中国的こころ列伝>列伝 ユ

ページ内の2番目の文字行に飛びます  サ タ ナ  マ ヤ ラ ワ ン
列伝 ユ


艅(ユ)【文官】
商王朝の臣。王族。
B.C.1060受辛の東方遠征に従軍して、王の儀礼を援けた。
友(ユウ)【公子】
呉の公子。夫差の子。
B.C.482越と争い、4月丙戌の日に捕らえられ、捕虜となる。
友(召)(ユウ)【公子】
召の公子。召公奭の子。
友(宋)(ユウ)
公孫友
友(魯)(ユウ)
季友
游(ユウ)【公子】
宋の公子。~B.C.682。
B.C.682、8月9日、南宮万が蒙沢で博打の盤をもって宋湣公を殴り殺した。
公子游は南宮万に擁立されて宋君となる。
10月、蕭邑の人は曹の支援を受けて、宋の公子とともに公子游を攻めたため、公子游は殺された。
熊繹(ユウエキ)【王】
楚子(初代)。熊狂の子。
成王は、 文王武王のとき王事に勤労した人の後裔を優遇するということで、 熊繹は楚蛮に封じられ、爵位は子爵となった。
熊繹はそれ以後楚子と呼ばれるようになる。
熊繹は丹陽を都とし、国号を荊(楚)とした。
しかし熊繹は岐陽の会盟に参会したものの、儀式には参加させてもらえず、燎(かがり火)を守る役目を命じられた。 楚はまだ諸侯として正式に認められていなかったからである。
熊繹は魯公伯禽、衛公牟、晋侯、 斉丁公とともに成王に仕えた。
熊延(ユウエン)【王】
楚子(8代目)。熊紅の弟。
熊紅を弑して代わって立つ。
幽王(周)(ユウオウ)【皇帝】
周王朝12代王。名は浧。宣王の子。
B.C.774鄭武公を周の司徒に任命する。
犬戎の申侯の娘、姜氏を王后に冊立していたが褒姒を寵愛するようになり、 姜氏と太子宜臼を廃し、褒姒を王后とする。また褒姒の生んだ伯服を太子とする。
褒姒を寵愛してから朝政を疎かにして王朝を衰微させる。犬戎の申侯と戦い、敗北して驪山で殺される。
幽王(楚)(ユウオウ)【王】
楚王(23(39)代目)。名は悍。考烈王の子。母は李園の妹。~B.C.228。
考烈王には子ができなかった。李園は妹を春申君に献上し、妹は子を身ごもった。
彼女が身ごもったと知ると、李園は妹と相談してたくらみをめぐらし、妹は春申君に「万一王が崩御されたなら、新王の親しんだ者が重用されるにちがいありません。 どうしていつまでも王の寵をつなげましょう。いまわたしがみごもったことは、誰も知りません。君のお口からわたしを楚王にお勧めいただいて寵愛され、 もし男子を生めば、次の王はこの子となり、楚の国はことごとく君のものとなります」と言った。
春申君はもっともと思い、李園の妹を考烈王に献上した。ついに男子が生まれた。これが幽王である。
B.C.238即位すると、李園は春申君を恐れてこれを殺した。
B.C.236秦と魏に攻められる。
熊艾(ユウガイ)【王】
楚子(2代目)。熊繹の子。
勇獲(ユウカク)【武官】
呉の臣。
B.C.482呉王夫差は黄池の会盟を終えると、王孫雒に命じ、 勇獲とともに歩兵を率いて宋の外城を焼いて帰国させた。
熊咢(ユウガク)【王】
楚子(13代目)。熊徇の子。~B.C.790。
B.C.802即位する。
熊堪(ユウカン)【公子】
楚の公子。熊雪の弟。叔熊ともいう。
B.C.821熊霜が没すると3人の兄弟で国君の位を争い、熊堪は逃げて百濮の地に避難する。
雄キ(ユウキ)【神】
一身九頭のまむし神。
南方の怪神で、人を呑んで心臓を強くするという。
共工の臣の相繇であるともいい、九首にして人面、身は青色であるという。
に殺されて、うずめられて池にされたという。
游吉(ユウキツ)
子大叔
熊渠(ユウキョ)【王】
楚子(6代目)。熊楊の子。
江・漢地方を治めて、すこぶる民心を得ていた。
そこで軍をおこして庸国や楊粤を討ち、鄂まで進軍する。
熊渠は「わしは蛮夷だから、中国の爵号、諡号にかかわらなくてもよいのだ」と言い、 長子康を句亶王、次男の紅を鄂王、 末子の執疵を越章王と称させる。王を称すのは周王室以外では楚が初めてであった。
厲王のときになり、厲王が暴虐であったので、熊渠はおそれて王の称号を取りやめた。
雄渠(ユウキョ)【神】
古の弓射の名人。
邑姜(ユウキョウ)【女官】
周の武王の妻。
熊狂(ユウキョウ)【王】
楚の族長。熊麗の子。
熊厳(ユウゲン)【王】
楚子(10代目)。熊勇の弟。~B.C.828。
B.C.837即位する。
幽公(魯)(ユウコウ)【王】
魯公(4代目)。名は宰。煬公の子。~B.C.977。
弟のに殺される。
幽公(陳)(ユウコウ)【王】
陳公(6代目)。名は寧。慎公の子。~B.C.834。
B.C.853即位する。
幽公(晋)(ユウコウ)【王】
晋公(18(20)代目)。名は柳。哀公の子。~B.C.425。
公室は弱小で、かえって韓・魏・趙の君に参朝し、わずかに絳と曲沃を領有するだけであった。
B.C.428魏文侯がはじめて立つ。
B.C.425幽公は夫人に淫し、夜に邑内へ遊びに出て、盗賊に殺される。
幽公(鄭)(ユウコウ)【王】
鄭公(21代目)。名は已。共公の子。~B.C.428。
B.C.428晋の韓武子に攻められて殺される。
幽公(鄭)(ユウコウ)
霊公
熊紅(ユウコウ)【王】
楚子(7代目)。熊渠の次子。
熊渠の命で王号を称す。
厲王のときになり、厲王が暴虐であったので、おそれて王の称号を取りやめる。
熊渠が没して後を継ぐが、弟の熊廷に殺される。
右行詭(ユウコウキ)【武官】
晋の臣。
B.C.520閏月、右行詭・箕遺楽徴は先発隊に続いて周の前城を攻め取ってその東南に進み、 周王の軍は京楚に進撃した。
右行幸(ユウコウコウ)
賈辛
右公子(ユウコウシ)【公子】
衛の公子。宣公の兄弟。~B.C.688。
右公子は太子の傅育係となる。
右公子は伋のために斉の宣姜を迎えたが、宣公に奪われる。
B.C.696、11月、右公子は左公子と共に乱をおこして恵公(朔)を攻め、 伋の弟黔牟を立てて国君とする。
B.C.688斉襄公が諸侯の軍を率いて攻めてきて、右公子は左公子と共に殺される。
熊髠(ユウコン)【文官】
有窮の臣。
熊髠は賢臣といわれたが、后羿に重用されなかった。
優施(ユウシ)【武官】
献公の俳優。優は職名、名は施。
優施は驪姫と密通した。驪姫が言った。
驪姫「わたしは太子の廃立をしたいのだが、三公子をどうすればよいか」
優施「まず申生から殺しなさい。清潔であれば辱めやすく、重厚であれば速やかに倒れます」
こうして驪姫はまず申生の中傷から始めた。
驪姫は奚斉を立てるときに里克が障害になると思った。そのため優施は歌を歌って里克に、 献公が太子廃立を決めたことを伝えた。そこで里克は中立を守り、驪姫の計画を邪魔することをしなかった。
熊摯(ユウシ)【王】
楚の公子。夔の君。熊渠の子。
熊摯は楚君であったが、悪性の病気があり、楚を継げなかったため退位して夔越国(夔国)を建てた。
有若(ユウジャク)【在野】
孔子の弟子。B.C.508~。
孔子の没後、弟子達は師を思慕した。有若の容貌が孔子に似ていたので、弟子達はともどもに有若を推して師を仰ぐこと、孔子の生前のようであった。
弟子のひとりが「むかし夫子は、雨が降ることや子を産むことを予言されましたが、どうしてこれを予知されたのでしょうか」と問うた。有若は答えられず、黙然としていた。 すると弟子が起立して「有子よ。その席を避けたまえ。そこはきみの座るところではない」と言った。
熊執疵(ユウシュウシ)
越章王
熊徇(ユウジュン)【王】
楚子(12代目)。名は季徇。熊堪の弟。季紃ともいう。~B.C.800。
B.C.821熊霜が没すると3人の兄弟で国君の位を争い、代わって立つ。
熊勝(ユウショウ)【王】
楚子(4代目)。熊タンの子。
熊相宜僚(ユウショウギリョウ)【武官】
楚の臣。~B.C.597。
B.C.597冬、楚荘王は蕭を攻めた。熊相宜僚は公子とともに蕭に捕えられた。 荘王は「退却するので殺さないでくれ」と申し入れたが、熊相宜僚は殺されてしまった。荘王は立腹してただちに蕭を攻め囲み、これを滅ぼした。
熊遂(ユウスイ)【王】
呉王。周章の子。
有スイ(ユウスイ)【神】
古代の神。
帝嚳の命で、曲を作り、人間が演奏できるように太鼓、鐘、笛を作らせたという。
熊雪(ユウセツ)【公子】
楚の公子。熊霜の弟。~B.C.821。
B.C.821熊霜が没すると3人の兄弟で国君の位を争い、熊雪はその際中に没す。
熊霜(ユウソウ)【王】
楚子(11代目)。名は伯霜。熊厳の子。~B.C.821。
B.C.828即位する。
熊相禖(ユウソウバイ)【武官】
楚の臣。
B.C.517、12月、熊相禖は楚平王に命じられて巣に外城を築いた。
游速(ユウソク)【武官】
鄭の臣。
B.C.504、1月18日、游速は軍を率いて許を滅ぼし、許の君を連れて帰った。
B.C.500冬、游速は斉景公と衛霊公と安甫で会合した。
遊孫(ユウソン)【文官】
周王朝の臣。游孫伯ともいう。
B.C.636秋、鄭が滑を討ったので、周襄王は遊孫と伯服をやって割譲するよう乞うたが、 遊孫らは捕らえられる。
熊タン(ユウタン)【王】
楚子(3代目)。熊艾の子。
游騰(ユウトウ)【文官】
周王朝の臣。
B.C.308秦は樗里疾を戦車100台とともに周に行かせた。周は軍を出してこれを鄭重に出迎えた。 楚懐王は周の対応を抗議した。
游騰は弁解して「むかし晋の智伯が北狄のキュウ由を討とうとして、 キュウ由に大きな鐘を贈りました。そのためキュウ由は道を広くしてこの鐘を受け入れました。智伯はその広い道をとおってキュウ由を滅ぼしたのです。
いま秦は周を併呑しようとしていますので、軍を出し長い柄の武器をもって、樗里疾を押さえ込むためだったのです」と言った。
雄陶(ユウトウ)【神】
の7人の友人のひとり。
幽伯彊(ユウハクキョウ)【王】
曹公(7代目)。夷伯喜の子。~B.C.825。
B.C.825弟の蘇に殺される。
游眅(ユウハン)【武官】
鄭の臣。字は子明。~B.C.551。
B.C.551冬、游眅は晋に出奔して身を寄せようとした。国境を出ないうちに、ある者の妻を奪った。
11月14日、游眅はその妻の夫に殺された。
熊羆(ユウヒ)【神】
に推挙され、益の副官となる。
熊負羈(ユウフキ)【武官】
楚の臣。
B.C.597、6月、邲の戦いで熊負羈は晋の智罃を生け捕りにした。
幽繆王(ユウボクオウ)【王】
趙王(4(10)代目)。名は遷。悼襄王の子。
品行悪く、讒言を信じた。
B.C.235柏人に城を築く。
B.C.234秦に武城を攻められ、扈輒がこれを援けようとしたが、破られて戦死する。
B.C.233秦に赤麗・宜安を攻められる。李牧に命じてこれを討ち、肥下でこれを退ける。
李牧を封じて武安君とする。
B.C.232秦に番吾を攻められるが、李牧がこれを退ける。
B.C.231代に大地震があった。楽徐から西北方、平陰に至るまで桜台・家屋・牆垣の大半が破壊し、地面の亀裂が東西に幅130歩にも及んだ。
B.C.230大飢饉があった。
 趙は号(な)き、秦は笑う
 信じられねば、地の毛(草)を見よ

という民謡がうたわれました。
B.C.229秦に攻められる。李牧と司馬尚がこれを討った。
秦は郭開に多額の金を与えて反間させ「李牧と司馬尚は謀叛しようとしている」と言わせた。 幽繆王はこれを信じて李牧を更迭しようとしたが、李牧は王命を拒んだ。そのため幽繆王は人をやって、ひそかに李牧を捕らえてこれを斬り、司馬尚を辞めさせた。
趙葱と斉の将顔聚がこれに代わったが、趙葱は敗れ、顔聚は逃亡した。
そのため趙は幽繆王を奉じて降服する。
B.C.228邯鄲が秦の領土となり、趙は滅びる。
熊母康(ユウボコウ)
句亶王
郵無恤(ユウムジュツ)
伯楽
郵無生(ユウムセイ)
伯楽
優孟(ユウモウ)【文官】
楚の楽人。
身の丈が180cm、多弁でいつも談笑のうちに諷諌した。
荘王には愛馬があり、刺繍の衣を着せ、美食を食わせていたが、肥えすぎて死んでしまった。荘王は群臣に服喪させ、 大夫の礼で葬ろうとし「諌める者は死罪にする」と言った。
そこで優孟ははげしく哭いて「大夫の礼をもって葬るなど、あまりに簡略すぎます。どうか人君の礼をもって葬りたいものです」と言った。
「どういうふうにするのか」
「諸侯の使者を参列させ、大牢を供えて祭り、所領として一万戸の邑をつけたらよろしいと存じます。諸侯がこのことを聞けば、 誰でもみな大王が人を賤しみ馬を尊ぶことを知りましょう」
「わしの考え違いはこれほどであったか。どうしたらよいだろう」
「分不相応に、畜生として葬りたいものです」
そこで荘王は馬の屍を食膳の官に引渡し、天下の人々に知られないように処置させた。
楚の宰相孫叔敖は優孟の賢いことを知ってよく待遇した。孫叔敖は病気で死に瀕したとき、わが子に遺言して「わしが死ねば、 きっとおまえは貧乏するだろう。おまえは優孟に会い『わたしは孫叔敖の子である』と言うがよい」と言った。
はたして、その子は困窮したため、優孟に面会し、事のしだいを告げた。
そこで優孟は、孫叔敖をまねて一年余りすると王の近臣でさえ見分けがつかないほどになった。
酒宴の席で、優孟は孫叔敖の姿で現れた。劇の中の荘王は孫叔敖が生き返ったのではないかと疑い、宰相にしようとした。 優孟は「孫叔敖様のおかげで楚は覇者となることができました。しかしその子には錐を立てるほどの土地もなく、困窮のうちでどうにか暮らしを立てております。 もし孫叔敖様のようにならなければ、自殺したほうがましでしょう」と言った。
すると本物の荘王は孫叔敖の子を召して寝丘の400戸に封じて父祖を祀らせ、それ以来10世の間、子孫が絶えなかった。
熊勇(ユウユウ)【王】
楚子(9代目)。熊延の子。~B.C.837。
B.C.846即位する。
由余(ユウヨ)【宰相】
戎の臣。後に秦の宰相になる。
由余の祖先は晋人で、逃げて戎に入ったもので、由余は晋国の言葉を話すことができた。
B.C.626戎王の命で秦を視察する。
繆公が官室の祭器をみせると、由余は「これを人民に作らせば人民を苦しめます」と言った。 繆公は「中国は詩書礼楽法律をもって政をしていても時々乱れることがある。これらの祭器がなくて、どうやって政をやっていくのだ」と問うと、 由余は笑って「それが中国の乱れる所以です。上は法律により下々を責め、民は苦しむと仁義を盾に上を恨みます。国が乱れるのはこれら礼楽・法律のたぐいがあるためです。
一方、戎夷では上は純朴倹素の徳をもって下に臨み、下は忠誠信実の心をもって上につかえているため、国の政をするのは、一身を治めるようなもので、 治まるいわれも知らずに治まっているのです。これこそ、ほんとうの聖人の治というものです」と言った。
繆公は由余が賢明であることがわかると内史の廖に「わしは隣国に聖人がいるのは、相手の国のうれいだと聞いている。どうしたらよかろう」と問うた。
は「戎王の心を女楽で乱れさせ、一方で由余を秦にとどめましょう。戎王と臣との間に隙を作り、 由余を戎王に疑わせればよろしいでしょう」と言った。繆公は戎王に女楽を奏する者16人を贈った。
のちに由余は帰国して戎王を諌めたが、戎王は聴かなかった。一方で繆公は人を遣り、戎王に由余を秦に与えるように説いた。 このため由余はついに戎を去って秦に降り、繆公は賓客の礼をもって待遇した。そして繆公は由余に戎を討つ形勢を尋ねた。
B.C.623繆公は由余の策を用いて戎王を討ち、西戎の覇となった。
熊楊(ユウヨウ)【王】
楚子(5代目)。熊勝の弟。
熊麗(ユウリ)【王】
楚の族長。鬻熊の子。
熊率且比(ユウリツショヒ)【文官】
楚の臣。
B.C.706楚武王は随を討ち、大夫薳章を使者として和睦させた。
鬭伯比は「わが楚が諸侯に威勢をふるうことができないのは、わが国の失策によるものです。三軍の大軍を率いて、 諸侯に接するからこそ、諸侯が連合するのです。 楚の弱いところを見せ、随が得意になれば、必ず諸侯の信は薄れるにちがいありません。ここはひとつ楚の兵力を弱めて彼らを油断させましょう」と進言した。
熊率且比は「随には季梁という人物がおりますから、そんな策を用いても何の効果もない」と言ったが、武王はそのまま策を行った。
はたして随の季梁がこれを見破ったため、計画は失敗した。
庾公差(ユコウサ)
子濯
庾公斯(ユコウシ)【武官】
衛の臣。
弓の名手。弓を尹公他に学ぶ。
鄭と戦い、鄭軍を追撃した。鄭の将子濯はそのとき瘧(おこり)の発作が起きて弓を引くことができなかったが、 追手が孫弟子の庾公斯であると知ると、「それならば生命は助かるぞ」と喜んだ。子濯の御者は「庾公斯は衛の弓の名人です。 どうして助かるとおっしゃるのですか」と尋ねた。 子濯は「庾公斯は弓を尹公他に学んだが、尹公他は私の門人だ。彼は正しい人であり、彼の選んだ友人や門人もきっと正しい人物に違いないからだ」と答えた。
庾公斯は追いついて「どうして弓を執られないのですか」と問うと、子濯は「瘧の発作が起きて、弓が執れないのです」と答えた。 すると庾公斯は「私はあなたの孫弟子になります。それゆえあなたを射殺すには忍びません。しかし今日のことはわが君の公事ですから、 使命を止めるわけにはいきません」といい、矢の鏃をはずし、礼式どおり四本の矢を放って、そのまま引き返した。
庾皮(ユヒ)【文官】
甘の臣。献太子の傅。
兪弥(ユビ)【公子】
鄭の公子。鄭文公の子。
兪弥は早く死んだ。
臾駢(ユベン)【将軍】
晋の将軍。上軍の佐。
B.C.621、11月、狐射姑が翟に出奔した。 趙盾は臾駢に命じて狐射姑の妻子を送届けさせようとした。
臾駢はこの年の夷の蒐のときに、狐射姑に処罰されて恥をかかされていたので、一族の者は狐射姑の妻子を皆殺しにして、その報復を謀ろうとした。 臾駢はこれを制止して「それはいけない。恩のある人に報いるのも、恨みのある者に仕返しするにしても、その本人に直接やるべきであるといいます。 また自分の恨みを晴らして、かえって仇の敵意を深くするのは智者のやるべきことではありません。また個人の恨みのために公務を果たさないのは、忠実ではありません。 この3つのことを捨ててしまって、どうして仕えることができましょう」と言って、狐射姑の妻子を全部引き連れて、自分で護衛して国境まで送届けた。
B.C.615冬、秦が令狐の役の恨みを晴らすため、晋を討って羈馬の地を攻め取った。
臾駢は上軍の佐として秦軍と戦った。臾駢は「秦は長期の戦いをすることができないので、とりでを高くして備えを堅固にしましょう」と進言したので、 趙盾はこれに従った。(河曲の戦い)
晋秦両軍は戦ったが、勝敗がつかなかった。秦の使者が夜にやって来て、明日決戦することを伝えてきた。臾駢は「使者の目が動いて、言葉に落ち着きがありませんでした。 きっと逃げようとしているのです。すぐに討ちましょう」と進言したが、 胥甲趙穿が「死傷者を収容しないで捨て置くのは無慈悲である。 時期を待たずに攻めるのは卑怯なやり方である」と言ったので、進撃は中止された。
結局、秦軍はその夜に逃げた。
B.C.614夏、臾駢は晋の六卿とともに、秦が士会を用いて晋に敵することを恐れて、近郊の諸浮で会合して密謀した。
趙盾「随会(士会)が秦におり、賈季(狐射姑)が狄におり、そのために国難が日ごとにやってくる。どうしたらよいか」
荀林父「賈季を戻しましょう。彼は国外の事情に通じており、処理する才能があり、それに旧勲の子である」
郤欠「賈季は罪を犯している。随会を戻したほうがよい。彼は卑賤の身分におりながら恥をわきまえており、 柔順であるが人から犯されて不義をなすことがなく、その智謀は国の役に立つ」
そこで六卿は魏寿余に命じて魏にたてこもらせて晋に背いて秦につくふりをさせて、士会を帰国させた。


inserted by FC2 system