- 余祭(ヨサイ)【王】
- 呉3代王。句余、夷末ともいう。諸樊の弟。〜B.C.544。
B.C.548、12月、諸樊が戦の傷がもとで没した。諸樊は遺言して王位を余祭に授け、
順次弟たちに伝えて最後に必ず国を季礼に譲るようにした余祭は王位に即いた。
B.C.547夏、楚と秦がともに呉を討とうとして雩婁まで来たが、呉には堅固な備えがあると聞いて引き返し、すぐに鄭に攻め入った。
B.C.545斉の宰相慶封が罪を得て魯から呉に亡命した。余祭は朱方県を与え、王女を娶わせ斉の時よりも礼遇した。
B.C.544かつて呉が越を討って捕虜にし、足切りの刑に処して門番とし、舟の番をさせた者がいた。夏、余祭が船を見物に行ったとき、
その門番が剣をふるって余祭を殺した。
- 予且(ヨショ)【在野】
- 宋の泉陽の漁夫。
B.C.530予且は網で亀を捕らえ、籠の中に入れた。夜半、泉陽に来ていた宋元公は夢で亀を見て
「わたしは江神のために河神のもとに使いに行く途中、網にかかって予且という者に捕らえられました。どうか助けていただきたい」
元公は恐ろしくなり、博士衛平に問うた。衛平は式(占い道具)をとって立ち上がり、占って亀を捜し求めるよう進言した。
元公は「よろしい」と言って、予且を捜し出し、亀をひきとったが、神霊あらたかとして殺して占いにつかった。
- 予譲(ヨジョウ)【武官】
- 晋の臣。
范吉射・荀寅に仕えたが名声があがらず、
去って智伯荀瑶に仕えた。荀瑶ははなはだ彼を尊重した。
B.C.456荀瑶は趙毋卹を討ったが、逆に韓氏・魏氏に攻められて滅ぼされた。趙毋卹はひどく荀瑶を恨み、
荀瑶の頭蓋骨に漆を塗って尿瓶(または杯)にした。
予譲は山中に逃れ、ひとり言うよう「ああ『士はおのれを知る者のために死し、女はおのれを喜ぶ者のために容づくる』とか。智伯は真にわれを知る知己であった。
わたしはどうあっても智伯のために讎を報いて死に、これを智伯に知らせたら、わが魂魄も恥じるところはない」と。
そこで予譲は変名して罪人の群に逃げ、官中に入って厠の壁を塗り、趙毋卹を刺し殺そうとした。趙毋卹は胸騒ぎがして、壁塗りの刑徒を捕らえて訊問すると、
はたして予譲であった。左右の者が殺そうとすると、趙毋卹は「彼は義人である。わしさえ用心しておればよいのだ。智伯が滅んで子孫もいないのに、
旧臣として復讐しようとするのは天下の賢人である」と言って釈放した。
しばらくすると予譲は身に漆を塗って癩病をよそおい、炭を呑んで声を変え、市中に出て乞食をした。妻さえ、それとは気づかなかったが、友人には見破られた。
「おまえは予譲ではないか」「いかにも」
友人は彼のために泣いて言った。
「きみほどの才能があれば、趙毋卹の臣下になれば必ず近づけられよう。そのうえで思うことをすれば、かえってやりやすかろう。どうして身をそこない、
形をゆがめたりして讎を報じようとするのか」
「臣下となりながら、君を殺そうとするのは、二心をいだくものである。自分のしていることは辛いが、後世、
人の臣下となりながら二心をいだいて君に仕える者を恥じ入らせようとするのである」
予譲は道筋の橋の下で趙毋卹を待ち伏せした。趙毋卹の馬が驚いて跳ね上がったので「これはきっと予譲に違いない」と言って捜索し、
予譲は見つかってしまった。
趙毋卹は予譲を責めて言った「おまえはかつて范氏・中行氏にも仕えたのではなかったのか。なぜ智伯のためにだけ、こんなに執念深いのか」
「わたしは二氏に仕えましたが、どちらも常人としてわたしを遇しました。だからわたしも常人としてこれに対するのです。智伯は国士をもってわたしを遇しました。
だからわたしも国士として、これに報いるのです」
趙毋卹はああと感嘆し、落涙して言った「ああ予子よ、おまえが智伯のために尽くした名声はもう全うされた。覚悟を決めよ。これ以上赦すまい」
予譲は「さきに君がわたしを寛大に赦されたことは、天下に君の賢を讃えないものはありません。今日、わたしは誅に伏しましょう。
しかしゆるされるのであれば君の衣服を申し受け、それで復讐の念をはらしたく存じます」と言った。
趙毋卹は大いにその義に感じ、衣服を与えた。予譲は三度躍り上がってこれを斬り「わたしはこれを地下の智伯に報告しよう」と言って、ついに剣に伏して自殺した。
この日、趙の志士らは、これを伝え聞き、みな涙を垂れて泣いたという。
- 余昧(ヨマイ)【王】
- 呉4代王。余祭の弟。戴呉ともいう。〜B.C.527。
B.C.544夏、余祭が門番に殺された。余昧は弟の季札に継がせようとしたが、
季札が辞退して逃げ去ったため余昧は即位した。
余昧は季札を諸国に遣わして、即位を告げさせた。
B.C.542冬、余昧は屈狐庸を使者として晋を聘問させ、国交を開こうとした。
B.C.538、7月、楚が諸侯を率いて呉に攻め入った。
8月、諸侯は朱方を攻めおとし、領主の慶封を殺した。
冬、余昧は楚の棘・櫟・麻に攻め入り、朱方の役の報復をした。楚は鐘離・巣・州来に城壁を築いた。
B.C.537、10月、楚が諸侯とともに呉に攻め入った。余昧は出撃して楚軍を鵲岸で討ち破った。楚軍は呉の南懐に攻め入り、汝清まで侵攻した。
しかし呉の防備が強くて攻め入ることができなかった。楚霊王は呉を恐れて東方の防備を強化した。
B.C.536秋、楚が徐を討ったため、余昧は徐を助けようとした。すると楚の令尹子蕩が軍を率いて呉に攻め入った。
余昧はこれを討ち破り、宮廐棄疾を捕虜にした。
B.C.529夏、楚の蕩侯・潘子・司馬督・
囂尹午・陵尹喜は徐から帰ったが、余昧はこれを豫章で邀撃して全部捕らえた。
7月、晋昭公が諸侯と会合しようとして呉にも通知してきた。余昧は参加しようと出かけたが、
水路に支障があったため断った。
冬、余昧は州来を滅ぼした。
B.C.527、1月、没す。
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