- 転(テン)【王】
- 呉王。禽処の子。
- 展(テン)【公子】
- 魯の公子。孝公の子。
- 田嬰(デンエイ)【宰相】
- 田斉の公子。宰相。靖郭君。威王の末子。
威王の時代から、官職に任じられた。
B.C.341騶忌・田忌とともに将軍として韓を救い、魏を討つ。
魏軍を馬陵で大いに破り、龐涓を殺し、太子申を捕らえた。
その後、韓・魏・趙の王はいずれも田嬰を手づるとして宣王と博望で会同した。
B.C.336使者として韓と魏に行き、韓・魏は斉に服従した。
B.C.334宰相に任じられる。
斉宣王と魏恵王が王号を称した。楚威王がこれを聞いて田嬰に対して怒った。
B.C.333斉と楚は徐州で戦ったとき、田嬰は申縳を用いたが敗れた。そこで楚は斉に田嬰の追放を謀った。
田嬰は恐れて張丑をやって威王を説得させたため、威王は思いとどまった。
B.C.321斉が田嬰を薛に封じようとすると、楚懐王が大いに怒って斉を討とうとした。
そのため斉はこれをとりやめようとした。そこで公孫閈が田嬰のために懐王に説いてとりなしたので、
田嬰は無事、薛に封じられた。
田嬰には40余人の子があった。孟嘗君は身分の賤しい妾との子であった。
5月5日に生まれたので、田嬰はこれを嫌い、育ててはならぬと命じたが、母はひそかに育てた。
のち孟嘗君は成長して田嬰と会った。田嬰はその母に怒って言った。
「わしはこの子を捨てよと言ったのに、どうして育てたのか」
孟嘗君は頓首して「父上が5月生まれの子を育てようとされないのはなぜですか」と言った。
「5月生まれの子は身の丈が戸の高さになると、親を殺すというからだ」
「人は命を天から受けたものでしょうか。それとも戸から受けたものでしょうか」
田嬰は黙然として答えなかった。孟嘗君はさらに言った。
「命を天から受けたものなら、お案じなさるに及びません。命を戸から受けたのなら、戸を高くすればよろしいでしょう」
「おまえ、その話はもうやめよ」と田嬰は言い、会見を終えた。
またしばらくして孟嘗君は田嬰に問うた。
孟嘗君「子の子は何ですか」
田嬰「孫だ」
孟嘗君「孫の孫は何ですか」
田嬰「玄孫だ」
孟嘗君「玄孫の孫は何ですか」
田嬰「わからない」
孟嘗君「父上は政治にたずさわり、斉の宰相として功を積まれ、斉の領土は一向に広まらないのに、わが家は万金の富を積み、
しかも門下には一人の賢人もいません。いま父上はなお、蓄積を重ね、誰かわからない子孫に残そうとしておられます。わたくしは心ひそかに奇怪に思うのです」と言った。
田嬰はそこではじめて孟嘗君を礼遇し、家事を宰領させ、食客を接待させた。
没して靖郭君と諡される。
- 展瑕(テンカ)【文官】
- 魯の臣。
B.C.544晋の范鞅が来聘し、魯襄公は宴を開いてもてなした。
饗宴の終わりに射礼にふたり一組の射手を3組そろえるため、君の臣だけではそろわなかったため、展瑕は展玉父と一組になって駆り出された。
- 田和(デンカ)【王】
- 田斉公(初代)。斉の宰相。田白の子。〜B.C.385。
斉宣公の宰相となる。
B.C.408魯を討ち、郕を取る。
B.C.407衛を討ち、貫を取る。
B.C.388康公が酒色に耽って国政を聴かなかったため、田和はこれを海浜にうつし、食邑として一城を与え、先祖の祭を奉祀させた。
B.C.387魯に攻められ、平陸で破られる。
B.C.386田和は魏武侯と濁沢で会同し、諸侯となるため斡旋を求めた。
武侯は使者をつかわして諸侯とともに田和を諸侯の列に連ならせるよう周に請うた。
周安王はこれを許した。
田和はついに立って斉侯となり、周室の諸侯に連なり、改元して元年とした。
これ以後の斉を区別して田斉と称す。
- 田開(デンカイ)【武官】
- 斉の臣、田斉の先祖。字は子彊。諡は武子。田無宇の子。
B.C.516斉が魯に攻め入った。田開は魯の冉豎に手を射られたため、田開は弓を落として冉豎をののしった。
冉豎は季平子に報告して「立派な人物がおりました。顔が白く、ひげも眉も真っ黒で、大きな口でした」と言うと、
季平子は「きっと子彊(田開)であろう。相手にならぬのがよかろう」と言った。そこで冉豎は「立派な人物であるからには、どうして手向かいいたしましょう」
と答えた。
- 田会(デンカイ)【武官】
- 斉の臣。
B.C.405宣公が没すると、廩に拠って背いた。
- 田開彊(デンカイキョウ)【武官】
- 斉の臣。
景公にその勇力をもって仕える。
晏嬰は公孫接・田開彊・古冶子を退けようとして
「三人それぞれ自分のてがらを計った上で、二個の桃を食べよ」と言った。
田開彊は公孫接と古冶子と功を争い、古冶子に及ばないとして「わしの勇はあなたに勝らず、功はあなたに及ばない。桃を取って譲らないのは貪ることになる。
ここで死なないのは勇がないことになる」と言い、ふたりは桃を返して、首を切って死んだ。
- 展獲(テンカク)
- →柳下恵
- 田完(デンカン)【公子】
- 陳の公子。田斉の先祖。厲公の子。名は完、諡は敬仲。B.C.706〜
生まれたとき、たまたま周の太史が陳を通過して、陳(田)完を占って「ゆくゆくは陳に代わって諸侯となるでしょうが、それはこの陳の国においてではなく、
別の国においてでしょう」と言った。
B.C.700厲公が弑され、公子躍が代わって立ったため、陳完は位につくことが出来ず、陳の大夫となった。
B.C.670親しくしていた太子禦寇が宣公に殺されたため、禍がふりかかるのを恐れて、
顓孫とともに斉に出奔する。
斉桓公は完を卿に登用しようとしたが「旅住まいの身ゆえ、そうした高位などとんでもないことに存じます」と辞退し、
工正(百工を司る官)に任じられる。
陳完は斉に行ってから、陳氏を改めて田氏と称した。
没して、敬仲と諡される。
- 田桓子(デンカンシ)
- →田無宇
- 展喜(テンキ)【文官】
- 魯の臣。名は喜、字は乙。柳下恵の弟。乙喜ともいう。
B.C.634斉が魯を攻めた。魯釐公は展喜を斉に使いさせて、魯を攻めないよう説得に行かせた。
釐公は柳下恵にそのやり方を問わせた。展喜はその方法をもって使いした。
斉孝公「魯人は恐れているか」
展喜「下々は恐れていますが、上位の人たちは恐れておりません」
孝公「民家は静かで、野原には何も見えない。どうして恐れていないというのか」
展喜「先王のご沙汰を頼みにしておりますので。
かつて周公(旦)と太公(呂尚)は周室の手足となり、
二国の子孫は代々損ないあってはならないと誓いました。どうして恐れることがありましょう」
孝公はこれを聞いて軍を引き揚げた。
(『国語』では、臧文仲が外交によって戦争を止めようとして、
柳下恵に命じて賄賂を持たせて斉に贈らせようとし、柳下恵が展喜に命じて髪油を贈らせて斉軍を慰問させたことになっている。)
- 田忌(デンキ)【将軍】
- 斉の将軍。
B.C.356魏が趙の国都邯鄲を囲む。田忌は魏の襄陵を攻めた。
10月、魏が邯鄲を抜くと、田忌は魏を討ち、大いにこれを桂陵で破った。
B.C.347騶忌はいつわって、田忌の家臣が謀反のことを占ったとして、易者の取調べをした。田忌はこれを聞くと、
ついに徒党を率いて臨淄を攻め、騶忌を捕らえようとした。
しかし田忌は勝たずして出奔した。
B.C.346威王が没して宣王が立つと、田忌が騶忌におとしいれられたことがわかり、田忌は召し返されてふたたび将軍となった。
B.C.341魏が趙を討つ。趙は危急を斉に告げた。斉は田忌と田嬰を将軍とし、孫臏を軍師とし、
魏軍を馬陵で大いに破り、龐涓を殺し、太子申を捕らえた。
孫臏が田忌に説いて「将軍には大事を決行なさるべき時です」と言った。田忌は「どうしたらよいか」と尋ねると、
孫臏は「将軍は軍の編成を解くことなくご帰還され、一方で老弱の兵士に要害である主を守らせましょう。主は1人で10人の敵に当たることができます。
こうして太山(泰山)を背にし、済水を左にし、天唐(高唐)を右にして軍の輜重が高宛まで到着したら、戦車と騎兵を用いて臨淄の雍門を攻めます。
そうすれば斉君の側近を粛正して成侯(騶忌)を追放することができましょう。もし決行されなければ、
将軍は斉に入ることができないでしょう」と進言した。
しかし田忌は聴き入れなかったため、斉に帰還することができなかった。
田忌は斉を出奔して楚に行った。楚の臣杜赫は騶忌のために、
田忌を楚に留まらせようとして楚宣王に説いて田忌を江南に封じるよう進言した。そのため田忌は江南の地に封じられた。
- 田釐子(デンキシ)
- →田乞
- 田乞(デンキツ)【宰相】
- 斉の宰相。田斉の先祖。田無宇の子。
景公に仕えて、大夫となった。
田乞は賦税を取り立てるときには小さな斗を用い、逆に民に施しをするときは大きな斗を用い、陰徳を民に施した。
こうしたことで田氏は斉の民心を得、一族はますます強大となり、民は田氏になついた。
B.C.497晋で荀寅と范吉射が乱をおこし、斉に軍糧を請うた。田乞は乱を起こそうとたくらみ、
諸侯を手なずけようと思い、景公に「范・中行二氏は今までしばしば斉に恩徳を施しました。斉としては援けなくてはなりますまい」と進言した。
ついに斉は二氏に穀物を輸送した。
B.C.490景公が没すると、高昭子と国恵子が荼を立てた
(晏孺子)。田乞は公子陽生と親しかったため、これを喜ばなかった。
田乞は高・国二氏の一党をよそおい、一方で大夫たちを欺いて、二氏を亡き者にしようとした。
B.C.489、6月鮑牧とともに大夫たちを率い公宮に乗り込み、二氏と晏孺子の軍を破った。
10月、田乞はひそかに魯から陽生を迎え、家に隠れさせた。
田乞は大夫たちを家に招き、会飲の席上で、陽生を袋の中に隠して、その袋を皆の前で開き「これが斉君であります」と言った。大夫たちはみな平伏してこれを立てようとした。
田乞は欺いて「わたくしは鮑牧と相談して、陽生を立てることにしたのです」と言ったので、鮑牧は怒り「あなたは景公のご遺言を忘れたのか」と言った。
陽生は頓首して「よいと思えば立ててください。よくないと思えばおやめください」と言った。鮑牧は「いずれも景公の子です。どうしてよくないわけがありましょう」と言い、
ついに陽生は立った。(悼公)
田乞は人に命じて晏孺子を駘にうつし、野営の幕中で殺した。
田乞は悼公の宰相となり、斉の政治をほしいままにした。
諡は釐子。
- 田逆(デンギャク)【武官】
- 斉の臣。
人を殺して、監止にそれを見られ罰せられるところを田氏の権力により逃亡することが出来た。
そのため田常に監止をはやめに誅殺しなければ、田氏が討たれると勧める。
B.C.481田常が監止を討った際、先行して公宮に入り込む役を行う。一方で田常が監止の一味である大陸子方を殺そうとしたが、その命乞いをする。
- 田鳩(デンキュウ)【文官】
- 楚の臣。墨家。田求、田俅子ともいう。
斉の人。
田鳩は秦恵文君に謁見したいと秦に滞在したが、3年間会えなかった。
ある遊説家が田鳩を楚に推薦したので、田鳩は楚に行き、楚王は田鳩の意見に感心した。
そこで楚王は田鳩を将軍として秦に派遣したので、田鳩はやっと念願かなって恵文君に会うことができた。田鳩は友人に「秦に行く道は楚に行くことだったのか。
物事、近くにいるとかえって遠く、遠くにいるとかえって近いものなのだなあ」と言った。
田鳩は『田俅子』3編を著したという。
- 展玉父(テンギョクホ)【文官】
- 魯の臣。
B.C.544晋の范鞅が来聘し、魯襄公は宴を開いてもてなした。
饗宴の終わりに射礼にふたり一組の射手を3組そろえるため、君の臣だけではそろわなかったため、
展玉父は展瑕と一組になって駆り出された。
- 展禽(テンキン)
- →柳下恵
- 顛頡(テンケツ)【武官】
- 晋の臣。〜B.C.632。
B.C.632、3月、晋が曹を占拠すると、晋文公は釐負羈の家に侵入してはならないと命令していたが、
顛頡と魏犨は命令を犯して釐負羈の家を焼いた。文公は魏犨を処刑しようとしたが、
文公は魏犨を許し、顛頡はみせしめとして処刑された。
- 田午(デンゴ)【文官】
- 斉の桓公。太公(田和)の子。
- 田甲(デンコウ)【武官】
- 斉の臣。
斉湣王のとき、叛乱を起す。
- 田光(デンコウ)【在野】
- 燕の処士。〜B.C.233。
荊軻をよく待遇した。
B.C.233燕の太子丹が秦から逃げ戻った。秦王政に軽んじられたためであった。
丹は秦王政に復讐したいと思い、太傅鞠武の推挙で田光に会い、策を請うた。
田光は「太子はわたしの壮んなころのことを聞いて、精力の衰えた今のわたしをご存じないのです。わたしの親友に荊卿というものがおり、これこそお役に立ちましょう」と言った。
太子丹は荊軻と会う約束をかわし、退出する時「わたしの話したことも先生の言ったことも、国の大事だから、おもらしなさらぬように」と念を押した。田光は身をかがめて、
笑って承諾した。
田光は荊軻にこのことを話し「太子は最後に念を押された。これは太子がわたしを疑うものである。事をはかって人に疑わせるのは気節義侠とはいえない」と言い、
みずから首をはねて死んだ。
荊軻は太子に謁見し、田光がすでに死んだことを伝えた。太子丹は涙を流して「わたしが他言せぬよう申したのは、大事のはかりごとを成し遂げたいと思ったからです。
田先生が死なれたのは、わたしの本意ではない」と言った。
- 田子行(デンシコウ)
- →田逆
- 田子荘(デンシソウ)【在野】
- 斉人。名は何、字は子荘。
光子乗から易を伝授される。
これを東武の人王子中に伝授する。
- 田子方(デンシホウ)【在野】
- 魏の臣。
魏成子の推挙で文侯に仕え、文侯の師となるが仕官せずに助言を送った。
B.C.408太子撃と朝歌で出会った。撃は車を避けて下りて謁見したが、田子方は答礼しなかった。
撃は「富貴な者がひとに驕り高ぶるのでしょうか、それとも貧賤な者がひとに驕り高ぶるのでしょうか」と言うと、
「貧賤な者だけがひとに驕り高ぶることができます。諸侯でひとに驕れば国を失い、大夫でひとに驕れば家を失います。
貧賤な者は、おこないが主君の意に合わず、ことばが主君に用いなければ去って楚や越に行くのさえ、草履を脱ぎ捨てるように容易なのです」と答えた。
- 田需(魏)(デンジュ)【宰相】
- 魏の宰相。〜B.C.310。
田需はぎ襄王に仕えた。
- 田需(斉)(デンジュ)【在野】
- 戦国時代の説客。
斉の人。
管燕が斉王の咎めを受けたので斉を去ろうとし、左右の者に同行する者がないか尋ねた。しかし誰も答えるものがいなかった。
管燕は涙を流して「士とは得るは易く、使うは難いものである」と歎いたので、田需は答えて「重んずべき士を軽んじて、
軽んずべき財を重んじたためである」と言った。
- 田須無(デンシュム)【文官】
- 斉の臣。田斉の先祖。字は須無。田湣の子。陳須無、陳文子、田文子ともいう
B.C.551秋、亡命してきた欒盈を斉荘公は受け入れた。
田須無は晏嬰とともにこれを諌めたが、聴き入れられなかった。晏嬰は陳須無に「人君は忠信を守り、人臣は篤敬を守る。
忠信と篤敬は上下共々守るべきものであり、天の道というものです。君みずからお捨てになっては、長いことはないでしょう」と言った。
B.C.550秋、斉荘公が欒盈の乱につけこんで衛を討ってさらに晋を討とうとしたため、崔杼がこれを諌めたが聴き入れられなかった。
田須無は崔杼に会って「君をどうなさる考えか」と尋ねると、崔杼は「わたしは進言しましたが、聴き入れられませんでした。晋を盟主と仰いでおりながら、
晋の禍につけこんで討とうとしておられる。われわれが晋に討たれるという危急にせまられたら、君に遠慮などしましょうか(殺します)。まあじっとしておられよ」
と答えた。田須無は立ち去って、従者に「崔氏はやがて死ぬであろう。君を非難しながら、自分はそれ以上のことをしようとしている。
きっと満足な死に方はできないであろう」と言った。
B.C.549斉荘公は晋を恐れて楚と結ぼうとした。楚の蔿啓彊がやって来たとき、
斉荘公は社祭を行って武器を集め、その軍備を誇った。田須無は「斉はやがて敵の侵略を受けるであろう。武器を招いてみずからを害する」と言った。
B.C.548崔杼が東郭偃の姉であった棠公の未亡人を娶ろうとした。田須無はこれを諌めたが聴き入れなかった。
崔杼が斉荘公を弑すと、陳須無は地位を棄てて斉を去った。
B.C.546宋の向戌が、晋と楚を和睦させて諸侯に戦をやめさせようとして諸侯をめぐり、斉にもやって来た。
斉人は難色を示したが、田須無は「晋と楚が承諾したのに、わが斉がどうして反対できよう。それに人びとが戦をやめようと言っているのに承諾しなかったら、
民が離反しましょう」と言ったので、斉人は承諾した。
6月2日、田須無は慶封とともに宋に到着した。
7月5日、田須無は諸侯と宋の西門の外で盟意を結んだ。
B.C.545夏、斉景公が晋に朝見しようとすると慶封がこれを諌めた。田須無は「盟いには参加しなかったが、
どうして晋に背いてよかろうか。屈服させられた重丘の盟い(B.C.548)を忘れてはなりません」と進言した。
10月、慶封が萊に狩に出かけたとき、子の田無宇が同行していた。
10月18日、田須無は使いを出して田無宇を呼び戻し、慶封には「息子の母の病気が重いので帰していただきたい」とお願いした。
11月8日、斉の先祖の廟で秋の祭りが行われた。慶氏の兵はよろいをぬぎ、馬をしばりつけてから酒を飲み、劇の見物に魚里に出かけた。
その留守に乗じて田須無・欒子雅・高子尾・
鮑国らの兵が慶氏の兵がぬぎすてたよろいを着けて盧蒲癸に合図し、
盧蒲癸と王何は慶舎を殺した。これを見た斉景公は恐れおののいたので、
田須無は斉景公をお連れして御殿に帰った。
- 田章(デンショウ)【公子】
- 斉の公子。
B.C.329陘山の戦役の時、趙は秦と結んで斉を討とうとした。
斉は田章に命じて、陽武の地を趙に割いて趙と同盟し、公子順を人質にすることとした。
- 田常(デンジョウ)【宰相】
- 斉の宰相。田斉の先祖。田乞の子。
簡公の寵臣監止と仲が悪く嫌っていたが、監止は権勢があったので、
これを退けることができなかった。
そこで田常は田乞の政にならって大きい枡、小さい枡を使って民心を得た。
斉の人はこのことを歌った。
麻を漚そか 芑(チサ)採もか
それとも田子に たよろうか
B.C.481田豹が、監止が田氏を滅ぼそうとしていることを田常に告げた。
夏5月壬申の日、監止が公宮に宿泊すると、田常は兄弟4人で公宮に赴き、簡公と監止をひきはなした。簡公が戈を手にとり怒ったので、その場は何もおこらなかった。
田常はこれを恐れて出奔しようとしたが、田子行が「ためらっているうちに、こちらに禍が降りかかりますぞ」と言った。
監止が徒党を集めて田常を攻めたので、これを撃退し監止を殺す。
また5月庚辰の日、簡公を徐州で捕らえ、甲午の日に弑す。
簡公の弟驁を立て(平公)、その宰相となり政治を専行する。
田常は諸侯にこのことを責められて討たれることを恐れ、魯・衛に奪った土地をすべて返還し、晋・韓・魏・趙と盟約し、呉・越と使者を通じ、論功行賞して人民とも親しんだ。
そのため斉はふたたび安定した。
田常は平公に「徳施は人の望むところですから、我が君はそれをおこなわれますように。刑罰は人の厭うところですから、わたくしにそれをおこなわせてください」と言った。
これを5年間実行して、斉国の政治はすべて田常に帰する。
また鮑氏・晏氏、監止の残党や公族の強大なものをみな殺し、安平から以東、琅琊に至る間の土地を割り取って、これを自分の封邑とした。
田氏の封邑は平公の食邑よりも大きかった。
田常はまた、斉の国中の身長七尺の女を選んで後宮に入れた。
田常が死んだ時、男の子が70余人いた。
諡は成子。
- 田襄子(デンジョウシ)
- →田盤
- 田襄子(デンジョウシ)【在野】
- 思想家。4代目鉅子(指導者)。
B.C.381楚の陽城君は呉起殺害に加担したため粛王に処罰されることになった。
3代目鉅子孟勝はかねて陽城君と親交を結び、彼の采邑防禦を委託されていたので、墨家集団を率いて楚の正規軍と戦ったが、
守りきれず敗退した。
孟勝は「人の国を受け持って守ることができなかった。死をもってつぐなわねばならぬ」と言った。
弟子の徐弱は「死んで陽城君に利があるなら、死んでもいいでしょう。利なくして墨者が世に絶えるのは、よろしくありません」と言った。
孟勝は「そうではない。もしここで死を逃れるならば、たとえ墨者が生き残ったとしても、墨家の信用は失墜して、墨家は活動できなくなるのであろう。
鉅子を宋の田襄子に継がせるので、墨者の活動は維持されるであろう」と答えた。
そこで田襄子に鉅子の譲位を伝える使者として、二人の墨者が立ち、残った墨者180人は孟勝とともに全員自決した。
二人の使者は田襄子に告げ終わると、田襄子の制止を振り切って楚に戻り、皆の後を追って自決した。
- 田穰苴(デンジョウショ)
- →司馬穰苴
- 天神(テンジン)【神】
- 天神は牛のようで8つの足、2つの頭と馬の尾を持ち、大づちのような音を出す。天神が現れると戦争が起るという。
- 田臣思(デンシンシ)【武官】
- 斉の臣。陳臣思ともいう。
B.C.380秦と魏が韓を攻め、韓は援けを斉に求めた。桓公は大臣にこれをはかった。田臣思は「秦・魏が韓を攻めれば、
楚・趙はかならずこれを援けるでしょう。これは天が燕を斉に与えるものです」と進言した。
桓公は「よし」と言って、いつわって韓を援けると告げた。
韓はそれを信じて秦・魏と戦い、楚・趙は韓を援けた。そこで桓公は兵を起して燕を襲い、桑丘を取った。
東周が斉に九鼎を差し出すと提示してきたので、斉宣王は大いに喜んで5万の兵を出し、田臣思を将として東周を救ったため、
東周を攻めようとした秦軍は引き揚げた。
- 田莘之(デンシンシ)【在野】
- 戦国時代の説客。
田莘之は陳軫のために秦恵文君に説いて、
張儀の讒言を聴き入れないように伝えた。
- 田成子(デンセイシ)
- →田常
- 田荘子(デンソウシ)
- →田白
- 展荘叔(デンソウシュク)【文官】
- 魯の臣。
B.C.545冬、斉の慶封が魯に亡命してきて車を献上したが、それはきれいでつやがあって顔がうつるほどであった。
展荘叔は「車がこんなにもつやがあるからには、きっと民は疲れているだろう。家が滅びるのももっともなことだ」と言った。
B.C.544晋の范鞅が来聘し、魯襄公は宴を開いてもてなした。
展荘叔は使者に贈る引出物を取り扱った。
- 田単(デンタン)【将軍】
- 田斉の将軍。安平君。
田斉の遠縁に当る。
湣王のとき、臨淄の市掾(市場の役人)であったが、人に知られていなかった。
B.C.284燕が楽毅を将軍として斉を討ち、これを破った。
田単は一族の者に命じて、車の車軸の頭を鉄で巻き固めて堅固にさせた。そのうち燕が城を攻めると、人々は先を争って逃げたが、みな車軸の端が折れて捕まり、
ただ田単の一族だけは脱出できた。そこで東のかた即墨に身を寄せた。
斉国は諸侯と燕に攻められ、即墨と莒を残すのみとなっていた。
燕の攻撃で即墨の大夫が敗死すると、城内ではみな田単が一族を安全に脱出させたことを知っていたので、田単を将軍に立てた。
B.C.279燕昭王が没して、子の恵王が立った。恵王は太子のころから楽毅を快く思っていなかったので、
田単は間諜を放って「楽毅は斉に居着いて、南面して王になる野心がある」と言わせた。恵王はこれを聞くと、
騎劫を代わりの将軍として楽毅を召還した。
楽毅は帰国すれば殺されると恐れ、趙に投降した。
田単はまた、城内に命じて食事ごとに庭で祖先を祭らせた。すると、たくさんの鳥が集まった。燕の士卒がこれを怪しむと、田単は「神が降って、わしに教えるのである」
と言いふらした。冗談で「わたしが師となろう」と言う兵卒がいたので、田単は強いて彼を師とし、軍令ごとに神師の名号を用いた。このことで、
内外に神がかり的な印象を与えようとしたのである。
また宣伝して「わしが恐れるのは捕虜の斉兵の鼻を斬ることである。そうなると士気が衰えてしまう」といつわって言った。燕軍はこれを聞くとそのとおり実行した。
即墨の人々はこれを見て、みな憤って固く城を守り、ひらすら捕虜となることを恐れた。
田単はまた宣伝して「わしは燕兵がわが城外の墓をあばくことを恐れる。そうすると思うだけでも心が寒くなる」と言った。そこで燕軍は墓をことごとく掘り起こした。
即墨の人々はこれを見て、みな涙をたれ、出撃して恨みを報いようと、怒りはおのずから十倍した。
田単は今こそ時期がきたとして、自ら士卒の仕事をし、自分の妻妾を隊伍に組み入れ、食事を出して士卒に振舞った。そして兵をみな伏せて、
老弱婦女を城壁に上げて降服の使者を出した。田単はまた金千鎰を集め、燕の将軍に贈り「即墨が降服した時、どうかわが一族の妻妾を捕らえたり、
財産を奪わないようにお願いします」と言わせた。そのため燕軍はますます油断した。
そこで田単は城内の牛を千余頭集め、赤い絹の衣をつけさせ、刀を角にしばりつけ、尾に油をつけて火をつけて、夜に放ち、壮士5000人がその後に従った。
尾を焼かれた牛は怒り猛って燕軍に突入した。田単の軍はその隙をついて攻撃し、燕軍は敗走し、ついに騎劫を殺した。
田単は燕軍を追撃し、途中の城邑はみな田単につき、斉の70余城はみな斉に還った。
襄王も斉の民も田単が王になるだろうと思ったが、田単は莒より襄王を迎え、臨淄に入り、国政を返還し、
自らはその宰相となった。
田単はそこで封じられて安平君と号した。
あるとき、田単は淄水のほとりを通りかかった時、老人が凍えているのも見た。田単は衣服を与えてやろうと思ったが、衣類が手元になかったため、
自分の着ていた皮の着物を脱いで与えてやった。
襄王はこのことを聞いて、田単が徳を施して国を奪おうとしていると恐れた。ある者が田単の功や徳をほめて、そのおこないを襄王自身のものとすることを説いたので、
田単は命を救われた。
田単は長狄を討とうとして、魯仲連に会いに出かけた。魯仲連は「将軍が狄をお攻めになっても、降すことはできますまい」
と言った。田単は挨拶もせずに憤然と立ち去った。しかし田単は狄を3ヶ月攻めたが降すことができなかった。
田単は再び魯仲連に見えた。魯仲連は「将軍が即墨におられたときは、決死の覚悟があり、士卒には生き延びる未練はありませんでした。たから強い燕を破ることができたのです。
ところが、いまや将軍には掖邑の領地があり、生きる楽しみがあって、死ぬ覚悟がありません。これが勝てない原因です」と言った。
田単はそこで気を奮い起こして、ついに狄を討ち破った。
B.C.264趙の兵を率いて燕を討ち、中陽を奪う。
B.C.263趙の宰相となる。
- 田穉(デンチ)【武官】
- 斉の臣。田斉の先祖。字は孟夷。田完の子。
- 田墊(デンテン)【公子】
- 田斉の公子。
孟子に士たるものの心がけをたずねる。
- 田白(デンハク)【宰相】
- 斉の宰相。田斉の先祖。田盤の子。〜B.C.412。
斉宣公の宰相となる。
B.C.413晋を討って黄城を破り、陽狐を囲む。
B.C.412魯を討ち、一城を取る。
- 田盤(デンハン)【宰相】
- 斉の宰相。田斉の先祖。田常の子。
斉宣公の宰相となる。
田盤は自分の兄弟・一族をことごとく斉の都邑の大夫とし、三晋と通じて、斉の国を領有しようとした。
諡は襄子。
- 田盼子(デンハンシ)【文官】
- 田斉の臣。
田盼子は国家に功労があり、人民が服従していた。
斉は濮上の戦いで魏に敗れた。田盼子は斉宣王に進言して「余った食糧を宋に送れば、
宋王はきっと悦ぶでしょう。そうすれば魏は宋を通って斉を攻めることはないでしょう。斉の国力が回復したら、食糧の返還を宋に請求します。
弁償しなかったら、その機に乗じて宋を攻めましょう」と言った。
- 田豹(デンヒョウ)【武官】
- 斉の臣。
監止の家臣となり寵愛される。監止に「わたしは田氏をことごとく追い払い、そちだけを立てようと思うが、どうか」と言われ
「私は田氏の縁が薄く、また田氏はあなたに服従しているので、追い払うにはおよびません」と答える。田豹はこのことを田氏に密告し、結果監止は殺される。
- 田湣(デンビン)【武官】
- 斉の臣。田斉の先祖。字は孟荘。田穉の子。
- 田不禋(デンフイン)【武官】
- 宋の臣。
田不禋は宋康王の邪臣とされる。
- 田武子(デンブシ)
- →田開
- 田不礼(デンフレイ)【宰相】
- 代の宰相。〜B.C.295。
B.C.296公子章が代の安陽君となり、田不礼はその宰相となる。
B.C.295主父(武霊王)は群臣を参朝させ、章も来朝した。
主父と恵文王(何)は沙丘に遊んだ。章はその徒党を率いて、田不礼とともに乱を起こし、まず主父の命令といつわって恵文王を招き、
進み出た肥義を殺した。
かけつけた李兌と公子成に防がれて田不礼は殺される。
- 田文(デンブン)【宰相】
- 魏の宰相。
魏に新たに宰相が置かれ、田文が任命された。
将軍の呉起はこの人事に不満で、田文に向かって言った。
「あなたと功労を論じたいが、よろしいですか」
「いいでしょう」
「三軍の将として敵を討つ点で、あなたとわたしではどちらが上でしょうか」
「わたしはあなたに及びません」
「百官を統率し、万民を親近し、国庫を充実させる点で、あなたとわたしではどちらが上でしょうか」
「わたしはあなたに及びません」
「西河の太守となって、秦・韓・趙を服従させる点で、あなたとわたしではどちらが上でしょうか」
「わたしはあなたに及びません」
「この三点であなたはいずれも私に及ばないのに、位はわたしの上にあるのはどうしてでしょう」
「国君が年若くて、国人が不安がり、大臣もまたなじまず、人民もまだ信じていない。こうしたときに宰相の地位をあなたに託すべきでしょうか、わたしに託すべきでしょうか」
呉起は黙然として答えず、やがて「あなたに委託すべきでしょう」と言った。
田文は「これこそ、わたしがあなたの上位におる所以です」と言った。
呉起は自分が田文に及ばないことを悟った。
- 田文(デンブン)
- →孟嘗君
- 田文子(デンブンシ)
- →田須無
- 田駢(デンベン)【在野】
- 稷下の学士。道家、法家。
斉の人。彭蒙の門人。
田駢は稷下で黄老道徳を学び、教授クラスになって稷下に邸宅を授かり、議論を戦わせた。
田駢は斉宣王に万物平等論を説いた。宣王が「私が支配しているのは斉国である。斉国の政治について聞かせてほしい」と言うと
田駢「臣の言葉に政治のことはありませんが、政治に取り入れることはできます。例えれば林木のようなものです。材木はありませんが、
木から材木が得られます。王はこの話を政治に取り入れてください。」と答えた。
田駢は慎到とともに、道家から法家に移ってゆく過渡期の人とされる。
『田子』25篇を著す。
- 田瞀(デンボウ)【在野】
- 孟嘗君の食客。
孟嘗君が田瞀に「先生は、私の欠点をどう補っていただけるか」と尋ねた。田瞀は「わが君の短所を覆い隠し、わが君の長所を口にとなえ、
千乗の君もわが君を無視できないようにさせたいものです」と答えた。
- 田無宇(デンムウ)【武官】
- 斉の臣。田斉の先祖。字は無宇。田須無の子。陳無宇、田桓子、陳桓子ともいわれる。
B.C.567、4月、斉軍は萊の都に侵入し、田無宇は萊の宗廟の大事な器物を斉襄公の廟に献納した。
田無宇は力が強く、斉荘公にすこぶる寵愛された。
B.C.549秋、晋が攻めてくることを聞き、斉荘公は陳無宇を使者として派遣し、援軍を請うた。
冬、楚・斉は鄭を討った。諸侯が鄭を助けようとしたので斉は軍を引き、楚の蔿啓彊は陳無宇を見送った。
B.C.545田須無が慶氏のみだれを見て田無宇に「近く騒ぎが起こりそうだ。われわれは何を手に入れることにしよう」と問うたので、
田無宇は「慶氏が大通りに積んである車100台の材木を手に入れましょう」と答えた。田須無は田無宇が財貨を望んでいないことを知って、
「それなら謹んで家を大事に守ってさえおればよい」と言った。
10月、慶封が萊で狩をしたとき、田無宇はこれに同行した。
10月18日、田須無は使いを出して田無宇を呼び戻し、慶封には「息子の母の病気が重いので帰していただきたい」とお願いした。
田無宇は帰る途中、舟を壊し、橋も壊して慶封が追ってこられないようにした。
11月8日、田須無・欒子雅・高子尾・
鮑国らが慶氏を滅ぼした。
B.C.540、4月、晋が斉の公女少姜を迎えに来たため、田無宇はお供をして少姜を晋に送り届けた。
しかし晋は田無宇は卿ではなかったため、晋平公はその非礼を責めて田無宇を中都に閉じ込めた。
秋、田無宇は許されて斉に帰国した。
B.C.534、7月9日、高子尾が没した。すると欒子旗が高子尾の家を整理しようとして、
その家宰の梁嬰を殺し、高子尾の一味であった子成、
子工、子車を追放し、高氏の家宰を自ら立てた。
高子彊の家来は「わが君はもう成人であるのに、
わが家を助けようとしているのは乗っ取ろうとしているのだ」と言って甲冑を着て欒子旗を攻めようとした。田無宇も高子尾と親しかったためこれに加わろうとした。
欒子旗はこの噂を聞いて田無宇の家に行きたため、田無宇はいつわって高子彊を攻めましょうと言った。しかし欒子旗は「どうしてそんなことをするのですか。
あれ(高子彊)はまだ子供です。彼には教えてやらないといけないし、わたしは彼を愛しています。あなたからも話してやって下さい」と言った。
田無宇は頭を地にすりつけて謝罪して高・欒両家を和解させた。
B.C.532夏、ある人が田無宇に告げて「子旗と子良が陳・鮑の二家を攻めようとしています」と言い、同様に鮑氏にも告げた。
そこで田無宇は家臣に甲冑を与えてから鮑氏の所へ行って鮑国に会うと、鮑国もまた家臣に甲冑を与えていた。そこで人を遣わして欒子旗と高子彊の様子を探らせると、
ふたりとも酒宴を開こうとしていた。田無宇は「うわさは真実でないようだが、今われわれが準備していると聞いたら、彼らは攻めてくるだろう。
先手を打って攻めよう」と言い、早速、欒・高の二氏を討った。
高子彊は斉景公を味方につけようとして公宮に入ろうとしたが許されなかったため、公宮を攻めた。
斉景公は欒・高氏と稷で戦い、欒・高氏の軍は敗れ、さらに荘で戦ったがそこでも二氏が敗れ、国の人々が追撃して鹿門で討ち破った。
かくて欒子旗と高子彊は魯に亡命した。
田氏と鮑氏は二氏の財産を分け取ろうとしたが、晏嬰が「それは必ずわが君に納めなさい。謙譲は道徳の基本です。まあしばらくは利を蓄えないことにしましょう。
そうすればかえって利を大きくすることができるでしょう」と言ったため、田無宇は二氏の財産を全部、斉景公に納め、それから願い出て莒に隠居した。
田無宇は国外に亡命している子山を呼び戻してもとの領邑の棘を返してやった。
また子商、子周も呼び戻して夫于の邑を与えた。
さらに公子城、公子公、公孫捷を呼び戻してそれぞれの禄を増してやった。
斉景公は田無宇に莒の近隣の地を与えたが、田無宇は辞退した。そこで斉景公の母鬷声姫は、
田無宇のために高唐の地を与えるように請うた。かくて田氏は強大になった。
没して桓子と諡される。
- 展無駭(テンムガイ)【宰相】
- 魯の宰相。公孫夷伯の子。司空。〜B.C.715。
B.C.721、夏、展無駭は軍を率いて極の地に侵略した。すると郎にいた費庈父がこれに乗じて極に攻め入り、
これを滅ぼした。
B.C.715、12月、没す。
公子翬は展無駭のために諡と族名を賜わるよう隠公にお願いした。
隠公はこのことを衆仲に尋ねて、展無駭の王父の字をもって族名とし、
展氏と名乗らせた。
- 天門子(テンモンシ)【神】
- 仙人。神仙伝に見える。
姓は王、名は綱。補精養生の要旨に明るかった。道を行うことにより、280歳にしてなお童子のような顔色であった。真珠を溶かした酒を服して仙化した。
- 展輿(テンヨ)【王】
- 莒公。犂比公の子。母は呉の公女。
犂比公には去疾と展輿のふたりの子があった。展輿は世子に立てられたが、またそれを廃された。
犂比公は残虐であり国人はこれを心配した。
B.C.542、11月、展輿は国人の助けを受けて攻め込み、犂比公を殺して君の位についた。去疾が斉に出奔した。展輿は即位すると公子たちの禄を取り上げたため、
公子たちは斉に出奔している去疾を呼び戻して君に立てようとした。
B.C.541秋、斉の公子鉏が去疾を莒に送り込んだため、展輿は母の里の呉に出奔した。
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