- 蘇代(ソダイ)【宰相】
- 縦横家。蘇秦の弟。
蘇秦が成功したのを見て、遊説の術を学んだ。
あるとき燕王が蘇代に「私はうそつきの言うことが大嫌いだ」と言った。
蘇代は「私の故郷の周では仲人を軽蔑します。なぜなら、彼らは両方を誉めちぎるからです。しかし、仲人がいるから縁談が順調に進んで話がまとまるのです。
それに物事は、いつも常道だけでうまくいくものではなく、臨機応変に対応していかねば成功しませんし、情勢を無視しては成功しません」と言った。
燕王は「なるほど、そういうものか」と納得した。
燕王噲を説いて斉を弱める策を述べた。噲は「わしはついにきみの力で覇王たるべき天命を受けた」といって、
その子を斉に人質に出し、蘇代は蘇厲とともに斉の臣となった。
蘇代は斉に赴き、斉宣王に登用される。斉のために燕に使いする。燕王噲が「斉王をどう思うか」と聞くと
「けっして覇者にはなれません」と答える。「どうしてか」と問われると、「自分の臣下を信じないためです」と答えた。蘇代はこのように燕王を刺激することで、
自分と交際のある燕宰相子之の地位を高くしようとしたのであった。のちに子之からお礼として百金をもらう。
B.C.312燕は昭王を立てて国王とした。蘇代は蘇厲とともに燕に戻らず、斉に帰属し、斉は彼らをよく待遇した。
蘇代は魏を通過したとき、魏は燕のために蘇代を捕らえた。斉が魏を説得したので、蘇代は釈放された。
蘇代は宋に赴き、宋でよく待遇された。
B.C.310魏の宰相田需が死ぬと、楚は張儀・犀首・
田文らが宰相になることを恐れた。
蘇代は楚の宰相昭魚に「誰が宰相になればよいとお考えになりますか」と問うた。
昭魚は「わたしは太子みずからが宰相となるように願っている」
「では君のために北のほう魏に行き、かならず太子を宰相にしてごらんにいれましょう」
蘇代は魏襄王に謁見して「楚の宰相昭魚は張儀、犀首、薛公のうちひとりが宰相になるのではないかとおそれております。
それで私は申しました。『魏王は賢主であります。張儀が宰相となれば、秦を第一にし、魏を二の次にするでしょうから彼を宰相にしないでしょう』と。
襄王は「しからばわしは誰を宰相にしたらよいのか」と問うと、
蘇代は「太子みずから宰相になることが一番です。そうすれば先の三人はこれを臨時の宰相とみなして、みなそれぞれの本国を利用して魏に仕えるでしょう。
そうすれば魏はかならず安泰です」と言った。
ついに襄王は太子を宰相とした。
B.C.307秦が韓を攻め、楚が韓を助けるため宜陽に出兵した。そのとき周が韓のために出兵したが、そのことを楚は、周が秦のために出兵したと疑った。
蘇代は楚王に「どうして周が秦のために出兵などいたしましょう。楚が周を疑うと、周は必ず秦につくでしょう。王のためにはかりますに、
周が何をしようといつもよしといって自ら周に親しんだら、周は必ず楚と親しむでしょう」といい、周が韓を救うことができるようにした。
楚が韓の雍氏を囲み、韓が周に兵器と食料を求めた。蘇代は「韓に甲と粟を渡さず、また高都の地を君のために手に入れましょう」と言った。蘇代は韓の宰相に
「今、韓が周に甲と粟を求められるのは、みすみす楚に韓のうれいを告げるようなものです」韓の宰相は「わかった」と言った。ついで蘇代は
「周に高都を割いていただきたい」と言うと、宰相は怒ったが、蘇代は「周に高都を与えれば、周は韓に味方するようになり、秦との親行はなくなります。
どうして与えられませぬか」宰相ははたして高都を周に与えた。
B.C.306秦の向寿が宜陽を守備し、ついで韓を討とうとした。韓の公仲は蘇代をつかわして
「韓は滅亡に瀕すれば、公仲はかならずみずから私兵を率いて秦に手向かいましょう」と言った。
向寿は「わたしは韓を滅ぼそうとするのではない」と答えた。
「公孫奭は韓に与し、甘茂は魏にくみし、あなたは楚にくみしています。しかし楚はよく心変わりするので、
あなたは韓と親善しておくべきです」
「いかにもそれを希望する」
「甘茂は武遂と宜陽を返還しようとしていますが」
「どうすればよいか」
「楚・韓を味方につけて安んじ、斉・魏の罪を責めれば、公孫奭と甘茂はあなたに手出しできないでしょう」
しかし甘茂は昭襄王に進言して、武遂を韓に返した。
甘茂は斉に出奔し、蘇代に会った。甘茂は蘇代に秦に復帰できるように頼んだ。蘇代は秦に行って「甘茂は非凡の士であります。
また甘茂は長く秦に仕えていたので、秦の険阻平坦をみな知っています。もし彼が斉を動かし、韓・魏と同盟して逆に秦にはかるなら、秦のためにはなりますまい」と言った。
昭襄王は即刻、甘茂に上卿の位を与え、宰相の印をもって斉から迎えようとした。しかし甘茂は行かなかった。蘇代は斉湣王に
「甘茂は賢人であります。秦が上卿の位を与え、宰相に任じようというのに、甘茂は王の臣となることを喜んでこれを辞退しました。
王は何をもって彼を礼遇なさいますか」と言った。そこで湣王は甘茂に上卿の位を与えた。
B.C.301秦昭襄王がその賢を聞いて、弟の涇陽君を斉に人質として出し、
孟嘗君に会見を求めた。
孟嘗君はこれに応じて秦に行こうとしたが、蘇代がこれを諌めたので、孟嘗君は秦行きをとりやめた。
B.C.298韓の太子嬰が没す。韓の公子咎と公子蟣蝨が、太子の位を争った。
蟣蝨は楚に人質となっていたので、蘇代は韓咎(公子咎とは別人)に「楚王は蟣蝨を韓に入れることにすこぶる熱心です。
あなたはどうして楚王に万戸の都邑を雍氏のかたわらに築かせ、雍氏を包囲させないのですか。もし築けば、韓はかならず出兵して雍氏を救おうとし、
あなたはかならずその軍の将軍となりましょう。
もし蟣蝨を奉じてこれを韓に入れれば、彼は必ずあなたを徳とし、あなたを奉ずるに相違ありません」と言った。
韓咎はそのはかりごとに従い、雍氏を包囲した。
しかし韓が楚と友好を結んだため、楚は包囲を解いた。
また蘇代は秦の太后の弟羋戎に「韓の公叔と公子咎は、秦や楚が蟣蝨を韓に送り込むことを恐れています。
あなたはどうして韓のために、人質の蟣蝨を韓に還すよう楚に要求なさらないのですか。楚王がこれを聴き入れて、人質を韓に返すなら、
韓は必ず秦・楚と連合するでしょう。また聴き入れられなければ、韓は楚に恨みを持ち、斉・魏を味方にして楚を囲むなら、楚はかならずあなたを尊重しましょう」と言った。
結局蟣蝨は韓に帰り、太子となることはできなかった。
B.C.294秦の亡臣呂礼が斉の宰相となり、蘇代を苦しめようとした。蘇代は孟嘗君に「呂礼が重んじられば、斉は秦と連合し、
かならず君は軽んじられましょう。君には、斉と秦の連合を妨げ、諸侯と結ぶようにさせるべきです」と言った。
孟嘗君は呂礼に害されるのを恐れていたので、秦の宰相魏冄に書を送って、斉を攻めさせ、呂礼を失脚させた。
B.C.288斉湣王は東帝を称し、秦昭襄王は西帝を称した。
蘇代は燕から斉に入り、章華宮の東門で湣王に謁見した。
「天下に二人の帝王が立った場合、天下が斉と秦、どちらを尊ぶと思し召されますか」
「秦であろう」
「帝号を捨てれば、天下は斉を愛するでしょうか」
「斉を愛して秦を憎むだろう」
「二人の帝王が立ち、約束して趙を討つのと、桀宋を討つのと、どちらが利益でしょう」
「桀宋を討つほうが利益だろう」
「それゆえ王には帝号を捨てて、天下の人心を収め、桀宋をお討ちください。そうすれば国は尊ばれ、名声は高まりましょう」
かくて斉は帝号を捨て去った。
B.C.284斉が宋を討ち、宋が危急に瀕した。蘇代は燕昭王に書信を置くって「王はなぜ遊説の士に、秦王を説得させ、秦を味方にして斉を討たないのですか。
秦を引き入れるのは厚い交わりであり、斉を討つのは正しい利得でありますし、これは聖王の事業です」と言った。
昭王は「燕として斉に復讐しようとするなら、蘇氏以外に適任者はいない」と言って蘇代を召し寄せ、ふたたび燕で厚遇された。燕はついに斉を破った。
燕は諸侯に合従を約定させようとし、あるものは合従し、あるものは合従しなかった。しかし天下はこれによって蘇氏の合従を重視した。
B.C.274魏は秦に趙・韓とともに破られ、15万の兵を失い、将軍芒卯は敗走する。
段干子は秦に南陽を与えて和睦するよう安釐王に請うた。
蘇代は安釐王に「印璽を欲しがっているのは段干子で、土地を欲しがっているのは秦です。いま王は土地を欲しがっているものに印璽を扱わせ、
印璽を欲しがっているものに、土地の割譲をまかせられようとしています。これでは魏の土地がなくなるまで交渉がやむことはないでしょう。
秦に土地を与えるのは、ちょうど薪を抱いて火を消そうとするようなもの、薪が燃え尽きてしまわなければ、火は消えません」と言った。
しかし安釐王は「それはそのとおりだが、もう交渉は進んでおり改められないのだ」と言った。
蘇代は「将棋の梟の駒は他の駒を食おうと思うときは食い、食いたくなければ食いません。いま王はそのようにおっしゃられますが、これは何と王の智恵の用い方が、
梟の用い方に及ばないのでしょうか」と言った。結局、魏は秦と和睦した。
また秦は趙に援軍を求め斉を討とうとした。斉襄王は恐れて蘇代に命じて魏冄に書信を送って
「わたしは秦が斉を討たないと斉王に断言しました。第一に、斉を討って趙を肥やすことになりますし、第二に弱小の斉を討つのに晋・楚は疲れないこと、第三に秦が斉を討てば、
斉は恐れて晋・楚につくこと、第四に晋・楚が強大になること、第五に斉と秦が疲弊することがあげられるからですと」と言った。
そこで魏冄は兵を引いて帰った。
B.C.259韓・趙は秦の進撃をおそれ、蘇代に命じて秦の宰相范雎に説いた。
「武安君(白起)は馬服君の子(趙括)を虜にせられましたか」
「いかにも」
「やがて邯鄲を包囲されますか」
「いかにも」
「武安君の功は周公、召公、呂望も及びません。
趙が滅亡すれば武安君は三公でしょう。そのとき君は、その下風に立つことが我慢で来ましょうか。またこれ以上君が得る土地もなくなります。
ここは韓・趙の地を割き取るだけにし、これ以上武安君の功績を大きくしないのが、よいと思います」
范雎はこれに従って昭襄王に「秦の兵は戦いに疲れております。韓・趙が地を割いて、和を講じるのを許し、
わが士卒を休息させてやりたいと存じます」と進言したので、これを聴き入れ韓の垣雍と趙の六城を取って講和した。
蘇代は天寿を全うして没し、その名は諸侯に知られた。
- 祖丁(ソテイ)【皇帝】
- 商王朝15代王。祖辛の子。
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