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列伝 レ


戻(レイ)【武官】
魯の臣。叔孫氏の家臣。司馬ソウ戻ともいう。
B.C.517、9月11日、季平子が魯昭公に攻められたとき、 戻は家中の衆に「季氏が滅亡するのと存続するのでは、我々にとってどちらが有利だろうか」と問うた。 すると皆が「季氏の滅亡は、叔孫氏の滅亡です」と答えたので、戻は「それなら季氏を助けることにしよう」と言って家来たちを率いて魯昭公の兵を追い払った。 そのため孟氏も季氏を味方をし、魯昭公は斉に亡命した。
(『史記』では戻は郈昭伯を殺したとしている)
黎(レイ)【神】
帝顓頊の孫。
帝顓頊は天の中心を支配し、黎に地を永久に押し付けているように命じ、 もうひとりの孫に天を永久に支えているように命令した。
犂(レイ)【神】
帝顓頊の子。
犂は火正の祝融となった。
厲王(レイオウ)【皇帝】
周王朝10代王。名は胡。夷王の子。〜B.C.828。
淮夷が賦貢義務の履行を怠ったため、厲王は師エン父に命じてこれを討たせる。
B.C.844厲王は暴虐無道であったので、国民が王の悪口を言った。厲王は立腹して衛のみこを召して悪口を言う者を監視し、告発すると殺した。それ以後、 国民は悪口を言わず、道路の上では互いに目で合図した。厲王は邵公に言った。
「わしは悪口をやめさせたぞ。誰もよう言わん」
邵公「それはふさいだのです。民の口を塞ぐのは、川を塞ぐよりも危険です。川は決壊すれば、多くの人を殺傷するように、国民も同じです。川を治めるには、つかえた所を通して、 水を導いてやります。民を治めるにも自由に言わせ、天子はその戒めを取捨選択して政治を行うのです。もしその口をふさぐならば、いく年もちましょうか」と言った。
しかし厲王を聞き入れなかった。
厲王が栄の夷公を寵愛したので、芮良夫が諌めて言った「王室は衰微するでしょう。 栄公は利益を独占したがって、大難を知りません。一人の男が利益を独占してさえ、盗といいます。王ともあろう者がそんなことをすれば、終わりをまっとうできなくなります」
しかし厲王は聴き入れず、栄公を大臣とした。そのため諸侯は来朝しなくなった。
B.C.841大反乱が起こり、民衆は王宮を囲んだ。厲王は彘に逃亡し、周は一時滅びた。
B.C.828、14年後亡命先の彘で没す。
霊王(周)(レイオウ)【皇帝】
周王朝23代王。名は泄心、または大心。簡王の子。〜B.C.545。
B.C.572、9月15日、簡王が没したので、公子泄心は即位した。
B.C.571、1月、霊王は簡王を葬った。
B.C.568春、霊王は卿士王叔陳生を遣わして戎が周室を侵していると晋に訴えた。 しかし晋は王叔陳生を捕え、士魴を周に遣わして、王叔陳生が戎に心をよせていると告げてきた。
B.C.563王叔陳生が伯輿と政権を争った。霊王は伯輿を助けたので、王叔陳生は腹を立てて都を出た。黄河まで行ったところで、 霊王は罪を史狡になすりつけてこれを殺して弁解した。しかし王叔陳生は都に帰らず、そのままそこに住んだ。 晋悼公范匃に命じて王室の騒ぎを治めようとした。 王叔陳生は訴えたが敗れたため晋に亡命した。そこで単襄公が代わって王室の卿士となった。
B.C.561冬、霊王は斉に王后を求めた。斉霊公が承諾したので、霊王は大夫陰里に命じて結婚の世話をさせた。
B.C.559霊王は王后を斉から迎えようとして劉夏を斉に遣わして命を伝えさせた。
B.C.554、4月14日、鄭の子蟜が没し、 その死を聞いた晋平公が霊王に子蟜の追賜をお願いした。周霊王は大路(事)を賜って葬礼を行わせた。
B.C.552晋の欒盈が晋を追放されて周を通過したとき、周の西境の人が欒盈を襲って物を奪い取った。霊王は 「晋をひどいと言って批難しておきながら、こちらで彼の物を奪い取るとは、晋のまねをするようなものだ。その悪はもっとひどい」と言い、 司徒に命じて盗人を捕えて奪った物を欒盈に返した。
B.C.549穀水と洛水が氾濫して王宮を壊しそうになったので、霊王は川を塞ごうとした。公子がこれを諌めたが、霊王は聴き入れず、 穀水をせき止めた。しかし穀水が流出して南流し、王城の南を流れていた洛水に合流して王城を破壊した。そのため斉が王城の普請をしてきた。
冬、魯の叔孫豹が来聘し、王城が修復されたお祝いを申し上げた。霊王は叔孫豹の礼儀正しいことを賞して車を贈った。
B.C.547冬、晋の韓宣子が来聘した。霊王はその要件を尋ねると、 韓宣子は「晋の士起(自分)なるこのわたしが四時に奉るべき貢職をご報告したまでで、ほかに用事はございません」と答えた。霊王は「韓氏はきっと栄えるであろう。 言葉づかいがしきたりにかなっている」と言った。
B.C.545、11月26日、霊王は崩御した。
霊王(楚)(レイオウ)【王】
楚王(10(26)代目)。名は熊虔。公子囲。康王の弟。令尹。〜B.C.529。
B.C.547、5月、楚は鄭を討って穿封戌皇頡を捕らえた。 ところが公子囲がその功を争ったため、伯州犂が裁くことになった。伯州犂が尋ねると、皇頡はいつわって 「わたしは王子(公子囲)に出会って負けたのです」と答えたため、公子囲の功となった。穿封戌は立腹して戈を抜いて公子囲を追いかけた。
B.C.544公子囲は楚王郟敖に令尹に命ぜられ、兵事を司った。
B.C.543公子囲は大司馬蔿掩を殺して、その財産を奪い取った。申無宇は 「王子は禍にかかるであろう。司馬の官は令尹の半身であり、王の手足である。これより大きな不吉はあるまい」と言った。
B.C.542冬、衛襄公北宮文子が来聘した。北宮文子は公子囲の威儀を見て 「令尹は国君らしいふるまいをしています。野心をとげようとしておりますが、終わりはよくないでしょう」と言った。衛襄公が「どうしてわかるのか」と問うと北宮文子は 「令尹の身なりは重々しくなり、民の手本とするところがありません。民の仰ぐべきところがなくて、どうしてその上に立つことができましょう」と答えた。
B.C.541、1月、公子囲は鄭を聘問し、公孫段の娘を妻に迎えようとした。しかし鄭人は公子囲が多勢であることをいやがり、 城外で宿泊させた。聘問を終えて公子囲は娘を迎えに行こうとしたが、鄭の子産は公子囲の襲撃を恐れて断った。 そこで介添の伍挙が弓を袋にしまうことを条件に出したため、やっと聴き入れられた。
1月16日、公子囲は鄭の都に入って豊氏の娘を迎えた。
公子囲は鄭で虢の会盟に出席し趙武国弱向戌斉悪叔孫豹公孫帰生子皮、 許の人、曹の人と会同した。公子囲は晋が先に血をすすることを心配して、血をすする儀式をやめたいと申し出て、許された。魯が会盟の言葉を裏切ったので、 公子囲は叔孫豹を殺そうとしたが趙武が強く諌めたので、公子囲は彼を許した。
3月26日、諸侯は盟いを結んだ。
この会盟のとき、公子囲は楚君の服装をし、ふたりの兵士に護衛させた。諸侯の大夫はこれを非難し、公子囲が乱を起こすと思った。 公子囲は会盟の後で趙武をもてなす宴を開いたが、自分の徳をたたえる意を寓した。叔向は 「強い家来が弱い君に勝って不義を犯しても、必ず倒れるでしょう」と言った。
公子囲は子皙と伯州犂に命じて犨、櫟、郟に城壁を築いて鄭に対する備えを固めた。
冬、公子囲は鄭を聘問しようと出発したが、郟敖が病気になったと聞いて引き返した。
11月、公子囲は都に着くと王宮に入り、王の病気を見舞うふりをして冠のひもで首をしめて殺し、 直ちに王の二子の平夏を殺した。 右尹子干は晋に出奔し、子皙は鄭に出奔した。公子囲は大宰伯州犂を郟で殺し、郟敖のなきがらを郟に埋葬して郟敖と名づけた。
公子囲は即位し(霊王)、子蕩を令尹に任命し、蔿啓彊を大宰に任命した。
鄭の子大叔が楚に来聘し、郟敖の葬儀に参列し、霊王に即位の挨拶をした。
B.C.539、10月、鄭簡公が来聘した。霊王は鄭簡公とともに江南の夢沢で狩をした。
B.C.538、1月、許の君が楚に来ると、霊王はこれをひき止め、続いて鄭簡公も引きとめて江南で狩をした。
霊王は伍挙を晋に遣わして諸侯と会合を開きたいと申し入れた。晋平公がこれを承諾したため、伍挙は早速に晋の公女を霊王に嫁がせてほしいと申し入れ、 これも許された。
夏、諸侯は霊王の招集に応じたが、魯・衛・曹・邾は参加しなかった。
6月17日、霊王は諸侯と申で会合した。霊王は諸侯に対しておごり高ぶった態度を取った。伍挙がこれを諌めたが霊王は聴き入れなかった。 鄭の子産は宋の向戌に「楚君はおごり高ぶって諌めに従いません。十年ともたないでしょう」と言った。
徐の君は呉から嫁いだ夫人の子であったことから、霊王は二心ありと疑い、これを申で捕らえた。 また霊王は越の大夫常寿過を辱め、蔡の大夫観起を殺した。
7月、霊王は諸侯を率いて呉を討った。霊王は屈申に命じて呉の朱方を包囲した。
8月、楚軍は朱方を攻め落とし、領主の慶封を捕らえてその一族を皆殺しにして、慶封も殺そうとした。 伍挙が「慶封はただ君命にさからって亡命しただけであります。罪もない者を処刑して悪名を示すことをする必要はありません」と諌めたが、 霊王は聴き入れず処刑しようとした。霊王は「慶封のようにその君を殺し、幼君を侮って大夫たちと盟ったようなことはしてはならない」と罪名を言いふれさせると、 慶封は「兄の子のを殺して、それに代わって諸侯と盟ったようなことはしてはならない」と言った。 霊王はすぐに公子弃疾に命じて慶封を殺した。
霊王は続いて諸侯を率いて頼を攻め滅ぼした。頼の君は両手を前で縛り、璧を口にくわえ、士は肩はだをぬいで棺をかついて君のあとに続き、 霊王のところにやってきた。霊王は伍挙の進言に従い、頼の君を楚の鄢に移した。
霊王は許国を頼に移そうと考え、闘韋亀と公子弃疾に命じて許のために城壁を築かせて引き揚げた。 申無宇は「楚の禍はここかは始まる。今、王の思い通りになっている。 民が安んじておれなくなれば、王命に耐えることができなくなる。その時こそ騒動が起こる」と言った。
冬、呉が楚に攻め入り、棘・櫟・麻に攻め入り、朱方の役の報復をした。楚は鐘離・巣・州来に城壁を築いたが、楚の東方は大水が出たため工事ができなかった。
B.C.537春、霊王は莫敖屈申が呉に心を寄せていると考えてこれを殺し、屈生を莫敖に任命し、 子蕩とともに晋へ行かせて晋の公女を夫人に迎えた。
晋の韓宣子と叔向が公女を送り届けに来た。霊王は大夫を出仕させて「晋は楚の仇敵である。今、 上卿と上大夫の足を切って門番とし、宮刑をくわえて宦官にしたら晋をはずかしめることができる」と言った。大夫らはだれも答えなかったが、 蔿啓彊が「晋に対する備えがあるならよろしいでしょう。いやしい者をはずかしめるにしても、それに対する備えが必要です。 ましてや国であればなおさらです。その備えができないからこそ古の聖王はつとめて礼を行って人をはずかしめなかったのです。もし戦って敗れ、 わが楚の群臣を晋の捕虜として満足されるなら、何も悪いことはありません」と諌めた。霊王は「わたしのあやまちであった。 大夫よ、そうかしこまらないでくれ」と言って韓宣子に対して手厚い礼を行った。
10月、霊王は諸侯と東夷の軍を率いて呉を討って前年の役に報復しようとした。呉軍が出撃してきたが、楚はその備えをしていなかったため討ち破られた。 楚軍は再び合流して汝清まで進んだが、呉の防備が強くて攻め入ることができず、結局、坻箕の山で勢揃いをして威武を示した。
霊王は呉を恐れて沈尹射を巣に留め、蔿啓彊を雩婁に留めて呉を警戒した。
B.C.536夏、公子弃疾が晋に使いして前年に韓宣子が公女を送ったことに対するお礼をした。
秋、徐の儀楚が楚を聘問したが、霊王がこれを捕らえようとしたため、儀楚は逃げ帰った。霊王は徐が背くと心配して、 蔿洩に命じて徐を討った。すると呉が徐を助けようとしたため令尹子蕩が軍を率いて呉を討ったが破られ、 宮廐棄疾が捕虜となった。
B.C.535霊王は章華台を造営し、諸国からの亡命者をこの台にかくまった。霊王は「この台は美しいなあ」と言うと伍挙が「国君は賢徳によって寵栄を受けるのを美しいとし、 民を安らかにするのを楽しみとし、有徳の話を聞くのを聡とし、遠方の人を招来するのを明とするといいます。今君はこの台を作られて、民は疲弊し、 財源はなくなり、穀物の収穫はできなくなり、百官は苦しみました。上下・内外・大小・遠近の人がみな害がないのを美しいというのです。 この台を美しいと言われるのであれば、楚は危険です」と諌めた。
芋尹無宇の門番が罪を犯して章華台に逃げ込んだため、無宇はこれを捕らえようとして逆に役人に捕らえられた。無宇は「罪を犯した者が逃げたら許すということであれば、 誰もが逃げてしまい家臣がいなくなるでしょう。わが君は諸侯を率いて覇業をなそうとしているのにを手本とされています。 周文王武王の定めに従えば、罪人(霊王)は捕らえられるでしょう」と言った。 霊王は「お前の家来はもってゆけ。しかしお前の言う罪人は天の恩寵を受けているから、まだ捕らえることはできないぞ」と言って無宇を許した。
霊王はこの章華台の落成にあたって、諸侯を集めて落成式を挙げた。
B.C.534、4月、陳の公子勝が、 司徒が陳哀公を弑して公子を立てたことを楚に訴えた。 そこで霊王は陳哀公の喪を告げに来ていた使者干徴師を殺した。
9月、霊王は公子弃疾に命じて、軍を率いて公子を奉じて陳の都を包囲させた。
10月18日、楚軍は陳を滅ぼし、司徒招を捕らえて越に追放した。
霊王は陳を県に改め、穿封戌を陳の県令に任じて「お前は城麋の役(B.C.547)のときに、わたしにへつらわなかったからだ」と言った。
B.C.533、1月、霊王は魯の叔弓、宋の華亥、 鄭の子大叔、衛の趙黶と陳で会合した。
2月、公子弃疾が許を夷に移した。夷には耕地が少なかったため、州来と淮水以北の耕地を割いて夷に付け加えた。 また然丹が城父(夷)に住んでいた人を陳に移し、夷の濮水以西の耕地を陳に付け加えた。
4月、陳で火災が起こった。
B.C.531霊王は蔡霊侯が父を弑したことを口実にして、鄭の申に誘い出した。
3月16日、霊王は武装兵を隠しておいて、蔡霊侯を申でもてなし、酒に酔わせて捕えた。
4月7日、霊王は蔡霊侯を殺し、その従者70人も殺し、さらに公子弃疾に軍を率いさせて蔡を攻め囲んだ。
晋が狐父を遣わしてきて蔡を許すよう願ったが、霊王は聴き入れなかった。
11月、霊王は蔡を滅ぼして、隠太子を岡山の祭りのいけにえに用いた。
霊王は陳・蔡と楚の不羮に城壁を築き、「この3城だけで晋に対抗できよう。その上楚を加えたなら、諸侯は楚に仕えるであろう」と言った。 申無宇が諌めて「鄭に京・櫟があり、衛に蒲・戚があり、宋に蕭・蒙あり、魯に弁・費あり、斉に渠丘あり、晋に曲沃あり、 秦に徴衙があります。これらはみな宗家に叛乱をしました。わたくしは楚もこのようなことになることを恐れるのです」と言った。霊王は 「彼は天を知っているだけで、どうして民を知っていようか」と答えると、然丹が「民は天が生んだものですから、 天を知っていればきっと民を知っています」と言った。しかし霊王は諫言を聴き入れなかった。
霊王は公子弃疾を蔡公に任じた。霊王は申無宇に「弃疾を蔡の長官にしたが、どうか」と尋ねると、申無宇は「鄭の子元の例があります。 また鄭から亡命した公子丹が彼の身近にいます。ご用心ください」と答えた。
霊王は暴虐であったので、白公子張がしばしば諌めた。霊王はつらく思って「また話してくれ。行うことはできないまでも、 しばらく聞きとどめておこう」と言った。子張は「君が行われるのを頼みにするからこそ、申し上げているのです」と言うと、退出し帰宅して、 門をとざして登朝しなくなった。
この年、霊王は許・胡・沈・道・房・申の諸国の民を楚に移した。
B.C.530夏、霊王は讒言を信じて成虎を若敖氏の残党であるとして、これを殺した。
冬、霊王は州来に出かけて狩りをして潁尾に宿り、蕩侯・潘子・司馬督・囂尹午・陵尹喜の五大夫に命じて徐を包囲させて呉をおどし、 更に乾谿に宿ってその後援をした。
B.C.529、4月、公子・子皙・公子弃疾・曼成然朝呉らが叛乱を起こして都に入り、太子を殺して公子比を立てて王とした。 霊王はこれを聞いて驚き、車から転げ落ちた。然丹が「どうか郊外でお待ちください。だれが味方になるか見てきましょう」と言ったが、霊王は 「大衆の怒りは防ぎきれるものではない」と答えた。そこで然丹は「ならば大きな町に入って諸侯に援軍を求めましょう」と言ったが、霊王は 「みな背いているからどうにもならぬ」と答えた。然丹は「ならば諸侯に逃げて王を助けてくれるか見ましょう」と言ったが、霊王は 「ただ辱しめを受けるだけだ」と答えた。然丹は霊王を見限って都に立ち去った。
霊王は漢水にそって南方にくだり、楚の別都の鄢に入ろうとした。霊王の軍は潰滅して霊王はひとり山の中をさまよった。 霊王はかつての人(宮中の酒掃を司る役人)に出遭い「わしのために何か食べ物を探してきてくれ。わしは何も食べないで3日になるのだ」と言ったが、 人は「新王は法令を下し『あえて王に食を給し、従うものは罪三族に及ぶ』とあります」と答えた。そのため霊王は人の股を枕にして臥したが、 人は土を盛り自分の股に代えて、逃げ去った。霊王が目覚めるともう人の姿は無く、ついに飢えて起きることができなかった。 申無宇の子申亥が「わたしの父は二度も王命に背いたのに処罰されませんでした。わが君の不幸を平気で見過ごす事はできません。 わたしは王についてきましょう」と言って霊王を捜し求めて棘闈で出会い、家に連れて帰った。
5月26日、霊王は申亥の家で首をくくって死んだ。申亥はふたりの娘を殉死させて霊王を葬った。
厲嬀(レイギ)【女官】
荘公の夫人。
陳から鄭に嫁ぐ。
孝伯を生むが、早世する。
泠向(レイキョウ)【在野】
戦国時代の説客。
斉の人。
泠向は秦に赴いて、秦昭襄王に仕えた。
泠向はかつて斉を助けて宋を攻めたことがあった。昭襄王はそのことが斉を強大にさせることになったとして悦ばなかった。
泠向は「宋が斉に破られると、魏は安邑を守ることができず、自然に王のものとなるでしょう。また燕と趙は、斉と秦が同盟したと知ったら、 土地を割いてでも王に交わりを求めにくるでしょう。そうなると斉はきっと秦を重んじるでしょう。このようにわたくしが宋を攻めたのは、 王の利益と地位を重くするためなのです」と言った。
厲共公(レイキョウコウ)【王】
秦公(17(22)代目)。悼公の子。〜B.C.446。
B.C.476蜀人が来貢する。
B.C.462黄河に沿って溝を掘り、兵二万をもって大茘を討ち、その王城を取る。
B.C.457初めて頻陽を県とした。
B.C.455晋の智開が邑人と共に逃げて来る。
B.C.447義渠を討ち、その王を虜にする。
B.C.446日蝕があった。
厲公(斉)(レイコウ)【王】
斉公(9代目)。名は無忌。武公の子。
暴虐であったという。
帰国した胡公の子と争い、殺される。
厲公(鄭)(レイコウ)【王】
鄭公(5代目)。名は突。荘公の子。母は雍姞。〜B.C.673。
B.C.714北戎が鄭に侵入した。荘公は戦略を群臣に問うと、公子突は「一隊を進撃させて、すぐに退却させましょう。 君には伏兵を3ヶ所に設けてお待ちなされるがよい。戎は退却する兵を見れば進撃し、伏兵を見れば退却するでしょう。そのときに攻撃しましょう」と進言した。 荘公はこれに従った。
はたして北戎は退却する鄭軍を追ったが、伏兵に会い退却した。祝瞻は進撃して戎の軍を包囲して、 前後から挟撃して大いに破って大勝した。
B.C.701荘公が没して昭公が立つと、宋荘公はこれを喜ばず、 昭公を擁立した祭仲を捕えて突を立てるよう脅迫した。また突も捕えられて賄賂を要求された。
祭仲がこれを承諾したため、突は祭仲とともに帰国した。
9月25日、突は正式に即位した。
B.C.700宋が信義を守らないということで、厲公は魯桓公と鄭の武父で盟った。
B.C.699宋が厲公を擁立したというので、鄭に対して贈物を次々と要求してきた。鄭はその要求にこらえきれなくなった。
2月、そこで厲公は魯に使者を出して友好を求め、魯桓公と紀の君と会合した。
魯桓公は鄭を援助して紀軍とともに、斉・宋・衛・燕と戦い、これを破った。
B.C.698春、厲公は魯桓公と曹で会合した。
夏、厲公は弟を魯に遣わし、武父の盟いと曹の会合の友好を深めた。
12月、宋・斉・蔡・衛・陳に攻められる。
B.C.697祭仲が国政をほしいままにしていたので、厲公はこれを憂えて、祭仲の女婿の雍糾に祭仲を暗殺させようとしたが、 雍糾が妻に計画を洩らしたため、計画が未然に発覚し、雍糾は祭仲に殺された。厲公は怒って「はかりごとを女に洩らすのはけしからぬ。殺されるのも当然だ」と言った。
5月、厲公は雍糾の屍を車に乗せて出奔し、蔡に亡命した。
9月、厲公は櫟の人々に頼んで、櫟を治めていた単伯を殺して櫟に入った。
宋が厲公に多数の兵を与えたため、厲公は鄭に攻められず、力は鄭と均衡していた。
B.C.696、4月、魯・宋・衛・陳・蔡が鄭を攻めて厲公を帰国させようとしたが、失敗した。
B.C.680春、厲公は櫟から鄭に攻め入り、大陵で鄭君の臣甫瑕をおびき出して捕えた。 厲公は甫瑕に自分を鄭に入れるよう脅迫し、甫瑕と誓いを立てて、彼を許した。
6月20日、甫瑕は鄭君嬰とそのふたりの子を殺して、厲公は迎えられて復位した。
厲公は帰国して伯父のを責め「わたしは国を逃れて外にいたが、「伯父上にはわたしを迎え入れようという気などなかった。 無情もはなはだしい」と言った。これを聞いた原は自殺した。
また厲公は甫瑕に「主君に対するそちの仕え方は、二心のあるものだ」と言って、甫瑕を殺した。
冬、宋が降服したので、厲公は周単伯・斉桓公・ 宋桓公・衛恵公と衛の鄄で会合した。
B.C.679春、斉桓公は再び鄄で宋・陳・衛・鄭と再び会盟を行い、諸侯は斉が盟主となることを承認した。
秋、宋が郳(小邾)を討伐した。鄭はその隙に乗じて宋に攻め入った。
B.C.678斉・宋・衛に攻められる。
厲公は櫟から復帰したことを、時が経ってから楚に知らせた。
秋、楚文王は鄭の無礼を怒り、鄭に侵攻した。
9月、厲公は祭仲一派の公子を殺し、公子強鉏を足切りの刑に処した。
12月、厲公は斉桓公・宋桓公・陳宣公・衛恵公・許の君・滑の君・滕の君と宋の幽で会合し、鄭は斉と和平した。
B.C.676厲公は晋武公と虢公とともに原荘公を使者として、 陳から恵后を迎えさせた。
B.C.675周恵王は衛と燕に攻められて出奔しており、危急を鄭に告げた。 そして擁立された公子が諸大夫をあつめて宴会を張り、六代の舞楽(王者の楽)を奏した。
厲公は虢叔林父に会って「司寇が死刑を執行すれば、君はそのためにご馳走をとりません。 まして禍を楽しむことをしましょうか。今、子頽は歌舞をして憂いを思わないそうです。一体、王を追い出して自分が即位するとは、これより大きい禍がありましょうか。 今こそ王を都へ入れようではありませんか」と言った。
B.C.674春、厲公は周の王室の乱を治めようとしたが成功しなかった。そこで公子頽を助けて周を攻めた南燕の仲父を捕えた。
夏、厲公は恵王を奉じて鄭に帰り、恵王を櫟に居らせた。
秋、厲公は恵王とともに鄥に行き、進んで王城の東の成周に入り、周の宝器を取り出して鄭に帰った。
B.C.673春、厲公は虢叔林父と鄭の弭で恵王を王城に入れる約束を固めた。
夏、厲公は虢叔林父とともに王城を攻めた。厲公は恵王をつれて南門から攻め入り、虢叔林父は北門から攻め入り、公子頽と6人の大夫を殺した。 厲公は恵王をもてなし、舞楽をことごとく奏するという盛儀を極めた。恵王はその功績を愛でて、 かつて鄭武公が周平王から賜わった虎牢より東の地を厲公に与えた。
原荘公は「鄭伯はみずからとがめた王子頽と同じ事をした。やがて禍が身に降りかかるだろう」と言った。
5月、厲公は没した。厲公は復位したため、僖公という諡も持つ。
厲公(晋)(レイコウ)【王】
晋公(10(12)代目)。名は寿曼、州蒲ともいう。景公の子。〜B.C.573。
B.C.581、5月、景公は病気になったので、太子寿曼は君の代理に立てられ、魯成公・斉霊公・ 宋共公・衛定公・曹宣公と会合して鄭を討った。
6月7日、景公が没したので、太子寿曼は即位した。
B.C.580、3月、魯成公が盟いを結んで無実をあかしたいと申し入れてきたので、厲公はこれをゆるして帰国させた。
厲公は郤犨を魯に遣わして盟約した。
夏、魯の季孫行父が晋にやって来て、郤犨の返礼と晋で行う盟いに立ち会った。
秋、魯の叔孫喬如が晋にやって来て、両国の友好関係を深めた。
郤至が鄇の地について周と争った。厲公は郤至をなだめて争わないようにさせた。
冬、宋の華元が晋と楚を訪問して、両国に和睦を結ばせた。
晋は秦と和睦して、晋の令狐で会合することとなった。厲公は先に到着したが、秦桓公は黄河を渡ろうとせずに秦の王城にとどまり、 大夫史顆を遣わして晋と盟った。そのため郤犨が王城で盟うこととなった。 士燮は「この盟いに何の利益があろう。 盟いの場は信を表す始めである。始めが守られないのに、どうして信を実行することができよう」と言った。
果たして、秦桓公は都に戻ると晋との和睦を破った。
この年、周から周公が晋に亡命してきた。
B.C.579、5月5日、晋と楚は宋の西門で盟い、互いに戦争をしないこと、両国を攻める国があればその国を討伐すること、使者を往来させ道を防ぐことのないようにすること、 晋楚に和合しない者を討伐することとした。
晋と楚が宋で盟っているとき、狄が晋に攻め入った。
秋、狄が防備を怠っていたので、晋は狄を交剛で打ち破った。
冬、楚の公子が晋に来聘し、厲公との盟いに立ち会った。
12月、厲公は公子罷と晋の赤棘で盟った。
B.C.578春、厲公は郤錡を魯に遣わして援軍を請うた。
4月5日、厲公は魏相を秦に遣わして秦と絶交した。 秦桓公が以前晋と令狐の盟いを結びながら一方では狄と楚と通じて晋を討とうとしたので、かえって諸侯は晋と親しくしていた。
5月、厲公は斉霊公・宋共公・衛定公・鄭成公・曹宣公と会合して秦を討った。
晋軍は欒書を中軍の将、荀庚を中軍の佐、士燮を上軍の将、郤錡を上軍の佐、 韓厥を下軍の将、智罃を下軍の佐、趙旃を新軍の将、 郤至を新軍の佐、郤毅が厲公の御者、欒鍼がその右をつとめた。
5月5日、晋軍は諸侯の連合軍を率いて秦軍と秦の麻隧で戦った。晋軍は秦軍を大破し、 秦の成差不更女父を捕虜とした。
諸侯の連合軍は勢いに乗じて涇水を渡り、秦の侯麗まで攻め入って引き揚げた。厲公は秦の新楚に留まって諸侯を出迎えた。
秋、曹の公子負芻が太子を殺して自立したので、諸侯は負芻を討伐したいと請うたが、晋は秦との戦いで疲労していたため、 延期しようと言った。
B.C.577衛定公が晋に来朝したとき、厲公は晋に亡命していた衛の孫文子を定公に無理に会わせようとしたが、定公は拒否した。
夏、厲公は郤犨を衛に遣わして孫文子を帰国させた。
B.C.576、3月12日、霊公は魯成公・衛献公・鄭成公・曹成公・ 宋の世子成・斉の国佐・邾人と戚で会合し、 曹成公の罪を正した。厲公は曹成公を捕えて周の都へ送った。 諸侯は公子欣時を曹の君に立てようとしたが、公子欣時は辞退して宋に出奔した。
郤錡・郤犨・郤至の三郤が伯宗を讒言したため、厲公はこれを殺し、 さらに三郤は欒弗忌も殺した。そのため国人は厲公に心服しなかった。
11月、士燮が魯の叔孫喬如・斉の高無咎・宋の華元・ 衛の孫文子・鄭の公子・邾人と鐘離で会合し、呉王寿夢と会合した。
B.C.575春、鄭が背いたため、厲公みずから将軍となってこれを討とうとした。
士燮「わが国が勝手なことをして諸侯が背けば、晋にとって幸いです。鄭の一国だけが背けば、禍がやってきましょう」
欒書「われわれの時代に諸侯を失ってはならない。鄭を討ちましょう」
そこで厲公は欒書を中軍の将、士燮を中軍の佐、郤錡を上軍の将、荀偃を上軍の佐、韓厥を下軍の将、 郤犨を新軍の将、郤至を新軍の佐とし、智罃を留守とした。さらに郤犨を衛と斉に、 欒黶を魯に派遣して援軍を求めさせた。
4月13日、晋軍は出発した。鄭はこれを聞いて楚に援軍を求めた。
5月、晋軍は黄河を渡った。士燮が楚の援軍が来ることを聞いて引き返そうと主張したが、欒書が合戦を望んだので、晋軍はそのまま進軍した。
6月、晋軍は鄢陵で楚軍と対峙した。
6月29日、厲公の左右の者は伯州犂が楚に亡命しており、また楚軍が多いことを恐れた。 しかし苗賁皇が「楚の精鋭は中軍にいる王の旗本だけです、わが精鋭を二手に分けて左右の二軍を攻撃し、 そののち三軍をもって楚の本陣を集中攻撃すれば敵を大破できるでしょう」と進言した。厲公はこの策の吉凶を筮をたてて占ったところ、 吉と出たので苗賁皇の策に従った。
楚軍が半ば布陣したとき、厲公はこれを攻撃しようとした。欒書が郤犨と欒黶を待つよう諌めたが、郤至が急襲するよう進言した。 厲公は喜び楚軍を討って鄢陵で破った。
晋軍に進む前方にぬかるみがあった。厲公の御者は歩毅、右役は欒鍼であったが、 厲公の兵車がぬかるみにはまった。欒鍼は厲公を引き揚げてぬかるみから脱出させた。
楚晋両軍は鄢陵で朝早くから夜になるまで壮絶な激戦を展開し、晋軍は楚軍を追って追い詰めた。 楚の養由基が矢を射ると2度とも晋兵に命中した。さらに楚の叔山冉が敵兵を手打ちにして投げつけたので、 晋軍はひるんで追撃をやめた。しかしこの日、晋軍は楚の公子茷を捕えた。
苗賁皇の策略によって、晋軍は捕えていた楚兵をわざと釈放し、晋軍が次の日も合戦する準備をしていると報告させた。 楚恭王は恐れて子反を呼び寄せて相談しようとしたが、 子反は酒に酔っていたため呼び寄せに応じることが出来なかった。そこで楚恭王は夜のうちに撤退した。
晋軍は楚軍の陣地に攻め入り、3日も宿営して楚軍の残した食糧を食べた。
戦いの翌日、斉の国佐と高無咎が見舞いにきた。
秋、晋厲公は魯成公・斉霊公・衛献公・宋の華元・邾の人と宋の沙随で会合し、 鄭を討つ相談をした。この会合に魯成公が遅れてきた。郤犨が魯の叔孫喬如から賄賂を受けて厲公に訴えたので、厲公は魯成公に面会しなかった。
曹が晋に願って和議を求めてきた。
7月、厲公は斉の国佐、尹武公、魯成公、邾人と会合して、鄭を討った。連合軍は鄭の西に陣をしき、 魯軍は鄭の東の督揚に陣をしいた。連合軍は鄭の制田に移動し、陳と蔡に攻め入り、潁水のほとりに移動した。
曹が再び晋に公子欣時を帰国させてもらうよう求めてきた。厲公は公子欣時に「国に帰りなさい。君が帰ればわたしもお前の君をお帰しする」 と言い、公子欣時は曹に帰り、曹成公も帰国した。
9月、魯の叔孫喬如は郤犨に人を遣わして季氏、孟氏を讒言した。そこで晋は季孫行父を苕丘で捕えた。
魯成公は公孫嬰を遣わして季孫行父の釈放を求めた。士燮が欒書に「季孫(季孫行父)は魯で二君にわたって宰相を務めていますが、 倹約で誠実な人物です。しかし喬如の言を信じて忠良な人を棄てるようでは、諸侯に非難されます。子叔嬰斉(公孫嬰)は君命を奉じて自身のことを考えず、 国家のためを考えて二心がありません。うまく取り計らってください」と言った。そこで晋は季孫行父を釈放した。
12月、郤犨は魯の季孫行父と扈で和平の盟いを結んだ。
厲公は郤至を周に遣わして楚の戦利品を献上した。
これにより厲公は諸侯に威勢をふるい、天下に号令して覇者になろうと望んだ。厲公はその知を誇り、功績を自慢して、教化を怠り、税を重くし、 側近を増やした。
B.C.574、6月9日、士燮が没した。
6月26日、諸侯は鄭の柯陵で同盟し、戚の盟い(B.C.576)を温めた。厲公は会盟のとき、目は遠方を見て足を高く上げて歩いた。 単襄公がこれを見て、禍が起こるであろうと予言した。
あるとき厲公が狩猟したとき、郤至は豚を殺して奉進したが、孟張に奪われたため、これを射殺した。 厲公は「季子(郤至)はわしをあなどっている」と言い、三郤を殺そうとした。
また欒書は郤至を陥れようとして、晋の捕虜となった楚の公子発鉤に「晋君に『郤至は楚と戦うようにしむけ、 斉魯の軍が来ないうちに決戦しました。郤至がいなかったら王は無事でなかったでしょう』と言って下さい。そうすれば、わたしはあなたを楚に帰しましょう」と言った。 厲公は発鉤からこのことを聞くと、欒書に下問した。欒書は「本当かもしれません。郤至は晋に危難を起そうとして楚に戦いを挑むと楚王を放免し、 かつ楚王から贈物を受け取りました。これは大罪です。鄢陵の戦いは、郤至が楚を導いたものであり、公子を晋に入れて、 これを立てようとしたものです。しかるに与国が会集しなかったので事は不成功に終わったのです。試しに君が彼を周へ遣るなら、きっと公子周に会うでしょう」と言った。
欒書は一方で人を公子周の元へ遣って「郤至が行きますから、是非お会いになるように」と言わせた。
厲公は郤至を周へ遣ると、はたして郤至は公子周に会った。そこで厲公は彼を殺そうと考えた。
夏、厲公は魯成公・斉霊公・宋平公・単襄公・曹成公・衛献公・尹武公・ 邾人と会合して鄭を討ち、戯童から曲洧まで侵攻した。 楚の子重が鄭を助けるため鄭の首止に陣どったので、 諸侯の軍は引き揚げた。
冬、晋は魯・斉・宋・衛・曹・単・邾とともに再び鄭を討った。
10月13日、諸侯は鄭を包囲した。楚の公子申が鄭を助けるため汝水に陣を敷いた。
11月、諸侯の兵は引き上げた。
霊公は胥童と相談して諸大夫を除こうとした。胥童は「三郤から始めましょう。郤氏は大きく人から恨まれています」と進言した。
12月26日、胥童と夷陽五が500の武装兵を率いて郤氏を討ち、郤錡と郤犨と郤至を殺し、3人のなきがらは朝廷でさらされた。そして厲公はその女や財貨を奪った。 そのため国人は厲公を不潔であるとした。
胥童は欒書と荀偃を朝廷でおどしつけた。
長魚矯「この二人を殺さなければ、きっと禍となります」
厲公「一度に3人の卿を殺した。これ以上殺すのは忍びない」
長魚矯「あの二人は君を殺すことを何とも思っておりません。国の外で謀られる乱を姦といい、国の内で謀られる乱を軌といいますが、姦を防ぐには恩徳を用い、 軌を防ぐには刑罰を用いるべきだといいます、徳と刑が立派に行われないようでは姦と軌がおこりましょう。わたしはおいとまいたします」
長魚矯はすぐに狄に出奔した。
厲公は欒書と荀偃にわびて「卿ら大夫は安心して位にかえるように」と言って元の地位につかせ、胥童を卿とした。
あるとき厲公は匠驪氏の家に遊んだ。そこで欒書と荀偃が徒党を率いて厲公を襲ったため、厲公は捕らえられた。
12月30日、胥童が欒書と荀偃に殺された。
B.C.573、1月5日、厲公は欒書・荀偃に殺された。厲公は翼の東門に車一台で葬られた。
厲公(魯)(レイコウ)【王】
魯公(6代目)。名は擢。魏公の子。〜B.C.887。
B.C.923即位する。
厲公(陳)(レイコウ)【王】
陳公(13代目)。名は佗。桓公の弟。母は蔡の公女。〜B.C.700。
B.C.707桓公が没すると、蔡の人は五父と太子を殺して、佗を擁立する。
桓王が鄭荘公の政権を奪ったので、荘公は怒って周に参朝しなくなった。
秋、桓王は陳・蔡・虢・衛の兵を率いて鄭を討った。虢公林父は右軍の将となり、蔡・衛の軍はそれに付いた。 桓公は左軍の将となり、陳の軍がそれに付いた。
鄭の公子子元は「陳は乱れて、その民は戦う心がありません。真っ先に陳の軍を攻め立てたら、逃走するでしょう。 周王の軍はそれを見たら、きっと乱れるでしょう。そこを集中攻撃すれば、事は成功いたします」と進言したので、鄭荘公はそれに従った。
鄭荘公は曼伯に右軍を、祭仲に左軍を率いさせ、 原繁高渠弥に中軍を率いさせて自らを守らせ、魚麗の陣をつくり、 兵車を前に歩兵を後ろにして、鄭の繻葛で戦った。
鄭の左右軍は連合軍の左右の軍を破り、桓王の軍も乱れた。そこで鄭軍は集中してこれを攻撃したので、桓王の軍は大敗した。(繻葛の戦い)
B.C.701厲公は宋荘公・蔡叔・魯の臣と折で会合する。
厲公は蔡の公女を娶ったが、その公女は蔡人と私通し、厲公もしばしば蔡で放蕩した。
B.C.700厲公は公子杵臼に殺された。
厲公(宋)(レイコウ)【王】
宋公(7代目)。名は鮒祀。湣公の子。〜B.C.858。
厲公は煬公を弑し、「わしが立つのが当然である」と言って自立する。
厲侯(蔡)(レイコウ)【王】
蔡侯(4代目)。宮侯の子。
厲侯(晋)(レイコウ)【王】
晋侯(4(5)代目)。名は福。成侯の子。〜B.C.858。
霊侯(蔡)(レイコウ)【王】
蔡侯(17代目)。名は般。景侯の子。〜B.C.531。
B.C.543、4月、蔡景侯が般の妻を楚から迎えたが、蔡景侯がこれと密通したため、般は景侯を弑して自立した。
10月、蔡景侯を葬った。
B.C.541春、公孫帰生が虢で諸侯の大夫と会合した。
B.C.531楚霊王が、霊侯が父を弑したのを口実にして、霊侯を鄭の申に誘い出した。霊侯は出かけようとすると、 大夫らが「楚王は欲が深くて信義を守らず、ただ蔡が楚に服従しないことを恨んでおります。今、楚王からの進物は多く、口上がうますぎます。 お出かけにならぬにこしたことはありません」と言ったが、霊侯は聴き入れずに出かけた。
3月16日、霊侯は酒に酔わされて捕えられた。
4月7日、霊侯は殺され、その士卒70人も殺された。
蔡は楚軍に包囲され、11月に国は滅びた。
霊公(斉)(レイコウ)【王】
斉公(23代目)。名は環。頃公の子。母は声孟子。〜B.C.554。
B.C.582、頃公が没したため、霊公は即位した。
B.C.581、5月、霊公は晋の太子州蒲・魯成公・宋共公・ 衛定公・曹宣公と会合して鄭を討った。
B.C.578、5月、霊公は晋厲公・宋共公・衛定公・曹宣公・鄭成公・邾・滕と会合して秦を討った。
5月5日、霊公は諸侯と共に秦軍と秦の麻隧で戦い、これを大破した。諸侯の軍は勢いに乗って涇水を渡って侯麗まで攻め入って引き揚げた。
B.C.577秋、魯の叔孫喬如が斉に来て、斉の公女を夫人に娶った。
B.C.575鄢陵の戦いで晋が楚を討ち破ると、 霊公は国佐高無咎を晋軍の見舞いに行かせた。
秋、霊公は晋厲公・魯成公・衛献公・宋の華元・邾人と宋の沙随で会合し、 鄭を討つ相談をした。
7月、霊公は国佐に命じて、晋厲公・尹武公・魯成公・邾人とともに鄭を討たせたが、鄭の夜襲にあって壊滅させられた。
B.C.574夏、霊公は晋厲公・魯成公・衛献公・宋平公・曹成公・尹武公・ 単襄公・邾人と会合して鄭を討ち、戯童から曲洧まで侵攻した。
6月26日、諸侯は鄭の柯陵で同盟し、戚の盟い(B.C.576)を温めた。
留守役の高無咎と鮑牽は城門を閉じて旅人を調べて間者や奸人の侵入を防ごうとしていた。声孟子が霊公に訴えて 「高氏・鮑氏が君を都に入れないで公子を立てようとしており、国子もその陰謀を知っています」と言った。
7月14日、霊公は鮑牽を足きりの刑に処し、高無咎を国外に追放した。
高無咎の子高弱は領地の盧にたてこもって謀反を起こした。
斉は魯にいる鮑国を呼び戻して鮑氏の本家を継がせた。
冬、霊公は晋・魯・衛・宋・曹・単・邾とともに鄭を討った。
霊公は崔杼を大夫に任命し、慶克をその輔佐にし、軍を率いて盧を包囲して高弱を討った。国佐は諸侯と共に鄭を討っていたが、 斉に帰ってきて慶克を殺して、穀にたてこもって謀反を起こした。
霊公は国佐と斉の徐関で盟い、もとの地位に復職させた。
10月13日、諸侯は鄭を包囲した。楚軍が鄭を助けるため汝水に陣を敷いた。
11月、諸侯は軍を引き上げた。
12月、盧が降服した。
霊公は国佐を殺そうと考え、国佐の子国勝を晋に遣わすふりをして清で出発を待たせた。
B.C.573、1月29日、霊公は華免に命じて戈で国佐を殺させた。役人たちは恐れて夫人の宮殿に逃げ込んだ。
また霊公は清の人に命じて、そこに待機していた国勝を殺した。
慶克の子慶封を大夫とし、その弟慶佐を司寇に任命した。
やがて霊公は国勝の弟国弱を呼び戻して家を継がせた。
B.C.572、1月、諸侯が共同して彭城を攻めたが、斉は参加しなかった。そのため晋悼公に責められた。
2月、霊公は謝罪し、太子を晋の人質とした。
5月、斉は諸侯とともに鄭を討った。
B.C.571霊公は萊を討った。 萊の人は正輿子を遣わして夙沙衛に馬牛各100頭を贈った。 そのため霊公は軍を引き揚げた。
霊公は斉姜の葬儀のため、一族の女や同姓の大夫の妻を魯に遣わした。
霊公は萊の君を呼んで、ともをさせようとしたが来なかったため、晏弱に命じて東陽に城壁を築かせて、萊を威圧した。
冬、諸侯が戚で会合しのたで、霊公は崔杼に命じてこれに参加させた。
B.C.570晋の范匃が斉を訪れて諸侯の会合に参加するよう呼びかけた。霊公は行くまいと考えたが、 晋と仲違いになることを憚って、耏水の外で范匃と盟い、公子光を会合に参加させた。
B.C.568、4月、晏弱が東陽に城壁を築き、そこから進んで萊を攻め囲んだ。
4月29日、萊の城壁の周囲に土を積み上げて、城壁の上のひめ垣までとどいた。
9月23日、晋・魯・衛・陳・鄭・曹・宋・莒・邾・滕・薛、呉、鄫が戚で盟約したとき、霊公は太子光を参加させた。
11月12日、楚が陳を討ったので、霊公は晋・魯・衛・鄭・宋・莒・邾・滕・薛と鄭の城棣で会合して陳を救った。
B.C.567、3月15日、萊の王湫が正輿子とともに軍を率いて棠の人と共に斉軍と戦ったが、斉軍は大いにこれを討ち破った。
3月27日、斉軍は萊の都に攻め入った。そこで萊共公は棠に逃げ、正輿子と王湫は莒に逃げたが、莒人はこのふたりを殺した。
4月、田無宇は萊の宗廟の大事な器物を斉襄公の廟に献納した。
11月10日、晏弱は棠を攻め囲み、萊共公を攻め滅ぼし、萊の遺民を郳(小邾)に移した。
高厚と崔杼は、斉の領地となった萊の耕地の境界を正し定めた。
B.C.564、10月、晋が諸侯とともに鄭を討った。霊公は崔杼をこれに参加させた。
B.C.563、3月26日、霊公は公子光を遣わして諸侯と会合させた。公子光は諸侯と共に鄭を討った。
B.C.561冬、周霊王は斉に王后を求めた。霊公はいかに返答すべきか晏弱に尋ねた。晏弱が承諾することを勧めたので、 霊公はこれを承諾した。
B.C.559春、呉が楚と戦って大敗したことを晋に告げてきた。 霊公は崔杼に命じて晋・魯・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と向で会合させた。
夏、斉は晋・魯・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾とともに秦を討った。
4月26日、衛が乱れて公子子展が斉に亡命してきた。
また衛献公も斉に亡命してきた。霊公はライの地に衛献公を住まわせた。
B.C.558春、周の劉夏と単靖公が斉に来て、きさきを迎えた。
夏、霊公は魯の北境に攻め込み、成を包囲した。霊公は晋に二心を抱いており、晋を恐れていなかったからであった。
B.C.557、3月、霊公は晋平公・宋平公・衛殤公・鄭簡公・ 曹成公・魯襄公・薛の君・杞文公・莒犂比公・ 小邾の君と会合し、侵略した土地を帰した。
晋平公が温で宴会を催したとき、高厚が無礼であったため、諸侯は盟って斉を討つことを申し合わせた。
秋、霊公は魯の北境に攻め入り、郕を包囲した。魯の孟荘子が斉軍を迎え討とうとした。霊公はこれを見て 「彼は勇気を好む者だ。逃げて彼の名声をあげさせてやろう」と言って退却した。
B.C.556秋、霊公は魯を思うように攻めることができなかったので、魯の北境を討って桃と包囲した。
高厚は魯の大夫臧武仲の守っている防を包囲した。 しかし魯の叔梁紇臧疇臧賈が夜に斉軍に攻め入り、 臧武仲を救い出した。斉軍は防の囲みを解いて引き揚げたが、この戦いで斉人は臧堅を捕虜にした。
霊公は夙沙衛に命じて臧堅を慰問させて「自殺などなさるな」と伝言した。臧堅は頭を地にすりつけて「ありがたいお言葉をいただきました。 なんと刑罰あがりの者を遣わして士たるわたしをお見舞いさせてくださいました」と言って、くいでその傷をえぐって果てた。
B.C.555秋、霊公は魯の北境に攻め込んだ。
10月、晋・魯・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾が斉に攻め入ってきた。霊公はこれを平陰で防ぎ、その北東の防門に広さ一里にわたる堀を作って守った。 夙沙衛が「戦うことができないなら、もっと要害の地を守るのがよいでしょう」と進言したが、霊公は聴き入れなかった。
諸侯は魯の済水のほとりで会合した。析文子が晋の范匃から、 諸侯が各方面から斉を討つということを聞き、それを霊公に報告したので霊公は恐れた。晏嬰はこれを聞いて 「わが君はもともと勇気がないのに、こんな話を聞かれてしまった。長く防ぐことはできないだろう」と言った。霊公は巫山に登って晋の軍勢を眺めた。 晋はみせかけの旗やほこりをあげさせていたので、霊公は大軍の進撃であると思い込んで恐れて、ひとり逃げ帰った。
10月30日、斉軍は夜に乗じて逃げ帰った。
11月1日、晋軍に平陰に攻め入られ、追撃されて殖綽郭最が捕えられた。
11月13日、晋の荀偃范匃に京玆を攻め落とされた。
11月19日、晋の魏絳欒盈にシを攻め落とされた。
12月3日、趙武韓宣子に盧を包囲されたが攻め落とされなかったため、 晋軍は秦周の地に進み、臨淄の雍門(西門)の萩の木を切り倒した。
12月4日、雍門と西の外城および南の外城が焼かれ、晋の劉難と士弱が諸侯の軍を率いて斉の西南門外の申池の竹や木を焼き払った。
12月7日、東の外城と北の外城が焼かれた。晋の范鞅が揚門(西北門)に攻め入り、州綽が閭門(東門)に攻め入った。 霊公は馬を車につけて郵棠の地に逃げようとしたところ、太子光と郭栄が馬のくつわをおさえて「敵の進撃が速くて厳しいので、 これは領内を荒らすものです。やがて退却するでしょう。何も恐れることはありません。それに国家の主君たる者は軽々しい行動をすべきではありません。 軽率な行動をすると多くの人々が離れます」と言った。しかし霊公は無理にでも逃げようとしたので、太子光は剣を抜いて馬のむながいを断ち切ったので、 霊公はようやく思いとどまった。
12月9日、晋軍は東方に攻め入って濰水まで進み、さらに南進して沂水に達した。
B.C.554霊公は魯から夫人を迎えて顔懿姫と呼んだが、子がなかった。 その姪(兄の子)鬷声姫が公子光を生んだのでこれを太子としていた。 しかし宋の妾のなかで仲子戎姫というものがいて、戎姫は霊公のお気に入りであった。 仲子が公子を生むと、これを戎姫に依頼した。戎姫は公子牙を太子にしてほしいと願ったので、霊公はこれを許した。 仲子はこれを諌めたが、霊公は「わたしのやることだ」と言って太子光を東境の地に移らせ、高厚を公子牙の守り役とし、公子牙を太子に立てて、 夙沙衛を高厚の下役の少傅に任じた。
霊公が病気になると、崔杼はこっそり公子光を迎え入れ、霊公が危篤になると公子光を太子に立てた。
5月29日、霊公は没した。
霊公(陳)(レイコウ)【王】
陳公(19代目)。名は平国。共公の子。〜B.C.598。
B.C.614、5月1日、共公が没し、霊公は即位した。
B.C.613、6月28日、霊公は魯文公・宋昭公・ 衛成公・鄭繆公・許の君・曹文公・ 晋の趙盾と会合し、新城で会盟した。
霊公はそのまま晋に赴いて、晋霊公と会合した。
B.C.612、11月、霊公は晋霊公・宋昭公・衛成公・蔡文侯・ 鄭繆公・許の君・曹文公・魯の季孫行父と扈で盟い、斉を討つ相談をした。しかし斉が晋霊公に賄賂をつかったので、 斉討伐はとりやめとなった。
B.C.610陳の公孫寧は、衛の孔達、晋の荀林父、 鄭の石楚とともに宋を討ち、宋昭公を弑したことを責めたが、結局宋文公の即位を認めた。
B.C.608共公が没した時に、楚は弔意の礼を示さなかったので、霊公は晋を盟主と仰いだ。
秋、楚荘王に攻められた。晋は援軍を出したが、楚軍に破られた。霊公は晋の趙盾・宋文公・衛成公・ 曹文公と鄭の棐林で会合して鄭を討った。
B.C.607夏、霊公は晋の趙盾・宋文公・衛成公とともに鄭に攻め入った。
B.C.604霊公は楚と講和した。晋の荀林父が楚に攻められている鄭を助けると、陳に攻め込んだ。
B.C.603春、晋の趙盾と衛の孫免に攻められた。
B.C.601周の単襄公が使節として宋、楚を聘問した。単襄公はその途中に寄った陳の状況を周に報告し、陳は滅びるだろうと予言した。
冬、霊公が晋と和睦したので、楚荘王は陳に攻め入り、和睦して引き揚げた。
B.C.600、9月、晋は諸侯と鄭の扈で会合したが、霊公はこれに参加しなかった。そこで晋は荀林父に命じて諸侯と共に陳を討った。 しかし晋成公が没したので、連合軍は引き揚げた。
霊公は孔寧儀行父とともに夏姫と密通し、 夏姫の襦袢を肌身につけて朝廷で戯れた。泄冶がこれを諌めたので、霊公は「改めよう」と言って孔寧・儀行父に伝えた。 しかしふたりが泄冶を殺そうとして、霊公もこれを止めなかったので、泄冶は殺された。
B.C.598冬、霊公は夏姫の家で酒を飲んでいたとき、孔寧・儀行父に戯れて「徴舒(夏姫の子)はおまえによく似ているぞ」と言うと、二人は「徴舒はお上にも似ておりますよ」 と言った。これを聞いた夏徴舒は怒り、厩の門に弩を伏せておいて、霊公は射殺された。
霊公(衛)(レイコウ)【王】
衛公(16(26)代目)。名は元。衛襄公の子。母はシュウ姶。〜B.C.493。
母は衛襄公の妾であったが、夢で衛康叔を見て、その子元は必ず国君となるだろうと言われた。
B.C.535孔成子史朝もまた夢に康叔封を見て、 公子元を立てよといわれた。
8月、衛襄公が没した。衛襄公の夫人姜氏には子がなく、お気に入りのシュウ姶が孟縶と公子元を生んでいたが、 孟縶は足が不自由であった。 孔成子と史朝は占いを立て孟縶を廃して公子元を立てた。
晋の范鞅が衛襄公の弔問に訪れ、前に奪った戚の地を衛に返上した。
衛霊公は佞臣の癰疽弥子瑕を近づけた。
B.C.533、1月、趙黶が楚霊王叔弓華亥子大叔と陳で会合した。
B.C.532、9月、晋平公が没したため、霊公は北宮喜を弔問に遣わした。
B.C.531秋、北宮佗が晋・魯・斉・宋・鄭・曹・杞と厥憖で会合し、楚に攻められている蔡を救う相談をした。
B.C.530夏、霊公は晋に出かけて新しく即位した晋昭公に挨拶をした。
B.C.529、8月、霊公は晋・劉・魯・斉・宋・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾と平丘で会合して同盟した。
B.C.528晋昭公に参朝する。
B.C.525衛に火災があった。
B.C.522、6月29日、霊公が下邑の平寿にいたとき、斉豹・北宮喜・ 褚師圃・公子が謀叛を起こし、孟縶を殺した。 霊公はこの騒ぎを聞いて車を飛ばして都に入り、公宮に到着して宝を積んで公宮を出た。そして霊公は斉氏の門を通過するとき、 華寅に命じて斉氏とは争わないという意味で、肌を脱がせて車の蓋いをはずした。 しかし斉氏は霊公をねらって矢を放ったため矢は右役の公南楚の方に命中した。 霊公は急いで城外に逃げ出して衛の死鳥に行った。
6月30日、霊公は都に戻り、北宮喜と彭水のほとりで盟った。
8月25日、叛乱は鎮圧され、褚師圃・公子朝・子玉霄・子高魴は晋に出奔した。
霊公は公子朝と密通した宣姜を殺した。霊公は北宮喜に諡を与えて貞子といい、析朱鉏には成子という諡を与え、 斉氏の墓地をふたりに与えた。
B.C.517夏、霊公は北宮喜を遣わして晋・魯・宋・鄭・曹・邾・滕・薛・小邾と黄父で会合し、王室の乱について相談した。
B.C.515秋、霊公は北宮喜を遣わして晋・宋・曹・邾・滕と扈で会合し、周を守ることと魯昭公を都に入れることを相談した。
B.C.513霊公は魯昭公が国外に亡命していることを見舞って乗馬を献上した。
B.C.510、11月、世叔申が晋・魯・宋・斉・鄭・曹・莒・杞・薛・小邾と会合して成周に城壁を築いた。
B.C.506、3月、霊公は劉文公の召集を受け、晋定公・魯定公・ 宋景公・蔡昭侯・陳懐公・ 鄭献公・許の君・曹隠公・莒の君・邾の君・頓の君・胡の君・滕の君・ 杞悼公・小邾の君・斉の国夏を楚の召陵に集めて楚を討つ相談をした。
5月、いよいよ皐鼬の地で盟いの血をすするときに、蔡を衛の先にしようとした。 すると霊公は祝佗に命じて萇弘にひそかに話をさせて衛を先にするように言った。 そこで萇弘は劉文公と范鞅に相談して、衛を先にすることにした。
秋、孔文子は晋の范鞅とともに軍を率いて鮮虞を討った。
B.C.504、2月、魯が鄭の匡を討ち取った。このとき魯軍は衛の国を無断で通り、その帰りに魯の陽虎は季氏・孟氏に衛の南門から入り、 東門から出て、その郊外の豚沢に宿らせた。霊公はその無礼に立腹し、弥子瑕に命じて魯軍を追撃させようとした。 公叔発は引退していたが手車に乗って霊公の所に出かけて 「人の無礼をとがめながら、自分も無礼を行うのは礼にかなっておりません。魯の昭公が亡命していたとき、 わが君はこれに恩徳を施されました。それを台無しにするのはつまらぬことではありませんか。天は今や陽虎を罰しようとしています。しばらくお待ちになるのがよいでしょう」 と進言したため、霊公は追撃をやめた。
B.C.503秋、斉景公が鄭献公と衛の鹹で盟い、衛に参加するよう求めた。霊公は晋に背いて斉・鄭につこうとしたが、 大夫たちが聴かなかった。北宮結が斉に赴いて「この結を捕らえて我が国に攻め入られよ」と言ったため斉景公はそのとおりにし、 はたして瑣で衛は斉と盟った。
B.C.502衛は晋と衛のセン沢で盟いを結ぶことになった。いよいよ会盟での血をすすろうとすると、晋の渉佗は霊公の手を血を盛った盤の方へ強く推しつけたため、 盤の血が霊公の腕にまではねかえった。この無礼に霊公は立腹した。王孫賈が小走りに歩み寄って「わが君が礼を守られずに無作法をされて、どうしてこの盟いをうけることができようか」 と言った。かくて霊公は晋に背こうとしたが、大夫たちが反対することを気づかった。そこで王孫賈はすぐに都に帰らずに郊外で留まった。迎えに出てきた大夫たちはそのわけを尋ねると、 霊公は恥をかかされたことを話し「晋はわたしの子と大夫の子を人質にせよと言っています」と言った。これを聞いた大夫は「もしも国のためになるのであれば従います」と答えた。 いざ一行を送り出そうとしたところ、王孫賈が「晋に攻められたら職人も商人も心配になります。彼らも人質にすればうまくいきます」と言うと、大夫たちは工商を人質として送ろうとした。 また王孫賈が「もし衛が晋に背いて5度も攻め込んできたら、その苦しみはいかほどであろうか」と言うと、皆は「5度とも戦うことができます」と答えたため、 王孫賈は「それでは晋に背いてみて、討たれてから人質を出すのがよい」と進言したため、衛は晋に背いた。これを聞いた晋人は非礼を悔いて盟い直そうと申し出たが、 衛では聴き入れなかった。
9月、魯が晋のために衛に攻め入って来た。
B.C.501秋、斉が晋の夷儀を討った。霊公は斉を助けるため斉軍が出陣している晋の五氏に出かけた。 霊公は邯鄲を守っていた晋の趙午を寒氏で討ち破った。斉景公は援軍を出してくれた衛にシャク・媚・杏の3邑を贈って、 衛に感謝の意を表した。
B.C.500夏、晋の趙鞅が衛を攻め囲んだ。晋人は渉佗を捕らえて、それを口実に衛に和睦を求めたが、衛人は聴き入れなかった。 そこで晋人は早速に渉佗を殺した。
B.C.495孔子が来た。霊公は「魯にいたとき、どれほどの俸禄をもらっておられたか」と問うと、孔子は「禄米六万斗でありました」 と答えたので、霊公はそれと同じ禄を与えた。
しかしある人が孔子を讒言したので、公孫余仮に命じて武器をもたせ、孔子の出入りごとにこれを脅かした。 孔子は罪に陥れられることを恐れ、衛を去った。
再び孔子が衛に来たとき、夫人の南子と同車し、宦官の雍渠を陪乗とし、 孔子を後車に乗せて市中を遊んだ。
孔子は「わたしはまだ徳を好むこと色を好むような人を見たことがない」と言って衛を去った。
B.C.494再び孔子が衛に来たが、霊公はこれを用いなかった。
B.C.493夏、没す。
霊公(晋)(レイコウ)【王】
晋公(7(9)代目)。名は夷皋。襄公の子。母は繆嬴。〜B.C.607。
B.C.620趙盾らは他の公子を立てようとしたが、夷皋は繆嬴の説得で立つことができた。
霊公は親征し、趙盾を中軍の将、先克を中軍の佐、 荀林父を上軍の佐、先都を下軍の佐、 歩招を霊公の御者、戎津をその右とし、晋の菫陰まで軍を進め、 公子を護衛する秦軍に気づかれぬようにこっそりと夜中に出発した。
4月2日、晋軍は秦軍を令狐で打ち破り、晋の刳首まで追撃した。
B.C.619春、霊公は解揚に命じて衛から攻め取った匡・戚を衛に還し、 さらに公聟池に与えていた申から虎牢までの地を鄭に還した。
夏、秦に攻められ、武城を攻め取られた。
秋、霊公は使者を魯に遣わし、前年の扈の盟いに魯文公が遅れた罪を責め正した。
先克に不平を持つ箕鄭・先都・士縠梁益耳蒯得らが乱を起こした。
B.C.618、1月、箕鄭らは賊を放って先克を殺した。
1月19日、晋人は先都と梁益耳を殺した。
3月29日、晋人は箕鄭と士縠と蒯得を殺した。
B.C.617春、晋は秦を討って少梁を攻め取った。
夏、秦康公に攻められて北徴を奪われた。
B.C.616夏、郤欠が魯の叔仲恵伯と承匡で会合し、 楚に従った諸侯の取り扱いについて相談した。
鄭の子家が鄭の太子夷(霊公)の介添えとなって晋に赴き、陳が晋と交わるようにさせた。
B.C.615秦康公に攻められ、羈馬の地を攻め取られた。
霊公は趙盾を中軍の将、荀林父を中軍の佐、郤欠を上軍の将、臾駢を上軍の佐、欒盾を下軍の将、 胥甲を下軍の佐、范無恤を御者として秦軍と戦った。しかし勝敗がつかなかった。
B.C.614春、霊公は詹嘉に瑕を与えてそこに住まわせ、交通の要路である桃林の塞を守らせて、秦の東進の野望をおさえようとした。
夏、晋の六卿は秦が士会を用いて晋に敵することを恐れて、近郊の諸浮で会合して密謀した。 そして魏寿余に命じて魏にたてこもらせて晋に背いて秦につくふりをさせて、士会をおびきよせようとした。
計略は成功し、士会は晋に帰国した。
冬、魯文公が晋に来朝し、旧来の友好関係を存続させた。
B.C.613周頃王が没して、王室が混乱した。趙盾に命じ兵車800乗でこの乱を平定し、 匡王を立てた。
趙盾が魯・宋・衛・鄭・陳・許・曹と新城で会盟した。
霊公が晋に朝見した。
B.C.612夏、蔡が新城の盟いに参加しなかったので、郤欠が上軍と下軍を率いて蔡を討った。
6月8日、晋軍は蔡に攻め入って城下の盟いを結んで引き揚げた。
11月、霊公は宋昭公・衛成公・蔡文侯・ 陳霊公・鄭繆公・許の君・曹文公・ 魯の季孫行父と扈で盟い、斉を討つ相談をした。しかし斉が霊公に賄賂をつかったので、霊公は斉討伐をとりやめた。 そのため鄭は「晋を盟主と仰ぐ価値がない」と言って楚を盟主とした。
B.C.611宋人が宋昭公を弑した。趙盾が出兵を請うたが、霊公は「晋の危急ではない」と拒否した。
趙盾は「宋人がその君を弑したことは天地に背き、民の道に逆らうもので、天は必ず罰します。晋が諸侯の盟主でありながら天罰を行わなければ、 晋に天罰が下るでしょう」と言ったので、霊公はこれを許した。
B.C.610荀林父、衛の孔達、陳の公孫寧、 鄭の石楚が宋を討ち、宋昭公を弑したことを責めた。 しかし宋が賄賂を贈ってきたので、霊公は軍を引き揚げさせて宋文公の即位を認めた。
霊公は晋の黄父で蒐を行い、ひきつづいて再び諸侯を扈に集めて宋の乱を平らげようとした。このとき霊公は鄭繆公が楚に心を寄せていると思って繆公に会わなかった。 鄭の子家が、蔡や陳が晋になついているのは鄭が骨を折って晋に仕えているからであると伝えた。 そこで霊公は鞏朔を遣わして鄭と和平を結び、趙穿と公聟池を人質として鄭に行かせた。
B.C.608夏、晋人は河曲の戦いのとき、軍令に従わなかった者を処罰し、胥甲を衛に追放し、 その子胥克にあとを継がせた。胥甲についていた先辛は斉に出奔した。
秋、楚が陳に攻め入り、勢いに乗じて宋にまで攻め入った。そこで霊公は趙盾に軍を率いさせて陳・宋の二国を助け、鄭の棐林で会合して鄭を討った。 楚の蔿賈は鄭を助けたため、晋軍は鄭の北林でこれと戦ったが、解揚が捕えられた。 そのため晋軍は引き揚げた。
冬、晋は秦と和睦しようと考えた。趙穿が「秦の与国である崇を攻めましょう。 秦がこれを助けた機会に乗じて和睦を申し込みましょう」と進言した。 そこで趙穿は崇に攻め入ったが、その計略を見抜いた秦は、晋の和睦に応じなかった。
晋は北林の役の報復として宋とともに鄭を討った。
このころ霊公は驕り高ぶり、趙盾の諌めも聴き入れなかったため、晋は楚と勢力を争うことができなかった。
B.C.607春、秦が晋に攻め入り、崇の役の報復をしてきた。秦軍は焦を包囲した。
夏、趙盾は焦を救った。
趙盾は、宋・衛・陳とともに鄭を討ち、大棘の役の報復をした。楚が援軍を出したので、趙盾は兵を引いた。
霊公は壮年になって霊公は奢侈にふけり、租税を重くした。租税を取り立てて土塀にも彫刻したりして宮殿を飾り立て、 物見台から往来の人に石を弾いて驚き慌てて逃げるのをよろこび、あるいは料理人が熊の掌を煮て、よく煮なかったので殺してもっこの中に入れ、 婦人にかつがせて朝廷を通らせるという乱交ぶりであった。
趙盾と士会がしばしば諌めたが、霊公は聴き入れなかった。
霊公はかれらの諫言を嫌い、力士の鉏麑に趙盾を刺し殺すように命じたが、鉏麑は気を変えて自殺したため、ならなかった。
9月、趙盾に酒を飲ませ、武装の士を伏せて趙盾を殺そうとした。そのため趙盾は他国に出奔しようとした。
9月27日、霊公は趙穿に襲われ桃園で殺された。
霊公(鄭)(レイコウ)【王】
鄭公(10代目)。名は夷。繆公の子。〜B.C.605。
B.C.616公子夷は子家とともに晋に赴き、陳侯が晋と交わるようにさせた。
B.C.611、1月、公子夷は燭之武とともに晋に朝見した。
B.C.610、10月、公子夷は石楚とともに晋の人質となった。
B.C.606冬、繆公が没したため、公子夷は即位した。
B.C.605春、楚から大きいすっぽんが献上された。子家と子公が霊公に朝見しようとしたとき、 子公は自分の食指(人差し指)がひとりでに動くのを見て、子家に「先日もこの指が動いたら、まちがいなく珍味にめぐりあいました」と言った。
参内して霊公に謁見すると、大すっぽんの羹が進められた。子公が笑って「はたしてそのとおりでした」と言った。霊公がどうして笑うのかと問うたので、 子公がつぶさにそのわけを告げた。そこで霊公は大夫たちを招いて羹を食べさせたが、ひとり子公には食べさせなかった。
子公は怒って、その指をすっぽんの鼎の中にひたし、それをなめて退出した。
6月28日、霊公は怒って子公を殺そうとしたが、子公と子家に先手を打たれて殺された。このとき幽公と諡された。
B.C.599子家が没すると、鄭人は霊公を弑した叛乱の罪を責め正し、霊公は改葬されて、ここではじめて霊公と諡された。
霊公(秦)(レイコウ)【王】
秦公(20(25)代目)。昭子の子。〜B.C.418。
B.C.428懐公が没すると、昭子は早く没していたので、霊公が代わって立つ。
B.C.422晋が少梁に城を築いた。秦はこれを討った。
B.C.418籍姑に城を築いた。
霊公(許)(レイコウ)【王】
許の君。〜B.C.547。
B.C.589楚の子重が衛・魯を討った。
恭王は年が若くて出陣しなかったが、霊公は右役をつとめ、彭名が御者となり、 蔡景侯が右役をつとめた。蔡景侯と許霊公はまだ年が若かったが、無理に元服させて成人にさせられた。
11月、霊公は楚の公子子重・魯成公・衛の孫良夫・ 蔡景侯・秦の右大夫・宋の華元・陳の公孫寧・ 鄭の公子子良・斉の大夫らと蜀で和睦の盟いを結んだ。諸侯は一方で晋を恐れていながら、こっそりと楚と盟っていた。
B.C.588夏、許が楚を頼りにして鄭に仕えないとして、鄭の子良が許に攻め込んできた。
冬、鄭襄公に攻められた。
B.C.587、11月、鄭の公孫申が許の田地を鄭の領地として、その境界を改め直すため許に攻めてきたが、 霊公はこれを許の展陂で破った。そのため鄭悼公に攻められて鉏任と泠敦の田地を占領された。
晋が欒書荀首士燮を送って許を救い、 鄭の汜・祭の地を占領した。
楚が子反を送って鄭の救援に駆けつけた。
霊公と鄭悼公は子反の前で言い争って、そのさばきを求めた。子反はこれをさばくことができず「両国の君には、わが君のところまでおいでください。 そこで話をお聞きすれば、両国は仲直りできるでしょう」と言った。
B.C.586霊公は鄭がしきりに許を討つので、霊公は鄭悼公を楚に訴えた。
6月、鄭悼公も楚に出かけて霊公を訴えたが、霊公は裁判に勝った。
B.C.576冬、霊公は鄭の圧力を恐れて楚に移らせてほしいと楚に願い出た。
11月3日、楚の公子は許を楚の葉に映した。
B.C.570霊公は楚についていたため、中原の諸侯が鶏沢で開いた会合に参加しなかった。
冬、晋の智罃に攻められた。
B.C.547、8月、霊公は鄭を討ってほしいと請うて楚に赴いたが、楚で没した。
霊公は楚で葬られた。
礼孔(レイコウ)【文官】
衛の臣。
B.C.660、12月、衛は狄に攻められて衛軍は狄軍に破られ、史華龍滑と礼孔は捕えられた。狄はこのふたりを使って衛軍を追撃した。 そこで史華龍滑は「われわれは衛の太史であり、衛の祭りを司っています。われわれが先に衛都に乗り込んで衛の神に告げなければ、衛を取ることはできません」 と言ったので、狄はふたりを先に行かせた。
史華龍滑は衛の人々に「とても防ぐことはできない」と言って、夜にまぎれて人々ともに都を出て逃げ落ちた。
狄は衛に攻め入り、そのまま逃走する衛の人々を追って、黄河のほとりで衛人を打ち破った。
令狐文子(レイコブンシ)
魏頡
泠至(レイシ)【文官】
秦の臣。
B.C.650冬、繆公は泠至を使者として晋を訪問させ、呂省らを秦に招こうとしたが、 呂省らはこれを怪しみ、邳鄭と七輿大夫を殺して、秦に来なかった。
礼至(レイシ)【文官】
衛の臣。
B.C.636衛文公は邢を討とうとした。礼至は「邢の正卿国子を除かないと、 邢を取ることはできません。わたしは兄弟と共に邢に仕えて事をはかりましょう」と言うと、文公はそれに従った。
B.C.635衛は邢を討った。礼至兄弟は国子とともに城壁を巡視したとき、左右から国子をはさみ抱えて城の下に投げつけて殺した。
1月21日、かくて衛は邢を滅ぼした。礼至はこの功を誇ってみずから銘文をつくった。
伶州鳩(レイシュウキュウ)【文官】
周王朝の臣。伶は伶人(音楽官)の意、名は州鳩。
B.C.522周景王は無射の鐘を鋳て、その覆いとして大林の鐘を作ろうとした。周景王はこのことを伶州鳩に尋ねると、 伶州鳩は「大昔の大林の鐘を作れば、主音の宮音を出て、正雅の音楽に害があり、また財政を圧迫すれば、音楽に妨げとなります」と言った。 しかし周景王は諌めを聞かず、大鐘を鋳た。伶州鳩は「王はきっと気の病気で亡くなられるであろう。音声がか細すぎると人の心に充満せず、 あまりに大きすぎると聞くに堪えられなくなり心を痛める。この鐘の音は大きすぎる。きっと長くは生きられないであろう」と言った。
B.C.521鐘が完成し、音楽官が鐘声の調和を報告した。
景王「鐘は調和したぞ」
伶州鳩「まだわかりません。お上が楽器をつくって、民がみんなで楽しむならば調和したと申します。今資財はなくなって民は疲れており、 わたくしは調和したとは思いません」
景王「この老いぼれめが、何が分かるか」
はたして景王が崩じると、鐘は調和しなくなった。
霊寿光(レイジュコウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
扶風の人。
70余歳で朱英丸の薬方を得て、若返って20代に見えた。漢献帝のときにはすでに220歳になっていたという。
黎鉏(レイショ)【文官】
斉の大夫。犁弥(レイビ)ともいう。
B.C.501魯の孔子が司空となり、さらに大司寇となった。斉人はこれを恐れた。
B.C.500夏、黎鉏は斉景公に「魯は孔丘を用いております。これでは斉が危うくなりましょう」と言い、 魯と夾谷で会同するよう進言した。
ここで黎鉏は孔子に恥をかかせようとしたが、逆に斉が恥をかくことになった。
B.C.496魯の孔子の名声は諸侯にとどろいた。黎鉏は「まず試しに孔丘のやることをはばんでみましょう。それでいけなかったらば土地を贈りましょう」と言って、 美女80人、馬120頭を魯に送った。 はたして魯定公季桓子はこれに夢中になり政事を怠ったので、孔子は魯を去った。
霊輙(レイチョウ)【武官】
晋の臣。霊輒とも書く。
霊輙は飢えて桑の樹の下にいるところを趙盾から食べ物をもらった。 霊輙がそれを半分しか食べなかったので趙盾がそのわけを問うと「人の家臣となって三年たちましたが、母の存否のほども知らないのです。 この半分を母にやりたくてたまりません」と答えた。
その後、霊輙は晋霊公の甲士となった。
B.C.607、9月、晋霊公が趙盾を殺そうとして伏士を放って追わせたが、霊輙は伏士を反撃し趙盾を救った。趙盾が訳を問うと霊輙は 「わたくしは桑の樹の下で飢えていた者です」と答えた。その名を問われたが、霊輙は答えずに逃げ去った。
(『史記』では、霊輙のことはすべて示眯明のことになっている。)
犂弥(レイビ)【武官】
斉の臣。王猛ともいう。
B.C.501秋、斉は晋の夷儀を討った。犂弥は東郭書のそのあとに続いて城壁を登った。犂弥が「他の人にゆずるため、 あなたは左に避けなさい。わたしは右に避けましょう」と言ったので、東郭書はそのとおりにした。しかし犂弥は先に降りて中に攻め込んだ。戦いが終わって休息した時に、 犂弥は「わたしが一番乗りをした」と言ったため東郭書が立腹して、よろいをつけて立ち上がって「さっきは難儀したであろうが、今度はそれよりも難儀するであろう」 といって組み打ちをしようとした。すると犂弥は笑って「わたしはあなたについて行っただけだ」と言ったので、けりがついた。
景公が一番乗りをした犂弥を賞しようとすると、犂弥は辞退して「わたしの前に一番乗りをした者がございます。 わたしはその後についただけです。顔が白く、上下の歯並びが美しくて、たぬき色の外套を着ておりました」と言ったので、 斉景公が東郭書を見させると、犂弥は「この方です。わたしはこの方に賞を譲りましょう」と言った。斉景公が東郭書を賞すると、 東郭書は「わたしは他国から来て仕えた者です」と言って辞退したため、犂弥が賞された。
B.C.500夏、斉は魯と会合した。犂弥は斉景公に「孔丘は礼をわきまえているが勇気がないから、莱の人々を使って武器で魯侯を脅しつけたなら、 こちらの思うままになりましょう」と言ったため、斉景公はそれに従った。孔子は魯定公を守って「役人は無礼を働く者を切り捨てよ。 両国の君がよしみを結ぼうとする大事な会合で、えびすの捕虜どもが乱暴を働くとは、斉の君がしたこととは思われません」と言った。 斉景公はこれを聞いてすぐに莱の人々を退かせた。
霊甫(レイホ)【神】
霊甫はの7人の友人であった。
烈(レツ)【公子】
周王朝の公子。周平王の末子。
烈は汝南に封じられ、その末裔は周を姓とした。
烈王(レツオウ)【皇帝】
周王朝34代王。名は喜。安王の子。〜B.C.369。在位6年。
烈公(レツコウ)【王】
晋公(19(21)代目)。名は止。幽公の子。〜B.C.395。
B.C.425幽公が盗賊に殺されると、魏文侯は兵を率いて晋の乱を誅して止を擁立する。
B.C.403周威烈王は趙・韓・魏をみな諸侯とする。
烈侯(趙)(レツコウ)【王】
趙公(初代)。名は籍。献侯の子。〜B.C.400。
B.C.409魏文公が中山を討ったので、太子に守備させた。
B.C.403魏・韓とともに立って諸侯となり、献子を献侯と追尊した。
烈侯は相国公仲連の推挙した牛畜を師とし、 荀欣を中尉とし、徐越を内史とした。
列侯(韓)(レッコウ)【王】
韓侯(2代目)。名は取。景侯の子。〜B.C.387。
B.C.397聶政が宰相俠累を殺した。
B.C.391秦に攻められ、宜陽を抜かれ、六邑を失う。
列子(レッシ)【在野】
戦国時代の思想家。道家。名は禦寇。圄寇、圉寇とも書く。
鄭の圃田の人。
列子は圃田に40年間住んでいたが、誰も列子を知る人がいなかった。
列子の生活が困窮して、見るからに飢えていたので、鄭の臣子陽は列子に穀物を贈ったが、 列子はこれを断った。彼の妻が「有道者の妻子は、みな安楽な生活をしているのに、 なぜ断ったのですか」となじったという。
列子は『列子』を著したとされる。
列子は後に、唐代に唐玄宗から冲虚真人と諡された。
列子は宋代に真宗から冲虚至徳真人と諡された。
列禦寇(レツギョコウ)
列子
裂繻(レツジュ)【文官】
紀の臣。字は子帛。
B.C.721、9月、裂繻は魯に赴き、魯の公女伯姫を迎えた。
10月、伯姫が紀に嫁いだ。
裂繻は魯と莒の仲を取り持つため、莒の君と密で盟約した。
廉(レンケツ)【在野】
孔子の弟子。字は庸。
連称(レンショウ)【文官】
斉の大夫。
B.C.686管至父と共に葵丘の守備を命じられる。一年で交代する約束であったが、一年たっても交代させられなかったので、 公孫無知に叛乱するよう誘う。連称の従妹が襄公の妾で あったが、寵愛されなかったので、事が成功すれば公孫無知の夫人にすると言い含めた。
B.C.685公孫無知・管至父と共に宮中に侵入し、襄公を見つけ出して弑す。
廉頗(レンパ)【将軍】
趙の将軍。相国。信平君。
B.C.283将軍となり秦を討ち、昔陽を取る。
B.C.282斉を討ち、これを大いに破り、陽晋をおとす。
この功により上卿に任ぜられ、勇気のあることで諸侯の間で有名となる。
B.C.279秦は趙を討ち、2万人を殺した。秦は趙恵文王との会見を求め、廉頗と藺相如は相談して、 藺相如が随行することとなった。廉頗は王と別れる時「このたびの道程をはかりますと、帰国されるまで30日あれば十分です。もし30日経っても帰られなければ、 どうか太子を立てて王とし、大王を人質にして利益を得ようとする秦の野望を断たしていただきたい」と言って、許された。
しかし藺相如の活躍で、恵文王は無事に帰った。藺相如は上卿に任じられ、位は廉頗の上になった。廉頗はこれが不満で「わしは攻城野戦の功があったのに、 藺相如は口舌の労だけで、位はわしの上におる。わしは恥ずかしくて彼の下風に立つのが我慢できない。相如に会ったらきっと辱めてくれよう」と言った。
藺相如はこれを聞くと、つとめて廉頗に会わないようにし、参朝するときもそのたびに病と称して欠席し、廉頗と序列を争うのを避けた。また外出して廉頗を遠くに見ても、 車を返して隠れるほどであった。すると藺相如の舎人が諌めて「いま君は廉君と同列でありながら、隠れてびくびくされるにもほどがあります。 凡人でさえ恥ずかしいのに、まして君は将軍宰相ではありませんか。わたくしら不肖ながら、おいとまを頂きたく存じます」と言った。 藺相如は「秦王の前でもわたしはこれを叱咤し、群臣を辱めた。どうして廉将軍だけが怖かろう。思うに秦が趙を侵さないのは、ひとえにわれら二人がおるからである。 いま両虎が闘えば、生き延びることはできない。わたしが、こうして隠れるのも、国家の急を第一とし、私情を二の次とするからである」と答えた。
廉頗はこれを伝え聞くと、肌を脱ぎ履を負い、藺相如の門に至り「鄙賤のものわたしは、将軍の寛容がこうまでだとは知らなかった」と謝罪し、 ついに親睦して刎頸の交わりを結んだ。
この年、斉を討つ。
B.C.278魏を討ち、幾をおとす。
B.C.275魏を討ち、防陵・安陽を攻め、房子を抜き、ここに城を築いて帰還する。
B.C.260秦将王齕が上党を取った。上党の民が趙に逃げたので、廉頗は長平に駐屯してこれを按撫した。
4月、秦が攻めてきたので、廉頗に抗戦させた。趙軍の士卒が秦の斥候兵を害したが、秦の斥候兵に副将茄が斬られた。
6月、廉頗は秦軍に破られ、城砦二ヶ所と将校4人を失った。
7月、廉頗は塁壁を築いて守った。秦はそれを攻めて将校2人を捕らえ、西方の塁壁を奪った。廉頗はいよいよ塁壁を高くして守り、秦は挑戦したが廉頗は応じなかった。
孝成王は廉頗が応戦しないので、しばしば彼を責めた。 一方、秦の范雎は人を趙にやり千金を撒いて逆宣伝させ 「秦がおそれているのは馬服君趙奢の子趙括が、軍を指揮してわがほうにあたることである。 廉頗ならくみしやすい。やがて降伏するだろう」と言わせた。そのため孝成王は廉頗を更迭して、趙括を将軍とした。しかし趙括は秦に大敗する。
B.C.252燕が軍を起し、栗腹が将軍となって鄗を攻めた。廉頗は将軍となり燕軍を破って栗腹を殺し、 卿秦を虜にする。
B.C.251勝ちに乗じて燕の国都薊を包囲した。燕が五城を割いて和睦を請うたので、これを許した。
そこで趙は廉頗を尉文に封じて信平君と号し、仮の宰相とした。
廉頗がさきに長平から召還されて勢力が失うと食客はみな立ち去ったが、ふたたび将軍となると食客はまた集まって来た。廉頗はこれを不快に思ったが、 ある食客が「天下の人はすべてとりひきの道をもって交わるものです。君に勢力があれば君に従い、なければ去る、これは当然の道理であります」と言った。
B.C.250楽乗とともに燕を討ち、薊を包囲する。
B.C.248延陵鈞を従えて軍を率い、魏を助けて燕を討つ。
B.C.245将軍として魏の繁陽を攻略した。その途中、孝成王が没して、子の悼襄王が立った。
悼襄王は楽乗を将軍として廉頗と代わらせた。廉頗は怒って楽乗を攻め、楽乗は遁走した。廉頗もまた魏に出奔して大梁に赴いた。
廉頗は長らく大梁にいたが、魏に信用されなかった。趙はしばしば秦に苦しめられたので、ふたたび廉頗を用いたいと思い、使者をやって廉頗が今でも役に立つかどうか見させた。 廉頗は一斗の米、十斤の肉を食い、よろいをつけて馬に乗り、役に立つことを示したが、 廉頗の仇敵郭開が多額の金を使者に与えて買収していたので、 使者は「廉将軍は老いてますます健啖でありますが、わたくしと対座している間に三度も便をもらしました」と報告したので、ついに召還しなかった。
楚はひそかに使者を遣わして、廉頗を迎えた。廉頗は楚の将軍となったが、功労なく「わしは趙の兵を用いたいものだ」と言った。
廉頗はついに寿春で没した。


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