- 安(韓)(アン)【王】
- 韓王(5(11)代目)。桓恵王の子。
B.C.233秦に攻められる。
韓は公子韓非を秦に使いさせる。秦は韓非を引き留め、殺してしまう。
B.C.230秦に攻められ、安は捕らえられる。
その地は秦の潁川郡となり、韓は滅亡する。
- 安(楚)(アン)
- →曹姓
- 晏嬰(アンエイ)【宰相】
- 斉の宰相。名は嬰、字は平仲。または字は仲、諡は平ともいう。晏弱の子。萊の夷維の人。〜B.C.500。
B.C.556晏弱が没した。晏嬰は士の礼で喪に服した。家臣の老人が「それは大夫たる者の行う礼ではない」と言うと、
晏嬰は「ただ卿たる身分の者だけが大夫の礼を行うことができるのだ」と言った。
食事には肉二品を重ねず、妾には帛を着せず、朝廷に在って君から下問があれば、直言して応答し、下問がなければ自分のおこないを高潔にした。
斉霊公、斉荘公、斉景公に仕え、
国内で絶大な勢力を誇り、斉公も軽んずることができなかった。
B.C.555、10月、析文子が晋の范匃から、諸侯が各方面から斉を討つということを聞き、
それを斉霊公に報告したので斉霊公は恐れた。晏嬰はこれを聞いて「わが君はもともと勇気がないのに、こんな話を聞かれてしまった。長く防ぐことはできないだろう」
と言った。はたして斉霊公は大軍の進撃であると思い込んで恐れて、ひとり逃げ帰った。
(晏嬰が直接、斉霊公に「あなたも勇気のない方でございます。どうしてとどまって戦わないのですか」と言ったとする古典もある)
B.C.551秋、欒盈が楚から斉に亡命してきた。晏嬰は「昨年の商任の会のとき、欒氏をかくまってはならぬと命令を晋侯から受けております。
いま欒氏を受け入れては、信義を守れません」と諫言したが、荘公は聴き入れず、欒盈を受け入れた。
晏嬰は退出して田須無に「人君は忠信を守り、人臣は篤敬を守る。忠信と篤敬は上下共々守るべきものであり、
天の道というものです。君みずからお捨てになっては、長いことはないでしょう」と言った。
B.C.550秋、斉荘公が欒盈の乱につけこんで衛を討ってさらに晋を討とうとした。晏嬰は「君には勇力をたのんで盟主の晋を討とうとされていますが、
成功しない方が国の幸いであります。徳もなくてただ武功を立てられたら、禍がふりかかるでしょう」と諌めたが、聴き入れられなかった。
B.C.548、5月、斉荘公が崔杼の妻と密通したために崔杼に殺された。晏嬰はこれを聞き、崔氏の門の外に立った。
従者「死ぬつもりですか」
晏嬰「わたしだけの君ではない。どうして死んだりしよう」
従者「ではどこかに逃げられますか」
晏嬰「わたしに罪はない。逃げる必要はない」
従者「では家に帰られますか」
晏嬰「君が亡くなったのに、どうして帰れよう。君たる者は国を第一に考えるべきだ。臣たる者は国を守るために仕えるべきだ。
だから君が国のために死ぬのなら、臣も一命を捨てるのだ。君が自分のために死んだら、特に君のお気に入りの者でなければ死ぬ者はいない。
それに君に仕える者がその君を殺したというのに、なぜ死ななければならないだろうか。どうして逃げなければならないだろうか」
晏嬰は哀哭の礼をすませると帰っていった。崔杼の家臣が晏嬰も殺そうとすると崔杼は「民に人望がある。生かしておいて人心を得よう」と言ってそのままにしておいた。
景公が即位し、崔杼・慶封が彼ら二人への服従を誓わせようとしたが「わたしは何としても、ただ君に忠をつくし、社稷に利するものにだけ従う」として誓約しなかった。
また斉は晋と燕に攻められ、景公はこれをすこぶる憂慮した。
晏嬰は司馬穰苴を斉景公に推薦して「穰苴は田氏の妾腹の出でありますが、文においては衆を引きつけ、
武においては敵を脅すことのできる人物であります」と言った。
B.C.547、7月、斉景公が衛献公を救うために晋に出かけた。
晏嬰は国弱の命により晋の叔向に内々に話をして衛献公釈放のお願いをした。
B.C.545欒子雅と高子尾が朝廷に不満をもったため、
析帰父が慶封の命で彼らを処理しようとして晏嬰に相談した。
晏嬰は「相談できる知恵はありませんが、この事は決してもらしはしません」と答えた。
慶氏が滅びると、晏嬰は斉の別都である邶殿に属する60邑を与えられたが、晏嬰は「慶氏は欲望を満たす采邑があったから滅びたのです」と言って受け取らなかった。
B.C.544呉の季札が斉を聘問し、晏嬰と会った。季札は晏嬰の人物に感服して「あなたは早速に采邑と政権(官職)を返上しなさい。
そうすれば禍にかからないでしょう」と言った。晏嬰は田無宇に依頼して、采邑と官職を返上した。
B.C.540晋の韓宣子が欒子雅の子欒子旗と高子尾の子高子彊と面会したが、
「一家を保ってゆく大夫ではありません。思い上がって不忠の臣にみえる」と言った。斉の大夫はこれを冗談として笑ったが、晏嬰だけは韓宣子のことばを信じた。
あるとき斉景公が「あなたの家は市場に近く、低くて狭くて住むに耐えない所だ。良い場所にかえてやろう」と言ったが、晏嬰は「父の住んでいた所でありますし、
市場に近いので大変便利です」と言って断った。斉景公は「それでは物の高い安いを知っておるか」と尋ねると晏嬰は「踊は高く、ふつうの靴は安いです」と答えた。
そこで景公は刑罰を減らした。
B.C.539春、晋平公の夫人少姜が死んだので、
斉は晏嬰を晋に遣わしてその後継ぎになる方を差し上げたいと申し出た。晋の韓宣子は叔向に命じてこれを受けさせた。婚礼を終え、晏嬰は接待の礼を受けた。
叔向が「斉はどのようですか」と問うと晏嬰は「末の世です。斉はきっと陳氏のものになりましょう。陳氏は民をなつかせております」と答えた。
叔向は「そうですな。わが晋も末の世です。民は疲れているのに公室は贅沢をしており、政権は大夫たちに掌握されています」と言った。
晏嬰が晋に出かけた隙に、斉景公は晏嬰の邸宅を新築させた。晏嬰はお礼を述べたが、それを壊してもとの人々の住宅を作ってあげて、自分はもとの邸宅に帰ろうとした。
景公はこれを許さなかったが、田無宇もお願いしたため、やっと許した。
冬、欒子雅が没した。司馬竈が「子雅を失いました」と報告すると晏嬰は「惜しいことです。
子の子旗は禍から逃れられないでしょう。これで姜姓の一族は衰えました。姜氏は危ういことよ」と言った。
B.C.537鄭の子皮が斉にやってきて、晏嬰は何度も子皮と面会した。田無宇がそのわけを尋ねると、
晏嬰は「りっぱな人物を用いることのできる人で、民のかしらであるからです」と答えた。
B.C.536、12月、斉景公は燕を討って亡命してきている燕簡公を燕に入れようとした。晏嬰が「入国できないであろう。
燕ではすでに君がおり、民は二心を持っていない。しかるにわが君は財貨を貪り、左右の者はこびへつらっている」と言った。
B.C.532夏、夏、田無宇と鮑国が欒子旗と高子彊を攻めた。この騒ぎを聞いて晏嬰は落ち着き払って朝服をつけて虎門の外に立った。
欒・高・田・鮑氏が晏嬰を招き寄せようとしたが、晏嬰はどこにも応じなかった。
晏嬰は斉景公に召されて公宮に入り、斉景公の命により攻めて来た欒・高氏を討ち破った。
田氏と鮑氏は二氏の財産を分け取ろうとしたが、晏嬰が「それは必ずわが君に納めなさい。謙譲は道徳の基本です。まあしばらくは利を蓄えないことにしましょう。
そうすればかえって利を大きくすることができるでしょう」と言ったため、田無宇は二氏の財産を全部、斉景公に納めた。斉景公は田無宇に莒の近隣の地を与えたが、
田無宇は辞退したため鬷声姫が田無宇のために高唐の地を与えるように請うた。かくて田氏は強大になった。
B.C.522斉景公は皮膚病にかかり、続いて熱病が出て、一年経っても治らなかった。そこで諸侯の使者で見舞いをする者が多かった。
梁丘拠と裔款は「公室のお祭りの供えが十分なことは先代よりもまさっています。
しかるにわが君のご病気が治らないのは祭官の史嚚と祝固のためでしょう」と言ったため、
斉景公は喜んでそれを晏嬰に話した。しかし晏嬰は反対の意を述べたため、
景公は「どうしたらよいか」と問うた。晏嬰は「政治がでたらめで、奥の女たちはやたらに市から物を奪い取り、お気に入りの臣たちは地方でほしい物を要求するので、
民は苦しみ疲れ、いやしい男も女も上を呪っております。たとえ神主が神に病気平癒を祈っても効果はないでしょう」と答えた。
12月、斉景公は狩から帰って遄台に休んだとき「ただ拠(梁丘拠)と自分だけが心の和合することよ」と言った。晏嬰は「拠はただ君と心を同じにしているだけで、
和合しているとはいえません」と言った。斉景公は「和と同は違うのか」と問うた。晏嬰は「心が和合するのは、吸い物を作るようなものです。
味の足りないところを増し加え、味の強すぎるところを減らします。かくてお上が召し上がれば心に満足されます。君臣もこれと同じで、
君がよいと言われるところでもよくなければそれを諌め、君がいけないと言われるところでもよいと思われることを進言します。
かくて政治は公平で道理にもとることがなくなります。しかし拠は君がよいと言われることはよいと同調し、君がいけないと言われることはいけないと言って同調します。
これは水に水をくわえて吸い物をつくるようなものです」と答えた。
またあるとき梁丘拠は晏嬰に問うて「あなたは三人の君に仕えています。君は心が同じではないのに、あなたは君に従順であった。仁人は多心なのでしょうね」と言った。
晏嬰は答えて「嬰はこう聞いています。民を愛する心に従って努力すれば、人民を扱うことができます。強暴不忠であれば、一人も扱うことができません。一心があるのであれば、
百君にでも仕えることができます。三心を以てしては一君にも仕えることはできません」と言った。孔子はこれを聞いて
「小子よ、これを心にとどめよ。晏子は一心をもって百君に仕える者である」と言った。
B.C.517孔子が斉に来た。斉景公は孔子との会談でこれを喜び、尼谿の田をもって孔子を封じようとしたが、晏嬰が「学者は滑稽多弁ですから、
そのことばを手本としてはなりません。傲慢不遜で自分の思いのままにふるまうので、低い身分に置くこともなりません。
周の王室はすでに衰微し、礼楽も残欠して、久しい年月を経ました。しかるに今、あの者は容儀修飾を盛大にし、登降の礼儀や歩行の節度を煩雑にしています。
これを採用するのは、微賤な細民を救済する急務ではありません」と言ったので、斉景公は孔子を登用しなかった。
B.C.516冬、斉に彗星が現れた。斉景公は祈祷してその災いを除こうとしたが、晏嬰は「何の役にもたちません。彗星はそれによって世の汚れを払い除こうとするものです。
わが君に汚らわしい悪徳がないときに、お祓いをする必要はありません。もし悪徳があれば祈祷しても災いを少なくすることはできません」と諌めた。
斉景公はこれを喜んで祈祷を行うことをやめた。
晏嬰は斉景公と表御殿にいたとき、斉景公がため息をついて「美しい御殿だ。(自分のあとに)誰のものになるであろうか」と言った。
晏嬰は「どういう意味でしょうか」と問うと、斉景公は「わたしは有徳者のものになると思う」と言った。晏嬰は「きっと陳氏のものになるでしょう。
陳氏には立派な徳はないけれども、民に厚く恵み施しており、民は陳氏になびいでおります。もし朝廷が政治を怠れば、この国は陳氏の国となりましょう」と答えた。
斉景公は「もっともなことだ。どうしたらよかろう」と問うと、晏嬰は「ただ礼によってそれを止めることができます」と答えた。
孔子は晏嬰を「晏平仲(晏嬰)は善く人と交わる。久しくして之を敬す」と評し、『史記』を著した司馬遷は「自分は鞭を持って彼のために御者を務めたいほど慕わしい」
と高く評価しています。
- 安王(アンオウ)【皇帝】
- 周王朝33代王。名は驕。威烈王の子。〜B.C.375。
- 晏桓子(アンカンシ)
- →晏弱
- 晏氂(アンキ)
- →晏萊
- 安釐王(アンキオウ)【王】
- 魏王(4(6)代目)。昭王の子。〜B.C.243。
B.C.278即位して、魏無忌を封じて信陵君と号す。
あるとき信陵君は安釐王と賭け事をしていた。そこへ烽火が伝えられ「趙軍来襲」と報告があった。安釐王は賭け事をやめ、大臣に評定しようとしたが、信陵君はそれを止めて
「趙王が狩をしているだけのことです。攻めてきたのではありません」と言って、賭け事をつづけた。安釐王は恐れて気もそぞろ、賭け事どころではなかった。しばらくすると、
また烽火があり「趙王の狩であり、来襲ではありません」と伝えてきた。安釐王は大いに驚いて信陵君にそのわけを問うた。信陵君は「わたくしの食客に、よく趙王の秘密に通じている者がおり、
逐一わたしに報告してくれるのです」と答えた。
それ以後、安釐王は信陵君の賢能を恐れ、国政を任そうとしなかった。
B.C.277秦に攻められ2城を抜かれる。
B.C.276秦に攻められ2城を抜かれ、国都大梁の城下に布陣される。
そこで秦に温を与えて和睦する。
B.C.275秦に攻められ4城をぬかれ、兵4万を失う。
B.C.274秦に趙・韓とともに破られ、15万の兵を失い、芒卯は敗走する。
B.C.269秦に攻められ、懐を抜かれる。
B.C.268秦の太子外は、魏の人質となっていたが、魏で没す。
B.C.266秦に攻められ、邢丘を失う。
斉・楚に攻められる。安釐王は唐雎を登用して秦昭襄王を説き、秦は出兵して魏を救った。
B.C.258秦が趙の邯鄲を包囲した。趙の平原君はしばしば安釐王と信陵君に書簡を送り、救援を請うた。
安釐王は晋鄙に命じて救わせようとしたが、秦を恐れて鄴に兵を留め塁壁を築いて、名義は趙を救うためと称して、
実は二心をもって形勢を傍観することにした。
さらに客将新垣衍を邯鄲に潜入させ、平原君を通じて趙孝成王に
「使者を秦に遣わし尊んで帝と称するなら、秦は喜んで兵を引き揚げるだろう」と言わせようとした。しかし魯仲連の諫言でこれを取りやめた。
邯鄲救援を信陵君に何度も請われたが、安釐王は聴き入れなかった。すると信陵君は王の兵符を盗み、晋鄙を殺して兵権を奪い趙を救った。
安釐王は信陵君が兵符を盗み、晋鄙を殺したことを怒ったので、信陵君は趙に出奔した。
B.C.248安釐王は、信陵君がいないため秦に日夜兵を出して討たれるので、使者を遣わして信陵君の帰国を請うた。信陵君は急いで帰国して魏を救うこととした。
B.C.247安釐王と信陵君は会見して、ともども泣いた。そして信陵君に上将軍の印を与え、諸侯はそれぞれ将軍を派遣して、信陵君は五カ国の軍隊を指揮して秦を討ち、
秦将蒙驁を敗走させ、勝に乗じて秦軍を追い、ついに函谷関に押し寄せた。
秦は信陵君を恐れ、金一万斤をばらまいて晋鄙のもとの食客を求め、魏王に讒言をさせた。安釐王は信陵君を退けて、別の者を将軍とした。
- 安期生(アンキセイ)【在野】
- 河上丈人に黄帝・老子の書を学んだ。
安期生はこれを毛翕公に教える。
- 晏圉(アンギョ)【文官】
- 斉の臣。晏嬰の子。
B.C.489、6月高昭子が田乞に破れたため、魯に出奔する。
- 安国君(アンコククン)【公子】
- 秦の公子。
B.C.265昭襄王の太子となる。
- 晏弱(アンジャク)【将軍】
- 斉の将軍。晏桓子ともいう。〜B.C.556。
B.C.595冬、魯の公孫帰父が斉頃公と斉の穀で会合した。
このとき公孫帰父は晏弱に面会して魯の楽しいことを話した。晏弱は高固に「子家はきっと滅びるでしょう。
高位に満足して執着している。地位に執着すると、それをむさぼり他人を除こうとするようになります。そうなれば逆に自分も除かれることになるでしょう」と言った。
B.C.592春、斉頃公は晋の使者郤克を辱しめた。郤克は怒り、斉を討伐して恨みを晴らそうと考えた。
そのため斉頃公は高固、晏弱、蔡朝、
南郭偃を遣わして諸侯の会合に参加させることにした。しかし高固は途中でおそれて帰国した。
諸侯は巻楚で同盟を結んだが、この同盟から斉の使者は除外され、晏弱は捕えられて野王に幽閉された。
晋の臣苗賁皇が捕えられている晏弱にあった後、晋景公に
「あの晏子は何の罪がありましょう。斉君は晋に礼遇されないことを恐れて、みずからは出かけないで4人の使者を遣わしたのです。
これを捕えるのはこちらの過ちではありませんか」と諌めた。そこで景公は晏弱の見張りを緩めて逃げさせた。
B.C.571晏弱は東陽に城壁を築いて萊を威圧した。
B.C.568、4月、晏弱は東陽から進んで、萊を攻め囲んだ。
4月29日、晏弱は萊の城壁の周囲に土を積み上げて、城壁の上のひめ垣まで届かせた。
B.C.567、3月27日、斉軍は萊の都に攻め入った。
11月10日、晏弱は萊共公が亡命した棠を攻め囲み、萊共公を滅ぼし、萊の遺民を郳(小邾)に移した。
B.C.561冬、周霊王が斉に王后を求めた。斉霊公がいかに返答すべきか晏弱に尋ねた。
晏弱が承諾することを勧めたので、霊公はこれを承諾した。
B.C.556、晏弱は没した。
- 晏首(アンシュ)【文官】
- 田斉の臣。
晏首は自分の息のかかった者を推薦して仕官させることをしなかったため、逆に騶忌に讒言された。
- 晏孺子(アンジュシ)【王】
- 斉公(26代目)。名は荼。景公の子。母は芮姒。〜B.C.489。
B.C.490景公は病気になると、周囲の反対をおしきって太子に荼を指名し、没す。荼、即位する。
B.C.489、6月田乞・鮑牧に攻められ、10月位を廃され、馬台に移される。
馬台に向かう途中、野営の幕中で殺される。
- 安平君(趙)(アンペイクン)
- →成
- 安平君(斉)(アンペイクン)
- →田単
- 晏父戎(アンポジュウ)【将軍】
- 斉の臣。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、晏父戎は斉荘公の右役となった。
- 晏萊(アンライ)【武官】
- 斉の臣。晏氂ともいう。
B.C.550斉は晋からの亡命大夫欒盈をひそかに晋に帰して叛乱を起させた。斉は晋を討ったが、
晏萊は晋の趙勝と魯軍に破られ捕らえられた。
- 安陵君(楚)(アンリョウクン)【文官】
- 楚の臣。名は壇。
江乙があるとき安陵君に説いて「あなたはいささかの功もなく、高い地位におられ、厚い俸禄を受けておられます。
それはどうしてでしょうか」と言った。
安陵君は「大王が、私の容色をめでられ、過って挙げ用いられたからです」と言った。
「金銭によって交わる者は、金銭が尽きると交わりが絶え、容色によって交わる者は、容香が衰えると愛情が移るものです。いま、あなたのために危ぶんでいる次第です」
「では、どうしたものだろうか」
「ぜひとも大王の死のお供をし、身を以って殉じさせていただきたいと願い出てください。そうなれば、末長く楚国で重んじられるでしょう」
安陵君は楚王と共に狩に出かけた。楚王は野牛を一発で仕留めて「ああ、なんと楽しいことだ。私の死後、おまえは誰とこれを楽しむことだろう」と言った。安陵君は涙を流し
「大王がお隠れになった後は、身をもってあの世の水を毒見し、大王の夜具となって螻や蟻を防ぎましょう」と言った。
楚王は大いに喜び、領地を与えて安陵君と号した。
- 安陵君(魏)(アンリョウクン)【文官】
- 魏の臣。
秦が500里の地をもって安陵と交換するよう請うた。安陵君は「はなはだけっこうなことですが、この安陵の地は先王から拝領した土地でありますので、
最後までこの地を守り通したく存じます」と答えた。
秦王が不機嫌になったため、安陵君は唐雎を遣わせて、秦王を納得させた。
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