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列伝 テ


定(テイ)【公子】
周王朝の王子。〜B.C.520。
B.C.520、6月20日、周王室の内乱で王子定は諸王子とともに単穆公を追撃したが、逆に殺された。
テイ(テイ)【王】
沈の君。
B.C.519呉が楚の州来を討ったため、髠は頓・胡・蔡・陳・許とともにこれを救った。しかし呉軍に破られ、テイは胡の君とともに捕らえられた。
泥(デイ)【武官】
趙の臣。
B.C.315秦に攻められて、敗れる。
鄭安平(テイアンペイ)【武官】
秦、趙の臣。武陽君。〜B.C.256。
范雎が魏の魏斉に疑われて殺されそうになっていた。鄭安平は范雎をともなって逃亡し、 潜伏して名を変えた。
そのころ秦昭襄王は謁者王稽を使いとして魏にやっていた。鄭安平は身許をいつわって、 その従卒となって王稽にかしずいた。王稽は鄭安平に「秦で遊説させるような賢人がいるか」と問うた。
鄭安平は「わたくしの郷里に張禄先生という人があります。ただ仇に狙われているため昼間は人に会いません」と言って范雎を王稽に会わせた。王稽は范雎の賢を見抜き、 車に乗せて秦に帰国した。
范雎は秦で宰相となると、鄭安平を将軍に任じた。
趙を討ったが、趙軍に包囲され2万の兵と共に投降した。
B.C.256没し、その領地は没収される。
帝乙(テイイツ)【皇帝】
商王朝29代王。文武丁の子。〜B.C.1044。
この時代、商王朝は衰える。
程嬰(テイエイ)【在野】
趙朔の友人。〜B.C.583。
B.C.598司寇屠岸賈が趙朔とその一族を誅した。
公孫杵臼は程嬰に「どうして朔といっしょに死なないのか」と言った。程嬰は「朔の妻は朔の子を宿しておる。もし幸いに男なら、 わしはその子を守り立てたいと思う。 もしも女なら、そのうえで死ぬだけのことだ」と言った。
その後、その妻は男子を生んだ。
屠岸賈はこれを聞くと朔の遺児を捜索した。夫人は子を袴の中に隠し「趙の宗家が滅んでもよいなら、お泣きなさい。もし滅んでならないなら、声を出さないように」と祈った。
遺児は声を出さなかったので危機を脱した。
程嬰が公孫杵臼に「後日また探しに来るだろう。どうしたらよいだろう」と言った。公孫杵臼は「孤児を守り抜くことと、死ぬことは、どちらが難しいだろう」と言った。程嬰は 「死ぬほうがたやすく、守り抜くのが難しいにきまっている」と言った。
公孫杵臼は「趙子の先君はあなたを手厚く待遇されましたから、あなたはなるべく難しいほうを引き受けてください。わたしはたやすいほうを引き受けます」と言って二人相談の末、 公孫杵臼が他人の嬰児を手に入れて、りっぱなねんねを着せて、山中に隠れた。
程嬰は将軍たちに「誰かわたしに千金くれるなら、わたしは趙氏の孤児のありかを申しましょう」と言った。将軍たちはそれを承知して、兵を出して公孫杵臼を攻めた。
公孫杵臼もいつわって「何という小人だろう、程嬰という男は。かつて下官の禍のときに死ぬことが出来ず、わしと相談して趙氏の孤児を隠したのに、またわしを売った。 たとい遺児を立てることができなかったにしても、売るとはなにごとだ」と言った。
将軍たちは公孫杵臼と孤児を二人とも殺した。
程嬰は真の孤児とともに山中に隠れた。
B.C.583晋景公が病んだ。占うと「大業の後の遂げざる者祟りをなす」と出た。 景公はこれを韓厥に問うと、韓厥は趙朔の孤児が生きているのを知っていたので「それは趙氏でありましょうか。 中衍というもの以来、みな嬴姓を名乗り、晋に仕えました。成公のときまで代々功労を立て、 かつて祖先の祭祀を絶ったことはなかったのです。
しかし今、趙氏の宗家は滅ぼされ、国人はこれを哀しんでおります。わが君には、このことをご配慮さないますように」と言った。
景公が「趙氏にはまだ子孫が残っているのか」と問うたので、韓厥はつぶさに実情を告げた。そこで景公は趙氏の孤児を立て、 趙武と程嬰を呼び出し、諸将とともに屠岸賈を攻め、その一族を滅ぼした。
趙武が冠礼して成人した時、程嬰は大夫たちに別れを告げて、趙武に「むかし不宮の禍のとき、家中のものはみなよくその難に殉じました。当時、 わたしは死ぬことができなかったのではなく、趙氏の子孫を守り立てようと思ったのです。
いまやあなたはすでに趙武としてお立ちになり、もとの位に復されました。わたしは地下で趙宣孟と公孫杵臼に報告したいと思います」と言った。
趙武はすすり泣き頓首して「わしは生涯、身を尽くしてそなたに報いようと願っておるのに、わしを棄てて死のうとするのか」と言った。
程嬰は「それはいけません。かの杵臼はわたしがことを成就できると思ったからこそ、わたしに先立って死んだのです。いまわたしが報告しなければ、 成就しなかったものと思いましょう」といってついに自殺した。
趙武は3年のあいだ喪服をつけ、彼のため領邑で祭って代々春秋ごとの祀りを絶やさぬようにした。
定王(テイオウ)【皇帝】
周王朝21代王。名は瑜。匡王の弟。〜B.C.586。
B.C.607、10月8日、匡王が崩御したので、公子瑜が即位した。
B.C.606、4月、定王は匡王を葬った。
B.C.606楚荘王が陸渾の戎を討ち、洛陽まで行き、兵を郊外に連ねて、周に威勢を示した。 定王は大夫王孫満に命じて荘王をねぎらわせたが、”鼎の軽重”を問われるという屈辱を受けた。
晋の士会が周を聘問したとき、定王は士会に礼について質問され、原公を介して解答した。
B.C.603夏、定王は子服を斉に遣わして、王后を迎え入れる世話をさせた。
冬、召桓公が王后を斉から迎え入れた。
B.C.601単襄公を使節として宋、楚を聘問させた。単襄公はその途中に寄った陳の状況を報告し、陳は滅びるだろうと予言した。
B.C.600春、定王は魯に使者を遣わして、周に聘問することを要求した。
夏、魯宣公孟献子に命じて周を聘問させた。 定王は孟献子の振る舞いが礼儀正しいとして手厚く引き出物を与えた。
B.C.598王季子を使節として魯を訪聘させ、魯の大夫に贈り物をした。 このとき季孫行父と孟献子は質素で、 叔孫喬如公孫帰父は贅沢であった。 定王は単襄公に魯の大夫で誰が賢明かを尋ねると、単襄公は季孫行父と孟献子は栄えるが、 叔孫喬如と公孫帰父はほろびるだろうと答えた。
B.C.594、6月、王孫蘇が召氏と毛氏と政権を争い、 王子に頼んで召戴公毛伯衛を殺させ、 戴公の子を立てて実権を掌握した。
B.C.593、3月、晋景公が狄の捕虜を周に献上し、 士会を正卿に任命することを認めて欲しいと願い出た。定王はこれを許した。
夏、演武堂に火災があった。
王孫蘇が周の乱れから逃れて晋に逃げた。晋景公はこれを周に入れてもとの地位につけさせた。
冬、晋景公は士会に命じて周王室の騒ぎを治めた。
B.C.590晋景公が詹嘉を遣わして戎と周を和平させた。 しかし王季子が戎の無防備なのを見て、これにつけこんで戎を討とうとした。周の内史叔服が 「盟いに背き、大国をあざむいては必ず負けます」と諌めたが、王季子は聴き入れず、茅戎を討った。
3月21日、周軍は徐吾氏の地で戎に大敗した。
B.C.589冬、晋の鞏朔が斉の戦利品を周に献上した。 周定王はこれを非礼として単襄公に「命卿ならぬ鞏伯は王室にてその職分が登録されていません。 また斉はわが王室と婚姻を結んでいる親しい国である。斉が欲望をほしいままにして晋侯を立腹させたかもしれないが、 なんとか諌めて戦にならぬようにさせることができなかったのか」と言わせた。鞏朔は一言も答えることが出来なかった。
定王は三公に鞏朔の接待を委ねたが、その接待は覇者が敵に勝って大夫を遣わして戦勝の喜びを報告させる場合と同じようにさせ、卿を接待する礼より一等下げたものであった。 しかし定王は晋を恐れたため、鞏朔と私宴を開いて、こっそりと引き出物を賜わった。
B.C.586、11月14日、崩御する。
程滑(テイカツ)【武官】
晋の臣。
B.C.573、1月5日、程滑は欒書荀偃に命じられて晋厲公を弑した。
鄭姫(斉)(テイキ)【女官】
桓公の夫人。鄭の公女。
鄭姫は太子昭(孝公)を生んだ。
鄭姫(耼)(テイキ)【女官】
耼国の夫人。
耼国は同姓の鄭姫を夫人にしたため滅んだという。
鄭姫(陳)(テイキ)【女官】
哀公の正夫人。
鄭姫は悼太子を生んだ。
程季(テイキ)【文官】
晋の臣。荀驩の子。
彘裘(テイキュウ)【文官】
晋の臣。士魴の子。
鄭丘緩(テイキュウカン)【武官】
晋の臣。
B.C.589、6月18日、晋・魯・衛連合軍は斉軍と斉の鞍の地に陣をかまえた。鄭丘緩は郤克の右となり、 解張が御者となった。郤克は矢に当たって負傷し、血は靴まで流れ滴るという重傷であった。 郤克はかろうじて進撃の太鼓を絶え絶えに鳴らした。
郤克「わたしはもうだめだ」
解張「戦が始まり、敵の矢がわたしの左手に当たり、肘まで突き通しましたが、抜くいとまもなく、その矢を折って馬を御しています。 兵車の左輪は赤黒く染まっていますが、どうして弱音を吐きましょうか。我慢してください」
鄭丘緩「戦の始めから、険しい場所に来るとわたしは下車して車を押してきましたが、お気づきにならなかったでしょう。それも気づかれないということは、 やはり重傷です」
解張「わが軍の目と耳は元帥の旗と太鼓に注がれております。どうして重傷であるからといって、この戦いを失敗させることが出来ましょう。 出陣したからには、もとより死は覚悟です。命にはまだ別状はありません。しっかりしてください」
解張は手綱を片手に握りなおし、右手で撥を取って進撃の太鼓を打ち鳴らした。
郤克の馬は駆け出して止めることができなくなり、全軍はそれに遅れじと進撃し、斉軍を大いに破った。
定姜(テイキョウ)【女官】
定公の夫人。
B.C.577夏、晋の郤犨孫文子を衛に送届けてきた。衛定公は拒絶しようとしたが、 定姜は「あの方は先君の重臣の後継ぎであり、晋の口ぞえもあります。許さなかったら、大国に攻められて滅びてしまいます」と諌めたので、 衛定公は孫文子を父の位に復職させた。
10月16日、衛定公が没した。定姜が哭礼を終えて一休みしたとき、太子(献公)が悲しそうな態度をしていなかった。 定姜は憤慨のあまり食事もとらず歎いて「この者は衛の国を乱し、このわたしを手始めに無礼をはたらくであろう」と言った。衛の大夫たちはこれを聞いて、 恐れない者はなかった。
B.C.563、6月、楚・鄭が宋の都を包囲した。孫文子は鄭軍を追撃しようとして、その吉凶を占って結果を定姜に見せた。 定姜は「敵を防ぐ方の利になるということです。よく考えられよ」と言った。しかし衛軍は追撃を行い、鄭の皇耳を捉えた。
B.C.559衛献公は孫文子の乱に会い、国外へ逃亡しようとして、神官に命じて宗廟に出国することと無罪を報告させようとした。しかし定姜は 「告げる必要はありません。そもそも先君が重んじた大臣をないがしろにし、わたしも下女扱いした。その身の出国を告げるだけでよい。 罪がないと告げてはいけません」と言った。
彘恭子(テイキョウシ)
士魴
鄭君(テイクン)【王】
鄭公(23代目)。名は乙。幽公の弟。
B.C.394鄭の邑である負黍がそむいて、韓に復帰する。
B.C.385韓に攻められ、陽城を失う。
B.C.375韓哀公に滅ぼされ、鄭は韓に併合される。
定公(魯)(テイコウ)【王】
魯公(24代目)。名は宋。昭公の弟。〜B.C.495。
B.C.510魯昭公が国外で没した。
B.C.509魯昭公のなきがらが魯の壊隤に着くと、公子宋は先に都に入った。
6月22日、魯昭公のなきがらが魯に帰った。
6月27日、公子宋は即位した(定公)。
7月22日、定公は魯昭公を代々の墓の道の南に別に離して葬った。
B.C.507、1月、定公は晋に行こうとしたが、黄河まで行って引き返した。
冬、孟懃子が邾公と郯で盟い、友好を修めた。
B.C.506、3月、定公は劉文公の召集を受け、晋定公・宋景公・ 蔡昭侯・衛霊公・陳懐公・ 鄭献公・許の君・曹隠公・莒の君・邾の君・頓の君・胡の君・滕の君・ 杞悼公・小邾の君・斉の国夏を楚の召陵に集めて楚を討つ相談をした。
7月、定公は会合から帰国した。
B.C.505、3月1日、日食があった。
夏、魯は蔡に粟を送ってその危急を救おうとした。
6月18日、季平子が房で没した。
7月4日、叔孫成子が没した。
9月28日、陽虎季桓子公父文伯を捕らえ、 仲梁懐を追い払った。
10月11日、陽虎は季氏の一族の公何藐を殺した。
10月13日、陽虎は季桓子と稷門のなかで盟った。
10月14日、陽虎は公父文伯と秦遄とを追い払い、ふたりは斉に逃げた。
B.C.504、2月、魯は鄭を攻めて匡を取った。これは鄭が周の胥靡を討ったことを責め正したものである。
夏、季桓子と孟懃子が晋に出かけて鄭の捕虜を献上した。
陽虎は定公と三桓と周社で盟い、国の要人たちと亳社で盟い、五父の辻で神に誓った。
季桓子と孟懃子が軍を率いて鄆を攻め囲んだ。
B.C.503春、斉が鄆と陽関を魯に返した。
斉の国夏が魯に攻め入った。
B.C.502、1月、定公は斉に攻め入り、陽州の城門に攻め込んだが勝てなかった。
2月、定公は斉に攻め入り、廩丘の外城を攻めた。
3月、定公は帰国した。
4月、斉の国夏と高張が魯の西境に攻めてきた。晋の范鞅趙鞅荀寅が魯を救ったため、定公は晋軍と瓦で会合した。このとき范鞅が子羊を、趙鞅と荀寅が雁を進物として用いた。 ここから魯は初めて子羊を尊んで、孟孫・叔孫に雁を用いさせ正卿の季氏だけが子羊を用いることにした。
9月、定公は晋のために衛に攻め入った。
10月、陽虎は三桓を追い払おうとして季桓子を殺そうとした。公斂処父がこれを知ったため、事は未然に防がれた。 陽虎は定公と叔孫州仇をおどして孟孫氏を討った。公斂処父が成の人々を率いて上東門から攻め入り、陽虎と南門の中で戦ったが、勝てなかった。 さらに棘下で戦い、ついに陽虎を破った。陽虎は讙と陽関に入って謀叛を起こした。
B.C.501夏、陽虎が盗んだ宝玉と大弓を返した。
6月、定公は陽虎のたてこもっている陽関を討ち、陽虎は斉から晋へ亡命した。
B.C.500春、魯は斉と和睦した。
夏、定公は斉景公と祝其で会合した。この会合で斉は鄆・讙・亀陰の田地を返した。
叔孫州仇と孟懃子が、叔孫氏の内乱により郈を攻め囲んだ。
秋、叔孫州仇と孟懃子は斉軍の応援を得て郈を攻め囲んだが、やはり勝てなかった。
反乱を起こした侯犯と駟赤は郈を斉に引き渡そうとしたが、郈の人々がこれに反対した。
冬、叔孫州仇が斉に赴いた。
B.C.498子路に命じて三桓の本拠をとりこわし武器を接収しようとしたが、反対にあい中止した。
定公(晋)(テイコウ)【王】
晋公(15(17)代目)。名は午。頃公の子。〜B.C.475。
B.C.512晋頃公が没したため、公子午は即位した。
B.C.511春、定公は軍を率いて魯昭公を魯に納れようとすると、范鞅が 「季孫を呼び寄せて、来なかったら不忠の臣としてこれを討ちましょう」と言ったため、晋人は季平子を呼び寄せた。
4月、季平子と荀躒が魯昭公のいる乾侯に行って、帰国するよう勧めたが、魯昭公はこれを断った。
B.C.510、8月、周の富辛石張が晋に遣いして成周に城壁を築きたいと申し入れた。
11月、魏献子韓簡子が周の都に赴いて、諸侯の大夫を狄泉に集めて平丘の盟い(B.C.529)を再確認し、 そのうえで成周に城壁を築くことを命じた。
B.C.509、1月、魏献子が焼き狩りをしてやけどにあい、引き返す途中の甯で没した。范鞅がかわって執政となった。
成周の築城は30日で終わったため、諸侯の守備兵を国々へ帰した。
B.C.507、9月、晋軍は鮮虞の人に平中で破られ観虎が討ち取られた。
B.C.506、3月、定公は劉文公の召集を受け、魯定公・宋景公・ 蔡昭侯・衛霊公・陳懐公・ 鄭献公・許の君・曹隠公・莒の君・邾の君・頓の君・胡の君・滕の君・ 杞悼公・小邾の君・斉の国夏を楚の召陵に集めて楚を討つ相談をした。 このとき晋人が鄭に羽毛でかざった旗を借りて、その旗をかかげて会合の場所にでかけたため、晋は諸侯の信用を失った。
B.C.504、6月、閻没が周を守り、さらに胥靡に城壁を築いた。
8月、宋の楽祁が晋に遣いしたが、范鞅はこれを無礼であるとして捕らえた。
B.C.503、12月5日、籍秦が叛乱を避けていた周敬王を送って王城に入れた。
B.C.502趙鞅が「諸侯のうち宋だけが晋に仕えています。しかるに今その使者を捕らえておくのはよくないことです」と申し上げたため、楽祁を宋に帰そうとしたが、その途中で没した。
4月、斉が魯を討ったため范鞅・趙鞅・荀寅が魯を救った。晋軍は衛のセン沢で盟いを結ぼうとした。趙鞅が衛霊公を抑えつけようとして、 渉佗と成何をその役に任じた。 そのため衛は晋に背いた。これを聞いた晋人は非礼を悔いて盟い直そうと申し出たが、衛は聴き入れなかった。
秋、范鞅が成桓公と会合して鄭に攻め入り、虫牢を包囲した。晋軍は勢いに乗じて衛に攻め入った。
B.C.501魯の陽虎が晋に亡命し、趙鞅に身を寄せた。
B.C.500夏、趙鞅が衛を攻め囲んだ。前年の夷儀の戦いの報復である。
晋人は衛が背いたわけを調べた結果、渉佗と成何に原因があるということになった。 そこで渉佗を捕らえて、それを口実に衛に和睦を求めたが、衛人は聴き入れなかった。 そこで晋人は早速に渉佗を殺した。そのため成何は燕に逃げた。
B.C.497荀寅・范吉射が趙鞅を攻め、趙鞅は逃げて晋陽を守る。定公は晋陽を包囲する。
荀櫟・韓不信・魏侈は范・荀(中行)の二人と仇敵の間柄だったので、兵を移して彼らを討った。荀寅・范吉射は逆に定公を攻めるが、定公はこれを打ち破り、 范・荀は朝歌に逃げて立てこもる。韓不信・魏侈が趙鞅のために謝罪したので、定公は趙鞅を許し、その地位を復した。
B.C.493衛霊公が没した。
6月乙酉の日、趙鞅は蒯聵を衛に入れようとして、陽虎の詐謀を用い、 蒯聵に従って晋に来ていた衛の人十余人に喪服を着せ、 衛霊公の喪で衛から迎えに来たもののようによそおって、蒯聵を帰国させたが失敗した。
そこで晋は蒯聵を衛に入れようとして、趙鞅に命じて兵を率いて衛に味方した鄭軍を鉄の地で大破した。
B.C.490荀櫟・范吉射を破り、二人は斉に出奔する。
B.C.482黄池での会盟で呉王夫差と会盟の長の地位を争う。 趙鞅が怒って呉を討とうとする動きを見せたので、定公が会盟の長になった。
定公(衛)(テイコウ)【王】
衛公(12(22)代目)。名は臧。穆公の子。〜B.C.577。
B.C.591春、太子臧は晋景公とともに斉を討ち、陽穀に攻め入った。
B.C.589、9月、穆公が没したため、公子臧は即位した。
11月、孫良夫が魯・楚・蔡・陳・許・宋・秦・斉と蜀で和睦の盟いを結んだ。 諸侯は一方で晋を恐れていながら、こっそりと楚と盟っていた。
B.C.588春、定公は晋景公・魯成公・宋共公・ 曹宣公とともに鄭を討ったが、鄭の伏兵にあって打ち破られた。
1月30日、穆公を葬った。
11月、定公は孫良夫を魯に遣わして、以前の盟いを存続させるようにした。
B.C.586、12月24日、定公は晋景公・魯成公・宋共公・鄭悼公・斉頃公・曹宣公・ 邾定公・杞桓公と晋の虫牢で会盟した。
B.C.585、3月、孫良夫甯相は、晋とともに宋を討った。
B.C.584秋、定公は晋景公・曹宣公・斉頃公・魯成公・莒の君・邾定公・杞桓公と会合して、楚に攻められた鄭を救う相談をした。しかし鄭は単独で楚軍を破った。
8月13日、定公は衛の馬陵で諸侯と同盟し、虫牢の盟いを確認し、莒が晋に服従したことを確認した。
冬、定公は孫文子の専権を憎んだので、孫文子が晋に出奔した。後の禍を恐れた定公は、晋に出かけて事情を訴えた。 晋は孫文子が晋に与えた戚の邑を衛に返した。
B.C.583冬、魯の共姫が宋共公に嫁ぐことになった。 定公は人を遣わして共姫の付き添いをさせた。
B.C.582春、前年に汶陽の田を斉に返したことで諸侯が晋の信義を疑ったため、晋景公は定公や魯成公・斉頃公・宋共公・鄭成公・ 曹宣公・莒渠丘公・杞桓公と衛の蒲で会合して、馬陵の盟いを忘れないようにした。
B.C.581晋が衛に鄭を討つように命じてきた。そこで定公は子叔黒背に命じて鄭を討った。
B.C.578、5月、定公は晋厲公・宋共公・斉霊公・曹宣公・ 鄭成公・邾・滕と会合して秦を討った。
5月5日、定公は諸侯と共に秦軍と秦の麻隧で戦い、これを大破した。諸侯の軍は勢いに乗って涇水を渡って侯麗まで攻め入って引き揚げた。
B.C.577定公は晋に行ったとき、晋に出奔していた孫文子に無理に引き合わされそうになったが、定公はこれを許さなかった。
夏、定公は帰国すると晋の郤犨が孫文子を衛に送届けてきた。定公は拒絶しようとしたが、 夫人定姜の諌めを受けて孫文子に会って、その父の位に復職させた。
9月、定公は病気になった。 そこで定公は孔成子甯殖に命じて公子を太子と定めた。
10月16日、没す。
定公(鄭)(テイコウ)【王】
鄭公(16代目)。名は寧。鄭簡公の子。〜B.C.514。
B.C.530、3月、鄭簡公が没したため、公子寧は即位した。
夏、定公は晋に出かけて新しく即位した晋昭公に挨拶をした。
6月、定公は鄭簡公を葬った。
B.C.529、8月、鄭公は晋・劉・魯・斉・宋・衛・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾と平丘で会合して同盟した。
B.C.527夏、蔡の朝呉が鄭に亡命してきた。
平王は、楚が侵した土地を鄭に返還する。
B.C.526、3月、晋の韓宣子が鄭を聘問した。
9月、鄭で日照りが続いたため、定公は屠撃・祝款・竪柎に命じて桑山で雨乞いの祭りをさせ、山の木を切ったが雨は降らなかった。
B.C.524、5月14日、鄭で大火災が起こった。
B.C.523子游が没した。
鄭に大水が出て、竜が時門の外の洧淵で戦った。
B.C.522鄭に火災があった。定公はこれを祓い清めようとしたが、子産に「徳をみがかれたほうがましです」と言われる。
楚の太子が亡命してきたので、これを礼遇したが、晋と図って鄭を襲おうとしたので、子産と謀ってこれを殺した。
B.C.518秋、定公は晋に赴いた。
B.C.517夏、定公は子大叔を遣わして晋・魯・宋・曹・衛・邾・滕・薛・小邾と黄父で会合し、王室の乱について相談した。
B.C.514、4月14日、定公は没した。
6月、定公は葬られた。
定公(滕)(テイコウ)【王】
滕公。名は麋。
定公(邾)(テイコウ)【王】
邾公。名は貜且。文公の子。母は斉姜。〜B.C.574。
B.C.614、5月、文公が没し、公子貜且は即位した。
定公が即位すると、弟の公子捷菑は晋に出奔した。
B.C.613魯の弔問の使者が不敬であったので、定公は魯に攻め入って魯の南部を討った。 そのため魯の叔仲恵伯が攻め寄せてきた。
秋、晋の趙盾が諸侯の連合軍800乗(6万人)を率いて、公子捷菑を邾に入れて君にしようとした。 しかし邾の人はそれを拒絶して「貜且が年長であるから君に立てたのだ」と言った。趙盾は「言い分が道理にかなっているのに、 それに従わないのはよくない」と言って引き揚げた。
B.C.599秋、魯の公孫帰父に攻められて繹を攻め取られた。
B.C.592、6月17日、定公は晋の断道で、晋景公・魯宣公・ 衛穆公・曹宣公と会合し、二心を抱く諸侯を討伐する相談をした。
B.C.591邾人が鄶の君を弑した。
B.C.586、12月24日、鄭が晋に服従したので、定公は晋景公・魯成公・斉頃公・宋共公・ 衛定公・鄭悼公・曹宣公・杞桓公と晋の虫牢で会盟した。
B.C.584秋、定公は晋景公・曹宣公・斉頃公・魯成公・莒の君・杞桓公・衛定公と会合して、楚に攻められた鄭を救う相談をした。しかし鄭は単独で楚軍を破った。
B.C.583冬、定公は、晋と斉と魯と会合して郯を討った。
B.C.578、5月、定公は晋・魯・斉・宋・衛・曹・滕と会合して秦を討ち、秦軍を麻隧で大破した。
B.C.576、3月、定公は晋・魯・衛・鄭・曹・宋・斉と戚で会合し、曹成公の罪を正した。
B.C.574、6月、定公は晋・斉・魯・宋・衛・曹・尹・と会盟して戚の盟いを温めた(柯陵の会盟)。
12月、定公は没した。
定公(劉)(テイコウ)
劉夏
丁公(斉)(テイコウ)【王】
斉公。名は伋。呂尚の子。
丁公(宋)(テイコウ)【王】
宋公(4代目)。名は申。宋公の子。
鄭侯(テイコウ)【王】
燕公。哀侯の子。〜B.C.729。
B.C.765即位する。
帝嚳(テイコク)【神】
五帝のひとり。名は俊。天子としての称号は高辛。蟜極の子。
帝顓頊を輔佐して、辛に封じられる。
帝顓頊から禅譲で帝位を継いで、高辛氏と号した。帝顓頊の水徳を受けて、木徳を以て王となったとされる。
広く恩を施し、民の苦難を知り、仁慈で威厳があり、身を修めたため天下の者がみな服従する。
共工氏が乱を起こしたとき、重黎に彼を誅するよう命じたが、成功しなかったため、重黎を誅殺する。 そしてその後を弟の呉回に継がせる。
帝嚳は日月星の運行を正確に秩序を立てて暦を作り、農業の便をはかった。
帝嚳は2人の神に命じて、曲を作り、人間が演奏できるように太鼓、鐘、笛を作らせたという。
有娀氏の娘簡狄を娶って、を生む。
鄭国(テイコク)【在野】
孔子の弟子。字は子徒。
鄭国(韓)(テイコク)【文官】
韓の臣。水工。
鄭国は韓王の命で秦に入り、秦王に勧めて、灌漑用の溝渠を作らせた。
鄭国は涇水を引いて300里余の溝渠を開き、4万余頃を灌漑した。これは秦の余力をそごうとする韓の謀略であったが、 結果的に秦に利することとなり、その溝渠は鄭国渠と呼ばれるようになった。
鄭子(テイシ)
定姒(テイジ)【女官】
成公の夫人。襄公の母。〜B.C.571。
B.C.576定姒は公子午(襄公)を生んだ。
B.C.571、5月19日、定姒は没した。
7月18日、定姒は葬られた。
鄭朱(テイシュ)【文官】
趙の臣。
B.C.260趙は長平で秦と戦い、初戦で敗退した。そこで孝成王の命で、 鄭朱は平陽君とともに秦に入り、 講和を求めた。虞卿は「講和は成立しないでしょう。鄭朱は貴人ですから、秦は必ずこれを鄭重に扱い、天下にこれを示すでしょう。 そうすると、楚や魏は趙が秦と結ぶのを喜ばずに、王を助けないでしょう。諸侯が王を助けないことを秦が知れば、講和は成立いたしません」と言った。
はたして講和は成立せず、趙は秦に大敗した。
鄭袖(テイシュウ)【女官】
懐王の寵姫。
B.C.329あるとき張儀は懐王に「私は用いられないので、北の晋君にお目にかかろうと思います」と言った。
「よかろう」
「大王には、晋から何か手に入れたい物はありませんか」
「黄金も宝石も犀の角も象牙も、楚で産するから欲しい物はない」
「鄭や周の女性が街角に立つと、それと知らない者は天女と見誤るそうです」
「わたしはそれほどまでに美しい中国の女性を見たことがない。どうして女色を好まないはずがあろう」
そこで懐王は張儀に珠玉を与えて資金とした。
懐王の后の南后と鄭袖はこれを聞いて恐れ、張儀に黄金一千斤を与えて、美女を献上しないよう賄賂した。
張儀は懐王との別れの宴で酔い、南后と鄭袖を呼ぶよう請うた。張儀は彼女たちを見て「私は死罪にあたります。わたしはこれほど美しい方を見たことがありません。 それなのに晋から美女を得てきましょうと言い、大王を欺きました」と言った。
懐王は「もうよい。私は天下にこの2人に及ぶ者はないと思っていたのだから」と言った。こうして張儀はまんまと莫大な財宝をせしめた。
またあるとき魏が懐王に美人を贈り、懐王はこれを寵愛した。鄭袖はそこでいつわってこの美人をたいそう可愛がり、懐王も鄭袖のその対応を感心するほどであった。 そこで鄭袖はその美人に「大王はそなたの美貌を愛されているが、その鼻を嫌っていらっしゃる。今度、お目にかかるときは、必ず鼻を隠しなさい」と言い、 美人はそのとおりにした。
懐王は鄭袖にその理由を聞くと「大王の臭いを嗅ぐのを嫌っているようでございます」と答えた。懐王は大いに怒り、美人を鼻切りの刑に処した。
B.C.311張儀が楚に赴くと懐王に捕えられた。王の近侍靳尚は、張儀のために鄭袖に 「秦は張儀のために上庸の六県を楚に与えるばかりか、美女を娶らせようとしています。王は土地を重んじておられますから、必ず秦の女を尊ばれ、 あなたは退けられるでしょう。王に申し上げて張儀を放してやるのがよろしいでしょう」と言った。鄭袖は王にとりなして張儀を放免させた。
鄭周父(テイシュウホ)【武官】
斉の臣。
B.C.589夏、鞍の戦いで斉頃公は晋の韓厥に捕えられそうになった。 斉頃公の身代りとなった逢丑父は、斉頃公を下車させて華泉の水を汲んでくるよう命じた。そのとき鄭周父は副車の御者となり、 宛茷が右役をつとめて斉頃公を乗せて逃げ去たっため、斉頃公は捕えられずに済んだ。
定叔(テイシュク)【文官】
鄭の臣。公孫滑の子。
鄭詹尹(テイセンイン)【文官】
楚の太卜。
『楚辞』卜居に見え、屈原を占ったという。
帝顓頊(テイセンギョク)【神】
五帝のひとり。名は高陽。昌意の子。
黄帝から禅譲で帝位を継ぐ。
帝顓頊は天の中心を支配し、孫のに天を永久に支えているように命令し、 もうひとりの孫のに地を永久に押し付けているように命じた。 これは宇宙が天と地の2つの要素に分かれていなければ、宇宙は再び混沌に戻ってしまうと考えられていたためである。
帝顓頊は農業を行い、天にのっとって四季の事を行い、万民を教化した。幽陵(河北)から交阯までその徳に服従したという。
方位神としては北方の神とされる。また楚の先祖とされる。
帝顓頊は水徳を以て天下に君臨し、北方水位の星である危宿・室宿・壁宿の地上の縄張りである衛の帝丘に都した。
帝太后(テイタイコウ)【女官】
荘襄王の婦人。秦王の母。〜B.C.227。
帝太后は邯鄲の女で呂不韋と同棲していたが、呂不韋の子をみごもった。たまたま子楚がそ帝太后を見初め、彼女を申し受けたいと請うた。 呂不韋は心中怒ったが、大利を得るためだと思い直し、ついに彼女を子楚に献じた。
彼女は妊娠をひたかくし、12月で子を産んだ。これが政であり、帝太后は子楚の夫人となった。
B.C.258秦は王齮に命じて邯鄲を包囲した。帝太后と子の政は隠れ住んで生き延びることができた。
B.C.246荘襄王が没し、政が立ったが秦王政は年少であり、帝太后はひそかに呂不韋と通じた。
淫行の発覚を恐れた呂不韋は、大きな陰茎を持つ嫪アイを探し出し、自分の舎人とした。 そして嫪アイの陰茎に桐の車輪をつけて歩かせ、太后にこの噂を聞かせて淫心をそそろうとした。 はたして太后は嫪アイを近づけようとしたので、 宮刑(腐刑)に処したと偽り、宦官として太后に差し出した。太后は嫪アイを寵愛して二人の子を産んだ。
B.C.238「嫪アイは宦官ではなく、常に太后と私通淫行し、子供二人を生んで、これを隠し、太后とはかって『王がもし薨ずれば、この子を世継にしよう』と言っている」 と密告する者があった。 そこで秦王政は役人に取り調べさせたところすべて事実であった。
9月、計画は未然に発覚し、秦王政は嫪アイとその一族を誅殺し、二人の子も殺して、帝太后を雍に移した。
10月、秦王政は斉人茅焦の進言で、雍から迎えられて咸陽に入り、南宮に入った。
B.C.227没して帝太后と諡され、荘襄王と共に芷陽に合葬される。
鄭朝(テイチョウ)【文官】
東周の臣。姓は鄭、名は朝。
趙が東周の祭地を奪い取った。東周の君が鄭朝に相談すると、鄭朝は「臣が30金で取り戻しましょう」と言った。東周の君がそれを与えると、 鄭朝はその金を趙の太卜に献じて交渉した。
あるとき趙王が病気になると、太卜にその原因を占わせた。太卜は「周の祭地がたたりをしています」と言った。そこで趙は東周に祭地を返還した。
程鄭(テイテイ)【将軍】
晋の臣。賛僕、下軍の佐。程季の子。〜B.C.548。
B.C.573晋悼公は即位すると、程鄭が端正で邪淫ならず、諌めを好んで隠し立てをしないことを知って、賛僕に任じた。
B.C.550、4月、欒盈がひそかに曲沃に入って叛乱を起こした。 程鄭は晋平公の寵愛を受けていたので欒盈を助けなかった。結局、欒盈の叛乱は失敗した。
B.C.549程鄭は下軍の佐に任じられた。鄭の行人子羽が晋に来たとき、程鄭は「みずから位をさげる道はどうすればよいでしょう」と尋ねた。 子羽は答えず、帰国してから鬷蔑にこれを話した。鬷蔑は「彼はやがて死ぬであろう。でなければ逃げ失せるであろう。 位をさげるには人にへりくだるのみでよい。それに高い位に登ってさがる道を求めようとする者は知者である。きっと逃亡のきざしであろう。さもなければ、 きっと気ちがいなのだ」と言った。
B.C.548没した。
貞定王(テイテイオウ)【皇帝】
周王朝28代王。名は介。元王の子。〜B.C.441。
B.C.469即位する。
貞伯(テイハク)【王】
衛伯(7代目)。靖伯の子。〜B.C.866。
程伯休父(テイハクキュウホ)【将軍】
周王朝の臣。程の伯爵。字は休父。大司馬。
程家は周王朝の天地を司る官を代々任じられていた。程伯休父はその官職を失って、周の大司馬に任じられた。
鄭翩(テイヘン)【武官】
宋の臣。華貙の家来。
B.C.521宋元公華多僚の讒言を信じて華貙を追放しようとした。
5月15日、華貙が出発するとき華多僚が華費遂を車に乗せているのに出会った。 張匄は立腹のあまり臼任・鄭翩とともに華多僚を殺し、 華費遂をおどして謀叛を起こした。
11月7日、華氏は宋・晋・曹・斉・衛の連合軍と宋の赭丘で戦った。鄭翩はこうのとりの陣形を立てたいと進言した。
帝予(テイヨ)
太戊
適(テキ)【公子】
衛の公子。敬公の子。慎公の父。
溺(デキ)【公子】
魯の公子。
B.C.691、1月、公子溺は勝手に斉軍と会合して、衛を討った。
翟僂新(テキイシン)【武官】
宋の臣。
B.C.521華氏・向氏の乱が起こった。翟僂新は新里で宋元公を助けていたが、 華氏との戦いが終わると、宋元公から授かった甲冑をぬいで宋元公に返した。
翟璜(テキコウ)【文官】
魏の臣。
李克が朝廷から退出し、翟璜の家を通り過ぎると、翟璜は「聞けば、 わが君は先生を招いて宰相の人選をなされたとか。はたして誰がなるのでしょう」と問うた。
李克は「魏成子でしょう」と言うと、翟璜は憤然と色をなして言った。
「わたしはどうして魏成子に劣りましょう。西河太守(呉起)、西門豹楽羊や先生を推薦し、さらにわが君の子に師傅がなかったので、屈侯を推薦しました。 どうして魏成子に劣りましょう」
李克は「いったい、あなたがわたしを推薦してくださったのは、まさか徒党を組み、それによって大官を求めようとなさったわけではありますまい。
それはとにかく、あなたはどうして魏成子と比べることが出来ましょう。魏成子は俸禄千鐘の十分の九まで人に与えて、自分はその一つしか得ず、 東のほうに卜子夏(卜商)、田子方段干木を得ました。 この三人はいずれもあなたが師とする人たちです。
あなたが推薦された五人は、みなあなたが部下とした人たちです。どうして魏成子と比べることが出来ましょう」と言った。
翟璜は後ずさりして、再拝して「わたくしはつまらぬ人間です。間違ったことを申しました。どうか弟子にしてください」と言った。
狄黒(テキコク)【在野】
孔子の弟子。字は皙。
狄虒弥(テキシビ)【武官】
魯の臣。
B.C.563夏、諸侯は偪陽を討った。
狄虒弥は大車の車輪を立て、それによろいをかぶせて大楯の代用とし、それを左手に取り、右手には戟を抜き取って、一隊を作って攻め込んだ。 これを見た孟献子は「これは詩に歌われている『力のあること虎のごとき』という者だ」と言った。
5月8日、諸侯は偪陽を滅ぼした。
剔成(テキセイ)【王】
宋公(31代目)。辟公の子。
B.C.331弟の偃に襲撃され、破れて斉に出奔する。
糴茷(テキハイ)【文官】
晋の臣。
B.C.581春、糴茷は命ぜられて楚に使いし、前年の楚の公子に対する答礼をした。
転(テン)【王】
呉王。禽処の子。
展(テン)【公子】
魯の公子。孝公の子。
田嬰(デンエイ)【宰相】
田斉の公子。宰相。靖郭君。威王の末子。
威王の時代から、官職に任じられた。
B.C.341騶忌田忌とともに将軍として韓を救い、魏を討つ。 魏軍を馬陵で大いに破り、龐涓を殺し、太子を捕らえた。
その後、韓・魏・趙の王はいずれも田嬰を手づるとして宣王と博望で会同した。
B.C.336使者として韓と魏に行き、韓・魏は斉に服従した。
B.C.334宰相に任じられる。
斉宣王と魏恵王が王号を称した。楚威王がこれを聞いて田嬰に対して怒った。
B.C.333斉と楚は徐州で戦ったとき、田嬰は申縳を用いたが敗れた。そこで楚は斉に田嬰の追放を謀った。 田嬰は恐れて張丑をやって威王を説得させたため、威王は思いとどまった。
B.C.321斉が田嬰を薛に封じようとすると、楚懐王が大いに怒って斉を討とうとした。 そのため斉はこれをとりやめようとした。そこで公孫閈が田嬰のために懐王に説いてとりなしたので、 田嬰は無事、薛に封じられた。
田嬰には40余人の子があった。孟嘗君は身分の賤しい妾との子であった。
5月5日に生まれたので、田嬰はこれを嫌い、育ててはならぬと命じたが、母はひそかに育てた。
のち孟嘗君は成長して田嬰と会った。田嬰はその母に怒って言った。
「わしはこの子を捨てよと言ったのに、どうして育てたのか」
孟嘗君は頓首して「父上が5月生まれの子を育てようとされないのはなぜですか」と言った。
「5月生まれの子は身の丈が戸の高さになると、親を殺すというからだ」
「人は命を天から受けたものでしょうか。それとも戸から受けたものでしょうか」
田嬰は黙然として答えなかった。孟嘗君はさらに言った。
「命を天から受けたものなら、お案じなさるに及びません。命を戸から受けたのなら、戸を高くすればよろしいでしょう」
「おまえ、その話はもうやめよ」と田嬰は言い、会見を終えた。
またしばらくして孟嘗君は田嬰に問うた。
孟嘗君「子の子は何ですか」
田嬰「孫だ」
孟嘗君「孫の孫は何ですか」
田嬰「玄孫だ」
孟嘗君「玄孫の孫は何ですか」
田嬰「わからない」
孟嘗君「父上は政治にたずさわり、斉の宰相として功を積まれ、斉の領土は一向に広まらないのに、わが家は万金の富を積み、 しかも門下には一人の賢人もいません。いま父上はなお、蓄積を重ね、誰かわからない子孫に残そうとしておられます。わたくしは心ひそかに奇怪に思うのです」と言った。
田嬰はそこではじめて孟嘗君を礼遇し、家事を宰領させ、食客を接待させた。
没して靖郭君と諡される。
展瑕(テンカ)【文官】
魯の臣。
B.C.544晋の范鞅が来聘し、魯襄公は宴を開いてもてなした。 饗宴の終わりに射礼にふたり一組の射手を3組そろえるため、君の臣だけではそろわなかったため、展瑕は展玉父と一組になって駆り出された。
田和(デンカ)【王】
田斉公(初代)。斉の宰相。田白の子。〜B.C.385。
宣公の宰相となる。
B.C.408魯を討ち、郕を取る。
B.C.407衛を討ち、貫を取る。
B.C.388康公が酒色に耽って国政を聴かなかったため、田和はこれを海浜にうつし、食邑として一城を与え、先祖の祭を奉祀させた。
B.C.387魯に攻められ、平陸で破られる。
B.C.386田和は魏武侯と濁沢で会同し、諸侯となるため斡旋を求めた。 武侯は使者をつかわして諸侯とともに田和を諸侯の列に連ならせるよう周に請うた。
安王はこれを許した。
田和はついに立って斉侯となり、周室の諸侯に連なり、改元して元年とした。
これ以後の斉を区別して田斉と称す。
田開(デンカイ)【武官】
斉の臣、田斉の先祖。字は子彊。諡は武子。田無宇の子。
B.C.516斉が魯に攻め入った。田開は魯の冉豎に手を射られたため、田開は弓を落として冉豎をののしった。 冉豎は季平子に報告して「立派な人物がおりました。顔が白く、ひげも眉も真っ黒で、大きな口でした」と言うと、 季平子は「きっと子彊(田開)であろう。相手にならぬのがよかろう」と言った。そこで冉豎は「立派な人物であるからには、どうして手向かいいたしましょう」 と答えた。
田会(デンカイ)【武官】
斉の臣。
B.C.405宣公が没すると、廩に拠って背いた。
田開彊(デンカイキョウ)【武官】
斉の臣。
景公にその勇力をもって仕える。
晏嬰公孫接・田開彊・古冶子を退けようとして 「三人それぞれ自分のてがらを計った上で、二個の桃を食べよ」と言った。
田開彊は公孫接と古冶子と功を争い、古冶子に及ばないとして「わしの勇はあなたに勝らず、功はあなたに及ばない。桃を取って譲らないのは貪ることになる。 ここで死なないのは勇がないことになる」と言い、ふたりは桃を返して、首を切って死んだ。
展獲(テンカク)
柳下恵
田完(デンカン)【公子】
陳の公子。田斉の先祖。厲公の子。名は完、諡は敬仲。B.C.706〜
生まれたとき、たまたま周の太史が陳を通過して、陳(田)完を占って「ゆくゆくは陳に代わって諸侯となるでしょうが、それはこの陳の国においてではなく、 別の国においてでしょう」と言った。
B.C.700厲公が弑され、公子躍が代わって立ったため、陳完は位につくことが出来ず、陳の大夫となった。
B.C.670親しくしていた太子禦寇宣公に殺されたため、禍がふりかかるのを恐れて、 顓孫とともに斉に出奔する。
桓公は完を卿に登用しようとしたが「旅住まいの身ゆえ、そうした高位などとんでもないことに存じます」と辞退し、 工正(百工を司る官)に任じられる。
陳完は斉に行ってから、陳氏を改めて田氏と称した。
没して、敬仲と諡される。
田桓子(デンカンシ)
田無宇
展喜(テンキ)【文官】
魯の臣。名は喜、字は乙。柳下恵の弟。乙喜ともいう。
B.C.634斉が魯を攻めた。魯釐公は展喜を斉に使いさせて、魯を攻めないよう説得に行かせた。 釐公は柳下恵にそのやり方を問わせた。展喜はその方法をもって使いした。
孝公「魯人は恐れているか」
展喜「下々は恐れていますが、上位の人たちは恐れておりません」
孝公「民家は静かで、野原には何も見えない。どうして恐れていないというのか」
展喜「先王のご沙汰を頼みにしておりますので。 かつて周公(旦)太公(呂尚)は周室の手足となり、 二国の子孫は代々損ないあってはならないと誓いました。どうして恐れることがありましょう」
孝公はこれを聞いて軍を引き揚げた。
(『国語』では、臧文仲が外交によって戦争を止めようとして、 柳下恵に命じて賄賂を持たせて斉に贈らせようとし、柳下恵が展喜に命じて髪油を贈らせて斉軍を慰問させたことになっている。)
田忌(デンキ)【将軍】
斉の将軍。
B.C.356魏が趙の国都邯鄲を囲む。田忌は魏の襄陵を攻めた。
10月、魏が邯鄲を抜くと、田忌は魏を討ち、大いにこれを桂陵で破った。
B.C.347騶忌はいつわって、田忌の家臣が謀反のことを占ったとして、易者の取調べをした。田忌はこれを聞くと、 ついに徒党を率いて臨淄を攻め、騶忌を捕らえようとした。
しかし田忌は勝たずして出奔した。
B.C.346威王が没して宣王が立つと、田忌が騶忌におとしいれられたことがわかり、田忌は召し返されてふたたび将軍となった。
B.C.341魏が趙を討つ。趙は危急を斉に告げた。斉は田忌と田嬰を将軍とし、孫臏を軍師とし、 魏軍を馬陵で大いに破り、龐涓を殺し、太子を捕らえた。
孫臏が田忌に説いて「将軍には大事を決行なさるべき時です」と言った。田忌は「どうしたらよいか」と尋ねると、 孫臏は「将軍は軍の編成を解くことなくご帰還され、一方で老弱の兵士に要害である主を守らせましょう。主は1人で10人の敵に当たることができます。 こうして太山(泰山)を背にし、済水を左にし、天唐(高唐)を右にして軍の輜重が高宛まで到着したら、戦車と騎兵を用いて臨淄の雍門を攻めます。 そうすれば斉君の側近を粛正して成侯(騶忌)を追放することができましょう。もし決行されなければ、 将軍は斉に入ることができないでしょう」と進言した。
しかし田忌は聴き入れなかったため、斉に帰還することができなかった。
田忌は斉を出奔して楚に行った。楚の臣杜赫は騶忌のために、 田忌を楚に留まらせようとして楚宣王に説いて田忌を江南に封じるよう進言した。そのため田忌は江南の地に封じられた。
田釐子(デンキシ)
田乞
田乞(デンキツ)【宰相】
斉の宰相。田斉の先祖。田無宇の子。
景公に仕えて、大夫となった。
田乞は賦税を取り立てるときには小さな斗を用い、逆に民に施しをするときは大きな斗を用い、陰徳を民に施した。 こうしたことで田氏は斉の民心を得、一族はますます強大となり、民は田氏になついた。
B.C.497晋で荀寅范吉射が乱をおこし、斉に軍糧を請うた。田乞は乱を起こそうとたくらみ、 諸侯を手なずけようと思い、景公に「范・中行二氏は今までしばしば斉に恩徳を施しました。斉としては援けなくてはなりますまい」と進言した。
ついに斉は二氏に穀物を輸送した。
B.C.490景公が没すると、高昭子国恵子が荼を立てた (晏孺子)。田乞は公子陽生と親しかったため、これを喜ばなかった。
田乞は高・国二氏の一党をよそおい、一方で大夫たちを欺いて、二氏を亡き者にしようとした。
B.C.489、6月鮑牧とともに大夫たちを率い公宮に乗り込み、二氏と晏孺子の軍を破った。
10月、田乞はひそかに魯から陽生を迎え、家に隠れさせた。
田乞は大夫たちを家に招き、会飲の席上で、陽生を袋の中に隠して、その袋を皆の前で開き「これが斉君であります」と言った。大夫たちはみな平伏してこれを立てようとした。 田乞は欺いて「わたくしは鮑牧と相談して、陽生を立てることにしたのです」と言ったので、鮑牧は怒り「あなたは景公のご遺言を忘れたのか」と言った。
陽生は頓首して「よいと思えば立ててください。よくないと思えばおやめください」と言った。鮑牧は「いずれも景公の子です。どうしてよくないわけがありましょう」と言い、 ついに陽生は立った。(悼公)
田乞は人に命じて晏孺子を駘にうつし、野営の幕中で殺した。
田乞は悼公の宰相となり、斉の政治をほしいままにした。
諡は釐子。
田逆(デンギャク)【武官】
斉の臣。
人を殺して、監止にそれを見られ罰せられるところを田氏の権力により逃亡することが出来た。
そのため田常に監止をはやめに誅殺しなければ、田氏が討たれると勧める。
B.C.481田常が監止を討った際、先行して公宮に入り込む役を行う。一方で田常が監止の一味である大陸子方を殺そうとしたが、その命乞いをする。
田鳩(デンキュウ)【文官】
楚の臣。墨家。田求、田俅子ともいう。
斉の人。
田鳩は秦恵文君に謁見したいと秦に滞在したが、3年間会えなかった。
ある遊説家が田鳩を楚に推薦したので、田鳩は楚に行き、楚王は田鳩の意見に感心した。
そこで楚王は田鳩を将軍として秦に派遣したので、田鳩はやっと念願かなって恵文君に会うことができた。田鳩は友人に「秦に行く道は楚に行くことだったのか。 物事、近くにいるとかえって遠く、遠くにいるとかえって近いものなのだなあ」と言った。
田鳩は『田俅子』3編を著したという。
展玉父(テンギョクホ)【文官】
魯の臣。
B.C.544晋の范鞅が来聘し、魯襄公は宴を開いてもてなした。 饗宴の終わりに射礼にふたり一組の射手を3組そろえるため、君の臣だけではそろわなかったため、 展玉父は展瑕と一組になって駆り出された。
展禽(テンキン)
柳下恵
顛頡(テンケツ)【武官】
晋の臣。〜B.C.632。
B.C.632、3月、晋が曹を占拠すると、晋文公釐負羈の家に侵入してはならないと命令していたが、 顛頡と魏犨は命令を犯して釐負羈の家を焼いた。文公は魏犨を処刑しようとしたが、 文公は魏犨を許し、顛頡はみせしめとして処刑された。
田午(デンゴ)【文官】
斉の桓公。太公(田和)の子。
田甲(デンコウ)【武官】
斉の臣。
湣王のとき、叛乱を起す。
田光(デンコウ)【在野】
燕の処士。〜B.C.233。
荊軻をよく待遇した。
B.C.233燕の太子が秦から逃げ戻った。秦王に軽んじられたためであった。
丹は秦王政に復讐したいと思い、太傅鞠武の推挙で田光に会い、策を請うた。
田光は「太子はわたしの壮んなころのことを聞いて、精力の衰えた今のわたしをご存じないのです。わたしの親友に荊卿というものがおり、これこそお役に立ちましょう」と言った。
太子丹は荊軻と会う約束をかわし、退出する時「わたしの話したことも先生の言ったことも、国の大事だから、おもらしなさらぬように」と念を押した。田光は身をかがめて、 笑って承諾した。
田光は荊軻にこのことを話し「太子は最後に念を押された。これは太子がわたしを疑うものである。事をはかって人に疑わせるのは気節義侠とはいえない」と言い、 みずから首をはねて死んだ。
荊軻は太子に謁見し、田光がすでに死んだことを伝えた。太子丹は涙を流して「わたしが他言せぬよう申したのは、大事のはかりごとを成し遂げたいと思ったからです。 田先生が死なれたのは、わたしの本意ではない」と言った。
田子行(デンシコウ)
田逆
田子荘(デンシソウ)【在野】
斉人。名は何、字は子荘。
光子乗から易を伝授される。
これを東武の人王子中に伝授する。
田子方(デンシホウ)【在野】
魏の臣。
魏成子の推挙で文侯に仕え、文侯の師となるが仕官せずに助言を送った。
B.C.408太子撃と朝歌で出会った。撃は車を避けて下りて謁見したが、田子方は答礼しなかった。
撃は「富貴な者がひとに驕り高ぶるのでしょうか、それとも貧賤な者がひとに驕り高ぶるのでしょうか」と言うと、
「貧賤な者だけがひとに驕り高ぶることができます。諸侯でひとに驕れば国を失い、大夫でひとに驕れば家を失います。
貧賤な者は、おこないが主君の意に合わず、ことばが主君に用いなければ去って楚や越に行くのさえ、草履を脱ぎ捨てるように容易なのです」と答えた。
田需(魏)(デンジュ)【宰相】
魏の宰相。〜B.C.310。
田需はぎ襄王に仕えた。
田需(斉)(デンジュ)【在野】
戦国時代の説客。
斉の人。
管燕が斉王の咎めを受けたので斉を去ろうとし、左右の者に同行する者がないか尋ねた。しかし誰も答えるものがいなかった。 管燕は涙を流して「士とは得るは易く、使うは難いものである」と歎いたので、田需は答えて「重んずべき士を軽んじて、 軽んずべき財を重んじたためである」と言った。
田須無(デンシュム)【文官】
斉の臣。田斉の先祖。字は須無。田湣の子。陳須無、陳文子、田文子ともいう
B.C.551秋、亡命してきた欒盈を斉荘公は受け入れた。 田須無は晏嬰とともにこれを諌めたが、聴き入れられなかった。晏嬰は陳須無に「人君は忠信を守り、人臣は篤敬を守る。 忠信と篤敬は上下共々守るべきものであり、天の道というものです。君みずからお捨てになっては、長いことはないでしょう」と言った。
B.C.550秋、斉荘公が欒盈の乱につけこんで衛を討ってさらに晋を討とうとしたため、崔杼がこれを諌めたが聴き入れられなかった。 田須無は崔杼に会って「君をどうなさる考えか」と尋ねると、崔杼は「わたしは進言しましたが、聴き入れられませんでした。晋を盟主と仰いでおりながら、 晋の禍につけこんで討とうとしておられる。われわれが晋に討たれるという危急にせまられたら、君に遠慮などしましょうか(殺します)。まあじっとしておられよ」 と答えた。田須無は立ち去って、従者に「崔氏はやがて死ぬであろう。君を非難しながら、自分はそれ以上のことをしようとしている。 きっと満足な死に方はできないであろう」と言った。
B.C.549斉荘公は晋を恐れて楚と結ぼうとした。楚の蔿啓彊がやって来たとき、 斉荘公は社祭を行って武器を集め、その軍備を誇った。田須無は「斉はやがて敵の侵略を受けるであろう。武器を招いてみずからを害する」と言った。
B.C.548崔杼が東郭偃の姉であった棠公の未亡人を娶ろうとした。田須無はこれを諌めたが聴き入れなかった。
崔杼が斉荘公を弑すと、陳須無は地位を棄てて斉を去った。
B.C.546宋の向戌が、晋と楚を和睦させて諸侯に戦をやめさせようとして諸侯をめぐり、斉にもやって来た。 斉人は難色を示したが、田須無は「晋と楚が承諾したのに、わが斉がどうして反対できよう。それに人びとが戦をやめようと言っているのに承諾しなかったら、 民が離反しましょう」と言ったので、斉人は承諾した。
6月2日、田須無は慶封とともに宋に到着した。
7月5日、田須無は諸侯と宋の西門の外で盟意を結んだ。
B.C.545夏、斉景公が晋に朝見しようとすると慶封がこれを諌めた。田須無は「盟いには参加しなかったが、 どうして晋に背いてよかろうか。屈服させられた重丘の盟い(B.C.548)を忘れてはなりません」と進言した。
10月、慶封が萊に狩に出かけたとき、子の田無宇が同行していた。
10月18日、田須無は使いを出して田無宇を呼び戻し、慶封には「息子の母の病気が重いので帰していただきたい」とお願いした。
11月8日、斉の先祖の廟で秋の祭りが行われた。慶氏の兵はよろいをぬぎ、馬をしばりつけてから酒を飲み、劇の見物に魚里に出かけた。 その留守に乗じて田須無・欒子雅高子尾鮑国らの兵が慶氏の兵がぬぎすてたよろいを着けて盧蒲癸に合図し、 盧蒲癸と王何慶舎を殺した。これを見た斉景公は恐れおののいたので、 田須無は斉景公をお連れして御殿に帰った。
田章(デンショウ)【公子】
斉の公子。
B.C.329陘山の戦役の時、趙は秦と結んで斉を討とうとした。
斉は田章に命じて、陽武の地を趙に割いて趙と同盟し、公子を人質にすることとした。
田常(デンジョウ)【宰相】
斉の宰相。田斉の先祖。田乞の子。
簡公の寵臣監止と仲が悪く嫌っていたが、監止は権勢があったので、 これを退けることができなかった。
そこで田常は田乞の政にならって大きい枡、小さい枡を使って民心を得た。
斉の人はこのことを歌った。
 麻を漚そか 芑(チサ)採もか
 それとも田子に たよろうか
B.C.481田豹が、監止が田氏を滅ぼそうとしていることを田常に告げた。
夏5月壬申の日、監止が公宮に宿泊すると、田常は兄弟4人で公宮に赴き、簡公と監止をひきはなした。簡公が戈を手にとり怒ったので、その場は何もおこらなかった。
田常はこれを恐れて出奔しようとしたが、田子行が「ためらっているうちに、こちらに禍が降りかかりますぞ」と言った。
監止が徒党を集めて田常を攻めたので、これを撃退し監止を殺す。
また5月庚辰の日、簡公を徐州で捕らえ、甲午の日に弑す。
簡公の弟驁を立て(平公)、その宰相となり政治を専行する。
田常は諸侯にこのことを責められて討たれることを恐れ、魯・衛に奪った土地をすべて返還し、晋・韓・魏・趙と盟約し、呉・越と使者を通じ、論功行賞して人民とも親しんだ。 そのため斉はふたたび安定した。
田常は平公に「徳施は人の望むところですから、我が君はそれをおこなわれますように。刑罰は人の厭うところですから、わたくしにそれをおこなわせてください」と言った。 これを5年間実行して、斉国の政治はすべて田常に帰する。
また鮑氏・晏氏、監止の残党や公族の強大なものをみな殺し、安平から以東、琅琊に至る間の土地を割り取って、これを自分の封邑とした。 田氏の封邑は平公の食邑よりも大きかった。
田常はまた、斉の国中の身長七尺の女を選んで後宮に入れた。
田常が死んだ時、男の子が70余人いた。
諡は成子。
田襄子(デンジョウシ)
田盤
田襄子(デンジョウシ)【在野】
思想家。4代目鉅子(指導者)。
B.C.381楚の陽城君は呉起殺害に加担したため粛王に処罰されることになった。
3代目鉅子孟勝はかねて陽城君と親交を結び、彼の采邑防禦を委託されていたので、墨家集団を率いて楚の正規軍と戦ったが、 守りきれず敗退した。
孟勝は「人の国を受け持って守ることができなかった。死をもってつぐなわねばならぬ」と言った。
弟子の徐弱は「死んで陽城君に利があるなら、死んでもいいでしょう。利なくして墨者が世に絶えるのは、よろしくありません」と言った。
孟勝は「そうではない。もしここで死を逃れるならば、たとえ墨者が生き残ったとしても、墨家の信用は失墜して、墨家は活動できなくなるのであろう。 鉅子を宋の田襄子に継がせるので、墨者の活動は維持されるであろう」と答えた。
そこで田襄子に鉅子の譲位を伝える使者として、二人の墨者が立ち、残った墨者180人は孟勝とともに全員自決した。
二人の使者は田襄子に告げ終わると、田襄子の制止を振り切って楚に戻り、皆の後を追って自決した。
田穰苴(デンジョウショ)
司馬穰苴
天神(テンジン)【神】
天神は牛のようで8つの足、2つの頭と馬の尾を持ち、大づちのような音を出す。天神が現れると戦争が起るという。
田臣思(デンシンシ)【武官】
斉の臣。陳臣思ともいう。
B.C.380秦と魏が韓を攻め、韓は援けを斉に求めた。桓公は大臣にこれをはかった。田臣思は「秦・魏が韓を攻めれば、 楚・趙はかならずこれを援けるでしょう。これは天が燕を斉に与えるものです」と進言した。
桓公は「よし」と言って、いつわって韓を援けると告げた。
韓はそれを信じて秦・魏と戦い、楚・趙は韓を援けた。そこで桓公は兵を起して燕を襲い、桑丘を取った。
東周が斉に九鼎を差し出すと提示してきたので、斉宣王は大いに喜んで5万の兵を出し、田臣思を将として東周を救ったため、 東周を攻めようとした秦軍は引き揚げた。
田莘之(デンシンシ)【在野】
戦国時代の説客。
田莘之は陳軫のために秦恵文君に説いて、 張儀の讒言を聴き入れないように伝えた。
田成子(デンセイシ)
田常
田荘子(デンソウシ)
田白
展荘叔(デンソウシュク)【文官】
魯の臣。
B.C.545冬、斉の慶封が魯に亡命してきて車を献上したが、それはきれいでつやがあって顔がうつるほどであった。 展荘叔は「車がこんなにもつやがあるからには、きっと民は疲れているだろう。家が滅びるのももっともなことだ」と言った。
B.C.544晋の范鞅が来聘し、魯襄公は宴を開いてもてなした。 展荘叔は使者に贈る引出物を取り扱った。
田単(デンタン)【将軍】
田斉の将軍。安平君。
田斉の遠縁に当る。
湣王のとき、臨淄の市掾(市場の役人)であったが、人に知られていなかった。
B.C.284燕が楽毅を将軍として斉を討ち、これを破った。
田単は一族の者に命じて、車の車軸の頭を鉄で巻き固めて堅固にさせた。そのうち燕が城を攻めると、人々は先を争って逃げたが、みな車軸の端が折れて捕まり、 ただ田単の一族だけは脱出できた。そこで東のかた即墨に身を寄せた。
斉国は諸侯と燕に攻められ、即墨と莒を残すのみとなっていた。
燕の攻撃で即墨の大夫が敗死すると、城内ではみな田単が一族を安全に脱出させたことを知っていたので、田単を将軍に立てた。
B.C.279燕昭王が没して、子の恵王が立った。恵王は太子のころから楽毅を快く思っていなかったので、 田単は間諜を放って「楽毅は斉に居着いて、南面して王になる野心がある」と言わせた。恵王はこれを聞くと、 騎劫を代わりの将軍として楽毅を召還した。
楽毅は帰国すれば殺されると恐れ、趙に投降した。
田単はまた、城内に命じて食事ごとに庭で祖先を祭らせた。すると、たくさんの鳥が集まった。燕の士卒がこれを怪しむと、田単は「神が降って、わしに教えるのである」 と言いふらした。冗談で「わたしが師となろう」と言う兵卒がいたので、田単は強いて彼を師とし、軍令ごとに神師の名号を用いた。このことで、 内外に神がかり的な印象を与えようとしたのである。
また宣伝して「わしが恐れるのは捕虜の斉兵の鼻を斬ることである。そうなると士気が衰えてしまう」といつわって言った。燕軍はこれを聞くとそのとおり実行した。 即墨の人々はこれを見て、みな憤って固く城を守り、ひらすら捕虜となることを恐れた。
田単はまた宣伝して「わしは燕兵がわが城外の墓をあばくことを恐れる。そうすると思うだけでも心が寒くなる」と言った。そこで燕軍は墓をことごとく掘り起こした。 即墨の人々はこれを見て、みな涙をたれ、出撃して恨みを報いようと、怒りはおのずから十倍した。
田単は今こそ時期がきたとして、自ら士卒の仕事をし、自分の妻妾を隊伍に組み入れ、食事を出して士卒に振舞った。そして兵をみな伏せて、 老弱婦女を城壁に上げて降服の使者を出した。田単はまた金千鎰を集め、燕の将軍に贈り「即墨が降服した時、どうかわが一族の妻妾を捕らえたり、 財産を奪わないようにお願いします」と言わせた。そのため燕軍はますます油断した。
そこで田単は城内の牛を千余頭集め、赤い絹の衣をつけさせ、刀を角にしばりつけ、尾に油をつけて火をつけて、夜に放ち、壮士5000人がその後に従った。 尾を焼かれた牛は怒り猛って燕軍に突入した。田単の軍はその隙をついて攻撃し、燕軍は敗走し、ついに騎劫を殺した。
田単は燕軍を追撃し、途中の城邑はみな田単につき、斉の70余城はみな斉に還った。
襄王も斉の民も田単が王になるだろうと思ったが、田単は莒より襄王を迎え、臨淄に入り、国政を返還し、 自らはその宰相となった。
田単はそこで封じられて安平君と号した。
あるとき、田単は淄水のほとりを通りかかった時、老人が凍えているのも見た。田単は衣服を与えてやろうと思ったが、衣類が手元になかったため、 自分の着ていた皮の着物を脱いで与えてやった。
襄王はこのことを聞いて、田単が徳を施して国を奪おうとしていると恐れた。ある者が田単の功や徳をほめて、そのおこないを襄王自身のものとすることを説いたので、 田単は命を救われた。
田単は長狄を討とうとして、魯仲連に会いに出かけた。魯仲連は「将軍が狄をお攻めになっても、降すことはできますまい」 と言った。田単は挨拶もせずに憤然と立ち去った。しかし田単は狄を3ヶ月攻めたが降すことができなかった。
田単は再び魯仲連に見えた。魯仲連は「将軍が即墨におられたときは、決死の覚悟があり、士卒には生き延びる未練はありませんでした。たから強い燕を破ることができたのです。 ところが、いまや将軍には掖邑の領地があり、生きる楽しみがあって、死ぬ覚悟がありません。これが勝てない原因です」と言った。
田単はそこで気を奮い起こして、ついに狄を討ち破った。
B.C.264趙の兵を率いて燕を討ち、中陽を奪う。
B.C.263趙の宰相となる。
田穉(デンチ)【武官】
斉の臣。田斉の先祖。字は孟夷。田完の子。
田墊(デンテン)【公子】
田斉の公子。
孟子に士たるものの心がけをたずねる。
田白(デンハク)【宰相】
斉の宰相。田斉の先祖。田盤の子。〜B.C.412。
宣公の宰相となる。
B.C.413晋を討って黄城を破り、陽狐を囲む。
B.C.412魯を討ち、一城を取る。
田盤(デンハン)【宰相】
斉の宰相。田斉の先祖。田常の子。
宣公の宰相となる。
田盤は自分の兄弟・一族をことごとく斉の都邑の大夫とし、三晋と通じて、斉の国を領有しようとした。
諡は襄子。
田盼子(デンハンシ)【文官】
田斉の臣。
田盼子は国家に功労があり、人民が服従していた。
斉は濮上の戦いで魏に敗れた。田盼子は斉宣王に進言して「余った食糧を宋に送れば、 宋王はきっと悦ぶでしょう。そうすれば魏は宋を通って斉を攻めることはないでしょう。斉の国力が回復したら、食糧の返還を宋に請求します。 弁償しなかったら、その機に乗じて宋を攻めましょう」と言った。
田豹(デンヒョウ)【武官】
斉の臣。
監止の家臣となり寵愛される。監止に「わたしは田氏をことごとく追い払い、そちだけを立てようと思うが、どうか」と言われ 「私は田氏の縁が薄く、また田氏はあなたに服従しているので、追い払うにはおよびません」と答える。田豹はこのことを田氏に密告し、結果監止は殺される。
田湣(デンビン)【武官】
斉の臣。田斉の先祖。字は孟荘。田穉の子。
田不禋(デンフイン)【武官】
宋の臣。
田不禋は宋康王の邪臣とされる。
田武子(デンブシ)
田開
田不礼(デンフレイ)【宰相】
代の宰相。〜B.C.295。
B.C.296公子が代の安陽君となり、田不礼はその宰相となる。
B.C.295主父(武霊王)は群臣を参朝させ、章も来朝した。
主父と恵文王(何)は沙丘に遊んだ。章はその徒党を率いて、田不礼とともに乱を起こし、まず主父の命令といつわって恵文王を招き、 進み出た肥義を殺した。
かけつけた李兌と公子に防がれて田不礼は殺される。
田文(デンブン)【宰相】
魏の宰相。
魏に新たに宰相が置かれ、田文が任命された。
将軍の呉起はこの人事に不満で、田文に向かって言った。
「あなたと功労を論じたいが、よろしいですか」
「いいでしょう」
「三軍の将として敵を討つ点で、あなたとわたしではどちらが上でしょうか」
「わたしはあなたに及びません」
「百官を統率し、万民を親近し、国庫を充実させる点で、あなたとわたしではどちらが上でしょうか」
「わたしはあなたに及びません」
「西河の太守となって、秦・韓・趙を服従させる点で、あなたとわたしではどちらが上でしょうか」
「わたしはあなたに及びません」
「この三点であなたはいずれも私に及ばないのに、位はわたしの上にあるのはどうしてでしょう」
「国君が年若くて、国人が不安がり、大臣もまたなじまず、人民もまだ信じていない。こうしたときに宰相の地位をあなたに託すべきでしょうか、わたしに託すべきでしょうか」
呉起は黙然として答えず、やがて「あなたに委託すべきでしょう」と言った。
田文は「これこそ、わたしがあなたの上位におる所以です」と言った。
呉起は自分が田文に及ばないことを悟った。
田文(デンブン)
孟嘗君
田文子(デンブンシ)
田須無
田駢(デンベン)【在野】
稷下の学士。道家、法家。
斉の人。彭蒙の門人。
田駢は稷下で黄老道徳を学び、教授クラスになって稷下に邸宅を授かり、議論を戦わせた。
田駢は斉宣王に万物平等論を説いた。宣王が「私が支配しているのは斉国である。斉国の政治について聞かせてほしい」と言うと
田駢「臣の言葉に政治のことはありませんが、政治に取り入れることはできます。例えれば林木のようなものです。材木はありませんが、 木から材木が得られます。王はこの話を政治に取り入れてください。」と答えた。
田駢は慎到とともに、道家から法家に移ってゆく過渡期の人とされる。
『田子』25篇を著す。
田瞀(デンボウ)【在野】
孟嘗君の食客。
孟嘗君が田瞀に「先生は、私の欠点をどう補っていただけるか」と尋ねた。田瞀は「わが君の短所を覆い隠し、わが君の長所を口にとなえ、 千乗の君もわが君を無視できないようにさせたいものです」と答えた。
田無宇(デンムウ)【武官】
斉の臣。田斉の先祖。字は無宇。田須無の子。陳無宇、田桓子、陳桓子ともいわれる。
B.C.567、4月、斉軍は萊の都に侵入し、田無宇は萊の宗廟の大事な器物を斉襄公の廟に献納した。
田無宇は力が強く、斉荘公にすこぶる寵愛された。
B.C.549秋、晋が攻めてくることを聞き、斉荘公は陳無宇を使者として派遣し、援軍を請うた。
冬、楚・斉は鄭を討った。諸侯が鄭を助けようとしたので斉は軍を引き、楚の蔿啓彊は陳無宇を見送った。
B.C.545田須無が慶氏のみだれを見て田無宇に「近く騒ぎが起こりそうだ。われわれは何を手に入れることにしよう」と問うたので、 田無宇は「慶氏が大通りに積んである車100台の材木を手に入れましょう」と答えた。田須無は田無宇が財貨を望んでいないことを知って、 「それなら謹んで家を大事に守ってさえおればよい」と言った。
10月、慶封が萊で狩をしたとき、田無宇はこれに同行した。
10月18日、田須無は使いを出して田無宇を呼び戻し、慶封には「息子の母の病気が重いので帰していただきたい」とお願いした。 田無宇は帰る途中、舟を壊し、橋も壊して慶封が追ってこられないようにした。
11月8日、田須無・欒子雅高子尾鮑国らが慶氏を滅ぼした。
B.C.540、4月、晋が斉の公女少姜を迎えに来たため、田無宇はお供をして少姜を晋に送り届けた。 しかし晋は田無宇は卿ではなかったため、晋平公はその非礼を責めて田無宇を中都に閉じ込めた。
秋、田無宇は許されて斉に帰国した。
B.C.534、7月9日、高子尾が没した。すると欒子旗が高子尾の家を整理しようとして、 その家宰の梁嬰を殺し、高子尾の一味であった子成子工子車を追放し、高氏の家宰を自ら立てた。 高子彊の家来は「わが君はもう成人であるのに、 わが家を助けようとしているのは乗っ取ろうとしているのだ」と言って甲冑を着て欒子旗を攻めようとした。田無宇も高子尾と親しかったためこれに加わろうとした。 欒子旗はこの噂を聞いて田無宇の家に行きたため、田無宇はいつわって高子彊を攻めましょうと言った。しかし欒子旗は「どうしてそんなことをするのですか。 あれ(高子彊)はまだ子供です。彼には教えてやらないといけないし、わたしは彼を愛しています。あなたからも話してやって下さい」と言った。 田無宇は頭を地にすりつけて謝罪して高・欒両家を和解させた。
B.C.532夏、ある人が田無宇に告げて「子旗と子良が陳・鮑の二家を攻めようとしています」と言い、同様に鮑氏にも告げた。 そこで田無宇は家臣に甲冑を与えてから鮑氏の所へ行って鮑国に会うと、鮑国もまた家臣に甲冑を与えていた。そこで人を遣わして欒子旗と高子彊の様子を探らせると、 ふたりとも酒宴を開こうとしていた。田無宇は「うわさは真実でないようだが、今われわれが準備していると聞いたら、彼らは攻めてくるだろう。 先手を打って攻めよう」と言い、早速、欒・高の二氏を討った。 高子彊は斉景公を味方につけようとして公宮に入ろうとしたが許されなかったため、公宮を攻めた。 斉景公は欒・高氏と稷で戦い、欒・高氏の軍は敗れ、さらに荘で戦ったがそこでも二氏が敗れ、国の人々が追撃して鹿門で討ち破った。 かくて欒子旗と高子彊は魯に亡命した。
田氏と鮑氏は二氏の財産を分け取ろうとしたが、晏嬰が「それは必ずわが君に納めなさい。謙譲は道徳の基本です。まあしばらくは利を蓄えないことにしましょう。 そうすればかえって利を大きくすることができるでしょう」と言ったため、田無宇は二氏の財産を全部、斉景公に納め、それから願い出て莒に隠居した。
田無宇は国外に亡命している子山を呼び戻してもとの領邑の棘を返してやった。 また子商子周も呼び戻して夫于の邑を与えた。 さらに公子城、公子公、公孫捷を呼び戻してそれぞれの禄を増してやった。
斉景公は田無宇に莒の近隣の地を与えたが、田無宇は辞退した。そこで斉景公の母鬷声姫は、 田無宇のために高唐の地を与えるように請うた。かくて田氏は強大になった。
没して桓子と諡される。
展無駭(テンムガイ)【宰相】
魯の宰相。公孫夷伯の子。司空。〜B.C.715。
B.C.721、夏、展無駭は軍を率いて極の地に侵略した。すると郎にいた費庈父がこれに乗じて極に攻め入り、 これを滅ぼした。
B.C.715、12月、没す。
公子は展無駭のために諡と族名を賜わるよう隠公にお願いした。 隠公はこのことを衆仲に尋ねて、展無駭の王父の字をもって族名とし、 展氏と名乗らせた。
天門子(テンモンシ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
姓は王、名は綱。補精養生の要旨に明るかった。道を行うことにより、280歳にしてなお童子のような顔色であった。真珠を溶かした酒を服して仙化した。
展輿(テンヨ)【王】
莒公。犂比公の子。母は呉の公女。
犂比公には去疾と展輿のふたりの子があった。展輿は世子に立てられたが、またそれを廃された。 犂比公は残虐であり国人はこれを心配した。
B.C.542、11月、展輿は国人の助けを受けて攻め込み、犂比公を殺して君の位についた。去疾が斉に出奔した。展輿は即位すると公子たちの禄を取り上げたため、 公子たちは斉に出奔している去疾を呼び戻して君に立てようとした。
B.C.541秋、斉の公子が去疾を莒に送り込んだため、展輿は母の里の呉に出奔した。



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