中国的こころ>列伝>列伝 ネ
カ サ タ ナ ハ マ ヤ ラ ワ ン
列伝 ネ
ネ
- 甯嬴(ネイエイ)【在野】
- 甯の旅館の主人。
B.C.628陽処父が衛へ行った帰りに甯を通り、甯嬴の所で泊まった。甯嬴は妻に「わしは長いこと君子を捜していたが、
今やっとみつけた」と言って陽処父について行った。
しかし温山まで行くと、甯嬴は引き帰した。妻がその理由を聞くと甯嬴は「わしは彼の容貌を見た時は善いと思ったのだが、話を聞いて嫌になったのだ。
わしは利益を受けないうえに、災難に巻き込まれることを恐れたので別れてきたのだ」と言った。
- 甯遠(ネイエン)【宰相】
- 衛の宰相。正卿。名は遠。
B.C.660、12月、衛は狄に攻められる。衛懿公はこれを迎撃しようとしたが、大臣らは「君は鶴がお好きです。
鶴に翟を撃たせたらよろしゅうございましょう」と言った。
そのため懿公は石キ子に玦を与えて指揮権を与え、甯遠に矢を与えて防禦させ、夫人に繍衣を与えて
「あのふたりに相談せよ」と言って自ら出陣した。
懿公は狄軍と熒沢で戦ったが大敗し、狄は勝ちに乗じて衛を滅ぼした。
B.C.642晋の公子重耳が衛を通過したが、衛文公はこれを礼遇しなかった。
甯遠は「晋の公子は善人で、しかも衛とは親戚(先祖が周文王から出ている)ですのに、
君が礼遇されないのは三徳(礼・親しみ・善)を棄てるものです。晋の公子が帰国して衛が討伐されることを恐れます」と諌めたが、文公は聴き入れなかった。
B.C.634、1月、甯遠は魯釐公と莒君玆丕公の立会人として魯の向で盟い、
両国の盟いをあたためた。
荘子と諡される。
- 甯跪(ネイキ)【文官】
- 衛の臣。
B.C.688、6月、衛恵公が諸侯の助けを帰りて衛に帰ったため、甯跪は秦に追放される。
- 甯喜(ネイキ)【武官】
- 衛の臣。甯悼子ともいう。甯恵子の子。〜B.C.546。
B.C.553甯恵子は病気になり、甯喜を呼び寄せて「わたしは君に対して申し訳のないことをした。わたしの悪名は諸侯の記録に残っている。
しかし君(衛献公)がお戻りになれば悪名は拭われるであろう。この悪名を拭ってくれるなら、それこそわが子だ。
もしできないなら、わたしは供え物を食べにはやってこないだろう」と言った。甯喜が承諾すると、甯恵子は間もなく没した。
甯喜は衛殤公の寵を孫文子と争った。
B.C.548冬、衛献公が国外から夷儀に入り、使者を遣わして国に帰りたいと言ってきた。甯喜はこれを承諾した。
B.C.547甯喜は衛献公に帰国の際には、必ず子鮮を使うよう進言した。
甯喜は遽伯玉に話すと、遽伯玉は「わたしは君がどうして亡命されて帰国されるのかわかりません」と言って、
国外へ亡命した。さらに甯喜は右宰穀に話すと、穀は「国に入れるのはいけません。ふたりの君に罪を犯せば、
だれもかばってくれません」と言った。甯喜は「わたしは亡父の命令を受けているので、背くことはできません」と言うと、穀は衛献公の様子を見てきて
「君はもとのままの人柄です。国に迎えれば、やがて一命を捨てることになります」と答えた。甯喜は「子鮮がおります」と言うと、
穀は「何の役も立ちません。子鮮は無事に逃げることができたら、それこそ幸いでしょう」と答えた。しかし甯喜は「そうはいっても、やめるわけにはいかない」
と言った。
2月6日、甯喜は穀とともに孫文子と孫嘉の留守をねらって孫氏を討ったが、勝てなかった。甯喜は国外に亡命しようとしたが、
孫襄が負傷して没し、国人が甯喜を求めたため、甯喜は再び孫氏を攻めて勝利した。
2月7日、甯喜は衛殤公とその太子角を弑して、衛献公を復位させた。
6月、晋・魯・宋・鄭・曹が衛を討とうとして会合した。甯喜は会合に参加しようとして晋に捕えられた。
B.C.546甯喜は専権したため、衛献公に警戒された。そのため公孫免余が公孫無地・
公孫臣とともに攻めてきたが、甯喜は反撃してふたりを殺した。
夏、公孫免余が再び攻めてきたため、甯喜は右宰穀とともに殺された。
- 甯恵子(ネイケイシ)【武官】
- 衛の臣。姓は甯、名は殖。〜B.C.553。
B.C.577夏、晋の郤犨は衛に遣いして、晋に亡命していた孫文子を衛に送届けた。
衛定公が郤犨をもてなす宴を開き、甯恵子は介添えを務めたが、郤犨は傲慢であった。
甯恵子は「苦成叔の家はきっと滅びるであろう。昔は宴会を設けて威儀作法を見て、その人の吉凶禍福を占ったのだ。いまの大夫は禍を受けるであろう」と言った。
9月、衛定公は病気になった。甯恵子は孔成子とともに命ぜられて公子衎を太子と定めた。
B.C.572、1月、甯恵子は晋・宋・曹・莒・邾・滕・薛とともに彭城を攻め囲み、これを降した。
B.C.571、6月、甯恵子は晋とともに鄭を討った。
B.C.565、5月7日、晋悼公は諸侯の大夫を邢丘に会合させ、晋に朝聘すべき回数を命じた。衛からは甯恵子が参加した。
B.C.559衛献公が甯恵子と孫文子に一緒に食事をしようと誘ったが、
日が暮れてもふたりを召さずにおおとりを林で射ていた。甯恵子と孫文子がそこへ行くと、衛献公は挨拶もせずに話しかけた。その無礼さにふたりは腹を立てた。
孫文子は衛献公を攻めて公子剽を立てて国君とした。
B.C.557晋平公が諸侯と温で宴会を催した。このとき斉の高厚が無礼であったため、
甯恵子は晋の荀偃、魯の叔孫豹、宋の向戌、
鄭の子蟜、小邾の大夫と盟って斉を討つことを申し合わせた。
B.C.553甯恵子は病気になり、子の甯喜を呼び寄せて「わたしは君に対して申し訳のないことをした。わたしの悪名は諸侯の記録に残っている。
しかし君がお戻りになれば悪名は拭われるであろう。この悪名を拭ってくれるなら、それこそわが子だ。もしできないなら、わたしは供え物を食べにはやってこないだろう」
と言った。甯喜が承諾すると、甯恵子は間もなく没した。
- 甯殖(ネイショク)
- →甯恵子
- 甯戚(ネイセキ)【宰相】
- 斉の宰相。衛の人。
斉桓公に用いられようと思い、斉に赴き、牛飼をして牛に飯を食わせる歌を歌った。桓公はこれを聞いて、
甯戚を見出して登用した。
- 甯相(ネイソウ)【武官】
- 衛の臣。甯兪の子。
B.C.589春、斉が魯を討ったので、甯相は衛穆公の命で孫良夫・
石稷・向禽将と共に斉を攻めた。衛軍は途中で引き揚げている斉軍と出くわした。
夏、衛軍は斉軍と新築で戦ったが衛軍は大敗した。
B.C.585、3月、宋が前年の会合を拒否したため、甯相は晋伯宗・夏陽説、孫良夫、
鄭人、伊雒の戎、陸渾の蛮氏とともに宋を侵略した。
- 甯荘子(ネイソウシ)
- →甯遠
- 甯悼子(ネイトウシ)
- →甯喜
- 佞夫(ネイフ)【公子】
- 周王朝の公子。周霊王の子。〜B.C.543。
B.C.545周霊王が崩御すると、儋括が公子佞夫を立てようとしたが、公子佞夫はこれを知らなかった。
B.C.543、5月5日、公子佞夫は尹言多・劉毅・単蔑・
甘過・ 鞏成らに殺された。
- 甯武子(ネイブシ)【武官】
- 衛の臣。
B.C.495孔子が宋の邑の匡で囲まれて窮していた。甯武子は孔子の従者を臣下として、これを破り孔子を援けた。
- 甯武子(ネイブシ)
- →甯兪
- 甯封子(ネイホウシ)【神】
- 仙人。列仙伝に見える。
黄帝のころの人。代々黄帝の陶正(陶器を司る長官)となる。
薪を積んで自ら火に焼けその煙に乗って上下することが出来た。
- 甯兪(ネイユ)【文官】
- 衛の臣。
B.C.632、6月、衛成公は晋と和睦して帰国した。成公に従っていた甯兪は衛の人と宛濮で盟って
「国に残って守る者がなかったら、だれが衛を守っただろうか。君について国外に行く者がなかったら、だれが君の世話をしただろうか。今後、
国外に行った者はその苦労を誇ることなく、留守をした者は罪にかかるのではないかと心配することはない。和合して衛の国を守ろうではないか」と言った。
そのため衛の人は成公を君とすることに惑わなくなった。
冬、衛成公は叔武を殺したことについて元咺と言い争いをして晋に裁きを求めた。
衛成公が敗訴となったので、晋文公は衛成公の弁護人の士栄を殺し、
代理人の鍼荘子を足切りの刑に処したが、
補佐役の甯兪は忠義者であるとして許された。かくて成公は囚室にとじこめられたが、甯兪は粥を差し入れる世話をした。
B.C.630夏、晋文公は衛成公を捕らえて周に送り、医者衍に命じて鴆毒で殺させようとしたが、
甯兪は衍に賄賂を贈って毒を薄めさせ、死を免れた。さらに文公は天子の命でこれを殺そうとした。襄王は「いけません。
下の者が上の者を訴えるようでは、上下の別はなくなります。今、元咺の訴えは正しいとはいえ、聴いてはなりません。
臣下のためにその君を殺すとしたら、誰に対して刑罰を用いるのですか」と言った。
秋、魯釐公が衛成公の釈放運動をしたので、文公は衛成公を許して国に帰した。
B.C.623秋、甯兪は魯を聘問した。魯文公は天子が諸侯をもてなす時に歌う湛露と彤弓の詩を詠った。
甯兪は礼にそむくとしてお礼の挨拶をせず、お返しの詩も詠わなかった。
武子と諡される。
|