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列伝 ア


哀王(周)(アイオウ)【皇帝】
周王朝29代王。名は去疾。貞定王の子。〜B.C.441。
B.C.441即位するが弟の弟叔に殺される。
哀王(楚)(アイオウ)【王】
楚王(24(40)代目)。名は猶。幽王の同母弟。〜B.C.228。
B.C.228即位して2ヶ月余で庶兄負芻の一味に襲われて殺される。
哀姜(アイキョウ)【女官】
荘公の夫人。斉桓公の妹。〜B.C.660。
B.C.670夏、荘公は斉に行き、哀姜は迎えられた。
8月2日、哀姜は魯にとついだ。
哀姜が嫁いでくると、魯では礼物の男女の別がなくなった。
哀姜は荘公の弟慶父と通じて魯の三族を混乱させた。
B.C.662、8月5日、荘公が没し、が即位した。哀姜は慶父と通じて、 慶父を立てようとして斑を弑し、(湣公)を立てた。
B.C.660哀姜と慶父の密通はさらに露骨となり、哀姜は慶父を魯侯にしようと考えた、そこで慶父は湣公を弑して自ら即位しようとしたが、 国人に反対されて、莒に出奔し、自殺した。
そのため哀姜は邾に出奔した。しかし哀姜は兄の桓公に捕えられて夷で殺され、そのなきがらは斉に運ばれた。
釐公が哀姜のなきがらを求めたので、魯に送られた。
哀姜(アイキョウ)【女官】
文公の正妃。斉の公女。
哀姜は嫡子および公子を生んだ。
B.C.618、1月、哀姜は斉に赴いた。
B.C.609、10月、公子襄仲が公子悪、公子視を殺して公子俀(宣公)を立てたため、 哀姜は斉に帰ることになった。哀姜は泣きながら魯の盛り場を通って「天よ、襄仲は不道にも嫡子を殺して庶子を立てました」と悲嘆した。 人々はみなもらい泣きをしたため、魯の国人は彼女を哀姜と称した。
哀公(魯)(アイコウ)【王】
魯公(25代目)。名は将。定公の子。〜B.C.468。
B.C.495即位する。
B.C.487呉に攻められ、盟約して去る。また斉に攻められ、三邑を奪われる。
B.C.486斉の南境を攻める。
B.C.485斉に攻められる。
B.C.480子服景伯に命じて斉に使わす。斉は魯に土地を返還する。
B.C.468夏、三桓の専横を憂慮して諸侯の力を借りて牽制しようとする。
8月、三桓に攻められて衛に出奔し、さらに鄒に行き、越に逃れる。魯の国人に迎えられて復帰するが没す。
哀公(斉)(アイコウ)【王】
斉公(5代目)。名は不辰。癸公の子。〜B.C.863。
B.C.863紀公が周に讒言したことで周夷王に煮殺される。
哀公(陳)(アイコウ)【王】
陳公(21代目)。名は弱。成公の子。〜B.C.534。
B.C.569、3月、成公が没したため、公子弱は即位した。
7月、哀公は成公を葬った。
冬、楚が頓に命じて陳に侵攻させた。そこで哀公は頓を包囲した。
B.C.568、9月23日、哀公は晋悼公・魯襄公・宋平公・ 衛献公・鄭釐公・曹成公・ 莒の君・邾の君・滕の君・薛の君、斉の公子、呉の人、鄫の人と戚で盟約し、陳を守ることを誓った。
11月12日、楚が陳に攻め入った。晋・魯・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・斉は鄭の城棣で会合して陳を救った。
B.C.566冬、楚の子嚢が陳を攻め囲んだ。哀公は、晋・魯・宋・衛・曹・莒・邾と鄭のイで会合した。
12月、陳の人は楚の包囲を恐れた。慶虎慶寅が楚人に 「こちらで公子を遣わすから、すぐに捕まえてくれ」と申し入れた。楚人が公子寅を捕えたので、陳人は会合に出席している哀公に 「楚人が公子寅を捕えました。君がお帰りにならないと、陳の社稷や宗廟が滅びてしまうので、陳は君に背いて公子寅についてしまうでしょう」と報告した。 そこで哀公は会合から逃げて国に帰った。
B.C.556春、宋の荘朝が陳に攻め入ってきた。 司徒は宋軍を侮ったため捕えられた。
11月、宋の華臣が陳に亡命してきた。
B.C.553秋、慶虎と慶寅が、公子が政権を奪おうとしていると楚に讒言した。そのため公子黄は楚に出奔した。
B.C.550哀公は楚に出かけた。その間に陳の慶虎と慶寅は陳にたてこもって叛乱を起こした。
夏、哀公は楚の屈建とともに陳を包囲したので、陳人は慶虎と慶寅を殺した。
B.C.549冬、哀公は楚康王、蔡景侯とともに鄭を討った。陳軍が進撃する狭い道では、 井戸をふさぎ、木を切り倒すという乱暴をしたので、鄭人に恨まれた。
陳人は慶氏の一味徒党を討ったので、鍼宜咎は楚に出奔した。
B.C.548、6月、鄭の子展子産が兵車700台を率いて攻め込んできて、陳の都は陥落した。 不意を討たれた哀公はその悼太子を守り助けて墓場に逃げようとした。 司馬の桓子に出会ったので哀公は 「車に乗せてくれ」と言ったが、桓子は「城を見回るところです」と言って断った。やがて賈獲に出会った。賈獲は母と妻を降ろして哀公に車を渡した。哀公は 「お前の母はそのまま乗せておけ」と言ったが、賈獲は「(男と女が一緒に乗るのは)不吉なことです」と言ってそのまま母と妻と一緒に墓地へ逃げた。 哀公は桓子に命じて廟の祭器を贈り物にして、 哀公みずからは喪服をつけ鄭に差し出す大勢の者を縄で縛らせ、朝廷で命令を待った。子展は哀公にお目にかかり、再拝稽首し、 さかずきを哀公に献じた。子産は朝廷に入って捕虜を数えただけで退出した。鄭は陳の司徒に人民を返して治めさせ、 司馬に兵符を返して軍事を司らせ、司空に土地の台帳を返して、陳を元通りに治めさせて軍を引き揚げた。
10月、鄭の子西が再び攻めてきたので、哀公は鄭と和睦した。
B.C.546諸侯が宋で会合を行うことになり、哀公は孔奐を遣わして諸侯と盟いを結んだ。
B.C.545夏、哀公は諸侯とともに晋に朝聘した。
11月、哀公は諸侯とともに楚に朝聘した。
B.C.544、4月、楚康王が葬られた。哀公は魯襄公・鄭簡公・許の君とともに会葬して西門の外まで送った。
B.C.543、6月、鄭の子産が来聘した。子産は帰国すると「陳はやがて滅びる国だ。仲良くしてはいけない。穀物を集めては兵糧を蓄え、 城郭を修繕して守備を固め、民を愛していない。君の地位は低く、公子たちは贅沢であり、太子は勢力がなく、大夫たちはおごり高ぶり、 政令はひとりに統一されることなく、大国の間にはさまれている。10年ももたないであろう」と話した。
B.C.541春、公子が鄭の虢で諸侯の大夫と会合した。
B.C.534、3月17日、哀公は不治の悪疾にかかっていた。哀公は公子を公子招と公子に頼んだ。 そのため公子招と公子過は悼太子を殺して公子留を立てた。 哀公は怒って公子招を誅殺しようとしたが、公子招は兵を出し、宮室を包囲した。
4月4日、哀公は首をくくって死んだ。陳は後継者争いで乱れ、楚がこれに乗じて陳を滅ぼした。
哀公(杞)(アイコウ)【王】
杞公(17代目)。名は閼路。湣公の弟。〜B.C.468。
B.C.478主君湣公を弑し、代わって立つ。
哀公(宋)(アイコウ)【王】
宋公(10代目)。恵公の子。〜B.C.802。
B.C.802即位するが、その元年に没す。
哀公(晋)(アイコウ)【王】
晋公(17(19)代目)。名は驕。公子の子。〜B.C.442。
B.C.459出公が没したので、荀瑶に擁立される。
晋の政治はすべて荀瑶によって裁決され、哀公は彼を掣肘することができなかった。
B.C.456趙襄子韓康子魏桓子は共同して荀瑶を殺し、 その領邑をことごとく奪った。
哀公(鄭)(アイコウ)【王】
鄭公(19代目)。名は易。声公の子。〜B.C.459。
B.C.459鄭人に弑される。
哀公(秦)(アイコウ)【王】
秦公(14(19)代目)。秦景公の子。〜B.C.501。
B.C.536、1月、秦景公が没したため、哀公は即位した。
魯の大夫が秦景公の葬礼に参加した。
B.C.523、1月、楚平王が太子にめあわすため秦の娘を求めてきた。秦女が楚に行くと、 美貌であったので、楚平王は自分で娶った。
楚の子瑕が来聘し、夫人を迎えたお礼をした。
B.C.506楚は呉に攻められ、国都郢は陥落した。大夫申包胥が秦に危急を告げ、7日間食事を取らず、日夜泣いて哀公に救援を訴えた。 そこで哀公はこれを憐れに思い、兵車500乗を出して楚を援け、 呉軍を破ったので、楚昭王はまた郢に帰ることが出来た。
B.C.501冬、哀公は没した。
哀侯(燕)(アイコウ)【王】
燕公。頃侯の子。〜B.C.765。
B.C.767即位する。
哀侯(蔡)(アイコウ)【王】
蔡侯(12代目)。名は献舞。桓侯の弟。〜B.C.675。
B.C.695、6月6日、桓侯が没す。
蔡の人は、献舞を陳から呼び寄せた。
秋、献舞は蔡に帰り、即位した。
8月23日、哀侯は桓侯を葬った。
B.C.689冬、哀侯は斉・宋・魯・陳とともに衛を討った。
B.C.686、1月、蔡は魯・陳とともに郕を討った。
B.C.684哀侯は陳から夫人を迎えた。ちょうど息侯も陳から息嬀を迎え、その息嬀が息に嫁ぐ途中、蔡に立ち寄った。 哀侯は「わたしの妻の姉妹だ」と言って引きとめて会ったが、無礼であったので、息侯は立腹して、 楚文王に「わが国を討ちに来てください。わたしは蔡に救いを求めます。そこを共に蔡を討つことにしましょう」と申し出た。
9月、蔡軍は蔡のシンで破られ、哀侯は捕えられ、楚に連行された。
B.C.681春、哀侯は斉・宋・陳・邾・魯・衛・鄭と斉の北杏で会合した。
B.C.680哀侯は息の策略にかかって楚に討たれたことを恨み、息嬀の美貌を褒めはやして楚文王をたきつけた。文王は息に出かけ、息侯をもてなす宴会を開き、 それに乗じて息を滅ぼし、息嬀を連れて帰った。
7月、楚文王は蔡の策略であることに気づき、蔡を討った。
B.C.675哀侯は楚で没す。
哀侯(晋)(アイコウ)【王】
晋侯(14(15)代目)。名は光。鄂侯の子。〜B.C.709。
桓王は曲沃の荘伯とともに鄂侯を討ち、鄂侯は随に亡命した。
桓王は光を晋の君に立てたが、荘伯は王命に従わず、更に翼に攻め入り、光は国外に亡命した。
B.C.718秋、桓王は虢公に命じて曲沃を討たせて、光は都の翼で即位した。
B.C.710陘廷を討つ。
B.C.709曲沃の武公と同盟した陘廷に討たれ捕われる。
晋は小子を立てたので、武公に殺される。
哀侯(韓)(アイコウ)【王】
韓侯(4代目)。文侯の子。〜B.C.371。
B.C.375鄭を滅ぼして、鄭に遷都する。
B.C.371韓厳に殺される。
亜圉(アギョ)【神】
周の先祖。高圉の子。
悪(アク)【公子】
文公の子。母は哀姜。〜B.C.609。
B.C.609、10月、公子悪は公子を擁立しようとする襄仲に殺された。
偓佺(アクセン)【神】
仙人。列仙伝に見える。
槐山の薬草取りの老人で、好んで松の実を食し。身体には毛が四、五寸も生えており、両眼は四角であった。馬と争うほどで早く走ったという。
悪来(アクライ)【文官】
秦王朝の先祖。「オライ」ともいう。蜚廉の子。〜B.C.1023。
怪力であったことから父蜚廉ともども商紂王に仕える。
奸臣といわれ、讒言、中傷の名人で紂王をそそのかした。
B.C.1023周武王が紂王を討ったとき、悪来も同時に殺される。
閼(アツ)【公子】
鄭の公子。〜B.C.678。
B.C.678公子閼は祭仲の一派であるとされて、鄭厲公に殺された。
閼伯(アツパク)【神】
帝嚳の子。
閼伯は弟の実沈と仲が悪くて、毎日干と戈をもって打ち合っていた。はこれをよくないと考えて、 閼伯は商丘に移されて火正に任じられ、辰を祀ることを司った。閼伯は商丘にいて大火を祭り、火星の出没を観測して火を起こしたり消したりすべき時期を記録した。
閼父(アツホ)【文官】
周王朝の臣。の子孫。
閼父は周武王に仕えた。周武王は閼父が役に立つ陶器を作ることと聖人の子孫であるということから、 長女を閼父の子胡公に嫁がせて陳に封じた。
アツ寙(アツユ)【神】
古代の怪獣。
龍の頭をして、人間を飲み込む怪獣。
羿に成敗される。
安(韓)(アン)【王】
韓王(5(11)代目)。桓恵王の子。
B.C.233秦に攻められる。
韓は公子韓非を秦に使いさせる。秦は韓非を引き留め、殺してしまう。
B.C.230秦に攻められ、安は捕らえられる。
その地は秦の潁川郡となり、韓は滅亡する。
安(楚)(アン)
曹姓
晏嬰(アンエイ)【宰相】
斉の宰相。名は嬰、字は平仲。または字は仲、諡は平ともいう。晏弱の子。萊の夷維の人。〜B.C.500。
B.C.556晏弱が没した。晏嬰は士の礼で喪に服した。家臣の老人が「それは大夫たる者の行う礼ではない」と言うと、 晏嬰は「ただ卿たる身分の者だけが大夫の礼を行うことができるのだ」と言った。
食事には肉二品を重ねず、妾には帛を着せず、朝廷に在って君から下問があれば、直言して応答し、下問がなければ自分のおこないを高潔にした。
霊公、斉荘公、斉景公に仕え、 国内で絶大な勢力を誇り、斉公も軽んずることができなかった。
B.C.555、10月、析文子が晋の范匃から、諸侯が各方面から斉を討つということを聞き、 それを斉霊公に報告したので斉霊公は恐れた。晏嬰はこれを聞いて「わが君はもともと勇気がないのに、こんな話を聞かれてしまった。長く防ぐことはできないだろう」 と言った。はたして斉霊公は大軍の進撃であると思い込んで恐れて、ひとり逃げ帰った。
(晏嬰が直接、斉霊公に「あなたも勇気のない方でございます。どうしてとどまって戦わないのですか」と言ったとする古典もある)
B.C.551秋、欒盈が楚から斉に亡命してきた。晏嬰は「昨年の商任の会のとき、欒氏をかくまってはならぬと命令を晋侯から受けております。 いま欒氏を受け入れては、信義を守れません」と諫言したが、荘公は聴き入れず、欒盈を受け入れた。 晏嬰は退出して田須無に「人君は忠信を守り、人臣は篤敬を守る。忠信と篤敬は上下共々守るべきものであり、 天の道というものです。君みずからお捨てになっては、長いことはないでしょう」と言った。
B.C.550秋、斉荘公が欒盈の乱につけこんで衛を討ってさらに晋を討とうとした。晏嬰は「君には勇力をたのんで盟主の晋を討とうとされていますが、 成功しない方が国の幸いであります。徳もなくてただ武功を立てられたら、禍がふりかかるでしょう」と諌めたが、聴き入れられなかった。
B.C.548、5月、斉荘公が崔杼の妻と密通したために崔杼に殺された。晏嬰はこれを聞き、崔氏の門の外に立った。
従者「死ぬつもりですか」
晏嬰「わたしだけの君ではない。どうして死んだりしよう」
従者「ではどこかに逃げられますか」
晏嬰「わたしに罪はない。逃げる必要はない」
従者「では家に帰られますか」
晏嬰「君が亡くなったのに、どうして帰れよう。君たる者は国を第一に考えるべきだ。臣たる者は国を守るために仕えるべきだ。 だから君が国のために死ぬのなら、臣も一命を捨てるのだ。君が自分のために死んだら、特に君のお気に入りの者でなければ死ぬ者はいない。 それに君に仕える者がその君を殺したというのに、なぜ死ななければならないだろうか。どうして逃げなければならないだろうか」
晏嬰は哀哭の礼をすませると帰っていった。崔杼の家臣が晏嬰も殺そうとすると崔杼は「民に人望がある。生かしておいて人心を得よう」と言ってそのままにしておいた。
景公が即位し、崔杼・慶封が彼ら二人への服従を誓わせようとしたが「わたしは何としても、ただ君に忠をつくし、社稷に利するものにだけ従う」として誓約しなかった。
また斉は晋と燕に攻められ、景公はこれをすこぶる憂慮した。
晏嬰は司馬穰苴を斉景公に推薦して「穰苴は田氏の妾腹の出でありますが、文においては衆を引きつけ、 武においては敵を脅すことのできる人物であります」と言った。
B.C.547、7月、斉景公が衛献公を救うために晋に出かけた。 晏嬰は国弱の命により晋の叔向に内々に話をして衛献公釈放のお願いをした。
B.C.545欒子雅高子尾が朝廷に不満をもったため、 析帰父慶封の命で彼らを処理しようとして晏嬰に相談した。 晏嬰は「相談できる知恵はありませんが、この事は決してもらしはしません」と答えた。
慶氏が滅びると、晏嬰は斉の別都である邶殿に属する60邑を与えられたが、晏嬰は「慶氏は欲望を満たす采邑があったから滅びたのです」と言って受け取らなかった。
B.C.544呉の季札が斉を聘問し、晏嬰と会った。季札は晏嬰の人物に感服して「あなたは早速に采邑と政権(官職)を返上しなさい。 そうすれば禍にかからないでしょう」と言った。晏嬰は田無宇に依頼して、采邑と官職を返上した。
B.C.540晋の韓宣子が欒子雅の子欒子旗と高子尾の子高子彊と面会したが、 「一家を保ってゆく大夫ではありません。思い上がって不忠の臣にみえる」と言った。斉の大夫はこれを冗談として笑ったが、晏嬰だけは韓宣子のことばを信じた。
あるとき斉景公が「あなたの家は市場に近く、低くて狭くて住むに耐えない所だ。良い場所にかえてやろう」と言ったが、晏嬰は「父の住んでいた所でありますし、 市場に近いので大変便利です」と言って断った。斉景公は「それでは物の高い安いを知っておるか」と尋ねると晏嬰は「踊は高く、ふつうの靴は安いです」と答えた。 そこで景公は刑罰を減らした。
B.C.539春、晋平公の夫人少姜が死んだので、 斉は晏嬰を晋に遣わしてその後継ぎになる方を差し上げたいと申し出た。晋の韓宣子は叔向に命じてこれを受けさせた。婚礼を終え、晏嬰は接待の礼を受けた。 叔向が「斉はどのようですか」と問うと晏嬰は「末の世です。斉はきっと陳氏のものになりましょう。陳氏は民をなつかせております」と答えた。 叔向は「そうですな。わが晋も末の世です。民は疲れているのに公室は贅沢をしており、政権は大夫たちに掌握されています」と言った。
晏嬰が晋に出かけた隙に、斉景公は晏嬰の邸宅を新築させた。晏嬰はお礼を述べたが、それを壊してもとの人々の住宅を作ってあげて、自分はもとの邸宅に帰ろうとした。 景公はこれを許さなかったが、田無宇もお願いしたため、やっと許した。
冬、欒子雅が没した。司馬竈が「子雅を失いました」と報告すると晏嬰は「惜しいことです。 子の子旗は禍から逃れられないでしょう。これで姜姓の一族は衰えました。姜氏は危ういことよ」と言った。
B.C.537鄭の子皮が斉にやってきて、晏嬰は何度も子皮と面会した。田無宇がそのわけを尋ねると、 晏嬰は「りっぱな人物を用いることのできる人で、民のかしらであるからです」と答えた。
B.C.536、12月、斉景公は燕を討って亡命してきている燕簡公を燕に入れようとした。晏嬰が「入国できないであろう。 燕ではすでに君がおり、民は二心を持っていない。しかるにわが君は財貨を貪り、左右の者はこびへつらっている」と言った。
B.C.532夏、夏、田無宇と鮑国が欒子旗と高子彊を攻めた。この騒ぎを聞いて晏嬰は落ち着き払って朝服をつけて虎門の外に立った。 欒・高・田・鮑氏が晏嬰を招き寄せようとしたが、晏嬰はどこにも応じなかった。 晏嬰は斉景公に召されて公宮に入り、斉景公の命により攻めて来た欒・高氏を討ち破った。
田氏と鮑氏は二氏の財産を分け取ろうとしたが、晏嬰が「それは必ずわが君に納めなさい。謙譲は道徳の基本です。まあしばらくは利を蓄えないことにしましょう。 そうすればかえって利を大きくすることができるでしょう」と言ったため、田無宇は二氏の財産を全部、斉景公に納めた。斉景公は田無宇に莒の近隣の地を与えたが、 田無宇は辞退したため鬷声姫が田無宇のために高唐の地を与えるように請うた。かくて田氏は強大になった。
B.C.522斉景公は皮膚病にかかり、続いて熱病が出て、一年経っても治らなかった。そこで諸侯の使者で見舞いをする者が多かった。 梁丘拠裔款は「公室のお祭りの供えが十分なことは先代よりもまさっています。 しかるにわが君のご病気が治らないのは祭官の史嚚祝固のためでしょう」と言ったため、 斉景公は喜んでそれを晏嬰に話した。しかし晏嬰は反対の意を述べたため、 景公は「どうしたらよいか」と問うた。晏嬰は「政治がでたらめで、奥の女たちはやたらに市から物を奪い取り、お気に入りの臣たちは地方でほしい物を要求するので、 民は苦しみ疲れ、いやしい男も女も上を呪っております。たとえ神主が神に病気平癒を祈っても効果はないでしょう」と答えた。
12月、斉景公は狩から帰って遄台に休んだとき「ただ拠(梁丘拠)と自分だけが心の和合することよ」と言った。晏嬰は「拠はただ君と心を同じにしているだけで、 和合しているとはいえません」と言った。斉景公は「和と同は違うのか」と問うた。晏嬰は「心が和合するのは、吸い物を作るようなものです。 味の足りないところを増し加え、味の強すぎるところを減らします。かくてお上が召し上がれば心に満足されます。君臣もこれと同じで、 君がよいと言われるところでもよくなければそれを諌め、君がいけないと言われるところでもよいと思われることを進言します。 かくて政治は公平で道理にもとることがなくなります。しかし拠は君がよいと言われることはよいと同調し、君がいけないと言われることはいけないと言って同調します。 これは水に水をくわえて吸い物をつくるようなものです」と答えた。
またあるとき梁丘拠は晏嬰に問うて「あなたは三人の君に仕えています。君は心が同じではないのに、あなたは君に従順であった。仁人は多心なのでしょうね」と言った。 晏嬰は答えて「嬰はこう聞いています。民を愛する心に従って努力すれば、人民を扱うことができます。強暴不忠であれば、一人も扱うことができません。一心があるのであれば、 百君にでも仕えることができます。三心を以てしては一君にも仕えることはできません」と言った。孔子はこれを聞いて 「小子よ、これを心にとどめよ。晏子は一心をもって百君に仕える者である」と言った。
B.C.517孔子が斉に来た。斉景公は孔子との会談でこれを喜び、尼谿の田をもって孔子を封じようとしたが、晏嬰が「学者は滑稽多弁ですから、 そのことばを手本としてはなりません。傲慢不遜で自分の思いのままにふるまうので、低い身分に置くこともなりません。
周の王室はすでに衰微し、礼楽も残欠して、久しい年月を経ました。しかるに今、あの者は容儀修飾を盛大にし、登降の礼儀や歩行の節度を煩雑にしています。 これを採用するのは、微賤な細民を救済する急務ではありません」と言ったので、斉景公は孔子を登用しなかった。
B.C.516冬、斉に彗星が現れた。斉景公は祈祷してその災いを除こうとしたが、晏嬰は「何の役にもたちません。彗星はそれによって世の汚れを払い除こうとするものです。 わが君に汚らわしい悪徳がないときに、お祓いをする必要はありません。もし悪徳があれば祈祷しても災いを少なくすることはできません」と諌めた。 斉景公はこれを喜んで祈祷を行うことをやめた。
晏嬰は斉景公と表御殿にいたとき、斉景公がため息をついて「美しい御殿だ。(自分のあとに)誰のものになるであろうか」と言った。 晏嬰は「どういう意味でしょうか」と問うと、斉景公は「わたしは有徳者のものになると思う」と言った。晏嬰は「きっと陳氏のものになるでしょう。 陳氏には立派な徳はないけれども、民に厚く恵み施しており、民は陳氏になびいでおります。もし朝廷が政治を怠れば、この国は陳氏の国となりましょう」と答えた。 斉景公は「もっともなことだ。どうしたらよかろう」と問うと、晏嬰は「ただ礼によってそれを止めることができます」と答えた。
孔子は晏嬰を「晏平仲(晏嬰)は善く人と交わる。久しくして之を敬す」と評し、『史記』を著した司馬遷は「自分は鞭を持って彼のために御者を務めたいほど慕わしい」 と高く評価しています。
安王(アンオウ)【皇帝】
周王朝33代王。名は驕。威烈王の子。〜B.C.375。
晏桓子(アンカンシ)
晏弱
晏氂(アンキ)
晏萊
安釐王(アンキオウ)【王】
魏王(4(6)代目)。昭王の子。〜B.C.243。
B.C.278即位して、魏無忌を封じて信陵君と号す。
あるとき信陵君は安釐王と賭け事をしていた。そこへ烽火が伝えられ「趙軍来襲」と報告があった。安釐王は賭け事をやめ、大臣に評定しようとしたが、信陵君はそれを止めて 「趙王が狩をしているだけのことです。攻めてきたのではありません」と言って、賭け事をつづけた。安釐王は恐れて気もそぞろ、賭け事どころではなかった。しばらくすると、 また烽火があり「趙王の狩であり、来襲ではありません」と伝えてきた。安釐王は大いに驚いて信陵君にそのわけを問うた。信陵君は「わたくしの食客に、よく趙王の秘密に通じている者がおり、 逐一わたしに報告してくれるのです」と答えた。
それ以後、安釐王は信陵君の賢能を恐れ、国政を任そうとしなかった。
B.C.277秦に攻められ2城を抜かれる。
B.C.276秦に攻められ2城を抜かれ、国都大梁の城下に布陣される。
そこで秦に温を与えて和睦する。
B.C.275秦に攻められ4城をぬかれ、兵4万を失う。
B.C.274秦に趙・韓とともに破られ、15万の兵を失い、芒卯は敗走する。
B.C.269秦に攻められ、懐を抜かれる。
B.C.268秦の太子は、魏の人質となっていたが、魏で没す。
B.C.266秦に攻められ、邢丘を失う。
斉・楚に攻められる。安釐王は唐雎を登用して秦昭襄王を説き、秦は出兵して魏を救った。
B.C.258秦が趙の邯鄲を包囲した。趙の平原君はしばしば安釐王と信陵君に書簡を送り、救援を請うた。 安釐王は晋鄙に命じて救わせようとしたが、秦を恐れて鄴に兵を留め塁壁を築いて、名義は趙を救うためと称して、 実は二心をもって形勢を傍観することにした。
さらに客将新垣衍を邯鄲に潜入させ、平原君を通じて趙孝成王に 「使者を秦に遣わし尊んで帝と称するなら、秦は喜んで兵を引き揚げるだろう」と言わせようとした。しかし魯仲連の諫言でこれを取りやめた。
邯鄲救援を信陵君に何度も請われたが、安釐王は聴き入れなかった。すると信陵君は王の兵符を盗み、晋鄙を殺して兵権を奪い趙を救った。
安釐王は信陵君が兵符を盗み、晋鄙を殺したことを怒ったので、信陵君は趙に出奔した。
B.C.248安釐王は、信陵君がいないため秦に日夜兵を出して討たれるので、使者を遣わして信陵君の帰国を請うた。信陵君は急いで帰国して魏を救うこととした。
B.C.247安釐王と信陵君は会見して、ともども泣いた。そして信陵君に上将軍の印を与え、諸侯はそれぞれ将軍を派遣して、信陵君は五カ国の軍隊を指揮して秦を討ち、 秦将蒙驁を敗走させ、勝に乗じて秦軍を追い、ついに函谷関に押し寄せた。
秦は信陵君を恐れ、金一万斤をばらまいて晋鄙のもとの食客を求め、魏王に讒言をさせた。安釐王は信陵君を退けて、別の者を将軍とした。
安期生(アンキセイ)【在野】
河上丈人黄帝老子の書を学んだ。
安期生はこれを毛翕公に教える。
晏圉(アンギョ)【文官】
斉の臣。晏嬰の子。
B.C.489、6月高昭子田乞に破れたため、魯に出奔する。
安国君(アンコククン)【公子】
秦の公子。
B.C.265昭襄王の太子となる。
晏弱(アンジャク)【将軍】
斉の将軍。晏桓子ともいう。〜B.C.556。
B.C.595冬、魯の公孫帰父が斉頃公と斉の穀で会合した。 このとき公孫帰父は晏弱に面会して魯の楽しいことを話した。晏弱は高固に「子家はきっと滅びるでしょう。 高位に満足して執着している。地位に執着すると、それをむさぼり他人を除こうとするようになります。そうなれば逆に自分も除かれることになるでしょう」と言った。
B.C.592春、斉頃公は晋の使者郤克を辱しめた。郤克は怒り、斉を討伐して恨みを晴らそうと考えた。
そのため斉頃公は高固、晏弱、蔡朝南郭偃を遣わして諸侯の会合に参加させることにした。しかし高固は途中でおそれて帰国した。
諸侯は巻楚で同盟を結んだが、この同盟から斉の使者は除外され、晏弱は捕えられて野王に幽閉された。
晋の臣苗賁皇が捕えられている晏弱にあった後、晋景公に 「あの晏子は何の罪がありましょう。斉君は晋に礼遇されないことを恐れて、みずからは出かけないで4人の使者を遣わしたのです。 これを捕えるのはこちらの過ちではありませんか」と諌めた。そこで景公は晏弱の見張りを緩めて逃げさせた。
B.C.571晏弱は東陽に城壁を築いて萊を威圧した。
B.C.568、4月、晏弱は東陽から進んで、萊を攻め囲んだ。
4月29日、晏弱は萊の城壁の周囲に土を積み上げて、城壁の上のひめ垣まで届かせた。
B.C.567、3月27日、斉軍は萊の都に攻め入った。
11月10日、晏弱は萊共公が亡命した棠を攻め囲み、萊共公を滅ぼし、萊の遺民を郳(小邾)に移した。
B.C.561冬、周霊王が斉に王后を求めた。斉霊公がいかに返答すべきか晏弱に尋ねた。 晏弱が承諾することを勧めたので、霊公はこれを承諾した。
B.C.556、晏弱は没した。
晏首(アンシュ)【文官】
田斉の臣。
晏首は自分の息のかかった者を推薦して仕官させることをしなかったため、逆に騶忌に讒言された。
晏孺子(アンジュシ)【王】
斉公(26代目)。名は荼。景公の子。母は芮姒。〜B.C.489。
B.C.490景公は病気になると、周囲の反対をおしきって太子に荼を指名し、没す。荼、即位する。
B.C.489、6月田乞鮑牧に攻められ、10月位を廃され、馬台に移される。
馬台に向かう途中、野営の幕中で殺される。
安平君(趙)(アンペイクン)
安平君(斉)(アンペイクン)
田単
晏父戎(アンポジュウ)【将軍】
斉の臣。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、晏父戎は斉荘公の右役となった。
晏萊(アンライ)【武官】
斉の臣。晏氂ともいう。
B.C.550斉は晋からの亡命大夫欒盈をひそかに晋に帰して叛乱を起させた。斉は晋を討ったが、 晏萊は晋の趙勝と魯軍に破られ捕らえられた。
安陵君(楚)(アンリョウクン)【文官】
楚の臣。名は壇。
江乙があるとき安陵君に説いて「あなたはいささかの功もなく、高い地位におられ、厚い俸禄を受けておられます。 それはどうしてでしょうか」と言った。
安陵君は「大王が、私の容色をめでられ、過って挙げ用いられたからです」と言った。
「金銭によって交わる者は、金銭が尽きると交わりが絶え、容色によって交わる者は、容香が衰えると愛情が移るものです。いま、あなたのために危ぶんでいる次第です」
「では、どうしたものだろうか」
「ぜひとも大王の死のお供をし、身を以って殉じさせていただきたいと願い出てください。そうなれば、末長く楚国で重んじられるでしょう」
安陵君は楚王と共に狩に出かけた。楚王は野牛を一発で仕留めて「ああ、なんと楽しいことだ。私の死後、おまえは誰とこれを楽しむことだろう」と言った。安陵君は涙を流し 「大王がお隠れになった後は、身をもってあの世の水を毒見し、大王の夜具となって螻や蟻を防ぎましょう」と言った。
楚王は大いに喜び、領地を与えて安陵君と号した。
安陵君(魏)(アンリョウクン)【文官】
魏の臣。
秦が500里の地をもって安陵と交換するよう請うた。安陵君は「はなはだけっこうなことですが、この安陵の地は先王から拝領した土地でありますので、 最後までこの地を守り通したく存じます」と答えた。
秦王が不機嫌になったため、安陵君は唐雎を遣わせて、秦王を納得させた。


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