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列伝 ラ


羅(ラ)【宦官】
衛の宦官。
B.C.479蒯聵が乱を起こすため、女装して孔悝の邸に忍び込もうとした。羅は車を御して彼らを連れて行った。
雷開(ライカイ)【文官】
商王朝の臣。
紂王におもねりへつらって、金玉や領土を賜った。
萊駒(ライク)【武官】
晋の臣。
B.C.627秦が晋に攻め入った。そのため晋襄公は萊駒を右とし、これを討った。
4月辛巳の日に殽で大いに破った。
戦いの翌日、萊駒は縛りつけられた秦の捕虜を斬るよう命ぜられたが、捕虜がわめいたので萊駒は恐れて戈を取り落としてしまった。 それを見た狼ジンは戈を拾い上げて捕虜を斬り、萊駒を捕まえて襄公の兵車の後に続いた。 このため萊駒は戎右を狼ジンに代わられた。
萊書(ライショ)【武官】
魯の臣。魯昭公の御者。
萊書が仲壬と公宮で遊んでいる時に、魯昭公は仲壬に玉環を賜った。
犖(ラク)【武官】
魯の大夫梁氏の馬飼い役人。
魯の公子は梁氏の娘を愛していたが、犖が梁氏の娘と戯れていたのを見て、犖を鞭打った。
B.C.622、10月己未の日、慶父にそそのかされ、斑を党氏の家で殺害する。
欒(ラン)(斉)【公子】
斉の公子。斉頃公の子。
欒(ラン)(宋)【公子】
宋の公子。宋元公の子。
B.C.522、6月16日、華氏と向氏は叛乱を起こし、 太子欒は公子・公子とともに華亥の人質となった。
10月13日、華・向の二氏は敗れて陳に逃げ、華亥は「君に背いて逃げ、そのうえ君の子を殺しては誰もわれわれを迎えてくれないであろう」と言って、 華牼に命じて公子たちを送り返した。
欒盈(ランエイ)【将軍】
晋、斉の臣。欒逞とも書く。欒懐子ともいう。公族大夫、下軍の佐。欒黶の子。母は叔キ。~B.C.550。
B.C.557、1月、晋平公が即位すると、欒盈は祁奚;韓襄范鞅とともに公族大夫に任じられた。
B.C.555晋は諸侯と共に斉を討った。
11月19日、欒盈は魏絳とともに下軍を率いてシを攻め落とした。
B.C.554、2月、荀偃が没したが、荀偃は眼を開き、口をつぐんでいたため、物を含ませることができなかった。 そこで欒盈は「あなたが亡くなって、あなたの後をついで斉を討ちましょう」と言うと荀偃はやっと眼をつぶり口をあけて含物を受けた。
欒黶が没すると、叔キが家老の州賓と通じて乱行に及び、その財産をほとんどなくしてしまう状態になり、 欒盈は心配した。そのため叔キは欒盈が州賓の罪を責め正すのではないかと恐れた。
B.C.552范匃に欒盈が謀叛を起こそうとしていると讒言した。欒盈は施しをすることを好んだので、 役人たちは欒盈に心を寄せていた。范匃はこれを気にしていたので叔キの讒言を信用して、欒盈に命じて著に城壁を築かせて、その出先から欒盈を追い出そうとした。 晋平公は祁午陽畢に命じて、欒盈を放逐させ、欒盈は楚に亡命した。
欒盈が周を通過したとき、周の西境の人が欒盈を襲って物を奪い取った。欒盈は周の役人に申し上げて「天子が私の祖父書(欒書)の働きをお忘れにならなければ、 わたしは赦されるでしょう。もし祖父の働きをお忘れになって父の罪をお考えならば、わたしは殺されるべき罪人です。尉氏に処刑していただきましょう」と言った。 周霊王は「晋をひどいと言って批難しておきながら、こちらで彼の物を奪い取るとは、晋のまねをするようなものだ。 その悪はもっとひどい」と言い、司徒に命じて盗人を捕えて奪った物を欒盈に返した。
B.C.551秋、欒盈は楚から斉に出奔した。斉荘公は晏嬰の諫言を聴き入れず、欒盈を受け入れた。
B.C.550晋が呉に公女を嫁がせようとしていた。斉荘公は析帰父を遣わして腰元を遅らせ、 箱馬車に欒盈とその兵士を乗せて曲沃に入らせた。欒盈は夜に曲沃の大夫胥午に会ってわけを話した。
胥午「いけません。天が捨てる者を誰が助けましょう。わたしは死ぬことをいとうものではありませんが、事が成功しないことを知っているから反対するのです」
欒盈「そうであっても、あなたを頼って死ぬなら後悔はいたしません」
胥午はようやく承諾し、欒盈をかくまい、曲沃の人々を集めて酒を飲ました。胥午が「いま欒氏の若様が来たらどうしましょう」と言うと、 人々は「主になる方が現れて、そのために死ぬなら死んでも死なないのと同じです」と言い、みな欒盈の身の上を悲しみ泣く者もあった。杯がひとめぐりしたところ、 胥午はまたどうするかと聞くと、みなが「主人が出てきたら、どうしてふた心を持ちましょう」と言った。これを聞いた欒盈は宴席に現れて一人一人に拝礼した。
4月、欒盈は曲沃の武装兵を率い、魏献子に助けられて、昼に都の絳に入った。欒盈は魏献子に特に愛されていたので、 彼を頼ったのである。趙氏、中行氏、智氏、程子は欒盈を助けず、ただ魏氏と七輿大夫だけが欒盈に味方した。欒盈は公宮の門に攻め入ったが、 范匃が力を振るって応戦したので欒盈は退却した。欒盈は范鞅に追撃されて曲沃に逃げ込み、晋人はこれを包囲した。 欒盈は曲沃で敗れて一族もろとも殺された。
懐子と諡される。
欒黶(ランエン)【将軍】
晋の将軍。下軍の将。欒書の子。公族大夫。
B.C.575春、鄭が背いたため、晋厲公はこれを討とうとした。
5月、晋厲公は鄭を討伐するため、欒黶を魯にやって援軍を求めさせた。魯の孟献子は欒黶の謙譲な態度を見て、 晋はきっと勝つと言った。晋軍は救援を待つ前に戦ってしまったが、楚軍を急襲してこれを鄢陵で破った。
B.C.573欒書が公族大夫の任命を願うと、晋悼公は「欒黶は果断勇敢である」と言い、 欒黶は公族大夫に任命された。
B.C.572、1月、欒黶は彭城討伐に参加し、これを降した。
B.C.564、10月、諸侯は鄭を討ち、欒黶は士魴とともに下軍を率いて滕人と薛人とともに鄭の北門を攻めた。
B.C.563、9月、晋は諸侯とともに鄭を討った。
11月、楚が鄭の救援に来たので、諸侯の軍は鄭の陽陵に進んだ。智罃は「いまこちらが楚軍を避けて逃げたら、 楚はきっと奢るでしょう。その時こそ決戦すべきです」と言ったが、欒黶は「逃げるのは恥です。わたしだけでも進もう」と言った。そこで晋軍は直ちに進撃した。
11月16日、晋軍は潁水をはさんで対陣した。そのとき鄭は楚に服従してしまった。欒黶は楚に服従した鄭を討とうとしたが、智罃は反対して 「われわれは楚軍を防ぐこともできず、鄭を守ることもできなかった。鄭には何の罪があろう。いま鄭を討ったら楚はきっと救助するに違いない。 勝てるとは断言できない。引き揚げるにこしたことはあるまい」と言った。
11月24日、諸侯の軍は引き揚げることになり、鄭の北境を侵して帰った。
B.C.560中軍の将智罃と下軍の佐士魴が没した。韓宣子が上軍の将に任じられたが、 韓宣子は趙武のほうが適任であるといって辞退した。しかし晋悼公は趙武にはまだ早いと考えて欒黶を任命しようとした。 しかし欒黶は「わたしは韓起の才能には及びません。それに韓起は趙武を上にするように望んでおります。どうかお聞ききとどけください」と言って辞退した。 そこで趙武が上軍の将、韓宣子は上軍の佐、欒黶は今まで通り下軍の将に任じられた。
君子は「譲るということは礼の根本である。范匃が譲ったので、その下の者がみな譲りあった。 とかく高ぶりたがる欒黶も決して逆らわずへりくだった」と評した。
B.C.559夏、諸侯は秦を討伐した。諸侯の軍は涇水を渡って陣をしいた。秦が涇水の上流に毒を流したので、諸侯の軍勢はたくさん死んだ。 諸侯の軍は秦の棫林まで進撃した。中軍の将荀偃は命令を下して「明朝、鶏が鳴いたら馬を車につけ、 井戸・かまどをふさいでわたしに従え」と言った。しかし欒黶は「いままで将帥がこんな独断専横したことはありません。わたしの馬は東に向いている」 と言って帰国した。欒黶の弟欒鍼は退却せずに范鞅とともに秦軍に突撃して戦死したが、 范鞅は生還した。欒黶は范匃に「わたしの弟は突撃を望まなかったのに、お前の子が呼びかけたのだ。お前の子を追放しなければ、わたしが殺してやろう」 と言ったので、范鞅は秦に出奔した。
欒黶は范匃の娘叔キを娶り、欒盈を生む。
桓子と諡される。
欒懐子(ランカイシ)
欒逞
欒楽(ランガク)【武官】
欒盈の臣。~B.C.550。
B.C.550、4月、欒楽は欒盈に従って曲沃で叛乱を起こした。欒楽が進撃すると、范鞅に出会った。 范鞅は「楽よ、しっかりやれ。死んでもお前のことを天に訴えてやるぞ」と言ったので、欒楽は弓で范鞅を射たが命中しなかった。二の矢をつごうとしたとき、 兵車が槐の木の根に乗り上げて顚覆したため、欒楽は范鞅にその肘を断ち切られて殺された。
欒桓子(ランカンシ)
欒黶
欒糾(ランキュウ)
卞糾
欒京廬(ランキョウロ)【将軍】
晋の将軍。
B.C.592春、欒京廬は郤克の副使となって斉に使いした。郤克は斉に侮辱されたことを怒って帰国し、 欒京廬を斉に留めて斉の回答を待たせ「斉が会合に参加するという返事をもらわなければ、帰国してはならない」と言いつけた。
欒鍼(ランケン)【武官】
晋の臣。欒書の子。~B.C.559。
B.C.578、5月、欒鍼は晋厲公の右役として秦軍と戦い、麻隧でこれを大破した。
B.C.575欒鍼は晋厲公の右役となって鄢陵で楚軍と戦った。晋厲公の兵車がぬかるみにはまったので、 欒書が下車してこれを助けようとしたが、欒鍼が「退いてください。それぞれに役目があり、他人の役目に手を出すのは貪ること、 役目を果たさないのは怠慢、持ち場を離れるのは姦邪です。3つの罪を犯してはなりません」と言い、晋厲公をひきあげてぬかるみから脱出させた。
戦いの最中、欒鍼は楚の子重の旗を見つけると酒を贈った。子重は「わたしが以前、あなたに晋の軍はどのようであるか尋ねた時、 常に余裕があると答えられたことは、よく覚えています」と言って酒を受けて飲み、使者を帰してから再び進撃の太鼓を打ち鳴らして戦った。
B.C.559夏、晋は諸侯と共に秦を討った。欒鍼は右役についていたが、諸侯が退却したとき「今の戦いは櫟の敗戦(B.C.562)の報復であったのに、 何の手柄もないのは晋の恥である。わたしは右役であり恥じないわけにはいかない」と言って范鞅と共に秦軍に突撃して、 欒鍼は戦死した。
欒枝(ランシ)【将軍】
晋の将軍。欒共子の子。下軍の将。~B.C.622。
B.C.637秦繆公に内応して、晋懐公を攻め殺す。
B.C.633晋文公は三軍を編成し、趙衰を卿にしようとしたが、 趙衰は「欒枝は貞節慎重で、先軫は智謀あり、胥臣は物知りですから、皆補佐の卿に適任です。 臣はかないません」と言って辞退したので、欒枝は下軍の将に任じられた。
B.C.632、4月4日、城濮の戦いで、晋の賈佗が陳・蔡の軍を破り、楚の右翼が崩れた。 晋の上軍の将狐毛はわざと退却するように見せかけ、欒枝も柴をひきずって土ぼこりを立てて敗走するまねをした。 楚軍が策にかかって追撃したところを中軍の兵が側面から楚軍を攻撃し、楚の左翼も破れ、楚軍は大敗した。
楚が晋に敗れたので、鄭は晋を恐れ、子人九に命じて晋に和睦を申し入れた。欒枝は鄭に赴いて鄭文公と盟った。
B.C.627秦は周、晋を通過して無礼であり、さらに滑を滅ぼした。
先軫「秦は多くの人々の心に背いております。撃たねばなりません」
欒枝「先君文公が受けた恩義に報いないうちに秦を撃つのはよくないことです」
先軫「秦は孤児となられたわが君をあなどり、わが同姓の国を討ちました。いかなる徳に報いようとするのですか」
こうして晋は秦を討ち、殽でこれを破った。
B.C.622、没して貞子と諡された。
萊施(ランショ)
欒子旗
欒子雅(ランシガ)【武官】
斉の臣。公孫竈ともいう。公子の子。~B.C.539。
B.C.545欒子雅と高子尾は朝廷で二羽の鶏を賜るところを、肉を除いた汁ばかりの膳を賜ったためふたりは立腹した。 慶封がこれを盧蒲嫳に話すと、 盧蒲嫳は「あんなふたりは鳥や獣のようなものだ。殺してその羽や皮を下に敷いて寝ましょう」と言って問題にしなかった。
11月8日、斉の先祖の廟で秋の祭りが行われた。慶氏の兵はよろいをぬぎ、馬をしばりつけてから酒を飲み、劇の見物に魚里に出かけた。 その留守に乗じて欒子雅は田須無・高子尾・ 鮑国らとともに慶氏の兵がぬぎすてたよろいを着けて慶舎を殺した。
慶氏が滅びると欒子雅は邑を与えられた。欒子雅は多い土地を辞退して少ない土地をもらった。
B.C.544、9月、欒子雅は高子尾とともに高止を燕に追放した。
B.C.540晋の韓宣子が斉の公女を迎えるための結納の品を納めた。 韓宣子は欒子雅の子欒子旗と高子尾の子高子彊と面会したが、 「一家を保ってゆく大夫ではありません。思い上がって不忠の臣にみえる」と言った。斉の大夫はこれを冗談として笑ったが、 晏嬰だけは韓宣子のことばを信じた。
B.C.539斉景公が莒で狩をしたとき、盧蒲嫳が斉景公に面会して泣きながら「わたしの髪は老衰してこのように短くなりました。 もう何もできませんからお許しください」と許しを請うた。斉景公は高子尾と欒子雅に相談すると、欒子雅は反対して 「彼は髪こそ短くなったが、心はたいへん執念深い。彼は我々を殺して敷物にするかもしれない」と言い盧蒲嫳を燕に追放した。
冬、欒子雅は没した。晏嬰が「惜しいことです。子の子旗は禍から逃れられないでしょう。これで姜姓の一族は衰えました。姜氏は危ういことよ」と言った。
欒子旗(ランシキ)【武官】
斉の臣。名は施。欒子雅の子。
B.C.540晋の韓宣子が斉の公女を迎えるための結納の品を納めた。 韓宣子は欒子旗と高子尾の子高子彊と面会したが、 「一家を保ってゆく大夫ではありません。思い上がって不忠の臣にみえる」と言った。斉の大夫はこれを冗談として笑ったが、 晏嬰だけは韓宣子のことばを信じた。
B.C.534、7月9日、高子尾が没した。
7月12日、欒子旗は高子尾の家を整理しようとして、その家宰の梁嬰を殺した。
8月15日、欒子旗はさらに高子尾の一味であった子成子工子車を追放し、高氏の家宰を自ら立てた。 高子彊の家来は「わが君はもう成人であるのに、わが家を助けようとしているのは乗っ取ろうとしているのだ」と言って甲冑を着て欒子旗を攻めようとした。 田無宇も高子尾と親しかったためこれに加わろうとした。ある人がこのことを知らせたが、欒子旗は信用しなかった。 複数の人が知らせたため、ようやく欒子旗は信用して田無宇の家に行った。田無宇がいつわって高子彊を攻めましょうと言ったが、 欒子旗は「どうしてそんなことをするのですか。あれ(高子彊)はまだ子供です。彼には教えてやらないといけないし、わたしは彼を愛しています。 あなたからも話してやって下さい」と言った。田無宇は頭を地にすりつけて謝罪して高・欒両家を和解させた。
B.C.532夏、田無宇と鮑国が突然、欒氏と高氏に兵を向けてきた。欒・高氏の軍は敗れて、欒子旗と高子彊は魯に亡命した。
欒書(ランショ)【将軍】
晋の将軍。下軍の佐、下軍の将。中軍の将。欒武子ともいう。
B.C.597春、鄭が楚に攻められた。
6月、晋は鄭を救援することとし、欒書は下軍の佐に任じられた。
晋軍が黄河に到着すると、すでに鄭は楚に降服して和睦した。鄭の皇戌が晋の陣地に来て「鄭が楚についたのは国を守るためで、 貴国に対して二心を持つものではありません。貴国が楚を攻めるのなら、わが軍もあとに続きましょう」と申し入れてきた。 先縠趙括趙同はこの言葉を信じて楚を討つべしと主張した。 欒書は「わが国の方が徳義がなくて楚に恨まれているので、こちらが不義で楚が正義である。だから楚は疲労しているとはいえない。 鄭は晋が勝てばこちらにつくが、負けたらさっさと楚になびくであろう。鄭の使者は信じることはできませんぞ」と反対した。 趙朔はこれを聞いて「欒伯はすぐれた人物だ。そのことば通りに実行できたら、きっと晋の政治にあたることになろう」と言った。
結局、晋は邲の戦いで楚に敗れた。
B.C.589魯・衛を救うため斉に出兵する際に下軍の将に任じられ、斉を撃退させた。
景公は鞍の勝利をほめて郤克に「あなたの力であろう」と言った。 しかし郤克は「いいえ、三軍の士が働いたのです。私には何の力がありましょう」と謙譲した。 次に士燮が謁見したので、景公は「あなたの力であろう」と言った。士燮は「いいえ、わたしは命を中軍に受け、 上軍の士に命じて上軍の士が命を用いたからです。私には何の力がありましょう」と謙譲した。欒書が謁見したので、景公はまた同じ問いをすると、 欒書は「いいえ、わたしは命を上軍に受け、下軍の士に命じ、下軍の士が命を用いたからです。わたくしに何の力がありましょう」と謙譲した。
B.C.587冬、欒書は荀首・士燮とともに鄭を討って許を救い、鄭の汜・祭の地を占領した。
B.C.585冬、欒書は楚に攻められた鄭の救援に出かけた。晋軍は楚軍と鄭の繞角で出会ったが、楚軍は引き揚げた。晋軍はさらに進んで蔡を侵略した。 楚の公子申と公子成が申と息の軍を率いて蔡を助け、桑隧で晋軍を防いだ。
趙同と趙括は決戦を望んだため欒書はそれを許そうとした。しかし荀首・士燮・韓厥が「いけません。もともと鄭を助けに来て、 はからずも蔡まで来てしまいました。罪なき人を攻め殺してはなりません。そもそも大軍を整えてきたのに、わずか楚の2県を破っても何の名誉になりましょう」と言ったので、 欒書はそのまま引き揚げた。
ある人が「11人の将がおりますが、決戦を望まないのは3人だけです」と諌めると、欒書は「両者の主張がどちらも立派で、どちらにも従いかねる場合は、 数の多いほうに従うべきである。三卿は立派な人物であり、この3人に従うのはよいことではないか」と言った。
B.C.584欒書は景公の命で鄭を討つ。
B.C.583欒書は命じられて蔡を討ち、さらに進んで楚に攻め入り、楚の申驪を捕えた。
趙武が成人して大夫に挨拶回りをした。このとき欒書は「美しいですね。 昔わたしはお父上の荘主(趙朔)にお仕えしました。花は栄えても実がなるとは限りません。実るように務めなされ」と言葉を贈った。 張孟は「見事です。欒伯(書)の話に従えば益を受けることができます」と言った。
B.C.582秋、晋景公は鄭成公を幽閉し、欒書に命じて鄭を討たせた。 鄭人は伯蠲を遣わして和睦を請うたが、晋はこれを殺した。
B.C.581、3月、鄭は公子を擁立した。欒書は「鄭人が君を立てたので、こちらで鄭の君を捕えているところで役に立たない。 鄭を討って鄭君を返して正式に和睦をするのがよい」と進言した。
5月、晋は魯・斉・宋・衛・曹と会合して鄭を討ち、鄭成公を帰国させた。
B.C.578、5月、欒書は中軍の将として秦を討って秦の麻隧で戦い、秦軍を大破し、勢いに乗じて涇水を渡り、秦の侯麗まで攻め入って引き揚げた。
B.C.576楚が鄭・衛を攻めて、鄭が反撃して楚を討った。欒書は楚に一矢報いたいと望んだが、韓厥が「よしなさい。楚にさらに悪いことをさせれば、民も背くであろう。 民がなくなれば誰が戦うであろうか」と言った。
B.C.575春、鄭が晋に背いて楚と盟約した。そこで晋厲公は鄭を討とうとした。 士燮は出兵に反対し郤至は出兵すべきであると主張した。そこで欒書が「われわれの時代に諸侯を失ってはならない。 鄭を討ちましょう」と進言したので、晋厲公は鄭討伐の軍を発し、欒書は中軍の将に任じられた。また一方で、 郤犨を衛・斉に、欒黶を魯にやって兵を出させようとした。
5月、楚が鄭を援けるために兵を出した。士燮が戦うべきではないと再び諌めたが、欒書は「韓原の戦いで恵公は捕虜となり、 邲の戦いでは三軍が凱旋せず、箕の戦いでは先軫が戦死した。晋にはもとより国辱が3つあります。 今わたしが政治を取りながら、晋の恥じを雪がず、夷狄の兵を避けて恥じを重ねるならば、この後も憂患があるでしょう」と言い、聴き入れなかった。 (『春秋左氏伝』では、この言葉は郤至が言ったことになっている)
恭王が東夷の兵を率いて鄭を救援しようとしたので厲公はこれを攻撃しようとした。
欒書は「君が黶を派遣して斉魯の軍を出させようとなさったのですから、どうかそれを待ちましょう」と諌めたが、 郤至は急襲するよう進言した。厲公は喜び楚軍を討って鄢陵で破った。そのため欒書は郤至を怨んだ。
この戦いで雍子が欒書に「楚の情況は計り知ることができます。精鋭は中軍の王族にあるだけです。 もしわが軍の中軍と下軍とを入れ替えて弱勢を示して誘うなら、楚は中軍を深追いしましょう。そこでわが上軍下軍は楚の左軍右軍を破り、 三方から王族を集中攻撃するならば、必ず大破できましょう」と進言し、欒書はその策に従ったので大いに楚軍を破った。
この戦いで欒書は郤至が自分のはかりごとを用いずに楚を破ったことを恨み、 晋の捕虜になった楚の公子発鉤に「晋君に『郤至は楚と戦うようにしむけ、 斉魯の軍が来ないうちに決戦しました。郤至がいなかったら王は無事でなかったでしょう』と言って下さい。そうすれば、わたしはあなたを楚に帰しましょう」と謀った。
発鉤は厲公にこれを話した。厲公はこのことを欒書に話すと、欒書は「郤至は晋に危難を起そうとして楚に戦いを挑むと楚王を放免し、かつ楚王から贈物を受け取りました。 これは大罪です。鄢陵の戦いは、郤至が楚を導いたものであり、公孫を晋に入れて、これを立てようとしたものです。 しかるに与国が会集しなかったので事は不成功に終わったのです。試しに君が彼を周へ遣るなら、きっと公孫周に会うでしょう」と言った。
欒書は一方で人を公孫周の元へ遣って「郤至が行きますから、是非お会いになるように」と言わせた。
厲公は郤至を周へ遣ると、はたして郤至は公孫周に会った。そこで厲公は彼を殺そうと考えた。
B.C.574、12月26日、晋厲公は三郤(郤錡・郤犨・郤至)を殺した。 そして胥童は欒書と荀偃を朝廷でおどしつけた。
長魚矯「この二人を殺さなければ、きっと禍となります」
晋厲公「一度に3人の卿を殺した。これ以上殺すのは忍びない」
長魚矯「あの二人は君を殺すことを何とも思っておりません。国の外で謀られる乱を姦といい、国の内で謀られる乱を軌といいますが、姦を防ぐには恩徳を用い、 軌を防ぐには刑罰を用いるべきだといいます、徳と刑が立派に行われないようでは姦と軌がおこりましょう。わたしはおいとまいたします」
晋厲公は欒書と荀偃にわびて「卿ら大夫は安心して位にかえるように」と言って元の地位につかせ、胥童を卿とした。
欒書は荀偃と図り、厲公を匠麗氏の邸に包囲して、韓厥と范匃にこれに加わるよう呼び寄せた。 しかし韓厥は「君を弑して自分の威を立てようとするのは、わたしにはできません」と断った。荀偃は韓厥を殺そうとしたが、欒書は「いけません。 彼の行動は果断で、言葉は順当である。われわれが攻めようとしてもできるものではない」と言って、それを止めた。
12月30日、欒書は徒党を率いて晋厲公を捕え、胥童を殺した。
B.C.573、1月5日、欒書は荀偃とともに、程滑に命じて晋厲公を殺し、翼の東門の外に葬った。
そして欒書は、智罃士魴を周に遣わして公孫周を迎えさせて、晋君に擁立した。
この年、欒書は没し、武子と諡される。
欒成(ランセイ)【武官】
晋の臣。名は成。共叔。欒賓の子。~B.C.709。
B.C.709分家の武公が宗家の晋哀侯を翼に討って彼を捕らえた。
武公は欒成に向かって「無駄死にしてはならぬ。わしはあなたを上卿に命じて晋の政を執らせようと思うのだ」と言った。しかし欒成は 「わたくしが私利によって人の道を破棄するならば、君侯はどうやって民に教えるのですか。その上、君侯に仕えて二心を持つならば、 君侯はわたくしをどのように用いられるのですか」と言って、ついに戦って死んだ。
欒貞子(ランテイシ)
欒枝
欒盾(ラントン)【将軍】
晋の将軍。下軍の将。
B.C.615冬、秦が令狐の役の恨みを晴らすため、晋を討って羈馬の地を攻め取った。
欒盾は下軍の将として秦軍と戦ったが、勝敗はつかなかった。
B.C.614夏、欒盾は晋の六卿とともに、秦が士会を用いて晋に敵することを恐れて、近郊の諸浮で会合して密謀した。
趙盾「随会(士会)が秦におり、賈季(狐射姑)が狄におり、そのために国難が日ごとにやってくる。 どうしたらよいか」
荀林父「賈季を戻しましょう。彼は国外の事情に通じており、処理する才能があり、それに旧勲の子である」
郤欠「賈季は罪を犯している。随会を戻したほうがよい。彼は卑賤の身分におりながら恥をわきまえており、 柔順であるが人から犯されて不義をなすことがなく、その智謀は国の役に立つ」
そこで六卿は魏寿余に命じて魏にたてこもらせて晋に背いて秦につくふりをさせて、士会を帰国させた。
欒甯(ランネイ)【武官】
孔悝の家老。
B.C.479蒯聵がひそかに衛に帰国し、孔悝を強迫して乱を起こそうとした。欒甯はその時酒を飲もうと肉をあぶっていたが、 まだよく焼けないうちに騒動を聞いて、仲由に報告させる一方、無理に酒を流し込み、生焼けのあぶり肉を食い、 出公を奉じて魯に出奔した。
欒巴(ランパ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
蜀郡成都の人。蜀では功曹となり、妖怪の類を退治して、生きながら祀られていた。その後、召されて尚書郎となった。正月の大宴会のとき、酒が下賜されると、 口に含んで西南に向かってプッと噴いた。この不敬を喚問されると「手前の郷里で火事があるのを見つけましたので、酒を含んで火を消したのです。なにとぞ お調べください」と答えた。そこで調べてみると正月に火が上がったが、程なく大雨があり、火は消えた。降った雨はことごとく酒気をおびていたという。
欒豹(ランヒョウ)【文官】
晋の臣。
欒豹は州を領有した。欒氏滅亡後、 范匃趙武韓宣子がこれを争った。
欒賓(ランピン)【宰相】
晋曲沃の宰相。靖侯の庶孫。
B.C.746桓叔が曲沃に封ぜられると、欒賓はその宰相となる。
欒武子(ランブシ)
欒書
欒弗忌(ランフツキ)【文官】
晋の臣。~B.C.576。
B.C.576、10月、欒弗忌は三郤に殺された。韓厥は「郤子は禍にかかるであろう。 善人を殺して滅びないので何が期待されようか」と言った。
欒魴(ランポウ)【武官】
晋の臣。
B.C.554夏、欒魴は軍を率いて衛の孫林父に従って斉を討った。
B.C.550、4月、欒盈が曲沃で叛乱を起こし、絳に攻め込んだ。欒魴はこの戦いで負傷した。欒盈の乱は鎮圧され、 欒氏一族とその仲間は残らず殺されたが、ただ欒魴だけが宋に出奔した。


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