中国的こころ列伝>列伝 ヨ

ページ内の2番目の文字行に飛びます   タ ナ ハ  ヤ ラ ワ ン
列伝 ヨ


豫(ヨ)【皇帝】
夏王朝8代王。少康の子。
予(ヨ)【公子】
魯の公子。
B.C.722、10月、鄭ぬ内乱が起き、衛は介入して鄭を討った。鄭は周と虢とともに衛を討ち、援軍を邾に求めた。 邾の君は使者を遣わして公子予に援軍を求めた。 公子予は出陣したいと願い出たが、魯隠公は許さなかった。しかし公子予は勝手に出陣して、邾と鄭と翼で同盟を結んだ。
姚(ヨウ)【女官】
荘王の妾姫。
荘王に愛されてを生む。
雍(晋)(ヨウ)【公子】
晋の公子。襄公の弟。母は杜キ
母の杜キが立派であったため、晋文公は公子雍を可愛がって秦に仕えさせ、秦は公子雍を亜卿とした。
B.C.621、8月15日、襄公が没すると、趙盾は太子夷皋が年少であったため、 公子雍が善行を好み、年長であり、先君の文公にも愛され、秦にも親しまれているとしてこれを立てようとした。 狐射姑がこれに反対して公子を立てようとしたが、 趙盾は先蔑士会を秦にやり公子雍を迎えさせ、一方で公子楽を殺した。
B.C.620秦康公は「昔、文公が晋に入った時は護衛がなかったので、呂氏や郤氏にひどい目にあわされた」と言って、 公子雍に護衛の兵を与えて晋に送った。
しかし趙盾が約束に背いて公子雍を急襲した。
4月2日、晋軍は秦軍を令狐で打ち破り、晋の刳首まで追撃した。
雍(晋)(ヨウ)【公子】
晋の公子。昭公の末子。
戴子とよばれる。
雍(斉)(ヨウ)【公子】
桓公の子。
B.C.634楚と魯が斉を討って穀を取り、公子雍をここに置いた。楚は申公叔侯に穀を守備させた。
繇(ヨウ)【公子】
秦の公子。
B.C.328秦は公子張儀とともに魏の蒲陽を包囲し、これを降す。 しかし張儀は恵文君に進言して蒲陽を魏に返し、秦の公子繇を魏に人質として入れさせた。 そして張儀は魏恵王に説いて「秦に返礼されるべきです」と言い、秦に上郡・少梁を贈らせた。
陽越(ヨウエツ)【武官】
魯の臣。陽虎の従弟。〜B.C.502。
B.C.502陽虎は季桓子一行の先駆を務め、陽越はしんがりをつとめた。季桓子は陽虎が叛乱を起こすことを予見して、 御者の林楚に馬を走らせて孟孫氏の邸宅に急がせた。陽越は林楚に矢を放ったが当たらなかった。 孟孫氏の邸宅の工事をしていた者たちは門を閉じて季氏を入れ、誰かが門の隙間から陽越を射て殺した。
姚賈(ヨウカ)【文官】
秦の臣。
魏の人。
B.C.233秦王韓非を非常に気に入った。
姚賈と李斯は、韓非が用いられると自分に不利と思い、韓非を讒言した。
またあるとき燕・趙・呉・楚が秦を攻めようとしたため、秦王政は対処法を群臣に求めたが、誰一人として答える者がなかった。姚賈は答えて、 四国をまわって出兵を見合わせるようにさせると言った。そこで秦王政は戦車100乗、黄金1000斤を資金としてあてがい、自分の衣服をつけさせ、自分の剣を帯びさせた。
姚賈は四国に出かけ、そのはかりごとを断ち切り、出兵を思いとどまらせ、さらに四国と交わりを結んで帰国した。
秦王政は大いに悦んで、姚賈を1000戸に封じて上卿に取り立てた。
韓非が姚賈を非難して「四国との交わりはまだ確立されておりません。しかし賈の珍珠重宝は失われてしまいました。これは賈が個人的に諸侯と私交を結んでいるのです。 もともと賈は梁の門番の小倅、かつて大泥棒を働き、趙を追放されています。このような者に大事をたくすのはよろしくありません」と言った。
秦王政がこれを姚賈に問いただすと、姚賈は「たしかに私交を結びましたが、私には身を寄せるところがないため、四国の君と交わったのです。 もしわたくしが王に忠誠でなければ、四国の君はどうしてわたくしを採用しましょうか。わたしは生まれは賤しいですが、 太公望は妻に追い出され、管仲は鄙人の行商人であり、 百里奚は虞の乞食でありましたが、聡明な君主がこれを登用したのです。国家を保つことのできる人物でありさえすれば、 たとえ誹謗する者がいても、聡明な君主は耳を傾けないはずです」と答えた。
秦王政は「いかにも」と言い、ふたたび姚賈を用い、韓非を退けた。
李斯は韓非に毒薬をもって自殺を迫った。韓非は、王に陳弁したいと願ったが、許されず、自殺した。
秦王政はこれを後悔したが、韓非はすでに死んでしまっていた。
陽匃(ヨウカイ)【宰相】
楚の宰相。令尹。
B.C.525冬、呉が楚を討った。陽匃は戦を亀卜で占うと不吉と出た。はたして司馬子魚は呉を討って戦死したが、 楚軍は呉軍を破った。
楊干(ヨウカン)【公子】
晋の公子。悼公の弟。
B.C.570鶏沢で諸侯と会同したとき、楊干が行列を乱したため、魏絳は楊干の御者を誅殺した。
雍己(ヨウキ)【皇帝】
商王朝8代王。太戊の弟。
雍姫(ヨウキ)【女官】
祭仲の娘。雍糾の妻。
B.C.697雍糾は鄭厲公から祭仲を殺すよう命ぜられた。雍糾はこのことを雍姫に相談した。雍姫はその母親に 「父と夫はどちらが親しいものでしょうか」と問うた。母は「父は一人しかいないが、男はみな夫にできます」と答えたので、彼女は祭仲にこのことを告げた。 そのため雍糾は祭仲に殺された。
雍姞(ヨウキツ)【女官】
荘公の夫人。宋の大夫雍氏の娘。
雍姞は公子を生んだ。
B.C.701荘公が没した。
宋は昭公の即位を喜ばず、公子突を即位させようと謀った。 そこで宋は鄭の宰相祭仲を誘い出して宋に赴かせて捕え、 「突を鄭の君にしなければ命はない」と脅した。一方で宋は公子突も捕えて、鄭に賄賂を要求した。
祭仲は盟って約束し、公子突をつれて鄭に帰り、これを君とした。(厲公)
雍糾(ヨウキュウ)【文官】
鄭の臣。雍糺とも書く。〜B.C.697。
祭仲の娘を娶る。
B.C.697雍糾は鄭厲公から祭仲を殺すよう命ぜられる。雍糾はこのことを妻の雍姫に相談した。雍姫はその母親に 「父と夫はどちらが親しいものでしょうか」と問うた。母は「父は一人しかいないが、男はみな夫にできます」と答えたので、彼女は祭仲にこのことを告げた。 そのため雍糾は祭仲に殺された。
雍渠(ヨウキョ)【宦官】
衛の宦官。
B.C.495孔子が衛に来たとき、霊公は夫人の南子と同車し、 雍渠は陪乗となり、孔子を後車に乗せて市中を遊んだ。
孔子は「わたしはまだ徳を好むこと色を好むような人を見たことがない」と言って衛を去った。
陽堅(ヨウケン)【武官】
韓の臣。
B.C.397厳仲子俠累を殺したとき、陽堅はその事件に関与した。
(『戦国策』では、陽堅は厳遂(仲子?)が韓哀侯と韓傀を弑した事件に関与したとされ、 整合性がとれていない。)
陽虎(ヨウコ)【武官】
魯の臣。季孫氏の家臣。『論語』では陽貨(ヨウカ)。
B.C.515陽虎は孟懃子とともに鄆に攻め入り魯昭公を奪い返そうとし、且知で魯昭公の軍を破った。
B.C.505、6月18日、季平子が没した。陽虎は魯君が佩びる璵璠という美玉を季平子のなきがらに佩びさせて納棺しようとすると、 仲梁懐がそれを与えないで「臣としての歩み方を変えてよかろうか」と言った。 陽虎は立腹して仲梁懐を追い出そうとして公山不狃に告げると、公山不狃は「彼は主人(季平子)のことを思っているのです。 何もとがめる必要はあるまい」と言った。
季桓子が季平子に代わって領地を見て回ったが、仲梁懐は侮って無作法であったため、季桓子は陽虎に「彼を追い払ってくれないか」と言った。
9月28日、陽虎は季桓子とそのまたいとこの公父文伯を捕らえ、仲梁懐を追い払った。
10月11日、陽虎は季氏の一族の公何藐を殺した。
10月13日、陽虎は季桓子と稷門のなかで盟った。
10月14日、陽虎は公父文伯と秦遄を追い払った。
B.C.504、2月、魯は鄭を攻めて匡を取った。このとき魯軍は衛の国を無断で通り、その帰りに陽虎は季氏・孟氏に衛の南門から入り、東門から出て、その郊外の豚沢に宿らせた。 衛霊公はその無礼に立腹し、弥子瑕に命じて魯軍を追撃させようとした。 公叔発は引退していたが手車に乗って衛霊公の所に出かけて「人の無礼をとがめながら、自分も無礼を行うのは礼にかなっておりません。 魯の昭公が亡命していたとき、わが君はこれに恩徳を施されました。それを台無しにするのはつまらぬことではありませんか。天は今や陽虎を罰しようとしています。 しばらくお待ちになるのがよいでしょう」と進言したため、衛霊公は追撃をやめた。
夏、季桓子が鄭の捕虜を献上するため晋に行こうとすると、陽虎は無理に孟懃子も行かせ、前に晋の夫人が使者を遣わしたことへの返礼をさせた。
陽虎は魯定公と三桓と周社で盟い、国の要人たちと亳社で盟い、五父の辻で神に誓った。
B.C.503春、斉は鄆と陽関を魯に返し、陽虎はここに行き、魯の政治に従事した。
斉の国夏が魯を攻めた。陽虎は季桓子の御者となった。夜襲をかけようとすると、斉軍はこれを聞いて伏兵を設けて待ち受けた。 公斂処父が「虎は災いにかかることを考えずに攻めようとしている。きっと死ぬであろう」と言い、 季氏の臣苫夷は「虎がおふたり(季氏と孟氏)を難儀の目に合わせたら、 判決を待たずにわたしが殺してやる」と言ったため、陽虎は恐れて引き返した。そのため魯軍は敗北せずに済んだ。
B.C.502季寤公鉏極・公山不狃・叔孫輒叔仲志は魯で思うようにならず、陽虎を頼った。陽虎は三桓を追い払い、季寤を季氏に代え、叔孫輒を叔孫氏に代え、自分は孟氏に代ろうと考えた。
10月、陽虎は先代の湣公釐公の昭穆の順を正して太廟で祭り、はかりごとの成功を祈った。
10月2日、陽虎は釐公をその廟で大いに祭った。陽虎は季桓子を蒲圃でもてなして殺そうと計画し、さらに二家も攻めようとして都邑の兵車に出勤の準備をさせ、 「癸巳(4日)に集まれ」と命令した。すると公父文伯がこれを知って孟懃子に告げて「季孫が出勤の準備をしているが、何があったのか」と聞くと、 孟懃子は「わたしは何も聞いていない」と答えた。公父文伯は「それなら謀叛です。きっとあなたにも災いがふりかかります。これに対する準備をしましょう」と言って、 翌日の3日までに兵を集めることにした。
10月3日、陽虎は季氏一行の先駆をつとめた。はかりごとを知った季桓子は孟氏の邸宅で戦い、陽越が射殺された。 陽虎は魯定公と叔孫州仇をおどして孟氏を討った。 公斂処父が成の人々を率いて上東門から攻めて来たため、陽虎は南門の中で戦い、これを破った。さらに棘下で戦うと陽虎は敗れた。
陽虎はよろいをぬいで公宮に行き、勝手に宝玉と大弓を取って外に出て、五父のつじに宿り、ひと寝入りしてから食事を作らせた。 部下が「追手がやってきます」と言うと、陽虎は「魯の人はわたしが逃げたと聞くと、死から免れたとほっとするだろう。どうしてわたしを追う余裕があろうか」と言った。 しかし供の者が「危ういことです。すぐに車に乗って下さい。公斂陽(公斂処父)がおりますから」とせきたてた。はたして公斂処父は陽虎を追いかけようと申し出たが、 孟懃子は許さなかった。
陽虎は讙と陽関に入ってそこで謀叛を起こした。
B.C.501夏、陽虎は盗んだ宝玉と大弓を返した。
6月、魯定公が陽虎のたてこもっている陽関を討った。陽虎はその町の萊門を焼かせたので、攻撃の軍が驚き騒いだ。陽虎はそのすきに魯軍を突き破って斉にのがれた。 陽虎は斉に援軍を依頼して魯を討ちたいと願い、「三度、攻撃すればきっと魯を攻め取ることができる」と言った。斉景公は許そうとしたが、 鮑国が「わたしは魯の施氏に仕えて魯のことを知っておりますが、魯はまだ攻め取ることはできません。陽虎は斉の軍を疲れさせ、 大臣がたを多く死なせて、そうなったときにはかりごとを盛んに巡らせて斉を乗っ取ろうと考えているのです」と諌めた。そこで斉景公は陽虎を捕らえて魯に追いやろうとした。 陽虎は西の晋に行きたかったため、いつわって東の方に行きたいと願い出た。すると斉は逆に陽虎を西の国境に閉じ込めておいた。陽虎は町の人々の車を残らず借り受けて、 追われないようにしたうえで、自分は荷車の中に隠れて逃げようとした。しかし追いかけられて捕まって閉じ込められた。ところが陽虎はまたも荷車に乗って逃げ込み、 そこから直ちに晋に逃げ込んで趙氏の家に落ち着いた。
B.C.493晋趙鞅とはかって、衛の太子蒯聵を衛に送り込もうとしたが、 衛は入れなかった。
陽虎は孔子を臣にしようとしたことがある。陽虎「才能をもっていて、自分の国を乱れたままにしている。これは仁と言えるだろう 孔子「いえません」陽虎「政治好きであるのに、たびたび時期を逸しておられるが、これは知と言えますか」孔子「いえません」 陽虎「月日は過ぎ去っていき私たちにつきあってはくれませんよ(私の臣下になりなさい)」孔子「わかりました。 そのうちに仕えましょう」結局、孔子は仕えなかった。
陽甲(ヨウコウ)
象甲
煬公(魯)(ヨウコウ)【王】
魯公(3代目)。名は熙。考公の弟。
茅闕門を築く。
煬公(宋)(ヨウコウ)【王】
宋公(6代目)。名は熙。湣公の弟。
位に就いたが、湣公の子鮒祀に殺される。
陽侯(ヨウコウ)【神】
波浪神。
古代の神話で陽侯は水波の神とされる。
姚句耳(ヨウコウジ)【文官】
鄭の臣。
B.C.575、4月、晋が鄭討伐の軍を発したので、鄭は楚に援軍を請うことになり、姚句耳は使者に同行した。
楚は援軍を出すことになった。姚句耳は先に鄭に帰ったが、子駟に「進み方が早すぎて乱れ、 思慮にとぼしく隊伍が乱れています。楚軍はおそらく役に立たないでしょう」と報告した。はたして楚軍は鄢陵の戦いで晋軍に敗れた。
陽穀(ヨウコク)【武官】
楚の臣。子反の侍者。穀陽豎ともいう。
B.C.575鄢陵の戦いのおり、子反の敗戦の疲れをいたわって、陽穀は子反に酒を飲ませた。
このとき楚恭王が翌日の作戦のために子反を呼んだが、子反は酔っていたため恭王に謁見できなかった。 そのため子反は自殺することとなった。
雍子(ヨウシ)【文官】
楚、晋の臣。〜B.C.528。
雍子は一族から讒言されたため楚から晋に亡命し、鄐を晋から与えられた。 しかしこの領地のことで邢侯と争いとなった。
B.C.575鄢陵の戦いのとき、雍子は欒書に「楚の情況は計り知ることができます。精鋭は中軍の王族にあるだけです。 もしわが軍の中軍と下軍とを入れ替えて弱勢を示して誘うなら、楚は中軍を深追いしましょう。そこでわが上軍下軍は楚の左軍右軍を破り、 三方から王族を集中攻撃するならば、必ず大破できましょう」と進言した。
欒書はその策に従って大いに楚軍を破った。
B.C.573、11月、彭城の役に、晋と楚が宋の靡角の谷あいで出会ったが、晋軍は退却しようとした。雍子は命令を出して「弱者を帰し、 一家からふたり出ている者は帰し、陣屋を焼け。あすは決戦だ」と振れまわし、いつわって楚の捕虜を釈放した。捕虜はこれを楚軍に伝えたため、 楚軍は夜に恐れて退却した。
B.C.528司法官士弥牟が楚に使いしていたので、羊舌鮒が司法官を代行することとなった。
雍子は邢侯と境界争いをしていたが、雍子は娘を羊舌鮒に与えて、自分の有利に判決するよう頼んだ。そこで羊舌鮒は雍子が正しいと判決した。 しかし雍子は怒った邢侯に殺された。叔向は「三人とも同罪である。 生きている者には刑罰を施し、死んでいる者には誅戮を加えてよいであろう」と言い、邢侯を処刑し、羊舌鮒と雍子のしかばねを市場にさらした。
楊朱(ヨウシュ)【在野】
戦国時代の思想家。道家。陽生ともいう。字は子居。
老子の弟子とも、実在しない人物ともいわれる。道家の代表として様々な文献に登場する。
老子・関尹子の道を受け継いで為我(個人主義)の説を唱えた。 彼の説は墨翟の説と天下を二分したという。
雍鉏(ヨウショ)【武官】
衛の臣。孫氏の臣。
B.C.547、2月、孫氏は衛軍に攻められたが、孫氏はこれを撃退して雍鉏は殖綽を捕らえた。
陽城君(ヨウジョウクン)【武官】
楚の臣。
B.C.381陽城君は呉起殺害に加担したため粛王に処罰されることになった。
陽城君はかねて孟勝と親交を結び、采邑防禦を委託をしていたが、守りきれず敗退し、孟勝ら墨家180人は集団自決した。
庸職(ヨウショク)【武官】
斉の臣。閻職ともいう。
妻が美貌であったため懿公に奪われ、自らは陪乗とされた。
B.C.609、5月、懿公は申池に遊んだとき、公に随行した庸職は丙戎と池で水浴びをしたが、 丙ショクは庸職をからかって鞭でこれを打った。
庸職が怒ると「人(懿公)に妻を奪われても怒らないのに、一度打たれたくらいで怒る必要はあるまい」と言うと
庸職は「自分の父が足きりの刑にされても恨みに思わない者と、どっちがふがいないのか」と言い返した。
そこで二人は相談して懿公を殺して竹薮の中に隠し、祝杯をあげて去った。
楊食我(ヨウショクガ)【文官】
晋の臣。名は伯石。叔向の子。母は。〜B.C.514。
楊食我が生まれたとき、叔向の母がその泣き声を聞いて引き返して「この声は山犬や狼の声だ。将来、羊舌氏の一族を滅ぼすのは、きっとこの子であろう」と言って、 そのまま見ることはなかった。
B.C.514祁盈の家で騒動が起きて、国がこれに関与した。楊食我は祁盈の一味で、祁盈に味方したため殺されて、 一族は族滅された。
陽処父(ヨウショホ)【文官】
晋の臣。襄公の太傅。〜B.C.621。
陽処父は晋文公の太子歓(襄公)の太傅となった。
B.C.628春、楚が闘章に命じて晋に和睦を願い出た。陽処父は楚に使いして、楚と晋は友好した。
陽処父は衛へ行った帰りに甯を通り、旅館の甯嬴の所で泊まった。甯嬴は妻に「わしは長いこと君子を捜していたが、 今やっとみつけた」と言って陽処父について行った。 しかし温山まで行くと、甯嬴は引き帰した。妻がその理由を聞くと甯嬴は「わしは彼の容貌を見た時は善いと思ったのだが、話を聞いて嫌になったのだ。 わしは利益を受けないうえに、災難に巻き込まれることを恐れたので別れてきたのだ」と言った。
B.C.627晋襄公(公子歓)は捕えていた秦の孟明視西乞秫白乙丙を秦に帰したが、先軫に批難された。襄公は陽処父に命じてこれを追わせたが、 3人は黄河を渡るためすでに船に乗っていた。とっさに陽処父は、左のそえ馬を放して「君の命であなたに贈りますので、引き返していただきたい」と言ったが、 孟明視は「ご主君のお情けで国に帰って処刑されることができます。もしご主君の恩恵によって許されたならば、3年後にそれを賜わりに参ります」と言って、 そのまま秦に帰った。
12月、陽処父は蔡を討った。楚の子上が蔡を助け、晋楚両軍は泜水をはさんで対陣した。
陽処父は「あなたが戦おうとするなら、わたしは陣を退却させるので川を渡って陣をしきなさい。それが嫌なら、あなた方が退却して、わたしが川を渡る余裕を与えよ。 このまま対陣しても軍を疲労させるだけである」と言った。
子上は川を渡ろうとしたが、成大心が「晋は信義を守らない。もし約束を破って攻められて、 負けを後悔しても取り返しがつきません」と諌めたので、子上は退却して陣をしいた。
陽処父はこれを見て「楚軍は逃げたぞ」と言いふらして、そのまま引き上げた。
B.C.625晋襄公は魯文公が晋に朝しないので、使者を遣わして責め立てた。
4月15日、魯文公は朝したが、襄公は顔を出さず、陽処父に命じて会見させて恥をかかせた。
B.C.624冬、晋襄公は江の援助のことで周の威力を借りようとして周に願い出た。周は王叔桓公を派遣し、 晋は陽処父に命じて楚を討たせた。陽処父は楚の方城の門まで攻め込んだが、救援に来た楚の息公の軍に出会い、 恐れて戦わずに引き揚げた。
B.C.621春、襄公は夷の蒐で狐射姑を中軍の将に、趙盾を中軍の佐に任じた。
しかし陽処父は温から帰ると、陽処父は趙衰の部下であったことから趙氏に味方し、その上、趙盾は才能のある人物であると言ったため、 襄公は改めて蒐を行い、狐射姑と趙盾を入れ替えた。かくて趙盾が国政を握り、 陽処父と太師賈佗に案を授けて国の定法とすることとなった。
9月、狐射姑は陽処父を恨みに思い、一族の狐鞫居を使って陽処父を殺した。
羊斟(ヨウシン)【武官】
宋の臣。叔牂ともいう。
B.C.607春、鄭が宋を討ち、華元はこれを迎え撃ち、羊斟は華元の御者となった。
2月9日、戦いに先立って、華元は羊を殺して将兵にご馳走したが、羊斟にはその名に羊があるということでご馳走を与えなかった。
2月10日、宋軍と鄭軍は大棘で戦ったが、羊斟は「昨夕の羊はあなたが自由にされたが、今日の兵車はわたしが思うままにできます」と言って、 華元を乗せたまま鄭軍に突入した。そのため宋軍は大敗し、華元は捕えられ、楽呂は討死し、兵車400乗、捕虜250人、 斬り耳100個という損害となった。
華元は脱走して宋に帰り、名を告げて堂々と入って羊斟に会うと「お前の馬がああさせたので、お前の罪ではない」と言った。 しかし羊斟は「いや馬ではありません。わたくしです」と答えて魯に出奔した。
養甥(ヨウセイ)【公子】
鄧の臣。
B.C.703鄧の邑ユウの人が巴の使者韓服と楚の使者道朔を殺した。
夏、鬭廉は楚武王の命で巴軍と連合してユウを包囲した。 養甥は聃甥とともにユウを救援し、三度巴軍を追い払ったが、楚軍には勝てなかった。
鬭廉はわざと逃げるふりをして鄧の軍を誘い込み、巴軍とこれを挟撃して大破し、ユウ軍は夜のうちに壊滅させられた。
B.C.688楚文王は申を討つ途中、鄧に立ち寄った。鄧キ侯は「わたしのおい子である」 と言って文王をもてなした。公子騅甥が「やがて鄧を滅ぼすのはきっとこの人です。早いうちに処理しないと、 後でどうにもなりません」と諌めたが、キ侯は「わたしが甥を殺したりすれば、わたしをいやしんで、わたしの食べ残しを食べるものはないであろう」と答えた。
養甥は騅甥・聃甥とともに「国が滅亡すれば社稷宗廟にはお供え物があがらなくなります。 そうなったら、どこに食べ残しなどがありましょうか」と言ったが、聴き入れられなかった。
はたして文王は申の討伐を終えると、その帰途に鄧を討った。
B.C.678楚文王に攻められて、鄧は滅亡する。
容成(ヨウセイ)【神】
黄帝のときの史官。
容成と大撓は、月や太陽、星気の観測をした。
庸芮(ヨウゼイ)【文官】
秦の臣。
B.C.265魏醜夫宣太后に寵愛されていたが、宣太后が危篤に陥ったとき、 魏醜夫を殉死させるよう命じた。魏醜夫はこれを聞いて悩んでいたので、庸芮は宣太后を説いて言った。
庸芮「死者に知覚があるとお考えですか」
宣太后「あるはずがない」
庸芮「知覚がないのであれば、どうして生前で寵愛の男を葬ろうとされるのでしょうか。もし死者に知覚があるのならば、 先王は太后に対して怒りをためておられます。魏醜夫をこっそり寵愛することはできないでしょう」
宣太后は殉死の件をとりやめた。
容成公(ヨウセイコウ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
黄帝の師であったと称し、周穆王に謁見する。 容成公の実践は老子と同じであり、また老子の師ともいわれた。
羊舌肸(ヨウゼツキツ)
叔向
楊石(ヨウセキ)【文官】
晋の臣。叔向の子。
羊舌虎(ヨウゼツコ)【武官】
晋の臣。叔虎ともいう。叔向の異母弟。〜B.C.552。
叔向の母は羊舌虎の母が美しいのをねたんで、夫の寝所に侍らせないようにしていた。子供たちがねたんではいけないと諌めると、 母は「あの女が龍や大蛇を生んでお前たちに禍をかけるのが心配です。今、一族は衰える一方で国には権勢の強いものが多い。 もしも兄弟のなかから権勢家に加わる者が出たら、禍から逃れることは難しいでしょう」と言った。そしてその美人はやがて羊舌虎を生んだ。 羊舌虎は美男で勇力があり、欒盈に可愛がられた。
B.C.552晋平公は欒盈を追放し、欒盈の一味である箕遺黄淵嘉父司空靖邴豫董叔邴師申書・羊舌虎・叔熊を殺した。
羊舌職(ヨウゼツショク)【文官】
晋の臣。羊舌大夫の子。中軍の尉の佐。〜B.C.570。
B.C.594晋景公は潞国を攻め滅ぼした功により荀林父に狄の1000戸の領地を賞として与え、 また「あなたがいなかったらわたしは伯氏(荀林父)を失うところであった」と言って、士渥濁には瓜衍県を与えた。 羊舌職はこの恩賞を喜んで「士伯(士渥濁)が中行伯(荀林父)を用いるべきを進言すると、君はそれを信用されて士伯を用いられた。 こうしたことこそ人君の明らかな徳というものである」と言った。
B.C.593、3月29日、晋景公は士会を正卿と太傅に任命した。羊舌職は「立派な人が上にいるので下々の者は恐れつつしむ。 立派な人が上にいて政治を執ると、国中に万一の僥倖を狙う者がいなくなるとは、このことだ」と言った。
B.C.573晋悼公は即位すると、羊舌職が聡敏で敏捷なのを知って中軍の尉祁奚;を輔佐させた。
B.C.570没した。
羊舌赤(ヨウゼツセキ)【文官】
晋の臣。字は伯華。羊舌職の子。銅鞮伯華ともいう。軍尉。
B.C.570雞丘の会盟のとき、晋悼公の弟楊干が曲梁の地で隊列を乱したので、 中軍司馬魏絳は楊干の御者を斬った。
晋悼公は羊舌赤に「諸侯を会合している時に、魏絳はわしの弟を辱しめた。やつを逃がしてはならぬ」と言った。
羊舌赤は「絳の志は、有事の際には危難をものともせず、罪があれば刑を避けないと聞きます。必ず出頭しましょう」と答えた。
この言葉が終わるや否や魏絳がやって来て、僕人に書状を渡し、剣の上に伏して死のうとした。晋悼公は事情を知って、これを許した。
范匃和大夫と田畑の境界争いをして、決着がつかなかったので、 范匃は和大夫を攻めようとして羊舌赤に尋ねた。羊舌赤は「わたしの任務は外事であり、軍務ですから、本官以外のことは犯しません。 もし軍を出そうとするならわたくしを呼びつけてください」と答えた。結局、范匃は土地を和大夫に与えて仲直りした。
羊舌大夫(ヨウゼツタイフ)【文官】
晋の臣。
B.C.660冬、申生に東山の皋落狄を討つように命令が下った。
申生は出陣し、狐突が申生の御者となり、先友がその右乗となり、 梁余子養罕夷の御者となり、 先丹木がその右乗となり、羊舌大夫が軍尉となった。
しかし狐突、梁余子養、罕夷、先丹木らは申生に亡命することをすすめたので、狐突は申生を連れて逃げ去ろうとした。羊舌大夫は「それはいけない。 父の命に背くのは不孝であり、君の命を棄てるのは不忠である。太子にはむしろ戦死なさるのがよかろう」と諌めた。申生は戦いを決意し、狄を破った。
羊舌鮒(ヨウゼツフ)【文官】
晋の臣。字は叔魚。叔鮒、叔魚ともいう。叔向の同母弟。〜B.C.528。
羊舌鮒が生まれた時、母が羊舌鮒を見て「この子は虎の目をして残忍で、豚のとがった口で貪欲であり、とびの肩のように張っていやしんぼうで、 牛の腹のように太っている。きっと賄賂で死ぬだろう」と言って、ついに自分で育てなかった。
羊舌鮒は賄賂を好んで、非道を行なった。
范匃和大夫と田畑の境界争いをして、決着がつかなかったので、 范匃は和大夫を攻めようとして羊舌鮒に尋ねた。羊舌鮒は「わたくしが彼を殺しますので、お待ちください」と答えた。結局、范匃は土地を和大夫に与えて仲直りした。
B.C.529、7月30日、諸侯は邾の南で勢揃いした。兵車4000台(30万)という大軍で、羊舌鮒は司馬を代行した。
諸侯は平丘に宿ったが、羊舌鮒は衛からまかないを取ろうと考え、草刈や薪取りで山林を荒らして衛を悩ませた。衛人は向に相談すると、 叔向は「あなたが衛君の命だと称してあの者(羊舌鮒)にこの錦を与えるなら、きっとおさまるでしょう」と言った。衛がそのとおりにすると、羊舌鮒はこれをやめた。
冬、魯の子服椒が晋に捕らえられた季平子を取り返すために晋に来た。 晋は季平子を返すことを決めたが、子服椒が「わが魯がお許しを受けたことを諸侯の会合の席において晋君から賜りたいと存じます」と言って帰ろうとしなかった。 韓宣子は叔向に相談すると、叔向は「鮒ならできるでしょう」と答えた。そこで羊舌鮒は季平子に会って 「昔、この鮒が魯君のもとに身を寄せたとき、ご祖父の武子の助けがなければ今日はありませんでした。あなたは帰ろうとされませんが、 魯君はあなたのために西河でお待ちになっておられます」と泣きながら言った。季平子は恐れて子服椒より先に帰ったため、子服椒は正式に許されて帰される礼を待った。
B.C.528司法官士弥牟が楚に使いしていたので、羊舌鮒が司法官を代行することとなった。 邢侯雍子が境界争いをしていたが、雍子が娘を羊舌鮒に与えて、自分の有利に判決するよう頼んだ。 罪は雍子の方にあったが、羊舌鮒は雍子が正しいと判決した。そのため邢侯は怒って羊舌鮒と雍子を朝廷で殺した。叔向は「三人とも同罪である。 生きている者には刑罰を施し、死んでいる者には誅戮を加えてよいであろう」と言い、邢侯を処刑し、羊舌鮒と雍子のしかばねを市場にさらした。
陽泉君(ヨウセンクン)【文官】
秦の臣。華陽夫人の兄。
呂不韋は陽泉君に取り入り、妹の華陽夫人は秦孝文王に寵愛されているが子がないため、 孝文王が没すると、一家は没落するであろうと説いた。陽泉君はどうすればよいか尋ねると、 呂不韋は子楚を呼び戻して太子とするよう進言した。
陽泉君は参内して華陽夫人に説いたため、華陽夫人は子楚を帰国させようとした。
(呂不韋は華陽夫人の姉に取り入ったとする説もある)
癰疽(ヨウソ)【文官】
衛の臣。雍渠、雍雎、雍鉏ともいう。
霊公に仕えた。
揚孫(ヨウソン)【武官】
秦の臣。
B.C.630揚孫は、秦を説いた燭之武を護衛して鄭に帰らせ、自身も鄭に駐在した。
B.C.627春、秦軍は鄭に駐在していた杞子の情報を頼りに出兵したが、 鄭の商人弦高が滑で秦軍に出会い、使者を鄭に出した。鄭繆公は秦にたくらみを知り、 杞子と逢孫と揚孫の宿舎をさぐらせると、荷ごしらえをし、武器をみがき、馬にまぐさを与えていた。 そこで繆公は皇武子を遣わして「皆様にさしあげる食が乏しくなり、皆様をお立ちさせるようなことを致しました。 しかし鄭には牧地がありますので、その鹿を捕えてゆっくりされたらどうでしょう」と言わせた。
杞子は計画が露見したことを知り、斉に出奔し、逢孫と揚孫は宋に出奔した。
そのため秦軍は鄭に侵攻できず、滑を滅ぼしたが、帰国する途中、殽で晋に大敗した。
楊達(ヨウダツ)【文官】
秦の臣。
B.C.308甘茂が韓の宜陽を攻めた。楊達は甘茂の成功を阻止しようとして公孫顕に説いて 「公は5万の軍を率いて西周を討つべきです。もし戦に勝って九鼎を手に入れれば、甘茂の勢力を抑えることになります。また天下の諸侯は秦を憎み、 韓を救うでしょうから、甘茂は成功しなくなるでしょう」と言った。
楊端和(ヨウタンワ)【武官】
秦の臣。
B.C.238魏を討ち、衍氏を攻める。
B.C.236王翦を主将、桓齮を副将、楊端和を末将とし、鄴を討ったが、なかなか落ちず、 まず9城を取った。
B.C.229河内の兵を率いて趙を討ち、邯鄲を囲んだ。
雍伯(ヨウハク)【公子】
周王朝の公子。周文王の13子。
雍氏の始祖となる。
幼伯子(ヨウハクシ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
周の蘇氏の食客であった。代々やってきては蘇氏一家に注意を与えて守護してやり、蘇氏の子孫はその福徳により果報を享けることができた。
陽畢(ヨウヒツ)【文官】
晋の臣。
B.C.552箕遺黄淵嘉父が叛乱し、成功せずに死んだ。 晋平公は彼らの一党を放逐して、陽畢に言った。
平公「晋は穆侯から今まで内乱が絶えない。禍難がわが身に及ぶことが心配だ。どうしたらよかろうか」
陽畢「禍乱の枝葉を切り去り、その根を断ち切ったなら、少しは静かになりましょう」
平公「実際に計画せよ」
陽畢「君は賢人の子孫で国家の中で位はあるけれども衰微した者を選んで取り立てなさい。また、わがまま勝手で君を顧みず、国を乱す者の子孫を選んで除去しなさい。 このようにすれば、人心を教化することができます」
平公「欒書はわが先君(悼公)を立て、 欒逞には罪がないが、どうか」
陽畢「もし欒逞を愛されるのでしたら、堂々と彼の一党を放逐して国家の道理を知らせるべきです。もし欒逞が君に対して仇を報いようとするなら、 これより重い罪はありません。もし彼が報復しようとせず遠くに亡命するならば、亡命先との外交に礼を厚くして、彼の徳に報いるべきです。 これは大いに結構なことではありませんか」
平公は承諾して、欒逞の一党を全部放逐して、祁午と陽畢に命じて、曲沃の欒逞を放逐させ、欒逞は楚に亡命した。
雍巫(ヨウフ)
易牙
ヨウ夫空(ヨウフクウ)【文官】
楚の臣。御庶子。
昭翦は楚のために、西周の太子擁立を謀って楚の勢力を西周に植えつけようとし、 さらに自分もその功によって西周に勢力を張ろうとした。そこで昭翦は左成の進言により、 人を派遣してヨウ夫空に「楚王は、翦に太子を助けさせたいお考えです。この男は手ごわい相手なので、国内に置いていたら相国のためになりますまい」と言わせた。
昭翦はそれに従うと、ヨウ夫空は相国にこの話をして、相国は昭翦を周に行かせた。そこで昭翦は西周に勢力を張ることができた。
陽文君(趙)(ヨウブンクン)
平陽君
陽文君(楚)(ヨウブンクン)【公子】
楚の公子。楚頃襄王の弟。
陽毋沢(ヨウボタク)【武官】
魏の臣。
秦の丞相魏冄が楚に赴こうとした。陽毋沢と辛張は、 楚が秦の力を借りて魏を討とうとしていると読んで、それに対する備えをした。
養由基(ヨウユウキ)【将軍】
楚の将軍。養叔ともいう。宮廐尹。
B.C.597、6月、邲の戦いのとき、養由基は右の部隊の右役となった。
B.C.575、6月28日、鄢陵の戦いのとき、養由基は潘党とともに矢でよろいを7重ねしたものを貫通させ、 楚恭王に「君にはこのような弓の名手が二人おります。心配はいりません」と言った。しかし楚恭王は怒って 「お前たちのような智謀のない者は国の大恥だ。あす、弓を射たらその芸で死ぬであろう」と言った。
6月29日、戦いが始まると、楚恭王は晋の魏錡に目を射られた。 そこで楚恭王は養由基を呼び寄せて2本の矢を与えて魏錡を射させると、1本目で魏錡の首を射て即死させた。
楚晋両軍は鄢陵で朝早くから夜になるまで壮絶な激戦を展開し、楚軍は晋軍に追われて追い詰められた。楚の叔山冉が養由基に「君の(射るなという)仰せがありましたが、 ここは国のためだ。射てくれ」と頼んだので、養由基は矢を射ると2度とも命中した。さらに叔山冉が敵兵を手打ちにして投げつけたので、晋軍はひるんで追撃をやめた。 しかし楚軍はこの戦いで大敗した。
B.C.560、9月、呉が攻め寄せてきた。養由基は命を受けてただちに防禦につとめ、子庚が軍を率いて後に続いた。 養由基は子庚に「呉はこちらの喪につけこんだということは、こちらが戦うことができないと思っているからだ。きっとこちらを侮っていよう。 あなたは三箇所に伏兵を設けてください。わたしは狄をおびき寄せよう」と言った。はたして呉軍は庸浦で大敗し、 楚は公子を捕えた。
B.C.558養由基は宮廐尹に任じられた。
雍廩(ヨウリン)【武官】
斉の臣。
B.C.686公孫無知が斉襄公を弑して即位した。
B.C.685雍廩はかつて公孫無知に虐待されたことがあったので、雍廩は公孫無知を弑し、斉は内乱状態となる。
陽令完(ヨウレイカン)【文官】
楚の臣。郤宛の一味。陽令終の弟。〜B.C.515。
B.C.515令尹子常費無忌の讒言を信じて郤宛を自殺させ、 その一味である陽令終とその弟の陽令完と陽令佗、大夫の晋陳とその子や弟を殺した。
陽令終(ヨウレイシュウ)【文官】
楚の臣。郤宛の一味。〜B.C.515。
B.C.515令尹子常費無忌の讒言を信じて郤宛を自殺させ、 その一味である陽令終とその弟陽令完陽令佗、大夫の晋陳とその子や弟を殺した。
陽令佗(ヨウレイタ)【文官】
楚の臣。郤宛の一味。陽令終の弟。〜B.C.515。
B.C.515令尹子常費無忌の讒言を信じて郤宛を自殺させ、 その一味である陽令終とその弟の陽令完と陽令佗、大夫の晋陳とその子や弟を殺した。
余橋疑吾(ヨキョウギゴ)【王】
呉王。彊鳩夷の子。
沃甲(ヨクコウ)
羌甲
沃丁(ヨクテイ)【皇帝】
『史記』では商王朝5代目王という。
しかし後年、発掘された甲骨文には沃丁の名は見られず、実在の人物ではないとされる。
余祭(ヨサイ)【王】
呉3代王。句余、夷末ともいう。諸樊の弟。〜B.C.544。
B.C.548、12月、諸樊が戦の傷がもとで没した。諸樊は遺言して王位を余祭に授け、 順次弟たちに伝えて最後に必ず国を季礼に譲るようにした余祭は王位に即いた。
B.C.547夏、楚と秦がともに呉を討とうとして雩婁まで来たが、呉には堅固な備えがあると聞いて引き返し、すぐに鄭に攻め入った。
B.C.545斉の宰相慶封が罪を得て魯から呉に亡命した。余祭は朱方県を与え、王女を娶わせ斉の時よりも礼遇した。
B.C.544かつて呉が越を討って捕虜にし、足切りの刑に処して門番とし、舟の番をさせた者がいた。夏、余祭が船を見物に行ったとき、 その門番が剣をふるって余祭を殺した。
予且(ヨショ)【在野】
宋の泉陽の漁夫。
B.C.530予且は網で亀を捕らえ、籠の中に入れた。夜半、泉陽に来ていた宋元公は夢で亀を見て 「わたしは江神のために河神のもとに使いに行く途中、網にかかって予且という者に捕らえられました。どうか助けていただきたい」
元公は恐ろしくなり、博士衛平に問うた。衛平は式(占い道具)をとって立ち上がり、占って亀を捜し求めるよう進言した。
元公は「よろしい」と言って、予且を捜し出し、亀をひきとったが、神霊あらたかとして殺して占いにつかった。
予譲(ヨジョウ)【武官】
晋の臣。
范吉射荀寅に仕えたが名声があがらず、 去って智伯荀瑶に仕えた。荀瑶ははなはだ彼を尊重した。
B.C.456荀瑶は趙毋卹を討ったが、逆に韓氏・魏氏に攻められて滅ぼされた。趙毋卹はひどく荀瑶を恨み、 荀瑶の頭蓋骨に漆を塗って尿瓶(または杯)にした。
予譲は山中に逃れ、ひとり言うよう「ああ『士はおのれを知る者のために死し、女はおのれを喜ぶ者のために容づくる』とか。智伯は真にわれを知る知己であった。 わたしはどうあっても智伯のために讎を報いて死に、これを智伯に知らせたら、わが魂魄も恥じるところはない」と。
そこで予譲は変名して罪人の群に逃げ、官中に入って厠の壁を塗り、趙毋卹を刺し殺そうとした。趙毋卹は胸騒ぎがして、壁塗りの刑徒を捕らえて訊問すると、 はたして予譲であった。左右の者が殺そうとすると、趙毋卹は「彼は義人である。わしさえ用心しておればよいのだ。智伯が滅んで子孫もいないのに、 旧臣として復讐しようとするのは天下の賢人である」と言って釈放した。
しばらくすると予譲は身に漆を塗って癩病をよそおい、炭を呑んで声を変え、市中に出て乞食をした。妻さえ、それとは気づかなかったが、友人には見破られた。
「おまえは予譲ではないか」「いかにも」
友人は彼のために泣いて言った。
「きみほどの才能があれば、趙毋卹の臣下になれば必ず近づけられよう。そのうえで思うことをすれば、かえってやりやすかろう。どうして身をそこない、 形をゆがめたりして讎を報じようとするのか」
「臣下となりながら、君を殺そうとするのは、二心をいだくものである。自分のしていることは辛いが、後世、 人の臣下となりながら二心をいだいて君に仕える者を恥じ入らせようとするのである」
予譲は道筋の橋の下で趙毋卹を待ち伏せした。趙毋卹の馬が驚いて跳ね上がったので「これはきっと予譲に違いない」と言って捜索し、 予譲は見つかってしまった。
趙毋卹は予譲を責めて言った「おまえはかつて范氏・中行氏にも仕えたのではなかったのか。なぜ智伯のためにだけ、こんなに執念深いのか」
「わたしは二氏に仕えましたが、どちらも常人としてわたしを遇しました。だからわたしも常人としてこれに対するのです。智伯は国士をもってわたしを遇しました。 だからわたしも国士として、これに報いるのです」
趙毋卹はああと感嘆し、落涙して言った「ああ予子よ、おまえが智伯のために尽くした名声はもう全うされた。覚悟を決めよ。これ以上赦すまい」
予譲は「さきに君がわたしを寛大に赦されたことは、天下に君の賢を讃えないものはありません。今日、わたしは誅に伏しましょう。 しかしゆるされるのであれば君の衣服を申し受け、それで復讐の念をはらしたく存じます」と言った。
趙毋卹は大いにその義に感じ、衣服を与えた。予譲は三度躍り上がってこれを斬り「わたしはこれを地下の智伯に報告しよう」と言って、ついに剣に伏して自殺した。
この日、趙の志士らは、これを伝え聞き、みな涙を垂れて泣いたという。
余昧(ヨマイ)【王】
呉4代王。余祭の弟。戴呉ともいう。〜B.C.527。
B.C.544夏、余祭が門番に殺された。余昧は弟の季札に継がせようとしたが、 季札が辞退して逃げ去ったため余昧は即位した。
余昧は季札を諸国に遣わして、即位を告げさせた。
B.C.542冬、余昧は屈狐庸を使者として晋を聘問させ、国交を開こうとした。
B.C.538、7月、楚が諸侯を率いて呉に攻め入った。
8月、諸侯は朱方を攻めおとし、領主の慶封を殺した。
冬、余昧は楚の棘・櫟・麻に攻め入り、朱方の役の報復をした。楚は鐘離・巣・州来に城壁を築いた。
B.C.537、10月、楚が諸侯とともに呉に攻め入った。余昧は出撃して楚軍を鵲岸で討ち破った。楚軍は呉の南懐に攻め入り、汝清まで侵攻した。 しかし呉の防備が強くて攻め入ることができなかった。楚霊王は呉を恐れて東方の防備を強化した。
B.C.536秋、楚が徐を討ったため、余昧は徐を助けようとした。すると楚の令尹子蕩が軍を率いて呉に攻め入った。 余昧はこれを討ち破り、宮廐棄疾を捕虜にした。
B.C.529夏、楚の蕩侯潘子司馬督囂尹午陵尹喜は徐から帰ったが、余昧はこれを豫章で邀撃して全部捕らえた。
7月、晋昭公が諸侯と会合しようとして呉にも通知してきた。余昧は参加しようと出かけたが、 水路に支障があったため断った。
冬、余昧は州来を滅ぼした。
B.C.527、1月、没す。


inserted by FC2 system