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列伝 エ


嬰(鄭)(エイ)【王】
鄭公(7代目)。子亹の弟。子儀ともいう。~B.C.680。
B.C.694子亹が殺されたため、嬰は祭仲高渠弥に擁立される。
B.C.691冬、魯荘公は嬰と鄭の滑で会合して紀のことを相談しようとしたが、嬰は国が乱れていると言って拒否した。
B.C.690夏、嬰は斉襄公・陳宣公と垂で会合する。
B.C.681春、嬰は斉・宋・蔡・邾・魯・陳・衛と斉の北杏で会合した。
B.C.680厲公が大夫甫瑕をおびき出して自分を鄭に入れるように脅迫した。
6月20日、嬰は甫瑕に殺され、ふたりの子供も共に殺される。
嬰(韓)(エイ)【公子】
韓の公子。~B.C.298。
韓の太子となる。
B.C.302秦に参朝する。
嬰(秦)(エイ)【文官】
秦の臣。郎中令。~B.C.301。
B.C.301蜀侯昭襄王暗殺疑惑のため、煇の臣下である嬰は誅殺された。
泄(エイ)【皇帝】
夏王朝11代王。の子。
郢(エイ)【公子】
衛の公子。字は子南。衛霊公の末子、または衛霊公の庶弟。
衛霊公が郊外に遊びに出かけた時、公子郢はその御者をつとめた。衛霊公は「わたしには後を継ぐ子がいない。お前を後継ぎに立てよう」と言ったが、公子郢は答えなかった。 また同じことを問うたので公子郢は「私はその値打ちがありません。奥方や卿大夫、士にご相談してください」と言った。
B.C.493、4月、衛霊公が没した。夫人の南子は「公子郢に申しつけて太子としなさい。君の遺言です」と言った。 しかし公子郢は「わたしは母が賤しく、他の公子とは違います。わたしはずと看病していましたが、そのような遺言はありませんでした。 その上、亡命中の人(太子蒯聵)の子の輒がおられます」と言った。そこで衛は輒(出公)を立てて後継ぎとした。
翳(エイ)【王】
越王。の子。
翁が没すると、代わって立つ。
栄(エイ)【女官】
聶政の姉。
B.C.397聶政は韓の宰相俠累を刺し殺しみずから自分の面皮を剥ぎ目玉をえぐり、腹を切ってはらわたをつかみ出して、ついに死んだ。
韓は聶政の屍を市中にさらして賞金を懸けて姓名をたずねた。
栄はこれを聞くと憂悶して「それはわが弟である。厳仲子はわが弟の知己であった」と言い、韓に赴いた。
栄は屍を見て「これは軹の深井里の聶政というものです」と言った。道行く人は「この男は、王が千金をかけて素姓を知ろうとしているのをしらないのか。 どうしてわざわざ知っているというのか」と言った。
栄は「厳仲子は弟の人物を見込み、その恩義は深く厚かったのです。これに報いるのにどんな道がありましょう。士はおのれを知る者のために死すといいます。 わたしが今なお生きているので、自分をすててわたしをかばい、わからぬようにしようとしたのです。どうしてわが身の罰を恐れ、賢弟の名を滅ぼすことができましょう」 と言い、憂悶悲哀して屍のかたわらで死んだ。
衛(エイ)【武官】
周王朝の臣。
将軍伯懋父隷下の将。
功を立て、伯懋父から匹馬を賜る。
盈(エイ)【王】
召伯。~B.C.513。
B.C.516、11月11日、晋軍が鞏で子朝の軍を破った。子朝についていた召伯盈は見限って子朝を追い出した。 子朝は一味とともに楚へ亡命した。
B.C.513、3月13日、召伯盈は敬王に殺された。
衛鞅(エイオウ)
商鞅
栄駕鵝(エイガガ)
栄欒
裔款(エイカン)【武官】
斉の臣。
B.C.522斉景公は皮膚病にかかり、続いて熱病が出て、一年経っても治らなかった。そこで諸侯の使者で見舞いをする者が多かった。 裔款と梁丘拠は「公室のお祭りの供えが十分なことは先代よりもまさっています。 しかるにわが君のご病気が治らないのは祭官の祝固と史嚚のためでしょう」と言ったため、 斉景公は喜んでそれを晏嬰に話した。しかし晏嬰は反対の意を述べたため、景公は「どうしたらよいか」と問うた。晏嬰は「政治がでたらめで、 奥の女たちはやたらに市から物を奪い取り、お気に入りの臣たちは地方でほしい物を要求するので、民は苦しみ疲れ、いやしい男も女も上を呪っております。 たとえ神主が神に病気平癒を祈っても効果はないでしょう」と答えた。
裔款は斉景公に楚の巫女微を推挙するが、晏嬰に反対されて、その罪で裔款は捕らえられた。
栄旂(エイキ)【文官】
周王朝の臣。
B.C.520、4月19日、周景王は急に精神病がおこって栄旂の家で没した。
栄旂(エイキ)【在野】
孔子の弟子。字は子祈。
泄鈞(エイキン)【在野】
戦国時代の遊説家。
B.C.244秦が趙の春平君を招き、そのまま留置した。
泄鈞は趙のために、秦の相国呂不韋に「春平君は趙王のお気に入りです。そのため郎中たちは彼を妬み、 相談しあって彼を秦に入れたのです。
いま君は彼を引き留めておかれますが、これは趙と国際を絶ち、しかも郎中のはかりごとに乗るものです。
君には春平君を帰して、平都侯だけを留められるのがよいと思います。春平君の言行は趙王に信用されますので、趙王はかならず手厚く趙の地を秦に割き、 平都侯を贖いましょう」と言った。
呂不韋は「よろしい」と言って、春平君を帰国させた。
栄黄(エイコウ)【文官】
楚の臣。
B.C.632城濮の戦い以前に、夢で黄河の神が子玉に玉飾りを要求したが、子玉はささげなかった。 栄黄は「国の利になるなら一命でさえ捨てるのに、どうして玉などを惜しむのですか」と諌めたが、聴き入れられなかった。
はたして子玉は城濮の戦いで大敗した。
潁考叔(エイコウシュク)【武官】
鄭の臣。~B.C.712。
B.C.712鄭は斉、魯とともに許を討つこととなった。
5月24日、出征する軍に武器を祖廟で与えたとき、潁考叔は公孫閼と兵車の取り合いをして、潁考叔は車の轅をかかえて逃げ去った。 公孫閼は戟を抜いてこれを追ったが逃げられたため、公孫閼はこのことを恨みに思った。
7月1日、斉と魯と鄭は会同して許を討伐し、許の城壁に迫った。潁考叔は城壁に一番乗りしようとしたところ、公孫閼が下から射たので、 潁考叔は落下して死んだ。
荘公は犠牲を供えて潁考叔を射殺した者をのろった。君子は「荘公は政と刑の用い方を誤っている」と評した。
衛康叔(エイコウシュク)
康叔封
嬰子(エイシ)【女官】
景公の愛妾。
景公の寵愛を得るが、晏嬰の諫言により疎んじられる。
嬰児(エイジ)【王】
赤狄の潞の君。
嬰児は晋景公の姉伯姫を娶った。
B.C.594宰相鄷舒が嬰児の眼を傷つけ、夫人伯姫を殺した。 そのため景公は鄷舒を討った。
6月19日、赤狄の軍は晋の荀林父に曲梁で破られた。
6月27日、潞国は荀林父によって滅ぼされた。
栄叔(エイシュク)【文官】
周王朝の臣。氏は栄、字は叔。
B.C.693冬、周荘王は栄叔を遣わして魯桓公に追命して位一等を進め、その徳をたたえた。
栄叔(エイシュク)【文官】
周王朝の臣。
B.C.622、1月、周襄王は栄叔を魯に遣わして含(死者の口に含ませる米貝)と賵(軍馬)を贈り届け、 召昭公を魯に遣わして成風の葬式に会葬させた。
栄如(エイジョ)【王】
鄋瞞(長狄)の君。焚如の弟。~B.C.609。
B.C.609栄如は斉に攻め入ったが、王子城父に撃退され殺された。その首は都城の北門に埋められた。
嬰斉(魯)(エイセイ)【公子】
魯の公子。仲嬰斉ともいう。襄仲の子。~B.C.576。
B.C.589、6月18日、公子嬰斉は叔孫喬如季孫行父臧宣叔とともに兵を率いて、晋・衛とともに斉軍を鞍で討ち破った。
嬰斉(楚)(エイセイ)
子重
嬰斉(鄭)(エイセイ)
子齹
栄成伯(エイセイハク)
栄欒
栄伯夷(エイハクイ)
夷公
衛平(エイヘイ)【文官】
宋の博士。
B.C.530泉陽の漁夫予且は網で亀を捕らえ、籠の中に入れた。夜半、 泉陽に来ていた宋元公は夢で亀を見て「わたしは江神のために河神のもとに使いに行く途中、 網にかかって予且という者に捕らえられました。どうか助けていただきたい」
元公は恐ろしくなり、博士衛平に問うた。衛平は式(占い道具)をとって立ち上がり、占って亀を捜し求めるよう進言した。
元公は「よろしい」と言って、予且を捜し出し、亀をひきとり、これを逃がそうとした。衛平は「亀は大宝です。いま王には徳があり、 大宝を受ける資格がありながら進んで受け取ろうとなさらないようですが、もし王が放たれたら、宋国にはかならず禍がありましょう」と進言したので、 元公はこれを殺して占いにつかった。宋はその霊験があらたかだったという。
栄欒(エイラン)【文官】
魯の臣。栄駕鵝、栄成伯ともいう。
B.C.545、11月、魯襄公が楚に朝見しようとしたが、楚康王が没した。 魯襄公は帰国しようとしたが、叔孫帯が「われわれは楚の国のために出かけてきたのです。 どうして楚君ひとりのためでありましょうか。必ず行きましょう」と諌めたため、襄公はそのまま楚に朝見した。 栄欒は「遠い将来を考える者は国に対する忠誠である」と叔孫帯をたたえた。
B.C.544夏、季武子が留守を預かっていたが、卞を襲撃して私邑とした。魯襄公は楚に軍を借りて季武子を討とうとした。 栄欒は「それはいけません。国内に命令ができないからといって、外の諸侯に頼るならば、諸侯はだれが親しくしましょうか。 いっそ、卞を夙(季武子)にくれてやる方がようございます」と言った。季武子は季冶を遣わして書面で魯襄公に報告した。 書には「卞人が背こうとしたので、わたくしが討伐して占領しました」とあった。栄欒はこれを見て「国家のことは、あなたが処理しています。 何も卞だけではありません。どうしてわざわざ報告することがありましょう」と言い、虚偽の報告をした季武子を暗に批判した。
B.C.509季平子は人夫に命じて闞邑にある公室の墓地に行って、 魯昭公の墓を代々の墓と隔離するため周囲に溝を掘らせようとした。栄欒が「君の在世中は追い出して仕えることができず、 亡くなると先代から引き離すのは、みずから自分の悪事を世に明らかにするものだ。あなたは平気でも子孫が恥ずかしがるでしょう」と諌めたため、季平子は中止した。 また季平子は栄欒に「悪い諡をつけて子々孫々によからぬ君であったことを知らせてやろう」と言うと、栄欒は「君の在世中はこれに仕えることができず、 亡くなってから悪い諡をつけるのは、自分の悪を明らかにするものだ」と諌めたため、それを取りやめた。
成伯と諡される。
益(エキ)【皇帝】
夏王朝の2代王。伯益ともいう。
益はにつかえ虞(山沢を司る官)となった。
益はのもとで7年間、宰相を務めた。
益は禹から禅譲により帝位を継ぐが、3年の禹の喪があけると(禹の子)に譲って箕山に隠棲した。
多くの文献では、禹は啓を後継者にしようとしたが、長じても任せきれる器量がないと判断したため、禹は益に位を譲ったという。 そこで啓は徒党を組んで益を攻めて天下を奪う武力革命を起したという。
易牙(エキガ)【文官】
斉の臣。姓は雍、名は巫。字は易牙。
易牙は長衛姫に寵愛されていたので、 寺人のはからいで料理を斉桓公にすすめ、桓公のお気に入りとなった。 おべっかの名人で、自分の子を殺して羹にして献上したという。
管仲は斉桓公に易牙を登用しないように諌めた。
B.C.643、10月8日、斉桓公が没した。易牙は宮中に入って、貂と力を合わせて、長衛姫のはからいで、 無詭を擁立することに反対する大夫を殺してこれを擁立した。
を擁立する宋襄公に攻められて、易牙は殺された。
易王(エキオウ)【王】
燕王(初代)。文公の子。~B.C.320。
B.C.333即位すると、斉に先公の喪中に乗じて討たれ、十ヶ城を失う。蘇秦が斉を説得したため、失地を回復することが出来た。
蘇秦は斉で罪に陥れられるのを恐れ、燕に帰ったが、燕でも元の官にはつけなかった。
蘇秦は「ある男が遠方に行った時、妻が他人とひそかに通じました。やがて夫が帰ると聞くと、妻は毒酒をもって夫を殺そうとしました。妾は酒に毒があることを告げれば、 妻が追い出され、告げなければ主人が殺されると考え、いつわってわざと倒れ、酒を投げ出しました。主人は大いに怒って妾を鞭打ちました。
この妾の行為で主人を保全し、妻をも保全しました。しかし妾は鞭打たれることは逃れられませんでした。 わたくしの過ちも不幸にしてこれに類するもののようであります」と言った。
易王は「先生よ、またもとの官につきたまえ」と言い、ますます優遇した。
蘇秦は易王の母と私通していた。易王はこれを知りながら、いよいよ厚く蘇秦を待遇した。
B.C.324蘇秦は誅殺されるのを恐れ、斉に赴き燕を尊重させようと言い、斉に亡命した。
B.C.323はじめて王と称す。
益師(エキシ)【公子】
魯の公子。字は衆父。~B.C.722。
B.C.722、10月、没す。
閲(エツ)
宰孔
越章王(エッショウオウ)【公子】
楚の公子。名は執疵。熊渠の末子。
熊渠の命により越章王を称す。王を称するのは周以外では楚が始めてであった。
厲王のときになり、厲王が暴虐であったので、おそれて王の称号を取りやめる。
越石父(エツセキホ)【在野】
晏嬰の食客。晏子春秋に見える。
晋で奴隷として仕えていたところを晏嬰に登用されて、食客となる。
偃(宋)(エン)【王】
宋王(初代(32代目))。剔成の弟。康王。~B.C.284。
B.C.331公子偃は剔成を討ち、代わって立った。
B.C.320公子偃はみずから王と称した。
公子偃は斉を破り、その五城を取り、楚を破って300里の土地を得、魏を破った。
公子偃は皮の袋に血を盛り、これを懸けて弓を射て「天を射る」と称した。また酒と婦人に淫した。群臣で諌めるものがいればこれを射殺したため、 諸侯はみな桀宋(夏桀王に似ているため)とあだ名して「宋の君はまたも紂の所業を繰り返した。誅すべきである」といい、このことを斉に告げた。
B.C.284斉湣王は魏・楚とともに宋を討った。宋の人心は離れていたので、城は守られなかった。
公子偃は倪侯の館に逃げ込んだが、結局、魏の温で没した。
宋は滅んで、その土地は3分された。
偃(魯)(エン)【公子】
魯の公子。
B.C.684、6月、斉軍と宋軍が魯の郎に攻め入って陣をかまえた。公子偃は「宋軍が乱れているので、打ち破ることが出来ます。宋が破られれば、斉は引き揚げるでしょう」 と進言したが、魯荘公は聴き入れなかった。
しかし公子偃は雩門からこっそり抜け出て、虎の皮をかぶり、敵陣に攻め入った。それを見た荘公はそれに続いて、大いに宋軍を魯の乗丘で破った。 そのため斉軍は引き揚げた(乗丘の戦い)。
偃(魯)(エン)【公子】
魯の公子。魯成公の弟。~B.C.575。
B.C.575鄢陵の戦いの翌日、魯成公は魯の壊隤を出発して晋軍を見舞おうとした。 そのとき魯成公の母穆姜は魯成公を見送りながら季孫行父孟献子を追放するよう請うたが、 魯成公は晋に加勢する大事な時であるとして断り「帰ってから仰せを承りましょう」と言った。穆姜は怒った。 そのとき公子偃が公子とともに通り過ぎたので、穆姜はふたりを指さして「お前が聴き入れないのなら、 あのふたりはどちらでも君になれるのですよ」と言った。そのため魯成公は孟献子に命じて公宮の警備を厳しくさせてから出発したので、諸侯の会合に遅れてしまった。
10月12日、叔孫喬如が斉に追放された。
12月23日、公子偃は叔孫喬如の一味であったため、季孫行父に殺された。
偃(鄭)(エン)【公子】
鄭の公子。子游ともいう。
B.C.588春、晋・宋・衛・曹が鄭に攻め入ってきて伯牛に陣取った。諸侯の軍は東方に進んで鄭の都に攻め入ろうとした。公子偃はこれを防ぎ、 鄭の東部落の兵に命じてバンに伏兵を設けて不意に攻めて諸侯の軍を丘輿で打ち破った。
B.C.586、6月、楚が鄭を罰するために皇戌子国を捕らえた。
そこで鄭悼公は公子偃を晋に遣わして晋と和睦を結ぶよう申し入れた。
B.C.585春、鄭悼公が晋に赴いて和平のお礼を述べに行ったとき、公子偃はその介添をした。
宛(エン)【文官】
鄭の臣。
B.C.715、3月、鄭荘公は泰山の祭りを止めて代わりに周公を祭るとして、魯に祊を与えて許と交換しようとして、 大夫の宛を遣わした。
衍(晋)(エン)【文官】
晋の医者。
B.C.630晋文公は衛成公を捕らえて周に送り、衍に命じて鴆毒で殺させようとした。 衛成公が鴆毒をつかさどる者に賄賂を贈って毒を薄めさせ、死を免れた。
衍(魯)(エン)【公子】
魯の公子。魯昭公の子。
公子衍と公子が生まれたとき、ふたりの母が一緒に産室に入ったが、公子衍が先に生まれた。すると公子為の母が「一緒に産室に入ったのだから、 一緒に主に報告しましょう」と言ったため公子衍の母は報告を待った。しかし3日経って公子為が生まれると、その母はすぐに魯昭公に報告したため公子為が兄となった。
B.C.513魯昭公は公子衍に小羊の皮衣を与え、竜輔という玉を斉景公に献上したところ、公子衍は小羊の皮衣までも斉景公に献上したため、 斉景公は喜んで陽穀の邑を公子衍に与えた。魯昭公は内々これを喜ぶとともに、魯を失った災いを残念に思い「この務人(公子為)がこうした出亡の災いを引き起こした。 それに後に生まれて兄となっている」と言って、公子為を退けて公子衍を太子とした。
延(エン)【公子】
周王朝の王子。~B.C.520。
B.C.520、6月20日、周王室の内乱で王子延は諸王子とともに単穆公を追撃したが、逆に殺された。
閻嘉(エンカ)【武官】
晋の臣。閻県の大夫。
B.C.533閻嘉は周の大夫と閻の耕地について争った。すると晋は陰戎の人を率いて周の穎邑を討った。 周景王が晋を訴えたため、晋は閻の地と襚(衣服)を周に贈り、穎邑を討った時の捕虜を帰した。
苑何忌(エンカキ)【武官】
斉の臣。
B.C.521、11月7日、苑何忌は晋・曹・衛とともに宋で叛乱を起こしている華氏と宋の赭丘で戦った。
B.C.516斉が魯を討った。苑何忌は林雍と戦ったが、御者が「うつむいて後ろを振り返られよ」と注意したため、 苑何忌はふりむいて車上から撃って林雍の耳を切り落とした。林雍が追撃してきたため、さらにその片足を切り落とされた。
園客(エンキャク)【神】
仙人。列仙伝に見える。
済陰の人。五色の蛾が飛んできて、みごとな蚕が生まれた。蚕になったとき一人の美女が夜分にやってきて、みずから園客の妻と称し、蚕のことを説明した。 そして共々に飼い、そののち二人とも姿を消して所在が知れなくなった。
済陰地方の人々は、代々蚕を祀り、その祠を設けることになったという。
燕姫(エンキ)【女官】
景公の夫人。
嫡子を産むが、景公よりも先に死んでしまう。
燕姞(エンキツ)【女官】
文公の夫人。
燕姞は身分の賤しい妾であった。
B.C.649ある夜、燕姞は夢で天帝の使者が彼女に蘭を与え「わしは伯鯈(南燕国の祖)といい、なんじの先祖じゃ。これ(蘭)にちなんで、 なんじの子に名づけるがいい。蘭には国香(国中第一の香気)があるのじゃ」と告げた。
燕姞はこれを文公に話すと、寵愛されて草蘭(山蘭)を与えられて後日の証拠とした。そして子が生まれて蘭と名づけられた。
B.C.606公子蘭は鄭公となった。(繆公)
燕伋(エンキュウ)【在野】
孔子の弟子。字は子思。
爰居(エンキョ)【神】
海鳥。
鳳凰に似て、頭を上げると8尺の高さがあるという。
袁僑(エンキョウ)【文官】
陳の臣。
B.C.570楚の子辛が小国を侵略しようとしたので、袁僑は陳成公の命で鶏沢の会に参加し、 晋に和睦を申し込んだ。
エンケイ彊(エンケイキョウ)
蔿啓彊
閻敖(エンゴウ)【文官】
楚の臣。~B.C.676。
権を治めていた闘緡が叛乱を起こして殺されたため、楚文王は権の民を那処に移して、 閻敖に命じてこれを治めさせた。
B.C.676巴が楚に背いて那処を攻めて占領した。閻敖はこらえきれず、涌水を泳いで逃げ走った。そのため閻敖は文王に殺された。
そこで閻氏の一族は乱を起こし、巴も乗じて冬に楚を攻めた。
エン皇父(エンコウホ)【宰相】
周王朝の卿士。懿王時代の権力者。
淮夷が叛乱したため懿王は親征して、エン皇父はその総帥となった。エン皇父は淮水の下流近くまで侵攻して諸夷を震撼させ、南国の諸夷はことごとく周の威勢に服した。
B.C.885日食がおこり、それにつづくはげしい地震があった。エン皇父は一派を率いて荒廃した宗周を棄てて、成周に近い向に遷都した。 懿王を補佐する者はなく、懿王はひとり旧都に残され、周はエン皇父派と王党派に分裂した。
袁克(エンコク)【文官】
陳の臣。
B.C.534、10月、楚が陳を滅ぼした。袁克は陳哀公の寵臣であったため、 陳哀公の名馬を殺し名玉を砕いて楚に奪われないようにし、陳哀公を葬ろうとした。しかし楚人はそれを許さなかった。 そこで袁克は小用に行くと偽って顔を隠して逃げ去った。
縁斯(エンシ)【王】
鄋瞞(長狄)の君。
縁斯は宋に攻め入った。宋武公は司徒皇父に命じてこれを防がせた。
縁斯は皇父とその右穀甥・4人乗りの司寇牛父を殺したが、 宋の長丘で討ち破られて捕えられた。
武公はそこで城門のひとつを皇父の御者耏班に賞として与え、その門で納めさせる税を禄とした。これを耏門と呼んだ。
燕周(エンシュウ)【将軍】
趙の将軍。
B.C.274斉を討ち、昌城・高唐を取る。
偃州員(エンシュウウン)【武官】
呉の公子。
B.C.521、10月17日、偃州員と公子ガンは斉・宋軍に鴻口で破られ、捕虜となった。
宛春(エンシュン)【武官】
楚の臣。
B.C.632楚の将軍子玉の命により、晋への使者となり「どうか衛侯の位を復し、あらためて曹伯を曹に封じていただきたい。 こちらも宋を許しましょう」と申し入れる。しかし晋は宛春を捕えて楚を討ち、子玉は城濮で敗れる。
鄢将師(エンショウシ)【武官】
楚の臣。右領。~B.C.515。
B.C.515令尹子常郤宛を殺そうとして鄢将師を呼び寄せた。 鄢将師は「郤氏を攻め、さらに家を焼き払え」と命令した。郤宛はこれを聞くと、すぐに自殺した。
9月14日、子常が郤宛を殺したことについて国中のそしりがやまなかったため、子常は郤宛を讒言した費無忌と鄢将師を殺し、 その一族を残らず滅ぼして国の人々に申し開きをし、そのため衆人は喜んだ。
炎神(エンシン)
炎帝
轅選(エンセン)【武官】
陳の臣。
B.C.625冬、轅選は晋の先且居、宋の公子、 鄭の子家と共に秦を討って汪を攻め取った。
袁宣仲(エンセンチュウ)
袁濤塗
閹楚(エンソ)
勃鞮
奄息(エンソク)【武官】
秦の臣。
B.C.621秦繆公が没すると、奄息は殉死する。
秦人はこれを悲しんだ。
炎帝(エンテイ)【神】
南方の神。ある神話では黄帝の弟とされる。炎神ともいう。
炎帝の母女登が姜水で炎帝を生んだので、姜姓を得た。また烈山に生まれたので、烈山氏ともいう。
ある神話では、神農氏と同一とされ、人身牛首で、すきを作って農業を教え、百草をなめて病気を治したとされる。
火徳によって王となったので、炎帝という。
また、炎帝と黄帝はそれぞれ世界の半分を支配していたが、全主権を求めて争いが起った。炎帝は火の武器、黄帝は水の武器を使ったが、炎帝は黄帝に敗れたという。
エン鞮(エンテイ)【王】
鼓の君。
B.C.527秋、鼓は晋の中行呉に攻められて包囲された。鼓人が狄に叛き降服したいと内通してきたが、 中行呉は「わたしは叔向から、上にある者が善を好み悪を憎むならば、下の者は進むべき所を知る、と聞いた。 鼓人は城を守っていながら二心がある。これは悪であるし、もしこれを賞すれば、わが国の辺境地方に二心を教えるようなものだ」と言い、 包囲を続けた。包囲して3ヶ月たって鼓の人々で降服を願い出る者があったが、中行呉は「民にはまだ物を食べている顔色がある」と言ってまた断った。 軍吏が軍を疲労させていると諌めると、中行呉は「わたしはひとつの城を取って民に怠け心を教える事はしない」と答えた。 かくて鼓の人々が食糧がなくなったことを告げてから、中行呉はその城を取ったが、ひとりも殺さなかった。エン鞮は晋に連れて行かれた。
袁濤塗(エントウト)【武官】
陳の臣。轅濤塗とも書く。袁宣仲ともいう。
B.C.656春、斉は魯、宋、陳、衛、鄭、許、曹と会合して蔡を討ち、楚と和平して帰国しようとした。
帰国の際、袁濤塗は鄭の申侯に「軍が陳と鄭の間を通ったならば、両国は食糧の供給などで困るであろう。 もし東方を通って帰国するならば、結構なことです」と説きつけると、申侯は「それは結構である」と答えた。
そこで袁濤塗は斉桓公に「軍が陳と鄭の間を通れば、両国とも食糧の供給に困りますので、 東方を通って東夷に武力を見せつけて海に沿って帰るのがよろしいでしょう」と進言したので、桓公はこれに従おうとした。
しかし鄭の申侯は変心して斉桓公に面会して「軍は疲れています。東夷にはかなわないでしょう。陳と鄭の間を通り、 両国に食糧を出させるほうがよろしいでしょう」と進言したので、桓公はよろこんで、申侯には鄭邑の虎牢を与え、袁濤塗は捕られた。
秋、斉桓公は袁濤塗が軍道を誤らせようとしたのを責めて、宋・衛・鄭・許・曹・魯とともに陳を討った。
冬、陳宣公は罪に服して和睦を乞うたので、桓公は捕えていた袁濤塗を帰国させた。
B.C.655諸侯が首止で会同した。袁濤塗は申侯の裏切行為を恨んでいたので、申侯に勧めて、虎牢に城壁を築かせて「桓公から賜わった名誉をあきらかにしましょう。 わたしは諸侯に援助を申し込みましょう」と言った。そこで申侯は諸侯に援助を請うて城壁を築いた。 袁濤塗は鄭文公に申侯を中傷して「立派に城壁を築いて謀反を起こす気でしょう」と言った。そこで文公は申侯を罰した。
B.C.631、6月、袁濤塗は、魯釐公・晋の王子虎・晋の狐偃・ 宋の公孫固・斉の国帰父・秦の小子憗と会合して、 翟泉で盟いを結び、践土の盟を温め、鄭を討つ相談をした。
宛茷(エンハイ)【武官】
斉の臣。
B.C.589夏、鞍の戦いで斉頃公は晋の韓厥に捕えられそうになった。 斉頃公の身代りとなった逢丑父は、斉頃公を下車させて華泉の水を汲んでくるよう命じた。 そのとき宛茷は右役となり鄭周父が副車の御者となり、斉頃公を乗せて逃げ去ったため、斉頃公捕えられずに済んだ。
奄父(エンポ)【武官】
趙の先祖。造父の六世の孫。公中ともいう。
宣王が戎を征討したとき、その御者となる。
B.C.789千畝の戦いでは、宣王の危難を逃れさせた。
閻没(エンボツ)【文官】
晋の臣。宛没とも書く。
B.C.548斉が晋に降服したため、閻没は魏献子とともに諸侯と会合した。
B.C.514梗陽で訴訟があり、魏献子が決裁することとなった。すると梗陽の人が魏献子に女楽を贈って賄賂とし、 魏献子もこれを許そうとした。閻没は叔褒に「一緒に諌めましょう。 われわれの主人は賄賂を取らないことで知られているのに、今汚名を受けるのはいけません」と言い、 朝廷が終わっても退朝しなかった。魏献子はふたりを呼んで食事をともに取ったが、 ふたりは三度溜息をついた。魏献子がこのことを尋ねると、ふたりは「われわれは欲深です。最初はご主人の食事が足りないのではないかと溜息をつき、 中ごろどうして足りないはずがあるかと思い溜息をつき、最後にわれら小人の腹をもって君子の心をしたいものだとして溜息をついたのです」と答えた。 魏献子は「よし」と言い、梗陽の人の申し出を断った。
B.C.504、6月、閻没は周を守り、さらに胥靡に城壁を築いた。
掩余(エンヨ)【公子】
呉の公子。余昧の夫人の弟。掩餘とも書く。
(掩余は呉王の同母弟ともいう)
B.C.519、7月29日、呉軍は雞父で戦った。呉軍は本軍を三分して、囚徒3000の衆のあとにつけた。中軍は僚に従い、 公子は右翼の軍を率い、掩余は左翼の軍を率いて楚軍を破った。
B.C.515公子掩余は呉王の命で楚の喪中に乗じて楚の潜を討ち、これを包囲した。しかし楚軍に背後を断たれ、帰国できなくなった。
4月、国内で公子光が呉王僚を弑して代わって立ったので、公子掩余は徐に亡命し、公子燭庸は鐘吾に亡命した。
B.C.512闔閭が徐人に公子掩余を捕らえさせようとしたため、公子掩余は楚に亡命した。楚昭王は公子掩余と公子燭庸に大きな土地を与え、 住む場所を決め、監馬尹楽大心に命じてふたりを迎えさせ、養に住まわせるとともに、そこに城壁を築いて城父と元の胡子の田地を取ってふたりに与え、 それによって呉に対抗しようとした。
呉の伍子胥伯嚭に討たれ、捕らえられる。
苑羊牧之(エンヨウボクシ)【文官】
莒の臣。姓は苑、名は牧之、字は羊。
B.C.520、2月17日、斉の北郭啓が莒に攻め入った。苑羊牧之は「斉の将は身分が低くて、その望みは大したものではない。 降参するのにこしたことはない。大国を怒らせてはいけません」と諌めたが、莒公は聴き入れずにこれを打ち破った。 そのため斉景公は再び莒を討ち、莒公は斉に赴いて盟いを結ぶことになった。
B.C.519、7月、莒公庚与は暴虐で剣を好み、剣を作らせると必ず試し切りをしたため、国の人々は大いに悩んだ。 庚与が斉に背こうとしたため、烏存が国の人々を率いて追放した。庚与は逃げようとしたとき、 烏存がほこをもって道の左側に立っていると聞き、恐れて自殺しようとした。苑羊牧之は「烏存は武力で名を挙げたいだけです。 君を殺して名を挙げようとしておりません」と諌めたため、庚与は魯に出奔した。そこで斉は郊公を莒に入れた。
延陵鈞(エンリョウキン)【武官】
趙の臣。
B.C.248廉頗に従って魏を助け、燕を討つ。
エン呂臣(エンリョシン)【文官】
楚の臣。
B.C.637秋、子玉が陳を討ち、焦・夷を攻め取り、頓に城壁を築いた。 子文はこれを子玉の手柄であるとして、子玉を令尹に任命した。
エン呂臣は不満に思って言った「あなたは国をどうなさるおつもりか」
子文「わたしは国を安らかにしようと思っている。いったい大功を立てて高い地位が得られなければ、落ち着いていられる者がいるだろうか」




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