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列伝 コ


狐(コ)【公子】
周王朝の公子。平王の子。
平王は鄭武公荘公を卿士としていたが、虢公に政権を与えようとした。 そのため鄭荘公は平王を恨んだ。そこで平王は「そんなことはない」と言い、互いに人質を取り交わし、狐を鄭に出した。
B.C.720周桓王が即位すると政権を虢公に与えようとしたので、鄭は周を攻めた。
固(コ)【公子】
宋の公子。~B.C.522。
B.C.522、6月9日、華氏と向氏が反乱をおこし、公子固は華亥に殺された。
姑(コ)【公子】
周王朝の王子。~B.C.520。
B.C.520、6月20日、周王室の内乱で王子姑は諸王子とともに単穆公を追撃したが、逆に殺された。
敔(ゴ)【武官】
周王朝の臣。
南淮夷が侵攻して伊洛の近くまで及んだ。夷王は成周に赴き、敔にその撃退を命じ、敔はこれを破った。
午(ゴ)
子庚
呉娃(ゴア)
孟姚
皋(コウ)【皇帝】
夏王朝16代王。孔甲の子。在位3年で没す。
曠(コウ)【文官】
晋の楽師。
B.C.559悼公に治国の要諦を問われると「ただ仁義が根本です」と答える。
卬(陳)(コウ)【宰相】
陳の宰相。司徒。
B.C.556春、宋の荘朝が陳に攻め入ってきた。司馬卬は宋軍を侮ったため、捕えられた。
卬(魏)(コウ)【公子】
魏の公子。
B.C.340秦商鞅が魏を攻めたので、公子卬はこれを迎え撃った。
商鞅は書簡を送ってきて、いつわって和睦を申し入れた。公子卬はもっともだと思い、会同した。そこで公孫鞅は裏切って伏兵をもって襲い公子卬を虜にした。 これに乗じた秦軍に魏軍は大いに敗れた。
高(周)(コウ)【武官】
周王朝の臣。畢公。魏の先祖。
B.C.1050周武王を討ち、高を畢に封じる。
高(斉)(コウ)【公子】
斉の臣。斉頃公の子。
弘(コウ)【公子】
秦の公子。繆公の子。
B.C.645繆公が晋恵公を捕えて都に連れて帰ろうとしたとき、 繆姫は太子と公子弘と簡璧をつれて台に登って 「もし晋君が都に入ってくれば死にましょう」と言った。そこで繆公は晋恵公を郊外の霊台に留めた。
衡(コウ)【公子】
魯の公子。魯成公の子。衡父ともいう。
B.C.589冬、楚が魯に攻めてきた。孟献子が楚と和睦し、公子衡は楚の人質となった。
しかし楚が軍を引き返して宋に着いたとき、公子衡は逃げて魯に帰ってきた。臧宣叔は 「衡父(公子衡)はわずか数年の不快をがまんできないで、魯を見棄ててしまった。魯をどうするつもりなのか。誰がこの国難を背負って立つ者がおろう。 このままでは国は滅ぼされるであろう」と言った。
皐(コウ)【在野】
梗陽の巫。
B.C.555秋、晋が魯のために斉を討とうとしたとき、荀偃が「自分が弑した厲公と言い争って、 厲公に首を落とされた。その首を持ってかかえて走り、巫の皐に出会った」という夢を見た。その後、皐は荀偃に出会うと、皐は自分もその夢を見たと言って 「今年、あなたはきっと死にます。今は思う存分のことをなさるがよかろう」と言った。荀偃は心得たと答えた。
黄(コウ)【公子】
陳の公子。陳成公の子。
B.C.553秋、慶虎慶寅は公子黄が自分たちにせまって政権を奪うのではないかと恐れて、 楚に「公子黄は蔡の司馬(公子)と同じことを謀りました」と讒言した。そのため楚人は公子黄の罪を責め正した。 そこで公子黄は自分の無罪を明らかにするために楚に出奔した。公子黄は出奔するとき、都の人々に向かって「慶氏のふたりは無道の者で、 陳の政権をわがものにしようと考え、君を侮り、君の兄弟までも除いた。5年のうちに滅びなかったら、天もないと同然だ」と叫んだ。
B.C.550楚に出奔していた公子黄は、自分を中傷した慶虎と慶寅を楚に訴えたので、楚はふたりを呼びつけた。ふたりは慶楽を代理として行かせたが、 楚ではこれを殺したため、ふたりは陳にたてこもって謀叛をおこした。楚は陳を討って慶虎・慶寅を殺し、公子黄は陳に帰ることができた。
絞(コウ)【文官】
周王朝の臣。原伯。原伯絞ともいう。
B.C.530、10月1日、絞は暴虐であったため原の群臣に放逐され、絞は周の郊に逃げた。
甲(コウ)【公子】
小邾(郳(小邾))の公子。小邾穆公の子。
B.C.522夏、華氏・向氏の騒動が起き、元公の一味である公子甲・司馬彊楽舎公孫忌・公子向宜向鄭・楚の太子は鄭に出奔した。
卬(ゴウ)【将軍】
宋の公子。司馬。成公の子。~B.C.619。
B.C.620、4月、成公が没した。公子が乱を起こし、太子を殺して自ら立ったが、宋人に殺されたので、 杵臼が擁立された(昭公)
昭公は穆公襄公の一族を追い払おうとしたため、 穆公と襄公の一族が国の人々を率いて昭公を攻め、公孫固公孫鄭を公宮の中で殺した。
六卿たちが仲に入って昭公と公族たちの不和を取り持ち、司馬楽予は司馬の官を辞して公子卬に譲った。
B.C.619王姫が戴氏の一族をたより、公子卬は彼らに殺された。
高哀(コウアイ)【文官】
蕭、宋の臣。
高哀は蕭の国境を守る役人であったが、昇進して宋の卿となった。
B.C.613高哀は宋昭公の行いを不義として去り、魯に亡命した。
孔安国(コウアンコク)【神】
仙人。神仙伝に見える。
魯の人。つねに行気によって呼吸を調え、鉛丹を服用して300歳になっても顔色は童子のようであった。陳伯という弟子に自分の兄弟子の崔仲卿に師事するよう命じ、 陳伯は不死の仙人となることが出来た。
黄夷(コウイ)【武官】
衛の臣。
B.C.660、12月、衛は狄に攻められる。
渠孔は衛懿公の御者となり、子伯は右となり、 黄夷は先陣となり、孔嬰斉はしんがりとなったが、狄軍に大敗して衛は滅びた。
孝威太后(コウイタイコウ)
恵文后
江乙(コウイツ)【文官】
楚の臣。
宣王が「北方の諸国は、昭奚恤を恐れていると聞いているが、果たして事実だろうか」と問うた。
江乙は「あるとき虎が狐を捕らえました。狐は『天帝が私をすべての獣の長にされたので、きみが私を食べることは、天帝の意に逆らうことになる。うそだと思うなら、 私が先に立って歩いてみよう。きみは、どんな獣も私を見て逃げるのをよく見るがよい』と言いました。
はたして獣たちは、これを見て一斉に逃げ出しました。虎は獣たちが自分を恐れて逃げ出したとは気づかず『狐を恐れているのだ』と思ったのです。
ですから、諸国が昭奚恤を恐れるのは、実は大王の軍兵を恐れていることなのです」と言った。
江乙はあるとき安陵君に説いて「あなたはいささかの功もなく、高い地位におられ、厚い俸禄を受けておられます。 それはどうしてでしょうか」と言った。
安陵君は「大王が、私の容色をめでられ、過って挙げ用いられたからです」と言った。
「金銭によって交わる者は、金銭が尽きると交わりが絶え、容色によって交わる者は、容香が衰えると愛情が移るものです。いま、あなたのために危ぶんでいる次第です」
「では、どうしたものだろうか」
「ぜひとも大王の死のお供をし、身を以って殉じさせていただきたいと願い出てください。そうなれば、末長く楚国で重んじられるでしょう」
安陵君は楚王と共に狩に出かけた。楚王は野牛を一発で仕留めて「ああ、なんと楽しいことだ。私の死後、おまえは誰とこれを楽しむことだろう」と言った。 安陵君は涙を流し「大王がお隠れになった後は、身をもってあの世の水を毒見し、大王の夜具となって螻や蟻を防ぎましょう」と言った。
楚王は大いに喜び、領地を与えて安陵君と号した。
囂尹午(ゴウインゴ)【武官】
楚の臣。
B.C.530冬、蕩侯潘子司馬督・ 囂尹午・陵尹喜は徐を包囲して呉に圧力をかけた。
B.C.529囂尹午ら5将は徐から帰ったが、呉軍に豫章で邀撃されて、囂尹午らは捕えられた。
侯羽(コウウ)【武官】
鄭の臣。
B.C.584秋、楚の子重は鄭を討ち、鄭軍は氾で戦った。
諸侯は鄭を助けようとしたが、侯羽は共仲と共に楚軍と単独で戦い、 楚の鄖公と鐘儀の二将を虜にして晋に献上した。
皇鄖(コウウン)【将軍】
宋の将軍。司馬。
B.C.564春、宋で火災があった。皇鄖は子罕の命で、校正に馬を用意させ、工正に車を用意させて武器を準備して非常に備えた。
10月、諸侯が鄭を討った。
10月11日、皇鄖は晋の智罃范匃の率いる中軍について鄭のセン門を攻めた。
11月10日、諸侯は鄭の和睦を許した。
侯嬴(コウエイ)【在野】
信陵君の食客。侯生ともいう。~B.C.258。
魏の隠士で年は70歳、家が貧しく大梁の門番をしていた。信陵君は食客に迎えようとして訪ねて手厚い贈り物をした。侯嬴はくたびれた衣冠を整え、さりげなく車に乗って、 信陵君に上座を譲ろうともしなかった。しかし信陵君はうやうやしく対応した。
侯嬴は「屠殺市場にわたくしの訪ねたい友人がおりますので、車をそこへ寄せていただきたい」と言った。そこで車を市場に廻して、 侯嬴は友人の朱亥に会い、長々と立ち話をした。 市中の人々はみなこれを見物し、お供の者はみな陰口をきいて侯嬴をののしった。
その夜、宴席で侯嬴は「今日、わたくしが公子のために尽くしたことは、相当なものです。わたくしは夷門の門番の身であるのに、公子は親しく車馬を駆り迎えてくださり、 寄り道までしていただきました。これは公子の名声を挙げたいためで、市場で待たせたのも目立たせるためです。衆人はみな、わたくしは小人で、 公子は温厚の長者であると思うでしょう」と言った。
信陵君はそこで侯嬴を上客とした。
また侯嬴の推挙で朱亥を迎えたが、朱亥は返答しなかったので、信陵君はこれを不思議に思った。
魏の宰相魏斉は秦に首を求められ逃亡していた。魏斉は虞卿とともに信陵君をたよった。 信陵君は秦を恐れて、受け入れるかどうか悩んだが、侯嬴の進言でこれを受け入れようとした。しかし魏斉は信陵君が受け入れてくれないと思い、 憤ってみずから首をはねて死んでしまった。
B.C.258秦が趙の邯鄲を包囲し、趙の平原君から信陵君に救援の使者が来たが、 安釐王はこれを許さなかった。そこで信陵君は車馬百余乗を調達し、食客を率いて秦に立ち向かい、 趙と運命を共にしようと食客の同意を得た。出発にあたって侯嬴を訪れると、侯嬴は「晋鄙に与えられた兵符の片符は、 王の寝室にしまってあり、そこに入れるのは寵愛されている如姫のみといいます。 かつて如姫は父親を殺した者を捜しており、 公子は食客に命じて仇を探し出し、その首をとって如姫に進呈されたとか。ですから、公子が心から如姫に請われるなら、きっと応じましょう。晋鄙の手から軍を奪って趙を救い、 秦を退けられるなら、五覇の功業にも比すべきものでありましょう」と言った。
そこで信陵君は如姫に請い、兵符の片符を手に入れた。また侯嬴が「将軍たるもの外征中は主君の命でも聴かない場合があります。もし晋鄙が軍を引き渡さなかったら、 面倒なことになるでしょう。そのときに備えて、わたくしの友の朱亥を同行なさいませ。晋鄙を撃ち殺すことができます」と言った。
信陵君はこれを聞くと泣いた。侯嬴が「公子は死ぬのが恐ろしくなったのですか。なぜ泣かれるのか」と問うと、「晋鄙は剛毅な老将軍である。 おそらくは言うことを聴くまい。彼を殺すことになるだろうと思い、泣いたのである」と答えた。
信陵君が出発するとき、侯嬴は「わたしは年老いてついて行くことができません。せめて公子の行程を数え、晋鄙のもとに着かれる日、北に向かってみずから首を刎ね、 公子をお送りいたしましょう」と言って送り出した。
信陵君は鄴に着き、魏王の命といつわって晋鄙と交代しようとした。はたして晋鄙は「これはどうしたことだろう」と疑ったので、 朱亥は隠していた四十斤の鉄椎で晋鄙を殴り殺し、兵権を手に入れた。
侯嬴は、このとき北に向かってみずから首を刎ねて死んでいた。
孔嬰斉(コウエイセイ)【武官】
衛の臣。
B.C.660、12月、衛は狄に攻められる。
渠孔は衛懿公の御者となり、子伯は右となり、 黄夷は先陣となり、孔嬰斉はしんがりとなったが、狄軍に大敗して衛は滅びた。
項燕(コウエン)【将軍】
楚の将軍。~B.C.223。
項氏は代々楚の将軍となり、項に封じられた。ゆえに項氏を姓とした。
B.C.224秦に攻められ、蘄水の南で破れ、楚王負芻が秦に捕らえられ、楚は滅亡する。
項燕は昌平君を立てて楚王とし、江南で叛いた。
B.C.223王翦蒙武に討たれ、昌平君は戦死し、項燕は自殺する。
黄淵(コウエン)【武官】
晋の臣。~B.C.552。
B.C.552晋平公欒盈を追放し、欒盈の一味である箕遺・ 黄淵・嘉父司空靖邴豫董叔邴師申書羊舌虎叔熊を殺した。
(一説では箕遺・黄淵・嘉父は叛乱を起こして鎮圧されて殺されたとなっている)
高エン(コウエン)【文官】
斉の臣。高傒の曾孫
B.C.544、9月、高止が燕に追放されたため、その子の高豎が盧にたてこもって謀叛を起こし、 「もしわが高氏を続くようにしてくれれば、盧を返上しましょう」と言った。そこで斉人は高傒の曾孫にあたる高エンを立てた。
高偃(コウエン)【文官】
斉の臣。
B.C.530春、高偃は燕簡公を唐に送りいれた。
皇奄(コウエン)【武官】
宋の臣。
B.C.520、2月23日、楚の蔿越が宋に使者を送って謀叛人をもらいうけようと申し出たため、 皇奄は華亥向寧華定華貙華登傷省臧士平とともに楚に出奔した。
康王(周)(コウオウ)【皇帝】
周王朝3代王。名は釗。成王の子。~B.C.993。
商の残存勢力や夷族の討伐を行った。
東方巡察の際、有力や氏族である虎侯を宜に移した。
また盂侯に命じて儼狁を討ち、虜酋2人、馘首4800人、俘虜13000人、車30両、牛355頭を得る大勝を治める。
史書では文王武王の遺業を継いだので、 成王の時代から40年間で刑罰はおこなわれることがなかったとされる。しかしこれは後世の儒家が周公旦の功績を高めるためにつくりあげたことであり、 実際は周王朝の基盤を固めるために康王は外征を繰り返した。
康王(楚)(コウオウ)【王】
楚王(8(24)代目)。名は招。恭王の子。~B.C.545。
B.C.560、9月、恭王が没し、公子招は即位した(康王)。
呉の諸樊が楚に攻め入ってきたが、 養由基子庚がこれを庸浦で破って、公子を捕えた。
B.C.559秋、康王は子嚢に命じて楚の棠に軍を進めて呉を討った。しかし子嚢は呉に破られ、 公子宜穀が捕えられた。
B.C.558康王は子庚を令尹、公子罷戎を右尹、蔿子馮を大司馬、 公子櫜師を右司馬、公子を左司馬、屈到を莫敖、 公子子南を箴尹、屈蕩を連尹、養由基を宮廐尹に任命して国人を治めた。 時の君子はこの人事をよいと評した。
B.C.557晋の荀偃欒黶が軍を率いて進撃してきて楊梁の戦いの報復をした。 楚の公子は晋軍と湛阪で戦ったが大敗した。晋軍は勢いに乗じて楚の北境の方城山の地に攻め入って引き揚げた。
B.C.547子牟が罪を犯して亡命した。康王は、伍挙が子牟を逃がしたと疑ったので、 伍挙も鄭に出奔して、 さらに晋へ亡命しようとした。しかし屈建がとりなしたので、伍挙を帰国させた。
B.C.555鄭の子孔が大夫たちを除いて権勢を独占しようと考えて晋に叛いて楚軍を引き出して鄭を討たせて、その力で大夫を除こうとした。 子庚はこれを許さなかったが康王はこの話を聞いて、に命じて子庚に 「わが楚はわたしが国君となってから中原に軍を進めて武勲を立てていない。死んだらきっと立派な葬式を受けられないであろう。 人々はわたしがみずから安逸をむさぼって父君の業を忘れていると思っているであろう。 ひとつ考えてくれ」と言わせた。子庚は嘆息して「わが君はわたしが安楽をむさぼっているとお考えなのか。わたしは国のためになることをしようとしているのです」 と言って、宣に会って軍を率いると言った。子庚は鄭の都の純門を攻め、城下に二泊して帰った。魚歯山の麓の滍水を渡ったときに豪雨にあい、 楚軍は凍え者が多く、人夫たちはほとんど全滅した。
B.C.553蔡の公子が晋に叛いて楚につこうとしたため殺された。そのため公子が楚に亡命してきた。
秋、陳の慶虎慶寅が公子が蔡の公子燮と同じことを謀ったと讒言したため、 楚人は公子黄の罪を責め正した。そこで公子黄は自分の無罪を明らかにするために楚に出奔してきた。
B.C.552夏、子庚が没した。康王は蔿子馮を令尹に任命しようとしたが、蔿子馮は病気だといって辞退した。康王は医者を遣わして見舞わせたが、 「痩せたことは大変ひどいが、体調は普段と変わらない」と報告したので、康王はあきらめて子南を令尹に任命した。
晋の欒盈が楚に亡命してきた。
B.C.551観起は令尹子南に寵愛されていたので、数十乗の馬を持ち、楚人はこれを心配した。康王は子南の罪を責め正して処罰しようとした。 ときに子南の子棄疾が王のそば役であったが、康王は棄疾を見るたびにきまって泣いた。
棄疾「君は三度もわたくしを見て泣かれましたが、いったいだれが罪人なのですか」
康王「国は令尹を処罰しようとしているが、そうなってもお前は仕えていてくれるか」
棄疾「父が処刑されたら、君はどうしてその子を用いることができましょう。しかし君の命令をもらしてしまうことはありません」
かくて康王は子南を朝廷で処刑し、観起を車裂きにして国の四方にふれ回った。その後、棄疾は首をくくって死んだ。 康王は蔿子馮を令尹に、公子を司馬に、屈建を莫敖に任命した。
欒盈が斉に出奔した。
B.C.550陳哀公が楚に来朝した。楚に出奔していた陳の公子黄が自分を中傷した慶虎と慶寅を楚に訴えたので、 康王はふたりを呼びつけた。ふたりは慶楽を代理として行かせたが、楚ではこれを殺したため、 ふたりは陳にたてこもって謀叛をおこした。
夏、康王は屈建に命じて陳哀公とともに陳を討って慶虎・慶寅を殺した。
B.C.549夏、康王は水軍を編成して呉を討った。しかし軍の質がよくなかったので軍功を立てることができずに引き揚げた。
荘公が晋を恐れて康王と面会して相談しようとした。 康王は蔿啓彊を斉に遣わして会合の期日をうかがわせた。
冬、康王は蔡景侯、陳哀公、許の君とともに晋の与国である鄭を討って斉を助けようとした。 楚軍は鄭の東門を攻め、鄭の棘沢に軍を留めた。夷儀で会合した諸侯が引き返して鄭を助けた。康王は棘沢から引き上げ、 蔿啓彊に命じて軍を率いて斉の田無宇が帰国するのを見送らせた。
舒鳩が呉にそそのかされて楚に叛いた。 これを知った康王は沈尹寿師祁犂に命じてなぜ叛いたかと責めさせた。 舒鳩の君はふたりを鄭重に迎えて、 その事実がないことを告げ、盟いを結びたいと願い出た。しかし康王はどうしても舒鳩を討とうとした。令尹蔿子馮が「いけません。 ひとまず引き揚げて民を休ませ、先方がどう出るかを見届けましょう。もしわが国に叛くとしたら、こちらは堂々と彼を討つことができます」と言ったので、 康王は引き揚げた。
陳の鍼宜咎が楚に亡命してきた。
B.C.548蔿子馮が没したため、屈建を令尹に任じた。
舒鳩が叛いたため、屈建がこれを討った。
8月、舒鳩を滅ぼした。
12月、呉の諸樊が楚に攻め入ってきた。巣の牛臣は諸樊をおびき寄せて、低い土塀のかげにかくれて諸樊を射止めた。 かくて諸樊は亡くなった。
楚康王は舒鳩を滅ぼした功績を賞しようとしたが、屈建は辞退して「亡き大夫蔿子の手柄です」と言ったので、 蔿子馮の子蔿掩に賞を与えた。
B.C.547夏、康王は秦とともに呉を討とうとして雩婁まで出かけたが、呉には堅固な備えがあると聞いて引き返し、すぐに鄭に攻め入った。
5月、楚軍は鄭の城麋に進撃して、鄭の皇頡を捕らえた。
公子牟が罪を犯して亡命したことについて、楚人は「実は伍挙が取り計らって逃がしたのだ」と言ったので、伍挙は鄭に出奔しようとした。 屈建はこれを心配して康王に話したので、伍挙の位を禄高を増して呼び返すこととした。
8月、鄭を討ってほしいと請うて楚に来ていた許霊公が楚で没した。康王は「鄭を討たなければ、 どうして諸侯に対して覇者となることを求められよう」と言った。
10月、康王は鄭を討った。
12月6日、楚軍は鄭の南里に攻め入ってその城壁を壊し、楽氏から川を渡って鄭の都の城門師之梁を攻めた。楚軍は氾から汝水を渡って引き揚げた。
康王は許霊公を葬った。
B.C.546宋の向戌が晋と楚を和睦させて戦をなくすため諸侯を会合させようとした。 康王は屈建に命じて晋・楚についている諸侯が、晋・楚どちらにも朝見させるようにした。向戌がこれを承諾したため、 康王は屈建と子皙を遣わして諸侯と盟わせ、楚は晋より先に血をすすって盟約した。 この弭兵の会にて、晋楚は初めて同盟して、南北の抗争を止めることとなった。
B.C.545鄭の子大叔が楚を訪れた。楚は漢水で子大叔に帰国して鄭簡公が朝見するよう要求した。 子大叔は「楚子はまもなく死ぬであろう。政道と徳行を修めようとせず、諸侯の来朝のみをむさぼり求めている。楚は今から10年も経たなければ、 盟主となることはできないであろう」と言った。
12月、康王は没した。
康王(宋)(コウオウ)
孝王(周)(コウオウ)【皇帝】
周王朝8代王。名は辟方。恭王の弟。~B.C.863。
西方の非子がよく馬を飼育することを聞き、これに命じて汧水と渭水の間で馬を飼育させた。
馬が大いに繁殖したので、一族の申侯の娘の生んだ子成を廃して、非子を嫡嗣にしようとした。しかし申侯が再考を請うたので 「むかし柏翳(大費)が舜のために家畜を司り、姓を嬴と賜うた。いま、その子孫の非子がわしのために馬を殖やしてくれた。 わしは土地を与えて附庸(諸侯に付属する小国)にしたいと思う」と言い、非子を秦に住まわせ、嬴氏の祭を継続させて、号して秦嬴といった。
孝王(燕)(コウオウ)【王】
燕王(6代目)。武成王の子。~B.C.256。
B.C.259即位する。
頃王(コウオウ)【皇帝】
周王朝19代王。名は壬臣。襄王の子。
B.C.606没す。在位13年。
考王(コウオウ)【皇帝】
周王朝31代王。名は嵬。貞定王の子。~B.C.426。
B.C.441兄の思王を殺し王位を簒奪する。在位15年。
皇化(コウカ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
延年不老・胎息内視(深呼吸法)の秘訣や五行の道を体得した。人間界に住むこと500余年にして顔色は一段と若返った。のち昇仙した。
孔悝(コウカイ)【武官】
衛の臣。孔文子の子。母は伯姫
B.C.479蒯聵がひそかに衛に帰国し、 伯姫と謀って孔悝に蒯聵を擁立するよう強迫されたため蒯聵を立てる。
高赫(コウカク)【文官】
趙毋卹の家臣。
B.C.457知伯・魏氏・韓氏が趙氏を討ち、晋陽を囲んだ。
包囲が長びき、群臣たちはみな離反の心を抱き、趙毋卹に対する礼がおろそかになったが、ただ高赫だけは礼儀を失わなかった。
B.C.456、3月丙戌の日、趙氏は韓・魏とともに逆に知伯を滅ぼし、その土地を分割した。
趙毋卹は論功行賞を行い、高赫を第一とした。張孟談が「晋陽の難で、赫は何の功労もありませんでした」と言うと、 趙毋卹は「晋陽が危なかった時、ただ赫だけは人臣の礼を失おうとしなかった。 だから第一にしたのだ」と言った。
膠鬲(コウカク)【文官】
商王朝の臣。
受辛を輔佐した良臣。
公夏首(コウカシュ)【在野】
孔子の弟子。字は乗。
公何藐(コウカバク)【文官】
魯の臣。季氏の一族。~B.C.505。
B.C.505、10月11日、公何藐は叛乱を起こした陽虎に殺された。
孔奐(コウカン)【文官】
陳の臣。
B.C.546、7月4日、孔奐は諸侯と会合するため宋に到着し、諸侯と盟いを結んだ。
孔箕(コウキ)【在野】
孔求の子。字は子京。
46歳で没す。
孝己(コウキ)【公子】
商王朝の公子。武丁の子。
孝行で名を知られた。
孝己の生母が没すると、武丁は後妻の讒言を聞いて孝己を追放した。そのため孝己は死んでしまった。
孔虺(コウキ)【文官】
B.C.542、5月、高子尾閭丘嬰を邪魔者であるとして殺した。 そのため閭氏の一族である孔虺、渻竈工僂灑賈寅は莒に出奔し、公子たちも国外に追放された。
孔羈(コウキ)【文官】
衛の臣。孔成子の子。
公儀休(コウギキュウ)【宰相】
魯の宰相。
魯の博士であったが、才能が高く、のち宰相となった。
法令を奉じ理法にしたがい、私見で変更することがなかったので、百官はおのずから正しく、俸禄を受けている官吏には、下々の民と利を争うことを許さず、 大禄を受けているものには、賄賂などを受け取ることを禁じた。
公儀休は魚を好んだが、ある賓客が魚を贈っても受け取らなかった。このことを問われると、
「わしはいま宰相として自分で魚を買って食べるのに事欠かない。いま魚を受け取って免職されることになれば、誰がまたわしに魚をくれよう」と答えた。
また野菜栽培や織をつくることをやめた。言うには「買うべき者が買わなくては、農民・工女にその生産物をどこに売らせようか」と。
高糾(コウキュウ)【在野】
晏嬰の家臣。晏子春秋に見える。
晏嬰の家法を守れなかったので、解雇される。
孔伋(コウキュウ)【文官】
衛の臣。孔鯉の子。字は子思。B.C.483~B.C.421。
孔伋は曾参の弟子となる。
宋で困窮したことがあった。
衛に斉が攻め込んだとき、ある人が逃げるよう言ったが、孔伋は「もしこの伋が逃げ出したら、王は誰と一緒にここをお守りになるのか」と言って、 一歩も退かなかった。
「中庸」を作った人だとされていたが、現在はその説は否定されている。
恵公に「わしは子思(孔伋)に対しては先生として敬い、 顔般に対しては友人として付き合うが、 王順長息はわしのただの家来である」と称される。
孔伋は魯穆公の師となった。
B.C.421、孔伋は62歳で没した。
孔求(コウキュウ)【在野】
孔白の子。字は子家。
45歳で没す。
高圉(コウギョ)【神】
公非の子。
孔圉(コウギョ)
孔文子
高彊(コウキョウ)【武官】
晋の臣。
高彊は荀寅の邪臣とされる。
高渠弥(コウキョビ)【将軍】
鄭の将軍。~B.C.694。
B.C.707周桓王が鄭荘公の政権を奪ったので、荘公は怒って周に参朝しなくなった。
秋、桓王は陳・蔡・虢・衛の兵を率いて鄭を討った。虢公林父は右軍の将となり、蔡・衛の軍はそれに付いた。 桓公は左軍の将となり、陳の軍がそれに付いた。
子元が「陳は乱れて、その民は戦う心がありません。真っ先に陳の軍を攻め立てたら、逃走するでしょう。 周王の軍はそれを見たら、きっと乱れるでしょう。そこを集中攻撃すれば、事は成功いたします」と進言したので、鄭荘公はそれに従った。
鄭荘公は曼伯に右軍を、祭仲に左軍を率いさせ、 原繁と高渠弥に中軍を率いさせて自らを守らせ、魚麗の陣をつくり、 兵車を前に歩兵を後ろにして、鄭の繻葛で戦った。
鄭の左右軍は連合軍の左右の軍を破り、桓王の軍も乱れた。そこで鄭軍は集中してこれを攻撃したので、桓王の軍は大敗した。(繻葛の戦い)
荘公が高渠弥を卿の位につけようとしたが、その子昭公は高渠弥を憎んでいてこれを強く諌めた。 しかし荘公は聞き入れず、高渠弥を卿にした。そのため昭公が即位すると、高渠弥は殺されるのではないかと恐れた。
B.C.695、10月23日、高渠弥は狩猟のときに昭公を射殺して、祭仲と共謀して子亹を即位させた。
B.C.694斉襄公が首止で会同すると、子亹とともに参加する。 しかし子亹は襄公に殺され、高渠弥も車裂きにされて殺された。
また一説では、高渠弥は国に逃げ帰って、を擁立したともいう。
高傒(コウケイ)【文官】
斉の臣。字は敬仲。
B.C.685公孫無知が殺されると、高傒はひそかに公子小白を招くよう画策した。
公子小白が公子よりも早く斉に帰国すると、高傒はこれを斉君に擁立した。
鮑叔が「管夷吾は執政の高傒よりも政治的手腕があります」と進言したため、 桓公(小白)は管仲を宰相にした。
B.C.672、7月9日、高傒は魯荘公と防で盟った。
黄敬(コウケイ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
字は伯厳。武陵の人。世を棄てて80余年、呼吸を調える修行をして、200歳になっても一段と若く壮健であった。王紫陽というものに秘訣を尋ねられたとき 「わしは地仙にすぎないから問われるほどのこともない。新野の陰君(陰長生)に神丹昇天の道を問うがよい」と答える。
后羿(コウゲイ)【王】
有窮国の長。
后羿は鉏の国から有窮に移った。
夏王朝が衰退し、幼少のが即位したので、后羿は夏の民を従えて夏王朝を乗っ取った。
后羿は自分の得意とする弓術をほこり、民の耕作に心をよせないで狩猟に熱中し、武羅伯因熊髠尨圉という賢臣を用いず、 寒浞を登用した。
寒浞はさらに民政を乱し、后羿は狩猟から帰る時に彼の部下に殺された。
別説では、夏王朝の相が荒淫で、政治を顧みなかったため、后羿はこれを滅ぼして夏の民の害を除いたという后羿を英雄視する解釈もある。
郈敬子(コウケイシ)【文官】
魯の大夫。名は同。
文公は公宮を広めようとして郈敬子の邸宅を移転させようと使者をやった。郈敬子は 「先臣恵伯が司里の官に命ぜられ、君の祭肉をいただいて数世になります。今わたくしに移転させようとなさいますが、役人にその役を命じるには、 遠すぎるのではございませんか。もし罪によって左遷されるのなら、席次を下して家を移転させていただきます」と言って断った。
郈恵伯(コウケイハク)【公子】
魯の公子。名は鞏。魯孝公の子。
司里の官に任じられる。
皇頡(コウケツ)【武官】
鄭の臣。
B.C.547、5月、楚と秦が皇頡の守っている城麇に進撃してきた。皇頡は出撃して楚軍と戦ったが、敗れて穿封戌に捕らえられた。 ところが楚の公子がその功を争ったため、伯州犂が裁くことになった。 伯州犂が尋ねると、皇頡はいつわって「わたしは王子(公子囲)に出会って負けたのです」と答えた。
黄歇(コウケツ)
春申君
黄阬丘(コウゲンキュウ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
睢山の道士。毛皮を着て、髪は総髪、耳の長さは七寸、口中に歯がなく、一日に400里を歩いたという。時たま山を下りて薬を売っていたが、 朱璜がこれを見つけて神通力をもつ人であることがわかった。地震が起こって山が崩れることを予言し、山麓の人々に警告した。 それで世人が共々にこれを奉祀することになった。
公肩定(コウケンテイ)【在野】
孔子の弟子。字は子中。
孔元方(コウゲンホウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
許昌の人。老いていよいよ若返り、容貌は40歳くらいに見えた。東方からやってきた馮遇という青年に出会い『素書』2巻を授けた。これは40年で一人に伝授することが 決められていたという。のちに妻子を棄てて西嶽に入った。
高固(コウコ)【武官】
斉の臣。高宣子ともいう。
B.C.604春、魯宣公が斉を訪れた。このとき高固は斉恵公に願って宣公を引きとめさせて、 魯の公女叔姫を妻にほしいと強請した。
9月、高固は叔姫を迎えた。
B.C.595冬、魯の公孫帰父が斉頃公と斉の穀で会合した。 このとき公孫帰父は晏弱に面会して魯の楽しいことを話した。晏弱は高固に「子家はきっと滅びるでしょう。 高位に満足して執着している。地位に執着すると、それをむさぼり他人を除こうとするようになります。そうなれば逆に自分も除かれることになるでしょう」と言った。
B.C.594秋、高固は孟献子と無婁で会合した。
B.C.592春、斉頃公は晋の使者郤克を辱しめた。郤克は怒り、斉を討伐して恨みを晴らそうと考えた。
そのため斉頃公は高固、晏弱、蔡朝南郭偃を遣わして諸侯の会合に参加させることにした。 しかし高固は衛の斂盂まで行って、郤克の怒りを恐れて逃げ帰った。
孔甲(コウコウ)【皇帝】
夏王朝15代王。不降の子。
好んで自らを鬼神と比べ、淫乱で夏王朝を衰えさせる。諸侯は夏王朝に背いた。
天から雌雄の竜の符瑞が降りたが、養うことが出来なかった。
孝公(斉)(コウコウ)【王】
斉公(17代目)。名は昭。桓公の子。母は鄭姫。~B.C.633。
公子昭は、管仲の進言により斉の太子となり、宋襄公のもとに委託された。
B.C.643桓公が没すると、 易牙長衛妃の策略によって無詭が立ったので、 公子昭は宋に出奔した。
B.C.642、1月、公子昭は宋襄公の支援により斉を討った。
3月、国人は無詭を殺して公子昭を擁立しようとしたが、4人の公子の徒党が主張したため、斉は宋軍と戦うことになった。
5月15日、宋軍は斉軍とケンで戦い、これを大いに破り、公子昭は即位した。
8月、孝公は桓公を葬った。
B.C.641冬、陳穆公は宋襄公の暴虐ぶりを見て、蔡・楚・鄭と共に斉桓公の徳を忘れないようにするため、斉で会合した。
B.C.640斉は狄と邢で盟い、邢のために衛を討つ相談をした。
B.C.639春、斉は宋・楚と鹿上で会盟した。宋が諸侯の盟主となることを楚に求め、楚はそれを許した。
B.C.638斉に亡命していた叔帯を周に帰還させた。
B.C.637春、4年前に諸侯が斉で結んだ同盟に宋が参加しなかったので、孝公は宋を討って宋の緡を包囲した。
B.C.634魯が莒と盟約したので、孝公は怒って魯を討った。
夏、孝公は再び魯の北辺を討った。衛が魯との同盟を履行するため、斉を討った。
魯が展喜を遣わして来た。
孝公「魯人は恐れているか」
展喜「下々は恐れていますが、上位の人たちは恐れておりません」
孝公「民家は静かで、野原には何も見えない。どうして恐れていないというのか」
展喜「先王のご沙汰を頼みにしておりますので。 かつて周公(旦)太公(呂尚)は周室の手足となり、 二国の子孫は代々損ないあってはならないと誓いました。どうして恐れることがありましょう」
孝公はこれを聞いて軍を引き揚げた。
冬、魯と楚が斉を討ち、穀を取った。魯と楚はそこに桓公の子を置いた。
B.C.633、6月、没す。
孝公(秦)(コウコウ)【王】
秦公(25(30)代目)。献公の子。B.C.384~B.C.338。
秦は西方雍州に偏していたので、中国の諸侯の会盟に参加せず、諸侯からは夷狄として遇せられた。
そこで孝公は仁政を布いて、やもめひとりものを救い、戦士を招いて功賞を明らかにし、国中に令を下して 「先君は東伐して繆公の故地を回復し、繆公の政令を修めようとした。 わしは先君の意を追念すると、いつも心が痛い。賓客・群臣でよく妙計を出し、秦を強くする者があれば、わしは官位を高くし土地を与えよう」と言った。
B.C.363東方に陝城を囲み、西方に戎のカン王を斬る。
B.C.360周顕王より文・武の胙(文王・武王に供えた祭りの肉)を賜る。
B.C.359商鞅が法律を変え、刑罰を整え、内は人民に耕作を務めさせ、外は戦士の賞罰を明らかにすることを勧めた。 孝公はこの意見をいれたが、甘竜杜摯らが反対し、たがいに論争した。
結局商鞅の法を用いた。人民は法に苦しんだが、三年経つと人民もこれを便利とし、そこで商鞅を左庶長に任じた。
B.C.357魏恵王と杜平で会同した。
B.C.356魏と元里で戦い、これを破る。
B.C.354商鞅を大良造に任じ、魏の都安邑を囲み、これを降した。
B.C.350はじめて税法を設ける(商鞅の第二次変法)
この年、孝公は咸陽城をつくり、官闕を設け、都をここにうつす。またもろもろの小村落をあわせ集めて県とし、県ごとに令を置いた。すべて31県であった。
田間の区画をなくして人民が力に応じて自由に耕作ができるようにし、東向して洛水を渡り、河西の地を取った。
B.C.348蜀開明帝が挨拶の使者を送ってくる。
B.C.345周顕王から伯と称することを許される。
B.C.344諸侯はみなこれを慶賀した。
公子少官に軍を率いさせ、諸侯と逢沢で会合させて、顕王に参朝した。
B.C.342商鞅が魏を討ち、公子を虜にしたので、商鞅を封じて列侯とし、商君と号した。
B.C.340晋と岸門に戦い、晋将魏錯を虜にする。
孝公(魯)(コウコウ)【王】
魯公(12代目)。名は称。懿公の弟。~B.C.769。
B.C.796周宣王が魯公伯御を攻め殺したあと、後継者に立てられる。
また宣王は同族の諸侯で、諸侯を教化できる者を州伯にしたいと思った。樊仲山父は孝公が明神を崇敬し、長老に敬事し、 先王の遺訓により政事・刑罰を行っていると薦めたので、宣王は孝公を州伯に命じた。
B.C.770周幽王が犬戎に殺された後、孝公は申侯・ 許文公とともに平王を擁立して成周に遷都する。
孝公(燕)(コウコウ)【王】
燕公。~B.C.438。
B.C.465即位する。
孝公(陳)(コウコウ)【王】
陳公(4代目)。名は突。申公の子。
孝公(杞)(コウコウ)【王】
杞公(10代目)。名は匄。桓公の子。~B.C.550。
B.C.573公子匄は即位した。
B.C.572孝公は諸侯とともに鄭を討った。
B.C.563、4月1日、孝公は晋悼公、宋平公、衛献公、 魯襄公、莒の君、邾の君、滕の君、薛の君、曹成公、小邾の君、 斉の公子、呉王寿夢と楚の柤で会合した。
夏、諸侯は偪陽を討った。
5月8日、諸侯は偪陽を滅ぼした。
孝公は晋悼公、衛献公、魯襄公、莒の君、邾の君、斉の公子光、滕の君、薛の君、曹成公、小邾の君とともに鄭を討った。
9月25日、諸侯の軍は鄭の牛首に進撃した。
冬、諸侯の軍は鄭の虎牢に城壁を築いてそこを守った。楚の子嚢が鄭の救援に来た。
11月、諸侯の軍は鄭を遠回りして南進し、鄭の陽陵に進んだが、楚軍は退かなかった。
11月16日、諸侯の軍は潁水をはさんで楚軍と対陣した。
11月24日、諸侯の軍は引き揚げたため、楚軍も引き揚げた。
B.C.562、4月、孝公は晋悼公、宋平公、魯襄公、衛献公、莒の君、邾の君、滕の君、薛の君、曹成公、小邾の君、 斉の公子光と会合して鄭を討った。
9月、孝公は再び諸侯と共に会合して鄭を討った。
B.C.559春、呉が楚と戦って大敗したことを晋に告げてきた。孝公は晋・魯・宋・衛・斉・鄭・曹・莒・邾・薛・小邾と向で会合した。
夏、杞は晋・魯・宋・衛・斉・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・小邾とともに秦を討った。
B.C.557、3月、孝公は晋平公・宋平公・衛殤公・ 鄭簡公・曹公・魯襄公・邾宣公・薛の君・莒犂比公・ 小邾の君と会合し、侵略した土地を帰した。
B.C.555、10月、孝公は晋平公・魯襄公・宋平公・衛殤公・鄭簡公・曹成公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・小邾の君と魯の済水のほとりで会合し、 湨梁の盟い(B.C.557)を再確認して諸侯と共に斉を討った。
B.C.554、1月、孝公は斉の督揚で諸侯と盟いを結んだ。
B.C.553、6月3日、孝公は晋平公・魯襄公・斉荘公・宋平公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・ 莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・小邾の君と会合して、澶淵で盟った。
B.C.551冬、孝公は晋平公・斉荘公・宋平公・魯襄公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・莒の君・邾の君・薛の君・小邾の君と沙隋で会合した。 会合では欒氏を受け入れないように話し合った。
B.C.550、3月28日、没した。
孝公(晋)(コウコウ)【王】
晋公(20(22)代目)。名は頎。烈公の子。~B.C.379。
B.C.395即位する。
孝侯(コウコウ)【王】
晋侯(12(13)代目)。名は平。昭侯の子。~B.C.724。
B.C.739潘父が昭侯を弑して桓叔を迎えようとしたが、晋人は桓叔を撃退し、平を立てる。
B.C.724曲沃の荘伯に攻められて殺される。
康公(密)(コウコウ)【王】
密公。密国の領主。
恭王が涇水のほとりを旅行した時、康公はお供をした。そのとき3人の女が康公のもとへ身を寄せたので、康公の母は 「必ず女たちを王に献上しなさい。王ですら姉妹を3人も入れていません。衆人はこれをそなたに贈りましたが、何の徳があってこれを受けるのですか。王でさえ堪えられないのに、 ましてそなたのような小人などは言うまでもありません」と言ったが、康公は献上しなかった。
そのため1年後、恭王の討伐を受けて国は滅ぼされた。
康公(斉)(コウコウ)【王】
斉公(31代目)。名は貸。宣公の子。~B.C.379。
B.C.388酒色に耽り舞楽に打ち興じて、国政を聴かなかったため田和に海浜の地に移され、わずか一城を与えられる。
B.C.386田和が諸侯に連なる。
B.C.379没し、呂氏はその祭祀を絶ち、田氏にとって代わられる。
康公(魯)(コウコウ)【王】
魯公(30代目)。名は屯。共公の子。~B.C.346。
康公(秦)(コウコウ)【王】
秦公(10(15)代目)。名は罃。繆公の子。~B.C.609。
B.C.620晋趙盾先蔑士会に命じて、 晋襄公の子を迎えに来させた。 康公は「昔、文公が晋に入った時は護衛がなかったので、呂氏や郤氏にひどい目にあわされた」と言って、 公子雍に護衛の兵を与えて晋に送った。
しかし趙盾が約束に背いて公子雍を急襲した。
4月2日、晋軍は秦軍を令狐で打ち破り、晋の刳首まで追撃した。
4月3日、晋の先蔑と士会は秦に出奔してきた。
B.C.619夏、康公は晋を討って武城を攻め取り、前年の令狐の役に報いた。
B.C.618康公は人を魯に遣わして、魯釐公成風の霊に供える礼服を贈った。
B.C.617春、晋霊公に攻められ、少梁を失った。
夏、康公は晋を討って北徴を攻め取った。
B.C.615康公は西乞秫を魯に派遣して晋を討つことを伝えた。
冬、康公は令狐の役の恨みを晴らすため、晋を討って羈馬の地を攻め取った。
晋はこれを防禦し、両軍は河曲で戦った。晋はとりでを高く築いて守りをかためた。
康公は士会に作戦を尋ねると、士会は「この計略は臾駢が立てたものでしょう。 また趙穿という者は、君の寵愛を受けていますが年はまだ若くて、軍事は念頭になく勝敗など気にしておりません。 勇気にはやって狂気じみており、臾駢が上軍の佐になっていることを恨んでいます。
軽鋭の兵を敵陣に突撃させたら、趙穿をおびき出せるでしょう」と言った。
12月5日、康公は士会の策を用いて上軍を討った。はたして趙穿が軍を乱して出陣したため、晋軍は全軍が出て戦った。
両軍勝敗なく、互いに退却した。
秦軍はその夜に逃げたが、その後再び晋を侵略して瑕に攻め入った。
B.C.614夏、晋の魏寿余はいつわって夜に乗じて秦に逃げ、その私邑をもって秦に帰服したいと願い出た。 康公はこれを聴き入れた。魏寿余は康公に「もとは晋の人で、あの魏の役人たちと話せる者を出してください。わたしはその人と先発しましょう」と言ったので、 康公はその任に士会をつけた。しかし士会らの一行は黄河を渡り終えると、晋は士会を帰国させた。
しかし康公は約束どおり妻子を晋に送りかえした。
B.C.611康公は、楚と巴とともに庸を滅ぼした。
B.C.609春、康公は没した。
康公(劉)(コウコウ)
王季子
高厚(コウコウ)【文官】
斉の臣。高固の子。~B.C.554。
B.C.567冬、斉は萊を攻め滅ぼした。高厚は崔杼とともに、斉の領地となった萊の耕地の境界を正し定めた。
B.C.565、5月7日、晋・魯・鄭・斉・宋・衛・邾の大夫が邢丘に会合した。斉からは高厚が参加した。
B.C.564高厚は太子の傅育官となった。
B.C.563、4月1日、諸侯は楚の柤で会合した。 このとき、3月26日に高厚は公子光とともに本会合の前に諸侯と鐘離で会合した。 晋の士弱は「先に諸侯と会合したのは、国を守ろうとしてのことであろうが、ふたりとも無礼なことをしたのは、 国を滅ぼすようなものだ。禍から逃れることはできまい」と言った。
B.C.557晋平公が諸侯と温で宴会を催した。このとき大夫たちに舞わせ「歌う詩は必ず舞に合わせよ」と命じたが、 高厚の詩は舞と合わなかった。晋の荀偃は立腹して諸侯の大夫たちに命じて高厚と盟わせようとしたが、高厚は斉に逃げ帰った。 そこで荀偃と魯の叔孫豹、宋の向戌、 衛の甯恵子、鄭の子蟜、小邾の大夫は盟って斉を討つことを申し合わせた。
B.C.556秋、高厚は魯の臧武仲の守っている防を包囲した。 しかし魯の叔梁紇臧疇臧賈が夜に斉軍に攻め入り、 臧武仲を救い出した。斉軍は防の囲みを解いて引き揚げたが、この戦いで斉人は臧堅を捕虜にした。
B.C.554太子光が廃されて公子が太子となると高厚は公子牙の傅育官となった。
斉霊公が危篤になると、崔杼はひそかに公子光を迎え入れて擁立した。
8月、高厚は灑藍で崔杼に殺され、家財は奪われた。
考公(コウコウ)【王】
魯公(2代目)。名は酋。伯禽の子。
郊公(コウコウ)【公子】
莒公。去疾の子。
B.C.528、8月、去疾が没したが、郊公はその死を悲しまなかったため、国中の人々は郊公に服従せず、去疾の弟庚与を立てようとした。
12月、蒲餘侯玆父が郊公と親しい公子意恢を殺したため、郊公は斉に出奔した。
郟敖(コウゴウ)【王】
楚王(9(25)代目)。名は員(廩)。キョウゴウともいう。康王の子。~B.C.541。
B.C.545、12月、楚康王が没した。
B.C.544郟敖は即位し、公子を令尹に任じた。
B.C.543、1月、郟敖は子蕩を魯に聘問させ、即位したことを通知した。
B.C.542冬、衛襄公北宮文子が来聘した。
B.C.541冬、郟敖は病気になった。
11月、公子囲が都に帰って王宮に入り、郟敖の病気を見舞うふりをして冠のひもで首をしめて殺した。
郟に葬られたので、郟敖と称された。
高克(コウコク)【文官】
鄭の臣。
B.C.660高克は鄭の人に憎まれたため、狄の侵入に備えるとして黄河のほとりに駐屯させられ、長い間都に呼び戻されなかった。
やがて同行した軍も離散したので、高克は陳の出奔した。
皇国父(コウコクホ)【文官】
宋の臣。大宰。
B.C.556皇国父は宋平公のために物見台をつくることになった。 子罕が収穫の時期が終わってからにしてほしいと願ったが、宋平公は許さなかった。 すると台を作る人夫たちが「色白の男(皇国父)がわれわれを使って仕事を始め、色黒の男(子罕) がわれわれの心を慰めてくれる」と歌った。
高齕(コウコツ)【文官】
斉の臣。コウキともいう。梁丘拠の家臣。
B.C.516夏、斉に亡命した魯昭公を復位させないようにするため、 魯の申豊汝賈が女商人の付き添いとなって錦の織物をもって斉の軍営に行き、 高齕に向かって「この贈り物をご主人に送り届けてくれるなら、あなたを魯の高氏の子孫に仕立て、禄米5000庾を食む身分にしてあげよう」と言った。 そこで高齕は梁丘拠に贈り物を渡して取り入った。そのため斉景公は魯昭公を帰国させ復位させることを思いとどまった。
孔紇(コウコツ)
叔梁紇
黄山君(コウザンクン)【神】
仙人。神仙伝に見える。
彭祖の術を修め、数百歳になってもなお若さを保っていた。地仙になる修行をして昇天することは考えなかった。彭祖が仙去したので、 その意見をまとめて『彭祖経』を書いた。
公山不狃(コウザンフジュウ)【文官】
魯の臣。季氏の家宰。『論語』では公山不擾(コウザンフジョウ)。姓は公山、名は不狃。子洩ともいう。費の代官。
B.C.505、6月18日、季平子が没した。 陽虎が魯君が佩びる璵璠という美玉を季平子のなきがらに佩びさせて納棺しようとすると、 仲梁懐がそれを与えないで「臣としての歩み方を変えてよかろうか」と言った。 陽虎は立腹して仲梁懐を追い出そうとして公山不狃に告げると、公山不狃は「彼は主人(季平子)のことを思っているのです。何もとがめる必要はあるまい」と言った。
季桓子が季平子に代わって領地を見て回ったとき、公山不狃は季桓子を迎えて郊外でねぎらったが、 仲梁懐は侮って無作法であったため追放された。
B.C.502季寤公鉏極・公山不狃・叔孫輒・ 叔仲志は魯で思うようにならず、陽虎を頼った。陽虎は三桓を追い払い、季寤を季氏に代え、叔孫輒を叔孫氏に代え、自分は孟氏に代ろうと考えた。
B.C.501陽虎は破れ、公山不狃は季氏の領邑費に拠って季氏にそむいた。
公山不狃は孔子を招いたが、孔子は来なかった。
B.C.498夏、定公は孟孫・叔孫・季孫三家の都城を壊そうとした。まず叔孫氏が郈の城を壊した。
季氏が費の城を壊そうとすると、公山不狃・叔孫輒は費の邑人を率いて魯を襲った。しかし孔子に討たれ、斉に出奔した。
孔子(コウシ)【文官】
魯の臣。名は丘、字は仲尼。叔梁紇の子。母は顔徴在。B.C.551~B.C.479。
春秋末期の思想家。儒教の始祖。
B.C.551、9月28日、魯の昌平郷陬邑で生まれる。叔梁紇の長男孔孟皮は足が不自由であったので、家の跡継ぎを任せられなかった。 また叔梁紇は10人の子があったが、孔孟皮以外はすべて女の子であったため、叔梁紇は顔徴在を娶って男子を生みたいと思った。 そこで顔徴在は、子が授かるようにと尼丘で祈った。すると孔子が生まれたのである。
祈った場所が尼丘であったので、尼丘と名づけられた。また頭の中央がくぼみ、尼丘に似ていたので、丘と名づけられたともいう。
先祖は宋の公族という。魯に伝わる周の文物制度を学び、周公旦を理想の人物と敬慕した。
B.C.534季氏が士を饗応し、孔子もそれにあずかることになったが、陽虎が「季氏は士を饗応しているのである。 きみのような小僧を饗応するのではない」と言ったので、孔子はひきさがった。
孔子は家が貧しく身分が賤しかった。
成人の後、季氏の役人となった。その出納は公平で正確であった。
司職(牧畜を司る役)の官吏となった。その六畜は繁殖した。
孔子は身の丈九尺六寸で、人々はみなこれを長人と言って珍しがった。
南宮敬叔とともに周に行って、礼を問うた。このとき老子に会ったといわれる。
B.C.532孔子は宋の幵官氏の娘と結婚する。
B.C.531が生まれる。
孔子は20歳すぎ、村の委吏(倉庫の出納係)となり、司職の吏(犠牲の家畜を飼育する役人)となる。
B.C.523頃、魯に帰ると、弟子達は漸次仕官するようになった。
B.C.522琴張が衛の宗魯の死を聞いて弔問に出かけようとした。 孔子は「彼は斉豹に養われた盗賊であり、孟縶を殺した悪人である。 どうして弔問する必要があろうか」と言った。
B.C.521斉景公晏嬰とともに魯に来て、孔子に問うた。
「むかし秦の繆公は国が小さく、位置も辺鄙だったのに、覇者となったのはどうしてでしょう」
「秦は国こそ小さいが、その志は遠大でした。位置こそ辺鄙でしたが、そのおこないは中正でした。王業を成すこともできたのに覇業にとどまったのは、 まだ小さいと言わなければなりません」
景公はこの返答に満足した。
B.C.518孟懃子南宮敬叔とともに孔子について礼を学んだ。
B.C.517魯昭公が三桓氏を討とうとして失敗し、斉に亡命した。
孔子は斉に行き、高昭子の家臣となり、そのつてで景公に近づこうとした。
孔子は斉の太師と音楽を語り、韶(の音楽)を聞いて学ぶこと3ヶ月、その間は肉の味も忘れるほどに専心した。 斉の人たちはこれを称揚した。
景公が政治について孔子に問うと、孔子は「君は君としての道をつくし、臣は臣としての道をつくし、父は父としての道をつくし、子は子としての道をつくせばよいのです」 また「政治の要諦は財を節約することです」と答えた。
景公はこれを喜び、尼谿の田をもって孔子を封じようとしたが、晏嬰が「学者は滑稽多弁ですから、そのことばを手本としてはなりません。 傲慢不遜で自分の思いのままにふるまうので、低い身分に置くこともなりません。
周の王室はすでに衰微し、礼楽も残欠して、久しい年月を経ました。しかるに今、孔子は容儀修飾を盛大にし、登降の礼儀や歩行の節度を煩雑にしています。 これを採用するのは、微賤な細民を救済する急務ではありません」と言ったので、孔子は登用されなかった。
斉の大夫が孔子を殺そうとしたので、斉を去り魯に帰った。
魯は大夫以下みな上をおかし、正道を離れたので、孔子は仕官せず、隠退して詩書礼楽を修め弟子に教えた。門人がだんだん多くなり、遠方からも来て、みな学業を受けた。
あるとき季桓子が井戸を掘ると、土のかめのようなものが出てきて、中に羊がいた。不思議に思い、孔子に尋ねて 「わたしが井戸を掘ったら、いぬが出てきました。これは何でしょう」と言うと、孔子は「わたくしの聞くところでは、それは羊です。木石の妖怪は夔と魍魎と言い、 水の妖怪は龍と罔象と言い、土の妖怪はヨウ羊と言います」と答えた。
B.C.505頃、孔子は陽虎に仕官せよとせまられる。
B.C.502公山不狃が人をやって孔子を招いた。孔子は「思うに周の文王武王も豊・鎬のような小邑から起こって王となったのである。いま費は小邑だとはいえ、あるいはわたしの志をおこなえるかもしれない」 と言い、応じようとした。
子路はそれを喜ばず孔子を止めると「かの不狃がわたしを招くのは理由があってのことだろう。もしわたしを用いるというのであれば、 周の道を東方の魯で興すこともできるというものだ」と言った。しかし結局応じなかった。
B.C.501孔子は魯定公に中都の宰に任じられる。一年立つと、四方の諸侯はみな孔子を模範とした。
B.C.500孔子は司空となる。
春、魯と斉は和睦した。
夏、斉が夾谷で会同したいと申し入れて、定公は何の防備もなく出発しようとした。会同の相(儀式の長)をする孔子は「むかし諸侯は国境を出るとき、 かならず随行として文武の官をそなえました。なにとぞ左右の司馬をそなえてお出かけなさいますように」と言った。定公はこれに従った。
斉の犂弥が斉景公に「孔丘は礼をわきまえているが勇気がないから、莱の人々を使って武器で魯侯を脅しつけたなら、 こちらの思うままになりましょう」と言ったため、斉景公はそれに従った。孔子は魯定公を守って「役人は無礼を働く者を切り捨てよ。 両国の君がよしみを結ぼうとする大事な会合で、えびすの捕虜どもが乱暴を働くとは、 斉の君がしたこととは思われません」と言った。斉景公はこれを聞いてすぐに莱の人々を退かせた。
盟いを結ぶ時になり、斉人は盟約書に「斉が他国と戦うときは、兵車300台を整えて従わなければ、神罰を受けるであろう」と書き加えた。 そこで孔子は玆無還に命じて「汶陽の田地を魯に返さないならば、神罰を受けるであろう」と答えさせた。盟いが終わり、斉景公が魯定公をもてなそうとした。 孔子は斉景公の寵臣梁丘拠に「盟いはもう終わりました。それなのにさらにおもてなしくださるのは貴国の役人にご迷惑をかけるだけです。 野外で雅楽を奏すべきでなく、それができなければ正しい礼に背くことになります。それでは悪名を立てることになります。主人の徳を明らかにできないのであれば、 やめた方がよろしいでしょう」と言ったため、とりやめになった。斉景公は大いに恥じ入り、帰国した後、侵略した魯の汶陽の鄆・讙・亀陰の田地を返して、 過失の罪を詫びた。
B.C.499孔子は大司寇となる。
B.C.498夏、孔子は定公に「臣下たる者は、武器を私蔵してはならず、大夫は自分の封邑に大きい城をつくるものではありません」と言い、子路を季氏の家宰とし、孟孫・叔孫・ 季孫三家の都城を壊そうとした。まず叔孫氏が郈の城を壊した。
季氏が費の城を壊そうとすると、公山不狃・叔孫輒が費の邑人を率いて魯を襲った。 孔子は申句須楽頎に命じ、これを討って姑蔑で破った。
公山不狃と叔孫輒は斉に出奔した。こうして費の城を壊した。
B.C.497孔子は大司寇の職のまま会同の相の事務を取り扱い、喜んでいた。門人が「『君子は禍いたれどもおそれず、幸いいたれども喜ばず』と聞きますが・・」と言うと 「たしかにそういうことばはあるが、また『その貴をもって人に下るを楽しむ』とも言うではないか」と答えた。
孔子は政治を乱した少政卯を誅し、自ら国政に参与した。
3ヶ月のうちに小羊や豚を売る者が掛け値を言わないようになり、通行には男女が別の道を歩くようになり、道路に落し物があっても拾わないようになり、 四方の国から魯の邑に来た旅客は、役人に頼まなくても、自由に必要な物品を持ち帰ることができるようになった。
これを恐れた斉は、美人80人と馬30駟(120頭)を魯の君に贈った。季桓子はこれを受け取りたいと思い、定公を誘ってそれを見物し、 政事を怠った。
子路が「夫子よ、辞職しましょう」と言ったが、孔子は「やがて郊の祭の時期が来る。そのときに祭肉を大夫に分けるようならば、わしはひきつづきとどまってよいと思う」 と答えた。
季桓子は斉の女を受け取って政事を怠り、また郊の祭に祭肉を大夫に分け与えなかった。
孔子はついに都を去り、衛に行き、顔濁鄒の家に身を寄せた。
この年、晋の趙午が反乱を起し、孔子を招いた。孔子は行こうとしたが、子路の反対にあって、取りやめた。
B.C.495衛霊公は讒言を信じて、公孫余仮に命じて、武器をもたせて孔子の出入ごとに脅かした。 孔子は罪に陥れられることを恐れ、衛を去った。
陳に行こうとして、宋の邑の匡の城外を通った。孔子の容貌は陽虎に似ており、陽虎がかつて匡人に暴虐を加えたことがあり、孔子を陽虎と間違えてこれを取り囲んだ。 孔子は「天が文(礼楽・制度・学問など)を滅ぼそうとしないなら、匡人がわたしをどうすることができよう」と言った。 従者を衛へやって甯武子の臣下とし、これによって匡を去ることができた。
衛の邑の蒲を通り、一ヶ月余りののち衛に引き返し、遽伯玉の家に寄寓した。
衛に来て一ヶ月で衛霊公は南子と同車し、孔子を後車に乗せて市中に遊んだ。 孔子は「わたしはまだ徳を好むこと色を好むような人を見たことがない」と言って衛を去って曹に行った。
曹を去って宋に行き、弟子と共に礼を大樹の下で習った。宋の司馬桓魋が孔子を殺そうとして、その樹を切ったので、 孔子は立ち去った。
孔子は鄭に行ったが、門人たちとはぐれてしまった。鄭のある人が弟子の子貢に「東門に人がいて、 その額は堯帝に似ており、そのうなじは皋陶に、その肩は子産に似ています。 しかし腰から下は、よりも三寸短く、その疲れたさまは、まるで喪家の狗のようでした」と言った。あとで子貢はありのままを告げると、 孔子は欣然と笑って「容貌についてはどうかと思うが、喪家の狗に似ているというのは、そのとおりだわい」と言った。
陳に行き、司城貞子の家に寄寓した。
B.C.494陳を去り、衛の蒲を通った。蒲の人々は孔子を拘留した。門人の公良嬬が蒲人とはげしく闘った。蒲人は「衛に行くことさえなければ、 あなたを出しましょう」と言った。孔子はこれと誓ったが、衛に行った。子貢が「誓いは破ってもよいものでしょうか」と言うと、孔子は「強要された誓いは、 神はとりあわぬだろう」と言った。
衛霊公はもはや年老い、政治を怠って孔子を用いなかった。孔子は喟然と嘆息して「いやしくもわたしを用いてくれる人があれば、1年で政教を布き、 3年で効果を収められるだろうに」と言った。
B.C.491孔子は西行して趙鞅に謁見しようと河水のほとりに到着した。そのとき鳴犢と竇犨が趙鞅に殺されたと聞き、 水の流れを眺めながら、嘆息して「なんと見事な水であろう。丘がこれをわたって晋に入国しないのも天命であるわい」と言って引き返して衛に入り、 また遽伯玉の家に寄寓した。
衛を去って、ふたたび陳に行った。
孔子は「帰ろうかな、帰ろうかな、わが郷党の門人達のもとに。彼らは思慮高遠で、事に疎略なところはあるが、斐然(明らかなこと)としていろどりをなしている。 彼らを導くことに気づかなかったことが悔やまれる」と言い、陳から蔡に移った。
B.C.490蔡から葉にうつった。
また葉を去って蔡に帰った。途中、長沮桀溺が耕していた。孔子は彼らを隠者と思い、 子路に渡し場を問わせた。
長沮は「あの手綱をとっているのは誰か」と問うた。
「孔丘です」
「それなら渡し場ぐらいは知っているだろう」
桀溺は「きみは誰だ」と問うた。
「仲由と申します」
「滔々としてかえることのないのが、なべて天下の趨勢なのだ。それなのに、いったい誰とともにこの世を変えようというのか。人を避ける説士(孔子)に従うより、 世を避ける隠士に従うほうがましではないか」
子路がこれを孔子に告げると「わたしは鳥獣などと群れを同じゅうして、自らいさぎよしとしておれないのだ。天下に道さえおこなわれておれば、 丘は誰と共に世を変えようなどとするものか」と言った。
B.C.489呉が陳を討ち、楚は人をやって孔子を招いた。孔子が楚で登用されることを恐れた陳と蔡は、孔子を郊野で囲んだ。孔子は行くことができず、食糧に窮した。(陳蔡の厄)
しかし孔子は詩を口ずさみ、琴を弾き、泰然としていた。
子貢を楚にやると、楚昭王は兵を起して孔子を迎えたので、ようやく難を逃れた。
昭王は孔子を書社の地700(17500戸)をもって封じようとしたが、令尹子西が「孔丘が封土により、賢弟子が補佐するならば、これは楚の幸いとはなりますまい」と言ったので、 登用されなかった。
孔子は楚から衛に帰った。
衛の孔文子は太叔を攻めようとして、術策を孔子に問うた。孔子は「わたしにはわかりません」とことわった。
B.C.484孔文子は孔子を引き留めたが、季康子に迎えられたので、魯に帰った。
しかし魯は孔子を登用することができず、孔子もまた仕官を求めなかった。
B.C.483孫の孔伋が生まれる。
B.C.481斉の田常が主君簡公を弑したので、田常の討伐を請うたが、 哀公は聴き入れなかった。
この年、子の孔鯉が没した。
B.C.479、4月11日、孔子は病にかかった。子貢が面会を請うと、「賜よ、おまえはどうしてもっと早くきてくれなかったのか」と言い、嘆息して歌を詠唱した。
 泰山それ壊れんか
 梁山それ摧けんか
 哲人それ萎れんか

とうたうと、不覚の涙が流れた。それから7日して卒した。4月18日であった。
孔子は魯城の北、泗水のほとりに葬られた。
孔子は夏・商・周三代の礼をまとめ、書経を順序正しく整理し、上は唐・虞の時代から、下は秦繆公に至るまで、その事跡を編集した。また、古来、詩は三千余篇あったが、 孔子はその重複を捨てて、礼儀に施すことのできるものだけ305篇をまとめた。その礼楽をもって王道を完備し、六芸(礼・楽・射・御・書・数)を完成させた。
また孔子は晩年に易を好んだ。
また史官の記録に基づいて「春秋」を作った。
孔子の弟子はおよそ3000人に及んだと考えられ、そのうち六芸に通じたものが72人あった。
当時は古代中国社会の変動期で、孔子は混乱した社会秩序(礼)を回復することが必要であり、そのためには個人の社会的道徳(仁)の修養が必要であると考えた。 かれの言行は死後弟子が『論語』に編集した。
後世聖人と尊ばれ、子孫は歴代王朝の尊重保護をうけた。
孔氏(コウシ)
宰孔
高子(コウシ)【在野】
斉の人。
かつて孟子に学んだが、道に明らかでなく、孟子のもとを去って他術を学んだ。
高止(コウシ)【文官】
斉の臣。高子容ともいう。
B.C.544、6月、晋が杞の城壁工事をしたため、高止は命ぜられてこれに出かけた。 高止は宋の華定とともに晋の智盈に面会したが、 智盈の介添をした女叔斉は「あのふたりはともに禍から逃れられないだろう。子容は自分勝手であり、 司徒(華定)はおごり高ぶっている。ともに家を滅ぼす者だ」と言った。
9月、高止は高止尾欒子雅に燕に追放された。高止は常に自分の功績にしようと望み、 かつ専横であったためである。
9月3日、高止は国を出た。
皇耳(コウジ)【武官】
鄭の臣。皇戌の子。
B.C.563、6月、衛が襄牛まで軍を進めたので、皇耳は命ぜられてこれを迎え撃った。しかし皇耳は衛の孫蒯に犬丘で捕えられた。
后子鍼(コウシカン)【武官】
秦の臣。景公の母の弟。
景公の寵愛を得て、家は富んだ。
B.C.544讒言されたため恐れて晋に逃げた。そのときの荷物の車が千台もあった。
平公は「こんなに富んでいるのに、どうして逃げてきたのか」と問うと 「秦公が無道なので、殺されるのを恐れたのです。次の代になったら帰ろうと思います」と答えた。
B.C.537景公が没すると、晋から戻る。
公子帰生(コウシキセイ)
子家
公之魚(コウシギョ)【文官】
魯の臣。季孫氏の家臣。
B.C.490季桓子が没し、季康子が代わって立ち、孔子を招こうとした。
公之魚は「むかしわが先君は、あのかたをお用いになりましたが、途中でおやめになったため、諸侯の物笑いとなりました。またあのかたを用いようとすれば、 ふたたび物笑いとなりましょう」と諌めた。
季康子が「では誰を招けばよいと申すのか」と問うと「冄求をお招きになりますように」と答えた。
季康子は冄求を登用した。
高子彊(コウシキョウ)【武官】
斉の臣。高子尾の子。
B.C.540晋の韓宣子が斉の公女を迎えるための結納の品を納めた。 韓宣子は欒子雅の子欒子旗と高子彊と面会したが、 「一家を保ってゆく大夫ではありません。思い上がって不忠の臣にみえる」と言った。斉の大夫はこれを冗談として笑ったが、 晏嬰だけは韓宣子のことばを信じた。
B.C.534、7月9日、高子尾が没した。
7月12日、欒子旗が高子尾の家を整理しようとして、その家宰の梁嬰を殺した。
8月15日、欒子旗はさらに高子尾の一味であった子成子工子車を追放し、高氏の家宰を自ら立てた。高子彊の家来は「わが君はもう成人であるのに、 わが家を助けようとしているのは乗っ取ろうとしているのだ」と言って甲冑を着て欒子旗を攻めようとした。 田無宇も高子尾と親しかったためこれに加わろうとした。欒子旗は田無宇の家に行くと、 田無宇はいつわって高子彊を攻めましょうと言った。しかし欒子旗は「どうしてそんなことをするのですか。あれ(高子彊)はまだ子供です。 彼には教えてやらないといけないし、わたしは彼を愛しています。あなたからも話してやって下さい」と言った。 田無宇は頭を地にすりつけて謝罪して高・欒両家を和解させた。
B.C.532夏、田無宇と鮑国が突然、欒氏と高氏に兵を向けてきた。高子彊は「まずわが君をこちらの味方にしておけば、 陳・鮑の二氏はどこにも行く所がなくなるであろう」と言って公宮に入ろうとしたが許されなかった。そこで高子彊は公宮を攻めたが稷で敗れ、 さらに荘で戦ったが欒・高氏の軍は敗れて、高子彊と欒子旗は魯に亡命した。
孔子思(コウシシ)
孔伋
光子乗(コウシジョウ)【在野】
淳于の人。名は羽、字は子乗。
周子家から易を伝授される。
これを斉人田子荘に伝授する。
工師籍(コウシセキ)【宰相】
東周の宰相。姓は工師、名は籍。
工師籍は宰相を罷免され、代わって呂倉が宰相となった。
公思展(コウシテン)【文官】
魯の臣。季氏の一族。
B.C.517季公鳥が没すると、 公思展は季公若と季公鳥の家臣申夜姑とともに季公鳥の家を世話した。 ところが季公鳥の夫人季似は、季公若が自分をわがものにしようとしたと訴えたため、 公思展は季平子によって卞に拘留された。
高子尾(コウシビ)【文官】
斉の臣。公子の子。公孫蠆ともいう。~B.C.534。
B.C.545高子尾と欒子雅は朝廷で二羽の鶏を賜るところを、肉を除いた汁ばかりの膳を賜ったためふたりは立腹した。 慶封がこれを盧蒲嫳に話すと、 盧蒲嫳は「あんなふたりは鳥や獣のようなものだ。殺してその羽や皮を下に敷いて寝ましょう」と言って問題にしなかった。
11月8日、斉の先祖の廟で秋の祭りが行われた。慶氏の兵はよろいをぬぎ、馬をしばりつけてから酒を飲み、劇の見物に魚里に出かけた。 その留守に乗じて高子尾は田須無・欒子雅・ 鮑国らとともに慶氏の兵がぬぎすてたよろいを着けて慶舎を殺した。
慶氏が滅びると高子尾は邑を与えられた。高子尾はその邑を晏嬰に分け与えようとしたが断られた。 そこで高子尾はいったん頂いて、しばらくして返した。斉景公は高子尾を忠実な人物と考えて寵愛した。
B.C.544、9月、高子尾は欒子雅とともに高止を燕に追放した。
B.C.543、10月、高子尾は晋の趙武、魯の叔孫豹、 宋の向戌、衛の北宮佗、鄭の子皮、 小邾の大夫と集まって、衛の澶淵で会合した。
B.C.542高子尾は閭丘嬰を邪魔者であると殺そうとし、彼に軍を率い魯の陽州を討たせた。魯が何故に討つのかと問いただしてきた。
5月、高子尾は閭丘嬰を殺して、罪人はこの人であったと魯に弁解した。そのため閭氏の一族である工僂灑渻竈孔虺賈寅は莒に出奔し、 公子たちも国外に追放された。
B.C.540晋の韓宣子が斉の公女を迎えるための結納の品を納めた。 韓宣子は欒子雅の子欒子旗と高子尾の子高子彊と面会したが、 「一家を保ってゆく大夫ではありません。思い上がって不忠の臣にみえる」と言った。斉の大夫はこれを冗談として笑ったが、 晏嬰だけは韓宣子のことばを信じた。
B.C.539夏、韓宣子が斉に来て、晋平公のために公女を迎えた。高子尾は自分の娘を納めようと考えて、公女にすりかえて公女を他に嫁がせた。 ある人が韓宣子に「子尾は晋をだましている」と忠告したが、韓宣子は「わが晋は斉を味方にしようと考えている。斉の寵臣を遠ざけたら、 それを達せられなくなる」と言った。
斉景公が莒で狩をしたとき盧蒲嫳が面会して許しを請うた。高子尾は彼を都に帰してやろうとしたが、欒子雅が反対して盧蒲嫳を燕に追放した。
B.C.534、7月9日、没した。
耿之不比(コウシフヒ)【武官】
楚の臣。
B.C.666秋、楚は兵車600乗を率いて鄭を討ち、桔シツの門に攻め入った。
子元闘御疆闘梧・ 耿之不比は旗をおしたてて先陣となり、闘班王孫游王孫喜はしんがりとなった。楚軍は外城の純門に群がり攻め入り、 市場まで攻め入ったが、内城の門は開け放たれ、鄭の兵卒は楚の言葉で話しあっていた。鄭の落ち着き払った様子を見て、子元は「鄭には人物がいる」 と言って進撃しなかった。
そのうち斉、宋の援軍がやってきたので、楚軍は夜にまぎれて逃げ去った。
高弱(コウジャク)【文官】
斉の臣。高無咎の子。
B.C.574夏、斉霊公が讒言を信じて鮑牽を殺し、高無咎を追放した。
そこで高弱は領地の盧にたてこもって謀叛を起こした。
12月、高弱は斉に降服した。
公若藐(コウジャクバク)【武官】
魯の臣。叔孫氏の一族。郈の宰(代官)。~B.C.500。
B.C.505叔孫成子叔孫州仇を立てようとすると、 公若藐は大いに諌めたが、叔孫成子は叔孫州仇を立てて没した。公若藐に味方する公南が賊を使って叔孫州仇を殺そうとしたが、できなかった。
B.C.500やがて叔孫州仇の地位も落ち着くと、叔孫州仇は郈の馬正侯犯に命じて公若藐を殺させようとしたができなかった。
すると圉人が「賤しい身のわたしが立派な剣を携えて郈の役所を通ったら、公若はきっと『だれの剣か』と尋ねるでしょう。ご主人のものですと答えたら見たがるでしょうから、 田舎者で無作法なふりをして剣先を持たせるようにしたら、すぐに引き抜いて殺すことができます」と言ったので、そのようにさせた。 公若藐は「お前はわたしをあの呉王()のように刺し殺そうとするのか」と言ったが、そのまますぐに刺殺された。
侯ジュ(コウジュ)【文官】
曹の臣。曹共公の小臣。
B.C.632晋文公は病気にかかった。侯ジュは晋の卜筮者に賄賂を使って曹を滅ぼした祟りであると言わせた。晋文公は喜んで、 曹共公許してを復位させた。
高豎(コウジュ)【武官】
斉の臣。高止の子。
B.C.544、9月、高子尾欒子雅が高止を燕に追放した。 そのため高豎は盧にたてこもって謀叛を起こした。
10月28日、閭丘嬰が軍を率いて盧を攻め囲んだ。高豎は「もしわが高氏を続くようにしてくれれば、盧を返上しましょう」と言ったため、 斉人は高傒の曾孫にあたる高エンを立てた。
11月24日、高豎は盧を返上して晋に亡命した。晋人は緜に城を築いて、そこに高豎を住まわせた。
考叔(コウシュク)【在野】
潁谷の士。
鄭の荘公に献上品を持っていき、荘項から返礼として食事を下賜される。考叔はそれを母に与えたいと願い出た。 荘公は弟の反乱に内応した母を幽閉していたが、「私も母に会いたいが、黄泉に行かなければ会わないと約束した。どうしたものか」 考叔答えて「土を掘ってその中にお入りなさい。黄泉とは地下ですから、もう母上にお会いできます」荘公は喜んでそれに従ったという。
公叔(コウシュク)【宰相】
魏の宰相。
田文の死後、宰相となった。
魏の公主を娶り、呉起を忌み嫌っていた。
下僕の進言に従って、武侯に呉起は強秦のそばにおり、いつまで魏に留まるか判らないと讒言し「公主降嫁をもちかけては。 もし起に留心があれば、かならず受けましょう」と言った。
はたして呉起は節操廉直で名声を尊んだためこれを辞退し、ついに武侯に疑われて楚に去った。
孔叔(鄭)(コウシュク)【文官】
鄭の臣。
B.C.657冬、鄭は楚に攻められた。鄭文公は楚と和睦しようとしたが、孔叔は「斉はわが国難を憂えておられる。 その恩を捨てるのはよくないことだ」と諌めたのでとりやめた。
B.C.655諸侯が首止で会合して、周の太子の地位を固める相談をした。 周恵王はこれを阻止しようとして、鄭文公を呼び寄せて「わたしはお前を楚につくようにさせ、 晋にも助けるようにさせよう。そうすれば斉は鄭に手出しはできまい」と言った。文公は喜んで、諸侯の盟いに参加しなかった。 孔叔は諌めたが、文公は聴き入れず、鄭軍を残して自らは帰国した。
孔叔(宋)(コウシュク)【文官】
宋の臣。襄公の孫。~B.C.619。
B.C.619王姫が戴氏の一族をたより、孔叔は彼らに殺された。
侯叔夏(コウシュクカ)【武官】
魯の臣。
B.C.616狄の鄋瞞が魯を攻めた。侯叔夏は叔孫得臣の御者となって、これを討った。
10月4日、魯軍は狄軍を魯の鹹で打ち破り、その君の長狄喬如を討ち取った。
公叔座(コウシュクザ)【宰相】
魏の宰相。
病気になって死期を悟ると、恵王に公孫鞅(商鞅)を登用するように勧める。 そしてもし登用しないのであれば、他国で登用されることのないように彼を殺すべきだとも付け加えた。 しかし恵王は「公叔座も老いてしまった」といってどちらも採用せず、結局商鞅は秦で重用されることとなる。
公叔戌(コウシュクジュ)【文官】
衛の臣。公叔文子の子。
竜穆と親しかった。
公叔祖類(コウシュクソルイ)【神】
亜圉の子。古公亶父の父。
公叔発(コウシュクハツ)【文官】
衛の臣。名は発。公叔文子ともいう。公叔戌の父。
B.C.544呉の季札が衛を聘問し、遽伯玉史狗史鰌・公子・ 公叔発・公子に会い、その人物に感服して「衛には君子が多い。まだ心配はない」と言った。
B.C.504、2月、魯が鄭の匡を討ち取った。このとき魯軍は衛の国を無断で通り、その帰りに魯の陽虎は季氏・孟氏に衛の南門から入り、 東門から出て、その郊外の豚沢に宿らせた。衛霊公はその無礼に立腹し、弥子瑕に命じて魯軍を追撃させようとした。 公叔発は引退していたが手車に乗って衛霊公の所に出かけて「人の無礼をとがめながら、自分も無礼を行うのは礼にかなっておりません。 魯の昭公が亡命していたとき、わが君はこれに恩徳を施されました。それを台無しにするのはつまらぬことではありませんか。 天は今や陽虎を罰しようとしています。しばらくお待ちになるのがよいでしょう」と進言したため、衛霊公は追撃をやめた。
公叔文子(コウシュクブンシ)
公叔発
康叔封(コウシュクホウ)【王】
衛公(初代)。名は封。周武王の弟。
B.C.1050武王が商を滅亡させ、革命の宣言をするときに蓐席を布く役を行う。
管叔鮮蔡叔度禄父が反乱を起こしたため、 商の遺民を2つに分け、そのひとつを衛に移して、封は衛に封じられる。
黄河と淇水の中間の商の古城(朝歌)に赴いた。
周公旦の命に従い、その民を和らげ安んずることができ、民は大いに喜んだ。
天から瑞兆がくだり、めずらしい禾を得た。これを成王に献上する。
おこないがおだやかであったため、周公旦より周の司寇(司法最高官)に任じられる。
皇戌(コウジュツ)【文官】
鄭の臣。
B.C.597春、鄭は楚に責められたため、これに降服した。
6月、晋軍が鄭を救うために黄河を渡った。皇戌は晋の陣地に赴いて「鄭が楚についたのは国を守るためで、貴国に対して二心を持つものではありません。 貴国が楚を攻めるのなら、わが軍もあとに続きましょう」と申し入れた。晋の軍内ではこのことで大いにもめた。
B.C.589晋の荀首は皇戌と仲良しであったので、鄭に依頼して、 晋が捕えている楚の公子穀臣襄老のなきがらを楚に還して、 智罃の返還を求めてきた。
B.C.588春、鄭は晋・宋・衛・曹の連合軍を破った。皇戌は命じられて楚にその戦利品を献上した。
B.C.587、11月、鄭が許を討ったため、晋は許を救い、楚は子反を派遣して鄭を救援した。
悼公と許霊公は子反の前で言い争って、そのさばきを求めた。 皇戌が鄭悼公の代理人となって弁じたので、子反はこれをさばくことができず「両国の君には、わが君のところまでおいでください。 そこで話をお聞きすれば、両国は仲直りできるでしょう」と言った。
B.C.586許霊公が、鄭がしきりに許を討つということで鄭を楚に訴えた。
6月、鄭悼公も楚に出かけて霊公を訴えたが、恭王は鄭を敗訴とし、 皇戌は子国とともに楚に捕らえられた。
公輸盤(コウシュハン)【公子】
楚の臣。魯昭公の子。名は班。公輸般、公輸班、公輸子、魯班ともいう。
公輸盤は、楚で攻城用の兵器である雲梯を開発した。
楚王はこの兵器を使って宋を討とうとしたが、墨子が遊説に来て、その非を説いた。
そこで公輸盤は墨子と模擬戦をすることになったが、ことごとく墨子に防がれた。
公輸盤は「私はあなたの防禦を破る方法を知っているが、言わないでおこう」と捨てゼリフを吐いた。すると墨子は「私もその方法を知っていますが、 言わないでおきましょう」と言った。
のちに楚王は墨子にその理由を尋ねると、墨子は「公輸盤は、あとで私を殺そうと考えているのです。私を殺してしまえばもはや宋を防禦できる者はいないと踏んでいるのです。 しかし私の門弟の禽滑釐ら300人がすでに宋の防禦についています」と答えた。そのため楚王は宋を討つことをとりやめた。
公輸盤は戦争用具や種々の工具をつくったり、建築に工夫を凝らしたりしたので、後世では建築や大工の技師たちの祖と仰がれている。
后処(コウショ)【在野】
孔子の弟子。字は子里。
皋如(コウジョ)【武官】
越の臣。
B.C.473越王勾践が呉を討つことを大夫に謀ると、皋如は「鐘太鼓の音を慎重にすべきです」と進言した。
高子容(コウシヨウ)
高止
后勝(コウショウ)【宰相】
田斉の宰相。
B.C.250君王后が没すると、宰相に任じられた。
秦から多額の間金(賄賂)を受け、賓客を多数、秦に入国させた。秦はまたこの者たちにも間金を与え、逆に反間を行ない、王に合従を棄てて 秦に入朝するよう勧めた。
B.C.221秦に攻められる。后勝は秦への降服を勧め、斉は戦わずして秦に降った。
秦は建を捕らえて共にうつし、斉を滅ぼして郡とした。ここに天下は統一された。
巧匠(コウショウ)
巧スウ
蓋聶(コウジョウ)【在野】
楡次の人。
楡次で荊軻と剣のことを論じた。意見が合わず蓋聶が怒ってにらみつけると荊軻はすぐに立ち去った。
高昭子(コウショウシ)【文官】
周王朝の臣。
襄王の任命により斉の卿となる。
B.C.489、6月田乞鮑牧晏孺子を討ったとき、 国恵子とともに晏孺子を救おうとしたが、破れたため晏圉とともに魯に走る。
孔将鉏(コウショウショ)【文官】
鄭の臣。
B.C.636冬、周襄王が狄に攻められて鄭の氾に出奔してきた。 孔将鉏は鄭文公の命で石甲父侯宣多とともに氾に赴き、天子の役人の用いる調度品を整えて献上した。
B.C.630晋文公が鄭を包囲して、晋に亡命していた公子を太子に立てるよう鄭に申し入れてきた。 石甲父がこれに従うよう言ったので、孔将鉏は侯宣多とともに晋に出奔している公子蘭を迎えて太子に立てるとし、晋との和睦を求めた。 晋文公はこれを許した。
孔烝鉏(コウジョウショ)
孔成子
郈昭伯(コウショウハク)【武官】
魯の臣。
B.C.517季平子と闘鶏をして、互いに反則したとして、季平子は郈氏の邸の敷地を掠め取った。 郈昭伯はこれに怒り、臧昭伯と共に魯昭公に告訴した。
魯昭公は季氏を討ち、季平子が許しを請うたが郈昭伯は「必ず季氏を殺しなさい」と進言し、魯昭公は郈昭伯に孟懃子を味方に迎えるよう命じた。
しかし叔孫氏が季氏に味方して魯昭公の兵を蹴散らしたため、郈昭伯は孟懃子に殺された。
(『史記』では叔孫氏のに殺されたとしている)
公鉏極(コウショキョク)【公子】
魯の公子。季武子の長子。
B.C.502季寤・公鉏極・公山不狃叔孫輒叔仲志は魯で思うようにならず、陽虎を頼った。陽虎は三桓を追い払い、季寤を季氏に代え、 叔孫輒を叔孫氏に代え、自分は孟氏に代ろうと考えた。そして陽虎は叛乱を起こしたが敗れて国外に亡命した。
后稷(コウショク)【神】
周王朝の始祖。稷ともいう。名は弃(棄)。帝嚳の長子。母は姜原
姜原が巨人の足跡を踏んで身ごもって生まれたため、不吉に思った姜原は后稷を棄ててしまう。しかし不思議なことに后稷は自然や獣に守られたので、 姜原は彼を引き取り弃(棄)と名づけた。
后稷はに仕え、后稷という農官となり、農業を推奨させた。后稷は豆や黍を栽培する聖なる知識を持ち、人間にこの技術を教え、 また採れた作物の調理の仕方や、神への感謝としてその食べ物を供えることを教えた。
后稷は黒水の山(三危山?)で没した。
のちに后稷は農耕神として、孟春正月の郊祭のとき、天帝に配して祀られた。
后稷は周民族の創始者となり、周王朝の名はその民族名から取ったものである。
黄初平(コウショヘイ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
15歳のとき、ある道士に見込まれて、40余年修行して家に帰らなかった。兄の初起が山へ行って初平を探し道士に尋ねた。そこでふたりは再会し、 初起も妻子を棄ててそこに住み着き術を会得した。のちに郷里に帰ったが、親族は死に絶えていたので再び引き返した。
公子呂(コウシリョ)【文官】
鄭の臣。字は子封。
京に封じられた公子がさらに領地の拡張をくわだて、鄭の西鄙・北鄙の人々を買収した。
公子呂は荘公に「民が二心を懐くようでは国は存立できなくなります。君はどうなさるおつもりですか。 もし大叔(段)に国を譲ろうというお考えなら、 私は大叔につかえましょう。そうでなければ大叔を除きましょう」と諌めたが、荘公は「進んでやることはない。やがて自分から禍をまねくであろう」と言った。
段がさらに西鄙・北鄙の地を自己の領地とし、廩延の地までも手を伸ばした。
公子呂は荘公に「今こそ大叔(段)を討つべきである。領地が広大になれば、民衆の辛抱を得ることになります」と諌めたが、 荘公は「不義なる者に大衆はつかない。領土を拡大すれば必ず自滅するであろう」と言って動かなかった。
B.C.722ついに荘公の命で、段の京城を討ち、段を破る。
高辛(コウシン)
帝嚳
孔慎(コウシン)【宰相】
魏の宰相。孔穿の子。
57歳で没す。
孔心(コウシン)【文官】
田斉の臣。字は距。
孟子が陸に行ったとき、大夫の孔心に「警護の兵が一日に三度も隊伍を離れて勝手なことをしたら、あなたは軍法にかけて処分しますか」 と尋ねた。孔心は「いや、三度といわず一度でもすぐ処分します」と答えた。
孟子は「あなたにもこの兵と同じ怠慢がありますよ。悪疫や飢饉の年には、あなたの領内には飢え凍えて死ぬ人や、四方に散り散りになって逃げ出す者が多いのです」と言うと、 孔心は「しかし先生、このわたしの力では、何ともできないことです」と言った。 孟子は「牧畜をする人は、牛や羊の為に必ず牧場と牧草を探すでしょう。もし見つからぬときは、もとの持ち主に返しますか。それともぼんやり立って、 その死ぬのを見ていますか」と言った。
孔心は大いに恐縮して「よくわかりました。これは私の責任です」と言った。
その後、孟子は斉王の謁見した時に「王の地方長官を5人知っていますが、その仲で責任をよく自覚しているのは、ただ孔距心ひとりだけです」と言って、さきの話を申し上げた。 斉王は「それは孔距心の罪ではない。わしの罪じゃ」と言った。
皇辰(コウシン)【武官】
鄭の臣。
B.C.573、6月、鄭は宋を討った。皇辰は鄭成公の命により、楚の子辛とともに宋の城郜に攻め入り、幽丘を攻略した。
侯晋(コウシン)【武官】
鄭の臣。
子駟が自分の田地の溝を手入れした時に、司氏・堵氏・侯氏・子師氏は田地を侵食されたため、侯晋はこれを恨んだ。
B.C.563、10月14日、侯晋は堵女父尉止尉翩司斉子師僕司臣らとともに叛徒を率いて公宮に攻め入り、 子駟・子国子耳を殺した。
子駟の子子西が反撃してきたので、侯晋は晋に亡命した。
巧スイ(コウスイ)
巧スウ
巧スウ(コウスウ)【神】
大工の名人。巧は上手な大工という意で、名はスイ。巧匠ともいう。
人間にあらゆる職人の技をもたらした地上に降りてきた最初の神とされる。
またのときの名人大工ともいう。
侯生(コウセイ)
侯嬴
孝成王(コウセイオウ)【王】
趙王(2(8)代目)。名は丹。恵文王の子。~B.C.245。
B.C.265恵文王が没し、太后(恵文后)が政務をとる。
B.C.264秦に攻められ3城を抜かれる。
斉の安平君田単が趙軍を率いて燕を討ち、中陽を抜く。
B.C.263太后が没し、田単を宰相とする。
B.C.262孝成王は偏トクの衣(背縫いで左右色を異にした衣)を着て飛竜に乗り、天に上ろうとして途中で墜落し、金玉が山のように積まれている夢を見た。 筮史のを招いて占わせると「夢で偏トクの衣を着るのは不全の意味であり、途中から墜落するのは、気だけあって実のないこと、 金玉が山のように積まれているのは禍いである」と出た。
3日の後、韓の上党太守馮亭が上党を献上してきた。孝成王は群臣にはかり、平原君の意見を入れて、 これを取って馮亭をそのまま太守とし、華陽君と号した。
B.C.260秦が韓を討ち、上党の民が趙に逃げた。そこで孝成王は兵を出して廉頗に命じて長平に駐屯させ、上党の民を按撫した。
4月、秦が攻めてきたので、廉頗に抗戦させた。趙軍の士卒が秦の斥候兵を害したが、秦の斥候兵に副将が斬られた。
そのため孝成王は楼昌虞卿を召して「わが軍は敗れたが、 かえって鎧を解いて身軽になって敵の不意を襲ったらどうか」と尋ねた。虞卿は「秦と講和すべきだと思います。しかし秦は趙を破ろうとしています。 そこでまず楚と魏を味方につけられますように。そうなってから、はじめて講和はできましょう」と言った。
しかし孝成王はこれを聴き入れず、平陽君に命じて直接秦と講和しようとした。しかし講和はならなかった。
6月、秦軍に破られ、城砦二ヶ所と将校4人を失った。
7月、趙軍は塁壁を築いて守った。秦はそれを攻めて将校2人を捕らえ、西方の塁壁を奪った。廉頗はいよいよ塁壁を高くして守り、秦は挑戦したが廉頗は応じなかった。
孝成王は廉頗が応戦しないので、しばしば彼を責めた。一方、秦の范雎は人を趙にやり千金を撒いて 逆宣伝させ「秦がおそれているのは馬服君趙奢の子趙括が、 軍を指揮してわがほうにあたることである。廉頗ならくみしやすい。やがて降伏するだろう」と言わせた。
そのため孝成王は廉頗を更迭して、趙括を将軍にしようとした。藺相如は重い病の床にあったが「括は単に父の兵書を読んだだけで、臨機応変の処置を知りません」 と諌めたが孝成王は聴き入れなかった。また趙括の母にも諌められたが、聴き入れず、もし敗れても母を罰しない約束をしてやった。ついに趙括を将軍に任じた。
秦はこれを聞いて、ひそかに白起を上将軍とし、王齕を副将として、 軍中に「武安君が軍を指揮するのをもらす者があれば斬罪にする」と命令した。
趙括は着任すると、すぐ兵を進めて秦軍を撃った。白起は敗走すると見せかけて二手の伏兵を張って、敵をおびやかそうとした。趙軍は勝ちに乗じて追撃し、 秦は塁壁でこれに抵抗した。一方、秦の伏兵の一手2万5千人は、趙軍の後方を遮断し、別の一手5千騎は、趙軍と趙の塁壁の間を遮断したため、趙軍は二分され、 糧道を絶たれた。
昭襄王はこれを聞くと、みずから河内に出かけ、民にそれぞれ爵一級をやり、年15以上の者を徴発して、大挙して長平に行かせ、趙の援軍と糧道をさらに遮断させた。
9月、趙軍の絶食は46日間に及び、みなひそかに殺しあって人肉を食った。最後に血路を開こうとして4隊となって秦の塁を反撃し、四、五たびも繰り返したが、出られなかった。 趙括は精兵とともに白兵戦を演じたが、秦はこれを射て趙括を殺した。そこで趙軍40万は白起に降服した。
しかし秦将白起は兵卒40余万人をことごとく穴埋めにした。
孝成王は上党を取ることに反対した趙豹のはかりごとを聴き入れなかったため長平の禍を招いたことを後悔した。 また約束どおり趙括の母を罰して殺さなかった。
秦に邯鄲を包囲され、また武垣の県令傅豹王容蘇射が燕の衆を率いて燕の地で背いた。
孝成王は楚の宰相春申君を霊丘に封じた。
B.C.259平原君に命じて楚に行かせ、救援を請う。平原君は帰国して、決死の士3000人をもって秦に立ち向かい、秦軍は30里退いた。 そこに楚軍と魏の公子信陵君が救援に来たため、秦は邯鄲の包囲を解いた。
B.C.258秦に邯鄲を攻められるが楚や魏の救援でこれを退ける。
戦後、魏の信陵君が趙に出奔してきたので、孝成王は平原君と共に郊外に出迎えた。信陵君に5城を与えて封じようとしたが、 辞退されたため鄗を湯沐の邑として与えた。
B.C.257燕に攻められ、5月、昌城を抜かれる。
楽乗慶舎に命じて秦の信梁を攻め取る。
太子が没する。
秦が西周を攻め、これを抜いたため、徒父祺は兵を率いて国境を出た。
B.C.256秦が邯鄲の包囲を解いて、孝成王は秦に入朝することになった。そこで孝成王は虞卿の策を用いて斉と結ぼうとしたので、秦はこれを恐れ、趙に和を講じてきた。
元氏に城を築き、上原を県とする。
武陽君鄭安平が没し、その領地を没収した。
B.C.255邯鄲の廥(飼料の貯蔵所)が焼けた。
昭襄王は范雎の仇を報いてやろうと思い、平原君を秦に招きいれて、魏斉を渡すよう脅迫した。 しかし平原君のもとにすでにいなかったので、孝成王に書簡を送って魏斉の首を求めた。考烈王は不意に平原君の家を囲んだが、魏斉は夜陰にまぎれて脱出し、 虞卿に救いを求めた。虞卿は宰相の印綬を解いて魏斉と共にひそかに逃げ、信陵君をたよったが、受け入れられなかったため、 憤ってみずから首をはねて死んだ。
孝成王はその首を探し出し、秦に持たせたので、秦は平原君を趙に帰した。
B.C.252相国廉頗を尉文に封じ、信平君とする。
燕が宰相栗腹をつかわして親善を約定し、500金を投じて王のために寿宴を催した。しかし燕は二軍を起し、 栗腹が将軍となって鄗を攻め、卿秦も将軍として代を討った。
孝成王は廉頗に命じてこれを討たせ、栗腹を殺し、卿秦を捕らえた。
B.C.251廉頗は燕の国都薊を包囲した。
楽乗を軍功により武襄君とする。
B.C.250楽乗に命じて燕を討ち、薊を包囲する。
平原君が没す。
B.C.248延陵鈞に命じ、廉頗に従わせて魏を援けて燕を討つ。
秦に攻められ、楡次の37城を抜かれる。
B.C.247燕と土地の交換をし、燕に竜兌・汾門・臨楽の諸邑を与え、葛・武陽・平舒の諸邑を得た。
B.C.246秦に攻められ、晋陽を抜かれる。
B.C.245廉頗に命じ、魏を討ち、繁陽を攻略させるが、その途中で孝成王は没する。
句井疆(コウセイキョウ)【在野】
孔子の弟子。
広成子(コウセイシ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
黄帝が彼を訪ねて、至上の道の要旨を問うた。広成子は黄帝の世がおちついてないとして答えなかった。 黄帝は3ヵ月閉居して再び面会し、ようやく道を教えてもらうことができたという。
孔成子(コウセイシ)【文官】
衛の臣。孔烝鉏ともいう。孔達の孫。
B.C.577、9月、衛定公は病気になった。 孔成子は甯恵子とともに命ぜられて公子を太子と定めた。
襄公の妾が身ごもり、夢で人を見て「わしは康叔じゃ。おまえの子に必ず衛の国を継がせよう。元と名づけよ」と言われた。 妾は不思議に思い、孔成子に問うと、孔成子は「康叔というのは衛の国のご先祖です」と答え、その夢の意味を教えた。
後にその子は衛公となった(霊公)。
B.C.554石買が没したとき、その子の石悪はこれを悲しまなかった。 孔成子は「こうしたことをその本を倒すというものだ。きっとその宗族を保つことができないであろう」と言った。
B.C.535孔成子は夢に康叔封を見て、公子を立てよといわれた。 また史朝も同じ夢を見た。8月に衛襄公が没した。衛襄公の夫人姜氏には子がなく、 お気に入りのシュウ姶が孟縶と公子元を生んでいたが、孟縶は足が不自由であった。 孔成子は史朝とともに占いを立て孟縶を廃して公子元を立てた。
厚成叔(コウセイシュク)【文官】
魯の臣。名は瘠。厚孫ともいう。
B.C.559、4月、衛献公が亡命したので、厚成叔は命ぜられてお見舞いに行った。 衛の大叔儀が「わたくしどもは無能でありますが、わが君は処罰されることなく、 魯君には勿体なくもお見舞いを下されました。お礼を申し上げます」と回答した。 厚成叔は帰国して臧武仲にこのことを告げて「衛君はきっと帰国するであろう。 大叔儀という大夫が国に残っており、弟の鮮が君について国外に出ている」と言った。
公西箴(コウセイシン)【在野】
孔子の弟子。字は子上。
公西赤(コウセイセキ)【在野】
孔子の弟子。姓は公西、名は赤、字は子華。B.C.509~。
同門の冄有が公西赤の母の扶養として粟を請うと、孔子は一庾(16斗)しか与えなかった。孔子は「赤は、斉に行く時肥馬に乗り、 軽い裘を着て、富裕な様子であった。私は聞いている『君子は貧しい者を救い、富める者には、足し前をしない』と」と言った。
公聟池(コウセイチ)【文官】
晋の臣。氏は公聟、名は池。
B.C.610晋は鄭と和平を結び、公聟池は趙穿とともに人質として鄭に行った。
浩生不害(コウセイフガイ)【文官】
斉の人。魯の臣。姓は浩生、名は不害。
孟子楽正克のことを尋ねると、孟子は善信美大聖神という回答をした。
公西輿如(コウセイヨジョ)【在野】
孔子の弟子。字は子上。
公皙哀(コウセキアイ)【在野】
孔子の弟子。字は季次。
孔子は「天下には、道を行う者が少なく、多くは大夫の家臣となって都に仕官している。ただ、季次だけは、まだかつて仕官したことがない」と言った。
高石子(コウセキシ)【文官】
衛の臣。墨子の門人。
高石子は管黔敖を通じて衛に仕官した。衛は高給をもって高石子を遇し、高石子は卿となった。
高石子は何度も朝廷に参内し、言葉を尽くして進言したが実行されなかったので、衛を去った。
墨子はこれを聞くと喜び「義に背いて禄を求める人はよく見るが、禄に背いて義を求める人は、高石子によってはじめて見た」と言った。
勾践(コウセン)【王】
越王。允常の子。~B.C.465。
B.C.496呉王闔閭が允常の喪に乗じて越に侵攻した。勾践は三隊の罪人を呉軍の前に進ませて、自ら首を次々と切らせた。 呉軍はその姿を見て恐れおののき、越軍はその隙をついて攻撃して檇李で呉を破った。呉王闔閭はこの戦の傷が元で死亡する。
B.C.494呉王夫差が日夜、兵を整備し、越に復讐しようとしていると聞き、呉に先んじてこれを討とうとした。 范蠡が諌めて「今、君は天の時が来ないのに敵を攻撃しようとし、人事が起こらないのに戦をしようとされます。 これらは天意に逆らい、人の和を失うものです」と言ったが、勾践は「わしはもう決めてしまったのだ」と言って出兵した。
勾践は呉と戦って夫椒山で破れ、勾践は残兵5000人を取りまとめて、会稽山に立てこもった。 勾践は三軍に号令して「みなのうち、よくわたしを助け、謀をもって呉を退却させる者はいないか」と言った。が進み出て 「今、君は会稽山に立てこもった後にあって、智謀の臣を探しても手遅れではありませんか」と言うと、 勾践は「かりにもあなたの話を聞くことができれば何の手遅れがあろう」と言い、種と共に謀った。
また勾践は范蠡に「そなたのことばを聴き入れなかったため、こうしたことになった。 どうしたらよいだろう」と言った。范蠡は財宝を送り、自身を投げ出して呉王に請うよう進言した。 勾践はそれを承諾して種を遣わして「勾践は君主の臣下にしていただきたく、妻は君主の妾にしていただきとうございます」と言わせた。 しかし伍子胥がこれを許さなかったため、 勾践は妻子を殺して宝器を焼き、敵に突入して果てようとした。そこで種はこれを止めて、呉の太宰伯嚭を誘うことを勧めた。
勾践は種を呉にやって伯嚭に賄賂を送らせ、越の降伏を認めさせた。
勾践は呉に許された後、国に帰ると自分の身を苦しめて復讐の思いを焦がし、胆をそばに置いて、坐臥するたびに仰いで胆を嘗め(「嘗胆」)「なんじは会稽の恥を忘れるか」 と言った。自分自ら耕作し、夫人も自ら機を織り、食事は肉をニ皿にせず、着物は彩色あるものを重ねず、自分を屈して賢人にへりくだり、厚く賓客を遇し、 貧者をすくい死者を弔い、人民と苦労を共にした。
さらに勾践は、夫差に敬事し、300人の士を呉に服事させ、自身も夫差の馬前の兵となった。一方で勾践は越の人口を増やし、優秀な人物を育て、 四方の国の賢士が来れば必ず礼遇し、范蠡の進言で、国政をことごとく種に任せ、勾践は范蠡と大夫柘稽と共に和平のため呉に人質として入った。
B.C.491勾践は帰国を許された。
B.C.487会稽山で呉に降ってから7年が立ち、勾践は呉に報復しようとしたが、大夫逢同が「まだ呉は強国です」と諌め、 范蠡も天の時が至っていないとしてまだ待つべきであると答えた。勾践は「なるほど」と言って取りやめた。
B.C.486勾践は范蠡を召して呉を討つことを問うた。范蠡は「人事は出揃いましたが、天の啓示がまだありませんから、しばらくお待ちください」と答えたので、 勾践は戦を取りやめた。
B.C.485呉軍が斉を討とうとした。子貢が呉を助けるよう進言したため、勾践はこれに従った。
また種が、呉の政治が驕慢になっているのを確かめるため、試しに粟を借りるよう請うた。呉ははたして粟を越に貸し与えた。
勾践は再び范蠡を召して呉を討つことを問うた。范蠡は「天地の兆候が呉の滅亡を啓示していません」と答えたので、勾践は戦を取りやめた。
B.C.484勾践は再び范蠡を召して「呉は稲の害が出ています。これこそ天の啓示である。呉を討とう」と言ったが、范蠡は「人事が十分ではありません。 しばらくお待ちください」と答えた。勾践は怒って「以前、人事は出揃ったといい、今、天の啓示があったのに、また人事は十分でないという。どういうことか」 と問うた。范蠡は「天と地と人事が3つそろってはじめて成功できるのです。王よ、しばらくお待ちください」と答えた。勾践は戦を取りやめた。
B.C.483勾践は范蠡を招いて「呉は子胥が死んで王にへつらう者が多い。もう討ってもよいだろう」と言ったが「まだその時期ではありませぬ」と答えたのでとりやめた。
B.C.482呉王夫差は精兵を率いて諸侯と会同し、国内には老幼婦女だけが残っていた。
9月、勾践はまた范蠡に問うと「もうよろしいでしょう」と言ったので、水戦の部隊2000人、教練された兵4万、親近の志士6000人、 軍吏1000人を繰り出して呉を討った。
勾践は范蠡と舌庸に命じて兵を率いて海岸に沿って淮河をさかのぼり、呉軍の帰路を断ち、 呉の公子を呉都郊外の姑熊夷に破った(泓上の戦い)。 さらに勾践は中軍を率いて呉江をさかのぼって呉の都を急襲して外城に入り、姑蘇台を焼き、夫差の大舟を捕獲した。
夫差はこのことが天下に知られるのを恐れ、越と和睦しようとした。越は自分の実力では、やはりまだ呉を滅ぼすことが出来ないと考えて呉と和睦した。
B.C.475、3月、勾践は笠沢で呉軍と対陣するが、これを大いに破った(笠沢の戦い)。そして越軍は呉都を包囲した。
B.C.473種が策謀を提唱して「呉王はわが国を侵攻すると思っておりましたが、軍の動員を解いて警戒せず、わが国のことを忘れています。 今、呉の民は疲れ果て大変な凶作で飢饉が続いています。王は今こそ軍を動員して呉と会戦し、彼に改める余裕を与えてはなりません」と言った。 そこで勾践は大いに軍を戒めて呉を討とうとした。
このとき、楚の申包胥が使節として訪れたので、勾践は問うた。
勾践「呉は無道で、わが国の社稷宗廟を破壊しようとしています。今、騎兵甲卒伍の戦備は整いましたが、策略がありません。どうか教えてください」
申包胥「呉は大国です。王の呉と戦う策をうかがいましょう」
勾践「飲食には美味を尽くさず音楽を聞くには妙音を尽くさず、ただ呉に報復しようと思ってきました」
申包胥「よろしいですが、まだ足りません」
勾践「病人を見舞い、死者の葬式をし、老人を尊敬し、孤児を育て、ただ呉に報復しようと思ってきました」
申包胥「よろしいですが、まだ足りません」
勾践「民をわが子のように愛し、善導し、法令を治め刑罰をゆるやかにし、民の望むことを行い、ただ呉に報復しようと思ってきました」
申包胥「よろしいですが、まだ足りません」
勾践「富んだ人を安定させ、貧乏人には施し、余分のある者から税をとり、ただ呉に報復しようと思ってきました」
申包胥「よろしいですが、まだ足りません」
勾践「楚や晋や斉に服事して、まだ交際を絶ったことはなく、ただ呉に報復しようと思ってきました」
申包胥「これ以上付け足すことはありません。しかしながら、それでも戦はできません。戦は知を第一とし、仁がその次で、勇がまたその次です」
勾践「わかりました」
また勾践は5人の大夫を呼んで「申包胥はわしに教えてくれたが、その上また大夫諸君に計ろう」と言った。
舌庸「賞を慎重にすべきです」
苦成「罰を慎重にすべきです」
種「旗さしものの運用を慎重にすべきです」
范蠡「守備を慎重にすべきです」
皋如「鐘太鼓の音を慎重にすべきです」
勾践は「よろしい」と言い、兵卒を徴集した。
勾践は出兵にあたって夫人に命じて「今日から後は、宮中の政事は外に出ず、宮外の国政は内に入らぬようにする」と言い、夫人と会うことを禁じ、 留守の大臣に命じて「農地が公平の治まらず、土地が開墾されず、国内に過失があるのはそなたの責任であり、国外で過失があればわしの責任なるぞ」と言い、 内外の権力不可侵を取り決めた。
また勾践は60~70歳の父母がいて兄弟のない兵士を帰らせ、兄弟すべて従軍している者のうちひとりを帰らせ、目のくらむ者や従軍できない者を帰国させた。
呉軍が松江の北に陣し、越軍は松江の南に陣した。勾践は軍を二分して左右の軍をつくり、手兵の精鋭6000人で中軍をつくった。勾践は暗くなるのを待って、 左軍に口木をかませて江をさかのぼって五里の地点で待機させ、右軍も口木をかませて江を渡って五里の地点で待機させた。
夜中に、左右両軍に命じて江を渡り鼓を鳴らし、江の中央で待機させた。呉軍は挟撃されると思い、呉軍も軍を二分した。 勾践はそこで中軍に口木をかませて江を渡り呉軍を襲撃し、呉軍を大破した。
さらに左軍と右軍が江を渡って追撃し、没の地で呉軍を大破し、さらに呉の近郊でこれを破り、ついに呉の都に入城し、夫差を姑蘇の山に包囲した。 夫差が命を請うたので、勾践は降伏を許そうとしたが范蠡がこれを諌めた。 そこで勾践は「王よ、死にたもうな。奉仕の夫婦300人をあてますので、天寿を全うされよ」と言った。しかし夫差は自殺し、呉は滅びた。 また勾践は呉の太宰伯嚭を誅殺した。
さらに勾践は兵を率いて北行し、斉・晋の諸侯と徐州で会同した。周元王は人を遣わして勾践に胙を賜い命じて侯伯(覇者)とした。 勾践は帰って淮水の地方を楚に与え、呉が侵略した宋の地を宋に帰し、魯には泗水の東、方百里の地を与えた。
越の兵は江・淮の東に横行していたので、諸侯はみな勾践を慶賀し、宋・鄭・魯・衛・蔡が越に入朝し、勾践は号して覇王と称した。
のち范蠡が越を去り、種に書簡で職を辞退するよう伝えた。そのため種は病と称して参朝しなかった。彼を讒言する者がいたため勾践は種に剣を賜り 「そちにはわしに呉を討つ7つの術を教えてくれた。わしはその3つを用いて呉を破った。あとの4つは、そちの手中にある。そちはわしのため、 先王に従い地下でそれを試してみよ」と言い、種を自殺させた。
B.C.468勾践は琅琊に遷都して、中原の諸侯の仲間入りをした。
B.C.465没す。
寇先(コウセン)【神】
仙人。列仙伝に見える。
魚釣りを業とし、睢水の岸辺に100余年住んでいた。
宋景公にその秘法を訊ねられたが、教えなかったので殺されてしまう。しかし、それから数十年たってまた現れたという。
孔穿(コウセン)【在野】
孔箕の子。字は子高。
孔穿は公孫竜に面会に行き、公孫竜に「あなたを師と仰ぎたいのですが、白馬非馬論は気に入りません」と言った。
51歳で没す。
咎単(コウゼン)【宰相】
商王朝の臣。湯王の司空。「明居(民の法)」の一篇を作る。
高宣子(コウセンシ)
高固
侯宣多(コウセンタ)【武官】
鄭の臣。
B.C.636冬、周襄王が狄に攻められて鄭の氾に出奔してきた。 侯宣多は鄭文公の命で孔将鉏石甲父とともに氾に赴き、天子の役人の用いる調度品を整えて献上した。
B.C.630晋文公が鄭を包囲して、晋に亡命していた公子を太子に立てるよう鄭に申し入れてきた。 石甲父がこれに従うよう言ったので、侯宣多は孔将鉏とともに晋に出奔している公子蘭を迎えて太子に立てるとし、晋との和睦を求めた。 晋文公はこれを許した。 B.C.625侯宣多は叛乱を起こした。
11月、叛乱は鎮圧された。
公冉務人(コウゼンムジン)【文官】
魯の臣。叔仲恵伯の家老。
B.C.609、10月、襄仲は斉の支援を受けて、 太子と公子を殺して公子俀を擁立した(宣公)。 そして君命であると言って叔仲恵伯を朝廷に呼び寄せた。公冉務人は「きっと殺されます」と言ったが、叔仲恵伯は「君の命令に従って死ぬなら結構だ」 と言って朝廷に出仕した。はたして叔仲恵伯は襄仲に殺され、馬糞の中に埋められた。
公冉務人は叔仲恵伯の妻子を連れて蔡に出奔した。
やがて公冉務人は叔仲氏の跡目を立てて、その家を継がせた。
高漸離(コウゼンリ)【在野】
筑の名手。
荊軻と親交する。
B.C.227荊軻が秦王の暗殺に失敗すると、高漸離は変名して人の傭人となり、宋子にかくれて労働したが、労苦に堪えなかった。
王家の堂上で客が筑を撃つのを聞くと「あの打ち方はよいが、この打ち方はよくない」とつぶやいた。従者が主人に「あの傭人は音楽がわかるらしく、 ひそかによしあしを論じています」と告げたので、主人は高漸離に筑を打たせた。
高漸離は久しく世間を隠れて困窮しても際限ないことだと思い、自分の筑と晴れ着を取り出し、容貌を改めて皆の前に出て、筑を打ってうたったが、 ひとりとして涙を落とさずに帰ったものはいなかった。
宋子の人々はつぎつぎに彼を客として迎えた。
このことが秦王政の耳に入ると、高漸離は召し出された。彼を見知っているものがあり正体を告げた。秦王政はその才能を惜しんで、目をつぶして彼を近づけた。
高漸離は鉛を筑の中に入れ、筑を振り上げて秦王政を撃ったが命中しなかった。そのため高漸離は誅殺された。
卭疏(コウソ)【神】
仙人。列仙伝に見える.
周の封史(諸侯の領土封域を定める官)であった。
行気錬形の法に熟達していた。数百歳になって太室山中を往来した。
高宗(コウソウ)
武丁
后臧(コウゾウ)【武官】
楚の臣。葉公諸梁の弟。
B.C.505呉軍が楚から撤退すると、后臧は母について呉にいたが母を捨てて楚に帰った。そのため兄の諸梁はその不幸を憎んで后臧をまもとに見なかった。
公族穆子(コウゾクボクシ)
韓無忌
公祖句茲(コウソコウジ)【在野】
孔子の弟子。字は子之。
公孫(コウソン)【文官】
斉の臣。
田豹監止に推薦する。(実際は豹が喪に服したため沙汰やみとなる)
厚孫(コウソン)
厚成叔
公孫夷伯(コウソンイハク)【文官】
魯の臣。公子の子。
公孫嬰(コウソンエイ)【文官】
魯の臣。叔肸の子。公孫嬰斉、子叔声伯ともいう。~B.C.574。
B.C.585、6月、公孫嬰は使者として晋に赴くと、晋から宋を討つように命じられた。
B.C.583公孫嬰は莒に赴いて自分の妻を迎えた。
B.C.580、3月、晋の郤犨が魯を訪れた。このとき郤犨が公孫嬰の身内から妻を迎え入れたいと求めてきたので、 公孫嬰は妹を嫁がせた。
B.C.575、7月、魯は晋・斉・尹・邾とともに鄭を討った。
魯軍は督揚で留まったが、鄭軍を恐れて鄭を通過することができなかった。 そこで公孫嬰は叔孫豹を晋軍に遣わして迎えに来てほしいとお願いさせた。 公孫嬰は晋の迎えの軍が到着するまで4日間も食事をせずに待ち続け、帰還した叔孫豹に食事を取らせてからようやく自分も食べた。
9月、魯成公は鄭討伐から引き上げ、鄆で季孫行父の帰りを待ったが、季孫行父は晋に捕えられた。 そこで公孫嬰は遣わされて晋に赴いて季孫行父の身柄を渡すよう請うた。
郤犨「もし仲孫蔑を辞任させれば、わたしは貴国に親しみましょう」
公孫嬰「蔑と行父が除かれれば、魯は滅びます。もし滅びて帰国の仇敵なる斉・楚が入ったなら、わが国を治めようとしてもどうにもできないでしょう」
郤犨「あなたのために邑をお願いしてみよう」
公孫嬰「嬰斉(わたし)は魯の賤臣です。どうして大国の厚禄を求めることができましょう。わたしのお願いをお聞きいただくだけで十分でございます」
晋の士燮がとりなしたため、晋は公孫行父を魯に返した。
公孫嬰が帰国すると鮑国がなぜ辞退したのか尋ねた。公孫嬰は 「苦成叔(郤犨)の家(与えられようとした封邑)は3つの滅亡すべき理由があります。その身さえ無事に保てない人が、どうして人に封邑を与えられますか」と答えた。 鮑国は「わたしはあなたに及びません。きっとあなたの家はいつまでも安泰でしょう」と言った。
B.C.574、11月、公孫嬰は貍シンで没した。
声伯と諡される。
公孫嬰斉(コウソンエイセイ)
公孫嬰
公孫閲(コウソンエツ)【文官】
田斉の臣。
B.C.356魏が趙の邯鄲を包囲し、趙が援けを求めた。威王はこのことを大臣にはかった。
騶忌田忌と仲がよくなかった。公孫閲は騶忌に「魏を討つよう進言すべきです。 そうすれば田忌は必ず将軍として出かけましょう。勝てば、あなたの計画があたるわけであり、負ければ田忌は進んで戦死するか、逃げるかです」と進言した。 騶忌は威王に進言し、結局田忌は魏に大勝した。
B.C.347騶忌にまた「人に十金を持たせて市上の易者に占わせて『わたしは田忌の家臣だが、大事をなそうと思うが、どうだろうか』と言わせましょう」と進言した。 騶忌はそのはかりごとに従い、易者を捕らえて取り調べさせた。
田忌は臨淄を攻めて騶忌を捕らえようとしたが、勝たず出奔した。
公孫衍(コウソンエン)
犀首
公孫閼(コウソンエン)【文官】
鄭の臣。字は子都。
B.C.712鄭は斉、魯とともに許を討つこととなった。
5月24日、出征する軍に武器を祖廟で与えたとき、公孫閼は潁考叔と兵車の取り合いをして、潁考叔が車の轅をかかえて逃げ去った。 公孫閼は戟を抜いてこれを追ったが逃げられたため、公孫閼はこのことを恨みに思った。
7月1日、斉と魯と鄭は会同して許を討伐し、許の城壁に迫った。潁考叔が城壁に一番乗りしようとしたところ、公孫閼はこれを下から射たので、 潁考叔は落下して死んだ。
公孫閼は美男子として有名で、鄭昭公のときには、その名が美男子の通称になるほどであったという。
公孫援(コウソンエン)【文官】
宋の臣。~B.C.522。
B.C.522、6月9日、華氏と向氏が反乱をおこし、公孫援は華亥に殺された。
公孫鞅(コウソンオウ)
商鞅
公孫賈(コウソンカ)【文官】
秦の臣。太子(のちの恵文君)の師。
B.C.351太子が幼少のころ法を犯したため、かわりにいれずみの刑を受ける。
公孫夏(コウソンカ)
子西
公孫獲(コウソンカク)【文官】
鄭の臣。
B.C.712鄭は斉・魯とともに許を討ち、許荘公は衛に出奔した。
斉は鄭にこれを譲ったが、鄭荘公はこれを自分の領土とせず、許荘公の弟許叔に任じて治めさせ、 公孫獲に命じて許の西部におらせて警戒させ、「お前の家財や財宝は許に置いてはならぬ。わたしが死んだらすぐにこの地を去るがよい。 周室は衰微して姫姓の諸侯は衰えており、許はの四岳の子孫であるから、いつ盛んになるとも測り難い。 許と争ってはならない」と言った。
公孫滑(コウソンカツ)【公子】
鄭の公子。の子。
B.C.722、5月、段が鄭に叛乱を起したが、討伐されて国外に亡命した。
10月、公孫滑は衛に出奔して救いを求め、衛は鄭を討って廩延の地を取った。
公孫敢(コウソンカン)【武官】
衛の大夫。
B.C.479蒯聵が孔悝の邸で乱を起こしたとき、仲由が邸に入ろうとしたが、 公孫敢は閉じた門の内から「入ろうとなさるな」と言い、仲由を入れなかった。
公孫閈(コウソンカン)【公子】
田斉の公子。
B.C.356成侯騶忌と将軍田忌は互いに仲がよくなかった。公孫閈は騶忌に説いて 「公はどうして魏を討つことを進言されないのですか。勝てばあなたの策の結果となり、敗れたら田忌に罪をなすりつけ誅殺できます」と言った。
騶忌は「なるほど」と思い、威王に説いて田忌に魏を討たせた。田忌は魏を破った。
B.C.347公孫閈は黄金十金を使いに渡し、市中の占者に占わせて「私は田忌の家の者だが、主人は『大事を決行したいと思うが、吉凶を占ってほしい』と言っている」 と言わさせた。そのため田忌は陥れられ、出奔した。
B.C.321斉が田嬰を薛に封じようとすると、楚懐王が大いに怒って斉を討とうとした。 そのため斉はこれをとりやめようとした。そこで公孫閈は田嬰のために懐王に説いて「斉が土地を割いて田嬰を封じれば、 それだけ斉の国力が弱まることになります」と言ったので、懐王は止めることをやめた。
公孫忌(コウソンキ)【将軍】
宋の将軍。大司馬。
B.C.522夏、華氏・向氏の騒動が起き、元公の一味である公孫忌・公子楽舎司馬彊向宜向鄭・ 楚の太子・小邾の公子は鄭に出奔した。
B.C.520華氏の一族が楚に亡命したため、公孫忌は大司馬に任命された。
公孫喜(コウソンキ)【武官】
魏の臣。
B.C.299斉と韓と共に楚を討ち、方城でこれを破り、唐眜を殺す。
B.C.293周と魏の兵を率いて秦を討つが、白起に破られて伊闕で24万の兵を失い、公孫喜は捕らえられ、5城を抜かれる。
B.C.247魏が諸侯とともに秦を破った。 秦荘襄王は怒って人質の増(のちの景湣王)を捕らえようとした。
しかしある人が増のために荘襄王に説き「魏将公孫喜は以前から魏の宰相に『どうかすみやかに秦をお撃ちなさい。秦王は怒ってかならず増を捕らえるでしょう。 そうすれば魏王もまた怒って秦を討ち、かならず勝ちましょう』と言っています。いま増を捕らえるのは、喜のはかりごとにかかることになります。
逆に増をよく待遇して魏と和合し、斉・韓に魏を疑わせるのが一番です」と言った。
そこで荘襄王は増を捕らえることを止めた。
公孫頎(コウソンキ)【在野】
縦横家。
B.C.371魏武侯が没し、太子罃と公子中緩がその位を争った。公孫頎は宋から趙、 趙から斉に入り、斉威王に進言した。
「魏罃が公中緩と太子の位を争ったことは、お聞き及びでしょうか。これに乗じて彼らを除けば、魏を破ること必定です。この機会を失ってはなりません」
威王は喜んで、趙とともに魏を討ち、濁沢でこれを破る。
公孫帰生(コウソンキセイ)【文官】
蔡の臣。字は子家。声子ともいう。子朝の子。
B.C.547楚の伍挙は楚康王に疑われたので、晋に亡命しようとした。公孫帰生は晋楚の和平交渉のため両国の間を奔走していたが、 途中で伍挙に会った。伍挙は「もしも楚に骨を埋めることが出来れば本望です」と言った。そこで公孫帰生は 「努力されよ。わたしが帰国できるようにしましょう」と言った。
公孫帰生は楚の令尹屈建に会った。
屈建「楚晋二国はどちらが優秀ですか」
公孫帰生「晋の卿は楚に劣りますが、大夫はまさっています。実はこれは楚が供給したものです」
屈建「晋にも公族と外戚がある。どうして楚から人材を得ようか」
公孫帰生「成王が曲直を正さなかったため王孫ケイは晋に亡命して城濮で晋を援け、 荘王が曲直を正さなかったので析公臣は晋に亡命して、繞角で楚は敗れました。 恭王が曲直を正さなかったので雍子は晋に亡命して鄢陵で楚を破り、 巫臣夏姫をつれて晋と呉を結ばせ、そして今、伍挙を疑い、晋に亡命させようとしています」
屈建「呼べば戻ってくるだろうか」
公孫帰生「どうして帰ったりしましょうか」
屈建「どうしたらよいか」
公孫帰生「盗賊に金をやって殺させればよいでしょう」
屈建「それはいけない。楚の令尹が盗賊に人を殺させるのは義に背きます。彼の財産を倍にしよう」
こうして屈建は伍奢に命じて伍挙を迎えさせ、伍挙は楚に帰国した。
B.C.546、7月4日、公孫帰生は諸侯と会合するため宋に到着し、諸侯と盟いを結んだ。
B.C.541諸侯の大夫が虢に集まり、弭兵の会の盟を温め、平和を誓った。この会で、楚の公子には2人の戈持ちが先導した。 これを見た魯の叔孫豹が言った。
叔孫豹「楚の公子は大変美しくて、大夫とは思えず、君のようですね」鄭の子皮が答えて言った。
子皮「戈持ちの露払いがいますから、私も戸惑いました」すると公孫帰生は言った。
公孫帰生「楚は大国ですし、公子は令尹です。戈持ちがいるのも、いいじゃありませんか」
叔孫豹「ちがいます。今大夫でありながら諸侯の服飾を設けているのは、その君に代わる心があるからです。服飾というものは心が表に現れた文章です。 もし公子が君にならなければ、きっと死ぬでしょう」
はたして公子囲は帰国すると楚王郟敖を弑して、代わって王位についた。
公孫帰父(コウソンキホ)【公子】
魯の公子。名は帰父。字は子家。襄仲の子。東門子家ともいう。
公孫帰父は魯宣公の寵愛を受けた。
B.C.601、6月、公孫帰父は襄仲とともに三桓を滅ぼす計画を立てたが、失敗した。
B.C.599秋、公孫帰父は邾を討って繹を攻め取った。
冬、公孫帰父は斉に赴いて、邾を討ったことを釈明した。
B.C.595冬、公孫帰父は斉頃公と斉の穀で会合した。
公孫帰父は晏弱に面会して魯の楽しいことを話した。晏弱は高固に「子家はきっと滅びるでしょう。 高位に満足して執着している。地位に執着すると、それをむさぼり他人を除こうとするようになります。そうなれば逆に自分も除かれることになるでしょう」と言った。
B.C.594春、公孫帰父は楚荘王と宋で会合した。
B.C.591秋、公孫帰父は魯宣公と相談して三桓を除いて公室の権勢を強めようと考えて、公孫帰父は晋に赴いて晋の力を借りようとした。
10月28日、宣公が没した。すると季孫行父が「嫡子(公子)を殺して庶子(宣公)を立て、 斉の援助を失わせたのは襄仲のしわざである」と中傷した。臧宣叔は怒って「その時に襄仲をおさえられなかったのに、 今になってその子孫を罰することなどできない。どうしても帰父を除こうとするなら、わたしに任せてもらおう」と言って、 東門氏(公孫帰父の家)を追放した。
公孫帰父は帰国して国境まで来ると、副使に報告することを言いつけて、自らは喪に服する姿となり、哭礼を終えてすぐに斉に出奔した。
公孫肸(コウソンキツ)【文官】
鄭の臣。
B.C.543、公孫肸は副使として子大叔に従って晋に使いした。
7月26日、良霄が叛乱を起こして戦死したため子大叔は禍が身に降りかかることを恐れて都に入らず公孫肸に報告させた。
8月7日、子大叔の命で公孫肸は再び都に入って大夫たちと盟った。
公孫糾(コウソンキュウ)【公子】
宋の公子。褍秦の子。
景公に殺される。
公孫彊(コウソンキョウ)【武官】
曹の臣。
野人で狩猟を好んでいた。
B.C.496白鷹を曹伯陽に献上して狩猟を説き、おおいに寵愛される。
B.C.487晋に背き、宋を侵すよう進言したため、逆に宋に攻められ、宋は滅び、伯陽とともに殺される。
公孫僑(コウソンキョウ)
子産
公孫顕(コウソンケン)【公子】
秦の公子。
B.C.311秦恵文王が没した。 犀首張儀を困らせてやろうと思っていた。 そこで秦の臣李讎は犀首に「甘茂を魏から招き、公孫顕を韓から招き、 樗里疾を登用するのがよいでしょう。この3人はいずれも張君の仇敵です。公がこの3人を登用すれば、 諸侯は張君の政権がなくなったと思うでしょう」と進言した。
B.C.308甘茂が韓の宜陽を攻めた。秦の臣楊達は甘茂の成功を阻止しようとして公孫顕に説いて 「公は5万の軍を率いて西周を討つべきです。もし戦に勝って九鼎を手に入れれば、甘茂の勢力を抑えることになります。また天下の諸侯は秦を憎み、 韓を救うでしょうから、甘茂は成功しなくなるでしょう」と言った。
公孫固(コウソンコ)【宰相】
宋の大司馬。宋荘公の孫。~B.C.620。
晋の公子重耳が宋に来たとき、公孫固は宋襄公に「晋の公子は長じて善を好み、 狐偃に父として仕え、趙衰に師事し、賈佗に兄として仕えています。 狐偃は恵しみ深くて智謀あり、趙衰は文徳があって忠貞であり、賈佗は博識で恭敬です。これらは本当に礼のある人と言えましょう。
礼のある人に恩徳を施せば、必ず報いがあります。君よ、お考え下さい」と言った。そこで襄公は重耳を礼遇して馬80頭を賜った。
一方、公孫固は狐偃と親しかったので、狐偃に「宋は小国で、最近は困苦しています。宋の力では公子を晋に入れることはできません。 あらためて大国へ行かれますように」と助言した。そこで重耳一行は楚へ赴いた。
B.C.633楚成王に包囲されたので、晋に行って援軍を求める。晋は援軍を出し、楚を退けた。
B.C.631、6月、公孫固は、魯釐公・晋の王子虎・晋の狐偃・ 斉の国帰父・陳の袁濤塗・秦の小子憗と会合して、 翟泉で盟いを結び、践土の盟を温め、鄭を討つ相談をした。
B.C.620、4月、宋成公が没し、公子杵臼が擁立された(昭公)
昭公は穆公・襄公の一族を追い払おうとしたため、 穆公と襄公の一族が国の人々を率いて昭公を攻め、公孫固は公孫鄭とともに公宮の中で殺された。
公孫弘(コウソンコウ)【在野】
縦横家。孟嘗君の食客。
衛の人。
孟嘗君が合従しようとしたとき、公孫弘は孟嘗君を秦昭襄王に貴ばせようとした。
昭襄王は「孟嘗君の領地は百里四方であるのに、わたしをはばもうとしている」と言った。公孫弘は「孟嘗君には、たとえ相手が天子でも仕えず、志を得れば人臣となる者が3人、 管仲商鞅の師となる者が5人、たとえ相手が万乗の君であっても、その使者を辱めたら、 自ら首を切る私のような者は10人はおります」と言った。
昭襄王は苦笑して詫びて「客人はどうしてそんなにいきり立っておられるのか。私は孟嘗君を悪くは思っていない」と言った。
公孫敖(魯)(コウソンゴウ)【文官】
魯の臣。慶父の子。孟穆伯ともいう。~B.C.613。
B.C.645公孫敖は魯釐公の命で、諸侯と協力して徐を救った。
公孫敖は莒から夫人戴己を迎えて穀(孟文子)を生み、 その妹の声己公孫難を生んだ。
B.C.626人相見で有名な周の内史叔服が魯に来た時、公孫敖は自分のふたりの子を面会させた。 叔服は「穀はしもぶくれであるから、子孫が栄える。弟の難はあなた(公孫敖)の葬式を行うであろう」と答えた。
秋、公孫敖は晋に赴き、魯文公即位後の最初の聘問をした。そのとき晋は攻め取った衛の戚の田地の境界を正していたので、 魯として公孫敖がそれに立ち会った。
冬、公孫敖は斉に赴いた。
B.C.625、6月、魯文公が留守であったので、公孫敖は諸侯や晋の司空士縠と鄭の垂隴で会盟し、 晋が衛を討つための相談をした。
B.C.622夏、公孫敖は晋に赴いた。
夫人戴己が没すると、公孫敖は莒にその継室を求めたが、莒の人は声己に気兼ねをして断った。 そこで公孫敖は襄仲の妻にするからと言って莒の女を迎える約束をした。
B.C.620冬、徐が莒を討ったため、莒は魯と同盟を結びたいと願った。公孫敖は莒に出かけ、莒と同盟した。
そこで公孫敖は襄仲の妻を迎えることとした。公孫敖は莒の鄢陵まででむいて、城壁からその女を見ると美人であったため、 その女を口説いて自分の妻にしてしまった。
襄仲は怒って公孫敖を攻めることを魯文公に願い出た。文公は許そうとしたが、叔仲恵伯が文公を諌めたので、 文公は襄仲の願いを禁止した。
叔仲恵伯はふたりの間を和解させ、その女を莒に帰した。
B.C.619秋、周襄王が崩御した。公孫敖は周に出かけて喪を弔うはずであったが、周には行かずに莒に出奔し、 前年莒に還した女の己氏の家に身を寄せた。
公孫敖は莒で二子をもうけたが、魯に帰ることを望んだので、子の孟文子は公室に懇請した。襄仲は家にあって君命を受けるという条件でそれを認めた。 そこで公孫敖は魯に帰ることができた。
その後3年経って、公孫敖は家財を全部持ち出して再び莒に行った。
B.C.613公孫敖は魯の重臣たちにたくさんの賄賂を使って魯に帰らせてもらいたいと願い出た。公孫難が文公に懇請したので、帰国を許された。
9月、帰国しようとする矢先、公孫敖は斉で没した。
公孫敖(斉)(コウソンゴウ)【武官】
斉の臣。~B.C.548。
荘公の八人の勇士のひとり。
B.C.548、5月、斉荘公が崔杼に弑され、公孫敖ら州綽邴師賈挙封具鐸父襄伊僂堙は、 この内乱で討ち死にした。
公孫黒(コウソンコク)【文官】
鄭の臣。子駟の子。子皙ともいう。~B.C.540。
B.C.558、2月、鄭は宋に亡命した叛乱者を引き戻すため公孫黒を人質として差し出した。
B.C.544良霄が公孫黒を使者として楚に使わそうとした。公孫黒は「楚と鄭は今、仲がよくない。わたしを殺そうするようなものだ」 と言った。良霄は「お前の家は代々使者として行っている」と言うと公孫黒は「都合のよいときには行き、危険なときには行かないほうがよろしい。 どうした代々使者を務めたことなどがありましょうか」と言った。良霄が無理に遣わそうとすると、公孫黒は怒って良霄を討とうとしたため、 大夫たちが和解させた。
12月8日、鄭の大夫が良霄の家で盟いを結んだ。
B.C.543再び良霄が公孫黒を楚に使いさせるよう進言した。
7月13日、公孫黒は氏の兵を率いて良霄を攻めて焼き討ちをかけたため良霄は許に亡命した。
7月16日、鄭簡公は大夫たちと祖廟で盟いを結び、公孫黒は子皮公孫段と相談した。
7月26日、良霄がひそかに都に戻って叛乱を起こしたが、鎮圧されて殺された。
B.C.541徐吾犯の妹が美人であったため子南が娶る約束をした。 しかし公孫黒もこれをもとめたため、徐吾犯は妹に選ばせることにした。妹は「子皙(公孫黒)は美しい方です。しかし子南は男らしい方です。男は夫らしく、 女は女らしいのが世に言う順道というものです」と言って子南を選んだ。公孫黒は立腹して、衣服の下によろいを着こんで子南を殺してその女を奪い取ろうとした。 子南はこれに気付いて戈を手にして公孫黒を追って切りつけ、 公孫黒は負傷して帰った。公孫黒は大夫たちに「わたしは好意を持って面会したので、 彼に敵意があるとは気付かなかった。だから負傷したのです」と言った。子産は 「どちらの言い分も正しい場合には年下で身分の低い方に罪があるとするものです」と言って子南に亡命をすすめ、子南は呉に追放された。
6月11日、子南の騒動のため、鄭簡公は大夫とともに公孫段の家で盟いを結んで和合を図り、子産・子皮・公孫段・印段子大叔駟帯は盟いを結んだが、公孫黒は無理に押しかけてこの盟いに参加した。 子産は騒ぎを恐れてこれを処罰しなかった。
B.C.540秋、公孫黒は游氏を除いてその卿の地位に代わろうと謀叛を起こそうとした。しかし前年に子南に撃たれた傷が痛んで実行することができなかった。 駟氏が公孫黒を殺そうとしたため、子産は「伯有の乱、兄弟で妻を争い合い、薫隧の盟いの3つの罪があり、どうして許しておくことができよう。 速やかに自決せよ」と言った。公孫黒は使者に再拝稽首して「この傷の痛みでは死がせまってきております。さらにわたしを苦しめないでほしい」と言ったが、 許されなかった。
7月2日、公孫黒は首をくくって自決した。その屍は周氏の邸宅のある通りにさらされ、その罪状を記した木札がそばに立てられた。
公孫穀(コウソンコク)
孟文子
公孫黒肱(コウソンコクコウ)
子張
公孫座(コウソンザ)【武官】
魏の臣。
B.C.365秦と泗・少梁で戦い、捕えられる。
公孫支(コウソンシ)【文官】
秦の臣。名は支(枝)、字は子桑。
繆公が7日間昏睡した。そのとき目覚めて「わしは天帝の所に行って、とても楽しかった。わしが長らく還らなかったのは、 たまたま天帝に学んでいたのである。天帝によると晋はそのうち大いに乱れようとしている。今後五世の間は安らかではないが、その後は覇者となるだろう。 しかし年寄らぬうちに晋でその子が立ち、父に代わって諸侯に号令にするが、その国は淫らになり、男女の区別がなくなろう」と言った。
公孫支はこれを記録した。
B.C.651晋献公が没すると、 晋の公子夷吾(恵公)の一党は梁由靡を秦にやって晋に入る許しを請うた。 そこで秦繆公は子明と公孫支を呼んで「晋の国乱について、わしは誰を使節としたらよかろうか」と相談した。
B.C.647晋に旱魃があり、秦に粟を請うた。邳豹が「晋君は民を失った上に、また天意をも失いました。 君は穀物の輸入を許してはなりません」と言った。そこで繆公は公孫支に「晋に食糧を与えようか」と尋ねた。公孫支は「飢饉と豊作はおたがいにあることです。 食糧を与えて民を喜ばせる方がよいでしょう。民が喜べば必ず晋君を咎めます。晋君がその咎めを聞かなければ、その時征伐すれば、誰が晋君に味方しましょうか」と言った。
そこで繆公は舟を黄河に浮かべて晋に穀物を輸出した。
B.C.645ついに秦は晋を討つこととなった。公孫支は進み出て「昔、君は公子重耳を帰国させずに、徳のない晋君を帰国させました。立てても成就せず、今戦って勝てなければ、 諸侯の物笑いとなります。 時期を待たれるべきです」と諌めた。繆公は「確かにそうだ。しかしわしは恩恵を何度も施している。もし天があるとするなら、 必ず勝つにちがいない」と言い、ついに決戦することとした。
秦は韓原の戦いで晋を破り、晋恵公を捕らえた。繆公は王城まで帰還すると、大夫を集めて相談した。
繆公「晋君を殺すか、放逐するか、つれて帰るか、晋へ送り返すか、どれがよいか」
公子「殺すのがよいでしょう。放逐すれば諸侯と策謀する恐れがあり、つれて帰れば国内に悪事が多くなりましょう。 晋に返せば、君の憂患となりましょう」
公孫支「いけません。大国の晋の軍を辱しめた上、その君を殺せば、臣は報復しようとするにちがいありません」
公子縶「むやみに殺すのではありません。公子重耳を置き換えようとするのです。戦争で勝つのは武であり、無道を殺して有道を立てるのは仁であり、 勝利の後に損害がないのは知です」
公孫支「戦争して諸侯の笑い者になるのは武とはいえず、弟を殺して兄を立てるのは仁とはいえず、再び恩恵を施しながら完成しないのは知とはいえません。 つれて帰って晋と和平を結ぶのがよろしいでしょう。そしてその嫡子を人質にすれば、わが国に損害はないでしょう」
繆公は晋君を許して国へ帰すこととして上舎(上等の宿舎)に泊め、七牢のご馳走をした。
11月、晋恵公を帰し、その子を人質とし、秦はここに初めて河東の政治を管理するようになった。
公孫師(コウソンシ)【宰相】
宋の宰相。司城。荘公の孫。
B.C.609、12月、公子が叛乱を起こして誅殺されたため、公孫師は司城に任じられた。
B.C.576、6月、宋共公が没すると、 司馬蕩沢が宋の公室を弱体と見て公子を殺した。 右師華元はいったん出奔したが、魚石が引きとめたので宋に帰り、 公孫師と華喜に命じて国人を率いて蕩氏一族を攻めて蕩沢を殺した。
公孫玆(コウソンジ)
叔孫戴伯
公孫舎之(コウソンシャシ)
子展
公孫戌(コウソンジュ)【在野】
孟嘗君の門弟。
楚王が孟嘗君に象牙の椅子を贈ることとなり、楚の臣登徒がその役目に任じられた。
登徒は高価な椅子にもしものことがあったらと不安に思い、公孫戌に「もしわたくしが参らずに済めば、あなたに亡き父の宝剣を献上しましょう」と言った。
公孫戌は承知して、孟嘗君に象牙の椅子を受け取ることは、孟嘗君の義行を喜び、孟嘗君の清廉を慕っている者にとってよくないことであると説いた。 そのため登徒の思惑通り、この話はとりやめとなった。
公孫戌はその結果を聞いて、小走りに駆け去ろうとしたので、孟嘗君は尋ねた。
孟嘗君「どうしてそんなに意気揚々としているのか」
公孫戌「臣にうれしいことが3つありまして、それに宝剣のおまけがついているからです」
孟嘗君「どういうことか」
公孫戌「君の門下には何百人もおられるのに、わたしひとりがお諌めしたこと、これが第一の喜びです。お諌めして聞き届け頂いたことが、第二の喜びです。 お諌めして君の過ちをお止めしたことが、第三の喜びです。おまけにこれを依頼した登徒から、亡父の宝剣をもらうことになっているのです」
孟嘗君「わかった。もう受け取ったのか」
公孫戌「まだです」
孟嘗君「急いで受け取るがよい」
こうして公孫戌は宝剣を手に入れることができた。
公孫寿(コウソンジュ)【文官】
宋の臣。公子の子。
父の公子蕩が没すると、公孫寿は父の職を継ぐのが嫌だといって、司城を辞退し、子の蕩意諸を司城にしてもらった。
公孫寿は「君が無道で、自分が君の側近についておれば、禍がふりかかるおそれがある。かといって官を捨てると一族を養ってゆけない。 子というものは親の身代りだ。しばらくわが命を延べることにしよう。わたしが残っておれば一族を滅ぼさないことになる」と言った。
B.C.611冬、はたして蕩意諸は宋昭公を守ろうとして戦死した。
B.C.583夏、公孫寿は魯を聘問し、宋共公共姫の結納の品を納めた。
公孫鉏(鄭)(コウソンショ)【武官】
鄭の臣。馬師。
B.C.543公孫鉏は馬師に任じられた。
公孫鉏(邾)(コウソンショ)【文官】
邾の臣。
B.C.519邾は翼に城壁を築いたが、その帰りは魯の武城を通って邾の離姑から都に帰ろうとした。公孫鉏は「魯はわれわれを防いで通さないであろう」 と言って諌めたが、徐鉏丘弱茅地は 「(公孫鉏の勧める)道は低い。もし雨があったら動けなくなるであろう」といって武城を通ったが、 はたして武城の人に邾軍は捕えられ、徐鉏・丘弱・茅地も捕らえられた。
公孫接(コウソンショウ)【武官】
斉の臣。
景公にその勇力をもって仕える。
晏嬰は公孫接・田開彊古冶子を退けようとして 「三人それぞれ自分のてがらを計った上で、二個の桃を食べよ」と言った。
公孫接は田開彊と古冶子と功を争い、古冶子に及ばないとして「わしの勇はあなたに勝らず、功はあなたに及ばない。桃を取って譲らないのは貪ることになる。 ここで死なないのは勇がないことになる」と言い、ふたりは桃を返して、首を切って死んだ。
公孫消(コウソンショウ)【文官】
秦の臣。姓は公孫、名は消。
説客の献則は公孫消に「公は功労を立てておられるのに丞相となられないのは、 宣太后の好意を得られていないためです。羋戎は宣太后と親しい人ですが、 今、楚から逃げ出して東周におられます。公は羋戎を周の宰相にさせるべきです。楚はきっとそれを好都合と考えられますし、 宣太后もきっとお喜びになりましょう。そうすれば公も宰相に抜擢されることは間違いありません」と進言した。
公孫捷(コウソンショウ)
子車
公孫鐘離(コウソンショウリ)【文官】
宋の臣。襄公の孫。~B.C.619。
B.C.619王姫が戴氏の一族をたより、公孫鐘離は彼らに殺された。
公孫杵臼(コウソンショキュウ)【在野】
趙朔の食客。~B.C.598。
B.C.598司寇屠岸賈が趙朔とその一族を誅した。
公孫杵臼は趙朔の友人の程嬰に「どうして朔といっしょに死なないのか」と言った。程嬰は「朔の妻は朔の子を宿しておる。 もし幸いに男なら、わしはその子を守り立てたいと思う。もしも女なら、そのうえで死ぬだけのことだ」と言った。
その後、その妻は男子を生んだ。
屠岸賈はこれを聞くと朔の遺児を捜索した。夫人は子を袴の中に隠し「趙の宗家が滅んでもよいなら、お泣きなさい。もし滅んでならないなら、 声を出さないように」と祈った。
遺児は声を出さなかったので危機を脱した。
程嬰が公孫杵臼に「後日また探しに来るだろう。どうしたらよいだろう」と言った。公孫杵臼は「孤児を守り抜くことと、死ぬことは、どちらが難しいだろう」 と言った。程嬰は「死ぬほうがたやすく、守り抜くのが難しいにきまっている」と言った。
公孫杵臼は「趙子の先君はあなたを手厚く待遇されましたから、あなたはなるべく難しいほうを引き受けてください。わたしはたやすいほうを引き受けます」 と言って二人相談の末、公孫杵臼が他人の嬰児を手に入れて、りっぱなねんねを着せて、山中に隠れた。
程嬰は将軍たちに「誰かわたしに千金くれるなら、わたしは趙氏の孤児のありかを申しましょう」と言った。将軍たちはそれを承知して、兵を出して公孫杵臼を攻めた。
公孫杵臼もいつわって「何という小人だろう、程嬰という男は。かつて下官の禍のときに死ぬことが出来ず、わしと相談して趙氏の孤児を隠したのに、またわしを売った。 たとい遺児を立てることができなかったにしても、売るとはなにごとだ」と言った。
将軍たちは公孫杵臼と孤児を二人とも殺した。
のち程嬰は遺児を隠れ育てて、趙氏は復興する。
公孫申(コウソンシン)【武官】
鄭の臣。~B.C.581。
B.C.587、11月、公孫申は許の田地を鄭の領地として、その境界を改め直すため出兵したが、許軍に許の展陂で敗れた。
B.C.582秋、鄭成公が晋に捕えられた。
11月、公孫申は「軍を出して許をかこんで晋を恐れない態度を示し、新しく君を立てるそぶりを示せば、晋はきっと君を返すであろう」と言い、 許を討って包囲した。
B.C.581、3月、子如が公孫申の策謀を真に受けて公子を擁立した。
5月12日、鄭成公は鄭に帰国した。
6月9日、鄭成公は自分の代わりに君を立てた者を討ち、公孫申は弟の叔禽とともに殺された。
公孫臣(コウソンシン)【武官】
衛の臣。~B.C.546。
B.C.546公孫臣は公孫無地とともに?喜を攻めたが、勝てずに戦死した。
公孫遂(コウソンスイ)
襄仲
公孫青(コウソンセイ)【文官】
斉の臣。子石ともいう。
B.C.522秋、公孫青は斉景公の命で衛に遣いした。
公孫姓(コウソンセイ)【武官】
蔡の臣。
B.C.506、4月25日、公孫姓は軍を率いて沈を討ち、これを滅ぼした。
公孫皙(コウソンセキ)【文官】
斉の臣。
B.C.535、1月19日、斉景公は燕を討つと燕は和睦を求めた。公孫皙は「燕の降服を許して、 そのすきに再び軍を出すのがよろしいでしょう」と進言した。そこで斉景公は燕と和睦した。
公孫奭(コウソンセキ)【公子】
韓の公子。
秦に仕えて、樗里疾甘茂向寿らと秦王の寵を争った。
B.C.308甘茂が宜陽を討ったが、5ヶ月たっても攻略できなかった。公孫奭は樗里疾とともにこれを非難して、失脚させようとした。
公孫洩(コウソンセツ)【文官】
鄭の臣。子孔の子。
B.C.535、2月、子産は公孫洩を子孔の後継ぎに立てた。
公孫傁(コウソンソウ)【文官】
斉の臣。
B.C.530夏、晋昭公と斉景公が酒盛りをしたとき両君は投壺の遊びをしたが、 晋の中行呉は「わが君の矢が命中したら諸侯の旗頭となるだろう」と祈ると、晋昭公の矢は命中した。 士文伯が「あなたの口上は間違っている。すでに晋は盟主です。投壺でそれを決めたりしましょうか。 斉君はわが君をあなどっていますから、もう来なくなるでしょう」と言ったが、中行呉は「わが国は武勇に優れています。斉はわが国に仕えずにどこに仕えるのか」と答えた。 それを聞いた公孫傁は小走りに進み出て「日もすでにくれましたし、わが君も疲れました。これで退出いたします」と言って斉景公を連れて退出した。
公孫竈(コウソンソウ)
欒子雅
公孫蠆(鄭)(コウソンタイ)
子蟜
公孫蠆(斉)(コウソンタイ)
高子尾
公孫段(コウソンダン)【公子】
鄭の臣。伯石ともいう。子豊の子。~B.C.535。
B.C.546冬、鄭簡公が会合から帰国する晋の趙武を垂隴でもてなした。 公孫段は桑扈の詩を歌って、酒宴に威儀正しい趙武の態度をたたえる意を寓すると、趙武は「もしその言葉を守られるならば、 福禄を辞退しようとして必ずやって来ます」と言った。
B.C.544、6月、晋は杞に城壁を築いた。公孫段は子大叔とともにこれに出かけた。
B.C.543子産は公孫段にやってもらわなければならないことがおこったので、采邑を与えてやらせた。 子大叔が「どうして伯石(公孫段)だけに邑を与えるのですか」と諌めたが、子産は「だれもが欲を求めて国の仕事を行う。邑を与えたところで、 それは国の邑ではありませんか」と言った。公孫段は心配して邑を返上したが、結局は与えられた。
公孫段は良霄に代わって卿に任じられたが、公孫段は辞退した。それならといって大史が引き下がると任命してほしいと言い出した。 そこで再び任命されると、また辞退した。これを三度繰り返して、公孫段はようやく辞令を受けた。子産はその人がらを嫌ったが、事を起こされることを心配して、 自分の次の地位を与えて優遇した。
B.C.541公孫段の娘は楚の公子に嫁いだ。
6月、子南の騒動のため子産は鄭簡公と大夫とともに公孫段の家で盟いを結んで和合を図り、子産・子皮・公孫段・ 印段子大叔駟帯は盟いを結んだ。
B.C.539、4月、公孫段は鄭簡公の介添として晋を聘問した。このとき公孫段はたいへん慎み深く謙虚な態度で礼儀作法もかなっていたため、 晋平公は喜んで彼に州の田地を与えた。
B.C.535、1月28日、公孫段は没した。
公孫丑(コウソンチュウ)【在野】
孟子の弟子。
孟子と問答をする。彼と孟子との問答は『孟子公孫丑章句』に詳しい。
公孫朝(コウソンチョウ)【文官】
魯の臣。孟孫氏の家臣。成の大夫。
B.C.516斉が魯昭公を魯に入れようとして進軍してきた。公孫朝は季平子に 「地方に都城があるのは国を衛るためです。わたしも成の軍を率いて斉軍にあたりたいと思います」と願い出て許された。公孫朝は季平子に疑われはしまいかと考えて、 人質を入れようと申し出ると、季平子は許さないで「お前を信用すれば、それで十分です」と言った。
公孫朝は偽って斉軍に申し入れて「わたしの主人は魯のおちぶれた家柄です。それに季氏が成をこきつかうのがひどいため、貴国に降参して肩の重荷を休めたいと思います」 と言ったため、斉軍はこれを信用して成を包囲した。成の人は溜水で水を飲ませようとしている斉軍を討ち「公さんを望まない人々を満足させようとしたのです」 と言い訳をした。そして備えを十分にした後で斉軍に告げて「やはり人々を満足させられませんでした」と言い、斉と魯は戦うことになった。
公孫輙(コウソンチョウ)
子耳
公孫鄭(コウソンテイ)【文官】
宋の臣。~B.C.620。
B.C.620、4月、宋成公が没した。公子が乱を起こし、太子を殺して自ら立ったが、 宋人に殺されたので、杵臼が擁立された。
昭公(杵臼)は穆公襄公の一族を追い払おうとした。 そのため穆公と襄公の一族が国の人々を率いて昭公を攻め、公孫鄭は公宮の中で殺された。
公孫丁(コウソンテイ)(衛)【武官】
衛の臣。
公孫丁は子濯に弓を教えた。
B.C.559衛献公孫文子の乱に会い、斉に亡命した。 公孫丁は衛献公の御者を務めたが、尹公他が追撃してきたので、公孫丁はこれを射て臂を負傷させた。
公孫丁(コウソンテイ)(宋)【文官】
宋の臣。~B.C.522。
B.C.522、6月9日、華氏と向氏が反乱をおこし、公孫丁は華亥に殺された。
公孫難(コウソンナン)【文官】
魯の臣。名は難。公孫敖の子。母は声己。孟恵叔ともいう。
B.C.626人相見で有名な周の内史叔服が魯に来た時、公孫敖は自分のふたりの子を面会させた。 叔服は「穀(孟文子)はしもぶくれであるから、子孫が栄える。弟の難はあなた(公孫敖)の葬式を行うであろう」と答えた。
兄の孟文子は病気にかかると、君にお願いして「わたしの子(孟献子)はまだ幼少なので、どうか弟の難に継がせてください」と言ったので、 魯文公はこれを許した。
公孫寧(コウソンネイ)【武官】
陳の臣。
B.C.610公孫寧は晋の荀林父、衛の孔達、 鄭の石楚とともに宋を討ち、 宋昭公を弑したことを責めたが、 結局宋文公の即位を認めた。
B.C.589、11月、公孫寧は衛の孫良夫・魯成公・楚の公子子重・ 蔡景侯・許霊公・宋の華元・ 秦の右大夫・鄭の公子子良・斉の大夫らと蜀で和睦の盟いを結んだ。 諸侯は一方で晋を恐れていながら、こっそりと楚と盟っていた。
公孫剽(コウソンヒョウ)
殤公
公孫翩(コウソンヘン)【武官】
蔡の臣。
B.C.491蔡昭侯が呉に赴こうとした。
昭侯はさきに臣下を欺いて呉の州来に国を移していたので、大夫たちは再び国をうつされることを恐れた。そこで公孫翩は昭侯を射殺した。
公孫昧(コウソンマイ)【在野】
縦横家。
B.C.298楚が韓の雍氏を包囲し、韓は秦に救援を求めたが、秦は出兵せず、公孫昧を韓に遣わせた。
公仲は公孫昧に「あなたは秦か韓を救うものとお考えになりますか」と言った。
昧は「まず救いを出さないでしょう」と言った。
公仲は「あなたもやはりそうなるとお考えになりますか」と問うと、
昧は「秦はおもては韓に与すると言いつつ、じつは楚と親しくしています。もしあなたが楚に勝てば、秦は韓の三川に威力を振るうでしょう。 もし楚に勝たなければ、楚は三川を塞いでこれを守り、あなたは挽回できないでしょう」と言った。
公仲は「どうしたらよかろうか」と問うと、
昧は「張儀の計におちいらず、はやく斉・楚と連合することです」と言った。
公仲はこのはかりごとに従い、韓は楚と結び、楚は雍氏の包囲を解いた。
公孫無知(斉)(コウソンムチ)【公子】
斉の公子。夷仲年の子。~B.C.685。
釐公に愛され、その俸禄・服飾その他の待遇は太子と対等であった。
B.C.697襄公は即位すると、その俸禄・服飾を引き下げたため、公孫無知はこれを恨んだ。
B.C.686連称・管至父と共に宮中に侵入し、襄公を見つけ出して弑す。自立して斉の国君となる。
B.C.685春、雍林に遊んだときに、かつて公孫無知を恨んでいた雍廩に殺される。
公孫無知(衛)(コウソンムチ)【武官】
衛の臣。~B.C.546。
B.C.546公孫無知は公孫臣とともに?喜を攻めたが、勝てずに戦死した。
公孫明(コウソンメイ)【武官】
斉の臣。
B.C.575魯の叔孫豹が斉に来た時に、公孫明はこれと知り合いになった。しかし叔孫豹が帰国して斉でめとった妻を迎えないうちに、 公孫明はその人を妻に迎えてしまったため、叔孫豹に恨まれた。
公孫免余(コウソンメンヨ)【武官】
衛の臣。
B.C.546甯喜が専権したため、衛献公は心配した。公孫免余は甯喜を殺すことを進言したが、 衛献公は「甯子がいなければ今日はなかった。彼を殺せば悪評が立つ。よしなさい」と言った。公孫免余は「わたしがやりましょう。君にはご存知ないということに」 と言って、公孫無地公孫臣と相談して甯氏を攻めたが、勝てずにふたりは戦死した。
夏、公孫免余は再び甯氏を攻め、甯喜と右宰を殺して役所にさらした。衛献公は公孫免余に60邑を与えたが、 公孫免余は辞退して30邑だけを取った。そこで献公はこれを卿に任命しようとしたが、公孫免余は大叔儀を推薦した。
公孫雄(コウソンユウ)【文官】
呉の臣。
B.C.484呉王夫差が越に破れ、姑蘇の山で包囲された。公孫雄は使者として肌を脱ぎ、膝行して越王勾践の前に進み和睦を請うて 「夫差はあえて心のうちを披瀝して申し上げます。わたくしはかつて会稽山で君王に罪を得たことがございましたが、そのときはともに和睦して、君王は帰国することが できました。いま君王は臣を誅しようとされますが、ただ会稽のときのように臣の罪をお赦しいただけるものでしょうか」と言った。
勾践は許そうとしたが、范蠡の反対にあい、結局、夫差は自殺した。
公孫友(コウソンユウ)【宰相】
宋の公子。左師。目夷の子。
公孫余仮(コウソンヨカ)【武官】
衛の臣。
霊公孔子を用いようとしたが、ある人が讒言したので、公孫余仮に命じて武器をもたせ、 孔子の出入りごとにこれを脅かした。孔子は罪に陥れられることを恐れ、衛を去った。
公孫竜(コウソンリュウ)【文官】
戦国時代の思想家。名家。
堅白同異の弁(堅白石は見れば白石だが、堅石とはわからず、堅石とはわからず、さわれば堅石だが白石とはわからない。 つまり堅と白とは合わせてひとつにならない)を立てた。
また公孫竜は趙恵文王に兼愛を説いた。
B.C.258虞卿が、 信陵君が邯鄲を救ったことを平原君の功に返し、 平原君のために領地の加封を孝成王に請おうとした。
公孫竜はこれを聞いて「それは、はなはだいけません。さきには親戚として城(封地)を受け、いままた国人として功をはかり、加封を受けようとするものです。 とにかく虞卿のやり方は両天秤を計るもので、成就すれば証文の右片を持ち、報酬を責め、成就しなければ斡旋の虚名で君に恩を売ろうとするものです。 聞き入れてはなりません」と諌めた。
そのため平原君はこれを取りやめた。
公孫竜は平原君に手厚く待遇され「白馬非馬説」について討論したり、遊説家として燕・魏に赴いたりした。
晩年、騶衍が訪れて至極の道を説くと、公孫竜は退けられた。
あるとき孔穿が面会に来て、公孫竜に「あなたを師と仰ぎたいのですが、 白馬非馬論は気に入りません」と言われた。
公孫竜は『公孫竜子』を著したとされる。
公孫竜(コウソンリュウ)【在野】
孔子の弟子。字は子石。B.C.498~。
孔達(コウダツ)【武官】
衛の臣。~B.C.595。
B.C.626、5月、晋に攻められて戚を包囲されたので、衛成公は陳に救いを求めた。 陳共公は「もう一度晋に攻め入りなさい。そうすればわたしが和解の口をきいてあげましょう」と言った。 そこで成公は孔達に命じて晋を討った。
B.C.625陳共公は、晋を攻めた孔達を捕えて、晋に衛と和睦するよう願い出た。
B.C.623春、孔達が良臣であったため、晋襄公は孔達を許して衛に帰らせた。
B.C.610孔達は晋の荀林父、陳の公孫寧、鄭の石楚とともに宋を討ち、 宋昭公を弑したことを責めたが、結局宋文公の即位を認めた。
B.C.597冬、孔達は晋の先縠と宋の華椒、 曹の大夫と衛の清丘で同盟した。宋はこの盟いを守って楚に二心を持った陳を討ったが、衛は陳との盟約を理由にして、陳を助けた。 孔達は「もし晋が罪を責めてきたら、わたしは死んで申し開きをしましょう」と言った。
B.C.596冬、晋景公が衛が清丘の盟いに背いたことを責め正し、晋の使者は「罪の所在が不明なら、汝の国に軍を差し向けよう」 と脅してきた。孔達は「わが国のためになるなら、どうかわたしを殺して言い訳をしてくれ。罪はわたしにある」と言った。
B.C.595春、孔達は首をくくって死んだ。
衛はこれを晋に報告したので、晋は衛を討たなかった。衛は諸侯に告げて「孔達がわが国と晋とを不和にさせましたが、もはやその罪に服しましたので、 ご報告いたします」と言った。しかし衛穆公は孔達が以前、成公を助けて帰国させた功を忘れず、 家財を没収せずにその子に還し、父の禄位を継がせた。
句亶王(コウタンオウ)【公子】
楚の公子。名は康。熊渠の長男。
熊渠の命により王号を称す。
厲王のときになり、厲王が暴虐であったので、おそれて王の称号を取りやめて、熊母康と改称する。
熊渠よりも先に没す。
公中(コウチュウ)
奄父
公仲(コウチュウ)【宰相】
韓の宰相。相国。名は侈。
B.C.318公仲は韓宣恵王に「与国はたのみとすべきものではありません。 王には張儀を頼りに秦と和睦し、賄賂として名都一邑を献じ、秦とともに楚を討つべきです。 これは一(ひとつの名都)をもって二(秦に攻められないこと・楚から償いを取ること)に変えるはかりごとです」と進言した。
宣恵王はこの進言に従って、公仲を秦に遣わせて秦と和を講じようとした。
それを恐れた楚が兵をおこして「韓を助ける」と宣言し、使者をつかわしてきて「不穀の国は小国ながら、すでに全兵力を出しました。貴国は、 どうか思う存分に秦と戦って欲しい。わたしは今や国を賭して韓に殉じようと思います」と言ってきた。宣恵王はこれを喜び、公仲を秦にやらず、秦と国交を断ろうとした。
公仲は「それはいけません。実力でわが国を討とうとするのは秦で、虚名でわが国を救おうとするのは楚であります。秦は強国ですし、楚とは兄弟の国でもなく、 約束して秦を討とうとはかってもいません。これは陳軫のはかりごとに相違ありません。
ともあれ、王はすでに人をやって秦に通報されたのです。いま行かなければ秦を欺くことになります。軽々しく強秦を欺いて、楚の謀臣を信ずるなら、 おそらく王は後悔なさいましょう」と言った。
はたして秦は大いに怒り、兵を増して韓を討ち、大いに戦ったが、楚の援軍は来なかった。
B.C.307楚が韓を討ち、雍氏を包囲した。韓は公仲を遣わして甘茂に取り入って秦の援助を求めた。甘茂は韓のため、 昭襄王に「もし韓は秦が味方しないと知れば、国を挙げて楚と同盟しましょう。こうなれば魏も順応しないわけにはいきますまい。 秦として坐して三国に討たれることを待つよりは、進んで人を討ったほうが有利です」と言った。
昭襄王は「なるほど」と言い、殽の塞から兵を出して韓を救った。
(『戦国策』では、秦が宜陽を攻め、楚が韓を救ったことになっている。そこで公仲は楚に財宝を贈った。)
B.C.306秦将向寿が韓を討とうとした。公仲は蘇代をつかわして向寿を説得させ、 攻撃を取りやめさせた。
B.C.298楚が韓の雍氏を包囲し、韓は秦に救援を求めたが、秦は出兵せず、公孫昧を韓に遣わせた。
公仲は公孫昧に「あなたは秦か韓を救うものとお考えになりますか」と言った。
昧は「まず救いを出さないでしょう」と言った。
公仲は「あなたもやはりそうなるとお考えになりますか」と問うと、
昧は「秦はおもては韓に与すると言いつつ、じつは楚と親しくしています。もしあなたが楚に勝てば、秦は韓の三川に威力を振るうでしょう。もし楚に勝たなければ、 楚は三川を塞いでこれを守り、あなたは挽回できないでしょう」と言った。
公仲は「どうしたらよかろうか」と問うと、
昧は「張儀の計におちいらず、はやく斉・楚と連合することです」と言った。
公仲はこのはかりごとに従い、韓は楚と結び、楚は雍氏の包囲を解いた。
孔忠(コウチュウ)【在野】
孔子の弟子。
耕柱子(コウチュウシ)【文官】
楚の臣。墨子の門人。
耕柱子は墨子の推薦で楚に仕官した。耕柱子は「十金をお贈りします。先生、ご自由にお使いください」と言って、墨子に金を贈り届けた。
公仲連(コウチュウレン)【宰相】
趙の相国。
烈侯が音楽を好み、公仲連に「わしの好きな楽人がおるが、身分を高くしてやるのはどうか」と言った。
公仲連は「その者を裕福にしてやるのはよろしいが、身分を高くするのはよろしくありません」と言った。
そこで、烈侯は田一万畝をやるように命令したが、公仲連は引き伸ばして、ついに病と称して参朝しなかった。
番吾の君が代から来て「あなたはまことに善を好んでおられるが、善を保つ未知を知っておられない。あなたは相国となって四年になりますが、 いったい主君に士を薦めたことがありますか」と言った。
公仲連は「まだありません」と言うと、牛畜荀欣徐越を薦められた。
そこで烈侯に見えて、この3人を推挙した。
しばらくして烈侯は「歌うたいの田のことは、しばらく見合すように」と言い、牛畜を師とし、荀欣を中尉とし、徐越を内史とし、公仲連には衣裳二襲を賜った。
侯朝(コウチョウ)【将軍】
斉の将軍。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、侯朝は右翼の将となった。
孔張(コウチョウ)【文官】
鄭の臣。子孔の孫。
B.C.526、3月、晋の韓宣子が鄭を聘問した。このとき孔張は遅れて宴に参加し、さらに立つ場所を間違えて皆に笑われた。
高張(コウチョウ)【文官】
斉の臣。
B.C.513春、高張は斉景公の命により魯昭公を慰問した。 そこで高張は魯昭公を「主君」と呼んだため、魯の子家懿伯は「斉はわが君をいやしんでいる」と言った。
B.C.510、11月、高張は晋の韓簡子、魯の孟懃子、衛の世叔申、 宋の仲幾、鄭の国参、曹の人、莒の人、杞の人、薛の人、小邾の人と会合して成周に城壁を築いた。
B.C.509築城は30日で終わったが、高張は時期に遅れ、諸侯の工事に参加しなかった。
B.C.502、4月、高張は国夏とともに魯の西境を攻めた。
黄帝(コウテイ)【神】
伝説上の皇帝。姓は公孫、名は軒轅。小典の子。
黄帝は軒車(車の轅の先端が曲がっている大夫以上の人が乗る車)に乗っていたので、人々から軒轅氏と呼ばれた。
五帝のひとり。神農氏に服従しない蚩尤や炎帝の子孫を討伐して天下を安んじる。そのため諸侯はみな軒轅を尊んで天子と仰いだので、 神農氏に代わって位についた。黄帝は風后、力牧、常先、大鴻を登用して天下を治めさせる。
黄帝は五穀栽培を教え、万物の名をつけて、はじめて文字・音律・度量衡・医薬・衣服・貨幣を制定し、人民を開明し、山沢の自然の産物を共有利用させた。
黄帝は蚩尤と戦った。蚩尤は濃霧を呼び黄帝を苦しめたが、黄帝は娘の女魃に蚩尤の雨を抑えさせ、 黄帝は指南車を採用して軍を動かし応龍に命じて蚩尤を冀州の野で殺した。
黄帝は長い治世の後、竜のひく車に乗って天へ帰っていったという。
黄帝説話は戦国時代に整理された。以後中国人はすべてその子孫があるとする民族的思惟が存続した。
黄帝という名のとおり老荘思想が反映されており、神仙思想と結びつき存在が巨大化された。
戦国斉の時代に、田斉の始祖とされたため、斉の庇護を受けた稷下の学士が、黄帝を五帝の第一としたとされます。
康丁(コウテイ)【皇帝】
商王朝26代王。廩辛の弟。
『史記』では、庚丁とされる。
庚丁(コウテイ)
康丁
后土(コウド)【神】
古代の神。名は句龍。
共工の子孫であり、黄河の土官となる。
侯ドウ(コウドウ)【文官】
鄭の臣。
B.C.574、5月、鄭は諸侯に攻められたので、太子髠頑と侯ドウは楚の人質となった。そこで楚は援軍を出した。
郈同(コウドウ)
郈敬子
公都子(コウトシ)【在野】
孟子の弟子。
孟子を議論好きであると非難し、孟子と問答する。
公南(コウナン)【武官】
魯の臣。
B.C.505叔孫成子叔孫州仇を立てようとすると、 公若藐が大いに諌めたが、叔孫成子は叔孫州仇を立てて没した。公若藐に味方する公南は賊を使って叔孫州仇を殺そうとしたが、できなかった。
公南楚(コウナンソ)【将軍】
衛の将軍。
B.C.522、6月29日、斉豹らが叛乱を起こしたとき、公南楚は衛霊公の右役となった。 衛霊公は斉氏の門を通過するとき、華寅に命じて斉氏とは争わないという意味で、肌を脱がせて車の蓋いをはずした。 しかし斉氏は衛霊公をねらって矢を放ったため矢は公南楚の方に命中した。衛霊公は急いで城外に逃げ出して衛の死鳥に行った。
孔寧(コウネイ)【武官】
陳の臣。
B.C.600孔寧は陳霊公儀行父とともに夏姫と淫通した。 泄冶がこれを諌めたので、霊公は「改めよう」と言って孔寧・儀行父に伝えた。 しかしふたりは泄冶を殺そうとして、霊公もこれを止めなかったので、泄冶を殺した。
B.C.598冬、夏姫の家で酒を飲んでいたとき、霊公は戯れて「徴舒(夏姫の子)はおまえによく似ているぞ」と言うと、孔寧は「徴舒はお上にも似ておりますよ」 と言った。これを聞いた夏徴舒は怒り、霊公を射殺したので、孔寧は儀行父とともに楚に出奔した。
荘王は夏徴舒を殺して陳を滅ぼしたが、すぐに復興させた。そこで孔寧は陳に戻された。
康伯(コウハク)【王】
衛伯(2代目)。衛康叔の子。
考伯(コウハク)【王】
衛伯(3代目)。康伯の子。
考伯(コウハク)【公子】
衛の公子。荘公の子。母は厲嬀
早世したため世継となれなかった。
公伯(コウハク)【王】
秦公(3代目)。秦侯の子。~B.C.844。
B.C.847即位する。
孔白(コウハク)【在野】
孔伋の子。字は子上。
47歳で没す。
孝伯雲(コウハクウン)【王】
曹公(5代目)。宮伯侯の子。
孔伯夏(コウハクカ)【在野】
孔防叔の子。孔子の先祖。
公伯繚(コウハクリョウ)【文官】
孔子の弟子。字は子周。
公伯繚は主君の季孫に仲由を讒訴した。孔子は「公伯繚ごときの力では、天命をどうすることもできない」と言った。
高発(コウハツ)【武官】
斉の臣。
B.C.523秋、高発は軍を率いて莒を討った。莒共公が逃げたため、 高発は孫書に命じてこれを討たせた。
侯犯(コウハン)【武官】
魯の臣。郈の馬正。
B.C.500叔孫州仇が侯犯に命じて公若藐を殺させようとしたができなかった。
公若藐を殺し損ねて叔孫州仇に疑われることを恐れた侯犯は郈の人々を率いて叔孫州仇に背いた。叔孫州仇は孟懃子とともに郈を攻め囲んだが勝てなかった。
秋、叔孫州仇と孟懃子は斉軍の応援を得て再び郈を攻め囲んだが、やはり勝てなかった。叔孫州仇は郈も工師駟赤に謀った。 駟赤は侯犯に「斉と魯の間にあって、どちらにも仕えないのはよくない。斉に仕えるという方針で民を治めるのがよいでしょう」と進言したため、侯犯はこれに従った。 おりしも斉の使者がやって来たので、駟赤は郈の人々に侯犯が郈の土地と人々を斉と交換しようとしてると脅したため、人々は恐れて騒いだ。 駟赤が「人々が物騒だ。あなたは郈を斉と交換して他の地にいくのがよいでしょう。しかし何が起こるかわからないので、よろいを門まで運び出して、 いざというときに備えましょう」と言ったため、侯犯はそのとおりにした。かくて侯犯は斉に土地の交換を申し入れた。斉の役人がやってくると駟赤は人々に「斉軍がやってきた」 とふれまわったため、郈の人々は動揺して侯犯の門にあるよろいを着て侯犯の邸を囲んだ。侯犯は郈を立ち退くことを申し入れると、 郈の人々は許した。侯犯が郈の城門をひとつ出るごとに郈の人々はそれを閉じた。侯犯は斉へ逃げた。
公非(コウヒ)【神】
毀隃の子。
句卑(コウヒ)【王】
呉王。頗高の子。
江羋(コウビ)【女官】
楚の公女。成王の妹。
江国に嫁ぐ。
B.C.626成王が太子商臣を廃して職を立てようとした。商臣は潘崇に「どうしたら実情をつきとめられよう」と言うと、 崇は「王の愛妹江羋を招いて疎略にもてなされるのがよい」と答えた。商臣はこれに従い、江羋を疎略にもてなすと江羋は怒って 「王がそなたを殺し、職を立てたいとお考えになるのは、無理もない」と言った。
江妃二女(コウヒニジョ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
長江と漢水の二女神。
后緡(コウビン)【女官】
夏王朝の妃。
有過氏(寒浞の子)に殺されたとき、妊娠中であり、里方の有仍に逃げ少康を産む。
皇武子(コウブシ)【文官】
鄭の臣。
B.C.636宋成公が鄭に来て、鄭と友好した。鄭文公はどのような礼で対処しようかと尋ねた。 皇武子は「宋は前代の子孫で、特別な扱いを受けています。手厚くもてなすことがよいでしょう」と答えたので、文公はそのとおりにした。
B.C.627春、鄭の商人弦高が滑で秦軍に出会い、使者を鄭に出した。鄭繆公は秦にたくらみを知り、 鄭に駐在している杞子逢孫揚孫の宿舎をさぐらせると、 荷ごしらえをし、武器をみがき、馬にまぐさを与えていた。そこで繆公は皇武子を遣わして「皆様にさしあげる食が乏しくなり、 皆様をお立ちさせるようなことを致しました。しかし鄭には牧地がありますので、その鹿を捕えてゆっくりされたらどうでしょう」と言わせた。
杞子は計画が露見したことを知り、斉に出奔し、逢孫と揚孫は宋に出奔した。
そのため秦軍は鄭に侵攻できず、滑を滅ぼしたが、帰国する途中、殽で晋に大敗した。
孝文王(コウブンオウ)【王】
秦王(4(34)代目)。昭襄王の次男。~B.C.251。
B.C.265太子外が没すると、安国君(孝文王の公子時代の名)が太子となった。
安国君は華陽夫人を寵愛していたが、子がなかった。 秦に人質となっている子の子楚が呂不韋の策をもって華陽夫人の寵愛を受けたため、 子楚を華陽夫人の養子にすることとした。
B.C.252昭襄王が没し、代わって立つ。唐八子を尊んで唐太后とし、昭襄王の墓に合葬する。
また華陽夫人を王后とし、子楚を太子とした。
韓王は喪服を着て、自ら来て弔った。他の諸侯はみな将相を遣わして弔問し、葬式に参列した。
B.C.251罪人を赦し、先王の功臣を鄭重に扱い、親戚を厚遇し、苑囿の禁を緩めた。
孝文王の服喪が終わり、10月己亥の日に即位するが、3日のち幸丑の日に没す。
孔文子(コウブンシ)【文官】
衛の臣。名は圉。孔羈の孫。
曽祖父の孔成子は夢に康叔封を見て 「孔圉と史苟に公子を助けさせよう」と言われたため、公子元を立てた。
孔文子は太子蒯聵の姉をめとり、子の悝を生んだ。
B.C.506秋、孔文子は晋の范鞅とともに軍を率いて鮮虞を討った。
B.C.489孔文子は太叔を攻めようとして、衛に来ていた孔子に術策を問うたが、 孔子に「わたしにはわかりません」と断られた。孔子は孔文子を評して「敏にして学を好み、下問を恥じず」と言った。
文子と諡される。
皇父(コウホ)【宰相】
宋の公子、宰相。司徒。名は充石、字は皇父。戴公の子。
狄の鄋瞞が宋に攻め入った。皇父は宋武公に命ぜられてこれを防いだ。
耏班が皇父の御者となり、子の穀甥が右をつとめ、 司寇牛父が4人乗りとして同乗した。宋軍は狄軍を宋の長丘で討ち破り、 長狄縁斯を討ち取ったが、皇父と公子穀甥と牛父は戦死した。
衡父(コウホ)【武官】
秦、趙の先祖。孟増の子。
衡父(コウホ)
句望(コウボウ)【神】
橋牛の父。
句芒(コウボウ)【神】
東方の神で、鳥身人面であり竜に乗るという。
繆公が宗廟にいたとき、句芒は、顔は人間、身体は鳥の姿で、純白の服を着て現れた。繆公は恐れて走って逃げようとしたが、 句芒は「恐れるには及ばない。上帝におかせられては、お前の常日頃の明徳を大層喜ばれ、お前に19年の延命を賜い、お前の国家が末代まで繁栄し、 祭祀が絶えることのないようにさせるため、この私をお遣わしになったのだ」と言った。
孔防叔(コウボウシュク)【在野】
宋の人。孔子の先祖。
孔父嘉(コウホカ)【将軍】
宋の将軍。大司馬。孔子6世の祖。孔父ともいう名は嘉、字は孔父。~B.C.710。
B.C.720穆公が病気になり、与夷(殤公)を立てるよう相談されるが、 公子馮のことを懸念した。
B.C.710孔父嘉は太宰華督に攻め殺され、妻を奪われた。
皇僕(コウボク)【神】
慶節の子。
公父ショク(コウホショク)【文官】
魯の臣。公父靖の子。母は敬姜
あるとき公父ショクが南宮説に酒を馳走して、露睹父を上客として招いた。 そのときすっぽんの料理が小さかったので、露睹父は怒って帰ってしまった。 母の敬姜は「『祭りには尸を養い、饗宴には上賓を養う』といいます。すっぽんなど何ほどでもないのに、あの方を怒らせたりして」と怒って、 公父ショクを追い出してしまった。
5日経って、魯公夫人がとりなしたので、公父ショクは家に帰ることができた。
B.C.505、9月28日、陽虎が叛乱を起こして季桓子と公父ショクを捕らえ、 仲梁懐を追い払った。
10月14日、公父ショクと秦遄は陽虎に追い払われ、ふたりは斉に逃げた。
文伯と諡される。
公父靖(コウホセイ)【文官】
魯の臣。季孫紇の子。
季孫氏の分家となり、公父氏を名乗る。
穆伯と諡される。
公父文伯(コウホブンハク)
公父ショク
公父穆伯(コウホボクハク)
公父靖
高無咎(コウムキュウ)【文官】
斉の臣。
B.C.576、11月、高無咎は晋の士燮・魯の叔孫喬如・ 宋の華元・衛の孫文子・ 鄭の公子・邾人と鐘離で会合し、初めて呉と国交をもち、呉王寿夢と会合した。
B.C.575晋が鄢陵の戦いで楚に大勝した。戦の翌日、高無咎は国佐とともに晋軍を見舞いに行った。
B.C.574夏、斉霊公が鄭討伐にでかけたので、 高無咎は鮑牽と共に城門を閉じて旅人を調べて間者や奸人の侵入を防ごうとしていた。 声孟子が斉霊公に訴えて「高氏・鮑氏が君を都に入れないで公子を立てようとしており、 国子もその陰謀を知っています」と言った。
7月14日、高無咎は国外に追放され、鮑牽を足きりの刑に処せられた。
公明(コウメイ)【公子】
唐の公子。唐叔虞の末子。
賈氏の始祖となる。
公明儀(コウメイギ)【文官】
魯の臣。姓は公明、名は儀。
古典に通じた賢人。
公明高(コウメイコウ)【在野】
曾子の弟子。公明賈の子孫。公明儀の兄弟。
公孟縶(コウモウチュウ)
孟縶
孔孟皮(コウモウヒ)【在野】
叔梁紇の長子。孔子の兄。字は伯尼。母は施氏。
孔孟皮は足が不自由であったので、家の跡継ぎを任せられなかった。
叔梁紇は10人の子があったが、孔孟皮以外はすべて女の子であったため、叔梁紇は新しい妻(顔徴在)を娶り、 孔子を生んだ。
公冶(コウヤ)
季冶
公冶長(コウヤチョウ)【在野】
孔子の弟子。姓は公冶、名は長、字は子長。斉の人。
孔子は「長は、わが娘をめあわしてもよいほどの男である。かつて黒い縄につながれて囚にいたが、彼の罪ではないのだ」と言って、わが娘をめあわせた。
庚与(コウヨ)【王】
莒公。去疾の弟。庚輿とも書く。
B.C.528、8月、去疾が没したが、その子郊公はその死を悲しまなかったため、国中の人々は郊公に服従せず、 庚与を立てようとした。
12月、蒲餘侯玆父は郊公を嫌って庚与と親しかった。 また郊公は公子を嫌って公子意恢と親しかった。 そこで公子鐸は玆父にたよって共に謀り「お前は意恢を殺しなさい。わたしは君(郊公)を追い出して庚与を入れて君にしよう」と言ったため、 玆父はそれを聴き入れた。玆父は公子意恢を殺し、庚与は公子鐸に斉から迎えられた。
B.C.519、7月、庚与は暴虐で剣を好み、剣を作らせると必ず試し切りをしたため、国の人々は大いに悩んだ。
庚与は斉に背こうとしたため、烏存が国の人々を率いて追放した。庚与は逃げようとしたとき、烏存がほこをもって道の左側に立っていると聞き、 恐れて自殺しようとした。苑羊牧之が「烏存は武力で名を挙げたいだけです。君を殺して名を挙げようとしておりません」と諌めたため、 庚与は魯に出奔した。そこで斉は郊公を莒に入れた。
句余(コウヨ)
余祭
高陽(コウヨウ)
帝顓頊
皋陶(コウヨウ)【神】
の臣。字は庭堅。女華の子。咎繇ともいう。
皋陶は士(獄官の長)となり、公正に刑罰を執り行い、民衆はみなその信実に服したという。
舜が没し禹が位につくと、禹は皋陶に政を授けようとしたが、皋陶は没した。
彼の子孫は英六(不明)、許に封じられる。
また皋陶は理官(司法官)であったので、官をもって氏として理を氏とした。
閎夭(コウヨウ)【文官】
周王朝の臣。
もとは猟師であったといい、姫昌が有徳の人物であると聞き周に帰服する。
姫昌が商紂王によって羑里に囚えれらたとき、 有莘氏の美女や驪戎の馬や有熊の九駟(36匹)などを費仲を通して紂王に献上して、 姫昌を許すように働きかけた。そのため姫昌は許されるのみならず西伯に任じられた。
姫昌の死後は武王に仕え、参謀として商の打倒に功績があった。
孔鯉(コウリ)【在野】
孔子の子。字は伯魚。B.C.531~B.C.481。
B.C.531生まれたとき、魯昭公が孔子に鯉を送って祝ってくれたので、それにちなんで鯉と命名された。
B.C.481、孔鯉は50歳で孔子に先立って没した。
公劉(コウリュウ)【神】
后稷の曾孫。の子。
戎狄の間に生活していたが、再び后稷の業を修めて農耕に勤め、 渭水を渡って材木を狩り出した。そのため民は富んで、百姓は徳になつき、他国から移ってくるもの者も多かった。
周の国の原型をつくったとされる。
句竜(コウリュウ)【神】
共工の子。
句竜は土正の后土となった。
鴻駵魋(コウリュウタイ)【武官】
衛の臣。
B.C.522、6月29日、斉豹らが叛乱を起こしたとき、 衛霊公はこの騒ぎを聞いて車を飛ばして都に入り、公宮に到着して宝を積んで公宮を出た。 鴻駵魋は公車に乗って4人乗りとなって衛霊公を守った。
闔閭(コウリョ)【王】
呉王(6代目)。闔廬とも書く。名は光。諸樊の子。~B.C.496。
B.C.525冬、呉は楚を討った。楚軍が長岸で呉軍を大いに破り、餘皇という舟を奪い取った。公子光は軍衆にお願いして舟の奪還を図り、 髪が長くて楚人に見える者を舟のそばに忍び込ませて、「餘皇」と呼んだら返事をさせることにした。呉軍は夜に詰めより、三度「餘皇」と呼ぶと3人とも返事をした。 楚人はこれを聞いて混乱し、呉軍はこれに乗じて楚軍を破り、餘皇を取り返した。
B.C.520祖父寿夢は末子季札が優れていたため、彼に位を継がせたいと思った。 それを察した長子諸樊は位を季札に譲ろうとした。しかし季札は受けなかったので、他の兄弟と図って、次々に位を継承することとした。そして季札の番になったが、 再び季札が拒んだため余昧の子僚が後を継いだ。
光はそのことに不満を持ち、僚が即位するなら正統な自分が位に着くべきだと思っていた。
呉から伍子胥が亡命して楚を討つよう進言した。公子光は「伍子胥は自分のために仇を報じたいと思っているだけだ」と反対したため、 呉王僚はこれを聴き入れなかった。伍子胥は「彼はよからぬことを起こそうとしている。 しばらく彼のために勇士を探して、わたしは時節を待とうとしよう」と言い、 専諸を推挙した。そして公子光は彼と共に呉王僚を殺すよう謀った。
B.C.519秋、呉は州来を討った。楚の蔿越が頓・胡・沈・蔡・許の連合軍とともに州来を救った。呉軍はこれを鐘離で防いだ。 このとき楚の令尹子瑕が亡くなったため、楚軍の意気が衰えた。公子光は「諸侯はみな小国であり、 やむを得ず楚に従っている。今や楚の令尹が死んで士気が衰え、将たる者(蔿越)は身分が低く、王のお気に入りが多くて命令が定まっていない。 まず胡と陳を討ち破れば、あとの3国は逃げだすでしょう、そうすると諸侯は動揺し、楚はきっと総退却するでしょう。願わくは先陣は隊伍を減らして威力を弱め、 後陣は陣を固めていただきたい」と進言したため、呉王僚はこれに従った。
7月29日、呉軍は楚の雞父で戦った。呉王僚は3000の囚徒を率いてまず胡・沈と陳の3国に攻め込んだ。呉軍は本軍を三分して、囚徒3000の衆のあとにつけた。 中軍は呉王僚に従い、公子光は右翼の軍を率い、公子掩余は左翼の軍を率いた。 呉の囚徒は逃げ走ったり踏み止まったりして敵兵を悩ましたため3国は乱れた。呉軍はそれにつけこんで3国の軍を破り、 胡・沈の君と陳の夏齧を捕らえた。 さらに僚は胡・沈の捕虜を逃がして蔡・頓の軍に入れて「われわれの君は討死した」と言わせた。呉軍はときの声をあげて攻め入ったため3国は逃げ出し、 かくて楚軍は総退却した。
10月17日、太子光は郹に入り、太子建の母とその宝器を奪い去って帰った。
(『春秋左氏伝』では迎えに行ったのは諸樊としている)
B.C.515楚平王の喪に乗じて呉王は公子掩余と公子燭庸とともに楚を討ったが、 楚に退路を断たれて帰国できなくなった。そこで公子光は「この時機を失ってはならない」と言うと、専諸は「王僚を殺すときでしょう。その母は年老い、その子は年若く、 しかも二弟は兵を率いて出て、後方を断たれています。いまや呉は国外で楚に苦しみ、国内では兵力空しく気骨ある臣がおりません。 これではわが方をどうすることもできません」と言った。公子光は頓首して「わしの身は、子の身である」と言った。
4月丙子、公子光は武装兵を地下室に伏せ、酒を用意して王僚を招待した。僚王は兵士を列ねて警護を堅固にしていた。酒宴がたけなわになると、 公子光はいつわって足を痛むふりをして地下室に入り、専諸に命じて腹中に匕首をひそめた焼魚をすすめさせた。王の前に行くと専諸は魚をつんざき、 匕首をもって僚王を刺した。王はたちどころに死んだが、専諸もまた左右の者に殺された。
公子光は自立して王となったが(闔閭)、専諸の子を封じて上卿として優遇した。
季札は帰国して呉王僚の墓で哭泣し、もとの地位に復して新王の命令を待った。公子掩余は徐に逃げ、公子燭庸は鐘吾に逃げた。楚軍は呉の内乱を聞いて引きあげた。
闔閭は名臣孫武巫臣・伍子胥を擁し呉を強国とする。
B.C.514闔閭は姑蘇に城を築いた。
B.C.512闔閭は徐人に公子掩余を捕らえさせ、鐘吾の人に公子燭庸を捕らえさせようとしたため、ふたりは楚に亡命した。楚昭王は彼らに大きな土地を与え、 さらに養に城壁を築いて呉と事をかまえようとした。
12月、闔閭はこれを聞いて腹を立て鐘吾子を捕らえ、さらに徐を討ち、山をふさいで徐を水攻めにした。
12月23日、闔閭は徐を滅ぼした。徐子章禹は頭髪を断ち切り、夫人をつれて闔閭を迎えた。闔閭はその不遇をいたわって送り返し、 徐子の近臣に供をさせた。章禹はすぐに楚へ亡命した。
闔閭は伍子胥に「楚を討つのはどうであろうか」と問うと、伍子胥は「三軍を編成して楚軍に不意討ちをかけ、三軍の中の一軍が進み出たら、敵軍はきっと全軍出てくるであろう。 出てきたらわが軍は引きあげ、敵が引き上げたらこちらは進み出ましょう。そうすれば敵は疲労しましょう。そして三軍が別々にあちこちから攻め立てて敵軍を惑わせ、 すっかり疲労したところを三軍こぞって総攻撃するなら、きっと大勝利を収めることができましょう」と答えたため、闔閭はこの計略を用いることにした。
B.C.511秋、闔閭は伍子胥の策を用いて楚に攻め入り、夷を討ち、潜と六とを侵略した。楚の沈尹戌が潜を救ったため、 呉軍は引きあげて帰った。楚軍は潜を南岡に移して帰ると、呉軍は弦を攻め囲んだ。楚の沈尹戌と右司馬が軍を率いて弦を救い、 予章まで進んだため呉軍は引きあげた。
B.C.510夏、呉ははじめて越を討った。
B.C.508桐が楚に背いた。そこで闔閭は呉に服従している舒鳩氏に命じて楚人をおびき寄せようとして「楚軍を率いてわが国にやってこい。わが軍は恐れて桐を討つふりをしよう。 どうか楚が軍を進めるよう取り計らってくれ」と言った。
秋、楚の子常が呉に攻め入ろうと豫章に軍を進めた。すると呉は舟軍を豫章に集めて桐を討つふりをして、その一方でこっそりと軍を巣に進めて、 楚を討つ準備をさせておいた。
10月、呉軍は楚軍に対して豫章で不意に攻撃をしてこれを破り、勢いに乗じて巣を攻め囲んで勝利し、巣を守っていた楚の公子を討ち取った。
B.C.506蔡昭侯は公子と大夫の子を人質として呉に入れた。
冬、闔閭は蔡昭侯と唐君とともにみずから3万数千の兵を率いて楚を討ち、船を淮水の入り江につなぎ、豫章から攻め入り、楚軍と漢水をはさんで対陣した。 呉軍は楚の子常の軍と小別山と大別山にかけて三度戦って勝利した。
11月19日、呉・楚の両軍は柏挙に陣を構えた。夫概が早朝に願い出て「楚の瓦(子常)は愛情がないため、部下は討死する覚悟がありません。 先にこれを討てば必ず逃げ出しましょう。そこを大軍をもって攻めたらきっと勝でしょう」と進言したが、闔閭は聴き入れなかった。 しかし夫概は勝手に5,000人の兵を率いて真っ先に子常の軍を攻撃した。子常の軍が逃げ出したため楚軍は乱れて呉軍は楚軍を大いに討ち破り、 史皇を戦死させた。
呉軍は楚軍を追撃して清発の川まで来て、ここでも楚軍を討ち破った。夫概が「追いつめられると獣でさえも戦います。 先に川を渡った者には助かると思わせ、あとに続く者にも助かると思わせれば戦う気はおこらないでしょう。半分ほど渡ったら攻めかかるのがよろしいでしょう」 と進言した。闔閭はこの意見に従ってまたも楚軍を討ち破った。楚軍が食事の仕度にかかったところに呉軍は追いつき、 楚軍が逃げたため、呉軍はその食事を食べて追いかけ雍澨で破り、5度戦って郢に至った。
11月28日、楚昭王は郢を脱出して雎水を渡って逃げた。また楚昭王は尾に火をつけた象を用意させて呉軍のほうに走らせた。
11月29日、呉軍は郢に攻め入り、王宮内に居を定めた。闔閭は身分に応じて居を定めたが、夫概は令尹の邸宅に入った王子子山を追い出して、そこに入った。
楚の沈尹戌が息まで行って引き返し、雍澨で破ったが負傷して自害した。
楚昭王は随に逃げ込み、呉はこれを追いかけて随人に向かってなぜ楚昭王をかくまうのかと責めた。随人は呉の申し出をことわって「楚はしかとわが国を守ってくれます。 難儀のときにこれを顧みないというのでは、どうして呉の君にも仕えることができましょう」と回答したため、呉人は引き下がった。
これを聞いた越が、呉を急襲した。また楚も秦に援軍を頼んだため、呉軍は破られた。
B.C.505夏、呉が楚に攻め入ったすきに、越が呉に攻め入った。秦の援軍と楚軍と戦い、夫概は沂で大いに破られた。また呉軍は軍祥で討ち破られた。
9月、夫概は呉に帰って自立して王となった。闔閭はこれと戦って破り、夫概は楚に逃げて堂谿氏となった。呉軍は楚軍を雍澨で破ったが、 秦軍に破られて麇に退いて陣を敷いた。しかし呉軍は麇と公壻の谿で戦ったが大敗し、闔閭は国に帰った。
捕えていた楚の闉輿罷が楚に逃げ帰り、楚の后臧も楚に帰った。
さらに夫概が先に帰国して呉王を称したので、闔閭は急いで郢を離れて夫概を攻め、これを破った。
B.C.504、4月16日、太子終纍が楚の水軍を破って、その将潘子臣と小惟子と大夫7人を捕虜にしたため、楚人は大いに恐れた。 楚は呉を恐れて鄀に移した。
B.C.496闔閭は10年前に越に急襲されたことに対する復讐として越を討ち、スイ李で対陣した。しかし越の奇策によって呉軍は大敗し、 闔閭は子の夫差に復讐を誓わせ没した。 春秋五覇のひとりに数えられることもある。
高陵君(コウリョウクン)【公子】
秦の公子。昭襄王の弟。母は宣太后
B.C.271范雎が昭襄王に取り立てられ、宣太后が専制であること、 魏冄が諸侯に対してほしいままに権力を振るうこと、 涇陽君・高陵君らがすこぶる奢侈で王室よりも裕福なことを言上した。
B.C.265、9月、そこで昭襄王は、魏冄の相国を罷免し、高陵君らを函谷関の外に出して、それぞれの領地に住まわせた。
公良嬬(コウリョウジュ)【在野】
孔子の門人。字は子正。
B.C.492孔子の一行は衛の蒲で蒲人に拘留された。公良嬬は丈高く、賢くて勇力があったので「今ここで災難にあうのも天命です。わたくしはふたたび災難にかかるより、 むしろ進んで闘って死のうと思います」と言い、はげしく蒲人と戦った。
蒲人は恐れて「衛に行くことがなければ出しましょう」と言い、包囲を解いた。
高梁伯(コウリョウハク)【文官】
晋の臣。祁奚;の父。
膠鬲(コウレキ)【武官】
商王朝、周王朝の臣。
商から周へ行き、周武王を助けて商を滅ぼした。
考烈王(コウレツオウ)【王】
楚王(22(38)代目)。名は熊元(完)。頃襄王の子。~B.C.238。
B.C.273楚は秦と和平し、人質として左徒春申君とともに秦に赴いた。
B.C.264頃襄王が病んだため、帰国を願ったが許されなかった。春申君は一計を案じ、太子完に 「いま太子が帰国されなければ陽文君の子が後を継ぎ、太子は宗廟に仕えることができなくなりましょう。 使者といっしょに秦を抜け出されるのが上策と思います。わたくしは踏みとどまって、死を賭して事に当りましょう」と言った。
太子完は衣服を変え、使者の御者になりすまして帰国して、代わって即位した。
B.C.263春申君が帰国すると、彼を令尹に命じて春申君と号し、淮北の地12県を賜った。
州を秦に献納して、秦と和睦した。このころ楚の国力はますます弱まっていた。
B.C.258秦が趙の都邯鄲を包囲した。趙が危急を楚に告げたため、将軍景陽と春申君をやって趙を救わせる。
このころ楚はまた強大になった。
B.C.253考烈王は鉅陽に遷都する。
B.C.251秦昭王が没したので、春申君をやって弔わせる。
B.C.248北伐して魯を滅ぼした。
B.C.241考烈王は寿春に遷都してこれを郢と名づけた。
B.C.240諸侯は合従して西に向かい、秦を討った。考烈王は合従の長となり、春申君がいっさいの指揮をした。連合軍は函谷関に押し寄せたが、秦軍の反撃にあって敗走した。 考烈王はこれを春申君の責任としてとがめ、王は春申君を疎んじるようになった。
考烈王には子がなかった。李園は春申君と謀って、春申君の子をみごもっている妹を考烈王に献上した。はたして男子が生まれたので、 これを太子とした。そのため考烈王は李園を重用した。
B.C.238考烈王が没すると、李園は春申君を襲って殺し、李園の妹の子の悍が立った。これが幽王である。
公斂処父(コウレンショホ)【文官】
魯の臣。成の邑宰。名は陽。
B.C.503斉の国夏が魯を攻めた。公斂処父は孟懃子の御者となった。 陽虎が夜襲をかけようとすると、斉軍はこれを聞いて伏兵を設けて待ち受けた。公斂処父は「虎は災いにかかることを考えずに攻めようとしている。 きっと死ぬであろう」と言い、季氏の臣苫夷は「虎がおふたり(季氏と孟氏)を難儀の目に合わせたら、判決を待たずにわたしが殺してやる」 と言ったため、陽虎は恐れて引き返した。そのため魯軍は敗北せずに済んだ。
B.C.502、10月3日、陽虎が叛乱を起こして季桓子とは孟氏の邸宅で戦い、陽虎は魯定公と叔孫州仇をおどして孟氏を討った。 公斂処父は成の人々を率いて上東門から攻めて来たため、陽虎は南門の中で戦い、これを破った。さらに棘下で戦うと陽虎は敗れた。陽虎はよろいをぬいで公宮に行き、 勝手に宝玉と大弓を取って外に出て、五父のつじに宿り、ひと寝入りしてから食事を作らせた。部下が「追手がやってきます」と言うと、陽虎は 「魯の人はわたしが逃げたと聞くと、死から免れたとほっとするだろう。どうしてわたしを追う余裕があろうか」と言った。しかし供の者が「危ういことです。すぐに車に乗って下さい。 公斂陽(公斂処父)がおりますから」とせきたてた。はたして公斂処父は陽虎を追いかけようと申し出たが、孟懃子は許さなかった。
B.C.498孔子の進言により、三桓は郈と黄の城を壊した。公斂処父は孟孫氏に「成を壊せば斉はかならず魯を攻めましょう。 成は孟氏の根拠地です。成を失うことは、孟氏を失うと同じことです。わたしは城を壊しません」と言った。
12月、魯定公に攻められるが、公斂処父は反撃した。
工僂会(コウロウカイ)【武官】
斉の臣。
B.C.554斉荘公が即位すると、夙沙衛が高唐へ逃げて叛乱した。 工僂会は夙沙衛に従っていたが、斉荘公が高唐を包囲すると、 工僂会は殖綽と共に夜に乗じて城上から縄を降ろして斉軍を引き入れたので、斉軍は高唐を攻め落として夙沙衛を殺した。
工僂灑(コウロウサイ)【文官】
B.C.542、5月、高子尾閭丘嬰を邪魔者であるとして殺した。 そのため閭氏の一族である工僂灑、渻竈孔虺賈寅は莒に出奔し、公子たちも国外に追放された。
伍員(ゴウン)
伍子胥
狐偃(コエン)【将軍】
晋の将軍。字は子犯。狐突の子。上軍の佐。
文公の母の弟。そのため咎犯、舅犯ともいわれる。
B.C.655重耳の亡命に従い、晋君となることを助けた。重耳が亡命して柏谷まで来たとき、斉か楚へ逃げることを占おうとした。狐偃は「占うまでもない。二国は遠く、 望みは大きいので、報いられることはありません。 狄がよいでしょう。狄は晋に近くて、交際がないので、悪事を隠すことができます」と言った。そこで重耳は狄へ亡命した。
B.C.651里克奚斉悼子を殺して、 重耳を迎えようと屠岸夷を派遣して「国は乱れ民は乱れています。国を得るのは乱れた時にあり、 民を治めるのは乱れた時にあります。あなたはなぜ帰国されないのですか」と言わせた。重耳は狐偃に相談した。
狐偃「いけません。乱によって入国するのは、危ういことです。乱によって入国すれば必ず乱を喜び、乱を喜べば必ず徳を怠ります。 これは喜怒哀楽のけじめが変わることになり、どうして民を訓導できましょうか」
重耳「乱でなければ、誰がわたしを帰国させようか」
狐偃「喪乱にも大小があり、大喪と大乱のきっ先は犯すことができないと言います。今こそこれに当てはまります。それ故に難しいのです」
そこで重耳は屠岸夷に帰国を断った。
そのとき秦の公子が弔問に来て「国を得るのは常に喪の時であり、国を失うのも常に喪の時であるといいます。好機は逸すべからず、 喪は長くありません。公子よ、帰国を計られよ」と言った。重耳は狐偃に相談した。狐偃は「いけません。父が死んでわが利を求めるのは仁ではなく、 人が所有しているものを外から僥倖によって奪うのは信ではありません」と言った。そこで重耳は「わたしは亡命中に父が死に、霊前哭泣の席に連なることもできないのに、 どうして大それた気持ちをおこすことができましょう」と言って断った。
B.C.644狐偃は重耳に「我々が狄に来たのは逃走しやすく、資財があり、安定するからでした。こう長く安定が続くと動けなくなります。ここを去りましょう。 今、斉侯は年取って晋と親しくしようとし、管仲も死んだのでよい者を求めています」と言った。そこでみな同意して旅立った。
重耳らが五鹿の地を通ったとき、農夫に食物を乞うたところ、農夫は土の塊を取って手渡した。重耳は怒ったが、狐偃は「民が土を献じて服従するのですから、 これ以上何を求めましょうか。12年後に、きっとこの土地を手に入れましょう」と言った。そこで重耳はこの農夫に再拝稽首し、土を受け車に載せて、とうとう斉へ行った。
重耳は斉では手厚くもてなされ、宗室の娘をめとり、馬20乗が提供され、重耳はこれに満足した。
B.C.643、12月、斉桓公が没し、孝公が即位すると、諸侯は斉に背いた。
狐偃は、斉を動かして帰国を支援してもらうことが不可能だと知ると、群臣たちと相談し、重耳に斉を出るように進言したが、重耳は聴き入れなかった。
斉姜は「あなたの従者はあなたを命とたのんでおります。 あなたは功臣に報いるために国に帰ろうとなさらないのをわたしは恥ずかしく思います」と言った。 そこで狐偃は趙衰と斉姜と謀って、重耳を酒に酔わせて車に乗せて出発した。重耳は目を覚ますと大いに怒って、 戈をもって狐偃を追いかけて言った。
重耳「もし成功しなかったら、わしはおじきの肉をくってやるぞ」
狐偃「成功しなかったら、(死に場所もわかりませんから)わたしの肉は食べられるものではなくなっているでしょう」
一行はとうとう出国して衛に向った。
B.C.640重耳は斉に滞在して、斉を去る気がなかった。狐偃は趙衰らと図り、重耳を酔いつぶれさせてその隙に斉を出国する。 気付いた重耳は戈をつかみ狐偃を殺そうとする。狐偃は「私は殺されてもあなたが成功すれば本望だ」というと重耳は「成功しなければ、叔父上の肉を食らってやる」と言った。 狐偃は「成功しなければ私の肉は腐っていて食べれないでしょう」と答えた。
宋に赴くと、重耳は国君の礼で待遇された。狐偃は宋の司馬公孫固と親しかったが、 彼に「宋は小国で、公子を晋に入れることはできない。あらためて大国へいかれますように」と言われたため楚に赴いた。
B.C.637重耳が秦に亡命したとき、秦繆公は5人の娘を重耳に嫁がせたが、 その中に懐公に嫁いだ懐嬴も入っていた。重耳が難色を示して狐偃に相談した。 狐偃は「その国を奪おうとしているのです。妻が何ですか。秦の命じるところに従いましょう」と進言した。そこで重耳はこれを娶った。
12月、秦の援助でいよいよ帰国するとき、重耳に「これまで君に対して過ちが多かったことは私自身にもわかっているくらいですから、 まして君にはなおさらおわかりのことと思います。どうかこれでお暇をいただきたいと存じます」と言うと重耳は 「もし国へ帰っておまえを遠ざけるようなことがあったら河伯(黄河の神)がご照覧あろう」と言い、璧を河中に投じて誓った。
B.C.636、2月辛丑の日、狐偃は秦と晋の大夫と郇で和議を盟った。
ついに重耳は晋に入って晋君となった。
襄王叔帯の乱を避けて鄭の地に亡命し、晋と秦に救援を求めた。
狐偃は「民は君に親しみましたが、まだ義を知りません。君は王を周に入れて、民に義を教えるべきです」と進言した。文公はこれを聞いて喜び、救援することにした。
B.C.633楚成王が宋の都を包囲し、宋の公孫固が危急を告げた。狐偃は「楚と通じている曹と衛を討てば、 楚はかならずこれを助けるでしょうから、そうなれば宋は禍を免れることになります」と進言した。そこで文公は三軍を編成し、狐偃は上軍の将に任じられ、曹と衛を討った。
B.C.632郤縠が死んだので、文公はまた趙衰を卿にしようとしたが、趙衰は辞退して狐偃を推挙した。 狐偃も「狐毛の知恵は臣よりすぐれ、年も上です。毛が卿に任命されなければ、拝命することはできません」と辞退したので、 文公は狐毛を上軍の将に任じ、狐偃を上軍の佐に任じた。
楚成王は帰国したが、楚の将軍子玉が兵を率いて曹・衛君の復位と引き換えに宋を許すことを提示してきた。 狐偃は「子玉は礼をわきまえない者です。宋を救う功と、曹・衛を復する功を取ろうとしています。お許しなさいますな」と言い、文公はこれに従った。
文公は楚との決戦の時に、先年の約束どおり三舎軍を退却させた。軍吏が「挑戦を逃げるのは恥じですし、楚軍は疲れていますから必ず敗れましょう」と言ったが、 狐偃は「諸君は楚で世話になったのを忘れたのですか。わが国が、国君でありながら臣下(子玉)の挑戦を避けても、もし楚軍が去らないならば、彼が邪曲ということになります」 と言い、これを批難した。こうして晋は子玉を城濮で破った。
6月、論功行賞で、狐偃は首位に置かれた。
B.C.631、6月、狐偃は、魯釐公・晋の王子虎・宋の公孫固・ 斉の国帰父・陳の袁濤塗・秦の小子憗と会合して、 翟泉で盟いを結び、践土の盟を温め、鄭を討つ相談をした。
胡衍(コエン)【在野】
縦横家。
B.C.306秦の樗里疾が蒲を討とうとすると、蒲の守将が胡衍に調停を請うた。胡衍は蒲のために樗里疾に「もし今、蒲を討とうとするなら、 蒲は魏につきましょう。いま衛を魏にあわせば、魏は必ず強くなりましょう」と言った。さらに蒲の守将に会い「私なら樗里子が攻めないようにすることができる」と言い、 衛で高い地位を得た。はたして樗里疾は去った。
呉回(ゴカイ)【神】
楚の先祖。重黎の弟。
共工氏が乱を起こしたとき、帝嚳は重黎に彼を誅するよう命じたが、成功しなかったため、重黎を誅殺する。 そして帝嚳はその後を弟の呉回に継がせる。呉回はまた火正の官におり、祝融と称した。
五観(ゴカン)【公子】
夏王朝の公子。の子。
五観は観に封じられたが、叛乱した。
狐姫(コキ)【女官】
献公の夫人。狐突の娘。
狐姫は重耳(文公)と夷吾(恵公)を生んだ。
(『春秋左氏伝』では夷吾の母は小戎子であるとする。)
呉起(ゴキ)【将軍】
魏、楚の将軍、兵法家。衛の左氏の人。~B.C.381。
呉起は富豪の家に生まれ、用兵の術を好び、また曾申について学び、魯に仕えた。
呉起は「大臣となるまで故郷に帰らない」と言って、母が死んでも帰らなかったため、曾申に破門された。
斉が侵攻してきたため、呉起は将軍に任命されそうになったが、呉起の妻が斉の女性であったため取りやめになりそうになった。 そこで呉起は妻を殺して任命されようとした。結果、その人格を嫌われてしまい、任用されず魯を出奔した。
翟璜の推挙により、人材を集めていた魏文侯に仕えた。
李克は彼を評して「呉起は貪欲で好色ですが、 用兵の巧みさは司馬穣苴もかないません」といった。
呉起は最下級の士卒と衣食を同じくし、士卒と労苦を分け合った。
おできを病む兵卒があったとき、呉起は彼のために膿を吸ってやった。その兵卒の母がこれを聞いて嘆き悲しんだ。それを問われると 「以前呉公起はあの子の父のおできを吸ってくれました。これに感謝した父は、敵に後ろを見せないで、ついに戦死しました。 わたしはあの子が呉公のためにどこで戦死するものやらと、嘆かずにはおれないのです」と言った。
呉起は用兵に長け、廉直公平、部下をよく働かせ、士卒の人望を集めた。
文侯は彼を重用して、呉起は秦を討ち5つの城を陥とした。その功績により、西河太守となり、秦・韓に備えた。
武侯が西河に遊んだとき「この険阻な山河はなんと美しいのだろう。これこそ魏の宝だ」と言った。 呉起は「国の宝は君徳であって山河の険要にあるのではありません」と答えた。武侯はこのことばをよしとした。
武侯から公主を娶るよう勧められたが、名声を尊ぶ呉起はこれを辞退した。
また公叔の讒言もあり武侯に疑われ、呉起は罪をきせられるのを恐れ、魏を去って楚に出奔した。
悼王はすぐに彼を宰相とした。
呉起は法律を明らかにし、命令をつまびらかにし、不急の官を廃し、疎遠な公族の官に在る者を退け、そこから得た財源で兵士の育成に務めた。
こうして楚は南は百越を平らげ、北は陳・蔡の二国を併せ、三晋を撃破し、西は秦を攻めた。
しかしこのことから楚の公族に恨まれていた。
B.C.381悼王が没すると、公族・大臣は乱を起こして呉起を攻めた。呉起は王の屍のところに行き、その上に打ち伏した。呉起は射殺されたが、 同時に悼王の屍にも矢が当った。
太子が即位すると、悼王の屍を射た者をことごとく誅殺した。呉起を射た罪に連坐し、一族もろとも滅ぼされて死んだものは、70余家に及んだ。 こうして呉起はその復讐を果たしたのである。
狐鞫居(コキクキョ)【武官】
晋の臣。続簡伯ともいう。~B.C.621。
狐射姑の一族。
B.C.627箕の役のとき、先軫は狼ジンを退けて、狐鞫居を用いて戎右とした。
B.C.625春、秦の孟明視が晋に攻め入ってきた。
2月、先且居が中軍の将となり、趙衰が中軍の佐となり、 王官無地が襄公の御者、狐鞫居はその右を務めた。
2月9日、晋軍は秦軍と彭衙で戦い、秦軍を大破した。晋の人はこの秦軍を拝賜の師と読んで嘲笑した。
B.C.621、9月、狐鞫居は狐射姑の命により、陽処父を殺した。
11月、狐鞫居は罪により殺された。
伍挙(ゴキョ)【文官】
楚の臣。伍参の子。
椒に領地を与えられたので椒挙ともいわれる。
荘王は即位してから3年間、日夜享楽して「あえて諌める者あらば、死刑に処して許さず」と布告した。
伍挙はこれを諌めようとして「謎をかけさしていただきとうございます」と言い「鳥が丘にいて、三年の間飛ばず鳴かずでした。これは何という鳥でしょうか」と 言った。荘王は「3年の間、飛ばないが、飛べば天まで昇るだろう。3年の間、鳴かないが、鳴けば人を驚かすだろう。挙よ、引き下がれ。 わしは、わかっておるのじゃ」と言った。
B.C.612そこで荘王は淫楽をやめて国政に身を入れ、誅殺するもの数百人、登用するもの数百人、伍挙と蘇従に命じて政治にあたらせ、人民にすこぶる喜ばれた。
B.C.547伍参は蔡の太師子朝と仲がよく、伍挙は子朝の子公孫帰生と仲が良かった。 伍挙は子牟の娘を妻に迎えていたが、子牟は申公になってから罪を犯して亡命した。 楚康王は伍挙が子牟を逃がしたと疑ったので、伍挙も鄭に出奔して、さらに晋へ亡命しようとした。 途中で公孫帰生に会うと、伍挙は「もしも楚に骨を埋めることが出来れば本望です」と相談した。公孫帰生は「努力されよ。わたしが帰国できるようにしましょう」 と言ったので、伍挙は三拝し、公孫帰生に四頭の馬を贈った。公孫帰生は屈建に会って 「楚は賢人を亡命させて晋に行かせています」と言ったので、屈建は楚康王に進言してその位と禄高を増して、伍奢に命じて伍挙を迎えさせ、 伍挙は楚に帰国した。
B.C.541公子囲が鄭を聘問して公孫段の娘を娶るときに伍挙はその介添となった。 公子囲が部下を率いて娘を迎えに都に入ろうとしたため鄭の子羽が「わが国は貴国を頼りにしているのに、 貴国がよからぬ野心を抱いておられるのではありませんか」と言った。これを聞いた伍挙は鄭には備えがあることを知り、武器をしまうと申し出た。 鄭人はそれを聴き入れて娘を迎えて城外に出た。
11月、公子囲が郟敖を弑して即位した。鄭にいた伍挙は楚の使者に「誰が楚の後嗣になるのかと聞かれたら、 どう答えるつもりか」と問うと、使者が「わが国の大夫囲と答えます」と答えた。伍挙は「共王の子囲が年長者であります」 と答えたほうがよいと進言した。
B.C.538、楚霊王(囲)は諸侯と会合しようとした。伍挙は 「桀王は有仍の会をして有緡が背き、紂王は黎山の会をしまして東夷がこれに背き、 周霊王は太室の会盟をして戎翟はこれに背きました。わが君には、なにとぞ終わりを慎まれますように」と諫言した。 しかし楚霊王は会同することを決め、伍挙を晋に遣わせた。晋は承諾し、会同することとなった。
6月17日、申で会合したが、楚霊王は驕慢であった。伍挙は「諸侯は礼儀ある者に帰服をなすといいます。どうか礼儀を慎んでください。 夏の啓王には釣台の饗宴があり、商の湯王には景毫の命があり、 周の武王には孟津の誓いがあり、成王には岐陽の勢揃えがあり、 康王には鄷宮の朝見があり、穆王には塗山の会合があり、 斉の桓公には召陵の勢揃えがあり、晋の文公には践土の盟いがあります。 わが君にはどの礼を用いようとなさりますか」と言うと、楚霊王は「斉の桓公の礼を用いることにしよう」と答えた。
楚霊王は伍挙を自分の後ろに侍らせて、作法に誤りがあれば正すよう命じたが、伍挙は正すところがなかった。楚霊王がそのわけを尋ねると伍挙は 「わたくしの知らない礼が6つありました。どうして正すことができましょう」と答えた。 この会合で宋の太子が遅れて到着した。楚霊王は武城の地で狩をしていたため太子佐と面会しなかった。 伍挙は太子佐にあいさつするようお願いしたため、楚霊王は伍挙に命じて太子佐にあいさつをさせた。
8月、楚は呉を討って朱方を攻め落として慶封を捕らえた。楚霊王がこれを殺そうとしたため伍挙は 「慶封はただ君命にさからって亡命しただけであります。罪もない者を処刑して悪名を示すことをする必要はありません」と諌めたが、 楚霊王は聴き入れず処刑した。
B.C.535霊王は章華台を造営し、「この台は美しいなあ」と言った。すると伍挙は「国君は賢徳によって寵栄を受けるのを美しいとし、 民を安らかにするのを楽しみとし、有徳の話を聞くのを聡とし、遠方の人を招来するのを明とするといいます。今君はこの台を作られて、民は疲弊し、 財源はなくなり、穀物の収穫はできなくなり、百官は苦しみました。上下・内外・大小・遠近の人がみな害がないのを美しいというのです。 この台を美しいと言われるのであれば、楚は危険です」と諌めた。
B.C.533、2月、楚は許を夷に移した。夷には耕地が少なかったため、州来と淮水以北の耕地を割いて夷につけ加えた。伍挙は許の君にこれらの耕地を与えた。
克(周)(コク)【公子】
周王朝の公子。荘王の子。字は子儀。
B.C.694周桓公は周荘王を弑して、公子克を擁立しようとした。 それを知った辛伯が荘王に告げ、桓公は荘王と辛伯に殺された。公子克も燕に亡命した。
克(魯)(コク)【文官】
魯の大史。
B.C.609莒の太子が莒紀公を弑して魯に出奔してきた。 宣公はこれを登用しようとしたが、季孫行父はこれを追放した。
宣公はその理由を季孫行父に尋ねると、季孫行父は大史克に伝えて理由を答えさせた。
克(燕)(コク)【文官】
召公奭の臣。
召公奭の命により燕侯代行となり、燕の地に止まって、土地と有司など統治組織を受け入れて統治する。
克(邾)(コク)【王】
邾の君。名は克、字は儀父。~B.C.678。
B.C.722、3月、克は魯隠公と蔑で会盟した。
10月、鄭の内乱で、衛は介入して鄭を討った。鄭は周と虢とともに衛を討ち、援軍を邾に求めた。 そこで克は使者を遣わして魯の公子予に援軍を求めた。
桓公が周王に請うたため、克は子爵を与えられた。
B.C.678、12月、没す。
国(コク)【武官】
秦の臣。庶長。
B.C.366魏の少梁を討ち、太子を捕らえた。
刻(コク)【公子】
趙の公子。
B.C.346魏を討ち、首垣を攻める。
穀(コク)【文官】
衛の臣。右宰。~B.C.546。
B.C.559、4月、衛献公が斉に亡命したとき、穀はこれに従った。
衛献公が帰国するときに穀は逃げて国に帰った。衛人は穀を殺そうとしたが、穀は「わたしは最初から君について出国することは嫌だったから逃げて帰ったのです」 と言い訳をして許された。
B.C.547甯喜は衛献公を帰国させようとして穀に相談した。穀は「国に入れるのはいけません。ふたりの君に罪を犯せば、 だれもかばってくれません」と言った。甯喜は「わたしは亡父の命令を受けているので、背くことはできません」と言うと、穀は衛献公の様子を見てきて 「君はもとのままの人柄です。国に迎えれば、やがて一命を捨てることになります」と答えた。甯喜は「子鮮がおります」と言ったが、 穀は「何の役も立ちません。子鮮は無事に逃げることができたら、それこそ幸いでしょう」と答えた。しかし甯喜は「そうはいっても、やめるわけにはいかない」 と言って衛献公を帰国させた。
2月6日、穀は甯喜とともに留守を狙って孫氏を討った。
B.C.546甯喜の専権を恐れた衛献公は、公孫免余を使って甯喜を攻めた。
夏、公孫免余は甯喜を殺し、さらに穀も殺された。
黒(コク)【武官】
楚の臣。武城の大夫。
B.C.506冬、呉・蔡・唐が楚に侵入した。沈尹戌子常に 「あなたは漢水により添って敵兵が渡るのを防がれよ。わたしは方城の外まわりにいる人々を全部率いて淮水にいる敵の船をたたき壊し、引き返して大隧・直轅・ 冥阨の隘路をふさぎましょう。あなたが漢水を渡って攻撃し、わたしが背後から攻撃すれば大いに敵を破ることができましょう」と言った。しかし黒は子常に 「楚の車は革を用いており、水のしめりには長く耐えられません。すぐに戦うべきです」と言い、また史皇が「楚人はあなたを憎んで司馬(沈尹戌)を好いております。 彼の言う通りだと、司馬が一人勝ちになります。すぐに戦いましょう」と言ったため、子常はすぐに漢水を渡って敵を攻撃したが、三度戦って三度敗れた。
穀栄(コクエイ)【武官】
斉の臣。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、穀栄は先陣王孫揮の御者となった。
国夏(コクカ)【武官】
斉の臣。
B.C.506、3月、国夏は劉文公の召集を受け、晋定公・魯定公・ 宋景公・衛霊公・蔡昭侯・ 鄭献公・許の君・曹隠公・莒の君・邾の君・頓の君・胡の君・滕の君・ 杞悼公・小邾の君・陳懐公を楚の召陵に集めて楚を討つ相談をした。
B.C.503国夏は魯を討った。
B.C.502、4月、国夏は高張とともに魯の西境を攻めた。
国帰父(コクキホ)【将軍】
斉の将軍。
B.C.632晋文公・宋成公・ 秦の将軍小子憗とともに城濮で楚を破った。
B.C.631、6月、国帰父は、魯釐公・晋の王子虎・晋の狐偃・ 宋の公孫固・陳の袁濤塗・秦の小子憗と会合して、 翟泉で盟いを結び、践土の盟を温め、鄭を討つ相談をした。
B.C.627春、国帰父は魯を訪問した。その作法がすべて礼にかなっていたので、魯の臧文仲が「斉の国子が政治を行っているので、 斉はまだ礼が守られている。わが君は斉にお出かけになるのがよろしいでしょう」と言った。そこで魯釐公は斉を訪問した。
荘子と諡される。
国恵子(コクケイシ)【文官】
周王朝の臣。襄王の任命により斉の卿となる。
B.C.489、6月田乞鮑牧晏孺子を討ったとき、 高昭子とともに晏孺子を救おうとしたが、破れたため莒に走る。
国景子(コクケイシ)
国弱
黒肩(コクケン)
桓公
克黄(コクコウ)【文官】
楚の臣。箴尹。克生ともいう。子文の孫。
B.C.605克黄は斉に使いしていたとき、闘椒が叛乱を起こし、若敖氏と闘氏と成氏は滅ぼされた。
従者たちは「危険ですから帰国してはなりません」と忠告したが、克黄は「君命を棄てるような者を、だれが受け入れてくれよう。君は臣の天である。 天からのがれることはできない」と言って、帰国して任務を報告してから自ら申し出て司敗の囚人となった。楚荘王は子文の功績を思い 「子文のような功臣の家を絶やしておいて、どうしてよいことをせよと臣下に勧めることができようか」と言って、克黄を旧官に復職させ、生と改名させた。
黒肱(コクコウ)【文官】
邾の臣。
B.C.511冬、黒肱が濫の領地をもって魯に亡命した。
黒肱(コクコウ)
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子皙
国佐(コクサ)【宰相】
斉の宰相。賓媚人、国武子ともいう。国帰父の子。~B.C.573。
B.C.599冬、魯の公孫帰父が斉を聘問した。国佐はその返礼として魯を聘問した。
B.C.589鞍の戦いで斉軍が大敗したため、斉頃公は国佐を使者として晋の郤克に和睦を求めさせ、 聴き入れられなければ決戦しようと言わせた。しかし郤克は聴き入れず「蕭同叔子を人質にし、 (晋軍が進みやすいように)斉の田地の畝をすべて東に向けよ」と言った。
国佐は「蕭同叔の公女といえばわが主君の母であります。斉晋両国は同格ですから、貴国の君の母と同じ地位であります。あなたは覇者でありながら、 母を人質によせよと申されるのは、天下の諸侯を正し治めよという天子の命令に背くのではありませんか。また、わが田地の畝をすべて東せよと仰せられるが、 貴国の兵車の進行のことのみお考えで、農作物のことなどはお考えになりません。それではいにしえの王者の命に背くのではありませんか」と言った。
衛・魯も郤克を諌めたので、郤克は斉の申し出を受け入れて和睦した。
B.C.576、3月12日、国佐は魯成公・衛献公・鄭成公・ 曹成公・宋の世子成・邾人と戚で会合し、曹成公の罪を正した。
B.C.575晋が鄢陵の戦いで楚に大勝した。戦の翌日、国佐は高無咎とともに晋軍を見舞いに行った。
7月、国佐は晋厲公・尹武公・魯成公・邾人と会合して、鄭を討った。
7月24日、鄭軍に夜襲をかけられて、斉・宋・衛の陣地は乱れて壊滅した。
B.C.574柯陵の会盟のとき、国佐は単襄公に会見すると、その言葉は適慮がなく自分の心にまかせて話した。 単襄公は、国佐は禍を受けるであろうと言った。
慶克が斉霊公の母声孟子と私通したため、 国佐はこれを諌めた。そのため慶克と声孟子は国佐を恨みに思った。
7月14日、慶克と声孟子は讒言を信じた斉霊公は鮑牽を足切りの刑にし、 高無咎を追放した。そのため高無咎の子高弱が斉に謀叛を起こした。
国佐は諸侯と共に鄭を討っていたが、斉に帰ってきて慶克を殺して、穀にたてこもって謀反を起こした。
斉霊公は国佐と斉の徐関で盟い、もとの地位に復職させた。
(『春秋左氏伝』はこのような記述になっているが、他の文献では国佐はここで殺されており、整合性が取れない)
B.C.573、1月29日、国佐は斉霊公の命を受けた華免に戈で殺された。
国参(コクサン)【文官】
鄭の臣。
B.C.510、11月、国参は晋の韓簡子、魯の孟懃子、 斉の高張、宋の仲幾、衛の世叔申、 曹の人、莒の人、杞の人、薛の人、小邾の人と会合して成周に城壁を築いた。
告子(コクシ)【在野】
戦国時代の思想家。
国子(コクシ)【宰相】
邢の正卿。~B.C.635。
B.C.636衛の礼至兄弟は、邢に入り込んで邢に仕えた。
B.C.635衛が邢を攻めてきた。国子は礼至兄弟とともに城壁を巡視したとき、左右からはさみ抱えられて城の下に投げられて殺された。
1月21日、かくて邢は衛に滅ぼされた。
国弱(コクジャク)【文官】
斉の臣。国佐の子。国景子ともいう。
B.C.573、1月29日、国佐が斉霊公に殺されたため、国弱は魯に出奔した。
その後、国弱は斉霊公によって呼び戻されて家を継いだ。
B.C.547、7月、斉景公が衛献公を救うために晋に出かけた。 国弱は斉景公を助けて蓼菷の詩を歌って晋平公の徳が諸侯に及ぶことを讃えた。 さらに国弱は晏嬰をつかわして叔向に内々に話をさせた。 そこで晋は衛献公の帰国を許した。
B.C.541春、国弱は鄭の虢の会盟に出席し趙武、公子向戌斉悪叔孫豹公孫帰生、公子子皮、許の人、曹の人と会同した。
B.C.532、9月、国弱は晋平公の弔問に出かけた。
B.C.531秋、国弱は晋の韓宣子季平子華亥北宮佗、子皮、曹人、杞人と衛の厥憖で会合し、楚に攻められている蔡を救う相談をした。
国勝(コクショウ)【文官】
斉の臣。国佐の子。~B.C.573。
B.C.574、12月、斉霊公は国佐を殺そうと考え、国勝を晋に遣わして内乱を報告させるということにして、 清で出発を待たせた。
B.C.573国勝は清の人に殺された。
穀臣(コクシン)【公子】
楚の公子。
B.C.597、6月、邲の戦いで、公子穀臣は晋将荀首魏錡に捕らえられた。
B.C.589荀首は鄭の皇戌と仲良しであったので、鄭に依頼して、 晋が捕えている公子穀臣と襄老のなきがらを楚に還して、 楚に捕えられている智罃の返還を求めた。
B.C.588夏、晋の提案で公子穀臣は襄老のなきがらとひきかえに、智罃と人質交換によって楚に帰国した。
穀甥(コクセイ)【武官】
宋の臣。皇父の子。
狄の鄋瞞が宋に攻め入った。穀甥は皇父の右をつとめてこれを討った。
宋軍は狄軍を宋の長丘で討ち破り、長狄縁斯を討ち取ったが、皇父と穀甥は戦死した。
克生(コクセイ)
克黄
国荘子(コクソウシ)
国帰父
黒要(コクヨウ)【武官】
楚の臣。襄老の子。
B.C.597邲の戦いで襄老が戦死した。黒要は襄老の夫人夏姫と淫通した。
巫臣が夏姫を晋に連れ去ったため、 黒要は子重子反に巫臣の一族ともども殺された。
穀陽豎(コクヨウジュ)
陽穀
穀梁俶(コクリョウシュク)【在野】
魯の人。卜商の弟子。名は俶、赤ともいう。字は元始。
穀梁俶は春秋を卜商より受けて伝をつくり、荀子に授けた。(『春秋穀梁伝』)
狐咺(コケン)【在野】
斉の臨淄の住民。
狐咺は臨淄の城外に住んでいたが、正論したために斉湣王に斬罪に処せられた。
これ以後、民は湣王になつかなくなった。
胡公(斉)(ココウ)【王】
斉公(6代目)。名は静。哀公の弟。~B.C.860。
B.C.863周夷王は哀公を煮殺し、静を擁立する。
都を薄姑に移す。
B.C.860末弟の山に襲撃され殺される。
胡公(陳)(ココウ)【王】
陳公(初代)。姓は嬀、名は満。閼父の子。の後裔。
武王が商王朝に勝つに及んで、舜の後裔を捜し求め、閼父を見つけた。 周武王は長女大姫を嬀満に嫁がせて陳に封じた。
壺公(ココウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
「召軍符」や「召鬼神治病王府符」など全20余巻はみな壺公によってつくられたという。市中で薬を売り、日が暮れると壺公は壺の中に飛び込んだ。 その壺の中は仙宮の世界で楼閣や侍者もいたという。
呉広(ゴコウ)【文官】
趙の臣。
B.C.311武霊王が大陵に遊んだ。後日、武霊王は一人の処女が琴を弾じ、詩をうたう夢を見た。詩の文句に、
 美人、熒々としてかがやき
 顔は苕の栄咲けるに似たり
 命なるかな、命なるかな
 かつて我をうるわしとせしものなし

とあった。王はしきりに夢を見た話を周囲の者にした。これを聞いた呉広は、王の夫人の手づるで娘の呉娃(孟姚)を宮中に入れ、 武霊王はこれを寵愛した。これが恵后である。
五侯(ゴコウ)【在野】
思想家。墨家の一派。
相里勤の弟子。
墨家の南方グループと二派に分かれた。
古公亶父(ココウタンポ)【王】
周王朝の王。公叔祖類の子。
后稷公劉の業を修め、徳を積み義を行ったので、国人がみな君として尊んだ。
薫育、戎狄に攻められ、住民は彼らに対向しようとしたが「住民を戦争に駆り出してまで君にはなりたくない」と言って、国都豳を去って岐山の麓の周原に移る。 豳の住民は古公亶父を慕って周原に移り住んだ。古公亶父はここにおいて戎狄の風俗を改め制度を一新し、国号を周とした。
実際には戎狄に攻められ国都を追われたと考えるのが通常のようです。しかし古公亶父は周原において行政改革を行います。 国都から逃れるときに奴隷もいなくなったはずです。周原では自らが田畑を耕していかなくてはなりません。農業意欲を出させるために土地を国有化させ(公田)、 収穫物を国王に収めた後、残りは自分のものに出来るようにしたのです。いわゆる公田制です。農業意欲があがったことで周は急速に強国となりました。 ここにおいて商時代の奴隷制度から封建制度へと移り変わるきっかけとなったのです。
五羖大夫(ゴコタイフ)
百里奚
呉句卑(ゴコウヒ)【武官】
楚の臣。
B.C.506冬、楚は呉軍に大敗し、国都の郢は陥落した。沈尹戌は息まで行って引き返し、呉軍を雍澨で破ったが負傷した。 沈尹戌は家来に「誰かわたしの首を隠してくれる者はいないか」と言うと、呉句卑が名乗り出た。そこで沈尹戌は三度戦い「わたしはもうだめだ」と言うと、 呉句卑は沈尹戌の首をはねて、胴体は人に知られぬように隠し、その首をもって逃げた。
胡齕(ココツ)【文官】
斉の臣。
『孟子』梁恵王章句上七章に見える。
伍参(ゴサン)【文官】
楚の臣。
伍参は楚荘王に寵愛された。
B.C.597春、楚は鄭を討ち、鄭は降服した。
6月、晋が鄭の救援にやってきたので荘王はすぐに引き揚げようとした。
伍参「晋の政治を執っている者はまだ就任が浅く、命令が実行されていません。先縠は頑固で人徳がなく、 命令に従ったことがありません。下の者もだれの命令を聞いてよいのか迷っています。この戦いで晋は必ず負けます」
孫叔敖「去年は陳を討ち、今年は鄭を討って休む暇がありません。晋と戦って勝てなければ、 参の肉を食ったところで飽き足らないでしょう」
伍参「戦いに勝ったなら、孫叔殿、あなたは軍略に長じているとは言えなくなります。ともかく勝てなければわたしの肉は晋の軍中にあり、 あなたは食べることができないでしょう」
荘王は悩んだが、孫叔敖に告げて車の向きを北に進ませて決戦して、これを大いに破った。
鼓子苑支(コシエンシ)【武官】
鼓の君。晋の臣。
B.C.527晋の中行呉に攻められた。鼓子苑支は狄に叛いて晋に降服したいと申し出たが、 中行呉は「それは君に仕える礼ではない。鼓人は城を守っていながら二心がある。もしこれを賞すれば、わが国の辺境地方に二心を教えるようなものだ」と言い、 軍吏に命じて鼓人に攻撃を警告させてから攻めようとした。すると鼓子苑支は晋軍が城まで進軍しないうちに降服した。
鼓子苑支は許されてそのまま鼓に封じられた。
B.C.520鼓子苑支は再び晋に叛いた。再度、中行呉に討たれて鼓子苑支は捕らえられた。
鼓子苑支の臣夙沙釐が妻子を連れて去ろうとしたので、軍吏がこれを捕らえた。
中行呉「鼓に新しい君がいるから、ここに止まって君に仕えよ」
夙沙釐「わたくしは狄の鼓君に君臣の宣誓をしましたが、晋の鼓君に対してはしていません。宣誓して臣になったからには二心を持ってはならないといいます。 もし私利を計って旧法を犯すのなら、どうして禍難に会わないことがありましょう」
中行呉は感嘆して「わしはこのような忠臣を得ることができようか」と言い、彼を去らせた。
中行呉はこのことを晋頃公に報告し、鼓子苑支に河陰の地を与え、夙沙釐をその宰相とした。
伍子胥(ゴシショ)【宰相】
楚の臣。呉の宰相。名は員、字は子胥。伍奢の子。伍挙の子孫。~B.C.485。
楚の人。伍挙は楚荘王に仕え、名声があったので、その子孫も楚では有名であった。
B.C.522春、伍奢が費無忌の讒言を受けて捕えられた。 楚平王の使者がやって来て兄の伍尚とともに召して「来なさい。わしはおまえたちの父親を許すつもりだ」と告げた。 伍子胥は「楚がわれら兄弟を召し寄せるのはわが父を生かそうとするのではありません。二人が行って殺されるより、他国に逃れ、その力を借りて父の恥をすすぐほうがましです」と言った。 しかし伍尚は「父が許されると聞いて行かないのは不孝である。父を殺されて報復しないのは無策である。能力をはかって事をするのは知である。 わたしの知恵はお前には及ばない。お前なら敵討ができるであろう。おまえは去れ。わたしは死地に赴く」と言い、ひとりで父のもとに行った。 伍子胥は矢をつがえて使者に「もし父に罪があったとしても、どうしてその子まで呼び出す必要があろう」と言い、 これを射ようとしたので使者は急いで去った。
伍子胥は太子が宋にいると聞いて、宋に赴いて太子建に従った。これを聞いた伍奢は「胥が逃げたとあらば、楚国は危ないことだ」と言い、 伍尚とともに殺された。
伍子胥は申包胥と交遊していたが、申包胥に「私はいつかかならず楚を顚覆させてやる」と言うと、 申包胥は「私はかならず楚を存続してみせる」と言った。
B.C.522宋で華定・華亥らの乱があったので王子建とともに鄭に逃れた。王子建は晋と謀って鄭を滅ぼそうとしたが、発覚して殺された。 伍子胥は王子建の子とともに呉に出奔した。 伍子胥は楚の国境の昭関で楚の役人に捕らえられそうになり、ついに公子勝と離れ、単身徒歩で逃げた。途中で病気になったり、乞食をしながらようやく呉に着いた。
B.C.520呉王が戦を好んだので、伍子胥は謁見することができ、楚を討つのが得であると進言したが、 公子に「伍子胥は自分のために仇を報じたいと思っているだけだ」と反対された。伍子胥は「彼はよからぬことを起こそうとしている。 しばらく彼のために勇士を探して、わたしは時節を待とうとしよう」と言い、専諸という勇士を光に引き合わせた。そのため伍子胥は公子光の賓客となった。
そして自らは勝と共に身を退いて野に耕し、専諸が事を成就するのを待った。
B.C.516楚平王が没した。呉は楚を討ったが、呉軍は背後を断たれ、帰国できなくなった。
B.C.515光は国内が手薄になったことに乗じて、専諸に命じて僚を殺させて自立した。
闔閭(公子光)は伍子胥を召して行人(宰相)とし、共に国事をはかった。伍子胥は申に封地を受けた。
B.C.512冬、闔閭は伍子胥に「楚を討つのはどうであろうか」と問うと、伍子胥は「三軍を編成して楚軍に不意討ちをかけ、三軍の中の一軍が進み出たら、敵軍はきっと全軍出てくるでしょう。 出てきたらわが軍は引きあげ、敵が引き上げたらこちらは進み出ましょう。そうすれば敵は疲労しましょう。そして三軍が別々にあちこちから攻め立てて敵軍を惑わせ、 すっかり疲労したところを三軍こぞって総攻撃するなら、きっと大勝利を収めることができましょう」と答えたため、闔閭はこの計略を用いることにした。
B.C.510楚昭王子常を将軍として呉を討ったので、伍子胥はこれを迎え撃ち、 予章で大いにこれを破り、楚の居巣を攻略した。
B.C.506蔡昭侯は伍子胥と伯嚭を頼りとして、子のと大夫の子を人質として呉に入れた。
闔閭は伍子胥と孫武に「先年、あなたたちはまだ郢に侵入の時期ではないと言ったが、いまはどうか」と問うた。二人は 「楚将囊瓦(子常)が貪欲なため、唐・蔡二国は楚を恨んでいます。まず唐・蔡二国を味方に引き入れるようになさいませ。 そうすればよろしゅうございましょう」と答えた。
闔閭はこれを聴き入れ、全軍を挙げて唐・蔡とともに楚を討ち、漢水をはさんで楚軍と対峙した。
ここで呉王の弟夫概が私兵五千を率いて子常を討った。子常は敗走したため、呉軍は勝ちに乗じて前進し、五戦五勝し、 ついに楚の国都郢に迫った。
11月28日、楚昭王は出奔し、翌29日に闔閭は郢に入城した。伍子胥は楚昭王がすでに出奔していたので、かわりに父兄の仇である楚平王の墓を暴き屍に300回鞭を打って敵に報いた。
山中に逃れていた申包胥は人づてに「その復讐の仕方はひどいではないか。かつて平王の臣で北面して仕えた身であったのに」と言った。伍子胥は「わが素志を遂げるのに、 日は暮れて道が遠かった。だから、うろたえ急ぎ、道理に従って行うことができなかった」と答えた。
B.C.496闔閭が越との戦いで没すると子の夫差を補佐する。
B.C.494越を討ち、越王勾践を会稽山に囲んだ。勾践が降伏を請い、呉王夫差はこれを容れようとした。伍子胥は夫差に 「いけません。呉と越とは仇敵として戦をしてきた国です。共存はありえません。また北方の中華の国に勝っても、わが国はその地に住めませんが、 越の国には住めますし、その舟にも乗れます。その利益を失ってはなりません。天が越を呉に賜うたのであります。越をお許しなさいませぬように」 と言ったが聴き入れられなかった。 伯嚭が勾践を許すよう進言したので「今にして越を滅ぼさなくては、のちのちかならず後悔なされましょう。勾践は賢君であり、 范蠡は良臣であります。 帰国の後は、乱を起こすでしょう」と諌めたが、夫差はついに越を許した。
B.C.489夫差は斉を討とうとした。伍子胥は「勾践は食事の肉を一皿として、人民と苦楽を共にしているということですが、この人が死ななければ、 かならずわが国の禍となりましょう。呉にとって越があるのは腹心に病があるようなものです。斉など呉にとって皮膚のかさぶたにすぎません。願わくは、 王には斉を棄て置いて、越の征伐を先になさいますように」と諫言したが聴き入れられなかった。
夫差は斉を討ち、これを艾陵で破った。王は伍子胥の前言を責めたが、伍子胥は「王よ、お喜びになってはなりません」と言ったので、夫差は怒った。 伍子胥は自殺しようとしたが夫差が止めたのでやめた。しかしこれ以後、伍子胥は夫差に疎んじられるようになった。
越が呉に粟を借りたいと申し出てきた。伍子胥は「与えてはなりません」と諌めたが、夫差はついに与えた。伍子胥は「王はわたしの諫言をお聴き入れになりませんが、 三年もすれば呉は廃墟になりましょう」と言った。
太宰伯嚭としばしば越の問題について争論した。そのため伯嚭は伍子胥を讒言して「伍員は表面こそ忠実そうですが、実際は残忍な男です。 かつて自分の父兄をさえ顧みなかったほどですから、どうして王を顧みることができましょう。さきの斉の戦勝を員は恨んでおります。王には用心なさって下さい。 員は必ず乱を起こしましょう」と言った。
B.C.485夫差ははじめこれを信じず、伍子胥を斉に使いさせた。伍子胥は自分の子に「わしはたびたび王を諌めたが、聴かれなかった。 わしが呉の滅びるのを見るのはやむを得ぬとしても、おまえが呉に殉ずるのは無駄なことである」と言い、 わが子を斉の大夫鮑牧に委託した。夫差は大いに怒り「伍員はやはりわしを欺いた。謀反に役立てようとするのだ」と言い、 伍子胥に属鏤の剣を賜い自刎するようすすめた。
伍子胥は大笑して言った「わしはおまえの父を覇者にした。わしはまたおまえを立てて王とした。そのときおまえは呉の国を分けて半分をわしにくれようとさえしたが、 わしが受けなかっただけのことだ。しかるに今、讒言を真に受けて、わしに死ねと言う。嗚呼、嗚呼、わしが死ねば、おまえは一人ではとても立ってゆけまい」
そして使者に向かい「かならず我が墓に梓を植えよ。呉王の棺にするためである。わが眼をえぐって呉の東門に置け。その眼で越兵の入城するのを見るためである」 と言って自殺した。
夫差はこれを聞いて大いに怒り、伍子胥の屍を鴟夷(酒の皮袋)に入れて銭塘江に浮かべた。呉人はこれを憐れんで、祠を江のほとりに立て、名づけて胥山と言った。
後に伍子胥の予言どおり越は呉を滅ぼした。夫差は「伍子胥にあわせる顔がない」として顔を布で覆って自刎したという。
呼子先(コシセン)【神】
仙人。列仙伝に見える。
漢中の城門の下にいた卜師であり、100余歳の長寿を保った。
ここを去るとき酒屋のお婆さんを呼んで、二人で竜に乗って華陰の山に去った。
伍奢(ゴシャ)【文官】
楚の臣。太子の太傅。伍挙の子。伍椒鳴ともいう。~B.C.522。
B.C.547伍挙が讒言されたため晋に亡命しようとした。楚康王は位と禄高を増して、伍奢に命じて伍挙を迎えさせた。
B.C.529楚平王が即位すると、伍奢は太子建の太傅となった。
B.C.522楚平王は費無忌の讒言により、太子建に反心ありと疑うようになり、伍奢にそれを問責した。 伍奢は「王はどうして、たかが小臣の口先だけで、骨肉の親をうとんじられますか」と言ったが、費無忌が「いまにして彼らを抑えなければ、後悔なさいましょう」 と言ったので、楚平王は伍奢を捕えた。さらに費無忌は楚平王に「伍奢に子がふたりおります。殺さなければやがて楚の禍となりましょう。 父を放免するという口実でふたりをお召しになれば、必ず来ましょう」と進言した。そこで楚平王は使いをやっていつわって伍奢に「2人の子を呼び寄せたなら、 生かしてやろう」と言わせた。
伍奢「尚は来ましょうが、胥は来ますまい」
使者「どうしてか」
伍奢「尚は生まれつき廉直で、節義に死ぬことも出来、親孝行で情けぶかい。父が許されると聞けば、必ず来ましょう。死ぬのを何とも思っていません。 一方、胥は生まれつき知恵があってはかりごとを好み、勇気があって功を誇る男です。必ず殺されると知ったら、絶対に来ないでしょう。しかし楚のうれいとなるのは、 この子でしょう」
伍奢の思ったとおり、伍尚だけがやって来た。伍奢はこれを聞いて「楚は心配事が多くなるであろう」と言った。 そして伍奢は伍尚とともに殺された。
壺叔(コシュク)【武官】
晋の臣。
重耳の亡命に従い、晋君となることを助ける。
彼は賤臣であったが、論功行賞で賞されなかったので「わが君は三度も論功行賞をされたのに、わたくしまで及びませんでした。わたくしに罪があるなら、どうか罰していただき とう存じます」と言った。文公は「もちろんそちも褒賞しようと思っていたのだ」と答える。
胡傷(コショウ)【武官】
秦の客卿。中更。胡陽ともいう。
B.C.274魏を討ち、巻・蔡陽・長社を取る。
B.C.269趙を討ち、閼与を攻めるが、陥ちなかった。
伍尚(ゴショウ)【文官】
楚の臣。伍奢の子。~B.C.522。
B.C.522春、伍奢が費無忌の讒言を受けて捕えられた。 楚平王の使者がやって来て弟の伍子胥とともに召して「来なさい。わしはおまえたちの父親を許すつもりだ」と告げた。 伍尚は伍子胥に「父が許されると聞いて行かないのは不孝である。父を殺されて報復しないのは無策である。能力をはかって事をするのは知である。 私の知恵はおまえに及ばない。お前なら仇討ができるであろう。おまえは去れ。わたしは死地に赴く」と言い、ひとりで父のもとに行き、伍奢とともに殺された。
狐溱(コシン)【文官】
晋の臣。温伯。狐毛の子。
B.C.635晋は叔帯の叛乱を鎮圧し、周襄王を王城に迎えため、 陽樊・温・原・州・陘・絺・組・欑茅の地を賜った。そこで狐溱は温伯に任じられた。
瞽叟(コソウ)【神】
の父。 盲目であったという。
瞽叟は舜の母が死んだあと、妻を娶ってを生んだ。
瞽叟は象といっしょに舜を殺そうとし、舜に米倉を修繕するよう言いつけ、屋根に上ったのを見すまして、梯子を取り去って下から火をつけた。 それが失敗すると、今度は舜に井戸さらいを言いつけ、舜が井戸に入ったと見るや、上から土を入れて生き埋めにしようとしたが、また失敗した。
孤竹君(コチククン)【王】
商王朝末期の諸侯。
伯夷叔斉という子がいたが、孤竹君は叔斉につがせたかったと言われる。彼の死後、 兄弟は位を譲り合ってどちらも国を棄てて、周に逃げたといわれる。
扈輒(コチョウ)【武官】
趙の臣。~B.C.234。
B.C.234秦将桓齮に討たれ、扈輒は殺されて兵10万を失う。
伍得(ゴトク)【将軍】
楚の将軍。姓は伍、名は得。
伍得は周の国境に駐屯して、西周を討とうとした。
狐突(コトツ)【将軍】
晋の将軍。姓は狐、字は伯行。~B.C.637。
狄の人。
狐突は狐姫を生んだ。
B.C.660冬、申生が皋落狄討伐に出ると、狐突はその馭者となった。狐突は車右の先友に 「君侯が太子に偏衣を着せ、金玦を佩びさせた。たとえ努めても、 狄を全滅できようか」と言った。先友は「すべてはこの征伐にかかっています。ただ努めるだけです。何の心配もいりません」と答えた。
稷桑まで来ると、狄が邀撃してきたので申生は戦おうとした。狐突は諌めて「いけません。いま国家は危険です。もし父君の意に従って太子の地位を去れば死を免れ、 国家の利ともなります。ここで狄を戦って身を危うくして、内から讒言を起すのはよろしくありません」と言った。しかし申生は「いけません。 思うに、君侯はわたくしの心を計ろうとされるのです。戦わずに帰れば、私の罪はますます大きくなります。わたしが戦死すれば、令名だけは残りましょう」と言い、 狄を破った。
帰国すると狐突は門を閉ざして外出しなくなった。
B.C.650狐突は曲沃へ行ったとき申生の夢を見た。申生は「夷吾は無礼である。天帝は晋の土地を秦に与えようとしており、 秦はわしを祀ろうとしている」と言ったので、狐突は「『鬼神はその宗族でない者の祀りをうけない』と聞いております。そうすれば君の祀りも途絶えてしまいます。 もう一度お考え下さい」と言うと「もう一度天帝に請うてみる」と言って去った。また申生に会い「天帝は夷吾を罰せられる。晋は韓で敗れるだろう」と言った。実際、 晋は韓原で秦に敗れる。
B.C.637懐公は即位すると、秦の討伐を恐れ国中に命令して「重耳に従って逃亡したものは、 期日を定めて召集する。来ない者はことごとくその家を滅ぼす」と言った。狐突の子のは重耳に従っていたが、 突は召集に応じなかった。懐公は怒って狐突を捕えた。狐突は「いまあの子たちを召すことは、君に背くことを教えるようなものです。 どうしてそのようなことができましょう」と言い、殺される。
姑布子卿(コフシケイ)【在野】
春秋時代の人相見。姓は姑布、字が子卿。
晋の卿趙鞅の子らの人相を見て、趙毋卹のみが将軍となると予言した。
そのため趙鞅は太子を廃して趙毋卹を太子とした。
夸父(コホ)【神】
古代の神。
太陽の聖なる力に挑み、太陽が沈む場所まで競争をした。だが喉が渇いたため黄河に行って、その水を飲み干した。それでも足りずに次ぎの川に行って飲もうとしたが、 その前に夸父は喉の渇きで死んでしまった。
狐父(コホ)【文官】
晋の臣。
B.C.531晋は昭公と会合して楚に攻められている蔡を救おうとした。そこで狐父は命じられて楚に赴いて蔡を許すよう請うたが、楚は聴き入れなかった。
五父(ゴホ)【公子】
陳の公子。桓公の弟。
B.C.719桓公が鄭を討とうとした。
五父は「仁者に親しみ隣国と仲良くすることは国の宝であります。鄭の和睦を受け入れるべきです」と言ったが、桓公は「恐るべきは宋と衛である。鄭に何ができよう」 と言って聴き入れなかった。
B.C.717、5月11日、陳は鄭に攻められた大敗した。
B.C.716陳は鄭と和睦した。五父は鄭に出かけて、盟約に列席した。
12月2日、五父は鄭荘公と盟いを結んだが、血を口元に塗るとき、気の抜けた様子であった。 鄭の泄伯は「五父はきっと禍にかかるであろう」と言った。
胡母敬(コボケイ)【在野】
胡母敬は字書『博学篇』を著した。
狐毛(コモウ)【将軍】
晋の将軍。狐突の子。~B.C.629。
B.C.633郤縠が死んだので、 文公趙衰を卿にしようとしたが、趙衰は辞退して狐偃を推挙した。 狐偃は「狐毛の知恵は臣よりすぐれ、年も上です。毛が卿に任命されなければ、拝命することはできません」と辞退したので、文公は狐毛を上軍の将に任じた。
B.C.632城濮で楚と戦った。狐毛は、二本の大旗を立てていつわって退却し、追撃してきた子西率いる左軍を大いに破った。
B.C.629、没す。
狐射姑(コヤコ)【将軍】
晋の将軍。字は季它。中軍の将。中軍の佐。狐偃の子。賈季ともいう。コエキコともいう。
B.C.621春、夷の蒐で狐射姑は中軍の将に、趙盾は中軍の佐に任命された。
しかし陽処父が温から帰って来ると、晋襄公は改めて蒐を行い、 狐射姑と趙盾を入れ替えた。かくて趙盾が国政を握ることとなった。
8月15日、襄公が没した。太子が幼少であったので、趙盾は年長者である公子を擁立しようとした。 狐射姑はこれに反対して「公子を立てるのがよい。 彼の母辰嬴懐公文公に愛されていたから、 民も喜ぶであろう」と言った。趙盾は反対して「辰嬴の身分は低く、二君に愛されたことは淫らである。また陳という小国に仕えているのは、見識がない。 どうして民が喜ぼうか」と言い、先蔑士会を秦に遣わして公子雍を迎えさせた。
狐射姑もまた公子楽を陳から呼び寄せた。しかし趙盾は公子楽を道中の郫で殺した。
9月、狐射姑は陽処父を恨みに思い、一族の狐鞫居を使ってこれを殺した。
11月、晋は狐鞫居の罪を正して殺した。狐射姑は晋に居られなくなり、狄に逃れた。
B.C.620夏、狄が魯の西辺の地を侵略したので、魯文公は晋に報告した。趙盾は狄に出奔している狐射居に依頼して、 狄の宰相鄷舒をたずね、魯を侵略したことを責めさせた。
鄷舒が「趙衰と趙盾とどちらがすぐれているか」と尋ねた。狐射姑は「趙衰は冬の太陽のように親しみのある人、 趙盾は夏の太陽のように恐ろしい人である」と答えた。
古冶子(コヤシ)【武官】
斉の臣。
景公にその勇力をもって仕える。
晏嬰公孫接田開彊・古冶子を退けようとして 「三人それぞれ自分のてがらを計った上で、二個の桃を食べよ」と言った。
古冶子は田開彊と公孫接と功を争い、古冶子に及ばないとして「わしの勇はあなたに勝らず、功はあなたに及ばない。桃を取って譲らないのは貪ることになる。 ここで死なないのは勇がないことになる」と言い、ふたりは桃を返して、首を切って死んだ。
古冶子は「ふたりがここで死んで、冶がひとり生きるのは不仁である。人に恥をかかせるのに言葉をもってして、自分だけが勇士の名声を誇るの不義である。
然りと雖もふたりの功績は同等であるから、一個の桃を分けて食べたらよく、自分が一個の桃を食べればよかったのだ」と言い、またその桃を返して、頭を打ち付けて死んだ。
狐庸(コヨウ)【文官】
晋の臣。巫臣の子。
B.C.585狐庸は行人(外交官)となって呉に赴き、呉に射御を教えて、楚を討たせた。
胡陽(コヨウ)
胡傷
吾離(鄧)(ゴリ)【王】
鄧侯。
B.C.705鄧侯吾離は魯を訪問する。
吾離(戎)(ゴリ)【王】
姜戎の君。
吾離は秦に攻められて瓜州から追い出され、晋恵公のところに身を寄せた。晋恵公は吾離に土地を分け与えた。
鯀(コン)【神】
の臣。宗伯。崇の伯爵。
堯に黄河の治水を命ぜられる。鯀は天帝の息壌を盗んで治水を行ったが、そのことが天帝にばれて息壌を取り上げられたため、 治水に失敗した。そのため堯に、その責を問われ羽山に3年間幽閉されて死んだ。また堯の命を受けた祝融に殺されたともいう。
またのちに東戎となったとされる。
鯀の死体は腐らずに、その腹からが生まれたという。その後、鯀は黄熊(異本では亀や龍)に変化したという。
性格が剛直であったため堯と妥協が出来ずそのために殺されたのではないかともいわれる。9年たっても治水を成功させることが出来ずに解任されたことから、 屈原『天問』で「なぜ解任させたのか?続ければ成功したのではないか」と疑問を呈した。 また治水が成功したら堯の後継者の候補となるのではないかとに恐れられたため、解任されたのではないかともいわれる。
髠(コン)【王】
胡の君。
B.C.519呉が楚の州来を討ったため、髠は頓・沈・蔡・陳・許とともにこれを救った。しかし呉軍に破られ、髠は沈の君とともに捕らえられた。
髠頑(コンガン)【公子】
鄭の公子。成公の太子。
B.C.582鄭成公が晋に捕えられた。
B.C.581春、子如が公子を擁立した。
4月、鄭人は公子繻擁立を不服に思い、公子繻を殺して太子髠頑を立てた。
5月12日、晋に捕らわれていた成公が帰国した。
B.C.574、5月、鄭は諸侯に攻められたので、太子髠頑と侯ドウは楚の人質となった。そこで楚は援軍を出した。
昆吾(コンゴ)【神】
楚の先祖。姓は己、名は樊。陸終の子。
昆吾の後裔は夏王朝のとき、侯伯(諸侯の長)となったが、商の湯王に滅ぼされた。また昆吾は夏王朝の史官であるともいう。
庚辰(コンシン)【神】
古代の神。
の命令で、淮河の荒れ狂う神を捕らえ、鼻に鐘をつけて遠くの山に追放した。その後、淮河は穏かに海へ流れるようになったという。
渾沌(コントン)【神】
古代の創造神。『荘子』にみえる。
渾沌は顔も目も鼻も耳も口もない神であり、体は黄色い袋のようであり、足が6本で翼が4枚あったという。渾沌は天地の中心を支配し、南海の神、 北海の神がそれぞれの領域を支配していた。この海の神々は渾沌のいつもの親切なもてなしのお返しをしようと思い、渾沌が見たり聞いたり食べたり呼吸ができるようにと、 1日ずつわけて7つの穴を彫った。すると渾沌は7日目に死んでしまったという。
髠屯(コントン)【武官】
鄭の臣。
B.C.627、12月、楚は鄭を討ち、楚に亡命している公子を鄭に入れようとした。このとき公子瑕の車が周氏の池に転覆したため、 髠屯はこれを捕えて鄭繆公に献じた。
渾良夫(コンリョウフ)【武官】
孔文子の侍童。美男子であったという。
主人の孔文子の没後、夫人の伯姫と密通する。伯姫は渾良夫との結婚を許してもらうため、渾良夫を蒯聵のもとに遣わし、 彼を国君とすることを謀る。
B.C.479蒯聵と渾良夫をこっそり孔氏の邸に誘い入れ、戈をついて先導し、孔悝を崖際に追い詰め強迫して、 蒯聵を立てることを誓わせ、台(うてな)に登って群臣を集めさせ、蒯聵を即位させる。


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