中国的こころ列伝秦王朝時代>始皇帝


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秦王朝の皇帝(初代(36代目))。名は政。B.C.259〜B.C.210 王位:B.C.246〜B.C.221 帝位:B.C.221〜B.C.210
B.C.259趙の人質となっていた荘襄王の子として邯鄲で生まれる。母はもと呂不韋の妾。
呂不韋は邯鄲の女で美しい女と同棲していたが、その女がみごもった。たまたま子楚(後の荘襄王)がその女を見初め、彼女を申し受けたいと請うた。呂不韋は心中怒ったが、 大利を得るためだと思い直し、ついに彼女を子楚に献じた。
彼女は妊娠をひたかくし、12月で子を産んだ。正月に生まれたので、名を政とした。

B.C.258秦は王齮に命じて邯鄲を包囲した。そのため趙は子楚を殺そうとしたが、 呂不韋は金600斤で役人を買収して子楚と共に脱出して帰国することができた。また夫人と政も隠れ住んで生き延びることができた。

B.C.252昭襄王が没し、太子安国君が代わって立ち、華陽夫人を王后とし、 子楚は太子となった。
趙は子楚の夫人と子の政を鄭重に秦に帰した。

B.C.251孝文王が没し、荘襄王が立つと、政は太子となる。

B.C.246荘襄王が没し、代わって立つ。
秦の版図は、西は巴蜀、漢中、南は郢、北は上郡、東は滎陽まで広がっていた。
秦王政は、呂不韋を宰相として十万戸の列侯に封じ、号して文信侯といった。また李斯を舎人とし、 蒙驁王齮麃公らを将軍として、 天下を併呑しようと思っていた。
年少で即位したので、国事を大臣に任せた。
晋陽がそむいた。

B.C.245蒙驁が叛乱軍を討って、これを平定する。

B.C.244麃公が巻を攻め、首を斬ること3万であった。

B.C.243蒙驁が韓を討ち、12城を取る。
10月、蒙驁が魏を討ち、畼・有詭を攻める。
凶作で飢饉があった。

B.C.242蒙驁、畼と有詭を落とし、3月に帰還する。
秦の人質が趙から帰国し、また趙の人質を趙に返す。
10月庚寅の日、蝗が東方から来襲し、天下に疫病が流行したため、人民で粟千石を献納した者に爵一級を賜うた。

B.C.241蒙驁が魏を討ち、酸棗・燕・虚・長平・雍丘・山陽城を平定して、すべて落とし20城を取って、はじめて東郡を置く。
冬、大雪があった。

B.C.240韓・魏・趙・衛・楚が連合して秦を討ち、寿陵を取った。秦が出兵すると五国の兵は退いた。そのまま衛軍を討って東郡に迫ると、 衛元君は一族を率いて野王にうつった。
彗星が東方に出て、また北方に現れ、5月西方に現れる。
蒙驁が竜・孤・慶都を討ったが、遠征先で没した。そのため兵を引き返して汲を攻める。彗星がまた西方に現れた。
5月16日、夏太后が没す。

B.C.239長安君が趙を討つ。しかし趙の屯留の民を従えて謀反した。秦はこれを討って長安君を殺し、軍吏をみな斬り、 屯留の民を臨洮にうつした。
この時、将軍が死ぬと、部卒の屯留の人蒲鄗がまた叛いた。よってこれを殺して、 その屍を戮した。
この年、黄河が氾濫し、魚が平地に上がってきた。人民は住むことができないため、東方にうつって食を求めた。
嫪アイを封じて長信侯とする。

B.C.238彗星が現れ、天空いっぱいに広がった。
魏を討ち、垣・蒲陽を攻める。
4月、秦王政は雍に宿り、己酉の月、冠礼をおこない剣を帯びる。
長信侯が乱をはかる。秦王政は相国の昌平君と昌文君に命じ、卒を発して長信侯を攻め、咸陽で戦い、首を斬ること数百、従軍した者にみな爵を与える。また宦官で従戦した 者にも爵一級を賜った。
9月、長信侯は敗走したので国中に「嫪アイを生け捕りにする者には銭百万を与え、殺した者には五十万銭を与える」と令し、嫪アイ、衛尉竭、内史肆、佐弋竭、 中大夫令斉ら20人を捕らえて車裂きの刑にし、首を木の上にさらして、その宗族を滅ぼした。
これらの舎人で罪の軽い者は徒刑とし、薪を宗廟に給する労役に服させ、また爵を奪って蜀にうつした者が四千余家あり、房陵におらせる。
秦王政は呂不韋も誅したいと思ったが、先王に尽くした功労が大きいことと、弁護する者が多いので、法を適用することができなかった。
太后を雍に移した。
この月、寒気がひどく、凍死者があった。
楊端和が魏を討ち、衍氏を攻める。
彗星が西方に現れたが、また北方に現れ、北斗星から漸次南に移ること80日間であった。
10月、相国呂不韋を嫪アイの事件に連坐して職を免じ、都から追放して洛陽に移した。また斉人茅焦が太后を外にうつしたことを諌めたので、 太后を雍から迎えて咸陽に入れ、南宮におらせる。
諸国からの客を追放しようとしたが、李斯が諌めたのでとりやめた。
李斯の進言で韓を降させることとし、李斯を使わした。韓王はこれを聞いて大いに憂え、韓非に秦の力を弱めることを図らせる。
尉繚の進言に従い、尉繚を自分と対等の礼をもって待遇し、衣服や飲食も同じようにした。尉繚が秦を逃げ出そうとすると、 固くこれを引きとめ、秦国の尉として彼の計策を用い、李斯がそれに従った。

B.C.236王翦を主将、桓齮を副将、楊端和を末将とし、鄴を討ったが、なかなか落ちず、まず9城を取った。
王翦は別に閼与と橑陽を攻め、桓齮に留まって鄴を攻めさせる。鄴を落とすと、また橑陽を攻めた。
18日目に軍中斗食以下の無功の佐史を帰し、十人中ただふたりをすぐって従軍させる。桓齮が将としてついに鄴と橑陽を取る。
呂不韋が洛陽に移っても、彼に謁見を求める諸侯の賓客や使者があとをたたなかったため、秦王政は謀叛を恐れて、書簡を送り「君は秦国にどんな功労があって河南に封ぜられ、 十万戸を食むのか。またどんな血縁があって仲父と称するのか。ともあれ家族と共に移って蜀におれ」と命じた。呂不韋はしだいに権力をそがれ、 結局は殺されることになると思った。

B.C.235そこで呂不韋は酖毒をあおって自殺した。秦王政は天下に令して「わしは自ら国政を取り、嫪アイ・ 呂不韋のごとき不道な者は一族を籍没(財産の没収)して徒隷とすること、この例に倣う」と言った。
秋、嫪アイの舎人で蜀に移した者を帰した。

B.C.234桓齮に命じ、趙を討ち、趙将扈輒を殺し、首級10万を挙げる。
秦王政は河南を遊幸する。
正月、彗星が東方に現れる。
10月、桓齮に命じ、趙を討つ。

B.C.233桓齮に命じ、趙を討ち、平陽を攻めて、宜安を取り、平陽・武城を平定する。
韓非が秦に使いする。李斯のはかりごとを用いて、韓非を秦に留めたため、韓非は雲陽で没した。
秦王政は年少の頃、趙に人質となっていた燕の公子と仲がよかった。しかし丹が秦の人質となったとき、秦王政はこれを冷遇した。 そのため丹はこれを恨んで燕に逃げ帰った。

B.C.232大いに軍をおこし、一軍は鄴に進軍し、一軍は太原に行き、狼孟を取る。
この年、地震がある。

B.C.231、9月軍を発し、韓の南陽の地を受け、内史を仮の守りとする。
初めて令して、男子に年齢をしるさせた。
魏が土地を秦に献じ、秦はそこに麗邑を置く。

B.C.230内史騰に命じて韓を討ち、韓王安を虜にし、韓を滅ぼした。その領地を収め、ここを郡として潁川郡とした。
この年、地震がある。民が大いに飢えた。また華陽太后が薨じる。

B.C.229大兵をおこして趙を討つ。
王翦は上郡の兵を率いて井陘を降し、楊端和は河内の兵を率いて邯鄲を囲み、羌瘣は代を討つ。

B.C.228王翦、羌瘣は趙の地を平定し、趙王幽繆王を虜にし、趙を滅ぼす。
さらに進んで、燕を攻めようとして中山に駐屯する。
秦王政は、かつて趙に生まれた時、母の家と旧怨のあった者を捕らえて、みな穴埋めにした。
秦王政の母太后が薨じる。
この年、大飢饉があった。

B.C.227燕の太子丹は秦を恐れて、荊軻に命じて秦王政を暗殺しようとした。荊軻は秦に罪のあった樊於期の首と督亢の地図を献上した。
秦王政は「地図を取り出して見せよ」と言ったので、荊軻は地図を取り出して渡した。王が地図をひらいて、図が終わるところ、巻き込んであった匕首があらわれた。
すると荊軻はすぐ左手で王の袖をとらえ、右手に匕首を持って王を刺した。あわや身に届くかと見えたが、王が身を引いたはずみに袖がちぎれたので、王は逃げることができた。
秦王政は剣を抜こうとしたが、あわてていたので即座に抜けなかった。群臣は宮殿にあがる時は武器を帯びることを許されていなかったので、殿上にのぼれなかった。 荊軻は秦王政を追いまわしたが、侍医夏無且が薬嚢を荊軻に投げつけた。
左右の者が「王よ、剣を背負われませ」と言ったので、王は剣を背負い、ついに抜いて荊軻を打ち、その左股を斬った。荊軻は匕首を投げつけたが、王にあたらず銅柱にあたった。 秦王政は荊軻を斬りつけ、八箇所に傷を負わせた。荊軻はいまや事成らずと観念し、柱によりかかって笑い、両足を前に投げ出してののしって言った。
「事が成就しなかったのは王を生かして契約を燕の太子に報告したかったからである」
左右の者は進み出て荊軻は殺された。
秦王政は大いに怒って荊軻の手足を切り離して天下にさらし、さらに王翦と辛勝に命じて燕を討った。
燕と代は兵を出してきたが、これを易水の西で破った。

B.C.226王賁に命じて燕を討ち、薊を攻めた。
10月、また兵を王翦の軍に送り、ついに薊城を取り、燕王と太子丹は東方に逃れ、遼東を収めて王となった。
新鄭で叛乱が起こった。
昌平君を郢に移した。
この年は大雪であった。

B.C.225王賁に命じて魏を討ち、黄河から水を引いて大梁に注いだ。そのため大梁城は壊れ、魏王は降伏して、 ことごとく魏の地を取り、これを滅ぼした。

B.C.224秦王政は楚を討ちたいと思い、李信に問うた。
「わしは荊(楚)を攻め取りたいが、どれだけの兵があれば事足りよう」
「20万もあれば十分です」
秦王政は王翦に同じ事を問うた。王翦は「どうしても60万なくてはいけません」と答えた。
秦王政は「王将軍も老いた。なんと意気地のないことか。それに比べて李将軍は果断勇壮だ。彼の言うことは的を得ている」と言って、 李信と蒙恬に命じ、20万の兵で楚を討たせた。
王翦は用いられなかったので、病老をもって職を辞めて隠居した。
李信はさいしょ楚軍を破ったが、楚の反撃にあい、二ヶ所の塁壁を破られ、7人の将校を失い、秦軍は敗走した。
秦王政は大いに怒り、また頻陽に駆けつけて、王翦に会って詫びた。
「わしが将軍のことばを容れなかったため、秦の名は辱められました。いま荊兵は日々西に向かって進軍しているという。将軍はわしを見捨てられるのか」
「この老骨は病に疲れ、頭がぼけています。ただ大王には別の賢将をお選びになりますように」
「やめてくれ、将軍。二度とそれを言ってくれるな」
「もし大王が、わたくしを用いられるとしても、60万人でなければなりません」
「将軍のはかりごとのままに」
こうして王翦は60万の大軍を率いることとなった。
秦王政は、みずから灞水のほとりまで見送った。途中、王翦は報酬として、美しい田宅・園池を得たいと、繰り返して請うた。秦王政は「将軍よ、行きたまえ。 何の貧乏をうれえることがあろう」と言うと、王翦が「大王の将軍たるものは、勲功があっても結局は封侯となることができません。だから、 大王がわたくしに期待をかけておられる際に、わたくしもその機会を利用して園池を賜るよう請い、 子孫のために財産を得たいと思うのです」と答えた。これを聞いて秦王政は大いに笑った。
さらに王翦は函谷関に着いてからも、使者を出して美田を請うこと五度に及んだ。ある人が「将軍の請いも度がすぎる」と言うと、王翦は「そうではない。 かの秦王は粗放で人を信じない。いま、秦の国内を空にして、全兵力を私ひとりに任せたのである。だから田宅を請うて子孫のために蓄財をはかり、 自分の地位を堅固にすると見せかけなければ、秦王から疑われよう」
王翦は李信に代わって楚を討った。楚は全兵力でこれにあたったが、王翦は塁壁を堅固にして出撃しようとはせずに、毎日士卒を休養させ、飲食を十分にし、 みずから士卒と食事を同じくした。
しばらくして王翦は「陣中では戯れているかどうか」と人に問わせたところ「いまや投石・超距に興じています」という報告であった。それを聞いた王翦は 「これでこそ、士卒は間に合う」と言った。王翦は陳から南、平輿にいたる間の地を取り、楚王負芻を虜にした。
秦王政は東南が平定したので、出遊して郢、陳に行った。
楚の将項燕が昌平君を立てて楚王とし、江南で叛く。

B.C.223王翦、蒙武に命じて楚を討ち、これを破った。昌平君は戦死し、項燕は自殺する。

B.C.222大軍をおこし、王賁と李信に命じて燕の遼東を攻める。王賁は燕王を捕らえ、 軍を返して代を攻めて代王を虜とする。
燕の太子丹および荊軻の食客を追放した。
王翦に命じて楚の江南の地を平定し、越国の君を降し、会稽郡を置く。
5月、韓・趙・魏・燕・楚がみな滅んだので、天下の者は大いに歓楽し、酒を飲むことを許した。

B.C.221王賁に命じて燕の南から斉を討ち、斉王を虜にし、斉を滅ぼした。
秦は初めて天下を統一した。
秦王政は丞相と御史に令して「わしが一身をもって軍を興し暴乱を鎮めたのは、祖宗の神霊によるもので、六国の王もみな罪に伏し天下が大いに定まった。今日、 王の名号をあらためなければ、この大業にかない、成功を後世に伝えることができないだろう。丞相、御史らにおいて帝号を定めるようにせよ」と言った。
丞相王綰、御史大夫馮劫、廷尉李斯らは「上古より以来、このような大業はかつてなく、 五帝もおよびません。博士らと相談して『いにしえに天皇、地皇、泰皇があり、泰皇が最も尊かった。 それゆえ、王を泰皇とし、その命を制、令を詔、天子の自称を朕としたい』と申し合わせました」と言った。
秦王政は「泰皇の泰を去り、上古の帝位の号を採って皇帝と号し、その他は議のとおりにしよう」と言った。
荘襄王を追尊して「朕は太古に号があって諡がなく、中古には号があって、諡は死んだ後、生前のおこないによってつけたと聞いている。このようなやり方は、 子が親の行いを議し、臣が君の行いを論ずることであって、はなはだいわれがなく、朕の取らぬところである。
今後、諡の法をなくして、朕を始皇帝とし、後世は二世三世と数えて万世に至り、無窮に伝えることとする」と言った。
これによって始皇帝と称した。
始皇帝は五行説を採用して、周が火徳であったため、それにうち勝った秦を水徳とした。そのため年始を改め10月とした。また色は黒を尊び(水徳は陰)、数は六(陰数)を基本とし、 すべての事をみな法に照らして決し、厳酷で少しも容赦しないのが水徳にかなっている(陰は刑殺を司る)とした。
丞相王綰は「諸侯が滅んだばかりで、ことに燕・斉・荊(楚)などの地は遠方にあり、王を置かないと安定しないでしょう。主上には、どうか諸公子を立てて、 各地の王とすることをお許し願いたい」と進言した。群臣は皆それを上策としたが、廷尉李斯は「周の文武は、子弟や同姓を封じましたが、後世になると疎遠になり、 周の天子は抑えることができませんでした。諸公子や功臣は国家の賦税で厚く待遇したら、それで充分でありまして、また制御しやすいのです。 天下に異心を懐く者のないのが安寧の術であり、 諸侯を設けるのは上策ではありません」と論じた。始皇帝は李斯の言を容れ、天下を36郡(6の数を尚ぶからその倍数とした)とし、郡ごとに守・尉・監を置いた。
あらためて民を黔首と呼び、このとき飲酒を賜うた。
また天下の武器を出させて咸陽に集め、これを溶かして鐘鐻と金人12体を作った。法度(ます)・衡石(はかり)・丈尺(ものさし)を統一し、車のはばを同じくし、 文字は書体を同じくした。
秦王朝の版図は、東は海と朝鮮に至り、西は臨洮、羌中に至り、南は北戸に至り、北は黄河に拠って長城をつくり、陰山から遼東に至った。
始皇帝は天下の富豪12万戸を咸陽に移した。
また始皇帝は諸侯を破るごとに、その宮室の模様をうつし、これと同じものを咸陽の北阪の上につくった。咸陽の宮殿は渭水の南にあり、複道(道を高くし、上下に通路があり、 一般人と交わらないようにした)や周閣(宮殿と宮殿の間に木を架けて棚をつくった回廊)をつくり、諸侯から得た美人や楽器で満たした。
あるとき筑の名手がいるという噂を聞き、その者を召し出した。彼を見知っているものがあり荊軻の親友の高漸離であると告げた。 始皇帝はその才能を惜しんで、高漸離の目をつぶして危険を去って彼を近づけた。
しかし高漸離は鉛を筑の中に入れ、筑を振り上げて始皇帝を撃ったが命中しなかった。そのため始皇帝は高漸離を誅殺し、これ以後二度と他国の者を近づけなかった。

B.C.220始皇帝は隴西・北地を巡遊し、雞頭山に出て、回中を通った。
長信宮を渭水の南に造営し、名を極廟と改めた。極廟から道を酈山に通じ、また甘泉前殿を作って、咸陽から甬道を築いた。
この年、役夫に爵一級を賜うて、天子の馳道を作った。

B.C.219始皇帝は東方の郡県をめぐり、鄒の嶧山に上り、魯の儒生らを招いて封禅のことを問うた。そこで泰山に上り、封禅の儀式を行った。山を下りた時、 にわかに風雨があり、松の下で休んだ。この木を封じて五大夫とした。
渤海に沿って東行し、黄・スイを通り、成山を極め、之罘山に登って秦の頌徳碑を立てた。
南の琅琊山に登って大いに楽しみ、滞留3ヶ月、黔首3万戸を琅琊山の麓にうつし、12年間賦税を免除して琅琊台を作った。
斉人の徐芾らが言上したので、童男童女数千人を出して海上に僊(仙)人を求めさせた。
彭城を通ったとき、斎戒して祈り、周の鼎を泗水から引き揚げようと1000人に命じて水中に探させたが見つからなかった。
南郡で長江に浮かび、湘山祠に行ったところ、大風にあい、舟が覆りそうになった。始皇帝は大いに怒って罪人3000人を使い湘山の樹をみな伐って禿げ山にした。 そして南郡から武関を通って咸陽に帰った。

B.C.218始皇帝は東遊して陽武の博浪沙で張良に襲われた。始皇帝は彼を捜索したが見つからなかったので、 天下に命令して10日間大捜索を行った。
之罘山に登り、石に文字を刻んだ。之罘山から琅琊に行き、上党から都に帰った。

B.C.217、12月、臘の祭の名を改めて嘉平といい、黔首には村里ごとに粟6石と羊2頭を賜うた。
始皇帝は咸陽を微行し、武士4人と共に夜外出したところ、蘭地のほとりで盗賊に会い苦しめられた。武士が賊を撃ち殺したが、なお20日間、関中の大捜索を行った。
この年、粟1石=1600銭であった。

B.C.215始皇帝は碣石山に行き、燕人盧生に仙人の羨門高を探させた。 また、韓終侯公石生に仙人の不死の薬を求めさせた。
始皇帝は北辺をめぐり、上郡から咸陽に帰った。
盧生は海上から帰り、鬼神のお告げとして記録の図書を奏した。その中に「秦を滅ぼす者は胡である」とあった。そこで始皇帝は蒙恬に命じ、兵30万を発して北方に胡を討ち、 河南の地を取った。

B.C.214逋亡人(罪を犯して逃げていた者)や贅壻(男子を他家の婿として出した者)や買人を徴発して南方の陸梁の地を取り、桂林・象郡・南海の三郡を置いて、 罪人をやって守らせた。
また西北方の匈奴を逐い、楡中から黄河に沿う以東を陰山とし、そこに34県を置き、黄河のほとりに塞を築いた。
さらに蒙恬に命じて、黄河を渡り、高闕山・陶山・北仮を取り、亭障(関所)を築いて戎人を逐い、流罪人を移した。

B.C.213裁判官の公正でない者を徴発して、長城および南越に城を築かせた。
始皇帝は咸陽宮に宴会を開いた。このとき博士淳于越が進み出て、子弟功臣を諸侯に封じるよう進言した。 始皇帝はこれを臣下に下して論議させた。丞相李斯はこれに反対し、 誹謗中傷を行う私学の徒をそしり、医・卜・農以外の百家の書を焼き払うよう進言した。始皇帝は李斯の言を容れた。(焚書)

B.C.212九原から雲陽まで、山を切り谷をうずめて、道路を直通させた。
また阿房宮の工事を開始した。当時、宮刑や徒刑の囚人が70万人あったが、これらをわけて阿房宮や驪山の宮を作らせたのである。
また石を東海のク県に立てて秦の東門とし、3万家を驪邑に、5万家を雲陽にうつし、いずれも10年間の賦役を免じた。
始皇帝は盧生の進言を容れて、自分を真人と称し、咸陽付近の270の宮殿に復道と甬道を連絡させ、皇帝が行幸する場所を言う者があれば死罪とした。
侯生と盧生は仙薬が捜し出せなかったので、逃げ出した。始皇帝は大いに怒り、御史に命じて諸生をみな調べ上げさせた。 諸生はたがいに罪をなすり合い、言い逃れようとした。 かくて禁令を犯した者460余人をみな咸陽で穴埋めにして天下に知らせ、のちの懲らしめとした。(坑儒)
長子扶蘇が諌めたので、始皇帝は怒って扶蘇を北のかた上郡にやり、蒙恬の軍を監督させた。

B.C.211北河・楡中に3万戸をうつし、爵一級を与えた。
10月癸丑の日、始皇帝は出遊し、左丞相李斯と末子胡亥が伴をし、 右丞相霍去疾が留守をした。
11月、雲夢に行き、九疑山を望んで虞を祀り、長江を下って丹陽を通り、銭塘に行った。 会稽山に登り大禹を祭った。会稽から帰って呉を過ぎ、北方琅琊に行った。
方士徐芾らは神薬が得られない理由を海に大鮫がいるためだと言った。そこで始皇帝は連発の強弩を用意し、琅琊から労山・成山まで行ったが、何も現れなかった。 之罘に行くと、大魚が出たので、これを射殺した。
海岸に沿って西行し、平原津に行くと、始皇帝は病気となった。 始皇帝は扶蘇を後継ぎにする壐書をつくって中車府の長官趙高に渡した。

B.C.210、7月丙寅の日、始皇帝は沙丘の平台で崩じた。
丞相李斯は、始皇帝が都の外で崩じたので、諸公子や天下の者が乱を起すのを恐れたため、崩御を秘密にして喪を発表しなかった。そしてお棺を轀涼車に載せ、 生前と同じように食事をたてまつり、奏事を裁決させた。始皇帝の死を知っていたのは、公子胡亥と趙高と寵幸の宦官5、6人と李斯のみであった。
趙高は胡亥と李斯とひそかにはかり、壐書を破り捨て、いつわって李斯が遺詔を沙丘で受けたと言い、胡亥を立てて太子とした。また別に扶蘇と蒙恬に賜う詔書を偽造して、 二人の罪状を数え、どちらにも死を賜うた。
井陘から九原に着くと、暑気のため死臭が出た。そこで一石の塩魚を車に載せて臭いをまぎらわした。
九原から直道を通って咸陽に着いて初めて喪を発表した。
太子胡亥が位をついで、二世皇帝となった。
9月、始皇帝は驪山に葬られた。


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