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列伝 ホ


封(ホウ)【公子】
秦の臣。庶長。
B.C.308秋、丞相甘茂とともに宜陽を討つ。
ホウ(ホウ)【文官】
商王朝の臣。王族。
受辛の人方遠征に先駆けて、その土地を踏み呪詛を祓う望を行う。
鮑(ホウ)【武官】
秦の臣。庶長。
B.C.562庶長鮑は庶長とともに晋を討って鄭を救おうとした。晋の士魴がこれを防いだが、 秦軍は多くないと侮って防備を怠った。
12月5日、庶長武は輔氏から黄河を渡って庶長鮑とかわるがわる晋軍を攻撃した。
12月12日、秦軍は櫟で晋軍と戦い、これを大破した。
芒(ボウ)【皇帝】
夏王朝10代王。の子。
牟(ボウ)【公子】
魏の公子。公孫竜の門人。
公子牟は、賢者としてその名を知られ、中山の地に封じられた。
あるとき楽正子輿が公孫竜を批判して「その行動にも先生はいないし、学問にも仲間がいない。 弁舌は達者だが道理にはずれ、博識だが基盤はなく、怪奇を好んで出まかせを言う」と言った。これを聞いた公子牟は「智恵ある人の言葉は、 愚か者にはとうてい理解できない」と反論した。
尨(ボウ)【公子】
鄭の公子。
B.C.618楚穆王は鄭の狼淵に軍を進めて鄭を討ち、 公子尨は公子楽耳とともに捕らえられた。そのため鄭は楚と和睦することにした。
牟夷(ボウイ)【文官】
莒の臣。
B.C.537夏、牟夷は牟婁・防・玆の3邑をもって魯に亡命した。
報乙(ホウイツ)【神】
商王朝の先祖。上甲の子。
逢于何(ホウウカ)【在野】
斉の人。姓は逢、名は于何。
母が死んで合葬しようとしたが、墓が路寝の台の下にあったためそれができなかった。そこで晏嬰に見えて願い出た。
晏嬰は「ああ、それは難しい。しかしながら、何とか公に言上してみよう。もし願いどおりにならなかったら、あなたはどうするのか」と言った。
逢于何は「晏子さまならどうにかできましょうが、我らごとき小人にはどうしようもありません。私は左手で母の柩車をとり、右手で胸をたたいて哭して、のたれ死にして 『于何はその母を葬ることができない者だ』と四方の士に告げましょう」と答えた。
そこで晏嬰は景公に見えて、その願いはかなった。
暴鳶(ボウエン)【武官】
魏の臣。
B.C.299斉と魏と共に楚を討ち、方城でこれを破り、唐眜を殺す。
B.C.275秦の魏冄に攻められ大梁に迫られる。暴鳶は破られ首級四万を失い、暴鳶は遁走する。
鮑假(ホウカ)【文官】
魯の臣。郈の代官。
臧会が郈に逃げてくると、鮑假は臧会を市場の税を取りてたる役人に任命した。
方回(ホウカイ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
の時代の隠者。堯がこれを招聘して閭士(地方の民政・徴税・賦役等の事務の管理をする)になる。 やがて五柞山中に隠れ住み、夏のの末年には宦士(宮廷供奉の下士官)になる。
方回はの7人の友人のひとりであったともいう。
彭咸(ホウカン)【神】
商王朝の臣。
賢大夫であり、主君を諌めたが聴き入れられなかったため、自ら水に投じて死んだという。
屈原が崇拝していた古代の賢人であるが、実在の人物であるかは定かではない。
封豨(ホウキ)【神】
大イノシシの怪獣。
羿に聖なる桑林で捕らえられる。
鮑癸(ホウキ)【武官】
晋の臣。
B.C.597春、鄭が楚に攻められた。
6月、晋は鄭の救援に赴き、楚軍と戦った。楽伯が晋に戦いを挑んで晋兵を殺して引き返したので、鮑癸はこれを追撃した。 楽伯の左の許伯は矢を射たが、矢を一本残すのみとなった。時に鹿が突然前方に立ちふさがったので、鹿を射た。そのとき鮑癸は楽伯の背後に迫っていたが、 楽伯は右の摂叔に命じて鹿をささげて鮑癸に献上し「まだ獲物がない季節ですので、失礼ながらこの鹿を献上いたします」と言わせた。 鮑癸は追撃をやめて「左は射の名人、右はことば達者。いずれも君子である」と言った。
尨圉(ボウギョ)【文官】
有窮の臣。
尨圉は賢臣といわれたが、后羿に重用されなかった。
封具(ホウグ)【武官】
斉の臣。〜B.C.548。
荘公の八人の勇士のひとり。
B.C.548、5月、斉荘公が崔杼に弑され、封具ら州綽邴師公孫敖賈挙鐸父襄伊僂堙は、 この内乱で討ち死にした。
茅君(ボウクン)【神】
仙人。神仙伝に見える。
幽州の人。斉で仙道を学び、20年の後修業成って家に帰った。そして神霊の職に就くとして父母に別れを告げ、迎えの仙官とともに天に昇っていった。
豊巻(ホウケン)【武官】
鄭の臣。公孫段の一族。子張ともいう。
B.C.543豊巻は先祖の祭りのため狩を願い出たが、子産が「ただ君の祭にだけ新鮮な肉を用い、 その他の者はありあわせの物でよい」と言った。そこで豊巻は怒って兵を集めて子産を攻めようとしたため、子産は晋に亡命しようとした。 子皮が子産をひき止め、豊巻を追い払ったため、豊巻は晋に亡命した。
B.C.540豊巻は子産に呼び戻され、土地と収入をもとに返してもらった。
豊愆(ホウケン)【武官】
宋の臣。
B.C.521、5月21日、華亥向寧が国に戻った。豊愆は楽大心華牼とこれを横で防いだ。
龐涓(ホウケン)【文官】
魏の将軍。〜B.C.341。
龐涓は孫臏と同門で、ともに鬼谷先生に兵法を学んだ。
龐涓は孫臏の存在を恐れて、彼を魏に呼び寄せ罪をかぶせて足切りの刑に処した。
B.C.341魏が趙を討った。趙は危急を斉に告げた。斉宣王は趙を救援するため魏を討った。 斉は田忌田嬰を将軍とし、孫臏を軍師として魏を討ち、 龐涓は馬陵でこれに大敗を喫する。
龐涓は「ついにあやつの名を知らしめてしまったか(功をたてさせたか)」といって自刎した。
龐煖(ホウケン)【将軍】
趙の将軍。
燕の劇辛はかつて趙におり、龐煖とは仲が良かった。
B.C.243劇辛は龐煖が将軍になったことを聞き「龐煖はいたって与しやすい人物だ」と言い、趙を攻めた。龐煖は劇辛の軍二万を破り、彼を殺す。
B.C.240趙・楚・魏・燕の精兵を率いて秦の蕞を攻めたが、抜けなかった。
そのため兵を移して斉を討ち、饒安を取る。
鮑牽(ホウケン)【文官】
斉の臣。鮑叔の曾孫。
B.C.574斉頃公の夫人声孟子慶克と淫通していた。 ある日、鮑牽は慶克が宮仕えの女に女装して後宮に入ったのを見つけて、そのため国佐は慶克を戒めた。慶克は声孟子に 「国子(国佐)が私を責めるので弱りました」と言ったので、声孟子は国佐を恨みに思った。
霊公は鄭討伐に出征していたので、 鮑牽は高無咎と共に留守役として城門を閉じて旅人を調べて間者や奸人の侵入を防ごうとしていた。声孟子は斉霊公に讒言して 「高氏・鮑氏が君を都に入れないで公子を立てようとしており、国子もその陰謀を知っています」と言った。 そこで斉霊公は鮑牽を足きりの刑に処し、高無咎を国外に追放した。そのため高弱が謀叛を起こし、国佐も鄭討伐から帰国して穀で謀叛を起こした。
瞀胡(ボウコ)【文官】
莒の臣。
B.C.541秋、公子去疾が斉の助けを借りて帰国したため、 莒公展輿は母の里の呉に出奔し、 展輿の一味である務蔞と瞀胡と公子滅明は斉に出奔した。
鳳綱(ホウコウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
漁陽の人。彼のつくった薬は、急死したものでも生き返らせることができた。鳳綱はこの薬を常用して数百歳になっても老けなかった。
封衡(ホウコウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
字は君達。隴西の人。幼少より仙道を学んで老荘の学に通じ、熱心に秘訣を求めていた。 魯女生に遇って還丹の秘訣と五嶽真形図とを伝授され、ついに天下を周遊することになった。 人間界に200余年おり、のち元丘山に入ったきり姿を消した。
彭更(ホウコウ)【在野】
孟子の弟子。
孟子が多くの従者を引き連れて諸国の禄を食んで歩くのは、分を過ぎた驕りではないかと非難する。孟子は「家では親に孝、社会では目上によく仕え、 先王の正しい教えをよく守って、後世の学者にそれを伝え残そうと努めていて、その者が衣食を求めたら、お前はこれを分を過ぎているとみなすのか」と答えた。
逢公(ホウコウ)【神】
伯陵の子孫。太姜の甥。
鄷侯(ホウコウ)【公子】
周王朝の公子。周文王の16子。
鄷氏の始祖となる。
文王の第16子は原伯であるともいい、はっきりしない。
旁皋(ボウコウ)【武官】
秦の先祖。女妨の子。
鮑国(ホウコク)【文官】
斉、魯の臣。鮑文子ともいう。鮑叔の玄孫、鮑牽の弟。
鮑国は斉から魯に行き、施孝叔の家臣となった。
施孝叔が匡句須を家宰に任じたが、匡句須はその町を鮑国に譲った。施孝叔が匡句須に「君が吉なのだ」と言うと、 匡句須は「忠良な人物に与えることができれば、それにまさる吉はございません」と答えた。鮑国は施孝叔を忠実に助けた。
B.C.576公孫嬰は晋に赴いて、捕らえられた季孫行父の釈放を懇請した。 そのとき郤犨が公孫嬰に封邑を与えようとしたが、辞退して受けなかった。 公孫嬰が帰国すると鮑国はなぜ辞退したのか尋ねた。公孫嬰は「苦成叔(郤犨)の家(与えられようとした封邑)は3つの滅亡すべき理由があります。 その身さえ無事に保てない人が、どうして人に封邑を与えられますか」と答えた。 鮑国は「わたしはあなたに及びません。きっとあなたの家はいつまでも安泰でしょう」と言った。
B.C.574、7月14日、斉霊公は讒言を信じて鮑牽を足きりの刑に処した。そこで魯にいる鮑国を呼び戻して鮑氏の本家を継がせた。
B.C.545、11月8日、斉の先祖の廟で秋の祭りが行われた。慶氏の兵はよろいをぬぎ、馬をしばりつけてから酒を飲み、劇の見物に魚里に出かけた。 その留守に乗じて鮑国は田須無欒子雅高子尾らとともに慶氏の兵がぬぎすてたよろいを着けて慶舎を殺し、慶氏を滅ぼした。 斉景公が恐れおののいたため、鮑国は「臣は君のためにやったのです」と言って公宮にお連れした。
B.C.532夏、ある人が鮑国に告げて「子旗と子良が陳・鮑の二家を攻めようとしています」と言った。そこで鮑国は家臣に甲冑を与えていると、 田無宇がやって来た。 そこで人を遣わして欒子旗高子彊の様子を探らせると、 ふたりとも酒宴を開こうとしていた。田無宇が「うわさは真実でないようだが、今われわれが準備していると聞いたら、彼らは攻めてくるだろう。 先手を打って攻めよう」と言ったため、早速、欒・高の二氏を討った。欒・高氏の軍は敗れて、欒子旗と高子彊は魯に亡命した。
鮑氏と田氏は二氏の財産を分け取ろうとしたが、晏嬰が「それは必ずわが君に納めなさい。謙譲は道徳の基本です。 まあしばらくは利を蓄えないことにしましょう。そうすればかえって利を大きくすることができるでしょう」と言ったため、鮑国は二氏の財産を全部、斉景公に納めた。
B.C.501、6月、魯の陽虎が斉に亡命して援軍を依頼して魯を討ちたいと願い、「三度、攻撃すればきっと魯を攻め取ることができる」と言った。 斉景公は許そうとしたが、鮑国は「わたしは魯の施氏に仕えて魯のことを知っておりますが、魯はまだ攻め取ることはできません。 陽虎は斉の軍を疲れさせ、大臣がたを多く死なせて、そうなったときにはかりごとを盛んに巡らせて斉を乗っ取ろうと考えているのです」と諌めた。 そこで斉景公は陽虎を捕らえて魯に追いやることとした。
豊施(ホウシ)【文官】
鄭の臣。子旗ともいう。公孫段の子。
B.C.535公孫段が没すると、豊施は父が晋から賜った州の田地を返還した。
B.C.526、3月、晋の韓宣子が鄭を聘問した。豊施は有女同車の詩を歌って、 韓宣子の令徳をいつまでも忘れないであろうという意を寓した。
褒姒(ホウジ)【女官】
褒国の美女。
幽王の寵愛を得て、王后となる。その子伯服を太子に立てるが、 犬戎に侵略されて周王朝は一時滅びる。
褒姒の出生にはある伝説がある。夏王朝の末期、王宮に二匹の神竜が現れ「われは褒の二君なり」といった。そこで占卜で占うと「竜の精気をもらうと吉」 と出たのでそれを箱に保管した。その箱は夏、商、周と引き継がれ厲王の時に蓋が開かれました。
その精気は宮廷に流れ込み取り除くことが出来なかった。そこで婦人を裸にさせて大声を出させると精気はたまらずトカゲと化し幼女に出会った。 その幼女は後に夫もないので後に身ごもったためその子を棄ててしまう。
一方宣王の時代、「檿弧(山桑の弓)と箕服(箕のえびら)実に周の国を亡ぼさん」という唄がはやった。あるとき、 山桑の弓と箕のえびらを売る夫婦がいた。宣王はその二人を捕えて殺そうとした。夫婦は逃亡したが、その途中で棄子が泣いているのを見て、 不憫に思って拾って褒の国に逃げ込んだ。
幽王の時代、罪のあった褒を誅殺しようとして、褒は命乞いをするため褒姒を献上した。 褒姒は幽王に寵愛されたが決して笑うことがなかった。あるとき誤って狼煙が上がってしまい諸侯が駆けつけたがそれが誤りだとわかって呆然としました。 それを見た褒姒は思わず笑った。幽王は大いに喜び、何度も狼煙を上げさせたので、しまいには諸侯は愛想をつかして狼煙が上がっても参内することをしなくなった。 造反軍が本当に襲来したので狼煙を上げたが援軍は現れずに幽王は殺され、国都は陥落した。
謀娶公(ボウシュウコウ)【王】
杞公(4代目)。題公の子。〜B.C.689。
鮑叔(ホウシュク)【文官】
斉の臣。鮑叔牙ともいう。
桓公の教育係。
若いころ、鮑叔は管仲と交遊した。管仲は貧困のあまり、よく鮑叔を欺いたが鮑叔はいつまでも管仲を見棄てなかった。
管仲は後で振り返って「かつて私が困窮していたころ、鮑叔とともに商売をしたが、利益を分けるとき、私は分け前を多く取ったのに、 鮑叔は私を貪欲とは思わなかった。私の貧乏を知っていたからである。
かつて私は鮑叔のために事業を企てたが、失敗していよいよ困窮したのに、鮑叔は私を愚か者とは思わなかった。時に利・不利のあることを知っていたからである。
かつて私は三度仕えて、三度とも君から逐われたが、鮑叔は私を無能だと思わなかった。私が時の利にあわなかったのを知っていたからである。
かつて私は三度戦い、三度とも敗れて逃げ出したのに、鮑叔は私を卑怯だとは思わなかった。私に老母のあるのを知っていたからである。
公子糾の敗れたとき、同僚の召忽は戦死し、私は幽囚されて辱めを受けたが、鮑叔は私を恥知らずとは思わなかった。私が小節を恥じず、 功名を天下に現せないのを恥としたのを知っていたからである。
私を生んでくれたのは父母だが、私を知ってくれるのは鮑子である」と言った。
B.C.686斉襄公の政令はでたらめであった。鮑叔は「君は民を使うことがだらしない。きっと乱が起こるでしょう」と進言したので、 桓公は莒に亡命した。
B.C.685公孫無知が国人に殺されると、 鮑叔は桓公ととの後継者争いで桓公を後継者につけた。
桓公は即位すると魯に出兵して糾と管仲を殺そうと考えていた。鮑叔は管仲を魯から引き渡してもらって斉の堂阜まで連れて行き、そこで縄を解き、 都に帰って桓公に進言した。
鮑叔「私は幸いにもわが君に従い、わが君は位にお即きになりました。しかしわが君の尊さは、これ以上私たちでは増すことはできませぬ。 わが君がただ斉一国を統治なさるなら、高傒と私たちで足ります。もし天下の覇者たろうと思し召すなら、 何としても管夷吾(管仲)を手に入れなければなりません」
ついに鮑叔は管仲を登用させた。そして鮑叔は、みずから管仲の下風に立って敬意をはらった。
鮑叔の子孫は代々斉の俸禄を受け、封邑を領有すること十余代、常に名大夫として世に聞こえた。
天下の人は管仲の賢をほめるより、むしろ鮑叔の人を知る明をほめたたえた。
茅叔(ボウシュク)【公子】
魯の公子。周公旦の六子。
茅氏、胙氏の始祖となる。
鄷舒(ホウジョ)【宰相】
赤狄(潞)の宰相。〜B.C.594。
B.C.620夏、狄が魯の西辺の地を侵略したので、魯文公は晋に報告した。 趙盾は狄に出奔している狐射居に依頼して、 鄷舒をたずね、魯を侵略したことを責めさせた。
鄷舒は「趙衰と趙盾とどちらがすぐれているか」と尋ねた。狐射姑は「趙衰は冬の太陽のように親しみのある人、 趙盾は夏の太陽のように恐ろしい人である」と答えた。
B.C.594鄷舒は君主の嬰児の眼を傷つけ、夫人伯姫を殺した。
伯姫は晋景公の姉であったので、景公は鄷舒を討伐しようとすると、 大夫らが「いけません。鄷舒には3つのずばぬけた才能がありますので、彼の後任者が出るのを待つ方がよろしいでしょう」と諌めた。 しかし伯宗が「狄には5つの罪悪があります。先祖の祭りをしないのが1つ。酒に沈っているのが2つ。 賢人の仲章を用いず黎氏の領土を奪ったのが3つ。わが伯姫を殺したのが4つ。その君の眼を傷つけたのが5つ。 罪悪はすべてそろっているので討伐すべきです」と進言したので、晋は潞国を討った。
6月19日、赤狄の軍は晋の荀林父に曲梁で破られた。
6月27日、潞国は荀林父によって滅ぼされ、鄷舒は衛に逃れた。しかし鄷舒は衛人によって晋に送られて処刑された。
望舒(ボウジョ)【神】
月の御者。
茅焦(ボウショウ)【在野】
斉の人。
B.C.238張信侯嫪アイの叛乱が起こり、秦王は母を雍に移した。
茅焦は秦王政に「大王は天下をもって事としておられるのに、母太后を外に移すという不幸の名があります。諸侯がもしこれを聞いたら秦に叛くかもしれません」と説いた。
秦王政は母をもとに戻した。
牟辛(ボウシン)【武官】
田斉の大夫。〜B.C.349。
B.C.349斉威王に殺される。
彭生(ホウセイ)【武官】
斉の臣。〜B.C.694。
怪力の持ち主。
B.C.694斉襄公文姜の恋愛関係を知った魯桓公を殺すように、 襄公に命じられる。
4月10日、宴会の席で、彭生は酒で酔った桓公を助け抱えるふりをして指で肋骨をへし折って殺した。
のちに魯よりその責を追求されると、襄公は彭生を殺して謝罪した。
放斉(ホウセイ)【神】
の臣。
堯に後継ぎについて尋ねられたとき、堯の子丹朱を推挙する。 しかし堯は丹朱は頑固であるとしてその意見を退ける。
彭祖(ホウソ)【神】
の臣。商王朝の侯伯。姓は籛、名は鏗。陸終の三男。
仙人として、列仙伝と神仙伝に見える。
商の大夫であり、大彭に封じられる。
夏の時代を経て、商の末年には800余歳になっていた。導引行気の法に熟達していた。
またよく性を養い、調味が上手であり、に仕えて羹を勧めたともいう。
のちに仙人になって昇天したといわれる。
彭祖の後裔は商王朝のとき、侯伯(諸侯の長)となったが、商末に商王朝に滅ぼされた。
龐葱(ホウソウ)【文官】
魏の臣。
龐葱は太子と共に趙の邯鄲に人質として行くことになった。出発にあたって龐葱は魏恵王に言った。
「いま、ある者が『市場に虎が出た』と言いましたら、大王はお信じになりますか」「いや」
「二人の者が『市場に虎が出た』と言いましたら、大王はお信じになりますか」「あるいは、と疑うであろう」
「三人の者が『市場に虎が出た』と言いましたら、大王はお信じになりますか」「信じるであろう」
「そもそも市場に虎の出ないことは、分かりきったことです。にもかかわらず、三人の者が言いますと、虎が出たことになります。 ところで邯鄲は大梁を去ること市場よりはるかに遠く、しかも私の事をとやかく批判するものは三人どころではありません。何とぞ大王にはこの点をよくお察しください」
「私は自分で判断することにしよう」
しかし、龐葱がまだ目的地に到着しないうちに、讒言が早くも到着し、太子は許されて帰国したが、龐葱は帰国できなかった。
逢孫(ホウソン)【武官】
秦の臣。
B.C.630逢孫は、秦を説いた燭之武を護衛して鄭に帰らせ、自身も鄭に駐在した。
B.C.627春、秦軍は鄭に駐在していた杞子の情報を頼りに出兵したが、 鄭の商人弦高が滑で秦軍に出会い、使者を鄭に出した。鄭繆公は秦にたくらみを知り、 杞子と逢孫と揚孫の宿舎をさぐらせると、荷ごしらえをし、武器をみがき、馬にまぐさを与えていた。 そこで繆公は皇武子を遣わして「皆様にさしあげる食が乏しくなり、皆様をお立ちさせるようなことを致しました。 しかし鄭には牧地がありますので、その鹿を捕えてゆっくりされたらどうでしょう」と言わせた。
杞子は計画が露見したことを知り、斉に出奔し、逢孫と揚孫は宋に出奔した。
そのため秦軍は鄭に侵攻できず、滑を滅ぼしたが、帰国する途中、殽で晋に大敗した。
邦巽(ホウソン)【在野】
孔子の弟子。字は子斂。
逢大夫(ホウタイフ)【武官】
晋の臣。
B.C.597、6月、邲の戦いで晋軍は敗走し、趙旃は敵に出会って逃げることができなくなり、兵車を捨てて林に逃げ込んだ。
逢大夫は二人の子と同乗して走っていたが、趙旃のことに気づき、子どもに「ふりかえってはならんぞ」と言った。しかし子どもは振り返って「趙どのがおられる」 と叫んだ。逢大夫は怒って子どもを下車させてそばの木を指差して「そこでお前らのしかばねを拾ってやろう」と言い、趙旃を同車させて救った。
翌日、逢大夫は目印の木の下で重なり合って殺された子どもの死体を拾った。
茅地(ボウチ)【文官】
邾の臣。
B.C.519邾は翼に城壁を築いたが、その帰りは魯の武城を通って邾の離姑から都に帰ろうとした。公孫鉏が 「魯はわれわれを防いで通さないであろう」と言って諌めたが、 茅地・丘弱徐鉏は「(公孫鉏の勧める)道は低い。 もし雨があったら動けなくなるであろう」といって武城を通ったが、はたして武城の人に邾軍は捕えられ、茅地・徐鉏・丘弱も捕らえられた。
逢丑父(ホウチュウホ)【武官】
斉の臣。
B.C.589、6月18日、斉軍と晋・魯・衛連合軍は鞍の地に陣地を構えた。
逢丑父は斉頃公の右となった。頃公は「晋軍を全滅させてから朝食にしよう」と豪語し、 馬を武装しないで晋軍の中に駆け入った。しかし斉軍は晋軍に追い回された。
斉頃公は晋の韓厥の左役を射てこれを落車させ、右役を射て車中に倒れさせた。韓厥は綦毋張を自分の兵車に乗せたが、 逢丑父はこの隙に斉頃公と座席を換えて君の身代りになった。
華不注の麓の華泉に差し掛かったとき、斉頃公のそえ馬が木に引っかかって止まってしまった。そこで韓厥は追いつき手綱を取って斉頃公の馬前に進み、 再拝稽首して杯をささげ、さらに璧を加えて献上し「わが君は、貴国の軍の引き揚げをお願いさせ、誤って貴公の領地に踏み込むことのないようにとの命令でございました。 ところが偶然に貴公の軍と出会いまして引き揚げるわけにもいかず、一戦を交えました。おわび申し上げまして、貴公の側の代行者となり、 欠員の役をつとめさせていただきます」と申し入れた。斉頃公の身代りとなった逢丑父は斉頃公を下車させて華泉の水を汲んでくるよう命じたので、 頃公は逃げることができた。韓厥はそのまま逢丑父を捕えた。
晋の郤克は逢丑父を殺そうとした。
逢丑父「これからのちは主君の身代りとなる者はいなくなるであろう」
郤克「一命を捨てても主君を逃がすことをものともしない忠臣がいるのに、それを殺すのは不吉なことだ。むしろ赦して主君に忠義を働く者を奨励することにしよう」
そこで郤克は逢丑父を赦して処刑しなかった。
報丁(ホウテイ)【神】
商王朝の先祖。報丙の子。
望帝(ボウテイ)
杜宇
豊点(ホウテン)【武官】
魯の臣。孟孫氏の御騶。
B.C.550、8月10日、孟荘子が没した。豊点は季孫弥に 「もしも羯(孟孝伯)を後継ぎに立てる加勢をしてくれるなら、あなたを妨げた臧氏に仕返しをしてやりましょう」 と言ったので、季孫弥はその気になって活動し、孟孝伯は後継ぎになり、臧武仲は出奔した。
逢同(ホウドウ)【文官】
越の臣。
B.C.487会稽山で呉に降ってから7年が立ち、勾践は呉に報復しようとしたが、 逢同は「いま盛んに兵器を繕えば呉は恐れて事を起こすでしょう。猛鳥が小禽を襲うときには、かならず姿を隠すものです。呉は徳が少ないのに功が多いので、 かならず荒淫にふけり、驕慢になりましょう。今は斉と結び、楚と親しみ、晋につき、しかも呉と鄭重に交わるべきです。 斉・楚・晋と連合して三国に呉を討たせて疲弊させれば、呉に勝てましょう」と進言した。勾践は「なるほど」と言って取りやめた。
B.C.485呉の大夫伯嚭と共謀して呉の伍子胥夫差に諫言し、 彼を死に追いやった。
鮑佞(ホウネイ)【武官】
斉の臣。
B.C.269秦が魏の懐を攻めて去ろうとしたとき、鮑佞は楚・趙とともにこれを追撃した。
茅茷(ボウハイ)【武官】
晋の臣。
B.C.632城濮の戦いのとき、晋の中軍は沢中で大風にあい、その際、キ瞞が軍令に背いた行動をしたので司馬に殺されて諸侯に知らされ、 茅茷がその後任となった。
謀父(ボウフ)【文官】
周王朝の臣。祭公。ボウホともよむ。
穆王が犬戎を討とうとすると、文・武が徳によって民に威光をあらわしたことを述べ、その教えを棄てないように諫言した。 しかし王はそれを聞かず出兵し、結果的に異民族や諸侯が服従しなくなった。しかし一方で、謀父が祈招の詩を作って穆王の心を抑えたため、 穆王は祗宮で亡くなることができたといわれる。
報丙(ホウヘイ)【神】
商王朝の祖先。報乙の子。
芒卯(ボウボウ)【武官】
魏の臣。
B.C.290詐術をもって魏に重んぜられた。
B.C.274秦と戦い華陽で破られ、兵13万を失う。
鮑牧(ホウボク)【文官】
斉の臣。
B.C.489、6月田乞と共に晏孺子を討つ。
10月、田乞が勝手に陽生を擁立したことに対して怒ったが、結局これを立てる。
B.C.485呉の伍子胥が使いにやってきて、自分の子を鮑牧に託す。
呉が斉を討ったため、鮑牧は悼公(陽生)を弑し、呉に報告して侵攻を食い止めようとする。
彭名(ホウメイ)【将軍】
楚の将軍。
B.C.597、6月、邲の戦いのとき、彭名は左の部隊の御者となった。楚荘王は彭名の兵車に乗った。
荘王は戦いの途中に右の部隊の車を見て乗り換えようとしたが、右役の屈蕩が「君はこの兵車で戦を始められたのですから、 最後までお乗りください」と諌めたので、そのまま左の車に乗った。これより以後、楚の兵車は左を上位として先にたてることになった。
B.C.589子重が衛と魯を討った。恭王は年が若くて出陣しなかったが、 彭名は御者となり、蔡景侯が左役をつとめ、許霊公が右役をつとめて参戦した。
B.C.575鄢陵の戦いのとき、彭名は楚恭王の御者となった。
B.C.569夏、彭名は楚恭王の命で陳を討った。
逢蒙(ホウモウ)【神】
羿の弓の弟子。
羿から弓の全てを教わり、世界中で自分より優れているのは羿だけだと思うようになった。 世界一になるためについに師匠である羿を殺害する。
彭蒙(ホウモウ)【在野】
道家。
斉の人。
彭蒙は稷下に学び、田駢の師(あるいは門人)であるという。
蠭門(ホウモン)【神】
古の弓射の名人。
奉陽君(ホウヨウクン)
豊隆(ホウリュウ)【神】
雲神。または雷神。
務蔞(ボウロウ)【文官】
莒の臣。
B.C.541秋、公子去疾 が斉の助けを借りて帰国したため、 莒公展輿は母の里の呉に出奔し、 展輿の一味である務蔞と瞀胡と公子滅明は斉に出奔した。
甫瑕(ホカ)【文官】
鄭の臣。甫仮とも書く。傅瑕ともいう。〜B.C.680。
B.C.680甫瑕は鄭厲公におびき出され、厲公を鄭に入れるよう脅迫される。そこで厲公と誓いを立てて、帰国する。
6月20日、甫瑕はとふたりの子を殺し、厲公を迎える。
しかし厲公は「主君に対するそちの仕え方は、二心のあるものだ」と言って、甫瑕を殺した。甫瑕はそのとき「重徳は報いられずとか。まことにそうであった」と言った。
輔過(ホカ)
智過
歩毅(ホキ)【武官】
晋の将軍。
B.C.575歩毅は晋厲公の御者となって鄢陵で楚軍と戦った。
僕(ボク)【公子】
莒の公子。紀公の子。
公子僕は太子となったが、紀公が弟の季佗を可愛がったため、愛されなかった。
B.C.609太子僕は紀公を弑して国の宝玉をもって魯に出奔し、魯宣公に献上した。
宣公は僕に土地を与えようとしたが、里革季孫行父が反対したため、 太子僕は魯から追放された。
濮(ボク)【文官】
宋の臣。料理人。
B.C.521、10月、華登が呉軍を率いて、叛乱を起こしている華亥を助けにきた。 濮は「人に先んずれば人の心を奪うことができ、後るれば衰えて負けるのを待つばかりだという言葉があります。敵兵が南里に入ってしまえば後悔しても追いつけません」 と進言すると宋を助けにきた斉の烏枝鳴は同意した。
10月17日、斉軍と宋軍は呉軍を鴻口で破り、その将公子ガンと偃州員を捕虜にした。しかし華登が残兵を率いて宋軍を破ったため、 宋元公は恐れて逃げようとした。すると濮が「わたしは君のために死ぬことはできても、逃げることをお送りすることはできません。 今しばらくお待ちください」と言い、陣中に「おのおの方の背につけた小旗を高くあげる者はわが君の味方である」とふれまわすと、大勢の者がそのようにした。 さらに濮はふくろに死人の首を包み「敵将華登を討ちとった」といいふらし、勢いに乗じて華氏を新里で打ち破った。
繆嬴(晋)(ボクエイ)【女官】
襄公夫人。夷皋(霊公)の母。
B.C.620趙盾らが、後継者を公子にしようとしていた。 繆嬴は朝廷で号泣して「先君に何の罪がありましょう。その世嗣にも何の罪がありましょう」と言い、さらに趙盾のところに行き、 「先君はあなたにこの子を委嘱し『もし有能があれば、これを卿のたまものとしてありがたく思うが、もし有能でなければわしは卿を恨むだろう』と おっしゃいました。それなのにこの太子をお見棄てになるとは、どうしたことでしょう」と言った。趙盾も諸大夫もみなこれを憂え、かつ誅殺されはしないかと恐れたため、 結局、夷皋を立てた。
繆嬴(秦)(ボクエイ)【女官】
襄公の妹。
B.C.776襄公の命で豊王の妻となる。
卜偃(ボクエン)
郭偃
穆王(周)(ボクオウ)【皇帝】
周王朝5代王。名は満。昭王の子。〜B.C.940。
B.C.985昭王が南征して帰らなかった。王位を空にするわけにはいかないので、穆王は即位した。
B.C.976穆王が即位して十年、改めて昭王は崩御したと判断し、正式に即位した。
穆王の初年、北唐の君が来見して一騮馬を献じた。
B.C.969穆王は遠く河源に赴き、流砂を渡った。祭公謀父は遠方には武を用いず、徳を以て来服を待つべきであると諌めたが、 穆王は聴き入れず、赤驥(赤色の馬)・温驪(浅青色の馬)・驊リュウ(鮮紅色の馬)・騄耳(緑色の耳の馬)の四馬を得たため、犬戎を征し、白狼・白鹿を得て帰還した。
そのため、異民族は周に服属せず、諸侯のうちでも不和が起こり、徐偃王が乱をおこしたので、帰国してこれを鎮圧した。
しかしこの件で、遠方のものが来朝しなくなった。
このとき穆王は崑崙の邱で西王母と会見した。
この年、西王母が来朝し、昭宮にてこれを賓した。
王道がすでに衰微し、文武の道が継がれないことを憐れみ、伯ケイを太僕に任じて国政を任せたため、政局はやや安定する。
穆王(楚)(ボクオウ)【王】
楚王(5(21)代目)。名は商臣。成王の子。〜B.C.614。
楚成王は公子商臣を太子にしようと思い、子上に相談した。子上は「君はまだ老衰というほどの年でもありません。いま太子を立てて、 後で退けるようなことがあれば内乱がおこるでしょう。楚で太子を立てるのは、いつも年少の公子とかぎっています。そのうえ商臣は蜂のような目つきで、 豺(やまいぬ)のような声を出し、刻薄な人です。太子に立ててはいけません」と言ったが、成王は聴き入れず、公子商臣を立てた。
B.C.627子上が蔡を晋から救うために出陣したが、兵を引いた。公子商臣は子上に恨みを持っていたので、 子上をそしって「晋から贈物を受けて退却するとは楚の恥である」と成王に言ったため、子上は殺された。
B.C.626成王が太子商臣を廃して職を立てようとした。商臣は潘崇に言った。
「どうしたら実情をつきとめられよう」
潘崇「王の愛妹江羋を招いて疎略にもてなされるのがよい」
商臣はこれに従い、江羋を疎略にもてなすと江羋は怒って「王がそなたを殺し、職を立てたいとお考えになるのは、無理もない」と言った。
商臣は潘崇に言った。
「やはり事実だった」
潘崇「職が立ったら、臣下として仕えることができましょうか」
商臣「それはできまい」
潘崇「逃げ出すことができますか」
商臣「それも、できまい」
潘崇「それでは、大事をおこなうことができますか」
商臣「それはできよう」
10月、商臣は宮中警護の兵を率いて成王を攻め殺した。
穆王は即位すると、太子宮(太子の宮室)を潘崇に与え、太師に任じて国事を司らせた。
B.C.624春、沈が楚に服従したので、晋・魯・宋・衛・陳・鄭は会合して沈を討ち、沈は潰滅した。
秋、穆王は江を攻め囲んだ。晋襄公は周の援助を借りて陽処父に命じて楚を討たせた。 陽処父は楚の方城の門まで攻め込んだが、救援に来た楚の息公の軍に出会い、恐れて戦わずに引き揚げた。
B.C.623秋、穆王は江を滅ぼした。
B.C.622秋、六が楚に背いて東夷に従ったので、成大心子家に命じてこれを滅ぼした。
冬、公子に命じて蓼を攻め滅ぼした。
B.C.618范山が「晋の君は幼少なので諸侯のことなど考えていないようです。今こそ北方に乗り出して諸侯を征服すべき時です」 と進言した。そこで穆王は鄭の狼淵に軍を進めて鄭を討ち、公子・公子楽耳の3将を捕虜にした。そこで鄭は楚と和睦することにした。
夏、陳が晋に服従していたので、穆王は陳に侵略して壺丘で陳軍を打ち破った。
秋、息公朱が東夷の方から進んで陳を討った。陳はこれを破って公子を捕らえたが、楚の報復を恐れて楚と和睦した。
冬、闘椒を魯に遣わした。
B.C.617、5月、子西と子家が穆王を殺そうとしていたことが発覚し、穆王は子西と子家を殺した。
秋、穆王は陳共公と鄭繆公と息で会合した。
冬、穆王は蔡荘侯とともに厥貉に陣を敷き、宋を討とうとした。 宋昭公は穆王を迎え入れて、その労をねぎらい、楚の命令に従った。
B.C.616春、穆王は麇を討った。成大心は麇軍を麇の防渚で討ち破った。潘崇は麇の錫穴まで侵入した。
B.C.615春、令尹成大心が没したので、成大心の弟成嘉を令尹とした。
夏、舒庸・舒鳩などの諸国が楚に背いたので、穆王は成嘉に命じて舒の君と宗の君を捕え、引き続いて巣を攻め囲んだ。
北郭啓(ホクカクケイ)【武官】
斉の臣。
B.C.520、2月17日、北郭啓は莒を討ったが、莒公に莒の寿余で敗れた。
北郭佐(ホクカクサ)
北郭子車
北郭子車(ホクカクシシャ)【文官】
斉の臣。北郭佐ともいう。
B.C.545欒子雅高子尾が朝廷に不満をもったため、 析帰父慶封の命で彼らを処理しようとして北郭子車に相談した。 北郭子車は「わたしは君に仕えておりますが、そのような事はわたしのできることではありません」と答えた。慶氏が滅びると、 北郭子車は60邑を与えられた。
北郭騒(ホクカクソウ)【在野】
斉の人。晏子春秋に見える。
家が貧しくて、晏嬰に食を乞うたことがあった。
晏嬰が景公から疑われて、出奔した。北郭騒は恩を返そうとして、「晏子が賢人であることを明らかにする」と言って自刎した。
晏嬰は「嬰が亡命するのは当然だ。士を知らないこと甚だしい」といって嘆いた。
卜齮(ボクキ)【武官】
魯の臣。
B.C.660魯湣公の守役が卜齮の田地を横取りしたが、 湣公はこれを咎めなかったため、湣公はこれを恨みに思った。
8月25日、慶父は自ら立とうとたくらみ、卜齮に命じて湣公を宮中の小門で殺した。
繆姫(ボクキ)【女官】
繆公の夫人。晋献公の娘、夷吾の姉。
B.C.650晋恵公(夷吾)が即位すると、繆姫は恵公に申生の妃の賈君の身を頼み、 さらに国外に逃げている公子たちを晋に呼び戻すよう言った。しかし恵公は賈君に淫通し、公子たちを呼び戻さなかったので、繆姫はこれを恨んだ。
B.C.645韓原の戦いで、繆公は晋恵公を捕えて都に連れて帰ろうとしたが、 繆姫は太子と公子簡璧をつれて台に登って 「もし晋君が都に入ってくれば死にましょう」と言った。そこで繆公は晋恵公を郊外の霊台に留めた。
しかし繆公が晋恵公を祭壇に供えて天帝に祀ろうとすると、繆姫は喪服を着て涕泣した。繆公は「わしは晋の君をつかまえて、これから楽しもうと思っていたのに、 今やこの有様じゃ。ともかく晋は将来強盛になるだろう。それほど容易に滅ぼせるものではない」と言って、恵公を許した。
北宮遺(ホクキュウイ)【文官】
衛の臣。
B.C.547、6月、諸侯が会合したので、北宮遺は甯喜とともに参加しようとしたが、 晋の女叔斉に捕らえられた。
北宮懿子(ホクキュウイシ)
北宮括
北宮括(ホクキュウカツ)【武官】
衛の臣。北宮懿子ともいう。
B.C.574、1月、鄭が晋の虚と滑に攻め入った。北宮括は晋を助けるために鄭を討ち、鄭の高氏まで攻め入った。
B.C.564、10月、諸侯は鄭を討ち、北宮括は曹人、 邾人とともに晋の荀偃韓宣子の率いる上軍について鄭の師之梁門を攻めた。
B.C.559春、呉が楚と戦って大敗したことを晋に告げてきた。北宮括は晋・魯・宋・斉・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と向で会合した。
夏、北宮括は晋・魯・斉・宋・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾とともに秦を討った。しかし諸侯の軍は秦の涇水まで進んだが、 誰も渡ろうとしなかった。鄭の子蟜が北宮括に「人に味方しておきながらしっかりやらないと、 ひどい憎しみを受けるでしょう。国家をどうなさるおつもりですか」と言った。北宮括は喜んで、子蟜とともに諸侯の軍の所に出かけて涇水を渡るよう勧めた。 そこで諸侯は涇水を渡って陣をしいて進撃した。
北宮錡(ホクキュウキ)【在野】
衛の人。姓は北宮、名は錡。
孟子に周室の爵位俸禄について尋ねる。
北宮喜(ホクキュウキ)【文官】
衛の臣。北宮貞子ともいう。
B.C.532、9月、北宮喜は晋平公の弔問に出かけた。
B.C.522北宮喜は孟縶に恨みを持つ斉豹褚師圃・公子とともに謀叛を起こすこととした。
6月29日、斉豹が孟縶を殺した。
6月30日、衛霊公は都に戻り、北宮喜は衛霊公と彭水のほとりで盟った。
7月1日、衛霊公が国の人々と盟いを結んだ。北宮喜は衛霊公より貞子という諡を賜った。
B.C.517夏、北宮喜は晋の趙鞅、宋の楽大心、 魯の叔詣、鄭の子大叔、曹の人、邾の人、滕の人、薛の人、 小邾の人と黄父で会合し、王室の乱について相談した。
B.C.515秋、北宮喜は晋の范鞅、宋の楽祁犂、曹の人、邾の人、滕の人と扈で会合した。 楽祁犂と北宮喜は魯昭公を都に入れることを強く願ったが、范鞅は季孫氏から賄賂を受けていたため 「魯君は斉にすがっているが3年経っても成功していない。ところが季氏は国の人望を得ており淮夷もこれに味方し、10年も支える備えがあり、 斉・楚の援助もあり、国を守り抜く決意がある。これを討って魯君を入れようとするのは難しいことだと思いますが、ご両人に従って魯を囲みましょう。 成功しなかったらいさぎよく死にましょう」と言った。楽祁犂と北宮喜は恐れて願いを取りさげた。そこで范鞅は他の小国にも話をして、 魯昭公を入れることは難しい旨を晋頃公に報告した。
北宮結(ホクキュウケツ)【文官】
衛の臣。
B.C.503秋、斉景公が鄭献公と衛の鹹で盟い、衛に参加するよう求めた。 衛霊公は晋に背いて斉・鄭につこうとしたが、大夫たちが聴かなかった。北宮結は斉に赴いて「この結を捕らえて我が国に攻め入られよ」 と言ったため斉景公はそのとおりにし、はたして瑣で衛は斉と盟った。
北宮佗(ホクキュウタ)【文官】
衛の臣。
B.C.543、10月、北宮佗は晋の趙武、魯の叔孫豹、 宋の向戌、斉の高子尾、鄭の子皮、 小邾の大夫と集まって、衛の澶淵で会合した。
B.C.531秋、北宮佗は斉の国弱、晋の韓宣子季平子華亥、鄭の子皮、曹人、杞人と衛の厥憖で会合し、 楚に攻められている蔡を救う相談をした。
北宮貞子(ホクキュウテイシ)
北宮喜
北宮文子(ホクキュウブンシ)【文官】
衛の臣。
B.C.542、12月、北宮文子は衛襄公の介添として楚に赴き、途中で鄭に立ち寄った。 そこで鄭の印段子羽馮簡子子大叔の出迎えを受けて「鄭では礼が守られている。数代にわたってしあわせが続くでしょう」と言った。
北宮文子は楚の令尹の威儀を見て「令尹は国君らしいふるまいをしています。野心をとげようとしておりますが、 終わりはよくないでしょう」と言った。衛襄公が「どうしてわかるのか」と問うと北宮文子は「令尹の身なりは重々しくなり、民の手本とするところがありません。 民の仰ぐべきところがなくて、どうしてその上に立つことができましょう」と答えた。衛襄公が「よいことを言われる。では威儀とはどういうことか」と尋ねると、 北宮文子は「威厳があって恐ろしく感じるものを威といい、身なりや挙動がりっぱで手本とすべきものを儀と申します」と答えた。
北宮黝(ホクキュウユウ)【在野】
斉の人。
勇士であり、他人から害を受けると賤者でも万乗の大国の君主でも決して許さず、君主を刺し殺すのも、賤者を刺し殺すのと同様に平気であった。
北宮黝は天下に誰一人畏れはばかる者はなく、少しでも自分の悪口を言えば必ず仕返しをした。
『孟子』に見える。
穆姜(ボクキョウ)【女官】
宣公の夫人。魯成公共姫の母。〜B.C.564。
B.C.582夏、季孫行父が共姫を嫁ぎ先の宋に送り届けて帰って報告した。 魯成公が宴を開いて労をねぎらったとき、穆姜は部屋から出てきて、厚くお礼を述べて「大夫にはたいへんご苦労様でした。先君をお忘れにならず、君にも忠誠を尽くし、 このわたくしにまで心をつくして下さいました」と言った。
公孫嬰叔肸の子であるが、その母は正式な婚礼で娶られていなかったので、 穆姜は「わたしはあなたを姒(弟よめ)とは呼びません」と言って公孫嬰の母を追い出した。
B.C.575鄢陵の戦いの翌日、魯成公は魯の壊隤を出発して晋軍を見舞おうとした。 そのとき穆姜は魯成公を見送りながら季孫行父と孟献子を追放するよう請うたが、 魯成公は晋に加勢する大事な時であるとして断り「帰ってから仰せを承りましょう」と言った。穆姜は怒った。 そのときと公子が通り過ぎたので、 穆姜はふたりを指さして「お前が聴き入れないのなら、あのふたりはどちらでも君になれるのですよ」と言った。 そのため魯成公は孟献子に命じて公宮の警備を厳しくさせてから出発したので、諸侯の会合に遅れてしまった。
7月、魯成公は晋・斉・尹・邾と会合することになった。魯成公が出発しようとすると、穆姜は再び季・孟の二氏を追放せよと言った。 そのため魯成公は留守の警備を厳しくしてから出発した。
穆姜は叔孫喬如と密通した。
臧宣叔の夫人が没したので、穆姜の母方のおばの子を後妻とし、臧武仲を生んだ。 臧武仲は公宮で育てられ、穆姜はこれを愛した。そこで臧武仲を臧宣叔の後継ぎにした。
B.C.564穆姜が東宮に言ったとき、東宮に落ち着くことを占うと悪い結果が出た。しかし穆姜は「今わたしは婦人の身でありながら、家出男遊びをしていました。 わたしは咎を受けないわけには行けません。必ずここで死にましょう」と言った。
5月29日、穆姜は東宮で没した。
繆公(秦)(ボクコウ)【王】
秦公(9(14)代目)。名は任好。成公の弟。〜B.C.621。
B.C.659即位する。
自ら将として茅津を討って勝つ。
B.C.655晋献公が虞虢を滅ぼし、虞の大夫百里奚を虜にした。 献公は彼を繆公の夫人の侍臣として秦に送った。
百里奚は秦を逃げ出したが、宛に行ったところで楚の里人に捕えられた。
繆公は百里奚の賢明なのを聞き、重く買い取ろうと思ったが、楚人が引き渡さないかもしれないと考え、人を楚にやって「貴地にわが侍臣の百里奚がいるが、 羖羊(めひつじ)の皮5枚でつぐないたい」と言った。楚人はついに許して百里奚を秦に与えた。
繆公は百里奚と語り合い、大いに喜び、百里奚に国政をまかせた。
さらに百里奚の勧めで、人をやって礼物を厚くして蹇叔を迎え、上大夫にした。
秋、繆公は自ら将として晋を討ち、河曲で戦う。
B.C.651晋献公が没すると、晋の公子夷吾(恵公)の一党は梁由靡を秦にやって晋に入る許しを請うた。 そこで繆公は大夫の子明公孫支を呼んで 「晋の国乱について、わしは誰を使節としたらよかろうか」と言った。 子明が公子がよいと進言したので、繆公は縶を使節として重耳を弔問させた。 しかし重耳は帰国することを拒んだ。そこで公子縶は夷吾を弔問すると、夷吾は帰国に承諾した。
繆公は二人の公子を比べて「わしは公子重耳の味方をしよう。重耳は仁者である」と言った。公子縶が「君のお言葉はまちがっておられます。 君がもし晋君を立てて成功させたければ、重耳を立てるのもよいでしょう。しかし君が威光を天下に挙げようとされるのでしたら、不仁の人を立てるほうがよいでしょう」 と言ったので、繆公は夷吾を立てることとし、百里奚に命じ兵を率いて彼を送らせた。
B.C.650夷吾は「晋の河西の八城を割いて秦に献上しましょう」と約束したが、位に着くと約束に背いて河西の地を割譲しなかった。
晋の臣邳鄭はこれを聞くと「秦との約束にそむいたのは、みな呂省郤称冀芮がいるからです。 願わくば君には、利を持って呂・郤を召し、彼らが来たら、あらためて重耳を立てるようにしてください」と進言した。 繆公はこれを聴き入れ、泠至を使者として晋を訪問させ、呂省らを秦に招こうとした。しかし呂省らはこれを怪しみ、 邳鄭と七輿大夫を殺して、秦に来なかった。
邳鄭の子邳豹は秦に逃れて「晋君は無道なので、百姓は親しみません。討つのがよいでしょう」と言ったが 「百姓が君とするのを欲しないなら、どうして大臣(邳鄭)を誅することができよう。これは百姓と心が合っているからである」と言って聴き入れなかった。 しかしひそかに邳豹を任用した。
B.C.649周の叔帯が戎を手引きして周都を討ったので、繆公は晋とともに戎を討った。
B.C.647晋に旱魃があり、秦に粟を請うた。邳豹は「晋君は民を失った上に、また天意をも失いました。君は穀物の輸入を許してはなりません」と言ったが、 繆公は「わしはその君を憎むが、民には何の罪があろうか。天災は代わる代わるやって来るものであるし、飢饉のときに食糧を送るのは道である」と言った。 そこで繆公は公孫支に「晋に食糧を与えようか」と尋ねた。公孫支は「飢饉と豊作はおたがいにあることです。食糧を与えて民を喜ばせる方がよいでしょう。 民が喜べば必ず晋君を咎めます。晋君がその咎めを聞かなければ、その時征伐すれば、誰が晋君に味方しましょうか」と言い、 百里奚は「夷吾が君に対して罪を犯したとて、百姓には何の罪がありましょう」と言った。そこで繆公は舟を黄河に浮かべて晋に穀物を輸出した。
B.C.646秦に飢饉があり、粟を晋に請うたが、容れられなかった。
B.C.645晋が攻めてきたので、繆公は邳豹を将として親征した。
繆公は晋を討ち、これを三度破り、韓原まで進出した。
晋恵公が韓簡を使者として挑戦させた。韓簡は繆公に「昔の君の恩をわたくしは決して忘れてはおりません。 君がお帰りくださるのが、わたくしの願うところです。君がもし帰られないならば、わたくしも逃げ隠れはしません」と言った。 しかし繆公は「もはや晋君の位も安定したであろう。隊列を整えられよ、戦場でお目にかかろう」と答えた。
韓簡が帰ると公孫支が進み出て「昔、君は公子重耳を帰国させずに、徳のない晋君を帰国させました。立てても成就せず、今戦って勝てなければ、諸侯の物笑いとなります。 時期を待たれるべきです」と諌めた。繆公は「確かにそうだ。しかしわしは恩恵を何度も施している。もし天があるとするなら、必ず勝つにちがいない」と言い、 ついに決戦することとした。
9月13日、韓原で会戦し、繆公は晋軍に囲まれて負傷し、韓簡に捕えられそうになったが、危険を脱してかえって晋恵公を生け捕りにした。
このとき繆公を助けたのは岐下の良馬を食べた300人であった。彼らは官馬を捕らえて食ったが、繆公は「君子は家畜のために人を害してはならない。 わしは良馬の肉を食ったら酒を飲まないと人をそこなう、と聞いている」と言って、逆にみなに酒を賜い罪を赦した。300人の者はその恩をここで報いたのである。
繆公は晋恵公を都に連れて帰ろうとしたが、 繆姫が太子と公子簡璧をつれて台に登って 「もし晋君が都に入ってくれば死にましょう」と言った。そこで繆公は晋恵公を郊外の霊台に留めた。
繆公は国中に布告して「みな潔斎せよ。わしはいま晋君を犠牲にし上帝を祠ろうと思う」と言った。
襄王は「晋はわが周と同姓(姫姓)である」と言って晋君を殺さないように請い、また繆姫も請うた。繆公は王城まで帰還すると、 大夫を集めて相談した。
繆公「晋君を殺すか、放逐するか、つれて帰るか、晋へ送り返すか、どれがよいか」
公子縶「殺すのがよいでしょう。放逐すれば諸侯と策謀する恐れがあり、つれて帰れば国内に悪事が多くなりましょう。晋に返せば、君の憂患となりましょう」
公孫支「いけません。大国の晋の軍を辱しめた上、その君を殺せば、臣は報復しようとするにちがいありません」
公子縶「むやみに殺すのではありません。公子重耳を置き換えようとするのです。戦争で勝つのは武であり、無道を殺して有道を立てるのは仁であり、 勝利の後に損害がないのは知です」
公孫支「戦争して諸侯の笑い者になるのは武とはいえず、弟を殺して兄を立てるのは仁とはいえず、再び恩恵を施しながら完成しないのは知とはいえません。 つれて帰って晋と和平を結ぶのがよろしいでしょう。そしてその嫡子を人質にすれば、わが国に損害はないでしょう」
繆公は晋君を許して国へ帰すこととして上舎(上等の宿舎)に泊め、七牢のご馳走をした。
10月、繆公は晋の呂省と会合して、秦の王城で盟った。
11月、繆公は晋恵公を帰し、秦はここに初めて河東の政治を管理するようになった。
この時、秦の領土は黄河に達した。
この年、晋はまた不作であったので、繆公はまたも晋に穀物を贈った。
B.C.643夏、恵公は公子を秦に人質として出し、その妹のを秦の女官とした。
そこで秦は晋に河東の地を返して、圉公子に懐嬴を娶わせた。
B.C.642梁が国境を広げたが、そこに民を移すことができなかった。繆公はこの地方を攻め取った。
B.C.641梁の民が梁の君を恐れて逃げ去ったので、繆公はこれに乗じて梁を滅ぼした。
B.C.638秋、秦・晋は陸渾の戎を誘って伊川に移した。
晋の公子圉が逃げて晋に帰る。
B.C.637晋恵公が没し、公子圉が立つ。(懐公)
繆公は公子圉が逃げ帰ったのを恨み、楚に行っていた晋の公子重耳を迎えた。
繆公は5人の娘を重耳に嫁がせたが、その中に懐公に嫁いだ懐嬴も入っていた。重耳が難色を示したので、 繆公は「わたしの娘の中ではこの子が一番才があります。 ですが、この件については公子のご意向に従って処理しましょう」と言った。重耳は賈佗らと相談して、結局娶った。
12月、繆公は出兵して、重耳を支援して晋に入らせた。
B.C.636春、人を晋にやって、重耳を晋君にしたい旨を告げた。
2月、晋の臣呂省と郤芮は兵を率い廬柳に陣を布き、重耳を防ごうとした。繆公は公子縶を呂省のもとにやったので、 呂省らは軍を引いて郇の地に駐屯した。
2月12日、重耳の臣狐偃が秦と晋の大夫と郇で和議を盟った。
2月13日、重耳は晋軍に入った。
繆公は秦に帰国した。
3月29日、呂省と郤芮らが背き、公宮を焼いたが、晋文公は逃れていたため、彼らは文公を黄河まで迫ってきた。繆公は彼らをおびき寄せて、 黄河のほとりで彼らを殺した。
晋文公は王城から晋へ戻った。繆公は衛士3000人を派遣して、文公を護衛した。
秋、周襄王の弟叔帯が乱をなし、王は出奔して鄭にいた。
B.C.635繆公は兵を率い、晋文公を助けて襄公を周に入れた。
秋、繆公は晋とともに鄀を討った。 楚の闘克屈禦寇が申・息の軍を率いて鄀の都の商密を守った。 繆公は雑役の衆人を析城の捕虜に見せかけ、夜に商密の城下に穴を掘って牛の血を埋め、その上に文書を載せ、闘克と屈禦寇が秦と和議を結んだように見せかけた。 これを見た商密の人は闘克と屈禦寇が裏切ったと思って秦に降服し、秦は闘克と屈禦寇を捕えることができた。秦軍はふたりを連れ帰った。
B.C.632繆公は小子憗を派遣して、晋・斉とともに城濮の戦いで楚を破った。
B.C.630繆公は晋文公を助けて鄭を囲んだ。鄭の燭之武が「鄭を滅ぼして晋を強くするのは、秦にとっては不利益です。 晋が強くなるのは秦のうれいではないでしょうか」と言ったので、繆公は杞子逢孫揚孫を鄭に残らせて兵を率いて帰国した。
B.C.628冬、鄭人で鄭国を秦に売る者があり「自分が鄭の城門を司っているので、鄭を襲うのがよろしい」と言った。繆公は百里奚・蹇叔の反対を押し切って、ついに兵を出し、 百里奚の子孟明視・ 蹇叔の子西乞術白乙兵を将とした。
B.C.627春、軍が滑に着くと、鄭の商人弦高が牛12頭を献上した。そのため鄭を攻めず晋の辺邑の滑を滅ぼした。
襄公は怒って兵をおこし、殽で大いに秦を破り、秦軍は一人残らず全滅して、三将は捕えられる。
晋文公夫人のとりなしで三将は帰国した。繆公は白い服(喪服)を着て郊外に出迎えて三人に泣いて「わしは百里奚と蹇叔の忠言を聴かなかったので、三子を辱めた。 三子に何の罪があろうか。おまえたちは、この後専心恥をすすぐよう努めてくれ」と言い、もとのままの官秩として、いよいよ厚遇した。
繆公はこの敗戦によって、楚と友好を結ぼうとして、闘克を楚に還した。秦と楚は友好を結んだ。
B.C.625春、繆公は孟明視に命じて晋を討った。
2月9日、孟明視は晋軍と彭衙で戦って大破された。晋の人はこの秦軍を拝賜の師と読んで嘲笑した。
繆公は孟明視が再度晋と戦って大敗しても、なお孟明視を用いて辞めさせなかった。孟明視はいよいよ国政に励み、厚く恩恵を民に施して晋に報復することを謀った。
戎王が由余を秦に遣わした。繆公は由余と語り合い、これが賢明であることがわかると内史のに 「わしは隣国に聖人がいるのは、相手の国のうれいだと聞いている。どうしたらよかろう」と問うた。廖は「戎王の心を女楽で乱れさせ、一方で由余を秦にとどめましょう。 戎王と臣との間に隙を作り、由余を戎王に疑わせればよろしいでしょう」と言った。繆公は戎王に女楽を奏する者16人を贈った。
のちに由余は帰国して戎王を諌めたが、戎王は聴かなかった。一方で繆公は人を遣り、戎王に由余を秦に与えるように説いた。このため由余はついに戎を去って秦に降り、 繆公は賓客の礼をもって待遇した。
B.C.624孟明視らを厚遇し、兵をひきいて晋を討たせた。孟明視は黄河を渡ると船を焼いて生還しないことを期し、大いに晋軍を破って王官、鄗を取り、 殽の戦いの敗北に報いた。
繆公は茅津から黄河を渡り、殽で戦死した者の屍を埋め、領地を開くこと千里、ついに西戎の覇となった。
周襄王は召公に命じて慶賀の意を表し、金鼓を贈った。
B.C.623秋、楚穆王は江を滅ぼした。繆公は同盟国である江が滅ぼされたのを悲しみ、隣国の君として行う以上の礼をつくして哀悼の意を示した。
秦は晋襄公に新城を攻められ、王官の役の報復をされた。
B.C.622楚と親密な鄀が秦に従ったが、楚に心を寄せていたので、繆公は鄀に攻め入った。
B.C.621繆公は没し、雍に葬られた。殉死する者が177人あり、良臣子輿氏の奄息仲行鍼虎の三人もこの中にあった。秦人はこれを憐れんで「黄鳥を歌う」の詩を作った。 人々は「秦の繆公が地を広め国を強くし、東は強晋を服し、西は戎夷の覇となりながら、ついに諸侯の盟主になれなかったのも、もっとものことだ。死んで民を見棄て、 その良臣をみな殉死させた。先王は崩ずるときに、余に恩徳を施し、子孫のために法を垂れこそすれ、百姓が惜しみ哀しむ善人、良臣の命を奪うようなことをするであろうか。 だから繆公は東征できなかったのである」と噂した。
繆公(鄭)(ボクコウ)【王】
鄭公(9代目)。名は蘭。 文公の子。母は燕姞。B.C.649〜B.C.606。
文公が公子たちを追放したので公子蘭は晋に亡命した。
B.C.630公子蘭は、晋が鄭を討つ軍に参加したが、鄭の都に攻め入ることには参加したくないと申し出た。 晋文公はこれを許して、公子蘭は鄭の東方にとどまった。
鄭の石甲父が「姫姓と姞姓が結婚するとその子孫は栄えるという。姞という字はめでたい人の意で、 この姓の夫人が周を興した后稷の正夫人であった。もし公子蘭を天が助けるならきっと君になるであろうし、 その子孫も栄えるであろう」と言って、孔将鉏侯宣多と協力して公子蘭を迎え入れて、 祖廟で盟って公子蘭を太子に立てて、晋と和睦した。晋文公はこれを許したので、公子蘭は帰国した。
B.C.628、4月、文公が没し、公子蘭は即位した。
繆公は少妃姚子との間に夏姫をもうけ、 陳の夏御叔に嫁がせた。
B.C.627春、鄭の商人弦高が滑で秦軍に出会い、使者を鄭に出した。繆公は秦にたくらみを知り、 鄭に駐在している杞子逢孫揚孫の宿舎をさぐらせると、 荷ごしらえをし、武器をみがき、馬にまぐさを与えていた。そこで繆公は皇武子を遣わして「皆様にさしあげる食が乏しくなり、 皆様をお立ちさせるようなことを致しました。しかし鄭には牧地がありますので、その鹿を捕えてゆっくりされたらどうでしょう」と言わせた。
杞子は計画が露見したことを知り、斉に出奔し、逢孫と揚孫は宋に出奔した。
そのため秦軍は鄭に侵攻できず、滑を滅ぼしたが、帰国する途中、殽で晋に大敗した。
12月、繆公は晋・陳とともに許を討ち、許が楚に通じていることを責めた。
楚は鄭を討ち、楚に亡命している公子を鄭に入れようとした。このとき公子瑕の車が周氏の池に転覆したため、 鄭の髠屯がこれを捕えて繆公に献じた。
B.C.625繆公は蔡荘侯を呼び寄せて、ともに晋に仕えることを相談した。
9月、蔡荘侯が鄭に来朝し、ともに晋に行こうとした。しかし侯宣多が叛乱を起こしたため、繆公は晋に行けなかった。
11月、繆公は侯宣多の乱を鎮圧し、蔡荘侯とともに晋に行った。
冬、繆公は子家に命じて、晋・宋・陳とともに秦を討って汪を攻め取った。
B.C.624春、沈が楚に服従したので、成公は晋・魯・宋・陳・衛と会合して沈を討ち、沈は潰滅した。
B.C.620、8月、繆公は晋の趙盾と斉・宋・衛・陳・許・曹と鄭の扈で会盟した。
B.C.618楚穆王が鄭の狼淵に侵略し、公子・公子楽耳の3将が捕えられた。そこで繆公は楚と和睦することにした。
B.C.617秋、繆公は楚穆王と陳共公と息で会合した。
冬、繆公は楚穆王・宋昭公と宋の孟諸で狩をして、繆公は左翼をつとめた。
B.C.616子家が太子夷(霊公)の介添えとなって晋に赴き、陳が晋と交わるようにさせた。
B.C.613、6月28日、繆公は魯文公・宋昭公・ 衛成公・陳霊公・許の君・曹文公・ 晋の趙盾と会合し、新城で会盟した。
B.C.612、11月、繆公は晋霊公・宋昭公・衛成公・蔡文侯・ 陳霊公・許の君・曹文公・魯の季孫行父と扈で盟い、斉を討つ相談をした。しかし斉が晋霊公に賄賂をつかったので、 斉討伐はとりやめとなった。
B.C.611、8月、繆公は晋に朝見した。
B.C.610晋霊公は諸侯を扈に集めて宋の乱を平らげようとした。このとき晋霊公は繆公が楚に心を寄せていると思って繆公に会わなかった。子家が、 蔡や陳が晋になついているのは鄭が骨を折って晋に仕えているからであると伝えた。そこで晋霊公は鞏朔を遣わして鄭と和平を結び、 趙穿公聟池を人質として鄭に来させたので、 繆公は石楚と太子夷とを晋に人質として出した。
B.C.608秋、楚が陳と宋を攻めた。そこで晋は趙盾に命じて陳・宋を助けて鄭の棐林で会合して鄭を討った。 楚の蔿賈は鄭を助けたため、晋軍と楚軍は鄭の北林で戦ったが、晋軍は退却した。
冬、晋は北林の役の報復として宋とともに鄭を討った。
B.C.607春、繆公は楚の命令で子家に宋を攻めさせた。鄭軍は宋の華元の軍の乱れに乗じて華元を捕え、大勝した。
宋は華元の身をあがなったが、華元は逃亡して宋に帰った。
(『史記』では、宋が鄭に攻め入ったことになっている)
B.C.606春、鄭が晋に背いたため、晋成公は鄭を討って鄭の延まで攻め入った。そこで繆公は晋と和睦することにし、 晋の士会と盟った。
夏、鄭が晋についたため、今度は楚に攻められた。
冬、繆公は病気にかかると「蘭が枯れる時にわたしは死ぬだろう。蘭はわたしの生まれる瑞祥であったからだ」と言った。はたして蘭が枯れた時に繆公は没した。
穆公(魯)(ボクコウ)【王】
魯公(28代目)。名は顕。元公の子。〜B.C.377。
孔伋を尊敬し、お傍にいつも人をつけて誠意を示した。
穆公(曹)(ボクコウ)【王】
曹公(10代目)。名は武。碩甫の弟。〜B.C.756。
B.C.759碩甫を弑して代わって立つ。
穆公(陳)(ボクコウ)【王】
陳公(17代目)。名は款。宣公の子。〜B.C.632。
B.C.672公子款は宣公に愛され、宣公は太子禦寇を殺して款を立てようとした。
B.C.653、7月、公子款は、斉桓公・魯釐公・宋桓公・ 鄭の太子と魯の甯毋で会合し、鄭に対する処置を相談した。
B.C.652春、公子款は、斉桓公・魯釐公・宋桓公・曹共公・衛文公・ 許僖公・周王の使者と会合し、曹の洮で盟い、周王室の騒ぎを鎮めることを相談した。
B.C.648宣公が没すると、公子款は代わって立った。
B.C.641冬、穆公は宋襄公の暴虐ぶりを見て、蔡・楚・鄭と共に斉桓公の徳を忘れないようにするため、 斉で会合した。
B.C.639秋、穆公は宋襄公・楚・蔡荘侯・許の君・曹共公と宋の盂で会合した。このとき宋襄公は楚に捕えられ、 宋は楚に攻められた。
B.C.637秋、陳は宋と通じて楚に背こうとしたので、楚の子玉に攻められた。 子玉は勢いに乗じて陳の焦と夷を攻め取り、頓に城壁を築いて引き揚げた。
B.C.635楚の子玉に包囲される。
B.C.633穆公は楚・蔡・鄭・許とともに宋を攻め囲んだ。
B.C.632穆公は城濮の戦いで楚側について戦ったが、晋に敗れた。
6月、没す。
穆公(衛)(ボクコウ)【王】
衛公(11(21)代目)。名は遬。成公の子。〜B.C.589。
B.C.600、10月16日、成公が没し、公子遬は即位した。
B.C.597冬、孔達が晋の先縠と宋の華椒、 曹の大夫と衛の清丘で同盟した。宋はこの盟いを守って楚に二心を持った陳を討ったが、衛は陳との盟約を理由にして、陳を助けた。 孔達は「もし晋が罪を責めてきたら、わたしは死んで申し開きをしましょう」と言った。
B.C.596冬、晋景公は衛が清丘の盟いに背いたことを責め正し、晋の使者は「罪の所在が不明なら、汝の国に軍を差し向けよう」 と脅してきた。
B.C.595春、孔達が晋の脅しに対して自ら首をくくって死んだ。
穆公はこれを晋に報告したので、晋は衛を討たなかった。穆公は諸侯に告げて「孔達がわが国と晋とを不和にさせましたが、もはやその罪に服しましたので、 ご報告いたします」と言った。しかし穆公は孔達が以前、成公を助けて帰国させた功を忘れず、家財を没収せずにその子に還し、父の禄位を継がせた。
B.C.589春、斉が魯を討ったので、穆公は孫良夫石稷甯相向禽将に命じて斉を攻めさせた。 しかし衛軍は途中で引き揚げている斉軍と出くわした。
夏、孫良夫が開戦を命じたため、衛と斉は新築で戦い、衛軍は大敗した。石稷が援軍の兵車がたくさんやってくると言いふらしたので、斉軍は衛軍を攻撃するのをやめた。 新築を守っていた仲叔于奚が孫良夫を助けに行ったので孫良夫は助かった。
孫良夫は新築から引き揚げたが、敗戦を恥じてそのまま晋に出かけて援軍を請うた。
晋が孫良夫の頼みを受けて、郤克に800乗の兵車を与えて斉を討たせた。晋・魯・衛の連合軍は斉軍を追撃し、 斉軍を鞍で大破した。
9月、没す。
穆公(宋)(ボクコウ)【王】
宋公(14代目)。名は和。宣公の弟。〜B.C.720。
B.C.729宣公は和を立てようとし、和は三度辞退して、ようやく受けた。
B.C.722、9月、魯との関係がこじれていたが、魯隠公が和睦を申し入れてきたので、宿の国で会盟した。
B.C.720穆公は病気となり、大司馬の孔父嘉を招いて「先君宣公が、太子与夷を見捨てて、わしを立てられたことは、 わしは忘れようにも忘れられない。わしが死んだら必ず与夷を立ててほしい」と言った。 孔父嘉が「群臣はみな公子を立てたがっておりますが」と言うと 「馮を立ててはならぬ。わしは宣公の信義に背けない」と言った。そこで馮を国外に移し、鄭に出させた。
8月15日、穆公は没し、与夷が位についた。
12月20日、穆公はほうむられた。
君子は「宋宣公は人物を見抜いたというべきである。穆公を立てて、わが子を即位できたのは、宣公の譲り方が理にかなっていたからだ」と評した。
穆公(鄒)(ボクコウ)【王】
鄒公。
魯と戦って大敗した。穆公は孟子に「今回の戦で有司が33人も戦死したのに、兵卒で有司のために命を投げ出したものはいなかった。 ぜひとも見せしめに殺してやりたいと思うが、人が多すぎて処刑しきれない。どうしたらよかろう」と尋ねた。孟子は「それには深いわけがあるのです。 民衆は飢饉に苦しんでおるのに、有司たちは公に申し上げて助けようともしません。ですから人民は常日頃の恨みを今日返したのです。公よ、決しておとがめなさいますな。 それよりもまず仁政を行いませ。そうすれば、人民は有司に親しんで進んで命をも投げ出すことでしょう」と答えた。
穆公(単)(ボクコウ)【王】
単公。名はキまたは旗。
B.C.524周景王は大型貨幣を鋳造しようとした。穆公は諌めて「いけません。物価高(インフレ)には高額貨幣を、 物価低(デフレ)には低額貨幣を多くします。すなわち、高額の重い貨幣に堪えなければ、軽い貨幣を多く作って流通させますが、重い貨幣も廃止せず、民は大小の貨幣を利用します。 もし今、重量貨幣だけを作れば、民はその貨幣価値の損失を受け、貧乏で苦しむことになります」と言ったが、景王はこれを聴き入れず、大型貨幣を鋳造した。
B.C.522景王は無射の鐘を鋳て、その覆いとして大林の鐘を作ろうとした。単穆公が諌めて「重い貨幣をつくって民の資産を絶ち、今また大鐘を鋳て資産を浪費するならば、 生産はどうして増殖しましょうか」と言ったが、景王は聴き入れなかった。
B.C.520、4月19日、景王が崩御した。
4月22日、劉献公が没したため、穆公は劉狄を劉公に立てた(劉文公)。
5月4日、劉文公は新王(悼王)にまみえ、子朝を立てようとした賓起を攻め殺して、 王子たちと単氏の家で盟いを結んだ。
子朝は官人や百工で職禄を失っている者や、周霊王・周景王の一族で不満を抱いている者たちを頼って謀叛を起こし、 劉文公を追い出した。
6月17日、劉文公は周の揚邑に出奔した。
穆公は周悼王を王城の荘宮から迎えてわが家に連れて帰ったが、王子に奪われた。
6月18日、穆公は都を出奔した。
王子環らは周悼王を守って穆公を追いかけたが、領まで行って盟いを結んで穆公を都に呼び戻して殺そうとし、 周悼王を奪ったことを摯荒のせいにしてこれを殺した。しかし劉文公は領地の劉に赴き、穆公は子朝の計画を見抜いて逃げた。
6月20日、穆公は周の平畤に逃げ去った。王子たちが追ってきたが、穆公は環・ソウの王子たちを殺した。子朝はそのため周の京に逃げた。
6月21日、穆公は子朝を討った。京の人は北山に逃げ、劉文公は王城に入った。
6月26日、鞏簡公は京で子朝の軍に大敗した。
6月30日、甘平公は京で子朝の軍に大敗した。
7月3日、穆公は事態の危急を晋に報告しようとして周悼王の供をして平畤に行き、すぐに圃車におもむき皇に宿った。 劉文公は領地の劉に帰って子朝に備えた。
穆公は王子処に王城を守らせ、工人たちと平宮で盟った。
7月16日、子朝の味方鄩肸は皇を攻めたが大敗した。穆公は鄩肸を捕虜にした。
7月17日、穆公は王城の市場で鄩肸を火あぶりの刑に処した。
8月17日、醜が王の軍を率いて前城で戦ったが大敗したため、工人たちは周悼王に背いた。
8月25日、工人たちが単氏の邸を討ったが敗れた。
8月26日、工人たちは引き返して単氏を討った。
8月27日、工人たちは東圉を攻めた。
10月14日、晋の籍談荀躒が九州の戎と焦・瑕・温・原の軍を率いて周悼王を王城に入れた。
10月17日、穆公は劉文公とともに王の軍を率いて子朝と郊で戦って大敗した。
子朝に味方する前城の人々は陸渾の戎を社で破った。
11月13日、周悼王が崩御した。
11月17日、王子匄が即位し(敬王)、子旅氏の邸に宿った。
B.C.519、4月15日、穆公は周の訾を攻め取り、劉文公は鄫の人と直の人を攻め取って支配下に入れた。
6月17日、穆公は阪道から、劉文公は尹道から進んで尹を討ったが、敗れた。
6月21日、穆公は劉文公・樊斉とともに敬王を連れて劉文公の領地に出かけた。
B.C.516、4月、穆公は晋に出かけて王室の危急を告げた。
冬、周敬王は子朝を楚に亡命させ、穆公と劉文公と盟い、ただちに軍を進めて成周に入った。
穆公(許)(ボクコウ)【王】
許公。名は新臣。〜B.C.656。
B.C.656春、穆公は斉桓公、魯釐公、宋桓公、 陳宣公、鄭文公、 衛文公、曹昭公と会合して蔡を討ち、勢いに乗じて楚に攻め入った。 連合軍は楚と和平の盟いを結んだ。
夏、穆公は陣中で没した。
穆公(小邾)(ボクコウ)【王】
小邾の君。
B.C.566穆公は魯に出かけて、初めて魯襄公に挨拶をした。
B.C.563穆公は晋・斉・宋・衛・曹・杞・莒・邾・滕・薛・呉とサで会合した。
B.C.562穆公は晋・魯・斉・宋・衛・曹・杞・莒・邾・滕・薛と会合して、鄭を討った。
穆公は再び晋・魯・斉・宋・衛・曹・杞・莒・邾・滕・薛と会合して、鄭を討った。
B.C.557穆公は晋・宋・衛・鄭・曹・魯・莒・邾・薛・杞と会合した。
B.C.555穆公は晋・魯・宋・衛・鄭・曹・莒・滕・薛・杞と済水のほとりで会合して斉を討った。
B.C.553穆公は晋・魯・斉・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞と澶淵で盟約した。
B.C.551穆公は晋・魯・斉・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・杞と沙隋で会合した。
B.C.549穆公は晋・魯・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞と衛の夷儀で会合した。
B.C.548穆公は晋・魯・宋・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞と衛の夷儀で会合して斉を討った。
B.C.543穆公は晋・斉・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞と衛の澶淵で会合した。
B.C.539秋、穆公は魯を聘問した。
B.C.525春、穆公は魯を聘問した。魯の季平子が采叔の詩を歌って立派な君子の来朝を歓迎するという意を寓すると、 穆公は菁菁者莪の詩を歌って、季平子のような君子にお会いできて楽しいという意を寓した。魯の叔孫婼は 「あの謙虚な心を用いているからこそ、これほど長く位を保っていられるのだ」と言った。
穆公(召)(ボクコウ)【王】
召伯。
穆公は周宣王の命を受けて南行し、謝に封じられた申伯の城邑を営んだ。
穆公(周)(ボクコウ)
邵公
穆侯(ボクコウ)【王】
晋侯(8(9)代目)。名は費生。献侯の子。〜B.C.789。
B.C.813即位する。
B.C.809斉の公女姜氏をめとって夫人とする。
B.C.807条を討つ。
この年、太子を生むと仇と命名した。
B.C.804千畝を討って戦果を挙げる。末子が生まれ、戦勝にちなんで成師と名づける。
この命名について、師服に諌められた。
はたして穆侯が没したあと、成師の子孫が本家を凌いだ。
繆侯(燕)(ボクコウ)【王】
燕公。鄭侯の子。〜B.C.711。
B.C.729即位する。
繆侯(蔡)(ボクコウ)【王】
蔡侯(13代目)。名は肸。哀侯の子。〜B.C.646。
B.C.675哀侯が没し、公子肸は即位した。
B.C.670鄭文公に攻められた。
B.C.656斉桓公の夫人であった繆侯の妹(蔡姫)が国に返された。 そのため繆侯は怒って、彼女を他に嫁入らせた。
そこで斉桓公は諸侯とともに蔡を討ち、蔡軍は潰走し、繆侯は虜にされ、楚の邵陵に送られた。
諸侯が蔡のため斉に詫びを入れたので帰国できた。
B.C.654冬、繆侯は許僖公をつれて楚の武城に赴き、許を楚になつかせた。
B.C.646冬、没す。
穆后(ボクコウ)【女官】
景王の妃。太子寿の母。〜B.C.527。
B.C.527、6月9日、太子寿が没した。
8月23日、穆后は崩じた。
墨子(ボクシ)【在野】
姓は墨、名は翟。
魯の思想家。墨家の祖。
墨子は懸命に農耕に励んだが、いくら働いても人々に恵むことは何ひとつ出来なかった。そこで墨子は「先王の道」を学び、 上は王公に説き、下は庶民に説いていけば、国は治まり身は修まるであろうと考えた。
墨子は魯、宋、斉、衛、楚、魏、越などで自分の思想を説いた。墨子は儒家に対向して、兼愛・節用(倹約)・尚賢・非攻を説いて墨家の祖となった。
著に『墨子』53篇がある。
楚が宋を攻めると聞き、墨子は高弟の禽滑釐に300の弟子をつれて宋の防御をさせ、墨子自らは楚王に攻めることの非を説いた。 楚の将軍公輸盤と対宋戦の模擬戦を図面上で行い、墨子は九たび公輸盤の攻城攻めを撃退した。
公輸盤は「私には勝つ手段があるけれどもそれは言わない」と捨てゼリフを吐くと、墨子は「私もあなたのその手段を知っているけれども、それは言わない」と答えた。
後で楚王に聞かれて墨子は「公輸盤の言う手段とは私を殺すことです。しかし私の弟子の禽滑釐が既に300の同士と共に宋の守備を固めています」と言った。 楚王は攻撃を取りやめたという。
B.C.439墨子は楚恵王に謁見しようとしたが、老齢を理由に断られた。
墨子は神仙伝にも見え、後世、仙人にも名を連ねた。82歳になって山に入り道法に専念し、神仙に憧れるようになった。神人に出会い術を授けられ、やがて地仙となり、 隠遁して戦国の世を避けたという。
卜商(ボクショウ)【文官】
魏の臣。姓は卜、名は商、字は子夏。孔子の弟子。B.C.507〜。
衛の人。孔門の十哲のひとり。
同門の子貢が孔子に問うた「師(子張)と商(卜商)と、どちらがまさっていましょうか」
「師は行き過ぎ、商は控えめ過ぎる」
「それでは、師がまさっているのでしょうか」
「行き過ぎは、控えすぎと同じことだ」と答えた。
孔子は卜商に「おまえは道を明らかにする君子の儒を学びなさい。名をてらう小人の儒を学んではいけない」と言った。
あるとき魯の季康子公父ショクの母敬姜に尋ねた 「おばあ様、わたくしにお教えくださることがありましょうか」 敬姜は「亡くなった姑から聞きました。君子はよく謙遜して労苦をいとわなければ、後世子孫が祭祀を絶やさないとのことです」と答えた。この話を聞いて卜商は 「なんと良い話ではないか。嫁に行く者は、舅姑が死んでしまって、仕えることができないのを不幸と言う。主婦は舅姑から学ぶのである」と言った。
孔子の死後、西河に住んで門人を教授し、晩年に魏成子の推挙で魏文侯に仕え、 経学六芸を教えた。
文侯は卜商に問うた「わしは廟中で古楽を聴く時は眠くなるのに、鄭・衛の音を聴くときは、少しも倦むことを知らない。どうしてだろうか」
卜商「君は楽を好まれず、音を好まれているのです」
文侯「それにはどんな違いがあるのか」
卜商「かつて聖人は、父子・君臣の別を設けて紀鋼を正しくし、六律を正し、五声を和し、詩頌をつくりました。これが徳音であり、楽というのです。 鄭の音は道にそむいて度が過ぎ、宋の音は婦人をよろこばせて溺れさせ、衛の音は急に走って志を労し、斉の音は辟(つみ)を軽んじて志を驕らせます。 この四者はみな色に淫らし、徳に害があるので、祭祀には用いないのです」
子が死んだ時、卜商は哭泣のあまり失明した。
彼の弟子は多く文侯に仕えた。
僕析父(ボクセツホ)【武官】
楚の臣。
B.C.530冬、楚霊王は徐を討ち、乾谿に宿った。僕析父はこれに従った。
卜楚丘(ボクソキュウ)【文官】
魯の臣。
B.C.609斉懿公が魯を討とうとしたが、病気にかかってできなかった。 魯文公は斉懿公の病気を叔仲恵伯に占わせて 「どうか出陣の日以前に死んでほしいものだ」と言った。卜楚丘はこの判断を下して「斉侯は出陣の前に死にますが、病気によるものではありません。 わが君もその死を聞かぬうちに死ぬであろう。占いを命じた者もとがめを受ける」と言った。
2月24日、魯文公は没した。
5月16日、斉懿公が弑殺された。
10月、叔仲恵伯が襄仲に殺された。
牧仲(ボクチュウ)【在野】
孟献子の友人。
僕展(ボクテン)【武官】
鄭の臣。〜B.C.543。
B.C.543、7月26日、良霄が叛乱を起こしたとき、僕展は良霄と行動を共にし、一緒に戦死した。
卜徒父(ボクトホ)【文官】
秦の臣。卜人。
B.C.645秦繆公は晋を討とうとした。卜徒父は筮を立てて占い、戦は吉であると告げた。秦は晋に大勝した。
牧皮(ボクヒ)【在野】
孔子の弟子。
穆孟姫(ボクモウキ)
鬷声姫
甫公(ホコウ)【宰相】
周の宰相。呂侯ともいう。
穆王に刑法(五刑:鯨刑・劓刑・臏刑・宮刑・大辟)をつくることを進言して、それを諸侯にも告げる。 これより全国的に刑法が施行される。この法は甫刑(呂刑とも)という。
蒲鄗(ホコウ)【武官】
秦の臣。部卒。屯留の人。〜B.C.239。
B.C.239将軍が没すると、秦に叛くが、殺されて屍は戮される。
保子帝(ホシテイ)【王】
蜀王。盧帝の子。
青衣を討ち、獠族やキョク人の間に勢力を盛んに振るい伸ばした。
歩叔乗(ホシュクジョウ)【在野】
孔子の弟子。字は子車。
歩招(ホショウ)【武官】
晋の臣。
B.C.620趙盾は中軍の将となり、先克を中軍の佐、 荀林父を上軍の佐、先都を下軍の佐、歩招を霊公の御者、 戎津をその右とし、晋の菫陰まで軍を進め、秦軍に気づかれぬようにこっそりと夜中に出発した。
4月2日、晋軍は秦軍を令狐で打ち破り、晋の刳首まで追撃した。
蒲城午(ホジョウゴ)【文官】
晋の臣。
B.C.651呂省が夷吾(恵公)を君主に迎えようとし、 郤称と共に謀って蒲城午を遣って夷吾を迎えさせ、夷吾は帰国を承諾した。
蒲城鵲居(ホジョウジャクキョ)【文官】
晋の臣。歩揚の子。
北極子(ホッキョクシ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
姓は陰、名は恒。その経に「身を治める道は、神を大切にすること。性を養う術は、死が隠れ生があらわれること。これを実践すれば天地と共に永遠となる」とある。
勃鞮(ボツテイ)【宦官】
晋の宦官。名は披、字は楚、または伯楚。閹楚、寺人披ともいう。
蒲の人。勃鞮とは履を司る官の名称。
B.C.653
献公が蒲邑の重耳を討ったとき、勃鞮は献公の命で重耳に自殺を迫った。 重耳が垣を越えて逃げ出したので斬りつけたが、重耳の袂を切っただけに終わり逃がしてしまった。
B.C.636重耳が帰国して即位すると、呂省郤芮が乱を起こそうとしていた。 勃鞮はこれを密告して旧悪を解こうとしたが、文公は引見せず「蒲城の事件のときおまえはわしの袂を斬り、 また恵公のために狄でわしを殺すよう要求した。おまえはそれらのことを考えてみるがいい」と言った。 勃鞮は「わたくしは刀鋸のはしくれ(刀鋸によって去勢された者)にすぎません。あえて二心をもって君に仕え、主君に背くことはいたしませんでした。 そのため君に罪を犯したのです。いまや君がわたしの君主です。斉の管仲桓公の帯鉤を射ましたが、 その管仲によって桓公は覇者となることができました。いま一大事を告げようとしておりますが、君は会ってくださいません。禍がせまって来ております」と言った。 重耳は「おまえの言うとおりだ。これはわたしの悪い心だ。この心を無くしたいものだ」と言いい、引見を許され、勃鞮は陰謀を密告した。 よって重耳は難を逃れることができた。
B.C.635晋は叔帯の叛乱を鎮圧し、周襄王を王城に迎えた。 そこで周襄王は晋に陽樊・温・原・州・陘・絺・組・欑茅の地を賜った。文公が勃鞮に原の大夫を誰にしようかと相談すると、 勃鞮は趙衰を推挙した。そこで文公は趙衰を原伯に任じた。
ボ母(ボボ)【女官】
黄帝の夫人。
容貌がとても醜くかったという。
歩陽(ホヨウ)【武官】
晋の大夫。歩揚とも書く。
B.C.645韓原の戦いで、恵公の御者となるが、馬が泥土に入り、進むことができなくなったので、 梁繇靡と交代させられる。
輔躒(ホレキ)【武官】
晋の臣。
B.C.549冬、楚が鄭を攻めたので、晋平公は輔躒と張骼に命じて楚軍にいどませ、 地の利に明るい御者を鄭に求め、射犬がその役となった。輔躒と張骼はとばりの中にいて射犬を外に座らせ、 自分たちが食事をすませてから射犬に食事をさせた。そして射犬を兵車を御して進ませ、自分たちは普通の車に乗って出かけた。 いよいよ楚軍に近づいて初めて射犬の兵車に乗り移ったが、ふたりとも足を投げ出して歌を歌い琴を弾いてゆとりのある態度を示した。しかし楚軍に接近した時、 射犬はふたりに知らせずに車を馳せた。ふたりは冑を袋から取り出してかぶり、敵陣に攻め入った。ふたりは兵車から降りて敵兵を手打ちにして投げつけ、 捕虜を寄せ集め小脇に抱えて戦ったが、射犬はふたりの乗車を待たずに車を走らせた。ふたりはかろうじて車に飛び乗り、弓を引いて楚兵に矢を放ち、楚軍から脱出した。 そのときもふたりは車上で足を投げ出して歌を歌い、琴を弾き「公孫(射犬)よ、同乗したのは兄弟のよしみともいうべきだ。どうして二度とも相談してくれなかったのか」 と言うと、射犬は「前は敵陣に突入することを考えただけ。今度は恐ろしかったのです」と答えたので、ふたりとも笑って「公孫の気ばやなことよ」と言った。
賁(ホン)【武官】
秦の臣。五大夫。
B.C.262韓を討ち、10城を取る。
盆成括(ボンセイカツ)【文官】
斉の臣。姓は盆成、名は括。
孟子に道を学んだが、大成しないうちに去って斉に仕える。


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