- 義伯(ギハク)【文官】
- 商王朝の臣。誼伯とも書く。
義伯は湯王を補佐した三賢臣のひとり。義伯は典宝(国家の宝典)を作ったという。
- 姫発(キハツ)
- →武王
- 魏伯陽(ギハクヨウ)【神】
- 仙人。神仙伝に見える。
呉の人。若いころから道術を愛好した。あるとき弟子の心構えを試そうとして、自分の作った丸薬を飲んで即死した。弟子たちの多くは丸薬を飲まなかったが、
虞という弟子はそれを飲んでまた即死した。弟子らが去った後、伯陽はすぐ起き上がり、虞を蘇生させてふたりとも仙人になった。
- 季羋畀我(キビヒガ)【女官】
- 楚の公女。楚昭王の妹。
B.C.506、11月28日、楚は呉軍に大敗し、楚昭王は季羋畀我を連れ出して都を出て、雎水を渡って逃げた。
楚昭王は長江を越えて雲夢の沢中に入った。楚昭王が眠っていると賊が攻め込んできたため鄖に逃げた。
季羋畀我は鐘肩に背負われてあとに従った。
楚昭王は季羋畀我をある人に嫁がせようとすると、季羋畀我はことわって「女というものは男に遠ざかっておくべきです。ところが鐘肩はわたしを背負ったことがあります」
と言ったため、鐘肩に嫁いだ。
- 綦毋恢(キブカイ)【文官】
- 西周の臣。
B.C.293秦は魏を伊闕で破り、先年、西周が秦を討った韓を支援したことを理由に、西周に攻めてきた。
周の君は魏に出かけて魏昭王に援軍を請うたが断られた。周の君はその帰りに、大梁の囿(鳥獣苑)に遊んで、
そこで楽しんだ。綦毋恢は周の君に「わが君のために温の囿を手に入れて差し上げましょう」と言い、引き返して昭王に謁見した。
昭王「周王はわたしを怨んでおられるだろうか」
綦毋恢「他に誰をお怨みしましょう。周君はきっと秦に仕えるでありましょう。そうすれば上党の地は孤立してしまいます」
昭王「どうすればよいか」
綦毋恢「周君は内心は些細な利を好む人です。いま王が、国境の兵3万を周に派遣し、温の囿を周君にご贈呈になれば、周君は百官にもしめしがつき、
自分も楽しめるので、秦と結ぶことはしないでしょう。温の囿の利は年に80金と聞いておりますが、周君からの返礼は年に120金にもなりましょう。
王にとって上党は安泰であり、しかも差し引き40金の利があがることになります」
そこで魏昭王は孟卯を使者として温の囿を周君に贈呈し、さらに周への守備兵の派遣を承諾した。
- 釐負羈(キフキ)【文官】
- 曹の臣。僖負羈とも書く。
B.C.642晋の公子重耳が曹に亡命したとき、曹共公は彼を礼遇しなかった。釐負羈は
「晋の公子は賢明な方であり、また晋は曹と同姓の国であり、君と対等の身分の方です困窮してわが国を通過されるのに、
礼遇しないでよいものでしょうか」と言ったが聴き入れられなかった。
さらに釐負羈は「賓客を礼遇せず、また困窮の人を憐れまないのはいけません。玉帛酒食などは糞土のようなもので、
これらを惜しんで常道(政事の幹、礼の宗、国の常)をやぶってはなりません」と諌めたが、またも聞き入れられなかった。
釐負羈の妻は釐負羈に「公子は賢人で、その従者はみな一国の宰相の器です。かれらはきっと晋国を得るでしょう。そうなると曹は一番に討伐されます。
あなたは君と別行動を取るべきです」と言った。そこで釐負羈はひそかに重耳に料理を贈り、その下に玉璧をしのばせておいた。
重耳は料理だけを受け取って玉璧を返してきた。
B.C.632、3月晋軍が曹を攻めたとき、晋は釐負羈を用いないことを責め、そして軍には釐負羈の宗族の家に立ち入ることを禁じて、その徳に報いた。
- 季武子(キブシ)【宰相】
- 魯の宰相。姓は季孫、名は夙、宿ともいう。諡を季武子という。季孫行父の子。~B.C.535。
B.C.567晋人が魯にやってきて、魯が鄫を助けなかった罪を責め正した。季武子は魯襄公に命ぜられて、
晋に使いして魯襄公が即位した挨拶をさせ、さらに鄫を滅ぼした罪の裁きを受けようとした。
B.C.566秋、季武子が衛に出かけて、衛の子叔の来聘に対する返礼を行い、挨拶が遅れたことを弁解した。
夏、季武子は南遺の進言により費に城壁を築いた。
B.C.565、5月7日、晋悼公は諸侯の大夫を邢丘に会合させ、晋に朝聘すべき回数を命じた。
魯からは季武子が出席した。
冬、魯の范匃が来訪して、鄭に軍を出すことを告げた。このとき范匃は標有梅の詩を歌って、
戦いの時期に遅れないで欲しいという意を寓した。季武子はその意を悟り「どうしてその時期に遅れましょうか。わが君と晋君の関係は全く一体です。
喜んでご命令をお受けいたします」と答えた。
B.C.564夏、季武子は晋に赴き、前年に晋の范匃の来聘に対する返礼をした。
10月、晋が諸侯とともに鄭を討ったので、季武子は命ぜられてこれに参加した。
閏12月、魯襄公は晋悼公が戦いから帰るのを見送ったので、晋悼公は魯襄公と黄河のほとりで酒宴を開いた。
悼公「魯公は、いくつになられましたか」
季武子「沙随で会合した年に生まれました」
悼公「12歳になられましたな。国君は15歳で子を生むきまりですが、元服してから子を生むというのがさだめです。君には元服をなさるのがよい。
あなたたちはその用意をされてはどうですか」
季武子「君が元服されるときは先祖の廟で行うものです。いまは旅先ですので用意をいたしかねます。兄弟の国で道具を借りて行いたいと思います」
悼公「よろしい」
魯襄公は引き揚げて衛に着くと、衛成公の廟で元服の式を行った。
B.C.562春、季武子は叔孫豹に「三軍を作ってそれぞれ一軍を支配し、それが所属する民から税を取り立てることとしよう」
と告げた。叔孫豹は「魯の政はやがてあなたが執ることになるでしょうが、そうなれば三軍を三家で分けることはできなくなるでしょう」と言った。
しかし季武子は強くこれを望んだ。叔孫豹が「それなら約束を変えないと盟いますか」と言ったので、魯釐公の廟門で盟い、
大衆に見えるように五父の辻で神に誓った。
正月、季武子は三軍を作り、公室の支配する民を三分して、そのひとつずつを三家が支配することとし、それまでそれぞれが私有していた軍を廃止した。
季氏は軍に属する民で夫役や租税を季氏に納める者には公税を免じてやり、季氏に納めない者には倍額の税を取り立てるようにした。
孟氏は軍に属する民の子弟の半分を自分の臣とし、叔孫氏はその子弟をすべて自分の臣とした。
B.C.561、2月、莒が魯の東境に攻めてきて台を包囲した。そこで季武子は台を救い、勢いに乗じて莒の鄆に攻め入り、
鐘を取り上げて魯襄公のたらいを作った。
B.C.559春、呉が楚と戦って大敗したことを晋に告げてきた。季武子は晋・宋・斉・衛・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と向で会合した。
冬、季武子は晋・宋・衛・鄭・莒・邾と戚で会合し、衛の公子剽の即位を認めた。
B.C.558夏、斉が魯の北境に攻め入り、成を包囲した。季武子は叔孫豹と共に軍を率いて成の城外に城壁を築いて斉の攻撃に備えた。
宋の子罕が宋に亡命していた司臣を人物と見込んで逃がして季武子にあずけた。
季武子はこれを卞にかくまった。
B.C.554季武子は晋に出かけて、斉を討った出陣のお礼を述べた。
季武子は斉を討って取り上げた武器で林鐘を作って魯の武功を彫り付けた。しかし臧武仲に「礼にそむいたことだ。
銘文は諸侯の場合、事業が時にかない、功績があればそれをするのである。今回は他国の力を借りたものであり、
民の農時を妨げてしまった。これを見せびらかして大国(斉)を怒らせるのは、国を滅亡に導くやり方である」と諌められた。
B.C.553冬、季武子は宋に出かけて、先年に向戌が来聘したことに対する返礼をした。
宋の褚師段が季武子を迎えてもてなした。
B.C.552邾の庶其が漆と閭丘の邑をもって魯に逃げてきた。季武子はこれに魯襄公のおばを妻として与えた。
このころ魯には盗人が多かった。季武子は臧武仲に言った。
季武子「あなたはどうして盗人を取り締まろうとなさらないのか」
臧武仲「わたしにはどうすることもできません」
季武子「あなたは司寇だ。盗人を除くことが職務でしょう」
臧武仲「あなたは他国の盗人(庶其)を礼遇しておられる。どうして国の盗人をやめさせることができましょう」
さて、季武子には正妻の生んだ子がなく、
年下の紇を愛して後継ぎに立てようとして家老の申豊に尋ねた。
申豊は返答もせずに走り退いて家に帰り、家財をまとめて立ち去ろうとした。季武子はまたも尋ねると申豊は「どうしてもそうなさるなら、立ち去る所存です」
と答えたので、話はうちきりになった。季武子は臧武仲に尋ねると、臧武仲は承諾して季孫紇を後継ぎにした。
その後、季武子は年長の弥を馬正の役に任したが、弥は朝な夕な、いつも身をつつしんで官舎に居り、職務に励んだ。
季武子はこれを喜び、弥に酒宴の道具をもって出かけ、それをそのまま弥のところに置いた。
B.C.550、8月10日、孟荘子が没した。季武子は弔いに行って、終わってから「あとつぎの秩はどこにいる」と尋ねたが、
弥が「後継ぎの羯(孟孝伯)はここにいます」と言った。季武子は「嫡男の秩の方が年上だ」と言うと、
弥は「それは問題になりません。ただ才能の有無が問題です」と言った。かくて孟孝伯が立てられたので、
孟孫秩は邾に出奔した。
孟孫氏が「臧氏が謀叛を起こそうとしている」と言ってきたが、季武子は信じなかった。臧武仲はこれを聞いて警戒した。
11月、孟孫氏は埋葬の墓道を切り開こうとして、人夫を臧氏から借りた。臧武仲は人夫を貸したが、警戒して武装兵を従えて工事を監視した。
これを孟孫氏が季武子に告げたので、季武子は立腹して臧武仲を攻めた。臧武仲は邾に出奔した。
B.C.546諸侯が宋で会合し、叔孫豹が参加した。季武子は使者を遣わして君命を告げて「邾や滕と同じように(小国として貢賦を少なく)してもらえ」と言った。
しかし叔孫豹は「わが国は諸侯と同様、一本立ちの国だ。どうしてそんな属国のようなことができよう」と言って盟いに参加した。
のちに叔孫豹は君命に背いたと批難された。
B.C.544夏、魯襄公が楚に朝見し、季武子は留守を預かっていた。季武子が公の領地である卞邑を襲撃して占領した。
そして一族の季冶を遣わして魯襄公の安否を問わせた。そしてあとから封印した書状を人に持たせて季冶に渡したが、
そこには「卞を守っている者が背こうとしたので、わたくしが討伐して土地を取り治めました」と書いた。
栄欒はこれを見て「国家のことは、あなたが処理しています。何も卞だけではありません。
どうしてわざわざ報告することがありましょう」と言い、虚偽の報告をした季武子を暗に批判した。
5月、魯襄公が帰国すると、季冶は季氏から与えられた采邑を返上して、その後は死ぬまで季氏の家に出入りしなかった。
B.C.542襄公が没すると、季武子は叔孫豹の反対を聴かず公子稠(昭公)を擁立した。
B.C.541季武子は莒を討って、鄆を占領した。
B.C.540春、晋の韓宣子が来聘し、魯昭公はこれをもてなした。季武子はその宴席が終わってから韓宣子を季氏の邸宅でもてなした。
秋、晋平公の夫人少姜が没した。季武子はすぐに晋に出かけて襚服(なきがらに着せる服)を贈りとどけた。
B.C.539秋、小邾穆公が来聘した。季武子は諸侯の扱いをせず、それ以下の低い礼で扱おうとしたが、
叔孫豹が「それはいけません。曹・滕・大邾・小邾はわが魯に対する修好を忘れないでいる国だ。仲むつまじい小邾を粗末に扱っては、
どうして他の親しい国を迎えることができましょう」と言ったため、季武子はこの意見に従った。
B.C.537、1月、季武子は中軍廃止の議を施氏に提案させ、それを藏氏に賛成させて決定した。中軍を廃止すると季武子は公室の民を四分して、
勝手にそのふたつを選び取り、他の二氏はそれぞれ一ずつを所有した。三家とも民のすべてに税をかけ、その幾分かを公室に入れた。
季武子は仲壬を叔孫豹の後継ぎに立てようとしたが、南遺が
「叔孫氏が強くなることは季氏が弱くなることです。叔孫の家は乱れておりますが、あなたは知らぬふりをなさいませ」と言った。
そこで南遺は国人に命じて豎牛を助けて仲壬を大庫の庭で攻め殺した。
B.C.536夏、季武子は晋に出かけた。前年に莒の土地を受けてもとがめられなかったお礼をするためであった。晋平公は特別に料理の数を増した。
季武子は「わが君でさえこのようなご接待にあずかったことはありません。ましてわたしは、わが君のいやしい家来です」と言って固く辞退して料理をさげてもらった。
晋人は季武子は礼をわきまえているとし、よい引出物をたくさん贈った。
B.C.535魯昭公が楚に出向いたため、晋人はこれを恨みに思って魯にやってきて、魯が杞に返さなかった土地を調査した。
季武子は孟釐子が楚に行っている隙に孟孫の邑である成を与えようとした。
成を守っていた謝息が断ったため、季武子は桃の地に萊と柞の山を付け加えて孟孫に与え、成を杞に与えた。
11月14日、季武子は没し、武子と諡された。
- 魏武子(ギブシ)
- →魏犨
- 析文子(キブンシ)【文官】
- 斉の臣。子家ともいう。
B.C.555、10月、晋が諸侯と共に斉を討った。晋の范匃が析文子に申し入れて「わたしはあなたと懇意の仲であるから実情を申します。
魯と莒は兵車千乗ずつの大軍を率いてそれぞれの方面から攻めることになりました。その大軍が攻めれば、斉侯はきっと国を失います。
あなたはどうして善処しないのですか」と言った。析文子はこれを斉霊公に告げると、斉霊公は恐れてひとり先に逃げ帰った。
- 季文子(キブンシ)
- →季孫行父
- 季平子(キヘイシ)【宰相】
- 魯の宰相。姓は季孫、名は意如。季孫紇の子。~B.C.505。
B.C.533冬、魯では郎に苑囿を築いた。季平子は工事が早く完成することを望んだが、叔孫婼は「早く完成させようとすれば、
民を疲弊させることになります。苑囿はなくなってもよいが、民がなくなったら大変です」と諌めた。
B.C.532、7月、季平子は莒を討って郠取った。季平子は捕虜を宗廟に献上し、初めて亳社で人を生贄にして祭りをした。
斉にいる臧武仲はこれを聞いて「魯は道ならぬことをしている。人を牛や羊と同様に生贄に用いては、
神は幸いを下さないであろう」と言った。
B.C.531秋、季平子は晋の韓宣子、斉の国弱、
宋の華亥、衛の北宮佗、鄭の子皮、
曹人、杞人と衛の厥憖で会合し、楚に攻められている蔡を救う相談をした。
B.C.530叔仲穆子が季氏と叔孫氏を争わせようとして、季平子に「(叔孫婼が)三命の卿となって、
その父や兄を超えた待遇を受けているのは礼にはずれている」と讒言した。季平子はそのとおりだと言って叔孫婼を辞退させようとしたが、
叔孫婼は先手を打って朝廷に出仕して役人に命じ訴訟争いをしようとした。季平子は恐れて罪を叔仲穆子になすりつけた。
季氏の家臣南蒯が費で叛乱をおこした。
B.C.529春、叔弓が南蒯が叛乱を起こしている費を攻め囲んだが、勝つことができなかった。
季平子は怒って費の人を見つけたら捕らえるよう命令したが、冶区夫が「それは礼に背いています。逆に費の人を親しんだら、
南氏は滅びましょう」と諌めたため、季平子はこれに従った。はたして費の人は南氏に背いた。
8月、諸侯が平丘に集まり会盟した。そこで先年(B.C.541)に季武子が莒を侵略したことを咎めたため、
晋昭公は魯昭公の出席を辞退させた。
子服椒が季平子に「是非とも上卿を使節として晋へ謝罪させるべきです」と言った。
季平子は「それではわたしが行こう。晋はきっとわたしを捕らえるでしょうが、だれが副使となりますか」と言うと、子服椒は「言い出した以上、
危難から逃げ出したりしましょうか。わたくしがお供いたします」と言った。晋に到着すると、季平子は捕らえられた。子服椒は晋の韓宣子に会って「かつて欒氏の乱のとき、
先君襄公は斉の脅威も恐れず晋を救いました。今蛮夷の莒を信じて魯を棄てるならば、
諸侯は何を目当てに晋君に忠勤しましょうか。蛮夷を味方につけても、諸侯の信義を失うのではないでしょうか」と言った。韓宣子はこれを聞いて喜び、
季平子を帰国させた。
B.C.528、1月、季平子は晋から帰国した。
B.C.526夏、子服昭伯は晋から帰国したが、季平子に「晋の公室は間もなく衰えるでしょう。
君は幼弱で六卿が盛んでおごり高ぶっています」と言った。しかし季平子は「お前はまだ若い。どうして国のことが分かろう」と言って信用しなかった。
はたして晋昭公は没した。
10月、季平子は晋に出かけたが「子服回の言ったことはやはり本当だ。子服氏にはよい子があるわい」と言った。
B.C.525春、小邾穆公が来朝した。季平子は采叔の詩を歌って立派な君子の来朝を歓迎するという意を寓すると、
小邾穆公は菁菁者莪の詩を歌って、季平子のような君子にお会いできて楽しいという意を寓した。
6月1日、日食があった。叔孫婼が「日食のときは天子の御馳走の品を減らし、鼓を社で打ち鳴らし、諸侯は幣帛を社に供えて鼓を朝廷で打ち鳴らすのがきまりである」
と言ったが、季平子はそれを禁止して「やめなさい。ただ正月のみそれを用いるのがきまりである」と言った。また大史も反対したが、季平子は聴き入れなかった。
叔孫婼は「あの方はよからぬ心をおこそうとしている。君を君とも思っていない」と言った。
B.C.521夏、晋の范鞅が来聘した。このとき叔孫婼が政権を担当していたが、季平子は叔孫婼を晋に悪く思わせようとして、
役人に命じて斉の鮑国に対した礼と同じ礼で范鞅を接待させた。はたして范鞅は立腹して「鮑国の位は私より低く、
その国もわが国より小さい。これはわが国を卑しむものだ。このことをわが君に報告しよう」と言ったため、魯人は恐れて4つの御馳走を増やして11牢にした。
B.C.517季平子は季似の讒言を信じて公思展と申夜姑を捕らえた。
季公若は泣いて悲しみ「夜姑を殺すのはわたしを殺そうとするようなものだ」と言って命乞いをしようとした。
しかし季平子は役人に命じて季公若を面会させないようにし、季公之は早速に申夜姑を殺した。そのため季公若は季平子を恨んだ。
季平子と郈昭伯の家は近かったため、両家の鶏がけんかをした。
そこで季平子は鶏の胸に革をよろいのようにかぶせると、郈昭伯は鉄の爪をつけさせた。
季平子は立腹して邸宅を郈昭伯の家のほうに広げて、逆に郈昭伯が自分のほうに広げたと責めた。そのため郈昭伯も季平子を恨んだ。
臧昭伯のいとこの臧会が悪事を働いて季平子のところに逃げてきたが、
臧氏は臧会をつかまえた。季平子は立腹して臧氏の家老を捕らえた。
このようなことから、魯の大夫たちは季平子を恨むようになった。
9月11日、魯昭公が季氏を攻めて季公之を季氏の門で殺し、勢いに乗じて中に攻め入って来た。季平子はたかどのに登って許しを請うたが昭公は許さなかった。
季平子が費に閉じ込めてほしいと請うたが許さず、逃亡させてほしいと願ったが許されなかった。子家懿伯が「お許し下さい。季氏は政治を執って久しく、
民の多くは季氏から施しを得ており、季氏の徒党となっている者が多くいます。日が沈んでそのような者たちが季氏を助けると、きっと君には後悔なさるでしょう」
と諌めたが昭公は聴き入れなかった。叔孫氏が季氏の邸を囲んでいた西北の一角を破って邸内に入った。魯昭公の兵卒はよろいを脱いで酒を飲みながらしゃがんでいたため、
すぐに追い払われた。これを聞いた孟懃子は郈昭伯を捕らえて都の南門の西で殺し、続いて魯昭公の兵を討った。
そのため魯昭公は斉に出奔した。
叔孫婼は闞から都に帰って季平子に会った。季平子は頭を地にすりつけて魯昭公にまた仕えたいと言ったため、
叔孫婼は魯昭公のところに行って季平子が後悔していることを話した。しかし季平子は心変わりをして魯昭公を魯に入れようとしなかった。これに憤慨した叔孫婼は自殺した。
B.C.516斉の公子鉏が魯昭公につきって軍を進めてきた。成の大夫公孫朝が成の軍を率いて斉軍にあたりたいと望んだため、季平子はこれを許した。
また季平子は亡命した昭公が帰国しようとするのを賄賂などを使ってそれを阻んだ。
B.C.513季平子は毎年、馬や魯昭公の供人らの衣服や履物まで揃えて贈り届けていたが、魯昭公は馬を贈り届けた者を捕らえてその馬を売ったため、季平子は馬を贈ることをやめた。
B.C.511春、晋が季平子を呼び寄せた。晋の范鞅がこっそりと人を遣わして内意を告げ「あなたは必ずやってきなさい。とがめを受けないように保証します」と言ったため、
季平子は晋に赴いて適歴で荀躒と会合した。荀躒は「なぜ主君を追放したのですか」と問うと、季平子は「わが君に仕えようとしても、
帰国されないためどうにもかなわないのです。決して裁きから逃れようとは思いません。ただ先代のことを考えていただけるなら、季氏の家を断絶させずに、わたくしだけに死を賜ってください」
と答えた。そこで季平子は荀躒とともに魯昭公のいる乾侯に行った。荀躒が「わが君は意如(季平子)を責め、意如も決して死を逃れようと致しません。国にお帰りなさい」
と申し上げたが魯昭公は「晋君にはお仕えは致しますが、あの男(季平子)には会う気にはなれません」と言った。荀躒は驚いて耳をふさいで走り「もう魯国の騒ぎには関係致しません。
わが君に報告しましょう」と言って、季平子に「ご主君の怒りはまだおさまっていません。あなたは国に帰ってお祭りの世話をするのがよいでしょう」と言った。
B.C.510魯昭公は晋の乾侯で没した。
B.C.509叔孫成子が魯昭公のなきがらを乾侯に迎え取りに来た。出発のとき、季平子は叔孫成子に「子家子はたびたび意見してくれたが、
わたしの心に的中しないことはなかった。わたしは彼と一緒に政治をしたいと思っている。あなたは彼をひきとめなさい」と言った。これを聞いた子家懿伯は叔孫成子に会おうとせず、
結局、他国へ去った。
季平子は人夫に命じて闞邑にある公室の墓地に行って魯昭公の墓を代々の墓と隔離するため周囲に溝を掘らせようとした。栄欒が
「君の在世中は追い出して仕えることができず、亡くなると先代から引き離すのは、みずから自分の悪事を世に明らかにするものだ。あなたは平気でも子孫が恥ずかしがるでしょう」と諌めたため、
季平子は中止した。また季平子は栄欒に「悪い諡をつけて子々孫々によからぬ君であったことを知らせてやろう」と言うと、栄欒は「君の在世中はこれに仕えることができず、
亡くなってから悪い諡をつけるのは、自分の悪を明らかにするものだ」と諌めたため、それを取りやめた。
B.C.505、6月18日、季平子はその領地の東野を見て回り、都に着かないうちに房で没した。
- 忌父(周)(キホ)【文官】
- 周王朝の臣。太宰。周公。
B.C.661神が莘の地に降下した。恵王は忌父に命じて傅氏と祝史をつれて犠牲と神酒を盛る玉器をささげて、
神前に往って献上させた。
B.C.650、4月、周王朝の命で、斉・秦の大夫と会同のうえ、晋恵公を礼遇した。
B.C.636冬、周は狄に攻められ、忌父、原伯、毛伯、富辰が捕えられ、譚伯が殺され、
周襄王は鄭の氾に出奔した。
- 忌父(虢)(キホ)【王】
- 虢公。周の卿士。
B.C.715夏、忌父ははじめて周の卿士となった。
周釐王が忌父に命じ、晋武公が一軍(12,500人)をかまえて晋侯になれるように世話させた。
忌父は周の乱のため、虢に出奔した。
B.C.676周恵王が即位すると、忌父は周に呼び戻された。
- 儀父(ギホ)【文官】
- 邾の臣、または公子。
B.C.695、2月、魯桓公は儀父と魯の趡で盟い、蔑の盟いを復活させた。
- 魏戊(ギボウ)【文官】
- 晋の臣。魏献子の子。
B.C.514秋、祁氏・羊舌氏が滅び、その土地は10の県に分けられ、魏戊は梗陽の大夫となった。魏献子は成鱄に
「わたしは戊に県を与えたが、わたしのことを身びいきで行ったと言うだろうか」と尋ねると、成鱄は「どうしてそんなことがありましょう。戊は君を忘れることなく、いばることなく、
義にかなうことを考え、みだらな行為はありません。あの人に県を与えても結構なことではありませんか」と答えた。
あるとき梗陽で訴訟があり、魏戊は決裁できなかったので、父の魏献子に決裁を求めた。そのため梗陽の人が魏献子に女楽を贈って賄賂とし、魏献子もこれを許そうとした。
そこで魏戊は魏献子の下役の閻没と叔褒に賄賂を受け取らないようにさせた。
(一説には、閻没と叔褒が自ら諌めたことになっている)
- 季魴侯(キホウコウ)【武官】
- 魯の臣。季康子の叔父。
季姫と密通する。
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