- 魯仲連(ロチュウレン)【文官】
- 斉の人。
特異卓抜な計画が好きで、宮仕えを厭い、好んで高節を堅持した。
B.C.258秦軍が趙の邯鄲を包囲し、趙は魏に救援を求めた。魏安釐王は客将の新垣衍を邯鄲に潜入させ、
平原君を通じて趙孝成王に「使者を秦に遣わし尊んで帝と称するなら、
秦は喜んで兵を引き揚げるだろう」と言わせようとした。魯仲連はたまたま趙に遊説しており、平原君に新垣衍と合わせてくれるよう請うた。
魯仲連は説いて自説を取りやめるよう新垣衍を説得し、結局新垣衍は再拝して取りやめた。
秦軍が去った後、平原君は魯仲連を封じようとしたが「天下の士が貴いのは、人のために禍を除き災難を払い、紛争を解いて身に受けるところがないからである。
金を受けるのは商人のすることで連のできるところではない」と言って去り、生涯再び会わなかった。
斉の将軍田単が長狄を討とうとして、魯仲連に会いに出かけた。魯仲連は「将軍が狄をお攻めになっても、降すことはできますまい」
と言った。田単は挨拶もせずに憤然と立ち去った。しかし田単は狄を3ヶ月攻めたが降すことができなかった。
田単は再び魯仲連に見えた。魯仲連は「将軍が即墨におられたときは、決死の覚悟があり、士卒には生き延びる未練はありませんでした。たから強い燕を破ることができたのです。
ところが、いまや将軍には掖邑の領地があり、生きる楽しみがあって、死ぬ覚悟がありません。これが勝てない原因です」と言った。
田単はそこで気を奮い起こして、ついに狄を討ち破った。
燕の将軍が斉を攻め、聊城を取った。聊城の人が燕王に将軍のことを讒言したため、将軍は誅殺されることを恐れて、国に帰らなかった。
田単は聊城を討ったが、一年経っても落ちなかった。
魯仲連は燕将に書簡をもって
「孫臏や管夷吾や曹沫は小恥を知り、
小節をおこなうことができなかったのではなく、わが身を殺し、家系を断ち、子孫を絶やして功名の立たないのを智者の振舞いとしなかったのである。
願わくば公にも、その一を選んで実行されますように」と言った。
燕将は書簡を見て泣くこと3日、帰国することも降ることもできないので自殺した。田単はついに聊城をおとしいれた。
田単は王にこのことを言上し、爵位を与えようとしたが、魯仲連は逃げて海浜に隠れ「わたしは富貴の身となって人主に屈するより、むしろ貧賤のまま世を軽んじ、
思いのままに振舞いたい」と言った。
- 盧帝(ロテイ)【王】
- 蜀王。叢帝の子。
秦を討ち、雍まで進軍する。
- 露睹父(ロトホ)【文官】
- 魯の臣。
あるとき公父ショクが南宮説に酒を馳走して、露睹父を上客として招いた。
そのときすっぽんの料理が小さかったので、露睹父は怒って帰ってしまった。
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