中国的こころ列伝>列伝 ロ

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列伝 ロ


路(ロ)【文官】
楚の臣。工尹。
路は楚霊王に仕えた。
嫪アイ(ロウアイ)【文官】
秦の臣。長信侯。〜B.C.238。
秦王の生母はかつて呂不韋の婦人であり、秦王政が壮年となっても、呂不韋との淫行を止めなかった。
発覚を恐れた呂不韋は、大きな陰茎を持つ嫪アイを探し出し、自分の舎人とした。そして嫪アイの陰茎に桐の車輪をつけて歩かせ、 太后にこの噂を聞かせて淫心をそそろうとした。 はたして太后は嫪アイを近づけようとしたので、 宮刑(腐刑)に処したと偽り、宦官として太后に差し出した。太后は嫪アイを寵愛して二人の子を産んだ。
B.C.239嫪アイは日常、太后に侍って賞与がおびただしく、長信侯に封じられ、奥向きのことはすべて嫪アイによって決裁された。
家の下僕は数千人おり、仕官を求めて舎人となった食客は千余人に及んだ。
嫪アイは王の御璽と太后の璽をためて、県卒や衛卒、官騎および戎翟の君公の舎人を徴発して蘄年宮を攻めて叛乱しようとした。
B.C.238「嫪アイは宦官ではなく、常に太后と私通淫行し、子供二人を生んで、これを隠し、太后とはかって『王がもし薨ずれば、この子を世継にしよう』と言っている」 と密告する者があった。そこで秦王政は役人に取り調べさせたところすべて事実であった。
9月、嫪アイの計画は未然に発覚し、秦王政は相国の昌平君と昌文君に命じ、卒を発して嫪アイを攻め、咸陽で戦って首を斬ること数百であった。
嫪アイは敗走したので、秦王政は国中に「嫪アイを生け捕りにする者には銭百万を与え、殺した者には五十万銭を与える」と令し、 嫪アイ、衛尉竭、内史肆、佐弋竭、中大夫令斉ら20人を捕らえて車裂きの刑にし、首を木の上にさらして、その宗族を滅ぼした。
これらの舎人で罪の軽い者は徒刑とし、薪を宗廟に給する労役に服させ、また爵を奪って蜀にうつした者が四千余家あり、房陵におらせた。
僂堙(ロウエン)【武官】
斉の臣。〜B.C.548。
荘公の八人の勇士のひとり。
B.C.548、5月、斉荘公が崔杼に弑され、僂堙ら州綽邴師公孫敖封具鐸父襄伊賈挙は、 この内乱で討ち死にした。
楼緩(ロウカン)【宰相】
趙の臣、秦の丞相。
趙の人。
B.C.306武霊王は楼緩を招いて相談した。
「いま中山は趙の腹心部にあり、北には燕、東には胡、西には林胡・楼煩・秦・韓があり、趙には強国のうしろ立てがない。これでは社稷を失うことになる。わずらいがあるが、 わしは胡服にしようと思う。どうだろうか」と言った。楼緩は「よろしゅうございましょう」と言った。
ついに武霊王は服装を胡服に変えた。
B.C.305武霊王の命で、秦に赴く。
B.C.297秦で孟嘗君に代わり丞相となった。
B.C.296三国が秦を討ち、函谷関に入った。秦昭襄王は楼緩に 「わたしは河東の地を割いて三国と講和したいと思うが、どうだろう」と言った。楼緩は「このような国の大事を決めるのは、重臣方の任務です。 どうして公子さまを召されないのですか」と答え、罪に陥れられることを避けた。
B.C.295趙は楼緩が秦で宰相をしていることを自国の不利と考え、仇液を秦に遣わせて、 魏冄を宰相とするように請うた。そして楼緩は丞相を免ぜられた。
B.C.256秦が邯鄲の包囲を解いて、趙孝成王が秦に入朝することになった。孝成王は秦と和親することを悩んでいた。 孝成王は決めかねていると、楼緩が秦から来た。このことを楼緩に問うと、楼緩は「土地を与えるにこしたことはないと思います。 もし講和できなければ趙は諸侯からも軽んじられましょう」と言った。虞卿はこれを聞くと、孝成王に謁見して、
「楼子の案こそ、危険千万です。6県を割くことは、いよいよ諸侯に不信感を与えます。与えるなら、いっそ斉に与えるのがよいでしょう。また韓・ 魏もならって親善を求めましょう」と言った。
孝成王はこれを容れ、虞卿を斉にやった。虞卿がまだ斉から帰らないうちに、秦から講和の使者が来た。 そのため楼緩は恐れて逃げ去り、虞卿は封じられて一城を与えられた。
狼蘧疏(ロウキョソ)【将軍】
斉の将軍。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、狼蘧疏は左翼襄罷師の右役となった。
老佐(ロウサ)【将軍】
宋の将軍。司馬。〜B.C.573。
B.C.576、10月、右師華元蕩沢を討ち、桓氏は楚に亡命した。 華元は公子を擁立し、向戌を左師、老佐を司馬、 楽裔を司寇に任命して民を安心させた。
B.C.573、7月、老佐は華喜とともに彭城を攻め囲んだが、老佐が軍中で没したため勝つことができなかった。
老子(ロウシ)【文官】
中国古代の思想家。姓は李、名は耳、字は耼または伯陽。諡が耼ともいう。
楚の苦県厲郷曲仁里の人。
道家の祖とされる。
老子は母の胎内に81年居たといい、生まれた時から白髪であったという。
身長は8尺8寸(198cm)、耳が長く目が大きく、額は広く歯はまばら、四角い口と厚い唇であった。
孔子と同年代で周に仕え、蔵書庫の記録官であったという。
老子は虚無清静の道の徳を修め、その学問は、みずから才能を隠し、無名でいるのを要旨とした。
周が衰微したので、老子は去って函谷関に至った。そこで関の役人尹喜が「わがために書を著し給え」と言ったので、 老子は上下二篇の一書を著した。それは道家の宝典とされる『道徳経』(『老子』)であった。
老子はインドに渡って釈迦如来になったともいうが、これは道教と仏教を融合させるための作り話である。
また大秦国(ローマ帝国)に行って中国の文化を伝えたとか、道教では、仙人となって天に上り、太上老君となったともいうが、 これは道家と道教を結びつけるための作り話である。
老子は享年160余歳といい、あるいは200歳とも言われるが、伝説的な人物でその存在が疑問視される。 また周の太史が老子であるとか、楚の老莱子であるともいわれる。 老莱子は孔子と同年代の人で、道家に属し『老莱子』15編を著したという。
『老子』も戦国時代に著された可能性が高い。
楼昌(ロウショウ)【将軍】
趙の将軍。
B.C.276魏を討ち、幾を取る。
B.C.260趙は長平で秦と戦った。趙が負けて一都尉を失った。孝成王は楼昌と虞卿を召して 「わが軍は敗れたが、かえって鎧を解いて身軽になって敵の不意を襲ったらどうか」と尋ねた。楼昌は「それは無益なことです。 大物を使者に出して和を講ずるにこしたことはありません」と言った。 また虞卿はまず楚と魏を味方につけるべきだと進言したが、孝成王はついに平陽君とともに直接秦と講和しようとした。 しかし講和はならず、趙は秦に大敗した。
狼ジン(ロウジン)【武官】
晋の臣。〜B.C.625。
B.C.627殽の戦いのとき、 晋襄公の戎右萊駒は縛りつけられた秦の捕虜を斬るよう命ぜられたが、 捕虜がわめいたので萊駒は恐れて戈を取り落としてしまった。それを見た狼ジンは戈を拾い上げて捕虜を斬り、萊駒を捕まえて襄公の兵車の後に続いた。 このため狼ジンは萊駒に代わって戎右となった。
箕の役のとき、先軫は狼ジンを退けて、狐鞫居を用いて戎右とした。 狼ジンは立腹した。友人が先軫と刺し違えないのかと言ったが、狼ジンは「死んでも不義であれば勇とは言われない。死んで国の役に立つのを勇と言う。 わたしは勇気があるということで戎右となったが、いま犬死をしてしまえば、それこそ先軫の人事は正しいと言える。先軫がわたしを退けたことについて、 先軫はわたしのことをよく知らなかったと世人は言うかもしれないが、それが適当な処置であったということになれば、それこそ先軫はわたしを知っていたということになる。 どうかしばらく見ておいてくれ」と答えた。
B.C.625彭衙の役で狼ジンは自分の部下を率いて秦軍に突撃して戦死した。しかし晋軍はその後に続いて進撃し、大いに秦軍を討ち破った。
君子は「狼ジンは立腹しても乱を起こさず、勇を振るって討死をしたことは、まことに君主というべきである」と批評した。
牢成(ロウセイ)【武官】
斉の臣。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、牢成は左翼襄罷師の御者となった。
老陽子(ロウヨウシ)【文官】
甘の臣。〜B.C.530。
悼公の一味。
B.C.530甘悼公は甘成公・甘景公の一族を除こうとしたため彼らに殺された。老陽子も宮嬖綽劉州鳩陰忌王孫没とともに殺された。
老莱子(ロウライシ)
老子
禄(ロク)【公子】
楚の公子。霊王の子。〜B.C.529。
B.C.529公子子皙・ 公子弃疾が叛乱を起こして都に攻め入り、太子禄は彼らの命を受けた侍従長に殺された。
鹿皮公(ロクヒコウ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
淄川の人。大工仕事が器用であり、知事に申し出て山の頂上に回転式の高閣を造った。そしてそこに住み着き、階段を取り外し世間と友好を絶った。
70年近くたって淄川の水が氾濫したため、家族親戚60余人を呼び集めて避難させた。
禄父(ロクホ)【王】
商王受辛の子。
商王朝滅亡後、周に降伏する。武王死後、 管叔鮮蔡叔度と共に反乱を起こすが、敗北して殺された。
鹿毛寿(ロクモウジュ)【文官】
燕の臣。
鹿毛寿は宰相子之の権力を強めようとはかり、燕王に「国を子之にお譲りされるべきです。 が聖人と讃えられるのは、天下を許由に譲ったためです。許由はこれを受けなかったため、 堯は天下を失わず、名声も手に入れました。子之も必ず受けようとはされますまい。これはわが君が堯とおこないをひとしくすることになります」と進言した。
そこで噲は子之に国家を委託し、子之の権力は大きくなった。
魯句践(ロコウセン)【在野】
在野の士。
荊軻が邯鄲に遊んだとき、魯句践と双六をして、その道筋を争った。魯句践が怒って大声で叱ったので、荊軻は黙って逃げ出し、 二度と会わなかった。
のち魯句践は荊軻が秦王を刺そうとした顛末を聞くと「ああ、彼が刺剣の法を習わなかったのは惜しいことだった。それにしても、 わしは人を知る明がない。あのときわしに叱咤されたとき、黙って逃げ出したのは、いま思えばわしを人でなしとみたのだろう」と言った。
魯女生(ロジョセイ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
長楽の人。穀類を絶つこと80余年で日増しに若返り、1日に300里も歩き、歴代その姿を見かけること300余年であった。仙道が成就すると、 友人知己に別れを告げ華山にゆくといって去った。
魯仲連(ロチュウレン)【文官】
斉の人。
特異卓抜な計画が好きで、宮仕えを厭い、好んで高節を堅持した。
B.C.258秦軍が趙の邯鄲を包囲し、趙は魏に救援を求めた。魏安釐王は客将の新垣衍を邯鄲に潜入させ、 平原君を通じて趙孝成王に「使者を秦に遣わし尊んで帝と称するなら、 秦は喜んで兵を引き揚げるだろう」と言わせようとした。魯仲連はたまたま趙に遊説しており、平原君に新垣衍と合わせてくれるよう請うた。
魯仲連は説いて自説を取りやめるよう新垣衍を説得し、結局新垣衍は再拝して取りやめた。
秦軍が去った後、平原君は魯仲連を封じようとしたが「天下の士が貴いのは、人のために禍を除き災難を払い、紛争を解いて身に受けるところがないからである。 金を受けるのは商人のすることで連のできるところではない」と言って去り、生涯再び会わなかった。
斉の将軍田単が長狄を討とうとして、魯仲連に会いに出かけた。魯仲連は「将軍が狄をお攻めになっても、降すことはできますまい」 と言った。田単は挨拶もせずに憤然と立ち去った。しかし田単は狄を3ヶ月攻めたが降すことができなかった。
田単は再び魯仲連に見えた。魯仲連は「将軍が即墨におられたときは、決死の覚悟があり、士卒には生き延びる未練はありませんでした。たから強い燕を破ることができたのです。 ところが、いまや将軍には掖邑の領地があり、生きる楽しみがあって、死ぬ覚悟がありません。これが勝てない原因です」と言った。
田単はそこで気を奮い起こして、ついに狄を討ち破った。
燕の将軍が斉を攻め、聊城を取った。聊城の人が燕王に将軍のことを讒言したため、将軍は誅殺されることを恐れて、国に帰らなかった。 田単は聊城を討ったが、一年経っても落ちなかった。
魯仲連は燕将に書簡をもって 「孫臏管夷吾曹沫は小恥を知り、 小節をおこなうことができなかったのではなく、わが身を殺し、家系を断ち、子孫を絶やして功名の立たないのを智者の振舞いとしなかったのである。
願わくば公にも、その一を選んで実行されますように」と言った。
燕将は書簡を見て泣くこと3日、帰国することも降ることもできないので自殺した。田単はついに聊城をおとしいれた。
田単は王にこのことを言上し、爵位を与えようとしたが、魯仲連は逃げて海浜に隠れ「わたしは富貴の身となって人主に屈するより、むしろ貧賤のまま世を軽んじ、 思いのままに振舞いたい」と言った。
盧帝(ロテイ)【王】
蜀王。叢帝の子。
秦を討ち、雍まで進軍する。
露睹父(ロトホ)【文官】
魯の臣。
あるとき公父ショク南宮説に酒を馳走して、露睹父を上客として招いた。 そのときすっぽんの料理が小さかったので、露睹父は怒って帰ってしまった。
盧蒲癸(ロホキ)【将軍】
斉の将軍。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、盧蒲癸は副車の邢公の右役となった。
B.C.548、5月、崔杼が斉荘公を弑した。盧蒲癸は斉荘公のお気に入りだったため、晋に亡命した。
B.C.546盧蒲癸は崔氏の乱を避けて国外に亡命した。しかし盧蒲癸は賊を捕まえたと報告して帰国を許され、 慶舎の家来となった。
B.C.545盧蒲癸は慶舎に寵愛され、娘を妻に迎えた。盧蒲癸は王何とともに枕刀をもって慶舎を警護した。 しかし一方で盧蒲癸と王何は慶氏を攻めようと考えていた。 彼らは卜を行い、そのうらかたを慶舎に見せて「誰かが仇を討とうとして卜にかけたものです」と言うと、慶舎は「きっと勝つ。ただし血を流すことであろう」と言った。
11月8日、斉の先祖の廟で秋の祭りが行われた。慶舎は廟に出かけ、盧蒲癸と王何は枕刀を持って慶舎の供をした。 そこで田須無・欒子雅・高子尾鮑国らの兵が慶氏の兵がぬぎすてたよろいを着けて盧蒲癸に合図し、盧蒲癸と王何は慶舎を殺した。
盧蒲姜(ロホキョウ)【女官】
盧蒲癸の夫人。慶舎の娘。
B.C.545盧蒲癸は慶氏を攻めようと考えていた。盧蒲姜は「大事があるのにわたしにかくして話さないと、きっとうまくゆかないでしょう」と言ったので、 盧蒲癸は慶舎を殺すことを打ち明けた。盧蒲姜は「父君は心のねじけた方です。出かけるなとひきとめないと、祭りに出かけないでしょう。 わたしがひきとめてみましょう」と言った。
11月8日、斉の先祖の廟で秋の祭りが行われた。慶舎が祀りに出かけようとすると、盧蒲姜はこれをわざと引き止めようとした。 はたして慶舎は聴き入れずにさっさと廟に出かけ、盧蒲癸に攻められて殺された。
盧蒲就魁(ロホシュウカイ)【武官】
斉の臣。頃公の寵臣。〜B.C.589。
B.C.589斉頃公は魯を討ち龍を包囲した。盧蒲就魁は城門に攻め入ったが捕えられた。頃公は「殺さないでくれ。わたしはあなたと盟って、 領内に攻め入らないようにしよう」と申し入れたが、龍の人は盧蒲就魁を殺して城壁の上にはりつけにした。頃公は怒ってみずから進撃の太鼓を鳴らし、 3日で龍を攻略した。
盧蒲嫳(ロホベツ)【武官】
斉の臣。
盧蒲嫳は崔杼の仇敵であった。
B.C.546秋、崔杼の子崔成崔彊慶封に 「無咎(棠無咎)と偃(東郭偃)だけが父(崔杼)のそばについており、 親族も近寄ることができません。父君を害するのではないかと心配です」と相談してきた。慶封は「しばらくじっとしておりなさい」と言い、 盧蒲嫳にこのことを話した。盧蒲嫳は「崔子はわが君の仇です。天が彼を見捨てようとするのかもしれません」と言ったので、 慶封はいつわって崔成と崔彊に「父上のためになることなら、ぜひ殺しなさい。わたしが助けましょう」と言った。
9月5日、崔成と崔彊が棠無咎と東郭偃を殺した。盧蒲嫳は慶封の命で崔氏を攻めて崔成と崔彊を殺し、さらに崔氏一族を滅ぼした。
盧蒲嫳はさらに事の次第を崔杼に報告し、みずから車を御して崔杼を連れ戻した。着いてみると家は破壊されて入るところもなかったので、 崔杼は首をくくって死んだ。
B.C.545慶封は狩を好み酒を飲んで、子の慶舎に政治を任せた。そして家財や妻妾を盧蒲嫳の家に移し、 お互いに女を交換したり酒を飲み遊んだ。
11月、欒・陳・高・鮑の諸大夫が慶舎を殺し、慶封は魯に亡命した。そのため盧蒲嫳は斉の北方の国境に追放された。
B.C.539斉景公が莒で狩をしたとき、盧蒲嫳は斉景公に面会して泣きながら「わたしの髪は老衰してこのように短くなりました。 もう何もできませんからお許しください」と許しを請うた。 斉景公は高子尾欒子雅に相談すると、欒子雅は反対して 「彼は髪こそ短くなったが、心はたいへん執念深い。彼は我々を殺して敷物にするかもしれない」と言ったため、盧蒲嫳は9月に燕に追放された。
魯陽文子(ロヨウブンシ)【文官】
楚の臣。姓は魯陽。司馬子期の子。
恵王が梁の地を魯陽文子に与えようとした。魯陽文子は辞退して「梁は険阻で国境にありますので、 子孫に二心を抱く者が出るのが心配です。たとえわたくしは処刑を免れて往生できるとしても、おそらくは子孫はわたくしの祭祀を絶やすでしょう」と言った。
恵王は「あなたの仁は子孫のことだけでなく、楚までもその恩恵に浴します。どうしてあなたの意見に従わないでおられましょうか」と言い、 結局、魯陽文子は魯陽を与えられた。


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