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列伝 ヒ


肥(ヒ)【公子】
宋の公子。共公の子。〜B.C.576。
B.C.576、6月、宋共公が没した。公子肥は、宋の公室を弱体と見た司馬蕩沢に殺された。
比(ヒ)【公子】
楚の公子。右尹。霊王の弟。名は干。子干ともいう。〜B.C.529。
B.C.541冬、霊王が郟敖を弑して立つと、公子比は晋に出奔した。 晋では秦の亡命公子と同じ俸禄で召された。
B.C.529、4月、観従がいつわって公子弃疾の命令であるとして公子比の帰国を促したため、 公子比は蔡まで戻った。そこで公子比は観従から蔡再興を打ち明けられた。公子比と子皙はためらったが無理に盟約させられて、 公子弃疾を押し立てて盟約を結び、陳・蔡の人々とともに軍をおこした。さらに息舟で叛乱を起こしていた蔿居・洧・囲・ 曼成然らとともに、公子比は陳・蔡・不羮・許・葉の軍を率いて楚に攻め入り、都に進撃した。
叛乱軍は都に入り、公子比は王となり、子皙が令尹となって魚陂に宿った。
5月26日、楚霊王は首をくくって死んだ。
観従が「弃疾を殺さなければ、国王になったとしてもまた禍にかかるであろう」と言ったが、 公子比は「わたしにはそ んなことはやれません」と答えた。観従は「彼は平気であなたを殺そうとしております。わたしはそれを平気で待てません」と言って都を立ち去った。
5月18日夜、そのころ都では楚霊王が帰ってきたと騒ぎがあった。公子弃疾は人を使って国中を走り回らせて 「王が戻ってきて人々は新王(公子比)と司馬(弃疾)を殺そうとしている」と言わせ、また別の者に「大軍がやってきた」と言わせた。 そのため公子比と子皙は自殺した。
公子比は訾で葬られて、訾敖と呼ばれた。
罷(ヒ)【公子】
楚の公子。
巫臣夏姫を晋に連れ去ったため、 子重子反子閻子蕩清尹弗忌黒要を殺し、それらの人々の家財を分け合った。 公子罷は沈尹とともに子蕩の家財を分け取った。
B.C.579、5月、公子罷は許偃とともに晋の士燮と会合した。
冬、公子罷は晋を聘問し、晋厲公との盟いに立ち会った。
12月、公子罷は晋厲公と晋の赤棘で盟った。
靡(ビ)【武官】
夏王朝中康の臣。
有窮国の寒浞を破り、有窮国を滅ぼす。
(『春秋左氏伝』の伝承では、靡は有窮の臣であったが、寒浞の簒奪をきらって有鬲氏に出奔し、 そこで旗揚げして寒浞を破ったとしています)
亹(ビ)【文官】
楚の臣。藍尹。
B.C.506楚昭王は呉に敗れて郢を逃れて成旧の渡しを渡ろうとした時、亹が妻子を舟に乗せているのに遭遇した。 昭王は「わしを乗せよ」と命令したが、亹は「君の世になって国を失ったのは、君の罪です」と言い、昭王を乗せずに行ってしまった。
B.C.505昭王は帰国すると亹が謁見を求めたので、昭王はこれを捕らえようとした。子西が「彼の言い訳を聞きましょう。 きっと訳がありましょう」と言ったので、昭王はなぜ来たのかを尋ねた。亹は「成旧の渡しで君を避けたのは、君を戒めたのです。今謁見しようとするのは、 君が以前の悪を反省されるのを見るためです。もし君が反省されていないなら、国を愛されていないのです。臣は何で死を惜しみましょうや」と言った。 子西は「彼を位に復職させて、以前の失敗を忘れないようにされよ」と言ったので、昭王は彼に会った。
あるとき子西が朝廷で歎息したので、亹はどうしたのか尋ねた。
子西「呉王闔閭はよくわが軍を破り、彼の世継は彼よりも優れているという。だから歎息したのです」
亹「呉を憂えるには及びません。闔閭は確かに名君ですが、夫差は民力を疲弊させて私欲を満たすのを好み、諫言を閉ざしています。 これでは先に自滅しましょう。あなたは徳を修めて呉に備えるべきです。呉は滅びるでしょう」
微(ビ)
上甲
畀我(ヒガ)【文官】
邾の臣。
B.C.550夏、畀我は魯に出奔した。
比干(ヒカン)【公子】
商王朝の公子。帝乙の弟。受辛の叔父。
比干は受辛の悪政を見かねて「人臣としては死んで争わなければならない」と言って強く諌めたため、受辛の怒りを買った。 受辛は「聖人の心臓には7つの穴があるという。試してみよう」と言って、比干の胸を裂いて殺し、その心臓を見た。
肥義(ヒギ)【宰相】
趙の宰相。相国。〜B.C.295。
武霊王は親政を始めると、肥義の安否を問うて、その秩禄を増した。
B.C.306武霊王に招かれて天下のことを論じること5日であった。
武霊王は群臣に胡服騎射することを問うた。群臣はみな承服しなかった。
武霊王は肥義に「どうだろうか」と問うた。肥義は「『疑ってすることには、効果がなく、疑ってするおこないには名声がない』と言われます。 王がすでに世俗に違うことをものともせぬ決心を定められたうえは、躊躇なさいませぬように。高徳を論ずる者は、世俗に同ぜず、大功を成す者は、衆愚にはわからないものです。 王には何を躊躇される必要がございましょう」と答えた。
武霊王はついに服装を胡服に変えた。
B.C.298、5月戊申の日、武霊王は大いに群臣を東宮に朝見させ、王子何を国王に立てた。
肥義は相国となり、兼ねて王の師傅となった。
B.C.296武霊王の長子が代に封じられた。李兌は肥義に「公子章は強壮で驕慢、 欲望が大きく私心があるようです。 また宰相の田不礼は残忍で驕慢です。ふたりはそのうち乱を起こしましょう。 あなたは勢力が大きいので乱の目標になりましょう。仁者は万物を愛し、智者は禍を未然に防ぐといいます。 どうして病と称して政事を公子にお渡しにならないのですか」と言った。
肥義は「そうではない。かつて主父(武霊王)は『なんじの節義を変えてくれるな。なんじの思慮をちがえてくれるな。堅く一心を守って、なんじの一生を終えてくれ』と言われた。 わたしは再拝して命を受け、これを記録している。いま禍を恐れて、この言葉を忘れるのでは、これ以上の変節はあるまい。
進んで厳命を受けながら、退いてこれを全うしないのでは、これ以上の背信はあるまい。変節背信の臣は刑を免れぬ。ことわざに『死者また生くとも、生者恥じず』とある。
わたしは前言を全うしたいと思う。そなたから忠告をいただき、誠実を尽くしていただいたが、わたしには前言があり、それを失うわけにはいかない」と言った。
李兌は「わかりました。どうか、せっかくおつとめください。わたしがあなたにお目にかかれるのも、今年きりです」と言い、涙を流して退出した。
肥義はまた信期に「公子と田不礼のことが案じられてならない。そのうち禍が国に及びましょう。 これからは盗賊の出入りに備えなければなりません。今後、もし王を招く者があったら、 かならず私に会わせてからにしてほしい。わたしはまず身をもってこれにあたりたいと思う。
わたしの身が無事なことを確かめてから、王が入られるのがよい」と言った。
B.C.295公子章は徒党を率いて田不礼とともに乱を起こし、まず主父の命令といつわって王を招いた。肥義は王に先立って進み出ると、そこで章に殺された。
費庈父(ヒキンボ)【武官】
魯の臣。
B.C.722、4月、費伯は軍を率いて郎に城壁を築いた。
B.C.721、夏、司空展無駭が軍を率いて極の地に侵略した。このとき費庈父は郎にいたが、これに乗じて極に攻め入り、 これを滅ぼした。
非子(ヒシ)【王】
秦公(初代)。大駱の子。〜B.C.857。
犬丘におり、馬や家畜を好み、よく飼育した。
犬丘の者がこれを周孝王に告げたので、非子は孝王に召され、汧水と渭水の間で馬を飼育した。
馬が大いに繁殖したので、孝王は非子を一族の嫡嗣にしようとしたが、とりやめて、非子を秦に住まわせ、嬴氏の祭を継続させて、号して秦嬴といった。
弥子瑕(ビシカ)【文官】
衛の臣。弥子暇とも書く。
霊公に仕えた。
弥子瑕の妻は子路の妻と姉妹であったため、弥子瑕は孔子に仕官をすすめたが、孔子は断った。
微子開(ビシカイ)【王】
商王朝の公子。宋公(初代)。名は啓(漢景帝の諱(啓)を避けて開とされることがある)。帝乙の子。
妾の子であったため商王朝の位を継げなかった。
受辛が淫乱な政治をおこなったため、微子はしばしば諌めたが聴きいれられなかった。そこで国に一命を捧げようか、それとも国を去ろうか迷い、 決めかねて楽官の太師、少師に問うた。太師、少師は微子に去ることを勧め、ついに逃亡した。
周が興り、三監の乱で兄の禄父が反乱して誅殺されたため、代わって祖先の祭祀を奉じるよう命じられ、宋に封ぜられる。
もともと仁慈賢明であったので商の遺民はこれを奉戴し敬愛した。
微子啓(ビシケイ)
微子開
罷戎(ヒジュウ)【公子】
楚の公子。右尹。
B.C.564閏12月、鄭が晋についたので、楚恭王は鄭を討った。鄭は楚と和睦したので、公子罷戎は鄭に使いして同盟を結んだ。
B.C.558罷戎は右尹に任じられた。
羋戎(ビジュウ)【武官】
楚、秦の臣。姓は羋、名は戎。宣太后の同父弟。華陽君。新城君。
羋戎は楚を出奔して、東周に赴いた。
秦王の近侍段産は羋戎に、羋戎のことを讒言しないから、他人が段産のことを誹謗しても信用しないようにとお願いした。
B.C.299羋戎は楚を討ち、新市を取った。
費昌(ヒショウ)【神】
秦王朝の先祖。若木の玄孫。
桀王の時、夏を去って商王朝に服し、湯王の御者となり桀王を鳴条に破る。
妣辛(ヒシン)
婦好
裨(ヒジン)【文官】
鄭の臣。
B.C.544、12月8日、鄭の大夫は良霄の家で盟いを結んだ。
裨「この盟いは、どれほど続くだろうか。禍は決してまだ終わっていない。必ず3年ほど経ったら禍もおさまるだろう」
鬷蔑「政権はどなたに行くだろうか」
裨「子産であろう。卿の序列からしても子産はその順番であるし、世間の人々に最も尊ばれている」
裨は謀に優れており、静かな郊外で謀るとうまくいったが、さわがしい城内ではうまくゆかなかった。 そこで子産は裨と一つ車に乗って郊外に出かけてことの良し悪しを考えさせて外交問題を処理した。
尾生(ビセイ)【在野】
古代の人で、信を守って身を滅ぼしたとされる。
裨竈(ヒソウ)【文官】
鄭の臣。
裨竈は、卜筮など数術の専門家であった。
B.C.554子蟜が没したとき、 裨竈は子羽と葬儀に出かけようとして良霄の家の前を通り過ぎると、 その門の上に莠(はぐさ)が生えていた。子羽はそれを見て「あの莠が(良霄が死ぬまで)残っているだろうか」と言うと、 裨竈は「今年中はもつだろうが、歳星が一周して再びこの降婁の次にやってくるまではもつまい」と言った。はたして良霄はそれまでに叛乱を起こして戦死した。
B.C.545裨竈は「今年、周王と楚子が死ぬであろう。歳星がその宿る場所(星紀)を捨てて来年の宿るべき場所(玄枵)に宿って南の鶉尾を突き刺している。 周と楚に不吉が起こるであろう」と予言し、はたしてそのとおりとなった。
B.C.533、4月、陳に火災があった。裨竈は「5年後に陳は復興するであろう。復興して52年経ったら、そのまま滅亡するであろう」と予言した。 子産がそのわけを尋ねると、裨竈は「陳は水に属しています。今、陳に火災が起こったのは火である楚を追い出して陳を再建させる天意です。 五行の順で5年後に復興し、歳星が5回鶉火にめぐる52年後に滅びるといったのです」と答えた。
B.C.532、1月、惑星が婺女の座に現れた。裨竈は子産に「7月4日に晋君が亡くなるだろう。婺女の星宿が玄枵(斉と薛の地方)の始めにあって、 そこに怪しい星が表れたというのは、天が邑姜に晋君の死を告げるものです。邑姜は晋の祖先の康叔を生んだ母です」と言った。 はたして7月4日に晋平公は没した。
B.C.525冬、彗星が大辰の西に現れ、その光が銀河まで及んだ。裨竈は子産に「宋・衛・陳・鄭に火災が起ころうとしております。わたしがおはらいをすれば、 鄭には火災が起こらないでしょう」と言ったが、子産は聴き入れなかった。
B.C.524、5月14日、鄭で火災が起こった。裨竈は「わたしの言う通りにしないと、また火災が起こるであろう」と言った。
費仲(ヒチュウ)【文官】
商王朝の臣。
奸臣といわれる。おべっかの名人であり、受辛の自信過剰を冗長させ、王朝を破滅に導く。
微仲(ビチュウ)【王】
宋公(2代目)。名は衍。微子開の弟。
畢公(ヒツコウ)【武官】
周王朝の臣。
召公と共に王の軍を司る。
畢公高(ヒツコウコウ)【公子】
周王朝の公子。周文王の15子。
畢氏、馮氏、魏氏の始祖となる。
畢万(ヒツマン)【武官】
晋の臣。魏の先祖。
B.C.661晋は上下二軍をつくり、太子申生を下軍の将、趙夙を御者、畢万を右乗に任じた。
畢万は献公の右乗となり、霍・耿・魏を討ち滅ぼす。
功によって畢万は魏に封ぜられ、晋の大夫となる。
卜官の郭偃は「畢万の子孫はかならず強大になるだろう。万は満ち足りた数であり、魏は高大を意味する。高大な魏が、 満ち足りた万に初めて賞賜されたのである。天与の瑞兆であろう。その子孫はかならずや衆民を領有するであろう」と言った。
最初、畢万は晋に仕える可否を占ったところ「屯が一転して比になるに遭う」と出た。辛廖はこれを判断して 「吉であります。屯は堅固を意味し、比は親密を意味します。これ以上の吉兆はございません」と言った。
畢万の子孫はいよいよ栄え、その封邑の名にちなんで魏氏となった。
畢陽(ヒツヨウ)【文官】
晋の賢士。
伯宗は妻の助言に従い、賢士を捜して畢陽を得て、子の伯州犂を託した。
B.C.576伯宗が三郤(郤錡郤犨郤至)に 讒言されて、厲公に殺された。
畢陽は伯州犂を無事に楚へ護送した。
邳鄭(ヒテイ)【文官】
晋の臣。〜B.C.650。
B.C.663晋
献公が太子申生を廃して、奚斉を立てようとした。
里克邳鄭荀息が会ったとき、里克が言った。
史蘇の話どおりになりそうだが、どうしたらよいでしょうか」
荀息「君に仕える者は、力の限り職務を遂行するといいます。君が太子を立てれば臣はその命に従うだけです」
邳鄭「君に仕える者は、君が義にかなえば従い、君の惑乱には従わないと言います。惑乱すれば民を誤ります。民に君があるのは、義を治めて正道を行うためです。 わたしは必ず太子申生を立てるつもりです」
里克「わたしは不徳で義を知りませんが、君の惑乱にも従いません。沈黙を守りましょう」
驪姫は奚斉を立てるときに里克が障害になると思い、俳優の優施を使って、里克に献公が太子廃立を決めたことを伝えた。 里克は夜明けを待って邳鄭に会って言った。
里克「史蘇の話が実現しましょう。優施がわたしに知らせました」
邳鄭「あなたは何と答えたのですか」
里克「中立を守ろうと答えました」
邳鄭「惜しいことでした。信じられないと答えて驪姫の気持ちをくい止めるべきでした。今あなたが中立と言ったからには、ますます陰謀は強固となりましょう」
里克「あなたはいかが致しますか」
邳鄭「わたしには自立的な心はありません。従って君に仕える者は、君がわが心であり、規制は我にありません」
B.C.651秋9月、献公が没した。里克が奚斉を殺そうとして邳鄭に告げた。邳鄭は「私はあなたを助けましょう。あなたは七輿大夫を率いて私を待っていて下さい。 私は狄と秦へ行って両国の援助を頼んで支援しましょう。そして条件の不利な公子を即位させたなら、私たちは思いのままにすることができます」と言った。 里克は「いけません。願わくは、諸侯がその君を義として愛撫し、百姓が喜んで奉戴するならば、国家は安泰しましょう」と言い、10月、 三公子の徒党を率いて乱を起こし、奚斉を殺した。 里克はさらに悼子を殺して重耳を擁立しようとしたが、重耳に断られたため、 夷吾(恵公)を擁立した。
B.C.650恵公の命で秦に赴き「さきに河西の地の割譲を約束しましたが、大臣たちが『領地は光君の領地であります。 君は国外に亡命していながら、どうしてほしいままに土地の割譲を秦に許すことができましょう』と言い、わたしも大臣たちと争いましたが、 どうしても彼らを説き伏せられなかったので、ここに謹んでお詫び申し上げます」と言い、前年の約束を反故にした。
ちょうどこのとき晋で里克は死を賜っていた。邳鄭は秦に言っていたので、難を免れたのである。
そこで邳鄭は晋恵公を見限り、秦繆公に「晋が約束を守らないのは呂省郤称冀芮がいるからです。彼らに賄賂を贈り、 共謀して重耳を迎え入れればよろしいかと存じます」と進言した。繆公はこれを許した。
このとき邳鄭は共華に「帰国しても大丈夫でしょうか」と問うた。共華は「われわれはみな国内にいますが罰せられず無事です。 大丈夫でしょう」と答えたので邳鄭は帰国して、秦が呂省・郤称・冀芮を呼んでいることを告げた。 冀芮は「邳鄭の訪秦の礼は薄かったのに答礼が厚いのは、きっとわれわれを誘い出そうとしているのだ。彼を殺さなければならない」と言い、 邳鄭は七輿大夫と共に殺された。
罷敵(ヒテキ)【公子】
楚の公子。〜B.C.529。
B.C.529公子子皙・公子弃疾が叛乱を起こして都に攻め入り、 公子罷敵は彼らの命を受けた侍従長に殺された。
費伯(ヒハク)
費庈父
邳豹(ヒヒョウ)【武官】
晋の晋、秦の臣。邳鄭の子。
B.C.650邳鄭が郤芮呂省郤称に殺されたため、 邳豹は秦に出奔して秦繆公に「晋君は民の信望を失い、君との約束に背き、 里克を殺し、そして今またわたくしの父と七輿大夫を殺しました。君がもしこれを征伐させたら、きっと晋君は逃げ出すでしょう」と言った。 繆公は「晋君の禍はまだ死ぬほどではない。禍のために亡命したのに、だれがその君を追い出すことができようか。しばらく待たれよ」と言った。
B.C.647晋に飢饉があった。邳豹は「晋君は民を失った上に、また天意をも失いました。君は穀物の輸入を許してはなりません」と言ったが、 繆公は「わしはその君を憎むが、民には何の罪があろうか。天災は代わる代わるやって来るものであるし、飢饉のときに食糧を送るのは道である」と言って、 舟を黄河に浮かべて晋に穀物を輸出した。
B.C.645将に任じられて晋を討ち、韓原でこれを破った。
斐豹(ヒヒョウ)【武官】
晋の臣。
斐豹は罪を犯して公宮の下僕となり、その罪は朱書きの記録書に記されていた。
B.C.550欒盈がひそかに帰国して叛乱を起こした。斐豹は范匃に 「もし朱書きの記録書を焼いてくれるなら、欒氏の大力の督戎を殺しましょう」と言ったので、范匃は喜んでこれを許した。 はたして斐豹は督戎を殺した。
費無忌(ヒムキ)【文官】
楚の臣。太子の少傅。費無極ともいう。〜B.C.515。
B.C.529楚平王が即位すると、伍奢が太子建の大傅となり、費無忌は少傅となった。 しかし費無忌は太子建に愛されなかったためこれを恨み、いつも楚平王に太子を讒言していた。
B.C.527費無忌は朝呉が蔡に居るのはよくないと考え、これを追い払おうとして、朝呉に「王はあなたを信用しています。 もっと高い地位をお求めになりなさい」と言い、また蔡の上位の人に向って「王は朝呉を信用しており、とてもあなたはこれに及びません。 今のうちに処置しないと禍にかかるでしょう」と言った。
夏、蔡の人は朝呉を追い出し、朝呉は鄭に出奔した。楚平王は立腹して「わたしは呉(朝呉)を信用して蔡に置いたのだ。 それに呉がいなかったら、わたしは王になれなかったであろう。どうして追い出したのか」と言うと、費無忌は「わたしは呉の人柄を知っております。 呉が蔡におれば、蔡はきっと楚に叛いて飛び去るでしょう。蔡の翼を切って飛べないようにしたわけです」と答えた。
B.C.523費無忌は楚平王の命で、太子建の妻を迎えに秦に赴いた。その公女が美貌であったため、これを楚平王に献上した。太子建がそれを恨んでいると思い、 費無忌はさらに讒言により楚平王に太子建を疑わせ、城父におらせて国境を守らせた。
B.C.522春、費無忌は楚平王にさらに太子建を讒言して「わたくしが秦の公女をお入れしてこのかた、太子はわたしを恨んでいるので、 わが君にも恨みを抱かぬはずがありません。王におかれては、ちと、ご用心なされますよう」と讒言したので、 楚平王は伍奢を問責すると伍奢は「王はどうして、たかが小臣の口先だけで、骨肉の親をうとんじられますか」と言った。
しかし費無忌が「いまにして彼らを抑えなければ、後悔なさいましょう」と言ったので、楚平王は伍奢を捕え、太子建を誅殺しようとした。 そのため太子建は宋に亡命した。
さらに費無忌は楚平王に「伍奢に子がふたりおります。殺さなければやがて楚の禍となりましょう。父を放免するという口実でふたりをお召しになれば、 必ず来ましょう」と進言した。そして楚平王はやってきた伍尚とともに伍奢を殺した。
太子建を讒言し、伍奢父子と郤宛を殺して、呉の侵入を許したことで衆人から恨まれた。
B.C.521費無忌は賄賂を蔡の東国から受け取り、蔡人に「は楚の命令を聞かないため、 楚王は東国を立てようとしている。王の考えどおりにしないと、楚はきっと蔡を囲むであろう」と言った。蔡人は恐れて、朱を追い出して東国を立てた。 そのため朱は無実を楚に訴えた。費無忌は「平侯は楚に背かないと盟いを結んだからこそ封じられたのです。その子の朱が二心を抱いたため、やめさせたのです。 隠太子の子の東国は父を霊侯に殺されており、わが君に恩義を感じています。蔡はもう楚に二心をいだくことはないでしょう」と言った。
B.C.515費無忌はあるとき令尹子常に「子悪(郤宛)はあなたに酒をふるまいたいと言っております」と言い、 一方で郤宛には「令尹があなたの家で酒を御馳走になりたがっております」と言った。郤宛は「この上もないお恵みですが、わたしは卑しい者でお礼の進物を差し上げることはできないでしょう。 どうすればよいでしょうか」と問うと、費無忌は「令尹は武具を好まれる。わたしが選びましょう」と言ってよろいを5つ、武器を5つ取って門に並べるよう勧めた。 いよいよ饗応の日になると、費無忌は子常に「わたしはあなた様に災いをおかけするところでした。子悪は武装兵を門に伏せております。行ってはいけません」と言った。 子常は郤宛の様子を調べさせると、武器が用意してあった。そこで子常は郤宛を殺そうとしたため、郤宛はすぐに自殺した。 また子常はその一党の陽令終とその弟陽令完と陽令佗、大夫の晋陳とその子や弟を殺した。
9月14日、子常が郤宛を殺したことについて国中のそしりがやまなかった。沈尹戌が「あの無忌は告げ口をする悪人です。朝呉を去らせ、 蔡侯朱を追い出し、太子建を国外に去らせ、連尹奢(伍奢)を殺し、今やまた罪なき3人を殺して、あなたにも災いがかかろうとしています。 いったい鄢将師はあなたの命令であると偽って三族(郤氏・陽氏・晋陳氏)を滅ぼしたが、あの三族はわが楚国の良臣です。 今や呉では新しい君が立って国境は毎日安らかではありません。知恵ある者は自分を告げ口する悪人を除いて身の安泰を図ります」と警告したため、 子常は費無忌と鄢将師を殺し、その一族を残らず滅ぼして国の人々に申し開きをし、そのため衆人は喜んだ。
費無極(ヒムキョク)
費無忌
百里(ヒャクリ)【文官】
許の臣。名は不明。
B.C.712斉・魯・鄭の連合軍は許を討ち、許荘公は衛に亡命した。
釐公は許を自分のものとせず、魯に許を譲ろうとしたが、魯はこれを辞退したため、釐公は鄭にこれを譲った。
荘公もこれを自分の領土とせず、許荘公の弟許叔に任じて治めさせ、 また百里に命じて許叔を守り立てて許の東部におらせた。
百里奚(ヒャクリケイ)【宰相】
虞の臣。秦の宰相。姓は孟。
楚の人。
B.C.655百里奚は虞の臣であったとき、晋に攻められて捕らえられ、 晋献公の公女である秦繆姫の媵(付添い人)とされた。
百里奚は逃げ出したが、宛で楚の里人に捕えられた。この時百里奚は70余歳であったので秦繆公は捕虜であることを許し、 国事を相談しようとした。百里奚は辞退して「わたくしは亡国の臣で、国政を問われる価値はありません」と言うと、繆公は「虞君はおまえを用いなかったから滅んだのである。 おまえの罪ではない」と言い、語り合うこと3日、繆公は大いに喜び、百里奚は国政を任され、号して五羖大夫といった。
教令を国内に発して国人を感化し、巴人も貢物をもたらし、恩徳を諸侯に施したので、八戎も帰順した。
また西戎の由余も名声を聞き、会見を請うた。
百里奚はまた謙遜して「わたくしはわたくしの友蹇叔に及びません」と蹇叔を推挙した。
B.C.647晋に旱魃があり、秦に粟を請うた。邳豹は「このすきに討つべきです」と言った。繆公は百里奚にこれを問うと百里奚は「夷吾が君に対して罪を犯したとて、 百姓には何の罪がありましょう」と言ったので、ついに粟を与えることとした。
B.C.628冬、鄭人で鄭国を秦に売る者があり「自分が鄭の城門を司っているので、鄭を襲うのがよろしい」と言った。繆公は百里奚・蹇叔に相談した。百里奚は 「数ヶ国をこえ、千里の遠方に人を襲って、利益を得たものはありません」と言ったが、繆公は「おまえらはわからないのだ。わしはもう決めている」と言い、 百里奚の子孟明視・蹇叔の子西乞術白乙兵を将として出発した。
百里奚と蹇叔は哭き、子らに「もしおまえらの軍が敗れるなら、きっと殽の険であろう」と言った。
B.C.627春、秦軍は殽で晋に破られ、三将は捕えられる。
百里奚は疲れても車中で腰かけず、暑くても車に幌を張らず、国内を行くのに供車を従えず、武装の護衛を伴わなかった。
没すると秦の男女は涙を流し、童幼も歌声をあげなかった。
繆賢(ビュウケン)【文官】
趙の臣。宦者令(宦官取締りの官)。
恵文王は楚の和氏の璧を手に入れた。秦昭襄王はこれを聞いて 「願わくは15城をもって璧と交換したい」と申し入れた。趙の朝廷は対応に悩み、決しかねていた。
そこで繆賢は自分の舎人の藺相如を推挙して、これに当らせた。
馮(ヒョウ)【文官】
楚の公子。
B.C.595鄭に攻め込む口実を作ろうとして、楚荘王は馮に命じて晋に使いさせ、鄭を通る時、通行を願う挨拶をしないで通らせた。
馮夷(ヒョウイ)【神】
水仙人。
河伯であるともいう。
彪傒(ヒョウケイ)【文官】
衛の臣。
B.C.510、11月、彪傒は諸侯と会合して成周に城壁を築いた。このとき晋の魏献子は君の如く南面して言い渡したため、 彪傒は「魏子はきっと大きなとがめを受けるであろう。君の位を犯して大事な命令を下した。やるべきことではない」と言った。
B.C.509、1月7日、魏献公は諸侯の大夫を狄泉に集めて、成周の城普請に着手しようとして一切を指揮した。彪傒は「天子の卿大夫にかわって号令するのは筋道ではない。 魏子はきっと災いからのがれることはできないであろう」と言った。魏献子は仕事を他にまかせて、自分は大陸という沢地に出かけて焼き狩りをしたが、 やけどにあい引き返す途中の甯で没した。
B.C.506周の劉巻萇弘とともに成周に築城しようとした。
彪傒はこれを聞いて単穆公に会って言った「萇弘と劉子は不幸な死をとげましょう。 彼らは天が破壊しようとする周を支持しようとしています。昔孔甲が夏王朝の政治を乱してから、4世で夏は滅びました。 商の始祖玄王が基礎を築いてから、14世経ってが天子となりました。帝甲が政治を乱して、 7世で商は滅びました。周の始祖后稷が基礎を築いてから、15世経って文王が興り、 幽王が政治を乱してから、14世になります。どうして周を再興することなどできましょうか」
麃公(ヒョウコウ)【将軍】
秦の将軍。
B.C.246秦王が即位すると、将軍に任じられる。
B.C.244巻を攻め、首を斬ること3万であった。
苗賁皇(ビョウフンコウ)【文官】
楚、晋の臣。鬭椒の子。苗棼皇とも書く。
B.C.605若敖氏の乱のとき、父の鬭椒がとがめられたので、苗賁皇は晋に亡命した。
晋は彼を苗の地に住まわせたため、苗賁皇は姓を苗と改めた。
B.C.592、6月、晋景公が諸侯と会合した時、斉の使者を幽閉した。
苗賁皇は野王に捕えられている晏弱にあった後、景公に「あの晏子は何の罪がありましょう。斉君は晋に礼遇されないことを恐れて、 みずからは出かけないで4人の使者を遣わしたのです。これを捕えるのはこちらの過ちではありませんか」と諌めた。そこで景公は晏弱の見張りを緩めて逃げさせた。
B.C.588斉頃公は前年、鞍で晋に敗れたため、晋に来朝した。 このとき郤克は頃公を国君を捕虜にした礼で対応した。苗賁皇はこれを聞いて「郤子は勇気はあるが礼を知らず、 その功を誇って国君を辱しめた。どれだけ生きられるだろうか」と言った。
B.C.575、6月29日、鄢陵の戦いで、晋厲公の左右の者は伯州犂が楚に亡命しており、 また楚軍が多いことを恐れた。しかし苗賁皇が「楚の精鋭は中軍にいる王の旗本だけです、わが精鋭を二手に分けて左右の二軍を攻撃し、 そののち三軍をもって楚の本陣を集中攻撃すれば敵を大破できるでしょう」と進言した。晋厲公はこの策の吉凶を筮をたてて占ったところ、 吉と出たので苗賁皇の策に従った。
楚軍が晋軍を圧迫して布陣してきたので晋の軍吏は恐れた。 范匃が走り出てきて「かまどを崩し、井戸を埋めて広場を作れば、敵との距離を保つことができます」と進言した。
范匃の父士燮は戈を持って范匃を追いかけて「国の存亡は天命である。小僧に何が分かるか。 しかも聞かれもしないのに発言するのは罪である。必ず処刑されよう」と言った。これを聞いて苗賁皇は「無事に災難を免れるでしょう」と言った。
戦いの1日目が終わろうとしたとき、苗賁皇は策略を立て、晋軍が捕えていた楚兵をわざと釈放し、晋軍が次の日も合戦する準備をしていると報告させた。 楚恭王は恐れて子反を呼び寄せて相談しようとしたが、 子反は酒に酔っていたため呼び寄せに応じることが出来なかった。そこで楚恭王は夜のうちに撤退した。かくて晋軍は大勝した。
蜚廉(ヒレン)【文官】
秦王朝の先祖。中潏の子。
走るのが速かったので子の悪来ともども商紂王に使える。
武王が紂王を討った時、蜚廉は北方に使いしていた。紂王が死んでしまったので、霍太山に壇を作ってそこで使いの報告をした。 壇を作るとき土中から石棺が出て「天帝は汝の忠誠を嘉して、商の乱にあずからないようにし、汝に石棺を賜い、汝の家に光栄を与える」とあった。
蜚廉は自殺し、霍太山に葬られた。
飛廉(ヒレン)【神】
風の神。
湣王(ビンオウ)【王】
田斉王(3(5)代目)。名は地。宣王の子。〜B.C.284。
B.C.324宣王が没して、代わって立つ。蘇秦は湣王に葬式を盛大に行うように進言した。 これは燕のために斉を財政的に疲弊させようとしたためである。
B.C.321田嬰を薛に封じる。
B.C.320秦から妻を迎える。
蘇秦が斉の大夫の刺客に刺されたが、まだ絶命に至らなかった。蘇秦は死に瀕して斉湣王に「もしわたくしが死んだら、わたくしを車裂きの刑に処し、 『蘇秦は燕のために謀り謀反した』と言われよ。そうすれば、わたくしを刺した賊は必ず捕らえられましょう」と言い、没した。
はたして刺客が自首してきたので、湣王はこれを誅殺した。
B.C.317宋とともに魏を討ち、これを観沢で破る。
B.C.314燕の国内が宰相子之と太子平に別れて内乱状態であることに乗じて、太子平をそそのかして子之を討たせる。 両者が争っているところへ、匡章に命じ燕を攻めさせ燕王を殺し、子之を逃亡させる。
B.C.312魏を討つ。
B.C.311張儀は湣王を説いて「大王がもし秦に仕えなければ、秦は韓・魏をつかって斉の南を攻め、趙は西を攻め、 臨淄・即墨は王の所有でなくなります」と言った。湣王は張儀に従った。
B.C.306秦の甘茂が斉に来た。蘇代が斉に来て湣王に 「甘茂は賢人であります。秦が上卿の位を与え、宰相に任じようというのに、甘茂は王の臣となることを喜んでこれを辞退しました。王は何をもって彼を礼遇なさいますか」 と言った。そこで湣王は甘茂に上卿の位を与えて、斉に留めおいた。
B.C.301秦とともに楚を討ち、これを重丘で破る。
秦が涇陽君を人質として斉に入れる。
B.C.300涇陽君を秦に帰す。
B.C.299楚を討ち、唐眜を破る。
B.C.298孟嘗君を秦に入国させる。
B.C.297孟嘗君が秦から命からがら出奔し、帰国した。湣王は孟嘗君を秦に遣わしたので、これを恐れたため、孟嘗君を宰相とした。
B.C.296孟嘗君に命じて、韓・魏とともに秦を討ち、函谷関に行って布陣する。また趙を援けて中山国を滅ぼす。
湣王は説客祝弗の進言により、 周最を放逐して呂礼を宰相にした。
B.C.288湣王は東帝を称し、秦昭襄王は西帝を称した。
しかし蘇代の諫言により、すぐに取りやめる。
B.C.284宋を討ち、宋王は国外に亡命し、宋を滅ぼす。
ここにおいて斉は楚の淮北を割き取り、西は三晋を侵略し、それによって周室を併せて天子になろうとした。
泗水沿岸の諸侯の鄒・魯はみな臣と称し、諸侯は恐懼した。また湣王はますます驕慢となり、孟嘗君を退けたいと望んだ。孟嘗君は恐れて魏に去った。
そのため燕・秦・楚・三晋に攻められ、済西で破られ、湣王は退却した。さらに燕の楽毅に攻められ臨淄に入られ、 宝器をすべて失う。
斉の臣達子は残兵を収拾して勢力を盛り返し、燕を破った。
達子は将士を賞するための金品を要求したけれども、湣王は与えることを拒絶した。そのため、斉軍は敗北した。
湣王は亡命して衛に行く。湣王は傲慢不遜であったので衛人にうらまれた。
湣王は衛を去って鄒・魯に逃れたが、拒否され、ついに莒に逃げた。
楚から淖歯が兵を率いて斉を救援したので、湣王はこれを宰相とした。
しかし淖歯は湣王の罪を責めて「さて臨淄の西北にあたる地に血の雨が降ったことを王はご存知でしょうか」「知らない」
「泰山付近の地で、大地が裂けて黄泉にまで届いたということを王はご存知でしょうか」「知らない」
「宮門のところで人の泣き声がし、探しても姿は見えず、離れるとその声が聞こえる、ということを王はご存知でしょうか」「知らない」
「天が血の雨を降らせることは、天の警告であり、地が裂けるのは地の警告であり、宮門で人の泣き声がするのは人の警告です。天・地・人がいずれも警告しているのに、 王には自戒することがない。これでは、どうして誅殺しないでおられましょうか」と言って、湣王は莒の鼓里で殺された。
賓滑(ヒンカツ)【文官】
周王朝の臣。
B.C.533晋の閻嘉と周の大夫が閻の耕地について争い、晋は陰戎の人を率いて周の穎邑を討った。 そこで周景王詹桓伯に命じて晋に訴えたため、 晋は趙景叔を遣わして和解した。そこで周景王も賓滑に命じて大夫襄を捕らえて晋に弁解させた。 晋は賓滑を手厚くもてなして帰した。
賓起(ヒンキ)【文官】
周王朝の臣。賓孟ともいう。〜B.C.520。
景王下門子を殺した。
あるとき賓起が近郊へ行き、おんどりが自分の尾を切るのを見た。お付の者が「お祭の生贄にされるのを恐れて、自分で尾を切って不適格者になろうとしたのです」と言った。 賓起はそこで帰って周景王に「にわとりが人に生贄にされるのは当然です。しかし、人はちがいます。祭祀の犠牲のように尊貴な君位にある者が人を殺しています」と言い、 景王が下門子を殺したことを暗に諌めた。
B.C.520太子寿が早く死んだため、周景王と賓起は子朝を寵愛して太子に立てようとした。 劉文公は賓起の人柄を憎んでおり、また子朝のことも憎んでおり、これを追い払いたいと考えていた。
5月4日、周悼王が即位すると、賓起は劉文公に攻め殺された。
湣公(魯)(ビンコウ)【王】
魯公(17代目)。閔公とも書く。名は啓。啓方ともいう。魯荘公の子。母は叔姜。B.C.670〜B.C.660。
B.C.662、8月5日、荘公が没すると、公子が即位した。
慶父は叔姜の姉の哀姜と私通していたため、慶父は斑を弑して啓を擁立した。
B.C.661、6月、湣公は荘公を葬った。
8月、湣公は斉桓公と斉の落姑で盟い、湣公は陳に出奔した季友を魯に戻すよう請うた。 桓公はそれを許した。そこで湣公は郎に泊まって季友を待ち迎えた。
B.C660、5月7日、湣公は荘公を太祖の廟で合祭した。
湣公の守役が卜齮の田地を横取りしたが、湣公はこれを咎めなかった。
8月25日、慶父は自ら立とうとたくらみ、卜齮に命じて湣公を宮中の小門で殺した。
湣公(燕)(ビンコウ)【王】
燕公。〜B.C.403。
B.C.422即位する。
湣公(陳)(ビンコウ)【王】
陳公(24代目)。名は越。懐公の子。〜B.C.479。
B.C.504懐公が呉に抑留されたため、国人に擁立される。
B.C.498孔子が陳に来る。
ある日、一羽の隼が宮廷の庭先に落ちてきた。楛矢で貫かれて死んでおり、その矢の石の鏃で長さ一尺八寸であった。
湣公は陳に来ていた孔子にこのことを問うと、孔子は「これは粛慎の矢です。むかし周武王は商に勝つと、 九夷・百蛮にそれぞれ地方の物産を貢物として来朝させ、その職務を忘れないようにさせました。そして粛慎は楛矢を貢物としたのですが、 石の鏃の長さが一尺八寸でした。
武王は粛慎の矢を大姫に与え、虞舜の後裔胡公満に嫁がせ、 陳に封じました。周は同姓の国々には珍奇な宝玉を分け与え、異性の国々には遠方の貢物を分け与えて、服従を忘れることのないようにしたのです。
それゆえ陳には粛慎の矢があるはずです」と答えた。
湣公は試しに旧府庫を捜したところ、はたして楛矢が見つかった。
夫差に攻められ、三邑を失う。
B.C.491呉に攻められるが、楚に援助を求め、楚軍が城父に陣取ったので呉軍は退いた。
B.C.485呉夫差が斉を艾陵で破り、湣公を招いたので、湣公は恐れて呉に赴いた。楚に攻められる。
B.C.479楚恵王に攻められて殺される。
陳は滅び、その土地は楚が領有することとなる。
湣公(杞)(ビンコウ)【王】
杞公(16代目)。名は維。釐公の子。〜B.C.478。
B.C.478弟の閼路(哀公)に殺される。
湣公(宋)(ビンコウ)【王】
宋公(5代目)。名は共。丁公の子。
湣公(宋)(ビンコウ)【王】
宋公(17代目)。名は捷。荘公の子。〜B.C.682。
B.C.692、即位する。
B.C.691、4月、荘公を葬る。
B.C.689冬、湣公は斉・魯・陳・蔡とともに衛を討った。
B.C.684、2月、魯が宋に侵攻する。
3月、湣公は宿を遷す。
6月、宋軍は斉軍とともに魯の郎に攻め入って陣をかまえた。魯の公子が雩門からこっそり抜け出て、 虎の皮をかぶり、宋軍に攻め入った。それを見た魯荘公はそれに続いて、宋軍は魯の乗丘で大敗した(乗丘の戦い)。
この戦いで南宮万が捕えられたが、湣公は請うて釈放してもらった。
B.C.683、5月、宋は魯に攻め入ったが、魯荘公は宋軍がまだ陣形を整えないうちに攻撃をかけて、宋軍は魯のシで破られた。
秋、宋に洪水があった。魯荘公は臧文仲を遣わしてお見舞いをさせ 「天は長雨を降らせて祭りに供える穀物を損なったとのこと。どうしてお見舞いせずにおられましょうか」 と言った。湣公は「わたしが不敬で政治をつつしまないばかりに、天は災害を降し、その上、君にもご心配をかけました。 仰せのほどありがたく存じます」と答えた。臧文仲はこの言をよしとしたが、実は公子禦説が教えたものであった。
B.C.682秋、南宮万とともに狩猟に出かけ、博打をした。湣公は南宮万を侮辱し「わしはそちを尊敬していたが、今では魯の捕虜じゃないか」と罵った。
8月9日、湣公は怒った南宮万に蒙沢で、博打の盤をもって殴り殺された。
湣侯(ビンコウ)【王】
晋侯(16(17)代目)。哀侯の弟。〜B.C.677。
B.C.704小子侯が曲沃武公に殺される。 周桓王虢公林父に命じて武公を討ったため、武公は曲沃に戻り、 湣侯は擁立される。
B.C.677曲沃武公に攻められ殺される。
ここにおいて主家は滅び、武公が晋を継ぐ。
閔子騫(ビンシケン)
閔損
閔子馬(ビンシバ)【文官】
魯の臣。
季孫弥は後継ぎから外され、また馬正の役に任じられたので、腹を立てて家に閉じこもった。 閔子馬は「そんなことはなさるな。禍福は人が自ら招くものです。人の子たる者は親に不孝なことを心配すべきで、地位のないことを気にすべきではありません。 父の命令を慎んでお受けすべきです。そうすれば、その財は本家の倍にもなりましょう」と諌めたので、季孫弥はもっともだと考えて職務に励んだ。 かくて季孫弥は本家よりも富むようになり、さらに出仕して魯襄公の左宰となった。
B.C.524秋、曹平公の会葬に出かけた周の原伯魯が魯人と話したが、学問を好まない様子であった。 このことを聞いた閔子馬は「周はきっと乱れるであろう。下々の風潮が在位者にも及んだのだろう」と言った。
賓須無(ヒンシュム)【文官】
斉の臣。賓胥無ともいう。
桓公に仕える。
公平無私であったため、大司理(司法長官)となる。
賓胥無(ヒンショム)
賓須無
閔損(ビンソン)【在野】
孔子の弟子。姓は閔、名は損、字は子騫。B.C.536〜B.C.487。
魯の人。孔門の十哲のひとり。
有力な大夫にも仕えず、悪徳の君の禄を食もうとせず「もし、また私を召す者があれば、汶水のほとりに隠れよう」と言った。
孔子は評して「孝行者かな、閔子騫は。父母兄弟が彼の孝行を褒めても、だれ一人異議をさしはさむものはない」と言った。
閔馬父(ビンバホ)【文官】
魯の臣。
B.C.520叔鞅が周の都から周景王を葬って帰国し、王室の乱れを話した。 これを聞いた閔馬父は「子朝はきっと勝てないであろう。彼に味方している者は天から見捨てられた者ばかりだ」と言った。
B.C.516冬、子朝が敗れて楚に亡命して、諸侯にふれて「穆后と太子寿が早く世を去られたので、単・穆のやからが自分の好む者を助け、 年少の者を立てて先王のおきてを破りました。諸侯たちよ、よくお考えいただきたい」と言った。閔馬父はこれを聞いて「子朝は景王の命に背き、 晋を無視して自分の望みを通そうとしている。無礼の極みである。いくら美しい言葉を使ったところで何の役に立とう」と言った。
B.C.487斉悼公は魯を討って讙・闡を取り、魯と講和をすることとなった。 子服景伯は接待係に「接待に過失があっても、 恭敬な過失をしなさい」と言った。これを聞いて閔馬父が笑ったので、子服景伯はそのわけを聞いた。
閔馬父は「恭敬を説教するあなたが大変驕慢なので笑ったのです。恭はもっとも高い徳であって、過失でできるようなものではありません。 道にかなうのは恭敬ではありませんか」と答えた。
賓媚人(ヒンビジン)
国佐
賓牟賈(ヒンボウカ)【文官】
春秋時代の楽官。
孔子と音楽について話し合った。孔子は「わたしが萇弘に聞いたときも、 やはりあなたの答えと同じであった」と言った。
賓孟(ヒンモウ)
賓起


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