- 庾皮(ユヒ)【文官】
- 甘の臣。献太子の傅。
- 兪弥(ユビ)【公子】
- 鄭の公子。鄭文公の子。
兪弥は早く死んだ。
- 臾駢(ユベン)【将軍】
- 晋の将軍。上軍の佐。
B.C.621、11月、狐射姑が翟に出奔した。
趙盾は臾駢に命じて狐射姑の妻子を送届けさせようとした。
臾駢はこの年の夷の蒐のときに、狐射姑に処罰されて恥をかかされていたので、一族の者は狐射姑の妻子を皆殺しにして、その報復を謀ろうとした。
臾駢はこれを制止して「それはいけない。恩のある人に報いるのも、恨みのある者に仕返しするにしても、その本人に直接やるべきであるといいます。
また自分の恨みを晴らして、かえって仇の敵意を深くするのは智者のやるべきことではありません。また個人の恨みのために公務を果たさないのは、忠実ではありません。
この3つのことを捨ててしまって、どうして仕えることができましょう」と言って、狐射姑の妻子を全部引き連れて、自分で護衛して国境まで送届けた。
B.C.615冬、秦が令狐の役の恨みを晴らすため、晋を討って羈馬の地を攻め取った。
臾駢は上軍の佐として秦軍と戦った。臾駢は「秦は長期の戦いをすることができないので、とりでを高くして備えを堅固にしましょう」と進言したので、
趙盾はこれに従った。(河曲の戦い)
晋秦両軍は戦ったが、勝敗がつかなかった。秦の使者が夜にやって来て、明日決戦することを伝えてきた。臾駢は「使者の目が動いて、言葉に落ち着きがありませんでした。
きっと逃げようとしているのです。すぐに討ちましょう」と進言したが、
胥甲と趙穿が「死傷者を収容しないで捨て置くのは無慈悲である。
時期を待たずに攻めるのは卑怯なやり方である」と言ったので、進撃は中止された。
結局、秦軍はその夜に逃げた。
B.C.614夏、臾駢は晋の六卿とともに、秦が士会を用いて晋に敵することを恐れて、近郊の諸浮で会合して密謀した。
趙盾「随会(士会)が秦におり、賈季(狐射姑)が狄におり、そのために国難が日ごとにやってくる。どうしたらよいか」
荀林父「賈季を戻しましょう。彼は国外の事情に通じており、処理する才能があり、それに旧勲の子である」
郤欠「賈季は罪を犯している。随会を戻したほうがよい。彼は卑賤の身分におりながら恥をわきまえており、
柔順であるが人から犯されて不義をなすことがなく、その智謀は国の役に立つ」
そこで六卿は魏寿余に命じて魏にたてこもらせて晋に背いて秦につくふりをさせて、士会を帰国させた。
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