- 費無忌(ヒムキ)【文官】
- 楚の臣。太子建の少傅。費無極ともいう。〜B.C.515。
B.C.529楚平王が即位すると、伍奢が太子建の大傅となり、費無忌は少傅となった。
しかし費無忌は太子建に愛されなかったためこれを恨み、いつも楚平王に太子を讒言していた。
B.C.527費無忌は朝呉が蔡に居るのはよくないと考え、これを追い払おうとして、朝呉に「王はあなたを信用しています。
もっと高い地位をお求めになりなさい」と言い、また蔡の上位の人に向って「王は朝呉を信用しており、とてもあなたはこれに及びません。
今のうちに処置しないと禍にかかるでしょう」と言った。
夏、蔡の人は朝呉を追い出し、朝呉は鄭に出奔した。楚平王は立腹して「わたしは呉(朝呉)を信用して蔡に置いたのだ。
それに呉がいなかったら、わたしは王になれなかったであろう。どうして追い出したのか」と言うと、費無忌は「わたしは呉の人柄を知っております。
呉が蔡におれば、蔡はきっと楚に叛いて飛び去るでしょう。蔡の翼を切って飛べないようにしたわけです」と答えた。
B.C.523費無忌は楚平王の命で、太子建の妻を迎えに秦に赴いた。その公女が美貌であったため、これを楚平王に献上した。太子建がそれを恨んでいると思い、
費無忌はさらに讒言により楚平王に太子建を疑わせ、城父におらせて国境を守らせた。
B.C.522春、費無忌は楚平王にさらに太子建を讒言して「わたくしが秦の公女をお入れしてこのかた、太子はわたしを恨んでいるので、
わが君にも恨みを抱かぬはずがありません。王におかれては、ちと、ご用心なされますよう」と讒言したので、
楚平王は伍奢を問責すると伍奢は「王はどうして、たかが小臣の口先だけで、骨肉の親をうとんじられますか」と言った。
しかし費無忌が「いまにして彼らを抑えなければ、後悔なさいましょう」と言ったので、楚平王は伍奢を捕え、太子建を誅殺しようとした。
そのため太子建は宋に亡命した。
さらに費無忌は楚平王に「伍奢に子がふたりおります。殺さなければやがて楚の禍となりましょう。父を放免するという口実でふたりをお召しになれば、
必ず来ましょう」と進言した。そして楚平王はやってきた伍尚とともに伍奢を殺した。
太子建を讒言し、伍奢父子と郤宛を殺して、呉の侵入を許したことで衆人から恨まれた。
B.C.521費無忌は賄賂を蔡の東国から受け取り、蔡人に「朱は楚の命令を聞かないため、
楚王は東国を立てようとしている。王の考えどおりにしないと、楚はきっと蔡を囲むであろう」と言った。蔡人は恐れて、朱を追い出して東国を立てた。
そのため朱は無実を楚に訴えた。費無忌は「平侯は楚に背かないと盟いを結んだからこそ封じられたのです。その子の朱が二心を抱いたため、やめさせたのです。
隠太子の子の東国は父を霊侯に殺されており、わが君に恩義を感じています。蔡はもう楚に二心をいだくことはないでしょう」と言った。
B.C.515費無忌はあるとき令尹子常に「子悪(郤宛)はあなたに酒をふるまいたいと言っております」と言い、
一方で郤宛には「令尹があなたの家で酒を御馳走になりたがっております」と言った。郤宛は「この上もないお恵みですが、わたしは卑しい者でお礼の進物を差し上げることはできないでしょう。
どうすればよいでしょうか」と問うと、費無忌は「令尹は武具を好まれる。わたしが選びましょう」と言ってよろいを5つ、武器を5つ取って門に並べるよう勧めた。
いよいよ饗応の日になると、費無忌は子常に「わたしはあなた様に災いをおかけするところでした。子悪は武装兵を門に伏せております。行ってはいけません」と言った。
子常は郤宛の様子を調べさせると、武器が用意してあった。そこで子常は郤宛を殺そうとしたため、郤宛はすぐに自殺した。
また子常はその一党の陽令終とその弟陽令完と陽令佗、大夫の晋陳とその子や弟を殺した。
9月14日、子常が郤宛を殺したことについて国中のそしりがやまなかった。沈尹戌が「あの無忌は告げ口をする悪人です。朝呉を去らせ、
蔡侯朱を追い出し、太子建を国外に去らせ、連尹奢(伍奢)を殺し、今やまた罪なき3人を殺して、あなたにも災いがかかろうとしています。
いったい鄢将師はあなたの命令であると偽って三族(郤氏・陽氏・晋陳氏)を滅ぼしたが、あの三族はわが楚国の良臣です。
今や呉では新しい君が立って国境は毎日安らかではありません。知恵ある者は自分を告げ口する悪人を除いて身の安泰を図ります」と警告したため、
子常は費無忌と鄢将師を殺し、その一族を残らず滅ぼして国の人々に申し開きをし、そのため衆人は喜んだ。
- 費無極(ヒムキョク)
- →費無忌
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