- 廉(レンケツ)【在野】
- 孔子の弟子。字は庸。
- 連称(レンショウ)【文官】
- 斉の大夫。
B.C.686管至父と共に葵丘の守備を命じられる。一年で交代する約束であったが、一年たっても交代させられなかったので、
公孫無知に叛乱するよう誘う。連称の従妹が襄公の妾で
あったが、寵愛されなかったので、事が成功すれば公孫無知の夫人にすると言い含めた。
B.C.685公孫無知・管至父と共に宮中に侵入し、襄公を見つけ出して弑す。
- 廉頗(レンパ)【将軍】
- 趙の将軍。相国。信平君。
B.C.283将軍となり秦を討ち、昔陽を取る。
B.C.282斉を討ち、これを大いに破り、陽晋をおとす。
この功により上卿に任ぜられ、勇気のあることで諸侯の間で有名となる。
B.C.279秦は趙を討ち、2万人を殺した。秦は趙恵文王との会見を求め、廉頗と藺相如は相談して、
藺相如が随行することとなった。廉頗は王と別れる時「このたびの道程をはかりますと、帰国されるまで30日あれば十分です。もし30日経っても帰られなければ、
どうか太子を立てて王とし、大王を人質にして利益を得ようとする秦の野望を断たしていただきたい」と言って、許された。
しかし藺相如の活躍で、恵文王は無事に帰った。藺相如は上卿に任じられ、位は廉頗の上になった。廉頗はこれが不満で「わしは攻城野戦の功があったのに、
藺相如は口舌の労だけで、位はわしの上におる。わしは恥ずかしくて彼の下風に立つのが我慢できない。相如に会ったらきっと辱めてくれよう」と言った。
藺相如はこれを聞くと、つとめて廉頗に会わないようにし、参朝するときもそのたびに病と称して欠席し、廉頗と序列を争うのを避けた。また外出して廉頗を遠くに見ても、
車を返して隠れるほどであった。すると藺相如の舎人が諌めて「いま君は廉君と同列でありながら、隠れてびくびくされるにもほどがあります。
凡人でさえ恥ずかしいのに、まして君は将軍宰相ではありませんか。わたくしら不肖ながら、おいとまを頂きたく存じます」と言った。
藺相如は「秦王の前でもわたしはこれを叱咤し、群臣を辱めた。どうして廉将軍だけが怖かろう。思うに秦が趙を侵さないのは、ひとえにわれら二人がおるからである。
いま両虎が闘えば、生き延びることはできない。わたしが、こうして隠れるのも、国家の急を第一とし、私情を二の次とするからである」と答えた。
廉頗はこれを伝え聞くと、肌を脱ぎ履を負い、藺相如の門に至り「鄙賤のものわたしは、将軍の寛容がこうまでだとは知らなかった」と謝罪し、
ついに親睦して刎頸の交わりを結んだ。
この年、斉を討つ。
B.C.278魏を討ち、幾をおとす。
B.C.275魏を討ち、防陵・安陽を攻め、房子を抜き、ここに城を築いて帰還する。
B.C.260秦将王齕が上党を取った。上党の民が趙に逃げたので、廉頗は長平に駐屯してこれを按撫した。
4月、秦が攻めてきたので、廉頗に抗戦させた。趙軍の士卒が秦の斥候兵を害したが、秦の斥候兵に副将茄が斬られた。
6月、廉頗は秦軍に破られ、城砦二ヶ所と将校4人を失った。
7月、廉頗は塁壁を築いて守った。秦はそれを攻めて将校2人を捕らえ、西方の塁壁を奪った。廉頗はいよいよ塁壁を高くして守り、秦は挑戦したが廉頗は応じなかった。
孝成王は廉頗が応戦しないので、しばしば彼を責めた。
一方、秦の范雎は人を趙にやり千金を撒いて逆宣伝させ
「秦がおそれているのは馬服君趙奢の子趙括が、軍を指揮してわがほうにあたることである。
廉頗ならくみしやすい。やがて降伏するだろう」と言わせた。そのため孝成王は廉頗を更迭して、趙括を将軍とした。しかし趙括は秦に大敗する。
B.C.252燕が軍を起し、栗腹が将軍となって鄗を攻めた。廉頗は将軍となり燕軍を破って栗腹を殺し、
卿秦を虜にする。
B.C.251勝ちに乗じて燕の国都薊を包囲した。燕が五城を割いて和睦を請うたので、これを許した。
そこで趙は廉頗を尉文に封じて信平君と号し、仮の宰相とした。
廉頗がさきに長平から召還されて勢力が失うと食客はみな立ち去ったが、ふたたび将軍となると食客はまた集まって来た。廉頗はこれを不快に思ったが、
ある食客が「天下の人はすべてとりひきの道をもって交わるものです。君に勢力があれば君に従い、なければ去る、これは当然の道理であります」と言った。
B.C.250楽乗とともに燕を討ち、薊を包囲する。
B.C.248延陵鈞を従えて軍を率い、魏を助けて燕を討つ。
B.C.245将軍として魏の繁陽を攻略した。その途中、孝成王が没して、子の悼襄王が立った。
悼襄王は楽乗を将軍として廉頗と代わらせた。廉頗は怒って楽乗を攻め、楽乗は遁走した。廉頗もまた魏に出奔して大梁に赴いた。
廉頗は長らく大梁にいたが、魏に信用されなかった。趙はしばしば秦に苦しめられたので、ふたたび廉頗を用いたいと思い、使者をやって廉頗が今でも役に立つかどうか見させた。
廉頗は一斗の米、十斤の肉を食い、よろいをつけて馬に乗り、役に立つことを示したが、
廉頗の仇敵郭開が多額の金を使者に与えて買収していたので、
使者は「廉将軍は老いてますます健啖でありますが、わたくしと対座している間に三度も便をもらしました」と報告したので、ついに召還しなかった。
楚はひそかに使者を遣わして、廉頗を迎えた。廉頗は楚の将軍となったが、功労なく「わしは趙の兵を用いたいものだ」と言った。
廉頗はついに寿春で没した。
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