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列伝 ウ


禹(夏)(ウ)【皇帝】
夏王朝の初代王。名は文命。司空。の子。
禹はに仕えた。そこでに推薦され、鯀の代わりに宗伯となり、 朝廷に入って天子の司空となり、黄河の治水を行った。父の鯀は黄河の治水に失敗したが、禹は黄河の治水に力を尽くし、 自分の家の前を通っても寄ることなく仕事に没頭した。そのため治水に成功し、禹は舜から玄圭(赤黒色の玉)を賜わった。
禹は舜のもとで17年間、宰相を務めた。
禹は舜から王位を譲られたが、禹は天下には自分よりもふさわしい賢者がいるとして五度も辞退したが、ついには引き受けた。
禹は即位後の3年間、兵器の製造を中止し、田野では収穫量に目を光らせたりせず、都邑では宮殿の増築工事を行わず、関所や市場の賦税を免除し、 地方に都市を建設し、苛酷な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、四海の内はもとより、四海の外までも朝貢を求めてくるようになった。 さらに禹は江河を導き通し、色々な河川を除き治め、天下の土地を培い草木を育て上げ、中央と東西南北を表示する号旗を作って天下の方面を確定し、 古の九囿(全中国)に基づき全国を分けて九州を設置した。
禹は節倹政策を打ち出し、率先して倹約を実行した。
また神話では、禹は古代神相柳を殺し、その血が流れ出して悪臭が満ちて土がさらに汚れたため、禹は穴を掘って、 その血をこの穴に流すようにしたという。
禹は会稽で諸侯を会同させたとき、宝物を持って出かけた国は万国にのぼった。そのとき防風氏が遅れてきたため、禹はこれを誅した。
儀狄が酒を造って禹に進めた。禹はこれを飲んで美味としたが「後世、必ず酒をもって国家を滅ぼす者があるだろう」と言い、 これを疎んじて酒を断った。
禹には5人の息子がいたが、皋陶が賢者なのを見て王位を譲ろうとした。しかし皋陶が五度も固辞し、 ついには病と称して引きこもったまま死んでしまった。そこで禹はに王位を禅譲した。
禹にまつわる伝説は、元来黄河中・下流域の古代農耕民族の所産といわれる。
禹(周)(ウ)【将軍】
周王朝の臣。師氏。
B.C.863夷王は南征を行ったが、噩侯ギョ方が叛乱し、淮夷諸族を率いて侵攻した。 武公は公直属の戦車百乗、戦士徒兵を禹に与え、再び西の六師、殷の八師を率いて殲滅せよとの厳命を下した。
禹は勇戦して大勝し、ギョ方を捕らえた。
盂黶(ウエン)【武官】
衛の臣。蒯聵の臣下。
B.C.479蒯聵の乱を仲由が鎮圧しようとしたので、蒯聵の命で彼を殺す。
烏獲(ウカク)【武官】
秦の臣。
武王は力があり、力だめしを好んだ。それで力持ちの烏獲や任鄙孟説などはみな大官となった。
烏獲は「よく千釣を挙ぐ」と言われた。
羽頡(ウキツ)【武官】
鄭の臣。馬師。
B.C.543、7月26日、良霄が鄭都にひそかに戻り、 羽頡を頼って鄭襄公の作った武庫に入って武装して叛乱を起こしたが、戦死した。そのため羽頡は晋へ出奔して任の大夫となった。
羽頡は先に晋に亡命していた楽成をたよりにして趙武に仕えて鄭を討つ策を進言したが、 趙武は聴き入れなかった。
烏枝鳴(ウシメイ)【武官】
斉の臣。
B.C.521宋で華氏・向氏の乱がおこったため、烏枝鳴は宋の都を守った。
10月、華登が呉軍を率いて、叛乱を起こしている華亥を助けにきた。 宋の料理人のが「人に先んずれば人の心を奪うことができ、後るれば衰えて負けるのを待つばかりだという言葉があります。 敵兵が南里に入ってしまえば後悔しても追いつけません」と進言したため、烏枝鳴は同意した。
10月17日、斉軍と宋軍は呉軍を鴻口で破り、その将公子偃州員ガンを捕虜にした。 しかし華登が残兵を率いて宋軍を破ったため、宋元公は恐れて逃げようとした。すると濮が 「わたしは君のために死ぬことはできても、逃げることをお送りすることはできません。 今しばらくお待ちください」と言い、陣中に「おのおの方の背につけた小旗を高くあげる者はわが君の味方である」とふれまわすと、大勢の者がそのようにした。 烏枝鳴は「わずかの軍で大軍と戦うには決死の覚悟で戦うしかない。全軍剣を手にして戦おうではないか」と言うと、全軍これに従った。 宋軍と斉軍は華氏の軍を破ってこれを追撃した。
烏存(ウソン)【武官】
莒の臣。
B.C.519、7月、莒公庚与は暴虐で剣を好み、剣を作らせると必ず試し切りをしたため、国の人々は大いに悩んだ。 庚与が斉に背こうとしたため、烏存は国の人々を率いて追放した。庚与は逃げようとしたとき、烏存がほこをもって道の左側に立っていると聞き、 恐れて自殺しようとした。苑羊牧之が「烏存は武力で名を挙げたいだけです。君を殺して名を挙げようとしておりません」と諌めたため、 庚与は魯に出奔した。そこで斉は郊公を莒に入れた。
尉繚(ウツリョウ)【文官】
秦の臣。大梁の人。
B.C.237秦に赴き、秦王に「秦の力は強大ですが、六国が合同して出てくると油断ができません。願わくは大王には、財物をおしまれることなく、 諸侯の豪臣に賂して、合従のはかりごとを乱されますように。費やすところは30万金です」と説いた。
秦王政は尉繚の進言に従い、尉繚を自分と対等の礼をもって待遇し、衣服や飲食も同じようにした。
尉繚は「秦王は人となり、鼻が高く目が長く、鷹のように胸が突き出て、豹のような声をし、残忍で虎狼のような心をもっている。困窮した時には人に卑下するが、 得意な時には平気で人をあしらう。
わたしは一介の布衣の身だが、秦王は常に自らわたしにへりくだっている。もしも秦王に天下の志を得させたら、天下の者はみな秦王の奴隷となろう。 いっしょに長く付き合える人物ではない」と言い、秦を逃げ出そうとしたが、秦王政は固くこれを引きとめ、秦国の尉として彼の計策を用い、 李斯がそれに従った。
盂丙(ウヘイ)【文官】
晋の臣。
B.C.514秋、祁氏・羊舌氏が滅び、その土地は10の県に分けられ、盂丙は盂の大夫となった。 盂丙は卿の庶子の中でよく職分を守り父祖の務めを守る者であるためにであり、魏献子のお目にかかったからである。
羽父(ウホ)

烏余(ウヨ)【武官】
斉の臣。
B.C.549夏、烏余は廩丘の領地をもって晋に出奔し、衛の羊角を不意に攻めて占領し、勢いに乗じて魯の高魚を急襲し、また宋の町を攻め取った。
B.C.546春、晋の胥梁帯が奪った土地を受け取りに来るよう言ってきたため、烏余は出かけていった。 そこで烏余は部下とともに胥梁帯に捕らえられ、奪った土地は諸侯に返された。
惲(ウン)【公子】
秦の公子。蜀侯。武王の子。〜B.C.301。
B.C.308蜀侯に封じられた。
B.C.301山川を祭って食物を秦昭襄王に進献する。しかし継母がそれに毒を入れたため、王の怒りを買った。 そのため自殺を強要され、惲は自ら命を絶った。
秦では惲の臣下である郎中令のら27人が誅殺された。
B.C.298秦で惲の無実が証明されたので、使者を派遣して改めて城郭内に埋葬した。
鄖懐(ウンカイ)
闘懐
雲中君(ウンチュウクン)【神】
雲の神。『楚辞』の九歌に登場する。
豊隆と同じであるともいい、また屏翳ともいう。




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