中国的こころ列伝>列伝 オ

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列伝 オ


鞅(オウ)【武官】
簡公の御者。
監止田常の仲の悪いことを見て簡公に「田と監の二人は両立いたしません。 わが君には、どちらか一方をお選びなさいまし」といったが、簡公は聞き入れなかった。
翁(オウ)【王】
越王。不寿の子。
不寿が没すると、代わって立つ。
彄(オウ)
臧僖伯
王遠(オウエン)【神】
仙人。神仙伝に見える。
字は方平。東海の人。考廉に選ばれ、郎中となり、中散大夫を加えられた。学は五経に通じ天文・図讖河図洛書などの要旨に明るかった。のちに官を辞して山に籠もり、 道を修行し道を体得した。漢孝桓帝が召そうとしたが固辞して、宮門に400余字の予言を書いた。孝桓帝は嫌悪してこれを削り取らせたが、 消えるどころかさらにはっきり見えるようになったという。
王遠は子孫が無く、郡の長官陳耽が40年間彼の世話を見た。その間陳家では病気や葬式などは一度も無く家畜は増え、農作物も倍になったという。
王何(オウカ)【文官】
斉の臣。
B.C.548、5月、崔杼が斉荘公を弑した。王何は斉荘公のお気に入りだったため、 晋に亡命した。
B.C.545王何は盧蒲癸のとりなしによって斉に帰国することができた。 王何は盧蒲癸とともに慶舎の家来となった。しかし一方で王何と盧蒲癸は慶氏を攻めようと考えていた。 彼らは卜を行い、そのうらかたを慶舎に見せて「誰かが仇を討とうとして卜にかけたものです」と言うと、慶舎は「きっと勝つ。ただし血を流すことであろう」と言った。
11月8日、斉の先祖の廟で秋の祭りが行われた。慶舎は廟に出かけ、王何と盧蒲癸は枕刀を持って慶舎の供をした。 そこで田須無・欒子雅・高子尾鮑国らの兵が慶氏の兵がぬぎすてたよろいを着けて盧蒲癸に合図し、盧蒲癸と王何は慶舎を殺した。
王亥(オウガイ)【神】
商王朝の祖先。の子。
王亘と双子神とされる。
『史記』ではという。
『山海経』では、王亥は両手で鳥を取り、その頭を食ったとある。『竹書紀年』には王亥は淫乱であったため、 有易の君主緜臣に殺されたとある。
王驩(オウカン)【文官】
田斉の臣。字は子敖。
蓋の長官。
孟子の副使として、滕文公の喪を弔いに行った。
王官無地(オウカンムチ)【武官】
晋の臣。
B.C.625春、秦の孟明視が晋に攻め入ってきた。
2月、先且居が中軍の将となり、趙衰が中軍の佐となり、 王官無地は襄公の御者となり、狐鞫居がその右を務めた。
2月9日、晋軍は秦軍と彭衙で戦い、秦軍を大破した。晋の人はこの秦軍を拝賜の師と読んで嘲笑した。
王姫(斉)(オウキ)【女官】
桓公の夫人。
王姫は正夫人であったが子がなかった。
王姫(宋)(オウキ)【女官】
襄公の夫人。周襄王の姉。
周王の姉にあたるため王姫という。
B.C.619王姫は宋昭公に礼遇されなかったため、王姫は戴氏の一族をたより、 その力で襄公の孫孔叔公孫鐘離と大司馬を殺した。
王姫は公子鮑革(文公)と私通しようとしたが、公子鮑革が受けつけなかったので、かえって公子鮑革を助け、国人に恩恵を施した。
B.C.611昭公が無道であったので、国人は公子鮑革を担ぎ出し、王姫の権勢に頼って国君につけようとした。
11月23日、宋昭公は孟諸で狩をしようと出かけたが、途中で王姫は公邑の大夫衛伯に命じて昭公を攻め殺して公子鮑革を立てた。
王齮(オウキ)【将軍】
秦の将軍。~B.C.243。
B.C.258趙を討ち、邯鄲を包囲する。
B.C.246秦王が即位すると、将軍に任じられる。
王季(オウキ)
季歴
王季子(オウキシ)【文官】
周王朝の臣。劉公。
B.C.599秋、王季子は魯を訪れて、魯の孟献子が周を聘問した返礼をした。
B.C.594晋が潞国を攻め滅ぼしたので、晋の臣趙同が周に狄の捕虜を献上してきた。そのとき趙同のふるまいが不敬であったので、 王季子は「10年たたないうちに原叔(趙同)は大きな咎めを受けるだろう。あんな非礼をしたのは、天が彼の精気を奪ったのだ」と言った。
B.C.590晋景公詹嘉を遣わして戎と周を和平させた。 しかし王季子は戎の無防備なのを見て、これにつけこんで戎を討とうとした。 周の内史叔服が「盟いに背き、大国をあざむいては必ず負けます」と諌めたが、王季子は聴き入れず、茅戎を討った。
3月21日、周軍は徐吾氏の地で戎に大敗した。
B.C.580秋、晋の郤至が鄇の地を周と争った。 王季子は周簡王の命で単襄公とともに晋に訴えた。
郤至「温の地はすべてわたくしの領地です」
王季子・単襄公「周は商に勝ったとき、蘇忿生に温の地をまかせました。後世、 襄王が晋の文公に温を与えて、その後にお前の領地となったのです。 もとは王の役人(蘇忿生)の領地です。どうしてお前がわがものにすることができよう」
厲公は郤至をなだめて争わないようにさせた。
B.C.578王季子は魯成公と成粛公ら諸侯と共に秦を討つことになった。 出陣に際して成粛公は社での祭の肉をいただく作法が無礼であった。王季子は「成子(粛公)が祭肉をいただくのに無作法であったのは、みずから天の与えた命を棄てるものだ。 無事には帰れまい」と言った。
はたして成粛公は遠征中に晋の瑕で没した。
王季子は没すると康公と諡された。
王姜(オウキョウ)【女官】
成王の夫人。
河南に勢力をもつ姜族の長。
周の楚討伐に従軍して周に服属することを誓い、貝10朋、臣10家、鬲(奴隷的身分の人)100人を賜った。
また諸侯に使者を送り、周との友好関係を保つことに尽力した。
王稽(オウケイ)【文官】
秦の臣。
昭襄王は王稽を使いとして魏にやっていた。鄭安平は身許をいつわって、 その従卒となって王稽にかしずいた。王稽は鄭安平に「秦で遊説させるような賢人がいるか」と問うた。
鄭安平は「わたくしの郷里に張禄先生という人があります。 ただ仇に狙われているため昼間は人に会いません」と言って范雎を王稽に会わせた。 王稽は范雎の賢を見抜き、車に乗せて秦に帰国した。
B.C.271范雎が秦で宰相になった。王稽は暗に范雎に推挙してもらうよう言った。范雎はこれを聞いて喜ばなかったが、王稽を河東太守に任じた。
赴任するが、3年たっても報告書を出さなかった。
王稽は大将として趙の邯鄲を攻めたが、17ヶ月経っても落とせなかった。さらに王稽は軍の役人に慰労の品を下賜しなかったので、 役人は王稽と副将の杜摯が謀反をたくらんでいると讒言した。昭襄王は大いに怒って王稽を誅殺しようとした。
B.C.254王稽は諸侯と内通して法に問われ誅殺された。
王黒(オウコク)【文官】
斉の臣。
B.C.532夏、田無宇鮑国欒子旗高子彊を攻めた。 欒・高氏は斉景公を味方につけようと公宮に入ろうとしたが、斉景公がこれを許さなかったため二氏に攻められた。 斉景公は王黒に命じて公旗を用いて占ってみると吉であったためこれを稷で戦って破った。
王齕(オウコツ)【将軍】
秦の将軍。
B.C.260王齕は趙を討って、上党を取った。
長平の戦いでは、秦はひそかに白起を上将軍とし、王齕をその副将として、趙を大いに破った。
B.C.259白起に代わって、将として趙の武安君を討ち、皮牢を取る。
B.C.257秦は増兵して趙を攻撃中の陵を援けたが、陵の作戦がよくないので王齕に代わらせる。
B.C.256王齕は邯鄲を抜くことができずに退いて汾城郊外の軍に逃げ込んだ。
B.C.249上党を討つ。
王子喬(オウシキョウ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
霊王の太子晋であるといわれる。字が子喬。
たくみに笙を吹いて鳳凰の鳴くような音を立てた。嵩高山に登ったという。
王子虎(オウシコ)【文官】
周王朝の臣。太宰。王叔文公ともいう。~B.C.625。
襄王は王子虎と内史叔興父を使節として派遣し、 晋文公に襲封の勅命を賜った。文公はすべて礼にかなった対応をしたため、内史興は晋と親しむように進言した。 襄王はその言葉に従って晋への使節をたびたび送った。
B.C.632晋文公が楚の捕虜を周に献上したので、天子に命ぜられて晋公を侯伯に任命し、大輅(儀式用の車)、赤い弓矢100本(弓一張・矢100本)、 黒い弓矢1000本(300張り・矢1000本)、秬鬯(香気のある黒い黍酒)一樽、珪瓚(儀式用の玉の酒器)および虎賁(天子の新兵)300人を賜った。
そこで王子虎は践土で諸侯と会盟する。
B.C.631、6月、王子虎は、魯釐公・晋の狐偃・宋の公孫固・ 斉の国帰父・陳の袁濤塗・秦の小子憗と会合して、 翟泉で盟いを結び、践土の盟を温め、鄭を討つ相談をした。
B.C.625、4月15日、没して文公と諡される。
王子城父(オウシジョウホ)【公子】
斉の公子。成父ともいう。
B.C.609鄋瞞(長狄)が斉に攻め入った。王子城父は斉恵公に命じられて長狄栄如を討ち取り、 その首を斉の周首の北門に埋めた。
王子成父(オウシセイホ)【将軍】
斉の将軍。
軍律を明らかにし賞罰をまことにし、斉の領土拡大に貢献した。
王子伯駢(オウジハクヘン)【文官】
鄭の臣。
B.C.565冬、楚の子嚢が鄭を討った。王子伯駢は鄭簡公の命により晋に使いして、 しかたなく楚についたことを報告した。中軍の将智罃は行人子貢に答えさせて 「貴国の君はわが君に報告することなく楚と仲良くされました。それは貴国の君の望んでいることでしょう。わが君は諸侯を率いて貴国の城下でお目にかかるでしょう」 と言われた。
王子伯廖(オウジハクリョウ)
伯廖
王湫(オウシュウ)【文官】
斉の臣。~B.C.567。
B.C.573、1月29日、斉霊公国佐を殺した。そのため王湫は萊に出奔した。
B.C.567、3月15日、王湫は正輿子とともに軍を率いて棠人とともに斉軍と戦ったが、打ち破られた。
3月27日、斉軍が萊の都に攻め入った。王湫は正輿子とともに莒に逃げたが、莒人に殺された。
王叔桓公(オウシュクカンコウ)【文官】
周王朝の臣。王子虎の子。
B.C.624秋、楚が江を攻め囲んだ。晋襄公は江の援助のことで周の威力を借りようとして周に願い出た。 周襄王は王叔桓公を派遣し、晋は陽処父に命じて楚を討たせた。 陽処父は楚の方城の門まで攻め込んだが、救援に来た楚の息公の軍に出会い、恐れて戦わずに引き揚げた。
王叔簡公(オウシュクカンコウ)
王叔陳生
王叔陳生(オウシュクチンセイ)【宰相】
周王朝の宰相。王叔桓公の子。
B.C.575晋の郤至は鄢陵の戦勝の報告をするため周に入った。王叔陳生は郤至に酒を飲ませてお互いに贈与し、 酒を酌み交わして話し合い、意気投合した。翌日、王叔陳生は郤至を朝廷で褒めた。
単襄公は「王叔も郤至と同じく禍難を免れることはできません。王叔は郤至を望んでますから、同じ運命になるでしょう」と言った。
B.C.568春、周霊王は王叔陳生を遣わして戎が周室を侵していると晋に訴えた。 しかし王叔陳生は戎に心をよせているとして晋に捕えられた。
B.C.563王叔陳生は伯輿と政権を争った。周霊王は伯輿を助けたので、 王叔陳生は腹を立てて都を出た。黄河まで行ったところで、周霊王が罪を史狡になすりつけてこれを殺して弁解した。 しかし王叔陳生は都に帰らず、そのままそこに住んだ。 晋悼公范匃に命じて王室の騒ぎを治めようとした。王叔陳生と伯輿は互いに訴えて曲直を争った。 范匃は王叔陳生に命じて伯輿と証拠となる訴えの口上書をひきあわせたが、王叔陳生は証拠をあげることができなかった。そのため王叔陳生は晋に亡命し、 単襄公が代わって王室の卿士となった。
王叔文公(オウシュクブンコウ)
王子虎
王順(オウジュン)【文官】
費の臣。
恵公は「わしは子思(孔伋)に対しては先生として敬い、 顔般に対しては友人として付き合うが、王順と長息はわしのただの家来である」と言う。
王蠋(オウショク)【文官】
斉の臣。画邑(臨淄の西北)の人。~B.C.284。
B.C.284燕が斉に侵入した時、王蠋が賢人だと聞き、燕軍は「画邑の周囲30里以内に立ち入るな」と命じた。
その後、燕は使いをやって万戸侯に封じようとしたが、王蠋は「忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫にまみえない。私は斉王を諌めたが聴き入れられなかったので、 退いて野に耕している。 今、兵力でおびやかされて将軍となるのは桀を助けて暴をおこなうもの。生きて正義にもとるより、煮られて死ぬほうがましである」と言い、ついに首を木の枝にかけて死んだ。
逃亡した斉の大夫らがこれを聞いて、みな集まって莒に赴き、襄王を立てたのである。
王生(オウセイ)【武官】
晋の臣。
王生は范吉射の邪臣とされる。
王緤(オウセツ)【文官】
趙の臣。
B.C.306武霊王が服装を胡服に変えると、公子は病気と称して参内しなかった。
武霊王は王緤を成のもとに遣わして「家では親のいいつけに従い、国では君の命令に従うのが、古今の公道であり、子が親に背かず、臣が君に逆らわないのが上下の通念である。
いまわたしは教えをつくり、服を変えたのに、叔父上が胡服されないなら、天下の者が非難しましょう」と言わせた。
武霊王はまた自ら成の家に訪問して説得して、ついに胡服の令を出した。
王翦(オウセン)【将軍】
秦の将軍。頻陽の東郷の人。
若いときから兵法を好み、秦王に仕えた。
B.C.236王翦を主将、桓齮を副将、楊端和を末将とし、鄴を討ったが、なかなか落ちず、まず9城を取った。
王翦は別に閼与と橑陽を攻め、桓齮に留まって鄴を攻めさせる。鄴を落とすと、また橑陽を攻めた。
B.C.229大兵をおこして趙を討つ。王翦は上郡の兵を率いて井陘を降す。
B.C.228王翦、羌瘣は趙の地を平定し、趙王を虜にし、趙を滅ぼす。
B.C.227燕は荊軻を使って秦王政を暗殺しようとした。そこで政は王翦に命じて辛勝とともに燕を討った。
B.C.226援軍の兵を受けて燕を討ち、ついに薊城を取る。
B.C.224秦王政は楚を討ちたいと思い、李信に問うた。
「わしは荊(楚)を攻め取りたいが、どれだけの兵があれば事足りよう」
「20万もあれば十分です」
秦王政は王翦に同じ事を問うた。王翦は「どうしても60万なくてはいけません」と答えた。
秦王政は「王将軍も老いた。なんと意気地のないことか。それに比べて李将軍は果断勇壮だ。彼の言うことは的を得ている」と言って、李信と蒙恬に命じ、 20万の兵で楚を討たせた。
王翦は用いられなかったので、病老をもって職を辞めて隠居した。
李信はさいしょ楚軍を破ったが、楚の反撃にあい、二ヶ所の塁壁を破られ、7人の将校を失い、秦軍は敗走した。
秦王政は大いに怒り、また頻陽に駆けつけて、王翦に会って詫びた。
「わしが将軍のことばを容れなかったため、秦の名は辱められました。いま荊兵は日々西に向かって進軍しているという。将軍はわしを見捨てられるのか」
「この老骨は病に疲れ、頭がぼけています。ただ大王には別の賢将をお選びになりますように」
「やめてくれ、将軍。二度とそれを言ってくれるな」
「もし大王が、わたくしを用いられるとしても、60万人でなければなりません」
「将軍のはかりごとのままに」
こうして王翦は60万の大軍を率いることとなった。
秦王政は、みずから灞水のほとりまで見送った。途中、王翦は報酬として、美しい田宅・園池を得たいと、繰り返して請うた。秦王政は「将軍よ、行きたまえ。 何の貧乏をうれえることがあろう」と言うと、王翦が「大王の将軍たるものは、勲功があっても結局は封侯となることができません。だから、 大王がわたくしに期待をかけておられる際に、わたくしもその機会を利用して園池を賜るよう請い、子孫のために財産を得たいと思うのです」と答えた。 これを聞いて秦王政は大いに笑った。
さらに王翦は函谷関に着いてからも、使者を出して美田を請うこと五度に及んだ。ある人が「将軍の請いも度がすぎる」と言うと、王翦は「そうではない。 かの秦王は粗放で人を信じない。いま、秦の国内を空にして、全兵力を私ひとりに任せたのである。だから田宅を請うて子孫のために蓄財をはかり、 自分の地位を堅固にすると見せかけなければ、秦王から疑われよう」
王翦は李信に代わって楚を討った。楚は全兵力でこれにあたったが、王翦は塁壁を堅固にして出撃しようとはせずに、毎日士卒を休養させ、飲食を十分にし、 みずから士卒と食事を同じくした。
しばらくして王翦は「陣中では戯れているかどうか」と人に問わせたところ「いまや投石・超距に興じています」という報告であった。それを聞いた王翦は「これでこそ、 士卒は間に合う」と言った。
ついに楚は秦が応戦しないので、兵を率いて東に去った。応戦ははじめて全軍を挙げてこれを追い、大いに破り、 蘄水の南で項燕を破った。
秦は勝ちに乗じて楚の城邑を攻略し、陳から南、平輿にいたる間の地を取り、楚王負芻を虜にした。
B.C.223蒙武とともに楚の叛乱軍を討ち、これを破った。昌平君は戦死し、項燕は自殺し、楚を滅ぼして秦の郡県とする。
B.C.222楚の江南の地を平定し、越国の君を降す。
王亘(オウセン)【神】
商王朝の祖先。の子。
王亥と双子神とされる。
『史記』ではという。
王錯(オウソ)【文官】
魏の臣。
恵王に仕える。
王孫由于(オウソンイウウ)【武官】
楚の臣。
B.C.506冬、楚は呉軍は大敗し、楚昭王は郢から脱出して雲夢の沢中に入った。楚昭王が眠っていると賊が攻め込んできて戈で撃ちかかって来たが、 王孫由于が背で受けとめようとして肩に当たった。楚昭王はこのすきに逃げ、負傷した王孫由于もしばらくして息を吹き返して後を追った。
王孫由于は楚昭王に命じられて麇に城壁を築いた。子西がその高さと厚さを尋ねると、王孫由于は答えられなかった。 子西は立腹して「そんなことも分からないなら、辞退すればよかったのだ。それでは全体の大きさも分かるまい」と言うと、王孫由于は「できないと辞退したのに、 あなたが無理にさせたのです」と言って、肌を脱いで子西に背を見せて「王が雲夢で賊に出会った時にわたしは賊の戈を受けとめました。これがわたしの得意とするところです」と言った。
B.C.505呉軍が撤退し、楚昭王は郢に帰還して王孫由于、王孫賈王孫圉闘辛鐘建闘巣申包胥宋木闘懐の功臣に賞を与えた。
王孫説(オウソンエツ)【文官】
周王朝の臣。
B.C.578魯の叔孫喬如は周王からの賜賞を期待して、 請願して魯成公を周に訪朝させるようにした。王孫説は先立って周に入った叔孫喬如と会って話した。 王孫説は周簡王に「王に謁見する礼物が粗末で、言葉はへつらっています。おそらくは来朝したくて自分から請願したのでしょう。 王は下され物をなさいますな。もし乱暴者の欲望を満足させるなら不善を賞することになります」と言った。そのため簡王は叔孫喬如に物を与えなかった。
その後魯成公が来朝したが、王孫説はその時の介添役孟献子と話をし、謙譲の徳があったため、 彼らに厚く贈り物をするように簡王に進言した。
王孫賈(楚)(オウソンカ)【文官】
楚の臣。
B.C.505呉軍が撤退し、楚昭王は郢に帰還して王孫賈、王孫圉闘辛王孫由于鐘建闘巣申包胥宋木闘懐の功臣に賞を与えた。
王孫賈(衛)(オウソンカ)【文官】
衛の臣。
B.C.502衛は晋と衛のセン沢で盟いを結ぶことになった。いよいよ会盟での血をすすろうとすると、 晋の渉佗が衛霊公の手を血を盛った盤の方へ強く推しつけたため、 盤の血が霊公の腕にまではねかえった。この無礼に衛霊公は立腹した。王孫賈は小走りに歩み寄って「わが君が礼を守られずに無作法をされて、どうしてこの盟いをうけることができようか」 と言った。かくて衛霊公は晋に背こうとしたが、大夫たちが反対することを気づかった。そこで王孫賈はすぐに都に帰らずに郊外で留まった。迎えに出てきた大夫たちはそのわけを尋ねると、 衛霊公は恥をかかされたことを話し「晋はわたしの子と大夫の子を人質にせよと言っています」と言った。これを聞いた大夫は「もしも国のためになるのであれば従います」と答えた。 いざ一行を送り出そうとしたところ、王孫賈は「晋に攻められたら職人も商人も心配になります。彼らも人質にすればうまくいきます」と言うと、大夫たちは工商を人質として送ろうとした。 また王孫賈は「もし衛が晋に背いて5度も攻め込んできたら、その苦しみはいかほどであろうか」と言うと、皆は「5度とも戦うことができます」と答えたため、 王孫賈は「それでは晋に背いてみて、討たれてから人質を出すのがよい」と進言したため、衛は晋に背いた。
王孫賈(斉)(オウソンカ)【武官】
斉の臣。
B.C.284王孫賈は15歳で斉湣王に仕えていたが、王が莒に出奔したとき、王の所在を見失った。
すると母は「わたしは、おまえが朝出かけて、夕に帰ってくるときは、家の門に寄りかかっておまえの帰りを待ち望み、おまえが夕暮れにも帰らないときには、 村の門に寄りかかって帰りを待ち望んでいるのだよ。
おまえは王様にお仕えする身でありながら、王様が逃げ出されたのに、おまえはその所在も知らないでどうしておめおめと帰ってきたのですか」と叱責した。
そこで王孫賈は市中に入り「淖歯がこの斉を乱して王を殺した。わたしといっしょに彼を殺そうと思う者は、右の肩を脱げ」と言い、 同意した者400人と淖歯の罪を責め、これを刺し殺した。
王孫喜(オウソンキ)【武官】
楚の臣。
B.C.666秋、楚は兵車600乗を率いて鄭を討ち、桔シツの門に攻め入った。
子元闘御疆闘梧耿之不比は旗をおしたてて先陣となり、闘班王孫游・王孫喜はしんがりとなった。楚軍は外城の純門に群がり攻め入り、 市場まで攻め入ったが、内城の門は開け放たれ、鄭の兵卒は楚の言葉で話しあっていた。鄭の落ち着き払った様子を見て、子元は「鄭には人物がいる」 と言って進撃しなかった。
そのうち斉、宋の援軍がやってきたので、楚軍は夜にまぎれて逃げ去った。
王孫揮(オウソンキ)【将軍】
斉の将軍。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、王孫揮はその先陣となった。
王孫圉(オウソンギョ)【文官】
楚の臣。
B.C.505呉軍が撤退し、楚昭王は郢に帰還して王孫圉、闘辛王孫由于鐘建闘巣申包胥王孫賈宋木闘懐の功臣に賞を与えた。
王孫圉が晋を訪問すると、晋定公は王孫圉を饗宴に招いた。趙鞅が佩玉を響かせて王孫圉の礼を助けて言った。
趙鞅「楚には白珩(佩玉)はありますか」
王孫圉「あります」
趙鞅「それが宝として伝えられて、何代になりますか」
王孫圉「まだ一度も宝としたことはありません。楚が宝とするのはよく訓辞を作る観射父と、 よく古典に通じる左史イ相です。やかましく鳴る華美な珩などは、わが楚は蛮夷ではありますが、 宝とすることはありません」
王孫ケイ(オウソンケイ)【文官】
楚、晋の臣。子元の子。
B.C.664子元が楚に叛乱を起して殺されたので、王孫ケイは晋に亡命した。
B.C.632晋が楚と城濮で戦ったとき、王孫ケイは「楚では子玉だけが戦いたがって、王の心を逆らったので、ただニ軍だけであり、 友軍も子玉に離反する者が半分です。若敖氏ですら離反しているのですから、楚は必敗の態勢です。どうして逃げるのですか」 と先軫に言った。そこで先軫はこの意見に従って楚を大破した。
王孫苟(オウソンコウ)【文官】
呉の臣。
B.C.482呉王夫差は、黄池の会盟を終えると王孫苟を周に派遣して、 呉が楚と斉を討伐したことを報告した。
王孫苟「昔、楚人が無道を行い王命を遵奉しなかったので、先君闔閭は楚を討伐し、郢を陥れました。 また斉は楚の敗北を戒めとせず王命を遵奉しなかったので、夫差はこれを艾陵で破りました。どうして功を誇りましょうか。これは文王 武王の善意のお陰でございます。夫差は会盟を成就しましたので、ご報告いたします」
敬王「苟よ、伯父(夫差)がそなたを遣わしたことによって、わしは嘉納するぞ。伯父が力を合わせて徳を共にしようとするなら、 わしも大なる祝福を受けるだけでなく、伯父もまた年寿を経ておん身を終えられよう」
王孫蘇(オウソンソ)【文官】
周王朝の臣。
B.C.613王孫蘇は宰孔と政権を争った。宰孔が晋に訴えてさばきを受けようとしたので、 王孫蘇は周匡王に謀って、 尹氏とタン啓に命じて宰孔の無実の罪を晋に裁いてもらうように取り計らせた。 晋の趙盾は王室の騒動を治めて元どおりにした。
B.C.594、6月、王孫蘇は召氏と毛氏と政権を争い、 王子に頼んで召戴公毛伯衛を殺させ、 戴公の子襄を立てて実権を掌握した。
B.C.593王孫蘇は、周が乱れたので難を恐れて晋に亡命した。
冬、晋景公士会に命じて王孫蘇を周に還して元の地位につけさせた。
王孫包胥(オウソンホウショ)
申包胥
王孫没(オウソンボツ)【文官】
甘の臣。~B.C.530。
悼公の一味。
B.C.530甘悼公は甘成公・甘景公の一族を除こうとしたため彼らに殺された。王孫没も宮嬖綽劉州鳩陰忌老陽子とともに殺された。
王孫満(オウソンマン)【文官】
周王朝の臣。姓は王孫、名は満。
B.C.627春、秦軍が鄭を急襲しようとして、周の王城の北門を通過した。王孫満はその軍を観察して言った「秦軍はきっと天罰がくだります。その軍は軽薄で驕慢であり、 軽薄であれば謀が少なく、驕慢であれば礼節がありません。礼節がなければ軍の統制が取れず、謀が少なければ窮地に陥ります。窮地に陥って統制が取れなければ、 敗れないはずがありましょうか」
はたして秦は殽の地で晋軍に撃破された。
B.C.606楚荘王に鼎の軽重を問われたとき「天命は周から去っていません。今、鼎の軽重を問うべきではありません」と答える。 荘王は兵を返した。
王孫游(オウソンユウ)【武官】
楚の臣。
B.C.666秋、楚は兵車600乗を率いて鄭を討ち、桔シツの門に攻め入った。
子元闘御疆闘梧耿之不比は旗をおしたてて先陣となり、闘班・ 王孫游・王孫喜はしんがりとなった。楚軍は外城の純門に群がり攻め入り、 市場まで攻め入ったが、内城の門は開け放たれ、鄭の兵卒は楚の言葉で話しあっていた。鄭の落ち着き払った様子を見て、子元は「鄭には人物がいる」 と言って進撃しなかった。
そのうち斉、宋の援軍がやってきたので、楚軍は夜にまぎれて逃げ去った。
王孫雒(オウソンラク)【文官】
呉の臣。
B.C.482夫差は黄池で諸侯と会盟した。このとき、越の勾践が兵を率いて呉軍の帰路を断ち、 呉の公子を破り、さらに呉の都が急襲された。
夫差は黄池で晋定公と盟主の座を争っていたが、呉の急使が到着して越の反乱を報告した。夫差は恐れて大夫を集めて言った。
夫差「晋と会合せずに帰るのと、会合して晋を盟主とするのと、どちらがよいか」
王孫雒「ご下問の2つとも有利ではありません。晋と会合せずに帰れば、民は恐れて逃走し、諸侯は呉を軽んじて攻撃してきましょう。会合して晋を盟主とするならば、 晋は諸侯を引率して天子に謁見するでしょう。どうしても晋と会合して、呉が盟主とならなければいけません」
夫差「どうすればよいか」
王孫雒「今晩晋に挑戦して、人心を奮起させましょう。晋は退避する場所があるのでかえってひるみましょう。その後は収穫が不作ですので、諸侯の貢納を責めず、 先に帰国させましょう。彼らが国に入った後に、王は一日は急ぎ、一日はゆっくりと帰国なされば、帰ることができます」
夫差は会盟を終えると、王孫雒に命じ、まず勇獲とともに歩兵を率いて宋の外城を焼いて帰国させた。
B.C.473呉は越に破れ、夫差は包囲された。王孫雒は軍使として越に和を請うた。勾践は許そうとしたが、 范蠡が諌めたので、夫差は自殺することとなった。
王斗(オウト)【在野】
斉の処士。
王斗は斉宣王にお目通りして、 かつての斉桓公のように賢士を好んで登用するよう直言正諫した。
王豹(オウヒョウ)【在野】
衛の人。歌の名人。
王豹が淇水のほとりに住んでいたので、その河西地方の人々は歌が上手になったという。
王賁(オウフン)【将軍】
秦の将軍。通武侯。オウホンともいう。王翦の子。
B.C.226燕を討ち、薊を攻める。また楚を討ち、これを破る。
B.C.225魏を討ち、黄河から水を引いて大梁に注いだ。そのため大梁城は壊れ、魏王は降伏して、ことごとく魏の地を取り、これを滅ぼす。
B.C.222大軍をおこし、李信とともに燕の遼東を攻める。王賁は燕王を捕らえ、 軍を返して代を攻めて代王を虜とする。
B.C.221李信とともに燕の南から斉を討ち、斉王を虜にし、斉を滅ぼす。
王賁(オウフン)【武官】
趙の臣。
B.C.305武霊王は中山の地を攻略し、寧葭に行き、西行して胡の地を攻略し、楡中まで行った。
林胡王が馬を献上した。
帰途、楼緩を秦に、仇液を韓に、王賁を楚に、富丁を魏に、 趙爵を斉に遣わした。
王猛(オウモウ)
犂弥
欧冶子(オウヤシ)【在野】
越の名刀匠。干将の師匠、あるいは同門ともいわれる。
彼の作った「純鈞」は天下の至宝といわれた。その価値は市を持つ郷2つ、駿馬1000頭、千戸の都2つであったという。
王遥(オウヨウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
鄱陽の人。字は伯遼。病気治療に妙を得ていて、どんな病気でも治した。ある日突然姿を消し、30余年後見かけたときはさらに若返って見えた。地仙であった。
王容(オウヨウ)【文官】
趙の臣。武垣の県令。
B.C.260秦が邯鄲を包囲すると、傅豹蘇射らとともに燕の衆を率いて燕の地で背いた。
王姚(オウヨウ)
応龍(オウリュウ)【神】
古代の神。
黄帝蚩尤と戦い、娘の女魃に蚩尤の雨を抑えさせ、 応龍に命じて蚩尤を冀州の野で殺した。
王陵(オウリョウ)【武官】
秦の臣。五大夫。
B.C.258、10月、趙を討ち、邯鄲を攻める。秦は援軍を出したが、王陵は五人の将校を失った。
B.C.257正月、増兵の援助を受けたが、王陵の作戦がよくないので王齕に代わられる。
王良(オウリョウ)
伯楽
王烈(オウレツ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
字は長休。邯鄲の人。年338歳になってもまだ若者の容貌をしていた。中散大夫の嵆叔夜(嵆康)はひどく王烈を敬愛し、しばしばこれについて学び、 共に入って薬物の採集をしたりした。
屋廬子(オクロシ)【在野】
孟子の弟子。名は連。
孟子と問答する。
鄔臧(オゾウ)【武官】
晋の臣。祁盈の臣。~B.C.514。
B.C.514鄔臧と祁勝は家を共有していてだらしがなかった。そこで祁盈はふたりを捕らえた。 祁勝は荀躒に賄賂を使い、荀躒は彼のために晋頃公に取りなしたため、 晋頃公は逆に祁盈を捕らえた。そのため鄔臧と祁勝は祁盈の家臣に殺された。この事件をきっかけに、祁氏と羊舌氏は六卿に滅ぼされた。
於陵子仲(オリョウシチュウ)【文官】
田斉の臣。
於陵子仲は斉王に寵愛された。
恵文后は斉王建の施政がよくないと言い、 斉の処士の鐘離子葉陽子に官職を与え、 佞臣である於陵子仲を殺すべきであると忠告した。
温季子(オンキシ)
郤至




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