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列伝 シ


摯(シ)【神】
帝嚳の子。
帝嚳が没すると、代わって帝位を継いだが、徳がなく没した。
疵(シ)【文官】
商王朝の太師。
紂王の悪政をみて祭儀の楽器を抱いて周に逃げる。
視(シ)【公子】
文公の子。母は哀姜。〜B.C.609。
B.C.609、10月、公子視は公子を擁立しようとする襄仲に殺された。
シ(シ)【王】
井侯(ケイコウ)。周公旦の子。
士(シ)【公子】
鄭の公子。鄭文公の子。
公子士は楚に使いしたとき、楚人に鴆毒を盛られた。公子士は楚の葉まで帰ったがそこで死んだ。
止(シ)【公子】
許の公子。
B.C.523、5月5日、許悼公がおこりの病気であったため、太子止は薬をすすめたが、それを飲んだ許悼公は亡くなった。そのため公子止は晋に逃げた。これについて君子は「真心をつくして君に仕えればいいのだ。医者でもない者は薬を用いなくてもよいのに」と批評した。
斯(シ)【王】
許の君。
B.C.504、1月18日、許は鄭の游速に攻められて滅ぼされ、斯は鄭に連れていかれた。
姒(ジ)【女官】
叔向の夫人。楊食我の母。母は夏姫
叔向は巫臣の家から妻(姒)を迎えようとしたが、母は家を滅ぼすとして反対した。叔向は恐れて姒を迎えようとしなかったが、 晋平公が無理に勧めて迎えさせ、伯石(楊食我)が生まれた。
士渥濁(シアクダク)【文官】
晋の臣。士穆子の子。太傅。士貞子、士貞伯ともいう。
B.C.597荀林父が邲の戦いの敗戦の責任を取るため死を願い出た。晋景公はこれを許そうとしたが士渥濁が諌めたので、 景公は荀林父を正卿に戻した。
(『史記』では景公を諌めたのは士会としています)
B.C.594荀林父が赤狄の潞を滅ぼした。景公は「あなたがいなかったらわたしは伯氏(荀林父)を失うところであった」と言って、士渥濁に瓜衍県を与えた。
B.C.586趙嬰斉が夢を見て、天帝が「わたしを祭れば、お前に幸いを授けましょう」と言った。趙嬰斉はどうしたものかと士渥濁に尋ねた。士渥濁は「わかりません」といったが、自分の従者に「神は立派な人に幸いを与え、みだらな者に禍いを与えるものだ。お祭をすればきっと無事逃げられるだろう」と言った。
かくて趙嬰斉は天帝を祭り、その翌日に斉に出奔した。
B.C.585春、鄭悼公が晋に赴いて和平の盟いを結んだことに対するお礼を述べた。公子が介添をつとめていたが、鄭悼公が晋景公に玉を渡すとき、進みすぎて堂の東の柱の東で献上した。これについて士渥濁は「鄭伯は死ぬでしょう。眼は落ち着かず、歩きかたが早すぎ、席についてもそわそわしていた。長くはないでしょう」と予言した。はたして鄭悼公はこの年、没した。
B.C.573悼公は即位すると、士渥濁が前代の記録に従って博識であり、広く教育に通じていることを知って、士渥濁を太傅に任命した。
貞子と諡される。
史黯(シアン)
史墨
士蔿(シイ)【宰相】
晋の宰相。字は子輿。大司空。
B.C.672晋献公史蘇の諌めを聴かずに驪戎を討ち、驪姫を得た。史蘇は晋の乱を予言し、郭偃は晋は乱れても滅亡まではしないと言った。士蔿は「あらかじめ備えれば、事件が起きても間に合います。二大夫の話はみな真実です」と言った。
B.C.671献公は桓叔荘伯の子孫たちが盛んになって公室を圧迫しているのを心配した。
士蔿「二族の中で最も勢力のある富子を去れば、あとの公子たちはどうにでもなります」
献公「それではお前がやってくれ」
そこで士蔿は公子たちと相談し、富子の罪をでっちあげて讒言し、これを殺した。
B.C.670士蔿は公子たちと相談して游氏の二公子を殺させた。士蔿は献公に「これでよろしいでしょう。2年経たないうちに、君の心配はなくなるでしょう」と言った。
B.C.669士蔿は公子たちを利用して游氏の一族を皆殺しにさせ、聚に城壁を築いて公子らを住まわせた。
冬、献公は聚を攻め囲んで公子たちを皆殺しにした。
B.C.668春、士蔿は大司空に任じられる。
夏、士蔿は絳に城壁を築いて都を移し、晋の宮殿を高大にした。
B.C.667献公が虢を討とうとすると士蔿は「しばらく虢の乱れるのを待ちましょう」といってとりやめさせた。結局12年後、晋は虢を滅ぼした。
あるとき晋献公が狩をして、翟柤の国から凶兆の気が出るのを見た。郤豹は朝見してこの話を聞き、退出して士蔿に「翟柤の君は利益に専念し、その家来は媚びへつらっています。民はおのおのばらばらの心を持ち、落ち着く所がありません。わたくしは提案しませんが、あなたは是非提案してください」と言った。そこで士蔿は献公に進言して翟柤を征伐した。
B.C.661献公が上下二軍を編成し、太子申生を下軍の将に任じた。
士蔿は「昔、軍の編成は一軍の中に左右の副があり、一方が一方を補います。下軍が上軍の副になることはありません。また太子は国家の棟木です。棟木が出来上がってから模様替えするのは、危険ではございませんか」と諌めたが、献公は聴き入れなかった。
B.C.660士蔿は献公が奚斉に後を継がせる意思があると見て取ると、申生に亡命をすすめて「太子は君に立つことはできないでしょう。あなたには都城(曲沃)が分け与えられ、卿(下将軍)が与えられたのが禄位の極です。どうして君の位にお立ちになれましょう。お逃げになるにこしたことはありません。罪に落ちてはなりません。位を弟の季歴に譲った呉の太伯のようになるものいいではないですか。公にはなれませんが名を残すことはできます」と言った。しかし申生は「子輿がわたしのために考えてくれるのは忠です。しかし、私は不才であても努力と従順をするのみです。そのうえ何を求めましょうか」と言い、ついに戦争に行き、霍を討ち破った。
あるとき士蔿は献公の命で、重耳夷吾のために蒲と屈に城壁を築いた。しかし士蔿は手抜きをして、薪を土に混ぜて城壁を築いた。そこで夷吾が献公に訴えたので、士蔿は責められた。
士蔿は頭を地にすりつけて「戦もないのに城壁を築くと、敵がそれを砦にします。ですからこれを堅固にしなかったのです。それでも君命に背くのは不敬です。これではどうやって君にお仕えすることができましょう。君には徳を修められて、宗子の地位をしっかりとされるならば、これにまさる城はないでしょう」と言って退出して、後継ぎの件で不安を感じてうたった。
 狐裘蒙茸たり(皮衣の毛が蒙茸として乱れているように、国が乱れて)
 一国に三公あり(一国のうちに君となるべきものが多い)
 君、誰にか適従せん(私はいったい、誰に従ったらいいか)
子韋(シイ)【文官】
宋の司星(天文を司る官)。
子韋は、卜筮など数術の専門家であった。
B.C.479熒惑(火星)が心に宿った。天井の心は座は地上では宋の分野であったので、これについて景公は子韋に問うた。子韋は「この禍を宰相に移したらよいと存じます」と言ったので景公は「宰相はわしの股肱じゃ」と答える。「では、民に移したらよいと存じます」と子韋が言うと景公は「人君というものは民に頼らなくてはならない」と答えた。子韋が「年に移したらよいと存じます」と言うと「年が不作だったら民が困窮する。わしは誰のために人君となっているだろうか」と答えた。すると子韋は「天は高くにいますが、よく低い地上の人のことばを聴くものです。いまわが君には、人君にふさわしいおことばが3つありました。これに感じて。熒惑もかならず移動することでございましょう」と言った。
はたして熒惑は3度にわたって移動した。
豕韋(シイ)【王】
商王朝の侯伯。
士尉(シイ)【在野】
田嬰の食客。
斉貌辯という食客は田嬰に礼遇されたが、人物には欠陥が多かったので、他の食客は快く思っていなかった。士尉は田嬰を諌めたが、田嬰は聴き入れなかったので、士尉は暇乞いして去った。
師乙(シイツ)【文官】
春秋時代の楽官。
子貢と音楽について話し合う。
子員(シイン)【文官】
晋の臣。シウンとも読む。
B.C.569夏、晋悼公が魯の叔孫豹のためにもてなしの宴を開いたとき、3曲を奏したが、叔孫豹は拝礼しなかった。晋の韓厥がそのわけを子員に聞かせた。
B.C.547秦景公が弟のを使節として和平交渉によこしたとき、叔向は接待役の子員を呼ぶように命じた。すると別の接待役の子朱が自分の番であると言い、争いとなった。
子印(シイン)【公子】
鄭の公子。〜B.C.578。
B.C.578、6月15日夜、許に出奔していた子如が密かに帰国して叛乱を起こした。そこで子印は子如に殺された。
子音(シイン)【武官】
楚の臣。司馬。子春の子。
子羽(鄭)(シウ)【文官】
鄭の公子。〜B.C.578。
B.C.578、6月15日夜、許に出奔していた子如が密かに帰国して叛乱を起こした。そこで子羽は子如に殺された。
子羽(鄭)(シウ)【文官】
鄭の臣。行人。公孫揮ともいう。
B.C.554子蟜が没したとき、子羽は裨竈と葬儀に出かけようとして良霄の家の前を通り過ぎると、その門の上に莠(はぐさ)が生えていた。子羽はそれを見て「あの莠が(良霄が死ぬまで)残っているだろうか」と言うと、裨竈は「今年中はもつだろうが、歳星が一周して再びこの降婁の次にやってくるまではもつまい」と言った。はたして良霄はそれまでに叛乱を起こして戦死した。
B.C.549子羽は晋に使いした。そのとき程鄭が「みずから位をさげる道はどうすればよいでしょう」と尋ねた。子羽は答えず、帰国してから鬷蔑にこれを話した。鬷蔑は「彼はやがて死ぬであろう。でなければ逃げ失せるであろう。位をさげるには人にへりくだるのみでよい。それに高い位に登ってさがる道を求めようとする者は知者である。きっと逃亡のきざしであろう。さもなければ、きっと気ちがいなのだ」と言った。
B.C.544、4月、魯・鄭・許の君が楚康王を会葬し、諸侯の大夫たちはみな墓まで送った。楚の郟敖が王位につき、公子が令尹となった。子羽は「これは釣り合いがよろしくないというものだ。王子囲はきっと君にとって代わるだろう。松や柏の木の下では、草は生長しないものだ」と言った。
B.C.542、12月、衛の北宮文子が衛襄公の介添えとして楚に赴き、鄭に立ち寄って都に入り、挨拶をした。子羽は行人であったため、北宮文子をもてなした。
子羽は四方の国々の事情に通じており、その国々の大夫の家柄や地位の高低、人物の貴賎、才能の有無などをわきまえ、さらに外交的辞令に長じていた。そこで鄭では諸侯と何か交渉しようとすると、子産がまず子羽に諸侯の事情を尋ね、さらに子羽に命じて様々な辞令を作らせた。さらに子産は裨と一つ車に乗って郊外に出かけてことの良し悪しを考えさせ、その上で馮簡子に告げて決断させ、事が確定すると子大叔に授けて実行に移らせたため、鄭では外交上の失敗はめったになかった。
B.C.541、1月、楚の公子は鄭を聘問し、公孫段の娘を妻に迎えようとした。公子囲が多勢であったため子産は子羽に命じて「当地は狭苦しいところで皆様をお入れすることができませんので、どうか城外の地でお申込みを賜りましょう」と言った。楚の伯州犂が「貴国のたまわりものをもしも城外でいただくとなれば、それを草むらに捨てるようなものです。それでは先君の霊を欺かせることになり、私はわが君の家老もできなくなり、復命することもできません」と言ったたため、子羽は「わが国は貴国を頼りにしているのに、貴国がよからぬ野心を抱いておられるのではありませんか」と言った。これを聞いた楚の伍挙は鄭には備えがあることを知り、武器をしまうと申し出た。そこで鄭人はそれを聴き入れて娘を迎えて城外に出た。
子羽(斉)(シウ)【文官】
斉の臣。行人(外交官)。晏子春秋に見える。
景公は諸侯賓客に応じるなら子羽がいると言った。
子羽(晋)(シウ)【文官】
晋の臣。韓宣子の一族。
子盂(シウ)【武官】
楚の臣。
B.C.548秋、楚は舒鳩が叛いたので、これを討った。そこで呉が舒鳩を助けに来た。令尹屈建が急に右軍を率いて舒鳩に攻め入り、子彊息桓子捷子駢・子盂の左軍は呉軍と遭遇したため、退却した。子彊は「このまま長くこの状況が続くと、雨のために低い土地は狭くなって身動きが取れなくなるだろう。すぐに戦ったほうがよい。わたしが兵を率いて敵に誘いをかけるので、精兵を選んで様子を見ていてくれ。わたしが勝ったら進撃し、負けたら援助してくれ」と言ったので、みんなそれに従った。5人の将はまず呉軍を攻撃した。呉軍は逃げ、山に登って楚に援軍のないことを知ると、再び攻撃してきた。すると待ち構えていた精兵がこれに攻めかかり、呉軍に大勝した。楚軍は勢いに乗じて舒鳩を包囲して、これを潰滅させた。
8月、楚軍は舒鳩を滅ぼした。
子英(シエイ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
舒郷の人。水中にもぐって魚をとらえるのが得意であったが、赤い鯉を捕まえてから、それを飼うと生長して一丈余にもなり、角が生えて翼をもつようになった。魚は「あなたをお迎えに参りました。私の背にお乗りください。ご一緒に天に昇りましょう」と言って、子供を乗せて天高く昇っていった。
士栄(シエイ)【文官】
衛の臣。〜B.C.632。
B.C.632冬、衛成公叔武を殺したことについて、元咺と言い争いをして晋に裁きを求めた。衛成公が敗訴となったので、晋文公は衛成公の弁護人であった士栄は殺され、代理人であった鍼荘子は足切りの刑に処せられた。
子越(シエツ)
闘椒
子越椒(シエツシュク)
闘椒
史厭(シエン)【文官】
周の臣。史黶とも書く。
秦が道を周に借りて韓を討とうとした。周は韓、秦が恐ろしく判断がつきかねていた。史厭は「韓へ人をやり『周に土地を与え、楚に人質を与えなさい。そうすれば秦は周と楚を疑い、韓へ出兵しなくなるでしょう』と言わせましょう。そのようにすれば秦との約束を守ることになり、韓からも土地が貰えます」と進言した。
(『戦国策』では、史厭は東周の臣(太史)としている)
師延(シエン)【文官】
商王朝の楽官。
紂王の命で長夜の楽をつくり、国を滅ぼすに至った。そのため師延は楽器を濮水に投じて死んだ。
春秋時代、晋の楽師師涓が夜に濮水を過ぎたとき、水中にこの音楽が聞こえたので、写して国に帰り、晋平公のためにこれを奏した。すると師曠が「これは亡国の音である。桑間・濮上で得たのであろう。紂はこれによって滅びた」と言った。
子閻(シエン)【文官】
楚の臣。巫臣の一族。
子重子反が子閻・子蕩清尹弗忌らを殺し、さらに黒要まで殺し、それらの人々の家財を分け合った。子閻の家財は子重が取った。
駟偃(シエン)
子游
子淵捷(シエンショウ)【武官】
斉の臣。子車ともいう。
B.C.516斉は魯昭公を魯に入れようとして魯に攻め入り、魯軍と魯の炊鼻で戦った。子淵捷は魯の洩声子を追撃し、 洩声子を射て、その盾にやじりを食いこませた。洩声子が子淵捷の馬を射たため、馬は倒れこんだ。 魯人は子淵捷を叔孫氏の家臣と見間違えて助けようとすると、子淵捷は「わたしは斉の者だ」と答えた。 そこで魯人が切りつけてきたため、子淵捷はその者を弓で射倒した。御者が「もっと射倒しなさい」と言ったが、子淵捷は「弓でおどすことはよいが、度々射て怒らしてはならない」 と答えた。
師エン父(シエンホ)【将軍】
周王朝の将軍。字は方叔。
淮夷が賦貢義務の履行を怠ったため、師エン父は厲王の命で、これを討った。
思王(シオウ)【皇帝】
周王朝30代王。名は弟叔。貞定王の子。
B.C.441兄の哀王を殺して王位に即くが5ヵ月後に弟の嵬に殺され王位を失う。
士鞅(シオウ)
范鞅
子夏(シカ)
卜商
子夏(陳)(シカ)【文官】
陳の臣。名は少西。
夏徴舒の祖先。
子家(鄭)(シカ)【宰相】
鄭の卿。名は帰生。〜B.C.599。
B.C.625冬、子家は晋の先且居、宋の公子、陳の轅選と共に秦を討って汪を攻め取った。
B.C.616子家は太子夷(霊公)の介添えとなって晋に赴き、陳が晋と交わるようにさせた。
B.C.610晋霊公が諸侯と会合したとき、晋霊公は鄭繆公が楚に心を寄せていると思って繆公に会わなかった。子家は趙盾に書簡を送って、蔡や陳が晋になついているのは鄭が骨を折って晋に仕えているからであると伝えたので晋霊公は鄭と人質を交換して和平を結んだ。
B.C.607春、子家は楚の命令で宋を討った。鄭軍は宋軍と大棘で戦い、宋の華元を捕虜にし、楽呂を戦死させ、兵車400乗、捕虜250人、斬り耳100個という成果を上げた。
B.C.605春、楚から大きいすっぽんが献上された。卿の子家と子公が霊公に朝見しようとしたとき、子公は自分の食指(人差し指)がひとりでに動くのを見て、子家に「先日もこの指が動いたら、まちがいなく珍味にめぐりあいました」と言った。
参内して霊公に謁見すると、大すっぽんの羹が進められた。子公が笑って「はたしてそのとおりでした」と言った。霊公がどうして笑うのかと問うたので、子公がつぶさにそのわけを告げた。そこで霊公は大夫たちを招いて羹を食べさせたが、ひとり子公には食べさせなかった。
子公は怒って、その指をすっぽんの鼎の中にひたし、それをなめて退出した。霊公は怒って子公を殺そうとした。
6月28日、子家は子公とともに先手を打って霊公を弑した。
B.C.599子家は没した。鄭人は霊公を弑した叛乱の罪を責め正して、子家の棺をぶちこわしてその一族を追放した。
子家(楚)(シカ)【武官】
楚の臣。仲帰ともいう。〜B.C.617。
B.C.622秋、六が楚に背いて東夷に従ったので、子家は成大心とともに六を滅ぼした。
B.C.617子家は子西と謀って楚穆王を殺そうとした。
5月、はかりごとが漏れて、子家と子西は穆王に殺された。
子家(楚)(シカ)【文官】
楚の臣。蔡公。子音の子。
史顆(シカ)【文官】
秦の臣。
B.C.580秦は晋と和睦して、晋の令狐で会合することとなった。晋厲公は先に到着したが、秦桓公は黄河を渡ろうとせずに秦の王城にとどまり、史顆を遣わして晋と盟った。そのため晋の郤犨が王城で盟うこととなった。
子瑕(シカ)【宰相】
楚の宰相。令尹。
B.C.523春、子瑕は郟に城壁を築いた。
子瑕は秦に遣いして楚平王の夫人を迎えたお礼をした。
冬、子瑕が呉の公子蹶由をとりなしたため、楚平王は蹶由を呉に返した。
子瑕(シカ)
駟乞
子我(シガ)
監止
士会(シカイ)【将軍】
晋の将軍、正卿、秦の臣。上軍の将。太傅。士蔿の孫。成伯の子。
随を領地としたので随会ともいい、後に范を領地としたので范武子ともいう。また随武子、随季、士季ともいう。
B.C.632、6月18日、晋軍は城濮の戦いの後、黄河を渡って帰国した。このとき戎右の舟之僑がその役目を捨てて先に帰ったので、士会はその代役として戎右となった。
B.C.621趙盾の命で、士会は先蔑とともに秦から公子を迎えるため秦に出向いた。
B.C.620士会は心変わりした趙盾に攻められ、令狐で敗れて秦に逃亡した。
士会は3年も秦に留まったが、先蔑には会わなかった。従者がなぜかとたずねると、士会は「わたしはあの方と同罪を犯したので逃げてきたのだ。あの方を立派な人物として慕ってついて来たのではない」と答えた。
B.C.615冬、秦は令狐の役の恨みを晴らすため、晋を討って羈馬の地を攻め取った。晋はこれを防禦し、両軍は河曲で戦った。晋はとりでを高く築いて守りをかためた。
康公は士会に作戦を尋ねると、士会は「この計略は臾駢が立てたものでしょう。また趙穿という者は、君の寵愛を受けていますが年はまだ若くて、軍事は念頭になく勝敗など気にしておりません。勇気にはやって狂気じみており、臾駢が上軍の佐になっていることを恨んでいます。軽鋭の兵を敵陣に突撃させたら、趙穿をおびき出せるでしょう」と言った。
12月5日、康公は士会の策を用いて上軍を討った。はたして趙穿が軍を乱して出陣したため、晋軍は全軍が出て戦った。
両軍勝敗なく、互いに退却した。秦軍はその夜に逃げたが、その後再び晋を侵略して瑕に攻め入った。
B.C.614夏、晋の六卿は、秦が士会を用いて晋に敵することを恐れて、近郊の諸浮で会合して密謀した。そして魏寿余に命じて魏にたてこもらせて晋に背いて秦につくふりをさせて、士会をおびきよせようとした。
魏寿余はいつわって夜に乗じて秦に逃げ、その私邑をもって秦に帰服したいと願い出た。秦康公はこれを聴き入れた。
魏寿余は役所で士会の足を踏みつけて、計略はうまく運んでいるとひそかに知らせた。
魏寿余は康公に「もとは晋の人で、あの魏の役人たちと話せる者を出してください。わたしはその人と先発しましょう」と言ったので、康公はその任に士会を使おうとした。士会は辞退して「晋の人は虎狼のようで信義の心がありません。もし寿余が約束を破って魏を秦に渡さなければ、わたしは晋で殺され、妻子は秦で殺され、君にとっても利がないでしょう」と言った。しかし康公は「そうなったとしても、妻子を必ず晋に帰そう」と言ったので、士会は出発した。
秦の繞朝は士会に鞭を贈って「君よ、秦に人物がいないとお考えなさるな。(わたしは計略を知っていたが)わたしの謀が用いられなかったのです」と言ってきた。
士会らの一行が黄河を渡り終えると、魏の人々は士会が帰ってきたことを喜んで歓声を挙げ、士会は晋に帰った。
秦は約束どおり妻子を晋に送りかえしてきた。しかし帰らずに秦に残る者もおり、かれらは劉氏と呼ばれた。
士会はしばしば晋霊公を諌めたが聞き入れられることはなかった。結局、霊公は趙穿に弑された。
B.C.606春、晋が鄭を討ったので、鄭は晋と和睦することになった。そこで士会は鄭に行って盟った。
成公の命で、士会は使節として周を聘問した。
そのとき周定王は饗宴を設けて餚烝(細かく切った料理)が出た。士会は「王室の礼には、全烝ばかりであり、切った料理はないと聞いています。これはいかなる礼でしょうか」と尋ねた。定王は周の原公を呼んでそのことを聞き、定王は士会に「天帝を祭る禘と郊には、いけにえを丸ごとお供えする全烝の礼があり、王公が立食する饗宴には、動物を半切りにする房烝の礼があり、親戚の饗宴には餚烝の礼があります。今そなたは他でもない、叔父晋侯が貴方をよこされて徳をあたためています。先王の親戚饗宴の礼を貴方に贈ろうと思うのです」と言い、周の礼について答えた。
士会は答えることが出来ず退席し、帰国してから夏・商・周三代の礼を研究し、文公のつくった執秩の典礼を修めて晋の法とした。
B.C.599冬、鄭が楚に討たれた。士会は命じられて鄭を救援し、楚軍を潁水の北で撃退した。
B.C.597春、鄭が楚に攻められた。
6月、晋は鄭を救援することとし、士会は上軍の将に任じられた。
晋軍が黄河に到着すると、すでに鄭は楚に降服して和睦したと伝わった。中軍の将荀林父は帰国しようとした。士会も「よろしい。戦は敵の隙を見て働くもの。徳・刑・政・事・礼の6つが正しく行われている楚には敵対すべきではありません」と言った。しかし中軍の佐先縠が合戦を望んだため、結局戦うことになった。
荀林父は魏錡趙旃に命じて和睦しようとした。
郤克「ふたりの不平者が出かけた。防備をしておかないと楚に攻め込まれるだろう」
先縠「わが軍には戦うか和するか決定的な命令がない。防備したとしても役に立つまい」
士会「防備をしておくのはよいことだ。もしも楚が悪意を持って攻めてきても、防備があれば破られまい」
そこで士会は上軍の大夫鞏朔韓穿に命じて敖山の前に伏兵を7ヶ所に設けさせた。はたして楚軍は晋軍に攻め込み、中軍と下軍は大破されたが、上軍は動くことはなかった。
荘王は潘党に命じて遊撃の40乗を率いて恵侯の指揮下に入って左翼の軍となり、晋の上軍を攻撃させた。
駒伯が「楚軍が来るのを待って戦いましょうか」と言ったが、士会は「楚は勢い盛んであるから、もしわが上軍を集中攻撃したならば、きっとわが軍は全滅するであろう。退却するのがよい」と言い、みずから上軍の殿をつとめて退却したが、打ち破られなかった。
荀林父は帰国して「わたくしは督軍となって、軍に敗れました。その罪は誅殺にあたります」といって死を請うたが、士会は「むかし文公が楚と城濮で戦ったとき、敗将の子玉が殺されたことを聞いて文公は非常に喜ばれました。また将軍を誅すれば、これは楚のためにその仇を殺すようなものです」と言い、彼を庇った。景公はこれを許し、荀林父のことは沙汰やみとなった。
(『春秋左氏伝』では景公を諌めたのは士渥濁としています)
B.C.594士会は景公の命で、赤狄を討ってこれを滅ぼし、長狄焚如を討ち取った。
B.C.593、1月、士会は軍を率いて赤狄の甲氏と劉吁および鐸辰を攻め滅ぼした。
3月、晋景公は狄の捕虜を周に献上し、周定王に士会を正卿に任命することを認めて欲しいと願い出た。
3月29日、景公は士会に卿の正服を着せて中軍の将に任命し、さらに太傅の官を兼ねさせた。士会が晋の正卿となると、晋の盗賊はみな黄河を渡って秦へ逃げたという。
冬、士会は景公の命で、王孫蘇の乱で乱れた周王室の騒ぎを治めた。
定王はその労をねぎらって士会をもてなした。その宴の最中、士会は宴の礼について原襄公に尋ね、自らの知識不足を感じた。士会は晋に帰り、儀礼の礼法を研究して晋の礼法を整えた。
B.C.592、8月、郤克が斉に辱しめられて帰国し、復讐したいと願った。士会は帰宅して子の士燮に「燮よ、わしが聞くに、人の怒りの邪魔をすればその毒害を受けると。今、郤子の怒りは大変だ。斉でその心を晴らさなければ、必ず晋の国内で晴らすだろう。わしは政権を郤氏に渡して、彼の怒りを晴らさせようと思う。おまえは諸大夫に従って君命を奉じて、ひとすじに敬うように」と言い、辞職して隠居した。
あるとき士燮が遅く退出して帰宅した。士会が「どうして遅くなったのか」と尋ねた。
士燮は「秦から客が来て、朝廷で謎を出しました。大夫には誰も答えられる者が居りませんでしたが、わたしが3つ解きました」と答えた。
すると士会は怒って「大夫たちは目上の父兄に譲って黙っておられただけだ。この子倅めが、朝廷で3回も人を侮辱しおって。わしが晋にこうしていなかったら、この家は潰れるだろう」と言い、士燮を杖で殴りつけ、冠の留め金を折るほどであった。
B.C.573悼公の時代、「范武子(士会)は執秩の法を明らかにして晋を安定させ、その法は今でも用いている」として、子の士魴はその功により新軍の将に任命された。
師悝(シカイ)【文官】
鄭、晋の臣。楽師
B.C.562冬、晋悼公は鄭を征伐してこれを降した。鄭人は晋悼公に贈り物をして、 師悝は師触師蠲とともに晋に贈られた。
師亥(シガイ)【文官】
魯の楽師。
賢者として知られた。
敬姜が子の公父ショクの妻を娶るときに、礼にのっとってこれを行ったので、師亥はこれをたたえた。
子家懿伯(シカイハク)【文官】
魯の臣。子家子ともいう。
B.C.517、7月、子家懿伯は魯昭公から季平子を討つ相談を受けた。 子家懿伯は「もし成功しなければ、君自身が悪名を受けるであろう。やってはいけません。政権は季氏にあります。容易に倒すことはできません」と答えた。 魯昭公が子家懿伯を退出させようとしたが、子家懿伯は断って「わたしは計画の相談にあずかりました。お言葉が漏れたなら、わたしは無事に死ねません」 と言って公室に泊まった。
9月11日、魯昭公は季氏を攻めた。季平子が許しを請うたが魯昭公は許さなかった。子家懿伯は「お許し下さい。季氏は政治を執って久しく、 民の多くは季氏から施しを得ており、季氏の徒党となっている者が多くいます。日が沈んでそのような者たちが季氏を助けると、きっと君には後悔なさるでしょう」 と諌めたが魯昭公は聴き入れなかった。はたして叔孫氏が季氏の味方をして魯昭公の兵を蹴散らした。子家懿伯は「家来たちにおどされて季氏を討ったといつわって、 家来を国外へ出して、君はお止まりください。そうすれば意如(季平子)でもわが君にお仕えする態度を改めるでしょう」と進言したが、 魯昭公は「家来たちにそんなことをさせるには忍びない」と言って、斉に亡命した。
景公が「莒の国境から西の千社の地をさしあげます。わたしは軍を率いてあなたのご命令に従います」と言ったため、 魯昭公は喜んだ。子家懿伯は「斉から土地を与えられて斉の臣となるようでは、だれがわが君と一緒に朝廷に立つ者がありましょうか。 それに斉の君は誠実ではない方です。早く晋に行かれるべきです」と進言したが、魯昭公は聴き入れなかった。
臧昭伯は魯昭公についてきた人々と盟いを結び、魯に残った者と通じないようにした。 子家懿伯は「魯にいる人々と通じて君から離れれば、君はかえって速やかに国に帰ることができるのだ。どうしてそのような盟いに加われよう」と言って断った。
B.C.515秋、孟懃子陽虎が鄆に攻め入り魯昭公を奪い返そうとした。 子家懿伯は戦うことを諌めたが、魯昭公はこれを聴き入れず子家懿伯を晋に遣わして退け、孟懃子の軍と戦ったが、魯昭公の軍は且知で敗れた。
冬、魯昭公が再び斉に行った。斉景公は正式の饗宴を開きたいと言ったが、子家懿伯は「朝な夕なに朝廷に伺っておりますのに、 どうしてそのような饗宴を開かれる必要がありましょう」と申し出たため、ただ酒を飲む宴が開かれた。 時に魯の公子の娘という人が景公の夫人となっていたが、 景公は「重をお目にかからせたい」と話したが、子家懿伯はそれを避けて魯昭公を連れて帰った。
B.C.514春、魯昭公は晋に出かけて晋の乾侯に行こうとした。子家懿伯は「まず国境に行って、そこで先方の命令を待たれるのがよろしいでしょう」と言ったが、 魯昭公はそれを聴き入れず乾侯に行き、迎え入れてほしいと願い出た。はたして晋人はそれを無礼に思い、魯昭公を一旦国境に戻らせた。
B.C.513春、斉景公が高張を遣わして昭公を慰問させて「主君」と呼んだ。子家懿伯は「斉はわが君をいやしんでおります。 わが君はきっと恥をかかされるであろう」と言った。
B.C.511、4月、季平子が晋の荀躒について昭公のいる乾侯に来た。子家懿伯は「君には季孫と一緒にお帰りなさい。 一時の恥を忍ぶことをしないで、一生の恥をかかれることをしてはなりません」と進言したため、魯昭公は「わかった」と答えた。しかし他の家来たちが 「ただ一言、晋に季孫を追い出すよう申し上げましょう」と言った。荀躒が晋定公の命を受けて昭公を見舞って 「わが君は意如(季平子)を責め、意如も決して死を逃れようと致しません。国にお帰りなさい」と申し上げたが、魯昭公は「晋君にはお仕えは致しますが、 あの男(季平子)には会う気にはなれません」と言ったため、荀躒は引き下がった。そこで子家懿伯は「わが君には単身で魯軍に入れば、 季孫はきっとわが君を連れて国に帰るでしょう」と進言したため、魯昭公はそれに従おうとしたが、多くの従者たちが昭公をおどしたため、帰ることができなかった。
B.C.510、12月、魯昭公は病気になった。魯昭公はつき従っている大夫たちに物を贈ったが、大夫たちは頂かなかった。しかし子家懿伯はこれを頂いたため、 大夫たちもみな頂いた。12月5日、魯昭公が没すると、子家懿伯は君からの頂き物を倉庫の役人に返して「わたしは君の仰せに逆らうまいとしただけである」と言ったため、 大夫たちもみな頂き物を返した。
B.C.509叔孫成子が魯昭公のなきがらを乾侯に迎え取りに来た。出発のとき、季平子が叔孫成子に「子家子はたびたび意見してくれたが、 わたしの心に的中しないことはなかった。わたしは彼と一緒に政治をしたいと思っている。あなたは彼をひきとめなさい」と言った。これを聞いた子家懿伯は叔孫成子に会おうとせず、 朝夕の哭礼を行うにもその時刻を変えて行った。叔孫成子は会いたいと申し込んだが、子家懿伯は「わが君は私にあなたにお目にかかれとの仰せもなく亡くなられたので、ご遠慮します」と言った。 叔孫成子は使者を遣わして「君のお供をして国を出た人々は、ただあなたの意見に従おうとしています。季孫はあなたと一緒に国政に当たろうとして願っております」と言うと、 子家懿伯は「どなたを君に立てるかは、ご家老や占いによるもので、わたしの関知しないことです。季孫と敵となった者はよそへ行くのがよいでしょう。 わたしが帰国することをわが君はご存じないので、わたしはよそへ逃れましょう」と言った。魯昭公のなきがらが魯の壊隤に着くと、公子宋(定公)が先に都に入った。 魯昭公についていた人々はみな他国へ去った。
子家駒(シカク)【公子】
魯の公子。名は羈、字は駒。公孫帰父の孫。子家羈ともいう。
B.C.517昭公季平子を討った。子家駒は郈氏に許すように勧めるが聴き入れられなかった。
昭公が三桓に敗れると、昭公に「斉の君には信義がありませぬ。早く晋に行かれるほうがよろしゅうございましょう」と勧めたが、聴き入れられなかった。
諡は懿伯。
子革(鄭)(シカク)【文官】
鄭、楚の臣。右尹。子然の子。
B.C.567子然が没すると、子孔は子然と仲が良かったので、子革は家の面倒をみてもらった。
B.C.554子孔がわがまま勝手に国政を行ったので、人々は心配して子孔を有罪とした。そこで子孔は叛乱を起こし、子革は子良と共に家兵で子孔を守った。
8月12日、子孔が殺され、子革と子良は楚に亡命した。子革は楚の右尹の官となった。
子革(楚)(シカク)
然丹
子華子(シカシ)【在野】
春秋時代の遊説家。
晋の人。
子華子は『子華子』2篇を著したとされる。
師華父(シカホ)【将軍】
周王朝の臣。克氏。
共王のとき、王室を輔佐して功があり、四方を安んずる治績を立てた。
史華龍滑(シカリュウカツ)【文官】
衛の臣。
B.C.660、12月、衛は狄に攻められて衛軍は狄軍に破られ、史華龍滑と礼孔は捕えられた。狄はこのふたりを使って衛軍を追撃した。そこで史華龍滑は「われわれは衛の太史であり、衛の祭りを司っています。われわれが先に衛都に乗り込んで衛の神に告げなければ、衛を取ることはできません」と言ったので、狄はふたりを先に行かせた。
史華龍滑は衛の人々に「とても防ぐことはできない」と言って、夜にまぎれて人々ともに都を出て逃げ落ちた。
狄は衛に攻め入り、そのまま逃走する衛の人々を追って、黄河のほとりで衛人を打ち破った。
子寛(楚)(シカン)【武官】
楚の臣。司馬。司馬子期の子。
B.C.479司馬子期は白公に殺された。反乱を鎮めた沈諸梁は司馬子期の功績を思って、 子寛を司馬に任じた。
子寛(鄭)(シカン)【文官】
鄭の臣。渾罕ともいう。
B.C.538
子産が丘賦という税法を始めた。国人がこれを非難したが子産はやめなかった。子寛は「国氏はだれよりも先に滅びるだろう」と言った。
子罕(鄭)(シカン)【公子】
鄭の公子。名は喜。鄭繆公の子。楽喜ともいう。
B.C.581、5月、晋・魯・斉・宋・衛・曹が鄭に攻めてきた。子罕は鄭襄公の廟の鐘を晋に贈って和睦を願い出た。
B.C.577、8月、子罕は許を討ったが敗れた。
B.C.576子罕は楚に攻め入って楚の新石を取った。
B.C.575夏、子罕は宋を討ったが、宋の将鉏と楽懼に宋の汋陂で破られた。しかし宋軍が警戒を怠ったため、鄭軍はこれを襲撃して宋の汋陂で討ち破り、将鉏と楽懼を捕らえた。
この年、子罕は公子(後の釐公)と共に晋に出かけたが、子罕はよく扱われなかった。
B.C.571、7月9日、鄭成公が没した。子罕は君事を代行し、子駟が宰相となって国政を執り、子国が司馬となって軍政を司った。子罕は司城であったが、賢者であるとして執政(宰相)として政事をとった。
鄭釐公が晋に出かけたとき、同じようによく扱われなかった子豊が傲慢な鄭釐公を晋に訴えようとしたが、子罕はこれをとめた。
子罕(宋)(シカン)【宰相】
宋の宰相、司城(司空)。名は喜。楽喜ともいう。
B.C.567華弱楽轡をからかったので、楽轡は華弱の首を弓でおさえつけた。宋平公はこれを見て華弱を追放した。子罕は「罪は同じで罰が違うのは公平ではない。子蕩(楽轡)こそ華弱を朝で辱しめた。これより大きな罪はあるまい」と言い、楽轡を追放した。
B.C.564春、宋で火災があった。子罕は伯氏に命じて町を守らせ、火の移ってこないところで小さな家は壊し、大きな家には土を塗り、もっこをならべ、 つるべを用意し、水槽を備え、火消しの人数を揃え、水をたくわえ土を積み、火の進む方向を明示させた。 さらに司徒華臣に命じて正規の人夫を準備させ、隧正には郊外の小城の人々を集めて火事場に走らせ、 華閲に命じて右官を指揮させた。同様に向戌に左官を指揮させた。 また司寇楽遄に命じて刑具を備えさせ、司馬皇鄖に命じて校正に馬を、 工正に車を用意させ、武器を準備して非常に備え、西鉏吾に命じて府庫の守護にあたらせ、 司官と巷伯には宮殿を警備させた。さらに左師と右師に命じて神々を祭らせ、大祝と宋人に命じて馬をいけにえとして四方の城壁にささげ、盤庚を西門の外で祭らせた。
B.C.558春、鄭が人質を差し出してB.C.563に宋に亡命した堵女父司臣尉翩司斉を渡すよう依頼してきた。子罕は司臣を人物と見込んで逃がして、魯の季武子にあずけたが、その他は鄭に帰した。
宋に人質として来たが無礼であったので、子罕は強く帰すことを望んだ。そこで宋平公は慧を鄭に返した。
あるとき子罕は宋人から玉の献上を受けた。子罕は辞退して「私は欲張らないことを宝としており、あなたは玉を宝としております。もしあなたが宝を私に与えたならば、 お互いに宝を失うことになります。めいめい宝を持っているにこしたことはありません」と言った。この宋人が盗難に会って殺されることを恐れたので、子罕はその玉を売って宋人を金持ちにしてから郷里に帰してやった。
B.C.556皇国父が宋平公のために物見台をつくることになった。子罕は収穫の時期が終わってからにしてほしいと願ったが、宋平公は許さなかった。すると台を作る人夫たちが「色白の男(皇国父)がわれわれを使って仕事を始め、色黒の男(子罕) がわれわれの心を慰めてくれる」と歌った。子罕はこれを聞いて、みずから人夫を巡回し、怠けている者を叩いて「いまわが君がわずかひとつの物見台を作るというのに、早くやらないようではどうして仕事をしているということができよう」と言ったので、歌っている者も歌をやめてしまった。ある人がこのことについてたずねると、子罕は「宋は小さい国であるのに、役人をのろう者がいたり喜んだりす者があるのは、禍のもとである」と答えた。
B.C.546冬、向戌が諸侯を会合させた恩賞を望んで「この度、一命を捨てる思いで成功させた盟いの功績に相当する土地を頂きたい」とお願いしたため、宋平公は向戌に60邑を与えた。向戌がそれを子罕に示したので、子罕は「おごり高ぶると騒動が起こり、騒動が起こると国は滅びます。また国や人君の興廃存亡は兵の用い方によるものです。しかしあなたは兵を除こうとしている。何とでたらめではありませんか。さらに恩賞を求めるとは、この上もなき貪欲なことです」と言って、その書きつけの字を削り投げ捨てた。そこで向戌はこれを辞退した。向氏の一族は子罕を攻めようとしたが、向戌は「わたしが滅びそうになっていたところをあの方が助けてくれたのだ」と言ってそれを止めた。
B.C.544夏、子罕は鄭が飢饉になると鄭の子皮が人々に穀物を与えて人心を得たことを聞いた。子罕は「よき政治を行う人に近づき親しむことは、民の望むところだ」と言って、宋が飢饉になると子罕は宋平公にお願いして公室の穀物を放出して民に貸しつけ、また大夫たにち余裕のある穀物を民に貸し付けさせた。このとき子罕は民に貸し付けても記載せず、また大夫にも貸し与えた。そこで宋では飢える人はいなくなった。晋の叔向は「鄭の罕氏と宋の楽氏は最後まで続く家だ。そして恵みを施しても恩に着せない点では、楽氏がまさっている」と言った。
子干(シカン)
子韓皙(シカンセキ)【文官】
斉の臣。
B.C.528魯の南蒯が斉に亡命してきた。酒宴の席で斉景公は南蒯を「謀反人」と呼んだため南蒯は「魯の公室を強めようと思ったのです」と答えた。すると子韓皙は「家臣の分際で公室を強めようと考えるとは、これより大きな罪はない」と言った。
示癸(シキ)【神】
商王朝の祖先。示壬の子。
識(シキ)【武官】
秦の臣。
B.C.387魏と戦い、武下で破られ、捕らえられる。
師旂(シキ)【武官】
周王朝の臣。
将軍伯懋父隷下の将。
于方雷を討伐するよう王命を受けたが、命に従わず軍律を乱したとして、罰せられる。
子煕(シキ)【公子】
鄭の公子。〜B.C.565。
B.C.565鄭の公子たちは鄭釐公が殺されたので、子駟を討とうと相談していた。
4月12日、子駟は先手を討って子狐・子煕・子侯子丁の4人の公子に罪を着せて殺した。
師己(シキ)【文官】
魯の臣。
B.C.517夏、鸜ヨクが魯に飛んできて巣をつくった。師己は「怪しいことだ。かつて歌われた童謡に『鸜ヨクが飛んできて、わが君はよそに出かけて恥をかかれる。 巣をつくり、わが君は遠くへはるばると出かける』とあったが、今その鸜ヨクが現れた。きっとわが君は災いにかかるだろう」と言った。
9月12日、はたして魯昭公は斉へ亡命した。
子旗(シキ)
豊施
士季(シキ)
士会
子期(シキ)
子義(シギ)【在野】
趙の賢人。
B.C.264秦が攻めてきたため、趙は援けを斉に求めた。
斉は「長安君を人質にするなら、出兵しよう」と返答した。長安君は恵文后の末子であったため、恵文后は承知せず「このうえ長安君のことを言う者があれば、この老婆がきっとその顔に唾をはきましょう」と言った。
しかし左師触竜に説得されて、長安君を斉へ人質として出した。
子義はこれを聞いて「人主の子は、君の骨肉の親である。それでも国に功労がなければ、尊位・高禄を保ち、金玉の宝器を守ることが出来ないのである。まして臣下においてはなおさらのことだろう」と言った。
子儀(衛)(シギ)【公子】
衛の公子。公子の弟。〜B.C.630。
B.C.630晋文公は衛成公を暗殺しようとしたが失敗し、周襄王と魯釐公の執り成しにより衛成公は帰国した。
公子子儀は衛成公の賄賂に動かされた周歂冶廑によって、元咺と公子瑕と共に殺された。
子儀(楚)(シギ)
闘克
子儀(鄭)(シギ)
駟乞(シキツ)【文官】
鄭の臣。子西の子。
B.C.523子游が没した。その子駟糸は幼少であったため、家の年寄りたちは駟乞を立てた。のちに駟糸は自分が立てられなかったことを晋に話した。晋人がそのわけを尋ねたため、駟家の人々は恐れたが、子産はそれを許さなかった。
司宮(シキュウ)【武官】
魯の臣。
B.C.537春、豎牛仲壬を大庫の庭で攻め、司宮は仲壬の目を射て、これを殺した。
子牛(シギュウ)【文官】
斉の臣。泰士(裁判官)。晏子春秋に見える。
景公に訴訟に応じるなら子牛がいる、といわしめた。
史挙(シキョ)【在野】
下蔡の人。
甘茂に百家の学説を教える。
下蔡の門番であったといい、君につかえず、家をおさめず、下賤不廉をもって世に聞こえた。
史挙は苛酷な人柄であったといい、楚の范蜎が甘茂を秦に帰国させるのをやめさせたとき「甘茂はこんなにひどい先生(史挙)に学んだのに、従順に仕え、以後も従順です。つまり甘茂は賢明過ぎる人物である」と言ったほどであった。
子魚(シギョ)【将軍】
楚の将軍、公子。司馬。名は魴。〜B.C.525。
B.C.525冬、呉が楚を討った。陽匃は戦を亀卜で占うと不吉と出た。子魚は「わが楚は上流にいるからどうして不吉なことがありましょう」と言って呉軍と戦った。楚軍は長岸で呉軍と戦い、子魚は戦死したが、楚軍はこれに続いて戦って大いに呉軍を破った。
子蟜(鄭)(シキョウ)【将軍】
鄭の将軍、司馬。公孫蠆ともいう。公子の子。〜B.C.554。
B.C.565冬、楚の子嚢が鄭を討ち、蔡を侵した罪を責め正した。 子蟜は子孔子展とともに晋の援軍を待つべきだと主張したが子駟子国子耳は楚につこうとした。子駟が「楚につきましょう。もしうまくゆかなかったら、この騑が責任を取りましょう」と言ったので、 鄭簡公は楚についた。
B.C.564、11月10日、鄭簡公は晋と鄭の戯で同盟し、晋に降服した。このとき鄭の六卿である子蟜・子駟・子国・子孔・公孫輒・子展とその家来や嫡子が参加した。
閏12月、鄭は楚に攻められた。子駟が楚と和睦しようとしたので、子蟜は子孔とともにこれに反対したが、結局、鄭は楚と和睦した。
B.C.563、10月14日、尉止らが叛乱を起こして、子駟・子国・子耳を殺した。 子蟜は子産とともに尉止と子師僕を殺し、賊を皆殺しして叛乱を鎮圧した。
諸侯が攻め寄せてきたので鄭は晋と和睦した。
11月、楚が鄭の救援にやって来て、晋軍と対峙した。子蟜は「諸侯の連合軍はもはや帰り支度にかかっている。きっと戦わないであろう。 引き揚げたなら楚はきっとわが国を囲むであろうが、それでも諸侯は引き揚げるだろう。それならば楚につこう」と言った。 そこで鄭は夜に乗じて潁水を渡って楚と盟いを結び楚に服従した。
B.C.562子蟜は鄭簡公と共に楚に赴いた。
B.C.559夏、子蟜は晋・魯・斉・宋・衛・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾とともに秦を討った。しかし諸侯の軍は秦の涇水まで進んだが、 誰も渡ろうとしなかった。子蟜は衛の北宮括に会って「人に味方しておきながらしっかりやらないと、 ひどい憎しみを受けるでしょう。国家をどうなさるおつもりですか」と言った。北宮括は喜んで、子蟜とともに諸侯の軍の所に出かけて涇水を渡るよう勧めた。 そこで諸侯は涇水を渡って陣をしいた。
秦が涇水の上流に毒を流したので、諸侯の軍勢はたくさん死んだ。子蟜は鄭軍を率いて真っ先に進んだので、他の軍もそれに続いて進み、 秦の棫林まで進撃した。
B.C.558、11月9日、晋悼公が没した。子蟜は命ぜられて晋に出かけて会葬した。
B.C.557晋平公が諸侯と温で宴会を催した。このとき斉の高厚が無礼であったため、 子蟜は晋の荀偃、魯の叔孫豹、宋の向戌、衛の甯恵子、小邾の大夫と盟って斉を討つことを申し合わせた。
この会合の時、許の君が楚に叛いて都を晋に移したいと願い出たが、許の大夫がこれに反対したため、晋は許を討とうとした。子蟜はこれを聞き、許に対する恨みを晴らそうとして、鄭簡公を助けて諸侯の連合軍に参加した。
B.C.555、10月、子蟜は鄭簡公と共に斉討伐に従軍した。
この年、子蟜は引退した。
B.C.554、4月14日、没す。
6月、晋平公が周霊王に子蟜の追賜をお願いした。周霊王は大路(事)を賜って葬礼を行わせた。
子蟜(衛)(シキョウ)【公子】
衛の公子。〜B.C.559。
B.C.559子蟜は衛献公に命ぜられて、 子伯子皮とともに丘宮で孫文子と会合して仲直りをしようとしたが、 3人とも孫文子に殺された。
子彊(シキョウ)【武官】
楚の臣。
B.C.548秋、楚は舒鳩が叛いたので、これを討った。そこで呉が舒鳩を助けに来た。令尹屈建が急に右軍を率いて舒鳩に攻め入り、子彊・息桓子捷子駢子盂の左軍は呉軍と遭遇したため、退却した。子彊は「このまま長くこの状況が続くと、雨のために低い土地は狭くなって身動きが取れなくなるだろう。すぐに戦ったほうがよい。わたしが兵を率いて敵に誘いをかけるので、精兵を選んで様子を見ていてくれ。わたしが勝ったら進撃し、負けたら援助してくれ」と言ったので、みんなそれに従った。5人の将はまず呉軍を攻撃した。呉軍は逃げ、山に登って楚に援軍のないことを知ると、再び攻撃してきた。すると待ち構えていた精兵がこれに攻めかかり、呉軍に大勝した。楚軍は勢いに乗じて舒鳩を包囲して、これを潰滅させた。
8月、楚軍は舒鳩を滅ぼした。
子行(シギョウ)【公子】
衛の公子。〜B.C.559。
B.C.559孫文子が叛乱を起こしそうになったので、衛献公は衛の鄄に逃れ、 子行を孫文子に遣わして和議を申し入れた。しかし子行は孫文子に殺された。
子玉(シギョク)【将軍】
楚の将軍。令尹。姓は成、名は得臣。〜B.C.632。
B.C.640晋の公子重耳が楚に亡命してきた。楚成王が重耳に帰国できたら何をしてくれるか訪ねると、重耳は会戦したとき三舎退却すると答えた。子玉は「いまのことばは不遜です。無礼なので殺しましょう。晋に帰れば、楚をおどすことになりましょう」と言った。
成王「いかん。公子は礼を守り、3人の賢才が教導しているのは、天が幸いするものだ。天がまさに(晋を)興そうとしているのだ。誰がそれをとどめることが出来ようか。天に従わなければ必ず大きな咎めをうけるだろう」
子玉「それなら狐偃を人質にされますように」
成王「ならぬ。それでは礼に背くことになる」と言ってこれを退けた。
B.C.637秋、陳が宋と通じて楚に背こうとしたので、子玉はこれを討った。子玉は勢いに乗じて陳の焦と夷を攻め取り、頓に城壁を築いて引き揚げた。子玉はこの功により、子文に代って令尹となった。
B.C.635秦と晋が鄀を討ってこれを降し、闘克屈禦寇を捕虜にした。子玉は秦軍を追撃したが追いつけなかった。そこで子玉はそのまますぐに陳を包囲し、出奔していた頓の君を頓に帰らせた。
B.C.634魯の臧文仲襄仲が斉を討つために楚の援軍を求めてきた。子玉はこれを勧めて、楚は援軍を出すことになった。
子玉と子西とともに軍を率いて夔を滅ぼし、夔の君を連れて帰った。
冬、子玉と子西は軍を率いて宋を討って、緡を包囲した。
B.C.633楚成王は宋を討とうとして、子文に命じて睽で兵の演習をさせた。
子文は子玉に委任しようとしてわずか朝食前に終わり、ひとりも罰しなかった。一方、子玉は蔿で演習したが、一日かかって行い、7人を鞭打ち、3人の耳を矢で突き通して罰した。国老たちは子文に対して軍紀を厳しく行った子玉の有能なことをお祝いした。蔿賈は遅れて来たが、お祝いを言わなかった。子文がその理由を尋ねると、蔿賈は「何をお祝いするのでしょう。子玉が国外でしくじると、推挙したあなたの責任です。子玉は気が強く礼儀をわきまえず、民を治めることができません。300乗以上の軍を率いたら無事に帰ることはできないでしょう」と答えた。
B.C.632宋を包囲したが、晋文公(重耳)が宋を救うため、曹・衛を討った。成王は帰還しようとしたが、子玉は伯棼を使者として「しいて手柄を立てようとするわけではありませんが、わたしの悪口を言った人の口をふさいでやりたいのです」と言ったので、成王は怒って、少数の兵を子玉に与えて自身は帰国した。そのため西広の兵と東宮の軍と若敖氏の600人だけが子玉に従った。
子玉は宛春をつかわして曹と衛侯の位を復したら、宋を許そうと申し入れた。しかし晋はひそかに曹・衛と結び、宛春を捕えた。子玉は怒って晋軍を討った。
晋軍は三舎後退し、子玉はこれを追撃した。楚軍の多くは疲労のため追撃をやめようとしたが、子玉は承知しなかった。
4月3日、晋軍は宋・斉・秦とともに城濮に陣取った。楚軍は険阻な丘陵をうしろにして陣取った。
子玉は子上を使者として遣わして開戦を挑み「君のご家来と力くらべをいたしましょう。君にはゆっくりご覧あれ。得臣(わたし)も一緒に見物しましょう」と言った。晋文公は欒枝に応答させ「承知いたしました。楚君の恩恵は今も忘れておりません。こうして三舎退きましたが、お聞き入れされないのならば、お伝えください。つつしんで出陣されよ、明朝早くお目にかかりましょうと」と言わせた。
4月4日、晋軍は城濮に陣をしいた。晋の賈佗は下軍の佐として陳・蔡の軍にあたった。子玉は若敖氏の600人を率いて中軍の将となった。子西は左翼の将となり、子上は右翼の将となった。
賈佗は馬に虎の皮をかぶせて陳・蔡の軍を破り、楚の右翼が崩れた。晋の上軍の将狐毛はわざと退却するように見せかけて、下軍の将欒枝も柴をひきずって土ぼこりを立てて敗走するまねをした。楚軍は策にかかって追撃した。晋の先軫郤臻は中軍の兵を率いて側面から楚軍を攻撃し、狐毛・狐偃と子西の軍を挟み撃ちにした。かくて楚の左翼も破れ、楚軍は大敗した。
子玉は兵を掌握して動かさなかったので、破られなかった。
成王が使者を出して子玉に「申や息の老人たちに対してどうする考えか」と言った。子西と成大心が「得臣(子玉)は自殺しようとしたが、わたくしどもが止めて、大王の処刑を待つように言いました」と命乞いをした。子玉は楚の連穀までやって来たが、成王が許さなかったので、自殺した。
晋文公はこの知らせを聞いて大いに喜び「わたしを害する者がなくなった。蔿呂臣が令尹になるだろうが、彼は自分のことだけを考える男だ。民の事は考えまい」と言った。
子玉霄(シギョクショウ)【武官】
衛の臣。
B.C.522斉豹孟縶に恨みを持つ北宮喜褚師圃・公子とともに謀叛を起こした。
8月25日、しかし叛乱は鎮圧されたため子玉霄は褚師圃・公子朝・子高魴とともに晋に出奔した。
師祁犂(シキリ)【文官】
楚の臣。
B.C.549冬、舒鳩が呉にそそのかされて楚に叛いた。これを知った楚康王は師祁犂と沈尹寿に命じてなぜ叛いたかと責めさせた。
子禽(シキン)【文官】
周王朝の臣。〜B.C.673。
恵王蔿国の菜園を取り上げて王の庭園とし、辺伯の邸宅が王宮に近かったので、これを取り上げ、さらに子禽・祝跪詹父の田地を取り上げ、石速の秩禄をも取り上げた。
B.C.675蔿国・辺伯・子禽・祝跪・詹父・石速は乱を起こし、かねて王室を恨んでいた蘇氏を中心として団結した。
秋、子禽らは公子をかつぎ上げて恵王を攻めたが、恵王はこれを撃退した。勝つことができなかったので、子禽らは蘇氏の領地の温に出奔した。
そこで6人は衛と南燕の軍とともに周を攻め、恵王は温に逃げ、鄭の都櫟に移った。
冬、子禽ら6人は公子頽を擁立した。
B.C.673夏、鄭厲公虢叔林父が挙兵し、厲公は恵王と共に南門から都城に入り、虢叔林父は北門から入って頽を殺し、子禽も誅殺された。
史嚚(シギン)【文官】
虢の臣。太史。名は嚚。
B.C.662虢の莘に神が降りてきて、6ヶ月も留まった。
虢公は祝応宗區、史嚚に命じて神を祭らせた。
神は虢に土地を与えるというお告げを降した。史嚚は「虢は滅びるであろう。国が滅びようとするときには、神に祈って福を求めるという。しかし神は二心ないものであり、人の善悪に応じて禍福を降すもの。虢はよからぬことを多く行っているので、どうして土地を得ることができようか」と言った。
B.C.660虢公が夢で人の顔をして毛が白く、虎の爪をした神がまさかりを手にし西びさしに立つのを見た。虢公は恐ろしくなって走り出したが、神は「走ってはならぬ。天帝が命じて『晋国を汝の門に入らしめようぞ』と言った」と言ったことがあった。史嚚はこれを占って「それは蓐収で天の処刑の神です。天の禍福は官職によって啓示されます」と言った。
そのため虢公は史嚚を捕らえて、国民に命じて夢を祝賀させた。
史嚚(シギン)【文官】
斉の臣。
B.C.522斉景公の皮膚病が一年経っても治らなかったため、祭官である史嚚と祝固の責任にされそうになった。
司空季子(シクウキシ)
賈佗
司空臼季(シクウキュウキ)
賈佗
司空靖(シクウセイ)【武官】
晋の臣。〜B.C.552。
B.C.552晋平公欒盈を追放し、欒盈の一味である箕遺黄淵嘉父・司空靖・邴豫董叔邴師申書羊舌虎叔熊を殺した。
嗣君(シクン)【王】
衛君(1(39)代目)。平侯の子。〜B.C.293。
B.C.330爵号を下げて君と称し、濮陽だけを領有する。
士傒(シケイ)【公子】
秦の公子。孝文王の庶子。
公子士傒は王位継承権を持っていたが、呂不韋の策略で子楚が太子となったため、国を継ぐことができなかった。
士景伯(シケイハク)
士弥牟
師涓(シケン)【文官】
晋の楽師。
師涓が夜に濮水を過ぎたとき、水中から師延の作った長夜の楽が聞こえたので、写して国に帰り、晋平公のためにこれを奏した。すると師曠が「これは亡国の音である。桑間・濮上で得たのであろう。紂はこれによって滅びた」と言った。
士ケン(シケン)【文官】
秦の臣。
B.C.564秦景公の命で士ケンは楚に使いし、晋を討つ援軍を請うた。
秋、楚は軍を楚の武城に進めて秦軍を後援した。
師蠲(シケン)【文官】
鄭、晋の臣。楽師
B.C.562冬、晋悼公は鄭を征伐してこれを降した。鄭人は晋悼公に贈り物をして、 師蠲は師悝師触とともに晋に贈られた。
子元(楚)(シゲン)【宰相】
楚の宰相。令尹。名は善。字は子元。楚文王の弟。〜B.C.664。
B.C.666子元は息嬀を誘惑しようとして、息嬀の宮殿のそばに別邸を建てて舞をまわせた。息嬀はこれを聞いて泣きながら「なくなった君(文王)がこの舞をまわせたのは軍備を習わせるためでした。しかるに令尹は敵を討つために用いず、この後家(息嬀)のそばで用いるとはおかしなことではありませんか」と言った。
秋、子元は兵車600乗を率いて鄭を討ち、桔シツの門に攻め入った。
子元・闘御疆闘梧耿之不比は旗をおしたてて先陣となり、闘班王孫游王孫喜はしんがりとなった。楚軍は外城の純門に群がり攻め入り、市場まで攻め入ったが、内城の門は開け放たれ、鄭の兵卒は楚の言葉で話しあっていた。鄭の落ち着き払った様子を見て、子元は「鄭には人物がいる」と言って進撃しなかった。
そのうち斉、宋の援軍がやってきたので、楚軍は夜にまぎれて逃げ去った。
B.C.664子元は鄭から帰還すると、王宮に住んで息嬀をものにしようとした。闘班が諌めると、子元は怒って闘班を捕えて手かせの刑にした。
秋、子元は叛乱を起こし王宮を占拠したが、闘班に殺された。(子元の難)。
子元(鄭)(シゲン)【公子】
鄭の公子。
B.C.718鄭は衛を攻めた。衛は南燕の軍を率いてこれに対応した。祭仲原繁泄駕が鄭の三軍を率いて南燕軍の前方に陣し、公子曼伯と子元に命じてこっそりと制の軍を率いて南燕の背後に陣をとらせた。
南燕軍は鄭の三軍を恐れて、制の軍に気がつかなかった。
6月、子元は曼伯とともに南燕軍を北制で撃ち破った。
B.C.707周桓王が鄭荘公の政権を奪ったので、荘公は怒って周に参朝しなくなった。
秋、桓王は陳・蔡・虢・衛の兵を率いて鄭を討った。虢公林父は右軍の将となり、蔡・衛の軍はそれに付いた。桓公は左軍の将となり、陳の軍がそれに付いた。
子元は「陳は乱れて、その民は戦う心がありません。真っ先に陳の軍を攻め立てたら、逃走するでしょう。周王の軍はそれを見たら、きっと乱れるでしょう。そこを集中攻撃すれば、事は成功いたします」と進言したので、鄭荘公はそれに従った。
鄭荘公は曼伯に右軍を、祭仲に左軍を率いさせ、原繁と高渠弥に中軍を率いさせて自らを守らせ、魚麗の陣をつくり、兵車を前に歩兵を後ろにして、鄭の繻葛で戦った。
鄭の左右軍は連合軍の左右の軍を破り、桓王の軍も乱れた。そこで鄭軍は集中してこれを攻撃したので、桓王の軍は大敗した。(繻葛の戦い)
子狐(シコ)【公子】
鄭の公子。〜B.C.565。
B.C.565鄭の公子たちは釐公が殺されたので、子駟を討とうと相談していた。
4月12日、子駟は先手を討って子狐・子煕子侯子丁の4人の公子に罪を着せて殺した。 子狐の子孫撃孫悪は衛に逃れた。
子虎(シコ)【武官】
秦の臣。
B.C.505秦は楚を救援し、子虎と子蒲は兵車500台(37,500人)を率いて楚を助けた。子蒲は「われわれはまだ呉の戦術がわからない」と言って、 まず楚軍と呉軍を戦わせてから、稷から戦いに参加して、呉の夫概の軍を沂で大いに破った。
7月、子虎は楚の子期とともに呉に従った唐を滅ぼした。
秦軍は雍澨で呉軍を破って撤退させた。
子孔(シコウ)【宰相】
鄭の宰相、公子。司徒。名は嘉。母は宋子。〜B.C.554。
B.C.565冬、楚の子嚢が鄭を討ち、蔡を侵した罪を責め正した。 子孔・子蟜子展は晋の援軍を待つべきだと主張したが、 子駟子国子耳は楚につこうとした。 子駟が「楚につきましょう。もしうまくゆかなかったら、この騑が責任を取りましょう」と言ったので、鄭簡公は楚についた。
B.C.564、11月10日、鄭簡公は晋と鄭の戯で同盟し、晋に降服した。このとき鄭の六卿である子駟・子国・子孔・公孫輒・ 子蟜・子展とその家来や嫡子が参加した。 このとき鄭は「大国(晋と楚)が鄭に恵みを施さず、武力をもって服従を強要しており、鄭は神々の祭りを受けることができず、民も土地の利を楽しむことができない」 と盟いの文を読んだ。晋が反発したが、鄭はそのまま盟いを結んで引き揚げた。
晋が再び諸侯を率いて攻め入ってきた。
閏12月に連合軍は陰阪を渡って鄭に攻め入り、鄭の陰口で止まって引き揚げた。子孔は「攻撃する絶好の機会だ。晋は疲弊しており、 国に帰りたがっている。きっと勝てるだろう」と言ったが、子展はこれに反対した。
今度は、楚恭王に攻められた。子駟が楚と和睦しようとすると、子孔と子蟜が反対した。子駟と子展は 「われわれが晋に盟ったのは、晋が強い国であるからです。今、楚が攻めてきたのに、晋が助けにこないのは楚が強いということになります。 無理にしいられた盟いというものには実質はないものです」と言って、楚と和睦した。
B.C.563、10月14日、尉止らが叛乱を起こして、子駟と子国と子耳を殺した。子孔はこの乱を知って逃げていたので殺されなかった。
子産や子蟜が国人を率いて叛乱を鎮圧すると、子孔は子駟に代わって国政を執った。
(一説では、宰相の子駟が自立して国君になろうとしたため、子孔は子産と共にはかって、尉止に命じて子駟を殺し、みずから代わって宰相となったという)
子孔は盟いの書(載書)を作り、大夫や役人は官位の順序に応じた職務だけをさせ、直接朝廷の会議に参加できないようにした。 そのため大夫や役人たちはこれを不服として子孔を殺そうとした。子産はこれを止めて、子孔に盟いの書を焼き捨てるように願い出た。子孔は 「多くの者が怒るからといってこれをやめれば、多くの者が政治をやることになる。それでは国が治まりにくいではないか」と言った。子産は 「多くの君の怒りにはたてつくことができないし、自分ひとりで欲を独占することはできません。このふたつの方法で国を治めるのは危険です。 むしろ書を焼いて多くの人々の心を落ち着かせる方が上策です」と言った。そこで子孔は盟いの書を皆の目につくように倉門の外で焼いたので、 人々はやっと落ち着いた。
B.C.555子孔は大夫たちを除いて権勢を独占しようと考え、晋に叛いて楚軍を引き出して鄭を討たせて、その力で大夫を除こうとした。子孔はその考えを楚の令尹子庚に告げると、子庚は許さなかった。しかし楚康王がこの話を聞いて、協力するよう言ったので、子庚は軍を率いて汾に進んだ。
このとき、子蟜・良霄・子張らは鄭簡公とともに斉討伐に出かけており、子孔・子展・子西が留守を守っていた。子展と子西が子孔の陰謀を知って守備を十分に固くして城を守ったため、子孔は城を出て楚軍に加わることができなかった。楚軍は鄭を討って鄭の魚陵に軍をとどめ、右翼の軍は上棘に城壁を築き、やがて潁水を渡って旃然のほとりに軍を留めた。楚軍は、費滑・胥靡・献于・雍梁に次々と攻め入り、東に進んで梅山の麓をまわり、鄭の北東に攻め入り、虫牢まで進撃して引き揚げた。
B.C.554子孔がわがまま勝手に国政を行ったので、人々は心配した。そこで西宮の騒動(B.C.563)と純門の戦い(B.C.555)における事情を正したところ、子孔は有罪となった。子孔は生母の関係で、子然士子孔と仲がよかった。子然と士子孔が亡くなると、子孔はふたりの子の子革子良の家をしっかりと面倒を見たので、三家は一家同然であった。そのため子孔は家兵と子革・子良の家兵で家を守った。
8月12日、子展と子西が国人を率いてきたので子孔は殺されてその家財は奪われた。
子孔(シコウ)
成嘉
子貢(衛)(シコウ)【宰相】
衛の臣。姓は端木、名は賜。孔子の弟子。B.C.520〜B.C.456。
衛の人。孔門の十哲のひとり。
才知があり、弁舌に長じていたが孔子は常にその弁才を戒めおさえた。
子貢は孔子に「わたくしはどんな人間とお考えですか」と問うた。
「おまえは器(ひとかどの人物)である」
「どんな器でしょう」
「瑚(宗廟の祭りに用いる貴重な器)である」と答えた。
B.C.489呉が陳を討ち、楚は人をやって孔子を招いた。孔子が楚で登用されることを恐れた陳と蔡は、孔子を郊野で囲んだ。孔子は行くことができず、食糧に窮した。そこで子貢は楚にこのことを連絡して、救援軍が駆けつけたので、孔子は救われた。
呉王夫差が魯哀公を召して百牢の礼を要求した。季康子は子貢を使者として呉の太宰伯嚭を説得し、呉の要求を退けた。
B.C.485斉の田常が魯を討とうとした。子貢がこれを止めるよう申し出ると、孔子はすぐにこれを許した。子貢は斉に行き、魯を攻める不利と呉を攻める利を説いた。さらに呉を訪れて斉と戦う利を説き、さらに越に行き、呉を助ける利を説き、さらに晋へ行き、兵乱に備えるようにさせた。
はたして斉と呉は艾陵で戦い、呉は大いに斉を破り、魯は結果的に救われた。
B.C.480子服景伯の輔佐として斉に使いし、土地を返還させる。
子貢は孔子について学んだ後、衛に仕え、宰相となった。
あるとき子貢は原憲を訪ねた。原憲はくたびれた衣冠を整えて子貢に会った。子貢はこの姿を恥知らずとして「夫子はなんと病ではあるまいか」と言った。原憲は「わたしは『財産のない者を貧といい、道を学んで行えない者を病いという』と聞いております。わたしごときは、貧ではあるが、病いではありません」と答えた。
子貢は慙愧に絶えず、やりきれぬ気持ちで去り、生涯自分の失言を恥じた。
曹・魯の地方で物資を売り出したり、買い占めたりして貨殖した。
孔門七十子の徒のうち、子貢がもっとも裕福であり、子貢は四頭立ての馬車に駕し、騎馬をつらね、束帛の幣物を贈って諸侯と交際し、彼の行くところ庭に降り立って対等の礼をとらない諸侯はいなかった。
孔子の名が天下に宣揚されたのも、子貢が前後して助けたからである。
子貢は喜んで人の美点を称揚したが、人の過ちをかばうことはできなかった。
かつて魯および衛の宰相となったことがあり、家には千金の富を積んだ。斉で生涯を終わった。
子貢(晋)(シコウ)【文官】
晋の臣。行人。
B.C.565冬、楚が鄭を討った。鄭は王子伯駢を使者として晋に遣わして、しかたなく楚についたことを報告した。 晋の中軍の将智罃は子貢に答えさせて「貴国の君はわが君に報告することなく楚と仲良くされました。 それは貴国の君の望んでいることでしょう。わが君は諸侯を率いて貴国の城下でお目にかかるでしょう」と言った。
子行(シコウ)
田逆
子羔(シコウ)【文官】
衛の臣。孔子の弟子。姓は高、名は柴、字は子羔。
身長五尺に満たなかった。
業を孔子に受けたが、孔子は彼を愚物とした。
仲由が子羔を郈の邑宰としたので孔子は「郈の邑民をそこなうだろう」と言って、それを批難した。
B.C.479蒯聵が乱を起こし、自ら立とうとした。子羔が孔氏の邸を出てくる時に仲由に出会った。子羔は「門はすでに閉じられました」と言うと、子路は「とにかく門まで行ってみます」と答えた。「もう間に合いません。禍に遇いに行くにはあたらないでしょう」と言ったが、子路は「禄を食んでいるからには、禍を避けようとは思いません」と言い、門に入ろうとした。子羔はそのまま立ち去った。
孔子は衛の乱を聞いて「ああ、柴(子羔)なら逃げてこようが、由(子路)は死ぬだろう」と嘆いたという。
子公(シコウ)【武官】
鄭の臣。
B.C.605春、楚から大きいすっぽんが献上された。卿の子家と子公が霊公に朝見しようとしたとき、子公は自分の食指(人差し指)がひとりでに動くのを見て、子家に「先日もこの指が動いたら、まちがいなく珍味にめぐりあいました」と言った。
参内して霊公に謁見すると、大すっぽんの羹が進められた。子公が笑って「はたしてそのとおりでした」と言った。霊公がどうして笑うのかと問うたので、子公がつぶさにそのわけを告げた。そこで霊公は大夫たちを招いて羹を食べさせたが、ひとり子公には食べさせなかった。
子公は怒って、その指をすっぽんの鼎の中にひたし、それをなめて退出した。霊公は怒って子公を殺そうとした。
6月28日、子公は子家とともに先手を打って霊公を弑した。
子侯(シコウ)【公子】
鄭の公子。〜B.C.565。
B.C.565鄭の公子たちは鄭釐公が殺されたので、子駟を討とうと相談していた。
4月12日、子駟は先手を討って子狐子煕・子侯・子丁の4人の公子に罪を着せて殺した。
子庚(シコウ)【宰相】
楚の宰相、公子。司馬、令尹。名は午。〜B.C.552。
B.C.561冬、楚恭王が秦景公の妹秦嬴を娶った。 そこで子庚は秦に遣いして夫人の代理として帰寧の礼を行った。
B.C.560、9月、呉が攻め寄せてきた。養由基が防御し、子庚は軍を率いて後に続いた。 養由基は子庚に「呉はこちらの喪につけこんだということは、こちらが戦うことができないと思っているからだ。きっとこちらを侮っていよう。 あなたは三箇所に伏兵を設けてください。わたしは狄をおびき寄せよう」と言った。はたして呉軍は庸浦で大敗し、 楚は公子を捕えた。
B.C.559子嚢が没した。臨終の時に子嚢は子庚に必ず郢に城壁を作って守りを固めよと遺言した。
B.C.558子庚は令尹に任じられた。
B.C.555鄭の子孔が大夫たちを除いて権勢を独占しようと考え、晋に叛いて楚軍を引き出して鄭を討たせて、その力で大夫を除こうとした。子孔がその考えを子庚に告げたが、子庚はこれを許さなかった。しかし楚康王がこの話を聞いて、に命じて子庚に「わが楚はわたしが国君となってから中原に軍を進めて武勲を立てていない。死んだらきっと立派な葬式を受けられないであろう。人々はわたしがみずから安逸をむさぼって父君の業を忘れていると思っているであろう。ひとつ考えてくれ」と言わせた。子庚は嘆息して「わが君はわたしが安楽をむさぼっているとお考えなのか。わたしは国のためになることをしようとしているのです」と言って、宣に会って「天下の諸侯は晋と親しい。もしも鄭を攻めるのがよいとしたら、わが君はわたしのあとに続いて攻められよ。もしいけなかったら軍をおさめて帰りましょう。そうすれば何の損害もなく、わが君も敗戦の汚名を受けることもないでしょう」と言った。子庚は鄭を攻めたが、子孔の陰謀が知られて子孔が城を出て楚軍に加わることができなかったので、楚軍は鄭を討って鄭の魚陵に軍をとどめ、右翼の軍は上棘に城壁を築き、やがて潁水を渡って旃然のほとりに軍を留めた。楚軍は、費滑・胥靡・献于・雍梁に次々と攻め入り、東に進んで梅山の麓をまわり、鄭の北東に攻め入り、虫牢まで進撃して引き揚げた。魚歯山の麓の滍水を渡ったときに豪雨にあい、楚軍は凍え者が多く、人夫たちはほとんど全滅した。
B.C.552夏、子庚は没した。
之侯(シコウ)【王】
越王。名は捜。の子。無顓ともいう。
越では三代にわたって君主が暗殺された。王子捜は悩んで逃亡して穴の中に身を隠した。越人は王子捜を探し出し、穴の入口でよもぎを焼いていぶり出し、むりやり連れて帰ろうとした。王子捜は天を仰いで「君主なんて。どうしてわたしを捨て置いてくれないのか」と叫んだ。
結局、捜は即位した。
師曠(シコウ)【文官】
晋の臣。楽師。名は曠、字は子野。
B.C.559、4月、衛献公が亡命した。師曠が晋悼公にはべったとき、晋悼公は言った。
悼公「衛人がその君を追放したのは、あまりにもひどいことではないか」
師曠「君の方がもっとひどいのかもしれません。君が立派であれば、どうして追い出されましょう」
師曠は晋平公に仕え、また政治顧問でもあった。
B.C.555晋は諸侯と共に斉を討った。
10月30日、斉軍は夜に乗じて逃げ帰った。師曠は晋平公に「小鳥や鳥の鳴き声が楽しそうです。斉軍はきっと逃げ去ったのでしょう」と言った。
斉討伐の最中に、楚が鄭に攻め入った。師曠は「恐れることはない。わたしは北の歌と南の歌を歌ってみたが、南の歌には活気がなく、悲しい音調が多い。楚はきっと失敗するであろう」と言った。すると叔向が「戦の勝敗はそんなことより国君自身の徳によるものだ」と言った。
B.C.547秦景公が弟のを使節として和平交渉によこしたとき、叔向は接待役の子員を呼ぶように命じたが、別の接待役の子朱が自分の番であると言って争ったので、人々が中に入って静めた。晋平公はこれを聞いて「晋は盛んになるであろうか。臣下の争う所は重大である」と言うと、師曠は「公室はおそらく衰微するでしょう。臣下が徳を競争せずに、力で競争してます」と言った。
平公は新しい音楽を好んだ。師曠は「公室は衰微しましょう。音楽は山河の風を開通して君徳を高遠に輝かすものです。君徳が高遠で時にかない節制があるから、遠い者も帰服し、近い者は他国へ流れていきません」と言った。
晋の楽師師涓が夜に濮水を過ぎたとき、水中から師延の作った長夜の楽が聞こえたので、写して国に帰り、晋平公のためにこれを奏した。すると師曠が「これは亡国の音である。桑間・濮上で得たのであろう。紂はこれによって滅びた」と言った。
『禽経』という著書があったという(今本『禽経』の一巻は南宋末の偽作といわれる)。
B.C.534春、魏楡の石がものを言った。晋平公は師曠に「石はなぜものを言ったのか」と問うた。師曠は「事を行うのに時節にかなっていなければ、ものを言うべきでない物がものを言うことがあるといいます」と答えた。このころ晋平公は虒キの宮殿を建築中であった。叔向は「子野はまことに君子である。虒キの宮殿が完成したら諸侯は晋に背き、わが君はきっと禍を受けるであろう。子野はそれを知っている」と言った。
B.C.533、6月、智盈が没したが、晋平公はまだ葬らないでいるうちに酒を飲み音楽を催した。膳宰屠蒯は師曠に酒を飲ませて「お前はわが君の耳というべき者で、わが君に代わって聞くことを掌る者である。わが君は手足という宰相を欠いたのに、お前は音楽を奏した。これでは耳さとく聞くことを掌らぬということだ」と諌めた。
史狡(シコウ)【文官】
周王朝の臣。〜B.C.563。
B.C.563王叔陳生伯輿が政権を争った。王叔陳生が都を出たので、 周霊王は罪を史狡になすりつけてこれを殺して弁解した。
史狗(シコウ)【文官】
衛の臣。
B.C.544呉の季札が衛を聘問し、遽伯玉・史狗・史鰌・公子公叔発・公子に会い、その人物に感服して「衛には君子が多い。まだ心配はない」と言った。
史苟(シコウ)【文官】
衛の臣。史朝の子。
父の史朝が夢に康叔封を見て「史苟と孔圉に公子をたすけさせよう」と言われたため、公子元を立てた。
子工(シコウ)【公子】
斉の公子。名は鑄。子公ともいう。斉頃公の子。
B.C.534、8月15日、欒子旗高子尾の家を整理するため、高子尾の一味である子成、子工、子車を追放した。
B.C.532子工は田無宇に呼び戻されて、禄を増やされた。
摯荒(シコウ)【武官】
周王朝の臣。〜B.C.520。
B.C.520王子らは周悼王を単穆公から奪った。そして王子環は単穆公を都に呼び戻して殺そうとし、周悼王を奪ったことを摯荒のせいにしてこれを殺した。
史皇(シコウ)【武官】
楚の臣。〜B.C.506。
B.C.506冬、呉・蔡・唐が楚に侵入した。沈尹戌子常に「あなたは漢水により添って敵兵が渡るのを防がれよ。 わたしは方城の外まわりにいる人々を全部率いて淮水にいる敵の船をたたき壊し、引き返して大隧・直轅・冥阨の隘路をふさぎましょう。あなたが漢水を渡って攻撃し、 わたしが背後から攻撃すれば大いに敵を破ることができましょう」と言った。しかし武城の大夫は子常に「楚の車は革を用いており、 水のしめりには長く耐えられません。すぐに戦うべきです」と言い、また史皇が「楚人はあなたを憎んで司馬(沈尹戌)を好いております。彼の言う通りだと、 司馬が一人勝ちになります。すぐに戦いましょう」と言ったため、子常はすぐに漢水を渡って敵を攻撃したが、三度戦って三度敗れた。 そこで子常はともて勝てないと思って逃げようとした。すると史皇は「安らかな時には政治を執り、難儀の時には逃げるということでは、いったいどこへ落ち着こうとされるのですか。 あなたはここで死になさい。そうすればあなたの罪は全部消えましょう」と言った。子常は鄭に出奔したため史皇は子常になりすまし、子常の兵車舞台を率いて戦ったが戦死した。
子行敬子(シコウケイシ)【文官】
衛の臣。
B.C.506、3月、晋・魯・宋・衛・陳・鄭・許・曹・莒・邾・頓・胡・滕・杞・小邾が楚の召陵で会合して楚を討つ相談をした。出発しようとしたとき、 子行敬子は衛霊公に「今度の会合は難しいです。ぜひとも祝佗をお連れ下さい」と進言すると、 衛霊公は「よろしい」と言ってこれを連れて行った。
施孝叔(シコウシュク)【武官】
魯の臣。
あるとき施孝叔は匡句須を家宰に任じたが、匡句須はその町を鮑国に譲った。施孝叔が匡句須に「君が吉なのだ」と言うと、匡句須は「忠良な人物に与えることができれば、それにまさる吉はございません」と答えた。鮑国は施孝叔を忠実に助けた。
施孝叔は公孫嬰の義理の妹(異父同母)を娶った。
B.C.580、3月、晋の郤犨が魯を聘問してきて、公孫嬰の身内から妻を迎えたいと求めた。そこで公孫嬰は施孝叔の妻をさしだそうとした。妻は「鳥や獣でさえもつれあいを守るものです」と行くことに反対したが、施孝叔は「わたしは死ぬわけにはいかないのだ」と言って妻を郤犨に嫁がせた。
B.C.574郤氏の家が滅びたので、妻は施孝叔のもとに帰された。施孝叔は黄河まで出迎えに行ったが腹立ち紛れに妻と郤犨とのふたりの子を黄河に沈めた。妻は立腹して「あなたは自分の妻をかばうことができなくて、今は他人の子をいつくしむことができないので殺してしまう。どうしてあなたと一緒におれましょう」と言って、施孝叔との縁を切った。
始皇帝(シコウテイ)
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司寇布(シコウフ)
子高魴(シコウホウ)【武官】
衛の臣。
B.C.522斉豹孟縶に恨みを持つ北宮喜褚師圃・公子とともに謀叛を起こした。
8月25日、しかし叛乱は鎮圧されたため子高魴は子玉霄・褚師圃・公子朝とともに晋に出奔した。
士縠(シコク)【宰相】
晋の宰相。司空。〜B.C.618。
B.C.625、6月、士縠は諸侯と鄭の垂隴で会盟し、晋が衛を討つための相談をした。
B.C.621夷の蒐のとき、晋襄公は士縠を昇進させようとしたが、先克が「狐偃趙衰の功績を忘れてはなりません」と諌めたので、襄公はとりやめた。
B.C.619士縠は、先克に不平を持つ先都・箕鄭梁益耳蒯得らとともに乱を起こした。
B.C.618、1月、士縠らは賊を放って先克を殺した。
3月29日、士縠は晋人に殺された。
子国(シコク)【公子】
鄭の公子。繆公の子。名は発。〜B.C.563。
B.C.586許霊公が鄭がしきりに許を討つということで鄭を楚に訴えた。
6月、鄭悼公も楚に出かけて霊公を訴えたが、悼公は裁判に負けた。そのため子国は皇戌とともに楚に捕らえられた。
B.C.568子国は魯に赴いて、鄭釐公の即位の挨拶をした。
B.C.565、4月22日、子国と子耳は晋の機嫌を取るために蔡を討って司馬公子を捕えた。
鄭人はみなよろこんだが、子の子産だけは喜ばずに「小国が文徳もないのに武功を立てることほど大きな禍はありません。 楚が鄭の罪を責め正したら、鄭は楚に従わないわけにはゆきません。そうすると晋が攻めて来るでしょう。 楚と晋に攻められたら鄭は今後4、5年経たなければ安らかになれないでしょう」と言った。子国はこれを聞くと立腹して「お前になにがわかる。 国で戦をせよという大命が出たから正卿(子駟)が戦をしたのだ。童子がそのようなことを言うと殺されるぞ」と言った。
冬、楚の子嚢が鄭を討ち、蔡を侵した罪を責め正した。子駟・子国・子耳は楚につこうとしたが、 子孔子蟜子展は晋の援軍を待つべきだと主張した。 子駟が「楚につきましょう。もしうまくゆかなかったら、この騑が責任を取りましょう」と言ったので、鄭簡公は楚についた。
B.C.564鄭は諸侯に攻められた。
11月10日、簡公は晋と鄭の戯で同盟し、晋に降服した。このとき鄭の六卿である子駟・子国・子孔・公孫輒・ 子蟜・子展とその家来や嫡子が参加した。
B.C.563、10月14日、堵女父司臣尉止尉翩司斉子師僕侯晋らが叛徒を率いて公宮に攻め入り、子国は子駟・子耳とともに殺された。
子齹(シサ)【文官】
鄭の臣。嬰斉ともいう。子皮の子。
B.C.526、3月、晋の韓宣子が鄭を聘問した。子齹は野有蔓草の詩を歌って、韓宣子にお会いできてうれしいという意を寓した。
子産(シサン)【宰相】
鄭の宰相。氏は公孫、名は僑、字は子産または子美。子国の子。公孫成子、子美ともいう。〜B.C.522。
B.C.565、4月22日、父の子国が晋の機嫌を取るために蔡を討って司馬公子を捕えた。鄭人はみなよろこんだが、子産だけは喜ばずに 「小国が文徳もないのに武功を立てることほど大きな禍はありません。楚が鄭の罪を責め正したら、鄭は楚に従わないわけにはゆきません。 そうすると晋が攻めて来るでしょう。楚と晋に攻められたら鄭は今後4、5年経たなければ安らかになれないでしょう」と言った。子国はこれを聞くと立腹して 「お前になにがわかる。国で戦をせよという大命が出たから正卿(子駟)が戦をしたのだ。童子がそのようなことを言うと殺されるぞ」と言った。
B.C.563、10月14日、尉止らが叛乱を起こして、子国と子駟と子耳を殺した。子産はこれを聞くや門の守りを固めさせ、 役人たちを集めそろえ、倉庫を閉めさせ、財貨をしっかりと閉蔵させ、守備を十分に設け、隊列を作って家を出た。 子産は兵車17台を率いて父をなきがらを見舞ってから北宮にたてこもっている賊を攻めた。 子産は子蟜とともに尉止と子師僕を殺し、賊を皆殺しして叛乱を鎮圧した。 子孔は子駟に代わって国政を執った。子孔は盟いの書(載書)を作り、 大夫や役人は官位の順序に応じた職務だけをさせ、直接朝廷の会議に参加できないようにした。そのため大夫や役人たちはこれを不服として子孔を殺そうとした。 子産はこれを止めて、子孔に盟いの書を焼き捨てるように願い出た。子孔は「多くの者が怒るからといってこれをやめれば、多くの者が政治をやることになる。 それでは国が治まりにくいではないか」と言った。子産は「多くの君の怒りにはたてつくことができないし、自分ひとりで欲を独占することはできません。 このふたつの方法で国を治めるのは危険です。むしろ書を焼いて多くの人々の心を落ち着かせる方が上策です」と言った。 そこで子孔は盟いの書を皆の目につくように倉門の外で焼いたので、人々はやっと落ち着いた。
(一説では、子孔は子駟を殺して代わって宰相となり、また自ら位に即こうとしたともいう)
B.C.554子孔がわがまま勝手に国政を行ったので、人々は子孔を裁いて有罪とし、子展子西は国人を率いて子孔を殺した。鄭人は簡公が弱かったので子展を摂政として君事を代行させ、子西を宰相として国政を執らせた。子産は卿に任命された。
B.C.551晋平公が鄭に対して来朝せよと要求した。そこで子産は晋に遣わされて弁明した。子産は「わが君は事あるごとにお伺いをして参りました。もしもわが国の難儀をお救いくださらず、口先だけでお助けくださらないなら、むしろご命令には従わずに、滅ぼされて仇敵の間柄となるかも知れません」と返答した。
B.C.549晋の范匃が晋の政治を行うと、諸侯に多く品物を求めた。
2月、鄭簡公が晋に出かけると、子産は簡公に随行する子西に書面を依頼して、范匃を諌め「もしも諸侯の財貨が晋に集まれば、四方の諸侯は晋から離れるでしょう。そしてもしあなた自身がその財貨を自分の家に集めるとしたら、晋はあなたから離れるでしょう。わたしは国家の長として民を治める者は、財貨の乏しいことを気にかけないで、立派な名声のあがらないことを憂えるものだと聞いています。それに反して、あなたが我々の財物をさらい取って生きている、などといわせてよいものでしょうか」と言った。范匃はこれを聞いて大いに喜び、諸侯に求める幣物を軽くするようになった。
この年、鄭簡公から六邑を与えられたが、辞退して三邑だけを受けた。
子産が宰相となって一年経つと、幼い童らもいたずらをせず、老人は重い物を持たず、未成年者は田を耕さなくてもよいようになった。
二年経つと、市場では掛け値がなくなり、三年たつと、夜も門を閉ざさず、道で落し物を拾う人がなくなり、四年たつと、農具を家に持ち帰ることがなくなり、五年たつと、士には尺籍(軍令を記すもの)がなくなり、服喪の期限は命令しないでも実行されるようになった。
B.C.548、6月24日、子産は子展とともに兵車700台を率いて陳を討ち、陳都を陥落させた。子展が陳の公宮に入ってはいけないと鄭軍に命じ、子産は一緒になってみずから軍を宮門のところで止めた。子産は朝廷に入って捕虜を数えただけで退出した。鄭は陳の司徒に人民を返して治めさせ、司馬に兵符を返して軍事を司らせ、司空に土地の台帳を返して、陳を元通りに治めさせて軍を引き揚げた。
子産は陳の捕虜を晋に献じた。晋人が「なぜ小国に攻め入ったのか」と詰問すると、子産は「先王の定められたおきてに、ただ罪のある者に誅罰を加えよとあります。それに今や六国はかつての天子の地よりも広大になっており、これは小国を侵略しなければどうしてこのように広大になれたのでしょうか」と答えた。これを聞いた士弱はそれ以上詰問することができなくなり、趙武に報告した。趙武は「子産の言葉は道理にかなっている」と言って、その捕虜を受け取った。
B.C.547、3月1日、簡公は陳に攻め入った軍功を賞し、子産には次路(車)と再命の服を与え、続いて6邑を贈ったが、子産は辞退したので、3邑のみ贈った。
5月、秦と楚が攻め入ってきて、印菫父が捕らえられた。鄭人は財貨を贈って身柄をもらい受けようとし、時に子大叔が辞令を作成したが、子産はその口上を見て「これでは菫父をもらい受けることはできないであろう。秦の君が鄭のためにお骨折りになったことを感謝いたしますという方がよかろう」と言ったが、これに従わずに出かけた。はたして秦人は印菫父を渡さなかった。そこで子産の言葉どおりにすると秦人はこれを引渡した。
10月、楚が攻めて来た。子産は「楚王はただ許に対する義理のためにやってきたのだ。思うようにやらせて帰した方がよい。かえって和睦しやすいことになる」と進言したため、子展はこれに従った。
B.C.546冬、鄭簡公が会合から帰国する晋の趙武を垂隴でもてなした。子産は隰桑の詩を歌い、趙武が柔軟の徳をもって手ごわい諸侯をなつけ従えた功をたたえる意を寓した。趙武は子産が自分を教え正してくれることを望んだ。
呉の季札に会い、あたかも旧友のように親しんだ。季札は「鄭の為政者は奢っており、いまにも禍がおこりそうです。政治があなたの手に移ってきましょう。もし政治をなさるなら、かならず礼をもってなされますように」と言った。子産は季札を手厚く待遇した。
B.C.545夏、蔡景侯は晋からの帰途、鄭に立ち寄った。鄭簡公はこれをもてなしたが、蔡景侯は不作法であった。子産は「蔡侯はきっと禍から逃れられまい。晋に行くときもおごり高ぶっており、帰るときには改めているだろうと思ったが、今も不作法である」と言った。
11月、子産は鄭簡公の介添えとなって楚に出かけた。子産は楚の郊外に着くと、土を盛り上げて壇を作らず、草ぶきの小屋を作っただけであった。役人がこれを諌めると、子産は「小国が大国に出かけるときは、ただ宿泊しさえすればよいのです。小国が大国に出かけるときは、よくない報告で行くものです。ですから壇を作ってそれを明らかにする必要はないのです」と言った。
公子たちが寵愛を争って殺しあおうとしていた。しかしある者が「子産は仁人である。鄭が存続しているのも、子産の徳によるものだから、殺してはならない」と言ったので子産は助かった。
B.C.544呉の季札が鄭を聘問して子産に会い、昔からの知り合いのように意気投合した。季札は「鄭の執政(良霄)はおごり高ぶっている。政権はきっとあなたのものになるでしょう。そうなれば礼儀を守って政治を慎むがよろしい」と言った。
B.C.543子産は鄭簡公を助けて晋に出かけた。晋の叔向が鄭の政情を尋ねたので、子産は「伯有はおごりたかぶっており、子皙(公孫黒)は人にへりくだることができません。騒動が起こるのは、ほど遠くないことでしょう」と言った。
6月、子産は陳に出かけて盟いを結んだ。帰国すると子産は「陳はやがて滅びる国だ。仲良くしてはいけない」と言った。
7月13日、公孫黒が駟氏の兵を率いて伯有氏を攻め、良霄は許に亡命した。ある人が公孫黒に味方するよう言ったが、子産は「あの人がどうしてわたしの味方でしょうか。国の災難はどのように治まるかは、誰にもわからないものだ。真実に強くて正しいことを第一として心がけましょう」と答えた。
7月14日、子産は伯有氏の死者のなきがらを棺に納めて仮に葬り、大夫たちの謀議には参加せずに国を立ち去った。子皮が「あの方は死者に対して礼をつくしている。ましてや生きているわれわれに対してはなおさらのことだ」と言ってみずから子産をひきとめた。
7月15日、かくて子産は都に戻った。
7月16日、子産は同行した印段とともに公孫黒の家で盟いを結んだ。
7月26日、良霄は早朝に墓門の水門から都に入り、羽頡を頼って鄭襄公のつくった武器庫に入って武装し、旧北門を攻めた。駟帯が国人を率いてこれと戦った。両軍とも子産を呼んで味方につけようとしたが、子産は「兄弟の仲でありながらこんなことになった。わたしは天の加担する方につきましょう」と言った。やがて良霄が戦死すると、子産はその屍に着物を着せ、自分の膝に枕をさせて哭泣して納棺した。駟氏の者が子産を攻めようとすると、子皮が怒って「礼は国の幹である。礼をわきまえた人を殺すとは、これ以上の禍はない」と言ってこれを止めた。
子皮が子産に政権を譲ろうとした。子産は「国は小さくて大国に圧迫され、公族が大きく君のお気に入りが多いことから治めることはできません」と言って辞退したが、子皮は「このわたしが人々を率いてあなたに従えば、だれが逆らいましょうか。あなたが上手に治めてくれれば、小国とは言われますまい」と言ったため、子産は鄭の政治を行うことになった。
子産は公孫段にやってもらわなければならないことがおこったので、采邑を与えてやらせた。子大叔が「どうして伯石(公孫段)だけに邑を与えるのですか」と諌めたが、子産は「だれもが欲を求めて国の仕事を行う。邑を与えたところで、それは国の邑ではありませんか」と言った。公孫段は心配して邑を返上したが、結局は与えた。
公孫段は良霄に代わって卿に任じられた。子産はその人がらを嫌ったが、事を起こされることを心配して、自分の次の地位を与えて優遇した。
子産は国都と地方における車服類の区別を明らかにし、卿大夫の身分の上下による服務の規定を明確にし、耕地には畦や溝を作って境界をはっきりさせ、農家には組合をつくらせて相互に扶助させた。また身分の高い人たちの中で、職務に忠実で倹約な者に対しては、その功績を認めて賞を与え、驕慢奢侈の者には、その罪を咎めて滅ぼした。
公孫段の一族である豊巻が先祖の祭りのため狩を願い出たが、子産は「ただ君の祭にだけ新鮮な肉を用い、その他の者はありあわせの物でよい」と言った。豊巻は怒って兵を集めて子産を攻めようとしたため、子産は晋に亡命しようとした。子皮が子産をひき止め、豊巻を追い払ったため、豊巻は晋に亡命した。
B.C.542、6月、子産は鄭簡公を助けて晋に出かけたが、魯襄公の喪中ということで面会できなかった。そこで子産は旅館の堀を壊して車馬を入れさせた。晋の士文伯がその無礼を責めると、子産は「持参した品を納められず風雨にさらしてもおけないのでおとがめを重ねた次第です。お役人にはどのようなご命令を下さるのでしょうか」と答えた。晋の趙武は「子産の言うとおりだ。堀の中に諸侯をお入れしたのは、わたしの過ちでした」と言って、士文伯を遣わして不行き届をお詫びした。
子産は有能な人物を選んで用いた。馮簡子、子大叔、子羽、裨らであった。子産が政治を行うこと1年で、民は「われわれの服や冠を使わせないで、田畑をとりあげて組合を作らせた。誰かが子産を殺そうとするなら、われわれが手助けをしよう」と歌いあった。
鄭の人々が村里の学校に集まって政治の得失を批判していた。鄭の大夫鬷蔑は子産に「村里の学校を廃止したらどうでしょう」と言った。子産は「どうして廃止したりしようか。私は人々が批判する中で、人々が善いと言う事を行ない、悪いと言うことを改めるようにしています。人々の批判を止めさせるのは、川を防ぐようなものです。堤防が決壊するとその害は甚大です。ですから人々の批判を聞いて、それを薬として政治の参考にすべきです」と答えた。鬷蔑は「私は今はじめて、あなたが本当におつかえすべき立派な人物であることがわかりました。私は実につまらない人間でした」と反省した。
子皮は子産を誠実な人と考えて、政治を委任した。子産はこうしたうしろだてがあったので鄭をうまく治めたのである。
B.C.541春、楚の公子公孫段の娘を妻に迎えるとき、部下を率いていたため、子産は鄭を襲うと心配して子羽に命じて、これを城外で行わせようとした。公子囲が武器をしまうと約束したため、鄭人は申し出を聴き入れた。
徐吾犯の妹をめぐって公孫黒と子南が争い、子南が公孫黒を戈で斬りつけて負傷させた。子産は「どちらの言い分も正しい場合には年下で身分の低い方に罰があるとするものです」と言って、子南に亡命を勧めた。
6月11日、子南の騒動のため、子産は鄭簡公と大夫とともに公孫段の家で盟いを結んで和合を図り、子産・子皮・公孫段・印段・子大叔・駟帯は盟いを結んだが、公孫黒が無理に押しかけてこの盟いに参加した。子産は騒ぎを恐れてこれを処罰しなかった。
晋平公が病気になったため、子産は命により晋を聘問して病気見舞いをした。
B.C.540秋、公孫黒が謀叛を起こそうとした。このとき子産は田舎に出かけていたが、これを聞いて間に合わなかったら一大事とばかりに駅つぎの早馬に乗って都に帰り、役人に命じて公孫黒を責めて自決を促した。そこで公孫黒は自決した。
子産が政治を行うこと3年たつと、民は「われわれの子弟は、子産が教育してくださった。われわれの田畑は子産が増やしてくださった。子産が死んだりしたら、誰がその後を継げるだろうか」と讃えるようになった。
子産は豊巻を呼び戻して、土地と収入とを返してやった。
B.C.539、10月、子産は鄭簡公とともに楚を聘問した。楚霊王と鄭簡公が一緒に狩をしたとき、子産はその準備をした。
B.C.538、1月、鄭簡公は楚に赴いた。そこで楚霊王は子産は諸侯と会合しようとして「晋はわたしが諸侯を集めることを許すであろうか」と尋ねた。子産は「許すでしょう。晋は諸侯を統御しようとしておらず、大夫たちも主君の誤ちを正そうとしておりません。それに宋の盟いで両国は和睦することを決めております」と答えた。さらに楚霊王は「諸侯は集まるだろうか」と尋ねると、子産は「きっと集まるでしょう。宋の盟いに従うことになり、君の歓心を受けに来ることになり、大国(晋)から責められもしません」と答えた。はたしてその通りとなった。
6月17日、諸侯は申で会合した。楚霊王は会盟の礼を宋の向戌と子産に尋ねた。子産は小国が大国の君と会合する6つの礼を進言した。君子は「合左師(向戌)はりっぱに宋の先代の礼を守り、子産はりっぱに鄭の小国を助けた」と批評した。
楚霊王のおごり高ぶった態度を見て、子産は向戌に「楚君はおごり高ぶって諌めに従いません。十年ともたないでしょう」と言った。
秋、子産は、丘賦を変更し、一丘十六井ごとに丘賦を出させて城外田野の民に対して軍役負担と軍費徴収を始めて不均衡を無くした。国人はこれを非難したが、子産は「どうして害があろう。国にとって利益になるなら死生を顧みずにやりましょう。民をその望むままにさせてはならない。わたしは決して改めません」と言った。
B.C.537晋平公が楚に公女を送るために邢丘まで出向いていた。子産は鄭簡公とともに邢丘に出向いて会合した。
B.C.536、3月、子産は刑法の文を鼎に彫りつけ、国の常法として国民に示した(中国史上初の成文法)。晋の叔向が書面を送って「わたしはあなたに期待していましたが、今はやめました。先王は一定の刑法を制定しなかった。民は条文が定められていることを知ると、上を恐れなくなり犯罪をのがれようとする。わたしは国が滅びようとするときはきまって法律などの定めが多くなるということを聞いているが、それは鄭のことであろうか」と批判したが、子産は「あなたのおっしゃるとおりです。私は不才ですので子孫にいいようにはしてやれません。ただ私は今の世を救おうとしているのです。ただご忠告を頂いた大恩は忘れません」と返事をした。
夏、楚の公子棄疾が鄭に立ち寄ったため、子産は子皮・子大叔とともに柤でこれを慰労した。
B.C.535、2月、子産は公孫洩を子孔の後継ぎに、良止を良霄の後継ぎに立てて良霄の霊をなだめると、良霄のたたりがやんだ。子大叔は「たたりをしない子孔の後継ぎまで立てたのはどうしてですか」と問うと「良霄は不義であるのに彼だけ後継ぎを立てられると批難されないためです。人気取りも必要です。人気を取らないと民は信頼しないし、民は信頼しないと上に従わないものです」と答えた。
子産は鄭簡公の命で晋を聘問した。時に晋平公は病気であった。子産は韓宣子に病気について尋ねると、韓宣子は「わが君の病気は久しく、何をしても治りません。ところが黄熊が寝門に入る夢を見たそうです。何でしょうか」と尋ねた。子産は「昔、の命を犯して殺されたとき、黄熊になって羽山に入ったといいます。これが夏王朝の郊祭となりました。今周は衰えて、晋が実際にはそれを継いでいます。もしや、まだ夏の郊を祭っていないのではないでしょうか」と答えた。そこで晋平公は夏の郊を祭ると、5日にして病気が治り、子産は莒国の鼎を賜わった。
B.C.531子皮が厥憖の会合に出かけようとすると、子産は「晋は蔡を助けることができず、蔡は滅びるでしょう。蔡は小国でありながら楚に従わず、楚は大国でありながら徳義がない。蔡も滅びるが楚王も天のとがを受けるであろう」と言った。
B.C.530、3月、鄭簡公が没した。埋葬のための通路を作っていたら役人の家に突き当たったため子大叔が「諸侯からの弔問客を長く待たせるわけにはいかない」と言ってその家を壊すよう願った。しかし子産は「お客様はわざわざ来てくださったのですから、どうして日中まで延びることを厭いましょう。来客にご迷惑をかけず、民にも害を与えないのなら、そこを避けるべきだ」と言って、迂回して道路を作って日中になってから埋葬した。
夏、鄭定公は斉・衛とともに晋に出かけて新しく即位した晋昭公に挨拶をした。子産は鄭定公の介添として赴いたが、享宴を辞退して鄭簡公の喪があけてからご命令を賜りたいと申し出て許された。
B.C.529鄭定公は平丘で諸侯と会合し、子産は子大叔っともに鄭定公を助けて列席した。このとき子産は貢賦の割り当てについて言い争って、「今は貢賦の決まりがなく、小国は滅亡を待つばかりです。今こそ貢賦のきまりを定めるべき日であります」と主張し、昼から夕刻に及んだため、晋人はその願いを許した。
帰国する際、子皮がなくなったと知らせがあった。子産は悲しみのあまり哭泣して「わたしはこれでおしまいだ。ただあの方だけがわたしを知っていたのに」と言った。
B.C.526、3月、晋の韓宣子が鄭を聘問した。韓宣子は環(たま)を持っていたが、一対のもうひとつは鄭の商人が持っていたため、韓宣子はこれを商人から買い求めようとした。商人が「是非とも執政にお話しください」と言ったため、韓宣子は子産にお願いした。子産は「今、あなたは親善で来られたのに、商人から無理に玉を取り上げようとなさっている。玉を手に入れて、諸侯から信頼を失うことはいかがでしょうか」と言った。韓宣子が「わたしが愚かでした。お断りいたします」と辞退した。
4月、子産は韓宣子の送別の宴で、鄭の羔裘の詩を歌って韓宣子が晋における立派な人物であるという意を寓した。
9月、鄭で日照りが続いたため、鄭定公は屠撃・祝款・竪柎に命じて桑山で雨乞いの祭りをさせ、山の木を切ったが雨は降らなかった。子産は「山で祭りをするのは山林を守るためだ。その木を切っては罪が多い」と言って、3人の役と領地を取り上げた。
B.C.525冬、彗星が大辰の西に現れ、その光が銀河まで及んだ。裨竈が子産に「宋・衛・陳・鄭に火災が起ころうとしております。わたしがおはらいをすれば、鄭には火災が起こらないでしょう」と言ったが、子産は聴き入れなかった。
B.C.524、5月14日、鄭で火災が起こった。裨竈が「わたしの言う通りにしないと、また火災が起こるであろう」と言った。子産は「天道は深遠ではるかにかけ離れており、人智でもって推し量ることのできるものではない。竈はどうして天道を知ろうか。たまには当たることもあろうが」と言って祈祷の供物を与えなかったが、火災も二度とは起こらなかった。子産は火災が起こった時に、晋から来朝していた公子や公孫たちを東門から退出させて、新しく来た他国人を都から出させ、財貨を司る役人や武器を司る役人にはそれぞれの持ち場を守らせ、老いた女官たちを宮外に退出させた。そして司馬と司寇に命じて火を消させた。
5月15日、子産は類焼した家屋を調査してその租税をゆるめ、材木を与えた。3日間、哭礼を行って不幸を悲しみ、都には市場を開かなかった。そして子産は使者を遣わして火災を報告させた。
7月、子産は火災のために特別に社の大祭を行って火災をはらった。
B.C.522鄭に火災があった。定公はこれを祓い清めようとしたが、子産は「徳をみがかれたほうがましです」と言った。
子産は病気になると、子大叔に「わたしが死んだら、きっとあなたが政治を執ることでしょうが、徳ある者だけが寛大なやり方で民を服従させることができます。それに次ぐやり方は厳しいやり方で治めるのが最も良い。そもそも火は激しいので、それで死ぬ者は少ないが、水は弱々しいため、水のために死ぬ者は多い。だから寛大なやり方で治めるのは難しいのだ」と言った。数ヶ月後、没した。子大叔は執政として政治を執ったが、寛大に治めたため、はたして国中で盗賊が増えた。そこで萑符にいる盗賊を皆殺しにすると、盗賊は少し減った。
鄭の人民はみな哭泣して悲しみ「子産はわれらを棄てて死んだのか。われわれはいったいどうしたらよいのか」と言い、親戚を亡くしたようであった。また孔子は彼を敬慕していて、その死を聞いて、涙を流して「あの人の愛は古人の遺風を伝えるものであった」と言った。
生まれつき慈しみ深く人を愛し、君に仕えて忠厚であった。
子山(斉)(シザン)【公子】
斉の公子。
B.C.542、5月、子山、子商子周高子尾のために国外に追放された。
B.C.532田無宇は国外に追放されている公子たちを呼び戻し、子山はもとの領邑の棘を返された。
子山(呉)(シザン)【公子】
呉の公子。
B.C.506、11月29日、呉は楚に大勝して郢に攻め入り、王宮内に居を定めた。闔閭は身分に応じて居を定め、 子山は令尹の家に落ち着いた。しかし夫概がこれを望んで攻め込もうとしたため子山は立ち去った。
子之(シシ)【宰相】
燕の宰相。
蘇秦蘇代と交際していたため、蘇代から宰相を重用するよう燕王に進言させたため、大いに信任される。子之は蘇代に百金を贈って、これを自由に使わせた。
また鹿毛寿や国人が子之に国権を譲るよう進言したため、子之は南面して王の政務を取り、一切の国事を決するようになった。しかし国は大いに乱れ、人民は恐れ恨んだ。
B.C.314太子平が民衆を集め、将軍市被に公官を囲んで攻められる。相争うこと数ヶ月、死者は数万に及ぶ。
斉が参戦したため、国外に逃亡する。
子駟(シシ)【宰相】
鄭の宰相。名は騑、字は子駟。鄭繆公の子。〜B.C.563。
B.C.581、5月、晋は魯・斉・宋・衛・曹とともに鄭を討った。鄭の子然は晋と脩沢で盟い、子駟は晋の人質となった。
B.C.578、6月15日夜、許に出奔していた子如が密かに帰国して鄭の訾から祖廟に入ろうとしたが失敗した。そこで子如は子印子羽を殺し、引き返して市街に陣を張った。
6月17日、子駟は国人を率いて祖廟で子如の討伐を盟い、子如の軍を追撃して市街に火をかけて全焼させ、子如・子駹孫叔孫知を殺した。
B.C.575春、楚は鄭に和睦を申し入れ、鄭は楚と和睦した。そこで子駟は楚の武城に赴いて楚恭王と盟約した。
晋は鄭討伐の軍を発した。鄭は楚に救援を求めて、楚は救援の軍を発した。鄭の使者姚句耳は楚軍よりも先に鄭に帰ったが、子駟に「進み方が早すぎて乱れ、思慮に乏しく隊伍が乱れています。楚軍はおそらく役に立たないでしょう」と報告した。はたして楚軍は鄢陵で晋軍に敗れた。
B.C.574、1月、子駟は晋の虚と滑に攻め入った。そのため衛の北宮括が晋を助けるため鄭に攻め入り、鄭の高氏まで攻め込んできた。
B.C.571鄭成公が病気になった。子駟は晋について楚の負担をのがれたいと申し出たが成公は「楚の君は鄭を助けるために目に矢傷を負われた。こちらから楚に背くのは、盟約の言葉を棄てるようなものだ」と言って拒否した。
7月9日、鄭成公が没した。子罕が君事を代行し、子駟が宰相となって国政を執り、子国が司馬となって軍政を司った。
晋軍が攻めてきたので、鄭の大夫たちは楚に叛いて晋につこうとしたが、子駟は「君の命は変らない」と言って、これを抑えた。
B.C.566冬、鄭釐公が諸侯と会合したとき、子駟はその介添をした。子駟が鄭釐公に朝見したとき、鄭釐公は答礼しなかった。 12月16日夜、子駟は怒って料理人に言い含めて鄭釐公を毒殺させた。そして諸侯には訃報を告げて「わが君は急病により没しました」と言い、 公子嘉を擁立した。(簡公)
B.C.565鄭の公子たちは釐公が殺されたので、子駟を討とうと相談していた。
4月12日、子駟は先手を討って子狐子煕子侯子丁の4人の公子に罪を着せて殺した。子狐の子孫撃孫悪は衛に逃れた。
冬、楚の子嚢が鄭を討ち、蔡を侵した罪を責め正した。子駟・子国・子耳は楚につこうとしたが、 子孔子蟜子展は晋の援軍を待つべきだと主張した。 子駟が「今や民は危急にさらされています。しばらく楚について民の負担をゆるめましょう。 晋の援軍が着たら、その時は晋に着けばよいのです。贈り物をもって攻めてくる者を待ち受けるのが、小国の取るべき道です。攻めてくる者が民を害せず、 民が疲労しないというなら、何と結構なことではありませんか。もしうまくゆかなかったら、この騑が責任を取りましょう」と言ったので、鄭簡公は楚についた。
B.C.564、鄭は諸侯に攻められた。
11月10日、鄭簡公は晋と鄭の戯で同盟し、晋に降服した。このとき鄭の六卿である子駟・子国・子孔・公孫輒・ 子蟜・子展とその家来や嫡子が参加した。 晋の盟いが読み上げられると、子駟は足早に進み出て「大国(晋と楚)が鄭に恵みを施さず、武力をもって服従を強要しており、鄭は神々の祭りを受けることができず、 民も土地の利を楽しむことができない」と盟いの文を読んだ。晋が反発したが、鄭はそのまま盟いを結んで引き揚げた。
閏12月、今度は、楚恭王に攻められた。子駟が楚と和睦しようとすると、子孔と子蟜が反対した。子駟と子展は 「われわれが晋に盟ったのは、晋が強い国であるからです。今、楚が攻めてきたのに、晋が助けにこないのは楚が強いということになります。 無理にしいられた盟いというものには実質はないものです」と言って、楚と和睦した。
B.C.563、6月、鄭が楚とともに宋を討つと、衛が宋を救うために衛の襄牛まで軍を進めてきた。
子展「衛を討ちましょう。もし討たなければわが国が楚についているとは言えなくなる。晋に責められ、楚にも責められたら、国はどうにもならない」
子駟「国は疲弊するだろう」
子展「疲弊しても滅びるよりはましではありませんか」
大夫たちがみな子展に同意したので、鄭は衛に攻め入った。
子駟は尉止と争い事をして不和であった。諸侯の連合軍と戦ったとき、子駟は尉止の軍を用いてはならぬと命令した。尉止が捕虜を得たが、 子駟はそれを自分の手柄として「お前の車は身分に過ぎたものだ」と言って、捕虜を君に献上させなかった。尉止は子駟に恨みを持つ司氏・堵氏・侯氏・ 子師氏と多くの不平分子を集めて乱を起こした。
10月14日、堵女父司臣尉止尉翩司斉子師僕侯晋らが叛徒を率いて公宮に攻め入り、 子駟は子国・子耳とともに殺された。
(一説では、子駟は自立して国君になろうとしたため、子孔に殺されたという)
師摯(シシ)【文官】
周王朝の楽師。
厲王のとき、鄭・衛の楽がおこり正楽がすたれたので、師摯は周の衰えを認識した。
駟糸(シシ)【文官】
鄭の臣。子游の子。
B.C.523子游が没した。このとき駟糸は幼少であったため、家の年寄りたちは駟帯の弟の駟乞を立てた。のちに駟糸は自分が立てられなかったことを晋に話した。晋人がそのわけを尋ねたため、駟家の人々は恐れたが、子産はそれを許さなかった。
師ジ(シジ)【将軍】
周王朝の将軍。
斉を討つ。
子耳(シジ)【公子】
鄭の公子、司空。名は輙。子良の子。〜B.C.563。
B.C.565、4月22日、子耳と子国は晋の機嫌を取るために蔡を討って司馬公子を捕えた。
冬、楚の子嚢が鄭を討ち、蔡を侵した罪を責め正した。子駟・子国・子耳は楚につこうとしたが、 子孔子蟜子展は晋の援軍を待つべきだと主張した。子駟が「楚につきましょう。 もしうまくゆかなかったら、この騑が責任を取りましょう」と言ったので、鄭簡公は楚についた。
B.C.563、6月、子耳は楚の子嚢とともに宋軍を宋の訾毋で討った。
7月、子耳は楚の子嚢とともに魯の西境に攻め入り、引き返して宋の蕭邑を包囲した。魯の孟献子は 「鄭にきっと禍があるだろう。軍勢があまりにも勢い過ぎます。 もし禍が起こるとしたら、きっと政治をしている3人(子駟・子国・子耳)の身にふりかかるでしょう」 と言った。
10月14日、堵女父司臣尉翩司斉子師僕侯晋らが叛徒を率いて公宮に攻め入り、子耳は子駟・子国とともに殺された。
士子孔(シシコウ)【公子】
鄭の公子。鄭繆公の子。母は圭嬀
B.C.565没す。
施之常(シシジョウ)【在野】
孔子の弟子。字は子恒。
子師僕(シシボク)【武官】
鄭の臣。〜B.C.563。
子駟が自分の田地の溝を手入れした時に、司氏・堵氏・侯氏・子師氏は田地を侵食されたため、子師僕はこれを恨んだ。
B.C.563、10月14日、子師僕は侯晋尉止尉翩司斉堵女父司臣らとともに叛徒を率いて公宮に攻め入り、 子駟・子国子耳を殺した。
子蟜子産攻められて子師僕は尉止とともに殺され、叛乱は鎮圧された。
子車(シシャ)【文官】
斉の臣。名は捷。斉頃公の孫。
B.C.534、8月15日、欒子旗高子尾の家を整理するため、高子尾の一味である子成子工、子車を追放した。
B.C.532子車は田無宇に呼び戻され、禄を増やされた。
士弱(シジャク)【文官】
晋の臣。士荘子、士荘伯ともいう。士渥濁の子。
B.C.564春、宋に火災があった。晋悼公が士弱に「宋で火災があり、それによって禍福を降す天の道があることがわかったと耳にしたが、 どういうことか」と尋ねた。
士弱「商人は災禍を調べると、それはきまって火災から始まっていました。そこで今回も火災が禍を予告する天の道であると知ったのでしょう」
悼公「必ず禍がやってくるのか」
士弱「禍の有無は道が行われているか否かによります」
10月、晋は諸侯とともに鄭を討ち、鄭は降服した。士弱はその盟いの書を作成した。
B.C.563、諸侯が柤で会合したが、その前に斉の公子が本会合の前に諸侯と鐘離で会合した。 士弱は「先に諸侯と会合したのは、国を守ろうとしてのことであろうが、無礼なことをしたのは、国を滅ぼすようなものだ。禍から逃れることはできまい」と言った。
B.C.555晋軍は諸侯とともに斉を討った。
12月4日、雍門と西の外城および南の外城を焼き、士弱は劉難とともに諸侯の軍を率いて斉の西南門外の申池の竹や木を焼き払った。
B.C.548鄭の子産が陳の捕虜を晋に献じた。晋人が「なぜ小国に攻め入ったのか」と詰問すると、子産は「先王の定められたおきてに、ただ罪のある者に誅罰を加えよとあります。それに今や六国はかつての天子の地よりも広大になっており、これは小国を侵略しなければどうしてこのように広大になれたのでしょうか」と答えた。これを聞いた士弱はそれ以上詰問することができなくなり、趙武に報告した。趙武は「子産の言葉は道理にかなっている」と言って、その捕虜を受け取った。
子朱(晋)(シシュ)【文官】
晋の臣。
B.C.547秦景公が弟のを使節として和平交渉によこしたとき、叔向は接待役の子員を呼ぶように命じた。すると別の接待役の子朱が言った。
子朱「わたくしがおります」
叔向「子員を呼びなさい」
子朱「わたくしの番であります」
叔向「わたしは子員にさせたいのだ」
子朱「みな君の臣であり、官位も同じなのに、なぜわたくしを退けるのですか」
叔向「子員は賓客と主人の言葉を言うのに私心はないが、あなたはいつも変える。悪意を持って君に仕える者をわたしは禁止するのだ」
ふたりは争ったので人々が中に入って静めた。晋平公はこれを聞いて「晋は盛んになるであろうか。臣下の争う所は重大である」と言うと、師曠は「公室はおそらく衰微するでしょう。臣下が徳を競争せずに、力で競争してます」と言った。
子朱(楚)(シシュ)【公子】
楚の公子。息公。
B.C.624冬、晋の陽処父が楚を討った。子朱が救援に出たため陽処父は楚の方城の門まで攻め込んでいたが、恐れて戦わずに引き揚げた。
B.C.618秋、子朱は東夷の方から進んで陳を討ったが陳軍に撃破され、公子が捕らえられた。
B.C.617冬、楚穆王と宋昭公は孟諸で狩をした。子朱は申舟とともに左司馬をつとめた。
史鰌(シシュウ)【文官】
衛の臣。
B.C.544呉の季札が衛を聘問し、遽伯玉史狗・史鰌・公子公叔発・公子に会い、その人物に感服して「衛には君子が多い。まだ心配はない」と言った。
子周(シシュウ)【公子】
斉の公子。
B.C.542、5月、子周、子商子山高子尾のために国外に追放された。
B.C.532子周は田無宇によって呼び戻された。
子州支父(シシュウシホ)【神】
古の賢人。
が子州支父に天下を譲ろうとしたが、子州支父は「ありがたいことですが、わたしは気のふさがる病気にかかっており、天下を治めている余裕はありません」と言って辞退した。
師叔(鄭)(シシュク)【文官】
鄭の臣。
B.C.653斉桓公が鄭を討とうとしたとき、管仲が「鄭には叔詹堵叔・師叔という良臣が政治を行っているので攻め取ることはできません」と諌めたので、桓公はとりやめた。
師叔(楚)(シシュク)
潘尫
子叔疑(シシュクギ)
子叔詣
子叔詣(シシュクケイ)【宰相】
魯の宰相。叔肸の六世の孫。子叔疑、叔倪ともいう。
宰相として政治を執ったが、辞職するとき自分の子弟を後釜にすえたため、後世批判された。
子叔黒背(シシュクコクハイ)【武官】
衛の臣。
B.C.581晋が衛に鄭を討つよう命じた。そこで子叔黒背が鄭を討った。
子叔斉子(シシュクセイシ)
叔老
子叔声伯(シシュクセイハク)
公孫嬰
子春(シシュン)【文官】
楚の臣。ゴ公。
師詢(シジュン)【宰相】
周王朝の宰相。
B.C.834師龢父の後をついで幼少の太子静を補佐して、執政者として権力を振るった。
共和の政治と考えられたその治世の中期は、師詢の執政時代とされる。
子如(シジョ)【公子】
鄭の公子。班ともいう。〜B.C.578。
B.C.581、3月、公子班は公孫申が新たに君を立てるという策謀を真に受けて公子を擁立した。
4月、鄭人は公子繻擁立を不服に思い、公子繻を殺して太子髠頑を擁立した。そのため子如は許に亡命した。
B.C.578、6月15日夜、子如は許から帰国して鄭の訾から祖廟に入ろうとしたが失敗した。そこで子如は子印子羽を殺し、引き返して市街に陣を張った。
6月17日、子駟は国人を率いて祖廟で子如の討伐を盟い、子如の軍を追撃して市街に火をかけて全焼させたため、子如は殺された。
士燮(シショウ)【将軍】
晋の将軍。士会の子。上軍の佐、上軍の将、中軍の佐。范文子ともいう。〜B.C.574。
B.C.592晋の郤克が斉に辱しめられて帰国し、復讐したいと願った。士会は帰宅して士燮に「燮よ、わしが聞くに、人の怒りの邪魔をすればその毒害を受けると。今、郤子の怒りは大変だ。斉でその心を晴らさなければ、必ず晋の国内で晴らすだろう。わしは政権を郤氏に渡して、彼の怒りを晴らさせようと思う。おまえは諸大夫に従って君命を奉じて、ひとすじに敬うように」と言い、士会は辞職して隠居した。
あるとき士燮が遅く退出して帰宅した。士会が「どうして遅くなったのか」と尋ねた。
士燮は「秦から客が来て、朝廷で謎を出しました。大夫には誰も答えられる者が居りませんでしたが、わたしが3つ解きました」と答えた。
すると士会は怒って「大夫たちは目上の父兄に譲って黙っておられただけだ。この子倅めが、朝廷で3回も人を侮辱しおって。わしが晋にこうしていなかったら、この家は潰れるだろう」と言い、士燮は杖で殴りつけられ、冠の留め金を折るほどであった。
B.C.589夏、晋は魯・衛を救うため出兵し、士燮は上軍の将となり、鞍で斉を撃退させた。
9月、衛穆公が没した。士燮は郤克・欒書とともに戦の帰途に弔問し、衛の大門の外で哭礼を行った。
そして帰国するとき郤克が先に帰り、従軍した士燮は遅れて都に入った。
父の士会が「わしがお前を待ち望んでいたことを知っているだろうが」となじった。士燮は「今度の軍は郤子の率いる軍であり、勝利を収めたので、もし先に入城すると、民はわたくしに注目しましょう。ですから、そうはしませんでした」と答えた。士会は「わしは禍を免れるであろう」と安心した。
景公は鞍の勝利をほめて郤克に「あなたの力であろう」と言った。しかし郤克は「いいえ、三軍の士が働いたのです。私には何の力がありましょう」と謙譲した。次に士燮が謁見したので、景公は「あなたの力であろう」と言った。士燮は「いいえ、わたしは命を中軍に受け、上軍の士に命じて上軍の士が命を用いたからです。私には何の力がありましょう」と謙譲した。欒書が謁見したので、景公はまた同じ問いをすると、欒書は「いいえ、わたしは命を上軍に受け、下軍の士に命じ、下軍の士が命を用いたからです。わたくしに何の力がありましょう」と謙譲した。
B.C.587冬、士燮は欒書・荀首とともに鄭を討って許を救い、鄭の汜・祭の地を占領した。
B.C.585冬、晋軍は楚に攻められた鄭の救援に出かけた。晋軍は進んで蔡を侵略した。楚の公子と公子が申と息の軍を率いて蔡を助け、桑隧で晋軍を防いだ。
趙同と趙括が決戦を望んだため欒書はそれを許そうとした。しかし士燮・荀首・韓厥が「いけません。もともと鄭を助けに来て、はからずも蔡まで来てしまいました。罪なき人を攻め殺してはなりません。そもそも大軍を整えてきたのに、わずか楚の2県を破っても何の名誉になりましょう」と言ったので、欒書はそのまま引き揚げた。
B.C.583趙武が成人して大夫に挨拶回りをした。このとき士燮は「今こそ、自ら戒められよ。賢者は栄光に満ちた時にますます戒めますが、不徳者は栄光のために高慢になります」と言葉を贈った。張孟は「范叔(士燮)の教えは徳を大きくすることができます」と評した。
冬、士燮は魯を聘問して、郯が呉についたため郯を討つ相談をした。魯成公が士燮に物を贈って急いで戦をおこさないように依頼したが、士燮は「君の命に対しては二心を懐きません。朝聘の礼には物を贈るということはありません。君が諸侯よりも出陣をおくらせるならば、わが君は君とのつきあいを断ることになりましょう」と言って断った。そこで魯は叔孫喬如に命じて軍を出させて、晋・斉・邾とともに郯を討った。
B.C.582春、前年に汶陽の田を斉に返したことで諸侯が晋の信義を疑ったため、晋景公は魯・斉・宋・衛・鄭・曹・莒・杞の君と衛の蒲で会合して、馬陵の盟いを忘れないようにした。魯の季孫行父は士燮に言った。
季孫行父「徳を施すことを努めないで、盟いを温めたところで何になりましょう」
士燮は「諸侯を努力して手なずけ、寛大に扱い、忍耐強く裁き、謀反者を討伐することは徳に次ぐやり方です」と弁明した。
あるとき晋景公は武器庫を見回ったとき、楚の鐘儀を見て楚の囚人であるとわかると、縄を解かせて鐘儀を召し寄せていたわった。晋景公は鐘儀との話の内容を士燮に話すと、士燮は「立派な人物です。わが君はどうして彼を楚に返して和睦を行わせるようになさらないのですか」と進言した。晋景公は喜んで鐘儀を厚く礼遇して楚に返して和睦をはかった。
B.C.580晋は秦と和睦して、晋の令狐で会合することとなった。晋厲公は先に到着したが、秦桓公は黄河を渡ろうとせずに秦の王城にとどまり、大夫史顆を遣わして晋と盟った。そのため晋の郤犨が王城で盟うこととなった。士燮は「この盟いに何の利益があろう。盟いの場は信を表す始めである。始めが守られないのに、どうして信を実行することができよう」と言った。
果たして、秦桓公は都に戻ると晋との和睦を破った。
B.C.579、5月、士燮は楚の公子許偃と会合した。さらに郤至が楚を聘問したとき、楚の子反が「もし楚・晋の両君がお会いすることがあったら、それは戦場でしょう」と言った。郤至は帰国してこのことを話すと、士燮は「礼をわきまえない者は約束を実行しないであろう。わたしの死ぬのも間もないだろう」と言った。
B.C.578、5月、士燮は上軍の将として秦軍と戦い、麻隧でこれを大破した。
B.C.576、11月、士燮は魯の叔孫喬如・斉の高無咎・宋の華元・衛の孫文子・鄭の公子・邾人と鐘離で会合し、初めて呉と国交をもち、呉王寿夢と会合した。
B.C.575春、鄭が晋に背いて楚と盟約したため、晋厲公は鄭を討とうとした。
士燮は「諸侯がみな叛けば、はじめて晋は治めることができます。諸侯がなまじ服従しているから、このようにザワザワと乱れるのです。すべて諸侯は災難の元です。鄭を降服させれば憂患はますます大きくなりましょう」と言った。
すると郤至が「それでは王者は憂患が多いのですか」と問うた。
士燮は「わが国は王者でしょうか。王者というのは、その徳を完成しており遠方の人が心服しますから憂患はありません。わが国は徳が少ないのに王者の功績を求めるから憂患が多いのです」と答えた。
また欒書が「われわれの時代に諸侯を失ってはならない。鄭を討ちましょう」と進言したので、晋厲公は鄭討伐の軍を発した。士燮は中軍の佐として参戦した。
士燮は戦を好まず「人臣は、国内で親しみ合ってから、国外のことを考えるべきだと言います。国内で親睦せずに国外のことを考えれば、必ず内紛があります。どうしてしばらく国内の親睦を図らないのですか」と言ったが、聴き入れられなかった。
5月、楚の援軍が来たと聞いて、大夫たちは決戦を望んだが、士燮は晋厲公に軍を還すよう請うて「人君は、その民を正すことに成功した後、武徳を国外に振るうといいます。今わが国の刑は大臣には行わず、小民にだけ残忍に実行しています。こんな状態では、誰に武力を行使できますか。武力の行使ができずに勝つとすれば僥倖です。僥倖で政治をするならば、きっと内憂が生じます。
聖人でないからには、内憂か外患かどちらかがひとつある方が無事です。なぜ鄭と楚をこのままにしておいて、外患としないのですか。退却すれば晋の君臣は反省して禍をふせぐことができましょう。諸侯をまとめることはわれわれにはできません。もしわたしが退いて君臣が和合するならばわたしはそうしましょう」と言ったが、欒書は「それはいけない」と反対して、楚と戦うこととなった。
士燮は再び「徳が無いのに服従する国が多いと、必ず自分が傷つくと言います。晋の徳にふさわしいのは、諸侯がみな叛いて、国が少し平安になることです。今わが国が戦って勝ったならば、わが君はその知を誇り、その功を高しとして教化を怠り、税を重くし、側近を増やし、愛妾の禄を増すでしょう。かえって勝たないほうが晋の福です」と言った。
郤至「韓の戦いでは恵公は捕えられ、箕の戦いでは先軫は戦死し、邲の戦いでは荀伯(荀林父)は大敗した。いずれも晋の恥とするところです。ここで避ければさらに恥を増すだけです」
士燮「先君のときは、戦わねば子孫が弱められて衰えていたでしょう。いま斉・秦・狄の強国が服従しています。楚はほうっておけばよろしいではありませんか」
しかし欒書は聴き入れなかった。
ついに晋は鄢陵で楚と戦った。鄢陵で楚軍が晋軍を圧迫して布陣してきたので晋の軍吏は恐れた。子の范匃が走り出てきて「かまどを崩し、井戸を埋めて広場を作れば、敵との距離を保つことができます」と進言した。
士燮は戈を持って范匃を追いかけて「国の存亡は天命である。小僧に何が分かるか。しかも聞かれもしないのに発言するのは罪である。必ず処刑されよう」と言った。これを聞いて苗棼皇は「無事に災難を免れるでしょう」と言った。
晋軍は楚軍を退けると、楚の食糧を食べることとなった。士燮は厲公の兵車の前に立って「君は幼少で諸臣は不才なのに、わが国は何の福によって勝利を手にしたのでしょう。天は今、楚にさらに徳を修めよと勧めているのです。君と2、3の諸臣は戒められよ。徳こそは福の基本です。徳もなしに福が盛んなのは、基礎がないのに土塀を厚くするようなものです」と諌めた。
士燮は鄢陵の戦いから帰ると、宗祝に「君が驕慢であるのに勝利しました。徳によって勝ってさえ、失敗することを恐れるもの。まして驕慢で勝ったのですからなおさらでしょう。きっと災難が起りましょう。宗祝はわたしのために死を祈ってください。災難の前に死んで免れたいのです」と言った。
9月、晋は魯の叔孫喬如の讒言によって魯の季孫行父を苕丘で捕えた。魯成公公孫嬰を遣わして季孫行父の釈放を求めた。士燮は欒書に「季孫(季孫行父)は魯で二君にわたって宰相を務めていますが、倹約で誠実な人物です。しかし喬如の言を信じて忠良な人を棄てるようでは、諸侯に非難されます。子叔嬰斉(公孫嬰)は君命を奉じて自身のことを考えず、国家のためを考えて二心がありません。うまく取り計らってください」と言った。そこで晋は季孫行父を釈放した。
B.C.574士燮は鄢陵の戦いから帰ると、晋に禍が来ることを予見して、早く死にたいと考えた。
6月9日、士燮は没し、文子と諡された。
冬、はたして災難が起り、三郤が誅殺され、晋厲公も弑された。
B.C.573悼公の時代、「范文子(士燮)は一身を勤労して諸侯を鎮定服従させ、今でもその功に頼っている」として、弟の士魴はその功により新軍の将に任命された。
子捷(シショウ)【武官】
楚の臣。
B.C.548秋、楚は舒鳩が叛いたので、これを討った。そこで呉が舒鳩を助けに来た。令尹屈建が急に右軍を率いて舒鳩に攻め入り、子彊息桓・子捷・子駢子盂の左軍は呉軍と遭遇したため、退却した。子彊は「このまま長くこの状況が続くと、雨のために低い土地は狭くなって身動きが取れなくなるだろう。すぐに戦ったほうがよい。わたしが兵を率いて敵に誘いをかけるので、精兵を選んで様子を見ていてくれ。わたしが勝ったら進撃し、負けたら援助してくれ」と言ったので、みんなそれに従った。5人の将はまず呉軍を攻撃した。呉軍は逃げ、山に登って楚に援軍のないことを知ると、再び攻撃してきた。すると待ち構えていた精兵がこれに攻めかかり、呉軍に大勝した。楚軍は勢いに乗じて舒鳩を包囲して、これを潰滅させた。
8月、楚軍は舒鳩を滅ぼした。
子商(シショウ)【公子】
斉の公子。
B.C.542、5月、子商、子山子周高子尾のために国外に追放された。
B.C.532子商は田無宇によって呼び戻された。
子常(シジョウ)【宰相】
楚の宰相。令尹。字は囊瓦。または姓が囊、名が瓦、字が子常ともいう。
B.C.519冬、子常は令尹となり、郢に城壁を増築して呉に備えた。沈尹戌は「子常はきっと郢を失うであろう。呉の侵略を恐れて郢に増築したが、 守り方がもはや小さすぎる。これでは四方の諸侯も守りさえも求めることができない」と言った。
B.C.516、9月、平王が没すると、子常は「太子(壬)は幼少であり、 またその母は前の太子が娶るべき人であった。子西は年上であり善を好む立派な方だ。 年上を立て、善を好む人を立てると国が治まる」と言って、子西を立てようとした。しかし子西が立腹して「太子が立つと国は外(秦)からの援助を受けることができる。 そして世継ぎはすでに決まっているのだからそれを乱してはならない。そんなことを言っている令尹は必ず殺してしまおう」と言ったため、 子常は恐れて太子珍(昭王)を立てた。
B.C.515呉の公子掩余と公子燭庸が楚の潜を攻め囲んだ。 莠尹然と工尹が軍を率いて潜を救い、沈尹戌が都城に住む人士と王の馬役の者たちを率いて軍勢を増やし、 呉軍と窮谷で出会った。また子常は水軍を率いて沙水の河口まで進んで引き返し、左尹郤宛と工尹寿が軍を率いて潜に到着した。 そのため呉軍は退くことができなくなった。
4月、呉の公子が呉王を弑したため、呉軍は引きあげた。
費無忌があるとき子常に「子悪(郤宛)はあなたに酒をふるまいたいと言っております」と言い、一方で郤宛には 「令尹があなたの家で酒を御馳走になりたがっております」と言った。郤宛は「この上もないお恵みですが、わたしは卑しい者でお礼の進物を差し上げることはできないでしょう。 どうすればよいでしょうか」と問うと、費無忌は「令尹は武具を好まれる。わたしが選びましょう」と言ってよろいを5つ、武器を5つ取って門に並べるよう勧めた。 いよいよ饗応の日になると、費無忌は子常に「わたしはあなた様に災いをおかけするところでした。子悪は武装兵を門に伏せております。行ってはいけません」と言った。 子常は郤宛の様子を調べさせると、武器が用意してあった。そこで子常は鄢将師を呼び寄せると、 鄢将師は「郤氏を攻め、さらに家を焼き払え」と命令した。郤宛はこれを聞くと、すぐに自殺した。また子常は陽令終とその弟陽令完と陽令佗、大夫の晋陳とその子や弟を殺した。
9月14日、子常が郤宛を殺したことについて国中のそしりがやまなかった。沈尹戌は「あの無忌は告げ口をする悪人です。朝呉を去らせ、 蔡侯を追い出し、太子を国外に去らせ、連尹奢(伍奢)を殺し、今やまた罪なき3人を殺して、 あなたにも災いがかかろうとしています。いったい鄢将師はあなたの命令であると偽って三族(郤氏・陽氏・晋陳氏)を滅ぼしたが、あの三族はわが楚国の良臣です。 今や呉では新しい君が立って国境は毎日安らかではありません。知恵ある者は自分を告げ口する悪人を除いて身の安泰を図ります」と警告したため、 子常は費無忌と鄢将師を殺し、その一族を残らず滅ぼして国の人々に申し開きをし、そのため衆人は喜んだ。
B.C.509蔡昭侯が参朝したとき、子常は裘を所望したが与えられなかったため、楚昭王にこれを讒言して蔡昭侯を3年間抑留させた。 また唐成公も楚に出かけたが、二頭の白い毛なみの名馬があった。子常はこれをほしがったが唐成公が与えなかったため、 これもまた3年も楚に留めた。唐人で唐成公の供と交代する者があり、その名馬を盗んで子常に献上したため、子常は唐成公を帰した。蔡人はこれを聞いて、 蔡昭侯に無理に願って佩玉を子常に献上した。子常は蔡昭侯の供の者に「蔡侯が久しく留まっておられたのは、お前たちが贈る礼物がそろわなかったためだ。 明日のうちにそろえなかったら死罪にするぞ」と言った。かくて蔡昭侯は帰国することになったが、すぐに人質を晋に入れて楚を討つよう請い、また蔡と唐は呉と同盟することとなった。
B.C.508、秋、子常は呉に攻め入ろうと豫章に軍を進めた。すると呉は舟軍を豫章に集めて桐を討つふりをして、その一方でこっそりと軍を巣に進めて、楚を討つ準備をさせておいた。
10月、呉軍は楚軍に対して豫章で不意に攻撃をしてこれを破り、勢いに乗じて巣を攻め囲んで勝利し、巣を守っていた楚の公子繁を討ち取った。
B.C.507闘且が朝廷で子常に会ったとき、子常は財宝を蓄え、馬を集める道を闘且に尋ねた。
闘且は帰宅して弟に「楚は滅びるだろう。さもなくば令尹は災禍を免れないだろう。楚君の宰相となりながら四方に美名を讃えられることもなく、民の衰弱は日増しにひどくなるばかりなのに、貨馬を蓄集して満足せず、民の怨みを招いている。人を礼せず、民を顧みないことは成王霊王よりもひどいから、自分ひとりでどうやって災禍を防ごうとするのだろうか」と言った。
B.C.506呉王闔閭は伍子胥と孫武に「先年、あなたたちはまだ郢に侵入の時期ではないと言ったが、いまはどうか」と問うた。二人は「楚将囊瓦(子常)が貪欲なため、唐・蔡二国は楚を恨んでいます。まず唐・蔡二国を味方に引き入れるようになさいませ。そうすればよろしゅうございましょう」と答えた。
闔閭はこれを聴き入れ、子常に恨みを持った蔡昭侯とともに楚に侵入した。沈尹戌が子常に「あなたは漢水により添って敵兵が渡るのを防がれよ。わたしは方城の外まわりにいる人々を全部率いて淮水にいる敵の船をたたき壊し、引き返して大隧・直轅・冥阨の隘路をふさぎましょう。あなたが漢水を渡って攻撃し、わたしが背後から攻撃すれば大いに敵を破ることができましょう」と言った。しかし武城の大夫が子常に「楚の車は革を用いており、 水のしめりには長く耐えられません。すぐに戦うべきです」と言い、また史皇が「楚人はあなたを憎んで司馬(沈尹戌)を好いております。 彼の言う通りだと、司馬が一人勝ちになります。すぐに戦いましょう」と言ったため、子常はすぐに漢水を渡って敵を攻撃したため、三度戦って三度敗れた。 そこで子常はとても勝てないと思って逃げようとした。すると史皇が「安らかな時には政治を執り、難儀の時には逃げるということでは、いったいどこへ落ち着こうとされるのですか。 あなたはここで死になさい。そうすればあなたの罪は全部消えましょう」と言った。
11月19日、楚・呉の両軍は柏挙に陣を構えた。呉の夫概が5,000人の兵を率いて真っ先に子常の軍を攻撃した。 子常の軍が逃げ出したため楚軍は乱れて呉軍に大いに討ち破られた。子常は鄭に出奔し、史皇が代わって子常の軍を率いたが戦死した。
子上(シジョウ)【宰相】
楚の宰相。令尹。名は鬭勃。〜B.C.627。
B.C.632楚は城濮で晋と対峙した。子上は子玉の命で「殿の兵士と力くらべの遊びをしましょう。殿にはゆっくりご覧あれ」と晋文公に伝えた。子上は右軍の将となったが、晋軍に破られた。
成王は商臣を太子にしようと思い、子上に相談した。子上は「君はまだ老衰というほどの年でもありません。いま太子を立てて、後で退けるようなことがあれば内乱がおこるでしょう。楚で太子を立てるのは、いつも年少の公子とかぎっています。そのうえ商臣は蜂のような目つきで、豺(やまいぬ)のような声を出し、刻薄な人です。太子に立ててはいけません」と言ったが、成王は聴き入れず、商臣を立てた。
しかし後に太子を廃しようとしたので成王は商臣に殺された。
B.C.627子上は陳と蔡に攻め入った。陳と蔡は和を請うたので、子上はすぐに鄭を討って鄭に出奔していた公子を鄭に入れようとした。しかし公子瑕の車が周氏の池に転覆したため、 鄭の髠屯に捕えられた。
12月、晋の陽処父が蔡を討った。子上は蔡を助け、晋楚両軍は泜水をはさんで対陣した。
陽処父は「あなたが戦おうとするなら、わたしは陣を退却させるので川を渡って陣をしきなさい。それが嫌なら、あなた方が退却して、わたしが川を渡る余裕を与えよ。このまま対陣しても軍を疲労させるだけである」と言った。
子上は川を渡ろうとしたが、成大心が「晋は信義を守らない。もし約束を破って攻められて、負けを後悔しても取り返しがつきません」と諌めたので、子上は退却して陣をしいた。
陽処父はこれを見て「楚軍は逃げたぞ」と言いふらして、そのまま引き上げた。
公子商臣は子上に恨みを持っていたので、子上をそしって「晋から贈物を受けて退却するとは楚の恥である」と成王に言ったため、子上は殺された。
子嚢(シジョウ)【宰相】
楚の宰相。令尹。名は貞。楚恭王の弟。
B.C.576楚恭王が鄭・衛を討とうとした。子嚢は「晋と盟ったばかりなのに、これに背くのはいけないことではありませんか」と諌めたが、聴き入れられなかった。
B.C.568楚恭王は令尹子辛を処刑し、子嚢を令尹に任じた。
冬、子嚢は命ぜられて陳を討った。
B.C.566冬、子嚢は陳を攻め囲んだ。晋・魯・宋・衛・曹・莒・邾が鄭のイで会合して陳を助けた。
B.C.565、4月、鄭が晋の機嫌を取るために蔡を討った。
冬、楚恭王は子囊に命じて鄭を討ち、蔡を侵した罪を責め正した。そこで鄭は楚についた。
B.C.563、6月、子嚢は鄭の子耳とともに宋軍を宋の訾毋で討った。
6月14日、子嚢は宋の都を囲んで桐門(北門)に攻め入った。
7月、子嚢は鄭の子耳とともに魯の西境に攻め入り、引き返して宋の蕭邑を包囲した。
8月11日、子嚢は蕭邑を攻め落とした。
9月25日、諸侯が鄭を討ち、鄭の牛首に進撃した。
11月、子嚢は鄭の援助に出かけた。
11月16日、子嚢は諸侯の軍と潁水をはさんで対陣した。すると鄭は楚に服従した。
11月24日、諸侯の軍が引き揚げたので、子嚢も引き揚げた。
B.C.562、7月、鄭は諸侯に攻められたため、諸侯と同盟を結んだ。子嚢は援軍を秦に請うた。 かくて秦の右大夫は軍を率いて鄭を討つことになったが、鄭は先に楚に降服した。
B.C.561冬、子嚢は秦の庶長無地とともに宋を討ち、楊梁に軍を進めた。晋が鄭を降服させたことに対する報復であった。
B.C.560恭王は重病となり、大夫らを呼んで「わたしは不徳の身でありながら、年若くして国君となったため、先君の覇業を失い、軍を失ったのはわたしの罪です。 わたしの諡をどうか霊または厲としてほしい」と言った。大夫たちは返事ができなかったが、恭王が5度も言いつけたので、大夫たちはようやく承諾した。
9月庚辰、恭王は没した。子嚢は大夫たちと諡について相談すると、大夫らは「王が命令されました」と言った。しかし子嚢は「いけません。 君に仕える者は君の善行を先に考えるべきです。王は南方の部族を鎮撫し、その訓令は中華の諸国に達し、その光栄は大きなものです。この光栄がありながら、 自らの過失を知っておられたのは恭と申し上げるべきです」と言った。そこで大夫らはその意見に従った。
楚の捕虜になっていた鄭の石㚟が子嚢に 「鄭の大夫たちは鄭の卿である良霄を追い払って晋との結束を固くしようとしています。楚は、彼を捕らえているよりは、 彼を鄭に返して鄭の君と臣をいがみ合わせるのが得策ではありませんか」と言ったので、楚は石㚟と良霄を鄭に返した。
B.C.559秋、子嚢は命ぜられて呉を討った。呉が出撃しなかったので、子嚢は軍を引き揚げた。子嚢は殿を務めたが、呉は出撃できないと油断していたところ、呉軍は狭い険路を利用し、そこから伏兵を出して楚軍を攻撃してきた。楚軍は前後互いに救うことができなかったので、敗れて公子宜穀が捕えられた。
子嚢は帰国すると没した。臨終の時に子嚢は子庚に必ず郢に城壁を作って守りを固めよと遺言した。君子は「子嚢のやり方は忠というべきである。恭王に立派な諡をつけることを忘れなかったし、わが身が死のうとする時にも国の防衛を忘れなかった」と評した。
子城(シジョウ)【公子】
子成
司城貞子(シジョウテイシ)【文官】
陳の臣。姓は司城。
司城とは宋の官名であり、貞子の祖先は宋の人で、かつて司城の官にあったので、子孫がそれを氏としたとされる。
B.C.495孔子が陳に来た時、司城貞子の家に寄寓した。
師触(シショク)【文官】
鄭、晋の臣。楽師
B.C.562冬、晋悼公は鄭を征伐してこれを降した。鄭人は晋悼公に贈り物をして、 師触は師悝師蠲とともに晋に贈られた。
枝如子躬(シジョシキュ)【文官】
楚の臣。
B.C.529楚平王は枝如子躬に命じて鄭を聘問させ、以前に占領した土地を返させようとしたが、枝如子躬は土地を返さなかった。鄭人がお願いをしたが、枝如子躬は「わたしはまだそのような命令を受けておりません」と答えた。枝如子躬は楚平王に報告をすると、楚平王にシュウ・櫟のことを尋ねられたため、枝如子躬は上服をぬいで囚人の姿をして「わたしは命令を失念して、その地を返しませんでした」と答えた。楚平王は枝如子躬の手をとって「そんなに気苦労に思わなくてもよい。しばらく家に帰って休むがよい」と言った。
師縉(シシン)【文官】
楚の臣。楽師。
B.C.638楚成王は泓水で宋を破り、鄭の都に入った。
11月8日、鄭文公の夫人が柯沢でもてなしたので、師縉は命ぜられて捕虜と斬りおとした敵兵の耳を夫人に見せた。
子辛(シシン)【将軍】
楚の公子。右軍の将、令尹。名は壬夫。〜B.C.468。
B.C.575、4月、晋は鄭討伐の軍を発し、鄭は楚に援軍を求めた。楚は鄭救援の軍を出し、子辛は右軍の将として参戦した。
6月、楚軍は晋軍と鄢陵で戦ったが、楚軍は大敗した。
B.C.572秋、諸侯に攻められた鄭を救うため、子辛は命ぜられて宋の呂・留に攻め込んだ。
B.C.570子辛は令尹に任じられた。
子辛は小国を侵略しようとしたので、陳成公袁僑を遣わして鶏沢の会に参加させて、晋に和睦を申し込んだ。
B.C.568秋、楚人は陳が楚に背いた理由を調べて、子辛があまりにも陳に欲を求めすぎているからであると判断したため、子辛は処刑された。
司臣(シシン)【武官】
鄭の臣。
子駟が自分の田地の溝を手入れした時に、司氏・堵氏・侯氏・子師氏は田地を侵食されたため、司臣はこれを恨んだ。
B.C.563、10月14日、司臣は堵女父尉止尉翩司斉子師僕侯晋らとともに叛徒を率いて公宮に攻め入り、 子駟・子国子耳を殺した。
子駟の子子西が反撃してきたので、司臣は宋に亡命した。
B.C.558、2月、鄭がたびたび宋に亡命した尉翩らの返還を要求した。宋の子罕は司臣を人物と見込んで逃がし、魯の季武子にあずけ、その他は鄭に帰した。
梓槇(シシン)【文官】
魯の臣。
B.C.545梓槇は天文を見て、この年、宋と鄭が凶作になると予言した。
B.C.535、3月、魯昭公が楚に行こうとしたところ、魯襄公が道祖神を祭っている夢を見た。梓槇は「わが君は楚に行かれないだろう。襄公は周公が道祖神を祭る夢を見て楚に行かれた。ところが今は襄公がお祭りをしているからだ」と言った。子服景伯が「行かれるでしょう。襄公は楚に出かけたことはなかったが周公が案内されたのでお出かけになったのです。その襄公が案内するのだから、わが君は行かれるでしょう」と言った。かくて魯昭公は楚に出かけた。
B.C.527春、魯では武公の廟で禘祭を行おうとしたところ、梓槇は「禘祭の日に何か起こるのだろうか。私は赤と黒の不吉な気が宗廟に立つのを見ました」と言った。
2月16日、禘祭の日に笛の舞いが始まると、叔弓が亡くなった。
B.C.525冬、彗星が大辰の西に現れ、その光が銀河まで及んだ。申須が「彗星は古いものを掃いて新しいものを出す兆しである。彗星が大火(大辰)に現れたからには、諸侯にきっと火災が起こるであろう」と予言した。梓槇は「大辰が出てから彗星が現れた。きっと火災が起こるであろう。大辰が出るのは、天道の正しい商暦では4月であり、もし火災が起こるのであれば、きっと四つの国に当たるであろう。宋・衛・陳・鄭であろう」と予言した。
B.C.524、5月に火星が初めて日暮れに見え、5月8日に強い風が吹いた。梓槇は「これは融風というもので、火災の前兆である。7日の後にきっと火災が起こるでしょう」と予言した。5月10日、はたして風が激しくなり、5月14日に風がひどくなり、宋・衛・陳・鄭でみな火災が起こった。
B.C.522、2月1日、太陽が南の極点に至った(冬至)。梓槇は霊気を眺めて「今年、宋に騒動が起こり、国は殆ど滅びそうになるが、3年経てば治まるであろう。蔡には大きな喪があるだろう」と予言した。叔孫婼は「それは宋の戴・桓の二氏であろう。この二氏は身分不相応におごって礼に背いている」と言った。
B.C.521、7月1日、日食があった。魯昭公は梓慎に「どういう兆しであるか」と問うた。梓慎は「夏至冬至と春分・秋分に日食があっても災いはおこりません。その他の月に日食があれば災いをおこします。それは陽気が陰気に勝てないからで、いつも水害が起こります」と答えた。
B.C.518、5月1日、日食があった。梓慎は「大水が出るであろう」と言うと、叔孫婼は「ひでりになるであろう。春分を過ぎでも陽気がまだ陰気に勝っていない。 勝った時にはきっと陽気がひどく盛んになり、ひでりになるだろう」と言った。はたしてひでりになった。
示壬(シジン)【神】
商王朝の祖先。報丁の子。
子人(シジン)
子人九(シジンキュウ)【文官】
鄭の臣。氏は子人、名は九。
B.C.632、4月、楚軍が晋軍に破れたので、鄭文公は晋を恐れ、子人九に命じて晋に和睦を申し入れ、楚との同盟を破棄した。
子西(シセイ)【宰相】
楚の令尹。平王の庶長子。〜B.C.479。
B.C.516、9月、楚平王が没すると令尹子常が「太子珍は幼少であり、 またその母は前の太子が娶るべき人であった」と言って、子西を立てようとした。しかし子西は「国には常法がある。更めて国君を立てれば国は乱れる。わたしを立てると言う者があれば、誅してくれよう」と言い、太子珍を立てた。
B.C.512徐と鐘吾に亡命していた呉の公子掩余と公子燭庸が楚に亡命してきた。楚昭王は彼らに大きな土地を与え、それによって呉に対抗しようとした。 子西が諫めて「呉光(闔閭)が即位して、民心を収攬しており、これは攻めてくる恐れがあります。 しかるに呉に仇する者を強くして呉を怒らせるのはよろしくありません」と言ったが、楚昭王は聴き入れなかった。
B.C.506楚昭王が呉に敗れて随に逃亡している時、子西は楚王の車服を偽造して四面の道路を警備し、脾洩に朝廷を設けて王が実在するように見せかけた。 そして楚昭王の所在が分かってから、子西はその側へ行った。
B.C.505呉軍が蔿射を柏挙で捕らえたが、子西は蔿射の子が率いた敗残兵とともに呉軍を軍祥で討ち破った。 呉軍が麇に退いて陣を取ると、公子はそこを焼こうとした。子西は「わが父兄たちが呉と戦って麇に骨をさらしてその骨を拾うこともできないでいる。 焼くのは良くないことだ」と言って反対したが、公子結は「わが楚国は滅んでしまった。戦死した人たちはむしろ焼かれて祀りが続くことを喜ぶであろう」と言って麇を焼き払って呉軍を破った。
楚昭王が帰国するとが謁見を求めたので、楚昭王はこれを捕らえようとした。子西は「彼の言い訳を聞きましょう。きっと訳がありましょう」と言ったので、昭王は彼の意見を聞き、考えを改めた。また昭王は、自分を殺そうとした闘懐も賞しようとした。子西は諌めて「一人(闘辛)は賞すべきで、一人(闘懐)は処刑すべきなのに、君は同じにされました。郡臣は恐懼しております」と言った。 楚昭王は「あの子旗の二子のことか。一人は君に礼があり、一人は父に礼があるので賞を同じにしてもいいではないか」と答えて、そのまま闘懐を賞した。
あるとき子西は朝廷で歎息したので、亹がどうしたのか尋ねた。
子西「呉王闔閭はよくわが軍を破り、彼の世継は彼よりも優れているという。だから歎息したのです」
亹「呉を憂えるには及びません。闔閭は確かに名君ですが、夫差は民力を疲弊させて私欲を満たすのを好み、諫言を閉ざしています。これでは先に自滅しましょう。あなたは徳を修めて呉に備えるべきです。呉は滅びるでしょう」
B.C.504公子が陸軍を率いて攻めたが繁揚で敗れた。令尹子西は喜んで「今こそ治めることができる」と言って都の郢を鄀に移して、 今までの政治を改め正して楚を安定させた。
B.C.489楚昭王が孔子を登用し、封じようとした。子西は「孔丘が封土に拠り、その賢弟子が補佐するならば、これは楚の幸いとはなりますまい」と言って諌めたので、昭王はこれを取りやめた。
昭王は病が篤くなると、子西に位を譲ろうとしたが、子西は承諾しなかった。
秋に昭王が没すると、子西は後継者に指名されたと相談し、軍を伏せ通行を禁じて、ひそかに昭王の子章を迎えて、王に立てた。
B.C.488子西は公子建の子を呉から招こうとすると沈諸梁が言った。
沈諸梁「王孫勝を呼んで、どうしようとするのですか」
子西「勝は剛直な人というから、国境に置こうと思うのです」
沈諸梁「いけません。彼は誠純ですが信ならず、愛情はあるが仁ならず、詐欺にたけるが知ならず、剛毅だが勇ならず、愚直だが中正でなく、周到だが善意がありません。
もし彼が楚に来て寵遇されなければ、すぐに怒りを爆発させましょう。もし寵遇するならば、あつかましく欲張って飽くことはないでしょう」
子西「徳を施せば、かれは怨みを忘れるでしょう。わたしが彼を厚遇すれば、きっと落ち着くでしょう」
沈諸梁「仁者であればそうなるでしょう。しかし不仁者はそうはいきません。怨恨乱賊の人は絶対にいけません。どうして若敖氏と子干子皙の者を採用せず、勝を用いようとするのですか。
あなたは話しても聞き入れません。わたしはただ逃げるだけです」
しかし子西は聴き入れず、ついに勝を招いて、単の大夫とした。
B.C.484白公勝に兵を請われたので、これを許したが、まだ兵を出さなかった。そこで晋が鄭を討った。楚恵王の命で、鄭を救いに行った。そこで鄭の賄賂を受けて帰ったため、鄭に恨みを持つ白公勝は怒り、子西を殺そうとした。それを聞いた子西は「勝はひよっこだ。なにほどのことができよう」と言って聞き止めなかった。
B.C.479はたして勝は叛乱を起こし、剛力の石乞とともに子西を朝廷で襲って殺した。
子西(シセイ)【将軍】
楚の将軍。司馬。鬭宜申ともいう。〜B.C.617。
B.C.639子西は楚成王の命により魯に使いして、宋を討った捷(戦利品)を献じた。
B.C.634子西は子玉とともに軍を率いて夔を滅ぼし、夔の君を連れて帰った。
冬、子西と子玉は軍を率いて宋を討って、緡を包囲した。
B.C.632子西は左軍の将となり、城濮で晋軍と戦う。
晋軍が退却したので子西は追撃をかけたが、それはいつわりで晋の将先軫郤臻が中軍を率いて横から攻撃をかけ、また狐毛狐偃ら上軍が子西を挟み撃ちにし、子西は破れ楚軍は大敗した。
子西は首をつって死のうとしたが縄が切れて助かり、成王の遣わした使者がすぐに止めさせた。そこで子西は商という町の長に左遷された。
楚成王が使者を出して子玉に「申や息の老人たちに対してどうする考えか」と言った。子西と成大心が「得臣(子玉)は自殺しようとしたが、わたくしどもが止めて、大王の処刑を待つように言いました」と命乞いをした。子玉は楚の連穀までやって来たが、成王が許さなかったので、自殺した。
子西は漢水を渡り江水をさかのぼって郢に攻め入ろうとした。成王は渚宮に来ていたためこれを見ることができた。子西は恐れて言い訳をして「私を中傷する者があり、わたしが亡命すると言っております。そんな汚名を受けるよりは、むしろ司敗のさばきを受けて処刑されようと思い参りました」と言った。そこで子西は百工を司る工尹に任命された。
B.C.617子西は子家と謀って楚穆王を殺そうとした。
5月、はかりごとが漏れて、子西と子家は穆王に殺された。
子西(シセイ)【宰相】
鄭の宰相。氏は公孫、名は夏、字は子西。子駟の子。
B.C.563、10月14日、尉止堵女父司臣尉翩司斉子師僕侯晋らが叛徒を率いて公宮に攻め入り、子駟・子国子耳を殺した。
子西はこれを聞くや身の警戒もせずに出かけ、まずそのなきがらを見舞って賊を追った。賊は北宮に入って立てこもったので、子西は家に帰って家来によろいをつけさせた。 しかし家臣や奉公人たちは恐れて逃げ出す者が多く、家財道具もたくさん持ち出されてしまった。
B.C.558、11月9日、晋悼公が没した。子西は命を受けて晋に出かけて喪礼の世話をした。
B.C.555子西は鄭簡公と共に晋に赴いた。
10月、子西は鄭簡公と共に斉討伐に従軍した。
B.C.554子孔がわがまま勝手に国政を行ったので、人々は子孔を裁いて有罪とした。そのため子孔は家兵と子革子良の家兵で家を守った。
8月12日、子西と子展は国人を率いて子孔を殺してその家財を分け合った。
鄭人は簡公が弱かったので子展を摂政として君事を代行させ、子西を宰相として国政を執らせ、子産を卿に任命した。
B.C.549、2月、鄭簡公が晋に出かけると、子西は子産に書面を依頼され、范匃に「諸侯の財貨が晋に集まれば、四方の諸侯は晋から離れるでしょう」と諌めた。
B.C.548冬、子西は陳を討ち、陳は鄭と和睦した。
B.C.546冬、鄭簡公が会合から帰国する晋の趙武を垂隴でもてなした。子西は黍苗の第四章を歌い、趙武のこの度の功はいにしえの召穆公に比すべきものであるという意を寓した。趙武は「わが君がなされたことです。わたしのできることではありません」と答えた。
司斉(シセイ)【武官】
鄭の臣。司臣の子。〜B.C.558。
B.C.563、10月14日、司斉は堵女父尉止尉翩・ 司臣・子師僕侯晋らとともに叛徒を率いて公宮に攻め入り、 子駟子国子耳を殺した。
子駟の子子西が反撃してきたので、司斉は宋に亡命した。
B.C.558、2月、鄭がたびたび宋に亡命した司斉らの返還を要求したので、宋は了承して司斉らを鄭に送り返した。司斉は処刑されて塩漬けにされた。
子成(シセイ)【公子】
斉の公子。子城ともいう。斉頃公の子。
B.C.534、8月15日、欒子旗高子尾の家を整理するため、高子尾の一味である子成、子工子車を追放した。
B.C.532子成は田無宇に呼び戻され、禄を増やされた。
子皙(シセキ)【公子】
楚の公子。名は黒肱。公子の弟。僕夫(御者)、宮厩尹、令尹。〜B.C.529。
B.C.546宋の向戌が晋と楚を和睦させて戦をなくすため諸侯を会合させようとした。
6月16日、子皙は令尹屈建より一足先に宋に到着し、晋と盟いの言葉を定めた。
7月2日、子皙は晋の趙武と盟いを結び、正式の盟いで結ぶ言葉を前もって調整した。
B.C.541子皙は伯州犂とともに犨、櫟、郟に城壁を築いて鄭に対する備えを固めた。
11月、公子が楚王郟敖を弑したため、子皙は晋に亡命した。
B.C.531楚霊王は陳と蔡と不羮に城を築こうとして、子皙に命じてこのことを申無宇に伝えさせた。申無宇は霊王を諌めたが、聴き入れられなかった。
B.C.529、4月、観従がいつわって公子弃疾の命令であるとして子皙の帰国を促したため、子皙は蔡まで戻った。そこで子皙は観従から蔡再興を打ち明けられた。子皙と公子比はためらったが無理に盟約させられて、公子弃疾を押し立てて盟約を結び、陳・蔡の人々とともに軍をおこした。さらに息舟で叛乱を起こしていた蔿居曼成然らとともに、公子比は陳・蔡・不羮・許・葉の軍を率いて楚に攻め入り、都に進撃した。
叛乱軍は都に入り、公子比は王となり、子皙は令尹となって魚陂に宿った。
観従が「弃疾を殺さなければ、国王になったとしてもまた禍にかかるであろう」と言ったが、公子比は「わたしにはそんなことはやれません」と答えた。観従は「彼は平気であなたを殺そうとしております。わたしはそれを平気で待てません」と言って都を立ち去った。
5月18日夜、そのころ都では楚霊王が帰ってきたと騒ぎがあった。公子弃疾は人を使って国中を走り回らせて「王(霊王)が戻ってきて人々は新王(公子比)と司馬(弃疾)を殺そうとしている」と言わせ、また別の者に「大軍がやってきた」と言わせた。そのため公子比と子皙は自殺した。
子皙(シセキ)
公孫黒
訾祏(シセキ)【文官】
范匃の家老。
范匃が和大夫と田畑の境界争いをして、決着がつかなかったので、范匃は和大夫を攻めようとした。叔向はこれを聞くと范匃に「なぜ訾祏に相談されないのですか。訾祏は実に正直で博学であり、それにあなたの家老です。国家の大事には常法に従い、古老と相談してから実行にうつすものであるといいます」と言った。そこで范匃は訾祏に尋ねた。訾祏は「今あなたが位を継いでから朝廷には姦悪の行為がなく、国家には邪悪の民がなくなったのは、ご先祖三代の功を享受しているからです。今やまったく平穏無事なのに、和大夫をお怨みなさっています。あなたは何をもって国に報いようとするのですか」と言った。范匃は喜んで和大夫と境界争いしていた土地を増し与えて仲直りした。
駟赤(シセキ)【武官】
魯の臣。郈の工師。
B.C.500秋、叔孫州仇孟懃子は斉軍の応援を得て、 再び郈の侯犯を攻め囲んだが、やはり勝てなかった。叔孫州仇は駟赤に「郈はわが叔孫氏だけでなく、国にとっても心配の種である。どうしたらよいか」と問うと 「このことについて決して他言いたしません」と答えたので、叔孫州仇は低く頭を下げて感謝した。
駟赤は侯犯に「斉と魯の間にあって、どちらにも仕えないのはよくない。斉に仕えるという方針で民を治めるのがよいでしょう」と進言したため、侯犯はこれに従った。 おりしも斉の使者がやって来たので、駟赤は郈の人々に侯犯が郈の土地と人々を斉と交換しようとしてると脅したため、人々は恐れて騒いだ。 駟赤は「人々が物騒だ。あなたは郈を斉と交換して他の地にいくのがよいでしょう。しかし何が起こるかわからないので、よろいを門まで運び出して、 いざというときに備えましょう」と言ったため、侯犯はそのとおりにした。かくて侯犯は斉に土地の交換を申し入れた。斉の役人がやってくると駟赤は人々に「斉軍がやってきた」 とふれまわったため、郈の人々は動揺して侯犯の門にあるよろいを着て侯犯の邸を囲んだ。侯犯は郈を立ち退くことを申し入れると、 郈の人々は許した。侯犯が郈の城門をひとつ出るごとに郈の人々はそれを閉じた。侯犯は斉へ逃げた。
子石(シセキ)
褚師段
子石(シセキ)
公孫青
士(シセツ)【文官】
荀瑶の家臣。
B.C.456あるとき荀瑶は家を建てて士に言った。
荀瑶「この家は美しいなあ」
士「美しいですが、一方で心配があります」
荀瑶「何が心配なのだ」
士「『高山や高原には草木が生えず、松やひのきの生えている土地は肥沃でない』と言います。今、土木が勝っていますので、その地にすむ民を安泰にさせないことが心配です」
はたしてこの年、荀瑶は三晋に討たれて死んだ。
士泄(シセツ)【公子】
鄭の公子。
B.C.640夏、滑が鄭に背いて衛に服従したので、士泄と堵寇は鄭文公に命ぜられて滑を討った。
B.C.636秋、士泄は鄭文公に命ぜられて堵寇とともに滑を討った。
子鮮(シセン)【公子】
衛の公子。衛献公の弟。母は敬姒
B.C.559、4月26日、子鮮は衛献公とともに斉に亡命し、ライの地に住まわされた。魯の臧武仲がライにやってきてお見舞いしたが、衛献公のことばが暴虐であったため、臧武仲は「衛君はきっと帰国できないだろう。彼のことばは道理がなく、けがらわしい」と言った。子鮮と子展はこれを聞いて臧武仲と話をしたが、ふたりの言葉は道理にかなうものであった。臧武仲はよろこんで「衛君はきっと帰国するだろう。あのふたりが君を補佐している」と言った。
B.C.547衛献公は子鮮に帰国の策を立てさせようとしたが、子鮮は「君は民に信用されておりません。わたしも禍にかかるのではないかと心配です」と言った。しかし敬姒がお願いしたので、子鮮は承諾して甯喜と相談し「もしも国に帰れたら、国の政治はすべて甯氏に一任し、ただ祭りだけはわたしが守りますと兄は申しております」と言うと、甯喜も承諾した。
2月7日、甯喜は衛殤公とその太子を殺した。
B.C.546夏公孫免余が甯喜と右宰を攻め殺した。これを知った子鮮は「わたしを追い出した者(孫文子)は逃げて助かり、わたしを入れてくれた者(甯喜)は死んでしまった。賞罰が明らかに行われていない。これでは国を治めることはできない」と言って、すぐに晋に出奔した。衛献公は人に命じて止めさせたが、子鮮は聴き入れなかった。黄河まで行ったとき、再び使者が来たが、子鮮は決して帰らぬ意を黄河の神に誓った。かくて子鮮は晋の木門という町に身を置き、衛の国に向って座ろうとはしなかった。
木門の大夫が晋に仕えることを勧めたが、子鮮は「仕事をしなければ罪になり、仕事をすれば晋に仕えるために亡命したことになる」と言って、死ぬまで仕えなかった。
駟セン(シセン)
子然
子然(シゼン)【公子】
鄭の公子。鄭繆公の子。母は宋子。〜B.C.567。
子然は生母の関係で、子孔と士子孔と仲が良かった。
B.C.581、5月、晋・魯・斉・宋・衛・曹が鄭に攻めてきた。子然は晋と脩沢で盟い、和睦した。
B.C.572秋、子然は宋に攻め入って犬丘を取った。
B.C.567没した。
子然(シゼン)【宰相】
鄭の臣。駟センともいう。
B.C.502子然は子大叔のあとを継いで政治を執った。
B.C.501子然は鄧析を殺して、鄧析が作って竹簡に書いてあった刑法を採用した。君子は「子然は今やまごころのない人というべきだ。その人の作ったものを用いながら、 その人を殺してしまうとはとんでもないことだ。子然は才能のある人物を励まし用いることはできないであろう」と言った。
史蘇(シソ)【文官】
晋の臣。史官。
B.C.672晋献公が驪戎を討とうとしたとき、史蘇は占って言った「戦争には勝つが不吉でございます。驪戎と晋が代わる代わる勝つという占いが出ています。その上に、陰険な口がありますので、国民を離反させ、国民が心を変えることを恐れます」
しかし献公は諌めを聴かず、ついに驪戎を討って勝ち、驪姫を得た。
献公は大夫たちに祝いの酒を飲ませたが、史蘇に「酒は飲んでも、肴はないぞ。そなたは勝っても不吉であると占った。戎に勝って妃を得たのだから、これ以上の吉があろうか。よって酒をついでそなたを賞し、肴を出さずにそなたを罰することにする」と言った。史蘇は杯を乾して「亀卜の兆形に出たところを、わたしは隠すわけにはまいりません。君侯もその吉を楽しまれて、その凶に対して備えなされませ。もし臣の占いがあたらないのであれば国家の福です。どうして罰を恐れましょうか」と言って退出した。
史蘇はあとから晋が男の兵で勝てば、戎は女の兵で晋に勝つであろうと予言した。
士倉(シソウ)【文官】
秦の臣。
子傒の守役。
子臧(シゾウ)
欣時
子桑戸(シソウコ)
桑扈
士荘子(シソウシ)
士弱
子桑伯子(シソウハクシ)
桑扈
師存(シソン)【文官】
魯の楽官。名は存。
ある夏、魯宣公は泗水で網で魚を捕った。里革がその網を切断し、破棄して「今は魚類が雌雄別れて子を孕む時であり、魚の成長することを民に教えず、かえって網で捕ろうとするのは、貪欲きわまりないものです」と言った。
宣公は「里革はわしの過ちを正してくれる。この網をしまわせておいて、わしがこの諌めを忘れないようにしよう」と言った。
師存は「網をしまっておくよりも、里革を重用して、彼を忘れないほうがようございます」と言った。
駟帯(シタイ)【文官】
鄭の臣。子西の子。子上ともいう。〜B.C.536。
B.C.543、7月26日、良霄がひそかに鄭都に入り、旧北門を討った。駟帯は国人を率いて応戦して、良霄を殺した。
8月7日、子大叔が晋に亡命した。駟帯は子大叔を追いかけて鄭の酸棗で追いついた。駟帯は子大叔と誓いを結んで、副使の公孫肸を遣わせて都に入って大夫たちと盟わせた。
B.C.541、6月11日、子南の騒動のため、駟帯は公孫段の家で子産子皮・公孫段・子大叔・印段と盟いを結んだ。
B.C.536、3月3日、駟帯は没した。
子大叔(シタイシュク)【宰相】
鄭の宰相。游吉ともいう。〜B.C.506。
B.C.549冬、楚が鄭を攻めたので、晋平公張骼輔躒に命じて楚軍にいどませ、地の利に明るい御者を鄭に求めたため、鄭人は占って射犬がその役となった。子大叔は「大国の人は相手しにくいものだ」と言うと射犬は「大国小国の区別なく、自分の上の人(主人)はみな同じく上の人だ」と答えた。子大叔は「そうではない。小さな岡には松や柏の大木はないものだ」と忠告した。
B.C.547、5月、秦と楚が攻め入ってきて、印菫父が捕らえられた。鄭人は財貨を贈って身柄をもらい受けようとし、時に子大叔が辞令を作成したが、子産はその口上を見て「これでは菫父をもらい受けることはできないであろう。秦の君が鄭のためにお骨折りになったことを感謝いたしますという方がよかろう」と言ったが、これに従わずに出かけた。はたして秦人は印菫父を渡さなかった。そこで子産の言葉どおりにすると秦人はこれを引渡した。
B.C.546冬、鄭簡公が会合から帰国する晋の趙武を垂隴でもてなした。子大叔は野有蔓草の詩を歌って、趙武に会ってかねての願いがかなったという意を寓すると、趙武は「ありがたいお心でございます」と答えた。
B.C.545子大叔は楚を聘問した。楚の漢水まで行くと楚人は子大叔に帰国して鄭簡公が朝見するよう要求した。子大叔は帰国して君に報告し、子展に「楚子はまもなく死ぬであろう。政道と徳行を修めようとせず、諸侯の来朝のみをむさぼり求めている。楚は今から10年も経たなければ、盟主となることはできないであろう」と言った。
9月、子大叔は晋を聘問し、楚に朝して宋で盟ったことを実行するという報告をした。
冬、はたして楚康王は没した。
B.C.544、6月、晋は杞に城壁を築いた。子大叔は公孫段とともに出かけた。子大叔は衛の大叔儀に会って話をすると、大叔儀は「杞の城壁工事はひどいものだ」と言った。子大叔は「晋は周室の衰えを心配しないで、夏の後裔の杞をかばっている。このようでは同姓の諸侯も見捨てるだろう。誰がなつき従うであろうか」と言った。
B.C.543、7月26日、良霄が叛乱を起こして戦死した。子大叔は晋に使いしていたが、禍が身に降りかかることを恐れて都に入らず副使に報告させた。
8月7日、子大叔は晋に亡命した。駟帯が子大叔を追いかけて鄭の酸棗で追いついた。子大叔は駟帯と誓いを結んで、副使の公孫肸を遣わして都に入って大夫たちと盟わせた。
8月12日、子大叔は都に帰った。
子産が公孫段にやってもらわなければならないことがおこったので、采邑を与えてやらせた。子大叔は「どうして伯石(公孫段)だけに邑を与えるのですか」と諌めたが、子産は「だれもが欲を求めて国の仕事を行う。邑を与えたところで、それは国の邑ではありませんか」と言った。
B.C.542、12月、衛の北宮文子が衛襄公の介添えとして楚に赴く途中、鄭に立ち寄った。 子大叔は馮簡子とともに北宮文子を迎えた。北宮文子は「鄭では礼が守られている。数代にわたってしあわせが続くでしょう」 と言った。
子大叔はすぐれた才能を持ち外交的交渉の手腕に優れていた。鄭では諸侯と何か交渉しようとすると、 子産がまず子羽に諸侯の事情を尋ね、様々な辞令を作らせた。さらに子産は裨と一つ車に乗って郊外に出かけてことの良し悪しを考えさせ、その上で馮簡子に告げて決断させ、 事が確定すると子大叔に授けて実行に移らせたため、鄭では外交上の失敗はめったになかった。
B.C.541子大叔の父の弟子南が罪を得て追放されることになった。子産はこのことを子大叔に相談すると「子南が追放されるのは国政によるもので、身内のいざこざによるものではありません。鄭に利益になることでしたら追放してください。どうしてためらう必要がありましょう」と答えた。
6月11日、子大叔は鄭簡公、子産、子皮公孫段印段駟帯とともに公孫段の家で盟いを結んで和合を図った。
冬、子大叔は楚を聘問し、楚王郟敖の葬式に参列し、楚霊王に即位の挨拶をした。
B.C.539、1月、子大叔は晋に出かけて晋平公の夫人少姜の葬儀に参列した。このとき晋の梁丙張趯が「あまりにも手厚いことです」とお礼を述べた。子大叔は「やむを得ません。貴国の文公襄公のときにはこのようなことはなかったが、今ではお気に入りの夫人の葬儀にも卿を遣わしています。また今年中に斉は後継ぎを入れるでしょうが、また参ることになるでしょう」と答えた。張趯は「今後は晋においでになる事もなくなるでしょう。晋は衰えやがて諸侯を失うでしょう」と言った。二大夫が退出すると、子大叔は「張趯は知者である。君子の末席に入るであろう」と言った。
B.C.537晋の韓宣子叔向が楚に使いする途中、子大叔と子皮は索氏でその労をねぎらい、楚王が危険であると忠告した。
B.C.536夏、楚の公子棄疾が鄭に立ち寄ったため、子皮は子産・子大叔とともに柤でこれを慰労した。公子弃疾は辞退したが、ぜひにと申したので面会したが、 公子弃疾の鄭簡公にまみえる作法は楚王にまみえるときと同様にうやうやしいものであった。子皮らはみな公子弃疾が楚王になるであろうと思った。
B.C.535、2月、子産が公孫洩子孔の後継ぎに、良正を良霄の後継ぎに立てて良霄の霊をなだめると、良霄のたたりがやんだ。子大叔は「たたりをしない子孔の後継ぎまで立てたのはどうしてですか」と問うと、子産は「良霄は不義であるのに彼だけ後継ぎを立てられると批難されないためです。人気取りも必要です。人気を取らないと民は信頼しないし、民は信頼しないと上に従わないものです」と答えた。
B.C.534夏、子大叔は鄭簡公とともに晋を聘問し、虒キの宮殿落成を祝った。晋の史趙が子大叔に会って「ひどいものですな。民を苦しめているのだから弔問すべきものです」と言うと、子大叔は「どうして弔問などしましょう。天下の諸侯も必ずお祝いするでしょう」と答えた。
B.C.533、1月、子大叔は楚霊王、魯の叔弓、宋の華亥、衛の趙黶と陳で会合した。
B.C.532、7月4日、晋平公が没した。鄭簡公が晋に弔問に出かけて黄河まで行ったが晋人が辞退したため、子大叔を晋に遣わした。
B.C.530、3月、鄭簡公が没した。埋葬のための通路を作っていたら、游氏(子大叔の家)の廟に突き当たった。子大叔は廟を壊さないように命じ「子産がどうして壊さないのかと尋ねたら、壊すにしのびませんが命令ですので壊しにかかりますと答えよ」と言いつけた。そのため子産はその廟を避けて通路をつくらせた。すると今度は他の役人の家に突き当たった。しかし子大叔は今度は「諸侯からの弔問客を長く待たせるわけにはいかない」と言ってその家を壊すよう願った。しかし子産は「お客様はわざわざ来てくださったのですから、どうして日中まで延びることを厭いましょう。来客にご迷惑をかけず、民にも害を与えないのなら、そこを避けるべきだ」と言って、迂回して道路を作って日中になってから埋葬した。
B.C.529鄭定公は平丘で諸侯と会合し、子大叔は子産とともに鄭定公を助けて列席した。子産は天幕を9張もって出かけ、子大叔は40張をもって出かけた。子大叔は多いことを後悔して宿営するごとに数を減らし、会合の地につくころには子産と同数になっていた。会合の前日、子産が天幕を張れと命じたが、子大叔はこれを止めて明日まで待つようにさせた。その夕方、子産はまだ張っていないことを聞いて張らせようとしたが、もはや張る場所がなかった。
B.C.526、3月、晋の韓宣子が鄭を聘問した。送別の宴で子大叔は寒裳の詩を歌って、韓宣子を頼りにしているが、頼りにならなければ他の人を頼りにしようという意を寓した。
B.C.524、5月14日、鄭で火災が起こった。裨竈は「わたしの言う通りおはらいをしないと、また火災が起こるであろう」と言った。子大叔は「宝は民を安らかにするためのものです。ここで惜しんではなりません」と言ったが、子産は聴き入れなかった。はたして火災は二度とは起こらなかった。
B.C.522子産が病気になると、子大叔に「わたしが死んだら、きっとあなたが政治を執ることでしょうが、徳ある者だけが寛大なやり方で民を服従させることができます。それに次ぐやり方は厳しいやり方で治めるのが最も良い。そもそも火は激しいので、それで死ぬ者は少ないが、水は弱々しいため、水のために死ぬ者は多い。だから寛大なやり方で治めるのは難しいのだ」と言った。数ヶ月後、没した。子大叔は執政として政治を執ったが、寛大に治めたため、はたして国中で盗賊が増えた。そこで萑符にいる盗賊を皆殺しにすると、盗賊は少し減った。
B.C.518秋、子大叔は鄭定公の介添えとして晋に赴き、范鞅に会った。范鞅が「王室の騒ぎをどうしたらよいだろう」と言うと、 子大叔は「老いぼれのこの身は、自分の国のことさえ治めることができません。どうして王室のことを考える暇がありましょう。これは大国の心配すべきことで、 わたしどもにはわからないことです。あなた様がどうか早く処理して下さい」と答えた。范鞅は諸侯の非難を恐れて韓宣子と相談して諸侯に会合の命を下し、 日取りを来年に定めた。
B.C.517夏、子大叔は晋の趙鞅、魯の叔詣、衛の北宮喜、 宋の楽大心、曹の人、邾の人、滕の人、薛の人、小邾の人と黄父で会合し、王室の乱について相談した。子大叔は趙鞅にお目にかかると、趙鞅はあいさつや立ち振る舞いの礼を尋ねた。子大叔は「わたしは亡き子産から聞いております。 先王は礼を制定して民が本性を失うことのないようにさせたと。礼は民の生存する根本であり、古の王者は礼を尊んだのです。 ですから自分でほどよく処置して礼にかなった行動をすることのできる者を立派な人というのです」と答えた。 趙鞅は「わたしは一生あなたの教えてくださったお言葉を守りましょう」と言った。
平王は呉との国境の町に城壁を築き、住民を移住させた。子大叔は「楚王はやがて死ぬであろう。民をその地に安らかに落ち着かせていない。 民はきっと悩むであろう」と言った。
B.C.512、6月23日、晋頃公が没した。鄭の使者が副使を連れて弔問しなかったため、晋の士弥牟が非礼を詰問した。 子大叔は「われわれ小国は国事多忙のときには人数をそろえることもできないことがありましたが、かつてはその無礼をおとがめになることはありませんでした。 しかるに今はおとがめなさるので、我々はどうすればよいのかわかりません。よろしくお考え下さい」と申したため、晋人はそれ以上詰問することはなかった。
B.C.506召陵の盟いが終わって帰る途中、子大叔が没した。
子濯(シタク)【武官】
鄭の臣。庾公差ともいう。弓の名手。
B.C.559子濯は弓の弟子である尹公他とともに孫文子について、衛献公を追うことになった。衛献公の御者は公孫丁であり、子濯は公孫丁の弟子であったため、わざと狙いをはずした。尹公他は「公孫丁はわたしにとっては縁が遠い」と言って衛献公の車を追ったが、公孫丁に射られて臂を負傷した。
後に鄭軍は衛と戦い、衛軍に追撃されることとなった。子濯はそのとき瘧(おこり)の発作が起きて弓を引くことができなかったが、追手が孫弟子の庾公斯であると知ると、「それならば生命は助かるぞ」と喜んだ。子濯の御者は「庾公斯は衛の弓の名人です。どうして助かるとおっしゃるのですか」と尋ねた。子濯は「庾公斯は弓を尹公他に学んだが、尹公他は私の門人だ。彼は正しい人であり、彼の選んだ友人や門人もきっと正しい人物に違いないからだ」と答えた。
庾公斯は追いついて「どうして弓を執られないのですか」と問うと、子濯は「瘧の発作が起きて、弓が執れないのです」と答えた。すると庾公斯は「私はあなたの孫弟子になります。それゆえあなたを射殺すには忍びません。しかし今日のことはわが君の公事ですから、使命を止めるわけにはいきません」といい、矢の鏃をはずし、礼式どおり四本の矢を放って、そのまま引き返してくれた。
司鐸射(シタクセキ)【文官】
魯の臣。
B.C.529晋昭公は諸侯と会合した時、季平子を捕らえて幕で覆い、狄の人に見張りをさせた。司鐸射は錦を懐に入れ、一つぼの飲物と氷を持って、はらばいになって季平子を助けようとした。しかし見張りの者に防がれたため、彼らに錦を与えて中に入った。
子仲(シチュウ)
子朝(シチョウ)【公子】
周王朝の王子。周景王の子。〜B.C.505。
B.C.520、4月19日、子朝は周景王に愛され後継者になると予想されたが、確定する前に景王が崩じてしまう。
5月4日、劉文公は新王(悼王)にまみえ、子朝を立てようとした賓起を攻め殺して、王子たちと単氏の家で盟いを結んだ。
子朝は官人や百工で職禄を失っている者や、周霊王・周景王の一族で不満を抱いている者たちを頼って謀叛を起こし、劉文公を追い出した。
6月、子朝に味方する環・姑・発・弱・ソウ・延・定・稠の王子たちは単穆公を追撃したが、逆に殺された。そのため子朝は周の京に逃げた。
6月21日、子朝は単穆公に攻められた。
6月26日、子朝の軍は鞏簡公の軍を大破した。
6月30日、子朝の軍は甘平公の軍を破った。
10月17日、子朝は単穆公と劉文公の率いる王軍を郊で破った。
子朝に味方する前城の人々は陸渾の戎を社で破った。
B.C.519、4月15日、単穆公が周の訾を攻め取り、劉文公が鄫の人と直の人を攻め取って支配下に入れた。
6月13日、子朝は京を去って尹氏の領地に入った。
6月17日、単穆公は阪道から、劉文公は尹道から進んで尹を討ったが、子朝はこれを撃退した。
6月25日、子朝は王城に入り、左巷に軍を進めた。
7月9日、鄩羅が子朝を荘宮に入れた。尹辛が劉文公の軍を唐で破った。
7月17日、子朝は再び劉文公の軍を鄩で破った。
8月29日、子朝の臣南宮極が地震で死んだ。
(史記では、子朝は悼王・敬王と争い、悼王を殺したことになっている)
B.C.518、1月5日、甘桓公が召簡公南宮嚚に連れられて 子朝にお目にかかり、味方についた。
1月22日、子朝は次第に勢力を増して鄔に入った。
6月8日、子朝の軍は敬王の支配する瑕と杏の邑を攻めると、2邑ともにつぶれた。
10月11日、子朝は成周の宝の圭玉を黄河に沈めて河神を祭り幸いを祈った。
B.C.516、5月5日、劉文公が子朝の軍を尸氏で打ち破った。
5月15日、王城の人と劉文公が施谷で戦ったが、劉文公は大敗した。
11月11日、子朝は鞏で晋軍に破られた。子朝についていた召伯は見限って子朝を追い出した。 子朝は召氏の一族、毛伯得尹氏固・南宮嚚と一緒に周の文書を持ち出して楚へ逃げた。 子朝は諸侯にふれて「穆后と太子寿が早く世を去られたので、単・穆のやからが自分の好む者を助け、年少の者を立てて先王のおきてを破りました。諸侯たちよ、 よくお考えいただきたい」と言った。
B.C.505春、楚は呉に侵攻されて混乱し、子朝はこれに乗じた周の臣に殺された。
子朝(シチョウ)【宰相】
蔡の宰相。太師。
子朝は楚の伍参と仲がよかった。
子張(楚)(シチョウ)【文官】
楚の臣。白公。
霊王は暴虐であったので、子張はしばしば諌めた。霊王はつらく思って「また話してくれ。行うことはできないまでも、しばらく聞きとどめておこう」と言った。子張は「君が行われるのを頼みにするからこそ、申し上げているのです」と言うと、退出し帰宅して、門をとざして登朝しなくなった。
子張(鄭)(シチョウ)【公子】
鄭の公子。
B.C.595夏、晋は荀林父の進言で、鄭を討つことを諸侯に告げ、閲兵を行って引き揚げた。鄭襄公は楚の人質となっていた子良を楚から召還し、代わりに子張は人質となって楚に送られた。
子張(鄭)(シチョウ)【公子】
鄭の公子。公孫黒肱、伯張ともいう。〜B.C.551。
B.C.555、10月、子張は鄭簡公と共に斉討伐に従軍した。
B.C.551、9月、子張は病気になったので、家老や親族を集めて、子のを立てて相続させ、家臣の数を減らし、祖先の祭りを質素に行い、余分の領邑は残らず君に返上して言った「乱れた世では貴い位についても貧しい生活に耐えておれば滅亡をのばすことができるといいます。よくよく身をつつしんで君と大臣にお仕えしなさい。生きながらえる道は身をいましめて用心することで、財を豊かにすることではない」
9月25日、子張は没した。君子は「立派に子を戒めている」と批評した。
子張(シチョウ)
顓孫師
子張(シチョウ)
豊巻
子重(シチョウ)【将軍】
楚の公子。左尹、令尹。左軍の将。名は嬰斉。荘王の弟。〜B.C.570。
B.C.598子重は宋に攻め入った。
B.C.597春、楚は鄭を討ち、これと和睦した。
6月、晋が鄭の救援に来たので、楚軍は北上してこれを待った。
沈尹は中軍の将、子重は左軍の将、子反は右軍の将であった。楚は晋と戦って、これに大勝した(邲の戦い)。
B.C.595楚軍が宋の都を囲んで引き揚げるとき、子重は申と呂の田地を取り上げて自分の田地にしてほしいと願い出て、楚荘王は承諾した。しかし巫臣が「申と呂の田地から兵車などを取り立てて楚の北方の防禦としています。これを取り上げると、晋や鄭が攻め寄せてきます」と諌めたので、楚荘王はとりやめた。このことから子重は巫臣を恨んだ。
B.C.589魯と衛が同盟して、斉の討伐に参加した。そこで子重は陽橋の戦いを起こして斉を援助した。
子重は「わが君は年がお若く、臣たちも前の大夫には及ばない。軍勢を多くしてこそ勝つことが出来る」と言って、大々的に民の戸口を調査して租税などの負債を赦し、身寄りのない老人に施し、貧乏人を助け、罪人を赦し、できるだけの軍勢をかき集め、楚王の親兵も全部出陣させた。
恭王は年が若くて出陣しなかったが、彭名が御者となり、蔡景侯が左役をつとめ、許霊公が右役をつとめた。蔡景侯と許霊公はまだ年が若かったが、無理に元服させて成人にした。
冬、子重は衛を討ち、勢いに乗じて蜀に出陣していた魯軍を攻撃した。魯の孟献子が楚軍に赴き、贈り物をして楚と交流したいと願い出て、大工・女工・機織女・それぞれ100人を贈り、公子を人質として和睦を申し出た。子重はこれを承諾した。
11月、子重は魯成公・衛の孫良夫・蔡景侯・許霊公・秦の右大夫・宋の華元・陳の公孫寧・鄭の公子子良・斉の大夫らと蜀で和睦の盟いを結んだ。諸侯は一方で晋を恐れていながら、こっそりと楚と盟っていた。
楚が軍を引き返して宋に着いたとき、公子衡は逃げて魯に帰った。
B.C.585子重は子反とともに巫臣の一族である子閻子蕩清尹弗忌らを殺し、さらに夏姫と淫通した黒要まで殺し、それらの人々の家財を分け合った。子重は子閻の家財を取り、沈尹と公子に子蕩の家財を分けさせ、子反は黒要と清尹弗忌の家財を取った。
これを聞いた巫臣は、晋から子重と子反に書面を送って「お前たちは罪のない人をたくさん殺した。わたしはきっとお前たちが君命に走り疲れて死ぬようにさせてやろう」と言った。
秋、鄭が晋についたので、子重は鄭を討った。
B.C.584秋、子重は鄭を討ち、氾で戦った。楚軍は鄭の共仲侯羽に敗れて、鄖公と鐘儀の二将が捕らえられた。
8月、呉が楚の州来に侵入したので、子重は出陣先の鄭から、州来救援の命を受けて、いそぎ対応した。子重と子反はこのとき、1年で7回も君命に引きまわされた。
B.C.582秋、晋が鄭成公を幽閉したので、子重は晋の与国である陳を討って鄭を助けた。
11月、子重はさらに進んで莒を討った。
11月6日、楚軍は莒の渠丘に入城した。
11月18日、楚軍は莒の都を陥落させた。楚軍は勢いに乗じて鄆に攻め入った。
B.C.575、4月、晋は鄭討伐の軍を発し、鄭は楚に援軍を求めた。子重は左軍の将として参戦した。
6月、楚軍と晋軍は鄢陵で対陣した。楚恭王は高い兵車に乗って晋軍の様子を眺めた。子重は大宰伯州犂を楚恭王の後ろにつけさせて、晋の内情を説明させた。
戦いの最中、晋の欒鍼が子重の旗を見つけて酒を贈ってきた。子重は「わたしが以前、あなたに晋の軍はどのようであるか尋ねた時、常に余裕があると答えられたことは、よく覚えています」と言って酒を受けて飲み、使者を帰してから再び進撃の太鼓を打ち鳴らした。
楚軍は戦いに敗れて瑕まで引きかえした。楚恭王は子反のところに使者を遣って自殺しないよう伝えた。子重は子反のところに人を遣って「以前、大敗した将(子玉)はその責任をとって自殺した。どうして君は自決しないのか」と言った。楚恭王はこれを聞いて自殺を止めようとしたが、間に合わず子反は自殺した。
B.C.574夏、晋・魯・斉・宋・衛・曹・邾・単・尹が会合して鄭を討った。
6月、子重は楚恭王の命で鄭を助けるため首止に陣取ったので、諸侯の連合軍は引き揚げた。
B.C.573宋が彭城を攻めた。
11月、子重は命ぜられて彭城を助けて宋を討った。宋は晋に援軍を請うたため、晋は諸侯とともに宋を助けた。楚軍はこれをみて退却した。
B.C.570春、子重は呉を討ち、精鋭の軍で鳩玆の戦いに勝利し、衡山に進み、そこで鄧廖を将として組甲の士300人と被練の歩兵3000人を率いて呉に深く攻め込ませた。
呉は途中で待ち伏せをして楚軍を攻撃し、鄧廖を殺した。逃げることのできたのは、わずかに組甲の士80人と被練の歩兵300人だった。
子重はすでに帰国して大敗を知らなかったので、祖廟で祝杯をあげていた。
呉軍が楚に攻め込んで駕を占領した。世の君子は鄧廖の戦死と駕の占領について「子重が戦いで得たものは、失ったものに及ばない」と批評したため、子重は責められて気の病にかかって死んだ。
史朝(シチョウ)【文官】
衛の臣。
B.C.535史朝は夢に康叔封を見て、公子を立てよといわれた。また孔成子も同じ夢を見た。8月に衛襄公が没した。衛襄公の夫人姜氏には子がなく、お気に入りのシュウ姶が孟縶と公子元を生んでいたが、孟縶は足が不自由であった。史朝は孔成子とともに占いを立て孟縶を廃して公子元を立てた。
史趙(シチョウ)【文官】
晋の臣。
B.C.534鄭簡公子大叔が虒キの宮殿落成を祝うため来聘した。史趙は子大叔に会って「ひどいものですな。民を苦しめているのだから弔問すべきものです」と言うと、子大叔は「どうして弔問などしましょう。天下の諸侯も必ずお祝いするでしょう」と答えた。
10月、楚が陳を滅ぼした。晋平公が「まだでしょう。陳は顓頊の血筋です。顓頊は歳星が鶉火に宿ったときに滅びましたから、陳もそうでしょう。一旦滅びても再興するでしょう」と答えた。
B.C.531楚が蔡を攻めたため、晋は諸侯と会合した。これを伝え聞いた史趙は「魯の君は国を守ることができず、都の外に出るであろう」と言った。側役が「どうしてですか」と問うと、史趙は「母の死を悲しまないということでは、祖先の霊はこの君にはよりつかないからだ」と言った。
漆彫開(シツチョウカイ)【在野】
孔子の弟子。姓は漆彫、名は啓、字は子開または子啓、子若。B.C.540〜。
魯の人とも蔡の人ともいう。
孔子が漆彫開を仕官させようとすると「私にはまだその資格があるとは信じられませぬ」と答えた。
孔子はそのことばをよろこんだ。
漆彫哆(シツチョウシャ)【在野】
孔子の弟子。字は子斂。
漆彫徒父(シツチョウトホ)【在野】
孔子の弟子。
実沈(ジツチン)【神】
帝嚳の子。
兄の閼伯と仲が悪くて、毎日干と戈をもって打ち合っていた。はこれをよくないと考えて、実沈は山西に移され、参を祀ることを司った。
隰党(シットウ)【文官】
斉の臣。
B.C.528、12月、莒の公子が斉に庚与を迎えにきた。隰党は公子鐸とともに庚与を莒に送り届けた。
子丁(シテイ)【公子】
鄭の公子。〜B.C.565。
B.C.565鄭の公子たちは鄭釐公が殺されたので、子駟を討とうと相談していた。
4月12日、子駟は先手を討って子狐子煕子侯・子丁の4人の公子に罪を着せて殺した。
士貞子(シテイシ)
士渥濁
士貞伯(シテイハク)
士渥濁
子展(鄭)(シテン)【宰相】
鄭の宰相。子罕の子。名は舎之。〜B.C.544。
B.C.565冬、楚の子嚢が鄭を討ち、蔡を侵した罪を責め正した。 子展は子孔子蟜とともに晋の援軍を待つべきだと主張し「小国が大国に仕える道は信義です。 小国が信義を守らなければ、戦がいつも起こってたちまち滅びるでしょう。晋の援軍を待つべきです。晋の君はすでに政事に明るく、四軍はすべてそろっており、 8人の将軍は仲がよい。きっと鄭を見捨てることはないでしょう。一方、楚は遠方から出陣しているので、きっと早く引き揚げるでしょう。 心配するには及びません」と言ったが、子駟子国子耳が楚につこうとしたので、 鄭簡公は楚についた。
B.C.564、11月10日、鄭簡公は晋と鄭の戯で同盟し、晋に降服した。このとき鄭の六卿である子駟・子国・子孔・公孫輒・ 子蟜・子展とその家来や嫡子が参加した。このとき鄭は「大国(晋と楚)が鄭に恵みを施さず、 武力をもって服従を強要しており、鄭は神々の祭りを受けることができず、民も土地の利を楽しむことができない」と盟いの文を読んだ。 晋の荀偃が立腹して「その盟いの言葉を改められよ」と言うと、子展は「神霊に告げて誓いの言葉を結びました。 これが改められるなら、貴国のような大国に背いてよいことになります」と答えた。晋はそのまま盟いを結んで引き揚げた。
閏12月に晋の率いる連合軍が陰阪を渡って鄭に攻め入り、鄭の陰口で止まって引き揚げた。子孔が追撃すべきであると言ったが、子展はこれに反対した。
今度は、楚恭王に攻められた。子駟が楚と和睦しようとすると、子孔と子蟜が反対した。子駟と子展は 「われわれが晋に盟ったのは、晋が強い国であるからです。今、楚が攻めてきたのに、晋が助けにこないのは楚が強いということになります。 無理にしいられた盟いというものには実質はないものです」と言って、楚と和睦した。
B.C.563、6月、鄭が楚とともに宋を討つと、衛が宋を救うために衛の襄牛まで軍を進めてきた。
子展「衛を討ちましょう。もし討たなければわが国が楚についているとは言えなくなる。晋に責められ、楚にも責められたら、国はどうにもならない」
子駟「国は疲弊するだろう」
子展「疲弊しても滅びるよりはましではありませんか」
大夫たちがみな子展に同意したので、鄭は衛に攻め入った。
B.C.562、4月、鄭簡公は晋と楚にかわるがわる攻められることで悩んでいた。大夫たちが「晋は楚より強い。楚がわが国を攻めなくなったので、 しっかりと晋につくことができる」と言ったが、子展は「わが国が宋を攻めれば、晋はわが国を攻めましょう。その時に晋につけば楚が攻めてくるに違いない。 その時にまた楚につけば晋は大いに怒ってわが国を攻めるでしょう。このようにしばしば晋がわが国を攻めると、楚は攻め込んでくることができない。 その時にこそ、晋にしっかりとつきましょう」と進言した。
そこで鄭簡公は国境を守る役人に命じて宋に悪事をしかけさせた。すると宋の向戌が鄭に攻め込んできて、鄭は大敗した。 子展は「宋を討ちましょう。そうすると諸侯はすぐにわが国を討つでしょう。そこで諸侯に降服して楚に報告しましょう。楚が攻めてきたら楚につきましょう」 と進言した。
子展は鄭簡公の命で宋を討った。
はたして諸侯は会合して鄭を討った。
10月10日、子展は晋の軍中にでかけて晋悼公と盟った。
B.C.555、10月、子展は鄭簡公と共に斉討伐に従軍した。
B.C.554子孔がわがまま勝手に国政を行ったので、人々は子孔を裁いて有罪とした。そのため子孔は家兵と子革子良の家兵で家を守った。
8月12日、子展と子西は国人を率いて子孔を殺してその家財を分け合った。
鄭人は簡公が弱かったので子展を摂政として君事を代行させ、子西を宰相として国政を執らせ、子産を卿に任命した。
B.C.551、11月、游眅が人の妻を奪って殺された。子展はこのことから游眅の子の子良をやめさせ、その弟の大叔を立てて「子明(游眅)のような愚か者は用いないことにしよう」と言って、妻を取られた者をもとの住居に住まわせ、游氏にはその男を恨んではいけないとさとした。
B.C.548、6月24日、子展は子産とともに兵車700台を率いて陳を討ち、陳都を陥落させた。子展は陳の公宮に入ってはいけないと鄭軍に命じ、子産と一緒になってみずから軍を宮門のところで止めた。子展は陳哀公にお目にかかると、再拝稽首し、さかずきをささげて陳哀公に献じた。子展は陳の司徒に人民を返して治めさせ、司馬に兵符を返して軍事を司らせ、司空に土地の台帳を返して、陳を元通りに治めさせて軍を引き揚げた。
10月、子展は鄭簡公の介添えとなって晋に出かけ、晋が陳の捕虜を受け入れたことに対するお礼を言った。
B.C.547、3月1日、簡公は陳に攻め入った軍功を賞し、子展に先路(車)と三命の服を与え、続いて8邑を贈った。
7月、鄭簡公は衛献公を救うため晋に出かけて訴えた。子展は鄭簡公を助けて将仲子兮の詩を歌って、衛献公を捕らえたのはその罪によるとはいえ、世人のうわさの恐るべきことを諷した。
10月、楚が攻めてきた。子産が楚軍はすぐに撤退すると進言したため、子展はこれを防がなかった。
B.C.546冬、鄭簡公が会合から帰国する晋の趙武を垂隴でもてなした。子展は草虫の詩を歌い、わが憤懣を訴えて鄭君と大夫がよくないのを正して欲しいという意を寓した。趙武は「わたくしごとき使者の聞くものではありません」と言った。後に趙武は「子展の家は最後まで残るでしょう」と言った。
B.C.544子展は手放せない政務があったため、印段を代理として周に行かせて周霊王の会葬をさせた。良霄が「印段は年が若くて適任ではない」と言ったが、子展は「行かないよりはよい。王事は揺るがせにしてはならない。どうして上卿が行かなければならないことがあろう」と言った。
夏、子展は没した。
子展(衛)(シテン)【公子】
衛の公子。衛献公の弟。
B.C.559、4月26日、孫文子が叛乱を起こしそうだったので、子展は斉に出奔した。
衛献公が斉に出奔してライの地に住まわされた。魯の臧武仲がライにやってきてお見舞いした。 衛献公のことばが暴虐であったため、臧武仲は「衛君はきっと帰国できないだろう。彼のことばは道理がなく、けがらわしい」と言った。 子展と子鮮はこれを聞いて臧武仲と話をしたが、ふたりの言葉は道理にかなうものであった。臧武仲はよろこんで「衛君はきっと帰国するだろう。 あのふたりが君を補佐している」と言った。
子都(シト)【神】
子都には、諸説あり、古の美女とも美男子ともいい、公孫閼のことであるともいう。
子蕩(楚)(シトウ)【文官】
楚の臣。巫臣の一族。
子重子反子閻・子蕩や清尹弗忌らを殺し、さらに黒要まで殺し、 それらの人々の家財を分け合った。子蕩の家財は沈尹と公子罷が取った。
子蕩(楚)(シトウ)【宰相】
楚の宰相。令尹。エン罷、薳罷ともいう。
B.C.546秋、楚と晋は和睦をした。
冬、子蕩は晋に出かけて立ち会って盟いを結んだ。子蕩は晋平公にもてなされ、宴が終わって退出するとき、子蕩は既酔の詩を歌って晋平公のもてなしを感謝し、その幸いをお祈りする意を寓した。晋の叔向は「エン氏が楚で代々続いているのはもっともなことだ。他国に使いしてよく行き届いている。子蕩はやがて楚の政治を執ることになろう」と言った。
B.C.543、1月、郟敖の命で、子蕩は魯を聘問し、新しい王が即位したことを通知した。魯の叔孫豹が「令尹の王子の政治ぶりはどうですか」と尋ねると、子蕩は「わたしは身分が卑しい者であり、どうして令尹の政治がわかりましょう」と答えた。叔孫豹は「令尹は大事を引き起こそうとしている。子蕩はそれに加担しようとして、実情をかくしている」と話した。
B.C.541冬、子蕩は楚霊王が即位すると令尹に任じられた。
B.C.537子蕩は晋に出かけて晋の公女を迎えた。途中に鄭に立ち寄ると、氾で鄭簡公のねぎらいを受けた。
B.C.536秋、楚霊王の命で蔿洩は徐を討った。すると呉が徐を助けようとしたため子蕩は呉を討った。子蕩は豫章に陣を取り、全軍は乾谿に宿営したところ、呉軍に呉の房鐘で破られたため、子蕩は敗戦の罪を蔿洩に負わせてこれを殺した。
子蕩(宋)(シトウ)
楽轡
子囊帯(シドウタイ)【武官】
斉の臣。
B.C.516斉が魯昭公を魯に入れようとして進軍し、魯軍と魯の炊鼻で戦った。 子囊帯は魯の洩声子を追いかけて怒鳴りつけてきたため、洩声子は「軍中では個人的な怒りはない。 しかえしをすれば個人的な怒りになる。が、ひとつ相手になってやろう」と言った。子囊帯がまたも怒鳴りつけたため、洩声子も怒鳴り返した。
子突(シトツ)【武官】
周王朝の臣。
B.C.688、1月、子突は衛の乱れを治めた。
司徒老(シトロウ)【文官】
魯の臣。季氏の家臣。
B.C.528司徒老はキ慮癸とともに南蒯に「協力しようと思っておりましたが、持病がおこって参加できませんでした。これから盟いましょう」と言った。南蒯はこれを許したが司徒老らは人々が集まると南蒯を脅かして「あなたが善処しなければ、費の人々はあなたを恐れないでしょう」と言った。そのため南蒯は5日の猶予を願って、やがて斉に出奔し、費は魯に返された。
子南(楚)(シナン)【宰相】
楚の宰相、公子。名は追舒。楚荘王の子。箴尹、令尹。〜B.C.551。
B.C.558子南は箴尹に任じられた。
B.C.552夏、令尹子庚が没した。楚康王蔿子馮を令尹に任命しようとしたが病気と称して辞退した。楚康王はあきらめて子南を令尹に任命した。
B.C.551観起は子南に寵愛されていたので、数十乗の馬を持ち、楚人はこれを心配した。楚康王は子南の罪を責め正して朝廷で処刑し、観起も車裂きにされ、国の四方にふれ回った。
子南(鄭)(シナン)【武官】
鄭の臣。公孫楚、游楚ともいう。
B.C.541子南は徐吾犯の妹が美人であったため、これを娶る約束をした。しかし公孫黒もこれをもとめたため、徐吾犯は妹に選ばせることにした。妹は「子皙(公孫黒)は美しい方です。しかし子南は男らしい方です。男は夫らしく、女は女らしいのが世に言う順道というものです」と言って子南を選んだ。公孫黒は立腹して、衣服の下によろいを着こんで子南を殺してその女を奪い取ろうとした。子南はこれに気付いて戈を手にして公孫黒を追って切りつけ、公孫黒は負傷して帰った。子産は「どちらの言い分も正しい場合には年下で身分の低い方に罪があるとするものです」と言って子南に亡命をすすめた。
5月3日、子南は呉に追放された。
子甯(シネイ)【宰相】
楚の宰相。令尹。子西の子。
B.C.479子西は白公に殺された。反乱を鎮めた沈諸梁は子西の功績を思って、子甯を令尹に任じた。
司敗(シハイ)【文官】
陳の臣。名は不明。司敗は官名(司寇と同義)。
ある日、司敗は孔子に尋ねた。
司敗「あなたの主君である魯公(昭公)は礼を知っておられるか」
孔子「知っています」
司敗は孔子の門人巫馬施に会って「君子はえこひいきをせぬものだと聞いているが、あなたの先生はどうして魯公の肩を持ったのだろう。魯公は呉から夫人を娶られたが、呉と魯は同姓の国である(同姓同士の結婚はタブー)」と言った。これを聞いて孔子は「私は本当に幸せ者だ。過ちがあると、他の人が必ず教えてくれる」と言ったという。
子貝(シバイ)【武官】
楚の臣。
B.C.611楚荘王は庸を討伐し、軍を2隊に分けて両道から進撃させた。子貝は仭から、闘椒は石溪から庸を攻めてこれを滅ぼした。
司馬烏(シバウ)【文官】
晋の臣。
B.C.514秋、祁氏・羊舌氏が滅び、その土地は10の県に分けられ、司馬烏は平陵の大夫となった。 司馬烏は周の王室のために努力したためであり、魏献子のお目にかかったからである。
司馬演(シバエン)
董褐
司馬悍(シバカン)【文官】
斉の臣。名は悍。
ある男が斉湣王に「王には、どうして土地を周最に贈って、西周の太子に立てようとされないのですか」と言った。そこで斉湣王は司馬悍に命じて土地を贈らせようとした。
すると説客の左尚が司馬悍に「もし西周の君が斉王の申し入れを聴き入れなければ、あなたは処理に窮し、西周との交わりも絶えてしまいます。それよりも、あなたはまず誰を太子に立てるのかを聞かれるべきです」と進言したので、司馬悍はこれに従った。
司馬彊(シバキョウ)【文官】
宋の臣。楽喜の孫。
B.C.522夏、華氏・向氏の騒動が起き、元公の一味である司馬彊・楽舎公孫忌・公子向宜向鄭・楚の太子・小邾の公子は鄭に出奔した。
司馬靳(シバキン)【武官】
秦の臣。司馬錯の孫。〜B.C.256。
B.C.260白起に従い、趙を長平で破る。
B.C.256白起とともに杜郵で自害を仰せつけられ、華池に葬られた。
施伯(シハク)【文官】
魯の臣。魯恵公の孫。
B.C.685斉桓公管仲を生け捕って斉に送るよう要求してきたとき、施伯は「斉が管仲を得ようとするのは殺すためではなく、登用するためです。管子は天下第一の人材であり、彼が登用されれば魯にとって不利です。彼を殺して屍を与えるのがよいでしょう」と進言する。魯荘公は管仲を殺そうとしたが、斉の使者が再度請うたので、結局魯は管仲を生きたまま斉に渡した。
嗣伯(シハク)【王】
衛伯(4代目)。考伯の子。
子白(シハク)【王】
虢(小虢)公。
B.C.759周平王に命ぜられて儼狁を討ち、洛水の北において敵の首を斬ること500、獲得した捕虜は50であった。
子伯(衛)(シハク)【武官】
衛の臣。
B.C.660、12月、衛は狄に攻められる。
渠孔は衛懿公の御者となり、子伯は右となり、黄夷は先陣となり、孔嬰斉はしんがりとなったが、狄軍に大敗して衛は滅びた。
子伯(衛)(シハク)【公子】
衛の公子。〜B.C.559。
B.C.559子伯は衛献公に命ぜられて、子蟜子皮とともに丘宮で孫文子と会合して仲直りをしようとしたが、3人とも孫文子に殺された。
子伯(宋)(シハク)【将軍】
宋の将軍。司城。
B.C.609、12月、文公は公子昭公の子を殺し、戴公荘公桓公の子孫に命じて武氏(武公の子孫)を司馬子伯のやかたで攻めさせ、武氏・穆氏の子孫らを国外に追放した。
子貉(シハク)【在野】
少妃姚子の兄。
子貉は早死にして、家には世継がなかった。
士伯(シハク)
先蔑
子莫(シバク)【在野】
魯の賢人。
子莫は魏の公子魏牟とも、顓孫子莫であるともいう。
楊朱墨翟の中間を取る中道主義の人とされ、孟子は彼を中庸に近いと評した。
司馬固(シバコ)【宰相】
宋の宰相。
文公の臣咎犯とは親交があり、文公(重耳)が亡命してきたとき宋の国家経営は多難であるため、大国に亡命するよう勧める。
司馬梗(シバコウ)【武官】
秦の臣。
B.C.259太原を平定し、ことごとく韓の上党の地を保有する。
司馬侯(シバコウ)
女叔斉
司馬耕(シバコウ)【在野】
孔子の弟子。字は子牛。
司馬耕は口数多く、さわがしい性質であった。
仁について孔子に問うと、孔子は「仁者はことばを言い渋るところがある」と言った。
「ことばに言い渋るところがあれば、仁と言ってよいでしょうか」と問うと、「仁をおこなうのは難しい。されば、ことばに言い渋るところがないわけにはゆくまい」と答えた。
司馬公子燮(シバコウシショウ)
司馬錯(シバサク)【将軍】
秦の将軍。客卿。
B.C.316蜀に内乱があり、苴侯が秦に助けを求めた。一方で韓が秦に攻めてきた。恵文君はこれを司馬錯と張儀に問うた。
張儀は韓を討つことが上策であると説いた。
張儀「韓を討ち東西両周に迫り、周君(慎靚王)に天子としての責任を問えば、九鼎や宝器を秦に差し出すでしょう。そして天子を抱え込んで天下に号令すれば、諸侯で従わぬものはないでしょう。
一方、蜀は西方僻遠の国で、戎狄の首長です。これを取っても覇王の名を成すこともできず、その地を得ても利益となりません」
司馬錯「そうではございません。『国を富まさんと欲する者は、その地を広むるにつとめ、兵を強くせんと欲する者は、その民を富ますにつとめ、王たらんと欲する者は、その徳を博むるにつとむ』と言います。いま大王の土地は狭く、人民は貧しゅうございます。ですから臣は、実行しやすいことから着手したいと存じます。今、蜀はいにしえのごとく乱れており、これを取るのはたやすいのです。その土地を占領すれば、国土を広めるに十分であり、人民を裕福にするに十分です。しかも蜀を取っても諸侯はそれを横暴とはしません。そのため秦は利益を得るだけでなく、乱脈を正したという名誉も得ることができます。
ところで、韓を討ち天子をおびやかすことは不名誉であり、不義の汚名を受けながら周を攻めるのは危険なことです」
恵文君は司馬錯の言に従い、ついに兵を起して蜀を討った。
司馬錯は張儀とともに苴侯の救援に応対して、蜀を討ち、10ヶ月でこれを滅ぼした。
さらに巴の涪水を下り、楚の商於の地を取り、黔中郡を置いた。
B.C.301蜀侯が叛乱したので、司馬錯はこれを討伐し、蜀を平定した。
B.C.291司馬錯は白起とともに魏を討ち、軹と鄧を取った。
B.C.289司馬錯は魏を討ち、垣・河雍・決橋を攻めてこれらを取った。
B.C.286司馬錯は魏を討ち、河内を攻めたので、魏は秦に安邑を献じた。
B.C.280司馬錯は楚を討ち、隴西から蜀に出て、楚の黔中を落とした。
司馬子期(中山)(シバシキ)【武官】
中山国の臣。
中山君が都の士大夫をもてなした。そのときふるまわれた羊の吸い物が行き渡らず、怒った司馬子期は楚へ出奔し、楚王を説いて中山国を討たせた。
司馬子期(楚)(シバシキ)
司馬叔游(シバシュクユウ)【文官】
晋の臣。
B.C.514祁勝鄔臧が家を共有していてだらしがなかった。 そこで祁盈はふたりを捕らえようとして司馬叔游に相談すると、司馬叔游は「捕えると災いから逃れられないでしょう。 しばらく思い止まれてはいかがでしょう」と言った。しかし祁盈は「わが家だけで責め正してやろう。国には関係ない」と言って早速ふたりを捕らえた。 このことをきっかけに祁盈は晋人に殺されて、一族は族滅させられた。
司馬尚(シバショウ)【武官】
趙の臣。
B.C.229秦に攻められる。司馬尚は李牧とともにこれを討ったが、司馬尚は罷免される。
司馬穰苴(シバジョウショ)【将軍】
斉の将軍、兵法家。大司馬。田完の後裔。姓は田、名は穰苴。
司馬穰苴は、斉景公に仕えて大司馬となったので、司馬穰苴と称す。
B.C.548斉は晋と燕に攻められ、景公はこれをすこぶる憂慮した。
晏嬰は司馬穰苴を景公に推薦して「穰苴は田氏の妾腹の出でありますが、文においては衆を引きつけ、武においては敵を脅すことのできる人物であります」と言った。
景公は穰苴を召して兵事を語り、大いに気に入り、将軍に登用した。そして燕・晋を防がせようとしたが、司馬穰苴は「わたくしはもともと身分卑しく、まだ士卒や民に信頼されておりません」と言って拒否した。
そこで景公は荘賈と同行させた。
司馬穰苴は荘賈と「明日正午、軍営で会いましょう」と約束したが、荘賈はおくれて夕方にやってきた。
司馬穰苴は「どうして刻限におくれたのか」と問うと「ふつつかなことであった。大夫、親戚らが送別してくれたのだ」と詫びた。
司馬穰苴は「将軍たる者は、出陣の命を受けたその日から、家を忘れ、軍に臨んで軍令を発すれば肉親を忘れ、撥をとって軍鼓を打つこと急なれば身を忘れるものである。
いま、敵が深く侵入し、国君は席についても安眠できず、民の命はすべて国君の一身にかかっている。このようなときに送別などとはなにごとか」と言い、すぐに軍正を招いて問うた。
「軍法で刻限に遅れたときの罪はどうか」
「斬罪であります」
荘賈は恐れて、従者に命じて景公に告げさせたが、それが帰らないうちに、司馬穰苴は荘賈を斬った。
そのため士卒はみな震え上がった。
その後景公の使者が荘賈を許すよう伝えてきた。司馬穰苴は「将たる者は陣中におるかぎり、君命でも聴かないことがある」と使者に言った。
司馬穰苴は給与はすべて士卒に振る舞い、士卒と糧食を等しくし、宿舎・井戸・かまど・飲食・病気のことまで身をもって心をくばった。このため3日にして兵は整備され、病人もみな同行をのぞみ、先を争い奮い立って戦地に赴いた。
燕・晋はこれを聞いて退却し、司馬穰苴は失地を奪還した。
景公はこれをねぎらい、大司馬に任命した。
大夫の鮑氏・高氏・国恵子らが司馬穰苴を忌み嫌ったため、司馬穰苴は讒言され、景公に疎んじられた。
司馬穰苴は病を発して没した。
威王は司馬穰苴の兵法を真似たため、諸侯はみな斉に入朝した。威王は大夫に命じて、司馬穰苴の兵法を研究させ、それに司馬穰苴の法を加えて「司馬穰苴兵法」を著させた。これが今伝えられている『司馬法』であるといわれています。
司馬翦(シバセン)
昭翦
司馬竈(シバソウ)【文官】
斉の臣。
B.C.539冬、欒子雅が没した。司馬竈は「子雅を失いました」と報告すると晏嬰は「惜しいことです。子の子旗は禍から逃れられないでしょう。これで姜姓の一族は衰えました。姜氏は危ういことよ」と言った。
B.C.520春、斉景公は莒を討った。莒公が和睦を申し出たため、司馬竈は命を受けて莒公と盟いを結び、莒公もまた斉に出かけて稷門の外で盟いを結んだ。
司馬ソウ戻(シバソウレイ)
司馬督(楚)(シバトク)【武官】
楚の臣。
B.C.530冬、蕩侯潘子・司馬督・囂尹午陵尹喜は徐を包囲して呉に圧力をかけた。
B.C.529司馬督ら5将は徐から帰ったが、呉軍に豫章で邀撃されて、司馬督らは捕えられた。
司馬督(晋)(シバトク)【武官】
晋の臣。
B.C.520、12月8日、司馬督・賈辛荀躒籍談は、軍を率いて陰・侯氏・谿泉に軍を進め、前軍は社に陣を取り、さらに王の軍は氾・解に進軍し、その前軍は任人に陣を取った。
司馬弥牟(シバビボウ)【文官】
晋の臣。
B.C.514秋、祁氏・羊舌氏が滅び、その土地は10の県に分けられ、司馬弥牟は鄔の大夫となった。
司馬卯(シバボウ)【武官】
楚の臣。
B.C.597冬、楚が蕭を討ち、楚兵は蕭の城壁にせまった。蕭の還無社が司馬卯に話しかけて、知り合いの楚の申叔展を呼んで助けてもらった。
子反(シハン)【将軍】
楚の将軍。右軍の将。司馬。名は側。字は子反。〜B.C.575。
B.C.598冬、楚荘王夏徴舒の乱に介入して夏姫を捕えた。
楚荘王は夏姫を妾に迎え入れようとしたが、巫臣が「いけません。君は夏徴舒の罪を討たれたのに、今、夏姫を妾に迎え入れれば、 色をむさぼり美人を得るためであったということになります。君にはどうかお考え下さい」と諌めたので、楚荘王は思いとどまった。
すると子反は夏姫を妻に娶ろうとしたが、また巫臣が「この夏姫は不吉な人です。御叔を死なせ、霊公を弑し、 その子夏南(夏徴舒)を殺させ、孔寧と儀行父を出奔させ、陳を滅ぼしました。 こんな不吉な人はありません。世の中には美しい女は多い。何もこの人だけではありますまい」と諌めたので、子反も思いとどまった。
かくて楚荘王は夏姫を襄老に与えた。
B.C.597春、楚は鄭を討ち、これと和睦した。
6月、晋が鄭の救援に来たので、楚軍は北上してこれを待った。
沈尹は中軍の将、子重は左軍の将、子反は右軍の将であった。
楚は晋と戦って、これに大勝した(邲の戦い)。
B.C.595楚は宋を攻め、宋都を包囲して7ヶ月になった。
B.C.594、5月、楚軍は宋の郊外に家を作り、そこに引き下がって耕作して持久の計を取った。宋の華元はこれを恐れて、夜分ひそかに子反に会いに行った。華元は子反の寝台に上がり、子反を呼び起こして「宋は今や子どもを交換して食べあい、使者の骨をくだいて炊事をしている有様です。どうか30里退却してください。そうすればどんなご命令にも従います」と申し入れた。子反は不意をつかれてびっくりし、即座にその申し入れに従うと約束した。
子反はそれを楚荘王に告げ、結果楚軍は退いた。
B.C.589巫臣が斉を訪聘したとき、夏姫を連れて晋へ亡命した。これを聞いた子反は贈り物をつかって巫臣の仕官の途を防ごうとしたが、楚恭王に戒められたため取りやめた。
B.C.587、11月、鄭が許を討ったため、晋が許を救って鄭を討った。
子反は鄭の救援に駆けつけた。鄭悼公と許霊公は子反の前で言い争って、そのさばきを求めた。皇戌が鄭悼公の代理人となって弁じたので、子反はこれをさばくことができず「両国の君には、わが君のところまでおいでください。そこで話をお聞きすれば、両国は仲直りできるでしょう」と言った。
楚が捕えた鄭の公子睔のとりなしをして、彼を鄭に帰してやる。睔はのちに鄭公となった。(成公)
B.C.585子反は子重とともに巫臣の一族である子閻子蕩清尹弗忌らを殺し、さらに夏姫と淫通した黒要まで殺し、それらの人々の家財を分け合った。子反は黒要と清尹弗忌の家財を取った。
これを聞いた巫臣は、晋から子重と子反に書面を送って「お前たちは罪のない人をたくさん殺した。わたしはきっとお前たちが君命に走り疲れて死ぬようにさせてやろう」と言った。はたして呉は楚に侵攻して、子反と子重は1年で7回も君命に引きまわされた。
B.C.579、5月、楚と晋は宋の西門で盟約した。このとき子反は晋の郤至に「もし楚・晋の両君がお会いすることがあったら、それは戦場でしょう」と言った。郤至は帰国してこのことを話すと、晋の士燮は「礼をわきまえない者は約束を実行しないであろう」と言った。
B.C.576楚恭王が鄭・衛を討とうとした。
子嚢「晋と盟ったばかりなのに、これに背くのはいけないことではありませんか」
子反「敵に対しては利を見て進むべきだ。盟いの義理など考える必要があろうか」
そこで楚恭王は鄭に攻め入った。
B.C.575、4月13日、晋は鄭討伐の軍を発した。鄭が楚に救いを求めたので、楚恭王は子反を中軍の将、子重を左軍の将、子辛を右軍の将として鄭を救う軍を発した。
楚軍が申を通過した時、子反は申で隠居している申叔時に面会して勝敗を問うた。申叔時は「今、楚は民に恵みを施さずして棄て去り、他国との友好を絶ち、神聖な盟いをやぶり、農時を顧みず兵を起こし、民を疲労させて欲望をとげようとしている。これでは一命をかけて戦う者があろうか。しっかりやりなさい。再びお目にかかることはないでしょう」と言った。
鄭の使者姚句耳は楚軍よりも先に鄭に帰ったが、子駟に「進み方が早すぎて乱れ、思慮に乏しく隊伍が乱れています。楚軍はおそらく役に立たないでしょう」と報告した。
6月29日、楚軍は晋軍と鄢陵で戦ったが、夜になっても終わらなかった。子反は役人に命じて死傷者を調べ、戦死者を補充し、武器をつくろい、兵に食事をとらせて攻撃命令を待たせた。
楚軍の様子を聞いた晋の苗賁皇は同じように戦の準備を整えて、一方でわざと楚の捕虜を逃がした。その捕虜が楚軍に戻って晋軍が次の日も合戦する準備をしていると報告した。そこで楚恭王は子反を呼び寄せて相談しようとしたが、子反は侍者の陽穀に酒を飲まされて酔っていたため応じることができなかった。楚恭王は「天が楚を負けさせようとしているのか。わたしは待っておられない」と言って夜のうちに退却した。
晋軍は楚の陣地に攻め入り、3日も宿営して楚軍の残した食糧を食べた。
楚軍は楚の瑕まで引きかえした。楚恭王は子反のところに人をやって「城濮では王は参加しなかったが、今回はわたしが参加しているので、おまえの罪ではない」と言ったが、令尹子重が子反のところに人をやって「以前、大敗した将(子玉)は、その責任を取って自殺した。どうして君は自決しないのか」と言った。子反は「たとえ先大夫(子玉)の例がなかったとしても、あなたが仰せになることはごもっともです。軍を失ったからには死を覚悟しています」と言って自殺した。楚恭王はこれを聞いて自殺を止めようとしたが、間に合わなかった。
子犯(シハン)【文官】
楚の臣。大宰。
B.C.521宋の華登が叛乱を起こして楚に援軍を求めたため、蔿越が軍を率いて出陣した。子犯は諫めて「今の宋は君臣和合せず争っています。宋の君を捨ておいてその臣を助けるというのは、いけないのではありませんか」と言ったが、楚平王は「おまえは言うのが遅かった。もう助ける約束をしてしまった」と答えた。
耏班(ジハン)【武官】
宋の臣。
狄の鄋瞞が宋に攻め入った。耏班は皇父の御者となって、これを討った。
宋軍は狄軍を宋の長丘で討ち破り、長狄縁斯を討ち取ったが、皇父と公子穀甥と牛父は戦死した。
武公はそこで城門のひとつを耏班に賞として与え、その門で納めさせる税を禄とした。これを耏門と呼んだ。
市被(シヒ)【将軍】
燕の将軍。〜B.C.314。
B.C.314宰相の子之が国権を握り、政治を乱していたので太子平と謀り、子之を攻める。公宮を囲んだが、勝てなかったため民衆と共に逆に太子平を攻めるが戦死する。
子皮(鄭)(シヒ)【宰相】
鄭の宰相。姓は罕、名は虎、字は子皮。子展の子。〜B.C.529。
B.C.544夏、子展が没したため、子皮はそのあとを継いだ。
このころ鄭は飢饉で、まだ麦の収穫時期ではなかったため民は飢えた。そこで子皮は子展の遺命であると称して人々に穀物を家ごとに一鐘(約124.16リットル)を与えた。このことから子皮は鄭の民の人望を得た。かくて子皮の一家である罕氏はいつも国政を司って上卿の地位についた。
家臣の尹何を愛していたので、村里の長にしようとしたが、子産は反対した。
子皮は「尹何は実直な人物であるから、役人となってから学問させたら、政道をわきまえるであろう」と言うと、子産は「学んだ後に役人になると聞いても、役人になってから学問をするなど聞いたことはありません」と答えた。
B.C.543、7月13日、公孫黒良霄を攻めて、良霄は許に出奔した。鄭の大夫たちは集まって相談し、子皮は公孫黒を支持した。
月14日、子産が伯有氏の死者のなきがらを棺に納めて仮に葬り、大夫たちの謀議には参加せずに国を立ち去った。子皮は「あの方は死者に対して礼をつくしている。ましてや生きているわれわれに対してはなおさらのことだ」と言ってみずから子産をひきとめた。
7月26日、良霄は子皮の兵が公孫黒の兵とともに攻撃に参加していなかったことを聞いて喜び「子皮は自分に加担してくれた」と言い、ひそかに鄭都に入り込んだが、駟帯の兵と戦って戦死した。
子皮は公孫鉏羽頡に代えて馬師に任命した。
良霄が戦死すると、子産はその屍に着物を着せ、自分の膝に枕をさせて哭泣して納棺した。駟氏の者が子産を攻めようとすると、子皮は怒って「礼は国の幹である。礼をわきまえた人を殺すとは、これ以上の禍はない」と言ってこれを止めた。
子皮は子産に政権を譲ろうとした。子産は「国は小さくて大国に圧迫され、公族が大きく君のお気に入りが多いことから治めることはできません」と言って辞退したが、子皮は「このわたしが人々を率いてあなたに従えば、だれが逆らいましょうか。あなたが上手に治めてくれれば、小国とは言われますまい」と言ったため、子産は鄭の政治を行うことになった。
豊巻が子産を争って攻撃しようとしたため、子産は晋に亡命しようとした。子皮はそれを引きとめて逆に豊巻を追い払った。
10月、子皮は晋の趙武、斉の高子尾、魯の叔孫豹、衛の北宮佗、宋の向戌、小邾の大夫と集まって、衛の澶淵で会合した。
B.C.542子皮は印段を楚に遣わして、鄭簡公が晋へ出かけていることを告げさせた。
子皮は家臣の尹何を待ちの長官にしようとした。子産が「若すぎる」と反対したため、子皮は「実直な人間だ。赴任させてから政治の勉強をさせたらよいであろう」と言うと、子産は「それはいけません。あなたは彼を愛して地位を与えようとしています。それは庖丁の使い方を知らない人に料理させるようなものです。きっと自分を傷つけるでしょう。またわたしは学問修業を積んでから政治をするということは聞いていますが、政治をしながら勉強をするということを聞いたことはありません」と言った。子皮は「すばらしいことだ。虎は愚か者でした。あなたのお言葉がなかったら、気がつかなかったことです」と答えた。子皮は子産を誠実な人と考えて、政治を委任した。子産はこうしたうしろだてがあったので、鄭をうまく治めることができたのである。
B.C.541諸侯の大夫が虢に集まり、弭兵の会の盟を温め、平和を誓った。
この会で、楚の公子には、2人の戈持ちが先導した。これを見た叔孫豹が「楚の公子は大変美しくて、大夫とは思えず、君のようですね」と言うと子皮は答えて「戈持ちの露払いがいますから、私も戸惑いました」と言った。すると公孫帰生は「楚は大国ですし、公子は令尹です。戈持ちがいるのも、いいじゃありませんか」と言った。叔孫豹が「ちがいます。今大夫でありながら諸侯の服飾を設けているのは、その君に代わる心があるからです。服飾というものは心が表に現れた文章です。もし公子が君にならなければ、きっと死ぬでしょう」と言った。はたして公子囲は帰国すると楚王郟敖を弑して、代わって王位についた。
4月、趙武と叔孫豹が鄭都に立ち寄ったため、鄭はもてなした。子皮は趙武と叔孫豹と宴で酒を飲んで楽しんだ。
B.C.539、7月、子皮は晋に出かけて新たに迎えた夫人のお祝いを申し上げ、さらに楚に朝見する是非を問うた。晋の叔向韓宣子の命で子皮に「鄭君がわが君に仕えようとするお心があるのなら、楚に行かれても何ら差し支えはありません」と答えた。
B.C.537晋の韓宣子と叔向が楚に使いする途中、子皮と子大叔は索氏でその労をねぎらい、楚王が危険であると忠告した。
子皮は斉に出かけて子尾氏から妻を迎えた。このとき子皮は晏嬰とたびたび面会した。
B.C.536夏、楚の公子棄疾が鄭に立ち寄ったため、子大叔は子皮・子産とともに柤でこれを慰労した。公子弃疾は辞退したが、ぜひにと申したので面会したが、 公子弃疾の鄭簡公にまみえる作法は楚王にまみえるときと同様にうやうやしいものであった。子皮らはみな公子弃疾が楚王になるであろうと思った。
B.C.532、9月、子皮は晋平公の弔問に出かけた。子皮は新君に見えるための幣帛を持参していこうとすると、子産が「喪礼に行くのになんで幣帛が必要であろう。また新君にまみえることができなくても、きっと何かに使ってしまうでしょう」と諌めた。しかし子皮は無理に願って持参した。結局、子皮は新君にまみえることができなかったが、持参した幣帛を全部使い果たしてしまった。子皮は帰国して子羽に「あの方(子産)はいけないことを知っていたが、わたしは思慮が足りなかった。わたしは欲が深くて、私心に打ち勝つことができなかった」と言った。
B.C.531秋、子皮は晋の韓宣子、季平子華亥、衛の北宮佗、子皮、曹人、杞人と衛の厥憖で会合し、楚に攻められている蔡を救う相談をした。
B.C.529子皮は没した。
子皮(衛)(シヒ)【公子】
衛の公子。〜B.C.559。
B.C.559子皮は衛献公に命ぜられて、子伯子蟜とともに丘宮で孫文子と会合して仲直りをしようとしたが、3人とも孫文子に殺された。
史ヒ(シヒ)【武官】
楚の臣。
B.C.529春、公子弃疾は叛乱を起こし、史ヒと須務牟に命じて先に都に入らせ、太子の侍従長を使って太子と公子罷敵を殺した。
子亹(シビ)【王】
鄭公(6代目)。厲公の弟。〜B.C.694。
B.C.695昭公が殺されたため、子亹は祭仲高渠弥に擁立された。
B.C.694秋、斉襄公が衛の首止で諸侯と会同した。子亹は公子時代に斉襄公と喧嘩沙汰になっていたにもかかわらず会同に参加しようとした。祭仲が行くべきではないと諫言したが、子亹は「斉は強国で、しかも突(厲公)は櫟にいる。もし参会しなかったら、斉は鄭を討ち、突を立てて王にするかもしれない。行ったとて、かならず辱められるとは限るまい」と言って出かけた。
7月3日、子亹は襄公に詫びることをしなかったため、結局、殺された。
士亹(シビ)【文官】
楚の臣。字は士亹。史老ともいう。
荘王は士亹を太子箴(恭王)の教育係にしようとした。士亹は辞退したが、結局引き受けた。
士亹は申叔時に教育方針を尋ねた。申叔時は「春秋を教えて善を勧め悪を抑えて、その心を戒勧します。教えに従わず、行動が改まらないならば、詩文を作って諷刺して行わせるようにしむけ、賢人を求めて補佐します。
教えが完備しても従わないようであれば、それは人ではありません。太子が即位したらあなたは身を引かれよ。自分から引退すれば敬われますが、さもないと危険です」と答えた。
士亹が年老いると、イ相は朝廷で士亹に会おうとしたが、士亹は出てこなかったので、イ相はこれを非難した。挙伯がこれを士亹に告げると、士亹は怒って「きみはわしが老いぼれたとして、わしを非難するな」と言った。
イ相は「あなたが老齢になったので、お目にかかって戒めたかったのです。かつて衛の武公は95歳になっても卿大夫に『わしを捨てるでないぞ。わしを教導してくれよ』と言ったそうです。今あなたは老いたことをいいことにして、安楽をほしいままにされて、戒諌する者を拒否されます。このようなことでは楚は治められません」と言った。
士亹は「わたしがまちがっていた」と言い、たびたびイ相に会った。
玆丕公(ジヒコウ)【王】
莒の君。
B.C.635、12月、衛が仲介して、莒と魯を仲直りさせ、洮で盟った。
B.C.634、1月、玆丕公は魯釐公と衛の甯遠と会合して、魯の向で盟い、前年の洮の盟いをあたためた。
士弥牟(シビボウ)【文官】
晋の臣。司法官。士伯ともいう。
B.C.529秋、魯昭公が晋に捕らえられている季平子をもらい受けるために晋に出かけた。晋昭公は士弥牟に命じて黄河のほとりで魯昭公に会って辞退させた。
B.C.528士弥牟が楚に使いしている間に、司法官を代行した羊舌鮒が賄賂により判決を曲げたため、殺される事件があった。
B.C.519邾が大夫を捕らえられたとして魯を訴えてきた。魯の叔孫婼が晋にやってくると晋人はこれを捕らえた。 韓宣子が叔孫婼を邾の大夫と対座させて裁こうとしたが叔孫婼がこれを断ったため、邾人に命じて大勢の兵を集めさせ、これに叔孫婼を渡そうとした。 叔孫婼は恐れず晋の朝廷に出かけた。士弥牟は韓宣子に「叔孫はきっと死ぬでしょう。魯は彼を失ったら、きっと邾を滅ぼしてその仇を討つであろう。 そのとき後悔しても追いつきません。そもそも諸侯がみな捕らえあいをするなら、盟主はいりません」と進言したため、これをとりやめた。
B.C.518、2月、晋は叔孫婼を魯に返すことにした。そこで士弥牟は叔孫婼を箕に迎えに行った。
3月15日、士弥牟は命じられて周の内乱を調べた。士弥牟は王城の北門の乾祭に天子のお座所を設けて、 民衆に向かって子朝敬王のいずれが正しいかを尋ね、その意向に従って晋は子朝を退けた。
B.C.517夏、晋は魯・宋・衛・鄭・曹・邾・滕・薛・小邾と黄父で会合し、王室の乱について相談した。 宋の楽大心が「わが国は周に穀物は送りません。宋は周にとっては客分です。どうして送る必要があろう」と言ったため、 士弥牟は「践土の盟いこのかた、宋は戦いに参加せず、盟いに同調しなかったことがありましょうか。みなが王室を助けると言っているのに、 どうしてあなただけが逃れることができましょう。あなたは君命を受けておりながら、あなたの国が盟いに背くなら、まずいことではありませんか」と忠告した。 楽大心は答えようとはせず、書きつけを受け取って退出した。士弥牟は趙鞅に「宋の右師はきっと滅びるでしょう。 盟いに背いて盟主にたてつこうとした。これより大きな不善はない」と言った。
B.C.512、6月23日、晋頃公が没した。鄭の使者が副使を連れて弔問しなかったため、士弥牟はその非礼を詰問した。
B.C.510、11月15日、士弥牟は成周の城普請の見積もりをした。城壁の長さ、高さ、厚さを測量し、周囲にめぐらす堀の深さを定め、土石を取る場所やそこまでの距離を調査し、 完成の期限を見積もり、工事の人数や材料を算定し、食糧を書きとめて築城の工役を諸侯に命令し、それぞれ分担する工役を依属し、城壁の長さを割り当て、 それを書きつけて総監督の魏献子に渡し、それを劉文公に提出した。
B.C.509、1月、宋の仲幾は工事の割り当てを承諾しないで「滕・薛・郳(小邾)の三国がわが国の代わりに工事をしてくれます」と言い、 薛の家老と言い争った。士弥牟はこれに介入したが仲幾はこれも退けたため、仲幾は捕らえられて晋に連れていかれ、3月に周に送りかして処刑されることになった。
景伯と諡される。
示眯明(シビメイ)【武官】
霊公の料理人。提弥明とも書く。
示眯明は飢えて桑の樹の下にいるところを趙盾から食べ物をもらった。示眯明がそれを半分しか食べなかったので趙盾がそのわけを問うと「人の家臣となって三年たちましたが、母の存否のほども知らないのです。この半分を母にやりたくてたまりません」と答えた。
その後、示眯明は晋の公室の料理人となった。
B.C.608、9月、霊公は趙盾に酒を飲ませ、武装の士を伏せて趙盾を殺そうとした。示眯明はこれを知ると進み出て「臣下たるものは、主君から酒を賜ったとき、杯が三巡すれば、それで止めるものです」と言い、趙盾を早く帰らせた。そこで霊公は敖という猛犬を放って趙盾を襲わせたが、示眯明はその犬を打ち殺した。霊公は伏士を放って追わせたが、示眯明は伏士を反撃し趙盾を救った。趙盾が訳を問うと「わたくしは桑の樹の下で飢えていた者です」と答えた。その名を問われたが、示眯明は答えずに逃げ去った。
(『春秋左氏伝』では、示眯明は趙盾の右役を務めており、この事件の時に討ち死にしている。食を与えてもらったのは霊輙ということになっている。)
子豹(シヒョウ)【在野】
扁鵲の弟子。
扁鵲は虢国を訪れた。虢の太子が病死した直後であった。扁鵲はその病状を詳しく聞くと「私は太子を生返らせることが出来ます」と言い、虢君に謁見した。
そこで扁鵲は、弟子の子陽に砥石で鍼を研がせ、体の外面にある腧穴、すなわち三陽、五会に鍼を刺した。しばらくすると太子が蘇生した。そこで扁鵲は子豹に命じて、五分の熨り薬をつくり、八鹹の調合剤をまぜ、あわせて煮詰め、それを次々と両脇の下に貼って温めさせた。
その後20日間で太子は回復した。天下の人は、扁鵲は死人を生返らせることができると言い合ったが、扁鵲は「わたしは死人を生返らせたのではない。当然に生きるものを、わたしが単に起せただけのことである」と言った。
士富(シフ)【武官】
晋の臣。氏は士、名は富。士燮のいとこ。候奄。
B.C.569魏頡が没したので、魏絳が新軍の佐に任命され、張孟は中軍司馬に任じられ、 士富は候奄に任命された。
玆父(ジフ)【武官】
莒の臣。蒲餘侯。
B.C.528、8月、莒公去疾が没したが、その子郊公はその死を悲しまなかったため、国中の人々は郊公に服従せず、去疾の弟庚与を立てようとした。
12月、玆父は郊公を嫌って庚与と親しかった。また郊公は公子を嫌って公子意恢と親しかった。そこで公子鐸は玆父にたよって共に謀り「お前は意恢を殺しなさい。わたしは君(郊公)を追い出して庚与を入れて君にしよう」と言ったため、玆父はそれを聴き入れた。玆父は公子意恢を殺し、公子鐸は斉から庚与を迎え入れた。
師服(シフク)【文官】
晋の臣。
穆侯が太子を仇、末子を成師と名づけた。
師服は「わが君の子に対する名づけ方が、わたしにはどうも腑に落ちません。太子は仇と申されますが、仇とは讎(あだ)の意味です。末子は成師と申されますが、成師は大号で事業を大成する意味です。いま嫡子・庶子二人の名は相反していますが、これでは今後、晋が乱れるようにならないでしょうか」と進言した。
B.C.745成師は周王朝より曲沃に封じられ、桓叔と号した。曲沃は晋の国都翼よりも大きかった。
師服は「晋は天子が諸侯を封ずるように諸侯の国を立てて成師を封じた。これで晋の本家が弱くなってしまった。晋はおそらく長く続かないであろう」と言った。
子服(シフク)【文官】
周王朝の臣。
B.C.603夏、子服は定王の命で、斉に赴いて王后を迎える準備をした。
子服何(シフクカ)
子服景伯
子服回(シフクカイ)
子服昭伯
子服景伯(シフクケイハク)【文官】
魯の臣。名は何。子服椒の孫。
B.C.535、3月、魯昭公が楚に行こうとしたところ、魯襄公が道祖神を祭っている夢を見た。梓槇が「わが君は楚に行かれないだろう。襄公は周公が道祖神を祭る夢を見て楚に行かれた。ところが今は襄公がお祭りをしているからだ」と言った。子服景伯は「行かれるでしょう。襄公は楚に出かけたことはなかったが周公が案内されたのでお出かけになったのです。その襄公が案内するのだから、わが君は行かれるでしょう」と言った。かくて魯昭公は楚に出かけた。
B.C.487斉悼公は魯を討って讙・闡を取り、魯と講和をすることとなった。子服景伯は接待係に「接待に過失があっても、恭敬な過失をしなさい」と言った。これを聞いて閔馬父が笑ったので、子服景伯はそのわけを聞いた。
閔馬父は「恭敬を説教するあなたが大変驕慢なので笑ったのです。恭はもっとも高い徳であって、過失でできるようなものではありません。道にかなうのは恭敬ではありませんか」と答えた。
B.C.480斉に使いし、土地を返還させる。
子服恵伯(シフクケイハク)
子服椒
子服椒(シフクショウ)【文官】
魯の臣。名は椒。仲孫它の子。子服恵伯、孟椒ともいう。
B.C.550、11月、臧武仲が亡命したことで大夫たちが盟いをたてて戒めとしようとした。季武子は「臧孫(臧武仲)の犯した罪は、東門氏(襄仲)や叔孫僑如ほどではない」と言うと、子服椒は「鹿門の禁を犯し、かんぬきを切ったという罪科を並べ立てたらよいではありませんか」と言ったので、季武子は「臧孫紇が鹿門の禁を犯し、かんぬきを切りしごときことあるなかれ」と言った。臧武仲はこれを聞いて「魯にも人物がいる。きっと孟椒(子服恵伯)であろう」と言った。
B.C.548晋が斉を許した和平した。子服椒は魯襄公の命で「晋侯には罪ある者を許して小国を安らかに治められる」と晋に告げた。
B.C.546魯は楚の権威を認めたため、楚の朝見しようとした。魯襄公は漢水まで来て、楚康王の死を聞いた。
襄公や諸大夫はみな帰りたがっていたので子服椒は「どうしたらいいか分からないなら、しばらく君侯に従いましょうか(帰国しましょうか)」と言った。しかし叔孫帯が反対したので、襄公はそのまま楚に朝見した。
B.C.545斉の慶封は魯に亡命した後、呉に亡命して斉にいた時よりも豊かになった。子服椒が「天はどうやら悪人を富ますようだ」と言うと、叔孫豹は「悪人の富むのを殃(わざわい)という。天がきっと慶封に殃をくだしたのだ。きっと一族をひとまとめにしてみな殺しにするだろう」と言った。はたして慶封は後に殺された。
11月、魯襄公が楚に朝見しようとしたが、途中で楚康王が亡くなった。子服椒は「いま魯は目前の飢えや寒さをしのぐこともさえも考えていないのだから、将来のことを考える者などいない。ひとまず帰国するのがよい」と言ったが、叔孫帯が「われわれは楚の国のために出かけてきたのです。どうして楚君ひとりのためでありましょうか。必ず行きましょう」と言った。叔孫豹は「叔仲子(叔孫帯)の意見はすばらしい。子服子(子服椒)は学び始めの未熟者だ」と言った。
B.C.539、5月、子服椒は叔弓とともに滕に赴いた。このときたまたま子服椒の父仲孫它の命日に当たっており、叔弓は都に入ることを1日延期しようとしたが子服椒は「公事を行うには公利だけを考え、個人の命日を考えるべきではない」と言って先に都に入り宿舎の指定を受けた。
B.C.530南蒯が叛乱を起こそうとして筮竹で占い、それを子服恵伯に見せた。子服恵伯は「忠信の心でやる事は成功するが、そうでなければ必ず失敗するということです」と答えた。はたして南蒯は叛乱を起こしたが失敗に終わった。
B.C.529、8月、諸侯は平丘に集まり会盟した。先年(B.C.541)に季武子が莒を侵略したことを咎めるためであった。そのため晋昭公は魯昭公の出席を辞退させた。子服椒は「晋君にはえびす(邾・莒)の訴えを信じて、兄弟の国である魯との縁を断ちきり、周公の子孫を捨てようとしておられる。わが君は仰せのほどを承りました」と回答した。そして子服椒は季平子に「是非とも上卿を使節として晋へ謝罪させるべきです」と言った。季平子「それではわたしが行こう。晋はきっとわたしを捕らえるでしょうが、だれが副使となりますか」と言うと、子服椒は「言い出した以上、危難から逃げ出したりしましょうか。わたくしがお供いたします」と答えた。晋に到着すると、季平子は捕らえられた。子服椒は晋の正卿韓宣子に会って「かつて欒氏の乱のとき、先君襄公は斉の脅威も恐れず晋を救いました。今蛮夷の莒を信じて魯を棄てるならば、諸侯は何を目当てに晋君に忠勤しましょうか。蛮夷を味方につけても、諸侯の信義を失うのではないでしょうか」と言った。韓宣子はこれを聞いて喜び、季平子を帰国させた。
恵伯と諡される。
子服昭伯(シフクショウハク)【文官】
魯の臣。子服回ともいう。子服椒の子。
B.C.526夏、魯昭公が晋から帰国した。子服昭伯は魯昭公とともに帰国したが、季平子に「晋の公室は間もなく衰えるでしょう。君は幼弱で六卿が盛んでおごり高ぶっています」と言った。しかし季平子は「お前はまだ若い。どうして国のことが分かろう」と言って信用しなかった。はたして晋昭公は没した。季平子は10月に晋に出かけたが「子服回の言ったことはやはり本当だ。子服氏にはよい子があるわい」と言った。
B.C.519春、叔孫婼が晋に捕らわれたとき、子服昭伯はその服使として同行しており、叔孫婼と異なる町に居らされた。
子文(シブン)【宰相】
楚の宰相。令尹。字は子文。鬭伯比の子。母は鄖公の娘。闘縠於菟ともいう。
鬭伯比は鄖公の娘と淫通(里門を抜け出て丘陵で淫)して子文を生んだ。そのため鄖公の娘は子文を雲夢の沢の中に棄てたが、虎が乳を飲ませて子文を育てた。鄖公が狩に行ったとき子文を見つけた。これを神異として、鄖公の娘はやっと子文を取り戻して育てた。
楚の人は乳を縠、虎を於菟と言ったので、子文を闘縠於菟と名づけ、子文を生んだ鄖公の娘を鬭伯比の妻にすることを許した。
B.C.664子元が殺されたので、子文は令尹の官につき、みずからの家財を投じて楚の財政を救った。
成王は子文が貧乏で食いつなげないことを聞いて、子文が登朝するごとに肉の干物一束と、乾飯一籠を用意して贈った。のちにこの風習は令尹の恒例となった。
また成王が子文に俸禄を出すたびに子文は必ず逃げ出し、成王がやめると子文は帰ってきた。それほど清廉であった。
子文の弟子良闘椒を生んだ。子文は子良に「この子を殺しなさい。姿は熊や虎のようで、山犬や狼のような声を出します。きっとわれわれ若敖氏を滅ぼすことになろう」と言ったが、子良は聴き入れなかった。
B.C.655子文は弦を攻め滅ぼした。弦の君は黄に出奔した。
B.C.640随が漢水以東の諸侯をたのみにして楚に背いた。
冬、子文は隋を討って、和睦して帰還した。
B.C.637秋、子玉が陳を討ち、焦・夷を攻め取り、頓に城壁を築いた。子文はこれを子玉の手柄であるとして、子玉を令尹に任命した。
エン呂臣は不満に思って言った「あなたは国をどうなさるおつもりか」
子文「わたしは国を安らかにしようと思っている。いったい大功を立てて高い地位が得られなければ、落ち着いていられる者がいるだろうか」
B.C.633楚成王は宋を討とうとして、子文に命じて睽で兵の演習をさせた。
子文は子玉に委任しようとしてわずか朝食前に終わり、ひとりも罰しなかった。一方、子玉は蔿で演習したが、一日かかって行い、7人を鞭打ち、3人の耳を矢で突き通して罰した。国老たちは子文に対して軍紀を厳しく行った子玉の有能なことをお祝いした。蔿賈は遅れて来たが、お祝いを言わなかった。子文がその理由を尋ねると、蔿賈は「何をお祝いするのでしょう。子玉が国外でしくじると、推挙したあなたの責任です。子玉は気が強く礼儀をわきまえず、民を治めることができません。300乗以上の軍を率いたら無事に帰ることはできないでしょう」と答えた。
B.C.632はたして子玉は城濮の戦いで敗退した。
子文は臨終のときに一族を集めて「椒(闘椒)が政治を執るようになったらすぐに立ち去るがよい。災難のかからないようにせよ」と遺言し、泣きながら「若敖氏の霊魂はきっと飢えるであろう」と言った。
士文伯(シブンハク)【文官】
晋の臣。名は匄、字は瑕。伯瑕ともいう。士弱の子。
B.C.542、6月、鄭の子産が来聘したが晋平公になかなか面会できなかった。そこで子産は旅館の堀を壊して車馬を入れさせた。士文伯はその無礼を責めると、子産は「持参した品を納められず風雨にさらしてもおけないのでおとがめを重ねた次第です。お役人にはどのようなご命令を下さるのでしょうか」と答えた。趙武は「子産の言うとおりだ。堀の中に諸侯をお入れしたのは、わたしの過ちでした」と言って、士文伯を遣わして不行き届をお詫びした。
B.C.540冬、魯昭公が晋平公の夫人の弔問のため晋を聘問しようとした。士文伯は命ぜられて「正室ではありません。どうかおいでにならぬように」と辞退した。
B.C.536、3月、鄭の子産が刑法の文を鼎に彫りつけ、国の常法として国民に示した。士文伯は「火星が見え始めたら鄭にきっと火災が起こるだろう。火星が見えないのに、火をおこして鼎を鋳造して、民が争う法文をきざみつけた」と予言した。はたして夏に鄭で火災が起こった。
B.C.535、4月甲辰の朔に日食があった。晋平公は士文伯にこのことを問うと、士文伯は「魯と衛でしょう。日食が衛の星宿にあたる娵訾から始まって魯の降婁に及んでいるので、衛で禍が起こり、魯はその余波を受けるでしょう」と答えた。はたして衛襄公と魯の季武子が没した。晋平公は「いつもこのように確実に占うことができるのか」と問うた。士文伯は「それはできません。物事は時を異にして同じではありません」と答えた。
B.C.530夏、晋昭公と斉景公が酒盛りをしたとき、中行呉が晋昭公の介添をした。両君は投壺の遊びをしたが、中行呉は「わが君の矢が命中したら諸侯の旗頭となるだろう」と祈ると、晋昭公の矢は命中した。士文伯は「あなたの口上は間違っている。すでに晋は盟主です。投壺でそれを決めたりしましょうか。斉君はわが君をあなどっていますから、もう来なくなるでしょう」と言ったが、中行呉は「わが国は武勇に優れています。斉はわが国に仕えずにどこに仕えるのか」と答えた。
子駢(シヘン)【武官】
楚の臣。
B.C.548秋、楚は舒鳩が叛いたので、これを討った。そこで呉が舒鳩を助けに来た。令尹屈建が急に右軍を率いて舒鳩に攻め入り、子彊息桓子捷・子駢・子盂の左軍は呉軍と遭遇したため、退却した。子彊は「このまま長くこの状況が続くと、雨のために低い土地は狭くなって身動きが取れなくなるだろう。すぐに戦ったほうがよい。わたしが兵を率いて敵に誘いをかけるので、精兵を選んで様子を見ていてくれ。わたしが勝ったら進撃し、負けたら援助してくれ」と言ったので、みんなそれに従った。5人の将はまず呉軍を攻撃した。呉軍は逃げ、山に登って楚に援軍のないことを知ると、再び攻撃してきた。すると待ち構えていた精兵がこれに攻めかかり、呉軍に大勝した。楚軍は勢いに乗じて舒鳩を包囲して、これを潰滅させた。
8月、楚軍は舒鳩を滅ぼした。
施父(シホ)【文官】
魯の臣。施伯の子。
B.C.703曹の太子夜姑が魯を訪問した。魯は夜姑を上卿の礼をもって礼遇した。
このとき夜姑は深い溜息をついたた。施父は「曹の太子は心配事があるのだろうか。溜息をつく場合ではないのに」と言った。
子蒲(シホ)【武官】
秦の臣。
B.C.505秦は楚を救援し、子蒲と子虎は兵車500台(37,500人)を率いて楚を助けた。子蒲は「われわれはまだ呉の戦術がわからない」と言って、 まず楚軍と呉軍を戦わせてから、稷から戦いに参加して、呉の夫概の軍を沂で大いに破った。
7月、子蒲は楚の子期とともに呉に従った唐を滅ぼした。
秦軍は雍澨で呉軍を破って撤退させた。
士魴(シホウ)【将軍】
晋の将軍。新軍の将、下軍の将。士会の子。〜B.C.560。
彘に領地をもった。
B.C.573欒書の命で、士魴は智罃とともに周へ赴いて、公孫(悼公)を晋君に迎えた。
2月、即位した晋悼公は「彘恭子(士魴)は范武子(士会)の末子で、文子(士燮)の母弟である。武子は執秩の法を明らかにして晋を安定させ、その法は今でも用いている。文子は一身を勤労して諸侯を鎮定服従させ、今でもその功に頼っている。このふたりの徳を忘れてもよかろうか」と言い、士魴を新軍の将に任命した。
11月、晋は、楚に攻められた宋を助けるために出兵した。士魴は魯に遣いして援軍を願ったので、魯は軍を出した。
B.C.570雞丘の会盟のとき、晋悼公の弟楊干が曲梁の地で隊列を乱したので、中軍司馬魏絳は楊干の御者を斬った。魏絳は出頭して、剣の上に伏して死のうとしたが、士魴と張孟はそれを両側から押さえとどめた。晋悼公は事情を知って、魏絳を許した。
B.C.568春、周霊王が卿士王叔陳生を遣わして戎が周室を侵していると晋に訴えた。しかし晋悼公は王叔陳生を捕え、士魴を周に遣わして、王叔陳生が戎に心をよせていると告げた。
B.C.564、10月、諸侯は鄭を討ち、士魴は欒黶とともに下軍を率いて滕人と薛人とともに鄭の北門を攻めた。
B.C.563冬、諸侯の軍は鄭を討って鄭の虎牢に城壁を築いてそこを守った。晋軍は梧と制に城壁を築き、士魴は魏絳とともにここを守った。
B.C.562秦の庶長と庶長が晋を討って鄭を救おうとした。士魴はこれを防いだが、秦軍は多くないと侮って防備を怠った。
12月5日、庶長武は輔氏から黄河を渡って庶長鮑とかわるがわる晋軍を攻撃した。
12月12日、晋軍は櫟で秦軍と戦ったが大敗した。
B.C.561夏、士魴は魯を訪問し、先年に聘を出して鄭を討ったことに対する礼を述べた。
B.C.560没し、恭子と諡される。
子豊(シホウ)【公子】
鄭の公子。鄭繆公の子。
B.C.575、子豊は公子(後の釐公)と共に出かけた時、子豊はよく扱われなかった。このことで子豊は公子惲をよく思わなかった。
B.C.571公子惲が即位して晋に出かけたとき、子豊は傲慢な鄭釐公を晋に訴えようとしたが、子罕はこれをとめた。
子豊は晋に対して功労があったため、その死後に晋平公は子豊の子公孫段に州の田地を与えた。
子封(シホウ)
公子呂
子牟(シボウ)【公子】
楚の公子。申公。
子牟の娘が伍挙の妻となった。
子牟は罪を犯して鄭に亡命した。
子駹(シボウ)【公子】
鄭の公子。〜B.C.578。
B.C.578子駹は子如とともに叛乱を起こした。
6月17日、子駟が国人を率いて祖廟で子如の討伐を盟い、子如の軍を追撃して市街に火をかけて全焼させ、子駹は殺された。
史墨(シボク)【文官】
晋の臣。史黯ともいう。
史墨は趙鞅の史官となった。
あるとき趙鞅が史墨に言った。「范氏と中行氏の良臣を得たいものだ」
史墨「彼らは良臣ではありません。彼らは君を正し助けることができず、禍難に会わせて、その地位を安定させることもできませんでした。彼らを君のために国外で立ち行くようにさせ、死ぬまで努力させるべきです。もし戻ってくるようでしたら、それは良臣ではありません」
趙鞅「その通りである、わしが間違っていた」
B.C.511、12月1日、日食があった。趙鞅が、子供が裸で転びながら歌っている夢を見たため史墨に占わせて「今日になって日食がおこったのはどういうことか」と問うた。 史墨は「6年経ってこの月になると、呉はきっと楚の郢に攻め入るでしょう。しかし結局は勝てないでしょう」と予言した。
B.C.510夏、呉がはじめて越を討った。史墨は「40年もたたないうちに越は呉をわがものにするであろう。越に歳星がめぐってから呉が越を討ったら、 きっと災いを受けるであろう」と予言した。
12月、魯昭公が没した。趙鞅が「季氏はその君を追い出したのに民は季氏に服従し、諸侯も季氏に味方し、 君が国外で死んでも季氏を責め立てる者がいないのはどうしたことか」と問うた。史墨は「魯の君は代々失政を存分にやり、季氏は代々その勤めを守ってきました。 かくて民は君を忘れてしまったのです」と答えた。
子木(シボク)
屈建
玆無還(ジムセン)【文官】
魯の大夫。
B.C.500夾谷の会盟のとき、斉は盟約書に「斉が戦をするときは、魯は兵車300乗をもって斉に従わなければならない」と書き加えた。そこで孔子は玆無還に命じて「そしてわが魯に汶陽を還さなければならない」と答えさせた。
子明(秦)(シメイ)【文官】
秦の臣。名は視、字は子明。
B.C.651晋献公が没すると、晋の公子夷吾(恵公)の一党は梁由靡を秦にやって晋に入る許しを請うた。そこで秦繆公は子明と公孫支を呼んで「晋の国乱について、わしは誰を使節としたらよかろうか」と言った。子明は「君は公子を使節とすべきです。縶は明敏で礼を知り、恭敬で精密なことが分かります。明敏であれば細かく行き届いた計画ができます」と言い、公子縶を勧めた。そこで繆公は縶を使節として重耳と夷吾とを弔問させた。
子明(宋)(シメイ)【文官】
宋の臣。楽祁の子。
B.C.501春、宋景公楽大心を遣わして晋と盟い、楽祁のなきがらを迎え取らせようとした。  しかし楽大心が病気を理由に辞退したため、向巣を遣わした。子明は楽大心に立腹して、宋景公に「右師(楽大心)はわが戴氏にとってためにならない。出かけることを断ったのは、  やがて謀叛を起こそうとしているのです。病気でもないのに断るのはおかしなことではありませんか」と言ったため、宋景公は楽大心を追放した。
師門(シモン)【神】
仙人。列仙伝に見える。
火を使う術に長じていた。夏孔甲の竜の飼育係であったが、うまく竜が使えなかったので、殺されて野外に埋められた。ある朝、風雨が起こってこれを迎え取り、山の樹木はすべて焼け焦げていた。孔甲は祭って祈ったが、帰る途中で没した。
師門は劉累ではないかともいわれる。
子野(シヤ)【公子】
魯の公子。魯襄公の子。母は敬帰。〜B.C.542。
B.C.542、6月29日、魯襄公が没した。子野はあとつぎとして立てられた。
9月12日、子野は季氏の家に宿って喪に服していたが、父君の死を悲しむあまり、身がやせ衰えて没した。
舎(シャ)【王】
斉王(19代目)。昭公の子。母は叔姫。〜B.C.613。
B.C.613、4月29日、昭公が没したので、公子舎は代わって即位した。しかし公子舎の母の叔姫は昭公に寵愛されていなかったため、国人は公子舎を恐れはばからなかった。
7月、公子商人(懿公)に煽動された国人に殺された。
弱(ジャク)【公子】
周王朝の王子。〜B.C.520。
B.C.520、6月20日、周王室の内乱で王子弱は諸王子とともに単穆公を追撃したが、逆に殺された。
若敖(ジャクゴウ)【王】
楚子(14代目)。名は儀。熊咢の子。〜B.C.764。
B.C.790即位する。
若の地に葬られたので、若敖といわれる(敖は豪と同じで酋長の意)。
苦成叔(ジャクセイシュク)
郤犨
若木(ジャクボク)【神】
秦の先祖。大費の子。
費氏の祖となる。
柘稽(シャケイ)【武官】
越の臣。
B.C.494大夫范蠡とともに和平のため呉の人質となった。
射犬(シャケン)【武官】
鄭の臣。
B.C.549冬、楚が鄭を攻めたので、晋平公張骼輔躒に命じて楚軍にいどませ、地の利に明るい御者を鄭に求めたため、鄭人は占って射犬がその役となった。子大叔が「大国の人は相手しにくいものだ」と言うと射犬は「大国小国の区別なく、自分の上の人(主人)はみな同じく上の人だ」と答えた。子大叔は「そうではない。小さな岡には松や柏の大木はないものだ」と忠告した。
張骼と輔躒はとばりの中にいて射犬を外に座らせ、自分たちが食事をすませてから射犬に食事をさせた。そして射犬を兵車を御して進ませ、自分たちは普通の車に乗って出かけた。いよいよ楚軍に近づいて初めて射犬の兵車に乗り移ったが、ふたりとも足を投げ出して歌を歌い琴を弾いてゆとりのある態度を示した。しかし楚軍に接近した時、射犬はふたりに知らせずに車を馳せた。ふたりは冑を袋から取り出してかぶり、敵陣に攻め入った。ふたりは兵車から降りて敵兵を手打ちにして投げつけ、捕虜を寄せ集め小脇に抱えて戦ったが、射犬はふたりの乗車を待たずに車を走らせた。ふたりはかろうじて車に飛び乗り、弓を引いて楚兵に矢を放ち、楚軍から脱出した。そのときもふたりは車上で足を投げ出して歌を歌い、琴を弾き「公孫(射犬)よ、同乗したのは兄弟のよしみともいうべきだ。どうして二度とも相談してくれなかったのか」と言うと、射犬は「前は敵陣に突入することを考えただけ。今度は恐ろしかったのです」と答えたので、ふたりとも笑って「公孫の気ばやなことよ」と言った。
謝息(シャソク)【文官】
魯の臣。孟釐子の家臣。
B.C.535、3月、魯昭公が楚に出かけたことを晋人は恨みに思い、魯にやってきて杞に返さなかった魯の土地を調査した。季武子が孟釐子が楚に行っている隙に孟孫の邑である成を与えようとした。成を守っていた謝息は「留守を預る家来が采邑を失ったとしたら、あなたも不忠の臣として疑われるでしょう」と断った。そこで季武子は桃の地に萊と柞の山を付け加えて孟孫に与え、成を杞に与えた。
須(シュ)【公子】
宋の公子。文公の同母弟。司城。〜B.C.609。
B.C.611、11月、公子鮑革(文公)は昭公を弑して即位し、公子須を司城に任じた。
B.C.609武公穆公の子孫らが昭公の子をそそのかし、公子須をかつぎ出して乱をおこそうとした。
12月、文公は公子須と昭公の子を殺し、戴公荘公桓公の子孫に命じて武氏(武公の子孫)を司馬子伯のやかたで攻めさせ、武氏・穆氏の子孫らを国外に追放した。
繻(シュ)【公子】
鄭の公子。成公の兄。〜B.C.581。
B.C.582秋、鄭成公が晋に幽閉された。
11月、鄭は公孫甲に命じて許を討ち、これを囲んだ。
晋は欒書に命じて鄭に攻め寄せてきた。鄭は伯蠲を遣わして和睦を請うたが、晋はこれを殺した。
B.C.581、3月、子如は公孫申が新たに君を立てるという策謀を真に受けたため、公子繻は擁立された。
4月、鄭人は公子繻擁立を不服に思い、公子繻を殺して太子髠頑を立てた。
(『史記』では、公子繻が擁立されたことを聞いた晋が成公を帰国させたため鄭人は公子繻を弑して、成公を迎えたことになっている)
朱(シュ)(宋)【公子】
宋の公子。〜B.C.522。
B.C.522、6月9日、華氏と向氏が反乱をおこし、公子朱は華亥に殺された。
朱(シュ)(蔡)【公子】
蔡の公子。蔡平侯の子。
B.C.521、3月、太子朱は蔡平侯を葬った。そのとき太子朱は太子の座る席に着かず、長幼の順に従って下位に着いた。葬式に参加した魯の大夫はこのことを叔孫婼に話すと、叔孫婼は「蔡は滅びるであろう。蔡侯が君位につく早々に下位に着いた。その身も同様に低くなることであろう」と言った。
冬、楚の費無忌がいつわって、楚平王東国を蔡侯に立てようとしていると蔡人に言ったため、蔡人は恐れて太子朱を追い出して東国を立てた。そこで太子朱は無実を楚に訴えたため、楚平王は蔡を討った。
朱(シュ)(楚)
子朱(楚)
寿(周)(ジュ)【公子】
周王朝の公子。周景王の太子。〜B.C.527。
B.C.527、6月9日、太子寿は没した。
寿(衛)(ジュ)【公子】
衛の公子。宣公の子。母は宣姜。〜B.C.701。
B.C.701公子寿は、公子が太子を讒言し、主君宣公もこれを殺そうとする計画があるのを知った。公子寿は伋に「国境あたりの盗賊が太子の白旄を見れば、太子を殺すでしょう。行かないほうがよいと思います」と言った。しかし伋が聴きいれなかったので、公子寿はその白旄を盗み、先に国境に行き太子の身代わりとなって盗賊に殺された。
寿(楚)(ジュ)【武官】
楚の臣。工尹。
B.C.515呉の公子掩余と公子燭庸が楚の潜を攻め囲んだ。 莠尹然と工尹が軍を率いて潜を救い、沈尹戌が都城に住む人士と王の馬役の者たちを率いて軍勢を増やし、呉軍と窮谷で出会った。また令尹子常が水軍を率いて沙水の河口まで進んで引き返し、寿と左尹郤宛は軍を率いて潜に到着した。 そのため呉軍は退くことができなくなった。
4月、呉の公子が呉王を弑したため、呉軍は引きあげた。
樹(ジュ)【王】
犬戎の王。
穆王の征伐を受ける。
蚩尤(シユウ)【神】
伝説上の東方九黎族の首領。
角がはえ、蹄の足を持った牛の姿をしている。2つの山が突然開いて水と金属が流れ出し、蚩尤はその金属を集めて兵器や鎧をつくった。蚩尤には72人の兄弟がおり、強力な集団をつくり、勇猛で戦いを好んだ。その兄弟はみな頭が銅でできており、石や小石を食していた。
涿鹿の野で炎帝の子孫と黄帝の連合軍と戦い敗北して殺される。
蚩尤は初めて反乱を起こしたとされ、蚩尤が反乱をするサンプルを示したために平民までも反乱を起こすようになり、後世、刑法を作らなくてはならなくなる原因とされた。
長江流域の文明圏を背景とする神とされ、彼と黄帝との戦いは、黄河流域文明圏と長江流域文明圏の衝突を意味するとされる。
子猶(シユウ)
梁丘拠
子游(鄭)(シユウ)【文官】
鄭の臣。駟偃ともいう。駟帯の子。〜B.C.523。
B.C.588春、晋・宋・衛・曹が鄭に攻め入ってきて伯牛に陣取った。諸侯の軍は東方に進んで鄭の都に攻め入ろうとした。子游はこれを防ぎ、鄭の東部落の兵に命じてバンに伏兵を設けて不意に攻めて諸侯の軍を丘輿で打ち破った。
B.C.586、6月、楚が鄭を罰するために皇戌子国を捕らえた。
そこで鄭悼公は子游を晋に遣わして晋と和睦を結ぶよう申し入れた。
B.C.585春、鄭悼公が晋に赴いて和平のお礼を述べに行ったとき、子游はその介添をした。
B.C.526、3月、晋の韓宣子が鄭を聘問した。子游は雨風の詩を歌って、韓宣子にお目にかかれて心安らぐという意を寓した。
B.C.523子游は没した。
子游(斉)(シユウ)【文官】
斉の臣。泰祝(祭祀を司る官)。晏子春秋に見える。
景公は「祭祀を司るなら子游がいる」と言った。
子游(魯)(シユウ)
言偃
醜(衛)(シュウ)【王】
衛の右宰。
B.C.719公子州吁が陳で捕らえられ、醜は9月、州吁の処刑に立ち会う。
州吁に食膳を進めて彼を毒殺したともいう。
醜(虢)(シュウ)【王】
虢公。
B.C.658夏、晋の荀息里克と虞軍に攻められ、下陽を攻め落とされる。
B.C.655晋に再び攻められる。
8月17日、晋軍は虢都の上都を攻め囲んだ。
12月、晋軍は虢を滅ぼした。醜は周に出奔した。
醜(周)(シユウ)【宰相】
周王朝の宰相。司徒。
B.C.520、8月17日、醜は王の軍を率いて前城で戦ったが大敗したため、工人たちは周悼王に背いた。
シュウ(シュウ)【武官】
彔伯。庶殷の名族。
昭王の命で、淮夷の叛乱を退ける。
秋(シュウ)【在野】
囲碁の名人。
『孟子』に見える。
鰌(シュウ)【公子】
鄭の公子。
B.C.576、11月、公子鰌は晋の士燮・魯の叔孫喬如・斉の高無咎・衛の孫文子・宋の華元・邾人と鐘離で会合し、呉王寿夢と会合した。
鰌(シュウ)【公子】
甘公。甘成公の孫。
B.C.530、10月25日、甘悼公は成公・景公の一族に殺され、公子鰌は甘公に立てられた。
柔(ジュウ)【文官】
魯の臣。
B.C.701柔は宋荘公・陳厲公・蔡叔と折で会合する。
莠尹然(シュウインゼン)【武官】
楚の臣。
B.C.515呉の公子掩余と公子燭庸が楚の潜を攻め囲んだ。 莠尹然と工尹は軍を率いて潜を救った。
B.C.512呉の公子掩余と公子燭庸が楚に亡命してきた。楚昭王は彼らを養に住まわせ、 莠尹然と沈尹戌に命じてそこに城壁を築いて城父と元の胡子の田地を取ってふたりに与えてそれによって呉に対抗しようとした。
シュウ姶(シュウオウ)【女官】
襄公の夫人。
シュウ姶は衛襄公の寵愛を受けて孟縶と公子元(霊公)を生む。
戎姫(ジュウキ)【女官】
霊公の夫人。宋の公女。戎子ともいう。〜B.C.554。
戎姫は宋の妾として斉霊公に嫁いだが寵愛された。同じく宋から嫁いだ仲子が公子を生むと、これの養育を任された。戎姫は公子牙を太子にしてほしいと願ったので斉霊公はこれを許した。
B.C.554夏、斉霊公が危篤となると崔杼が公子を擁立し、戎姫は太子を廃された公子光に恨まれて殺された。その屍は朝廷にさらされた。
州吁(シュウク)【公子】
衛公の公子。荘公の子。桓公の弟。〜B.C.719。
荘公に愛され、武術を好み、乱暴な性格であった。
B.C.740荘公に将軍に任じられる。
B.C.733桓公に排斥されたため国外に出奔する。
B.C.722鄭で乱を起こしたと交際する。
B.C.719、3月17日、州吁は衛の逃亡者を集めて桓公を弑し代わって立った。
州吁は先年、鄭に攻められた恨みを晴らすことで、諸侯の人気を取り、衛の人民をてなづけようとした。そこで州吁は宋を誘って、陳と蔡を率いて鄭を討ち、その都の東門を包囲した。
5日経ったが攻め落とせなかったため、州吁は引き返した。
秋、州吁は宋・魯・陳・蔡とともに再び鄭を討ち、鄭の歩兵を打ち破り、鄭の禾を刈り取って引き揚げた。
しかし民はまだ州吁を国君として擁いていなかった。州吁は石厚の進言を聞き、周室と親しい陳桓公に、周室に即位を認めてもらうよう依頼した。
州吁は石厚とともに陳へむかったところ、石碏の命を受けた桓公に裏切られて捕らえられた。
9月、州吁は濮で桓公の命を受けたに毒殺される。
充虞(ジュウグ)【在野】
孟子の弟子。
孟子の母の棺に使った用材が立派過ぎるのを非難すると、孟子は「立派にすれば、親を思う子の気持ちを満足させることができるのだ。自分の親にはけちをしないものだよ」と言った。
崇侯虎(シュウコウコ)【王】
商王朝の諸侯。名は虎。スウコウコともいう。
崇侯虎は豊を都とした。
崇侯虎は西伯姫昌紂王に密告したといわれる。
崇侯虎は姫昌に討伐され、周はその後豊に遷都した。
周公旦(シュウコウタン)【宰相】
周王朝の宰相。武王の弟。
子として孝行で、兄弟たちにも並外れていつくしみ深かったという。
B.C.1023周公旦は武王を補佐し商の紂王を討ち、囚われていた箕子を釈放し、紂王の子武庚禄父を封じて諸侯とし、管叔鮮蔡叔度に後見をさせて、商の祭祀を継続させた。
周公旦は征討の功で曲阜に封じられるが、天下が安定しなかったため封地に赴任せず、武王の補佐を続けた。
B.C.1022武王の病が重くなると、周公旦は武王に代わって死のうとし、亀卜を占わせた。結果、武王は全快した。
B.C.1021武王が没すると、成王が幼少であったため周公旦は諸侯が周に叛くことを恐れて践阼(新天子が宗廟の東階を践(ツ)み、位をつくこと)して、摂政として国事にあたった。
管叔・蔡叔・禄父らが淮夷を率いて謀反したため、成王の命を奉じて出兵し、管叔を誅し、蔡叔を放逐し、禄父を殺した。そして武王の末弟康叔を衛に、微子を宋に封じて商の祭祀を継がせた。
B.C.1014周公旦は雒邑に行き、都を建設して東都とした。そして商の遺民をその東郊に集居させ、これを成周といった。
B.C.1009周公旦は大政を成王に奉還し、北面して臣下の位置についた。
成王が讒言に惑わされたときは、周公旦は楚に出奔した。のち成王はその過ちに気付き、周公旦を呼び戻した。
また周公旦は「周宮」を作り、官職を分類して適当な制度を定めたという。
周公旦は豊にいて病臥し、臨終にあたって「必ずわしを周に葬って欲しい。そしてわが成王の身辺から離れないことを示して欲しい」と遺言した。しかし周公旦は畢に葬られた。これは周公旦を文王に従わせ、成王はあえて周公旦を臣下としないことを明らかにしたためである。
周公旦は周の礼教的封建体制の創始者とされて、後世儒家から尊崇される。
戎子(ジュウシ)
戎姫
周子家(シュウシカ)【在野】
燕人。名は賢、字は子家。
矯子庸から易を伝授される。
これを淳于の人光子乗に伝授する。
舟之僑(シュウシキョウ)【武官】
虢の臣、晋の臣。センシキョウともいう。姓は舟、之は語助(意味なし)、名は僑。〜B.C.632。
B.C.660虢公は夢で蓐収を見た。舟之僑は「大国に道があり、小国がこれに入るのを服すると言い、小国が傲慢無礼で、大国がこれに入るのを誅すると言います。わたしは虢が滅びるのを待つに偲びません」と言い、史嚚の家族を引き連れて晋に行った。
B.C.655虢は晋に滅ぼされた。
B.C.632舟之僑は晋の臣となり、魏犨に代って晋文公の戎右となる。
6月18日、晋軍は城濮の戦いの後、黄河を渡って帰国した。このとき舟之僑はその役目を捨てて先に帰ったので、文公は士会をその代役とした。
7月2日、晋文公は論功行賞を行い、二心ある者を討つこととして舟之僑は殺されて国中にふれ知らされた。
周舎(シュウシャ)【文官】
趙鞅の家臣。
直諫を好んだ。
周舎の死後、趙鞅は朝政のたびにうち沈んでいた。
ある大夫が不行届きを詫びると、趙鞅は「大夫に罪があるわけじゃないが『千羊の皮も、一狐の腋(毛皮)に如かず』とか。大夫たちは、かしこまってただ『はい、はい』と返事するだけで、周舎のような諤々の論が聞けなくなったのが、わしにはさびしいのだ」と言った。
修蛇(シュウジャ)【神】
巨大頭の蛇の怪獣。
羿に洞庭湖で斬られる。
周最(西周)(シュウシュウ)【宰相】
西周の公子。魏の宰相。西周武公の子。
秦が周を攻めようとしたので、周最は秦王に「周を攻めると、天子の国を攻めたということで評判を落とし、諸侯は必ず斉と合縦するでしょう」と言い、取りやめさせた。
秦が西周を攻めようとしたとき、周最は秦昭襄王に説いて「王は周を攻めるべきではありません。周は小国であるため、これを取っても利益にならないばかりか天子の国を攻めたと悪名がつきます。そうすれば天下の諸侯はきっと斉と合縦するでしょう」と言った。
周最は斉に滞在したが、放逐された。
周最は魏に滞在して宰相となった。
周最(田斉)(シュウシュウ)【文官】
田斉の臣。
B.C.260秦が趙を攻めた。趙は食料が乏しくなり、斉に穀物を請うた。
周最は「趙の請いを聴き入れるべきです。そうしなければ秦は退却しないでしょう。趙は斉にとって、その藩屏であること、歯にとって唇があるようなものです。唇が滅べば、歯は寒くなります。
正義で亡国を救い、威名で強秦の兵を退けることをしないで、穀物を惜しむのは過っております」と諌めたが、王に聴き入れられなかった
結局、趙は長平で大敗した。
隰叔(シュウシュク)【文官】
周王朝の臣。杜伯の子。
B.C.782周宣王が杜伯の亡霊に殺されると、隰叔は晋に亡命した。
隰叔の子孫は士蔿である。
隰鉏(シュウショ)【文官】
斉の臣。
B.C.548諸侯が斉を討った。斉人は斉荘公を弑した言い訳をし、隰鉏は命ぜられて和平を請い、慶封が晋軍のもとに使いした。かくて晋平公は和平を許した。
周章(シュウショウ)【王】
呉王。叔達の子。
武王は天下を取った後、祖父季歴の兄弟である太伯虞仲の子孫を求めて荊蛮の地を探させた。そこで周章を見つけて、改めて呉王に封じた。
周祒(シュウショウ)【文官】
趙の臣。
B.C.306武霊王が胡服の令を出すと、これを諌めて「王よ、胡服なさいますな。しきたりに従うのが便利です」と止めた。
武霊王は「どの古代にのっとろうというのか。歴代の帝王とて前代を継いでいるわけではない。いつの礼に従おうというのか。もし服制の奇異なことが淫邪な志を招くというなら、鄒・魯に奇行はないはずであり、習俗の偏狭が民をかえるというなら、呉・越に秀才はいないはずである。
聖人は身に便利なように服制を定め、事に便利なように礼制を定めるものだ。そちはここに思い及ばないのだ」と言い、ついに胡服して騎射の士を招いた。
B.C.300武霊王の命で、胡服を着て、王子何の傅となる。
周霄(シュウショウ)【在野】
魏の人。
古の君子のことで孟子と問答する。
戎津(ジュウシン)【武官】
晋の臣。
B.C.620趙盾は中軍の将となり、先克を中軍の佐、荀林父を上軍の佐、先都を下軍の佐、歩招霊公の御者、戎津をその右とし、晋の菫陰まで軍を進め、秦軍に気づかれぬようにこっそりと夜中に出発した。
4月2日、晋軍は秦軍を令狐で打ち破り、晋の刳首まで追撃した。
充石(ジュウセキ)
皇父
周歂(シュウセン)【文官】
衛の臣。〜B.C.630。
B.C.630衛成公が周歂と冶廑に賄賂を贈って「わたしを衛に入れてくれたら、あなた方を卿にしよう」と言った。そこで周歂と冶廑は元咺と公子子儀を殺して、成公を迎え入れた。
周歂と冶廑はすでに卿の服を着て、廟で任命を受けるため、周歂が廟に入り、廟門のところまで行くと、急病にかかって死んだ。
これを見た冶廑は恐れて卿になることを辞退した。
周足(シュウソク)【宰相】
西周の宰相。名は足。
B.C.293秦が魏を伊闕で破ると、西周は秦に攻められることを恐れて、周足を秦に使者として派遣して和議を講じた。
州綽(シュウタク)【武官】
晋、斉の臣。〜B.C.548。
B.C.555、11月、晋軍は斉軍と戦って大勝し、勢いに乗じて斉軍を追撃した。州綽は斉軍の殿の殖綽に矢を射て両肩に命中させ、二本の矢が首をはさんで止まった。州綽は「止まればわが三軍の生け捕りにしてやろう。逃げるならば、その矢の中央をねらってのどを射抜いてやる」と呼びかけたので、殖綽は「誓いましょう」と言った。すると州綽は「あの輝く太陽にかけて必ず殺しはしない」と誓った。
晋軍は臨淄に攻め込み、州綽は東門の閭門に攻め入った。そのとき州綽の左のそえ馬が急に走り出して門内でぐるぐるめぐったが、州綽はあわてずに門の扉の鋲を数えられるほど落ち着いていた。
B.C.552欒盈が罪を問われて追放された。欒氏の一味であった知起、州綽中行喜、州綽、邢蒯は斉に出奔した。
あるとき斉荘公は朝廷に出て、殖綽と郭最のふたりを指さして「このふたりはわたしの勇士だ」と言うと、州綽は「わたしは平陰の役ではふたりに先んじて勝ち名乗りをあげました。東閭の役のとき、わたしの馬が走り出してしまいましたが、わたしは慌てずに門の扉の鋲を数えました」と言った。斉荘公は「お前は晋君のために働いたのだ」と言うと、州綽は「わたしは家来となったばかりです。しかしこのふたりを鳥や獣に例えると、わたしはそれを射止めてその肉を食べるようなものです」と答えた。
州綽は斉荘公の八人の勇士のひとりとされた。
B.C.548、5月、斉荘公が崔杼に弑され、州綽ら賈挙邴師公孫敖封具鐸父襄伊僂堙は、この内乱で討ち死にした。
衆仲(シュウチュウ)【文官】
魯の臣。
B.C.719衛の公子州吁桓公を弑して自立した。
隠公は「州吁は国君として立派にやってゆけるであろうか」と問うた。衆仲は「武力をたのみ残酷なことをして国民をなつけるということを聞いたことはございません。必ず滅亡するでしょう」と答えた。
はたして州吁は、この年に殺された。
B.C.715冬、斉釐公が魯に使者を遣わして、宋・衛と鄭を和親させたことを報告してきた。魯隠公は衆仲に命じて対応させ「斉の君の行いは、深いお恵みのお陰でございます」と答えさせた。
12月、展無駭が没した。公子は展無駭のために諡と族名を賜わるよう隠公にお願いした。隠公はこのことを衆仲に尋ねて、展無駭の王父の字をもって族名とし、展氏と名乗らせた。
州賓(シュウヒン)【武官】
欒黶の臣、家老。
B.C.552州賓は欒黶が死ぬと、その夫人の叔キと密通し、乱交の末、家がつぶれそうになった。このことを欒盈が心配したので、叔キは父の范匃に欒盈が叛乱を企てていると中傷した。そのため范匃は欒氏一族を殺したり、追放したりした。
隰朋(シュウホウ)【文官】
斉の臣。斉荘公の曾孫戴仲の子。〜B.C.645。
隰朋は斉桓公に仕え、国政を整えた。
B.C.651隰朋は桓公の命で、秦繆公と晋の郤芮と会見し、晋の公子夷吾を晋に入れて晋君に擁立しようとした。
B.C.650、4月、隰朋は宰孔と王子と会合して、夷吾を擁立した。
B.C.648周襄王は戎を手引きした叔帯を討ち、叔帯は秋に斉に出奔してきた。
冬、斉桓公は管仲に命じて戎と周を和解させ、隰朋に命じて戎と晋を和解させた。
成子と諡される。
周繇(シュウヨウ)【王】
呉王。柯盧の子。
戢梨(シュウリ)
戢黎
周累(シュウルイ)【文官】
東周の臣。姓は周、名は累。
B.C.308秦が韓の宜陽を攻めた。東周の君は周累に問うた。
周君「この戦はどうなるであろうか」
周累「宜陽はきっと落ちましょう」
周君「宜陽の城は八里四方、兵士は10万、食糧は数年支えるだけあり、さらに公仲の軍20万もあり、楚の景翠が救援に来ているから、秦も攻略できないだろう」
周累「秦の甘茂は客将です。宜陽を落とせば周公旦のような報いを受けますが、失敗したら追放されるでしょう。また秦王は群臣の意見を聴き入れずに宜陽を攻めたので、どうしても勝とうとするでしょう。ですから臣はきっと落ちると申したのです」
周君「宜陽が落ちればわが国にとってゆゆしいことであるが、どうすればよいか」
周累「楚の景翠に『公は爵位は執珪、官職は柱国という最高位ですので、勝ったとしても利はないし、勝たねば殺されます。それより公は秦が宜陽を落とすのを待つのがよろしいでしょう。その後に軍を進めれば、秦は戦後の疲弊時に攻められることを恐れて公に財宝を贈るでしょうし、韓の公仲も公が秦を討つことを願って財宝を出すでしょう』と説くべきです」
B.C.307秦が宜陽を落とすと、はたして景翠は軍を進めた。秦は楚に煮棗の地を差し出し、韓も財宝を差し出した。そのため楚は深く東周を恩にきた。
終纍(シュウルイ)【公子】
呉の公子。闔閭の子。
B.C.504、4月16日、太子終纍は楚の水軍を破って、その将潘子臣と小惟子と大夫7人を捕虜にしたため、楚人は大いに恐れた。
戢黎(シュウレイ)【文官】
廬の臣。戢梨ともいう。シュウリともいう。
B.C.613楚の闘克と公子は楚荘王を奉じて郢を出て商密に行こうとして、廬に立ち寄ったとき、戢黎は叔麇とともに彼らを殺して荘王を都に帰した。
B.C.611庸を討伐に出かけた楚軍は、廬で食糧が不足し、将兵ともに同じ物を食べ、楚の西境の句澨で陣をかまえた。戢黎は命ぜられて庸を攻め、方城まで進撃したが、反撃にあって部下の子揚窻が捕えられた。
子揚窻は3日して逃げ帰り「庸は大軍で多くの蛮夷が集まっています。句澨の本陣に引き返して楚王の軍を動かし、連合して進撃したほうがよいでしょう」と進言した。すると潘尫は「それはいけない。しばらくこちらの弱いところを見せ、彼らを得意にさせよう。先君蚡冒が陘隰を服従させたやり方です」と言った。
そこで楚軍は庸軍と戦い、7回戦って7回とも敗走した。庸軍は楚をあなどって裨、鯈、魚の3邑の兵だけで楚軍を追撃し、備えもしなかった。
楚荘王は早馬に乗り臨品で楚軍に追いつき、軍を2隊に分けて両道から進撃させた。闘椒は石溪から、子貝は仭から庸を攻めた。ついに楚は庸を滅ぼした。
朱英(シュエイ)【在野】
春申君の食客。観津の人。
B.C.240朱英は春申君に「いまや魏の滅亡は旦夕をはかられず、そうなると秦の兵は楚の国都陳を去ることわずか160里の近くになります」と進言したので、春申君は遷都を言上して楚は寿春に遷都した。
李園は妹が王后になったため重用されて政務をとるようになったが、春申君から秘密が漏れたり、ますます驕り高ぶられたりするのを恐れ、ひそかに決死の士を養成し、春申君を殺そうとした。
B.C.238考烈王が病気となった。朱英は春申君に「君はわたくしを郎中の職に任じ下さい。楚王が亡くなれたなら李園はかならず宮中に入りましょう。そこでわたくしは君のため李園を殺します」と言った。春申君は「そうした考えは止めたほうがよい。李園は弱い人間だ。わしとて彼を善くしてやっている。どうしてそんなことが起ころう」と言ってしりぞけた。
朱英は聴き入れられなかったので、わが身に禍が及ぶのを恐れて逃亡した。
17日ののち、考烈王が没すると、はたして李園は宮中に入り、決死の士を棘門の内に伏せ春申君を刺し殺した。
寿越(ジュエツ)【文官】
呉の臣。
B.C.568寿越は寿夢の命で晋に使いした。
須賈(シュカ)【文官】
魏の臣。中大夫。
斉に使いし、范雎が随行した。斉襄王は、范雎が弁舌に巧みであることを聞き、范雎に金十斤と牛・酒を賜った。范雎は辞退したが、しかし須賈は范雎が魏の秘密を漏らしたためであると疑った。
須賈は帰国して、宰相の魏斉にこれを告げた。魏斉は大いに怒り、范雎を辱めて厠に陥れた。
B.C.276秦の魏冄が大梁を包囲した。須賈は魏冄に説いて「わたしは魏の長吏が魏王に『土地を割譲した宋・中山を戒めとし、苦難に耐えて土地を割譲しなかった衛・趙を手本となさいますように』と進言したと聞いています。また魏は百県以上の精兵を動員して大梁を守ろうとし、その数は30万を下ることはありますまい。たやすく攻められるものではありません。
いま魏は迷っております。それゆえ少しの土地を割かせて早く事を収められますように。願わくは、君にはご熟慮のうえ、危険を冒されませぬように」と言った。
魏冄は「よかろう」と言い、大梁の囲みを解いた。
范雎は秦の宰相となっても張禄と称していたので、魏では范雎は死んだものだと思っていた。魏は須賈を使者として秦に遣わした。范雎は姿をやつして須賈に会った。
須賈は「范叔は生きていたか」「はい」
「范叔、おまえは秦王に遊説したのか」「いいえ」
「いまどんな仕事をしているのか」「人の賃雇われをしています」
「秦は張君を宰相としているが、おまえは知っているか」「わたくしの主人は宰相を熟知しています。わたくしに君を張宰相に引き合わさせてください」
范雎は須賈と宰相の邸門のところまで来ると、自分のみ宅に入った。須賈はいぶかしく思って門下の者に
「范叔が出てこないが、どうしたのだろう」と問うた。
「ここには范叔などという者はおりません」
「さっきわたしと車に乗ってきて、中に入った者のことだ」
「あれは、宰相張君であります」
須賈は大いに驚き、頓首して詫びた。范雎はこれを許し、須賈を昭襄王に謁見させてやった。
帰国に及んで、諸侯からの使者を招待して須賈だけを堂の下に座らせ、飼料のまぐさや豆を前に置き、馬食をさせた。そして「わしに代わって魏王に『はやく魏斉の首をもってこい。さもなくば、大梁を屠ってやろう』と言え」と責めた。
須賈は帰国して魏斉に報告した。魏斉は恐れて趙に出奔した。
朱亥(シュガイ)【在野】
信陵君の食客。屠夫。侯嬴の友人。
B.C.258信陵君は趙を救うために如姫に請い、兵符の片符を手に入れた。侯嬴が「将軍たるもの外征中は主君の命でも聴かない場合があります。もし晋鄙が軍を引き渡さなかったら、面倒なことになるでしょう。そのときに備えて、わたくしの友の朱亥を同行なさいませ。晋鄙を撃ち殺すことができます」と言った。
信陵君は鄴に着き、魏王の命といつわって晋鄙と交代しようとした。はたして晋鄙は「これはどうしたことだろう」と疑ったので、朱亥は隠していた四十斤の鉄椎で晋鄙を殴り殺し、ついに信陵君は兵権を手に入れて趙を救った。
酒客(シュカク)【神】
仙人。列仙伝に見える。
梁の酒屋の雇人であった。彼が造った酒はいつも美味かったが、ある失敗をして追い出されると、その店の酒はまずくなってしまったという。100余年たって梁の次官となって赴任する。大飢饉を予言したため、梁の人民は餓死を免れた。
主癸(シュキ)
示癸
朱忌(シュキ)【文官】
魏の臣。
B.C.266安釐王は秦が魏を救ってくれたのに乗じて秦とともに韓を討ち、韓にある魏の旧領土を取り返そうと思った。
朱忌は「秦は戎翟と風俗が同じく、虎狼のような心を持ち、貪欲で道にもとり、利を好んで信実がなく、礼儀徳行を知っておりません。しかるに王がこれを自覚されないのは不明であり、これを上聞しないのは、群臣の不忠です。
秦は韓を滅ぼした後は、かならず魏を攻めてきましょう。
また秦が魏の地を領有しているのは、大梁を去ること千里、その間を山河で遮られています。それにも関わらず、秦の禍は大きいのです。もし秦が韓を滅ぼして間を遮る山河もなくなれば、その禍はかならず百倍しましょう。
また韓を攻めれば、楚と趙はかならずこれとともに戦いましょう。
それゆえ私としては、韓を攻めずに諸侯と合従することを進言いたします」と言った。
豎牛(ジュギュウ)【女官】
魯の臣。叔孫氏の家臣。名は牛。〜B.C.537。
B.C.575叔孫豹は叔孫家を出て斉に出奔した。魯の庚宗である夫人に出会い、叔孫豹はその家に宿泊した。かくて叔孫豹は斉に行き、国氏から妻を迎えて孟丙仲壬を生んだ。ある夜、叔孫豹は天に抑えつけられる夢を見て思わず「牛よ助けてくれ」と言うと、その男が助けてくれた。
叔孫豹は魯に帰り、叔孫氏の家を継いで卿となった。すると庚宗の夫人がやってきて自分の子を連れてきた。叔孫豹は名も尋ねないで「牛」と呼びかけると、その子は「はい」と答えた。これが豎牛である。叔孫豹はこれを小姓として用い、成長してから家政を司らせた。
B.C.538叔孫豹は丘蕕で狩をしたが、そこで病気にかかった。豎牛は叔孫氏を乱してわがものにしようと考え、孟丙公孫明をもてなしていると讒言した。そこで叔孫豹は孟丙を捕らえて殺した。
また豎牛は仲壬が魯昭公からいただいた玉環を身につけていると讒言した。そこで叔孫豹は仲壬を追い出した。
叔孫豹は病気が重くなったため、仲壬を呼び寄せようとした。しかし豎牛は仲壬を呼び寄せなかった。豎牛は叔孫豹への食べ物を進めないで、からになった容器を置いて食事係りの者にさも食べているように見せかけたため、叔孫豹は飢えてついに没した。
豎牛は叔孫婼を立てて叔孫氏を継がせ、自分はその後見役となった。
魯昭公は杜洩に命じて叔孫豹を葬らせた。豎牛は杜洩を叔孫家から追い出そうとして、叔仲帯と季氏の家臣南遺に物を贈ったが失敗した。
B.C.537春、豎牛は南遺の助けを受けて仲壬を大庫の庭で攻め殺した。豎牛は叔孫の領地の東方30邑を取り上げて南遺に与えた。
叔孫婼が叔孫氏のあとを継ぐと、その家臣たちを出仕させて「豎牛が叔孫家に禍を持ち込み、嫡子を殺して庶子を立て、領地を分けて自分の罪を逃れようとしている。ぜひとも早く殺せ」と命じた。豎牛は恐れて斉に逃げようとしたが、孟丙と仲壬の子たちに国境の関所の外で殺され、その首は斉の寧風の棘の上に投げつけられた。
叔安(シュクアン)【文官】
有飂の臣。董父の父。
叔ウン(シュクウン)【女官】
鄶国の夫人。
鄶国は同姓の叔ウンを夫人にしたため滅んだとされる。
粛王(シュクオウ)【王】
楚王(17(33)代目)。名は臧。悼王の子。〜B.C.370。
B.C.381粛王は即位した。粛王は父の悼王の屍を射た者をことごとく誅殺した。呉起を射た罪に連坐し、一族もろとも滅ぼされて死んだものは、70余家に及んだ。
B.C.380秦・魏は韓を攻めた(南梁の戦い)。粛王は趙とともに韓を援けた。
B.C.377蜀に攻められ、西境の玆方を失う。そこで扞関を造って、これに備えた。
B.C.371魏に攻められ、魯陽を失う。
祝応(シュクオウ)【文官】
虢の臣。大祝(神官)。名は応。
B.C.662虢の莘に神が降りてきて、6ヶ月も留まった。
虢公は祝応、宗區史嚚に命じて神を祭らせた。
叔鞅(シュクオウ)【文官】
魯の臣。
B.C.520叔鞅は周の都から周景王を葬って帰国し、王室の乱れを話した。これを聞いた閔馬父は「子朝はきっと勝てないであろう。彼に味方している者は天から見捨てられた者ばかりだ」と言った。
叔牙(シュクガ)【公子】
荘公の弟。僖叔ともいう。〜B.C.662。
B.C.662、7月、荘公は病気が重くなると、叔牙に後継ぎについて尋ねると、叔牙は「慶父は才能があります」と答えた。また荘公は季友に尋ねると、季友は「公子をもりたてましょう」と答えた。
荘公は「叔牙は慶父を推したのだが…」と言うと、季友は君命であると言って叔牙を鍼巫氏の邸宅に呼び寄せ、毒酒をすすめて「これをお飲みになれば、後継ぎは立ち、お飲みにならなければ、後継ぎは絶えるでしょう」と言った。そこでやむなく叔牙は毒酒を飲み、逵泉(曲阜の南)で死んだ。
しかし、その子孫は叔孫氏として継続した。
叔隗(周)(シュクカイ)【女官】
襄王の夫人。狄の人。
B.C.636襄王が狄の兵で鄭を討ったので、その功として叔隗は皇后となった。
冬、叔隗は王子叔帯と姦通したため皇后を廃された。
叔帯はそのため狄人を都に入れて、襄王を亡命させる。
叔隗(晋)(シュクカイ)【女官】
趙衰の妻。咎如(赤狄の別種族)の族長の娘。季隗の姉。
叔隗は趙衰に嫁いで、趙盾を生んだ。
B.C.636趙衰は帰国すると、晋にいた妻の勧めで、叔隗を引き取り、その子趙盾を嫡子とした。晋の妻の三人の子はみな謙遜して、趙盾に仕えた。
祝懽(シュクカン)【文官】
秦の臣。太子(恵文君)の師傅。
B.C.351太子が法を犯したので、祝懽は誅殺される。
祝款(シュクカン)【文官】
鄭の臣。
B.C.526、9月、鄭で日照りが続いたため、鄭定公屠撃・祝款・竪柎に命じて桑山で雨乞いの祭りをさせ、山の木を切ったが雨は降らなかった。子産は「山で祭りをするのは山林を守るためだ。その木を切っては罪が多い」と言って、3人の役と領地を取り上げた。
叔寛(シュクカン)
叔褒
叔キ(シュクキ)【女官】
欒黶の夫人。范匃の娘。
欒黶に嫁いで欒盈を生む。
B.C.552欒黶が死んで未亡人となると、叔キは家老の州賓と密通して乱行に及び、その財産をほとんどなくしてしまい、家がつぶれそうになった。
このことを欒盈が心配したので、叔キは欒盈が州賓を責め正すのではないかと恐れ、范匃に欒盈が叛乱を企てていると中傷した。そのため范匃は欒氏一族を殺したり、追放したりした。
叔姫(紀)(シュクキ)【女官】
紀の君の夫人。魯隠公の娘。
B.C.716、3月、叔姫は紀に嫁いだ。
本来、B.C.721に叔姫の姉が紀に嫁いだときに、叔姫もその娣として従うべきであったが、幼少であったため、この年に嫁いだ。
B.C.682、3月、叔姫は斉のケイに一時身を寄せた。
叔姫(莒)(シュクキ)【女官】
莒の君の夫人。魯荘公の娘。〜B.C.665。
B.C.667冬、叔姫は莒に嫁いだ。
B.C.665、12月、没す。
叔姫(杞)(シュクキ)【女官】
桓公の夫人。魯の公女。〜B.C.615。
B.C.615、1月、杞桓公は魯を聘問し、叔姫と離婚して他の公女を迎えたいと願い出た。魯文公はこれを許した。
2月、叔姫は没した。
叔姫(杞)(シュクキ)【女官】
桓公の夫人。魯の公女。〜B.C.583。
B.C.586春、叔姫は杞桓公に離縁されて帰国した。
B.C.583、10月25日、没す。
叔姫(斉)(シュクキ)【女官】
昭公の夫人。魯の公女。公子の母。
公子舎は太子であったが、叔姫が昭公に愛されなかったので、権勢がなかった。
B.C.613昭公が没し、公子舎が即位したが、公子商人に弑された。
冬、魯の襄仲は周匡王のもとに使者を遣わして、周の力添えで叔姫を斉から取り戻したいと願い出た。そこで単伯が斉に赴いて叔姫を渡して欲しいと願い出たが、斉人は周と魯の工作に立腹して単伯を捕え、叔姫も捕えられた。
B.C.612、12月、叔姫は許されて魯に帰国した。
叔姫(斉)(シュクキ)【女官】
高固の夫人。魯の公女。
B.C.604春、魯宣公が斉を訪れた。このとき高固が斉恵公に願って宣公を引きとめさせて、叔姫を妻にほしいと強請した。
9月、叔姫は高固に嫁いだ。
祝跪(シュクキ)【文官】
周王朝の臣。〜B.C.673。
恵王蔿国の菜園を取り上げて王の庭園とし、辺伯の邸宅が王宮に近かったので、これを取り上げ、さらに子禽・祝跪・詹父の田地を取り上げ、石速の秩禄をも取り上げた。
B.C.675蔿国・辺伯・子禽・祝跪・詹父・石速は乱を起こし、かねて王室を恨んでいた蘇氏を中心として団結した。
秋、祝跪らは公子をかつぎ上げて恵王を攻めたが、恵王はこれを撃退した。勝つことができなかったので、祝跪らは蘇氏の領地の温に出奔した。
そこで6人は衛と南燕の軍とともに周を攻め、恵王は温に逃げ、鄭の都櫟に移った。
冬、祝跪ら6人は公子頽を擁立した。
B.C.673夏、鄭厲公虢叔林父が挙兵し、厲公は恵王と共に南門から都城に入り、虢叔林父は北門から入って頽を殺し、祝跪も誅殺された。
叔肸(シュクキツ)【文官】
魯の公子。魯宣公の同母弟。〜B.C.592。
B.C.592、11月13日、没す。
叔弓(シュクキュウ)【文官】
魯の臣。〜B.C.527。
B.C.543、7月、叔弓は宋に出かけて、宋の共姫の葬礼に参加した。
B.C.541叔弓は軍を率いて鄆の田地の境界を正した。
B.C.540夏、叔弓は晋に赴いて韓宣子の来聘に対する返礼をした。晋平公は郊外で叔弓をねぎらおうとしたが、叔弓は辞退して「わが君の口上をお取次ぎの役人まで申し上げれば魯国の幸いでございます。お使いをいただくまでもありません」と言った。叔弓が都に着くと晋は旅館を手配したが、叔弓はこれも辞退した。晋の叔向はこれを聞いて「子叔子(叔弓)は礼をわきまえた方であるよ」と言った。
B.C.539、5月、叔弓は滕に出かけて滕成公の葬儀に参加した。
B.C.537、7月15日、叔弓は魯に侵攻してきた莒軍を蚡泉で討ち破った。
B.C.536冬、叔弓は楚に出かけた。聘問と同時に楚の敗戦の見舞いのためであった。
B.C.534夏、叔弓は虒キの宮殿落成を祝うため、晋に出かけた。
B.C.533、1月、叔弓は楚霊王、宋の華亥、鄭の子大叔、衛の趙黶と陳で会合した。
B.C.531、2月、叔弓は宋に出かけて宋平公の葬儀に参加した。
B.C.529春、叔弓は南蒯が背いている費を攻め囲んだが、勝つことができなかった。
B.C.527、2月16日、禘祭の日に笛の舞いが始まると、叔弓は亡くなった。
叔向(シュクキョウ)【宰相】
晋の宰相。姓は羊舌、名は肸、字は叔向。楊肸ともいう。
博学多聞をもって聞こえた。
叔向は使節となり周に入った。単靖公が叔向を饗宴したが、倹約で恭敬であった。叔向はこれを褒め、靖公が天子の卿士となって輔佐をするならば、周王朝は再興するであろうと言った。
B.C.562、12月1日、諸侯は鄭と蕭魚で会合した。叔向はこの会合で命ぜられて諸侯に内容を告げた。
あるとき晋悼公女叔斉と高い台に登って眺望して「楽しいなあ」と言った。
女叔斉「楽しいですが、徳義の楽しみはまだです」
悼公「何を徳義というのか」
女叔斉「諸侯の行為の中で、その善いものを行い、その悪いものを戒めます。これを徳義と言うことができます」
悼公「誰にできるか」
女叔斉「羊舌肸が春秋に習熟しております」
そこで悼公は羊舌肸を召し出して、太子の傅とした。
B.C.559夏、諸侯の同盟軍が秦を討ち、国境深く侵して涇水にたどりついた。しかし涇水を渡る軍がなかった。叔向は魯の叔孫豹に「諸侯が涇水まで来て進まないならば、秦討伐に何の益がありますか」と問うた。
叔孫豹が「わたくしの覚悟は匏有苦葉の詩(苦い瓢箪は食べられずにただ渡る為に使用する)にあります」と言ったので、叔向は舟虞と司馬を呼び寄せて「魯の叔孫が匏有苦葉の詩を歌ったからには必ず渡るだろう。舟を用意し道を掃除せよ」と言った。
はたして魯軍は莒人を率いて真っ先に渡河し、諸侯はこれに続いた。
B.C.557、1月、晋平公が即位すると、叔向は傅に任じられた。
范匃和大夫と田畑の境界争いをして、決着がつかなかったので、范匃は和大夫を攻めようとした。叔向はこれを聞くと「なぜ訾祏に相談されないのですか。訾祏は実に正直で博学であり、それにあなたの家老です。国家の大事には常法に従い、古老と相談してから実行にうつすものであるといいます」と言った。結局、范匃は土地を和大夫に与えて仲直りした。
B.C.555晋は諸侯と共に斉を討った。
11月30日、斉軍は夜に乗じて逃げ帰った。叔向は晋平公に「敵の城壁の上に鳥がとまっています。斉軍はきっと逃げたのでしょう」と言った。
このとき楚が鄭に攻め入った。師曠は「恐れることはない。わたしは北の歌と南の歌を歌ってみたが、南の歌には活気がなく、悲しい音調が多い。楚はきっと失敗するであろう」と言った。また董叔は「歳星(木星)の位置や斗柄(北斗七星の柄)のさす方向は今、北西にある。南方楚は戦うべき時を得ていないから、きっと成功しないであろう」と言った。叔向はこれを聞いて「戦の勝敗はそんなことより国君自身の徳によるものだ」と言った。
B.C.554冬、晋と斉が和睦した。叔向は魯の叔孫豹と会った。叔孫豹は晋にすがって魯を救ってもらいたいと言ったので、叔向は承諾した。
B.C.552晋平公は欒盈を追放し、欒盈の一味である箕遺らを殺し、伯華・叔向・籍游を捕えた。ある人が叔向に「あなたは罪にかかって捕えられた。愚かなことではありませんか」と言うと、叔向は「殺されるよりましでしょう。詩に『ゆったりのびやかに、天寿を終えることにしよう』とあります。これこそ知者のやり方です」と答えた。
楽王鮒が「わたしがあなたの赦免を頼んであげましょう」と言ったが、叔向は返事もせず、帰るときにも感謝の礼もしなかった。家臣がみな非難した。
叔向「わたしを助けるのはキ大夫(祁奚;)に決まっている」
家老「楽王鮒が君に申し上げるとなんでも実行されます。キ大夫にはとてもできません」
叔向「楽王鮒はただ君の命に従うだけの人だ。一方、キ大夫は他人を勧める場合には仇でも才能があれば捨てることなく、身内を勧める場合には親族でも遠慮しません。どうして私を見捨てることがありましょうか」
晋平公は楽王鮒に叔向の罪を尋ねると、楽王鮒は「彼は身内を捨てない人ですから、羊舌虎と関係があるのかもしれません」と答えた。祁奚;はこれを聞くと、すでに引退していたが早馬に乗って駆けつけて范匃とともに参朝したので、叔向は赦された。祁奚;は叔向に会わないで帰宅し、叔向も赦してもらったお礼を言わずに朝廷に出仕した。
冬、諸侯が商任で会合したとき、斉荘公と衛殤公は不作法であった。叔向は「二君はきっと禍にかかるだろう。礼を怠ると政治が失敗し、政治が失敗すると身を立てることができなくなり、かくて国は乱れるものだ」と言った。
B.C.548夏、諸侯は会合して斉を討った。斉が降服したため、叔向はそれを諸侯に伝えた。
B.C.547秦景公が弟のを使節として和平交渉によこした。叔向はその対応のために子員を呼んだが、子朱が「わたくしがおります」と言って譲らなかった。叔向は「子員は賓客と主人の言葉を言うのに私心はないが、あなたはいつも変える。悪意を持って君に仕える者をわたしは禁止するのだ」と言い、ふたりは争ったので人々が中に入って取りなした。晋平公はこれを聞いて「晋は盛んになるであろうか。臣下の争う所は重大である」と言うと、師曠は「公室はおそらく衰微するでしょう。臣下が徳を競争せずに、力で競争してます」と言った。
7月、晋が衛献公を捕らえたため、斉と鄭の二君がこれを救うために晋に来た。斉の晏嬰は叔向に内々に話をして衛献公釈放のお願いをした。叔向は趙武に告げたので、晋は衛献公を許した。
B.C.546弭兵の会にて晋楚は初めて同盟して、南北の抗争を止めることとなった。この会合で叔向は趙武の介添をした。楚の令尹屈建が会合の日に「もし晋軍を全滅させて趙武を殺したら、晋は衰微するだろう」と言い、晋軍を襲撃しようとした。趙武はこれを聞いて叔向に「どうしようか」と尋ねた。叔向は「何を心配するのですか。今わが晋は忠によって諸侯のためを謀り、信を忠の上に加えようとしています。もし楚がわれを襲撃するなら、それはみずから信に背き、忠を断つものです。その上、諸侯の不信を行うならば、諸侯は何を楚に望めましょうか。諸侯は必ず楚に背くでしょう。あなたは死んで晋の盟主の地位を固めることができるのですから、何を懼れるのですか」と言った。結局、屈建は信義を恐れて取りやめた。
この会盟で、楚は先に犠牲の血をすすることを要求した。叔向は趙武に「覇者と王者の勢いは、徳にあって血をすすることにありません。どうして先を争いましょうか。あなたは徳を務めて先を争いなさるな。徳を務めることこそ、楚を信服させる道です」と言った。そこで晋は楚に先にすすらせた。
冬、楚の子蕩が晋に来て、立ち会って盟いを結んだ。子蕩は宴が終わって退出する時に、既酔の詩を歌って晋平公のもてなしを感謝し、その幸いをお祈りする意を寓した。叔向は「エン氏が楚で代々続いているのはもっともなことだ。他国に使いしてよく行き届いている。子蕩はやがて楚の政治を執ることになろう」と言った。
B.C.543鄭簡公子産が晋に来聘した。叔向は彼らに鄭の政情を尋ねた。
B.C.542、6月、鄭の子産が来聘したが晋平公になかなか面会できなかった。そこで子産は旅館の堀を壊して車馬を入れさせた。士文伯はその無礼を責めると、子産は「持参した品を納められず風雨にさらしてもおけないのでおとがめを重ねた次第です。お役人にはどのようなご命令を下さるのでしょうか」と答えた。趙武は「子産の言うとおりだ。堀の中に諸侯をお入れしたのは、わたしの過ちでした」と言って、不行き届をお詫びした。叔向は「あいさつはやめてはならない。子産のあいさつが優れていたからこそ、諸侯がそのおかげをこうむったのだ」と言った。
B.C.541楚の公子郟敖を弑して王となったので、公子が晋に亡命してきた。韓宣子は先に亡命していた公子鍼と公子比の俸禄について叔向に尋ねた。
叔向「大国の卿は一族(500人)の田で、上大夫は一卒(100人)の田です。どちらも一卒でいいでしょう」
韓宣子「秦の公子は裕福である。どうして同じにするのか」
叔向「爵によって職務を決め、禄によって爵のある者を養い、徳によって分け、功績につり合うようにします。どうして富によって禄を分けましょうか。その上、秦と楚は同格です。どうして富のために法をまげましょうか」
そこで韓宣子は、ふたりの俸禄を同じにした。
あるとき韓宣子は叔向に貧乏であることが苦痛であると話をすると、叔向は祝意を示した。韓宣子はなぜかと尋ねると、叔向は「欒懐子(欒逞)や郤昭子(郤至)は富を蓄え、高慢贅沢であったため滅びました。今あなたは欒武子(欒書)のように貧乏ですから、彼のような徳義を行なうことができます。それゆえ祝賀の意を示したのです」と答えた。韓宣子はぬかずいて「滅亡するところをあなたのお陰で長らえることができました。先祖桓叔以下、感謝いたします」と言った。
B.C.540斉から嫁いだ少姜のお供をした斉の田無宇が卿ではなかったため、晋平公はその非礼を責めて田無宇を中都に閉じ込めた。叔向は「彼にどういう罪があるのですか。君が公族大夫を使わしたので、斉もそれに釣り合う上大夫の彼に命じたのであり、それを無礼とするのは要求がひどすぎます。そんなことでどうして盟主となりましょう」と諌めた。晋平公は田無宇を許して斉に返した。
B.C.539春、斉の晏嬰が晋に使いしたとき叔向はその応対に当たった。叔向と晏嬰は私的に話をして、晏嬰は「斉の政権は結局田氏に帰することでしょう」と言い、叔向は「晋はもう末世であります。公は賦税を重くし、台池をつくって政治を顧みません。政治は大臣の私門でおこなわれているのです。どうして長く国を保つことができましょう」と言った。晏嬰が「あなたはどうなさる所存ですか」と尋ねると叔向は「わたしの宗族は11ありましたが、ただ羊舌氏が残っているだけです。わたしには家を継ぐよい子がいないし、公室は乱れています。天寿を全うして死ねたら幸いであり、とても死後に祭りをしてはもらえないでしょう」と答えた。
7月、鄭の子皮が来聘した。叔向は韓宣子の命で子皮に「鄭君がわが君に仕えようとするお心があるのなら、楚に行かれても何ら差し支えはありません」と答えた。
B.C.538楚が諸侯と会合を開きたいと晋に申し入れてきた。叔向は命ぜられて楚の使者に「わが君は多忙であるためお伺いすることはできませんが、楚の君は諸侯を掌握されておられます。どうして私どもに仰せくださる必要がありましょう」と答えた。そこで楚は諸侯と会合した。
B.C.537叔向は韓宣子とともに公女を楚に送り届けた。楚霊王は叔向の知らないことを言って、あげ足を取って自慢しようとしたができなかったため、叔向らに手厚い礼を行った。
B.C.536、3月、鄭の子産が刑鼎を作ったことを聞き「はじめ私はあなたに大いに期待していたが、それをやめます。人民を治めるのは義、礼、信、仁をもってするものです。あなたが亡くなったら鄭は滅びるでしょう。私は聞いています。国がまさに滅びようとするときは必ず法律が多いということを。まさにそのとおりではないですか」と手紙を出した。子産は「あなたのおっしゃるとおりです。私は不才ですので子孫にいいようにはしてやれません。ただ私は今の世を救おうとしているのです。ただご忠告を頂いた大恩は忘れません」と返事をした。
夏、楚の公子棄疾が晋にやってきた。晋平公は前年、晋の使者が楚に冷遇されたため迎えの者を出すまいとした。しかし叔向は「こちらは正しいことをしましょう。いやしい男でも善を行えば民はそれを手本とします。まして国君が善をしたらなおさらでございます」と進言したため、晋平公は喜んでこれを出迎えた。
あるとき平公が、かやぐきを射たが死ななかったため、小者のに捕らえさせたが、逃してしまった。平公は怒って襄を殺そうとした。叔向は朝廷に出ると、平公にこのことを告げられた。叔向は「必ず彼を殺されよ。今、君は射ても死なず、小者が叩いて取ろうとしても取れませんでした。これは君の恥をさらすものです。彼を殺して遠国に聞こえないようにするべきです」と逆のことを進言した。平公は恥ずかしくなって襄を許した。
女叔斉が没すると、叔向は女叔斉の子を愛撫して「あなたの父上が死んでからは、ともに親しんで君に仕える人はいなくなった」と言った。籍游がそばに居て「君子にも親しむことがあるのですか」と言った。叔向は「君子は親しんでも別け隔てしません。徳に親しんで事を援けるのは、比(親しむ)です」と答えた。
B.C.534春、魏楡の石がものを言った。晋平公が師曠に「石はなぜものを言ったのか」と問うた。師曠は「事を行うのに時節にかなっていなければ、ものを言うべきでない物がものを言うことがあるといいます」と答えた。このころ晋平公は虒キの宮殿を建築中であった。叔向は「子野はまことに君子である。虒キの宮殿が完成したら諸侯は晋に背き、わが君はきっと禍を受けるであろう。子野はそれを知っている」と言った。
B.C.533晋の閻嘉と周の大夫が閻の耕地について争い、晋は陰戎の人を率いて周の穎邑を討った。そのため周景王は晋を訴えた。叔向は韓宣子に「わが文公のときは周王を補佐し、恭敬の心を捧げて仕えました。ところが今は周をないがしろにしています。どうかよろしく取り計らってください」と言った。これを聞いて韓宣子は喜んで周と和睦した。
B.C.531秋、単成公は周景王の命で厥憖の会合に参加し、晋の韓宣子と会見したが、単成公のまなざしは低い所を見ており、その言葉もゆっくりしていた。叔向は「単子はやがて死ぬであろう。単子には身を守る気力が無い」と言った。はたして単成公は12月に没した。
B.C.529楚の公子比が晋から楚に帰ったとき、韓宣子に「公子比のことは成功するだろうか」と問われると叔向は「成就いたしますまい」と答えた。なぜかと問われると「国を取るには5つの困難があります。第一に、高い位があっても輔佐をする人がいないこと、第二に、補佐する人があっても、内応する者がないこと、第三に、内応する者があっても策謀のないこと、第四に、策謀があっても、民衆が支持しないこと、第五に、民衆が支持しても本人に徳の無いこと、であります。
公子比は晋楚において彼に従う者に達人のいることを聞きません。彼の一族は尽いて、内応する者がいません。さして楚に隙も無いのに事を挙げようとしています。これは策謀がないことです。楚で定住したことがないので、支持する民衆がいません。楚に亡命しても楚人に愛されません。これは徳のないことです。これでどうして成公できましょう。
その点公子弃疾がいいのではないでしょうか。陳・蔡の君として外敵は彼に属し、民心はなついています。羋姓(楚)に乱のあるときは、必ず王の末子が立つのが常道です(弃疾は恭王の末子)。」と答えた。
7月、叔向は「諸侯に対してはわが晋の威力を示さなければ成らない」と言ったため、晋はあまねく諸侯に会合を命じ、呉王余昧にも通知した。かくて諸侯は平丘に宿ったが、羊舌鮒が衛からまかないを取ろうと考え、草刈や薪取りで山林を荒らして衛を悩ませた。衛人は屠伯を叔向に遣わして羹と錦をもってきてこれをやめるよう訴えた。叔向は「あなたが衛君の命だと称してあの者(羊舌鮒)にこの錦を与えるなら、きっとおさまるでしょう」と言った。屠伯がそのとおりにすると、羊舌鮒はこれをやめた。
晋人は諸侯と再び盟約しようとしたが、斉人が承知しなかった。そこで晋昭公は叔向を使者として劉献公に相談させた。劉献公は「盟いはそれによって誠信をしめすものです。晋君に誠信があるなら、諸侯は二心を抱くものではありません。斉に対して鄭重な言葉で申し入れてから武力でその不正を正すなら、斉が聴き入れなくても晋君の功績は多いことになります」と答えた。そこで叔向は斉に申し入れると、斉は「諸侯はみな晋の命に従っているのに盟いを結ぶ必要がありましょう」と答えた。叔向は「王者の制度では諸侯に命じて貢納をはっきりと意識させ、礼を修め、京師に会合し、盟いを結ぶことにしています」と言った。
8月5日、叔向は「諸侯にわが軍の威力を示さなければならない」と言って軍を勢揃いさせた。
8月6日、邾と莒が晋に魯を訴えて「魯は朝夕わたくしどもを討って、もはや滅びかかっております。わたくしどもが貢物を納められないのは魯のせいです」と申し入れたため、晋昭公は叔向に命じて魯に盟約に参加しないように伝えた。魯は恐れて晋の命令に従い、盟約に参加しなかった。
B.C.528司法官士弥牟が楚に使いしていたので、羊舌鮒が司法官を代行することとなった。
邢侯雍子が境界争いをしていたが、雍子が娘を羊舌鮒に与えて、自分の有利に判決するよう頼んだため羊舌鮒は雍子が正しいと判決した。そのため邢侯は怒って羊舌鮒と雍子を朝廷で殺した。
韓宣子はこの事件の処理に苦しんだが、叔向は「3人の悪人は同罪です。鮒は獄を売り、雍子は獄を買い取り、邢侯は司法官でもないのに人を殺しました。生きている者を殺し、死んだ者をさらしましょう」と言った。
邢侯はこれを聞くと亡命したが、邢侯の家族は処罰された。
B.C.527、12月、荀躒が周の穆后を葬った。周景王は「伯氏よ、諸侯はみな贈り物を献上して王室を慰安してくれるのに、晋だけしないのはなぜか」と問うた。籍談が答えて「わが晋は深山の中にあり、戎狄と近接して、王の恵みも至りません。どうして器物を献上することができましょう」と答えた。周景王は「叔氏よ、汝は忘れてしまったのか。武王は商に勝ち、晋の地を唐叔に与えたのではないか。その幸福の記録をしなければ、晋の存在はないことになる。汝は晋の記録を司る籍氏の子孫であるのに、どうしてそれを忘れたのか」と言った。籍談は返答することができなかった。これを聞いた叔向は「王は天寿を全うできないであろう。憂いの中にあって憂いを楽しんでいる」と言った。
あるとき董叔が范氏から妻を娶ろうとしたとき、叔向は言った。
叔向「范氏は富んでいます。どうしてやめないのですか」
董叔「范氏の後援を求めたいのです」
あるとき妻の董キ范鞅に「夫がわたくしを敬いません」と言ったので、范鞅は怒って董叔を捕らえて、庭の木に縛りつけた。叔向がそこを通りかかると董叔は言った。
董叔「わたしのために許しを請うて下さい」
叔向「あなたは後援を求めてつながれました。希望通りになったのに、その上何を請うのですか」
あるとき趙鞅が「魯の孟献子には彼のために戦う臣が5人もいるのに、わたしには1人もいないのはどうしてでしょうか」と言った。叔向は「あなたが欲しないからです。もし、欲するならわたしは勇士の列に加わってもいいのです」と言った。
叔向は楊を食邑として賜わる。
叔姜(シュクキョウ)【女官】
荘公の夫人。哀姜の妹。
叔姜は魯湣公を生んだ。
叔均(シュクキン)【神】
古代の神。『山海経』にみえる。
牛引きの鋤を作ったとされる。
叔麇(シュクキン)【文官】
廬の臣。
B.C.613楚の闘克と公子は楚荘王を奉じて郢を出て商密に行こうとして、廬に立ち寄ったとき、叔麇は戢黎とともに彼らを殺して荘王を都に帰した。
叔禽(鄭)(シュクキン)【文官】
鄭の臣。公孫申の弟。
B.C.581、3月、子如が公孫申の策謀を真に受けて公子を擁立した。
5月12日、鄭成公は鄭に帰国した。
6月9日、鄭成公は自分の代わりに君を立てた者を討ち、叔禽は兄の公孫申とともに殺された。
叔禽(晋)(シュクキン)【文官】
晋の臣。韓宣子の一族。
叔詣(シュクケイ)【文官】
魯の臣。〜B.C.513。
B.C.517夏、叔詣は晋の趙鞅、宋の楽大心、 衛の北宮喜、鄭の子大叔、曹の人、邾の人、滕の人、薛の人、 小邾の人と黄父で会合し、王室の乱について相談した。
B.C.513、4月5日、叔詣は没した。
叔倪(シュクゲイ)
子叔詣
祝鶏翁(シュクケイオウ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
洛陽の人。山に住み着き100余羽の鶏を飼っていた。その数は千余羽にもなり、それを売って千余万の銭を得たが、それを置いたまま立ち去ったという。
叔堅(シュクケン)【文官】
晋の臣。七輿大夫のひとり。〜B.C.650。
B.C.650晋恵公が即位すると、郤芮邳鄭と七輿大夫を殺した。
叔献(シュクケン)【神】
いにしえの賢者。八元のひとりといわれる。帝嚳の子。
叔献はに仕えたとされる。
祝固(シュクコ)【文官】
斉の臣。
B.C.522斉景公の皮膚病が一年経っても治らなかったため、祭官である祝固と史嚚の責任にされそうになった。
粛公(シュクコウ)【王】
成公。〜B.C.578。
B.C.578粛公は諸侯と共に秦を討った。出陣に際して粛公は社での祭の肉をいただく作法が無礼であった。周の王季子は「成子(粛公)が祭肉をいただくのに無作法であったのは、みずから天の与えた命を棄てるものだ。無事には帰れまい」と言った。
はたして粛公は遠征中に晋の瑕で没した。
粛侯(シュクコウ)【王】
趙侯(5代目)。名は語。成侯の子。〜B.C.325。
B.C.353成侯が没すると、公子と位を争い、これを破る。
B.C.352晋君の封邑端氏を奪い、晋君を屯留にうつす。
B.C.351魏恵王と陰晋で会見する。
B.C.350公子に邯鄲を攻められるが、これを破り、范は戦死する。
B.C.349周顕王に参朝する。
B.C.347斉を討ち、高唐を抜く。
B.C.346公子に命じて魏を討ち、首垣を攻める。
B.C.340魏を討つ。
B.C.335寿陵(生前に造る陵)を造営する。
B.C.334蘇秦が趙にきて、粛侯に説いて「いま大王がもし秦に与されるなら、秦は山西で強大となり、のちに趙はこれと対峙しなくてはならなくなるでしょう。いま秦が兵を挙げて趙を討たないのは、韓・魏があるためです。ここで大王には六国と結んで秦を討つべきです。そうすれば秦は函谷関を出て山東を侵すことはなくなりましょう」と進言した。
趙粛侯はこれをよしとし、車百乗・黄金千鎰・白壁百双・錦繍千反を飾り立てて諸侯への贈り物とし、合従を約定させようとした。
合従が成り、蘇秦が帰国すると粛侯は蘇秦に封邑を与えて武安君と号し、合従の約定を秦に通告した。このため、秦は函谷関から中原をうかがわなかった。
大陵に遊び、鹿門から外に出ようとしたが、宰相大成午に諌められたため、馬車から下り、詫びてとりやめる。
B.C.333魏の黄を囲んだが、勝たなかった。また長城を築く。
B.C.332斉・魏に攻められる。粛侯は河水の堤をきり、敵陣にそそいだので敵は退いた。
B.C.329陘山の戦役の時、粛侯は秦と結んで斉を討とうとした。そのため斉宣王田章に命じて、陽武の地を趙に割いて趙と同盟し、公子を人質にしてきた。
B.C.328趙疵が秦と戦って破れ、藺・離石を失う。
B.C.327韓挙が斉・魏と戦い、燕の桑丘で戦死する。
叔侯(シュクコウ)【武官】
楚の臣。申公。
B.C.634斉が魯を攻めたので、魯は楚に兵を借り斉を討つことを請うた。そこで楚成王は叔侯に命じ兵を率いて斉を討たせた。
冬、楚軍は魯軍とともに斉の穀を攻め取り、斉桓公の子をここに置いた。叔侯はここを守備した。
B.C.633晋軍は穀城を攻め、叔侯の軍を追い払われた。
叔興(シュクコウ)
叔興父
叔興父(シュクコウホ)【文官】
周王朝の臣。内史。叔興ともいう。
B.C.644春、宋に隕石が5つ落ち、6羽の鷁が宋都をとおりすぎた。このとき叔興父は宋に行っていたので、宋襄公はこのことについて叔興父に尋ねた。叔興父は「魯に大きな喪がおこり、明年は斉に騒動がおこるでしょう。君は諸侯を率いることができても、長くは続かないでしょう」と答えた。退出して叔興父は「宋公は変なことを尋ねた。隕石や鳥は陰陽による自然の変化であって、それによって吉凶のおこるものではない。吉凶は人の行いによっておこるものだ」と言った。
襄王は太宰王子虎と内史叔興父を使節として派遣し、晋文公に襲封の勅命を賜った。文公は上卿に国境まで王子虎らを出迎えさせ、みずからも郊外に出迎えた。文公はすべて礼にかなった対応であったため、興は帰国して襄王に報告した「晋とは善く交わって親和しなければなりません。その君はきっと覇者となりましょう。王命を迎えて敬い、礼儀を尊んで勅命を拝受しました。王命を敬うのは、従順の道であり、礼儀を成就するのは道徳の法です。徳にのっとって諸侯を導けば、諸侯は必ず帰服します。
王よ、どうか善く交際なさいませ。礼儀に篤い人に徳を植えれば、わが身を養う豊作が待っております」
襄王はこの言葉に従って晋への使節がひきもきらず送られた。
B.C.632晋文公が楚の捕虜を周に献上したので、天子に命ぜられて晋公を侯伯に任命し、大輅(儀式用の車)、赤い弓矢100本(弓一張・矢100本)、黒い弓矢1000本(300張り・矢1000本)、秬鬯(香気のある黒い黍酒)一樽、珪瓚(儀式用の玉の酒器)および虎賁(天子の新兵)300人を賜った。
夙沙衛(シュクサエイ)【宦官】
斉の宦官。少傅。〜B.C.554。
B.C.571斉は萊を討った。萊の人は正輿子を遣わして夙沙衛に馬牛各100頭を贈った。そのため斉霊公は軍を引き揚げた。
B.C.556秋、斉は魯を討って臧堅を捕えた。夙沙衛は斉霊公の命で臧堅を慰問して「自殺などなさるな」と伝言した。臧堅は頭を地にすりつけて「ありがたいお言葉をいただきました。なんと刑罰あがりの者を遣わして士たるわたしをお見舞いさせてくださいました」と言って、くいでその傷をえぐって果てた。
B.C.555、10月、晋・魯・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾が斉に攻め入ってきた。斉霊公はこれを平陰で防ぎ、その北東の防門に広さ一里にわたる堀を作って守った。夙沙衛は「戦うことができないなら、もっと要害の地を守るのがよいでしょう」と進言したが、霊公は聴き入れなかった。
11月、斉軍は大敗し、晋軍は平陰に攻め入り、勢いに乗じて斉軍を追撃した。夙沙衛は大車を並べ、山あいの細道をふさいで敵軍の進路を絶って殿をつとめた。斉の勇士殖綽郭最が「そなたがわが軍の殿をするなど、斉の恥だ。しばらく先に行っておれ」と言って代わりに殿をつとめた。夙沙衛は腹を立て、馬を狭い道で殺して道を塞ぎ、ふたりの退路を絶った。そのためふたりは晋に捕えられた。
B.C.554斉霊公は太子を廃して公子を太子とし、夙沙衛は高厚の下役の少傅に任じられた。
5月29日、斉霊公が没すると、崔杼が公子光をひそかに迎え入れて即位させた(荘公)。斉荘公は夙沙衛を太子廃立の一味と考えて処刑しようとしたので、夙沙衛は高唐に逃げて叛乱した。
慶封が攻めてきたが、夙沙衛は守り防いだ。
11月、斉荘公が高唐を包囲した。夙沙衛が城壁の上にいるのを斉荘公は見つけて呼びかけたので、夙沙衛は降りていき、守備はしていないと正直に言った。殖綽工僂会が夜に乗じて城上から縄を降ろして斉軍を引き入れたので、斉軍は高唐を攻め落とし、夙沙衛は殺されて軍中で塩漬けにされた。
叔山冉(シュクサンゼン)【武官】
楚の臣。
B.C.575鄢陵の戦いで楚晋両軍は朝早くから夜になるまで壮絶な激戦を展開し、楚軍は晋軍に追われて追い詰められた。叔山冉は養由基に「君の(射るなという)仰せがありましたが、ここは国のためだ。射てくれ」と頼んだので、養由基は矢を射ると2度とも命中した。さらに叔山冉が敵兵を手打ちにして投げつけたので、晋軍はひるんで追撃をやめた。しかし楚軍はこの戦いで大敗した。
夙沙釐(シュクシャリ)【文官】
鼓の臣。晋の臣。
B.C.520鼓君鼓子苑支が晋に反したので、再び中行呉がこれを討伐し、鼓子苑支を捕らえて鼓人が主君(鼓子苑支)に従うことを禁じた。
しかし夙沙釐は妻子を連れて去ろうとしたので、軍吏がこれを捕らえた。
中行呉「鼓に新しい君がいるから、ここに止まって君に仕えよ」
夙沙釐「わたくしは狄の鼓君に君臣の宣誓をしましたが、晋の鼓君に対してはしていません。宣誓して臣になったからには二心を持ってはならないといいます。もし私利を計って旧法を犯すのなら、どうして禍難に会わないことがありましょう」
中行呉は感嘆して「わしはこのような忠臣を得ることができようか」と言い、夙沙釐を去らせた。
中行呉はこのことを晋頃公に報告し、鼓子苑支に河陰の地を与え、夙沙釐をその宰相とした。
叔綉(シュクシュウ)【王】
滕公(初代)。周文王の14子。
滕に封じられる。
滕氏の始祖となる。
叔椒(シュクショウ)【文官】
晋の臣。韓宣子の一族。
叔振鐸(シュクシンタク)【公子】
武王の弟。
武王が商を滅亡させ、革命の宣言をするときに、儀仗車を連ねて武王を守る役を行った。
叔斉(シュクセイ)【文官】
孤竹君の末子。伯夷の弟。
父の死後、兄の伯夷に位を譲られたが、立つことをよしとせず、伯夷とともに国を去った。
周の姫昌がよく老人をいたわると聞き周に赴いたが、姫昌はすでに没しており、子の武王が商を討とうとするところであった。
伯夷とともにこれを諌めたが聴き入れられなかった。そして周は商を平らげ、天下は周を宗主とした。
叔斉はこれを恥とし、周の粟を食まず、首陽山に隠れて蕨をとり、露命をつないだが、ついに餓死した。
祝瞻(シュクセン)【武官】
鄭の臣。
B.C.714北戎が鄭に侵入した。北戎は退却する鄭軍を追ったが、伏兵に会い退却した。祝瞻は進撃して戎の軍を包囲して、前後から挟撃して大いに破って大勝した。
B.C.707周の連合軍と争ったとき、周桓王の臂に弓矢を当てる功績をあげる。祝瞻は追撃するよう進言したが荘公に止められる。
叔詹(シュクセン)【公子】
鄭の公子。文公の弟。叔瞻とも書く。〜B.C.630?
B.C.677春、鄭は前年、斉と和睦しながら、鄭厲公みずから斉に聘せず、叔詹を遣わしたので、斉は叔詹を捕えた。
秋、叔詹は魯に逃亡した。
B.C.653斉桓公が鄭を討とうとしたとき、管仲が「鄭には叔詹・堵叔師叔という良臣が政治を行っているので攻め取ることはできません」と諌めたので、桓公はとりやめた。
B.C.638宋に攻められたとき、鄭は楚成王に救われたため、彼を饗応した。成王は去るにあたって鄭の女2人をめとって帰国した。それをみて叔詹は「楚の君は礼をわきまえていない。天寿を全うすることはむつかしかろう。礼を受けて、結局は礼をわきまえなかった。あれでは覇業も成就しないだろう」と言った。
B.C.637晋の重耳が亡命したとき、「重耳は賢人であり、また同姓の公子でありますから礼遇しなくてはなりません。重耳は久しく困窮しても非行がないのがひとつ、兄弟のうち重耳だけが生存しており晋が治まっていないのがひとつ、狐趙(狐偃趙衰)のような賢人が輔佐しているのがひとつ。これらを放棄して天罰を求められるのはいけません。君よ、お考え下さい」と言ったが、鄭文公は「諸侯の亡命の公子で、訪れてくるものは多い。どうしていちいち礼遇しておられよう」と言って聴かなかった。そこで叔詹は「礼遇なさらぬなら、むしろ殺されたほうがましです。きっと将来、国の禍となりましょう」と進言したが、またも文公は聴き入れなかった。
B.C.630晋文公は秦繆公とともに鄭を討った。先年の報復のためであった。晋文公は叔詹を捕えようとしたが鄭文公は叔詹が行くのを許さなかった。叔詹が「ひとりの臣によって百姓を救い、国を安定させることができるのに、君は何故わたしひとりを惜しむのですか」と言ったので、文公は叔詹を晋に与えた。
叔詹はみずから晋軍に赴き「晋君が鄭に来られたとき、私は礼遇するよう諌めましたが聴き入られませんでした。このようになることを分かっていたのは知です。一身を殺して国家を救うのは忠です」と言い、進んで煮られようとし、鼎の耳をつかんで大声で叫び「これから後は、知と忠で君に仕える者は、わたくしと同じく煮られるのだ」と言った。これを聞くと文公は叔詹を許し、厚く礼遇して帰国させた。そこで鄭文公は叔詹を将軍に任じた。
(『史記』では、叔詹は「わたくしは君をお諌めしましたが、お聴き入れにならず、はたして晋は鄭の禍となりました。しかし、詹が死んで鄭が許されるなら、それこそ詹の本望です」と言い、自殺した。鄭はその屍を晋に送ったとされる)
叔牂(シュクソウ)
羊斟
叔孫還(シュクソンカン)【文官】
斉の臣。
B.C.552斉荘公が再び公子の一味を責め正したので、叔孫還は魯に亡命した。
魯の叔孫喬如が斉にいたとき、叔孫還は叔孫喬如の娘を斉霊公にすすめた。その娘が斉霊公のお気に入りとなり、斉景公を生んだ。
B.C.545慶氏が滅びたため、叔孫還は斉に呼び戻され、以前の采邑が返された。
叔孫喬如(シュクソンキョウジョ)【文官】
魯、斉、衛の臣。叔孫得臣の子。叔孫宣伯、叔孫宣子ともいう。
B.C.598周の王季子が魯を訪聘したとき、叔孫喬如は贅沢であったので単襄公に滅びると予言された。
B.C.589、6月18日、叔孫喬如は季孫行父、公子嬰斉臧宣叔とともに兵を率いて、晋・衛とともに斉軍を鞍で討ち破った。
B.C.588秋、棘の人々が魯に服従しなかったので、叔孫喬如は棘を攻め囲んだ。
B.C.586夏、晋の荀首が斉に出かけた。このとき叔孫喬如は斉の穀まで食糧を贈り物としてもって行って、晋に対する敬意を示した。
B.C.585秋、叔孫喬如は孟献子とともに宋を討った。
B.C.583冬、魯は晋の要請により呉についた郯を討つことになった。叔孫喬如は軍を率いて晋・斉・邾とともに郯を討った。
B.C.580秋、叔孫喬如は晋に赴いて友好関係を深めた。
B.C.578叔孫喬如は周簡王からの賜賞を期待して、請願して魯成公を周に訪朝させるようにした。叔孫喬如は先立って周に入り、王孫説と会って話したが、王孫説に訪朝の意図を見破られたため、普通の使者として扱われて賜賞にありつけなかった。
B.C.577秋、叔孫喬如は斉に赴いて斉の公女を夫人に迎えた。
B.C.576、11月、叔孫喬如は晋の士燮・斉の高無咎・宋の華元・衛の孫文子・鄭の公子・邾人と鐘離で会合し、初めて呉と国交をもち、呉王寿夢と会合した。
叔孫喬如は季孫行父を誅しようと晋に訴えるが、同意されなかった。
B.C.575叔孫喬如は美男子であり、魯成公の母穆姜と密通して横暴な振舞いが多かった。
鄢陵の戦いで晋が楚を破ったので、魯成公は晋に駆けつけようとしたが、内紛処理のため遅刻してしまった。
秋、諸侯が宋の沙随で会合した。叔孫喬如は晋の郤犨に「わが君が壊隤で待機して戦に遅れたのは、晋と楚のどちらが勝つかを見ていたからです」と讒言して賄賂を贈った。郤犨はこれを受けて晋厲公に報告したので、晋厲公は魯成公に面会しなかった。
9月、叔孫喬如は郤犨に人を遣わして季氏、孟氏を讒言した。そこで晋は季孫行父を捕えた。しかし士燮のとりなしで、季孫行父は釈放された。
10月12日、叔孫喬如は魯から追放され、斉に出奔した。
叔孫喬如は娘を斉霊公に娶わせて斉景公を生ませた。
また叔孫喬如は斉霊公の母声孟子と密通し、高氏と国氏の間の地位を約束されたが、「再び罪を犯してはならない」と言って衛に出奔した。
叔孫喬如は衛でも卿の地位を与えられた。
宣子と諡される。
叔孫婼(シュクソンジャク)【文官】
魯の臣。叔孫豹の庶子。叔孫昭子ともいう。〜B.C.517。
B.C.538、12月、叔孫豹が没したため、豎牛は叔孫婼を立てて、自分はその後見役となった。
B.C.537春、豎牛は仲壬を攻め殺し、協力した南遺に叔孫家の東方の30邑を分け与えた。叔孫婼は家臣たちを出仕させて「豎牛が叔孫家に禍を持ち込み、嫡子を殺して庶子を立て、領地を分けて自分の罪を逃れようとしている。 ぜひとも早く殺せ」と命じた。豎牛は恐れて斉に亡命しようとしたが殺された。
B.C.533冬、魯では郎に苑囿を築いた。季平子は工事が早く完成することを望んだが、叔孫婼は「早く完成させようとすれば、民を疲弊させることになります。苑囿はなくなってもよいが、民がなくなったら大変です」と諌めた。
B.C.532、9月、叔孫婼は晋に赴いて、晋平公の弔問に出かけた。葬式が終わると、諸侯の大夫たちはついでに新君にお目にかかろうとした。叔孫婼は「それは礼にはずれている」と言ったが、大夫たちは聴き入れなかった。晋の叔向がこれを断ったため大夫たちはやっと取りやめた。
季平子が莒を討って勝利して三命の卿となり、叔孫婼も三命の卿となった。
B.C.530夏、宋華定が魯を聘問したとき魯昭公が宴を開き、蓼蕭の詩を歌ったが華定はその意味がわからず、また答礼の詩も歌わなかった。叔孫婼は「華定はきっと身を滅ぼすであろう」と言った。
季平子が叔孫婼に三命の卿を辞退するよう言った。叔孫婼は役人に命じて季氏と訴訟争いをすることを告げたため、季平子は恐れて罪を叔仲穆子になすりつけた。
B.C.525春、小邾穆公が来朝した。季平子が采叔の詩を歌って立派な君子の来朝を歓迎するという意を寓すると、小邾穆公は菁菁者莪の詩を歌って、季平子のような君子にお会いできて楽しいという意を寓した。叔孫婼は「あの謙虚な心を用いているからこそ、これほど長く位を保っていられるのだ」と言った。
6月1日、日食があった。叔孫婼が「日食のときは天子の御馳走の品を減らし、鼓を社で打ち鳴らし、諸侯は幣帛を社に供えて鼓を朝廷で打ち鳴らすのがきまりである」と言ったが、季平子はそれを禁止して「やめなさい。ただ正月のみそれを用いるのがきまりである」と言った。また大史も反対したが、季平子は聴き入れなかった。叔孫婼は「あの方はよからぬ心をおこそうとしている。君を君とも思っていない」と言った。
B.C.526、2月、斉が徐を討った。叔孫婼は「覇者がいないのは小国にとって害が多いものだ。斉君が無道にも遠方の国を討ったが、誰もたてつく者がいない」と言った。
B.C.523春、楚は陰の戎を下陰に移し、郟に城壁を築いた。叔孫婼は「楚はもはや諸侯を統一する心はなくなった。どうにか国を守ろうとしている」と言った。
B.C.522、2月1日、太陽が南の極点に至った(冬至)。梓槇は霊気を眺めて「今年、宋に騒動が起こり、国は殆ど滅びそうになるが、3年経てば治まるであろう。蔡には大きな喪があるだろう」と予言した。叔孫婼は「それは宋の戴・桓の二氏であろう。この二氏は身分不相応におごって礼に背いている」と言った。
B.C.521、3月、蔡の太子は蔡平侯を葬った。そのとき太子朱は太子の座る席に着かず、長幼の順に従って下位に着いた。葬式に参加した魯の大夫はこのことを叔孫婼に話すと、叔孫婼は「蔡は滅びるであろう。蔡侯が君位につく早々に下位に着いた。その身も同様に低くなることであろう」と言った。
7月1日、日食があった。叔輙が災いを憂えて日食に対して哭礼を行った。叔孫婼は「子叔(叔輙)はやがて死ぬであろう。哭すべき場合ではありません」と言った。果たして8月に叔輙は亡くなった。
B.C.519魯が邾の臣を捕らえたため、邾はこれを晋に訴え、晋人は魯に赴いて罪を責め正した。そこで叔孫婼は晋に出かけたが捕らえられた。 晋人は邾の大夫と叔孫婼を対座させて裁こうとした。しかし叔孫婼は「大国の卿は小国の君に該当し、それに邾は夷の国です。 副使の子服回がおりますから、邾の大夫と対座させて下さい。これは周のきまりです」と言って対坐することを断った。 そこで韓宣子は邾人に命じて大勢の兵を集めさせ、これに叔孫婼を渡そうとした。叔孫婼は恐れず晋の朝廷に出かけた。 晋の士弥牟が韓宣子に「叔孫はきっと死ぬでしょう。魯は彼を失ったら、きっと邾を滅ぼしてその仇を討つであろう。 そのとき後悔しても追いつきません。そもそも諸侯がみな捕らえあいをするなら、盟主はいりません」と進言したため、晋人は叔孫婼を渡さずに、子服昭伯と別の宿に置いた。 さらに叔孫婼は箕に移された。
范鞅が叔孫婼に賄賂を取ろうとして冠がほしいと言ってきた。そこで叔孫婼は冠の寸法を取り寄せて冠をふたつ贈った。 叔孫婼は宿泊した館を、たとえ一泊でも必ずその土塀や家屋の破損を修理し、はじめて来た時と同じように整頓してから立ち去った。
B.C.518、2月、叔孫婼は晋から帰国した。
B.C.517春、叔孫婼は宋を聘問した。叔孫婼は右師楽大心と話をしたが、楽大心は宋の大夫たちをいやしみ、本家の司城氏をさげすんだ。 叔孫婼は「右師はきっと滅びるであろう。大夫をいやしみ、本家をさげすんでいる。これは自分自身をいやしむというものだ。礼儀などあったものではない。 礼儀がなければ必ず滅びる」と言った。
元公は宴を開いて叔孫婼をもてなした。叔孫婼は季孫のために宋公の娘を迎えたいと言った。翌日、 酒宴を設けて楽しんだが、宋元公と叔孫婼は語り合っているうちに互いに泣いた。宋の楽祁は「今年、わが君と叔孫はともに亡くなるであろう。 楽しむべきことを悲しみ、悲しむべきことを楽しむのは、どちらも本心を失っています。魂魄がその身を去ってしまったら、どうして長らえることができよう」と言った。
秋、叔孫婼は闞に出かけた。そのあいだに魯昭公は季氏を討った。叔孫氏の家臣は季氏に味方し、孟孫氏もこれについたため、魯昭公は斉に亡命した。
叔孫婼は闞から都に帰って季平子に会った。季平子は魯昭公にまた仕えたいと言ったため、叔孫婼は魯昭公のところに行って季平子が後悔していることを話した。 しかし魯昭公の供の者が叔孫婼を殺そうとして兵を道に伏せた。大夫の左師展がこれを魯昭公に報告したため、 魯昭公は叔孫婼を伏兵を避けて鋳から帰らせた。 ところが季平子は心変わりをして魯昭公を魯に入れようとしなかった。
10月5日、叔孫婼は自分の寝所で身を清め、神主に命じて自分が死ぬようにと祈らせた。
10月12日、叔孫婼は没した。
叔孫州仇(シュクソンシュウキュウ)【文官】
魯の臣。武叔ともいう。
B.C.505叔孫成子は叔孫州仇を立てようとすると、一族の公若藐が大いに諌めたが、叔孫成子は叔孫州仇を立てて没した。 公若藐に味方する公南が賊を使って叔孫州仇を殺そうとしたが、できなかった。
B.C.502、10月、陽虎が叛乱を起こし、魯定公と叔孫州仇をおどして孟孫氏を討った。
B.C.500やがて叔孫州仇の地位も落ち着くと、叔孫州仇は郈の馬正侯犯に命じて公若藐を殺させようとしたができなかった。 すると圉人が「賤しい身のわたしが立派な剣を携えて郈の役所を通ったら、公若はきっと『だれの剣か』と尋ねるでしょう。ご主人のものですと答えたら見たがるでしょうから、 田舎者で無作法なふりをして剣先を持たせるようにしたら、すぐに引き抜いて殺すことができます」と言ったので、そのようにさせた。 公若藐は「お前はわたしをあの呉王()のように刺し殺そうとするのか」と言ったが、そのまますぐに公若藐を殺した。
公若藐を殺し損ねて叔孫州仇に疑われることを恐れた侯犯は郈の人々を率いて叔孫州仇に背いた。叔孫州仇は孟懃子とともに郈を攻め囲んだが勝てなかった。
秋、叔孫州仇と孟懃子は斉軍の応援を得て再び郈を攻め囲んだが、やはり勝てなかった。叔孫州仇は郈も工師駟赤に「郈はわが叔孫氏だけでなく、国にとっても心配の種である。どうしたらよいか」 と問うと「このことについて決して他言いたしません」と答えたので、叔孫州仇は低く頭を下げて感謝した。はたして駟赤ははかりごとを用いて侯犯を斉に追放し、郈を魯に返した。
反乱を起こした侯犯と駟赤は郈を斉に引き渡そうとしたが、郈の人々がこれに反対した。
冬、叔孫州仇が斉に赴いた。
叔孫昭子(シュクソンショウシ)
叔孫婼
叔孫成子(シュクソンセイシ)【文官】
魯の臣。叔孫婼の子。名は不敢。〜B.C.505。
B.C.509叔孫成子は魯昭公のなきがらを乾侯に迎え取りに行った。出発のとき、 季平子は叔孫成子に「子家子はたびたび意見してくれたが、わたしの心に的中しないことはなかった。わたしは彼と一緒に政治をしたいと思っている。 あなたは彼をひきとめなさい」と言った。これを聞いた子家懿伯は叔孫成子に会おうとせず、朝夕の哭礼を行うにもその時刻を変えて行った。 叔孫成子は会いたいと申し込んだが、子家懿伯は「わが君は私にあなたにお目にかかれとの仰せもなく亡くなられたので、ご遠慮します」と言った。 叔孫成子は使者を遣わして「君のお供をして国を出た人々は、ただあなたの意見に従おうとしています。季孫はあなたと一緒に国政に当たろうとして願っております」と言うと、 子家懿伯は「どなたを君に立てるかは、ご家老や占いによるもので、わたしの関知しないことです。季孫と敵となった者はよそへ行くのがよいでしょう。 わたしが帰国することをわが君はご存じないので、わたしはよそへ逃れましょう」と言った。魯昭公のなきがらが魯の壊隤に着くと、公子宋(定公)が先に都に入った。 魯昭公についていた人々はみな他国へ去った。
6月22日、魯昭和公のなきがらが魯に帰った。
B.C.505叔孫成子は叔孫州仇を立てようとすると、一族の公若藐が大いに諌めたが、叔孫成子は叔孫州仇を立てた。
7月4日、叔孫成子は没した。
叔孫宣子(シュクソンセンシ)
叔孫喬如
叔孫宣伯(シュクソンセンハク)
叔孫喬如
叔孫戴伯(シュクソンタイハク)【文官】
魯の臣。公孫玆ともいう。叔牙の子。〜B.C.644。
B.C.656、12月、叔孫戴伯は命ぜられて、斉とともに陳を討った。
B.C.655夏、叔孫戴伯は牟に出かけて夫人を迎えた。
B.C.644、7月、没す。
叔孫戴伯は没後、叔孫の族名を賜わり、戴伯と諡された。
叔孫輒(シュクソンチョウ)【武官】
魯の臣。叔孫州仇の子。
B.C.502季寤公鉏極公山不狃・ 叔孫輒・叔仲志は魯で思うようにならず、陽虎を頼った。陽虎は三桓を追い払い、季寤を季氏に代え、 叔孫輒を叔孫氏に代え、自分は孟氏に代ろうと考えた。そして陽虎は叛乱を起こしたが敗れて国外に亡命した。
B.C.498夏、定公は孟孫・叔孫・季孫三家の都城を壊そうとした。まず叔孫氏が郈の城を壊した。
季氏が費の城を壊そうとすると、叔孫輒は公山不狃とともに費の邑人を率いて魯を襲った。しかし孔子に討たれ、斉に出奔した。
叔孫得臣(シュクソントクシン)【武官】
魯の臣。叔孫戴伯の子。荘叔ともいう。
B.C.626周襄王が魯文公に命圭(天子から賜わる爵命を表す圭)を賜わった。そこで文公は叔孫得臣に命じて周に行かせ、お礼を申し上げた。
B.C.624春、沈が楚に服従したので、魯は叔孫得臣を遣わして、晋・宋・陳・衛・鄭と会合して沈を討ち、沈は潰滅した。
冬、魯文公が晋に出かけたとき、叔孫得臣は文公の介添えをつとめた。
B.C.618、2月、叔孫得臣は命ぜられて周襄王の葬式に参加した。
B.C.616狄の鄋瞞が魯を攻めた。文公は叔孫得臣に命じて追い払おうとして占わせると吉とでた。
侯叔夏が叔孫得臣の御者となり、綿房甥が右をつとめ、富父終甥が4人乗りとして同乗した。
10月4日、魯軍は狄軍を魯の鹹で打ち破り、その君の長狄喬如を討ち取った。
叔孫得臣は喬如の首を魯の子駒の北門の側に埋め、生まれた自分の子に喬如という名をつけて、わが功績を明らかにした。
B.C.609秋、叔孫得臣は襄仲とともに斉に赴き、斉恵公の即位のお祝いと、斉が魯文公の葬儀に会葬したお礼をした。
叔孫豹(シュクソンヒョウ)【文官】
魯の臣。名は豹。叔孫得臣の子。穆叔、叔孫穆子ともいう。〜B.C.538。
叔孫豹が生まれたとき、叔孫得臣はその将来を占った。卜人の楚丘は「他国に去りますが、やがてあなたの祭りを継ぐでしょう。牛という悪人を連れて帰るが、その者のために自分は餓死するであろう」と言った。
B.C.575、7月、魯は晋・斉・尹・邾とともに鄭を討った。魯軍は督揚で留まったが、鄭軍を恐れて鄭を通過することができなかった。そこで公孫嬰は叔孫豹を晋軍に遣わして迎えに来てほしいとお願いさせた。公孫嬰は晋の迎えの軍が到着するまで4日間も食事をせずに待ち続け、帰還した叔孫豹に食事を取らせてからようやく自分も食べた。
叔孫豹は叔孫家を出て斉に出奔した。魯の庚宗である夫人に出会い、叔孫豹はその家に宿泊した。かくて叔孫豹は斉に行き、国氏から妻を迎えて孟丙仲壬を生んだ。ある夜、叔孫豹は天に抑えつけられる夢を見て思わず「牛よ助けてくれ」と言うと、その男が助けてくれた。
10月、叔孫喬如が斉に出奔した。叔孫喬如は叔孫豹に「魯はわが叔孫の家を残すであろう。お前を呼び寄せたらどうするか」と問うと、叔孫豹は「前々より願っていることです」と答えた。
12月23日、季孫行父が公子を殺し、叔孫豹を斉から呼び寄せた。叔孫豹は叔孫喬如に話もせずに早速魯に帰り、叔孫氏の家を継いで卿となった。すると庚宗の夫人がやってきて自分の子を連れてきた。叔孫豹は名も尋ねないで「牛」と呼びかけると、その子は「はい」と答えた。叔孫豹はこれを小姓として用い、成長してから家政を司らせた。
叔孫豹が帰国して斉でめとった妻を迎えないうちに、斉の公孫明がこれを妻にしてしまったため、叔孫豹は立腹した。
B.C.571秋、叔孫豹は宋を訪れて、魯襄公の即位の挨拶をした。
B.C.570秋、叔孫豹は魯襄公の命により、諸侯の大夫とともに陳の袁僑と盟った。
B.C.569夏、叔孫豹は魯襄公の命により晋に使いして、智罃の聘問に対する答礼をした。晋悼公がもてなしの宴を開いて肆夏以下の3曲を奏したが、叔孫豹は拝礼しなかった。さらに文王以下の3篇の詩が詠われたが、これにも拝礼しなかった。そこで鹿鳴以下の3篇の詩が詠われると、叔孫豹は一詩ごとに拝礼した。晋の韓厥がそのわけを行人子員に聞かせると、叔孫豹は「最初に肆夏の樊・逷・渠、次に文王・大明・緜が奏されましたが、使臣がみだりに聞いてはならぬものです。わたくしは練習のための演奏と思い拝謝しませんでした。今、鹿鳴・四牡・皇皇者華の3つに及んだので、わたくしは賜を拝謝したのです」と答えた。
B.C.568夏、叔孫豹は鄫の太子をつれて晋に行き、晋悼公に面会させ、鄫を魯の属国にすることを正式に認めてもらった。
9月23日、諸侯が戚で会合したとき、叔孫豹は鄫を属国としておくのは不利と考え、鄫の大夫に命じて一国の代表として戚の会合に参加させた。
B.C.567冬、叔孫豹は邾に出かけて和議の相談をした。
B.C.566、10月、衛の孫文子が魯に来聘した。饗宴のとき、孫文子は魯襄公が階段を登るとすぐ続いて登るという無作法をした。叔孫豹は「諸侯の会合のとき、わが君は衛君におくれて階段を登ったことはありません。ところがあなたはわが君に遅れずに登りました。何かわが君に過失があってのことでしょうか。どうかもう少しゆっくり登ってください」と諌めたが、孫文子は返事もせず、また改める様子もなかった。叔孫豹は「孫子はきっと滅びるであろう。臣でありながら君のふるまいをし、誤っても改めようとしない。身の滅びる本である」と言った。
B.C.562春、季武子は叔孫豹に「三軍を作ってそれぞれ一軍を支配し、それが所属する民から税を取り立てることとしよう」と告げた。叔孫豹は「魯の政はやがてあなたが執ることになるでしょうが、そうなれば三軍を三家で分けることはできなくなるでしょう」と言った。しかし季武子は強くこれを望んだ。叔孫豹が「それなら約束を変えないと盟いますか」と言ったので、魯釐公の廟門で盟い、大衆に見えるように五父の辻で神に誓った。
正月、季武子は三軍を作った。叔孫氏は軍に属する民の子弟をすべて自分の臣とした。
B.C.559諸侯の同盟軍が秦を討ち、国境深く侵して涇水にたどりついた。しかし涇水を渡る軍がなかった。晋の叔向が叔孫豹に「諸侯が涇水まで来て進まないならば、秦討伐に何の益がありますか」と問うた。
叔孫豹は「わたくしの覚悟は匏有苦葉の詩(苦い瓢箪は食べられずにただ渡る為に使用する)にあります」と言うと、叔向は舟虞と司馬を呼び寄せて「魯の叔孫が匏有苦葉の詩を歌ったからには必ず渡るだろう。舟を用意し道を掃除せよ」と言った。
はたして魯軍は莒人を率いて真っ先に渡河し、諸侯はこれに続いた。
B.C.558夏、斉が魯の北境に攻め入り、成を包囲した。叔孫豹は季武子と共に軍を率いて成の城外に城壁を築いて斉の攻撃に備えた。
B.C.557晋平公が諸侯と温で宴会を催した。このとき斉の高厚が無礼であったため、叔孫豹は晋の荀偃、宋の向戌、衛の甯恵子、鄭の子蟜、小邾の大夫と盟って斉を討つことを申し合わせた。
冬、叔孫豹は晋を訪れて斉が魯を討ったことを報告した。しかし晋人は、まだ先君の忌明けの祭りをしていないことと、許と楚を討って民力が回復していないので援助できなかったと弁解した。叔孫豹は荀偃に会うと、荀偃は「わたしはこちらの罪を知りました。今後は貴国のことを心配せずに、こんな目にあわせることはしません」と言った。また范匃は「わたしが健在である限り、貴国を安らかにしないことがありましょうか」と言った。
B.C.554冬、晋と斉が和睦した。叔孫豹は晋の范匃と柯で会合した。さらに叔孫豹は晋の叔向と会って、大国の晋にすがって小国の魯を救ってもらいたいというと、叔向は承諾した。しかし叔孫豹は帰国すると「斉はまだ安心できません。警戒しなければならぬ」と言って武城に城壁を築いた。
B.C.550秋、斉は晋の欒盈の乱につけこんで晋を討った。叔孫豹は軍を率いて晋を助けに出かけ、晋の雍楡に軍をとどめた。
B.C.549春、叔孫豹は晋を訪問した。晋の范匃が近郊に出迎え「私の祖先はのときは陶唐氏といい、夏のときは御竜氏といい、商のときには豕韋氏といい、周のときには唐杜氏といいました。晋が中国の盟主となるや、范氏となり、今日まで代々栄えております。これを死して朽ちずというのでしょうか」と問うた。叔孫豹は「私の聞いているところでは、それは世禄というもので、不朽というものではありません。聖徳をそなえた最上の人は立派な徳を立てて世に残し、その次の大賢は、立派な功績をあげて世に残し、その次の賢人は立派な言葉を世に残すもので、こうした3つのことを不朽というのです」と答えて、范宣子をたしなめた。
冬、叔孫豹は周に出かけて聘問し、ついでに王城が修復されたお祝いを申し上げた。周霊王は叔孫豹の礼儀正しいことを賞して車を贈った。
B.C.548晋では趙武が范匃に代わって正卿となった。叔孫豹は趙武に面会し、趙武は諸侯を鎮めて戦をやめさせると言った。
B.C.546春、斉の慶封が魯に来聘した。孟孝伯が慶封の車は立派であると言うと、叔孫豹は「衣服が立派でも身分不相応であれば、終わりはよくないといいます」と答えた。食事の時、慶封が不作法であったため、叔孫豹は相鼠の詩でそれを暗にそしったが、慶封はその意味がわからなかった。
諸侯が宋で会合したため、叔孫豹は宋を訪問した。
6月2日、諸侯は会合し、晋と楚が和睦し、諸侯は斉と秦を除いて晋・楚どちらにも朝見することが決定された。
季武子が使者を遣わして君命を告げて「邾や滕と同じように(小国として貢賦を少なく)してもらえ」と言った。しかし叔孫豹は「わが国は諸侯と同様、一本立ちの国だ。どうしてそんな属国のようなことができよう」と言って盟いに参加した。のちに叔孫豹は君命に背いたと批難された。
7月5日、叔孫豹は諸侯の大夫と宋で盟った。
B.C.545冬、斉の慶封が魯に亡命してきた。叔孫豹は慶封を食事に招いたとき、慶封は食事を古人に供えて祭るのにそれを遠くまき散らすという不作法ぶりであった。叔孫豹は不快に思い茅鴟の詩を口ずさんでそしったが、慶封はそれにも気付かなかった。
慶封がその後、呉に亡命して斉にいた時よりも豊かになった。子服椒が「天はどうやら悪人を富ますようだ」と言うと、叔孫豹は「悪人の富むのを殃(わざわい)という。天がきっと慶封に殃をくだしたのだ。きっと一族をひとまとめにしてみな殺しにするだろう」と言った。はたして慶封は後に殺された。
11月、魯襄公が鄭に立ち寄った時、鄭の良霄が黄河のほとりで魯襄公をもてなしたが、良霄は不作法であった。叔孫豹は「伯有が処罰されないなら、鄭には大きな禍がふりかかるだろう。敬は民を治める者の大事なことです。これを守らないで、どうして先祖からの家を守っていけるだろう」と言った。
B.C.544魯襄公は楚に滞在しており、楚人は前年になくなった楚康王のなきがらに衣をかけさせようとしたため、魯襄公はこれを恥とした。叔孫豹は「まずなきがらに向ってその不浄をはらい清めてから衣をかけるならば、朝聘のとき幣(布)を贈ることと同じになります」と進言したため、魯襄公はこれを喜んだ。
6月、呉の季札が魯を訪れた。季札は叔孫豹に会って「あなたは天寿を全うして死ぬことができないでしょう。善を好まれるが、善人を選ぶことができないからです。あなたは魯の一門の家老として国の政治にあたっております。人物の登用を慎まなかったら、どうしてその任務を果たすことができましょう。禍がきっとあなたの身にふりかかるでしょう」と言った。
魯襄公の太子が没したとき、季武子に「シュウ(昭公)は幼く、また嫡嗣ではないので公(襄公)の同母弟を立てるべきです」と進言したが、聞き入れられなかった。
B.C.543、10月、叔孫豹は晋の趙武、斉の高子尾、宋の向戌、衛の北宮佗、鄭の子皮、小邾の大夫と集まって、衛の澶淵で会合した。
B.C.542、1月、叔孫豹は澶淵の会合から帰国すると、孟孝伯に「趙孟(趙武)はまもなく死ぬであろう。彼は一時逃れの無責任ぶりで民の上に立つ者ではない。歳はまだ50にもなっていないのに、くどくどしゃべって8、90の老人のようだ。次の執政は韓子(韓宣子)であろうか。今のうちに彼と友好を結ぶべきだ。韓子は弱気で、大夫は貪欲だ。いち早く魯の立場を有利にさせておくべきだ」と言ったが、孟孝伯は聴き入れなかった。叔孫豹は「孟孫はやがて死ぬであろう。孟孫のほうがもっと無責任だ」と言った。
叔孫豹は季武子にもこのことを話したが、季武子もその意見に従わなかった。
9月18日、孟孝伯が没した。そこで6月に没した魯襄公のあとつぎにそばめの斉帰の子(昭公)が立てられた。叔孫豹は不満に思い「そばめの子を是非に立てる必要はあるまい。それにこの人は父君の喪中にあって悲しむこともなく、立派な身なりをしている。礼法に従わない人で禍を起こさない人は滅多にいない」と言った。
B.C.541諸侯の大夫が虢に集まり、弭兵の会の盟を温め、平和を誓った。この会で楚の公子には、2人の戈持ちが先導した。これを見て叔孫豹は「楚の公子は大変美しくて、大夫とは思えず、君のようですね」と言うと、鄭の子皮が「戈持ちの露払いがいますから、私も戸惑いました」と答えた。すると蔡の公孫帰生が「楚は大国ですし、公子は令尹です。戈持ちがいるのも、いいじゃありませんか」と言うと叔孫豹は「ちがいます。今大夫でありながら諸侯の服飾を設けているのは、その君に代わる心があるからです。服飾というものは心が表に現れた文章です。もし公子が君にならなければ、きっと死ぬでしょう」と言った。はたして公子囲は帰国すると楚王郟敖を弑して、代わって王位についた。
3月、季武子が莒に攻め入って鄆を取ったため、莒はそれを虢の会盟で訴えた。楚は晋に申し入れて叔孫豹を殺すよう言った。楽王鮒は賄賂を要求して命乞いをしてやろうと言ったが、叔孫豹は「わたしが財貨を出して助かれば、魯はそのかわりに諸侯に討たれるでしょう。わたしが会合に参加して季が国内で国を守るのが長い間の慣例です。わたしは殺されても誰を恨みましょうか。しかし鮒は賄賂が好きだ。やらなければおさまらないであろう」と言って賄賂した。趙武はこれを聞いて「わが身の災難に臨んでも国を忘れないのは忠というべきであり、自分の役目を離れないのは信を守るというべきであり、一命を捨てることを気にしないのは貞というべきだ。この3つを第一として事を謀るのは義というべきだ。殺してはならない」と言って強く楚に要請したため、楚人はこれを許した。
4月、叔孫豹は趙武と曹の大夫とともに鄭の都に立ち寄った。叔孫豹らは鄭でもてなしを受けて、趙武と子皮と宴で酒を飲んで楽しんだ。
(他の史書には、楽王鮒が賄賂を要求したとき叔孫豹はこれを断ったことになっている。家臣の梁其踁がなぜかと尋ねると、叔孫豹は「おまえには分かるまい。わたしは君命を奉じて来たのであり、自国の罪をわたしの袖の下をつかって免ぜられるのなら、それはわたしが私事のために会合したことになる。もし賄賂で放免されたなら、きっとこれを真似る者があって、諸侯の卿でそうした者がいたからだと言うだろう。わたしは賄賂が惜しいのではなく、不正を惜しむのだ。その上、わたしが罪を犯したわけではないのだから、殺されても何の不義があろうか」と言った。また叔孫豹は趙武に「どうして逃げないのですか」と問われた。叔孫豹は「わたしは国家のためにここに来ています。もし魯に罪があるのに私が逃亡したら、魯は討伐を免れません。今、私が殺されれば魯の罪は無くなります。どうぞ殺してください。君を安んじ国に利することができるのなら死んでもかまいません」と言い、楚人はこれを聞くと、叔孫豹を許した。)
叔孫豹は虢の会から帰国した。季武子の家臣曾夭が労をねぎらいにきた。叔孫豹は部屋の柱を指して「この柱(季孫)がいやだといっても取り去ることができようか」と言って面会した。
B.C.539秋、小邾穆公が来聘した。季武子は諸侯の扱いをせず、それ以下の低い礼で扱おうとしたが、叔孫豹は「それはいけません。曹・滕・大邾・小邾はわが魯に対する修好を忘れないでいる国だ。仲むつまじい小邾を粗末に扱っては、どうして他の親しい国を迎えることができましょう」と言ったため、季武子はこの意見に従った。
B.C.538叔孫豹は丘蕕で狩をしたが、そこで病気にかかった。豎牛は叔孫氏を乱してわがものにしようと考え、孟丙が公孫明をもてなしていると讒言した。そこで叔孫豹は孟丙を捕らえて殺した。
また豎牛は仲壬が魯昭公からいただいた玉環を身につけていると讒言した。そこで叔孫豹は仲壬を追い出した。
叔孫豹は病気が重くなったため、仲壬を呼び寄せようとした。しかし豎牛は仲壬を呼び寄せなかった。豎牛は叔孫豹への食べ物を進めないで、からになった容器を置いて食事係りの者にさも食べているように見せかけたため、叔孫豹は飢えた。
12月27日、叔孫豹は物を食べなくなった。
12月29日、叔孫豹は没した。
穆子と諡される。
叔孫不敢(シュクソンフカン)
叔孫成子
叔孫穆子(シュクソンボクシ)
叔孫豹
祝佗(シュクダ)【文官】
衛の臣。仙人、神仙伝に見える。
B.C.506、3月、晋・魯・宋・衛・陳・鄭・許・曹・莒・邾・頓・胡・滕・杞・小邾が楚の召陵で会合して楚を討つ相談をした。出発しようとしたとき、 子行敬子が衛霊公に「今度の会合は難しいです。ぜひとも祝佗をお連れ下さい」と進言すると、 衛霊公は「よろしい」と言った。祝佗は辞退して「わたしは本職(大祝)も十分に果たしていないのではないかと心配しております。しかも祝は社稷が動かない限り国境を出ないという定めです。 めでたい会盟の場合には、師(2500人)が従い、卿が出かけるときは旅(500人)がついて行くもので、わたしには用事がありません」と申し上げたが、 衛霊公は聴き入れず「出かけなさい」と命令した。
5月、いよいよ皐鼬の地で盟いの血をすするときに、蔡を衛の先にしようとした。すると衛霊公は祝佗に命じてひそかに萇弘に真意を問うと、 萇弘は「本当だ。蔡叔康叔の兄ですから、衛の先になるのは当然ではありませんか」と言った。 祝佗は「先王の定めから考えますと、有徳の者を貴んで上といたします。昔、武王が商に勝った時、康叔には夏の政治を用いて民を治めさせましたが、 蔡叔は商を手引きして王室に毒害を与えました。どうして蔡を衛の先にすることができましょう。あなたは文王・武王の道を復興しようとするなら、 徳を尊ぶことをしないといけない」と言った。そこで萇弘は喜んで劉文公范鞅に相談して、 衛を先にすることにした。
叔帯(シュクタイ)【公子】
周王朝の公子。恵王の子。母は恵后。〜B.C.635。
恵王は恵后を愛して、 太子鄭(襄王)を廃して叔帯を立てようとしたため、周室は乱れた。
B.C.653、閏12月、恵王が崩御した。襄王は即位したが、叔帯の謀反を気に病んで、自分が天子の位に立てなくなることを心配して、恵王崩御を公表しないで、叔帯の謀反を斉に報告した。
B.C.649夏、叔帯は揚・拒・泉・皐や伊水・雒水の諸戎に手引きをして周都を討ち、王城に攻め入って東門を焼いた。
秦と晋が戎を討った。
秋、晋恵公は戎と周襄王を和解させたため、乱は治まった。
B.C.648叔帯は周襄王に攻められ、秋に斉に出奔した。
B.C.647斉の仲孫湫は斉桓公の命で周を聘問し、ついでに叔帯を取り持って周に帰させようとした。しかし仲孫湫は、襄王の怒りが解けていないとして、この話を持ち出さなかった。
B.C.638叔帯は許されて周に復帰した。
B.C.636叔帯は周襄王の皇后叔隗と密通した。そのため叔隗は皇后を廃された。叔帯は頽叔桃子と謀り、狄を招き入れて周を攻め、襄王を出奔させた。
B.C.635、4月、叔帯は温で晋文公に攻められ包囲された。
4月4日、叔帯は捕らえられて隰城で殺された。
叔帯(シュクタイ)【武官】
趙の先祖。奄父の子。
幽王が無道であったので、周を去って晋に行き、晋文侯に仕える。
ここに初めて趙氏が晋国で興った。
叔大心(シュクタイシン)【武官】
宋の臣。
蕭の地を治める。
B.C.682秋、南宮万湣公を殴り殺し、南宮牛猛獲が公子禦説を毫に包囲した。
叔大心は先君五代の子孫と力を合わせて、曹の軍を率いて南宮牛を殺し、擁立された公子を都で殺して公子禦説を立てた。
叔達(シュクタツ)【王】
呉王。季簡の子。
祝佗父(シュクタホ)【文官】
斉の臣。〜B.C.548。
B.C.548、5月、祝佗父は斉の別廟のある高唐に行ってお祭をして都に帰って報告した時、崔杼の乱を知った。祝佗父は祭服を脱がないまま崔杼の館に駆けつけて討ち死にした。
叔仲(シュクチュウ)
叔仲恵伯
叔仲会(シュクチュウカイ)【在野】
孔子の弟子。字は子期。
叔仲恵伯(シュクチュウケイハク)【文官】
魯の臣。叔牙の孫。〜B.C.609。
B.C.620冬、公孫敖は莒に行き、襄仲の妻を迎えることとしたが、公孫敖はその女が美人であったため、その女を口説いて自分の妻にしてしまった。
襄仲は怒って公孫敖を攻めることを魯文公に願い出た。文公は許そうとしたが、叔仲恵伯が文公を諌めたので、文公は襄仲の願いを禁止した。叔仲恵伯はふたりの間を和解させ、その女を莒に帰した。
B.C.616夏、叔仲恵伯は晋の郤欠と承匡で会合し、楚に従った諸侯の取り扱いについて相談した。
B.C.613邾が魯に攻め入って魯の南部を討った。そこで叔仲恵伯は邾を討った。
B.C.609、2月24日、魯文公が没した。襄仲が公子を擁立しようとしたが、叔仲恵伯は反対した。
10月、襄仲は斉の支援を受けて、太子と公子を殺して公子俀を擁立した(宣公)。そして襄仲は君命であると言って叔仲恵伯を朝廷に呼び寄せた。家老の公冉務人は「きっと殺されます」と言ったが、叔仲恵伯は「君の命令に従って死ぬなら結構だ」と言って朝廷に出仕した。はたして叔仲恵伯は襄仲に殺され、馬糞の中に埋められた。
叔仲志(シュクチュウシ)【武官】
魯の臣。叔仲帯の孫。
B.C.502叔仲志・季寤公鉏極公山不狃叔孫輒らは魯で思うようにならず、陽虎を頼った。陽虎は三桓を追い払い、季寤を季氏に代え、 叔孫輒を叔孫氏に代え、自分は孟氏に代ろうと考えた。そして陽虎は叛乱を起こしたが敗れて国外に亡命した。
叔仲昭伯(シュクチュウショウハク)
叔仲帯
叔仲帯(シュクチュウタイ)【文官】
魯の臣。隧正(人夫係り)。叔仲昭伯、叔仲子ともいう。
B.C.566叔仲昭伯は人夫係りをしていたが、季氏に取り入ろうとして南遺にこびへつらって「費に城を築いてはどうか。わたしは人夫を都合しましょう」と言った。そのため季氏は費に城壁を築いた。
B.C.546魯は楚の権威を認めたため、楚に朝見しようとした。魯襄公が漢水まで来たところで、楚康王の死を聞き、襄公は引き返そうとした。
叔孫帯は「君が楚に来られたのは、康王ひとりのためではありません。盟主の名はまだ変わらず、その軍旅もまだ敗れないのに、どうして帰るのですか。今度の王は先君に及ばないと誰が言いましょう。楚王の喪があれば、そのために弔問するのが普通であるのに、喪と聞いて引き返すならば、侮っていると言われましょう。むしろ周に逆らっても楚に朝して国難を避けるべきです」と言った。
B.C.542、6月29日、魯襄公が没した。叔仲帯は魯襄公が大事にしていた大きな壁を盗んで近侍の者に渡したが、その者が奪い取ってわがものとした。そのため叔仲帯は罰せられた。
B.C.538、12月、叔孫豹が没して、その家老杜洩がこれを葬ることになった。叔孫豹の家臣豎牛は杜洩を追い出そうとして叔仲帯に賄賂を贈った。叔仲帯はこれに協力したが失敗した。
B.C.537叔仲帯は豎牛から賄賂を受けたため、季武子に叔孫豹のひつぎを西門から出して葬るよう進言した。季武子が杜洩にそれを命じたが、杜洩は「卿のひつぎは朝廷の北門から出すのが魯の礼でございます。あなたが執政になってから礼を改められていないのに今変更されては、後日このことで殺されはしないかと恐れます」と反対し、葬式を済ませるとそのまま国を立ち去った。
昭伯と諡される。
叔仲穆子(シュクチュウボクシ)【武官】
魯の臣。
B.C.530南蒯が季氏を追い出そうとして叔仲穆子と公子ギンに相談した。そこで叔仲穆子は季氏と叔孫氏を争わせようとして、季平子に「(叔孫婼が)三命の卿となって、その父や兄を超えた待遇を受けているのは礼にはずれている」と讒言した。季平子はそのとおりだと言って叔孫婼を辞退させようとしたが、叔孫婼は先手を打って朝廷に出仕して役人に命じ訴訟争いをしようとした。季平子は恐れて罪を叔仲穆子になすりつけた。そのため叔仲穆子は南蒯・公子憗と季氏を討つ相談をした。ついに南蒯が費で反乱を起した。
叔輙(シュクチョウ)【文官】
魯の臣。〜B.C.521。
B.C.521、7月1日、日食があった。叔輙は災いを憂えて日食に対して哭礼を行った。叔孫婼は「子叔(叔輙)はやがて死ぬであろう。哭すべき場合ではありません」と言った。
8月、叔輙は没した。
叔豹(シュクヒョウ)【神】
いにしえの賢者。八元のひとりといわれる。帝嚳の子。
叔豹はに仕えたとされる。
叔武(成)(シュクブ)【王】
成(郕)公(初代)。武王の弟。
B.C.1023周王朝が商王朝を滅ぼすと、叔武は成に封じられる。
叔武(衛)(シュクブ)【公子】
衛の公子。夷叔ともいう。成公の弟。〜B.C.632。
B.C.632、4月、晋文公が楚を城濮で破り、践土で諸侯と会盟すると、亡命中の成公は元咺に命じて、叔武を同盟に参加させた。
6月、成公は晋と和睦して帰国した。成公は衛の都に入ることになったが、約束の時間よりも早く入った。叔武は髪を洗っていたが、成公が到着したと聞いて喜びのあまり、髪を手でつかんで走り出たところ、前駆の兵にあやまって殺されてしまった。成公は叔武に悪心がなかったことを悟り、屍を自分の股に枕させて泣き悲しんだ。
叔服(シュクフク)【文官】
周王朝の臣。内史。名は服、あるいは字が服。
B.C.626前年に魯釐公が没したので、叔服は周襄王の命で魯に行き、釐公の葬式に会葬した。
魯の公孫敖は叔服がよく人相を見ると聞いていたので、自分のふたりの子を面会させた。叔服は「穀(孟文子)はしもぶくれであるから、子孫が栄える。弟のはあなた(公孫敖)の葬式を行うであろう」と答えた。
B.C.613秋、彗星がほうきのような形に輝いて北斗の中に入った。叔服は「7年とたたないうちに、宋・斉・晋の君がみな内乱によって死ぬだろう」と予言した。
B.C.611(2年後)宋昭公は内乱によって弑された。
B.C.609(4年後)斉懿公は内乱によって弑された。
B.C.607(6年後)晋霊公は内乱によって弑された。
B.C.590晋が周と戎との和平を進めた。しかし王季子は戎の無防備なのを見て、これにつけこんで戎を討とうとした。叔服は「盟いに背き、大国をあざむいては必ず負けます」と諌めたが、王季子は聴き入れず、茅戎を討った。
3月21日、周軍は徐吾氏の地で戎に大敗した。
祝弗(シュクフツ)【在野】
戦国時代の説客。親弗ともいう。
祝弗は斉湣王に説いて周最を放逐して呂礼を宰相にさせた。
叔褒(シュクホウ)【文官】
晋の臣。叔寛、女寛ともいう。
B.C.516荀躒趙鞅は軍を率いて周敬王を都に入れようとして、 叔褒に命じて闕塞の要塞を守らせた。
B.C.514秋、梗陽で訴訟があり、魏献子が決裁することとなった。すると梗陽の人が魏献子に女楽を贈って賄賂とし、魏献子もこれを許そうとした。閻没は叔褒に「一緒に諌めましょう。われわれの主人は賄賂を取らないことで知られているのに、今汚名を受けるのはいけません」と言い、朝廷が終わっても退朝しなかった。魏献子はふたりを呼んで食事をともに取ったが、ふたりは三度溜息をついた。魏献子がこのことを尋ねると、ふたりは「われわれは欲深です。最初はご主人の食事が足りないのではないかと溜息をつき、中ごろどうして足りないはずがあるかと思い溜息をつき、最後にわれら小人の腹をもって君子の心をしたいものだとして溜息をついたのです」と答えた。魏献子は「よし」と言い、梗陽の人の申し出を断った。
B.C.509諸侯は周の城壁を築いたが、斉の高張が遅れて工事に参加しなかった。 叔褒は「(遷都を主張した)周の萇弘と斉の高張はふたりとも災いからのがれることはできないであろう。萇弘は天に背き、 高子は人に背いた」と言った。
祝融(シュクユウ)【神】
古代の神。炎帝の補佐神。
祝融は竜か蛇の化身とされる。『山海経』には、祝融は獣身人面、両竜に乗るとある。
天地の光明を顕彰して、五穀や材木を美しく生産したという。
祝融は、共工が度々中国を侵略をするたびにそれを撃退した。
祝融はの命を受けてを殺した。
祝融の子孫は8つの姓(己・董・彭・禿・ウン・曹・斟・羋)に分かれた。
叔熊(シュクユウ)【武官】
晋の臣。〜B.C.552。
B.C.552晋平公欒盈を追放し、欒盈の一味である箕遺黄淵嘉父司空靖邴豫董叔邴師申書羊舌虎・叔熊を殺した。
叔劉(シュクリュウ)【公子】
晋の公子。文公の子。母は季隗
叔梁紇(シュクリョウコツ)【武官】
魯の臣。姓は孔、名は紇、字は梁。孔伯夏の子。B.C.616〜
叔梁紇は魯の陬地方の士であり、大力と武勇の人として知られていた。
B.C.563夏、諸侯は偪陽を討った。
偪陽の人が城門を開けたので、諸侯の兵が城門まで攻め込むと、門の戸が落ちて城門が閉まってしまった。そこで叔梁紇は戸を持ち上げて攻め込んだ兵を城外に出させた。
5月8日、諸侯は偪陽を滅ぼした。
B.C.556秋、斉が魯の北境を討って高厚臧武仲の守っている防を包囲した。そこで魯軍は臧武仲を救い出そうとして陽関から旅松まで出陣した。叔梁紇は臧疇と臧賈とともに夜に300の武装兵を率いて斉軍に攻め入り、臧武仲を救い出した。
長男の孔孟皮は足が不自由であったので、家の跡継ぎを任せられなかった。また叔梁紇は10人の子があったが、孔孟皮以外はすべて女の子であったため、叔梁紇は新しい妻(顔徴在)を娶り、野合(正式に結婚していない)して孔子を生んだ。
没して防山に葬られる。
叔老(シュクロウ)【文官】
魯の臣。子叔斉子、斉子ともいう。公孫嬰の子。〜B.C.551。
B.C.559春、魯・宋・斉・衛・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と向で会合した。叔老は季武子の介添となって会合に参加した。
B.C.557晋は諸侯との会合のあと、独力で許を討ってその都を移そうとした。魯襄公叔孫豹とともに帰国したが、叔老は軍を率いて討伐軍に加わった。
B.C.553秋、叔老は斉を聘問し、斉に対する恨みを棄てて国交を回復しようとした。
B.C.551、7月16日、叔老は没した。
朱虎(シュコ)【神】
に推挙され、益の副官となる。
朱璜(シュコウ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
広陵の人。若いころ腹膜(腹が膨れる病気)を患い、道士黄阮丘のもとを訪ねた。阮丘から丸薬をもらい100日にして健康に戻った。そこで阮丘より『老君黄庭経』をさずかり、阮丘とともに浮陽山に住み着いた。80年たって再びもとのところに戻ったが、すっかり若返っており、その後数年間滞在して再び立ち去った。
繻公(シュコウ)【王】
鄭公(22代目)。名は駘。幽公の弟。〜B.C.396。
B.C.413韓の景侯に攻められ、雍丘を失う。
そのため京に城を築く。
B.C.412韓を討ち、負黍でこれを破る。
B.C.400韓の陽翟を包囲する。
B.C.398宰相の子陽を殺す。
B.C.396子陽の一味の者に弑される。
朱儒(シュジュ)【公子】
郕の太子。
B.C.616朱儒は夫鐘に安住して満足していたが、国人はこれに従わなかった。
B.C.615、1月、郕伯が亡くなると、郕の人はほかの公子を君に立てたので、朱儒は夫鐘と郕邽の土地を持って魯に逃げた。魯文公はこれを受け入れた。
寿燭(ジュショク)【宰相】
客卿。秦の宰相。
B.C.292宰相の魏冄が病のため宰相を辞めたので、寿燭は代わって宰相となった。
B.C.291宰相を罷免される。
主壬(シュジン)
示壬
受辛(ジュシン)【皇帝】
商王朝30代王。帝乙の子。紂王ともいう。〜B.C.1023。
商王朝最後の王。才能や体力も優れていて弁舌がさわやかであり、素手で猛獣を倒すこともできるほどであった。しかし諫言も寄せつかない才覚もあったため自信過剰になったという。
才力に優れた王であったが、妲己を得て暴君と化したとされる。
B.C.1060受辛は東方遠征を行った。
諸侯である九侯鄂侯を殺し、西伯を牢獄に入れるが、西伯は脱獄した。
また諸侯である梅伯が女を進めたが、受辛はこれを憎んで殺し、また梅伯も刑して醢にして諸侯に賜うた。
B.C.1024牧野の戦いで(西伯の子)周の武王に敗れた。
B.C.1023受辛は自刎し、商王朝は滅びる。武王はその死体に3本の矢を射て、王朝の交代を宣言した。
周代文献では桀とともに悪逆非道の君と伝えられた。
主柱(シュチュウ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
宕山の代官である章氏は、主柱に丹砂の服用法を学ぶこと3年で飛雪という極土の丹砂を得、5年間服用して空を飛ぶことが出来るようになった。そして主柱とともに飛び去ったという。
豎刁(ジュチョウ)【宦官】
斉の臣。
管仲死後、桓公に重用される。自ら志願して宦官となる。
出公(杞)(シュツコウ)【王】
杞公(18代目)。名は欶。湣公の子。〜B.C.456。
B.C.468即位する。
出公(衛)(シュツコウ)【王】
衛公(17(27)代目)。名は輒。荘公の子。〜B.C.466。
B.C.493霊公が没すると、父の太子蒯聵(荘公)が出奔していたので代わって立った。
6月乙酉の日、晋の趙鞅の策で、蒯聵が霊公の喪により衛から迎えに来たもののようによそおって帰国しようとしたが、衛は出兵してこれを防いだ。
B.C.480孔子が衛に来た。
B.C.479蒯聵がひそかに衛に帰国し、大夫孔悝を強迫して国君となった。そのため出公は欒甯の助けで、魯に出奔した。
B.C.476石ホが衛君起を放逐し、斉より迎えられ、復位した。
B.C.466叔父黔に攻められて没す。
出公(晋)(シュツコウ)【王】
晋公(16(18)代目)。名は鑿。定公の子。〜B.C.459。
B.C.459荀瑶が趙・韓・魏とともに范・荀(中行)の地を分割して、それぞれ自分の邑とした。
出公は怒って斉・魯とともにこの四卿を討とうとしたが、逆に攻められたため、出公は斉に出奔し、その途中で没した。
出公(秦)(シュツコウ)【王】
秦公(23(28)代目)。恵公の子。B.C.391〜388。
B.C.388庶長が献公を河西から迎えて位につけたため、出公は母と共に殺され、深淵に沈められる。
出子(シュツシ)【王】
秦公(4(9)代目)。憲公の末子。母は魯の姫子。B.C.709〜698。
B.C.704憲公が没すると兄の武公は大庶長弗忌と威塁三父に太子を廃され、出子は彼らに擁立される。
B.C.698三父らに殺される。
竪柎(ジュフ)【文官】
鄭の臣。
B.C.526、9月、鄭で日照りが続いたため、鄭定公屠撃祝款・竪柎に命じて桑山で雨乞いの祭りをさせ、山の木を切ったが雨は降らなかった。子産は「山で祭りをするのは山林を守るためだ。その木を切っては罪が多い」と言って、3人の役と領地を取り上げた。
須務牟(シュブボウ)【武官】
楚の臣。
B.C.529春、公子弃疾は叛乱を起こし、須務牟と史ヒに命じて先に都に入らせ、太子の侍従長を使って太子と公子罷敵を殺した。
寿夢(ジュボウ)【王】
呉初代王。名は乗。去斉の子。〜B.C.561。
B.C.586寿夢は呉国を盛大とし、呉王と称した。
寿夢は都を無錫に置き、楚と争っていた晋と結んで、楚を脅すようになった。
B.C.585晋の巫臣が呉に来朝した。寿夢はこれを喜んだので、巫臣は呉を晋と交際するよう取り計らった。
巫臣は連れてきた戦車の半分の15乗を呉に留め、射者や御者と一緒に、呉に対して戦車の乗り方を教え、戦の陣立てを教え、楚に背くように指導した。さらに巫臣は子の狐庸を呉に留めて、呉の行人とした。
寿夢は初めて楚を討ち、続いて楚の属国の巣を討ち、徐を討った。
B.C.584春、寿夢は郯を討ち、郯は呉に屈服して和睦した。
8月、寿夢は楚を討ち、州来に侵入した。
呉は楚についていた南方の蛮夷をすべて攻略し、呉はようやく大国となり、中原の諸侯と交わることとなった。
B.C.582春、晋は魯・斉・宋・衛・鄭・曹・莒・杞の君主と会合をし、はじめて呉を会合に加えようとしたが寿夢は参加しなかった。
B.C.576、11月、寿夢は晋の士燮・魯の叔孫喬如・斉の高無咎・宋の華元・衛の孫文子・鄭の公子・邾人と鐘離で会合した。
B.C.570春、楚の子重に攻められ、呉軍は鳩玆の戦いで敗れて、楚軍は衡山に進撃してきた。子重は鄧廖を将として組甲の士300人と被練の歩兵3000人を率いて呉に深く攻め込ませた。寿夢は途中で待ち伏せをして楚軍を攻撃し、鄧廖を殺した。逃げることのできたのは、わずかに組甲の士80人と被練の歩兵300人だった。寿夢は逆に楚に攻め込んで駕を占領した。
6月、晋悼公は単・魯・宋・衛・鄭・莒・邾・斉と会合して鶏沢で同盟し、荀会を呉に遣わして寿夢を淮水のほとりまで迎えに来たが、寿夢は行かなかった。
B.C.568夏、寿夢は寿越を晋に遣わした。そこで晋に命じられた魯の孟献子・衛の孫文子が呉に来朝し、寿夢は彼らと呉の善道で会合した。寿夢はさきの鶏沢の会に参加しなかったわけを言い訳し、かつ諸侯の同盟に参加したいと願い出た。
9月23日、呉は晋悼公・宋平公・陳哀公・衛献公・鄭釐公・曹成公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君、斉の公子、鄫の人と戚で盟約し、陳を守ることを誓った。
B.C.563、4月1日、寿夢は晋悼公、宋平公、衛献公、魯襄公、莒の君、邾の君、滕の君、薛の君、曹成公、小邾の君、斉の公子、杞孝公と楚の柤で会合した。
夏、諸侯は偪陽を討った。
5月8日、諸侯は偪陽を滅ぼした。
B.C.561、9月、没す。
寿夢(ジュボウ)【武官】
越の臣。
B.C.518冬、楚
平王が呉を討ったため、寿夢は公子とともに軍を率いて楚平王に従った。
舜(シュン)【神】
五帝のひとり。姓は虞、名は重華。姓は姚、号が重華であるともいう。
舜の母が姚虚で舜を生んだことから姚姓を得た。
有虞氏の出身で、東夷の諸馮に生まれ、目が重瞠子(2つ瞳)であったという。
よく親(瞽叟)につかえ、その孝行が世に知れ渡りの臣下となる。
瞽叟は舜の母が死んだあと、妻を娶ってを生んだ。
瞽叟は象といっしょに舜を殺そうとし、舜に米倉を修繕するよう言いつけ、屋根に上ったのを見すまして、梯子を取り去って下から火をつけた。それが失敗すると、今度は舜に井戸さらいを言いつけ、舜が井戸に入ったと見るや、上から土を入れて生き埋めにしようとしたが、また失敗した。
20歳で孝行で有名になり、30歳で堯に登用され、50歳で摂政となる。58歳のときに堯が没し、61歳で帝位を継いだ。
舜は大洪水を治めるためにを、楽官にを登用し、羲氏と和氏には天文と暦を管理させ、后稷を農師とした。
禹が黄河の治水に成功したため、舜は禹に玄圭(赤黒色の玉)を賜うた。禹が「わたくしが功があったのではなく、大費がよく助けたのです」と言ったので、舜はそれを褒め、「ああ費よ、おまえはよく禹の功を助けた。おまえに皁游(黒色の旗)を賞する。おまえの子孫は、この後大いに興隆しよう」と言い、姚姓の女を与えた。そして舜は彼に姓嬴氏を賜うた。
舜は五弦の琴を作って、南風の詩をうたった。
 南風の薫るをもってわが民の慍(いきどおり)を解くべし
帝位にあること39年で南方巡察中に蒼梧の野で没する。
順(ジュン)【公子】
斉の公子。
B.C.329陘山の戦役の時、趙は秦と結んで斉を討とうとした。
宣王田章に命じて、陽武の地を趙に割いて趙と同盟し、公子順を人質にすることとした。
淳維(ジュンイ)【神】
匈奴の始祖。
夏后氏の後裔。
荀寅(ジュンイン)【武官】
晋の臣。中行氏。中行寅、中行子ともいう。荀偃の孫。
B.C.513冬、荀寅は趙鞅とともに軍を率いて汝兵に城壁を築き、さらに一鼓の鉄を出させて刑法を刻む鼎を作り、范匃がかつてつくった刑法の文を刻んで人民に示した。蔡墨が「范氏と中行氏は滅びるであろう。中行寅は下卿でありながら上の権限や命令を無視して勝手に刑法の鼎を作り、国法と定めた。さらに范氏も邪悪の仲間に入れ、さらに趙氏にも災いが及ぶであろう」と言った。
B.C.506、3月、晋・魯・宋・衛・陳・鄭・許・曹・莒・邾・頓・胡・滕・杞・小邾が楚の召陵で会合して楚を討つ相談をした。 荀寅は蔡昭侯に財貨を出すように要求したが、蔡昭侯はことわった。そこで荀寅は范鞅に「今やわが国は危険であり、 諸侯が二心を持っている。このような時に楚を討とうとするのは困難です。大雨が降る時で病気の多く出る時であり、中山は服従していないのに、 楚との盟いを破って恨みを受けることになる。蔡侯に討つことを断るにこしたことはありません」と言い、そこでそのため晋は蔡のために楚を討つことをことわった。
B.C.502、4月、斉が魯を討ったため荀寅は范鞅・趙鞅とともに魯を救った。
B.C.497邯鄲の大夫趙午は趙鞅の怒りを買って殺され、子の趙稷がそむいた。
趙午は荀寅の甥であったため、荀寅は逆にこの乱を援けようとした。
10月、范吉射とともに趙鞅を討ち、晋陽を囲んだ。
11月、荀櫟韓不信魏侈に攻められるが、これを撃退する。
しかし晋定公に攻められて敗れ、丁未の日に朝歌に出奔した。
B.C.493三晋に朝歌で包囲され、荀寅は邯鄲に出奔する。
B.C.490再び三晋に討たれて、荀寅らは柏人に出奔した。趙鞅はまた柏人を囲み、荀寅らは斉に出奔する。
淳于公(ジュンウコウ)【王】
州公。
B.C.707淳于公は曹に出かけ、自分の国が危ういのを考えて、そのまま曹に留まった。
B.C.706春、淳于公は曹から魯に赴いた。
淳于髠(ジュンウコン)【在野】
稷下の学士の学長的存在。
博聞強記であったが、学問は専門とするところがなかった。その君主を諌める方法は、斉の晏嬰の人柄を慕い、それにならったもので、諌める相手の意中を察し、その顔色を見ることに務めた。
斉の人の入婿であり、身の丈は150cmに満たず、滑稽(言語に巧みであること)で多弁であった。しばしば諸侯へ使いしたが、一度も侮辱されたことがなかった。
威王は即位しても何も行わなわず、淫楽長夜の宴を好み、酒色におぼれて国事を顧みず、政務は卿大夫に任せきりであった。百官の政は荒廃し、諸侯に侵略されたが、誰ひとり王を諌めようとする者がなかった。
淳于髠は謁見して「わが国に大きな鳥がいます。王宮の庭にとまって3年の間飛ばず鳴かずです。王よ、これは何と言う鳥でしょうか?」
「その鳥はいったん飛び立てば飛び続けるであろう。いったん鳴けば鳴き続けるであろう」
威王はその後、人が変わったように政務に打ち込み、淳于髠を政治顧問とした。
斉で稷下に邸宅を授かり、議論を戦わす。
騶忌が威王に登用されたのを聞き、彼に質問をした。終わって門のところで従僕と顔をあわせると「あの人は、わしが微妙な暗示のことばを五つ語ったのに、ちょうど響きが声に応ずるよう、すぐわしのことばに応じた。あの人が封ぜられるのも、間もなくのことだろう」と言った。
はたして騶忌は一年後に下邳に封じられた。
斉が魏を討とうとしたので、魏は人を遣って淳于髠に賄賂をして攻めることをやめさせようとした。淳于髠はこれを受けて威王に「王のために、同盟国である魏を討つことを取りやめるよう申し上げます」と言った。そのため威王は魏を討つことを中止した。
のちにある客が威王に、淳于髠が賄賂を受け取って魏を討つことをやめさせたと言った。
威王「先生は魏から璧や馬を受け取ったという噂を耳にしたが、本当か」
淳于髠「まことでございます」
威王「ではわたしのために討ったということは、どういうことか」
淳于髠「戦をしなければ、魏を討つという非難を受けることもなく、魏は滅ぼされるという憂き目に遭うこともなく、わたくしは璧と馬を手に入れることができます。それが王にとって何の差しさわりがありましょう(斉にとって利益ではないでしょうか)」
淳于髠はこうしてたくみに非難をかわした。
B.C.371楚が斉を討とうとして大軍を出陣させた。淳于髠は威王の命で趙に赴き、趙に精兵十万と兵車4台を援軍として出させた。そのため楚はこれを聞いて夜のうちに去った。
威王は喜んで後宮に酒宴を設けて淳于髠に「先生はどれほど飲めば酔えるのか」と問うた。
「わたしは一斗飲んでも酔い、一石飲んでも酔います」
「一斗の酒で酔うなら、どうして一石が飲めよう」
「大王の御前で酒を賜り、執法(裁判官)がそばにおり、御史(監察官)がうしろにひかえておる時は、髠は恐懼平伏して飲み、一斗で酔いましょう。また男女席を同じゅうして履物も入り乱れ、杯盤狼藉をくりかえせば、よく一石の酒を乾かします。『酒きわまれば乱れ、楽しみきわまれば悲し』といい、人間万事このようなものです」
威王は「わかった」と言って、それ以後長夜の宴をやめた。
淳于髠は諸侯の主客(接待役)に任ぜられ、宴会の時には、王のかたわらに侍った。
のち魏恵王が謙譲の礼をつくし幣物を厚くして、賢者を招いていたので、淳于髠もこれに仕えた。
淳于髠は恵王に謁見したが、2回も何も言わなかった。恵王は謁見させた者にこれを責めて「子は淳于先生を推称して、いにしえの管仲や晏嬰も及ばないと言ったが、何もしゃべらない。わしは話すに足らん相手ということか」と言った。その者が淳于髠にこれを告げると、淳于髠は「もとよりそうである。はじめ謁見した時、王の心は馬を乗り回すことにあった。後に謁見した時には、王の心は音楽に奪われていた。それで私はだまっていたのである」と答えた。
恵王はこれを伝え聞くと大いに驚いて「ああ、淳于髠はまことに聖人である。はじめのときは、ちょうどよい馬が献上されてわしが見ようと思った時に先生が来られたのだ。二度目の時は、歌うたいを献上するものがあり、歌を聞こうと思ったところに先生が来られたのだ。わたしは人払いをしながら、内心はそれに気を奪われていたのだ。まことに、そのとおりであった」と言った。
そののち、淳于髠は恵王と三日三晩語り合った。恵王は宰相をもって待遇しようとしたが、淳于髠は辞退して去った。
淳于髠は終生仕官しなかった。
斉人は「天事を談ずる衍(騶衍)、竜文を彫る奭(騶奭)、轂輠をあぶる(流れ出て弁舌が尽きない)髠(淳于髠)」と称した。
荀偃(ジュンエン)【将軍】
晋の将軍。上軍の佐、中軍の将。中行献子、伯游ともいう。〜B.C.554。
B.C.575、4月、晋は背いた鄭を討つために軍を発し、荀偃は上軍の佐として参戦したが、鄢陵で楚軍に破られた。
B.C.574晋厲公は三郤(郤錡郤犨郤至)を殺した。荀偃は胥童に朝廷でおどしつけられ、胥童と長魚矯はふたりを殺すべきだと進言したが、晋厲公は「一度に3人の卿を殺した。これ以上殺すのは忍びない」と言って、荀偃と欒書にわびて「卿ら大夫は安心して位にかえるように」と言って元の地位につかせ、胥童を卿とした。
荀偃は欒書と図り、晋厲公を匠麗氏の邸に包囲して、韓厥にこれに加わるよう呼び寄せた。しかし韓厥は「君を弑して自分の威を立てようとするのは、わたしにはできません」と断った。荀偃は韓厥を殺そうとしたが、欒書は「いけません。彼の行動は果断で、言葉は順当である。われわれが攻めようとしてもできるものではない」と言って、それを止めた。
12月30日、荀偃らは徒党を率いて晋厲公を捕え、胥童を殺した。
B.C.573、1月5日、荀偃は欒書とともに、程滑に命じて晋厲公を殺し、翼の東門の外に葬った。晋厲公を葬るのに一乗の車を用いるにすぎなかった(諸侯のとむらいは普通七乗の車)。
B.C.572、5月、荀偃は韓厥とともに諸侯の軍を率いて鄭を討った。晋軍は鄭の外城に攻め入り、鄭の歩兵を洧水のほとりで打ち破った。晋軍は勢いに乗って諸侯と連合して楚の焦夷に攻め入り、陳まで攻め込んだ。
B.C.564、10月、諸侯は鄭を討ち、荀偃は韓宣子とともに衛・曹・邾とともに上軍を率いて鄭の師之梁門を攻めた。
10月15日、連合軍は鄭の氾に集まり、晋悼公が鄭を包囲するよう命じた。鄭はこれを恐れて晋と和睦しようとした。
荀偃「このまま鄭を包囲して、楚の到着を待って決戦しよう。そうしなければ鄭はまた楚につくでしょう」
智罃「鄭の和睦を許して、鄭を救おうとする楚にひどい目をあわせよう。晋の全四軍を3つに分けて諸侯とともに楚を迎え討とう。そうすれば、こちらは疲れておらず、楚は疲れているだろう」
諸侯はみな戦うことを望んでいなかったので、鄭の和睦を許した。
11月10日、諸侯は鄭の戯で同盟し、鄭の降服を許した。このとき鄭は「大国(晋と楚)が鄭に恵みを施さず、武力をもって服従を強要しており、鄭は神々の祭りを受けることができず、民も土地の利を楽しむことができない」と盟いの文を読んだ。
荀偃は立腹して「その盟いの言葉を改められよ」と言うと、鄭の子展は「神霊に告げて誓いの言葉を結びました。これが改められるなら、貴国のような大国に背いてよいことになります」と答えた。智罃が荀偃に「われわれが無理に力で盟わせたのです。礼にかなっていませんでした。しばらく盟いを結んで帰国し、徳を収め、軍を休息してから再び来れば、その時こそ鄭を服従させることができましょう」と言って、そのまま盟いを結んで引き揚げた。
B.C.563荀偃は范匃とともに偪陽を討って、宋を晋の与国にするべく努力した宋の向戌に与えて欲しいと願い出た。智罃が「偪陽の城壁は小さいが堅固である。勝っても武勇とは言われないし、勝てなかったら笑いものにされる」と反対したが、荀偃は強く願ったので、夏に諸侯と共に偪陽を討った。
諸侯は偪陽の攻略に長い時間かかった。荀偃と范匃は智罃に「長雨になりそうです。帰ることができなくなるかもしれませんので、軍を引き揚げましょう」と言った。智罃は立腹して肘掛を投げつけて「お前たちは偪陽を向戌に与えると決めてかかってわたしに告げたのだ。そのとき許さなければお前たちが命令に背いてはと心配して、お前たちのいいなりになったのだ。わが君にお勧めして軍を起こさせ、この老骨まで引き連れてきたのに、さしたる武功もなくわたしに罪を着せようとしている。わたしはとても重い責任には耐えられない。7日で勝てなければ、お前たちに責任を取らせるぞ」と言った。
5月4日、荀偃と范匃はみずから先に立って矢や石をものともせず、8日に偪陽を滅ぼした。
晋悼公は偪陽を向戌に与えようとしたが辞退したので、宋平公に与えた。宋平公は桑林の音楽をもって晋悼公をもてなした。智罃がこれを辞退しようとしたので、荀偃と范匃は「魯と宋はたいせつな賓客と祭礼の時に用いている。その桑林の楽でわが君をもてなそうとするのは、たいへん結構なことではありませんか」と言った。しかし晋悼公はこれを辞退した。
B.C.560中軍の将智罃が没した。晋悼公は緜上に軍を集めて、范匃を中軍の将に任命しようとした。しかし范匃が「伯游(荀偃)の方が年上です。わたしは知伯(智罃)について学んだため、その佐にしていただきました。わたしが優れていたわけではありません。どうか伯游の下にしてください」と言ったので、荀偃は中軍の将に任じられた。
B.C.559夏、荀偃は魯・斉・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾を率いて秦を討ち、櫟の戦い(B.C.562)の報復をした。
諸侯の軍は涇水を渡って陣をしいた。秦が涇水の上流に毒を流したので、諸侯の軍勢はたくさん死んだ。諸侯の軍は秦の棫林まで進撃した。荀偃は命令を下して「明朝、鶏が鳴いたら馬を車につけ、井戸・かまどをふさいでわたしに従え」と言った。しかし下軍の将欒黶が「いままで将帥がこんな独断専横したことはありません。わたしの馬は東に向いている」と言って帰国してしまった。そのため下軍はみな欒黶に従った。左史が魏絳に「中軍の将中行伯(荀偃)をお待ちしないのですか」と問うと、魏絳は「中行伯どのは将の命に従えといわれた。私の将は欒伯(欒黶)ですから、これに従います」と言った。これを聞いた荀偃は「わたしの命令は間違っていた。戦ったところでただ秦に捕虜を送るだけだ」と言って全軍を引き揚げさせた。晋人はこれを退却しただけの戦いと呼んだ。
献公が追放されたことについて、晋悼公は荀偃に尋ねた。荀偃は「そのままにしておくべきでしょう。衛はすでに君を立てておりますから、討っても思うようにはいかないでしょう。討つべき時節をお待ちになるのがよいでしょう」と答えた。
B.C.557晋平公が諸侯と温で宴会を催した。このとき大夫たちに舞わせ「歌う詩は必ず舞に合わせよ」と命じたが、斉の高厚の詩は舞と合わなかった。荀偃は立腹して諸侯の大夫たちに命じて高厚と盟わせようとしたが、高厚は斉に逃げ帰った。そこで荀偃は魯の叔孫豹、宋の向戌、衛の甯恵子、鄭の子蟜、小邾の大夫と盟って斉を討つことを申し合わせた。
6月9日、諸侯の軍は許を討って許の函氏に軍をとどめた。
荀偃は欒黶とともに軍を率いて楚を討って、楊梁の戦いの報復をした。楚の公子格は晋軍と湛阪で戦い、晋軍は楚軍を大破した。晋軍は勢いに乗じて楚の北境の方城山の地に攻め入り、再び許を討って引き揚げた。
B.C.555秋、晋が魯のために斉を討とうとしたとき、荀偃は「自分が弑した厲公と言い争って、厲公に首を落とされた。その首を持ってかかえて走り、巫のに出会った」という夢を見た。その後、その巫に出会ったのでこの話をすると、皐は自分もその夢を見たと言って「今年、あなたはきっと死にます。今は思う存分のことをなさるがよかろう」と言った。荀偃は心得たと言った。
晋軍が黄河を渡ろうとしたとき、荀偃は黄河の神のお祈りして、決死の覚悟で戦に臨むことを誓った。
11月13日、荀偃は范匃と共に中軍を率いて京玆を攻め落とした。
12月9日、晋軍は東方に攻め入って濰水まで進み、さらに南進して沂水に達した。
B.C.554荀偃は斉討伐の帰りに、大熱のために頭がはれて痬ができ、黄河を渡って著雍に着くと、病が重くなり眼が飛び出た。范匃が後任を誰にしたらよいかと尋ねてきたので、荀偃は中行呉を指名した。
2月20日、荀偃は没した。しかし荀偃は眼を開き、口をつぐんでいたため、物を含ませることができなかった。そこで欒盈が「あなたが亡くなって、あなたの後をついで斉を討ちましょう」と言うと、荀偃はやっと眼をつぶり口をあけて含物を受けた。
献子と諡される。
荀罃(ジュンオウ)
智罃
荀家(ジュンカ)【文官】
晋の臣。公族大夫。
B.C.573欒書が公族大夫の任命を願うと、晋悼公は「荀家は篤厚慈恵である」と言い、荀家は公族大夫に任命された。
荀会(ジュンカイ)【文官】
晋の臣。公族大夫。
B.C.573欒書が公族大夫の任命を願うと、晋悼公は「荀会は博文明敏である」と言い、荀会は公族大夫に任命された。
B.C.570、6月、諸侯は鶏沢で同盟し、荀会は呉に遣いして寿夢を淮水のほとりまで迎えたが、寿夢は来なかった。
荀驩(ジュンカン)【文官】
晋の臣。程季の父。
荀庚(ジュンキョウ)【将軍】
晋の臣。荀林父の子。上軍の将。中行宣子ともいう。
B.C.588、11月、荀庚は晋景公の命で魯を聘問した。衛も孫良夫を魯に遣わしていた。
11月29日、魯成公は荀庚と盟い、11月30日に孫良夫と盟った。
B.C.585冬、晋は楚に攻められた鄭の救援に出かけた。晋軍は繞角から進んで蔡を侵略した。楚の公子と公子が蔡を助け、桑隧で晋軍を防いだ。荀庚は諸将とともに決戦をするよう進言したが、韓厥荀首士燮が諌めたため、中軍の将欒書はそのまま引き揚げた。
B.C.583趙武が成人して大夫に挨拶回りをした。このとき荀庚は「美しいですね。惜しむらくは、わたしは老いてしまいました」と言葉を贈った。
B.C.578、5月、荀庚は中軍の佐として秦を討って秦の麻隧で戦い、秦軍を大破し、勢いに乗じて涇水を渡り、秦の侯麗まで攻め入って引き揚げた。
宣子と諡される。
荀欣(ジュンキン)【文官】
趙の臣。
公仲連に推挙されて烈侯に侍り、賢者を選んで官につけ、その才能を用いなければならないことを説いた。そして烈侯の中尉となる。
荀呉(ジュンゴ)
中行呉
郇侯(シュンコウ)【公子】
周王朝の公子。周文王の17子。
荀氏の始祖となる。
荀子(ジュンシ)【文官】
戦国末期の儒家。趙の人。名は況。稷下の学士。〜B.C.238。
しばしば荀卿と称される。卿は敬称。孫卿、孫卿子と呼ばれることがあるが、これは荀子が荀国の公室の子孫、いわゆる公孫であるがため「孫」と称したのである。
B.C.265、40歳台後半で秦に行き、50歳ではじめて斉に遊学した。
秦の宰相范雎と会い、范雎が「秦に入って何を見られたか」と尋ねると、荀子は「民衆は素朴、お上をうやまい従順で、さながら太古の民であります。吏はきちっとしており、忠実でものがたく、さながら太古の吏であります。士大夫たちを観ればなれあいも徒党もなく、のびやかで明晰・公正、さながら太古の士大夫であります。朝廷を観れば、まことに閑静で万事の決裁によどみなく、さながら太古の朝廷であります。秦が四代にわたって優勢であるのは、偶然ではなく、必然のことわりです。しかしながら秦は何かをおそれているようです。王者の国には遠く及びません。おそらく儒者がいないからでしょう」と答えた。
また斉に赴き、臨淄の稷下で三度祭酒となる。
B.C.255斉人に讒言されたため、楚に出奔して春申君の食客となる。
B.C.248春申君の命で蘭陵の令となる。
B.C.238春申君が没すると、官をやめさせられたので、蘭陵に家居した。
荀子は濁世の政治と亡国の乱君が相つづき、大道がおこなわれずに、巫祝に吉凶禍福をまかせ、つまらぬ儒家たちが小事に拘泥し、荘周らが高談放論して風俗を乱すのを憎んだ。そこで、儒家、墨家の道徳の実行と興廃を研究し、数万語を著して『荀子』と称した。
孔子を基準とし、中庸の説により、性悪説を主張し、礼法によって道徳を維持し混乱の社会再建を説いた。
韓非子李斯は彼の門弟である。
没して蘭陵に葬られた。
荀首(ジュンシュ)【将軍】
晋の将軍。下軍大夫。上軍の将、中軍の佐。荀林父の末弟。智荘子ともいう。
B.C.597春、鄭が楚に攻められた。
6月、晋は鄭を救援することとし、荀首は下軍の大夫に任じられた。
しかし晋軍が到着する前に鄭は楚に降服した。荀林父は帰国しようとし、士会もこれに賛成した。しかし先縠が反対して「晋が覇者となっているのは、わが軍が強く、臣下が努力するからです。今、鄭を見捨てて軍を還すのは努力しているとは言えず、眼前の敵を追撃しないのは、武勇があるとは言えません」と言って軍を率いて黄河を渡った。荀首は「この軍は危ない。上の命に逆らってうまくやらないのは凶です。もし楚軍に会ったらきっと負けるでしょう。彘子(先縠)はこの災いの主である。のがれて帰ったとしても、きっと大きなとがめを受けるであろう」と言った。
鄭の皇戌が晋の陣地に来て、鄭は晋に降服する準備があると申し入れてきた。先縠はこの言葉を信じ、欒書は反対した。するとこれを聞いた趙括趙同は「軍を率いたからにはただ敵を攻撃するだけだ。鄭を属国にさえすればそれで十分だ。彘子(先縠)の意見に従うべきである」と言った。これを聞いた荀首は「原(趙同)と屏(趙括)は、失敗して咎めを受けるやからだ」と言った。
晋と楚は戦い、智罃が生け捕りにされた。そのため荀首は一族の兵を率いて取って帰した。魏錡が荀首の御者を務めたので、下軍の兵は多くこれに従った。荀首は矢を射るごとに、よい矢を選び抜いては魏錡の背のえびらに入れた。魏錡は立腹して「子を取り返そうとはせずに、矢ばかり大切にする。矢などは国に帰ればいくらでもあるではないですか」と言った。荀首は「わが子を取り返せる時までに、むだによい矢を使わないためです」と言い、連尹襄老を射殺し、公子穀臣を捕えた。
B.C.589荀首は鄭の皇戌と仲良しであったので、鄭に依頼して、晋が捕えている楚の公子穀臣と襄老のなきがらを楚に還して、智罃の返還を求めた。
B.C.587冬、荀首は欒書・士燮とともに鄭を討って許を救い、鄭の汜・祭の地を占領した。
B.C.586夏、荀首は斉に出かけて晋景公の夫人を迎えた。このとき魯の叔孫喬如が斉の穀まで食糧を贈り物としてもって来て、晋に対する敬意を示した。
B.C.585冬、晋軍は楚に攻められた鄭の救援に出かけた。晋軍は進んで蔡を侵略した。楚の公子と公子が申と息の軍を率いて蔡を助け、桑隧で晋軍を防いだ。
趙同と趙括が決戦を望んだため欒書はそれを許そうとした。しかし荀首・士燮・韓厥が「いけません。もともと鄭を助けに来て、はからずも蔡まで来てしまいました。罪なき人を攻め殺してはなりません。そもそも大軍を整えてきたのに、わずか楚の2県を破っても何の名誉になりましょう」と言ったので、欒書はそのまま引き揚げた。
春申君(シュンシンクン)【宰相】
戦国四君のひとり。楚の令尹。姓は黄、名は歇。楚の人。〜B.C.238。
諸方に遊学して見聞が広かった。
頃襄王に仕え、左徒となる。
B.C.27B。4弁舌に巧みなことから使者として秦に使いした。秦は魏・韓を臣事させ、白起に命じて楚を討とうとしていた。春申君はこれを秦で聞き、秦昭襄王に上書して「天下は秦・楚より強い国はありません。王は楚を討とうとされますが、これはちょうど両虎が互いに戦うようなもので、ともどもに傷ついてしまい、良策とはいえません。
また大王は天下の地を領有し、大王の威力はここに極まったと言うべきです。この威力を保守し、仁義の道を厚くされるなら、いにしえの三王や五覇と肩を並べられましょう。逆に楚と和親されるのがよろしいかと存じます」と言った。
昭襄王は「よし」と言って出兵を取りやめ、楚と和親した。春申君はこの約束を受けて帰国した。
B.C.273楚は秦と和平し、春申君を人質の太子熊元(完)の侍従として同行した。
B.C.264楚頃襄王が病で倒れたが、太子完は帰国できなかった。春申君は宰相范雎に「いま楚王は病のため、おそらくは再起できますまい。秦としては楚の太子を帰国させるのがよいと思います。太子が楚王となれば秦に仕えることかならず重厚に、また宰相を徳としましょう」と言った。
そこで范雎が秦昭襄王に言上すると、昭襄王は「まず太子の傅(春申君)を遣わして、病気を見舞わせたうえで取り計らおう」と答えた。
春申君は一計を案じ、太子完に「いま太子が帰国されなければ陽文君の子が後を継ぎ、太子は宗廟に仕えることができなくなりましょう。使者といっしょに秦を抜け出されるのが上策と思います。わたくしは踏みとどまって、死を賭して事に当りましょう」と言った。
太子完は衣服を変え、使者の御者になりすまして出国し、春申君は太子が逃げるまで病と称して外出しなかった。
しばらくして昭襄王に申し出て「楚の太子はもはや帰国しました。逃がした歇の罪は死に当りましょう。どうか死罪を賜りますように」と言った。昭襄王は大いに怒り、自害を許そうとしたが、范雎が「歇は人臣として一身を投げ出して主君に殉じたのであります。もし太子が位に即けば、かならず歇を重用しましょう。だから罰しないで帰国させ、楚と親しむのがよろしいかと思います」と言ったので、春申君は帰国を許された。
帰国して3ヶ月後、頃襄王が没して太子完が立った。これが考烈王である。
B.C.263春申君は宰相となり、封じられて春申君と号し、淮北の地12県を賜った。
B.C.258趙は秦に邯鄲を包囲され、楚に救いを求めた。楚は春申君に兵を率い、救援に赴かせたので、秦は囲みを解いて去った。
このとき楚はまた強大となり、趙の平原君の使者が春申君のもとに来た。使者は楚に見せびらかそうとして瑇瑁でつくった簪を挿し、鞘を珠で飾った剣を佩びて春申君の食客に会見を求めた。春申君には食客が三千余人いたが、みな上客は珠で飾った履をはいて使者に会見したので、使者は大いに恥じ入った。
B.C.248春申君は考烈王に「淮北の地は斉と境を接しており、重要な地ですから、郡としたほうが便利でしょう」と言い、淮北の12県を国家に献じ、代わりとして江東に封地を請うた。これが許されたので、昔の呉の城跡に城を築いて、自分の都邑とした。
また北伐して魯を滅ぼした。
荀子を蘭陵の令とした。
B.C.240諸侯は合従して西に向かい、秦を討った。考烈王は合従の長となり、春申君がいっさいの指揮をした。連合軍は函谷関に押し寄せたが、秦軍の反撃にあって敗走した。考烈王はこれを春申君の責任としてとがめ、春申君は王に疎んぜられるようになった。
食客の朱英が春申君に「いまや魏の滅亡は旦夕をはかられず、そうなると秦の兵は楚の国都陳を去ることわずか160里の近くになります」と進言したので、春申君は遷都を言上して楚は寿春に遷都した。
春申君はこの後、呉の封地で宰相の政務をとった。
考烈王には子がなかった。春申君はこれを心配し、子を産みそうな婦人を求めて王に勧めたが、ついに子が得られなかった。
李園が春申君に仕えた。春申君はその妹を寵愛した。
彼女が身ごもったと知ると、李園は妹と相談してたくらみをめぐらし、妹は春申君に「万一王が崩御されたなら、新王の親しんだ者が重用されるにちがいありません。どうしていつまでも王の寵をつなげましょう。いまわたしがみごもったことは、誰も知りません。君のお口からわたしを楚王にお勧めいただいて寵愛され、もし男子を生めば、次の王はこの子となり、楚の国はことごとく君のものとなります」と言った。
春申君はもっともと思い、李園の妹を考烈王に献上した。ついに男子が生まれ、この子は太子となり、李園の妹は王后となった。
李園は重用されて政務をとるようになったが、春申君から秘密が漏れたり、ますます驕り高ぶられたりするのを恐れ、ひそかに決死の士を養成し、春申君を殺そうとした。
B.C.238考烈王が病気となった。朱英は春申君に「君はわたくしを郎中の職に任じ下さい。楚王が亡くなれたなら李園はかならず宮中に入りましょう。そこでわたくしは君のため李園を殺します」と言った。春申君は「そうした考えは止めたほうがよい。李園は弱い人間だ。わしとて彼を善くしてやっている。どうしてそんなことが起ころう」と言ってしりぞけた。
17日ののち、考烈王が没すると、はたして李園は宮中に入り、決死の士を棘門の内に伏せさせた。春申君は棘門に入ると、士に刺し殺され、その首は門外に投げ捨てられた。そして春申君の一族はことごとく滅ぼされた。
李園の妹の子は王位についた。これが幽王である。
荀騅(ジュンスイ)【将軍】
晋の将軍。
B.C.588、12月27日、晋は初めて六卿を設け、荀騅は卿となった。
B.C.585冬、晋は楚に攻められた鄭の救援に出かけた。晋軍は繞角から進んで蔡を侵略した。楚の公子と公子が蔡を助け、桑隧で晋軍を防いだ。荀騅は諸将とともに決戦をするよう進言したが、韓厥荀首士燮が諌めたため、中軍の将欒書はそのまま引き揚げた。
荀荘子(ジュンソウシ)
荀首
荀息(ジュンソク)【宰相】
晋の宰相。〜B.C.651。
B.C.663晋献公が太子申生を廃して、奚斉を立てようとした。
里克邳鄭、荀息が会ったとき、里克が言った。
史蘇の話どおりになりそうだが、どうしたらよいでしょうか」
荀息「君に仕える者は、力の限り職務を遂行するといいます。君が太子を立てれば臣はその命に従うだけです」
邳鄭「君に仕える者は、君が義にかなえば従い、君の惑乱には従わないと言います。惑乱すれば民を誤ります。民に君があるのは、義を治めて正道を行うためです。わたしは必ず太子申生を立てるつもりです」
里克「わたしは不徳で義を知りませんが、君の惑乱にも従いません。沈黙を守りましょう」
B.C.658荀息は虢を討とうと考え、献公に屈の良馬4頭と玉を虞に贈り、道を借りることを願い出た。
献公「それは晋の宝であるから、与えることはできない」
荀息「もし虢を攻めることができたら、やがて虞を滅ぼすことができますので、国外の倉庫に預けるようなものです」
献公「虞には宮之奇という忠臣がいるから、うまくはゆくまい」
荀息「宮之奇は性格が弱く強く諌めることができません。また幼少から虞公と共に成長したので、馴れ合っています。虞公は諫言に従わないでしょう」
そこで献公は荀息に命じて道を借りさせた。すると虞公はこれを許したばかりではなく、晋軍の先に立って虢を攻撃すると言ってきた。
夏、荀息は里克とともに虞軍と協力して虢を攻撃し、下陽を攻め滅ぼした。
B.C.655晋は虢を滅ぼし、さらに虞も滅ぼした。荀息はさきに虞に贈った良馬を牽いて献公に奉還した。献公は笑って「なるほど、馬はわしの馬だが、それにしても老いぼれたわい」と言った。
B.C.651献公は病気が重くなったので荀息を呼び「わしは奚斉を後嗣にするつもりだが、年が若いので大臣たちが服従すまい。おそらくは乱が起こるだろう。きみはうまく奚斉を立てることができるだろうか」と言うと、荀息は「できます」と答えた。「何をもって約束のあかしとするか」と問われると「死者(献公)をまた生き返らせたとて、生者(荀息)は少しも恥じるところがありません。これがそのあかしです」と答えた。
そこで荀息は宰相となり国政を司り、また奚斉の傅育官となった。
秋9月、献公が没した。里克は奚斉を殺そうとして荀息に告げたが、荀息は「わが君の遺児を殺すならば、わたくしは死ぬだけです」と言った。里克は「あなたが死んで太子が立つことができるなら、死ぬのもいいでしょう。太子は廃されるのにどうして死ぬことがありましょう」と言ったが、荀息は「わたしはかつて君に『死者をまた生き返らせたとて、生者は少しも恥じるところがありません』と言いました。わたしの言葉が口から出た以上、どうしてわが身を惜しんだりしましょうか」と言って、聴かなかった。
10月、里克が公子の徒党を率いて乱を起こし、奚斉を殺したので荀息は殉じようとしたが、ある人が「奚斉の弟の悼子を立てて、その傅になるにこしたことはありません」と言った。
そこで荀息は悼子を立てて、献公を葬った。
11月、里克は悼子を弑したため、荀息はこれに殉じた。
君子らは「詩のいわゆる『自珪(しろたま)の玷(きず)は、なお磨き直すこともできる。このことばの玷は、治め直しようがない』とは荀息のたぐいを指して言ったものであろう。彼は自分のことばにそむかなかった」と称した。
荀賓(ジュンピン)【武官】
晋の臣。
B.C.573悼公は、荀賓が勇力があって乱暴でないことを知って、荀賓を悼公の右に任命した。
荀瑶(ジュンヨウ)【宰相】
晋の宰相。智甲の子。智伯、智伯瑶、智襄子ともいう。〜B.C.456。
智甲が荀瑶を後継者にしようとすると、智過が諌めて言った。
智過「宵の方がよいでしょう」
智甲「宵は強情であるからだめだ」
智過「宵の強情は顔にありますが、瑶の強情は心にあります。顔が強情なのは害になりませんが、心が強情であると国を破ります。瑶は髪の毛が美しく、身体が大きく、射と御にすぐれ、技芸に達し、文章が巧みで話が上手で、剛毅果断でありますが、非常に不仁です。瑶が立てば、智一族は必ず滅びるでしょう」
しかし智甲は聴き入れず、荀瑶を後継者とした。
B.C.457荀瑶は韓康子魏桓子と藍台で宴会をしたとき、戯れて韓康子と魏の相段規を辱しめた。智伯国がこのことを諌めて言った。
智伯国「主君は用心しなければ禍難がやって来ます」
荀瑶「禍難はわしの方から起すのだ。だれが起せるものか」
智伯国「そうではありません。郤氏は車轅の難で滅び、趙氏は孟姫の中傷で衰微し、欒氏は叔キの訴えで滅び、范・中行氏は函冶の難で亡命しました。
蟻、蜂、さそりのような小さな虫でさえも人に害を与えます。まして君主と宰相なのですからなおさらです」
しかし荀瑶は聴き入れなかった。
荀瑶は趙・韓・魏とともに范・中行の地を分割して、それぞれ自分の邑とした。
出公が怒って斉・魯とともに彼らを討とうとしたので、荀瑶は出公を攻め、出公は斉に出奔した。
荀瑶は公子忌と親しかったため、その子驕を晋公に擁立した。
荀瑶は晋の政治をすべて決裁し、晋の全土を併有しようとした。荀瑶は范・中行の故地を領有してもっとも強盛であった。
荀瑶はまた趙に土地の割譲を迫った。趙がこれを拒否すると荀瑶は韓・魏氏の兵を率いて趙を攻め、趙毋卹はこれを恐れて晋陽に立てこもった。
B.C.456あるとき荀瑶は家を建てて家臣の士に言った。
荀瑶「この家は美しいなあ」
士「美しいですが、一方で心配があります」
荀瑶「何が心配なのだ」
士「『高山や高原には草木が生えず、松やひのきの生えている土地は肥沃でない』と言います。今、土木が勝っていますので、その地にすむ民を安泰にさせないことが心配です」
荀瑶は晋陽を囲んだがこれを落とせなかった。趙の臣張孟談がひそかに韓・魏君に会い、内通するよう説得した。張孟談はその後、荀瑶に謁見して退出した。智過はそこに出くわし、荀瑶に「張孟談は何かたくらんでそうです。その志は驕り高ぶり、その歩きぶりは意気揚々としていました」と言ったが、荀瑶は聴き入れなかった。
智過は退出して韓康子と魏桓子に会い、荀瑶に「二主は顔色が変わって心が動揺しています。殺したほうがいいでしょう」と言ったが、またも聴き入れなかった。
そこで智過は「殺さなければ、とことん親密になさいませ。趙を破ったら二人にそれぞれ戸数一万戸の県に封じましょう」と言ったが、荀瑶は「封地を三等分し、さらに二人を封じれば、私の取り分が少なくなる。だめだ」と言いい聴き入れなかった。
しかしはたして韓康子・魏桓子は叛き、荀瑶は殺され、領地はことごとく奪われた。
襄子と諡される。
荀林父(ジュンリンポ)【将軍】
晋の将軍、正卿。中行の将。上軍の佐。中軍の佐。中軍の将。中行桓子ともいう。
B.C.633晋が三軍を編成すると、荀林父は文公の御者となった。
B.C.632晋ははじめて三行(三隊の歩兵部隊)を編成し、荀林父は中行(中央部隊)の将軍に任じられた。そこで荀林父は中行を氏とした。
B.C.621先蔑が公子を秦に迎えにいく命を受けた。荀林父はそれをとどめて「夫人(繆嬴)も太子(霊公)もいるのに他から君を迎えようとするのは、うまくゆかないに決まっている。病気にかこつけて辞退されるのがよい。出かけたら災難にかかるでしょう」と諌めたが、先蔑は聴き入れなかった。
B.C.620趙盾は中軍の将、先克を中軍の佐、荀林父を上軍の佐、先都を下軍の佐、歩招を霊公の御者、戎津をその右とし、晋の菫陰まで軍を進め、公子雍を護衛する秦軍に気づかれぬようにこっそりと夜中に出発した。
4月2日、晋軍は秦軍を令狐で打ち破り、晋の刳首まで追撃した。はたして先蔑は秦に亡命した。荀林父は先蔑の妻子と家財道具をすべて秦に送り届けた。
B.C.615冬、秦が晋を討って羈馬の地を攻め取った。
荀林父は中軍の佐として秦軍と戦ったが勝敗がつかなかった。
B.C.614夏、晋の六卿は、秦が士会を用いて晋に敵することを恐れて、近郊の諸浮で会合して密謀した。
趙盾「随会(士会)が秦におり、賈季(狐射姑)が狄におり、そのために国難が日ごとにやってくる。どうしたらよいか」
荀林父「賈季を戻しましょう。彼は国外の事情に通じており、処理する才能があり、それに旧勲の子である」
郤欠「賈季は罪を犯している。随会を戻したほうがよい。彼は卑賤の身分におりながら恥をわきまえており、柔順であるが人から犯されて不義をなすことがなく、その智謀は国の役に立つ」
そこで六卿は魏寿余に命じて魏にたてこもらせて晋に背いて秦につくふりをさせて、士会を帰国させた。
B.C.610荀林父は、陳の公孫寧、衛の孔達、鄭の石楚とともに宋を討ち、宋昭公を弑したことを責めたが、結局宋文公の即位を認めた。
B.C.604陳が楚と和睦したので、荀林父は楚に攻められている鄭を助けて、陳を討った。
B.C.603秋、赤狄が晋に攻めてきて、懐を包囲し、邢丘まで攻め入ってきた。晋成公はこれを撃退しようとしたが、荀林父が「戦は民を苦しめます。しばらく待ちましょう」と諌めたので、取りやめた。
B.C.600、9月、諸侯は鄭の扈で会合した。荀林父は晋成公の命で、諸侯と共に会同に参加しなかった陳を討ったが、成公が没したために引き揚げた。
B.C.597春、鄭が楚に攻められた。
6月、晋は鄭を救援することとし、荀林父は中軍の将に任命され、先縠が中軍の佐、士会が上軍の将、郤克が上軍の佐、趙朔が下軍の将、欒書が下軍の佐、趙括趙嬰斉が中軍の大夫、鞏朔韓穿が上軍の大夫、荀首趙同が下軍の佐、韓厥が司馬に任命された。晋軍が黄河に到着すると、すでに鄭は楚に降服して和睦したと伝わった。荀林父は帰国しようとし、士会もこれに賛成した。しかし先縠が反対して「晋が覇者となっているのは、わが軍が強く、臣下が努力するからです。今、鄭を見捨てて軍を還すのは努力しているとは言えず、眼前の敵を追撃しないのは、武勇があるとは言えません」と言って軍を率いて黄河を渡った。
韓厥が荀林父に「彘子(先縠)が命令に従わなかったのはあなたの罪です。鄭を失い、部下を敗滅させる罪は極めて重い。むしろ進撃したほうがよい。戦いに負ければ、みなで罪を分け合いましょう」と言ったので、荀林父は早速、黄河を渡って進撃した。
晋軍は敖山と鄗山の間に陣をしいた。鄭の皇戌が晋の陣地に来て「鄭が楚についたのは国を守るためで、貴国に対して二心を持つものではありません。貴国が楚を攻めるのなら、わが軍もあとに続きましょう」と申し入れてきた。先縠と趙括と趙同はこの言葉を信じて楚を討つべしと主張し、欒書と荀首と趙朔は信用ならないと主張して言い合った。
そこに楚荘王は少寧を遣わして和睦を申し入れてきた。士会はこれを受諾したが、先縠が趙括に命じて楚の使者を追いかけて訂正し、戦をすると伝えた。
しかし楚荘王はまた和睦することを求めたので、荀林父も承諾して盟いの日を決定した。
しかし許伯が楽伯の御者となり、摂叔が右を務めて晋に戦いを挑んで晋兵を殺して引き返した。晋軍はこれを追撃したが、とりやめた。
魏錡が戦いを挑みたいと願い出たが、荀林父は許さなかった。そこで和睦の使者として遣わしてほしいと願い出たので、荀林父はこれを許した。しかし魏錡は逆に合戦を申し入れて帰ってきた。また趙旃が戦いを挑みたいと願い出たが、荀林父は許さなかった。そこで楚の使者を呼び寄せて盟いを結ぶことを願い出たので、荀林父はこれを許した。かくて趙旃は魏錡とともに出かけた。しかし趙旃と魏錡は夜に楚の陣地に攻め入った。楚荘王は軍を編成して進撃を開始し、晋軍に攻めかかった。荀林父は趙旃と魏錡が楚を立腹させはしまいかと心配し、兵車を出して迎えに行っていた。これを見た楚は全軍を出撃させた。
荀林父はあわてうろたえてなすすべもなく、太鼓を打って「退却せよ。早く河を渡った者には恩賞を与える」と命令したので、中軍と下軍の兵は争って舟に乗ろうとした。そのため舟の中に斬りおとされた指が両手ですくいあげるほどであった。かくて晋軍は右に移動したが、上軍のみ潰滅せずに退却した。
晋の敗残兵は陣立てすることもできず、夜に黄河を渡って退却した。
秋、晋軍は帰国した。荀林父は敗戦の責任を取り、死んでお詫びしたいと願い出て「わたくしは督軍となって、軍は敗れました。その罪は誅殺にあたります」と言った。晋景公はそれを許そうとしたが、士会が「むかし文公が楚と城濮で戦ったとき、敗将の子玉が殺されたことを聞いて文公は非常に喜ばれました。また将軍を誅すれば、これは楚のためにその仇を殺すようなものです。林父の君への奉公ぶりは、進んでは君に忠をつくさんことを思い、退いてはわが身のあやまちを補おうと努力しており、まことに国家の守りというべき人物です。どうして殺してよいでしょう」と言ったので、景公は荀林父をもとの地位にかえした。
(『春秋左氏伝』では景公を諌めたのは士渥濁としています)
B.C.595夏、荀林父は「兵備の盛んなことを鄭に示し、晋に服従させましょう」と進言したので景公は鄭を討つことを諸侯に告げ、閲兵を行って引き揚げた。はたして鄭は晋を恐れ、鄭襄公は楚に出かけて対晋について相談した。
B.C.594狄の潞の宰相鄷舒が潞の君嬰児の眼を傷つけ、夫人伯姫を殺した。そこで晋は鄷舒を討つことにした。
6月19日、荀林父は赤狄の軍を曲梁で破った。
6月27日、荀林父は潞国を攻め滅ぼした。
荀躒(ジュンレキ)【将軍】
晋の将軍。文伯、知伯、智躒ともいう。知躒、荀櫟とも書く。智盈の子。
B.C.527、12月、荀躒は周を聘問して穆后を葬った。荀躒は葬式を終えて周景王と酒宴を開き、周景王から「伯氏よ、諸侯はみな贈り物を献上して王室を慰安してくれるのに、晋だけしないのはなぜか」と問われた。荀躒は籍談に回答を促すと、籍談は「わが晋は深山の中にあり、戎狄と近接して、王の恵みも至りません。どうして器物を献上することができましょう」と答えた。周景王は「叔氏よ、汝は忘れてしまったのか。武王は商に勝ち、晋の地を唐叔に与えたのではないか。その幸福の記録をしなければ、晋の存在はないことになる。汝は晋の記録を司る籍氏の子孫であるのに、どうしてそれを忘れたのか」と言った。籍談は返答することができなかった。
B.C.520、10月14日、荀躒は籍談とともに九州の戎と焦・瑕・温・原の軍を率いて周悼王を王城に入れた。
12月8日、荀躒・籍談・賈辛司馬督は、軍を率いて陰・侯氏・谿泉に軍を進め、前軍は社に陣を取り、さらに王の軍は氾・解に進軍し、その前軍は任人に陣を取った。
B.C.516荀躒と趙鞅は軍を率いて周敬王を都に入れようとして、 女寛に命じて闕塞の要塞を守らせた。
B.C.514祁盈の家臣の祁勝鄔臧は主人に罰せられそうになったため、 祁勝は荀躒に賄賂を使った。そこで荀躒はこれを晋頃公にとりなして逆に祁盈を捕らえ殺して、祁氏を族滅させた。
B.C.511、4月、晋人は魯の季平子を呼び寄せ、荀躒は季平子と適歴で会合した。 荀躒は「なぜ主君を追放したのですか」と問うと、季平子は「わが君に仕えようとしても、帰国されないためどうにもかなわないのです。決して裁きから逃れようとは思いません。 ただ先代のことを考えていただけるなら、季氏の家を断絶させずに、わたくしだけに死を賜ってください」と答えた。 そこで荀躒は季平子を連れて魯昭公のいる乾侯に行った。荀躒は「わが君は意如(季平子)を責め、意如も決して死を逃れようと致しません。 国にお帰りなさい」と申し上げたが魯昭公は「晋君にはお仕えは致しますが、あの男(季平子)には会う気にはなれません」と言った。荀躒は驚いて耳をふさいで走り 「もう魯国の騒ぎには関係致しません。わが君に報告しましょう」と言って、季平子に「ご主君の怒りはまだおさまっていません。あなたは国に帰ってお祭りの世話をするのがよいでしょう」 と言った。
B.C.497荀寅范吉射趙鞅を晋陽に囲んだ。
荀躒は晋定公に「わが君は『大臣で乱を起こした者は死罪にする』とご命令になりました。いま三氏(范・中行・趙氏)の臣が乱を起こしましたのに、鞅だけを放逐されるのは不公平であります。三氏ともみな放逐なさるのがよいと存じます」と言う。
11月、韓不信魏侈とともに彼らを討つ。
そして定公に請うて趙鞅をもとの地位に戻させる。
B.C.495荀躒は趙鞅に「范氏と中行氏が、乱を起こしたのは、もとは安于からでたものです。晋の法に『乱を起こした者は死罪にする』とありますが、他の二人は罪に伏したのに、安于だけがそのままになっておるのです」と言った。
趙鞅は処置に困り、心を痛めたが、董安于は「わたくしが死んで趙氏が安定し、晋国が安泰になるなら、わたしの死ぬのは遅すぎました」と言って自殺した。
趙鞅はこれを荀躒に告げて、ようやく事なきを得た。
子余(シヨ)【文官】
斉の太史。
B.C.481田常監止を攻めるため公宮に侵入したとき、簡公は怒り田常に撃ちかかろうとした。そのとき子余は「(田常は)わが君に不利なことをしようとするのではありませぬ。害(監止)を除こうとするのであります」と取りなした。
しかし田常は監止を殺し、また簡公までも殺す。
鉏(魯)(ショ)【公子】
魯の公子。魯成公の弟。
B.C.575鄢陵の戦いの翌日、魯成公は魯の壊隤を出発して晋軍を見舞おうとした。 そのとき魯成公の母穆姜は魯成公を見送りながら季孫行父孟献子を追放するよう請うたが、魯成公は晋に加勢する大事な時であるとして断り「帰ってから仰せを承りましょう」と言った。穆姜は怒った。そのとき公子鉏が公子とともに通り過ぎたので、穆姜はふたりを指さして「お前が聴き入れないのなら、あのふたりはどちらでも君になれるのですよ」と言った。そのため魯成公は孟献子に命じて公宮の警備を厳しくさせてから出発したので、諸侯の会合に遅れてしまった。
鉏(斉)(ショ)【公子】
斉の公子。
B.C.552斉荘公が再び公子の一味を責め正したので、公子鉏は魯に亡命した。
B.C.545慶氏が滅びたため、公子鉏は斉に呼び戻され、以前の采邑が返された。
B.C.541秋、公子鉏は莒の公子去疾を莒に送り込んだため、莒公展輿は呉に出奔した。
B.C.528公子鉏は莒の公子庚与を送り届けた。
B.C.516公子鉏は斉景公の命により軍を率いて魯昭公につきそった。
処(ショ)【公子】
周王朝の王子。
B.C.520、7月、王子処は単穆公に命ぜられて王城を守った。
挐(ジョ)【公子】
莒の公子。莒君の弟。
B.C.659、10月、莒は魯に攻め込み、慶父を引き渡した謝礼を求めた。魯の季友はこれを魯の酈で打ち破り、公子挐は魯に捕えられた。
子陽(鄭)(シヨウ)【宰相】
鄭の宰相。〜B.C.398。
列子の生活が困窮して、見るからに飢えていたので、子陽は列子に穀物を贈ったが、列子はこれを断った。
B.C.398鄭繻公に殺される。
子陽(シヨウ)【在野】
扁鵲の弟子。
扁鵲は虢国を訪れた。虢の太子が病死した直後であった。扁鵲はその病状を詳しく聞くと「私は太子を生返らせることが出来ます」と言い、虢君に謁見した。
そこで扁鵲は、子陽に砥石で鍼を研がせ、体の外面にある腧穴、すなわち三陽、五会に鍼を刺した。しばらくすると太子が蘇生した。そこで弟子の子豹に命じて、五分の熨り薬をつくり、八鹹の調合剤をまぜ、あわせて煮詰め、それを次々と両脇の下に貼って温めさせた。
その後20日間で太子は回復した。天下の人は、扁鵲は死人を生返らせることができると言い合ったが、扁鵲は「わたしは死人を生返らせたのではない。当然に生きるものを、わたしが単に起せただけのことである」と言った。
子揚(シヨウ)
闘般
妾(ショウ)【女官】
恵公の娘。母は梁嬴
妾は恵公が梁に亡命していたときに生まれた。梁の大卜招父がその子とともに卜した。子が「やがて一男一女が生まれる」と言った。招父は「その通りだ。男は人の臣となり、女は人に使われるようになるだろう」と言った。そこで男子には、女子には妾と名づけられた。それが妾である。
B.C.643夏、公子圉は恵公の命で秦に人質として送られ、妾は秦の女官となった。
象(ショウ)【神】
瞽叟の後妻の子。の弟。
瞽叟は舜の母が死んだあと、妻を娶って象を生んだ。
象は傲慢であり、父母と共に舜を殺そうとする。瞽叟は象といっしょに舜を殺そうとし、舜に米倉を修繕するよう言いつけ、屋根に上ったのを見すまして、梯子を取り去って下から火をつけた。それが失敗すると、今度は舜に井戸さらいを言いつけ、舜が井戸に入ったと見るや、上から土を入れて生き埋めにしようとしたが、また失敗した。
舜が帝位に即くと、有庳に封じられる。
種(ショウ)【宰相】
越の宰相。姓は文、名は種。文種、シュともいう。〜B.C.473。
B.C.494呉に敗れ勾践は会稽山に立て籠もった。
勾践は歎息して「わしもこれで終わりか」と嘆くと、種は「湯王は夏台につながれ、文王は羑里に捕われ、重耳は翟に出奔し、小白は莒に逃亡しましたが、王者となり覇者となりました。今の不幸もにわかに幸いとならないとは限りません」と言った。
勾践は降伏を請うたが、呉の宰相伍子胥がこれを許さなかったため、勾践は妻子を殺して宝器を焼き、敵に突入して果てようとした。そこで種はこれを止めて「呉の太宰伯嚭は貪欲な男です。利をもって誘えば、結託することができます。どうか微行して嚭を誘うことをお許しください」と言った。勾践はこれを許し種を遣わせた。
伯嚭は種を呉王に謁見させた。種は頓首して「大王には、なにとぞ勾践の罪をお許しください。もしも不幸にしてお許しがなければ、妻子をことごとく殺し、五千の手兵を挙げて呉軍に突入しようと決心しております。さすれば呉軍にもかならずや相当の損害がありましょう」と言った。伯嚭の進言もあって夫差はこれを許した。
勾践は帰国すると范蠡に国政を取らせようとしたが、范蠡が「軍事については種は蠡に及びませんが、国家を治め人民を手なずけるには蠡は種に及びません」と言ったため、種は国政をことごとく任された。
B.C.485種が、呉の政治が驕慢になっているのを確かめるため、試しに粟を借りるよう請うた。呉ははたして粟を越に貸し与えた。
B.C.473種は策謀を提唱して「呉王はわが国を侵攻すると思っておりましたが、軍の動員を解いて警戒せず、わが国のことを忘れています。今、呉の民は疲れ果て大変な凶作で飢饉が続いています。王は今こそ軍を動員して呉と会戦し、彼に改める余裕を与えてはなりません」と言った。そこで勾践は呉を討つことにした。勾践が呉を討つことを大夫に謀ると、種は「旗さしものの運用を慎重にすべきです」と進言した。
越はついに呉を滅ぼした。
勾践が呉を滅ぼした後、范蠡が越を去り、種に書簡で職を辞退するよう伝えた。そのため種は病と称して参朝しなかった。彼を讒言する者がいたため勾践は種に剣を賜り「そちにはわしに呉を討つ7つの術を教えてくれた。わしはその3つを用いて呉を破った。あとの4つは、そちの手中にある。そちはわしのため、先王に従い地下でそれを試してみよ」と言い、種を自殺させた。
招(ショウ)【宰相】
陳の宰相。司徒。陳哀公の弟。
魯哀公は幼少の公子を愛し、公子招に彼を委託した。
B.C.541春、公子招は鄭の虢の会盟に出席して趙武、公子国弱斉悪向戌叔孫豹公孫帰生子皮、許の人、曹の人と会同した。
B.C.534、3月、陳哀公が不治の悪疾にかかると、公子招は公子とともに悼太子を殺して、公子留を立てて太子とした。陳哀公が怒って公子招を誅殺しようとしたので、公子招は兵を出し、宮室を包囲した。陳哀公が自殺したため、公子招は公子留を陳君に立てた。
公子が公子招を楚に訴えたため、公子招は罪を公子過になすりつけてこれを殺した。
4月、使者を遣わして楚に報告したが、楚霊王は使者を殺した。
9月、楚の公子弃疾は軍を率い公子を奉じて陳の都を包囲し、宋の戴悪もこれに参加した。
10月18日、陳は楚に滅ぼされ、公子招は捕らえられて越に追放された。
燮(晋)(ショウ)【王】
晋侯(初代(2))。唐叔虞の子。
燮(楚)(ショウ)【公子】
楚の公子。〜B.C.613。
公子燮は楚荘王の太傅となった。
B.C.622冬、公子燮は蓼を攻め滅ぼした。
公子燮は令尹の地位を望んだが、かなえられなかった。
B.C.613太師潘崇と令尹成嘉が舒蓼などの小国を討つため、公子燮と闘克は留守を命じられた。
公子燮は闘克と謀って、潘崇と成嘉に罪を得させて、その家財を横領した。そして郢に城壁を築き、刺客を使って成嘉を殺そうとしたが、成功しなかった。
8月、公子燮は闘克と共に荘王を奉じて郢を出て商密に行こうとしたが、廬の大夫戢黎叔麇にだまされて殺された。
燮(蔡)(ショウ)【将軍】
蔡の将軍、公子。司馬。蔡荘侯の子。〜B.C.553。
B.C.565、4月22日、鄭の子国子耳が攻めてきたため公子燮は捕えられた。
B.C.553公子燮は亡き父である蔡荘侯の考えに従って晋について蔡のために謀ろうとした。公子燮は蔡の人々を従えて楚に叛いて晋につこうとしたが、蔡人に殺された。
捷(晋)(ショウ)【公子】
晋の公子。襄公の末子。
もっとも襄公に愛され、桓叔と呼ばれた。
捷(周)(ショウ)【公子】
周王朝の公子。
B.C.594、6月、召戴公王孫蘇と政権を争った。王子捷は王孫蘇に依頼されて戴公と毛伯衛を殺した。
称(ショウ)【神】
楚の先祖。帝顓頊の子。
勝(陳)(ショウ)【公子】
陳の公子。陳哀公の子。
B.C.534、3月、陳哀公が病気になると、公子と公子悼太子を殺して公子を太子に立てた。そして公子招らは陳哀公を攻め囲み、陳哀公が自殺すると、公子留が代わって陳君となった。そこで公子勝は公子招を楚に訴えた。
10月、楚は陳の都を攻め囲み、陳を滅ぼした。
勝(楚)(ショウ)【公子】
楚の公子。公子の子。白公。〜B.C.479。
B.C.524冬、公子勝は、晋と鄭の脅威にさらされている許を移すよう進言した。楚平王は喜んで公子勝に命じて許を析に移した。
B.C.523公子勝は公子建とともに宋に出奔した。
B.C.522公子勝は公子建と共に鄭に出奔した。
B.C.520公子建が鄭で誅殺されると公子勝は恐れて伍子胥と共に呉に出奔した。
公子勝は伍子胥と共に呉で田野を耕して、時機の到来を待った。
B.C.488公子勝は令尹子西により、呉から招かれ、単の大夫となって鄢におり、白公と号した。
このとき沈諸梁が子西を諌めて言った。
沈諸梁「王孫勝を呼んで、どうしようとするのですか」
子西「勝は剛直な人というから、国境に置こうと思うのです」
沈諸梁「いけません。彼は誠純ですが信ならず、愛情はあるが仁ならず、詐欺にたけるが知ならず、剛毅だが勇ならず、愚直だが中正でなく、周到だが善意がありません。
もし彼が楚に来て寵遇されなければ、すぐに怒りを爆発させましょう。もし寵遇するならば、あつかましく欲張って飽くことはないでしょう」
子西「徳を施せば、かれは怨みを忘れるでしょう。わたしが彼を厚遇すれば、きっと落ち着くでしょう」
沈諸梁「仁者であればそうなるでしょう。しかし不仁者はそうはいきません。怨恨乱賊の人は絶対にいけません。どうして若敖氏と子干子皙の者を採用せず、勝を用いようとするのですか」
しかし、結局、子西は公子勝を呼び寄せた。
公子勝は戦を好み、士にへりくだって鄭に殺された父の仇を報じようとした。
B.C.484公子勝は子西に兵を請うて鄭を討とうとした。子西はこれを承諾したが、まだ兵を出さなかった。
晋が鄭を攻め、楚は子西に命じて鄭を救わせた。子西が鄭の賄賂を受けて帰ったので、公子勝は怒って「もはやわが仇は子西である」と言った。
B.C.479勝は石乞とともに朝廷で子西と司馬子期を襲って殺した。また恵王を脅迫して、これを弑しようとしたが、逃がしてしまう。
勝は自立して王となったが、一ヶ月余で救援に来た沈諸梁と恵王に攻められて殺された。
勝(趙)(ショウ)【公子】
趙の公子。
B.C.374成侯が立つと、これと位を争って乱を起こす。
章(ショウ)【公子】
趙の公子。武霊王の長子。安陽君。〜B.C.295。
B.C.304武霊王が中山を攻める。
趙祒を右軍とし、許鈞を左軍とし、章は中軍とし、王はそれらすべてを統率する将軍となる。牛翦を車騎の将軍とし、趙希は胡軍と代の軍をあわせてその将軍とし、趙与は陘山に行った。これらの軍は曲陽で合流し、攻めて丹丘・華陽・鴟の塞を取る。
B.C.298太子に立てられていたが、武霊王が孟姚を寵愛したために太子を廃され、孟姚の子何が国王に立てられる。
B.C.296武霊王は中山国を滅ぼし、論功行賞して大赦をおこない、章を封じて代の安陽君とした。
章はもともと奢侈で、弟が立てられたことが心中不服であった。
B.C.295主父は群臣を参朝させ、章も来朝した。
主父と恵文王(何)は沙丘に遊んだ。章はその徒党を率いて、田不礼とともに乱を起こし、まず主父の命令といつわって恵文王を招き、進み出た肥義を殺した。
かけつけた李兌と公子に防がれ、主父の邸に逃げ込んだが、そこで没した。
章が主父の邸に駆け込んだため、主父も包囲されて餓死する。
ショウ(ショウ)【文官】
周王朝の臣。
召公家の後を継ぐ祭祀官。
召族の代表者として威望が高く、炎を根拠地とした。
襄(楚)(ジョウ)【文官】
楚の臣。工尹。
B.C.575鄢陵の戦いのとき、晋将郤至はだいだい色のはかまを着て楚恭王の兵を追い、恭王を見ると必ず下車して走った。戦いの後、恭王は襄を使者として、郤至に弓を贈って「戦の真っ最中にだいだい色のはかまの方が居て、礼儀正しい君子でしたが、傷はありませんか」と言った。郤至は兜を脱いで「わたくしはわが君のお陰により、よろいかぶとで身を固めておりますので、失礼ながら君命を跪拝することができません。御使者に対して三粛の礼をさせていただきます」と答えた。
襄(晋)(ジョウ)【文官】
晋の臣。平公の小者。
あるとき平公は、かやぐきを射たが死ななかったため、襄に捕らえさせたが、逃してしまった。平公は怒って襄を殺そうとした。しかし叔向が諌めたので、平公は襄を許した。
襄(召)(ジョウ)【王】
召公。周王朝の臣。召戴公の子。
B.C.594、6月、戴公が王孫蘇と政権を争ったため殺され、襄はその後を継いだ。
襄(周)(ジョウ)【文官】
周王朝の臣。甘邑の大夫。
B.C.533襄は晋の閻嘉と閻の耕地について争った。すると晋は陰戎の人を率いて周の穎邑を討った。周景王が晋を訴えたため、晋は閻の地と襚(衣服)を周に贈り、穎邑を討った時の捕虜を帰した。
城(ジョウ)【公子】
宋の公子。宋平公の子。
B.C.522夏、華氏・向氏の騒動が起き、元公の一味である公子城・公孫忌楽舎司馬彊向宜向鄭・楚の太子・小邾の公子は鄭に出奔した。
B.C.521、11月4日、公子城は晋の援軍を率いて宋に帰った。
11月7日、晋・曹・斉・衛は宋軍を助けて華氏と宋の赭丘で戦った。公子城は宋に帰る途中に華豹に出会った。華豹が「城や」と大呼したため、公子城は腹を立てて引き返し、矢を弓につがえようとした。華豹がすばやく矢を射ようとしたため公子城は祈ると矢は当たらなかった。公子城が矢をつがえようとすると、華豹がまた弓を引いたため、公子城は「かわるがわるしないのは卑怯であるぞ」と叫んだため、華豹はつがえた弓を外した。そこで公子城が射たため、華豹は倒れて死んだ。華豹の右役張匄がほこを引き抜いて下車したため、公子城はこれを射てももに当てた。張匄はひるまずに腹ばいになって公子城めがけて撃ちかかってきたが、車の横木を折っただけだった。公子城はさらにこれを射て殺した。御者の干犨は「自分を殺してくれ」と願ったが、公子城は「わが君に申し上げて命乞いをしてあげよう」と答えた。しかし干犨は「同乗の者と一緒に死なないのは、軍法の大罪です。早く殺してくれ」と願ったため、公子城はこれを射て殺した。
昌意(ショウイ)【神】
黄帝の子。
若水のほとりに住む。
襄伊(ジョウイ)【武官】
斉の臣。〜B.C.548。
荘公の八人の勇士のひとり。
B.C.548、5月、斉荘公が崔杼に弑され、襄伊ら州綽邴師公孫敖封具鐸父賈挙僂堙は、この内乱で討ち死にした。
小惟子(ショウイシ)【武官】
楚の臣。
B.C.504、4月16日、呉の太子終纍が楚の水軍を破って、小惟子と潘子臣は大夫7人とともに捕らえられた。
章禹(ショウウウ)【王】
徐の君。章羽とも書く。
B.C.515呉の公子掩余が亡命してきた。
B.C.512呉王闔閭は徐人に公子掩余を捕らえさせようとしたため、公子掩余は楚に亡命した。
12月、闔閭はこれを聞いて腹を立て徐を討ち、山をふさいで徐を水攻めにした。
12月23日、徐は呉に滅ぼした。章禹は頭髪を断ち切り、夫人をつれて闔閭を迎えた。闔閭はその不遇をいたわって送り返し、章禹の近臣に供をさせた。章禹はすぐに楚へ亡命した。
向為人(ショウイジン)【文官】
宋の臣。大司寇。
B.C.576、6月、宋共公が没した。司馬蕩沢が公子を殺したので、華元は蕩沢を殺した。そこで向為人は魚石、少司寇鱗朱、大宰向帯魚府ら桓氏一族とともに楚に出奔した。
B.C.573、6月、楚恭王は鄭とともに宋の彭城を陥れ、楚に亡命していた向為人らは彭城に封じられた。
7月、宋の老佐華喜に攻め囲まれた。
B.C.572、1月、晋・宋・衛・曹・莒・邾・滕・薛が彭城を包囲したため、向為人らは諸侯に降服した。そこで向為人らは晋に連れられて晋の瓠丘に留め置かれた。
小乙(ショウイツ)【皇帝】
商王朝20代王。小辛の弟。
少衛姫(ショウエイキ)【女官】
桓公の夫人。長衛姫の妹。
少衛姫は公子元(恵公)を生んだ。
昭王(周)(ショウオウ)【皇帝】
周王朝4代王。名は瑕。康王の子。〜B.C.985。
即位して初年に、親征して南方諸族を討った。
淮夷の叛乱があり、彔伯シュウに命じて、これを平定させる。
また伯辟父師雍父らに命じて南夷を討伐する。
昭王は、はじめて文武によって周の支配に帰した南方を巡察した。このとき南国フク子が叛乱して深く侵攻した。しかし昭王はこれを撃破し、その都に攻撃を加えた。かくて南国フク子は講和の使者を送り、南夷東夷の26邦も共に周に降伏した。
楚を討って漢水を渡り、大兕に会う。
B.C.985南に巡狩中に江上で崩じる。実際は南の異民族を討伐しようとして敗北したのではないかともいわれる。
昭王(楚)(ショウオウ)【王】
楚王(12(28)代目)。名は熊珍、壬。平王の子。〜B.C.489。
楚平王は太子の妻を奪って珍を生んだ。
B.C.516、9月、楚平王が没したため、太子珍は即位した。
B.C.515呉の公子掩余と公子燭庸が楚平王の喪につけこんで楚に攻め入って潜を包囲させた。 昭王は莠尹然と工尹に軍を率いて潜を救わせ、 左司馬沈尹戌が都城に住む人士と王の馬役の者たちを率いて軍勢を増やし、 呉軍と窮谷で出会った。令尹子常は水軍を率いて沙水の河口まで進んで引き返し、 左尹郤宛と工尹寿が軍を率いて潜に到着した。そのため呉軍は退くことができなくなった。
4月、呉王僚が公子(闔閭)に殺され、公子掩余と公子燭庸は徐と鐘吾に逃亡したため、楚軍は引きあげた。
令尹子常は費無忌の讒言を信じて、左尹郤宛が自分を殺そうとしているとして郤氏を攻めようとしたため、郤宛は自殺した。 子常は郤氏の一族を滅ぼし、陽令終とその弟陽令完と陽令佗、大夫の晋陳とその子や弟を殺した。
9月14日、郤宛を殺したことについて国中のそしりがやまなかった。沈尹戌が子常に費無忌を除くよう進言したため、 子常は費無忌と鄢将師を殺し、その一族を残らず滅ぼして国の人々に申し開きをしたため、衆人は喜んだ。
B.C.512徐と鐘吾に亡命していた呉の公子掩余と公子燭庸が楚に亡命してきた。昭王は彼らに大きな土地を与え、住む場所を決め、 監馬尹楽大心に命じてふたりを迎えさせ、 養に住まわせるとともに、莠尹然と沈尹戌に命じてそこに城壁を築いて城父と元の胡子の田地を取ってふたりに与えてそれによって呉に対抗しようとした。 子西が諫めて「呉光(闔閭)が即位して、民心を収攬しており、これは攻めてくる恐れがあります。しかるに呉に仇する者を強くして呉を怒らせるのはよろしくありません」 と言ったが、昭王は聴き入れなかった。
12月、呉は徐を討った。沈尹戌が軍を率いて徐を救おうとしたが間に合わなかった。徐君章禹が楚に亡命してきたため、 早速、夷に城壁を築いて章禹をそこに住まわせた。
B.C.511秋、呉が楚に攻め入り、夷を討ち、潜と六とを侵略した。昭王は沈尹戌に潜を救わせたため呉軍は引きあげて帰った。楚軍は潜を南岡に移して帰ると、 呉軍は弦を攻め囲んだ。沈尹戌と右司馬が軍を率いて弦を救い、予章まで進んだため呉軍は引きあげた。
B.C.510子常に命じて呉を討たせたが、予章で大いに破られる。
B.C.509蔡昭侯が参朝したとき、昭公は子常の讒言を信じて、蔡昭侯を3年間抑留した。
B.C.508桐が楚に背いた。
秋、子常が呉に攻め入ろうと豫章に軍を進めた。すると呉は舟軍を豫章に集めて桐を討つふりをして、その一方でこっそりと軍を巣に進めて、楚を討つ準備をさせておいた。
10月、呉軍は楚軍に対して豫章で不意に攻撃をしてこれを破り、勢いに乗じて巣を攻め囲んで勝利し、巣を守っていた楚の公子が討ち取られた。
B.C.506蔡が沈国を滅ぼしたので、昭王は蔡を攻めた。
冬、蔡昭侯・呉王闔閭・唐の君が楚に攻め入り、船を淮水の入り江につなぎ、豫章から攻め入り、楚軍と漢水をはさんで対陣した。 子常は漢水を渡って陣をはり、小別山から大別山にかけて三度戦ったが勝てなかった。
11月19日、楚・呉の両軍は柏挙に陣を構えた。呉の夫概が5,000人の兵を率いて真っ先に子常の軍を攻撃した。 子常の軍が逃げ出したため楚軍は乱れて呉軍に大いに討ち破られた。子常は鄭に出奔し、史皇が代わって子常の軍を率いたが戦死した。
呉軍は楚軍を追撃して清発の川まで来て、ここでも楚軍は討ち破られた。
楚軍は雍澨で敗れて、5度戦って郢に至った。
11月28日、昭王は妹の季羋畀我を連れ出して都を出て、雎水を渡って逃げた。また昭王は尾に火をつけた象を用意させて呉軍のほうに走らせた。
11月29日、呉軍は郢に攻め入り、王宮内に居を定めた。
沈尹戌は息まで行って引き返し、呉軍を雍澨で破ったが負傷した。沈尹戌は呉の捕虜になることを恥と考えて家来に首をはねさせた。
昭王は成旧の渡しを渡ろうとした時、藍尹が妻子を舟に乗せていたので、昭王は「わしを乗せよ」と命令したが、 亹は「君の世になって国を失ったのは、君の罪です」と言い、昭王を乗せずに行ってしまった。
昭王は長江を越えて雲夢の沢中に入った。昭王が眠っていると賊が攻め込んできて戈で撃ちかかって来たが、由于が背で受けとめようとして肩に当たった。 昭王は難を逃れて鄖に逃げた。鐘肩は季羋畀我を背負ってあとに従い、負傷した由于もしばらくして息を吹き返して後を追った。
鄖公闘辛の弟闘懐が昭王を殺そうとしたが、 闘辛はそれを諫めて弟の闘巣とともに昭王を連れて随に逃げた。隋人は昭王を殺そうとしたが、 公子が身代わりになろうとしたので昭王は助かった。
呉はこれを追いかけて随人に向かってなぜ昭王をかくまうのかと責めた。 隋人は呉の申し出をことわって「楚はしかとわが国を守ってくれます。難儀のときにこれを顧みないというのでは、どうして呉の君にも仕えることができましょう」 と回答したため、呉人は引き下がった。
昭王は郢を脱出するとき、大夫申包胥に命じ秦に救援を請わせていた。秦が兵車500乗を出して楚を助けたため、昭王は残兵を収拾して呉を討った。
B.C.505春、呉に攻められて楚は混乱し、これに乗じた周の臣は子朝を殺した。
申包胥が秦の援軍を率いて楚に帰って来た。そして呉の夫概の軍を沂で大いに破った。呉軍がエン射を柏挙で捕らえたが、子西が呉軍を軍祥で討ち破った。
7月、と秦の子蒲は呉に従って唐を滅ぼした。
9月、夫概は呉に帰って自立して王となった。闔閭はこれと戦って破り、夫概は楚に逃げて堂谿氏となった。楚軍は雍澨で呉軍に破られたが、 秦軍が呉軍を破って、呉軍は麇に退いて陣を敷いた。楚軍は麇と公壻の谿で戦って大勝し、闔閭は国に帰った。そこで昭王は郢に帰った。
昭王は帰国すると藍尹亹が謁見を求めたので、昭王はこれを捕らえようとした。子西が「彼の言い訳を聞きましょう。きっと訳がありましょう」と言ったので、昭王はなぜ来たのかを尋ねた。亹は「成旧の渡しで君を避けたのは、君を戒めたのです。今謁見しようとするのは、君が以前の悪を反省されるのを見るためです。もし君が反省されていないなら、国を愛されていないのです。臣は何で死を惜しみましょうや」と言った。子西は「彼を位に復職させて、以前の失敗を忘れないようにされよ」と言ったので、昭王は「よろしい。以前の職に戻してやりなさい。わたしはこれを負け戦の反省としよう」と言った。 かくして昭王は闘辛、王孫由于、王孫圉、鐘建、闘巣、申包胥、王孫賈、 宋木、闘懐の功臣に賞を与えた。子西が「一人(闘辛)は賞すべきで、一人(闘懐)は処刑すべきなのに、 君は同じにされました。郡臣は恐懼しております」と言うと、昭王は「あの子旗の二子のことか。一人は君に礼があり、 一人は父に礼があるので賞を同じにしてもいいではないか。大きな恩恵があれば、その人の小さな恨みを消して忘れるのが正しい道理だ」と言って聴き入れなかった。
B.C.504、4月16日、呉の太子終纍が楚の水軍を破って、その将潘子臣と小惟子と大夫7人を捕虜にしたため、楚人は大いに恐れた。 公子結が陸軍を率いて攻めたが繁揚で敗れた。令尹子西は都の郢を鄀に移して、今までの政治を改め正して楚を安定させた。
B.C.503令尹が人民のため泣いて蔡の討伐をはかる。
B.C.496頓国を滅ぼし、また胡国を滅ぼす。
B.C.493蔡を討つが、呉の援軍に阻まれる。
B.C.489呉が陳を討つ。昭王は救援のため、城父に陣を布く。
10月、軍中で病む。そのとき空に赤い雲があり、鳥のように太陽をはさんで飛んだ。昭王が周の太史に問うと「これは王に禍をなします。しかしその禍を将軍・宰相に移すことができます」と言った。昭王は「将相はわしの股肱じゃ。禍を移して、どうしてわが身(股肱)を棄てられようか」と言って聴かなかった。
王の病を占うと、黄河のたたりということであった。しかし昭王は「わが先王が封を受けて以来、楚は江・漢にすぎない。黄河のたたりをうけるはずがない」と言い、黄河に祈ることを許さなかった。
孔子は陳でこのことを聞いて「楚の昭王は大道に通じた人だ。国を失わないのも、もっともなことである」と評した。
孔子が陳で窮していると聞くと、兵を興して孔子を迎えた。孔子を封じようとしたが、令尹子西の諫言でとりやめた。
昭王は病が篤くなると公子、大夫たちを招き「わしは不才で、楚の軍を二度も辱めたのに、いま天寿を全うできたのは、わしの幸いとするところである」と言って、弟の申に位を譲ろうとした。申も、その次子結も、その次子閭も承諾しなかった。しかし閭は五度辞退した上でようやく承諾した。
まさに戦おうとしたとき、庚寅の日、陣中で没す。
昭王(燕)(ショウオウ)【王】
燕王(3代目)。名は平。燕王の子。〜B.C.279。
B.C.314宰相の子之が国権を握り政治を乱していたので、将軍市被と謀り、子之を攻める。市被が返したためこれを討ち、国内を示威巡行して罪を見せしめとした。子之と争っている最中に、斉軍が介入したため燕は大混乱におちいる。
B.C.312国人に擁立される。先王の時に斉に領土を削られたため、失地回復を目指して人材を求める。
昭王は身をひくくし幣物を厚くし賢者を招き、郭隗に「先王の恥を雪ぐため、賢能の士を迎えたい。そのような人物を厚遇しようと思う」郭隗は「まず隗(わたし)より始めよ」と答えた。そこで昭王は郭隗の待遇を最高のものとした。
すると各国から郭隗以上の待遇を得られると思った人材が燕に集まった。魏の楽毅、斉の騶衍、趙の劇辛など有能な臣を重用した。昭王は箒を取って騶衍の先導をし、弟子となって教えを受けたいと請うた。そして碣石宮を築き、みずから出向いて騶衍を師と仰ぐほどであった。
また昭王は楽毅を賓客として待遇したが、楽毅は辞退して礼物を差し出して改めて燕の臣となった。昭王は彼を亜卿(上卿に次ぐ大臣)とした。
昭王は死者を弔問し孤児を慰問し、人民と甘苦を同じくした。そのため燕は富み栄え、士卒は楽しみ安んじて、勇戦をいとわなくなった。
B.C.284蘇代が燕昭王に書信を置くって「王はなぜ遊説の士に、秦王を説得させ、秦を味方にして斉を討たないのですか。秦を引き入れるのは厚い交わりであり、斉を討つのは正しい利得でありますし、これは聖王の事業です」と言った。
昭王は「燕として斉に復讐しようとするなら、蘇氏以外に適任者はいない」と言って蘇代を召し寄せ、ふたたび燕で厚遇した。
昭王は斉の討伐について楽毅に問うと、楽毅は「斉は強大であり、単独で攻めるのは容易ではありません。王がどうしても斉を討とうとされるのなら、趙・楚・魏と連合されるのがよいでしょう」と言った。そこで楽毅に命じて、趙恵文王を説き、楚・魏と連合し、また趙を使って秦を誘い込み、みなを合従させた。
そして昭和は全兵力をくり出し、楽毅を上将軍とした。楽毅は五国趙・楚・韓・魏・燕の連合軍を統率して斉を討ち、済西で斉軍を破った。
楽毅は退く斉軍を追撃して臨淄に迫った。斉湣王は逃げ出して莒にこもった。楽毅はひとり留まって臨淄に攻め入り、斉の財宝・祭祀をことごとく奪って燕に送った。昭王は大いに喜んで、自ら済水のほとりまで出かけ、功をねぎらい、楽毅を昌国に封じて昌国君と号した。
昭王はまた楽毅に命じて降服しない斉の城邑を討つように命じた。
楽毅は駐屯して斉を討伐すること5年、斉の70余城を下して燕に帰属させた。そして莒と即墨を残すところまで斉を追い詰めた。
昭王(魏)(ショウオウ)【王】
魏王(3(5)代目)。襄王の子。〜B.C.278。
B.C.295楽毅が趙を去って魏に来た。このとき燕昭王が見を屈して国土を重んじ、賢者を招こうとしているのを聞き、楽毅は魏昭王に、自ら願い出て魏の使いとして燕に赴き、燕の将軍となった。
B.C.294秦に攻められ、襄城を失う。
B.C.293秦に攻められ、伊闕で破られる。
昭王は孟卯を使者として周に温の囿を贈呈し、さらに周へ守備兵を派遣した。
B.C.290秦に河東の地、方四百里を与えた。
魏将芒卯が詐術をもって魏に重んぜられた。
B.C.289秦に攻められ、魏は城邑大小61を失った。
B.C.287秦に攻められ、新垣・曲陽を失う。
B.C.284斉が宋を滅ぼし、宋王は魏の温で没す。
秦・趙・韓・燕とともに斉を討ち、これを済西で破る。
昭襄王と西周で会同した。
B.C.283秦に攻められ、安城を失う。秦兵が大梁まで来て去った。
商鞅(ショウオウ)【宰相】
秦の宰相。御庶子。姓は公孫、名は鞅。衛鞅ともいう。〜B.C.338。
商鞅は衛王の妾腹の公子のひとりで、その祖先はもと姫姓であった。
商鞅は若いころ、刑名の学を好み、魏の宰相公叔座に仕えてその中庶子(御庶子)となった。
公叔座は病気になり、恵王の見舞いを受けた。
恵王「きみにもしものことがあったら、後事を誰に託したらよかろう」
公叔座「わたくしの中庶子公孫鞅は、年少ながら奇才のある人物です。王は国政を挙げて彼にお聴きなさいませ。もし鞅を用いなければ、彼を殺して国外に出してはなりませぬ」
恵王が帰ると公孫鞅は公叔座に呼ばれて一切を聞かされた。
公孫鞅は「王がわが君のことばを入れないなら、どうしてわたくしを殺せという君のことばを容れましょう」と言って、逃げなかった。
公叔座の没後、秦孝公が賢者を求めているのを聞き、秦に入国して孝公の寵臣景監の手引きによって、公に謁見を求めた。
B.C.359公孫鞅は孝公に謁見し、まず帝道を説いたが、孝公はこれを容れなかった。次に王道を説いたが、これも聴き入れられなかった。そこで三度目に覇道を説くと、孝公は大いに喜び、公孫鞅を登用した。
景監は不思議がってその理由を問うと「わたくしは帝道、王道を説いたが、公は『それは遠い未来の夢だ。わしはそれを待っておれない』と言われた。だから覇道を説いたところ、公は大いに喜ばれたのです。しかしながら、王者としての徳にいたっては、殷・周の聖王の足元にも及びません」と言った。
公孫鞅は法律を変え、刑罰を整え、内は人民に耕作を務めさせ、外は戦士の賞罰を明らかにすることを勧めた。孝公はこの意見をいれたが、甘竜杜摯らが反対し、たがいに論争した。
結局、孝公は公孫鞅を左庶長とし、ついに変法の令を定めた。
五家十家ごとの隣組制(什伍の法)をつくり、連座制を布き、違法を申告しない者には腰斬の刑、申告した者には敵の首を取ったときと同じ賞を与え、隠蔽する者は敵に降伏した罪と同じとした。
また男子が二人以上あって分家しない場合は賦税を倍にし、軍功あった者には爵を与え、私闘する者は軽重に応じて処罰された。
耕織を本業とし、粟や帛を多く納める者には夫役を免除し、末利(商業)に従う者や怠けて貧しい者は、奴役に当てた。
さらに宗室の一族でも軍功がなければ、調べて公族の籍を除き、尊卑俸禄の等級を明らかにして差をつけた。そして一家が占有する田宅の広さや、臣妾奴婢の数、衣服の制も家の爵秩の等級によって差別させた。
よって功労あるものは栄華な生活をし、功労のないものは、富裕でも華美な生活が許されなかった。
しかし新法令はできたが、人民が信じないのを恐れて、孝公はまだ公布しなかった。
そこで都の市場の南門に木を立て「この木を北門に移す者には50金を与える」と書いた。はじめは皆これを怪しんだが、ある者がこれを移したので、ほんとうに50金を与えた。かくて、民を欺かないことを明らかにしたうえでついに法令を発布した。
太子(恵文君)が法を犯した。公孫鞅は「法が行われないのは、上の者が法を犯すためである」と言って処罰しようとしたが、太子であったため、傅育長の公子を処刑し、師の公孫賈をいれずみの刑に処した。これより、秦人はみな法に従った。
人民は法に苦しんだが、三年経つと人民もこれを便利とし、十年で路上の遺失物を拾うものがいなくなり、山中にも盗賊がおらず、家々は満たされ、人々は満ち足り、民は戦に勇敢で、郷邑は大いに治まった。
法令の便利を言いに来たものがあったが、公孫鞅は「かれらはみな善導感化を乱す民である」と言って、ことごとく辺境の城に移した。この後、あえて法令を批評する者はいなくなった。
商鞅は魏の李克の「法経」6編の法(○○法と編集されていた)を「律」に改めた。
B.C.354大良造(第16爵)に任じられ、魏の都安邑を囲み、これを降した。
B.C.352秦は咸陽に遷都した。公孫鞅は父子兄弟が世帯を共同することを禁じ、小邑・聚落を集めて県とし、県の官吏として令・丞を置いた。全部で31県であった。
B.C.350県制の実施、度量衡の統一、田地の区画整理、賦役・租税を平均するなど二次改革を行った。
商鞅の改革で秦は空前の法治国家に生まれ変わり、君主独裁化に成功して秦は他の六国を圧倒するようになった。
B.C.349公子虔が再び法令を犯したので、劓の刑に処す。
B.C.340公孫鞅は「いま魏は先年大いに斉に破られ、諸侯もこれに背いています。今こそ好機です。魏が東に移れば、秦は山河自然の要害により東に向かって諸侯を制圧できましょう」と進言して、魏を討った。公孫鞅は魏の公子に書簡を送っていつわって和睦を申し入れた。公子卬はもっともだと思い、会同した。そこで公孫鞅は裏切って伏兵をもって襲い公子卬を虜にした。これに乗じて魏軍を討ち、ことごとく破って帰還した。
魏恵王は大梁に遷都し「わしは今、公叔座の諫言を用いなかったことが悔やまれる」と言って悔しがった。
公孫鞅は久しく魏に奪われていた黄河以西の失地を魏より奪い返した功により商・於の15邑に封じられ、号して商君と言った。そのことで商鞅と呼ばれる。
しかし改革があまりにも強制的であったため反感を買うことにもなっていた。
B.C.338商鞅は趙良に交際を願った。趙良は「わたしは強いて望んでおりません。あなたが今後もなお商・於の富を貪り、秦の変法を栄誉とし、人民の恨みを積もうとされるなら、秦王が崩ぜられたとき、秦があなたを捕らえようとするのはわかりきっています」と諌めた。しかし商鞅は聴き入れなかった。
その後5ヶ月で孝公が没し、太子(恵文君)が立った。すると公子虔の一党が商鞅が叛乱したと讒言した。
商鞅は逃げて関所の付近の宿に泊まろうとしたが、主人に「商君の法によって身分証明書のない者を泊めると同罪になります」と断られてしまう。商鞅は嘆息して「ああ、新法の弊はついに我が身にまで及んだか」と言った。
結局、魏に逃げ込むが、先年公子卬を欺いたため受け入れられず、封地の商で反乱を起こしたが、黽池で殺されて一族は誅殺、その屍は車裂の刑に処せられた。
襄王(周)(ジョウオウ)【皇帝】
周王朝18代王。名は鄭。恵王の子。〜B.C.619。
B.C.655夏、太子鄭は、斉桓公・魯釐公・陳宣公・衛文公・鄭文公・曹昭公・許僖公と衛の首止で会合し、太子鄭の地位を固め、周室の安泰を図る相談をした。
B.C.653、閏12月、恵王が崩御した。襄王は即位したが、弟の叔帯の謀反を気に病んで、自分が天子の位に立てなくなることを心配して、恵王崩御を公表しないで、叔帯の謀反を斉に報告した。
B.C.652春、斉桓公は魯・宋・衛・曹・陳・許・周王の使者と会合し、曹の洮で盟い、周王室の騒ぎを鎮めることを相談した。
襄王は位について王位が安定してから、恵王の崩御を公表した。
B.C.649襄王は召公と内史を使節として、晋恵公に襲封(封建領主の継承を命じる詔勅)の勅命を授けさせた。しかし恵公はこれに対して無礼であった。
叔帯が揚・拒・泉・皐や伊水・雒水の諸戎に手引きをして周都を討ち、王城に攻め入って東門を焼いた。
秦と晋が戎を討った。
秋、晋恵公は戎と襄王を和解させたため、乱は治まった。
B.C.648襄王は叔帯を討った。
秋、叔帯は斉に出奔した。
冬、斉の管仲が斉桓公の命で、周と戎を和解させた。襄王は、その功により管仲を上卿を与えて礼遇しようとしたが、管仲は辞退した。
B.C.647斉の仲孫湫は斉桓公の命で周を聘問し、ついでに叔帯を取り持って周に帰させようとした。しかし仲孫湫は、襄王の怒りが解けていないとして、この話を持ち出さなかった。
B.C.645秦繆公が晋を討ち、晋恵公を捕えて、殺そうとした。襄王は「晋はわが周と同姓(姫姓)である」と言って晋君を殺さないように請うた。結局繆公は恵公を許した。
太宰王子虎と内史叔興父を使節として派遣し、晋文公に襲封の勅命を賜った。文公はすべて礼にかなった対応をしたため、内史叔興父は晋と親しむように進言した。襄王はその言葉に従って晋への使節をたびたび送った。
B.C.644秋、襄王は戎の侵略に悩まされ、救いを斉に求めたので、斉桓公は諸侯の軍を集めて周を守った。
B.C.638富辰が進言して「どうか斉にのがれている大叔(叔帯)を呼び戻されませ。 王のご兄弟の仲もうまくいっておられないのでは、どうして諸侯の仲たがいのことをとやかくいえるでしょうか」と言った。襄王は悦んで叔帯を呼び戻した。
B.C.636秋、鄭が滑を討ったので、襄王は遊孫伯服をやって割譲するよう乞うたが、彼らは捕らえられた。怒った襄王は狄の兵を率いて鄭を討とうとした。富辰は襄王を諌めて言った「いけません。鄭は天子と兄弟も同様です。鄭武公荘公はわが平王桓王にとって偉大な勲功を立てました。周の東遷は晋と鄭の力によるものでしたし、子の乱は、鄭の力によって平定しました。
また兄弟げんかには他人を呼んだりしません。他人を呼べば、その者に利するだけです。王よ、鄭をお棄てになってはいけません」
しかし襄王は聴き入れず、頽叔桃子に命じて狄の軍を出させて鄭を討った。
狄は鄭を攻めて櫟を取った。
襄王は狄の功を徳として、その娘を皇后にしようとした。富辰が諌めて言った。
「いけません。結婚が国内を利するならばこれによって福がやって来ますが、国外を利するならば禍が生じます。今、王は狄に利益を与えようとされていますが、禍の原因になりはしないでしょうか」
襄王「利が内にあるとはどのようなことか、また利が外にあるとはどのようなことか」
富辰「貴人を尊び、賢人を顕彰し、勲功ある人を用い、老人を敬い、親族を愛し、新人を礼遇し、故旧を親しむと、民は王命になつき、官吏は政治の常道を変えません。これが利が内にあるということです。
これら七徳が行われなければ、民は離反し上の求めるものは得られません。これが利が外にあるということです。王が狄女を皇后とされる行為は、七徳を棄てようとするものです。王は鄭を棄てられて、さらに狄をまだ満足させることはできません」
しかし襄王はこれを聴き入れず、叔隗を皇后とした。
叔帯が叔隗と密通したので、襄王は叔隗を廃した。
頽叔と桃子は「われわれが狄を使って戦をさせたのだ。そんなこと(廃皇后)をすれば狄は周を恨むであろう」と言い、頽叔と桃子は叔帯をもりたてて襄王を討った。近臣がこれを討伐しようとすると、襄王は「大叔を殺したら、亡くなったおきさきは何というだろうか」と言って、すぐに都を出て坎欿まで逃げた。
しかし襄王は群臣らに都に連れ戻された。
冬、周は狄に攻められ、周公忌父、原伯、毛伯、富辰が捕えられ、譚伯が殺された。襄王は鄭の氾に出奔した。
襄王は使者を魯に遣わし、左鄢父を秦に、簡師父を晋に遣わして叛乱のことを伝えた。
鄭文公は諸将を連れて氾に赴き、天子の役人の用いる調度品を整えて献上した。
B.C.635、3月20日、晋文公は周の陽樊に軍を留め、右師をもって叔帯を討ち、左師をもって襄王を迎え入れた。
4月4日、襄王は晋の援助により王城に入った。
4月5日、晋文公は叔帯を温で捕えて、隰城でこれを殺した。
晋文公が朝廷に参内すると襄王は領地を与えて文公をねぎらったが、文公は天子の用いる隧(天子の通る道)を用いたいと願った。襄王は「わたしはなお姫姓のまま公侯に列して先王の事業を復旧しようとしているので、天子の礼章であるものは授けられません。叔父よ、まだ周に代わる徳を持った者がないのに、天子の用いる隧を許して、あたかも王が二人いるようになるのは、あなたもいやでしょう」と言って断った。
そこで襄王は文公に陽樊・温・原・欑茅の地を与えた。
B.C.632、5月12日、晋文公が楚の捕虜を周に献上した。
5月14日、襄王は王子虎・内史叔興父に命じて文公をもてなし醴酒を賜わり、辞令を与えて諸侯の長(覇者)に任命した。
冬、文公の言上で河陽で狩猟し、温で諸侯と会盟する。孔子はこれを忌むべきこととした。
B.C.630夏、晋文公は衛成公を捕らえて周に送り、天子の命でこれを殺そうとした。襄王は「いけません。下の者が上の者を訴えるようでは、上下の別はなくなります。今、元咺の訴えは正しいとはいえ、聴いてはなりません。臣下のためにその君を殺すとしたら、誰に対して刑罰を用いるのですか」と言った。文公はこれに従って成公を国に帰した。
冬、周公閲を使者として魯に聘問させた。その返礼として襄仲が来朝した。
B.C.626前年に魯釐公が没したので、襄王は内史叔服を魯に遣わして釐公の葬式に会葬させた。
また襄王は毛伯衛を魯に遣わして、文公に命圭(天子から賜わる爵命を表す圭)を賜わった。
B.C.624秋、楚が江を攻め囲んだ。晋襄公は江の援助のことで周の威力を借りようとして周に願い出た。襄王は王叔桓公を派遣し、晋は陽処父に命じて楚を討たせた。陽処父は楚の方城の門まで攻め込んだが、救援に来た楚の息公の軍に出会い、恐れて戦わずに引き揚げた。
B.C.624繆公が戎を討ち、西戎の覇となった。襄王は繆公に慶賀の意を表わし、に命じて金鼓を贈った。
B.C.622、1月、襄王は栄叔を魯に遣わして含(死者の口に含ませる米貝)と賵(軍馬)を贈り届け、召昭公を魯に遣わして成風の葬式に会葬させた。
B.C.619秋、襄王は崩御した。
B.C.618、2月26日、襄王は葬られた。
襄王(田斉)(ジョウオウ)【王】
田斉王(4(6)代目)。名は法章。湣王の子。〜B.C.265。
B.C.284湣王が楚将淖歯に殺されると、法章は姓名を変えて、莒の太史の傭人となった。
淖歯が莒を去ってから、莒中の人や斉の亡臣が相集まって、湣王の子を捜し求めると、法章を出して立てた。
襄王は莒城を保有し、斉の国じゅうに「王はすでに立って莒にいる」と布告した。
B.C.279田単が即墨を根城として燕軍を攻め破り、襄王は莒から迎えられる。
襄王は臨淄に入り、斉の故地はことごとく斉に属した。そこで田単を封じて、安平君とした。
あるとき、田単は淄水のほとりを通りかかった時、老人が凍えているのも見た。田単は衣服を与えてやろうと思ったが、衣類が手元になかったため、自分の着ていた皮の着物を脱いで与えてやった。
襄王はこのことを聞いて、田単が徳を施して国を奪おうとしていると恐れた。しかしある者が田単の功や徳をほめて、そのおこないを襄王自身のものとすることを説いたので、襄王は田単を許した。
B.C.274秦は魏を破り、趙とともに斉を討つけはいがあった。襄王はこれをおそれ、蘇代に命じて魏冄を説得させ、計画をやめさせた。
B.C.271秦に攻められ、剛・寿を破られる。
B.C.269秦が魏の懐を攻めて去ろうとしたとき、襄王は鮑佞に命じて楚・趙とともにこれを追撃した。
襄王(魏)(ジョウオウ)【王】
魏王(2(4)代目)。名は赫。恵王の子。〜B.C.295。
B.C.318韓・趙・燕・楚とともに連合して秦を攻めたが、勝たないで去った。
B.C.317斉に攻められ、観津で破られる。
B.C.314秦の樗里疾に攻められ、曲沃を失い、犀首は岸門へ走った。
B.C.313秦恵文王と臨晋で会同する。
B.C.312斉を討つ。また秦とともに燕を討つ。
B.C.311衛を討つが大夫如耳の進言で戦をやめた。
B.C.310秦武王と臨晋で会同する。
張儀魏章が魏に入る。
蘇代の進言で太子を宰相とする。
B.C.308秦武王と応で会同する。
B.C.307太子を秦に参朝させる。また秦に攻められる。
B.C.305秦武王の后が魏に帰ってきた。
B.C.303秦に攻められ、蒲阪・晋陽・封陵を失った。
B.C.302秦昭襄王と臨晋で会同した。秦は魏に蒲阪を還した。
B.C.299秦とともに楚を討つ。
B.C.296斉・韓とともに秦をうち、函谷関の近くでこれを破る。
B.C.295秦は魏に河外(黄河以南の地)と封陵の地を与えて和睦する。
この年、襄王は没した。その墓の中から、魏の歴史書である竹書紀年が出土した。
襄王(韓)(ジョウオウ)【王】
韓王(2(8)代目)。名は蒼。宣恵王の子。〜B.C.294。
B.C.314韓は秦に攻められ岸門で大敗し、太子であった蒼を秦に人質として出して和睦した。
B.C.312宣恵王が没し、代わって立つ。
B.C.311張儀は襄王に説いて「王の地は小さく秦に攻められるとひとたまりもありません。合従を解き、秦と結ぶべきです」と言った。襄王は張儀に従った。
B.C.308秦武王と臨晋で会同する。
秋、秦の甘茂に攻められ、宜陽で戦う。
B.C.307秦に宜陽を抜かれ、7万の兵を失う。
楚に攻められ雍氏を包囲された。襄王は公仲を遣わして甘茂に取り入って秦の援助を求めた。甘茂は韓のため、昭襄王に「もし韓は秦が味方しないと知れば、国を挙げて楚と同盟しましょう。こうなれば魏も順応しないわけにはいきますまい。秦として坐して三国に討たれることを待つよりは、進んで人を討ったほうが有利です」と言った。
昭襄王は「なるほど」と言い、殽の塞から兵を出して韓を救った。
B.C.306秦が武遂を返還する。
B.C.303秦に攻められ、武遂を失う。
B.C.302太子嬰を秦に参朝させる。
B.C.299秦に攻められ、穣を失う。
秦と共に楚を討ち、楚将唐眜を破る。
B.C.298太子が没す。公子咎と公子蟣蝨が、太子の位を争った。
楚に攻められ、雍氏が包囲される。公仲が秦の公孫昧の進言により、韓は楚と結び、楚は包囲を解いて帰った。
そこで公子咎を立てて太子とする。
B.C.297魏襄王と斉王が韓に来る。
B.C.296斉・魏とともに秦を討ち、函谷関に追って布陣する。
B.C.294秦が韓に武遂を与える。
常娥(ジョウガ)【女官】
羿の妻。恆娥とも言う。
羿が西王母からもらった不老不死の薬を盗み、月に逃亡する。しかしその罪によりひき蛙に姿を変えられたという。現在中国で月にはひき蛙がいると言われるのは(日本ではウサギ)この伝説によるものです。
召獲(ショウカク)【武官】
衛の臣。
B.C.479蒯聵が孔悝の邸で乱を起こしたとき、欒甯の命で乗車の用意をして、出公と欒甯の亡命を助けた。
少官(ショウカン)【公子】
秦の公子。
B.C.344秦孝公の命で軍を率い、諸侯と逢決で会合して、周顕王に参朝した。
邵桓公(ショウカンコウ)【文官】
周王朝の卿士。
B.C.575晋の郤至が鄢陵の戦勝の報告をするため周に入った。郤至は周簡王に報告する前に邵桓公に会って自分の功を自慢した。これを聞いた単襄公は郤至は君子ではないと評した。
鐘儀(ショウギ)【武官】
楚の臣。楽人。
B.C.584秋、楚は鄭を討って氾で戦った。
鐘儀は鄖公とともに戦ったが、鄭の共仲侯羽に敗れて捕えられた。鐘儀は晋に連れ去られて、武器庫に幽閉された。
B.C.582晋景公が武器庫を見回ったとき、鐘儀を見て楚の囚人であるとわかると、縄を解かせて鐘儀を召し寄せていたわった。晋景公は鐘儀との話の内容を士燮に話すと、士燮は「立派な人物です。わが君はどうして彼を楚に返して和睦を行わせるようになさらないのですか」と進言した。景公は喜んで鐘儀を厚く礼遇して楚に返して和睦をはかった。
向宜(ショウギ)【文官】
宋の臣。向戌の子。子禄ともいう。
B.C.522夏、華氏・向氏の騒動が起き、元公の一味である向宜・楽舎公孫忌・公子司馬彊向鄭・楚の太子・小邾の公子は鄭に出奔した。
B.C.521、11月7日、晋・曹・斉・衛の連合軍は宋軍とともに宋の赭丘で華氏と戦い、向宜は公子の御者となった。
商丘子胥(ショウキュウシショ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
商邑の人。300余年も生き、その要領を聞くと「ただ朮(やまあざみ)と菖蒲の根とを食し、水を飲んでさえおれば、飢えもせず年もとらない」と答えた。
将渠(ショウキョ)【文官】
燕の大夫。
B.C.252燕王が趙を討とうとしたので「趙とは親交を約し、500金をもって国王に飲ませながら、使者が帰って復命すると反対に攻めるというのは不吉です。成功いたしません」と諌めた。王は聴き入れなかったので「わが君みずから出陣なさらぬように」と引きとめた。王に聞き入れられず、足蹴にされる。将渠は泣いて「わたくしは自分のためにこうするのではありません。わが君のためなのです」と言った。
燕は趙に大敗し、逆に国都薊を包囲される。趙は和睦の使者として将渠を指名する。燕は将渠を宰相に任じ、趙と和睦する。
昭魚(ショウギョ)【宰相】
楚の宰相。
B.C.310魏の宰相田需が死ぬと、楚は張儀犀首田文らが宰相になることを恐れた。
昭魚は蘇代を使って魏襄王に説き、太子を宰相にさせる。
少姜(ショウキョウ)【女官】
平公の夫人。斉の公女。〜B.C.540。
B.C.540、4月、少姜は斉から晋に嫁いだ。少姜は晋平公の寵愛を受けて少斉という特別な称号を与えられた。
秋、少姜は没した。
向姜(ショウキョウ)【女官】
向の公女。莒の君の夫人。
B.C.721、5月、向姜は莒に嫁いだが、莒が嫌になって向に帰国した。そこで莒は向に攻め入って、向姜をつれて帰った。
少妃姚子(ショウキヨウシ)【女官】
繆公の夫人。
夏姫を生む。
商均(ショウキン)【神】
の子。
不肖であったため舜の後継者になれなかった。
商均は商に封じられた。
尚靳(ショウキン)【文官】
韓の臣。
B.C.307楚が韓を討ち雍氏を包囲して5ヶ月になった。韓は秦に救援を求めたが、秦は殽山から降りて救援に向かわなかった。尚靳は秦に使者として赴き「韓は秦に対する関係は、平時には敵に対する覆いとなり、非常時には先鋒となっています。私は『唇がそりかえれば、歯は寒いものだ』と聞いています。どうか大王には、このことをよくお考え下さい」と言った。
宣太后はもっともだと思い、尚靳を召し入れた。
向禽将(ショウキンショウ)【武官】
衛の臣。
B.C.589春、斉が魯を討ったので、向禽将は衛穆公の命で孫良夫石稷甯相と共に斉を攻めた。衛軍は途中で引き揚げている斉軍と出くわした。
夏、衛軍は斉軍と新築で戦ったが衛軍は大敗した。
商瞿(ショウク)【在野】
孔子の弟子。字は子木。魯の人。B.C.522〜。
孔子から易を伝授され、これを楚人カン臂子弓に伝授する。
湘君(ショウクン)【神】
湘水の神。
のちに湘夫人との男女二神に分離したとされる。
湘夫人との恋愛説話は『楚辞』「九歌」に見える。
商君(ショウクン)
商鞅
匠慶(ショウケイ)【文官】
魯の大匠。
B.C.571、5月19日、定姒が没した。以前、穆姜が自分のために作っていた棺と頌琴があったが、季孫行父は穆姜に恨みを懐いていたので、これを横取りして定姒の葬儀に用い、廟で殯礼を行わず、虞の礼も行わなかった。匠慶は諌めて「あなたは正卿でありながら、夫人の喪礼を行わないというのは、君に仕える道を果たさないということです。わが君が成長されたら、誰が咎めを受けるでしょう(あなたですよ)」と言い、季孫行父が植えていた檟の木を勝手に使って棺を作った。
鐘肩(ショウケン)【武官】
楚の臣。鐘建とも書く。楽尹。
B.C.506冬、楚は呉軍に大敗して郢が陥落した。楚昭王は長江を越えて雲夢の沢中に入ったが賊に襲われたため、 楚昭王は難を逃れて鄖に逃げた。鐘肩は楚昭王の妹季羋畀我を背負ってあとに従った。
B.C.505呉軍が撤退し、楚昭王は郢に帰還して鐘肩、王孫圉闘辛王孫由于鐘建闘巣申包胥王孫賈宋木闘懐の功臣に賞を与えた。
楚昭王は季羋畀我をある人に嫁がせようとすると、季羋畀我はことわって「女というものは男に遠ざかっておくべきです。 ところが鐘肩はわたしを背負ったことがあります」と言ったため、鐘肩に嫁いだ。そこで鐘肩は楽尹となった。
少康(ショウコウ)【皇帝】
夏王朝7代王。の子。
夏王朝中興の王。
少康が幼年の時に寒浞の迫害を避けて有仍国から有虞に移り、ここで有虞氏の二人の娘を娶った。
後に少康は寒澆女岐と一緒に泊まっている所を夜襲したが、少康は間違って女岐の首を打ち落としたため、寒澆は助かった。しかし少康は寒浞と寒澆とを殺して、政権を取り戻した。
(『春秋左氏伝』の伝承では、有窮のが寒浞らを滅ぼして少康を擁立したとしている)
小甲(ショウコウ)【皇帝】
商王朝6代王。太庚の子。
昭公(魯)(ショウコウ)【王】
魯公(23代目)。名は稠。襄公の子。母は斉帰。B.C.561〜B.C.510。
B.C.542魯襄公が没して子野が立ったが、すぐに没した。そこで敬帰の妹で、魯襄公のそばめとなっていた斉帰の子であった公子稠が擁立された。昭公は魯襄公の葬儀までに三度も喪服を取替え、喪服を着ながら遊びまわっていたため、叔孫豹は不満に思い「そばめの子を是非に立てる必要はあるまい。それにこの人は父君の喪中にあって悲しむこともなく、立派な身なりをしている。礼法に従わない人で禍を起こさない人は滅多にいない」と言った。昭公は19歳にもなっていたが童心をもっており、このことから君子はこの君が最期を立派にできないことを予測した。
10月、滕成公が魯に来て葬儀に参加した。
10月23日、昭公は魯襄公を葬った。
B.C.541春、叔孫豹が虢の会盟に出席し趙武、公子向戌国弱斉悪公孫帰生、公子子皮、許の人、曹の人と会同した。
秋、叔弓が軍を率いて莒の鄆の田地の境界を正した。
B.C.540春、晋の韓宣子が来聘し、即位を祝う挨拶をした。
夏、昭公は叔弓を晋に遣わして韓宣子の来聘に対する返礼をした。
冬、昭公は晋平公の夫人が亡くなったため晋を弔問しようとして黄河まで行ったが、晋平公は士文伯を遣わして遠慮して帰らせた。
B.C.539、5月、叔弓は滕に出かけて滕成公の葬儀に参列した。
秋、小邾穆公が来朝した。
8月、大雩(雨乞い)の大祭を行った。
冬、雹がたくさん降った。
B.C.538、1月、雹が降った。
夏、諸侯は楚霊王の招集に応じて楚に出かけたが、昭公は夏の祭があるといって断った。
(他の史書では、昭公は病気と称して行かなかったとする)
9月、鄫が莒に背いて魯になついた。
12月29日、叔孫豹が没した。昭公は杜洩に命じて叔孫豹を葬らせた。
B.C.537、1月、季武子は中軍を廃止して魯の公室の勢いを弱めた。
春、昭公は晋に出かけて、作法に背くことがなかった。しかし晋の女叔斉は「こせこせとして小さな礼儀作法に努めて、公室が弱体化していることなど少しも考えておりません」と言った。
夏、莒の牟夷が牟婁・防・玆の3邑をもって魯に逃げ込んできた。莒が晋に魯が牟夷を受け入れたことを訴えたため、晋平公は昭公を捕らえようとした。范鞅が「来朝した者を捕らえることは人をだまして捕らえるようなものです。魯君を帰して時が経ってから軍を率いて討つことにしましょう」と進言したため、昭公は帰国することができた。
7月、昭公は魯に帰国した。
莒が魯に攻め込んできた。
7月15日、叔弓が莒軍を蚡泉で討ち破った。
B.C.536、1月、杞文公が没した。魯は同盟国に対するのと同じように手厚い弔問をした。
魯の大夫が秦に出かけて秦景公の葬礼に参加した。
夏、季武子が晋に出かけた。
9月、雨乞いの大祭を行う。
冬、叔弓が楚に出かけた。
B.C.535、1月、斉が求めたため魯は斉と和睦した。
3月、楚霊王が章華台を落成させて諸侯と一緒に落城式を挙げようとしたため昭公は楚に赴いた。途中、鄭に立ち寄ったが、昭公は出迎えを受ける作法ができなかった。また楚に着いても、昭公は楚の出迎えに対してもうまく挨拶することができなかった。
(他の史書では、昭公は落成祝いに行かなかったため楚霊王は蔿啓彊を魯に遣わして、昭公を脅迫して招待し、公子を人質として取った。しかし途中で公子が逃げ帰ったため、楚の恨みを買うことになったという)
晋人は昭公が楚に出かけたことを恨みに思い、魯にやってきて杞に帰さなかった土地を調査し、杞のために成を取り上げた。
4月、日食があった。
9月、昭公は帰国した。
11月14日、季武子が没した。
B.C.534夏、叔弓が虒キの宮殿落成を祝うため、晋に出かけた。
秋、魯では紅で蒐した。それは根牟から宋・衛の国境に及び、兵車は1000乗も出動するほどであった。
B.C.533、1月、叔弓が楚霊王、宋の華亥、鄭の子大叔、衛の趙黶と陳で会合した。
秋、孟釐子が斉に出かけて進物を厚くした。
冬、昭公は郎に苑囿を築いた。
B.C.532欒子旗高子彊が斉から亡命してきた。
7月、季平子が莒を討って郠取った。
9月、叔孫婼が晋に赴いて晋平公の弔問に出かけた。
B.C.531、2月、叔弓は宋に出かけて宋平公の葬儀に参加した。
5月、斉帰が没した。
昭公は比蒲で大蒐をしたが、礼にそむいたことである。
孟釐子が邾荘公と会合して祲祥で同盟を結んで友好関係を修めた。
9月、昭公は斉帰を葬ったが、昭公には悲しむ様子がなかった。
B.C.530夏、宋の華定が来聘し、宋元公が後を継いで即位したことを告げた。
昭公は晋に出かけて新しく即位した晋昭公に挨拶をしようとした。しかし魯が莒を討った裁きを受けていなかったため朝見を断られ、昭公は黄河まで行って引き返し、公子ギンがそのまま晋に出かけた。
南蒯が費で季氏に背き、斉へ出かけて斉の援助を求めた。
9月、公子憗が斉へ亡命した。
晋に参朝しようとして黄河まで行く。
B.C.529春、叔弓が南蒯が背いている費を攻め囲んだが、勝つことができなかった。
秋、晋が斉・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾と平丘で会盟をした。邾と莒が晋に魯を訴えたため、晋昭公は昭公に会おうとしなかった。魯人は恐れて晋の命令に従って盟いに参加しなかった。
晋人は季平子を捕らえて国に連れて帰り、子服椒がついて行った。
昭公は季平子をもらい受けるために晋に出かけたが、晋の士景伯が黄河のほとりで昭公に会って辞退させた。
冬、子服椒が中行呉に私的に会って季平子を魯に帰すことに成功した。
B.C.528、1月、季平子が晋から帰国した。
南蒯が斉に出奔し、費は魯に返った。
B.C.527、2月16日、禘祭のとき叔弓が没した。
6月1日、日食があった。
冬、昭公は平丘の会のため晋に出かけた。
B.C.526、1月、昭公は晋人に引き留められて晋に居た。
夏、昭公は晋から帰国した。
9月、日照りのため大祭を行った。
10月、季平子が晋に出かけて晋昭公を葬った。晋は昭公を引きとめ、晋昭公の葬儀に参列させた。魯はこのことを恥とした。
B.C.525春、小邾穆公が来朝した。
6月1日、日食があった。
7月、郯の君が来朝した。
冬、彗星が大辰の西に現れた。
B.C.522斉景公晏嬰が国境近くで狩猟し、魯に入り礼制を問うた。
B.C.521夏、晋の范鞅が来聘した。
7月1日、日食があった。昭公は梓慎に「どういう兆しであるか」と問うた。梓慎は「夏至冬至と春分・秋分に日食があっても災いはおこりません。その他の月に日食があれば災いをおこします。それは陽気が陰気に勝てないからで、いつも水害が起こります」と答えた。
8月、叔輙が没した。
冬、昭公は晋に参朝しようとして黄河まで行ったが、晋は詫びて帰らせた。
B.C.520、12月、日食があった。
B.C.519邾が翼に城壁を築いたが、魯は徐鉏丘弱茅地を捕らえた。邾がこれを晋に訴えたため晋人は魯に赴いて罪を責め正した。そこで叔孫婼が晋に出かけたところ、晋人はこれを捕らえた。晋人は叔孫婼を邾人に渡そうとしたが、士弥牟が諌めたため、とりやめた。
7月、莒公庚輿が魯に亡命してきた。
冬、昭公は叔孫婼のために晋にでかけたが、黄河まで行くと病気になったため引き返した。
B.C.518、2月21日、仲孫貜が没した。
春、叔孫婼が帰国した。
5月1日、日食があった。
8月、ひでりのため雨乞いの大祭を行う。
B.C.517春、叔孫婼が宋を聘問した。
夏、昭公は叔詣を遣わして晋・宋・鄭・曹・衛・邾・滕・薛・小邾と黄父で会合し、王室の乱について相談した。
7月3日、ひでりがひどかったため雨乞いをした。
7月23日、ひでりがひどかったため、再び雨乞いをした。
昭公の子の公子と公子は、 昭公の側役の僚柤に命じて季氏を追い出すように告げさせた。昭公は寝ていたが、戈を手に取って僚柤を討とうとしたため僚柤は逃げた。 それから僚柤は恐れて数か月もまみえなかったが、昭公は腹も立てなかった。そこで公子果は僚柤に再び言わせると、昭公はまたも戈を手に取っておどし、 また僚柤が言うと、昭公は「お前たちが口にするべきことではない」と言ったため、公子果が自分から話にきた。 昭公はこのことを臧昭伯に話すと、 臧昭伯はむずかしいことだと言った。郈昭伯に話すと、郈昭伯はよろしいと言って実行を勧めた。 さらに子家懿伯に話すと、子家懿伯は 「もし成功しなければ、君自身が悪名を受けるであろう。やってはいけません。政権は季氏にあります。容易に倒すことはできません」と答えた。
9月11日、昭公は長府に移って季氏を攻めて季公之を季氏の門で殺し、勢いに乗じて中に攻め入った。 季平子はたかどのに登って許しを請うたが昭公は許さなかった。 子家懿伯が「お許し下さい。季氏は政治を執って久しく、民の多くは季氏から施しを得ており、季氏の徒党となっている者が多くいます。 日が沈んでそのような者たちが季氏を助けると、きっと君には後悔なさるでしょう」と諌めたが昭公は聴き入れなかった。郈昭伯が「必ず季氏を殺しなさい」 と言ったため、昭公は郈昭伯に孟懃子を味方に迎えるよう命じた。
叔孫氏のが家来を率いて季氏の邸を囲んでいた西北の一角を破って邸内に入った。昭公の兵卒はよろいを脱いで酒を飲みながらしゃがんでいたため、 すぐに追い払われた。これを聞いた孟懃子は郈昭伯を捕らえて都の南門の西で殺し、続いて昭公の兵を討った。 子家懿伯が「家来たちにおどされて季氏を討ったといつわって、家来を国外へ出して、君はお止まりください。そうすれば意如(季平子)でもわが君にお仕えする態度を改めるでしょう」 と進言したが、昭公は「家来たちにそんなことをさせるには忍びない」と言って、臧昭伯と一緒に墓場へ出かけて相談して、それからすぐに都へ出た。
9月12日、昭公は斉へ亡命し、陽州に留まった。
斉景公は昭公を平陰でお見舞いしようとしたところ、昭公は先に野井に行って斉景公を迎えた。斉景公は「莒の国境から西の千社の地をさしあげます。 わたしは軍を率いてあなたのご命令に従います」と言ったため、昭公は喜んだ。子家懿伯が「斉から土地を与えられて斉の臣となるようでは、 だれがわが君と一緒に朝廷に立つ者がありましょうか。それに斉の君は誠実ではない方です。早く晋に行かれるべきです」と進言したが、昭公は聴き入れなかった。
叔孫婼が闞から都に帰って季平子に会った。季平子は昭公にまた仕えたいと言ったため、叔孫婼は昭公のところに来て季平子が後悔していることを話した。 しかし昭公の供の者が叔孫婼を殺そうとして兵を道に伏せた。大夫の左師展がこれを昭公に報告したため、 昭公は叔孫婼を伏兵を避けて鋳から帰らせた。ところが季平子は心変わりをして昭公を魯に入れようとしなかった。左師展が昭公を連れて馬に乗って急いで帰ろうとしたが、 昭公の供の者が左師展を捕らえて返さなかった。
11月12日、叔孫婼が没した。
B.C.516、3月、斉が魯を討って鄆を取り、昭公はそこに移された。
秋、昭公は斉景公・邾の君・杞悼公と鄟陵で盟いを結び、昭公を魯に入れる相談をした。
昭公は会合の後、鄆に帰った。
B.C.515春、昭公は斉に出かけた。
昭公は斉から帰って鄆に入った。
秋、諸侯が扈で会合して、昭公を都に入れることを相談したが、季孫氏からわいろを受けた晋の范鞅が反対したため、とりやめとなった。
孟懃子と陽虎が鄆に攻め入り昭公を奪い返そうとした。子家懿伯は戦うことを諌めたが、昭公はこれを聴き入れず子家懿伯を晋に遣わして退け、 孟懃子の軍と戦ったが、昭公の軍は且知で敗れた。
冬、昭公は斉に出かけた。
B.C.514春、昭公は晋に出かけて晋の乾侯に行こうとした。子家懿伯は「まず国境に行って、そこで先方の命令を待たれるのがよろしいでしょう」と言ったが、 昭公はそれを聴き入れず乾侯に行き、晋に迎え入れてほしいと申し入れた。晋人は「たった一人の使者もわが君のもとに遣わせもしないで、異姓の国(斉)に落ち着いておられました。 それなのに今になって迎えてほしいと言われるのですか」と言って、昭公を一旦国境にもどらせてから迎えることにした。
B.C.513春、昭公は乾侯からもどって鄆にいた。斉景公が高張を遣わして昭公を慰問させて「主君」と呼んだ。子家懿伯は「斉はわが君をいやしんでおります。 わが君はきっと恥をかかされるであろう」と言った。そこで昭公は再び乾侯へ行った。
季平子は毎年、馬や昭公の供人らの衣服や履物まで揃えて贈り届けていたが、昭公は馬を贈り届けた者を捕らえてその馬を売ったため、季平子は馬を贈ることをやめた。 また衛霊公が昭公を見舞って乗馬を献上したが堀に落ちて死んでしまった。昭公は馬を葬るひつぎを作ろうとすると、 子家懿伯が「供人が弱っているので、その肉を食べさせてやりたいと思います」と言ったため、昭公はそのとおりにした。
昭公は公子に小羊の皮衣を与え、竜輔という玉を斉景公に献上したところ、公子衍は小羊の皮衣までも斉景公に献上したため、 斉景公は喜んで陽穀の邑を公子衍に与えた。昭公は内々これを喜ぶとともに、魯を失った災いを残念に思い「この務人(公子)がこうした出亡の災いを引き起こした。 それに後に生まれて兄となっている」と言って、公子為を退けて公子衍を太子とした。
昭公は晋に赴き、乾侯にとどまった。
10月、鄆がつぶれた。
B.C.511、4月、季平子が晋の荀躒について昭公のいる乾侯に来た。子家懿伯が「君には季孫と一緒にお帰りなさい。 一時の恥を忍ぶことをしないで、一生の恥をかかれることをしてはなりません」と進言したため、昭公は「わかった」と答えた。しかし他の家来たちが 「ただ一言、晋に季孫を追い出すよう申し上げましょう」と言った。荀躒が晋定公の命を受けて昭公を見舞って 「わが君は意如(季平子)を責め、意如も決して死を逃れようと致しません。国にお帰りなさい」と申し上げると、昭公は「晋君にはお仕えは致しますが、 あの男(季平子)には会う気にはなれません」と言った。荀躒は驚いて耳をふさいで走り「もう魯国の騒ぎには関係致しません。わが君に報告しましょう」と言って、 季平子に「ご主君の怒りはまだおさまっていません。あなたは国に帰ってお祭りの世話をするのがよいでしょう」と言った。 子家懿伯は「わが君には単身で魯軍に入れば、季孫はきっとわが君を連れて国に帰るでしょう」と進言したため、昭公はそれに従おうとしたが、 多くの従者たちが昭公をおどしたため、帰ることができなかった。
冬、邾の黒肱が濫の領地をもって魯に逃げてきた。
12月、日食があった。
B.C.510、12月、昭公は病気になった。
12月5日、昭公は乾侯で没した。
昭公(鄭)(ショウコウ)【王】
鄭公(4代目)。名は忽。荘公の子。母は鄧曼。〜B.C.695。
平王は鄭武公と荘公を卿士としていたが、虢公に政権を与えようとした。そのため鄭荘公は平王を恨んだ。そこで平王は「そんなことはない」と言い、互いに人質を取り交わし、鄭は忽を周に出した。
B.C.716陳桓公は、忽が周の人質となり、桓王の寵愛を受けていることを知り、娘を妻に与えようと鄭に申し入れ、鄭もこれを許可したので、婚約が成立して陳と鄭は和睦した。
B.C.715、4月6日、忽は嬀氏を迎えに陳に出かけた。
4月13日、忽は陳を出発し、鄭に向かった。
4月16日、忽は鄭の都に戻った。忽は祖廟に報告する前に婚礼を行ったので、同行した陳の鍼氏に「先祖をあざむき、礼にそむいている。どうして子孫が栄えることができようか」と言った。
B.C.706、6月、斉が北戎に攻められたため、諸侯は斉を助けた。その中で忽の功が最も高かった。斉が労をねぎらうとして秣や米を分与しようとした時、魯がその順番を決めることとなった。しかし魯は周の爵位に従って順番をつけ、鄭をあとにした。そのため太子忽は魯を恨んだ。
一方、斉釐公文姜を忽に嫁がせようとしたが、忽は辞退した。
ある人がその理由を尋ねると「人には分相応の相手がある。斉は大国であり、鄭は小国であるから、私にふさわしい相手ではありません」と言った。
B.C.705斉が北戎に攻められたとき、斉は鄭に援軍を求めた。鄭の太子であった忽は軍を率いて斉を助けた。
6月、北戎を大いに破り、大良少良を殺し、兵300を討ち取り、釐公に献上した。
斉は家畜や米を贈って労をねぎらったが、それを分けるとき、魯に順序をつけて分けさせたが、魯は周の爵位に従って順序をつけ、鄭の国を後回しにした。忽は軍功があったので、それを不服とした。
釐公はまた文姜を忽に嫁がせようとしたが、忽は再び辞退した。
ある人がその理由を尋ねると「私は斉に何もしなかった時でさえ、妻に迎える気がなかった。しかるに今、わが君の命令によって斉国の危急に出かけ、妻を娶って帰るならば、戦争を口実として結婚したことになる。民は何と言うだろうか」と言った。
B.C.701、5月、荘公が没すると代わって立った。
7月、昭公は荘公を葬った。
9月、宋荘公は昭公の即位を認めず、重臣の祭仲を誘拐して、宋の重臣雍氏の娘が生んだ公子を即位させるように脅した。祭仲は突とともに帰国した。
9月13日、昭公は衛に亡命した。
B.C.697厲公(公子突)は祭仲を除こうとして失敗し、国外に出奔した。
6月22日、昭公は祭仲に迎えられ、ふたたび鄭に入り、復位する。
この年、諸侯に攻められたが、これを撃退する。
B.C.695、10月23日、昭公は狩猟に出かけたときに高渠弥に殺される。
昭公は日ごろより高渠弥を嫌っており、恐れた高渠弥はこのような行為に出たのである。
昭公(斉)(ショウコウ)【王】
斉公(18代目)。名は潘。桓公の子。母は葛嬴。〜B.C.613。
桓公には夫人が3人おり、王姫徐嬴蔡姫とも子がなかった。桓公は女色を好み、愛する女が多く、夫人のような待遇を受ける愛妾は6人もいた。
B.C.645管仲が没した。すると公子潘・公子無詭・公子・公子・公子商人は後を継ごうと争った。
B.C.643桓公が没すると、無詭が立った。
B.C.633、6月、孝公が没すると、公子潘は開方を頼って孝公の子を殺して即位した。
B.C.632、2月、昭公は晋文公と衛の斂盂で会盟した。
5月28日、晋文公の号令で昭公は、周の王子虎・宋成公・魯釐公・蔡荘侯・鄭文公・衛・莒とともに践土の王宮で盟った。
冬、昭公は晋文公・宋成公・魯釐公・蔡荘侯・鄭文公・陳共公・莒の君・邾の君・秦人と温で会同し、晋に服従しない衛と許を討つことを相談した。
10月15日、昭公は諸侯と共に許を攻め囲んだ。
B.C.630夏、斉は狄に攻められた。
B.C.627春、昭公は国帰父を魯に遣わす。
夏、晋文公が没したので、斉は狄に攻められた。
魯釐公が斉を訪れて、狄の侵略を受けたことをお見舞いした。
B.C.625冬、魯の襄仲が斉に来て幣を納めた。
B.C.623夏、戎が斉に侵入した。
婦姜が魯に嫁いだ。
B.C.620、8月、昭公は晋の趙盾、魯・宋・衛・陳・鄭・許・曹と鄭の扈で会盟した。
B.C.616、狄の鄋瞞が斉に攻め入った。
B.C.613、4月29日、没す。
昭公(燕)(ショウコウ)【王】
燕公。宣公の子。〜B.C.590。
B.C.603即位する。
昭公(曹)(ショウコウ)【王】
曹公(14代目)。名は班。釐公の子。〜B.C.653。
B.C.662即位する。
B.C.659春、昭公は諸侯とともに邢を助けた。邢人は聶北にいた諸侯の軍に逃げてきたので、連合軍は狄の人を追い払った。
8月、昭公は斉桓公・宋桓公・鄭文公・邾と宋の檉で会合し、楚に攻められている鄭を救うことを相談した。
B.C.656春、昭公は斉桓公・魯釐公・宋桓公・陳宣公・衛文公・鄭文公・許穆公と会合して蔡を討ち、勢いに乗じて楚に攻め入った。連合軍は楚と和平の盟いを結んだ。
秋、斉桓公は袁濤塗が軍道を誤らせようとしたのを責めて、宋・衛・鄭・許・曹・魯とともに陳を討った。
B.C.655夏、昭公は、斉桓公・魯釐公・陳宣公・鄭文公・許僖公・衛文公・周の太子と衛の首止で会合し、太子鄭の地位を固め、周室の安泰を図る相談をした。
8月、諸侯は首止で盟った。
B.C.654昭公は、斉桓公・魯釐公・宋桓公・陳宣公・衛文公と会合して鄭を討ち、新城を包囲した。
秋、楚が許を包囲して鄭を助けようとしたが、諸侯が許を救ったので、楚軍は引き揚げた。
B.C.653冬、没す。
昭公(衛)(ショウコウ)【王】
衛公(23(33)代目)。名は糾。敬公の子。〜B.C.436。
衛は小諸侯も同然となり、趙に付属した。
B.C.436公子亹に殺される。
昭公(宋)(ショウコウ)【王】
宋公(21代目)。名は杵臼。成公の子。〜B.C.611。
B.C.620、4月、成公が没した。公子が乱を起こし、太子を殺して自ら立ったが、宋人に殺されたので、杵臼が擁立された。
昭公は穆公襄公の一族を追い払おうとした。司馬楽予が「それはいけません。公族は公室の枝とも葉ともいうべきもの。もしもこれを取り除くと、根もとを覆うものがなくなります」と諌めたが、昭公は聴き入れなかった。そのため穆公と襄公の一族が国の人々を率いて昭公を攻め、公孫固公孫鄭を公宮の中で殺した。
六卿たちが仲に入って昭公と公族たちの不和を取り持ち、楽予は司馬の官を辞して公子に譲った。ここにようやく昭公は即位して成公を葬った。
8月、昭公は晋の趙盾、魯・斉・衛・陳・鄭・許・曹と鄭の扈で会盟した。
B.C.619昭公は襄公の夫人王姫を礼遇しなかったため、王姫は戴氏の一族をたより、その力で襄公の孫孔叔公孫鐘離と大司馬卬を殺した。司城蕩意諸は魯に亡命した。
B.C.617冬、戎が宋に侵入した。
穆王が蔡荘侯とともに厥貉に陣を敷き、宋を討とうとした。華御事が「こちらから降参したほうがよろしいでしょう。こちらには実際に戦う力がありません。民には何の罪もありませんから、戦死させてはなりません」と昭公に進言した。そこで昭公は穆王を迎え入れて、その労をねぎらい、楚の命令に従った。
昭公は楚穆王をさそって孟諸で狩をした。昭公は右翼、鄭繆公は左翼をつとめ、楚の期思公復遂が右司馬、公子申舟が左司馬をつとめた。穆王が明け方に準備をして車に火をかかげよと命令したが、昭公はその命令に背いた。そのため申舟は昭公の御者を鞭でたたいて全軍にふれ示した。そのため宋はこれを憎んだ。
B.C.616魯の襄仲が宋を訪れて、魯に出奔していた蕩意諸をとりなして宋に帰国させた。
B.C.613、6月28日、昭公は魯文公・陳霊公・衛成公・鄭繆公・許の君・曹文公・晋の趙盾と会合し、新城で会盟した。
B.C.612、3月、華耦が魯を聘問した。
11月、昭公は晋霊公・衛成公・蔡文侯・陳霊公・鄭繆公・許の君・曹文公・魯の季孫行父と扈で盟い、斉を討つ相談をした。しかし斉が晋霊公に賄賂をつかったので、斉討伐はとりやめとなった。
B.C.611昭公は無道なので国人はこれになつかず、弟の公子鮑革に人望が集まった。国人は王姫の権勢に頼ってこれを国君につけようとした。
11月23日、王姫は昭公をさそって孟諸で狩をして、そのときに昭公を弑そうとした。しかし昭公はその陰謀を知ると、国の財産を全部持ち出して狩に出かけた。蕩意諸が「どうして他国に亡命されないのですか」と問うと、昭公は「大夫に親しまれず、祖母ぎみから国人にまで嫌われた。諸侯も誰も受け入れてくれまい。それに人の臣下となるくらいなら死んだほうがましである」と言い、財産を左右の臣下に与えて逃がした。
王姫は蕩意諸に昭公の側を離れるよう告げたが、蕩意諸は「臣下として仕えながら、君の災難を見捨てれば、どうして後の君に奉公することができよう」と言って断った。
昭公は公邑の大夫衛伯に攻め殺され、蕩意諸も戦死した。
昭公(宋)(ショウコウ)【王】
宋公(27代目)。名は特。公孫糾の子。〜B.C.406。
景公が公孫糾を殺したので恨みに思っていた。
B.C.453景公が没すると、その太子を攻め殺して自立する。
昭公(晋)(ショウコウ)【王】
晋公(13(15)代目)。名は夷。平公の子。〜B.C.526。
B.C.532即位する。六卿の勢力が強く、公室が弱小であった。
B.C.531秋、韓宣子が魯・斉・宋・衛・鄭・曹・杞と厥憖で会合し、楚に攻められている蔡を救う相談をした。晋人は狐父を楚に遣わして蔡を許すよう願わせたが、楚は聴き入れなかった。
B.C.530夏、衛霊公・斉景公・鄭定公が晋に来聘し、昭公に挨拶をした。昭公は諸侯をもてなす宴を開いた。魯昭公も来聘したが、魯が莒を討った裁きを受けていなかったため、昭公は朝見を拒否した。
8月11日、中行呉が肥を滅ぼし、肥の君緜皐を連れて帰った。
冬、晋は鮮虞を討った。
B.C.529、4月、公子が楚に帰還した。
7月、昭公は魯がコウを攻め取ったため、諸侯の軍を率いて魯を討とうとした。昭公は余昧と宋の良で会合しようと出かけたが、水路に支障があって余昧は会合を断ったため、昭公は引きかえした。
7月30日、昭公は劉・魯・斉・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾と邾の南で勢揃いした。兵車4000台(30万人)という大軍で、羊舌鮒が司馬を代行した。続いて諸侯を衛の平丘に集めて会合した。
晋人は諸侯と再び盟約しようとしたが、斉人が承知しなかった。そこで昭公は叔向を使者として劉献公に相談させた。
8月5日、叔向が「諸侯にわが軍の威力を示さなければならない」と言って軍を勢揃いさせた。
8月6日、晋軍はまたも大将旗の吹流しを用いたため、諸侯は恐れた。邾と莒が晋に魯を訴えて「魯は朝夕わたくしどもを討って、もはや滅びかかっております。わたくしどもが貢物を納められないのは魯のせいです」と申し入れたため、昭公は魯昭公に会おうとせず、叔向に命じて魯に盟約に参加しないように伝えた。魯は恐れて晋の命令に従い、盟約に参加しなかった。
8月8日、斉は晋に服従し、諸侯は平丘で同盟した。このとき鄭の子産が貢賦の割り当てについて言い争って、昼から夕刻に及んだため、晋人はその願いを許した。
晋人は魯の季平子を連れて国に帰った。
中行呉が著雍から上軍を率いて鮮虞に攻め入って中人に至り、敵陣に衝車を突入させて激戦し、大いに戦果をあげて帰った。
魯昭公は季平子をもらい受けるために晋に出かけたが、昭公は士弥牟に命じて黄河のほとりで魯昭公に会って辞退させた。
冬、魯の子服椒が中行呉に私的に会って季平子を魯に帰すことをとりつけた。
B.C.527秋、昭公は中行呉に命じて鮮虞の属国の鼓を討たせた。鼓は晋に降り、中行呉はエン鞮を晋に連れて帰った。
12月、昭公は荀躒を周に遣わして穆后を葬った。
B.C.526、1月、魯昭公が来聘した。晋人は魯昭公を引き留めた。
3月、韓宣子が鄭を聘問した。
夏、魯昭公が魯に帰国した。一緒に帰国した子服昭伯は「晋の公室は間もなく衰えるであろう。君は幼弱で六卿が勢力が盛んでおごり高ぶっている」と言った。
8月、昭公は没した。
昭公(召)(ショウコウ)【文官】
周王朝の臣。卿士。召公。武公の子。
B.C.622、1月、周襄王栄叔を魯に遣わして含(死者の口に含ませる米貝)と賵(軍馬)を贈り届け、昭公を魯に遣わして成風の葬式に会葬させた。
昭公(滕)(ショウコウ)【王】
滕公。〜B.C.600。
B.C.615秋、昭公は魯を聘問した。
B.C.600、8月、昭公は没した。
昭公(許)(ショウコウ)【王】
許公。名は錫我。〜B.C.592。
B.C.597秋、昭公は鄭襄公とともに楚に赴いて服従のあいさつをした。
B.C.592、1月26日、没す。
昭侯(蔡)(ショウコウ)【王】
蔡侯(20(3)代目)。名は甲。悼侯の弟。〜B.C.491。
B.C.509昭公は対の佩玉と対の皮衣をつくって楚に参朝し、そのひとつを楚昭王に献じ、他の一枚はみずから着用した。それを楚の令尹子常が所望したが与えなかったため、昭公は3年間楚に抑留された。 一方、唐成公も楚に出かけたが、二頭の白い毛なみの名馬があった。子常がこれをほしがったが唐成公が与えなかったため、 これもまた3年も楚に留められた。唐人で唐成公の供と交代する者があり、その名馬を盗んで子常に献上したため、子常は唐成公を帰した。 蔡人はこれを聞いて、昭侯に無理に願って佩玉を子常に献上した。子常は昭侯の供の者に「蔡侯が久しく留まっておられたのは、 お前たちが贈る礼物がそろわなかったためだ。明日のうちにそろえなかったら死罪にするぞ」と言った。
B.C.507かくて昭侯は帰国することになったが、漢水に来た時、玉を川に沈めて楚に朝しないと誓い、やがて昭侯は晋に行き、 公子と大夫の子を人質に入れ、楚を討ちたいとお願いした。
B.C.506、3月、昭侯は劉文公の召集を受け、晋定公・魯定公・ 宋景公・衛霊公・陳懐公・ 鄭献公・許の君・曹隠公・莒の君・邾の君・頓の君・胡の君・滕の君・ 杞悼公・小邾の君・斉の国夏を楚の召陵に集めて楚を討つ相談をした。 このとき晋の荀寅が昭侯に財貨を出すように要求したが、昭侯はことわった。そのため晋は蔡のために楚を討つことをことわった。
5月、いよいよ皐鼬の地で盟いの血をすするときに、蔡を衛の先にしようとした。 すると衛霊公が祝佗に命じて萇弘にひそかに話をさせて衛を先にするように言った。 そこで萇弘は劉文公と范鞅に相談して、衛を先にすることにした。
沈が会合に参加しなかったため、晋は蔡に命じて沈を討たせた。公孫姓が軍を率いて沈を討ち、これを滅ぼした。
秋、楚が沈のために蔡を攻めて包囲した。
冬、昭侯は呉の伍子胥伯嚭を頼りとして、 子の乾と大夫の子を人質として呉に入れ、呉王闔閭・唐成公とともに楚を討った。
B.C.505夏、魯が蔡の危急を救うために粟を送った。
B.C.493孔子が蔡に来る。楚が攻めてきたので、恐れて危急を呉に告げる。呉は蔡があまりにも遠いので、その国を呉の近くに移すことを昭侯と約束した。呉軍が来て、蔡を助け、約束によって蔡を州来にうつす。これ以後を下蔡という。
B.C.491呉に参朝しようとするが、また他の土地にうつされることを恐れた大夫たちは、公孫翩を使って昭侯を殺した。
昭侯(晋)(ショウコウ)【王】
晋侯(11(12)代目)。名は伯。文侯の子。〜B.C.739。
B.C.745周王朝は文侯の弟成師を曲沃に封じる。
成師は徳を好んだので、晋国の民はみな彼になついた。君子らは「晋の内乱は曲沃から起こるだろう。末が本よりも大きく(曲沃の邑は、翼(晋の国都)よりも大きい)、しかも民心を得ている。叛乱が起こらないで何が起ころう」と言った。
B.C.739成師を迎えようとした潘父に殺される。
昭侯(韓)(ショウコウ)【王】
韓侯(6代目)。懿侯の子。〜B.C.333。
B.C.358秦に攻められ、西山で破られる。
B.C.357宋に攻められ、黄池を失う。また魏に攻められ、朱を失う。
B.C.353東周を討ち、陵観・邢丘を取る。
B.C.351申不害を宰相とする。
B.C.348秦に赴く。
B.C.336魏恵王と斉宣王と平阿で会同し、和平を誓って帰った。
B.C.335秦に攻められ、宜陽で戦う。
B.C.334旱魃があった。
相公(ショウコウ)【王】
陳公(3代目)。名は皋羊。申公の弟。
殤公(衛)(ショウコウ)【王】
衛公(14(24)代目)。名は剽、秋。子叔ともいう。定公の弟。〜B.C.547。
B.C.572冬、公子剽は魯を訪問し、従来の友好をつなぎ、諸事を相談した。
B.C.559、4月、孫文子が叛乱を起こして衛献公が斉に出奔したため公子剽は擁立された。
殤公は即位すると孫文子を宿に封じた。
冬、晋・魯・宋・鄭・莒・邾は戚で会合して、殤公の即位を認めた。
B.C.557、3月、殤公は晋平公・魯・宋・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と会合し、諸侯は侵略した土地を帰した。
B.C.556夏、孫蒯石買、曹を討って重丘を占領した。
B.C.555夏、石買が晋の長子で、孫蒯が晋の純留で捕えられた。
10月、殤公は晋平公・魯襄公・宋平公・鄭簡公・曹成公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・杞文公・小邾の君と魯の済水のほとりで会合し、B.C.557の湨梁の盟いを再確認して諸侯と共に斉を討った。
B.C.555、10月、殤公は晋平公・魯襄公・宋平公・鄭簡公・曹成公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・杞文公・小邾の君と魯の済水のほとりで会合し、B.C.557の湨梁の盟いを再確認して諸侯と共に斉を討った。
B.C.554、1月、殤公は斉の督揚で諸侯と盟いを結んだ。
4月、孫林父が晋とともに斉を討った。斉に攻め入り穀まで進んだが、斉霊公が没したのを聞いて、引き揚げた。
冬、石買が没した。
B.C.553、6月3日、殤公は晋平公・魯襄公・斉荘公・宋平公・鄭簡公・曹武公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・杞文公・小邾の君と会合して、澶淵で盟った。
B.C.552冬、殤公は晋平公・斉荘公・宋平公・魯襄公・鄭簡公・曹武公・莒の君・邾の君とともに商任で会合した。諸侯は晋を出奔した欒盈を受け入れることのないように取り決めた。この会合の時、殤公と斉荘公は不作法であった。晋の叔向は「二君はきっと禍にかかるだろう。礼を怠ると政治が失敗し、政治が失敗すると身を立てることができなくなり、かくて国は乱れるものだ」と言った。
B.C.551冬、殤公は晋平公・斉荘公・宋平公・魯襄公・鄭簡公・曹武公・莒の君・邾の君・薛の君・杞文公・小邾の君と沙隋で会合した。会合では欒氏を受け入れないように話し合った。
B.C.549秋、殤公は魯襄公・晋平公・宋平公・鄭簡公・曹武公・莒犂比公・邾悼公・滕の君・薛の君・杞文公・小邾の君と夷儀で会合し、斉を討とうとしたが、大水が出て斉を討つことができなかった。
B.C.547、2月7日、殤公は太子とともに、衛献公に通じた甯喜に弑された。
殤公(宋)(ショウコウ)【王】
宋公(15代目)。名は与夷。宣公の子。〜B.C.710。
B.C.719穆公が没し、殤公は即位する。
3月17日、衛の州吁が主君を弑して自立した。州吁は諸侯の歓心を得ようと、使いを宋に送って「(穆公の子)は鄭におり、必ず乱を起こしましょう。わが方と共同して討ってはいかがでしょう」と申し入れてきた。そこで衛とともに鄭を討ち、東門まで攻め込んだ。(東門の役)
夏、殤公は魯隠公と清で会合し、先年の宿の盟いを回復して親善した。
秋、殤公は使者を魯に遣わして鄭討伐の援軍を請うた。魯隠公はこれを許可しなかったが、魯の公子は勝手に出陣してきた。そこで殤公は再度衛とともに鄭を討ち、鄭の歩兵を破り、鄭の禾を刈り取った。
B.C.718宋は邾の耕作地を攻め取った。邾は鄭に救援を請うた。鄭は周の軍を率いて邾軍とひとつになり、宋を討ち、宋の城郭に討ち入った。
宋は魯に救援を請うた。魯隠公は使者に「敵軍はどこまで攻め入ったか」ち尋ねると、使者は「まだ国都まで攻められていません」と答えた。隠公はすでに連合軍が宋の城郭に攻め入ったことを知っていたので、立腹して援助を中止した。
12月、宋は鄭を討って長葛を包囲する。
B.C.717秋、宋は鄭を討って長葛を取った。
B.C.716、7月18日、宋は鄭と親和し、宿で同盟を結んだ。
B.C.715春、斉釐公は宋・衛と鄭とを仲直りさせようとして会合の期日を定めた。しかし殤公は会合の前に衛に願い出て、贈物を献上して、犬丘で会合した。
7月、当初の予定通り、宋・衛と鄭は親和し、斉・鄭・衛の三国が温で会合し、瓦屋で盟った。
B.C.714宋は周室に対する職貢を怠ったため鄭に攻められたが、宋は魯を恨んでいたため、このことを魯に報告しなかった。そこで隠公は怒って宋との国交を断ち、宋への使者を禁止した。
B.C.713、6月、宋は魯・斉・鄭の連合軍に攻められた。
6月7日、宋軍は菅で魯軍に破られた。
6月15日、鄭に郜に攻め入られ、郜は魯に譲り渡された。
6月25日、鄭に防に攻め入られ、防は魯に譲り渡された。
7月5日、鄭軍は宋の都の郊外まで進んだ。
蔡・衛・郕は、宋を討てという天子の命に従わず、斉・鄭・魯の連合軍に参加しなかった。そこで殤公は蔡・衛とともに鄭に侵入し、蔡軍もそれに連合して鄭の与国の戴を攻撃した。
8月8日、宋・衛・蔡の連合軍は鄭軍に包囲された。
8月9日、連合軍は鄭軍に破られて降服した。
9月、再び鄭は宋の都に攻め入り、宋が鄭に侵入した報復をした。
B.C.710太宰華督が大司馬孔父嘉を殺す。殤公は怒ったが、そのため華督に殺される。
象甲(ショウコウ)【皇帝】
商王朝17代王。祖丁の子。
『史記』では、陽甲とされる。
少昊(ショウコウ)【神】
西方の神。少皓とも書く。
西海の津にいると伝えられる。
少昊(玄囂)(ショウコウ)
玄囂
邵公(ショウコウ)【文官】
周王朝の臣。召公とも書く。名は虎、諡は穆公。
B.C.844周厲王は暴虐無道であったので、国民が王の悪口を言った。厲王は立腹して衛のみこを召して悪口を言う者を監視し、告発すると殺した。それ以後、国民は悪口を言わず、道路の上では互いに目で合図した。厲王は邵公に言った。
「わしは悪口をやめさせたぞ。誰もよう言わん」
邵公「それはふさいだのです。民の口を塞ぐのは、川を塞ぐよりも危険です。川は決壊すれば、多くの人を殺傷するように、国民も同じです。川を治めるには、つかえた所を通して、水を導いてやります。民を治めるにも自由に言わせ、天子はその戒めを取捨選択して政治を行うのです。もしその口をふさぐならば、いく年もちましょうか」と言った。
しかし厲王を聞き入れなかった。
B.C.841厲王は彘に流され、厲王の子宣王は幼く、邵公の家に隠れたが、国人が包囲した。邵公は「王はわたしの諌めを聴かなかったのでこの危難にあいました。今王子を殺したら、王は私がうらんでいると思うでしょう。国君に仕える者は不満でもうらまず、怨んでも怒ってはなりません」と言い、自分の子を宣王の身代りにした。
そして宣王が成長してから王位につけた。
向行(ショウコウ)【文官】
宋の臣。
B.C.522、6月9日、華氏と向氏が反乱をおこし、向行は華亥に米倉に閉じ込められた。
召公奭(ショウコウセキ)【宰相】
周王朝の元勲。召公。
武王を助け、王朝の建国を助ける。覇業完成の功績は太公望と双璧とされ、燕に封ぜられる。
召公奭はに命じて燕侯代行とし、燕の地に止まって、土地と有司など統治組織を預けて統治させる。
成王が即位すると、皇天尹大保となり洛邑から西を統治する。
B.C.1036成王の命で雒に行き、その地勢を視察し、ここを都とする。
成王が幼少であったため周公旦が国政にあたり、天子の位階を占めた。召公奭はこのことを疑ったので、周公旦は輔弼の重責を説いてやっと召公奭を説得させた。
禄父の乱が起こると、成王の命によってこれを討ち、王命を遂行した。その功でソウの地を賜る。
その余勢を駆って東征の軍を進め、山東まで及んだ。
成王が没すると、召公奭はその遺体を前にして康王即位の儀礼の司会を行う。
政務に熱心で、領内の村落をたえず巡察して訴訟を裁いたといわれる。領民に迷惑をかけてはならないと、甘棠(梨)の木の下に野宿をしたという。上は侯伯から下は庶民に至るまで、それぞれその所を得、業を失う者がなかった。召公の死後、人々は召公の善政を思い、棠樹をなつかしんでそれを切ろうとせず、歌に詠んで甘棠の詩を作ったという。
召公父辛(ショウコウフシン)【王】
召公。召公奭の父。
襄公(斉)(ジョウコウ)【王】
斉公(14代目)。名は諸児、諸兒ともいう。釐公の子。〜B.C.686。
B.C.698、12月、釐公が没し、襄公は即位する。
妹の文姜と恋愛関係にあったといわれる。むやみに人を殺したり、女色におぼれ、しばしば大臣を欺いた。
B.C.697、4月15日、釐公を葬る。
夏、襄公は魯桓公と魯の艾で会合し、許を平和にすることを相談した。
B.C.695、1月13日、襄公は魯桓公と紀の君と斉の黄で盟いして、斉と紀の仲を良くさせ、衛の騒ぎについて相談した。
5月5日、斉が魯の国境に侵入したので、斉と魯との間に国境争いが起こり、魯の奚で魯軍と戦った。
襄公は諸侯と会盟する。
B.C.694、1月、魯桓公と濼で会合し、桓公は妻の文姜をつれて斉に入った。
そこで襄公は文姜と密通したが、このことが桓公にばれてしまい、桓公は文姜を叱った。文姜はそれを襄公に告げた。
4月10日、襄公は桓公を宴会に招待し、そこで襄公は怪力の彭生を遣わし、酒に酔っていた桓公を助け抱えるふりをして肋骨をへし折って殺させた。
のちに魯の追及を受けたため、襄公は彭生を処刑して魯に謝罪して事件に決着をつけた。『詩経』には彼らを誹った歌がいくつかおさめられている。
秋、襄公は鄭の乱を収めるため、軍を衛の首止に進めた。鄭の子亹がこれに参加した。
7月3日、襄公は子亹を殺し、子亹を輔佐していた高渠弥も車裂きにして殺した。
B.C.693、3月、文姜が斉に出奔してきた。
冬、王姫が没した。
襄公は紀を滅ぼそうとして、紀の郱・鄑・郚の民を移して、その地を占領した。
B.C.692、7月、王姫が没する。
12月、襄公は文姜と斉のシャクで会った。
B.C.691、1月、魯の公子と会合して、衛を討った。
秋、紀侯の弟紀季がケイをたずさえて斉に帰属した。これより紀は二分することとなった。
B.C.690、2月、襄公は文姜と魯の祝丘で密通した。
3月、紀の伯姫が没す。
夏、襄公は陳宣公・鄭伯と垂で会合する。
紀侯は斉に降服することをいさぎよしとせず、国を紀季に与えて、国から去った。ここに紀は滅び、襄公は斉哀公の仇をとった。
6月、紀の伯姫を葬る。
B.C.689夏、文姜が斉の師に赴いた。
冬、襄公は魯・宋・陳・蔡とともに衛を討った。
B.C.688周王の命を奉じ諸侯の軍を率いて衛を討ち、衛恵公を復位させる。
B.C.687春、斉襄公は文姜と魯の防で会った。
冬、斉襄公は文姜と穀で会った。
B.C.686夏、魯とともに郕を討ち、郕は斉に降服する。
12月、襄公は公孫無知連称管至父に襲撃され殺される。
襄公(宋)(ジョウコウ)【王】
宋公(19代目)。名は茲甫、茲父とも書く。桓公の子。〜B.C.637。
B.C.652桓公が病気になると、茲甫は庶兄の目夷に後嗣を譲ろうとしたが、聴き入れられなかった。
B.C.651、3月21日、桓公が没し、襄公は即位した。
夏、まだ葬式を行わないうちに、斉桓公が葵丘で会盟を行ったので、襄公はこれに参加した。
襄公は目夷を仁者であるとして左師に任じて、国政に参加させた。そのため宋はよく治まった。
B.C.647夏、襄公は斉桓公・魯釐公・陳穆公・衛文公・鄭文公・許僖公・曹共公と衛の鹹で会合し、淮夷が杞を苦しめたことへの対応と、王室の騒ぎについて相談した。
B.C.645、3月、襄公は斉桓公・魯釐公・陳穆公・衛文公・鄭文公・許僖公・曹共公と斉の牡丘で会合して葵丘の盟いを忘れないようにし、楚に討たれた徐を救うことを相談した。
穣公は諸侯と協力して徐を救った。
冬、襄公は曹を討った。
B.C.644春、宋に隕石が5つ落ち、6羽の鷁が宋都をとおりすぎた。このとき周の内史叔興父が宋に来ていたので、襄公はこのことについて叔興父に尋ねた。叔興父は「魯に大きな喪がおこり、明年は斉に騒動がおこるでしょう。君は諸侯を率いることができても、長くは続かないでしょう」と答えた。
秋、周襄王は戎の侵略に悩まされ、救いを斉に求めたので、宋は斉桓公の召集に応じて周を守った。
12月、襄公は、斉桓公・魯釐公・衛文公・鄭文公・許僖公・邢侯・曹共公と淮で会合し、淮夷に苦しめられている鄫を救うことを相談した。
宋は斉の公子の留学を受け入れていた。
B.C.642、1月、襄公は曹共公・衛・邾とともに斉を討ち、宋に出奔していた公子昭を斉に入れようとした。
5月15日、宋軍は斉軍とケンで戦い、これを大いに破り、公子昭を斉君に擁立した。
B.C.641、3月、襄公は会盟に参加しない滕宣公を捕えて、威を示した。
6月、襄公は曹・邾と曹の南で会盟した。襄公は邾文公に命じて鄫の君を捕らえさせて、東夷を脅して服従させようとした。
目夷が「わが君はひとたび諸侯を会合させただけで滕・鄫二国の君を捕えるというむごい目にあわせている。それでは覇者にはなれない」と批難した。
秋、曹が宋に服従しなかったので、襄公は曹を包囲した。
目夷が「君の徳は今もなお欠けているところがあるのではありませんか。しばらくわが身に立ち返って、わが身の徳を反省なされませ」と諌めたが、襄公は聴き入れなかった。
B.C.639春、宋は斉と楚と鹿上で会盟して、宋が諸侯の盟主となることを楚に求め、楚はそれを許した。目夷が諌めたが、襄公は聴き入れなかった。
秋、襄公は楚・陳穆公・蔡荘侯・許の君・曹共公と宋の盂で会合した。このとき襄公は楚に捕えられ、宋は楚に攻められた。
12月、宋が楚と薄(毫)で会合したとき、襄公は許されて釈放された。
B.C.638、3月、鄭文公が楚に行って友好を求めた。
夏、襄公は衛文公・許の君・滕宣公とともに鄭を討った。
楚が宋を討って、鄭を助けた。襄公は楚と戦おうとすると、目夷は「天が商を滅ぼしてから久しいことになります。君が商を復興させようとしても許されません」と諌めたが、襄公は聴き入れなかった。
11月己巳の朔に、宋軍は楚軍と泓水のほとりで対陣した。楚軍がまだ川を渡ってこないうちに目夷が「敵は多勢で、わがほうは無勢です。渡河する前に討つべきです」と進言したが襄公は聴き入れなかった。楚軍が渡河してまだ布陣していなかったとき、目夷がまた「討つべきです」と言ったが「敵の布陣が終わるのを待とう」と答えた。
そこで楚軍が布陣しおわってので、宋は攻撃したが大敗し、襄公は股に負傷した。
襄公は「君子は人の困窮しているさなかに苦しめず、敵の布陣がおわらぬうちに陣太鼓をうって攻めないものだ」と言って気にとめなかった。
晋の公子重耳が宋に来てたので、襄公は晋の援助を得ようとして彼を手厚く待遇し、馬20乗(80頭)を贈った。
B.C.637春、4年前に諸侯が斉で結んだ同盟に宋は参加しなかったため、宋は斉に攻められて緡が包囲された。
5月25日、襄公は泓水の戦いで負った傷が病んで没した。
襄公(晋)(ジョウコウ)【王】
晋公(6(8)代目)。名は歓。文公の子。母は文嬴。〜B.C.621。
B.C.628、12月11日、文公が没し、公子歓は即位した。
12月12日、曲沃で納棺の式を行うため、絳を出発したが、棺の中から牛の鳴き声のような声が聞こえた。郭偃は大夫たちに「わが君が命ぜられた。やがて西国(秦)がわが国を通過する。これを討てば大勝するであろう」と言った。
はたして秦軍が晋の郊野を通過した。
B.C.627春、秦軍は滑を滅ぼす。
先軫の進言を入れて秦を討つことにする。襄公は喪中であったため、襄公は「秦はわしが孤児になったのを侮り、喪中に乗じて滑を破った」と怒り、白い喪服を嫌ってこれを黒染めにして出兵した。晋ではこのときから黒い喪服を用いるようになった。
襄公は梁弘を御者、萊駒を右とした。
4月、秦を殽で破り、孟明視西乞秫白乙丙を捕える。ここにおいて文公を葬った。
しかし母の文嬴が「秦はあの三将を手に入れ、殺したがっています」と言ったので、襄公はこれを許し国に帰らせた。
秋、狄が晋に侵入し、箕まで侵攻してきた。
8月22日、襄公は狄を箕で打ち破り、郤欠が白狄の君を捕えたが、先軫は戦死した。
襄公は帰還すると、先軫の子先且居を中軍の将に任じ、郤欠を推挙した賈佗を卿に任じて先茅県を与えた。また郤欠を卿に任じて父の故領の冀を与えたが、郤欠を用心して兵は与えなかった。
12月、襄公は鄭・陳とともに許を討ち、許が楚に通じていることを責めた。
B.C.626夏、襄公は文公死後一年の小祥の祭りをすませて諸侯に告げて衛を討つこととし、衛の南陽まで攻め入った。先且居が襄公を諌めて「他人を咎めながら、それと同じことをするのは禍を招きます。君にはどうか温の周王のところにお出かけください。わたしが軍を引き受けましょう」と言った。そこで襄公は温にいる周襄王のところに朝した。
先且居と賈佗は衛を討った。
秋、襄公は攻め取った衛の戚の田地の境界を正した。
衛の孔達が晋に攻め入ってきた。
B.C.625春、秦の孟明視が晋に攻め入ってきた。
2月、襄公はこれを防いだ。
2月9日、秦軍と彭衙で戦い、晋軍は秦軍を大破した。晋の人はこの秦軍を拝賜の師と読んで嘲笑した。
襄公は魯文公が晋に朝しないので、使者を遣わして責め立てた。
4月15日、魯文公は朝したが、襄公は顔を出さず、陽処父に命じて会見させて恥をかかせた。
司空士縠が諸侯と鄭の垂隴で会盟し、晋が衛を討つための相談をした。
共公が衛の孔達を捕えて、衛と和睦するよう願い出た。
冬、晋の先且居、宋の公子、陳の轅選、鄭の子家らが秦を討って汪を攻め取り、彭衙まで攻め込んで引き返し、彭衙の役の報復をした。
B.C.624春、沈が楚に服従したので、襄公は魯・宋・陳・衛・鄭と会合して沈を討ち、沈は潰滅した。
夏、秦繆公に攻められた(王官の戦い)。繆公は殽の戦死者の遺骸を収容して帰った。晋は恐れて出撃しようとせず、籠城したままであった。
秋、楚が江を攻め囲んだ。晋は先僕をやって楚を討って江を助けた。
冬、襄公は江の援助のことで周の威力を借りようとして周に願い出た。周は王叔桓公を派遣し、晋は陽処父に命じて楚を討たせた。陽処父は楚の方城の門まで攻め込んだが、救援に来た楚の息公の軍に出会い、恐れて戦わずに引き揚げた。
襄公は去年、魯文公に対して無礼なことをしたのを気にかけ、改めて盟いたいと申し出た。そこで文公は晋に来朝した。
B.C.623春、孔達が良臣であったので、襄公はこれを許して衛に帰した。
秋、襄公は秦を討って新城を攻め囲んで、王官の役の敗北に報いた。
B.C.622趙衰欒枝・賈佗・先且居ら功臣が没す。
B.C.621春、襄公は夷で蒐を行った。襄公は箕鄭先都を昇進させ、士縠・梁益耳を中軍の将と佐に任命しようとしたが、先克が「狐偃や趙衰の功績を忘れてはなりません」と諌めたので、二軍を廃して以前の三軍の制に戻し、狐射姑を中軍の将、趙盾を中軍の佐に任命した。
しかし陽処父が温から帰って来ると、襄公は改めて蒐を行い、狐射姑と趙盾を入れ替えた。かくて趙盾が国政を握り、太傅陽処父と太師賈佗に案を授けて国の定法とすることとなった。
秋、魯の季孫行父が晋を訪れた。
8月15日、襄公は没した。
襄公(秦)(ジョウコウ)【王】
秦公(初代(6代目))。荘公の子。〜B.C.766。
B.C.777即位する。襄公は、戎に対して父がとった対抗策ではなく、戎と親和を図る。
B.C.776妹の繆嬴を豊王の妻とした。
B.C.775戎が犬丘を囲む。兄の世父がこれを討つが捕えられる。
B.C.771春、諸侯は周幽王にそむき、西戎、犬戎、申侯と共に周を討った。
襄公は兵をひきいて周を援け、大いに力戦して功労があり、東方雒邑にうつるときも兵をもって周平王を送った。
B.C.770周平王は襄公を封じて諸侯とし、岐山以西の地を賜うて「戎は無道にもわが岐・豊の地を侵したとき、秦はよく戎を攻逐してその地を保った」といい、爵位を与えた。
ここで初めて国を立て、諸侯と使節、聘問、享宴などの礼を通じた。
そしてリュウ駒(たてがみの黒い赤身の馬)・黄牛・羝羊(牡の羊)おのおの三匹を供え、西畤(西方祭壇)を作って上帝を祀った。
B.C.766戎を討って岐山の麓に行き、そこで没した。
襄公(鄭)(ジョウコウ)【王】
鄭公(11代目)。名は堅。霊公の庶弟。〜B.C.587。
B.C.605、6月28日、霊公が子公子家に弑されると、鄭の国人は子良を立てようとしたが、子良が辞退したため、公子堅が擁立された。(襄公)
襄公は即位すると、兄弟達をことごとく追放しようとしたが、子良が諌めたのでこれをとりやめて、みな大夫に取り立てた。
冬、襄公は楚につかなかったため、楚荘王に攻められた。
B.C.604冬、楚荘王に攻められた。
晋の荀林父は鄭を助けて、楚についている陳を討った。
B.C.603冬、楚に攻められたため、襄公は楚と和睦した。
B.C.602冬、襄公は晋成公・魯宣公・宋文公・衛成公・曹文公と黒壌で会合した。
B.C.601楚に攻められるが、晋軍が来たため助けられる。
B.C.600、9月、襄公は晋成公・宋文公・衛成公・曹文公と鄭の扈で会合し、晋に従わない諸侯を討つ相談をした。陳がこの会合に参加しなかったため、諸侯は陳を討ったが、晋成公が没したため引き揚げた。
冬、楚が鄭を討ったが、襄公は楚軍を鄭の柳棼で討ち破った。鄭人はみな喜んだが、子良は「これは国の禍になる。わたしの死ぬのも間もなくだろう」と言った。
子家が没し、国人はその一族を放逐した。
B.C.599夏、襄公は楚と和睦した。
冬、襄公は晋と鄢陵で誓った。そのため楚は鄭を討った。しかし晋の士会が鄭を救援したため、楚軍は潁水の北で撃退された。諸侯の連合軍は鄭を守備した。
B.C.598春、楚は鄭を討って櫟まで攻め入った。襄公は楚に服従した。
夏、襄公は楚荘王と陳霊公と陳の辰陵で盟約した。
冬、襄公は楚に背いて晋についた。
B.C.597春、楚に攻められて17日に及んだ。鄭人は楚との和睦を占うと凶であったので、祖廟で祖国の滅亡を哭泣して楚に玉砕することを占うと吉であった。鄭人は大いに哭泣し、城壁の上で守っていた兵士はみなその場で哭泣した。これを見た楚荘王は、その窮状をあわれんで軍を撤退させた。
しかし鄭人が城壁の修繕にかかったので、楚軍は再び進撃して都を包囲し、3ヶ月で攻め落とした。
襄公は肌を脱ぎ羊を引いて出迎え「わたくしは王のご命令のままに従います。しかしもしも王が周の厲王宣王、わが桓公武公をお忘れなく哀れんで鄭の社稷の祀りを断たないよう、いずれにか不毛の土地を賜い、わたくしをふたたび改めて君主に仕えられるようにさせていただくなら、わたくしは本望でございます」と言った。
楚の左右の臣は「王よ、許してはなりません。国を取り上げましょう」と言ったが、楚荘王は「鄭君はよく人にへりくだることができる。必ずや偽りのない真心をもって民を治めるだろう。どうしてその祭祀を絶つことができよう」と言って、自分で旗を手にとり左右に軍を指揮し30里退却して、鄭との和睦を許した。
そこで楚の潘尫が鄭に入って盟約した。襄公は子良を楚の人質とした。
6月、晋が鄭の救援にやってきたが、楚はこれを撃退した。(邲の戦い)
秋、襄公は許昭公とともに楚に赴いて服従のあいさつをした。
B.C.595夏、晋は荀林父の進言で、鄭を討つことを諸侯に告げ、閲兵を行って引き揚げた。襄公は子良が礼をわきまえた人物であるので楚から召還し、代わりに子張を人質として楚に送った。
楚が宋を討ち、晋は宋を救うため、解揚を遣わして宋が楚に降服しないようにさせた。解揚が鄭を通過したところを捕えて楚に献じた。
B.C.589、11月、子良が衛・魯・楚・蔡・許・宋・秦・陳・斉と蜀で和睦の盟いを結んだ。諸侯は一方で晋を恐れていながら、こっそりと楚と盟っていた。
B.C.588春、晋・宋・衛・曹が鄭に攻め入ってきて伯牛に陣取った。諸侯の軍は東方に進んで鄭の都に攻め入ろうとした。鄭の公子はこれを防ぎ、鄭の東部落の兵に命じてバンに伏兵を設けて不意に攻めて諸侯の軍を丘輿で打ち破った。
襄公は皇戌に命じて楚に戦利品を献上した。
夏、許が楚を頼りにして鄭に仕えないので、子良が許を討った。
冬、襄公は許を討った。
B.C.587春、没す。
襄公(魯)(ジョウコウ)【王】
魯公(22代目)。名は午。成公の子。母は定姒。B.C.576〜B.C.542。
B.C.576生まれる。
B.C.573、8月7日、成公が没したので、公子午は即位した。
12月27日、襄公は成公の葬式を行った。
B.C.572、1月、襄公は晋・宋・衛・曹・莒・邾・滕・薛とともに彭城を攻め囲んだ。彭城は晋に降服した。
9月、邾宣公が魯に来朝した。
冬、衛の公子と晋の智罃が来聘し、従来の友好をつなぎ、諸事を相談した。
B.C.571、5月19日、生母の定姒が没した。
7月、襄公は孟献子に命じて諸侯と衛の戚で会合させた。
7月18日、襄公は定姒を葬った。
秋、叔孫豹を宋に遣わして即位の挨拶をさせた。
冬、孟献子が晋の智罃・斉の崔杼・宋の華元・衛の孫文子・曹人・邾人・滕人・薛人・小邾人と戚で会合して虎牢に城を築いたので、鄭は諸侯と和睦した。
B.C.570春、襄公は即位の挨拶のため晋に行った。
4月26日、襄公は晋悼公と長樗で盟った。
6月23日、襄公は晋悼公・単頃公・宋平公・衛献公・鄭釐公・莒の君・邾の君・斉の公子と会合し、鶏沢で同盟し、呉と仲良くしようとした。
秋、襄公は叔孫豹を遣わし、諸侯の大夫とともに陳の袁僑と盟った。
B.C.569夏、襄公は叔孫豹を晋に遣わし、智罃の聘問に対する答礼をした。
10月、襄公は晋に出かけて貢物について指示を仰いだ。晋悼公が襄公をもてなすと、襄公は鄫の国を魯の支配下にしたいと願ったが、晋悼公は許さなかった。孟献子が「わが国は貴国にお仕えしてご命令に背くことは致しません。ところで鄫は貴国の司馬に対して貢物を奉っておりません。わたくしどもは鄫の助けを借りて貴国への貢物を完納したいと願い出ているのです」と言ったので、やっと晋悼公は許した。
邾と莒が鄫を討った。襄公は臧武仲に命じて鄫の救援に行かせ、邾に攻め入ったが、邾の狐駘で敗れた。
B.C.568春、襄公は晋から帰国した。
鄭の子国が魯に来聘し、鄭釐公が即位したことを告げた。
夏、叔孫豹が鄫の太子をつれて晋に行き、晋悼公に面会させ、鄫を魯の属国にすることを正式に認めてもらった。
晋が魯と衛に命じて、さきに呉と会合させ、諸侯との会合の日取りを呉に伝えさせることとした。そのため襄公は孟献子を衛の孫文子とともに呉に行かせ、呉の善道で会合させた。
秋、日でりがあったので、大雩(雨乞いの大祭)を行った。
9月23日、襄公は晋悼公・宋平公・陳哀公・衛献公・鄭釐公・曹成公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君、斉の公子光、呉の人、鄫の人と戚で盟約し、陳を守ることを誓った。叔孫豹は鄫を属国としておくのは不利と考え、鄫の大夫に命じて一国の代表として戚の会合に参加させた。
11月12日、楚が陳を討ったので、襄公は晋・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・斉と鄭の城棣で会合して陳を救った。
12月、襄公は帰国した。
12月20日、季孫行父が没した。
B.C.567夏、宋の華弱が魯に亡命してきた。
秋、滕成公が魯を訪れた。
莒が鄫を滅ぼした。
冬、叔孫豹が邾に出かけて和議の相談をした。
晋人が魯にやってきて、魯が鄫を助けなかった罪を責め正した。そこで襄公は季武子を晋に遣わして、襄公が即位した挨拶をさせ、さらに鄫を滅ぼした罪の裁きを受けようとした。
B.C.566春、郯の君が来朝して、初めて襄公に挨拶した。
4月、郊祭を行う日を3回卜したが、すべて不吉であったので、いけにえの牛を放した。
小邾穆公が来朝して、初めて襄公に挨拶した。
秋、季武子が衛に出かけて、衛の子叔の来聘に対する返礼を行い、返礼が遅れたことを弁解した。
10月、衛の孫林父が魯に来聘し、季武子の来聘に対する返礼を行い、孫良夫の盟いを忘れないようにしようと言った。
10月12日、襄公は孫林父と盟った。
楚の子嚢が陳を攻め囲んだ。襄公は、晋・宋・陳・衛・曹・莒・邾とともに鄭のイで会合して陳を助けた。
B.C.565春、襄公は晋に朝聘し、晋悼公への朝聘の回数をうかがった。
5月7日、晋悼公は諸侯の大夫を邢丘に会合させ、晋に朝聘すべき回数を命じた。魯からは季武子が出席した。
莒が魯の東境を攻めて、前に滅ぼした鄫の土地と魯との境をはっきりさせた。
9月、雨乞いの大祭を行った。
冬、晋の范匃が魯に来聘して襄公が晋を訪問したことに対する返礼をするとともに、鄭に軍を出すことを告げた。
B.C.564夏、襄公は季武子を晋に遣わし、前年に晋の范匃の来聘に対する返礼をした。
5月29日、穆姜が東宮で没した。
10月、晋が諸侯とともに鄭を討ち、襄公は季武子を参加させた。
11月、再度、晋に従って鄭を討った。
閏12月、襄公は晋悼公が戦いから帰るのを見送ったので、晋悼公は襄公と黄河のほとりで酒宴を開いた。
悼公「魯公は、いくつになられましたか」
季武子「沙随で会合した年に生まれました」
悼公「12歳になられましたな。国君は15歳で子を生むきまりですが、元服してから子を生むというのがさだめです。君には元服をなさるのがよい。あなたたちはその用意をされてはどうですか」
季武子「君が元服されるときは先祖の廟で行うものです。いまは旅先ですので用意をいたしかねます。兄弟の国で道具を借りて行いたいと思います」
悼公「よろしい」
襄公は引き揚げて衛に着くと、衛成公の廟で元服の式を行った。
B.C.563、4月1日、襄公は晋悼公、宋平公、衛献公、曹成公、莒の君、邾の君、滕の君、薛の君、杞孝公、小邾の君、斉の公子光、呉王寿夢と楚の柤で会合した。
夏、諸侯は偪陽を討った。
4月9日、孟献子の家来秦キン父叔梁紇狄虒弥が奮戦した。
5月8日、諸侯は偪陽を滅ぼした。
7月、楚の子嚢と鄭の子耳が魯の西境に攻め入った。
秋、莒が魯の東境に攻め入った。
襄公は晋悼公、衛献公、曹成公、莒の君、邾の君、斉の公子光、滕の君、薛の君、杞孝公、小邾の君とともに鄭を討った。
9月25日、諸侯の軍は鄭の牛首に進撃した。
冬、諸侯の軍は鄭の虎牢に城壁を築いてそこを守った。
楚の子嚢が鄭の救援に来た。
11月、諸侯の軍は鄭を遠回りして南進し、鄭の陽陵に進んだが、楚軍は退かなかった。
11月16日、諸侯の軍は潁水をはさんで楚軍と対陣した。
11月24日、諸侯の軍は引き揚げたため、楚軍も引き揚げた。
B.C.562、1月、季武子の提案で魯は三軍を持つこととなった。そこで公室の支配する民を三分して、そのひとつずつを三桓の三家が支配することとなった。
4月、襄公は晋悼公・宋平公・衛献公・曹成公・斉の太子光・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・杞孝公・小邾の君と会合して鄭を討った。
6月、諸侯は鄭の北林で会合し、鄭の向に軍を進めた。さらに北進して西方に向かい、鄭の瑣に宿営し、それから鄭の都を囲んで南門で威力を示し、西進して済隧の川を渡った。
7月10日、鄭人は恐れて和睦を結び、鄭の毫で同盟を結んだ。
9月、襄公は晋悼公・宋平公・衛献公・曹成公・斉の太子光・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・杞孝公・小邾の君と会合して鄭を討った。諸侯は鄭の東門で威武を示した。
12月1日、諸侯は鄭の蕭魚で鄭と会合した。晋悼公は叔向に命じて諸侯に告げさせた。襄公は臧武仲に命じて「われら同盟の諸侯は、小国が盟いに背いて討伐されても、わずかの功労でもあれば、罪は必ず許されるということですね」と答えさせた。
B.C.561、2月、莒が魯の東境に攻めてきて台を包囲した。そこで季武子は台を救い、勢いに乗じて莒の鄆に攻め入り、鐘を取り上げて襄公のたらいを作った。
夏、晋の士魴が来聘し、先年に兵を出して鄭を討ったことに対する礼を述べた。
秋、呉王寿夢が没した。そのため襄公は周文王の廟で哭礼を行った。
冬、襄公は晋に出かけ、晋悼公に朝礼を行い、夏の士魴の来聘に対する返礼をした。
B.C.560春、襄公は晋から帰国した。
夏、魯の附庸の国であるジが乱れて三分した。魯はジの救援に出かけたが、その乱に乗じてジを奪い取って自らの領土とした。
冬、防に城を築いた。
B.C.559春、呉が楚と戦って大敗したことを晋に告げてきた。晋悼公は魯・宋・斉・衛・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と向で会合した。襄公はこの会合に叔老と季武子を遣わしたが、晋は魯が二卿を遣わしたことに感心して、これ以後貢物を軽減して、ますます魯の使者を敬うようになった。
2月、日食があった。
夏、襄公は叔孫豹に命じて晋・宋・斉・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾とともに秦を討った。
4月、衛献公が斉に出奔した。襄公は厚成叔を衛に遣わしてお見舞いさせた。
莒が魯の東境に攻め込んできた。
冬、襄公は季武子に命じて晋・宋・衛・鄭・莒・邾と戚で会合させ、衛の公子の即位を認めた。
B.C.558春、宋の向戌が来聘して、B.C.562に結んだ盟いを続けるように話し合った。
夏、斉霊公が魯の北境に攻め入り、成を包囲した。襄公は成を救うために遇に赴き、季武子と叔孫豹が軍を率いて成の城外に城壁を築いて斉の攻撃に備えた。
秋、日食があった。
邾が魯の南境に攻め入ってきたので、襄公は使者を晋に遣わして報告した。そこで晋は諸侯を集めて邾と莒を討とうとしたが、晋悼公が発病したので中止となった。
11月9日、晋悼公が没したので、諸侯は会合することが出来なかった。
B.C.557、3月、襄公は晋平公・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と会合し、諸侯は侵略した土地を帰した。また晋平公は莒と邾が魯を討っていたので、莒犂比公・邾宣公を捕えた。
斉霊公が魯の北境に攻め入ってきた。
5月13日、地震があった。
秋、斉霊公が魯の北境に攻め入り、郕を包囲した。
冬、叔孫豹は晋を訪問して斉が魯を討ったことを報告した。しかし晋人はまだ先君(晋悼公)の忌明けの祭りをしていないことと、許と楚を討って民力が回復していないので、援助できなかったと弁解した。
B.C.556秋、斉の高厚が臧武仲の守っている防を包囲した。襄公は叔梁紇と臧疇臧賈に命じて夜に斉軍に攻め入らせ、臧武仲を救い出した。斉軍は防の囲みを解いて引き揚げたが、この戦いで臧堅が捕虜となって没した。
冬、邾が魯の南境に攻め入ってきた。
B.C.555春、白狄が初めて魯にやって来た。
秋、斉が魯の北境に攻め入ってきた。
10月、襄公は晋平公・宋平公・衛殤公・鄭簡公・曹成公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・杞文公・小邾の君と魯の済水のほとりで会合し、B.C.557の湨梁の盟いを再確認して諸侯と共に斉を討った。
11月、諸侯の軍は斉の都に攻め入った。
B.C.554、1月、襄公は沂水のほとりから引き揚げて斉の督揚で諸侯と盟いを結んだ。晋は邾悼公を捕えてB.C.556に魯を討ったことを責めた。そして諸侯は泗水のほとりに軍をとどめて魯の領地の境界を決め、邾の土地を取り上げて潡水の北の地を魯に帰した。魯襄公は晋の六卿を蒲圃でもてなし、三命の服を賜い、軍尉・司馬・司空・輿尉・候奄にはいずれも一命の服を賜った。
季武子が晋に出かけて、斉を討った出陣のお礼を述べた。また曹成公を葬った。
8月24日、孟献子が没した。
冬、襄公は斉を恐れて都の西郊に外城を築いた。
晋が斉と和睦して大隧で盟った。叔孫豹は晋の范匃と柯で会合した。
B.C.553、1月22日、魯は莒と和睦した。孟荘子が莒人と会合して莒の向で盟った。
6月3日、襄公は晋平公・斉荘公・宋平公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・杞文公・小邾の君と会合して、澶淵で盟った。
秋、孟荘子が邾を討った。魯はたびたび邾に攻められていたが、連年の会合のために報復することができなかった。
叔老が斉を聘問し、斉に対する恨みを棄てて国交を回復しようとした。
10月、日食があった。
季武子が宋に出かけて、先年に向戌が来聘したことに対する返礼をした。
B.C.552、1月、襄公は晋に出かけて、斉討伐の援軍を出してくれたことと邾の田を取り戻してくれたお礼をした。
邾の庶其が漆と閭丘の邑をもって魯に逃げてきた。季武子はこれに襄公のおばを妻として与えた。
9月、日食があった。
10月、日食があった。
曹武公が来朝した。
襄公は晋平公・斉荘公・宋平公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・莒の君・邾の君とともに商任で会合した。諸侯は晋を出奔した欒盈を受け入れることのないように取り決めた。
B.C.551、1月、襄公は会合から帰国した。
7月16日、叔老が没した。
冬、襄公は晋平公・斉荘公・宋平公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・莒の君・邾の君・薛の君・杞文公・小邾の君と沙隋で会合した。会合では欒氏を受け入れないように話し合った。
B.C.550、2月1日、日食があった。
夏、邾の畀我が魯に出奔してきた。
8月、叔孫豹が軍を率いて晋を助けに出かけ、晋の雍楡に軍を進めた。
8月10日、孟荘子が没した。季孫弥が孟孝伯を孟氏の後継ぎにしようとしたので、仲孫秩は邾に出奔した。
10月、孟氏は孟荘子の埋葬の墓道を切り開こうとして、人夫を臧氏から借りた。ところが臧氏は孟氏を警戒して武装兵を従えて工事を監視した。孟氏がこのことを季氏に告げたので、季武子は立腹して臧氏を攻めた。
10月7日、臧武仲は鹿門のかんぬきを切って、邾に出奔した。
B.C.549春、襄公は叔孫豹を晋に使いさせた。
前年に斉が晋を討った報復のため、孟孝伯が斉に攻め入った。
7月、日食があった。
8月、日食があった。
襄公は、晋平公・宋平公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・莒犂比公・邾悼公・滕の君・薛の君・杞文公・小邾の君と夷儀で会合し、斉を討とうとしたが、大水が出て斉を討つことができなかった。
冬、叔孫豹が周に聘問し、王城が修復されたお祝いを申し上げた。
この年、五穀が実らなかった。
B.C.548春、斉の崔杼が魯の北境を討った。襄公はこれを心配して晋に報告した。
夏、襄公は晋平公・宋平公・鄭簡公・曹武公・莒犂比公・邾悼公・滕の君・薛の君・杞文公・小邾の君と衛の夷儀で会合して、斉を討った。
7月11日、斉が降服したので、襄公は諸侯とともに重丘で同盟した。
B.C.547、6月、襄公は趙武・向戌・良霄・曹人と壇淵で会合して衛を討った。
B.C.546春、晋の胥梁帯烏余を捕らえて、斉・魯・宋・衛が奪われた土地を返還した。
斉の慶封が来聘した。
6月2日、諸侯が宋で会合するため、魯は叔孫豹を遣わした。この会合で晋と楚が和睦し、諸侯は斉と秦を除いて晋・楚どちらにも朝見することが決定された。このとき季武子が使者を遣わして君命を告げて「邾や滕と同じように(小国として貢賦を少なく)してもらえ」と言った。しかし叔孫豹は「わが国は諸侯と同様、一本立ちの国だ。どうしてそんな属国のようなことができよう」と言って君命に背いた。
9月6日、斉の崔杼の子崔明が魯に亡命してきた。
斉の公子が崔氏の乱を避けて魯に亡命してきた。
12月、日食があった。
B.C.545春、気候が暖かくて氷がなかった。
夏、邾悼公が魯に来朝した。
8月、ひでりがあったので、大雩の祭りをした。
冬、斉の慶封が魯に亡命してきた。斉人が魯にやって来て、慶封をかくまっていることを責めた。そこで慶封は呉に亡命した。
11月1日、襄公は去年結んだ宋の盟いを実行するために、宋平公・陳哀公・鄭簡公・許の君と一緒に楚に出かけた。襄公はその途上、鄭に立ち寄った時に黄河のほとりで良霄の慰労を受けたが、良霄は不作法であった。襄公が漢水まで行ったときに楚康王が亡くなった。そこで襄公は帰国しようとしたが、叔孫帯が「われわれは楚の国のために出かけてきたのです。どうして楚君ひとりのためでありましょうか。必ず行きましょう」と諌めたため、襄公はそのまま楚に朝見した。
B.C.544、4月、楚康王が葬られた。襄公は陳哀公・鄭簡公・許の君とともに会葬して西門の外まで送った。
襄公が帰国の途について楚の方城まで来たとき、季武子が領地である卞を占領した。季武子は公治を遣わして「卞を守っている者が謀叛を起こすと聞いたため、これを責めて土地を取りおさめました」と報告してきた。襄公は楚に軍を借りて季武子を討とうとしたが、栄欒が「それはいけません。国内に命令ができないからといって、外の諸侯に頼るならば、諸侯はだれが親しくしましょうか。いっそ、卞を夙(季武子)にくれてやる方がようございます」と言った。襄公は帰国しまいと思ったが、栄欒が式微の詩を歌って帰国を勧めたため、ようやく帰国した。
5月、襄公は帰国した。
6月、晋が杞の城壁の工事をしたため、襄公は孟孝伯をこれに遣わした。
晋の范鞅が魯に来聘し、杞の城壁工事の援助に対するお礼を言った。
晋の女叔斉が魯に来聘し、魯が以前に杞から攻め取った田地を杞に返すよう要求した。しかし襄公はすべてを返さなかった。
杞文公が魯に来聘した。
呉の季札が魯に来聘した。
冬、襄公は孟孝伯を晋に遣わして夏に来聘した范鞅に対する返礼をした。
B.C.543、1月、楚の子蕩が来聘し、郟敖が即位したことを通知した。
7月、叔弓が宋に出かけて、宋の共姫の葬礼に参加した。
宋の火災のために諸侯の大夫が会合して、宋に財物を贈ろうという相談をした。
10月、叔孫豹が晋・斉・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の大夫と集まって、衛の澶淵で会合した。
B.C.542、6月29日、襄公は楚宮(楚風の御殿)で没した。
襄公(燕)(ジョウコウ)【王】
燕公。荘公の子。〜B.C.618。
B.C.658即位する。
襄公(衛)(ジョウコウ)【王】
衛公(15(25)代目)。名は悪。献公の子。〜B.C.535。
B.C.544、5月5日、衛献公が没したため、公子悪は代わりに即位した。
6月、晋は杞に城壁を築いた。襄公は大叔儀をこれに遣わした。
B.C.542、12月、襄公は宋の盟い(B.C.546)を履行するため楚に赴いた。
B.C.541春、斉悪が鄭の虢で諸侯の大夫と会合した。
B.C.540春、晋の韓宣子が来聘した。襄公はこれをもてなした。
B.C.538夏、諸侯は楚霊王の招集に応じたが、襄公は病気であるとして断った。
B.C.536楚霊王が諸侯を会同したが、襄公は病と称して行かなかった。
B.C.535、8月27日、襄公は没した。
12月24日、襄公は葬られた。
襄公(単)(ジョウコウ)
単襄公
穣公(ジョウコウ)
魏冄
上甲(ジョウコウ)【神】
商王朝の先祖。王亥の子。
『史記』では微という。
『竹書紀年』では、先君王亥が有易の君主緜臣に殺されたため、上甲はこの緜臣を殺して王位を継いだとされる。
霄敖(ショウゴウ)【王】
楚子(15代目)。名は坎。若敖の子。〜B.C.759。
B.C.764即位する。
召忽(ショウコツ)【文官】
斉の臣。太子の教育係。〜B.C.685。
B.C.686、12月、斉襄公公孫無知連称管至父に襲撃され殺された。
公子糾は管仲と召忽とともに魯に出奔した。
B.C.685太子糾は後継者争いで小白に負けてしまう。小白が斉公になると、召忽は小白の圧力に屈した魯国に殺されそうになったため、自刎する。
鄶皷父(ショウコホ)【文官】
魯の臣。
B.C.544晋の范鞅が来聘し、魯襄公は宴を開いてもてなした。饗宴の終わりに射礼にふたり一組の射手を3組そろえるため、君の臣だけではそろわなかったため、鄶皷父は党叔と一組になって駆り出された。
蕭史(ショウシ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
穆公の時代の人。蕭を吹くことが巧みで、孔雀や白鶴を庭に呼び寄せることが出来た。穆公の娘弄玉と結婚し、夫婦で鳳凰に乗って飛び去った。
昭子(ショウシ)【公子】
秦の公子。懐公の子。
懐公よりも早く没す。
章子(ショウシ)【武官】
斉の臣。
B.C.299魏・韓と共に楚の方城を攻め、唐眜を殺す。
少師(ショウシ)【文官】
随の大夫。少師は官名。姓名は不明。〜B.C.704。
武公の君寵をほしいままにした。
B.C.706楚武王は随を討ち、大夫薳章を使者として和睦させた。
鬭伯比「わが楚が漢東(漢水の東の地)に勢威を振るうことができないのは、わが楚に問題があります。 武力を用いて諸侯に接するので、彼らは一致して楚に対抗するのです。
漢東の国で、随が最大ですが、随がもし尊大ぶるようになれば、隣国はこれを見棄てましょう。いま随の少師は驕り高ぶっているから、 楚の兵力を弱めて彼を油断させ、得意がらせましょう」
熊率且比「随には季梁という人がいるので、その策は何の効果もあるまい」
鬭伯比「あとで役に立つことになりましょう。少師は君の信任を得ているので、きっとこの計略がものをいう時がきます」
そこで武王は軍を減少させて、随の少師を軍中に迎え入れて楚軍の弱体を見せた。 少師は随に戻って楚を討つよう請うた。随侯はこれを許可しようとしたが、季梁が「これはわが随をあざむき誘う策略です。小国が大国に敵対できるのは、 小国が道にかなうことを行い、大国が道をはずれたことをするときです」と諌めたので、随は追撃をせず、政治にいそしんだ。 武王も随を恐れて討とうとしなかった。
B.C.704楚が再び攻めてきた。
季梁「楚に降参しましょう。許されなかったら、そこで戦いましょう。その方がわが軍の士気が上がり、敵の士気が下がります」
少師「戦いましょう。楚の軍を逃がしてしまいます」
随武公は戦うことに決め、楚の軍を見渡した。
季梁「楚人は左を尊びますから、楚君は左翼にいるでしょう。弱い右翼を攻めましょう。右翼が破れると楚軍は混乱しましょう」
少師「楚君と決戦しなければ敵と戦ったとはいえません」
少師は随武公の右として討って出て随の速キで戦ったが、大破した。随武公は逃げ去ったが、少師は捕えられて殺された。
接子(ショウシ)【在野】
斉の人。稷下の学士。
斉において列大夫とされ、邸宅を繁華な街路に建て、論議を交わした。
向子(ショウシ)【武官】
斉の臣。
B.C.284燕が斉を討った。向子は将として応戦したが、斉は破れて向子は戦車1台で命からがら逃げ出した。
捷菑(ショウシ)【公子】
邾の公子。邾文公の子。母は晋妃
B.C.614、5月、文公が没すると、兄の公子貜且が即位した(定公)
公子捷菑は晋に出奔した。
B.C.613秋、晋の趙盾は諸侯の連合軍800乗(6万人)を率いて、公子捷菑を邾に入れて君にしようとした。しかし邾の人はそれを拒絶して「貜且が年長であるから君に立てたのだ」と言った。趙盾は「言い分が道理にかなっているのに、それに従わないのはよくない」と言って引き揚げた。
襄子(ジョウシ)【文官】
衛の楽師。
B.C.491孔子が琴を学んだ。
孔子は10日経っても他の曲に進もうとしなったので、襄子は「他の曲にすすまれてはいかがでしょう」と言った。
孔子は「この節奏の数理がまだ理解できないのです」と答えた。
その後しばらくして、襄子は「もうこの曲の数理は理解なさいました。別の曲に進まれてはいかがでしょう」と言った。
孔子は「この曲の意味がまだわからないのです」と答えた。
その後しばらくして、襄子は「もうこの曲の意味は理解なさいました。別の曲に進まれてはいかがでしょう」と言った。
孔子は「この作曲者の人柄が、まだわからないのです」と答えた。
その後しばらくして、襄子は「あなたは深く思うところがあり、心楽しく、高く望み遠く志すところが、おありのように見受けられます」と言うと、孔子は「この作曲者の心は四方の国に王者たるもののように思われます。文王でなくて誰でしょう」と言った。
襄子は再拝して「わたくしの師匠も、たしかこれを文王の琴曲だとおっしゃいました」と言った。
小子憗(ショウシギン)【公子】
秦の公子。繆公の子。
B.C.632晋文公・宋成公・斉の将軍国帰父とともに城濮で楚を破った。
B.C.631、6月、小子憗は、魯釐公・晋の王子虎・晋の狐偃・宋の公孫固・斉の国帰父・陳の袁濤塗と会合して、翟泉で盟いを結び、践土の盟を温め、鄭を討つ相談をした。
小子侯(ショウシコウ)【王】
晋侯(15(16)代目)。名は小子。哀侯の子。〜B.C.704。
B.C.709哀侯が曲沃武公に捕らえられたため、晋人に擁立される。
B.C.704小子侯は曲沃武公におびき寄せられて殺される。
商子車(ショウシシャ)【武官】
斉の臣。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、右翼侯朝の御者となった。
壌駟赤(ジョウシセキ)【在野】
孔子の弟子。姓は壌駟、名は赤、字は子徒。
少室周(ショウシツシュウ)【武官】
趙鞅の家臣。
少室周は趙鞅の戎右であった。あるとき牛談の力が強いということを聞いて、少室周は彼に力比べを願い出たが、勝てなかった。そこで少室周は戎右の役を牛談に譲った。趙鞅はそれを許可したが、少室周を家宰に取り立てて「賢人と知って譲るのは、教訓とすべきである」と言った。
上之登(ジョウシトウ)【武官】
斉の臣。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち副車には邢公が乗ったが、上之登はその御者となった。
少司命(ショウシメイ)【神】
天空の神。
大司命とともに、寿命と運命とを司る神と信じられた。『楚辞』「九歌」では大司命は男神、少司命は女神とされる。
昌若(ショウジャク)【神】
相土の子。
向寿(ショウジュ)【将軍】
秦の将軍。宣太后の一族。
昭襄王とは若いときから仲良く成長したので、任用された。
B.C.308甘茂とともに魏へ行って、韓の地を得ようとした。
B.C.306宜陽を守備し、ついで韓を討とうとした。韓の公仲蘇代をつかわした。
蘇代「韓は滅亡に瀕すれば、公仲はかならずみずから私兵を率いて秦に手向かいましょう」
向寿「わたしは韓を滅ぼそうとするのではない」
蘇代「公孫奭は韓に与し、甘茂は魏にくみし、あなたは楚にくみしています。しかし楚はよく心変わりするので、あなたは韓と親善しておくべきです」
向寿「いかにもそれを希望する」
蘇代「甘茂は武遂と宜陽を返還しようとしていますが」
向寿「どうすればよいか」
蘇代「楚・韓を味方につけて安んじ、斉・魏の罪を責めれば、公孫奭と甘茂はあなたに手出しできないでしょう」
しかし甘茂は昭襄王に進言して、武遂を韓に返した。向寿は甘茂を恨んだので、甘茂は斉に出奔した。
楚の申し出により、向寿は秦駐在の楚の宰相となった。
B.C.294韓を討ち、武始を取る。
小戎子(ショウジュウシ)【女官】
献公の夫人。狐姫の妹。小戎の娘。
小戎子は夷吾(恵公)を生んだ。
常寿過(ジョウジュカ)【武官】
越の臣。
B.C.542、6月、楚霊王が申で諸侯と会盟したとき、常寿過は楚霊王に辱められた。
B.C.537冬、楚が呉を討ったとき、常寿過は軍を率いて楚の瑣で楚霊王と合流して共に呉を討った。
B.C.529常寿過は自分と同じように楚霊王に礼遇されている楚の蔿居、許の大夫、蔡の曼成然らに誘い出されて乱を起こし、固城を囲み、息舟の邑を陥れてそこに城壁を築いて立てこもった。ついに叛乱軍は都に入り、楚霊王は自殺した。
商子游(ショウシユウ)【武官】
斉の臣。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、商子游は後陣夏之御寇の御者となった。
殤叔(ショウシュク)【王】
晋侯(9(10)代目)。穆侯の弟。
B.C.786穆侯が没すると代わって立つ。
B.C.780公子仇に襲われて侯位を失う。
蕭叔(ショウシュク)【公子】
蕭の公子。蕭君の弟。
B.C.671夏、蕭叔は魯を聘問し、魯荘公と会った。
仍叔(ジョウシュク)【文官】
周王朝の臣。
向戌(ショウジュツ)【宰相】
宋の宰相。左師。
B.C.576、6月、宋共公が没した。司馬蕩沢が宋の公室を弱体と見て公子を殺した。右師華元が晋に亡命しようとしたので魚石が華元を引きとめようとした。
魚府が「右師が引き返したらきっと蕩沢を討つでしょう。そうしたら桓氏(桓公の子孫)は全滅するでしょう」と反対すると魚石は「もし右師が蕩沢を討っても向戌がいるから全滅はしないだろう」と言い、華元を引きとめた。
華元は蕩沢を討ち、桓氏は楚に亡命した。華元は公子を擁立し、向戌を左師、老佐を司馬、楽裔を司寇に任命して民を安心させた。
B.C.565、5月7日、晋・魯・鄭・斉・宋・衛・邾の大夫が邢丘に会合した。宋からは向戌が参加した。
B.C.564春、宋で火災があった。向戌は子罕の命で、左官を指揮した。
B.C.563、5月、諸侯は偪陽を討ち滅ぼした。晋悼公は向戌の宋を晋の与国にする努力を認めて、偪陽を与えようとした。向戌は辞退して「晋君においてはわが宋を愛され、偪陽をわが君に賜ってくださるなら、家来たちは心安らかになり、これ以上のお恵みはございません。わたしひとりだけ領地を頂くということは、これ以上の大きな罪はございません」と懇願したので、晋は宋平公にこれを与えた。
B.C.562鄭の国境を守る役人が宋に悪事をしかけてきたので向戌は鄭に攻め込んで、鄭を大破した。
鄭が宋を討ったので、諸侯は鄭を討った。
4月19日、向戌は斉の太子とともに真っ先に攻め込んで鄭の都の東門に攻め込んだ。
B.C.558、1月、向戌は魯を訪れてB.C.562に結んだ盟いを続けるよう話し合った。このとき向戌は孟献子に会い、向戌はその邸宅が立派なことを咎めて「あなたはよい評判を受けているのに、こんな邸宅を立派にするのはよろしくありません」と忠告した。孟献子は「わたしの留守中に兄がつくったのです。つくり直すのは二重の苦労ですし、兄をそしりたくありません」と答えた。
B.C.557晋平公が諸侯と温で宴会を催した。このとき斉の高厚が無礼であったため、向戌は晋の荀偃、魯の叔孫豹、衛の甯恵子、鄭の子蟜、小邾の大夫と盟って斉を討つことを申し合わせた。
B.C.556華閲が没すると華臣は華閲の子華皐比の家を侮って、賊を使って家宰華呉を向戌の家の後ろで殺した。向戌は恐れおののいて「このわたしには罪はない」と言った。賊は「いや皐比が内々で華呉を征伐したのですからご心配なく」と言った。宋平公はこれを聞いて「華臣のやつは本家を荒らしたばかりではなく、国の政治までも乱した。必ず彼を追い出せ」と言った。しかし向戌は「華臣も国の卿です。大臣が不順であるのは国の恥です。隠して公表しないのが得策です」と進言したので、斉平公は華臣を許してそのままにした。この後、向戌は華臣と顔を合わせるのを嫌って、短い鞭を作って華臣の門の前を通ることがあれば、必ずその鞭を打って駆け走った。
B.C.547、6月、向戌は晋の趙武・魯襄公良霄・曹人と壇淵で会合して衛を討った。しかし向戌は会期に遅れてしまった。
秋、太子痤が楚と通じて謀叛を起こそうとしているという報告があった。宋平公は向戌と夫人棄に尋ねた。向戌は太子痤を恐れ嫌っていたので「かねがねその噂を聞いておりました」と言った。そこで宋平公は太子痤を捕らえた。太子痤が「だけはきっとわたしを助けてくれるだろう」と言うのを向戌は聞くと、公子佐とむだな長話をして正午が過ぎた。そこで太子痤は自殺した。
しばらくたって太子痤が無罪であることが判明した。
B.C.546向戌は晋の趙武と楚の屈建と仲がよかったため、晋と楚を和睦させて戦をなくし、また自分の名声を上げようとして諸侯に働きかけて会合させようとした。向戌は晋に出かけて趙武に話すと、晋人は承諾した。向戌は次に楚に出かけると、楚人もこれを承諾した。さらに向戌は斉に出かけ、秦に出かけて承諾を受けた。そこで諸大国は小国に告げて宋で会合することになった。
6月21日、向戌は陳に出かけ、楚の屈建に従って楚と盟いの言葉を定めた。
6月22日、屈建は向戌に、晋・楚についている諸侯が、晋・楚どちらにも朝見するようにしてほしいと申し出た。
6月24日、向戌は趙武にその旨を伝えると、趙武は承諾した。
6月26日、向戌はこれを屈建に伝えると、屈建は早馬でこれを楚康王に報告した。
7月2日、向戌は宋に帰国した。
7月5日、諸侯は宋の西門の外で盟いを結んだ。これを弭兵の会という。
向戌は恩賞を望んで「この度、一命を捨てる思いで成功させた盟いの功績に相当する土地を頂きたい」とお願いした。そこで宋平公は向戌に60邑を与えたが子罕がこれを諌めたため、向戌はこれを辞退した。
B.C.545、11月、宋平公は楚に出かけたが、楚康王が没した。向戌は「われわれは楚の君ひとりのために行くのだ。ひとまず帰国して民を休ませるのがよい。楚が新しい君を立てるのを見たうえで、これに対する策を考えよう」と言ったので、宋平公は帰国した。
B.C.543、10月、向戌は晋の趙武、斉の高子尾、魯の叔孫豹、衛の北宮佗、鄭の子皮、小邾の大夫と集まって、衛の澶淵で会合した。
B.C.541春、向戌は鄭の虢の会盟に出席して趙武、公子国弱斉悪、公子、叔孫豹、公孫帰生、子皮、許の人、曹の人と会同した。
B.C.538夏、諸侯は楚の申で会合した。楚霊王は会盟の礼を向戌と鄭の子産に尋ねた。向戌は公爵の君が諸侯を会合させるときに用いる6つの礼を進言した。君子は「合左師(向戌)はりっぱに宋の先代の礼を守り、子産はりっぱに鄭の小国を助けた」と批評した。
B.C.536華亥が寺人と結託して華合比を追放して代わって右師となった。向戌は「お前のような者はきっと滅びるだろう。お前は本家を滅ぼした。まして他人を滅ぼすことなど何とも思わないだろう。そうすれば他人もお前を滅ぼすことを何とも思わないだろう」と言った。
将鉏(ショウショ)【武官】
宋の臣。
B.C.575夏、鄭の子罕が宋に攻め寄せた。将鉏は楽懼とともにこれを宋の汋陂で破ったが、警戒を怠ったため鄭軍に襲撃されて打ち破られ、将鉏は楽懼とともに鄭に捕らえられた。
昭雎(ショウショ)【宰相】
楚の宰相。
B.C.303楚は秦と和合していたが、斉湣王から斉・韓・魏と結ぶよう書簡ですすめ、楚懐王は群臣に謀った。昭雎は「深く斉・韓と親しみ、秦の臣樗里疾を重んじるべきです。樗里疾は斉・韓で重んじられているため、さらに楚がこれを重んじれば、秦王は疾を棄てられなくなり、疾は必ず秦に取りなして、楚に土地を還してくれるでしょう」と述べたので、懐王はこの意見をいれ、斉と和合し、さらに韓と親善した。
B.C.299秦昭王は楚に書簡を送り、武関で会合して盟約するよう請うた。懐王は行って欺かれるのが恐ろしく、ゆかなければ、秦王が怒るのが恐ろしく思い悩んだ。
昭雎は「王にはお出かけにならず、兵を出してお守りになるに限ります。秦は虎狼にひとしく、信用なりません。諸侯併呑の野心を抱いております」と言ったが、王は子蘭の言をとって、秦に行き、欺かれて捕えられてしまった。
そこで大臣たちは国内にいる公子を代わりに立てようとした。昭雎は「王も太子も諸侯の国で苦しんでおられますのに、いままた王命に背いて庶子を立てるのはよろしくない」と反論した。そこで大臣たちは斉にいつわって王が薨じたと告げて、公子横を帰国させて、彼を擁立した。
B.C.282頃襄王(横)は使者を諸侯に遣わし、ふたたび合従して秦を討とうとした。楚はまず秦と親しい周を侵そうとした。
周王は武公を遣わし、昭雎に「楚は周を臣従させようとしていますが、それはいけません」と言った。昭雎が「周を侵そうなどということはありません。しかし、どうして侵してはならないのでしょうか」と問うた。武公は「周は方百里にすぎませんが、その名は天下に響き渡り、諸侯の宗主であります。だから、たとえ周の土地を取っても何の利もありませんし、逆に君を弑した汚名を受けることになります」と答えた。昭雎は納得し、このことは沙汰やみとなった。
向勝(ショウショウ)【文官】
宋の臣。
B.C.522、6月9日、華氏と向氏が反乱をおこし、向勝は華亥に米倉に閉じ込められた。
昭襄王(ショウジョウオウ)【王】
秦王(3(33)代目)。名は稷。武王の弟。母は宣太后。〜B.C.252。
B.C.307武王が没すると、子がなかったため後継者争いが起こった。趙武霊王は代の宰相趙固に命じて、秦の公子稷を燕から迎えて秦に送りとどけた。魏冄の支援により、昭襄王は代わって立った。
B.C.306厳君樗里疾を宰相とする。甘茂は秦を逃れて斉に赴いた。蘇代が秦に来て「甘茂は非凡の士であります。また甘茂は長く秦に仕えていたので、秦の険阻平坦をみな知っています。もし彼が斉を動かし、韓・魏と同盟して逆に秦にはかるなら、秦のためにはなりますまい」と言った。そこで昭襄王は即刻、甘茂に上卿の位を与えて宰相の印をもって斉から迎えようとしたが甘茂は帰ってこなかった。
B.C.305彗星が現れた。
庶長が大臣・諸侯・公子と謀反を起こしたため、みなを誅した。
昭襄王は若かったので、宣太后が摂政し、魏冄に政治を委ねた。
B.C.304昭襄王は冠礼を行う。また楚懐王と黄棘で会い、楚に上庸を与える。
B.C.303昭襄王は魏を討ち、蒲阪を取る。また彗星が現れる。
B.C.302魏王が臨晋に来朝した。魏に蒲阪を還した。
B.C.301蜀侯が背く。惲が進献したものを、夫人がそれに毒を入れたため、背いたと思われたのだった。
司馬錯に命じ、蜀の地を平定させる。
庶長が楚を討ち、首級二万を斬る。
斉の孟嘗君の噂を聞いて、弟の涇陽君を斉に人質として出し、孟嘗君に会見を求めた。しかし孟嘗君は応じなかった。
日蝕があり、昼もなお暗かった。
B.C.300昭襄王は楚を討ち新城を抜く。
公子惲の子を蜀に封じて蜀侯とする。
B.C.299昭襄王は羋戎に命じて楚を討ち、新市を取る。
B.C.298孟嘗君が秦に来て宰相となる。
奐が楚を討ち8城を取り、楚将景快を殺す。
また公子惲の無実が証明されたので、使者を派遣して改めて城郭内に埋葬した。
B.C.297楚懐王が秦に入朝し、昭襄王は懐王を拘留する。
薛文が金を受け取ったということで宰相を免じ、楼緩を丞相に任じる。
B.C.296斉・韓・魏・趙(中山)・宋の5国に攻められ、塩氏まで行って兵を還した。
昭襄王は公子に「わたしは河東の地を割いて三国と講和したいと思うが、どうだろう」と尋ねた。
公子他は「講和されてもされなくても後悔されましょう」と言った。昭襄王が「どうしてか」と問うと「河東の地を割いて、三国の兵が引き揚げれば、きっと『惜しいことをした。三国が引き揚げようとしたところへ、河東をくれてやるとは』とおっしゃるでしょう。その反対に、講和されなければ咸陽は危うくなり、きっと『惜しいことだ。たった河東3県を惜しんだばかりに大敗した』とおっしゃるでしょう」と答えた。
そこで昭襄王は韓・魏に河北および封陵を与えて和睦する。
彗星が現れる。
楚懐王は趙に逃げたが、趙が受け付けなかったので、またこれを捕らえた。懐王は秦で死んだ。
B.C.295昭襄王は楼緩を免じ、穣公魏冄が丞相となる。また楚に粟五万石を与えた。
B.C.294昭襄王は向寿に命じ、韓を討って武始を取る。
白起を左庶長に任じ、新城を攻める。
五大夫呂礼が魏に奔った。また任鄙を漢中の守とする。
B.C.293昭襄王は白起を左吏に任じ、韓・魏を討たせ、伊闕で首を斬ること24万、公孫喜を虜にし、5城を抜いた。
また白起を国尉に任じ、黄河を渡って魏の安邑以東、乾河にいたる地を取った。
秦が魏を伊闕で破ると、西周は秦に攻められることを恐れて、周足を秦に使者として派遣して和議を講じた。
B.C.292昭襄王は白起を大良造に任じ、魏を討たせ、垣を取り、大小61城を落とし、また魏に還した。また楚を討って宛を取る。
宰相魏冄が病のため請うて職を辞めた。そこで客卿の寿燭が宰相となった。
B.C.291昭襄王は寿燭を罷免し、魏冄を再び宰相とする。
左更司馬錯に命じ、魏を討たせ、軹と鄧を取る。
そこで涇陽君を宛に、公子を鄧に、魏冄を陶に封じて諸侯とする。
B.C.290秦は魏を討った。魏は河東の地、方四百里を献じたが、魏冄は魏の河内を攻略し、六十余城を陥れた。
城陽君が秦に入朝し、東周の君も来朝する。また昭襄王は宜陽に赴く。
B.C.289昭襄王は司馬錯・白起に命じ、垣・河雍・決橋を攻めて、これらを取った。
B.C.288昭襄王は西帝を称し、魏冄を斉に遣わして湣王に帝号を贈ったが、斉がすぐに帝号を捨てたので、昭襄王もとりやめた。
呂礼が秦に帰服する。また魏冄を宰相に任じる。
B.C.287昭襄王は漢中に行き、また上郡の北河に赴く。
B.C.286昭襄王は司馬錯に命じ、魏の河内を攻め、魏は安邑を秦に献じる。
安邑の民を募集して、河東の地にうつし、移った者には褒美として爵位を賜い、また罪人を赦してそこにうつした。
涇陽君を宛に封じる。
B.C.285昭襄王は蒙武に命じ、斉を討つ。
河東の地を分けて九県にする。
頃襄王と宛で会見する。
また蜀侯綰が謀反したと疑いを持ち、これを誅殺し、ただ蜀郡太守を置くのみとした。
B.C.284昭襄王は都尉斯離に命じ、三晋および燕と共に斉を討ち、済水の西で破る。
魏王と宜陽で、韓王と新城で会見する。
B.C.283昭襄王は楚頃襄王と鄢で会見し、また穣で会った。
魏の安城を取り、大梁に赴く。燕と趙が魏を援けたので、秦軍は引き上げた。
魏冄の宰相職を免ず。
B.C.282昭襄王は趙の2城を抜いた。
韓王と新城で、魏王と新明邑で会見する。
B.C.281昭襄王は罪人を赦して穣に移す。また魏冄を宰相に任じる。
B.C.280昭襄王は司馬錯に命じ、楚を討つ。
罪人を赦して南陽に移す。
昭襄王は白起に命じ、趙を討ち、代と光狼城を取る。
昭襄王は司馬錯に命じ、隴西から兵を出して蜀に出て、楚の黔中を落とす。
あるとき趙恵文王は楚の和氏の璧を手に入れた。昭襄王はこれを聞いて「願わくは15城をもって璧と交換したい」と申し入れた。恵文王は藺相如を秦に送った。
藺相如は昭襄王に謁見し、璧を献上した。昭襄王は官女や左右のものに手渡しして見せた。藺相如は昭襄王に約束を果たす心がないのを見破ると「璧にきずがあります。お見せしましょう」と言って璧を取り戻すと、柱を背にして立ち、怒髪冠を衝かんばかりの形相で昭襄王を叱咤して「大王は儀礼が傲慢で、また璧をもてあそんだ。わたくしは大王が約束を守らないと考えます。あくまで璧を奪い取ろうとするなら、わたくしの頭はこの璧もろとも柱に打ち砕けるだろう」と言った。
昭襄王は無礼を詫び、地図に示しながら、子の地を与えようと指差した。藺相如は内心、秦は約束を守らないと推量し「和氏の璧は天下の宝であり、趙王は璧を送るとき、5日の間の斎戒をしていただきたい。そのうえで璧をたてまつりましょう」と言った。
昭襄王は仕方なくこれに従った。藺相如は従者に璧を隠し持たせ、ひそかに趙に送り届けさせた。そして昭襄王に謁見して「わたしは大王に欺かれることを恐れ、璧を趙に送り届けました。わたくしの行為は死罪にあたります。なにとぞ煮殺していただきたい」と言った。昭襄王は「いま相如を殺したとて璧はどうなるものでもなく、そのうえ秦・趙の間は絶たれよう。むしろ厚遇して趙に帰したほうがよい」と言って帰国させた。
B.C.279昭襄王は白起に命じて楚を討ち、鄢と鄧を取り、罪人を赦してこの地方に移す。
昭襄王は趙を討ち、2万人を殺した。昭襄王は恵文王と会見した。昭襄王は恵文王を辱めようとしたが、藺相如によって防がれた。
B.C.278昭襄王は白起に命じて楚を討ち、郢を取り、南郡とした。楚頃襄王は東に逃亡する。
周王赧が秦に来朝する。楚頃襄王と襄陵で会見する。白起を封じて武安君とする。
B.C.277昭襄王は蜀郡守張若に命じて楚を討ち、巫郡および江南を取り、黔中郡を置く。
B.C.276白起が魏を討って2城を取る。また楚に江南を還した。
B.C.275昭襄王は宰相穣公魏冄に命じて魏を討ち、大梁に迫り、暴鳶の軍を破って首級四万を斬り、暴鳶を遁走させる。
魏は3県を秦に入れて和を請うた。
B.C.274昭襄王は客卿胡傷に命じて魏を討ち、巻・蔡陽・長社を取る。
魏将芒卯を討ち、華陽でこれを破り、首級13万を挙げる。
また白起に命じて趙を討ち、趙将賈偃と戦い、その士卒2万人を河中に沈めた。
昭襄王は魏・韓を臣事させ、白起に命じて楚を討とうとした。秦に使いに来ていた楚の春申君はこれを聞き、昭襄王に上書して「天下は秦・楚より強い国はありません。王は楚を討とうとされますが、これはちょうど両虎が互いに戦うようなもので、ともどもに傷ついてしまい、良策とはいえません。
また大王は天下の地を領有し、大王の威力はここに極まったと言うべきです。この威力を保守し、仁義の道を厚くされるなら、いにしえの三王や五覇と肩を並べられましょう。逆に楚と和親されるのがよろしいかと存じます」と言った。
昭襄王は「よし」と言って出兵を取りやめ、楚と和親した。
B.C.273楚は秦と和平し、人質として太子熊元(完)と春申君を差し出した。
B.C.272韓・魏・楚を援けて燕を討つ。またはじめて南陽郡を置く。
B.C.271昭襄王は客卿に命じて斉を討ち、剛・寿を取り、これを穣公魏冄に与える。
范雎を登用する。
B.C.269昭襄王は中更胡傷に命じて趙を討ち、閼与を攻めるが、陥ちなかった。
また五大夫に命じて魏を討ち、懐を取る。
B.C.267悼太子が魏で没し、芷陽に帰葬する。
B.C.266夏、魏を討ち、邢丘を取る。
B.C.265安国君を太子とする。
7月、宣太后が薨じ、芷陽の酈山に葬る。
9月、范雎の進言により穣公魏冄の宰相職を免じ、范雎を宰相に任じる。
B.C.264昭襄王は白起に命じて韓を討ち、陘城を攻めて9城を落とし、首級5万を挙げた。また趙を討ち、華陽でこれを破った。
楚頃襄王が病で倒れたたため楚の太子完は帰国を願い出た。昭襄王は「まず太子の傅(春申君)を遣わして、病気を見舞わせたうえで取り計らおう」と答えた。
春申君は一計を案じ、太子完に「いま太子が帰国されなければ陽文君の子が後を継ぎ、太子は宗廟に仕えることができなくなりましょう。使者といっしょに秦を抜け出されるのが上策と思います。わたくしは踏みとどまって、死を賭して事に当りましょう」と言った。
太子完は衣服を変え、使者の御者になりすまして出国し、春申君は太子が逃げるまで病と称して外出しなかった。
しばらくして昭襄王に申し出て「楚の太子はもはや帰国しました。逃がした歇の罪は死に当りましょう。どうか死罪を賜りますように」と言った。昭襄王は大いに怒り、自害を許そうとしたが、范雎が「歇は人臣として一身を投げ出して主君に殉じたのであります。もし太子が位に即けば、かならず歇を重用しましょう。だから罰しないで帰国させ、楚と親しむのがよろしいかと思います」と言ったので、春申君の帰国を許した。
B.C.263昭襄王は白起に命じて韓を討ち、南陽を攻めて太行山の羊腸の道を遮断した。
B.C.262昭襄王は五大夫に命じて韓を討ち、10城を取る。
また白起に命じて韓を討ち、野王を降服させる。
華陽君悝が都を去って封地に赴いたが、途中で没した。
B.C.261昭襄王は白起に命じて韓を討ち、緱氏・藺を落とす。
B.C.260昭襄王は左庶長王齕に命じて韓の上党を取った。しかし上党の民は趙に降ったので、趙は出兵した。
趙軍は長平に駐屯し、上党の民を按撫した。
4月、王齕は趙を攻め、趙は廉頗を将軍として抗戦させた。
6月、秦軍は趙軍を破り、城砦二ヶ所と将校4人を得た。
7月、趙軍は塁壁を築いて守った。秦はそれを攻めて将校2人を捕らえ、西方の塁壁を奪った。廉頗はいよいよ塁壁を高くして守り、秦は挑戦したが廉頗は応じなかった。
孝成王が応戦しないので、しばしば彼を責めた。一方、范雎は人を趙にやり千金を撒いて逆宣伝させ「秦がおそれているのは馬服君趙奢の子趙括が、軍を指揮してわがほうにあたることである。廉頗ならくみしやすい。やがて降伏するだろう」と言わせた。そのため孝成王は廉頗を更迭して、趙括を将軍とした。秦はこれを聞いて、ひそかに白起を上将軍とし、王齕を副将として、軍中に「武安君が軍を指揮するのをもらす者があれば斬罪にする」と命令した。
趙括は着任すると、すぐ兵を進めて秦軍を撃った。白起は敗走すると見せかけて二手の伏兵を張って、敵をおびやかそうとした。趙軍は勝ちに乗じて追撃し、秦は塁壁でこれに抵抗した。一方、秦の伏兵の一手2万5千人は、趙軍の後方を遮断し、別の一手5千騎は、趙軍と趙の塁壁の間を遮断したため、趙軍は二分され、糧道を絶たれた。
昭襄王はこれを聞くと、みずから河内に出かけ、民にそれぞれ爵一級をやり、年15以上の者を徴発して、大挙して長平に行かせ、趙の援軍と糧道をさらに遮断させた。
9月、趙軍の絶食は46日間に及び、みなひそかに殺しあって人肉を食った。最後に血路を開こうとして4隊となって秦の塁を反撃し、四、五たびも繰り返したが、出られなかった。趙括は精兵とともに白兵戦を演じたが、秦はこれを射て趙括を殺した。そこで趙軍40万は白起に降服した。
白起は心中考えて「さきに上党の邑民は趙に帰服した。趙の士卒も、いつ心変わりするかわからない。皆殺しにしなければ、叛乱を起すだろう」と。そこではかって士卒40万をことごとく穴埋めにして殺し、年少の者240人のみ趙に帰した。
B.C.259、10月、ふたたび上党を平定する。軍を二手にわけ、王齕に皮牢を落とさせ、司馬梗に太原を平定させた。范雎が「秦の兵は戦いに疲れております。韓・趙が地を割いて、和を講じるのを許し、わが士卒を休息させてやりたいと存じます」と進言したので、これを聴き入れ韓の垣雍と趙の六城を取って講和した。
はじめて三軍を編成する。
B.C.258正月、戦を止めて上党を守る。
10月、昭襄王は五大夫王陵に命じて趙を討ち、邯鄲を攻める。落ちなかったので、白起を王陵に代わらせようとしたが、白起は病気と称して断った。
B.C.257正月、増兵して陵を援けたが、王陵の作戦がよくないので王齕に代わらせた。
それでも落ちなかったので白起は「秦はわたしの言うことを聴かなかったが、今にしてどうか」と言った。これを聞いて昭襄王は大いに怒り、白起を罷免して士卒に落とし、陰密に移すよう命令した。
10月、昭襄王は張唐に命じて魏を討つ。
B.C.256、11月、昭襄王は范雎や群臣と論議し「白起が陰密へ移る時、心中なお怏怏として承服せず、恨みがましいところがあった」として、白起に剣を与えて自害を命じた。そこで白起は自殺した。
昭襄王は張唐に命じて鄭を討ち、国都を落とす。
12月、増兵して汾城の郊外に陣取る。
王齕は邯鄲を抜くことができずに退いて汾城郊外の軍に逃げ込んだ。
また晋を討ち、首級6千を挙げる。
汾城を攻め、張唐は寧新中を抜く。寧新中を改めて安陽と名づけ、初めて橋を架けた。
に命じて韓を討ち、陽城・負黍を取り、首級4万を挙げた。
また趙を攻めて20余県を取り、殺した者と捕虜を合わせて9万であった。
西周の王赧が秦にそむき、諸侯と結んで伊闕を出発して秦を討ち、陽城との連絡を絶った。そこで摎に西周の攻撃を命ずると、王赧は自らはしって秦に投じ、頓首して罪を謝り、領地の36邑、戸口3万をことごとく秦に献じた。
昭襄王は范雎の仇を報いてやろうと思い、平原君を秦に招きいれて、魏斉を渡すよう脅迫した。しかし平原君のもとにすでにいなかったので、趙孝成王に書簡を送って魏斉の首を求めた。考烈王は不意に平原君の家を囲んだが、魏斉は夜陰にまぎれて脱出し、虞卿に救いを求めた。虞卿は宰相の印綬を解いて魏斉と共にひそかに逃げ、信陵君をたよった。信陵君は秦を恐れて、受け入れるかどうか悩んだが、侯嬴の進言でこれを受け入れようとした。しかし魏斉は信陵君が受け入れてくれないと思い、憤ってみずから首をはねて死んだ。
孝成王はその首を探し出し、秦に持たせたので、秦は平原君を趙に帰した。
B.C.255周の民が東方に逃げ、周に伝わった九鼎は秦の手に入り、周は滅んだ。
B.C.254天下の諸侯が秦に入朝したが、魏がおくれて入朝しなかったため、摎に魏を討たせ、呉城を取った。
韓王が入朝した。魏は国をあげて秦に任せ、その命令を奉じた。
また河東太守王稽が諸侯と内通したので、法に問うて誅殺した。
B.C.253昭襄王は上帝を雍で祭った。
B.C.252、秋に没す。
小辛(ショウシン)【皇帝】
商王朝19代王。般庚の弟。
小臣ホウ(ショウシンホウ)
ホウ
小臣艅(ショウシンユ)
渉正(ショウセイ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
字は玄真。巴東の人。渉正が目をあけていることを見たことがなかったので、弟子が是非にといって頼んだ。目をあけると霹靂のごとき音を発し、その光は雷のようであり、弟子たちはみな思わず地にひれ伏した。
傷省(ショウセイ)【武官】
宋の臣。
B.C.520、2月23日、楚の蔿越が宋に使者を送って謀叛人をもらいうけようと申し出たため、傷省は華亥向寧華定皇奄華貙華登臧士平とともに楚に出奔した。
聶政(ジョウセイ)【在野】
韓の軹邑深井里の人。刺客。
人を殺したので復讐を避け、母と姉とともに斉で家畜の屠殺をなりわいとしていた。
厳仲子が韓列侯に仕え、宰相俠累と仲違いして出奔し、諸方に遊んで俠累に復讐できる人を捜しながら斉に来た。
ある者が聶政を推挙したので、厳仲子は面会して交際を求めた。そして黄金百鎰を贈ろうとして「わたしには仇があるので諸国を遊行しているのです。百金は母堂のためにお使いください」と言った。聶政は「今、屠殺をしているのも、ただ老母を見送りたいからで、母が在世するかぎりわたしの身体は人に捧げられないのです」と答えた。しかし厳仲子は最後まで主客の礼をつくして去った。
その後、聶政の母が死に、喪服の期間が過ぎると「厳仲子は諸侯の大臣宰相であるのに、わたしと交わりを結ばれた。今やおのれを知る者のために仕えよう」と思い、厳仲子に身を投じた。
B.C.397厳仲子はつぶさに事情を告げた。聶政は「いま他国の宰相を殺そうとするのに、多数の人を使ってはいけません。人が多いと二心をもつ者が出るかもしれません」と言って同行を辞退した。
聶政は単身出発した。俠累は役所におり、武器をもった護衛が多かったが、聶政はいきなり階上に上って俠累を刺し殺した。そして大声を上げつつ数十人を撃ち殺し、みずから自分の面皮を剥ぎ目玉をえぐり、腹を切ってはらわたをつかみ出して、ついに死んだ。
韓は聶政の屍を市中にさらして賞金を懸けて姓名をたずねた。
聶政の姉はこれを聞くと憂悶して「それはわが弟である。厳仲子はわが弟の知己であった」と言い、韓に赴いた。
栄は屍を見て「これは軹の深井里の聶政というものです」と言った。道行く人は「この男は、王が千金をかけて素姓を知ろうとしているのをしらないのか。どうしてわざわざ知っているというのか」と言った。
栄は「厳仲子は弟の人物を見込み、その恩義は深く厚かったのです。これに報いるのにどんな道がありましょう。士はおのれを知る者のために死すといいます。わたしが今なお生きているので、自分をすててわたしをかばい、わからぬようにしようとしたのです。どうしてわが身の罰を恐れ、賢弟の名を滅ぼすことができましょう」と言い、憂悶悲哀して屍のかたわらで死んだ。
鬷声姫(ショウセイキ)【女官】
霊公の夫人。叔孫喬如の子、顔懿姫の姪(兄の子)。斉荘公、斉景公の母。穆孟姫ともいう。
斉霊公は魯から顔懿姫を迎えたが、子がなかった。鬷声姫が公子光(荘公)を生んだのでこれを太子にした。
B.C.554公子光は即位した。
B.C.548斉荘公が弑され、斉景公が即位した。
B.C.532斉景公は田無宇に莒の近隣の地を与えたが、田無宇は辞退した。そこで鬷声姫は、田無宇のために高唐の地を与えるように請うた。かくて田氏は強大になった。
少政卯(ショウセイボウ)【武官】
魯の大夫。〜B.C.497。
B.C.497政治を乱したとして、孔子に誅殺される。
焦先(ショウセン)【神】
仙人。神仙伝に見える。
字は孝然。河東の人。誰とも口を利かず、道について尋ねられても「わしは道など知らん」というだけであった。家が火事になったり、大雪で倒壊しても焦先は何ごともないようであった。200余歳で行方知れずになった。
昭翦(ショウセン)【将軍】
楚の将軍。司馬。司馬翦ともいう。
西周の共太子が早逝して、世継問題が起こった。昭翦は楚のために、西周の太子擁立を謀って楚の勢力を西周に植えつけようとし、さらに自分もその功によって西周に勢力を張ろうとした。そこで昭翦は楚王に「公子に土地を与え、これを太子に立てるよう要請するべきです」と進言しようとした。すると左成が助言して、まず西周武公の意図を聞き、楚内部からも昭翦を使者とするようにさせてからにすべきであると言った。
昭翦はそれに従うと、はたして楚の相国は昭翦を周に行かせた。そこで昭翦は西周に勢力を張ることができた。
子揚窻(シヨウソウ)【武官】
廬の臣。
B.C.611子揚窻は戢黎に従って庸を攻めて方城まで進撃したが、反撃にあって捕えられた。
子揚窻は3日して逃げ帰り「庸は大軍で多くの蛮夷が集まっています。句澨の本陣に引き返して楚王の軍を動かし、連合して進撃したほうがよいでしょう」と進言した。すると潘尫が「それはいけない。しばらくこちらの弱いところを見せ、彼らを得意にさせよう。先君蚡冒が陘隰を服従させたやり方です」と言った。
そこで楚軍は庸軍と戦い、7回戦って7回とも敗走した。庸軍は楚をあなどって裨、鯈、魚の3邑の兵だけで楚軍を追撃し、備えもしなかった。そこに楚荘王が急行して庸を滅ぼした。
向巣(ショウソウ)【文官】
宋の臣。子梁ともいう。
B.C.501春、宋景公楽大心を遣わして晋と盟い、 楽祁のなきがらを迎え取らせようとした。かし楽大心が病気を理由に辞退したため、向巣を遣わした。
邵タ(ショウタ)【文官】
楚の臣。子家の子。
戦国楚の司法関係の官吏。1987年に湖北省荊門の包山で発見された墓の主。推定脂肪年齢は40歳前後、身長は170cm以上、がっしりとした骨格で、長期の従軍生活を経験した偉丈夫とされる。
渉佗(ショウタ)【武官】
晋の臣。〜B.C.500。
B.C.502衛は晋と衛のセン沢で盟いを結ぶことになった。趙鞅が「だれか、われこそ衛君と盟おうと思う者はないか」と言うと、 渉佗と成何が「われわれが盟ってみせましょう」と答えた。いよいよ会盟での血をすすろうとすると、 渉佗は衛霊公の手を血を盛った盤の方へ強く推しつけたため、盤の血が霊公の腕にまではねかえった。この無礼に衛霊公は立腹し、衛は晋に背いた。
B.C.500夏、趙鞅が衛を攻め囲んだ。趙午が歩兵70人を率いて城門の中に攻め入った。 渉佗は「あなたは勇ましい男だ。しかしわたしが攻め込んだら、敵はわたしを恐れてきっと門を開けようとはしないであろう」と言って、 趙午と同様に歩兵70人を率いて夜明けに城門に攻め込んだ。兵を道の左右に分けて進ませ、城門に着くと全員立ち止まった。 その様子は道を挟んで並立する並木のように整然としていたので、敵は恐れて城門を開けなかったため、晋軍は引き下がった。
晋人は衛が背いたわけを調べた結果、渉佗と成何に原因があるということになった。そこで渉佗を捕らえて、それを口実に衛に和睦を求めたが、衛人は聴き入れなかった。 そこで晋人は早速に渉佗を殺した。そのため成何は燕に逃げた。
向帯(ショウタイ)【文官】
宋の臣。大宰。
B.C.576、6月、宋共公が没した。司馬蕩沢が公子を殺したので、華元は蕩沢を殺した。そこで向帯は魚石、少司寇鱗朱、大司寇向為人魚府ら桓氏一族とともに楚に出奔した。
B.C.573、6月、楚恭王は鄭とともに宋の彭城を陥れ、楚に亡命していた向帯らは彭城に封じられた。
7月、宋の老佐華喜に攻め囲まれた。
B.C.572、1月、晋・宋・衛・曹・莒・邾・滕・薛が彭城を包囲したため、向帯らは諸侯に降服した。そこで向帯らは晋に連れられて晋の瓠丘に留め置かれた。
商沢(ショウタク)【在野】
孔子の弟子。
襄仲(ジョウチュウ)【公子】
魯の公子。名は遂。荘公の子。〜B.C.601。
襄仲は魯の東門に住居をかまえていたので、氏を東門とした。
B.C.634斉が魯を攻めた。
襄仲は魯釐公の命で臧文仲とともに楚に援軍を願い出た。
B.C.633、9月6日、杞が無礼であったので、魯釐公の命で襄仲は杞を討った。
B.C.632秋、襄仲は斉に赴いた。
B.C.630冬、周の宰孔が魯に来朝したので、襄仲は魯釐公の命で周に赴き、さらに晋に聘問した。
B.C.629春、晋が魯に曹の領地を与えたので、襄仲は晋に使いしてお礼を述べた。
B.C.627秋、邾が魯に対する備えをしなかったので、襄仲は釐公に命じられて邾を討った。
B.C.625冬、襄仲は斉に出かけて幣を納めた。
B.C.621、10月、襄仲は晋に出かけて晋襄公の葬式に参列した。
B.C.620冬、公孫敖が莒に出かけ、莒と同盟した。そのとき公孫敖は襄仲の妻を迎えることとしたが、その女が美人であったため、公孫敖はその女を口説いて自分の妻にしてしまった。
襄仲は怒って公孫敖を攻めることを魯文公に願い出た。文公は許そうとしたが、叔仲恵伯が文公を諌めたので、文公は襄仲の願いを禁止した。
叔仲恵伯はふたりの間を和解させ、その女を莒に帰した。
B.C.619冬、襄仲は文公の命で、晋の趙盾と会合して衡雍で盟い、前年の無礼の償いをした。
B.C.616襄仲は宋を聘問し、魯に出奔していた蕩意諸をとりなして宋に帰国させた。
B.C.615西乞秫が使者として魯を聘問し、晋を討つことを伝えてきた。襄仲は進物の玉を三度辞退したが、西乞秫は「わが君には周公(旦)と魯公(伯禽)のおかげをもって貴国と友好を結ぶことを願っております」と言ったので、襄仲は「立派な人物がいるから国が成り立つのだ。秦は西方の国とはいえ、いやしいところではない」と言って西乞秫に手厚く贈物をした。
B.C.613冬、襄仲は周匡王のもとに使者を遣わして、周の力添えで斉に嫁いでいる叔姫を取り戻そうとしたが、斉懿公は怒って叔姫を捕えた。
莒に亡命している公孫敖が魯に帰国したいと願った。襄仲は家にいて君命を受けないという条件でこれを認めた。
B.C.611、1月、魯は斉と和平を結んだ。魯文公は病気であったので、季孫行父に命じて斉懿公と斉の陽穀で会合させたが、懿公は「魯公の全快するのを待ちましょう」と言って、盟いを結ばなかった。
6月5日、襄仲は命じられて斉懿公に賄賂を贈ったので、斉のセイ丘で盟うことができた。
B.C.610夏、斉懿公が魯の北辺を侵略した。襄仲は斉に和平を請うた。斉は魯と穀で和平を結んだ。
冬、襄仲は斉に出かけ、穀の盟いのお礼をした。
B.C.609、2月24日、文公が没した。公子を生んだ第二夫人敬嬴は襄仲に取り入っていたので、襄仲は公子俀を擁立しようとした。しかし叔仲恵伯に反対された。
秋、襄仲は叔孫得臣とともに斉に赴き、斉恵公の即位のお祝いと、斉が魯文公の葬儀に会葬したお礼をした。このとき襄仲は恵公に面会して公子俀を擁立してほしいとお願いした。恵公は即位したばかりだったので、魯と仲良くしようと思い、これを許した。
10月、襄仲は斉の支援を受けて、太子と公子を殺して公子俀を擁立した(宣公)。そして襄仲は君命であると言って叔仲恵伯を朝廷に呼び寄せて殺し、これを馬糞の中に埋めた。
B.C.608、1月、襄仲は斉に赴いて夫人姜氏を迎えた。
3月、襄仲は夫人を連れて帰国した。
夏、襄仲は斉に赴いて、斉・魯が会合して友好を修めたことに対するお礼を述べた。
B.C.601、6月、襄仲は子の公孫帰父と共に三桓(季孫氏、孟孫氏、叔孫氏)を討伐する計画を立てるが失敗した。そこで襄仲は斉に赴き、黄に至った。
6月17日、襄仲は斉の垂で没した。
繞朝(ジョウチョウ)【文官】
晋の臣。
B.C.614夏、晋の魏寿余がいつわって夜に乗じて秦に逃げ、その私邑をもって秦に帰服したいと願い出た。秦康公はこれを聴き入れて、士会を使わそうとした。
繞朝は士会に鞭を贈って「君よ、秦に人物がいないとお考えなさるな。(わたしは計略を知っていたが)わたしの謀が用いられなかったのです」と言った。はたして士会は晋に帰国した。
向鄭(ショウテイ)【文官】
宋の臣。向戌の子。
B.C.522夏、華氏・向氏の騒動が起き、元公の一味である向鄭・楽舎公孫忌・公子司馬彊向宜・楚の太子・小邾の公子は鄭に出奔した。
小典(ショウテン)【神】
秦の先祖。女華の父。
女華を大業に嫁がせる。
蕭桐叔(ショウドウシュク)
蕭桐姪
蕭桐叔子(ショウドウシュクシ)
太夫人
蕭桐姪(ショウドウテツ)【王】
蕭の君。斉の外戚。字は同叔。太夫人(斉頃公の母)の父。蕭桐叔ともいう。
少寧(ショウネイ)【文官】
楚の臣。
B.C.597、6月、邲の戦いのとき、少寧は楚荘王に命じられて晋軍に和睦を申し入れた。晋の士会はこれを受諾したが、晋の中軍の佐先縠趙括に命じて少寧を追いかけてきて訂正し、結局両軍は決戦することとなった。
向寧(ショウネイ)【宰相】
宋の宰相、左師。向戌の子。
B.C.523、2月、向戌の娘が鄅の夫人であったため、向寧は鄅のために邾を討つようお願いした。そこで宋元公は邾を討った。
B.C.522宋元公は信義がなく、華氏や向氏を嫌っていた。 そこで向寧は華亥華定と相談して「座して死を待つより、乱をおこして逃げるほうがましだ」と言った。
6月、華氏と向氏は反乱を起こした。
10月、華氏と向氏は宋元公に攻められて陳に出奔した。
B.C.521、5月15日、華貙が叛乱を起こし、国外に逃れている人を呼び寄せた。
5月21日、華亥と向寧は国に戻った。
B.C.520、2月23日、楚の蔿越が宋に使者を送って謀叛人をもらいうけようと申し出たため、向寧は華亥・傷省・華定・皇奄華貙華登臧士平とともに楚に出奔した。
寁伯(ショウハク)【王】
衛伯(5代目)。嗣伯の子。
昭伯(ショウハク)【公子】
衛の公子。名は頑。宣公の子。
B.C.700衛恵公は即位したとき、幼少であった。そのため斉は昭伯に宣公の未亡人宣姜と通じさせようとした。昭伯は辞退したが、無理に勧められたので、これを娶り、長衛妃戴公文公・宋桓公夫人・許穆公夫人を生む。
召伯(ショウハク)【文官】
魯の臣。魯襄公の巫。
B.C.544晋の范鞅が来聘し、魯襄公は宴を開いてもてなした。饗宴の終わりに射礼にふたり一組の射手を3組そろえるため、君の臣だけではそろわなかったため、召公は仲顔荘叔と一組になって駆り出された。
召伯虎(ショウハクコ)【王】
周王朝の臣。召伯。
宣王の時代、王命によって、謝に申伯のために城を築く。
B.C.821宣王の命で、淮夷を討ち、雲夢沢まで進攻する。
襄罷師(ジョウヒシ)【将軍】
斉の将軍。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、襄罷師は左翼の将となった。
渉賓(ショウヒン)【武官】
晋の臣。
B.C.496趙稷とともに邯鄲に拠ってそむいた。
この乱は范・中行・韓・魏・趙氏を巻き込む大乱となる。
湘夫人(ショウフジン)【神】
湘水の神。
の娘、の夫人とされる。娥皇女英ともいう。
湘君との男女二神に分離したとされる。湘君との恋愛説話は『楚辞』「九歌」に見える。
昌平君(ショウヘイクン)【公子】
楚の公子。〜B.C.223。
B.C.226秦により、郢に移される。
B.C.224楚王負芻が秦に捕らえられ、楚は滅亡する。
楚将項燕は昌平君を立てて楚王とし、江南で叛いた。
B.C.223王翦蒙武に討たれ、昌平君は戦死し、項燕は自殺する。
師雍父(シヨウホ)【将軍】
周王朝の将軍。
昭王の命で、南征に従軍する。
嘯父(ショウホ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
冀州の人。曲周の市中で履物の修理を業とすること数十年、彼が仙人であることは誰にも気付かれなかった。のち、ある物好きがその術を教えて欲しいと頼んだが、教えなかった。三亮山に登って数十本の炬火を燃やして昇天した。
招父(ショウホ)【文官】
梁の臣。大卜。
晋の公子夷吾が公子を生んだとき、招父はその子とともに卜した。子が「やがて一男一女が生まれる」と言った。招父は「その通りだ。男は人の臣となり、女は人に使われるようになるだろう」と言った。そこで男子には圉、女子にはと名づけられた。
昌僕(ショウボク)【神】
昌意の妻。蜀山氏の娘。高陽(帝顓頊)を生む。
昭明(ショウメイ)【神】
の子。
接予(ショウヨ)【在野】
稷下の学士。
稷下に邸宅を授かり、議論を戦わせる。
商容(ショウヨウ)【文官】
商王朝の臣。賢人であり、人々はみな彼を愛していた。しかし紂王に罷免される。
昌容(ショウヨウ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
常山の道人。自分で商王の娘であると称した。その姿を見かけること200余年に及んだが、容貌は20歳の人のようだった。紫草を見つけることが上手で、それで得たお金を孤児や娼婦に恵んでやった。
召揚(ショウヨウ)【武官】
斉の臣。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、召揚は先陣王孫揮の右役となった。
昭陽(ショウヨウ)【宰相】
楚の柱国。
B.C.323楚懐王の命で、魏を攻めてこれを襄陵で破り、その八邑を取る。さらに兵を移し、斉を攻めた。これを恐れた斉王は陳軫を使って昭陽に斉への攻撃を取りやめさせようとした。陳軫が「楚の法をお聞かせ願いたいのですが、敵を破り、敵将を殺した者には、どのような官爵を褒美とされるのでしょうか」「その官を上柱国とし、爵を一級上げて執珪に封じる」「それ以上の高い位がありましょうか」「令尹だ」「ではあなたはすでに令尹ですから、楚の最高官です。これ以上の高位に上りようがありません。にもかかわらず、斉を攻めておられようが、勝ったとて、爵位はこれ以上に加わりません。もし負ければ身は死し爵は奪われ、楚でそしられましょう。兵を率いて帰り、斉に恩徳を施すことはありません。これは極点を保つ術です」と言ったので、昭陽は「なるほど」と言い、兵を引き揚げて去った。
城陽君(ジョウヨウクン)【武官】
韓の臣。成陽君ともいう。
B.C.290秦に入朝する。
葉陽子(ショウヨウシ)【在野】
斉の処士。
恵文后は斉王の施政がよくないと言い、斉の処士の鐘離子と葉陽子に官職を与え、佞臣である於陵子仲を殺すべきであると忠告した。
向羅(ショウラ)【文官】
宋の臣。向寧の子。〜B.C.522。
B.C.522、6月16日、華氏と向氏は叛乱をおこしたが、お互いに人質を出すことで盟いあった。向羅は華無戚華啓とともに宋元公の人質となった。
10月、宋元公は人質を殺して華氏・向氏を討ち、向羅も殺された。
鐘離子(ショウリシ)【在野】
斉の処士。
恵文后は斉王の施政がよくないと言い、斉の処士の鐘離子と葉陽子に官職を与え、佞臣である於陵子仲を殺すべきであると忠告した。
少梁(ショウリョウ)【武官】
義渠の君。秦の臣。
B.C.327秦の臣となり、名を少梁と改める。夏陽を号す。
少良(ショウリョウ)【武官】
北戎の将。〜B.C.705。
B.C.705斉を討つ。
援助にきた鄭の太子に破られ、殺される。
襄老(ジョウロウ)【武官】
楚の臣。連尹。〜B.C.597。
B.C.598陳の夏徴舒が叛乱を起こし、楚荘王が介入して夏姫を捕らえた。
荘王は夏姫を申公巫臣子反に与えようとしたが、 結局は襄老に与えた。
B.C.597、6月、邲の戦いで、襄老は戦死してその屍は荀首に捕獲された。
B.C.588夏、襄老の屍は公子穀臣とともに、楚が捕えていた智罃と人質交換として、楚に帰った。
胥嬰(ショエイ)【将軍】
晋の将軍。新下軍の将。
B.C.629狐毛が死んだので、文公趙衰を後任に命じたが、趙衰は「城濮の戦いで、 先且居はよく軍を輔佐しました。戦功には賞があり、君を善導すれば賞があり、その官職に有能なら賞があります。且居にはこの三賞があって放置できません。その上、臣の同輩には箕鄭・胥嬰・先都がいます」と言って辞退した。そこで胥嬰は新下軍の将に任じられた。
女英(ジョエイ)【女官】
の子。の妻となる。
舜が蒼梧の野で没すると、もう一人の妻の娥皇とともにかけつけ、悲しみの余り湘江に身を投げて死んだ。
徐嬴(ジョエイ)【女官】
桓公の夫人。
徐嬴は桓公の正夫人であったが、子がなかった。
徐越(ジョエツ)【文官】
趙の臣。
公仲連に推挙されて烈侯に侍り、財貨を節約し、費用を倹約し、功労をはかって賞賜に的を得ないことのないようにしないといけないことを説いた。
そして烈侯の内史となる。
徐偃王(ジョエンオウ)【王】
江淮夷系諸族の長。郡舒の王。
穆王の時に叛乱を起すが、鎮圧される。
女禍(ジョカ)【神】
中国の伝説上(神話上)の創始者。
三皇のひとりで、伏犠の妹、または皇后ともいう。
人面蛇身、1日に70回も変態を行い、そうした変態の中で、宇宙や生き物の全てが形を現わしたという。女禍の神性はきわめて強かったので、女禍の内臓が変態して「女禍の腸」と呼ばれる10人の神になったという。
女禍は黄土を使って人間を作り、そこに命を吹き込んだ。もっと数多くつくりたいと思ったので、結び目のついた縄であぜ溝を作り、その縄を泥の中に入れたり出したりして引き上げた。縄から滴り落ちた泥は次々と人間になっていった。そして黄土でこねてできた人間は支配者階級となり、泥からできた人間は下層階級の庶民になった。
また女禍は天地が火災と洪水によって崩れたのを、宇宙の五色の石をねって天を修復したともいう。それから巨大な亀の足を切り取って、その足で天と地の四隅を支え、焼けた葦の灰で洪水をせき止めたという。
中国南西の苗族の祖先であるとの説もある。父が雷公と戦い、雷公の洪水攻撃により、伏犠・女禍の兄弟2人が残された。二人は夫婦となって人類を伝えたという。
洪水伝説は世界中の神話に見られ、新約聖書のノアの箱舟は中国では瓢になる。禍は中が空洞を表す。
女華(ジョカ)【女官】
小典の娘。
大業に嫁ぎ、大費を生む。
汝賈(ジョカ)【文官】
魯の臣。季氏の家臣。
斉に亡命した魯昭公を復位させないようにするため、斉の子猶の家臣高齕を通じて子猶に粟五千庾の賄賂を贈った。
胥犴(ショカン)【文官】
越の臣。
B.C.518冬、楚平王が呉を討ったため、胥犴はこれを豫章の入り江でねぎらった。
女寛(ジョカン)
叔褒
庶其(ショキ)【文官】
邾の臣。
B.C.552庶其は漆と閭丘の邑をもって魯に亡命した。魯の季武子は庶其に魯襄公のおばを妻として与えた。
徐姫(ジョキ)
徐嬴
女几(ジョキ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
陳の市で酒を売っていた婦人。たまたま一仙人がその店で酒を飲み、酒代の質に『素書』五巻を置いていった。女几はその本(性を養う男女交換の術)をこっそり読み、 多数の若者を連れ込んでは本に書かれた法を試みた。続けること30年で容貌もずっと若返り、20歳のころのようであった。数年後、仙人がまたやってきた。 女几は店をたたんで仙人の跡を追って去った。
如姫(ジョキ)【女官】
安釐王の夫人。
安釐王に最も寵愛された。
B.C.258信陵君は兵権を得るため、王の寝室にある兵符の片符を盗むよう如姫に請うた。如姫はかつて父親を殺した仇を信陵君に討ってもらった恩があったため、これを了承して兵符を盗み出した。
信陵君はこれにより兵権を得て、趙を救った。
女岐(ジョキ)【女官】
神女。九子母ともいう。
夫がなくて9人の子を産んだという。
女岐(ジョキ)【女官】
寒澆の兄の夫人。
寒澆と密通していた。
あるとき寒澆と一緒に泊まっている所を少康に夜襲されたが、少康は間違って女岐の首を打ち落としたため、寒澆は助かった。
女嬌(ジョキョウ)【女官】
の夫人。塗山氏の娘。
塗山は安徽省の懐遠県の辺りにいた諸侯。
禹が治水のため塗山に来たときに結婚し、を生む。女嬌は身ごもっているときに、禹が熊の姿になっているのを見てしまった。驚いた女嬌は石になってしまった。禹が「我が子を返せ!」と岩に叫ぶと岩が割れて啓が産まれたという。
職(楚)(ショク)【公子】
楚の公子。穆王の弟。
成王が太子商臣(穆王)を廃して、職を立てようとしたが、商臣が成王を弑したため、後を継ぐことができなかった。
職(衛)(ショク)
右公子
燭之武(ショクシブ)【文官】
鄭の大夫。
B.C.630、9月13日、鄭は晋と秦に包囲攻撃された。佚之狐は「燭之武を使者として秦君に面会させたら、秦軍はきっと退くでしょう」と進言したので、鄭文公は燭之武を召した。
燭之武「わたしは若いときには顧みられず、今や老人となり働くことができません」
文公「あなたを用いなかったのはわたしの過ちです。しかし鄭の滅亡は、あなたにとっても不利でしょう」
そこで燭之武は使者となることを承諾して、秦繆公に面会した。
燭之武は「鄭はもう滅亡を観念しています。しかし鄭は秦から離れているため、統治は難しいのではないでしょうか。結局は晋の領土になりましょう。晋が強大になることは秦にとってよろしくないと思います」と言った。
繆公は喜んで、鄭と盟い、大夫の杞子逢孫揚孫に命じて燭之武を護衛させて帰らせた。
B.C.611、1月、燭之武は公子はとともに晋に朝見した。
蓐収(ジョクシュウ)【神】
少皓の補佐神。
西方を象徴する神。
神話の少皓に該という子があり、蓐収になったという。
『山海経』に、蓐収は左耳に蛇があり、両竜に乗るとあり、金神で人面にして虎爪、白毛、鉞をもつとされる。
B.C.660虢公の夢に現れ、虢の亡命を予言する。
織女(ショクジョ)【女官】
罪により牽牛と別れ別れにさせられ、年に一度だけ7月7日に天の川が渡れるようになったら、天で会うことが許された。
日本でも七夕の織姫として有名。
殖綽(ショクタク)【武官】
斉の臣。ショクシャクともいう。
B.C.555、11月、斉軍は諸侯の軍と戦って大敗し、晋軍は勢いに乗じて斉軍を追撃した。夙沙衛は大車を並べ、山あいの細道をふさいで敵軍の進路を絶って殿をつとめた。殖綽と郭最は「そなたがわが軍の殿をするなど、斉の恥だ。しばらく先に行っておれ」と言って代わりに殿をつとめた。夙沙衛は腹を立て、馬を狭い道で殺して道を塞ぎ、ふたりの退路を絶った。
殖綽は晋の州綽に矢で射られて両肩に命中し、二本の矢が首をはさんで止まった。州綽は「止まればわが三軍の生け捕りにしてやろう。逃げるならば、その矢の中央をねらってのどを射抜いてやる」と呼びかけたので、殖綽は「誓いましょう」と言った。すると州綽は「あの輝く太陽にかけて必ず殺しはしない」と誓った。殖綽は郭最とともに縛られ、晋の中軍の進撃太鼓の下に座らされた。
B.C.554斉荘公が即位すると、夙沙衛は高唐へ逃げて叛乱した。殖綽は夙沙衛に従っていたが、斉荘公が高唐を包囲すると、殖綽は工僂会と共に夜に乗じて城上から縄を降ろして斉軍を引き入れたので、斉軍は高唐を攻め落として夙沙衛を殺した。
あるとき斉荘公は朝廷に出て、殖綽と郭最のふたりを指さして「このふたりはわたしの勇士だ」と讃えた。
B.C.547衛は孫文子の戚を討った。殖綽は斉から衛に来ていたが、茅氏を攻撃して晋の警備兵300人を殺した。孫蒯が殖綽の軍を追撃してきたが、その勢いを恐れてあまり攻撃してこなかった。孫文子が叱咤したため孫蒯が進撃してきて、衛軍は敗れ、殖綽は雍鉏に捕らえられた。
燭庸(ショクヨウ)【公子】
呉の公子。呉王の同母弟。〜B.C.513。
B.C.515公子燭庸は公子掩余と共に楚平王の喪中に乗じて兵を率い六、灊を包囲した。 しかし楚軍に退路を絶たれ、帰還できなくなった。
4月、呉国内で公子が呉王僚を弑して自立したと聞き、公子燭庸は鐘吾に亡命した。
B.C.512闔閭は鐘吾の人に公子燭庸を捕らえさせようとしたため、公子燭庸は楚に亡命した。楚昭王は公子燭庸と公子掩余とに大きな土地を与え、 住む場所を決め、監馬尹楽大心に命じてふたりを迎えさせ、養に住まわせるとともに、そこに城壁を築いて城父と元の胡子の田地を取ってふたりに与え、 それによって呉に対抗しようとした。
闔閭に攻められ殺される。
燭庸之越(ショクヨウシエツ)【武官】
斉の臣。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、燭庸之越は後陣夏之御寇の車に同乗した。
燭竜(ショクリュウ)【神】
古代の神。
燭竜は顔は人間で身体は蛇で赤い色をし、眼が縦についている。その眼を閉じると世の中は暗くなり、開けると「九陰(常闇)」を照らし出すことができるという。
燭竜は太陽の光が届かないと思われていた北西部に聖なる光を照らした。
燭竜は人間の幸福に気を配ったので、食べもせず、眠りもせず、休みもしないという。
触竜(ショクリョウ)【文官】
趙の臣。左師。
B.C.264秦が攻めてきたため、趙は援けを斉に求めた。
斉は「長安君を人質にするなら、出兵しよう」と返答した。しかし政務をとっていた恵文后は承知せず「このうえ長安君のことを言う者があれば、この老婆がきっとその顔に唾をはきましょう」と言った。
そこで触竜は見えて言った「わたくしは足を病んでいたので久しく拝謁もかないませんでした、太后にもお体の衰えがおありではと恐れて拝謁を願った次第でございます」
「わたしは輦をたのみとしております」
「お食事のほうは衰えになりませんでしょうか」
「粥にたよっています」
「わたくしは食欲がありませんので毎日散歩をしております」
「わたしにはそれができない」
太后の不機嫌が少しやわらいだ。触竜は続けて言った。
「わたくしの息子舒祺をどうか黒衣(衛士の服)の欠員を補充してご採用いただけないでしょうか」
「承知しました。年はいくつです?」
「15歳でございます。まだ若いのですが、わたくしが死なないうちにお願いしておきたかったのです」
「男子でも末子がいとおしいものでしょうか」
「ご婦人以上でございます」
太后は笑って「女のほうが格別です」と言うと、触竜は
「わたくしひそかに思いますに、太后は燕后(燕王に嫁している太后の娘)を愛しているのは長安君以上でしょう」
「そなたの考えちがいです。長安君のほうがずっといとおしい」
「太后は燕后を送り出すとき、別れを惜しんで泣かれましたが、『かならず趙に帰らしめ給うな』とお祈りになったことでしょう。これは燕后の長久をはかり、その子孫が相次いで王となられるためではありますまいか」
「そのとおりです」
「さて今から三代前までに趙王の子孫で侯となった者のうち、今日なお存続しているものがございましょうか」
「ありません」
「趙に限らず、諸侯の国でも、そういうものがおりましょうか」
「わたしは聞いたことがない」
「いま太后は長安君の地位を尊くし、肥沃な土地に封じながら、今日まで少しも長安君に功を立てさせておりません、もし太后に万一のことがあったとき、長安君は何をたよりにすればよろしいのでしょう。それゆえ長安君のためにはかられるのが、まだ足らないと存じます。ですから長安君への愛し方が燕后の愛し方に及ばないと拝察したのです」
「わかりました。長安君をどう使うか、それをそなたに任せます」
かくて長安君のために車百台を整え、斉へ人質として出した。
鉏麑(ショゲイ)【武官】
晋の力士。〜B.C.608。
B.C.608晋霊公の命で趙盾を刺し殺すため、早朝に趙盾の邸に行った。寝室の門は開かれ、家がきちんとして節度があった。鉏麑はこれを見て嘆息して「忠臣を殺すのも、君命に従わないのも罪はひとつだ」と言い、ついに樹に頭を打ちつけて自殺した。
諸稽郢(ショケイエイ)【文官】
越の臣。
B.C.494勾践は会稽山で呉軍に包囲された。の策で呉と和平を結ぼうとして、諸稽郢は使者として呉に和を請い、両国は和した。
胥軒(ショケン)【神】
秦の先祖。
酈山の娘をめとり、中潏を生む。
胥午(ショゴ)【文官】
晋の臣。曲沃の大夫。
B.C.550斉に亡命した欒盈がひそかに曲沃に入って叛乱をおこそうとし、夜に夫胥午に会ってわけを話した。
胥午「いけません。天が捨てる者を誰が助けましょう。わたしは死ぬことをいとうものではありませんが、事が成功しないことを知っているから反対するのです」
欒盈「そうであっても、あなたを頼って死ぬなら後悔はいたしません」
胥午はようやく承諾し、欒盈をかくまい、曲沃の人々を集めて酒を飲ました。胥午が「いま欒氏の若様が来たらどうしましょう」と言うと、人々は「主になる方が現れて、そのために死ぬなら死んでも死なないのと同じです」と言い、みな欒盈の身の上を悲しみ泣く者もあった。杯がひとめぐりしたところ、胥午はまたどうするかと聞くと、みなが「主人が出てきたら、どうしてふた心を持ちましょう」と言った。これを聞いた欒盈は宴席に現れて一人一人に拝礼した。しかし欒盈の叛乱は失敗した。
苴侯(ショコウ)【公子】
蜀の公子。開明帝の弟。
元来、蜀と巴は戦争をしあっていたが、苴侯はひそかに巴王と親しくなった。
B.C.316苴侯は開明帝に討伐されたため、巴に出奔し、秦に援助を求めた。秦はそこで張儀司馬錯を派遣して、蜀を討伐し、これを滅ぼした。
胥甲(ショコウ)【将軍】
晋の将軍。下軍の佐。胥甲父ともいう。
B.C.615冬、秦が令狐の役の恨みを晴らすため、晋を討って羈馬の地を攻め取った。
胥甲は下軍の佐として秦軍と戦ったが、勝敗はつかなかった。秦の使者が夜にやって来て、明日決戦することを伝えてきた。臾駢は「使者の目が動いて、言葉に落ち着きがありませんでした。きっと逃げようとしているのです。すぐに討ちましょう」と進言したが、胥甲は趙穿とともに「死傷者を収容しないで捨て置くのは無慈悲である。時期を待たずに攻めるのは卑怯なやり方である」と言ったので、進撃は中止された。
結局、秦軍はその夜に逃げた(河曲の戦い)。
B.C.614夏、胥甲は晋の六卿とともに、秦が士会を用いて晋に敵することを恐れて、近郊の諸浮で会合して密謀した。
趙盾「随会(士会)が秦におり、賈季(狐射姑)が狄におり、そのために国難が日ごとにやってくる。どうしたらよいか」
荀林父「賈季を戻しましょう。彼は国外の事情に通じており、処理する才能があり、それに旧勲の子である」
郤欠「賈季は罪を犯している。随会を戻したほうがよい。彼は卑賤の身分におりながら恥をわきまえており、柔順であるが人から犯されて不義をなすことがなく、その智謀は国の役に立つ」
そこで六卿は魏寿余に命じて魏にたてこもらせて晋に背いて秦につくふりをさせて、士会を帰国させた。
B.C.608夏、河曲の戦いのときに軍令に従わなかった者を処罰するとして、胥甲は衛に追放された。子の胥克がその後を継いだ。
徐公(ジョコウ)【在野】
斉の人。
美男で有名であり、騶忌も彼に及ばなかったという。
胥甲父(ショコウホ)
胥甲
胥克(ショコク)【将軍】
晋の将軍。胥甲の子。下軍の佐。
B.C.608夏、父の胥甲が衛に追放されたので、胥克はその後を継いだ。
B.C.601秋、胥克は精神病にかかっていたので、晋成公に下軍の佐を辞めさられた。
徐吾犯(ジョゴハン)【文官】
鄭の臣。
B.C.541徐吾犯の妹が美人であったため、子南が娶る約束をした。しかし公孫黒もこれを求めたため徐吾犯はふたりの争いになることを心配して子産に報告した。子産は「このようなことがおきるのは国の政治が行われていないからだ。あなたの心配することではない。あなたの好きな方にするがよい」と言った。そこで徐吾犯は妹に選ばせて子南を選んだ。
徐子(ジョシ)【在野】
宋の在野の士。
B.C.341魏が趙を討つ。趙は危急を斉に告げ、斉宣王孫臏のはかりごとを用いて、趙を救い魏を討った。
魏は大挙出兵し、龐涓を将軍とし、を上将軍とした。
軍が宋の外黄を通過すると、徐子は申に「わたくしに百戦百勝の術があります」と言った。
「聞かせてもらえるだろうか」
「太子みずから将軍として斉をお攻めになるのは、大勝して斉の莒をお取りになっても、それによって得る富は魏を保つだけのこと、またそれによって得る尊貴は、王となる以上のものではございません。
もし勝たなかったら、万世にわたって魏に王となり世に伝えることができないのです。これがわたくしの百戦百勝の術でございます」
「わかった。かならずそなたのことばに従って還ることにしよう」
「太子が帰還しようと思われても、そういうわけにはいかぬでしょう。太子に戦攻を勧め、うまい汁をすすろうとしている者が多いのです。あなたが帰還しようと思われても、おそらくは不可能でしょう」
太子が引き揚げようとすると、太子の御者が「将軍として出陣しながら、何らなすところなく還るのは、逃げるにひとしいふるまいです」と言った。
結局、斉を戦い、馬陵で破れ、申は捕らえられる。
如耳(ジョジ)【文官】
魏の大夫。
B.C.311魏が衛を討ち、衛の嗣君はこれを憂えた。如耳は嗣君に謁見して言った。
「魏の攻撃を止めさせ、成陵君を罷免させてごらんに入れたいと思いますが、いかがでしょう」
嗣君は「もしも先生にそれができるなら、わたしはもとより、子々孫々まで、衛の国として先生にお仕えしましょう」と言った。
如耳は成陵君に謁見して「衛はいま秦に臣事しようとしています。魏としては、秦よりも魏として衛を許すほうがましです。そうなれば衛は恩義に感じて、魏を徳としましょう」と言った。成陵君はこれを承諾した。
如耳はまた魏襄王に謁見して「衛が宝器を国外に出さないのは、衛を攻めるも許すも大王ではなく、権臣の心によるものだと思っているからです。わたくしの推察するところでは、まっさきに『衛を許そう』と言い出すものが衛から賄賂を受けているものだと思います」と言った。
如耳が退出すると、成陵君が参入し、如耳の意見どおりに襄王に言上した。襄王はそれを聴き入れて戦さを止めたが、また成陵君を罷免して、生涯会わなかった。
褚師子申(ジョシシシン)【武官】
衛の臣。
B.C.522、6月29日、斉豹らが叛乱を起こしたとき、衛霊公はこの騒ぎを聞いて車を飛ばして都に入り、公宮に到着して宝を積んで公宮を出た。褚師子申は途中で衛霊公に出会い、そのままお供をした。
徐弱(ジョジャク)【在野】
墨家。孟勝の弟子。〜B.C.381。
B.C.381楚の陽城君は呉起殺害に加担したため粛王に処罰されることになった。
孟勝はかねて陽城君と親交を結び、彼の采邑防禦を委託されていたので、墨家集団を率いて楚の正規軍と戦ったが、守りきれず敗退した。
孟勝は「人の国を受け持って守ることができなかった。死をもってつぐなわねばならぬ」と言った。
徐弱は「死んで陽城君に利があるなら、死んでもいいでしょう。利なくして墨者が世に絶えるのは、よろしくありません」と言った。
孟勝は「そうではない。もしここで死を逃れるならば、たとえ墨者が生き残ったとしても、墨家の信用は失墜して、墨家は活動できなくなるのであろう。鉅子を宋の田襄子に継がせるので、墨者の活動は維持されるであろう」と答えた。
徐弱は自説を撤回し、率先して自刎した。
女脩(ジョシュウ)【女官】
秦の先祖。帝顓頊の孫。
機を織る職業をしていた。
玄鳥が卵を落としていったので、それを呑むとみごもり、大業を生んだという。
女叔(ジョシュク)【文官】
陳の臣。氏は女、字は叔。
B.C.669女叔は魯に赴き、陳と魯の友好関係が成った。
女叔侯(ジョシュクコウ)
女叔斉
女叔斉(ジョシュクセイ)【文官】
晋の大夫。汝叔斉とも書く。司馬侯、司馬叔侯、女斉、女叔侯ともいう。
あるとき晋悼公は女叔斉と高い台に登って眺望して「楽しいなあ」と言った。
女叔斉「楽しいですが、徳義の楽しみはまだです」
悼公「何を徳義というのか」
女叔斉「諸侯の行為の中で、その善いものを行い、その悪いものを戒めます。これを徳義と言うことができます」
悼公「誰にできるか」
女叔斉「羊舌肸が春秋に習熟しております」
そこで悼公は羊舌肸を召し出して、太子の傅とした。
范匃和大夫と田畑の境界争いをして、決着がつかなかったので、范匃は和大夫を攻めようとした。女叔斉は范匃に会って「今、諸侯はみなニ心があるのに、これを憂えずに和大夫を怒るのは、あなたの任務ではありません」と言った。結局、范匃は土地を和大夫に与えて仲直りした。
B.C.547、6月、諸侯が会合したため、衛の北宮遺甯喜がやってきので、女叔斉は彼らを捕らえた。
B.C.544、6月、晋が杞の城壁工事をしたとき、女叔斉は斉の高止華定と面会したが、「あのふたりはともに禍から逃れられないだろう。子容は自分勝手であり、 司徒(華定)はおごり高ぶっている。ともに家を滅ぼす者だ」と言った。
女叔斉は魯を聘問して、魯が以前に杞から攻め取った田地を杞に返すよう要求したが、魯襄公は一部しか返還しなかった。そのため悼夫人が腹を立て「斉(女叔斉)のやつが魯から賄賂をもらったのであろう」と讒言した。女叔斉は晋平公からこのことを聞くと「魯は周公の子孫であり、晋と仲良くしてあるので、杞を魯の領土としても結構なぐらいです。魯君や卿大夫は次々と来朝しています。どうして魯を痩せさせて杞を肥えさせる必要がありましょう」と言った。
B.C.541、5月26日、秦の公子が晋に亡命してきたがその時の馬車は1000台もあった。女叔斉は「あなたの馬車はこれだけですか」と問うと、公子鍼は「これでも多すぎると言われ、その罪によって逃れてきたのです」と答えた。女叔斉は晋平公に「秦の公子はきっと帰国できましょう。自分のあやまちに気づいている」と報告した。
B.C.538楚霊王伍挙を晋に遣わせ会同をすることを伝えた。
晋平公は許すまいと思ったが、女叔斉は「それはいけません。今、天は楚のなすがままにしています。晋と楚の二国はただ天の助けに任せておくべきで、お互いに争ってはなりません。もしも楚王が立派な徳を修めるようになれば、晋とてこれに仕えることになりましょう」と諌めた。晋平公は「晋に敵する国はなく、土地は険しく、馬が多く、斉や楚には内乱が多いであろう」と言うと女叔斉は「四嶽は最も険しい山ですが、そこを治める国は次々と滅亡しています。冀州の北部は馬の産地ですが昔から栄えた国はありません。内乱がなくても滅びる国は多くあります。斉の公孫無知、晋の里克邳鄭の内乱があっても斉・晋は栄えました。政治と徳とを修めなければ国は滅びるのです」と答えた。そこで晋平公は楚の申し入れを許した。
B.C.537春、魯昭公が晋を訪問した。魯昭公の礼にかなった作法を見て晋平公は「魯公は礼を心得ている」と言ったが女叔斉は「そうではありません。それは儀(礼儀)というべきで、礼ではありません。魯は政令は大夫によって行われているのに、それを取り返すこともできず、子家駒という人物も用いることができず、公室が衰微しても気づいておりません。それなのに小さな礼儀作法を行うことのみを考えています。なんと礼の本意からはずれているではありませんか」と言った。
徐鉏(ジョショ)【文官】
邾の臣。
B.C.519邾は翼に城壁を築いたが、その帰りは魯の武城を通って邾の離姑から都に帰ろうとした。公孫鉏が「魯はわれわれを防いで通さないであろう」と言って諌めたが、徐鉏・丘弱茅地は「(公孫鉏の勧める)道は低い。もし雨があったら動けなくなるであろう」といって武城を通ったが、はたして武城の人に邾軍は捕えられ、徐鉏・丘弱・茅地も捕らえられた。
鉏商(ショショウ)【武官】
魯の臣。叔孫氏の車士。
B.C.481春、大野で狩猟をして、鉏商は不思議な獣をしとめた。一同はこれを不吉だとしたが、孔子はこれを「麟である」といったため、魯人は始めてこれを持って帰った。
胥臣(ショシン)
賈佗
女斉(ジョセイ)
女叔斉
女丑(ジョチュウ)【神】
死体の神。
10個の太陽が一度に昇ったとき、女丑は人間の過ちを補うために高い山に登った。そして緑色の袖で顔をかばおうとしたが、熱に焼かれて女丑は死んだ。
そしてその後、女神として生まれ変わったという。
女丑の緑衣は植物や再生の力の象徴とされる。また別の神話では、女丑は海に住んでいて、カニが女丑の象徴として描かれている。古代において、カニは月の満ち欠けとともに増減し、また生命を与える水の源を知っている生物だと信じられていた。
胥童(ショドウ)【武官】
晋の臣。胥克の子。晋厲公の寵姫の兄。〜B.C.574。
胥童は父の胥克が郤欠に下軍の将を辞めさせられたり、かつて郤至と恨みをかまえたことがあったため、報いてやろうと思っていた。
また晋厲公は欒書の讒言で郤至を恨むようになり、諸大夫を除こうとするようになった。
胥童は「三郤から始めましょう。郤氏は大きく人から恨まれています」と進言した。
12月26日、胥童は夷陽五とともに500の武装兵を率いて郤氏を討ち、郤錡郤犨と郤至を殺し、3人のなきがらは朝廷でさらされた。
胥童は欒書と荀偃を朝廷でおどしつけた。しかし晋厲公はこの二人を誅殺することをためらい、欒書と荀偃にわびて元の地位につかせ、胥童を卿とした。
あるとき晋厲公は匠驪氏の家に遊んだ。そこで欒書と荀偃が徒党を率いて晋厲公を襲ったため、晋厲公は捕らえられた。
12月30日、胥童は欒書と荀偃に殺された。
女登(ジョトウ)【女官】
炎帝の母。
女登は華陽に遊び、陽に感じて炎帝を姜水で生んだ。
女魃(ジョバツ)【神】
黄帝の娘。旱魃の神。
蚩尤との戦いで、黄帝は女魃を送り込み、雨の源を干上がらせ、応龍に蚩尤を処刑させた。
戦いの後、女魃の聖なる力が弱くなって、女魃は空に戻れなくなった。地上に残った女魃は排水溝や灌漑用の水路を干上がらせて、大混乱を引き起こした。
そこで人々は「女魃の女神よ、北へ行け」と叫びながら、女魃を追い払う儀式を行うようになった。
諸樊(ショハン)【王】
呉王(二代目)。寿夢の子。〜B.C.548。
B.C.561寿夢が没した。
B.C.560、9月、楚恭王が没した。そこで諸樊は楚に攻め入ったが、庸浦で大敗し、公子が捕えられた。
B.C.559諸樊は楚に敗れたことを晋に告げた。そこで諸侯は向で会合したが、呉は楚の喪につけこんだという不徳を責められ退席させられた。
諸樊は父の喪が明けると末弟季礼が賢明であったので王位を譲ろうとしたが、季礼は固く断った。諸樊が無理に立てようとしたので、季礼は家を棄てて田舎で農業をした。そのため諸樊は君位に即いた。
秋、楚の子囊が呉に攻め込んできた。諸樊は出撃しなかったので、楚軍は引き揚げた。子囊が油断してたところを呉軍は皐舟の狭い険路を利用し、そこから伏兵を出して楚軍を攻撃した。楚軍は前後互いに救うことができなかったので、呉軍はこれを討ち破り、楚の公子宜穀を捕えた。
B.C.549夏、楚康王が水軍を編成して攻めてきたが、功なく引き揚げた。
B.C.548舒鳩が楚に叛いた。楚が討伐軍を出したため、諸樊はが舒鳩の救援に行った。しかし楚の左軍におびき出されて大破され、舒鳩も滅ぼされた。
12月、諸樊は巣を討って、前年の戦のしかえしをした。単の牛臣は「呉王は勇気があるが軽率だ。おびき出したら、自分から攻めてくるだろう。そこをわたしが射ればきっと殺せるだろう。この君さえ死ねば、国境あたりは少しは平和になるだろう」と言ったので、巣の人々はこれに従った。はたして諸樊は攻め込み、低い土塀のかげにかくれた牛臣に射られて戦死した。
諸樊は遺言して王位を弟余祭に授け、順次弟たちに伝えて最後に必ず国を季礼に譲るようにした。
諸樊(ショハン)【公子】
呉の公子。
B.C.519楚の太子の母は実家の郹にいたが、呉の人を呼んで手引きをした。
10月17日、諸樊は郹に入り、太子建の母とその宝器を奪い去って帰った。
(『史記』では迎えに行ったのは太子としている)
徐辟(ジョヘキ)【在野】
孟子の弟子。
墨家夷之を孟子に紹介して、面会させる。
女父(ジョホ)【武官】
秦の臣。不更。
B.C.578、5月、秦軍は晋軍と麻隧で戦って大破し、女父は捕らえられた。
女妨(ジョボウ)【武官】
秦の先祖。悪来の子。
胥梁帯(ショリョウタイ)【文官】
晋の臣。
B.C.547斉の烏余が廩丘の地をもって晋に亡命して諸侯の地を侵した。趙武は胥梁帯を用いて「胥梁帯は軍を用いずにうまくやるでしょう」と進言した。
B.C.546春、胥梁帯は烏余に土地を奪われた諸侯を内密に集め、一方で烏余にもその奪った土地を受け取りに来るよう命じた。胥梁帯はそのまま土地を烏余に与えるそぶりをしたため、たやすく烏余を捕らえ、その部下もすべて捕らえた。そして土地を残らず諸侯に返上したため、諸侯は晋と仲良くした。
子蘭(シラン)【公子】
楚の公子。令尹。懐王の末子。
B.C.297秦昭襄王は楚に書簡を送り、武関で会合して盟約するよう請うた。懐王は行って欺かれるのが恐ろしく、ゆかなければ、秦王が怒るのが恐ろしく思い悩んだ。
昭雎は「王にはお出かけにならず、兵を出してお守りになるに限ります。秦は虎狼にひとしく、信用なりません。諸侯併呑の野心を抱いております」と言ったが、子蘭は「どうして秦の善意を無視できましょう」と、王に行くことを勧めた。王は子蘭の言をとって、秦に行ったが欺かれて捕えられてしまった。
屈原は早くから子蘭を憎んでいたが、子蘭は屈原が自分を憎むと聞いて大いに怒り、靳尚を使って屈原を頃襄王にそしらせた。そのため屈原は江南に移された。
斯離(シリ)【武官】
秦の臣。都尉。
B.C.284三晋および燕と共に斉を討ち、済水の西でこれを破る。
子柳(シリュウ)【文官】
鄭の臣。印癸ともいう。印段の子。
B.C.526、3月、晋の韓宣子が鄭を聘問した。子柳はタク兮の詩を歌って、韓宣子の命令に従うという意を寓した。
子良(シリョウ)【神】
太公望呂尚が周に仕える前に、使えていた人物といわれる。呂尚は子良に追い出されたとされる。
子良(鄭)(シリョウ)【公子】
鄭の公子。名は去疾。襄公の弟。
B.C.605、6月28日、霊公が子公子家に弑された。
鄭の国人は子良を立てようとしたが、子良は辞退して「人物の点からいえば、この去疾は国君としては不十分であり、年順で立てるなら公子堅が年長です」と言った。そこで国人は堅を立てた。(襄公)
襄公は即位すると、兄弟達をことごとく追放しようとしたが、子良が「どうしても追放されるなら、わたしも鄭を去りましょう」と言ったので、事は沙汰やみとなり、みな大夫に取り立てられた。
B.C.600冬、鄭は楚に攻められたが、柳棼でこれを撃退した。鄭人はみな喜んだが、子良は「これは国の禍になる。わたしの死ぬのも間もなくだろう」と言った。
B.C.597春、鄭は楚に攻められて楚に服従したため、子良は人質として楚に送られた。子良は「晋と楚は徳を努めずに戦争をしている。だから攻めてくるほうに降ればよいのだ。晋と楚は信義が無い。私(鄭)はどうして信義を持つことができようか」と言った。
B.C.595夏、晋は鄭を討つことを諸侯に告げ、閲兵を行って引き揚げた。鄭襄公は子良が礼をわきまえた人物であるので楚から召還し、代わりに子張を人質として楚に送った。
B.C.589、11月、子良は衛の孫良夫・魯成公・楚の公子子重・蔡景侯・許霊公・宋の華元・秦の右大夫・陳の公孫寧・斉の大夫らと蜀で和睦の盟いを結んだ。諸侯は一方で晋を恐れていながら、こっそりと楚と盟っていた。
B.C.588夏、許が楚を頼りにして鄭に仕えないので、子良は許を討った。
B.C.584子良は鄭成公のお供として晋に出かけ、即位のあいさつをし、また前年に晋が援けてくれたお礼をのべた。
子良(鄭)(シリョウ)【文官】
鄭の臣。士子孔の子。
B.C.565士子孔が没すると、子孔は士子孔と仲が良かったので、子良は家の面倒をみてもらった。
B.C.554子孔がわがまま勝手に国政を行ったので、人々は心配して子孔を有罪とした。そこで子孔は叛乱を起こし、子良は子革と共に家兵で子孔を守った。
8月12日、子孔が殺され、子良と子革は楚に亡命した。
子良(鄭)(シリョウ)【文官】
鄭の臣。游眅の子。
B.C.551游眅が人の妻を奪って殺されたため、子の子良は家を継げずに游眅の弟大叔が後を継いだ。
子良(楚)(シリョウ)【将軍】
楚の将軍。司馬。鬭伯比の子。
子良が闘椒を生むと、子良の兄子文は「この子を殺しなさい。姿は熊や虎のようで、山犬や狼のような声をあげます。きっとわれわれ若敖氏を滅ぼすことになろう」と言ったが、子良は聴き入れなかった。
子良(楚)(シリョウ)【文官】
楚の臣。文坪夜君。
子梁(シリョウ)
向巣
子路(シロ)
仲由
史老(シロウ)
士亹
師龢父(シワホ)【宰相】
周王朝の宰相。
B.C.841厲王が彘に出奔すると、王の親衛隊であった師龢父は太子静を擁して、執政者として勢力を振るった。
共和の政治と考えられたその治世の前半は、師龢父の執政時代とされる。
振(シン)
王亥
申(楚)(シン)【公子】
楚の公子。右司馬。〜B.C.571。
B.C.585冬、晋軍が楚軍に攻められた鄭の救援に来た。公子申は公子とともに申と息の軍を率いて蔡を助け、桑隧で晋軍を防いだ。晋軍は引き揚げた。
B.C.576、11月3日、許霊公が許を楚に移らせてほしいと楚に願い出たため、公子申は命ぜられて許を楚の葉に映した。
B.C.574、10月13日、諸侯が鄭を包囲した。公子申は鄭を助けるため鄭楚国境の汝水に陣をしいた。
11月、諸侯は引き揚げた。
公子申は右司馬になると、楚に服従する小国から賄賂を受け取り、令尹子重・司馬子辛を威圧しようとした。
B.C.571、公子申は楚人に殺された。
申(楚)(シン)
子西
申(魏)(シン)【公子】
魏の公子。恵王の子。
B.C.341趙を討つ。趙は危急を斉に告げ、斉宣王孫臏のはかりごとを用いて、趙を救い魏を討った。
魏は大挙出兵し、龐涓を将軍とし、申を上将軍とした。
軍が宋の外黄を通過すると、徐子という者が申に「わたくしに百戦百勝の術があります」と言った。
「聞かせてもらえるだろうか」
「太子みずから将軍として斉をお攻めになるのは、大勝して斉の莒をお取りになっても、それによって得る富は魏を保つだけのこと、またそれによって得る尊貴は、王となる以上のものではございません。
もし勝たなかったら、万世にわたって魏に王となり世に伝えることができないのです。これがわたくしの百戦百勝の術でございます」
「わかった。かならずそなたのことばに従って還ることにしよう」
「太子が帰還しようと思われても、そういうわけにはいかぬでしょう。太子に戦攻を勧め、うまい汁をすすろうとしている者が多いのです。あなたが帰還しようと思われても、おそらくは不可能でしょう」
太子が引き揚げようとすると、太子の御者が「将軍として出陣しながら、何らなすところなく還るのは、逃げるにひとしいふるまいです」と言った。
結局、斉を戦い、馬陵で破れ、申は捕らえられる。
晋(シン)【公子】
周王朝の太子。霊王の子。
B.C.549穀水と洛水が氾濫して王宮を壊しそうになったので、霊王は川を塞ごうとした。晋はこれを諌めたが、霊王は聴き入れず、穀水をせき止めた。
晋は早死にしたため、即位できなかった。
辰(シン)(楚)【公子】
楚の公子。
B.C.582、12月、公子辰は晋に使いして和睦を申し入れた。
辰(シン)(宋)【公子】
宋の公子。宋元公の子。太子の同母弟。
B.C.522、6月16日、華氏と向氏は叛乱を起こし、公子辰は太子欒・公子とともに華亥の人質となった。
10月13日、華・向の二氏は敗れて陳に逃げ、華亥は「君に背いて逃げ、そのうえ君の子を殺しては誰もわれわれを迎えてくれないであろう」と言って、華牼に命じて公子たちを送り返した。
葴尹宜咎(シンインギキュウ)【武官】
楚の臣。
B.C.538冬、呉が楚を攻めた。そのため葴尹宜咎は鐘離に城壁を築いた。
鍼尹固(シンインコ)【武官】
楚の臣。
B.C.506、11月28日、楚は呉軍に大敗して楚昭王は都を出て、雎水を渡って逃げた。鍼尹固は楚昭王と同じ船に乗って王の身を守った。
沈尹戌(シンインジュ)
沈尹戌
沈尹寿(シンインジョウ)【文官】
楚の臣。
B.C.549冬、舒鳩が呉にそそのかされて楚に叛いた。これを知った楚康王は沈尹寿と師祁犂に命じてなぜ叛いたかと責めさせた。
沈尹蒸(シンインジョウ)【在野】
楚の人。沈尹巫ともいう。
沈尹蒸は孫叔敖の友人であった。
沈尹射(シンインセキ)【武官】
楚の臣。
B.C.538冬、呉が楚を攻めた。沈尹射は夏汭で呉軍を防ぐことに手をやいた。
B.C.537冬、楚は呉を討ったが破ることができなかった。楚霊王は呉を恐れて沈尹射を巣に、蔿啓彊を雩婁に留めた。
沈尹赤(シンインセキ)【武官】
楚の臣。
B.C.537冬、楚は呉を討った。沈尹赤は楚霊王と合流して萊山に宿った。
辰嬴(シンエイ)【女官】
懐公文公夫人。
B.C.638晋恵公が病におかされると、圉(懐公)は「わが母の実家の梁は秦に滅ぼされ、わしは国外で秦にあなどられ、晋国内では孤立無援である。もしわが君に万一のことがあったら、大夫たちはわしをないがしろにして、別の公子を立てよう」と言い、辰嬴と共に晋に逃げ帰ろうとした。辰嬴は「秦はわたしをあなたに添わせて、あなたの心を秦につなぎとめようとしたのです。あなたはお逃げなさい。わたしはあなたについてゆきません。でも人には洩らしはいたしません」と言った。圉はついに晋へ逃げ帰った。
のち重耳の妻となり楽を生む。
秦嬴(シンエイ)
非子
秦嬴(シンエイ)【女官】
秦の公女。楚恭王の夫人。秦景公の妹。
B.C.561冬、秦嬴は楚恭王の夫人として嫁いだ。
申夜姑(シンエキコ)【文官】
魯の臣。季公鳥の家臣。〜B.C.517。
B.C.517季公鳥が没したあと、申夜姑は季公若公思展とともに季公鳥の家を世話した。 ところが季公鳥の夫人季似は料理人と密通するようになり、季公若に責められることを恐れて、自分を打って傷つけさせ、 季公若が自分をわがものにしようとしたと訴えた。これを聞いた季平子は公思展を卞に拘留し、申夜姑を捕らえて殺そうとした。 季公若は泣いて悲しみ「夜姑を殺すのはわたしを殺そうとするようなものだ」と言って命乞いをしようとした。しかし季平子は役人に命じて季公若を面会させないようにし、 申夜姑は季公之に殺された。
新垣衍(シンエンエン)【文官】
魏の客将。
B.C.258秦軍が趙の邯鄲を包囲し、趙は魏に救援を求めた。魏安釐王は新垣衍を邯鄲に潜入させ、 平原君を通じて趙孝成王に「使者を秦に遣わし尊んで帝と称するなら、秦は喜んで兵を引き揚げるだろう」と言わせようとした。魯仲連がたまたま趙に遊説しており、新垣衍に面会を請うた。
魯仲連は説いて自説を取りやめるよう新垣衍を説得し、結局新垣衍は再拝してこれを取りやめた。
申蒯(シンカイ)【文官】
斉の臣。侍魚者(魚税を監督する役人)。〜B.C.548。
B.C.548、5月、斉荘公崔杼に弑された。申蒯はこの内乱を知ると家に戻って家宰に「お前は妻子を連れて逃げなさい。わたしは死ぬつもりだ」と言った。家宰は「逃げては君の難儀に死のうとするあなた様のお心に背くことになります」と言って、申蒯と一緒に討ち死にした。
秦開(シンカイ)【将軍】
燕の将軍。
胡に人質となり、すこぶる信任されたが、燕に帰ると東胡を襲ってこれを敗走させた。
申亥(シンガイ)【文官】
楚の臣。申無宇の子。
B.C.529、4月、楚霊王が叛乱にあって逃亡し、山中で飢えた。楚霊王を助けるものは罪三族に及ぶとされていたが、申亥は「わたしの父は二度も王命に背いたのに処罰されませんでした。わが君の不幸を平気で見過ごす事はできません。わたしは王についてきましょう」と言って楚霊王を捜し求めて棘闈で出会い、家に連れて帰った。
5月26日、楚霊王は申亥の家で首をくくって死んだ。申亥はふたりの娘を殉死させて霊王を葬った。
慎滑釐(シンカツキ)【武官】
魯の臣。姓は慎、名は滑釐。
将軍に任じられ、斉と戦う。
斟灌(シンカン)【武官】
夏王朝中康のときの諸侯。
斟尋と共に寒澆と戦うが敗れ、滅ぼされる。
晋妃(シンキ)【女官】
文公の夫人(第二夫人)。
晋妃は公子捷菑を生んだ。
B.C.613公子捷菑は晋をたよって邾君になろうと謀ったが、邾人は兄の貜且(定公)を支持したため、できなかった。
秦姫(シンキ)【女官】
秦遄の夫人。季公鳥の妹。
B.C.517季公鳥が没したあと、 季公鳥の弟季公若公思展と季公鳥の家臣申夜姑は季公鳥の家を世話した。 ところが季公鳥の夫人季姒は料理人と密通するようになり、季公若に責められることを恐れて、 自分を打って傷つけさせ、秦姫に「公若(季公若)がわたしを自由にしようとしましたが、わたしがそれに従わなかったので打たれたのです」と言った。 秦姫はこれを季公甫に話したため、季平子は公思展と申夜姑を捕らえた。
申紀(シンキ)【武官】
斉の臣。
B.C.333楚威王が斉を討った。申紀は田嬰に命じられて迎え撃ったが、徐州で敗れた。
信期(シンキ)【文官】
趙の臣。
B.C.296武霊王の長子が代に封じられた。
肥義が信期に言った。
肥義「公子と田不礼のことが案じられてならない。そのうち禍が国に及びましょう。これからは盗賊の出入りに備えなければなりません。今後、もし王を招く者があったら、 かならず私に会わせてからにしてほしい。わたしはまず身をもってこれにあたりたいと思う。
わたしの身が無事なことを確かめてから、王が入られるのがよい」
信期「ありがたいことだ。こんなことを聞くことができたのは」
B.C.295公子章は田不礼と共に叛乱を起し、まず肥義を殺した。信期はただちに恵文王とともにこれと戦って、退けた。
任季(ジンキ)【公子】
任の君主の弟。
孟子に交際を求める。
鄩肸(ジンキツ)【武官】
周王朝の臣。〜B.C.520。
B.C.520子朝が叛乱を起こすと、鄩肸はこれに味方した。
7月16日、鄩肸は皇を攻めたが大敗し、単穆公に捕らえられた。
7月17日、鄩肸は王城の市場で火あぶりの刑に処された。
秦キン父(シンキンボ)【武官】
魯の臣。孟献子の家臣。
B.C.563夏、諸侯は偪陽を討った。秦キン父は重い荷車をひいて戦いに出かけた。
4月9日、偪陽の人たちが布を城壁にかけて、これをよじ登れる者があるかと話し合っていたので、秦キン父はよじ登った。上まで登ったところで偪陽の人は布をたち切った。秦キン父が下に落ちると、また布をかけた。秦キン父は息を吹き返しては三度登った。ついに偪陽側もその武勇に驚いてやめてしまった。秦キン父はその布切れを身にまとって味方の軍に3日間もふれまわった。
5月8日、諸侯は偪陽を滅ぼした。
帰国すると孟献子は秦キン父の勇をよみして自分の車の右に任じた。
沈建(シンケン)【神】
仙人。神仙伝に見える。
丹陽の人。県の上級吏員を勤めていたが、仙道に熱中して、老衰を防ぎ若返りする方法を学んだ。あるとき沈建は長い旅を思い立ち、下女と下男、驢馬、羊に丸薬を一個与え、ある人に預けた。3年後沈建が帰ってくるまで下女らは何も食べず、沈建がまた丸薬一個を彼らに与えると、元どおり飲食するようになったという。
神瞽(シンコ)【神】
古代の楽官の長。
天道に通じ、律を定め、死んでから音楽の神として祭られた。
申公(シンコウ)【王】
陳公(2代目)。名は犀侯。胡公の子。
申侯(申)(シンコウ)【王】
申侯。
申侯は娘姜氏を周の幽王に嫁がせ、王后に冊立させた。
B.C.777幽王は褒姒を寵愛し、姜氏を廃したため幽王との関係が悪化した。
B.C.771申侯は西戎、犬戎を率いて周を侵略し幽王を驪山で殺し、褒姒を捕らえ、周の財宝をみな奪う。申侯も周の焦穫を占拠する。
B.C.770申侯は許文公と魯孝公とともに、平王を擁立して成周に遷都した。
申侯(鄭)(シンコウ)【文官】
楚、鄭の臣。申の君の甥。〜B.C.653。
申侯は楚文王に寵愛されていた。
B.C.675文王は亡くなるとき、申侯に璧を与えて「わしだけがお前を知っている。お前は私欲が強くて、わしから取れるだけ取ったが、わしの後を継ぐ者は、お前の行動が礼にかなっているかどうか、きびしく責めるであろう。わしが死んだら国を去るがよい。小国には行かず、大国に行くがよい」と言った。文王の葬儀が終わると、申侯は鄭に出奔した。
申侯は鄭厲公の寵愛を受けた。
B.C.656春、斉は魯・宋・陳・衛・鄭・許・曹と会合して蔡を討ち、楚と和平して帰国しようとした。
帰国の際、陳の袁濤塗は申侯に「軍が陳と鄭の間を通ったならば、両国は食糧の供給などで困るであろう。もし東方を通って帰国するならば、結構なことです」と説きつけると、申侯は「それは結構である」と答えた。
そこで袁濤塗は斉桓公に「軍が陳と鄭の間を通れば、両国とも食糧の供給に困りますので、東方を通って東夷に武力を見せつけて海に沿って帰るのがよろしいでしょう」と進言したので、桓公はこれに従おうとした。
しかし鄭の申侯は変心して斉桓公に面会して「軍は疲れています。東夷にはかなわないでしょう。陳と鄭の間を通り、両国に食糧を出させるほうがよろしいでしょう」と進言したので、桓公はよろこんで、申侯には鄭邑の虎牢を与え、袁濤塗は捕られた。
秋、斉桓公は袁濤塗が軍道を誤らせようとしたのを責めて、宋・衛・鄭・許・曹・魯とともに陳を討ったが、陳が謝罪したため袁濤塗は帰国を許された。
B.C.655諸侯が首止で会同した。袁濤塗は申侯の裏切行為を恨んでいたので、申侯に勧めて、虎牢に城壁を築かせて「桓公から賜わった名誉をあきらかにしましょう。わたしは諸侯に援助を申し込みましょう」と言った。そこで申侯は諸侯に援助を請うて城壁を築いた。袁濤塗は鄭文公に申侯を中傷して「立派に城壁を築いて謀反を起こす気でしょう」と言った。そのため申侯は罰せられた。
B.C.653鄭は斉に攻められた。申侯は、鄭が斉に申し開きをするために殺された。
真公(シンコウ)【王】
魯公(8代目)。名は濞。献公の子。〜B.C.825。
慎公(陳)(シンコウ)【王】
陳公(5代目)。名は圉戎。孝公の子。〜B.C.853。
慎公(衛)(シンコウ)【王】
衛公(25(35)代目)。名はタイ。公子の子。〜B.C.383。
B.C.425懐公を弑し、代わって立つ。
秦侯(シンコウ)【王】
秦公(2代目)。非子の子。〜B.C.847。
B.C.857即位する。
辛甲(シンコウ)
辛甲大夫
任光(ジンコウ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
上蔡の人。丹砂をねって丸薬をつくる名人で、90年間も売り歩いた。趙鞅に召抱えられたこともある。
人皇(ジンコウ)【神】
太古の皇帝。三皇のひとり(語句三皇参照)。
天地開闢の時に出現したとされる。
『洛書』に人皇氏は地皇氏の後を継いでこの世に登場し、兄弟九人が別れて九州を治めて九囿とし、人皇氏はその中央に居住して、残りの八州を制御したとしている。
申句須(シンコウシュ)【武官】
魯の臣。
B.C.498夏、魯定公は孟孫・叔孫・季孫三家の都城を壊そうとした。まず叔孫氏が郈の城を壊した。
季氏が費の城を壊そうとすると、公山不狃叔孫輒は費の邑人を率いて魯を襲った。
そこで孔子は申句須・楽頎に命じ、これを討って姑蔑で破った。
辛甲大夫(シンコウタイフ)【文官】
周王朝の臣。大史。
辛甲大夫は姫昌が有徳の人物であると聞き、周に帰服した。
辛甲大夫は百官に命じて、それぞれの役職から王のあやまちを誡める言葉を作らせた。
申差(シンサ)【武官】
韓の臣。
B.C.318韓・趙・魏・燕・斉の諸国が匈奴を誘って秦を攻めた。秦恵文君は庶長樗里疾に命じ、これと脩魚に戦って、申差は破れてソウとともに捕らえられる。
申犀(シンサイ)【文官】
楚の臣。申舟の子。
B.C.595楚荘王は宋に攻め込む口実をつくろうとして、申舟に命じて斉に使いさせ、宋を通る時に通行を願う挨拶をしないで通るよう命令した。申舟は殺されることを恐れて申犀を荘王に託して出発し、はたして宋人に捕らえられ、そこで殺された。
そこで楚は宋を討ち、国都を包囲した。
B.C.594、5月、楚は宋を降すことができなかったので、荘王は引き揚げようとした。
申犀は荘王の馬前にぬかずいて「私の父無畏は一命を捨てることを承知の上で、大王の命令を果たしました。しかるに大王には父との約束を破られて帰るのですか」と言ったので、荘王は返す言葉もなかった。
しかし結局、楚は宋と誓って引き揚げた。
秦子(シンシ)【武官】
魯の臣。
B.C.685、8月、乾時の戦いで、秦子は魯荘公の御者となる。
魯は乾時の戦いで大敗し、荘公は兵車を失って逃げ帰った。秦子と戎右の梁氏は斉軍を惑わすため荘公の旗をたてて間道に逃げたので、ふたりとも捕えられた。
慎子(シンシ)
慎滑釐
申須(シンシュ)【文官】
魯の臣。
B.C.525冬、彗星が大辰の西に現れ、その光が銀河まで及んだ。申須は「彗星は古いものを掃いて新しいものを出す兆しである。彗星が大火(大辰)に現れたからには、諸侯にきっと火災が起こるであろう」と予言した。
申繻(シンジュ)【文官】
魯の大夫。
B.C.706桓公に子が生まれた。桓公はその命名を申繻に問うた。
申繻は「命名には五つあり、名をもって生まれてきたのが信であり、徳義の名をつけるのが義であり、容貌にちなんで名をつけるのが象であり、生まれた時の事柄にちなんでつけるのが仮であり、父と関係のあることにちなんでつけるのが類です。
官名や地名と同じ名を取って命名すると、それを改名しなくてはなりませんので、軽々しくしてはいけません」と言った。
そこで桓公と同じ日に生まれたので、名が同になった。(のちの荘公)
B.C.694桓公が夫人文姜とともに斉に行くことになった。文姜は斉襄公と淫通していたので、申繻は「女は夫の家に安んじ、男は妻の室に安んじて夫婦の道を守るべきです。これを乱して淫乱の行いをすれば必ず禍がやってきます」と言った。
はたして文姜は淫通し、それを知った桓公は襄公に殺される。
申舟(シンシュウ)【文官】
楚の大夫。姓は申、名は無畏、字は舟。文之無畏ともいう。子舟とも書く。〜B.C.595。
B.C.617楚穆王は宋昭公・鄭繆公と宋の孟諸で狩を行い、申舟は子朱とともに左司馬をつとめた。
宋昭公が命を守らなかった。ある人が「国君たる者を辱しめてはなりません」と諌めたが、申舟は「わたしは職責を行うのである。国君だからといって権勢を恐れようか」と言って宋昭公の御者を鞭打って全軍にふれ示した。そのため宋に憎まれることになった。
B.C.595楚荘王は宋に攻め込む口実をつくろうとして、申舟に命じて斉に使いさせ、宋を通る時に通行を願う挨拶をしないで通るよう命令した。
申舟は「宋は事理に暗いので、きっと殺されます」と言った。
荘王は「もしそうなったら、宋を討って報復してやろう」と言った。
そこで申舟は子の申犀を荘王に託して出発し、はたして宋人に捕らえられ、そこで殺された。
申叔跪(シンシュクキ)【文官】
楚の臣。申叔時の子。
B.C.589申叔跪は父の申叔時のおともをして郢に出かける途中、斉に使いする巫臣に偶然出会った。申叔跪は「怪しいことだ。あなたは三軍の大事にかかわる使命を帯びていながら、桑畑のよろこびまで待たれている。おそらく他人の妻を盗んで逃げてゆくのであろう」と言った。はたして巫臣は夏姫を奪って晋に亡命した。
申叔時(シンシュクジ)【文官】
楚の臣。申公。
B.C.599楚は陳を滅ぼし、楚の県とした。斉の使いから帰った申叔時は祝福しなかった。
楚荘王がそのわけを問うと「ことわざに『牛牽いてひとの田渡り、田主にその牛横取られ』というのがあります。牛を牽いてわたるほうにも罪は在りますが、その牛を奪うとは乱暴すぎますまいか。いま王は(夏)徴舒が主君(霊公)を殺害したといって諸侯から兵を徴発し、大義によって陳を討たれましたが、その土地を奪ってわがものとなさるならば、今後いかなる名目をもって天下に号令できましょう。それゆえ祝福申し上げないのです」と答えた。
荘王は「よし」と言って、陳の公子を迎え、陳国を復興させた。
B.C.595楚は宋を討ち、国都を包囲した。申叔時は荘王の御者となった。
B.C.594、5月、楚は宋を降すことができなかったので、荘王は引き揚げようとした。
申叔時は「宋の郊外に家を作り、そこに引き下がって耕作して持久の計をとるならば、宋は恐れてきっと楚の命令を聞くでしょう」と進言したので、荘王はそれに従おうとした。宋の宰相華元はこれを恐れて、楚将子反にとりいって和平を結んだ。
荘王は士亹を太子箴(恭王)の教育係にしようとした。士亹は申叔時に教育方針を尋ねた。申叔時は「春秋を教えて善を勧め悪を抑えて、その心を戒勧します。教えに従わず、行動が改まらないならば、詩文を作って諷刺して行わせるようにしむけ、賢人を求めて補佐します。教えが完備しても従わないようであれば、それは人ではありません。太子が即位したらあなたは身を引かれよ。自分から引退すれば敬われますが、さもないと危険です」と答えた。
B.C.576楚恭王が鄭・衛を討とうとした。子嚢が「晋と盟ったばかりなのに、これに背くのはいけないことではありませんか」と諌めたが、子反が「敵に対しては利を見て進むべきだ。盟いの義理など考える必要があろうか」と進言したので、楚恭王は鄭に攻め入った。申叔時はすでに引退していたが、この話を聞いて「子反はきっと禍にかかるだろう。信義で礼を守り、礼で身をかばうものだ。信義と礼を守らなければ、禍からまぬがれない」と言った。
B.C.575、楚は晋に攻められた鄭を救うために援軍を出した。楚軍が申を通過した時、中軍の将子反は申で隠居している申叔時に面会して勝敗を問うた。申叔時は「今、楚は民に恵みを施さずして棄て去り、他国との友好を絶ち、神聖な盟いをやぶり、農時を顧みず兵を起こし、民を疲労させて欲望をとげようとしている。これでは一命をかけて戦う者があろうか。しっかりやりなさい。再びお目にかかることはないでしょう」と言った。
申叔展(シンシュクテン)【文官】
楚の臣。
B.C.597冬、楚が蕭を討ち、楚兵が蕭の城壁にせまった。蕭の還無社は楚の司馬卯に話しかけ、知り合いの楚の申叔展を呼び寄せてもらった。
申叔展「麦のもやし(内乱を防ぐ策)はあるのか」
還無社「ない」
申叔展「山鞠窮(外患を防ぐ策)はあるのか」
還無社「ない」
申叔展「河魚の腹疾(国が大敗すること)をどうするのか」
還無社「空ら井戸を目当てに助けてくれ」
申叔展「お前は茅で輪を作って井戸の目印にせよ。その井戸に哭声をあげる者はわたしだから、出て来い」
その翌日に蕭は全滅した。申叔展が井戸を探すと茅の輪があったので、還無社を救い出した。
申叔豫(シンシュクヨ)【文官】
楚の臣。
B.C.552夏、令尹子庚が没した。楚康王蔿子馮を令尹に任命しようとした。蔿子馮が申叔豫に相談してきたので、申叔豫は「国は君の権臣が多くて国王は若い。国をとても治めることはできません」と言った。そのため蔿子馮は病気だといって辞退した。
B.C.551子南が処刑されたので、蔿子馮が令尹に任じられた。蔿子馮の寵愛を受けている8人の者は、役人になっていないにもかかわらず馬をたくさんもっていた。ある日、蔿子馮が申叔豫に話し掛けたが、申叔豫は答えもせず、家に帰ってしまった。
蔿子馮「わたしは気がかりでお目にかからずにはおれません。わたしに過ちがあるなら話して下さい」
申叔豫「わたしはあなたの巻き添えを受けて罪にされたくありません」
蔿子馮「どうしてです」
申叔豫「前に観起が子南に寵愛されており、子南が処刑されると観起も車裂きにされました」
蔿子馮は家に帰って8人の寵臣に向かって「申叔に会ったが、死んだ客を生かして骨に肉をつけるという人だ。わたしを理解してくれる人なら、あのような人だ。そうでないなら絶交しよう」と言い、8人と絶交した。そこで楚康王は蔿子馮に心を許すようになった。
申書(シンショ)【武官】
晋の臣。〜B.C.552。
B.C.552晋平公欒盈を追放し、欒盈の一味である箕遺黄淵嘉父司空靖邴豫董叔邴師・申書・羊舌虎叔熊を殺した。
申胥(シンショ)
伍子胥
辛勝(シンショウ)【武官】
秦の臣。
B.C.227王翦とともに燕を討つ。
秦商(シンショウ)【在野】
魯の人。名は商、字は子丕、または丕玆。秦キン父の子。B.C.547〜。
秦商は孔子の弟子となった。
申詳(シンショウ)【文官】
魯の臣。顓孫師の子。言偃の婿。
穆公の時の賢人。
新城君(シンジョウクン)【文官】
羋戎
梓慎(シンシン)【文官】
魯の臣。
梓慎は、卜筮など数術の専門家であった。
斟尋(シンジン)【武官】
夏王朝中康のときの諸侯。
斟灌と共に寒澆と戦うが、舟を覆されて破れ、滅ぼされた。
申生(シンセイ)【公子】
晋の公子。献公の長子。〜B.C.656。
B.C.663驪姫奚斉を生むと、太子であったが、献公の命で曲沃に赴任させられる。
あるとき晋献公は蒸祭のとき、わざと病気と称して出席せず、奚斉に祭を行わせた。
そこで申生の家臣猛足は申生に「伯氏(狐突)は門を閉ざして出ず、奚斉が君侯の代理をしています。どうして善後策を講じないのですか」と言った。申生は「君命を棄てるのは不敬であり、わたしが命令を作るのは不孝です。その上、父の愛情をひき離して父の賜を善しとするのは不忠であり、人を退けて自分が成功するのは不貞です。わたしは曲沃に留まります」と答えた。
B.C.661晋は上下二軍を作成し、申生は下軍の将に任じられる。大夫士蔿に「太子は君に立つことはできないでしょう。あなたには都城(曲沃)が分け与えられ、卿(下将軍)が与えられたのが禄位の極です。どうして君の位にお立ちになれましょう。お逃げになるにこしたことはありません。罪に落ちてはなりません。位を弟の季歴に譲った呉の太伯のようになるものいいではないですか。公にはなれませんが名を残すことはできます」と言われたが、申生は「子輿がわたしのために考えてくれるのは忠です。しかし、私は不才であても努力と従順をするのみです。その上何を求めましょうか」と言い、ついに戦争に行き、霍を討ち破った。
B.C.660冬、申生に東山の皋落狄を討つように命令が下った。申生は里克に「わしは太子を廃せられるのだろうか(ふつう太子は国都から出ることなく主君に侍るもの)。また君侯がわたくしに偏衣と金玦を賜ったのは、どういう訳でしょうか」と問うと、「太子にはせっかくおはげみください。ご自分の修業につとめ、人を責めないでおれば、難を免れましょう」と里克は答えた。申生はついに東山を討った。
申生は出陣し、狐突が申生の御者となり、先友がその右乗となり、梁余子養罕夷の御者となり、先丹木がその右乗となり、羊舌大夫が軍尉となった。
申生は先友に「君侯がわたしに偏衣と金玦を下さったのは、なぜでしょうか」と尋ねた。先友は「君侯の衣服を二つに分けて、金属の武器で切断する権威があります。すべてはこの征伐にかかっております。若君よ、つとめなされよ」と答えた。
稷桑まで来ると、狄が邀撃してきたので申生は戦おうとした。
狐突は諌めて「いけません。いま国家は危険です。もし父君の意に従って太子の地位を去れば死を免れ、国家の利ともなります。ここで狄を戦って身を危うくして、内から讒言を起すのはよろしくありません」と言った。
また梁余子養は「君の命令のほどはもうわかっている。あなたが戦死すれば父君の悪をあらわすことになる。それより他国にお逃げなさるのがよい」と言った。
また罕夷は「たとえ国に帰ることができたとしてもどうにもなりません。君には何か悪心を持っておられる」と言った。
また先丹木は「敵を全滅させることなどできるものではない。できたとしても、まだ宮中で太子の悪口を言う者がいる。逃げたほうがよい」と言った。
しかし羊舌大夫は「それはいけない。父の命に背くのは不孝であり、君の命を棄てるのは不忠である。太子にはむしろ戦死なさるのがよかろう」と諌めた。
申生は「思うに、君侯はわたくしの心を計ろうとされるのです。戦わずに帰れば、私の罪はますます大きくなります。わたしが戦死すれば、令名だけは残りましょう」と言って戦いを決意し、狄を破った。
B.C.656献公が斉姜(申生の母)の夢を見たので、驪姫は申生に斉姜を祀って胙を献上すべきであるとすすめた。驪姫はその酒と肉に毒を入れておいた。申生が献公に胙を献上すると、驪姫は「日がたっておりますので、お試しください」と言った。はたして酒を地にそそぐと土が盛り上がり、肉を犬に与えると犬は死んでしまった。献公は申生を疑い、申生は曲沃に出奔した。
ある者が「あの毒薬を使ったのは驪姫です。太子はどうしてご自分で弁明なさらないのですか」と言うと、申生は「わが君はご高齢だから、驪姫でなければ寝ても安眠できず、食べてもうまくないのです。もしわしが弁明すれば、わが君は驪姫を怒るでしょう。だからいけないのです」と答えた。
またある人が「他国へ出奔なさいませ」と言ったが申生は「この悪名をこうむりながら出国しても、誰が私を受け入れてくれましょう。わしは自殺するしかないのだ」と言った。
12月27日、申生は新城の廟で首をつって自殺した。
申生は死ぬ前に猛足をやって出廷していない狐突に「貴殿の話を聞かなかったために死ぬことになりました。死ぬのは厭いませんが、わが君は年老い、国家は多難です。貴殿が朝廷に出ないなら、わが君はどうなるのでしょうか。わが君のために考えて下さるならば、わたくしはその御恩を受けて死にましょう」と言った。
諡を恭太子(恭君)という。
秦精(シンセイ)【武官】
西南非漢族であるク忍の人。
蜀で白虎が暴れまわって人々に害を与えていた。
秦精は廖仲薬何らとともに、白竹の大弓を作り、虎を射て三本の矢を虎の頭に命中させた。白虎は怒り狂って他の虎を全て殺し、一声大きく吼えて死んだ。
昭襄王は万家の領地を与えようとしたが、彼らが非漢族であったため、彼らの名を石に彫り付け、彼らの部族の税を免じた。
慎靚王(シンセイオウ)【皇帝】
周王朝36代王。名は定。顕王の子。〜B.C.315。
B.C.321即位する。
秦遄(シンセン)【文官】
魯の臣。
秦遄の夫人は季公鳥の妹である。
B.C.505、10月14日、秦遄と公父ショク陽虎に追い払われ、ふたりは斉に逃げた。
秦冄(シンゼン)【在野】
孔子の弟子。字は開。
申鮮虞(シンセング)【文官】
斉、楚の臣。右尹。
B.C.548、5月、斉荘公崔杼に弑された。閭丘嬰は、とばりで妻をくるんで車に乗せ、申鮮虞とともに逃げた。すると申鮮虞は閭丘嬰の妻を車から降ろして「君を諌めもできず、助けることもできず、一緒に死ぬこともできないのに、自分の可愛い者を隠すことを知っている。そんな卑怯者を誰が受け入れてくれるだろうか」と言った。やがて弇中という狭い山道にたどりついた。閭丘嬰は「崔・慶のやからが追ってくるだろう」と言うと、申鮮虞は「ここでは一対一の戦いになる。わたしをこわがらせる者はおるまい」と言って、そのまま野宿した。翌朝、弇中を抜け出ると、申鮮虞は「はやく走らせろ。やつらにはとてもかなわない」と言って、魯に亡命した。
B.C.546秋、慶封が崔杼を滅ぼした。申鮮虞は魯ににげて野良仕事の日かせぎをして斉荘公の喪に服した。
冬、楚人に招かれたため、申鮮虞はそのまま楚に出かけて右尹に任じられた。
秦祖(シンソ)【在野】
孔子の弟子。字は子南。
申息(シンソク)【武官】
楚の臣。
B.C.583晋の欒書は蔡を攻めて繞角の役で大勝し、さらに進んで楚に侵略してきた。申息はこれと戦ったが、桑隧で晋に破られた。
新稚狗(シンチク)【武官】
晋の臣。
新稚狗は趙毋卹の命で狄を討ち、これを破った。
穆子と諡される。
新稚穆子(シンチボクシ)
新稚狗
秦仲(シンチュウ)【王】
秦公(4代目)。公伯の子。〜B.C.821。
B.C.841周厲王が無道であったので、西戎は王室にそむき、犬丘の大駱の一族を滅ぼした。
B.C.828周宣王は即位すると、秦仲は大夫として西戎を討つ。
B.C.821西戎に殺される。
辛張(シンチョウ)【文官】
魏の臣。
秦の丞相魏冄が楚に赴こうとした。辛張と陽毋沢は、楚が秦の力を借りて魏を討とうとしていると読んで、それに対する備えをした。
晋陳(シンチン)【文官】
楚の臣。郤宛の一味。〜B.C.515。
B.C.515令尹子常費無忌の讒言を信じて郤宛を自殺させ、 その一味である陽令終とその弟の陽令完陽令佗、 大夫の晋陳とその子や弟を殺した。
申縳(シンテン)【武官】
田斉の臣。
B.C.333斉と楚は徐州で戦ったとき、申縳は田嬰の命で戦ったが敗れた。
慎到(シントウ)【文官】
斉の臣、韓の臣。稷下の学士。道家。法家とされることもある。〜B.C.315。
趙の人。
慎到は古代の聖人に対して懐疑的で、全ての人が聖人になれるわけではないので、法律や制度で人間を制御しなければならないと主張した。彼の教えは後、法家に影響を及ぼすこととなる。
慎到は稷下に邸宅を授かり、淳于髠環淵、接子、田駢騶奭たちとともに議論を戦わせた。
慎到は斉の上大夫となり、のち韓に去って大夫となった。
慎到は『慎子』42編を著したという。
申党(シントウ)【在野】
孔子の弟子。字は周。
沈同(シンドウ)【文官】
田斉の臣。
宣王の命を受け、孟子に自分ひとりの考えのようにして「燕を討ってもよろしいでしょうか」と尋ねると、孟子は「よろしい」と答えた。
するとほどなく斉は燕を討った。そこである人が孟子に「先生が燕を討つように勧めたというのは、ほんとうですか」と尋ねた。孟子は「いや、そんなことはない。ただ先日、沈同がそのことを聞いてきたが、さらに『誰が討ったらよいか』と聞いてくれたら、『仁君であれば討ってよろしい』と答えるつもりでいたのだ。いま斉が燕を討つのは、燕が燕を討つようなものだ。どうしてわしがそんなことを勧めようか」と答えた。
申徒狄(シントテキ)【文官】
商王朝の臣。
紂王が国を乱し滅ぼすことを見るに忍びず、石を背負って黄河に投じて死んだ。
神農(シンノウ)【神】
太古の帝王。姓は姜。
伏犠、女禍、神農を合わせて三皇という。
神農は農業の神とされ、農業に適した土壌の見分け方を教え、鋤や鍬を開発し、農業の方法を教え伝えたとされる。
また神農は人間が有毒な食物を口にし、汚い水を飲んで病に苦しんでいるのを見て気の毒に思った。そこですべての食物の毒見をして、有毒なものと食べられるものとの違いを人間に教えた。また百草をなめて医薬を見つけ、植物で口当たりのよい物、有毒な物、冷たい物、熱い物の4つに分類した。そのため神農は薬の守護神になった。
また神農は八卦をかさねて64卦を作った。また5弦の瑟をつくり、交易を教えたともされる。
日本でも薬屋さんなどで神農さまとして親しまれている。
神農は火徳を以て王となったので炎帝ともいい、烈山に興ったので烈山氏ともいう。
辛伯(シンハク)【文官】
周王朝の臣。
桓王は周桓公に公子を依頼して後見させた。辛伯は「妾が王后と肩を並べ、庶子が嫡子のようにはばをきかせ、寵臣が正卿とならんで政権をとり、地方の大都が国都に匹敵するのは、国の乱れるもとです」と諌めたが、桓王は聴き入れなかった。
B.C.694周桓公が周荘王を弑して、公子克を擁立しようとした。それを知った辛伯は荘王に告げ、荘王とともに桓公を殺した。
秦非(シンピ)【在野】
孔子の弟子。字は子之。
晋鄙(シンピ)【将軍】
魏の将軍。〜B.C.258。
B.C.258秦が趙を攻め、趙は救援を魏に求めた。晋鄙は安釐王の命で十万の軍を出し、鄴に留まって動かなかった。
信陵君はどうしても趙を救うため、王室から兵符の片符を盗み、晋鄙に兵権を返上するよう迫った。晋鄙は「これはどうしたことだろう」と疑ったので、信陵君の食客の朱亥は隠していた四十斤の鉄椎で晋鄙を殴り殺し、ついに兵権は奪われた。
信陵君はその兵をもって趙を救った。
秦丕玆(シンヒジ)
秦商
鍼巫(シンフ)【武官】
魯の大夫。字は季。
季友の命で、叔牙に鴆毒を飲ませ毒殺する。
申不害(シンフガイ)【宰相】
鄭の臣、韓の宰相。京の人。〜B.C.337。
申不害は鄭の賤臣であった。
B.C.375鄭が韓に滅ぼされると、申不害は学んだ法術によって自ら推薦して韓昭侯に登用された。
B.C.351韓の宰相となる。
内は政治・教育を治め、外は諸侯に応接すること15年、申不害が死ぬまで国は治まり兵は強く、韓を侵すものがなかった。
申不害は、君主が臣の生殺与奪の剣を操って、臣の実力を発揮させる「術」を行使し、昭侯の独裁的な権威を高め、国力を増強していった。
申不害の学問は黄帝老子にもとづき、刑名の術を主とした。
申不害は一書二篇を著し『申子』と題した。
任不斉(ジンフセイ)【在野】
孔子の弟子。字は選。
親弗(シンフツ)
祝弗
秦舞陽(シンブヨウ)【武官】
燕の臣。秦開の孫。
13歳で人を殺したことがあった。
B.C.227太子暗殺に、秦舞陽を荊軻に随行させようとした。荊軻は別に期待していた者がいたが、まだやって来なかった。太子丹は出発をせかしたので、荊軻は怒って「舞陽を遣わすとは何事です。失敗するなら、その原因となるのはその小僧でしょう」と言い、ついに出発した。
秦舞陽と荊軻は秦王政に引見した。荊軻は樊於期の首桶を持ち、秦舞陽は地図を匣を捧げて進んだが、秦舞陽は顔色を変えて震え出した。群臣がこれを怪しんだので、荊軻は顧みて秦舞陽を笑い、「北方蛮夷の卑賤の者、いまだかつて天子に拝謁したことがありませんので震え恐れたのでございます」と詫びた。
荊軻と秦舞陽は暗殺を試みたが失敗した。
沈文泰(シンブンタイ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
九疑の人。紅泉神丹法と土符延年益命を道を会得していた。崑崙に赴こうとして安息国(アルサケス朝パルティア)に滞留すること20余年で法を李文淵に伝えた。沈文泰も李文淵ものちに昇仙した。
信平君(シンペイクン)
廉頗
申豊(シンホウ)【文官】
魯の臣。季氏の家老。
季武子には正妻の生んだ子がなく、年下の季孫紇を愛して後継ぎに立てようとして家老の申豊に尋ねた。申豊は返答もせずに走り退いて家に帰り、家財をまとめて立ち去ろうとした。季武子はまたも尋ねると申豊は「どうしてもそうなさるなら、立ち去る所存です」と答えたので、話はうちきりになった。しかし後に季武子は季孫紇を後継ぎに立てた。
B.C.538、1月、たくさんの雹が降った。季武子が申豊に「雹をとどめることができるだろうか」と問うた。申豊は「聖人が天下を治めておれば降らないし、たとえ降ったとしても禍がありません」と答えた。
B.C.519叔孫婼が晋に捕らわれたため、申豊はこれを救おうとして財貨を持参して晋に出かけると、 叔孫婼に「まず私に会ってくれ。誰に使ったらよいかを教えるから」と言った。かくて申豊は叔孫婼に会ったが、 叔孫婼は賄賂を使わせまいとして申豊を外に出さなかった。
B.C.516夏、斉に亡命した魯昭公を復位させないようにするため、申豊は女商人の付き添いとなって錦の織物をもって 斉の軍営に行き、斉の梁丘拠の家臣高齕に向かって 「この贈り物をご主人に送り届けてくれるなら、あなたを魯の高氏の子孫に仕立て、禄米5000庾を食む身分にしてあげよう」と言った。 そこで高齕は梁丘拠に贈り物を渡して取り入った。
申包胥(シンホウショ)【文官】
楚の臣。王孫包胥ともいう。
B.C.523伍子胥が楚から逃亡するとき「私は必ず楚を滅ぼしてやる」と言うと申包胥は「私は必ず楚を存続させてやる」と答えた。
B.C.506伍子胥が郢を陥落させて平王の墓を暴いて屍に鞭打ったことを聞き、彼に使者を送って「ひどすぎるではないか。かつては北面して仕えたことのある人に対して」と詰問した。伍子胥は「年老いて死期が迫っていることで、焦ってしまって道理に逆らうことをしてしまった」と弁解した。
申包胥は楚のため、秦に行き、宮廷に立ち七日七夜哭きつづけて援軍を乞うた。秦哀公はこれを憐れんで、戦車500乗を派遣して呉を討ったため、楚は滅亡を免れた。
B.C.505申包胥は秦の援軍を率いて楚に帰った。そして呉の夫概の軍を沂で大いに破った。
呉軍は撤退し、楚昭王は申包胥ら功臣に賞を与えたが申包胥は「わたしは君のために働いたもので、自分のために働いたのではありません。 君が安泰になられて、この上は何を望みましょう。それにわたしは子旗をとがめたことがあります。どうして同じことをしましょう」と言って賞を受けなかった。
B.C.473申包胥は使節として越を訪れると、越王勾践が問うた。
勾践「呉は無道で、わが国の社稷宗廟を破壊しようとしています。今、騎兵甲卒伍の戦備は整いましたが、策略がありません。どうか教えてください」
申包胥「呉は大国です。王の呉と戦う策をうかがいましょう」
勾践「飲食には美味を尽くさず音楽を聞くには妙音を尽くさず、ただ呉に報復しようと思ってきました」
申包胥「よろしいですが、まだ足りません」
勾践「病人を見舞い、死者の葬式をし、老人を尊敬し、孤児を育て、ただ呉に報復しようと思ってきました」
申包胥「よろしいですが、まだ足りません」
勾践「民をわが子のように愛し、善導し、法令を治め刑罰をゆるやかにし、民の望むことを行い、ただ呉に報復しようと思ってきました」
申包胥「よろしいですが、まだ足りません」
勾践「富んだ人を安定させ、貧乏人には施し、余分のある者から税をとり、ただ呉に報復しようと思ってきました」
申包胥「よろしいですが、まだ足りません」
勾践「楚や晋や斉に服事して、まだ交際を絶ったことはなく、ただ呉に報復しようと思ってきました」
申包胥「これ以上付け足すことはありません。しかしながら、それでも戦はできません。戦は知を第一とし、仁がその次で、勇がまたその次です」
勾践「わかりました」
勾践はこうして呉を討ち滅ぼした。
申無畏(シンムイ)
申舟
申無宇(シンムウ)【文官】
楚の臣。芋尹。
B.C.543令尹の公子が大司馬蔿掩を殺して、その財産を奪い取った。申無宇は「王子は禍にかかるであろう。司馬の官は令尹の半身であり、王の手足である。これより大きな不吉はあるまい」と言った。
B.C.538冬、楚霊王は許国を頼に移そうと考え、闘韋亀と公子弃疾に命じて許のために城壁を築かせて引き揚げた。申無宇は「楚の禍はここかは始まる。今、王の思い通りになっている。 民が安んじておれなくなれば、王命に耐えることができなくなる。その時こそ騒動が起こる」と言った。
B.C.531、11月、楚霊王は蔡を滅ぼして、隠太子を岡山の祭りのいけにえに用いた。申無宇は「不吉なことだ。諸侯をいけにえに用いるとは。王はきっと後悔されるであろう」と言った。
また楚霊王は陳と蔡と不羮に城を築こうとして、子皙に命じてこのことを申無宇に伝えさせた。
霊王「この3城だけで晋に対抗できよう。その上楚を加えたなら、諸侯は楚に仕えるであろう」
申無宇「鄭に京・櫟があり、衛に蒲・戚があり、宋に蕭・蒙あり、魯に弁・費あり、斉に渠丘あり、晋に曲沃あり、秦に徴衙があります。これらはみな宗家に叛乱をしました。わたくしは楚もこのようなことになることを恐れるのです」
霊王「彼は天を知っているだけで、どうして民を知っていようか」
然丹「民は天が生んだものですから、天を知っていればきっと民を知っています」
しかし霊王は諫言を聴き入れなかった。
申無宇は2度王命を犯したのに、霊王に殺されなかった。
辛兪(シンユ)【文官】
欒逞の臣。
B.C.552欒逞が罪を犯して国外に出奔した。正卿范匃は命令を出して欒氏の臣が君(欒逞)とともに亡命することを禁じ、犯した者は死刑にしてさらすことにした。しかし辛兪は亡命しようとして逮捕された。
平公「法令があるのに、なぜ犯すのか」
辛兪「臣は法令に従っています。正卿は『欒氏に従うな、君に従え』と言いました。臣は祖父以来、代々欒氏に隷属して今や三代になります。臣はそれゆえ欒氏を君としないわけにはまいりません。法令を犯した者は死刑にされますので、それに従います」
平公は辛兪の忠節を喜んで、晋にとどめようとしたが、辛兪は聴かなかった。そこで平公は重く下賜しようとしたが、辛兪は辞退して「先ほど臣の気持ちを述べました。ここでもし、君の下賜をお受けしたなら、前言を破ることになります」と言った。平公は辛兪の亡命を許した。
辛有(シンユウ)【在野】
B.C.771周が東遷した。辛有は伊川に出かけたとき、髪をざんばらに振り乱してお祭している者を見た。辛有は「100年とたたないうちに、ここは戎の住む所となるだろうか」となげいた。
B.C.638秋、はたして秦・晋は陸渾の戎を誘って伊川に移した。
沈猶行(シンユウコウ)【在野】
曾子の弟子。姓は沈猶、名は行。
曾子が魯の武城にいたとき、越が攻めてきた。曾参は町を立ち去って、敵が退却すると、すぐに帰ってきた。門人たちは「武城の人は先生に敬意を払っているのに、敵が来るといち早く逃げ出して、敵が去るとすぐに帰るのは、善いとはいえまい」と語り合った。
沈猶行は「君たちにはお分かりになるまい。以前、先生が我が家に滞在された時、負芻という者が乱を起して攻めてきたことがあった。先生は従者をみな引き連れて立ち退かれたので、誰一人としてこの災難にあわなかったのだよ」と言った。
辛余靡(シンヨビ)【将軍】
周の臣。昭王の南伐の際に、溺れかけた昭王を救った。
その功により西翟に侯として封じられる。
鄩羅(ジンラ)【武官】
周王朝の臣。
B.C.519、7月9日、周王室の乱のとき、鄩羅は子朝を荘宮に入れた。
申驪(シンリ)【武官】
楚の臣。シンレイとも読む。
B.C.583晋の欒書は蔡を攻めて繞角の役で大勝し、さらに進んで楚に侵略してきた。申驪はこれと戦ったが、晋に捕えられた。
辛廖(シンリョウ)【文官】
晋の卜官。
畢万は晋に仕える可否を占ったところ「屯が一転して比になるに遭う」と出た。辛廖はこれを判断して「吉であります。屯は堅固を意味し、比は親密を意味します。これ以上の吉兆はございません」と言った。
畢万の子孫はいよいよ栄え、その封邑の名にちなんで魏氏となった。
信陵君(シンリョウクン)【宰相】
戦国四君のひとり。魏の公子。名は無忌。昭王の末子。〜B.C.243。
B.C.278安釐王が立つと、封じられて信陵君と号した。
信陵君は生まれつき慈しみ深く、士にへりくだる性質で、賢愚を問わず誰とでも謙虚に礼をもって交わり、自分の富貴をかさに驕り高ぶることがなかった。そのため四方数千里の地から、先を争って士が集まり、食客は三千人に及んだ。
あるとき信陵君は安釐王と賭け事をしていた。そこへ烽火が伝えられ「趙軍来襲」と報告があった。安釐王は賭け事をやめ、大臣に評定しようとしたが、信陵君はそれを止めて「趙王が狩をしているだけのことです。攻めてきたのではありません」と言って、賭け事をつづけた。安釐王は恐れて気もそぞろ、賭け事どころではなかった。しばらくすると、また烽火があり「趙王の狩であり、来襲ではありません」と伝えてきた。安釐王は大いに驚いて信陵君にそのわけを問うた。信陵君は「わたくしの食客に、よく趙王の秘密に通じている者がおり、逐一わたしに報告してくれるのです」と答えた。
それ以後、安釐王は信陵君の賢能を恐れ、国政を任そうとしなかった。
魏に侯嬴という隠士がいた。年は70歳、家が貧しく大梁の門番をしていた。信陵君は食客に迎えようとして訪ねて手厚い贈り物をした。侯嬴はくたびれた衣冠を整え、さりげなく車に乗って、信陵君に上座を譲ろうともしなかった。しかし信陵君はうやうやしく対応した。
侯嬴は「屠殺市場にわたくしの訪ねたい友人がおりますので、車をそこへ寄せていただきたい」と言った。そこで車を市場に廻して、侯嬴は友人の朱亥に会い、長々と立ち話をした。市中の人々はみなこれを見物し、お供の者はみな陰口をきいて侯嬴をののしった。
その夜、宴席で侯嬴は「今日、わたくしが公子のために尽くしたことは、相当なものです。わたくしは夷門の門番の身であるのに、公子は親しく車馬を駆り迎えてくださり、寄り道までしていただきました。これは公子の名声を挙げたいためで、市場で待たせたのも目立たせるためです。衆人はみな、わたくしは小人で、公子は温厚の長者であると思うでしょう」と言った。
信陵君はそこで侯嬴を上客とした。
また侯嬴の推挙で朱亥を迎えたが、朱亥は返答しなかったので、信陵君はこれを不思議に思った。
B.C.266趙は魏の宰相范痤を殺せば方七十里の土地を献じる約束を安釐王と行った。
安釐王は役人に命じて范痤を捕らえようとし、范痤は屋上に上って棟にまたがり、使者に言った。
「死んだ痤で取引するより、生きている痤で取引したほうがましでしょう。もし痤が死んでも、趙が王に土地を与えないようなことがあったら、王はどうなさいますか。だから、趙から土地をもらったうえで、痤を殺したほうがたしかです」
安釐王はこれを聞いて「なるほど」と言った。
范痤は信陵君に書簡をたてまつって「趙は土地と交換に痤を殺そうとし、魏王はこれを承諾されました。さりながら、もしも強秦が趙にならって、誰か(暗に信陵君をさす)を殺すよう要求してきたとき、あなたはどうなさるおつもりですか」と言った。
そのため信陵君は安釐王にとりなして、范痤を釈放した。
魏の宰相魏斉は秦に首を求められ逃亡していた。魏斉は虞卿とともに信陵君をたよった。信陵君は秦を恐れて、受け入れるかどうか悩んだが、侯嬴の進言でこれを受け入れようとした。しかし魏斉は信陵君が受け入れてくれないと思い、憤ってみずから首をはねて死んでしまった。
B.C.258秦が趙の邯鄲を包囲した。信陵君の姉は平原君の夫人であったので、平原君はしばしば安釐王と信陵君に書簡を送り、救援を請うた。安釐王は晋鄙に命じて救わせようとしたが、秦を恐れて鄴に兵を留め塁壁を築いて、名義は趙を救うためと称して、実は二心をもって形勢を傍観することにした。そのため平原君からたびたびこれを責める使者が来た。
信陵君はこれをうれえて、安釐王に救援を請うたが、聴き入れられなかった。
そこで車馬百余乗を調達し、食客を率いて秦に立ち向かい、趙と運命を共にしようと食客の同意を得た。出発にあたって侯嬴を訪れると、侯嬴は「晋鄙に与えられた兵符の片符は、王の寝室にしまってあり、そこに入れるのは寵愛されている如姫のみといいます。かつて如姫は父親を殺した者を捜しており、公子は食客に命じて仇を探し出し、その首をとって如姫に進呈されたとか。ですから、公子が心から如姫に請われるなら、きっと応じましょう。晋鄙の手から軍を奪って趙を救い、秦を退けられるなら、五覇の功業にも比すべきものでありましょう」と言った。
そこで信陵君は如姫に請い、兵符の片符を手に入れた。また侯嬴が「将軍たるもの外征中は主君の命でも聴かない場合があります。もし晋鄙が軍を引き渡さなかったら、面倒なことになるでしょう。そのときに備えて、わたくしの友の朱亥を同行なさいませ。晋鄙を撃ち殺すことができます」と言った。
信陵君はこれを聞くと泣いた。侯嬴が「公子は死ぬのが恐ろしくなったのですか。なぜ泣かれるのか」と問うと、「晋鄙は剛毅な老将軍である。おそらくは言うことを聴くまい。彼を殺すことになるだろうと思い、泣いたのである」と答えた。
信陵君は鄴に着き、魏王の命といつわって晋鄙と交代しようとした。はたして晋鄙は「これはどうしたことだろう」と疑ったので、朱亥は隠していた四十斤の鉄椎で晋鄙を殴り殺した。信陵君はついに軍を統率し、軍から兵八万を選抜し、軍を進めて秦軍を討った。秦軍は邯鄲の囲みを解いて退却し、邯鄲は救われた。
しかし安釐王は信陵君が兵符を盗み、晋鄙を殺したことを怒り、また信陵君自身も罪を犯したことを悟り、兵を魏に帰還させると、みずからは趙に留まった。
孝成王は信陵君を封じて5城を与えようとした。信陵君はこれを聞くと驕慢の心がおこり、みずから功を誇る気色が見えた。しかし食客に「公子は命令をいつわって功を立てたのに、これを誇られるのは、公子のために賛成できません」と言われたので、信陵君はこれを辞退した。
そこで趙は鄗を信陵君に献じて湯沐の邑とし、また魏も信陵の地を与えた。
信陵君は趙に滞在中、博徒の毛公、味噌屋の薛公を貴び、訪問して大いに語り、満足した。平原君は妻に「そなたの弟は博徒・味噌屋を相手にするのか」と言った。夫人がそれを信陵君に告げると、信陵君は夫人にいとまごいをして「私は平原君を賢明な人だと聞いていました。だから魏王に背いてまで趙を救ったのです。しかし平原君の交際は、外面を華やかにするだけのようです。わたしは大梁にいる頃からこの二人の賢明を聞いていました。こうした交際を恥とする平原君こそ、共に交際するに足らぬ人物である」と言って、趙を去ろうとした。夫人はこれを平原君に告げると、平原君は冠を脱いで、おのが不明を謝り、信陵君を引き留めた。これを聞いて平原君の門下の者は、半分が去って信陵君に投じた。また天下の士も信陵君に集まった。
B.C.248安釐王は、信陵君がいないため秦に日夜兵を出して討たれるので、使者を遣わして信陵君の帰国を請うた。信陵君は害されるのを恐れたが、毛公・薛公に「もしも秦に大梁を破らせ、先王の宗廟を蹂躙させるというなら、公子は何の面目があって天下に立つことができましょう」といわれたので、急いで帰国して魏を救うこととした。
B.C.247安釐王と信陵君は会見して、ともども泣いた。そして上将軍の印をうけ、みずから魏将となったことを諸侯に通告した。
諸侯はそれぞれ将軍を派遣して、信陵君は五カ国の軍隊を指揮して秦を討ち、秦将蒙驁を敗走させ、勝に乗じて秦軍を追い、ついに函谷関に押し寄せた。
信陵君の食客らは自らの兵法の書を信陵君に進め、それらの書物には、みな公子の名が題せられたので「魏公子兵法」といった。
秦は信陵君を恐れ、金一万斤をばらまいて晋鄙のもとの食客を求め、魏王に讒言をさせた。安釐王は信陵君を退けて、別の者を将軍とした。信陵君は病気と称して参内せず、食客と共に長夜の宴を張り、夫人を近づけた。
B.C.243酒のため病気となって没した。


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