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列伝ソ


楚(ソ)【王】
周公。
B.C.580周公楚は周恵王襄王の一族が権力を得ているのをにくみ、 また卿士伯子との政権争いに負けたため、周を出奔しようと晋の陽樊まで行った。 すると周簡王が劉子を遣わしたので、周公楚は周の鄄邑で盟いを立てて周に帰った。
しかし周公楚は3日経つと、晋に出奔した。
祖伊(ソイ)【文官】
商王朝の臣。
周の西伯が飢の国を討つことを聞き、紂王に「天はもはやわが商に降した天命を終えようとしています。 いまわが民で誰も商の滅びるのを願わないものはありません。王はどうなさるおつもりですか」と言った。紂王が「わしが生まれたのも天の命があるからではないか」 と答えたので、祖伊は引き退って「紂王はもう諌めてもだめだ」と落胆した。
祖乙(ソイツ)【皇帝】
商王朝12代王。仲丁の子。
刑に遷都し、商王朝を復興させる。
祭法のうえで、4代目大甲とともに宗・祖の関係にあるとされ、よく祭られた。
相(ソウ)【皇帝】
夏王朝6代王。中康の子。
相は幼少で即位し、荒淫で政治を顧みなかったので、夏王朝は衰微した。有窮の后羿が夏の民を率いて夏王朝を乗っ取り、 相は后羿に殺された。
宋(ソウ)【文官】
燕の臣。〜B.C.555。
恵公に愛され、恵公が諸大夫をしりぞけようとしたため、諸大夫に殺される。
曹(ソウ)【武官】
衛の楽人。
B.C.564衛献公の命で、妾に琴を教えた。上達しないので曹が妾を鞭打ったところ、妾に讒言され、献公に300回鞭打たれた。 曹はこれを恨みに思った。
B.C.559衛献公と孫蒯の宴の席で、曹は孫氏に事を起こさせて恨みを晴らそうとした。そこで曹は自分に歌わせてほしいと申し出て「巧言」 をうたった。孫蒯はこれを聴くと大いに恐れ、孫文子に報告した。はたして孫文子は衛献公を討ち、衛献公は出奔した。
ソウ(ソウ)【公子】
周王朝の王子。〜B.C.520。
B.C.520、6月20日、周王室の内乱で王子ソウは諸王子とともに単穆公を追撃したが、逆に殺された。
荘(ソウ)【公子】
秦の公子。庶長。李君。〜B.C.305。
B.C.307武王が没し、その弟たちが王位を争った時、ただ魏冄だけが支援して、 昭襄王を立てた。
B.C.305公子荘は大臣・諸侯・公子らと魏冄に対して反乱を起こすが、鎮圧されて皆殺しにされる。
竈(ソウ)【武官】
秦の客卿。
B.C.271斉を討ち、剛・寿を取る。
ソウ(ソウ)【武官】
韓の臣。
B.C.318秦に脩魚で破られ、申差とともに観沢で捕らえられる。
倉(ソウ)【公子】
越の公子。
B.C.518冬、楚平王が呉を討ったため、公子倉は楚平王に舟を贈り、寿夢とともに軍を率いて楚平王に従った。
臧(ゾウ)【公子】
鄭の公子。鄭文公の子。母は陳嬀。〜B.C.636。
文公はの夫人であった陳嬀と密通して臧を生んだ。
公子臧は罪を犯したため国を去って宋に亡命した。
B.C.636、8月、公子臧は鷸(シギ)の羽毛でつくった冠を好んでいたが、鄭文公はこれを憎んだ。 そのため公子臧は賊におびき出されて、陳と宋の国境で殺された。
臧哀伯(ゾウアイハク)【文官】
魯の臣。姓は臧孫、名は達。臧僖伯の子。
B.C.710、4月、魯が宋から賄賂として郜の国で造られた大鼎を受けた。 臧哀伯はそれを諌めて「君は無道の逆臣華督父を援助し、その賄賂である大鼎を大廟に奉納して、 百官に明示している。これでは百官が君にならって悪事をはたらいても、どうして責めることができましょう」と言ったが、 桓公は聴き入れなかった。
周の内史はこれを聞いて「臧孫達(哀伯)はその子孫が魯で栄えるであろう。君が非礼を行ったので、君主の務めるべき徳を以って君を諌めることを怠らなかった」と言って、 ほめたたえた。
B.C.683秋、宋に洪水があった。魯荘公臧文仲を遣わしてお見舞いをさせ 「天は長雨を降らせて祭りに供える穀物を損なったとのこと。どうしてお見舞いせずにおられましょうか」と言った。
湣公は「わたしが不敬で政治をつつしまないばかりに、天は災害を降し、その上、君にもご心配をかけました。 仰せのほどありがたく存じます」と答えた。これはすべて公子禦説が助言したものであった。 臧哀伯はこれを聞いて「この人は君になれる人である。民を憂える心を持っている」と言った。
宋遺(ソウイ)【武官】
楚の臣。
B.C.313張儀が楚懐王と約束をまだ履行しなかったため、 宋遺は懐王に命じられて斉に行き、斉王を侮辱した。そのため斉王は大いに怒り、斉は楚との盟約を破棄して、秦と結んでしまった。
臧為(ゾウイ)【文官】
魯の臣。臧宣叔の子。
臧宣叔は鋳の国から夫人を迎えて臧賈と臧為を生んだ。その夫人が没したので、その兄弟の子を後妻とし、臧武仲を生んだ。 臧武仲は公宮で育てられ、穆姜に愛されたため臧宣叔の後継ぎに立てられた。 そこで臧賈と臧為はともに家を出て母の里である鋳に住んだ。
B.C.550、11月、臧武仲が季孫氏に攻められて邾に出奔した。臧武仲は邾から人を遣わして臧賈に、魯に入って家を継ぐよう告げた。 臧賈は臧為を魯に入れてお願いしたので魯は臧為を立てた。
荘王(周)(ソウオウ)【皇帝】
周王朝15代王。名は佗。桓王の子。〜B.C.681。
B.C.697即位する。
B.C.694周桓公が荘王を弑して、公子を擁立しようとした。 それを知った辛伯が荘王に告げたため、荘王は辛伯とともに桓公を殺した。
B.C.693夏、荘王は王女を斉に嫁がせるに際し、同姓の魯侯に婚礼をつかさどらせるため、単伯に命じて王姫を魯に送届けた。
冬、荘王は栄叔を遣わして魯桓公に追命して位一等を進め、その徳をたたえた。
B.C.691、5月、桓王を葬る。
荘王(楚)(ソウオウ)【王】
楚王(6(22)代目)。名は侶、旅とも書く。穆王の子。〜B.C.591。
B.C.613潘崇と令尹成嘉は舒蓼などの小国を討つため、 公子闘克に留守を命じた。しかし公子燮は闘克と謀って、 潘崇と成嘉に罪を得させてその家財を横領した。さらに闘克と公子燮は郢に城壁を築き、刺客を使って成嘉を殺そうとしたが、成功しなかった。
8月、闘克と公子燮は共に荘王を奉じて郢を出て商密に行こうとしたが、 廬の大夫戢黎叔麇は彼らをだまして殺した。
荘王は即位してから3年間、日夜享楽して「あえて諌める者あらば、死刑に処して許さず」と布告した。
伍挙が諌めようとして「謎をかけさしていただきとうございます」と言い「鳥が丘にいて、三年の間飛ばず鳴かずでした。 これは何という鳥でしょうか」と言った。荘王は「3年の間、飛ばないが、飛べば天まで昇るだろう。3年の間、鳴かないが、鳴けば人を驚かすだろう。挙よ、引き下がれ。 わしは、わかっておるのじゃ」と言った。しかし、幾月たっても、王の淫楽は募るばかりであった。
B.C.611大夫蘇従が荘王を諌めた。荘王が「そちはあの布告を聞いていないのか」と言うと、従は「わが身を殺しても、 君を賢明にしたいのが、わたくしの願いです」と言った。
そこで荘王は淫楽をやめて国政に身を入れ、誅殺するもの数百人、登用するもの数百人、伍挙と蘇従に命じて政治にあたらせ、人民にすこぶる喜ばれた。
楚はたいへんな凶作であった。それにつけこんで戎が楚の西南を攻略し、阜山まで攻め入り、大林に陣をはった。さらに楚の東南に侵略して陽丘までも攻め入り、 訾枝を侵略した。また楚の属国であった庸も多くの蛮夷を率いて楚に背き、麋は百濮を率いて楚の選に集結して楚を討とうとした。
この時、楚は中国の諸侯の侵入に備えて、申と息の北門をとざしていた。群臣は都を阪高という険要の地に遷そうと相談したが、 蔿賈が遷都よりも庸を討つほうが良いと進言した。そこで荘王は軍を出したところ、15日にして百濮は退却した。
庸討伐の楚軍は飢えたが、庸を攻めた。これを見た蛮夷たちは楚軍の優勢を恐れて荘王に降服して盟いを結んだ。ついに荘王は秦と巴と協力して庸を滅ぼした。
B.C.608陳が楚に背いて晋を盟主と仰いだ。
秋、荘王は陳に攻め入り、勢いに乗じて宋にまで攻め入って兵車500乗を得た。
霊公趙盾に軍を率いさせて陳・宋の二国を助け、鄭の棐林で会合して鄭を討った。 荘王は蔿賈に命じて鄭を助け、晋軍と鄭の北林で戦い、晋の解揚を捕えた。そのため晋軍は引き揚げた。
B.C.607晋の趙盾は宋文公・陳霊公・ 衛成公とともに鄭を討ち、大棘の役の報復をした。 荘王は令尹闘椒に命じて鄭に陣営を敷いて晋軍が来るのを待った。趙盾はこれを見て「彼の一族は楚で盛んである。 やがて自滅するであろう。しばらく思うままにおごらせておこう」と言って、軍を引き揚げて帰国した。
B.C.606夏、鄭が晋についたため、荘王は鄭を討った。
荘王は陸渾の戎を討ち、洛陽まで行き、兵を郊外に連ねて、周に威勢を示した。 周定王は大夫王孫満に命じて荘王をねぎらわせた。 荘王が周の王室の”鼎の軽重”を問うた。
王孫満「周王が位を保つのは、徳にあって鼎にあるのではありません」
荘王「そなたは九鼎をたのみにしてはならない。楚国では、鉾先の折れた端を集めても、九鼎を作ることができるのじゃ」
王孫満「それは天の命ずるところで、周徳が衰えたとはいえ、天命はまだ改まりません。鼎の軽重は、まだ問うべき時期ではありません」
そこで荘王は帰還した。
B.C.605令尹闘椒が蔿賈をにくんで、若敖氏の一族を率いて蔿賈を轑陽に閉じ込めて殺し、勢いに乗じて烝野にたてこもって荘王を攻めようとした。 荘王は文王成王穆王の公子たちを人質に入れようと申し出たが、闘椒は受け付けずに漳水のほとりに軍を進めた。
7月11日、荘王は闘椒と皐滸で戦った。闘椒は荘王を射ると荘王の前にすえてある台の下のどらに突き刺さった。さらに第二の矢を射ると、車蓋の頂上を突き通した。 荘王の軍は恐れて退却したが、荘王は「文王が息を攻めて3本の矢を手に入れ、伯棼(闘椒)はその2本を盗んだが、今やその矢を射つくしてしまった。 もう心配はない」と言い、太鼓を鳴らして進撃した。そして闘椒を討ち破って若敖氏の一族を討ち滅ぼし、さらに闘氏と成氏も滅ぼした。
このとき子文の孫の克黄は斉に使いしていたが、 帰国して任務を報告してから自ら申し出て司敗の囚人となった。荘王は子文の功績を思い「子文のような功臣の家を絶やしておいて、 どうしてよいことをせよと臣下に勧めることができようか」と言って、克黄を旧官に復職させ、生と改名させた。
冬、荘王は鄭が楚に服従しなかったので、これを討った。
B.C.604冬、荘王は鄭を討った。
B.C.603冬、荘王は鄭を討ち、和睦して引き揚げた。
B.C.601夏、群舒が楚に背いたので、荘王はその中の舒蓼を討って滅ぼした。
荘王は攻め取った領地の国境を正確に見届け、滑水のほとりに領土をひろげ、呉と越と同盟を結んで引き揚げた。
冬、陳が晋と和睦したので、荘王は陳を討ち、和平して引き揚げた。
B.C.600冬、厲の役(B.C.603)で鄭に苦杯をなめさせられた報復のため、荘王は鄭を討った。しかし楚軍は鄭の柳棼で討ち破られた。
B.C.599夏、荘王は鄭と和睦した。
冬、鄭が晋についたため、荘王は鄭を討った。晋の士会が鄭を救援したため、楚軍は潁水の北で撃退された。
B.C.598春、荘王は鄭を討って櫟まで攻め入った。鄭は楚に服従した。
夏、荘王は陳霊公と鄭襄公と陳の辰陵で盟約した。
左尹子重が宋に攻め入ったので、荘王は楚のエンで帰りを待った。
荘王は令尹孫叔敖に命じて沂に城壁を築いた。
陳の夏徴舒が主君の陳霊公を弑した。
冬、荘王は夏徴舒を誅することを名目に諸侯の軍を率いて陳を討った。荘王は陳人に「動揺されるな。ただ少西氏(夏徴舒)を討とうとするだけである」と言って、 ただちに陳に入って夏徴舒を殺し、その屍を都の城門の栗門で車裂きにした。さらに荘王は陳を滅ぼして楚の県とした。
しかし申叔時に諌められたため、荘王は霊公の太子を晋から迎え、 これを立ててまた陳を復興させた。また孔寧儀行父を陳に戻し、 陳の郷ごとにひとりずつを連れて帰って楚に住まわせ、そこを夏州と呼んだ。
鄭が楚に背いて晋についた。
B.C.597春、荘王は離反して晋についた鄭を攻めて、17日に及んだ。鄭人は楚との和睦を占うと凶であったので、 祖廟で祖国の滅亡を哭泣して楚に玉砕することを占うと吉であった。鄭人は大いに哭泣し、城壁の上で守っていた兵士はみなその場で哭泣した。 これを見た荘王は、その窮状をあわれんで軍を撤退させた。
しかし鄭人が城壁の修繕にかかったので、荘王は再び進撃して都を包囲し、3ヶ月で攻め落とした。
鄭襄公が肌を脱ぎ羊を引いて出迎え、鄭を許すよう懇願した。左右の臣は「王よ、許してはなりません。国を取り上げましょう」と言ったが、 荘王は「鄭君はよく人にへりくだることができる。必ずや偽りのない真心をもって民を治めるだろう。どうしてその祭祀を絶つことができよう」と言って、 自分で旗を手にとり左右に軍を指揮し30里退却して、鄭との和睦を許した。
そこで大夫潘尫に命じて鄭と盟約して、鄭襄公の弟子良が楚の人質となった。
6月、晋が鄭の救援にやってきたので、荘王は軍を北方に進めて鄭のエンに宿営した。荘王は馬に黄河の水を飲ませて帰るつもりであったが、 晋軍がすでに黄河を渡り終えたと聞いて、すぐに引き揚げようとした。伍参が「晋の政治を執っている者はまだ就任が浅く、 命令が実行されていません。晋は必ず負けます」と進言した。孫叔敖はこれに反対して車を南に向けて引き揚げようとした。荘王は悩んだが、 孫叔敖に告げて車の向きを北に進ませ、鄭の管に軍を駐屯させて晋軍を待った。
荘王は少寧を遣わして和睦を申し入れた。晋の士会はこれを受諾したが、 晋の中軍の佐先縠趙括に命じて楚の使者を追いかけて訂正し、戦をすると伝えてきた。
しかし荘王はまた和睦することを求めたので、晋も承諾して盟いの日も決定した。
しかし許伯が楽伯の御者となり、摂叔が右を務めて晋に戦いを挑んで晋兵を殺して引き返した。晋軍はこれを追撃したが、とりやめた。
今度は晋の魏錡が合戦を申し入れて引き返した。潘党はこれを追撃したが逃がしてやった。
晋の魏錡と趙旃が夜に楚の陣地に攻め入ってきた。荘王は兵車30乗を編成し、左右の2隊に分けた。 右隊は鶏が鳴いて夜が明けると同時に車に馬をつけて警戒につき、正午になって馬をはずして交代するようにさせた。左隊はそのあとをついで警戒にあたり、 日が沈んでから馬をはずすことにした。許偃が右の部隊の御者となり、 養由基がその右役を務め、彭名が左の部隊の御者となり、 屈蕩がその右役を務めた。
そして荘王は左の部隊の車に乗って趙旃を追撃した。晋軍は魏錡と趙旃の迎えに出てきていたが、潘党はその砂煙を望見して、早馬で晋の援軍のことを知らせた。 楚軍は荘王が孤立することを恐れてただちに出陣し、晋軍に攻めかかった。
晋の中軍荀林父はあわててなすすべがなく退却を命じた。晋軍は右に移動したが、上軍だけは動かなかった。 工尹は右翼の軍を率いて晋の下軍を追撃した。
一方、荘王は唐狡蔡鳩居に命じて唐恵侯に 「あなたのお力にすがって楚軍を救いたい」と申し入れさせた。また荘王は潘党に命じて遊撃の40乗を率いて恵侯の指揮下に入って左翼の軍となり、晋の上軍を攻撃させた。 上軍は退却したが、楚軍はその殿の士会を討ち破ることはできなかった。
荘王は右の部隊の車を見て乗り換えようとしたが、屈蕩が「君はこの兵車で戦を始められたのですから、最後までお乗りください」と諌めたので、 そのまま左の車に乗った。これより以後、楚の兵車は左を上位として先にたてることになった。
熊負羈が晋の智罃を生け捕りにしたが、 連尹襄老が射殺され、公子穀臣が捕虜となった。
夕暮れになって楚軍は邲に陣をかまえた。晋の敗残兵は陣立てすることもできず、夜に黄河を渡って退却した。(邲の戦い)
6月14日、楚の輜重が邲に到着したので、荘王は軍を進めて衡雍に至った。
潘党が「晋兵の屍を収め、大いなる見せしめの台を作ったらよろしいでしょう」と進言したが荘王は「お前にわかることではない。 文字からいって戈を止めて用いないというのが武という字だ。周武王は商に勝つと干や戈を収めたという。
武には七つの徳があるというが、わしには一つの徳もない。いま晋は罪とすべき何ものもなく、さらに晋の民はみな忠をつくして君の命令に生命をささげたのである。 どうしてそのような物を作って得意がろうか」と言って、黄河の神を祭り、先君を祭る廟を作って戦勝を報告して楚に引き揚げた。
秋、鄭襄公と許昭公が楚に来て服従のあいさつをした。
冬、荘王は蕭を攻めた。宋の華椒が蔡の兵を率いて蕭を救援した。 熊相宜僚と公子が蕭に捕えられた。荘王は「退却するので殺さないでくれ」と申し入れたが、 蕭は彼らを殺した。荘王は立腹してただちに蕭を攻め囲み、これを滅ぼした。
B.C.596夏、宋が蕭を助けたため、荘王は宋を討った。
B.C.595荘王は宋に攻め込む口実をつくろうとして、申舟に命じて斉に使いさせ、 宋を通る時に通行を願う挨拶をしないで通るよう命令した。
また一方で荘王は公子を使者として晋に聘問させたが、鄭を通るときに通行の挨拶をしないで通るように命じて、 鄭を怒らせて攻撃する口実をつくろうとした。
申舟は宋に恨まれていたので「宋は事理に暗いので、きっと殺されます」と言った。
荘王は「もしそうなったら、宋を討って報復してやろう」と言った。
そこで申舟は子の申犀を荘王に託して出発し、はたして宋人に捕らえられ、そこで殺された。これを聞いた荘王は、 立腹のあまりくつもはかず剣も帯びずに飛び出して宋を討った。
9月、荘王は宋都を包囲した。
B.C.594春、荘王は魯の公孫帰父と宋で会合した。
鄭人が晋の解揚を捕えて楚に送った。楚は解揚に手厚く賄賂をして、晋は宋を助けにこないと言わせて、早く宋を下そうとした。 解揚は三度拒否した後、いつわってこれを承諾した。解揚は車上に設けられた望櫓に登り、約束に背いて晋君から言いつかったことばを叫び「晋は宋を救いにきます。 宋はどんな危急に迫られても、慎重に構えて楚に降服しないように。晋の兵はもうすぐ到着しよう」と言った。荘王は大いに怒って彼を殺そうとした。
解揚「わが君の命を奉じて出たからには、たとえわが身は死んでもその命を失墜することはいたしませぬ」
荘王「おまえがわしに約束しながら、たちまちこれに背いてどこに信義があるのか」
解揚「王に約束したのは、それでわが君の命を成し遂げたいと思ったからです」
解揚は死刑に臨んで楚軍の士卒たちに「人の臣下たるものは、忠義を尽くして殺された者のことを忘れてはならない」と言った。荘王は解揚を許して国に帰らせた。
5月、荘王は宋を降すことが出来ないので帰国しようとした。すると申犀が荘王の馬前にぬかづいて 「わが父は一命を棄てることを承知で王の命を果たした。しかるに王は父との約束を破られて帰るのですか」と言ったので、荘王は返すことばもなかった。
そこで申叔時は「宋の郊外に家を作り、引き下がって耕作して持久の計を取るならば、宋は恐れてきっと命令に従うでしょう」 と進言したので、荘王はこれに従った。
宋人は恐れて華元に命じて、夜にこっそりと楚の陣営に忍び込ませて子反に懇願した。
子反は荘王に報告したので、荘王は「城内はどういうありさまか」と問うと子反は「人の骨を砕いて薪にして炊き、子と子を取り換えて食っているそうです」と言うと 「まことに、さもあろう。わが軍にしても、2日分の兵糧しかないのだから」といい、戦をやめて去った。
荘王は国を合併させること26、地を開くこと3000里であった。
B.C.591、7月8日、没す。
荘賈(ソウカ)【武官】
斉の臣。〜B.C.548。
B.C.548司馬穰苴とともに出陣して燕・晋を討つこととなった。
荘賈は平素から驕慢であったが、この時も目付け役である自分は急ぐに及ばないと考え、親戚友人と酒を飲んだ。
司馬穰苴は「どうして刻限におくれたのか」と問うと「ふつつかなことであった。大夫、親戚らが送別してくれたのだ」と詫びた。
司馬穰苴は「将軍たる者は、出陣の命を受けたその日から、家を忘れ、軍に臨んで軍令を発すれば肉親を忘れ、撥をとって軍鼓を打つこと急なれば身を忘れるものである。
いま、敵が深く侵入し、国君は席についても安眠できず、民の命はすべて国君の一身にかかっている。このようなときに送別などとはなにごとか」と言い、 すぐに軍正を招いて問うた。
「軍法で刻限に遅れたときの罪はどうか」
「斬罪であります」
荘賈は恐れて、従者に命じて景公に告げさせたが、それが帰らないうちに、司馬穰苴は荘賈を斬った。
そのため士卒はみな震え上がった。
繒賀(ソウガ)【武官】
鄭の司城。
B.C.628鄭文公が没すると、鄭の内情を秦に売った。そのため秦は鄭を討った。
臧賈(ゾウカ)【武官】
魯の臣。臧宣叔の子。
臧宣叔は鋳の国から夫人を迎えて臧賈と臧為を生んだ。その夫人が没したので、その兄弟の子を後妻とし、臧武仲を生んだ。 臧武仲は公宮で育てられ、穆姜に愛されたため臧宣叔の後継ぎに立てられた。 そこで臧賈と臧為はともに家を出て母の里である鋳に住んだ。
B.C.556秋、斉が魯の北境を討って高厚が臧武仲の守っている防を包囲した。 そこで魯軍は臧武仲を救い出そうとして陽関から旅松まで出陣した。 臧賈は叔梁紇臧疇とともに夜に300の武装兵を率いて斉軍に攻め入り、 臧武仲を救い出した。
B.C.550、11月、臧武仲が季孫氏に攻められて邾に出奔した。臧武仲は邾から人を遣わして臧賈に、魯に入って家を継ぐよう告げた。 臧賈は臧為を魯に入れてお願いしたので魯は臧為を立てた。
曹開(ソウカイ)【武官】
斉の臣。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、曹開は斉荘公の御者となった。
臧会(ゾウカイ)【武官】
魯の臣。臧昭伯の従兄。
臧会は臧昭伯が晋に行って留守のときに、宝としていた僂句という亀の甲を盗んでうらなったところ、偽りの心で仕えるのが吉であると出た。 そこで臧会は臧昭伯に対して偽りの心で仕えた。臧昭伯に殺されそうになったため、臧会は郈に逃げた。 郈の代官鮑假は臧会を市場の税を取りてたる役人に任命した。臧会はやがて市税の計算簿をたくさん季氏へ送り届けた。
臧氏は5人の家臣に桐汝という村里で臧会を待ち伏せさせたため、臧会は季平子の家に逃げた。 臧氏が臧会を中門の外でつかまえたため、季平子は立腹して臧氏の家老を捕らえた。そのため臧氏は季平子を恨んだ。
B.C.517、9月、臧昭伯が魯昭公とともに国外に出たため、季平子は臧会を立てて臧氏の家を継がせた。 臧会は「僂句はわたしにうそを言わなかった」と言った。
(『史記』では臧会は臧昭伯の弟になっている)
宋華子(ソウカシ)【女官】
桓公の夫人。雍を生む。
倉葛(ソウカツ)【文官】
陽の人。
B.C.635周襄王は晋文公に陽樊・温・原・欑茅の地を賜ったが、陽は晋に帰属しなかった。 そこで文公は陽を包囲した。倉葛は文公に大声で話しかけた「陽はまだ晋君の政になれないだけのこと、 どうして軍を派遣されるほどのことがありましょう。暴虐をなさらなければ晋に服従しないことがありましょうか」
文公はこれを聞いて「これは君子の言葉である」と言って、陽の民を解放した。
臧僖伯(ゾウキハク)【公子】
魯の公子。名は彄、字は子臧。孝公の子。〜B.C.718。
B.C.718春、魯隠公が棠に出かけて魚を取る漁を見物しようとした。臧僖伯は「およそ山林や川沢から取れる物は、 いやしい下僕どものやる仕事であり、君がそれを監督するべきではありません」と諌めたが、隠公は「わたしは領地を巡行しようとするのだ」と言って棠に出かけた。
12月30日、臧僖伯は没した。隠公は「叔父は私を恨んでおられたが、私は決してその忠誠を忘れません」と言い、位一等をのぼらせて葬った。
曹圉(ソウギョ)【神】
昌若の子。
荘姜(ソウキョウ)【女官】
荘公の夫人。斉の太子得臣の妹。
B.C.753荘公にとつぐ。美貌であったが、子ができなかったため荘公の寵愛を失った。
衛の人はこれをあわれんで、碩人(優れた人)の詩をつくった。
そこで荘姜は戴嬀の生んだ完をひきとって自分の子として、太子に立てて身の安泰を図ろうとした。
B.C.734完は即位する。(桓公)
荘蹻(ソウキョウ)【将軍】
楚の将軍。楚荘王の後裔。
威王のとき、兵を率いて長江の流れに沿って上り、巴郡・黔中以西を攻略し、滇池を平定し、楚の属地とした。
帰って報告しようとしたところ、秦が楚の巴郡・黔中郡を攻略したため、道がふさがれて帰国できなかった。
よって荘蹻は部下を引き連れて、滇の地に王となり、服装を変えて土地の風俗に従い、酋長となった。
宋玉(ソウギョク)【文官】
楚の臣。屈原の弟子。
文辞を好み、賦の作者として名声があった。
懐王の小臣となり、頃襄王の時には大夫となる。
荘菫(ソウキン)【武官】
宋の臣。
B.C.521、11月7日、晋・曹・斉・衛の連合軍は宋軍とともに宋の赭丘で華氏と戦い、向宜は公子の右役となった。
宗區(ソウク)【文官】
虢の臣。大宗。名は區。
B.C.662虢の莘に神が降りてきて、6ヶ月も留まった。
虢公は祝応、宗區、史嚚に命じて神を祭らせた。
宋銒(ソウケイ)
宋牼
曹劌(ソウケイ)
曹沫
曾元(ソウゲン)【在野】
曾参の子。
臧堅(ゾウケン)【武官】
魯の臣。〜B.C.556。
B.C.556秋、斉が魯の北境を討って高厚臧武仲の守っている防を包囲した。 斉軍は防の囲みを解いて引き揚げたが、この戦いで臧堅は捕虜となった。 斉霊公夙沙衛に命じて臧堅を慰問させて「自殺などなさるな」と伝言した。 臧堅は頭を地にすりつけて「ありがたいお言葉をいただきました。なんと刑罰あがりの者を遣わして士たるわたしをお見舞いさせてくださいました」と言って、 くいでその傷をえぐって果てた。
桑扈(ソウコ)【在野】
古代の隠士。
『論語』には子桑伯子、『荘子』には子桑戸という。
野蛮人のような無作法な風をしていて、身を隠していた。世の無道を嘆いて世を棄てたのであるという。
荘公(鄭)(ソウコウ)【王】
鄭公(3代目)。名は寤生。武公の子。母は武姜。〜B.C.701。
寤生とは、足から先に生まれる逆子のことで、そのことから武姜から愛されなかった。
B.C.743母の武姜は弟のに制という要害の地を与えて欲しいと願った。荘公は「制は要害の地で、 むかし虢叔がそれをたのんで身を滅ぼした所ですから、かえってよろしくありません。 そのほかなら、どこでも仰せに従います」と言ったので、京を与えて封じた。
祭仲「京の城はあまりに広大で、おきてにかなっておりません。わが君にはその圧迫にたえられなくなるでしょう」
荘公「母上が望んでおられるのです。しかたのないことです」
祭仲「姜氏はこれで満足されないでしょう。今のうちに早く適当な処置をするべきです」
荘公「不義を重ねていけば、自分から倒れるでしょう。しばらく待ちなさい」
やがて段は鄭の西境と北境の2つの地方の人々を買収して自分に従わせるようにした。
公子「民が二心を懐けば、国は存立できなくなります。わが君はどうなさるおつもりか。大叔(段)に国を譲ろうとお考えなら、 私は大叔に仕えましょう。そうでないならば大叔を除きなさい」
荘公「除こうとしなくても、やがて自分から禍を招くであろう」
やがて段は鄭の西境と北境を自分の領地とし、さらに鄭の廩延の地までも勢力を伸ばしてきた。
公子呂「今こそ大叔を討つべきです。領地が広大になれば、民衆の信望を得るようになるでしょう」
荘公「不義な者に大衆はつかない。領土を広げても、必ず自滅するであろう」
B.C.722段はさらに城壁をかため、兵糧を集め、軍や兵車をととのえて鄭の都を襲撃しようとし、武姜がその手引きをする計画を立てた。
荘公はこれを聞くと「今こそ大叔を討つべきである」と言って、公子呂に兵車200台を率いて京を討たせた。
京の民は段に背いたため、段の軍は瓦解し、段は鄢に出奔した。
荘公は進撃して段を鄢の地で破った。
5月22日、段は共の国に出奔した。
荘公は武姜が段に内応したので、これを城潁に移して「あの世へ行ってからでなければ、ふたたびお目にかかりません」と誓った。
ある日、荘公は考叔という者の献上物を受け取った。公がこれに食物を賜うと、考叔は「わたくしには母があります。 わが君より賜ったこの食物を母に食べさせたいと存じます」と言った。荘公は「わしも母を思うて切ないが、誓いに背くのがいやだ。どうしたらよいだろう」と問うと、 考叔は「地中を掘り抜いて黄泉に行き、そこでお会いなさればよろしいでしょう」と答えた。荘公はそのことばに従って母に会った。
10月、段の子公孫滑が衛に出奔して救いを求め、衛は鄭を討って廩延の地を取った。
荘公は周と虢の軍を率いて衛の南境に攻め入り、援軍を邾に求め、邾とその援軍である魯の公子と翼で同盟を結んだ。
B.C.721、12月、前年に衛が廩延を攻略した報復として、衛を討つ。
B.C.720、3月25日、周の平王が没し、 代わって立った桓王は鄭との誓いに背いて虢公に周の政権を与えようとしたため、荘公はその喪中に周室を攻撃することとした。
4月、荘公は周を攻め、温の麦を刈り取る。
秋、荘公は再び成周に軍を進めて、その地の粟を刈り取った。
また宋の公子馮が出奔してきた。
冬、荘公は斉釐公と石門で盟約を結ぶ。
B.C.719衛州吁が前年の報復として、宋・陳・蔡とともに攻めてきて、都の東門を包囲された。 荘公は陳桓公に和睦を申し入れたが、桓公は「今わが国が争うことのできない国は、宋と衛である。 鄭など何ができようか」と言って聴き入れなかった。しかし鄭都は5日経っても落とされなかったので、連合軍は引き返した。(東門の役)
秋、衛の州吁は宋・魯・陳・蔡とともに再び鄭を討ち、鄭の歩兵は敗れて、禾を刈り取られた。
B.C.718、4月、先年の東門の役の報復として衛を討った。衛は南燕の軍を率いてこれに対応した。祭仲・原繁泄駕が鄭の三軍を率いて南燕軍の前方に陣し、 公子曼伯子元に命じてこっそりと制の軍を率いて南燕の背後に陣をとらせた。
南燕軍は鄭の三軍を恐れて、制の軍に気がつかなかった。
6月、曼伯と子元は南燕軍を北制で撃ち破った。
B.C.717春、先年に魯が宋の救援を断り、両国の仲が悪くなったとみて、荘公は魯に人を遣わして和睦した。
5月11日、鄭は陳に攻め入って、大戦果を上げた。
冬、荘公は周に出かけて、はじめて周桓王に見えたが、桓王は鄭が禾を取ったことを怒っていて、荘公を礼遇しなかった。
B.C.716、7月18日、鄭は宋と親和し、宿で同盟を結んだ。
さらに鄭は陳と和睦した。
B.C.715春、斉釐公は宋・衛と鄭とを仲直りさせようとして会合の期日を定めた。
3月、荘公は周の無礼を怒ったため泰山の祭りを止めて代わりに周公を祭るとして、魯に祊を与えて許と交換しようとして、 大夫のを遣わした。
7月、宋・衛と鄭は親和し、斉・鄭・衛の三国が温で会合し、瓦屋で盟った。
8月、荘公は斉人を連れて周に参朝した。
B.C.714宋が周室に対する職貢を怠った。鄭は周の左卿士であったので、天子の命によってその罪を責め正すとして宋を討った。
北戎が鄭に侵入した。荘公は戦略を群臣に問うと、公子は「一隊を進撃させて、すぐに退却させましょう。 君には伏兵を3ヶ所に設けてお待ちなされるがよい。戎は退却する兵を見れば進撃し、伏兵を見れば退却するでしょう。そのときに攻撃しましょう」と進言した。 荘公はこれに従った。
はたして北戎は退却する鄭軍を追ったが、伏兵に会い退却した。祝瞻は進撃して戎の軍を包囲して、 前後から挟撃して全滅させた。
11月26日、鄭は戎を大いに破って大勝した。
B.C.713荘公は魯隠公、斉釐公と魯の中丘で会合し、1月26日に魯の鄧で盟って宋を討つ期日を定めた。
5月、荘公は魯の公子と斉と会合して宋を討った。
6月、荘公は魯隠公、斉釐公と宋の老桃に会合した。
6月15日、荘公は郜に攻め入った。翌日、荘公は攻め取った郜を魯に譲り渡した。
6月25日、荘公は防に攻め入った。翌日、荘公は攻め取った防を魯に譲り渡した。
7月5日、鄭軍は宋の都の郊外まで進んだ。その隙に、宋・衛の軍は鄭に侵入し、蔡軍もそれに連合して鄭の与国の戴を攻撃した。
8月8日、荘公は戴に進撃している宋・衛・蔡の連合軍を包囲した。
8月9日、荘公は連合軍を破って、これを降服させた。
9月、荘公は宋の都に攻め入り、宋が鄭に侵入した報復をした。
冬、郕が天子の命に背いたとして、荘公は斉釐公とともに郕に攻め入った。
B.C.712許荘公が周室を侮り、その職貢を怠った。
7月、荘公は許を討つことを相談するため、斉釐公と魯隠公と鄭のコウで会同した。
7月1日、斉釐公は荘公と魯隠公と会同して許を討伐し、許の城壁に迫った。潁考叔が城壁に一番乗りしようとしたところ、 潁考叔に恨みを持つ公孫閼が下から射たので、 潁考叔は落下して死んだ。瑕叔盈が蝥弧(軍旗)を持って城壁を登り「わが君は登られたぞ」と叫んだ。 それを見て鄭軍は勇んで城壁を登った。
7月3日、連合軍は許城に攻め入り、許荘公は衛に出奔した。
斉釐公は許を自分のものとせず、魯隠公に許を譲ろうとしたが、隠公はこれを辞退したため、釐公は鄭にこれを譲った。
荘公もこれを自分の領土とせず、許荘公の弟許叔に任じて治めさせ、 許の大夫百里に命じて許叔を守り立てて許の東部におらせ、 また大夫の公孫獲に命じて許の西部におらせて警戒させ、 「お前の家財や財宝は許に置いてはならぬ。わたしが死んだらすぐにこの地を去るがよい。周室は衰微して姫姓の諸侯は衰えており、 許はの四岳の子孫であるから、いつ盛んになるとも測り難い。許と争ってはならない」と言った。
君子は「荘公の処置は礼にかなったものである。また鄭の国力を考え、時勢を見定めて適宜の行動を取り、子孫に禍を及ぼさぬように取り計らった」と評した。
荘公は犠牲を供えて潁考叔を射殺した者をのろった。君子は「荘公は政と刑の用い方を誤っている」と評した。周桓王は、 鄔・劉・蔿・邘を鄭から取り上げて、その代償として温・原・絺・樊・隰郕・欑茅・向・盟・州・陘・隤・懐を鄭に与えた。 君子は「周王はやがて鄭を逃がしてしまうであろう」と評した。
息侯が鄭を討ったので、荘公はこれと国境で戦い、息軍を大破した。
B.C.711、1月、鄭は魯と友好関係を修めた。
荘公は再び鄭の祊と魯の許を交換して欲しいと申し入れ、魯桓公はこれを許した。
3月、荘公は魯桓公と垂で会合し、祊と許を交換した。
4月2日、荘公は魯桓公と越で会合し、祊と許の交換のことで「この盟を破棄するならば、国を保ってゆくことはできないであろう」と誓った。
B.C.710宋の宰相華督が宋殤公を弑した。
3月、荘公は魯桓公・斉釐公・陳桓公と宋の稷で会合して、 宋の乱の後処理をする。
4月、華督は諸侯の支持を得るために鄭に賄賂を贈ってきた。
荘公は蔡桓侯と蔡の鄧で会合した。楚の脅威が心配になってきたためである。
B.C.707夏、荘公は斉釐公とともに紀を襲い取ろうとして紀に行ったが、紀の人々に見破られて失敗した。
周桓王が荘公の政権を奪ったので、荘公は怒って周に参朝しなくなった。
秋、周桓王が陳・蔡・虢・衛の兵を率いて攻めてきた。桓王は中軍を率い、卿士の虢公林父は右軍の将となり、 蔡・衛の軍はそれに付いた。周桓公は左軍の将となり、陳の軍がそれに付いた。
公子子元は「陳は乱れて、その民は戦う心がありません。真っ先に陳の軍を攻め立てたら、逃走するでしょう。周王の軍はそれを見たら、きっと乱れるでしょう。 そこを集中攻撃すれば、事は成功いたします」と進言したので、荘公はそれに従った。
荘公は曼伯に右軍を、祭仲に左軍を率いさせ、原繁と高渠弥に中軍を率いさせて自らを守らせ、魚麗の陣をつくり、 兵車を前に歩兵を後ろにして、鄭の繻葛で戦った。
鄭の左右軍は連合軍の左右の軍を破り、周王の軍も乱れた。そこで鄭軍は集中してこれを攻撃したので、周王の軍は大敗した。(繻葛の戦い)
この戦いで祝瞻が矢を桓王の臂に当てた。祝瞻は追撃を請うたが、荘公は 「長上を犯すことさえはばかりがあるのにましてや天子をしのごうとするのはよくない」と言って、追わせなかった。その後、祭仲をつかわして王の傷を見舞わせた。
B.C.706、6月、斉は戎に攻められ、鄭に救援を求める。荘公は太子忽をつかわせて、斉を助けさせた。
B.C.705夏、盟・向の2邑が鄭に和睦を申し込んだが、間もなく鄭に反した。
秋、荘公は斉・衛とともに盟・向を征伐した。周桓王はそのため盟・向の民を畿内の郟に移した。
B.C.702、12月、鄭は斉・衛とともに魯を討ち、魯の郎で戦う。
B.C.701春、鄭と斉と衛と宋は魯を攻めようとして悪曹(鳥曹)で盟った。
5月、没す。
荘公(秦)(ソウコウ)【王】
秦公(5代目)。秦仲の子。〜B.C.778。
B.C.821秦仲が西戎に殺されると、周宣王に召され、兵7000人を与えられる。
荘公は兄弟五人とともに西戎を破り、また秦仲の旧封と大駱が領有していた犬丘の地をあわせて得て、西垂の大夫となる。
荘公(魯)(ソウコウ)【王】
魯公(16代目)。名は同。桓公の子。母は文姜。B.C.706〜B.C.662。
B.C.706、9月24日に生まれる。桓公と同じ日に生まれたので、名が同になった。
B.C.694桓公が斉に殺されたため、荘公は国人に擁立された。
12月、荘公は桓公を葬った。
B.C.693、3月、文姜が斉に出奔した。
夏、周荘王は王女を斉に嫁がせるに際し、同姓の魯侯に婚礼をつかさどらせるため、単伯に命じて王姫を魯に送届けた。
秋、荘公は仇讐の斉と城内で接することを嫌い、城外に王姫の館を築いた。
冬、周荘王は栄叔を遣わして桓公に追命して位一等を進め、その徳をたたえた。
王姫が斉に嫁いだ。
B.C.692夏、公子慶父に命じて、軍を率いて邾の閭丘を討たせた。
B.C.691、1月、公子が勝手に斉軍と会合して、衛を討った。
冬、荘公は鄭公と鄭の滑で会合して紀のことを相談しようとしたが、嬰は国が乱れていると言って拒否した。
B.C.690冬、斉とシャクで狩を行った。
B.C.689、秋、郳(小邾)の君犂来が来朝する。
冬、荘公は斉・宋・陳・蔡とともに衛を討った。
B.C.688秋、荘公は衛討伐から帰国した。
ずいむしの被害が出た。
冬、文姜が衛から略奪した財貨を魯に所望したので、魯はこれを送った。
B.C.687、4月5日、夜になっても日光が隠れず、恒星が見えなかった。夜に隕星が雨のように落ちた。
秋、洪水があったが被害はなかった。
B.C.686、1月、荘公は郕を討つため出陣し、陳・蔡軍と合流する。
1月13日、荘公は治兵(廟で兵士をそろえる)を行った。
夏、魯軍は斉軍とともに郕を囲んだ。郕は斉軍に降服した。慶父が、斉が魯をさしおいて功を立てたことを怒り、斉を攻撃しようと言ったが、 荘公は「それはいけない。斉に降服したのは、わたしが不徳であったからだ。斉に何の罪があろうか。人は有徳の者に降服するという。 まあ、つとめて徳を修めて時節を待つこととしよう」と言った。
秋、魯軍は郕から魯に引き揚げた。
12月、斉の公子管仲召忽と共に魯に出奔してきた。
B.C.685春、斉の大夫雍廩公孫無知を弑した。
荘公は斉の大夫と魯の蔇で盟い、そののちの君を定めることを相談した。
夏、荘公は斉を討って公子糾を斉君にしようとした。しかし公子小白が一歩先に斉に入って即位してしまった。
8月、荘公は斉と斉の乾時で戦ったが大敗した。荘公は兵車を失い逃げ帰った。 荘公の御の秦子と戎右の梁氏は斉軍を惑わすため荘公の旗をたてて間道に逃げたので、 ふたりとも捕えられた。
9月、斉の鮑叔は勝ちに乗じて魯に進軍して「公子糾はわが君の肉親ゆえ、どうか魯君が殺しなさい。 管仲はわが君の仇であるから、こちらで処刑したいと思います」と言った。そこで魯は公子糾を殺し、管仲を斉に送った。
冬、荘公は洙水の川底をさらって深くし、斉に備えた。
B.C.684、1月、斉に攻められるが、荘公は曹沫と共にこれを撃退する(長勺の戦い)。
2月、荘公は宋に侵攻する。
6月、斉軍と宋軍が魯の郎に攻め入って陣をかまえた。公子が「宋軍が乱れているので、打ち破ることが出来ます。 宋が破られれば、斉は引き揚げるでしょう」と進言したが、荘公は聴き入れなかった。
しかし公子偃は雩門からこっそり抜け出て、虎の皮をかぶり、敵陣に攻め入った。それを見た荘公はそれに続いて、大いに宋軍を魯の乗丘で破った。 そのため斉軍は引き揚げた(乗丘の戦い)。
この戦いで、荘公は金僕姑という矢を用いて南宮万を射とめ、 右のセン孫がこれを生け捕りにした。
B.C.683、5月、宋が魯に攻め入った。荘公は宋軍がまだ陣形を整えないうちに攻撃をかけて、これを魯のシで破った。
秋、宋に洪水があった。荘公は使者を遣わしてお見舞いをさせ「天は長雨を降らせて祭りに供える穀物を損なったとのこと。どうしてお見舞いせずにおられましょうか」 と言った。宋湣公は「わたしが不敬で政治をつつしまないばかりに、天は災害を降し、その上、君にもご心配をかけました。 仰せのほどありがたく存じます」と答えた。
宋が南宮万を帰してほしいと願い出たので、荘公はこれを帰した。
冬、斉桓公が王女キョウ姫を迎えに魯にやって来た。
B.C.681春、荘公は斉・宋・蔡・邾・鄭・陳・衛と斉の北杏で会合した。
魯は斉に攻められ敗北し、遂邑を献じて和睦を請うた。その会盟で曹沫の活躍で失地を回復した。
B.C.677秋、鄭の叔詹が斉から魯に出奔してきた。
冬、大鹿が多く出た。
B.C.676、3月、日食があった。
夏、戎が魯に攻め入ったので、荘公は済水の西でこれを追い払った。
秋、害虫がおこり、被害が出た。
B.C.675秋、公子に命じて、魯の公女が陳の大夫に嫁ぐのを見送らせた。
文姜が莒に赴いた。
冬、斉と宋と陳が魯の西に侵入した。
B.C.673、7月、文姜が没した。
B.C.672春、文姜の喪により大赦を行った。
1月23日、文姜を葬った。
7月9日、荘公は斉の高傒と防で盟った。
冬、荘公は斉から夫人を迎えるため、みずから斉に赴いて結納の品を届けた。
B.C.671春、祭叔が来聘した。
夏、荘公は社祭を見に行った。曹沫が諌めて「諸侯が互いに朝聘するのは爵位による尊卑の別を正し、国の大小による秩序を守るようにするためであって、 これ以外では君たるものは出かけないものである」と言ったが、荘公は聞かなかった。
楚の使者が来聘した。
荘公は斉桓公と穀で会合した。
蕭叔が来聘し、荘公と会った。
秋、荘公は桓宮(魯桓公の廟)の柱を朱塗りにした。
12月5日、荘公は斉桓公と会合して、鄭の扈で盟った。
B.C.670、3月、荘公は桓宮の垂木に彫刻をした。匠師慶が諌めて「先君は倹約でありましたが、 君は奢侈となって前代の令徳はすたれました」と言った。荘公は「わしはただ美しくしたかっただけだ」と言うと、 匠師慶は「君にとって無益な上に、前代の令徳を棄てるものです。お止めになるのがよろしゅうございます」と言ったが、荘公は聴き入れなかった。
夏、荘公は斉に行き、哀姜を迎えた。
8月2日、哀姜が魯にとついだ。
8月3日、荘公は同姓の大夫の妻に命じて哀姜に見えさせた。その時に幣帛を献上させた。 禦孫が「男と女がまみえる時の品物は異なります。これを同じくするのは、男女のけじめがないことになります」と諌めた。 また夏父展が故事にはないことであると諌めたが、荘公は「君主が行えば、それが故事になるのだ」 と言って聴き入れなかった。
秋、洪水があった。
B.C.669陳の女叔が来聘し、陳との友好関係が成った。
6月、日食があった。荘公は社で太鼓を打ち、犠牲を社に供えて祭ったが、日食の時の礼に背いていると批難された。
伯姫が杞に嫁いだ。
秋、洪水があった。荘公は社と城門で太鼓を打ち、犠牲を社に供えて祭ったが、洪水の時の礼に背いていると批難された。
冬、公子を陳に遣わせた。
B.C.668春、荘公は戎を討った。
夏、荘公は帰国した。
秋、荘公は宋と斉と会合して徐を討った。
12月、日食があった。
B.C.667春、荘公は洮で伯姫と会合した。
6月、荘公は斉桓公、宋桓公、陳宣公、 鄭文公と会合して幽で同盟した。
冬、杞の伯姫が一時帰国する。
莒のが来朝して叔姫を迎えた。
杞の伯姫が来朝した。
荘公は斉桓公と城濮で会合した。
B.C.666冬、郿に城壁を築く。
魯に飢饉があった。臧文仲の進言で、宝器を贈って斉に穀物の輸入を請うた。斉はその宝器を帰して、穀物の輸入を認めた。
B.C.665春、延厩(うまや)を改築した。
秋、蜚(いなむし)がおこり、穀物に害を与えた。
12月、荘公は諸と防に城壁を築いた。
B.C.664荘公は成に赴いた。
8月23日、叔姫を葬った。
9月、日食があった。
冬、荘公は斉桓公と済水のほとりで会合し、燕を悩ます山戎を討つ相談をした。
B.C.663春、荘公は郎に台を築いた。
夏、荘公は薛に台を築いた。
6月、斉桓公が魯に来て、戎の戦利品を献上してきた。
秋、荘公は秦に台を築いた。
冬、雨が降らなかった。
B.C.662春、斉の管仲の恩義に報いるために子穀に城壁を築いた。
7月、荘公は病気が重くなると、公子叔牙に後継ぎについて尋ね、叔牙は「慶父は才能があります」と答えた。 荘公は季友に尋ねると、季友は「公子をもりたてましょう」と答えた。
荘公は「叔牙は慶父を推したのだが…」と言うと、季友は君命であると言って叔牙を鍼巫氏の邸宅に呼び寄せ、 毒酒をすすめて「これをお飲みになれば、後継ぎは立ち、お飲みにならなければ、後継ぎは絶えるでしょう」と言った。 そこでやむなく叔牙は毒酒を飲み、逵泉(曲阜の南)で死んだ。
8月5日、荘公は正殿で没し、斑が即位した。
荘公(斉)(ソウコウ)【王】
斉公(12代目)。名は贖。〜B.C.731。成公の子。
B.C.794即位する。
荘公(斉)(ソウコウ)【王】
斉公(24代目)。名は光。霊公の子。母は鬷声姫。〜B.C.548。
B.C.572、1月、諸侯は彭城を討ったが、斉は参加しなかった。そのため晋に責められた。
2月、公子光は斉霊公に命じられて晋の人質となった。
B.C.570、6月23日、鄭が晋に服従したので諸侯は会合した。晋の范匃が斉霊公に会合に参加するよう呼びかけた。 斉霊公は行くまいと考えたが、晋と仲違いになることを憚って、耏水の外で范匃と盟い、公子光を会合に参加させた。
公子光は晋悼公・単頃公・宋平公・ 衛献公・鄭釐公・莒の君・邾の君と会合し、 鶏沢で同盟し、呉と仲良くしようとした。
B.C.568、9月23日、公子光は晋悼公・魯襄公・陳哀公・ 衛献公・鄭釐公・宋平公・曹成公・莒の君・邾の君・滕の君・ 薛の君、呉の人、鄫の人と戚で盟約し、陳を守ることを誓った。
B.C.564公子光は太子となった。
B.C.563、4月1日、公子光は晋悼公、宋平公、衛献公、魯襄公、莒の君、邾の君、滕の君、薛の君、杞孝公、小邾の君、 曹成公、呉王寿夢と楚の柤で会合した。 このとき、3月26日に公子光は高厚とともに本会合の前に諸侯と鐘離で会合した。 晋の士弱は「先に諸侯と会合したのは、国を守ろうとしてのことであろうが、ふたりとも無礼なことをしたのは、 国を滅ぼすようなものだ。禍から逃れることはできまい」と言った。
夏、諸侯は偪陽を討った。
5月8日、諸侯は偪陽を滅ぼした。
公子光は晋悼公、衛献公、魯襄公、莒の君、邾の君、曹成公、滕の君、薛の君、杞孝公、小邾の君とともに鄭を討った。 このとき公子光は崔杼にすぐ参加するように勧められたので、真っ先に諸侯の軍に参加した。 そのため公子光は滕より上席として扱われた。
9月25日、諸侯の軍は鄭の牛首に進撃した。
冬、諸侯の軍は鄭の虎牢に城壁を築いてそこを守った。楚の子嚢が鄭の救援に来た。
11月、諸侯の軍は鄭を遠回りして南進し、鄭の陽陵に進んだが、楚軍は退かなかった。
11月16日、諸侯の軍は潁水をはさんで楚軍と対陣した。
11月24日、諸侯の軍は引き揚げたため、楚軍も引き揚げた。
B.C.562、4月、公子光は晋悼公・宋平公・衛献公・曹成公・魯襄公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・杞孝公・小邾の君と会合して鄭を討った。
4月19日、公子光は宋の向戌とともに真っ先に攻め込んで鄭の都の東門に攻め込んだ。
9月、公子光は再び晋悼公・宋平公・衛献公・曹成公・魯襄公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・杞孝公・小邾の君と会合して鄭を討った。
B.C.555、10月、晋が諸侯とともに斉を討ち、臨淄まで攻め入ってきた。
12月7日、東の外城と北の外城が焼かれた。斉霊公が馬を車につけて郵棠の地に逃げようとしたため太子光は郭栄とともに馬のくつわをおさえて 「敵の進撃が速くて厳しいので、これは領内を荒らすものです。やがて退却するでしょう。何も恐れることはありません。 それに国家の主君たる者は軽々しい行動をすべきではありません。軽率な行動をすると多くの人々が離れます」と言った。 しかし斉霊公が無理にでも逃げようとしたので、太子光は剣を抜いて馬のむながいを断ち切ったので、斉霊公はようやく思いとどまった。
B.C.554戎姫が公子を太子に望んだので、公子光は太子を廃されて東境の地に移された。
斉霊公が危篤になると、公子光は崔杼にひそかに迎え入れられ再び太子に立てられた。
5月29日、斉霊公が没したので、公子光は即位した(荘公)。荘公は公子牙を句瀆の丘の獄舎に閉じ込め、 夙沙衛に太子を廃されたとしてこれを処刑しようとした。しかし夙沙衛は斉の高唐に逃げて叛いた。
荘公は慶封に命じて夙沙衛を攻めたが、勝てなかった。
11月、荘公はみずから高唐を包囲した。 殖綽工僂会が夜に乗じて城上から縄を降ろして斉軍を引き入れたので、 斉軍は高唐を攻め落とし、夙沙衛を殺して軍中で塩漬けにした。
冬、荘公は晋と和睦し、大隧で盟った。
B.C.553、6月3日、荘公は晋平公・魯襄公・宋平公・衛殤公・ 鄭簡公・曹武公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・ 杞文公・小邾の君と会合して、澶淵で盟った。
秋、魯の叔老が斉に来聘し、斉に対する恨みを棄てて国交を回復しようとした。
B.C.552荘公は慶佐を大夫に任命して、再び公子牙の一味を責め正し、 公子を句瀆の丘で捕えて幽閉した。公子は魯に亡命し、 叔孫還は燕に亡命した。
晋の欒盈が追放され、欒氏の一味であった知起中行喜州綽邢蒯が斉に出奔してきた。
荘公は晋平公・魯襄公・宋平公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・莒の君・邾の君と商任で会合し、欒盈を受け入れることのないように取り決めた。
B.C.551秋、欒盈が楚から斉に亡命してきた。晏嬰が「昨年の商任の会のとき、欒氏をかくまってはならぬと命令を晋侯から受けております。 いま欒氏を受け入れては、信義を守れません」と諫言したが、荘公は聴き入れず、欒盈を受け入れた。 晏嬰は退出して陳須無に「人君は忠信を守り、人臣は篤敬を守る。忠信と篤敬は上下共々守るべきものであり、 天の道というものです。君みずからお捨てになっては、長いことはないでしょう」と言った。
B.C.550晋が呉に公女を嫁がせようとしていた。荘公は析帰父を遣わして腰元を遅らせ、 箱馬車に欒盈とその兵士を乗せて曲沃に入らせて乱を起こさせようとした。
秋、荘公は衛を討った。先陣は王孫揮であり、穀栄がその御者、 召揚がその右役となった。第二陣は莒恒であり、 成秩がその御者、傅摯がその右役となった。 荘公の御者は曹開、右役は晏父戎であり、 荘公の副車には邢公が乗り、上之登がその御者、盧蒲癸がその右役となった。 左翼は襄罷師であり、牢成がその御者、 狼蘧疏がその右役となった。右翼は侯朝であり、 商子車がその御者、桓跳がその右役となった。 後陣は夏之御寇であり、商子游がその御者、 崔如がその右役となり、燭庸之越がこれに同乗した。
荘公は衛を討って、さらに晋を討とうとした。晏嬰が「君には勇力をたのんで盟主の晋を討とうとされていますが、成功しない方が国の幸いであります。 徳もなくてただ武功を立てられたら、禍がふりかかるでしょう」と諌めた。崔杼もまた諌めて「小国が大国の禍乱につけこんで攻めると、 必ず罰を受けるといいます」と言ったが、荘公は聴き入れなかった。荘公はやがて晋を討って朝歌を攻め取り、軍を二手に分け、ひとつは孟門に入って険要の地を占め、 もうひとつは大行山に登って晋の都に迫り、軍塁を熒庭の地に築き、郫・邵の地を守備して敵の攻撃に備え、少水に敵兵の屍を積んだ塚を作って武功を示し、 平陰の役(B.C.555)の報復をした。晋に潜入した欒盈が敗死したので、荘公は軍を引き揚げた。 晋の趙勝が東陽の軍を率いて斉軍を追撃し、晏萊が捕虜となった。
冬、荘公は晋の討伐から帰るとき、都に入らずにすぐ莒を襲撃し、莒邑の且于の城門まで攻め入ったが、股に負傷して退き、莒と和睦した。
荘公は邾に亡命していた臧武仲に田地を与えようとした。そのとき荘公が晋を討った時の手柄話をしたので、 臧武仲は「君のなさることは鼠のようなものです。いま君は晋の乱れを聞いて討伐の軍を起こしましたが、晋が落ち着くとこれに仕えようとなさる。 鼠でなくて何でしょう」と答えたので、荘公は田地を与えなかった。
B.C.549春、魯の孟孝伯が攻めてきた。
荘公は晋を恐れて楚康王と面会して相談しようとした。 康王は蔿啓彊を斉に遣わして会合の期日をうかがわせた。このとき荘公は社祭を行って武器を集め、その軍備を誇った。
夏、烏余が廩丘の領地をもって晋に亡命した。
秋、晋が攻めてくることを聞き、荘公は田無宇を使者として派遣し、援軍を請うた。
7月、崔杼が軍を率いて陳無宇を見送り、ついでに莒を討って介根を侵略した。
晋・魯・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾は夷儀で会合して斉を討とうとしたが、大水が出て斉を討つことができなかった。
冬、斉人は周都の郟に行って城善請をした。
B.C.548斉荘公は崔杼に命じて魯の北境を攻めさせた。前年に魯が斉を攻めたことに対する報復であった。
さて斉荘公は崔杼の妻に通じ、たびたび崔家に出かけた。そのため崔杼は荘公に恨みをいだいて殺そうと思ったが、その隙がなかった。
5月、莒犂比公が斉に来聘した。
5月16日、斉では莒犂比公を北の外城でもてなしたが、崔杼はわざと病気と称して政務をとらなかった。
5月17日、荘公ははたして崔杼の病気見舞いをしたが、そのまま崔杼の妻姜氏の部屋に入った。 荘公のそば役賈挙が門を閉めて荘公を閉じ込めて、待ち伏せの兵士がどっと現れた。荘公は許しを請うたが許されず、 盟約を請うたが許されず、宗廟で自殺することも許されなかった。そこで荘公は土塀を越えて逃げようとしたが、股を射られてひっくりかえって落ちたところを殺された。
荘公(燕)(ソウコウ)【王】
燕公。桓侯の子。〜B.C.658。
B.C.675宋・衛とともに周恵王を討つ。恵王が温に出奔したので、恵王の弟タイを立てて周王とする。
B.C.674鄭が仲父を捕え、周恵王を復位させる。
B.C.661山戎に攻められたため斉に救いを求める。斉桓公がこれを撃退したため、 荘公は国境を過ぎて桓公を送った。桓公はその礼に答え、斉燕の国境をその地点までのばし、荘公 に命じて燕の祖召公の政道を回復させ、貢物を周の王室に入れさせるようにした。
荘公(曹)(ソウコウ)【王】
曹公(12代目)。名は夜姑、射姑ともいう。桓公の子。〜B.C.671。
B.C.703夜姑は魯を訪問した。魯は夜姑を上卿の礼をもって礼遇した。
このとき夜姑は深い溜息をついたため、魯の臣施父に「曹の太子は心配事があるのだろうか。溜息をつく場合ではないのに」と言われる。
B.C.702即位する。
B.C.682、10月、荘公は宋の臣叔大心に力を貸して、 南宮牛を殺して公子禦説を擁立した。
B.C.680荘公は、斉・陳とともに宋を討った
B.C.671、11月、没す。
荘公(陳)(ソウコウ)【王】
陳公(15代目)。名は林。桓公の子。〜B.C.693。
B.C.700兄弟と謀り、蔡人を使って美女をもって厲公を誘惑させて弑す。
利公がすぐに没したので代わって立つ。
B.C.698、12月、宋・斉・蔡・衛・陳は鄭を討つ。
B.C.697、11月、荘公は魯桓公・宋荘公・ 衛恵公と宋の袲で会合して鄭を討って、鄭厲公を帰国させようとしたが、 うまくいかなかったので帰国した。
B.C.696、4月、荘公は宋・衛・蔡・魯とともに鄭を討った。
B.C.693、10月、没す。
荘公(衛)(ソウコウ)【王】
衛公(2(12)代目)。名は揚。武公の子。〜B.C.735。
B.C.753荘公は斉の太子得臣の妹荘姜をめとって夫人としたが、子が産まれなかった。
そこで荘公は陳から夫人厲嬀を迎え入れて、孝伯が生まれたが、若死にした。
厲嬀の妹戴嬀に完(桓公)が生まれた。
一方、荘公の愛妾が州吁を生んで、荘公はこれを特別に可愛がり、武術や戦争事を好んだが、荘公はそれを制止せず、 なすがままにしていた。
B.C.740州吁が兵戦を好んだので、荘公は彼を将軍に任じた。石碏がこれを諌めて「州吁に正しい道を教えるべきです。 もし州吁を太子にされようとのお考えなら、早く決めるべきです。もしこのままだと君の寵愛を頼んで禍を引き起こすでしょう」と言ったが、 荘公は聴き入れなかった。
しかし結局、荘公は完を太子とした。
荘公の死後、州吁が乱を起し、衛は乱れた。
荘公(衛)(ソウコウ)【王】
衛公(18(28)代目)。名は蒯聵。霊公の子。
B.C.494霊公の夫人南子と折り合いが悪かったため、 夫人に朝礼する折に戯陽遬に彼女を殺させようとしたが、戯陽がためらったため、計画が発覚する。 蒯聵は宋に出奔し、ついで晋の趙鞅をたよった。
B.C.493夏、霊公が没し、出公が立った。
6月乙酉の日、趙鞅の策で、霊公の喪により衛から迎えに来たもののようによそおって帰国しようとしたが、 衛が出兵したため、宿に入って立てこもった。
晋は亡命していた蒯聵を衛に入れようとして、兵を率いて衛に味方した鄭軍を鉄の地で大破した。
このとき晋の趙鞅は「わたしは鄭人に撃たれて血袋の上に伏せて血を吐いたが、鼓を打ち続けた。今日の手柄は、わたしに勝る者はいない」と言った。 蒯聵は趙鞅の車右であったが「わたしは車から9回下り、9回上って敵をみな殺しました。今日の手柄はわたしが一番でしょう」と言った。 また晋将郵無生は趙鞅の御者であったが「わたしの車はむながいが切れるところでしたが、 わたしは馬の勢いを止めて切れないようにしました。今日の手柄はわたしが一番です」と言い合った。
B.C.479姉の伯姫渾良夫を派遣してきた。蒯聵は 「もしわしを国に入れるようにしてくれたらきみを大夫とし、きみが死罪を犯しても三度まで許そう。 そして伯姫を妻にすることも許そう」と言った。蒯聵は渾良夫とともに孔氏の邸に忍び入り、 伯姫とともに孔悝を脅して自ら立とうとする。 仲由がそれを防ぎに来たので、石乞盂黶に命じてこれを退け、 ついに立った。
位につくと自分を迎えなかった大臣をことごとく誅殺しようと思い「わしは永らく国外にいて艱難した。きみたちもそのことは聞いているだろう」と言った。 そこで群臣が乱を起こそうとしたので、誅殺は取りやめた。
B.C.476荘公は城に登り、戎州を望見して「戎虜ごときをこの戎州におらせてどうするか。滅ぼしてしまえ」と言った。
10月、戎州の者がこれを趙簡子に告げ、衛は彼に包囲される。
11月そのため荘公は出奔する。
荘公(宋)(ソウコウ)【王】
宋公(16代目)。名は馮。穆公の子。〜B.C.692。
B.C.720穆公が宣公の子を後継ぎにしたため、馮は鄭に行かされた。
鄭は馮を助けて、宋に帰して位につけようとしたが、先に諸侯から攻められた。
B.C.710太宰華督殤公を弑したため、馮は擁立された。
B.C.701春、鄭と斉と衛と宋は魯を攻めようとして悪曹(鳥曹)で盟った。
5月、鄭荘公が没し、太子忽(昭公)が即位した。
宋は自国の重臣雍氏の娘雍姞を嫁がせていたため、 その子を即位させようと考えた。そこで鄭の宰相祭仲を宋におびき寄せて捕え、 「突を鄭の君にしなければ命はない」と脅した。一方で公子突も捕えて、鄭に賄賂を要求した。
祭仲は盟って約束し、公子突をつれて鄭に帰り、これを君とした。
荘公は陳厲公・蔡叔・魯の臣と折で会合する。
荘公は魯桓公と郕の夫鐘で会合する。
12月、荘公は魯桓公と魯の闞で会合する。
B.C.700、7月、魯桓公は宋と鄭を仲直りさせるため、荘公と宋の穀丘で盟いを結んだ。
8月、宋が和平を望んでいるか疑わしいとして、魯桓公は荘公と宋の虚で会合した。
11月、魯桓公はまた荘公と宋の亀で会合した。
宋が信義を守らなかったので、桓公は鄭厲公と鄭の武父で盟った。
12月、宋は魯に攻められる。
宋は鄭厲公を擁立したというので、鄭に対して贈物を次々と要求した。鄭はその要求にこらえきれなくなった。
B.C.699魯と鄭と紀の連合軍と戦ったが、斉・宋・衛・燕は破れた。
B.C.698、12月、宋・斉・蔡・衛・陳は鄭を討つ。連合軍は鄭の渠門を焼き払い、城内に侵入して大通りまで攻め入り、さらに鄭の東方の郊外を討ち、 牛首を攻め取った。宋軍は鄭の祖廟のたるぎを持ち帰って宋の盧門のたるぎにした。
B.C.697、11月、魯桓公・宋荘公・衛恵公・陳荘公と宋の袲で会合して鄭を討って、 鄭厲公を帰国させようとしたが、うまくいかなかったので帰国した。
B.C.696、1月、荘公は魯桓公・蔡桓侯・衛恵公と曹で会合し、鄭を討つことを相談した。
4月、荘公は魯・衛・陳・蔡とともに鄭を討った。
B.C.695秋、荘公は魯・衛とともに邾を討った。
B.C.692、12月、没す。
荘公(許)(ソウコウ)【王】
許公。
B.C.712荘公は周室を侮り、その職貢を怠った。
7月、斉釐公は魯隠公、鄭荘公と会同して許を討伐した。
7月3日、連合軍が許城に攻め入ったため、荘公は衛に出奔した。
荘公(原)(ソウコウ)【王】
原公。周の卿士。氏は原。
B.C.676荘公は晋武公と虢公と鄭厲公に使者に命じられ、 陳から恵后を迎えた。
B.C.673鄭厲公は周恵王を復位させてこれをもてなし、舞楽をことごとく奏するという盛儀を極めた。 荘公は「鄭伯はみずからとがめた王子と同じ事をした。やがて禍が身に降りかかるだろう」と言った。 はたして厲公はこの年の5月に没した。
荘公(邾)(ソウコウ)【王】
邾公。名は穿。〜B.C.507。
B.C.531夏、荘公は魯の孟釐子と会合して魯の祲祥で同盟を結んで友好関係を修めた。
B.C.524、6月、鄅の君が田圃に出かけているすきに、荘公は鄅を急襲して城内に攻め入り、残らず捕虜にして連れ帰った。鄅の君が邾にやって来たため、 荘公はその夫人を返してその娘を返さなかった。
B.C.507、2月29日、荘公が宮門の物見台で外朝を見下ろすと、門番がかめの水をそこに流していた。荘公はこれを叱りつけると門番は 「夷射姑が小用をしましたので」と言った。そこで荘公は夷射姑を捕らえるよう命令したが、捕らえる事ができなかったため、 ますます腹を立ててあやまって椅子から転げ落ちて、炉の炭火の中に落ちてやけどをして、やがて亡くなった。
秋、埋葬の前に荘公の遺言に従って車5台と殉死の者5人を埋めた。
荘公(召)(ソウコウ)【王】
召公。
B.C.520単穆公が都を出奔したため、 王子は周悼王を守って単穆公を追って領まで行った。 王子環は荘公と相談して「単旗(単穆公)を殺さなければ勝てない。 彼と盟うといつわって来たら殺しましょう」と言った。荘公はこれに従った。これを聞いた樊頃子は「士君子の言うべき言葉ではない。きっと勝てないだろう」 と言った。そして王子環は単穆公を都に呼び戻して殺そうとして、周悼王を奪ったことを摯荒のせいにしてこれを殺した。 しかし単穆公は計画を見抜いて戻ってこなかった。
荘侯(ソウコウ)【王】
蔡侯(14代目)。名は甲午。繆侯の子。〜B.C.612。
B.C.646荘侯は即位した。
B.C.641冬、陳穆公は宋襄公の暴虐ぶりを見て、 蔡・楚・鄭と共に斉桓公の徳を忘れないようにするため、斉で会合した。
B.C.639秋、荘侯は宋襄公・楚・陳穆公・許の君・曹共公と宋の盂で会合した。このとき宋襄公は楚に捕えられ、宋は楚に攻められた。
B.C.633荘侯は楚・陳・鄭・許とともに宋を攻め囲んだ。
B.C.632荘侯は城濮の戦いで楚側について戦ったが、晋に敗れた。
冬、荘侯は晋文公・宋成公・斉昭公・ 陳共公・鄭文公・魯釐公・莒の君・邾の君・ 秦人と温で会同し、晋に服従しない衛と許を討つことを相談した。
B.C.627楚の子上に攻められたため、荘侯は楚に和を請うた。
B.C.625鄭繆公が荘侯を呼び出して、ともに晋に仕えるよう相談した。
11月、荘侯は鄭繆公とともに晋に行った。
B.C.617冬、荘侯は楚穆王とともに厥貉に陣を敷き、宋を討とうとした。 宋昭公は穆王を迎え入れて、その労をねぎらい、楚の命令に従った。
宋公(宋)(ソウコウ)【王】
宋公(3代目)。名は稽。微仲の子。
宋公(ソウコウ)【在野】
仇液の客人。
B.C.297秦で孟嘗君に代わり楼緩が丞相となった。
B.C.295趙は楼緩が秦で宰相をしていることを自国の不利と考え、仇液を秦に遣わせて、魏冄を宰相とするように請うた。 出発にあたって宋公は仇液に「事がどうなろうとも、楼緩は必ずきみを恨みましょう。されば楼緩に『魏冄のことは、きみのため秦へは取り次ぎますまい。』 と言われるのがよいでしょう。秦王はあるいはきみのことばを聴き入れないかもしれませんが、もしそうなっても楼緩に徳とせられ、 成功すれば魏冄に徳とせられるでしょう」と言った。仇液はこれに従った。
はたして楼緩は丞相を免ぜられた。
宋牼(ソウコウ)【在野】
墨子学派の思想家。非戦論者。
ソウケイともソウケンとも、宋銒ともいう。
宋の人。
宋牼は、斉宣王のときに稷下で学び、その学は名家、道家、墨家、縦横家と多方面に及んだ。
宋牼は尹文とともに宋尹学派と称される。
『宋子』18編を著す。
相公(ソウコウ)【王】
陳公(3代目)名は皋羊。申公の弟。
躁公(ソウコウ)【王】
秦公(18(23)代目)。厲共公の子。〜B.C.432。
B.C.445南鄭がそむいた。
B.C.433義渠が渭水の北まで来攻した。
曹交(ソウコウ)【在野】
孟子の弟子。名は連。
孟子と問答する。
荘敖(ソウゴウ)【王】
楚王(3(19)代目)。名は熊囏。堵敖ともいう。文王の子。母は息嬀。〜B.C.671。
B.C.675文王が没し、公子囏は即位した。
荘敖は弟の熊惲を殺そうとしたので、熊惲は随に出奔した。
B.C.671熊惲は随の軍とともにやって来て、荘敖は彼に殺された。
宋句践(ソウコウセン)【在野】
姓は宋、名は句践。
孟子と論争する。
曹氏(ソウシ)【女官】
元公の夫人。
B.C.517魯が宋元公の娘を季平子に嫁がせようとして季公若を遣わしていたが、 逆に季公若は曹氏に「与えなさるな。魯では季平子を追放しようとしています」と言った。曹氏は宋元公にこの話をしたが、結局与えた。
荘子(ソウシ)【在野】
戦国時代の道家。姓は荘、名は周、字は子休。
宋の蒙の人。孟子とほぼ同時期の人といわれる。
蒙の漆園の役人となった。
博学で、通暁せぬ書物はなかったが、その学の要は老子の道にもとづき無為自然を根本として、 自我を去って万物の絶対性に従えと説いた。老子には政治的な思想があったが、荘子には人間自体の存在を説いた。
その言は大海のごとくはてしなく、とりとめがなく、奔放であった。それゆえ王公からは優れた人物として扱われなかった。
B.C.339楚威王は使者をやって彼を宰相に登用しようとした。
荘子は笑って「千金といえば大金であり、宰相といえば尊位です。
あなたは犠牲の牛をご存知でしょう。数年がかりで飼育し、文繍の衣を着せられるが、最後には大廟に供えられます。その時になって小豚を羨んでも、 どうしようもありません。
あなたは早くお帰り下さい。私を汚さないで下さい。汚されるくらいなら、私はむしろ汚濁の中に遊び戯れて、みずから快しとしよう。終身仕えないで、 自分の志を快適にしたいだけです」と言って断った。
荘子は魏の宰相恵施と交際があったが、その問答は『荘子』に詳しい。 恵施が没すると荘子は、自説を語る相手が死んでしまったので、意見を述べることを止めたという。
宋子(ソウシ)【女官】
繆公の夫人。子孔子然の母。
宋子は圭嬀より位がひとつ上であり、仲が良かった。
臧士平(ゾウシヘイ)【武官】
宋の臣。
B.C.520、2月23日、楚の蔿越が宋に使者を送って謀叛人をもらいうけようと申し出たため、 臧士平は華亥向寧華定皇奄華貙華登傷省とともに楚に出奔した。
荘周(ソウシュウ)
荘子
宗祝(ソウシュク)【文官】
周王朝の臣。
商滅亡後、九鼎宝玉を軍中に祭る。
荘叔(ソウシュク)
叔孫得臣
曹叔振鐸(ソウシュクシンタン)【王】
曹公(初代)。名は振鐸。周武王の弟。
B.C.1050武王が商を滅ぼすと、曹に封じられる。
曹卹(ソウジュツ)【在野】
孔子の弟子。字は子循。B.C.501〜。
荘襄王(ソウジョウオウ)【王】
秦王(5(35)代目)。孝文王の子。名は子楚。母は夏姫。〜B.C.246。
B.C.265秦昭襄王の太子が没し、次子の安国君(孝文王)が太子となった。安国君には子が20余人あったが、 正夫人の華陽夫人には子がなかった。その庶子の中に子楚がおり、生母夏姫は寵愛を失っており、子楚は趙の人質となっていた。
子楚は妾腹の子であったので、日常生活も苦しく不如意であった。たまたま呂不韋は邯鄲に行ったとき、子楚を見て、
「これは奇貨(ほりだしもの)だ。買い入れておいたほうがよかろう(奇貨居くべし)」と言い、子楚を尋ねて
「わたしはあなたの門戸を盛大にしましょう」と言った。
子楚は笑って「まずあなたの門戸を盛大にした上で、わたしのを盛大にしてほしい」と言った。
「あなたはおわかりでないのです。わたしの門戸は、あなたの門戸が盛大になるにつれて盛大になるのです」と答えた。
子楚はその意を悟って奥に招き入れて密談した。
そこで子楚は呂不韋と相談して、華陽夫人を篭絡して彼女の寵愛を得て、華陽夫人の養子となった。
B.C.258秦は王齮に命じて邯鄲を包囲した。そのため趙は子楚を殺そうとしたが、 呂不韋は金600斤で役人を買収して子楚と共に脱出して帰国することができた。また夫人と子の政も隠れ住んで生き延びることができた。
B.C.252昭襄王が没し、太子安国君が代わって立ち、華陽夫人を王后とし、子楚は太子となった。
B.C.251孝文王が没し、代わって子楚は位に即いた。荘襄王(子楚)は養母の華陽后を華陽太后とし、実母の夏姫を尊んで夏太后とした。
B.C.250呂不韋は丞相に任じられ、封じられて文信侯と号し、洛陽の十万戸を食邑とした。
また大いに罪人を赦し、先王の功臣を鄭重にし、肉親を厚遇し、恵みを民に施した。
東周の君が諸侯と共に秦を攻めようとしたので、呂不韋に命じて、東周を滅ぼし、その国を秦の領有とした。しかし東周の王家を滅ぼさずに、陽人の地を周君に賜い、 祭祀を継がさせた。
また李冰を蜀郡太守とする。
蒙驁に韓を討たせる。韓は成皋・滎陽を献じる。これらの地にはじめて三川郡を置く。
B.C.248蒙驁に命じ魏を討ち、高都・波を取る。
また趙の楡次・新城・狼孟を攻め、37城を取る。
王齕に命じ上党を討ち、はじめて太原郡を置く。
B.C.247魏の信陵君が五国の兵を率いて秦を討ち、蒙驁は河外へ退き、軍は解散した。
荘襄王は信陵君を忌み嫌い、金一万斤をばらまいて魏の将軍晋鄙のもとの食客を求め、魏王に讒言をさせた。 そのため安釐王は信陵君を退けて、別の者を将軍とした。
B.C.246、5月丙午の日、没す。
臧昭伯(ゾウショウハク)【武官】
魯の臣。
B.C.517いとこの臧会がいつわって臧氏を讒言し、季氏の邸に隠れた。 臧昭伯は季氏の家人を捕らえたため、季平子も怒って臧氏の家老を捕らえた。
また季氏が魯襄公の祭りをした時、魯襄公の廟でしたときよりも大勢の楽人で舞を行った。 臧昭伯は「このようなことを、先君の廟をないがしろにして正しい礼を行わないというのだ」と言った。魯の大夫たちはこうしたことから、 季平子を恨むようになった。
昭公は季平子を討とうとして臧昭伯に相談したが、臧昭伯は「難しいことだ」と言った。 しかし魯昭公は季平子を討って敗れた。臧昭伯は魯昭公とともに墓に出かけてそこから斉に亡命した。
(『史記』では、臧昭伯は郈昭伯とともに季平子を討つことを勧めている)
曾参(ソウシン)【在野】
孔子の弟子。名は参、字は子輿。B.C.505〜B.C.435。
魯の武城の人。
孔子は彼をよく孝道に通じる者とし、学業を授けた。そこで曾参は『孝経』を著した。
魯の武城にいたとき、越が攻めてきた。曾参は町を立ち去って、敵が退却すると、すぐに帰ってきた。門人たちは「武城の人は先生に敬意を払っているのに、 敵が来るといち早く逃げ出して、敵が去るとすぐに帰るのは、善いとはいえまい」と語り合った。 曾子の門人の沈猶行は「君たちにはお分かりになるまい。 以前、先生が我が家に滞在された時、負芻という者が乱を起して攻めてきたことがあった。 先生は従者をみな引き連れて立ち退かれたので、誰一人としてこの災難にあわなかったのだよ」と言った。
子の曾申に詩を伝える。
曾参は孔子の道を後代に伝えた第一人者であり、孔子の孫孔伋を教えた。
曾参は魯で没した。
曾申(ソウシン)【在野】
儒者。字は子西。曾参の子。
呉起は曾申について学んだが、「大臣となるまで故郷に帰らない」と言って、母が死んでも帰らなかったため、 曾申は呉起を破門した。
曾参は詩を曾申に伝え、左丘明は春秋伝をつくって曾申に授けたという。
曹姓(ソウセイ)【神】
楚の先祖。陸終の五男。安ともいう。
荘生(ソウセイ)【在野】
楚の人。范蠡と仲がよかった。
范蠡の次男が人を殺し、楚で捕えられた。范蠡は末子に命じ、黄金千金をもたせて釈放させようとした。すると長男が 「わたしにお命じにならないのはわたしが不肖だからですか」といってどうしても自分で行きたいと言い張ったので、范蠡はこれを許し、すぐ千金を荘生に渡し、 彼のするに任せなさい」と申しつけた。
長男は荘生に会い、千金を差し出した。荘生は「早々に帰国するがいい。もしそなたの弟が出獄してもその次第を問うてはならない」と言った。
荘生は陋巷に住んでいたが、その廉直さは国中に定評があり、楚王をはじめみなが尊敬していた。荘生が金をもらったのも、のちに返すつもりであり、 事を引き受ける証拠としたかっただけであった。
荘生は参内して楚王に謁見して大赦をするよう請うた。王はすぐにそれを許した。
范蠡の長男は大赦が行われると聞いて、それが荘生の進言で行われたことを知らず、千金を渡したことを悔やんで、ふたたび荘生に面会した。 荘生は長男が金を取り返したいのだとわかり、金を返してやった。
しかし小僧っ子に欺かれたことを恥とし、楚王に謁見して「朱公(范蠡)の子が賄賂を贈って大赦させたとちまたで噂されています」と言った。楚王は大いに怒り、 朱公の子を処刑した後に大赦した。
長男はむなしく弟の遺骸を持ち帰った。范蠡はひとり笑って「こうなることはわかっていた。末子は苦労を知らないので千金を棄てられようが、 長男は苦労を知っているので棄てるのが惜しく思ったのであろう」と言った。
曾皙(ソウセキ)【在野】
曾参の父。
臧宣叔(ゾウセンシュク)【文官】
魯の臣。姓は臧孫、名は許。臧文仲の子。〜B.C.587。
B.C.591、10月28日、魯宣公が没した。すると季孫行父が 「嫡子(公子)を殺して庶子(宣公)を立て、斉の援助を失わせたのは襄仲のしわざである」 と中傷した。臧宣叔は怒って「その時に襄仲をおさえられなかったのに、今になってその子孫を罰することなどできない。 どうしても帰父を除こうとするなら、わたしに任せてもらおう」と言って、東門氏(公孫帰父の家)を追放した。
B.C.590夏、斉が楚の軍を出陣させて魯を攻めようとするのを聞いて、臧宣叔は晋と赤棘で同盟を結んで、斉・楚の攻撃に備えた。
冬、臧宣叔は民に税を賦課し、武器をつくろい城郭をかためて防備を十分にさせて斉・楚に備えた。
B.C.589春、魯は斉に攻められ、龍を攻略されて単丘まで侵攻された。そのため臧宣叔は晋に出かけて援軍を求めた。 そこで晋景公は700乗の援軍を出すことを許した。
臧宣叔は晋の軍を迎えに出かけて道案内役をつとめた。
晋・魯・衛の連合軍は鞍で斉軍を破った。
冬、楚が衛を討ち、勢いに乗じて蜀に出陣していた魯軍を攻撃してきた。魯成公は臧宣叔を楚軍に遣わして退却させようとしたが、 臧宣叔は辞退して「楚軍は長期の遠征ですから、そのうち退却するでしょう。何の手柄も立てないで退却させたという名声を受けたくはありません」と言った。 そうしているうちに、楚軍は陽橋まで進撃してきた。そこで孟献子が楚軍に赴いて和睦した。
しかし楚が軍を引き返して宋に着いたとき、人質の公子は逃げて魯に帰ってきた。臧宣叔は 「衡父(公子衡)はわずか数年の不快をがまんできないで、魯を見棄ててしまった。魯をどうするつもりなのか。誰がこの国難を背負って立つ者がおろう。 このままでは国は滅ぼされるであろう」と言った。
B.C.588、11月、晋の荀庚と衛の孫良夫が同時に魯を聘問してきた。 魯成公はこの使者の扱いについて臧宣叔に尋ねた。
成公「中行伯(荀庚)は晋で3番目の下卿であり、孫子(孫良夫)は衛では上卿である。どちらを先に扱ったらよいか」
臧宣叔「衛は大国の晋に対してとてもその次国ということはできません。衛を下国とすれば、下国の上卿は大国の下卿に相当します。 しかし晋は盟主ですから晋を先にしたらよいでしょう」
そこで成公は臧宣叔の言うとおりにした。
B.C.587、4月9日、没す。
臧倉(ゾウソウ)【文官】
魯の臣。
平公孟子に会いに行こうとしたが、臧倉は「公が軽々しく一平民をこちらから訪問なさるとは。 あの孟子は礼儀もわきまえず、母の葬式はその前の父の葬式よりも立派にしました。かように礼儀を知らない男にはお会いなされますな」と言った。 そのため平公は訪問を取りやめた。孟子はこれを伝え聞いて「人が出かけるのも取りやめるのも、みなそうさせるものがあるので、人間の力の及ぶところではない。 わしが魯公に会えないのは、天命なのじゃ。臧氏の小伜などの力で、どうして天命を自由にできよう」と言った。
臧孫辰(ゾウソンシン)
臧文仲
臧孫達(ゾウソンタツ)
臧哀伯
壮馳玆(ソウチジ)【文官】
晋の臣。
あるとき趙鞅が壮馳玆に「東方の士で、誰が賢人ですか」と尋ねた。
壮馳玆「お祝い申し上げます」
趙鞅「質問に答えもせず、なぜお祝いするのか」
壮馳玆「今、主は晋の政をされながら、わたくしのような小人にまで質問され、その上賢者を求められています。わたくしはそれゆえ、お祝い申し上げたのです」
臧疇(ゾウチュウ)【武官】
魯の臣。
B.C.556秋、斉が魯の北境を討って高厚臧武仲の守っている防を包囲した。 そこで魯軍は臧武仲を救い出そうとして陽関から旅松まで出陣した。 臧疇は叔梁紇臧賈とともに夜に300の武装兵を率いて斉軍に攻め入り、 臧武仲を救い出した。
荘朝(ソウチョウ)【武官】
宋の臣。
B.C.556春、荘朝は陳を討って司徒を捕えた。
叢帝(ゾウテイ)【王】
蜀王。名は開明。
蜀の宰相で、杜宇に仕える。
水害が発生したので、杜宇に命じられて玉壘山を切り崩して水害を除き治めた。
杜宇はその後、開明に政治を委任し、自ら退いた。
開明は帝位に就いて叢帝と号した。
曾テン(ソウテン)【在野】
孔子の弟子。字は皙。
孔子は曾テンに「お前の理想を言ってみよ」と言った。曾テンは「春着もすでに整い、冠者5、6人と童子6、7人とで沂水に水浴し、舞雩の丘で春風に吹かれ、 詩を吟詠して帰りたいものです」と答えた。孔子は讃歓して「私と同感である」と言った。
相土(ソウド)【神】
商王朝の祖先。昭明の子。
相土は閼伯の後を継いで商丘で火星を観察した。
相土は商丘に都して東都と称した。
荘伯(ソウハク)【公子】
晋曲沃の伯(2代目)。名は鱓。桓叔の子。〜B.C.717。
B.C.724主君孝侯を翼で弑す。しかし晋人に攻められたため、曲沃に帰る。
荘伯は鄭と邢と共に宗家の翼を討った。さらに周桓王が尹氏・武氏に命じてこれを援助したので、 晋鄂侯は随に出奔した。
B.C.718鄂侯が没したので、兵を起こして晋を討つが、虢の軍が援助に来たため逃げて曲沃を守る。
荘豹(ソウヒョウ)【武官】
趙の臣。
B.C.313秦樗里疾に攻められて捕らえられる。
曾阜(ソウフ)【文官】
魯の臣。叔孫豹の家臣。
B.C.541季武子の家臣曾夭が虢の会から帰国した叔孫豹の労をねぎらうためうかがったが、 叔孫豹は季武子のために危ない目にあっていたため曾夭に会わなかった。曾夭は曾阜に「わたしは主人の罪をわきまえております。 さりながら、魯はお互いに我慢し合うことで国を保っています」と言うと、曾阜は「主人は国外で数ヶ月も苦労しました。ここで一日お待ちになっても辛いことはありますまい」 と答えた。しかし曾阜は叔孫豹に「もう出て会ってもよいでしょう」と言ったため曾夭は叔孫豹に会うことができた。
荘夫人(ソウフジン)【女官】
荘王の夫人。楚恭王の母。〜B.C.564。
B.C.564、閏12月、没す。
臧武仲(ゾウブチュウ)【文官】
魯の臣。姓は臧孫、名は紇。臧宣叔の子。司寇。
臧宣叔は穆姜の母方のおばの子を後妻とし、臧武仲を生んだ。臧武仲は公宮で育てられ、 穆姜に愛されたため臧宣叔の後継ぎに立てられた。
B.C.573、11月、晋は楚に攻められた宋を助けるために出兵した。晋の士魴が魯に遣いして援軍を願った。 季孫行父はどれくらいの軍を出すべきか臧武仲にたずねた。臧武仲は「昨年、 鄭を討った時は下軍の佐の知伯が来朝しました。今も下軍の佐の彘季です。前と同じようにすればよいと思います」と言ったので、 季孫行父はその意見に従った。
B.C.569、3月、陳成公が没したため、楚は陳への侵攻を取りやめた。しかし陳は依然として楚に従わなかった。 臧武仲はこれを聞いて「陳は滅びるであろう。大国たる楚が礼にかなったことをしたのに、陳はこれに従わない」と言った。
冬、邾と莒が鄫を討った。臧武仲は魯襄公の命で鄫の救援に行き、邾に攻め入ったが、 邾の狐駘で敗れた。
B.C.562、12月1日、諸侯は鄭の蕭魚で鄭と会合した。晋悼公叔向に命じて諸侯に告げさせた。 臧武仲は魯襄公の命で「われら同盟の諸侯は、小国が盟いに背いて討伐されても、わずかの功労でもあれば、罪は必ず許されるということですね」と答えた。
B.C.560魯襄公が防に城壁を築こうとしたが、臧武仲は農事の終わるのを待ってほしいとお願いをした。そこで魯襄公は冬にこれを行った。
B.C.559衛献公が斉に出奔してライの地に住まわされたので、臧武仲はライに行ってお見舞いした。 しかし衛献公のことばが暴虐であったため、臧武仲は「衛君はきっと帰国できないだろう。彼のことばは道理がなく、けがらわしい」と言った。 衛の子展子鮮はこれを聞いて臧武仲と話をしたが、ふたりの言葉は道理にかなうものであった。 臧武仲はよろこんで「衛君はきっと帰国するだろう。あのふたりが君を補佐している」と言った。
B.C.556秋、斉が魯の北境を討って高厚が臧武仲の守っている防を包囲した。 そこで魯軍は臧武仲を救い出そうとして陽関から旅松まで出陣した。 叔梁紇と臧疇と臧賈が夜に300の武装兵を率いて斉軍に攻め入り、臧武仲を救い出した。
B.C.554季武子が斉を討って取り上げた武器で林鐘を作って魯の武功を彫り付けた。 臧武仲は「礼にそむいたことだ。銘文は諸侯の場合、事業が時にかない、功績があればそれをするのである。今回は他国の力を借りたものであり、 民の農時を妨げてしまった。これを見せびらかして大国(斉)を怒らせるのは、国を滅亡に導くやり方である」と諌めた。
B.C.552邾の庶其が漆と閭丘の邑をもって魯に逃げてきた。季武子はこれに魯襄公のおばを妻として与えた。
このころ魯には盗人が多かった。季武子は臧武仲に言った。
季武子「あなたはどうして盗人を取り締まろうとなさらないのか」
臧武仲「わたしにはどうすることもできません」
季武子「あなたは司寇だ。盗人を除くことが職務でしょう」
臧武仲「あなたは他国の盗人(庶其)を礼遇しておられる。どうして国の盗人をやめさせることができましょう」
B.C.551春、臧武仲は晋に行こうとして出発した。その途中に雨にあい、御叔のところを通り過ぎた。御叔は臧武仲の姿を見て 「わたしは酒を飲もうとしているが、あの人は雨になるとも知らずに出かけて、雨の中を濡れていく。聖人なんか役に立つものではない」とからかった。 臧武仲はこれを聞いて「使いものにもならないくせに、使者をからかっている。国にあだをなす者だ」と立腹して、御叔の国に納める税を倍にした。
B.C.550、8月10日、孟荘子が没した。臧武仲は弔いに行って哭したが、たいへん悲しんで涙を流した。御者が 「孟孫はあなたを憎んでいたのに、どうしてですか」と言うと、臧武仲は「季孫がわたしを愛するのは、わたしを害する病気というものだ。 孟孫がわたしを憎むのは、わたしにとって役に立つ薬石だ。わたしを憎む薬石はかえって私を生かしてくれる。孟孫が亡くなったので、 わたしの死ぬのも遠くないであろう」と言った。
11月、孟孫氏は埋葬の墓道を切り開こうとして、人夫を臧氏から借りた。臧武仲は人夫を貸したが、警戒して武装兵を従えて工事を監視した。 これを孟孫氏が季武子に告げたので、季武子は立腹して臧武仲を攻めた。臧武仲は魯の城門である鹿門のかんぬきを切って邾に出奔した。
臧武仲は邾から人を遣わして臧賈に、魯に入って家を継ぐよう告げた。臧賈は臧為を魯に入れてお願いした。
臧武仲は自分の領地である防に出かけ、そこから魯に使者を送って「わたしは謀叛を起こそうとしたのではありません。 もしわが祖父(臧文仲)と父の勲功をお忘れくださらないなら、私はこの防から立ち去ります」と言った。 そこで魯は臧為を立てたので、臧武仲は防を返上して斉に亡命した。
魯では臧武仲のことで大夫たちが盟いをたてて戒めとしようとした。季武子は「臧孫(臧武仲)の犯した罪は、 東門氏(襄仲)や叔孫僑如ほどではない」と言うと、 子服椒は「鹿門の禁を犯し、かんぬきを切ったという罪科を並べ立てたらよいではありませんか」と言ったので、 季武子は「臧孫紇が鹿門の禁を犯し、かんぬきを切りしごときことあるなかれ」と言った。臧武仲はこれを聞いて「魯にも人物がいる。 きっと孟椒(子服椒)であろう」と言った。
臧武仲は斉荘公から田地を与えられようとした。臧武仲は斉荘公にお目にかかると、斉荘公は晋を討った手柄話をした。 臧武仲は「君のなさることは鼠のようなものです。いま君は晋の乱れを聞いて討伐の軍を起こしましたが、晋が落ち着くとこれに仕えようとなさる。 鼠でなくて何でしょう」と答えたので、田地を与えられなかった。
B.C.532、7月、魯の季平子が莒を討って郠取り捕虜を宗廟に献上し、初めて亳社で人を生贄にして祭りをした。 臧武仲はこれを聞いて「魯は道ならぬことをしている。人を牛や羊と同様に生贄に用いては、神は幸いを下さないであろう」と言った。
臧文仲(ゾウブンチュウ)【宰相】
魯の宰相。姓は臧孫、名は辰。字は文仲。または字は仲、諡は文ともいう。臧孫達の孫。〜B.C.617。
B.C.683宋に洪水があったので、臧文仲はその水害を見舞った。宋湣公は「わたしが不敬で政治をつつしまないばかりに、 天は災害を降し、その上、君にもご心配をかけました。仰せのほどありがたく存じます」と答えた。
臧文仲はこれを聞き「宋は盛んになるだろう。湯王は自分を責めたからこそ国は栄えた。 またみずからを『孤』と称してつつしんでおられる」と言った。
B.C.666魯に飢饉があった。魯荘公は臧文仲の進言で、宝器を贈って斉に穀物の輸入を請うことにした。臧文仲はみずから使者を名乗り出た。
従者がみずから使節に名乗り出たのはあつかましいことではないかと尋ねた。臧文仲は「賢者は危急のときには自ら難に赴き、無事の時には人に譲るものだ。 今わたしが斉に往かないなら、それは危難を進んで救う者ではない」と言った。
臧文仲は斉と交渉し、斉はその宝器を帰して、穀物の輸入を認めた。
B.C.640宋襄公は覇業をなそうと考えていた。 臧文仲はこれを聞いて「他人の欲望を遂げさせつつ自分の欲望を遂げようとすればうまくいくが、他人をわが欲望に従わせようとすれば、 成功はめったにしない」と言った。
B.C.639夏、大旱魃があった。そこで魯釐公は雨乞いをした巫尩を焼き殺そうとした。 臧文仲は「工事を止め、贅沢な物は食べず、農事を盛んにするのがよろしい。彼を殺してもどうにもなりません」と諌めたので、釐公は取りやめた。
B.C.636冬、周襄王が狄に攻められて鄭の氾に出奔し、 使者を魯に遣わして叔帯の叛乱を伝えてきた。臧文仲は「天子は難を避けておられる。 どうしてすぐお伺いしてお役人の指図を受けましょう」と答えた。
B.C.634斉が魯を攻めた。臧文仲は外交によって戦争を止めようとして、柳下恵に命じて賄賂を持たせて斉に贈らせた。 そこで斉は講和を許して帰った。
臧文仲は魯釐公の命で襄仲とともに楚に援軍を願い出た。臧文仲は子玉に会って、 巧みに勧めて援軍を出させることに成功した。
B.C.632晋文公が曹の領地を削減して、諸侯に分配した。釐公は臧文仲を派遣した。臧文仲が重という地の公館に宿泊した時、 その役人が「諸侯はみな分け前をほしがって先を争うでしょう。晋は席次ではなく、きっと先に到着するものに親しもうとするでしょう。 あなたは大急ぎで行かなければなりません」と言った。よって臧文仲はいちはやく晋に到着したので、魯は諸侯よりも多くの領地を獲得した。
臧文仲が帰国して、重の地の公館の役人に助言をもらったと報告したので、釐公は重の館人を呼び出して大夫に取り立てた。
(『春秋左氏伝』では、曹の割譲はB.C.629のことになっており、『史記』『国語』と整合性が取れていない)
B.C.630晋文公が衛成公を捕らえて暗殺しようとした。 臧文仲は魯釐公に「衛君は無罪に近いでしょう。今、晋人が衛君を鴆薬で毒殺して死なず、また毒殺者をとがめないのは、 このことが知れるのを忌み嫌うためです。諸侯から請願があれば、きっと衛君を許すでしょう。
今、晋は覇者となったばかりです。『魯はその親しい友を見捨てない。魯を憎むことは出来ない』と言わせましょう」と言った。釐公は喜んで20対の玉を贈物として運動し、 成公の赦免がかなった。
そのため、この後晋が魯に使節を派遣する時には、諸侯より一等を加えて尊んだ。
衛成公は釈放は臧文仲の計らいであると聞いて、贈物をしたが、臧文仲は「外臣はみだりに外国と関係を持ってはなりません。 君侯をわずらわすことは辞退いたします」と言って辞退した。
B.C.627春、国帰父が魯を訪問した。その作法がすべて礼にかなっていたので、臧文仲は「斉の国子が政治を行っているので、 斉はまだ礼が守られている。わが君は斉にお出かけになるのがよろしいでしょう」と言った。そこで魯釐公は斉を訪問した。
B.C.621臧文仲は陳と衛とが親睦しているのを見て、魯も陳と仲良くしようと思い、季孫行父を陳に遣わした。
あるとき臧文仲は季孫行父に『自分の仕える君に礼のある者を見たら、孝子が父母につくすように仕えなさい。その反対に、 君に対して無礼を行う者を見たら、その者を攻め殺しなさい』と教えたことがあった。季孫行父はその教えのままに行動した。
あるとき爰居という海鳥が魯の東門の外に3日間もいたので、臧文仲は民にこの鳥を祭らせた。柳下恵が「非理性的なるかな、臧孫は。 祭祀は国家の大切な制度であり、制度は政治の根本である。だから慎重に祭祀を制定して国法とするのだ。理由もないのに国法を増加するのは政治の道ではない」と言った。
臧文仲はこれを聞き「わたくしの過ちである。季子の話は、法典としなければならぬ」と言い、この話を記録させた。
B.C.617、3月、没して文仲と諡される。
鬷蔑(鄭)(ソウベツ)【文官】
鄭の臣。名は蔑。字は然明。
B.C.549子羽が晋に行ったとき、程鄭が「みずから位をさげる道はどうすればよいでしょう」と尋ねた。 子羽は答えず、帰国してから鬷蔑にこれを話した。鬷蔑は「彼はやがて死ぬであろう。でなければ逃げ失せるであろう。 位をさげるには人にへりくだるのみでよい。それに高い位に登ってさがる道を求めようとする者は知者である。きっと逃亡のきざしであろう。さもなければ、 きっと気ちがいなのだ」と言った。
B.C.548はたして程鄭が没した。子産ははじめて鬷蔑のすぐれていることを知った。 そこで子産は国の政治についてたずねると、鬷蔑は「民を見ることわが子のようにすべきです。道ならぬ悪人を見たら、必ず捕らえて罰すべきです」と答えた。
B.C.544、12月8日、鄭の大夫は良霄の家で盟いを結んだ。
裨「この盟いは、どれほど続くだろうか。禍は決してまだ終わっていない。必ず3年ほど経ったら禍もおさまるだろう」
鬷蔑「政権はどなたに行くだろうか」
裨「子産であろう。卿の序列からしても子産はその順番であるし、世間の人々に最も尊ばれている」
B.C.542鄭の人々が村里の学校に集まって政治の得失を批判していた。そこで鬷蔑は子産に「村里の学校を廃止したらどうでしょう」と言った。 子産は「どうして廃止したりしようか。私は人々が批判する中で、人々が善いと言う事を行ない、悪いと言うことを改めるようにしています。 人々の批判を止めさせるのは川を防ぐようなものです。堤防が決壊するとその害は甚大です。ですから人々の批判を聞いて、 それを薬として政治の参考にすべきです」と答えた。鬷蔑は「私は今はじめて、あなたが本当におつかえすべき立派な人物であることがわかりました。 私は実につまらない人間でした」と反省した。
鬷蔑(斉)(ソウベツ)【文官】
斉の臣。〜B.C.548。
B.C.548、5月17日、崔杼が斉荘公を弑した。
鬷蔑は斉荘公のお気に入りだったので、平陰で崔杼に殺された。
造父(ゾウホ)【武官】
秦。趙の先祖。衡父の子。
よく馬を御するので、周穆王に寵幸される。
穆王が崑崙山に西王母に会いに行った時、穆王の御者をしたという。
造父は八駿馬の車を御して、穆王のために天下を巡った。
徐で偃王が乱を起こしたので、造父は穆王の車を御し、一日に千里を走り、周に帰って乱を治めた。この功により趙城に封じられる。
造父の一族はこれから趙氏となった。
荘暴(ソウボウ)【文官】
斉の臣。
斉の政治を憂え、孟子に政治について質問をする。
『孟子』梁恵王章句下一章に見える。
宋木(ソウボク)【文官】
楚の臣。
B.C.505呉軍が撤退し、楚昭王は郢に帰還して宋木、王孫由于王孫賈王孫圉闘辛鐘建闘巣申包胥闘懐の功臣に賞を与えた。
曹沫(ソウマツ)【将軍】
魯の将軍。ソウカイ、ソウバツともいう。曹劌ともいう。
B.C.684斉が魯を攻め、魯荘公はこれを一戦しようとした。
曹沫は荘公に面会して「一体何を頼みとして戦をするのですか」と問うた。
荘公は「生活に大切な衣類や食物は決して独占することなく、必ず人に分け与えておる」と答えた。
「それは小さな恩恵というべきもので、広く人民にゆきわたっておりませんから、人民は従わないと思います」
「神を祭るにしても、いつわりを申さず、いけにえや玉帛は、ありのままに申し上げておる」
「それは小信であって大信とは申されず、そんなことでは神は幸福を与えませぬ」
「民の訴えごとは必ずまごころをもってあたり、民の利益を守ってきておる」
「それは忠に類するやりかたです。これで民は君命に従うでしょう。私もお供いたします」
曹沫は将軍として斉軍と長勺に戦った。斉軍が三度太鼓を打った後に進撃させ、大勝した。荘公は追撃しようとしたが、曹沫は敵の轍のあとを調べた後に「よし」と言って、 はじめて斉軍を追撃して大勝を得た。
荘公はその理由を尋ねた。曹沫は「戦は勇気が第一です。第一の太鼓で勇気をふるいおこさせ、第二の太鼓で勇気は衰え、第三の太鼓で勇気が尽きてしまいます。 それゆえ勝ったのです。
また斉のような大国は予測しがたいものがあります。伏兵を設ける恐れがあります。敵の轍を調べると乱れており、旗が乱れていたので、進撃したのです」と答えた。
B.C.680斉との講和会議の席で曹沫は匕首をとり斉桓公を壇上で脅迫して「魯から奪った土地を還せ」と迫った。 桓公がこれを承諾すると曹沫は匕首を捨て、北面して臣下の席についた。
曹沫は斉に三戦三敗であったが、これにより失地を回復した。
B.C.671荘公が斉に出かけて社(土地神)を見物しようとした。
曹沫は「礼は民を整えるものです。上下の法則を教え、財の節度をおさえ、朝廷で爵位の義を正し、長幼の序に従わせ、討伐して不然を討つ。諸侯は天子に仕え、 巡幸でこれを示します。
これに該当しなければ君は軽々しく動かないものです。君の言動は必ず記録されます。記録されて法に沿っていなければ、後嗣はどうして立っていけましょう」と諌めた。 しかし荘公は聴き入れずに斉へ赴いた。
曾夭(ソウヨウ)【文官】
魯の臣。季武子の家臣。
B.C.541曾夭は虢の会から帰国した叔孫豹の労をねぎらうためうかがったが、 叔孫豹は季武子のために危ない目にあっていたため曾夭に会わなかった。曾夭は叔孫豹の家臣曾阜に「わたしは主人の罪をわきまえております。 さりながら、魯はお互いに我慢し合うことで国を保っています」と言うと、曾阜は「主人は国外で数ヶ月も苦労しました。ここで一日お待ちになっても辛いことはありますまい」 と答えた。しかし曾阜が叔孫豹に「もう出て会ってもよいでしょう」と言ったため曾夭は叔孫豹に会うことができた。
相里勤(ソウリキン)【在野】
思想家。墨家の一派。姓は相里、名は勤。
墨家が3派に分かれたときの一派をなす。
蒼竜(ソウリュウ)【神】
東方の星、またその神獣。
青い竜。
相柳(ソウリュウ)【神】
古代の神。
相柳は緑色の蛇の身体と、9つの人間の頭を持っていた。9つの頭のそれぞれが同時にさまざまな地方から餌を食べて、その頭がぶつかったりよだれが垂れた場所は、 ことごとく腐ったような悪臭がただよい、土は汚染された。
相柳はに殺されたが、その血が流れ出し、悪臭が満ちて、土がさらに汚れた。そこで禹は穴を掘って、 その血をこの穴に流すようにしたという。
宗魯(ソウロ)【武官】
衛の臣。〜B.C.522。
宗魯は斉豹のとりなしで孟縶にまみえ、その右乗となった。
B.C.522斉豹が謀叛を起こそうとして宗魯に「公孟のよくないことはあなたのよく知っているところだ。彼の車に乗ってはならない」と伝えてきた。 宗魯は「わたしはあなたのおかげで仕官できましたが、、寵愛を求めようとして公孟から去らなかったのは、私の過ちでした。 しかしここで逃げれば推薦していただいたことに背くことになります。わたしは主人のために討ち死にしましょう。ただし、この秘密は守りましょう」と答えた。
6月29日、孟縶は蓋獲という郭門の外で祭りを行うこととなった。斉豹はその門の外にとばりをめぐらせて武装兵を伏せておき、薪の積んだ車の中に戈をかくして、 その車を門前に置いて孟縶のあとを追わせて襲った。宗魯は孟縶をかばって背で戈を受けとめようとしたが、 その一撃は宗魯の腕を切り落として孟縶の肩をも切りつけ、ふたりとも殺された。
楚丘(ソキュウ)【文官】
卜人。
叔孫豹が生まれたとき、叔孫得臣はその将来を占った。 楚丘は「他国に去りますが、やがてあなたの祭りを継ぐでしょう。牛という悪人を連れて帰るが、その者のために自分は餓死するであろう」と言った。
祖己(ソキ)【皇帝】
商王朝22代王。武丁の子。
『史記』では商王朝の臣で武丁に仕えたとされる。雉が祭器の鼎の耳に止まって鳴いたことを見て判断し、武丁に正しい祭を継ぎ非道な礼を行わないように進言する。 武丁は政を修め徳を行ったため、天下の者はみな喜び商は復興した。
続牙(ゾクガ)【神】
続牙はの7人の友人であった。
息桓(ソクカン)【武官】
楚の臣。
B.C.548秋、楚は舒鳩が叛いたので、これを討った。そこで呉が舒鳩を助けに来た。令尹屈建が急に右軍を率いて舒鳩に攻め入り、 子彊・息桓・子捷子駢子盂の左軍は呉軍と遭遇したため、退却した。子彊は「このまま長くこの状況が続くと、 雨のために低い土地は狭くなって身動きが取れなくなるだろう。すぐに戦ったほうがよい。 わたしが兵を率いて敵に誘いをかけるので、精兵を選んで様子を見ていてくれ。わたしが勝ったら進撃し、負けたら援助してくれ」と言ったので、みんなそれに従った。 5人の将はまず呉軍を攻撃した。呉軍は逃げ、山に登って楚に援軍のないことを知ると、再び攻撃してきた。すると待ち構えていた精兵がこれに攻めかかり、 呉軍に大勝した。楚軍は勢いに乗じて舒鳩を包囲して、これを潰滅させた。
8月、楚軍は舒鳩を滅ぼした。
続簡伯(ゾクカンハク)
狐鞫居
息嬀(ソクギ)【女官】
陳の公女。息侯の夫人。楚文王の夫人。
B.C.684蔡哀侯は陳から夫人を迎えた。ちょうど息侯も陳から息嬀を迎え、その息嬀が息に嫁ぐ途中、蔡に立ち寄った。 哀侯は「わたしの妻の姉妹だ」と言って引きとめて会ったが、無礼であったので、息侯は立腹して、 楚文王に「わが国を討ちに来てください。わたしは蔡に救いを求めます。そこを共に蔡を討つことにしましょう」と申し出た。
9月、蔡軍は蔡のシンで破られ、哀侯は捕えられ、楚に連行された。
B.C.680蔡哀侯は息の策略にかかって楚に討たれたことを恨み、息嬀の美貌を褒めはやして楚文王をたきつけた。文王は息に出かけ、息侯をもてなす宴会を開き、 それに乗じて息を滅ぼし、息嬀を連れて帰った。
7月、楚文王は蔡の策略であることに気づき、蔡を討った。
息嬀は文王との間に囏(荘敖)惲(成王)を生んだ。 しかし息嬀は文王と口を利かなかった。文王がその理由を尋ねると、息嬀は「わたしは女の身でありながら、ふたりの夫に仕えました。 たとえ死ぬことが出来ないにしても、どうして口をききましょうか」と答えた。
B.C.666令尹子元は息嬀を誘惑しようとして、息嬀の宮殿のそばに別邸を建てて舞をまわせた。 息嬀はこれを聞いて泣きながら「なくなった君(文王)がこの舞をまわせたのは軍備を習わせるためでした。しかるに令尹は敵を討つために用いず、 この後家(息嬀)のそばで用いるとはおかしなことではありませんか」と言った。
秋、そこで子元は兵車600乗を率いて鄭を討ち、桔シツの門に攻め入った。
祖庚(ソコウ)【皇帝】
商王朝23代王。祖己の弟。
祖甲(ソコウ)【皇帝】
商王朝24代王。祖庚の弟。
B.C.1111祖甲は湯刑を作った。
祖甲は淫乱であったため、商王朝また衰えた。
胙侯(ソコウ)【公子】
魯の公子。周公旦の五子。
作氏の始祖となる。
蘇従(ソショウ)【文官】
楚の臣。
荘王は即位してから3年間、日夜享楽して「あえて諌める者あらば、死刑に処して許さず」と布告した。
B.C.612蘇従は荘王を諌めた。荘王が「そちはあの布告を聞いていないのか」と言うと、従は「わが身を殺しても、君を賢明にしたいのが、わたくしの願いです」と言った。
そこで荘王は淫楽をやめて国政に身を入れ、誅殺するもの数百人、登用するもの数百人、伍挙と蘇従に命じて政治にあたらせ、 人民にすこぶる喜ばれた。
祖辛(ソシン)【皇帝】
商王朝13代王。祖乙の子。
蘇秦(ソシン)【宰相】
縦横家、六国の宰相。字は季子。武安君。洛陽の人。〜B.C.320。
斉に行って鬼谷先生に学んだ。放浪すること数年、大いに困窮して郷里に帰った。
兄弟嫂妹妻妾らは嘲笑して「周の習いとして什二(二割)の利益を追うのが人の務めであるのに、 きみはただ口先の論議をしている。苦しむのも当然だろう」と言った。
蘇秦は心に恥じ入り、部屋にこもって説得の術を案出した。
B.C.336周顕王を説こうとしたが、側近の者は蘇秦を熟知していたので、軽蔑されて相手にされなかった。
秦に赴いたが、秦では商鞅を誅し、弁舌の士を憎んでいたので、蘇秦は登用されなかった。
趙に赴いたが、趙の宰相奉陽君に歓迎されなかったので、燕に赴いた。
燕にいること一年余りで、ようやく謁見を許され、文公に説いて「燕が秦に攻められないのは、趙が障壁として西南にあるからです。 今、秦と趙は争っていますが、燕は趙と合従し、秦にあたるべきです」と言った。
そこで文公は資金として車馬・金帛を蘇秦に与えて趙に赴かせた。
蘇秦は奉陽君が没していたので、直接趙粛侯に説いて「いま大王がもし秦に与されるなら、秦は山西で強大となり、 のちに趙はこれと対峙しなくてはならなくなるでしょう。いま秦が兵を挙げて趙を討たないのは、韓・魏があるためです。ここで大王には六国と結んで秦を討つべきです。 そうすれば秦は函谷関を出て山東を侵すことはなくなりましょう」と進言した。
趙粛侯はこれをよしとし、車百乗・黄金千鎰・白壁百双・錦繍千反を飾り立てて諸侯への贈り物とし、合従を約定させようとした。
秦が魏を討ち、彫陰を取った。蘇秦は、秦が趙を討つと合従が破れるのを恐れ、張儀をはげまして秦に赴かせた。
また韓宣恵王を説き「もし大王が秦に仕えたら、秦はかならず韓の地を求めて、あくことを知らないでしょう。俗諺に『鶏口となるも、 牛後となるなかれ』といいますが、秦に臣事すること、何と牛後となるに異なることがありましょうぞ」と言った。宣恵王は色をなし臂をまくり目をいからせ 「わしは不肖の者ながら、秦には断じて仕えない。いまあなたから趙王の忠言を告げていただいた。つつしんで国家を挙げて、ご意見に従いましょう」と言った。
また魏襄王に説いて「いま大王は群臣の言うところを聴き入れ秦に臣事されようとしていますが、しからば必ず国土はさかれましょう。 秦に仕えさそうとする者は、公家の破滅によって私門の成功をかちとり、また主君をおびやかしているのです。大王には熟慮され、六国合従して、 強秦を避けられますように」と言った。襄王はよしと言い、これに従った。
ついで斉宣王に説いて「秦が斉を攻めようとすれば、韓・魏を通過しなくてはなりません。ここで大王はあえて秦に屈従する汚名をきず、 六国合従を行うべきです」と言った。宣王はよしと言い、これに従った。
さらに楚威王に説いて「楚は強国でありますが、その勢いは秦と両立いたしません。大王のために利害をはかりますに、 六国が従親して秦を孤立させるのが一番です」と言った。威王はこれに従った。
こうして六国は南北に合従し、協力することとなった。
蘇秦は合従の長となり、六ヶ国に同時に宰相となった。
そして趙王に復命しようと、洛陽を通過した。周顕王はこれを聞き、恐懼して沿道の人払いをし、使者を郊外に出迎えさせてねぎらった。 蘇秦の兄弟妻嫂らは仰ぎ見ることもできず、這いつくばっていた。蘇秦は笑って嫂に言った。「どうして前には威張り、いまはこうもうやうやしいのか」
「季子(蘇秦)の位高く、金持ちであるためです」
蘇秦はああと嘆息して「同じ身でありながら、富貴となれば親戚もおそれ、貧賤となればあなどられる。まして他人とあれば、なおさらのことだろう」と言い、 千金を散じて一族朋友に施した。
趙粛侯は蘇秦に封邑を与えて武安君と号し、合従の約定を秦に通告した。このため、秦は函谷関から中原をうかがわなかった。
B.C.334秦が犀首に命じて斉・魏を欺き、趙を攻めた。趙粛侯は蘇秦を責めたので、蘇秦は恐れて燕に赴いて斉に報復すると請い、 趙を去った。ここに合従は解消された。
B.C.333燕文公が没すると斉宣王は喪に乗じて燕を討った。蘇秦は斉宣王に説いて「いま燕は弱小国とはいえ、秦にとっては女婿の国です。いまこれを還さなければ、 斉が禍を受けましょう」と言った。斉宣王は恐れて奪った十城を燕に返還した。
斉で蘇秦をそしる者がおり「あちこちに国を売り、心に表裏のある臣である。やがて乱をおこすことでしょう」と讒言した。蘇秦は罪に陥れられるのを恐れ、燕に帰ったが、 燕でも元の官にはつけなかった。
しかし蘇秦はまた燕易王を説いて、もとの官位に戻った。
蘇秦は易王の母と私通していた。易王はこれを知りながら、いよいよ厚く蘇秦を待遇した。
B.C.324蘇秦は誅殺されるのを恐れ、斉に赴き燕を尊重させようと言い、斉に亡命した。
斉宣王は蘇秦を客卿としたが、宣王は没した。蘇秦は湣王に葬式を盛大に行うように進言した。 これは燕のために斉を財政的に疲弊させようとしたためである。
B.C.320燕易王が没し、が立った。蘇秦は斉の大夫の刺客に刺されたが、まだ絶命に至らなかった。蘇秦は死に瀕して斉湣王に 「もしわたくしが死んだら、わたくしを車裂きの刑に処し、『蘇秦は燕のために謀り謀反した』と言われよ。そうすれば、わたくしを刺した賊は必ず捕らえられましょう」と言い、 没した。
はたして刺客が自首してきたので、湣王はこれを誅殺した。
蘇射(ソセキ)【文官】
趙の臣。武垣の県令。
B.C.260秦が邯鄲を包囲すると、傅豹王容らとともに燕の衆を率いて燕の地で背いた。
蘇仙公(ソセンコウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
桂陽の人。漢文帝のころに得道した。あるとき仙人の仲間が訪れて、彼らと共に雲の中に跳び上がって去った。
蘇代(ソダイ)【宰相】
縦横家。蘇秦の弟。
蘇秦が成功したのを見て、遊説の術を学んだ。
あるとき燕王が蘇代に「私はうそつきの言うことが大嫌いだ」と言った。
蘇代は「私の故郷の周では仲人を軽蔑します。なぜなら、彼らは両方を誉めちぎるからです。しかし、仲人がいるから縁談が順調に進んで話がまとまるのです。 それに物事は、いつも常道だけでうまくいくものではなく、臨機応変に対応していかねば成功しませんし、情勢を無視しては成功しません」と言った。
燕王は「なるほど、そういうものか」と納得した。
燕王を説いて斉を弱める策を述べた。噲は「わしはついにきみの力で覇王たるべき天命を受けた」といって、 その子を斉に人質に出し、蘇代は蘇厲とともに斉の臣となった。
蘇代は斉に赴き、斉宣王に登用される。斉のために燕に使いする。燕王噲が「斉王をどう思うか」と聞くと 「けっして覇者にはなれません」と答える。「どうしてか」と問われると、「自分の臣下を信じないためです」と答えた。蘇代はこのように燕王を刺激することで、 自分と交際のある燕宰相子之の地位を高くしようとしたのであった。のちに子之からお礼として百金をもらう。
B.C.312燕は昭王を立てて国王とした。蘇代は蘇厲とともに燕に戻らず、斉に帰属し、斉は彼らをよく待遇した。
蘇代は魏を通過したとき、魏は燕のために蘇代を捕らえた。斉が魏を説得したので、蘇代は釈放された。
蘇代は宋に赴き、宋でよく待遇された。
B.C.310魏の宰相田需が死ぬと、楚は張儀犀首田文らが宰相になることを恐れた。
蘇代は楚の宰相昭魚に「誰が宰相になればよいとお考えになりますか」と問うた。
昭魚は「わたしは太子みずからが宰相となるように願っている」
「では君のために北のほう魏に行き、かならず太子を宰相にしてごらんにいれましょう」
蘇代は魏襄王に謁見して「楚の宰相昭魚は張儀、犀首、薛公のうちひとりが宰相になるのではないかとおそれております。 それで私は申しました。『魏王は賢主であります。張儀が宰相となれば、秦を第一にし、魏を二の次にするでしょうから彼を宰相にしないでしょう』と。
襄王は「しからばわしは誰を宰相にしたらよいのか」と問うと、
蘇代は「太子みずから宰相になることが一番です。そうすれば先の三人はこれを臨時の宰相とみなして、みなそれぞれの本国を利用して魏に仕えるでしょう。 そうすれば魏はかならず安泰です」と言った。
ついに襄王は太子を宰相とした。
B.C.307秦が韓を攻め、楚が韓を助けるため宜陽に出兵した。そのとき周が韓のために出兵したが、そのことを楚は、周が秦のために出兵したと疑った。
蘇代は楚王に「どうして周が秦のために出兵などいたしましょう。楚が周を疑うと、周は必ず秦につくでしょう。王のためにはかりますに、 周が何をしようといつもよしといって自ら周に親しんだら、周は必ず楚と親しむでしょう」といい、周が韓を救うことができるようにした。
楚が韓の雍氏を囲み、韓が周に兵器と食料を求めた。蘇代は「韓に甲と粟を渡さず、また高都の地を君のために手に入れましょう」と言った。蘇代は韓の宰相に 「今、韓が周に甲と粟を求められるのは、みすみす楚に韓のうれいを告げるようなものです」韓の宰相は「わかった」と言った。ついで蘇代は 「周に高都を割いていただきたい」と言うと、宰相は怒ったが、蘇代は「周に高都を与えれば、周は韓に味方するようになり、秦との親行はなくなります。 どうして与えられませぬか」宰相ははたして高都を周に与えた。
B.C.306秦の向寿が宜陽を守備し、ついで韓を討とうとした。韓の公仲は蘇代をつかわして 「韓は滅亡に瀕すれば、公仲はかならずみずから私兵を率いて秦に手向かいましょう」と言った。
向寿は「わたしは韓を滅ぼそうとするのではない」と答えた。
公孫奭は韓に与し、甘茂は魏にくみし、あなたは楚にくみしています。しかし楚はよく心変わりするので、 あなたは韓と親善しておくべきです」
「いかにもそれを希望する」
「甘茂は武遂と宜陽を返還しようとしていますが」
「どうすればよいか」
「楚・韓を味方につけて安んじ、斉・魏の罪を責めれば、公孫奭と甘茂はあなたに手出しできないでしょう」
しかし甘茂は昭襄王に進言して、武遂を韓に返した。
甘茂は斉に出奔し、蘇代に会った。甘茂は蘇代に秦に復帰できるように頼んだ。蘇代は秦に行って「甘茂は非凡の士であります。 また甘茂は長く秦に仕えていたので、秦の険阻平坦をみな知っています。もし彼が斉を動かし、韓・魏と同盟して逆に秦にはかるなら、秦のためにはなりますまい」と言った。
昭襄王は即刻、甘茂に上卿の位を与え、宰相の印をもって斉から迎えようとした。しかし甘茂は行かなかった。蘇代は斉湣王に 「甘茂は賢人であります。秦が上卿の位を与え、宰相に任じようというのに、甘茂は王の臣となることを喜んでこれを辞退しました。 王は何をもって彼を礼遇なさいますか」と言った。そこで湣王は甘茂に上卿の位を与えた。
B.C.301秦昭襄王がその賢を聞いて、弟の涇陽君を斉に人質として出し、 孟嘗君に会見を求めた。 孟嘗君はこれに応じて秦に行こうとしたが、蘇代がこれを諌めたので、孟嘗君は秦行きをとりやめた。
B.C.298韓の太子が没す。韓の公子咎と公子蟣蝨が、太子の位を争った。
蟣蝨は楚に人質となっていたので、蘇代は韓咎(公子咎とは別人)に「楚王は蟣蝨を韓に入れることにすこぶる熱心です。 あなたはどうして楚王に万戸の都邑を雍氏のかたわらに築かせ、雍氏を包囲させないのですか。もし築けば、韓はかならず出兵して雍氏を救おうとし、 あなたはかならずその軍の将軍となりましょう。
もし蟣蝨を奉じてこれを韓に入れれば、彼は必ずあなたを徳とし、あなたを奉ずるに相違ありません」と言った。
韓咎はそのはかりごとに従い、雍氏を包囲した。
しかし韓が楚と友好を結んだため、楚は包囲を解いた。
また蘇代は秦の太后の弟羋戎に「韓の公叔と公子咎は、秦や楚が蟣蝨を韓に送り込むことを恐れています。 あなたはどうして韓のために、人質の蟣蝨を韓に還すよう楚に要求なさらないのですか。楚王がこれを聴き入れて、人質を韓に返すなら、 韓は必ず秦・楚と連合するでしょう。また聴き入れられなければ、韓は楚に恨みを持ち、斉・魏を味方にして楚を囲むなら、楚はかならずあなたを尊重しましょう」と言った。
結局蟣蝨は韓に帰り、太子となることはできなかった。
B.C.294秦の亡臣呂礼が斉の宰相となり、蘇代を苦しめようとした。蘇代は孟嘗君に「呂礼が重んじられば、斉は秦と連合し、 かならず君は軽んじられましょう。君には、斉と秦の連合を妨げ、諸侯と結ぶようにさせるべきです」と言った。
孟嘗君は呂礼に害されるのを恐れていたので、秦の宰相魏冄に書を送って、斉を攻めさせ、呂礼を失脚させた。
B.C.288斉湣王は東帝を称し、秦昭襄王は西帝を称した。
蘇代は燕から斉に入り、章華宮の東門で湣王に謁見した。
「天下に二人の帝王が立った場合、天下が斉と秦、どちらを尊ぶと思し召されますか」
「秦であろう」
「帝号を捨てれば、天下は斉を愛するでしょうか」
「斉を愛して秦を憎むだろう」
「二人の帝王が立ち、約束して趙を討つのと、桀宋を討つのと、どちらが利益でしょう」
「桀宋を討つほうが利益だろう」
「それゆえ王には帝号を捨てて、天下の人心を収め、桀宋をお討ちください。そうすれば国は尊ばれ、名声は高まりましょう」
かくて斉は帝号を捨て去った。
B.C.284斉が宋を討ち、宋が危急に瀕した。蘇代は燕昭王に書信を置くって「王はなぜ遊説の士に、秦王を説得させ、秦を味方にして斉を討たないのですか。 秦を引き入れるのは厚い交わりであり、斉を討つのは正しい利得でありますし、これは聖王の事業です」と言った。
昭王は「燕として斉に復讐しようとするなら、蘇氏以外に適任者はいない」と言って蘇代を召し寄せ、ふたたび燕で厚遇された。燕はついに斉を破った。
燕は諸侯に合従を約定させようとし、あるものは合従し、あるものは合従しなかった。しかし天下はこれによって蘇氏の合従を重視した。
B.C.274魏は秦に趙・韓とともに破られ、15万の兵を失い、将軍芒卯は敗走する。 段干子は秦に南陽を与えて和睦するよう安釐王に請うた。
蘇代は安釐王に「印璽を欲しがっているのは段干子で、土地を欲しがっているのは秦です。いま王は土地を欲しがっているものに印璽を扱わせ、 印璽を欲しがっているものに、土地の割譲をまかせられようとしています。これでは魏の土地がなくなるまで交渉がやむことはないでしょう。
秦に土地を与えるのは、ちょうど薪を抱いて火を消そうとするようなもの、薪が燃え尽きてしまわなければ、火は消えません」と言った。
しかし安釐王は「それはそのとおりだが、もう交渉は進んでおり改められないのだ」と言った。
蘇代は「将棋の梟の駒は他の駒を食おうと思うときは食い、食いたくなければ食いません。いま王はそのようにおっしゃられますが、これは何と王の智恵の用い方が、 梟の用い方に及ばないのでしょうか」と言った。結局、魏は秦と和睦した。
また秦は趙に援軍を求め斉を討とうとした。斉襄王は恐れて蘇代に命じて魏冄に書信を送って 「わたしは秦が斉を討たないと斉王に断言しました。第一に、斉を討って趙を肥やすことになりますし、第二に弱小の斉を討つのに晋・楚は疲れないこと、第三に秦が斉を討てば、 斉は恐れて晋・楚につくこと、第四に晋・楚が強大になること、第五に斉と秦が疲弊することがあげられるからですと」と言った。
そこで魏冄は兵を引いて帰った。
B.C.259韓・趙は秦の進撃をおそれ、蘇代に命じて秦の宰相范雎に説いた。
「武安君(白起)は馬服君の子(趙括)を虜にせられましたか」
「いかにも」
「やがて邯鄲を包囲されますか」
「いかにも」
「武安君の功は周公召公呂望も及びません。 趙が滅亡すれば武安君は三公でしょう。そのとき君は、その下風に立つことが我慢で来ましょうか。またこれ以上君が得る土地もなくなります。 ここは韓・趙の地を割き取るだけにし、これ以上武安君の功績を大きくしないのが、よいと思います」
范雎はこれに従って昭襄王に「秦の兵は戦いに疲れております。韓・趙が地を割いて、和を講じるのを許し、 わが士卒を休息させてやりたいと存じます」と進言したので、これを聴き入れ韓の垣雍と趙の六城を取って講和した。
蘇代は天寿を全うして没し、その名は諸侯に知られた。
祖丁(ソテイ)【皇帝】
商王朝15代王。祖辛の子。
蘇忿生(ソフンセイ)【文官】
周王朝の臣。司寇。
蘇忿生は周武王のとき、司寇となる。
蘇忿生は温・原・絺・樊・隰郕・欑茅・向・盟・州・陘・隤・懐を采邑として治めた。
その後蘇忿生は周王朝に背いて狄についた。
蘇忿生は狄と仲が悪くなったため、衛に出奔した。
蘇厲(ソレイ)【文官】
縦横家。蘇代の弟。
蘇秦が成功したのを見て、遊説の術を学んだ。
蘇厲は燕王を説いて斉を弱める策を述べた。噲は「わしはついにきみの力で覇王たるべき天命を受けた」 といって、その子を斉に人質として蘇代とともに斉の臣となった。
B.C.283趙が秦とともにしばしば斉を討ち、斉人はこれを憂えた。斉は蘇厲をして趙に書簡を送って言った「今、秦が趙と結んで斉を討っているのは、 秦が韓と周を滅ぼそうとしているためです。それゆえ斉を討ってその土地を分割しようと天下を誘っているのです。決して趙のためになりません。
また斉が討たれるのは、斉が趙王に仕えているからです。これでは天下の諸侯は逆に王を滅ぼそうとはかるでしょう」
そこで趙は兵を退き、秦にことわって斉を討たなかった。
B.C.281秦の白起が梁を攻めるのを聞き、周王に「秦が周辺を併呑しているのは白起の力によるものです。人をやって白起に『楚に養由基という者がおり、 弓が上手で百発百中で、皆名手だと感心していた。一人かたわらにたっている物がおり、あれなら弓を教えてやっても良いと言った。養由基は怒ったが、その男は、 お前に弓の射かたを教えるのではない。百発して百中なら、技のよいところでやめなくてはならないということだ。そのうち当たらないこともあるだろう。 一発当たらないと、今までの百発百中もほとんど無効になるのだ。これと同じ道理で、公が今まで、韓・魏・趙を討った功績は大きいが、 今回もし梁を攻めて敗れることがあったら、前功はみな帳消しになるだろう』と説きつけられるのがよろしいでしょう」と進言した。
燕は諸侯に合従を約定させようとし、あるものは合従し、あるものは合従しなかった。しかし天下はこれによって蘇氏の合従を重視した。
蘇代は天寿を全うして没し、その名は諸侯に知られた。
孫悪(ソンアク)【文官】
鄭の臣。子狐の子。
B.C.565、4月12日、子駟は子狐・子煕子侯子丁の4人の公子に罪を着せて殺した。そのため孫撃と孫悪は衛に逃れた。
孫嘉(ソンカ)【文官】
衛の臣。孫文子の長子。
B.C.547孫嘉は斉に出かけた。その留守を狙って甯喜が孫氏に攻め入った。
孫蒯(ソンカイ)【武官】
衛の臣。孫文子の子。
B.C.563、6月14日、楚・鄭軍が宋の都を囲んで桐門(北門)に攻め入った。衛献公は宋を救うために衛の襄牛まで軍を進め、 鄭軍を破った。鄭の皇耳がこれを迎え撃って衛に攻め入ってきた。孫文子がこれを討ち、孫蒯は皇耳を鄭の犬丘で捕らえた。
B.C.559孫文子が衛献公に侮られたため、孫文子は私邑の戚に退いて、孫蒯を参上させた。 宴の席で楽人が「巧言」を歌ったので、孫蒯は衛献公が孫文子が謀叛を企てていると言おうとしたと感じて大いに恐れ、孫文子に報告した。 そのため孫文子は衛献公を討った。
B.C.556孫蒯は国境を越えて曹の隧道の地まで行って狩をし、曹の重丘で馬に水を飲ませようとしてつるべを壊してしまった。 重丘の人々は城門を閉じて孫蒯をののしって「お前の父は自分の君を追い出した。お前の父は死んだら悪鬼になるだろう。お前はどうして狩りなどしているのか」 と言った。
夏、孫蒯は石買と共に曹を討って重丘を占領した。そこで曹人は晋に訴えた。
B.C.555夏、孫蒯は晋の純留で捕えられた。
B.C.547、2月、孫氏は衛軍に攻められた。衛の殖綽が攻めて来て晋兵300人を殺した。孫蒯はこれを追撃したが、 その勢いを恐れて攻撃しなかった。孫文子が「悪鬼にも劣るやつだ」と叱ったので、孫蒯は衛軍を追撃して圉でこれを討ち破った。
孫桓子(ソンカンシ)
孫良夫
孫撃(ソンゲキ)【文官】
鄭の臣。子狐の子。
B.C.565、4月12日、子駟は子狐・子煕子侯子丁の4人の公子に罪を着せて殺した。そのため孫撃と孫悪は衛に逃れた。
孫叔(ソンシュク)【武官】
鄭の臣。子如の子。〜B.C.578。
B.C.578孫叔は子如とともに叛乱を起こした。
6月17日、子駟が国人を率いて祖廟で子如の討伐を盟い、子如の軍を追撃して市街に火をかけて全焼させ、 孫叔は殺された。
孫叔敖(ソンシュクゴウ)【宰相】
楚の宰相。令尹。蔿賈の子。蔿敖、蔿艾猟ともいう。
孫叔敖は処士(出仕しない者)であったが、楚の宰相虞丘相が自分に代わるものとして、彼を楚荘王に推薦した。
孫叔敖は3ヶ月の後、楚の宰相となった。
孫叔敖は強化を施し民を導いたので、上下和合し、風俗極めて麗しく、政治はゆるやかながら禁じたことは守られ、役人に姦邪なものがなく、盗賊が起こらなかった。 秋冬には人民にすすめて山に入り竹木を採らせ、春夏には増水を利用して、その竹木を運び出させた。すべての者が利便を得、人民はみな生活を楽しんだ。
あるとき荘王は貨幣が軽すぎるとして小型から大型のものに改めたが、人々はこれを不便がった。市場の長が孫叔敖にこの不便を訴えたので、 孫叔敖は荘王に言上してもとに戻させた。
楚の風俗では低い車が好まれたが、荘王は低い車は馬車として不便であると思い、命令を出して車を高くさせようとした。孫叔敖は「たびたび命令が出ると、 人民は迷ってしまいます。どうしても車を高くしたいとお思いなら、村里の役人に命じて里門の梱(両扉の合う所の支え木)を高くさせて下さい。車を用いるほどの人は、 みな君子であり、しきりに車を乗り降りすることはないでしょうから」と言った。荘王はこれを許可すると、半年ほどで民は自発的に車を高くした。
孫叔敖は三度宰相の地位を得たが、喜ばなかった。自分の才能でみずから地位を得たことを知っていたからである。彼は三度その地位を去ったが、悔いは無かった。 自分の罪によって失ったのでないことを知っていたからである。
B.C.598孫叔敖は荘王の命により沂に城壁を築いた。30日で完成させたが、すべて計画通りであった。
B.C.597春、楚は鄭を討って、これと和睦した。
6月、晋が鄭の救援にやってきたので荘王はすぐに引き揚げようとした。
伍参「晋の政治を執っている者はまだ就任が浅く、命令が実行されていません。晋は必ず負けます」
孫叔敖「去年は陳を討ち、今年は鄭を討って休む暇がありません。晋と戦って勝てなければ、参の肉を食ったところで飽き足らないでしょう」
伍参「戦いに勝ったなら、孫叔殿、あなたは軍略に長じているとは言えなくなります。ともかく勝てなければわたしの肉は晋の軍中にあり、 あなたは食べることができないでしょう」
荘王は悩んだが、孫叔敖に告げて車の向きを北に進ませ、鄭の管に軍を駐屯させて晋軍を待った。
晋の趙旃が夜襲をかけて荘王はこれを追撃した。そこに晋軍の援軍が来たため、孫叔敖は「直ちに進撃せよ。 人の機先を制するのだ」と下知して晋に大勝した(邲の戦い)。
孫叔敖は期思(芍陵)の陂を作って雩婁の地を灌漑した。
孫叔敖は楽人優孟と親しくしていた。孫叔敖は病気で死に瀕したとき「わしが死ねば、 きっとおまえは貧乏するだろう。おまえは優孟に会い『わたしは孫叔敖の子である』と言うがよい」と遺言した。
はたして、その子は困窮したため、優孟に面会し、事のしだいを告げた。優孟は荘王に言上したので、その子は召されて寝丘の400戸に封じられて父祖を祀り、それ以来10世の間、 子孫が絶えなかった。
孫書(ソンショ)【武官】
斉の臣。田無宇の子。字は子占。
B.C.523秋、斉は莒を攻め、紀に押し寄せた。紀の場内から縄が投げられたため、孫書はこれを使って城壁を登って城内に攻め入った。 莒共公が場外に逃げだしたため、孫書はこれを追撃した。
孫襄(ソンジョウ)【武官】
衛の臣。孫文子の次男。伯国ともいう。〜B.C.547。
B.C.547孫文子は私邑の戚におり、兄の孫嘉は斉に使者として出かけていたので、孫襄は留守を守っていた。
2月6日、甯喜と右宰が留守を狙って攻め入ってきた。 孫襄はこれを防いだが、負傷して没した。
孫昭子(ソンショウシ)【武官】
衛の臣。
B.C.626、5月、晋に攻められ、戚が囲まれた。
6月9日、戚は陥落し、孫昭子は晋に捕えられた。
孫知(ソンチ)【武官】
鄭の臣。子駹の子。〜B.C.578。
B.C.578孫知は子如とともに叛乱を起こした。
6月17日、子駟が国人を率いて祖廟で子如の討伐を盟い、子如の軍を追撃して市街に火をかけて全焼させ、 孫知は殺された。
孫登(ソントウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
嵆叔夜(嵆康)が孫登を訪ねたが、孫登は相手にしなかった。その後「若くて才能は優れているが、見識が足りず、保身が拙劣だからそのままでは済むまい」と言った。 案の定、叔夜は大罪に落とされてしまった。
孫博(ソンハク)【神】
仙人。神仙伝に見える。
河東の人。晩年になって道に熱中し、墨子の術を修行した。火をつけたり消したりすることができた。のち林虎山に入り、 神丹を服して仙去した。
孫伯糾(ソンハクキュウ)【文官】
晋の臣。伯宗の父。
孫臏(ソンピン)【将軍】
斉の将軍・兵法家。阿、鄄の人。孫武の子孫といわれる。
孫臏は龐涓と同門で、ともに鬼谷先生に兵法を学んだ。
魏に仕えていた龐涓は自分より優れている孫臏の存在を恐れ、魏に孫臏を呼び寄せて罪をかぶせて、足切りの刑に処し、顔にいれずみをさせた。 龐涓は孫臏を不浄の者として登用されることがないようにさせたのである。
斉の使者が孫臏と会う機会があり、使者はその才能を非凡とし、ひそかに斉につれ帰って孫臏は将軍田忌の客となった。
田忌はしばしば馬を駆って賭けをしていた。孫臏は馬に上中下の等級があり、速力ではさして差のないことを見て「わたしはきっとあなたを勝たせましょう」と言った。
「今、あなたの下の駟馬をもって相手の上の駟馬と取り組ませ、あなたの上の駟馬をもって相手の中の駟馬と取り組ませ、 あなたの中の駟馬をもって相手の下の駟馬と取り組ませましょう」と進言し、田忌は二勝一敗で勝ち、千金を得た。
そこで田忌は孫臏を威王に推挙し、威王は孫臏に兵法を問答してついに師と仰がれ、稷下の学士として兵法を教えることになった。
B.C.356魏が趙に攻めたとき、威王は孫臏を将軍に抜擢しようとしたが、刑を受けた人間だからといって辞退して、田忌の軍師として参戦する。 孫臏は趙へ行かずに魏に兵を進め、引き返してきた魏軍を桂陵で大いに破る。
B.C.341魏が趙を討った。趙は危急を斉に告げ、宣王は大臣にはかった。孫臏は「趙・魏の兵がまだ疲弊してもいないときに、 趙を援けるのはよくありません。趙は滅亡に瀕すれば、かならず斉を頼りとしましょう。そこで疲れた魏軍を討てば、大利と尊名を得ることができましょう」と進言し、 宣王はそのとおりとした。
趙が五戦して敗北すると、宣王は兵をおこし、田忌・田嬰を将軍とし、孫臏は軍師となり、趙を救うため魏を討った。
魏軍を馬陵で大いに破り、龐涓を殺し、太子を捕らえた。
この戦いで孫臏は「増兵減竈の計」を使った。竈の数を日に日に少なくしていき、脱走兵が多いと見せかけて龐涓に「斉軍恐るにたらず」と思いこませた。 孫臏は龐涓の行程を計算し、まさしく暮夜には馬陵に到着するものと推定した。馬陵は道狭く、かたわらに険阻多く、兵を伏せるには格好の要害であった。 そこで大樹を削って幹の木地を白くし、これに「龐涓この樹の下で死せん」と書いた。一方、射撃の上手な者を選び、一万挺の弩をもって道路を挟んで伏せさせ 「暮夜に火があがるのをみて一斉に発射せよ」と命じた。
はたして龐涓は軽騎で斉軍を追い、夕方にその地点に到着した。龐涓は白い幹に文字が書かれているのを見た。火をつけて照らし、読み終わるや否や、 万弩が一斉に発射され、魏軍は大敗した。龐涓はみずから頸を刎ねて死んだ。
孫臏は田忌に説いて「将軍には大事を決行なさるべき時です」と言った。田忌が「どうしたらよいか」と尋ねたので、 孫臏は「将軍は軍の編成を解くことなくご帰還され、一方で老弱の兵士に要害である主を守らせましょう。主は1人で10人の敵に当たることができます。 こうして太山(泰山)を背にし、済水を左にし、天唐(高唐)を右にして軍の輜重が高宛まで到着したら、戦車と騎兵を用いて臨淄の雍門を攻めます。 そうすれば斉君の側近を粛正して成侯(騶忌)を追放することができましょう。もし決行されなければ、 将軍は斉に入ることができないでしょう」と進言した。
しかし田忌は聴き入れなかったため、斉に帰還することができなかった。
孫武(ソンブ)【将軍】
呉の将軍・兵法家。斉の楽安の人。字は長卿。
兵法書『孫子』の著者とされる。
孫武は兵法に詳しかったので、呉王闔閭に謁見することができた。
闔閭が「あなたの著書13篇を読んだが、試しにすこし実際の錬兵を見せてくれないか」と言われ、宮中の美女180人で行うことになった。
孫武は王の寵姫二人を隊長とし、詳しく軍令を全員に説明した。
そこで太鼓を打って「右」と号令したが、婦人らは大いに笑うだけであった。孫武は「軍令が明瞭ではなく、号令の徹底しないのは、将たる私の罪である」といって、 また三度軍令を示し、五たびこれを説明した。
そして太鼓を打ち「左」と号令したが、またも婦人らは大いに笑うだけであった。孫武は「軍令がすでに明瞭であるのに、徹底できないのは隊長の罪である」 と言って隊長の二人を斬ろうとした。闔閭は台上から見ていたが「わしは将軍が用兵の達人であることがわかった。斬るのだけは勘弁してくれ」と言ったが、 孫武は「将たる者は、陣中におるかぎり、君の命といえども、 聴かないことがあります」と言い、ついに隊長二人を斬って見せしめとした。
そしてまた太鼓を打ったところ、軍令に背くものはなかった。孫武は闔閭に「錬兵は終わりました。どうぞ下りてご覧下さい」と言ったが、 闔閭は「将軍よ、宿舎に帰りお休みあれ。わしは下りようとは思わない」と言った。孫武は「王は兵法を好まれるだけで、実践で扱うことはできない」と言った。
しかし闔閭は孫武が用兵に堪能なことを知り、これを将軍とした。
B.C.513呉は楚の舒を陥落させた。このとき楚都郢まで進撃しようとする伍子胥に対して、 孫武は「民は疲れています。まだ勝利できません。待つべきです」と言って諌めた。
B.C.506孫武は兵法の手腕を発揮して3万の軍を率いて20万の楚軍を破り、ついに郢を陥落させた。
また孫武は北方で斉や晋を脅かした。
孫武は、夫差の時に、呉が衰退していくのを見て、去って隠棲したともいい、また罪を得て処刑されたともいう。
孫文子(ソンブンシ)【宰相】
衛の宰相。姓は孫、名は林父。孫良父の子。
B.C.584冬、衛定公は孫文子の専権を憎んだので、孫文子は晋に出奔した。後の禍を恐れた衛定公は、晋に出かけて事情を訴えた。 晋は孫文子が晋に与えた戚の邑を衛に返した。
B.C.577衛定公が晋を聘問した。晋厲公は孫文子と衛定公を無理に引き合わそうとしたが、衛定公は拒否した。
夏、晋の郤犨は孫文子を衛に送届けた。衛定公は拒絶しようとしたが、 夫人定姜の諌めを受けて孫文子に会い、孫文子は父の位に復職した。
孫文子は決してたいせつな財産は都に置かず、すべて私邑の戚に置いて、晋の大夫と仲良くした。
B.C.576、11月、孫文子は晋の士燮・魯の叔孫喬如・ 斉の高無咎・宋の華元・鄭の公子・ 邾人と鐘離で会合し、呉王寿夢と会合した。
B.C.571、7月、孫文子は智罃孟献子・華元・曹人・邾人の戚で会合して、 鄭を討つ相談をした。
冬、孫文子は智罃・孟献子・崔杼・華元・曹人・邾人・滕人・薛人・小邾人と戚で会合し、虎牢に城を築いたので、 鄭は諸侯と和睦した。
B.C.568晋が衛と魯に命じて、さきに呉と会合させ、諸侯との会合の日取りを呉に伝えさせることとした。そのため孫文子は魯の孟献子とともに呉に行き、 呉の善道で会合した。
B.C.566、10月、孫文子は魯を訪れ、季武子の来聘に対する返礼を行った。その饗宴のとき、 孫文子は魯襄公が階段を登るとすぐ続いて登るという無作法をした。叔孫豹は 「諸侯の会合のとき、わが君は衛君におくれて階段を登ったことはありません。ところがあなたはわが君に遅れずに登りました。 何かわが君に過失があってのことでしょうか。どうかもう少しゆっくり登ってください」と諌めたが、孫文子は返事もせず、また改める様子もなかった。 叔孫豹は「孫子はきっと滅びるであろう。臣でありながら君のふるまいをし、誤っても改めようとしない。身の滅びる本である」と言った。
B.C.563、6月、楚・鄭が宋の都を包囲した。衛献公は宋を救うために衛の襄牛まで軍を進めて、鄭軍を討った。孫文子は鄭軍を追撃しようとして、 その吉凶を占って結果を定姜に見せた。定姜は「敵を防ぐ方の利になるということです。よく考えられよ」と言った。 しかし衛軍は追撃を行い、鄭の皇耳を捉えた。
B.C.562、4月19日、諸侯は会合して鄭を討った。孫文子は鄭の北境に攻め入った。
B.C.559衛献公が孫文子と甯恵子に一緒に食事をしようと誘ったが、 日が暮れてもふたりを召さずにおおとりを林で射ていた。孫文子と甯恵子がそこへ行くと、衛献公は挨拶もせずに話しかけた。孫文子はその無礼さに腹を立て、 「君はわたしを嫌っている。先手を打たねばきっと殺されるであろう」と言い、 妻子を戚に送ってから朝廷に出かけて遽伯玉に会い「わが君の暴虐ぶりはあなたもご存知の通りです。 これでは国が危ない。あなたはどうお考えですか」と尋ねた。遽伯玉は「どうして臣下たる者がたてつくことができましょう。もしたてついたとしても、 今日よりよくなるとは思われません」と答えた。孫文子は戚に退き、子の孫蒯を参上させた。 衛献公が孫文子が謀叛を企てていると言おうとしたので孫蒯は大いに恐れて孫文子に報告した。
衛献公が子蟜子伯子皮ら公子に命じて孫文子と丘宮で盟わせて仲直りしようとしたが、孫文子はこの3人を殺した。 衛献公は衛の鄄に逃れ、公子子行を孫文子に遣わして和議を申し入れたが、孫文子はまたもこれを殺した。 そこで衛献公は斉に出奔した。孫文子はこれを追撃して阿沢で討ち破った。
そこで孫文子は定公の弟を立てて国君とし、孫文子は宿に封ぜられた。
冬、孫文子は晋・魯・宋・鄭・莒・邾と戚で会合した。諸侯は公子剽の即位を認めた。
B.C.554夏、孫文子は晋の欒魴とともに斉を討った。
B.C.547孫文子は甯喜と君の寵を争っていた。
2月6日、甯喜が右宰とともに孫氏を攻めてきたが勝てなかった。このとき孫文子は私邑の戚におり、 長子の孫嘉は斉に出かけていて留守をしていた。そこで孫文子は戚を持参して晋に亡命した。
衛が戚の東はずれに攻め入った。孫文子は晋に訴えて救いを求めたので、晋平公は東のはずれの茅氏を守備させた。 衛の殖綽がこれを攻撃して晋兵300人を殺した。孫蒯はこれを追撃したが、 その勢いを恐れて攻撃しなかった。孫文子は「悪鬼にも劣るやつだ」と叱ったので、孫蒯は衛軍を追撃して圉でこれを討ち破った。 孫氏の臣雍鉏は殖綽を捕虜にした。孫文子は再び晋に訴えて衛を討つよう依頼した。
6月、晋・魯・宋・鄭・曹は会合して衛を討ち、戚の境界を正し、衛の西境の懿氏という地60邑を取り上げて孫文子に与えた。
范匃和大夫と田畑の境界争いをして、決着がつかなかったので、 范匃は和大夫を攻めようとして孫文子に尋ねた。孫文子は「わたしは旅人の身ですから、あなたの仰せのままです」と答えた。 結局、范匃は土地を和大夫に与えて仲直りした。
(范匃はB.C.548に没しているから、この事件はそれ以前の話になるが、孫文子はB.C.547に晋に亡命しているので、整合性がとれない)
B.C.544呉の季札が衛から晋に行こうとして孫文子のいる戚に泊まろうとしたが、 孫文子の家の鐘の音楽を聞いて「わからぬことだ。あの方は君にとがめられてこの地に引きこもっている。ひたすら恐れ慎むべきなのに音楽を楽しんでいる」と言って、 泊まらずに立ち去った。孫文子はこれを聞いて、死ぬまで琴瑟の音すら聞かなかった。
孫免(ソンメン)【武官】
衛の臣。
B.C.603春、陳が楚についたため、孫免は晋の趙盾とともに陳に攻め入った。
孫良夫(ソンリョウフ)【宰相】
衛の宰相。正卿。孫良父、孫桓子ともいう。衛武公七世の孫。
B.C.602春、孫良夫は魯に赴き、魯宣公と友好を結んだ。
B.C.589春、斉が魯を討ったので、衛穆公は孫良夫・石稷甯相向禽将に命じて斉を攻めさせた。 衛軍は途中で引き揚げている斉軍と出くわした。石稷が引き返そうとしたので、孫良夫は言った。
孫良父「それはいけない。敵を討ちに出かけたのに、敵軍に会って引き返したのでは、わが君に何と言い訳することができよう」
夏、衛軍は斉軍と新築で戦ったが衛軍は大敗した。
石稷「わが軍は敗れました。あなたが反撃するなら、わが軍は全滅しましょう。あなたが全軍を失ったら、どうして君に報告することができましょう。 あなたは正卿であり、捕えられれば恥となります。兵を率いて退却してください。わたしはここに留まります」と言い、 援軍の兵車がたくさんやってくると言いふらしたので、斉軍は衛軍を攻撃するのをやめた。 新築を守っていた仲叔于奚が孫良夫を助けに行ったので孫良夫は助かった。
孫良夫は新築から引き揚げたが、敗戦を恥じてそのまま晋に出かけて援軍を請うた。晋が孫良夫の頼みを受けて、 郤克に800乗の兵車を与えて斉を討たせた。晋・魯・衛の連合軍は斉軍を追撃し、斉軍を鞍で大破した。
11月、孫良夫は魯成公・楚の公子子重・蔡景侯・ 許霊公・秦の右大夫・宋の華元・ 陳の公孫寧・鄭の公子子良・斉の大夫らと蜀で和睦の盟いを結んだ。 諸侯は一方で晋を恐れていながら、こっそりと楚と盟っていた。
B.C.588、11月、孫良夫は使者として魯を聘問した。ちょうど晋の荀庚が魯を聘問していた。 魯の臧宣叔が「衛は大国の晋に対してとてもその次国ということはできません。衛を下国とすれば、 下国の上卿は大国の下卿に相当します。しかし晋は盟主ですから晋を先にしたらよいでしょう」と言ったので、魯は荀庚と盟ったあとに孫良夫と盟った。
B.C.585、3月、孫良夫は晋の伯宗夏陽説、甯相、 鄭人、伊雒の戎、陸渾の蛮氏とともに宋を侵略した。
孫良父(ソンリョウホ)
孫良夫
孫林父(ソンリンポ)
孫文子


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