彼は誠純ですが信ならず、愛情はあるが仁ならず、詐欺にたけるが知ならず、剛毅だが勇ならず、愚直だが中正でなく、周到だが善意がありません。 もし彼が楚に来て寵遇されなければ、すぐに怒りを爆発させましょう。もし寵遇するならば、あつかましく欲張って飽くことはないでしょう」 子西「徳を施せば、かれは怨みを忘れるでしょう。わたしが彼を厚遇すれば、きっと落ち着くでしょう」 沈諸梁「仁者であればそうなるでしょう。しかし不仁者はそうはいきません。怨恨乱賊の人は絶対にいけません。どうして若敖氏と子干子皙の者を採用せず、勝を用いようとするのですか。 あなたは話しても聞き入れません。わたしはただ逃げるだけです」 しかし子西は聴き入れず、ついに勝を招いて、単の大夫とした。 B.C.484白公勝に兵を請われたので、これを許したが、まだ兵を出さなかった。そこで晋が鄭を討った。楚恵王の命で、鄭を救いに行った。そこで鄭の賄賂を受けて帰ったため、鄭に恨みを持つ白公勝は怒り、子西を殺そうとした。それを聞いた子西は「勝はひよっこだ。なにほどのことができよう」と言って聞き止めなかった。 B.C.479はたして勝は叛乱を起こし、剛力の石乞とともに子西を朝廷で襲って殺した。 - 子西(シセイ)【将軍】
- 楚の将軍。司馬。鬭宜申ともいう。〜B.C.617。
B.C.639子西は楚成王の命により魯に使いして、宋を討った捷(戦利品)を献じた。 B.C.634子西は子玉とともに軍を率いて夔を滅ぼし、夔の君を連れて帰った。 冬、子西と子玉は軍を率いて宋を討って、緡を包囲した。 B.C.632子西は左軍の将となり、城濮で晋軍と戦う。 晋軍が退却したので子西は追撃をかけたが、それはいつわりで晋の将先軫と郤臻が中軍を率いて横から攻撃をかけ、また狐毛・狐偃ら上軍が子西を挟み撃ちにし、子西は破れ楚軍は大敗した。 子西は首をつって死のうとしたが縄が切れて助かり、成王の遣わした使者がすぐに止めさせた。そこで子西は商という町の長に左遷された。 楚成王が使者を出して子玉に「申や息の老人たちに対してどうする考えか」と言った。子西と成大心が「得臣(子玉)は自殺しようとしたが、わたくしどもが止めて、大王の処刑を待つように言いました」と命乞いをした。子玉は楚の連穀までやって来たが、成王が許さなかったので、自殺した。 子西は漢水を渡り江水をさかのぼって郢に攻め入ろうとした。成王は渚宮に来ていたためこれを見ることができた。子西は恐れて言い訳をして「私を中傷する者があり、わたしが亡命すると言っております。そんな汚名を受けるよりは、むしろ司敗のさばきを受けて処刑されようと思い参りました」と言った。そこで子西は百工を司る工尹に任命された。 B.C.617子西は子家と謀って楚穆王を殺そうとした。 5月、はかりごとが漏れて、子西と子家は穆王に殺された。 - 子西(シセイ)【宰相】
- 鄭の宰相。氏は公孫、名は夏、字は子西。子駟の子。
B.C.563、10月14日、尉止・堵女父・司臣・
尉翩・司斉・子師僕・
侯晋らが叛徒を率いて公宮に攻め入り、子駟・子国・子耳を殺した。 子西はこれを聞くや身の警戒もせずに出かけ、まずそのなきがらを見舞って賊を追った。賊は北宮に入って立てこもったので、子西は家に帰って家来によろいをつけさせた。
しかし家臣や奉公人たちは恐れて逃げ出す者が多く、家財道具もたくさん持ち出されてしまった。 B.C.558、11月9日、晋悼公が没した。子西は命を受けて晋に出かけて喪礼の世話をした。 B.C.555子西は鄭簡公と共に晋に赴いた。 10月、子西は鄭簡公と共に斉討伐に従軍した。 B.C.554子孔がわがまま勝手に国政を行ったので、人々は子孔を裁いて有罪とした。そのため子孔は家兵と子革・子良の家兵で家を守った。 8月12日、子西と子展は国人を率いて子孔を殺してその家財を分け合った。 鄭人は簡公が弱かったので子展を摂政として君事を代行させ、子西を宰相として国政を執らせ、子産を卿に任命した。 B.C.549、2月、鄭簡公が晋に出かけると、子西は子産に書面を依頼され、范匃に「諸侯の財貨が晋に集まれば、四方の諸侯は晋から離れるでしょう」と諌めた。 B.C.548冬、子西は陳を討ち、陳は鄭と和睦した。 B.C.546冬、鄭簡公が会合から帰国する晋の趙武を垂隴でもてなした。子西は黍苗の第四章を歌い、趙武のこの度の功はいにしえの召穆公に比すべきものであるという意を寓した。趙武は「わが君がなされたことです。わたしのできることではありません」と答えた。 - 司斉(シセイ)【武官】
- 鄭の臣。司臣の子。〜B.C.558。
B.C.563、10月14日、司斉は堵女父・尉止・尉翩・
司臣・子師僕・侯晋らとともに叛徒を率いて公宮に攻め入り、
子駟・子国・子耳を殺した。 子駟の子子西が反撃してきたので、司斉は宋に亡命した。 B.C.558、2月、鄭がたびたび宋に亡命した司斉らの返還を要求したので、宋は了承して司斉らを鄭に送り返した。司斉は処刑されて塩漬けにされた。 - 子成(シセイ)【公子】
- 斉の公子。子城ともいう。斉頃公の子。
B.C.534、8月15日、欒子旗は高子尾の家を整理するため、高子尾の一味である子成、子工、子車を追放した。 B.C.532子成は田無宇に呼び戻され、禄を増やされた。 - 子皙(シセキ)【公子】
- 楚の公子。名は黒肱。公子比の弟。僕夫(御者)、宮厩尹、令尹。〜B.C.529。
B.C.546宋の向戌が晋と楚を和睦させて戦をなくすため諸侯を会合させようとした。 6月16日、子皙は令尹屈建より一足先に宋に到着し、晋と盟いの言葉を定めた。 7月2日、子皙は晋の趙武と盟いを結び、正式の盟いで結ぶ言葉を前もって調整した。 B.C.541子皙は伯州犂とともに犨、櫟、郟に城壁を築いて鄭に対する備えを固めた。 11月、公子囲が楚王郟敖を弑したため、子皙は晋に亡命した。 B.C.531楚霊王は陳と蔡と不羮に城を築こうとして、子皙に命じてこのことを申無宇に伝えさせた。申無宇は霊王を諌めたが、聴き入れられなかった。 B.C.529、4月、観従がいつわって公子弃疾の命令であるとして子皙の帰国を促したため、子皙は蔡まで戻った。そこで子皙は観従から蔡再興を打ち明けられた。子皙と公子比はためらったが無理に盟約させられて、公子弃疾を押し立てて盟約を結び、陳・蔡の人々とともに軍をおこした。さらに息舟で叛乱を起こしていた蔿居・囲・洧・曼成然らとともに、公子比は陳・蔡・不羮・許・葉の軍を率いて楚に攻め入り、都に進撃した。 叛乱軍は都に入り、公子比は王となり、子皙は令尹となって魚陂に宿った。 観従が「弃疾を殺さなければ、国王になったとしてもまた禍にかかるであろう」と言ったが、公子比は「わたしにはそんなことはやれません」と答えた。観従は「彼は平気であなたを殺そうとしております。わたしはそれを平気で待てません」と言って都を立ち去った。 5月18日夜、そのころ都では楚霊王が帰ってきたと騒ぎがあった。公子弃疾は人を使って国中を走り回らせて「王(霊王)が戻ってきて人々は新王(公子比)と司馬(弃疾)を殺そうとしている」と言わせ、また別の者に「大軍がやってきた」と言わせた。そのため公子比と子皙は自殺した。 - 子皙(シセキ)
- →公孫黒
- 訾祏(シセキ)【文官】
- 范匃の家老。
范匃が和大夫と田畑の境界争いをして、決着がつかなかったので、范匃は和大夫を攻めようとした。叔向はこれを聞くと范匃に「なぜ訾祏に相談されないのですか。訾祏は実に正直で博学であり、それにあなたの家老です。国家の大事には常法に従い、古老と相談してから実行にうつすものであるといいます」と言った。そこで范匃は訾祏に尋ねた。訾祏は「今あなたが位を継いでから朝廷には姦悪の行為がなく、国家には邪悪の民がなくなったのは、ご先祖三代の功を享受しているからです。今やまったく平穏無事なのに、和大夫をお怨みなさっています。あなたは何をもって国に報いようとするのですか」と言った。范匃は喜んで和大夫と境界争いしていた土地を増し与えて仲直りした。 - 駟赤(シセキ)【武官】
- 魯の臣。郈の工師。
B.C.500秋、叔孫州仇と孟懃子は斉軍の応援を得て、
再び郈の侯犯を攻め囲んだが、やはり勝てなかった。叔孫州仇は駟赤に「郈はわが叔孫氏だけでなく、国にとっても心配の種である。どうしたらよいか」と問うと
「このことについて決して他言いたしません」と答えたので、叔孫州仇は低く頭を下げて感謝した。
駟赤は侯犯に「斉と魯の間にあって、どちらにも仕えないのはよくない。斉に仕えるという方針で民を治めるのがよいでしょう」と進言したため、侯犯はこれに従った。
おりしも斉の使者がやって来たので、駟赤は郈の人々に侯犯が郈の土地と人々を斉と交換しようとしてると脅したため、人々は恐れて騒いだ。
駟赤は「人々が物騒だ。あなたは郈を斉と交換して他の地にいくのがよいでしょう。しかし何が起こるかわからないので、よろいを門まで運び出して、
いざというときに備えましょう」と言ったため、侯犯はそのとおりにした。かくて侯犯は斉に土地の交換を申し入れた。斉の役人がやってくると駟赤は人々に「斉軍がやってきた」
とふれまわったため、郈の人々は動揺して侯犯の門にあるよろいを着て侯犯の邸を囲んだ。侯犯は郈を立ち退くことを申し入れると、
郈の人々は許した。侯犯が郈の城門をひとつ出るごとに郈の人々はそれを閉じた。侯犯は斉へ逃げた。
- 子石(シセキ)
- →褚師段
- 子石(シセキ)
- →公孫青
- 士(シセツ)【文官】
- 荀瑶の家臣。
B.C.456あるとき荀瑶は家を建てて士に言った。 荀瑶「この家は美しいなあ」 士「美しいですが、一方で心配があります」 荀瑶「何が心配なのだ」 士「『高山や高原には草木が生えず、松やひのきの生えている土地は肥沃でない』と言います。今、土木が勝っていますので、その地にすむ民を安泰にさせないことが心配です」 はたしてこの年、荀瑶は三晋に討たれて死んだ。 - 士泄(シセツ)【公子】
- 鄭の公子。
B.C.640夏、滑が鄭に背いて衛に服従したので、士泄と堵寇は鄭文公に命ぜられて滑を討った。 B.C.636秋、士泄は鄭文公に命ぜられて堵寇とともに滑を討った。 - 子鮮(シセン)【公子】
- 衛の公子。衛献公の弟。母は敬姒。
B.C.559、4月26日、子鮮は衛献公とともに斉に亡命し、ライの地に住まわされた。魯の臧武仲がライにやってきてお見舞いしたが、衛献公のことばが暴虐であったため、臧武仲は「衛君はきっと帰国できないだろう。彼のことばは道理がなく、けがらわしい」と言った。子鮮と子展はこれを聞いて臧武仲と話をしたが、ふたりの言葉は道理にかなうものであった。臧武仲はよろこんで「衛君はきっと帰国するだろう。あのふたりが君を補佐している」と言った。 B.C.547衛献公は子鮮に帰国の策を立てさせようとしたが、子鮮は「君は民に信用されておりません。わたしも禍にかかるのではないかと心配です」と言った。しかし敬姒がお願いしたので、子鮮は承諾して甯喜と相談し「もしも国に帰れたら、国の政治はすべて甯氏に一任し、ただ祭りだけはわたしが守りますと兄は申しております」と言うと、甯喜も承諾した。 2月7日、甯喜は衛殤公とその太子角を殺した。 B.C.546夏公孫免余が甯喜と右宰穀を攻め殺した。これを知った子鮮は「わたしを追い出した者(孫文子)は逃げて助かり、わたしを入れてくれた者(甯喜)は死んでしまった。賞罰が明らかに行われていない。これでは国を治めることはできない」と言って、すぐに晋に出奔した。衛献公は人に命じて止めさせたが、子鮮は聴き入れなかった。黄河まで行ったとき、再び使者が来たが、子鮮は決して帰らぬ意を黄河の神に誓った。かくて子鮮は晋の木門という町に身を置き、衛の国に向って座ろうとはしなかった。 木門の大夫が晋に仕えることを勧めたが、子鮮は「仕事をしなければ罪になり、仕事をすれば晋に仕えるために亡命したことになる」と言って、死ぬまで仕えなかった。
- 駟セン(シセン)
- →子然
- 子然(シゼン)【公子】
- 鄭の公子。鄭繆公の子。母は宋子。〜B.C.567。
子然は生母の関係で、子孔と士子孔と仲が良かった。 B.C.581、5月、晋・魯・斉・宋・衛・曹が鄭に攻めてきた。子然は晋と脩沢で盟い、和睦した。 B.C.572秋、子然は宋に攻め入って犬丘を取った。 B.C.567没した。
- 子然(シゼン)【宰相】
- 鄭の臣。駟センともいう。
B.C.502子然は子大叔のあとを継いで政治を執った。
B.C.501子然は鄧析を殺して、鄧析が作って竹簡に書いてあった刑法を採用した。君子は「子然は今やまごころのない人というべきだ。その人の作ったものを用いながら、
その人を殺してしまうとはとんでもないことだ。子然は才能のある人物を励まし用いることはできないであろう」と言った。
- 史蘇(シソ)【文官】
- 晋の臣。史官。
B.C.672晋献公が驪戎を討とうとしたとき、史蘇は占って言った「戦争には勝つが不吉でございます。驪戎と晋が代わる代わる勝つという占いが出ています。その上に、陰険な口がありますので、国民を離反させ、国民が心を変えることを恐れます」 しかし献公は諌めを聴かず、ついに驪戎を討って勝ち、驪姫を得た。 献公は大夫たちに祝いの酒を飲ませたが、史蘇に「酒は飲んでも、肴はないぞ。そなたは勝っても不吉であると占った。戎に勝って妃を得たのだから、これ以上の吉があろうか。よって酒をついでそなたを賞し、肴を出さずにそなたを罰することにする」と言った。史蘇は杯を乾して「亀卜の兆形に出たところを、わたしは隠すわけにはまいりません。君侯もその吉を楽しまれて、その凶に対して備えなされませ。もし臣の占いがあたらないのであれば国家の福です。どうして罰を恐れましょうか」と言って退出した。 史蘇はあとから晋が男の兵で勝てば、戎は女の兵で晋に勝つであろうと予言した。 - 士倉(シソウ)【文官】
- 秦の臣。
子傒の守役。 - 子臧(シゾウ)
- →欣時
- 子桑戸(シソウコ)
- →桑扈
- 士荘子(シソウシ)
- →士弱
- 子桑伯子(シソウハクシ)
- →桑扈
- 師存(シソン)【文官】
- 魯の楽官。名は存。
ある夏、魯宣公は泗水で網で魚を捕った。里革がその網を切断し、破棄して「今は魚類が雌雄別れて子を孕む時であり、魚の成長することを民に教えず、かえって網で捕ろうとするのは、貪欲きわまりないものです」と言った。 宣公は「里革はわしの過ちを正してくれる。この網をしまわせておいて、わしがこの諌めを忘れないようにしよう」と言った。 師存は「網をしまっておくよりも、里革を重用して、彼を忘れないほうがようございます」と言った。
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