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列伝 チ


地(チ)【公子】
宋の公子。宋元公の子。太子の同母弟。
B.C.522、6月16日、華氏と向氏は叛乱を起こし、公子地は太子欒・公子とともに華亥の人質となった。
10月13日、華・向の二氏は敗れて陳に逃げ、華亥は「君に背いて逃げ、そのうえ君の子を殺しては誰もわれわれを迎えてくれないであろう」と言って、 華牼に命じて公子たちを送り返した。
B.C.500秋、公子地は蘧富猟を愛し、自分の財産を11等分して、その5を与えた。
冬、斉景公向魋を愛していたため、公子地の白馬をとりあげて向魋に与えた。 公子地は立腹して向魋を打ちすえた。そのため公子地は陳へ出奔し、公子辰は引き留めるようお願いしたが、景公は聴き入れなかった。
B.C.499春、公子地は亡命した公子辰・仲佗石彄とともに宋の蕭に入って叛乱を起こした。
蚳ア(チア)【文官】
田斉の臣。霊丘の長官。
霊丘の長官をやめて士師となったが、王に諫言しないことを孟子に指摘された。蚳アはそこで王を諌めたが、 用いられなかったので、官を辞して立ち去った。
智盈(チエイ)【文官】
晋の臣。智朔の子。智悼子、荀盈、伯夙ともいう。B.C.566~B.C.533。
B.C.566智盈が生まれると、父の智朔は没した。
B.C.550、4月、欒盈がひそかに曲沃に入って叛乱を起こした。智盈は年が若かったので、 中行氏の意見に従って欒盈に組しなかった。結局、欒盈の叛乱は失敗した。
B.C.546、6月8日、諸侯が宋で会合することになり、智盈は趙武の後を追って宋に到着し、諸侯と盟いを結んだ。
7月4日、智盈は趙武に「楚の様子が大変険悪である。晋に襲いかかるかもしれない」と言うと、趙武は「こちらが左(東)まわりして宋の都に入るならば、 どうすることもできまい」と答えた。
智盈は会合が終わるとすぐに楚に出かけて、直接立ち会って楚と盟いを結んだ。
B.C.544、6月、智盈は諸侯の大夫を集めて、杞に城壁を築いた。
B.C.533、6月、智盈は斉に出かけて妻を迎えた。帰る途中、智盈は戯陽で没した。
智罃(チオウ)【将軍】
晋の臣。下軍の佐、中軍の将。字は子羽。荀首の子。荀罃、知伯、智武子ともいう。~B.C.560。
B.C.597、6月、邲の戦いで楚と戦い、智罃は敗れて熊負羈に捕えられた。
B.C.588邲の戦いで晋が捕らえた楚の公子穀臣襄老との交換条件で、 智罃は楚から晋に帰ることとなった。楚恭王は智罃を見送って言った。
恭王「わたしを恨んでいるか」
智罃「君はわたしを国に帰って処刑を受けるようにして下さいました。どうして恨みましょうか」
恭王「それなら恩義に感じているか」
智罃「両国が捕虜の縄をといて友好を結ぼうとしているのです。どうして恩義を感じましょうか」
恭王「国へ帰ったら、わたしにどんなお礼をするつもりか」
智罃「恨みも恩義もないのに、どうして恩返しをしなければならないのでしょうか」
恭王「そうはいっても、ぜひとも聞かせてくれ」
智罃「もし処刑することを許されずに父の職を継ぎ、国政に関与し、君の軍とお会いすることがありましたら、 その時は全力を尽くし一命をささげて戦いましょう。これが君への返礼です」
これを聞いた恭王は「晋はまだ争うことの出来ない強国である」と言って、手厚いもてなしをして智罃を晋に返した。
B.C.583趙武が成人して大夫に挨拶回りをした。このとき智罃は「あなたは努力しなされ。宣子(趙盾)の忠節があって、 成子(趙衰)の文徳によって君に仕えるならば、きっと成功するでしょう」と言葉を贈った。 張孟は「智子(智罃)の教訓は立派です。成子宣子はあなたを愛護されているのです」と評した。
B.C.578、5月、智罃は下軍の佐として秦軍と戦い、麻隧でこれを大破した。
B.C.575、4月、晋は鄭討伐の軍を発し、智罃は留守となった。
7月、晋は斉・尹・魯・邾とともに鄭を討った。諸侯の軍は制田に移動した。智罃は下軍の佐として諸侯の軍を率いて陳に攻め入り、陳の鳴鹿まで進撃し、 勢いに乗じて蔡に攻め入った。
B.C.574、智罃は魯に赴いて鄭を討つための援軍を請うた。
B.C.573、1月、欒書の命で、智罃は士魴とともに周へ赴いて、公孫を晋君に迎えた。
B.C.572冬、智罃は魯を訪問し、従来の友好をつなぎ、諸事を相談した。
武子と諡される。
B.C.571、7月、智罃は孟献子華元孫文子・ 曹人・邾人の戚で会合して、鄭を討つ相談をした。
冬、智罃は孟献子・斉の崔杼・華元・孫文子・曹人・邾人・滕人・薛人・小邾人と戚で会合した。
孟献子「晋の虎牢に城を築いて鄭を威圧しましょう」
智罃「それはよい。前年、鄶の会合のとき、斉の崔子(崔杼)が晋についている不平を言っていた。彼は今の会合に参加していないし、 滕・薛・小邾も斉を恐れてやって来ない。わが君の心配は鄭ばかりではありません。わたしは今のことをわが君に申し出てみます。もしうまくいけば、 これはあなたの功です。もし斉の承諾を得なければ斉を討ちましょう。あなたの提案は諸侯にとって幸いとなるでしょう」
諸侯は虎牢に城を築いたので、鄭は諸侯と和睦した。
B.C.570冬、許霊公が鶏沢の会合に参加しなかったため、智罃は許を討った。
B.C.565冬、楚が鄭を討った。鄭は王子伯駢を使者として晋に遣わして、しかたなく楚についたことを報告した。 智罃は子貢に答えさせて「貴国の君はわが君に報告することなく楚と仲良くされました。 それは貴国の君の望んでいることでしょう。わが君は諸侯を率いて貴国の城下でお目にかかるでしょう」と言った。
B.C.564、10月、晋は諸侯とともに鄭を討った。智罃は范匃とともに魯の季武子、 斉の崔杼、宋の皇鄖をつれて中軍を率いて鄭のセン門を攻めた。
10月15日、連合軍は鄭の氾に集まり、晋悼公が鄭を包囲するよう命じた。鄭はこれを恐れて晋と和睦しようとした。
荀偃「このまま鄭を包囲して、楚の到着を待って決戦しよう。そうしなければ鄭はまた楚につくでしょう」
智罃「鄭の和睦を許して、鄭を救おうとする楚にひどい目をあわせよう。晋の全四軍を3つに分けて諸侯とともに楚を迎え討とう。 そうすれば、こちらは疲れておらず、楚は疲れているだろう」
諸侯はみな戦うことを望んでいなかったので、鄭の和睦を許した。
11月10日、諸侯は鄭の戯で同盟し、鄭の降服を許した。このとき鄭は「大国(晋と楚)が鄭に恵みを施さず、武力をもって服従を強要しており、 鄭は神々の祭りを受けることができず、民も土地の利を楽しむことができない」と盟いの文を読んだ。
荀偃が立腹して「その盟いの言葉を改められよ」と言うと、鄭の子展は「神霊に告げて誓いの言葉を結びました。 これが改められるなら、貴国のような大国に背いてよいことになります」と答えた。智罃は荀偃に「われわれが無理に力で盟わせたのです。 礼にかなっていませんでした。しばらく盟いを結んで帰国し、徳を収め、軍を休息してから再び来れば、その時こそ鄭を服従させることができましょう」と言って、 そのまま盟いを結んで引き揚げた。
B.C.563荀偃と范匃が偪陽を討って、宋を晋の与国にするべく努力した宋の向戌に与えて欲しいと願い出た。 智罃は「偪陽の城壁は小さいが堅固である。勝っても武勇とは言われないし、勝てなかったら笑いものにされる」と反対したが、范匃は強く願ったので、 夏に諸侯と共に偪陽を討った。
諸侯は偪陽の攻略に長い時間かかった。荀偃と范匃は智罃に「長雨になりそうです。帰ることができなくなるかもしれませんので、軍を引き揚げましょう」と言った。 智罃は立腹して肘掛を投げつけて「お前たちは偪陽を向戌に与えると決めてかかってわたしに告げたのだ。そのとき許さなければお前たちが命令に背いてはと心配して、 お前たちのいいなりになったのだ。わが君にお勧めして軍を起こさせ、この老骨まで引き連れてきたのに、さしたる武功もなくわたしに罪を着せようとしている。 わたしはとても重い責任には耐えられない。7日で勝てなければ、お前たちに責任を取らせるぞ」と言った。
5月4日、荀偃と范匃はみずから先に立って矢や石をものともせず、8日に偪陽を滅ぼした。晋悼公は偪陽を向戌に与えようとしたが、向戌が辞退したため、 これを宋平公に与えた。宋平公は悼公を宋の楚丘でもてなした。そのとき宋が天子の用いる旗を用いたので、 晋悼公は恐れ憚って次の部屋に引き下がった。そしてその旗を去らせてもらい、宴会を終えて帰路についた。晋悼公は晋の著雍に着くと病気になった。 卜してみると桑林の神のたたりと出た。智罃は「こちらはあの礼楽をお断りしたのに、先方が無理に用いたものだ。宋にたたるべきだ」と言った。
6月、智罃は秦を討った。
9月、晋は諸侯とともに鄭を討った。
11月、楚が鄭の救援に来たので、諸侯の軍は鄭の陽陵に進んだ。
智罃「いまこちらが楚軍を避けて逃げたら、楚はきっと奢るでしょう。その時こそ決戦すべきです」
欒黶「逃げるのは恥です。わたしだけでも進もう」
そこで晋軍は直ちに進撃した。
11月16日、晋軍は潁水をはさんで対陣した。そのとき鄭は楚に服従してしまった。
欒黶は楚に服従した鄭を討とうとしたが、智罃は反対して「われわれは楚軍を防ぐこともできず、鄭を守ることもできなかった。鄭には何の罪があろう。 いま鄭を討ったら楚はきっと救助するに違いない。勝てるとは断言できない。引き揚げるにこしたことはあるまい」と言った。
11月24日、諸侯の軍は引き揚げることになり、鄭の北境を侵して帰った。
B.C.562、4月19日、諸侯は会合して鄭を討った。智罃は夕暮れに鄭の西郊に進み、さらに東進して攻め入った。
B.C.560没す。
智過(チカ)【文官】
晋の臣。智伯荀瑶の一族。智果とも書く。
智甲が荀瑶を後継にしようとすると、智過は諌めて言った。
智過「宵の方がよいでしょう」
智甲「宵は強情であるからだめだ」
智過「宵の強情は顔にありますが、瑶の強情は心にあります。顔が強情なのは害になりませんが、心が強情であると国を破ります。瑶は髪の毛が美しく、 身体が大きく、射と御にすぐれ、技芸に達し、文章が巧みで話が上手で、剛毅果断でありますが、非常に不仁です。瑶が立てば、智一族は必ず滅びるでしょう」
しかし智甲は聴き入れず、荀瑶を後継者とした。
B.C.457荀瑶は韓・魏とともに趙を討ち、晋陽にこれを囲んだ。
B.C.456趙の臣張孟談はひそかに韓・魏君に会い、内通するよう説得した。張孟談はその後、荀瑶に謁見して退出した。智過はそこに出くわし、 荀瑶に「張孟談は何かたくらんでそうです。その志は驕り高ぶり、その歩きぶりは意気揚々としていました」と言ったが、聴き入れられなかった。
智過は退出して韓・魏の二主に会い、荀瑶に「二主は顔色が変わって心が動揺しています。殺したほうがいいでしょう」と言ったが、またも聴き入れられなかった。
そこで「殺さなければ、とことん親密になさいませ。趙を破ったら二人にそれぞれ戸数一万戸の県に封じましょう」と言ったが、荀瑶は「封地を三等分し、さらに二人を封じれば、 私の取り分が少なくなる。だめだ」と言われ、聴き入れられなかった。
智過は退出して、その姓を変えて輔氏と名乗り、とうとう立ち去って二度と会わなかった。
はたして韓・魏は荀瑶に叛き、これを滅ぼし、輔過だけが残った。
智開(チカイ)【武官】
晋の臣。荀瑶(智伯)の子。
B.C.456智伯が三晋に殺されたため、邑人と共に秦に逃亡する。
知起(チキ)【武官】
晋、斉の臣。
B.C.552欒盈が罪を問われて追放された。欒氏の一味であった知起、中行喜州綽邢蒯は斉に出奔した。
智甲(チコウ)【文官】
晋の臣。荀躒の子。
智甲は荀瑶を後継者にしようとすると、智過が諌めて言った。
智過「宵の方がよいでしょう」
智甲「宵は強情であるからだめだ」
智過「宵の強情は顔にありますが、瑶の強情は心にあります。顔が強情なのは害になりませんが、心が強情であると国を破ります。瑶は髪の毛が美しく、 身体が大きく、射と御にすぐれ、技芸に達し、文章が巧みで話が上手で、剛毅果断でありますが、非常に不仁です。瑶が立てば、智一族は必ず滅びるでしょう」
しかし智甲は聴き入れなかった。
宣子と諡される。
智国(チコク)
智伯国
智朔(チサク)【文官】
晋の臣。智罃の子。~B.C.566。
B.C.566智朔は子のを生んで没した。
智襄子(チジョウシ)
荀瑶
知徐吾(チジョゴ)【文官】
晋の臣。
B.C.514秋、祁氏・羊舌氏が滅び、その土地は10の県に分けられ、知徐吾は塗水の大夫となった。
智宣子(チセンシ)
智甲
智荘子(チソウシ)
荀首
智悼子(チトウシ)
智盈
智伯(チハク)
荀瑶
智伯国(チハクコク)【文官】
晋の臣。智氏の一族。智国ともいう。
B.C.457荀瑶韓康子魏桓子と藍台で宴会をしたとき、 戯れて韓康子と魏の相段規を辱しめた。智伯国がこのことを諌めて言った。
智伯国「主君は用心しなければ禍難がやって来ます」
荀瑶「禍難はわしの方から起すのだ。だれが起せるものか」
智伯国「そうではありません。郤氏は車轅の難で滅び、趙氏は孟姫の中傷で衰微し、 欒氏は叔キの訴えで滅び、范・中行氏は函冶の難で亡命しました。
蟻、蜂、さそりのような小さな虫でさえも人に害を与えます。まして君主と宰相なのですからなおさらです」
しかし荀瑶は聴き入れなかった。
智伯瑶(チハクヨウ)
荀瑶
智武子(チブシ)
智罃
紂(チュウ)
受辛
丑(チュウ)【武官】
楚の臣。逢侯。
B.C.312春、秦との戦いで副将軍となる。丹水で戦い、大敗し、兵八万を失って大将軍屈匄とともに捕えられる。
籀(チュウ)【公子】
周王朝の公子。宣王の子。
籀は『史籀篇』(別名『大篆』。周の史官が児童に文字を教えるための書)を著したとされる。
仲嬰斉(チュウエイセイ)
嬰斉
仲衍(チュウエン)【神】
秦王朝、趙の先祖。大廉の玄孫。体が鳥で、頭は人間であったという。
太戊がこれを聞いて御者にするため占ったところ、吉と出たので、彼を御者とした。
中緩(チュウカン)【公子】
魏の公子。
B.C.371武侯が没すると、公子罃(恵王)と太子の位を争った。 斉威王は趙成侯と計って魏を討ち、濁沢で魏は大敗し、囲まれた。
趙は罃を殺して、中緩を立てようとし、斉は魏を二分しようとして意見が分かれたため、斉は兵を引き連れて帰国した。そのため罃は助かったため、 中緩は即位できなかった。
仲堪(チュウカン)【神】
いにしえの賢人。八元のひとりといわれる。帝嚳の子。
仲堪はに仕えたとされる。
仲顔荘叔(チュウガンソウシュク)【文官】
魯の臣。
B.C.544晋の范鞅が来聘し、魯襄公は宴を開いてもてなした。 饗宴の終わりに射礼にふたり一組の射手を3組そろえるため、君の臣だけではそろわなかったため、 仲顔荘叔は召公と一組になって駆り出された。
中虺(チュウキ)【文官】
商王朝の臣。左相。奚仲の後裔。
中虺は左相として湯王を補佐した。
中虺は商王朝が夏王朝の命を退けたことを万民に知らせる文章(誥文)をつくった。
仲姫(チュウキ)【女官】
霊公の夫人。宋の公女。
牙を生む。戎姫が牙を太子に立てるよう請うたとき生母の仲姫はそれに反対する。
仲幾(チュウキ)【宰相】
宋の宰相。左師。仲江の孫。
B.C.520華氏の一族が楚に亡命したため、仲幾は左師に任命された。
B.C.517、11月、宋元公は自分が死ぬ夢を見た。仲幾は「親しい方との酒宴などをお控えください」と言ったが、 宋元公は聴き入れなかった。はたして11月13日に宋元公は没した。
B.C.510、11月、仲幾は晋の韓簡子、魯の孟懃子、 斉の高張、衛の世叔申、鄭の国参、 曹の人、莒の人、杞の人、薛の人、小邾の人と会合して成周に城壁を築いた。
B.C.509、1月、仲幾は工事の割り当てを承諾しないで「滕・薛・郳(小邾)の三国がわが国の代わりに工事をしてくれます」と言い、薛の家老と言い争った。 さらに晋の士弥牟がこれに介入したが仲幾はこれも退けたため、仲幾は捕らえられて晋に連れていかれ、 3月に周に送りかして処刑されることになった。
仲帰(チュウキ)
子家
中期(チュウキ)【在野】
戦国時代の説客。姓は中、名は期。
中期は秦昭襄王と言い争って勝った。昭襄王は激怒したが、中期は恐れずにゆるゆる歩いて退出した。
あるとき昭襄王が側の者に尋ねた。
昭襄王「今日の韓・魏は、最初の頃の強さと比べてどうか」
側の者「及びません」
昭襄王「今の如耳魏斉は、孟嘗君芒卯と比べてどうか」
側の者「及びません」
昭襄王「孟嘗君、芒卯が強い韓・魏を率いて秦を討っても、どうすることもできなかった。今ではなおさらであろう」
側の者「その通りでございます」
中期は琴を傍らに押しやって「王のお考えは誤っておられます。晋の六卿の智氏は他を圧倒しておりましたが、弱小の韓・魏に敗れました。 いま秦の強さは昔の智伯以上ではありません。どうか王には韓・魏を見くびられないようにお願い致します」と言った。
仲咎(チュウキュウ)【文官】
商王朝の臣。
仲咎は湯王を補佐した三賢臣のひとり。
仲君平(チュウクンヘイ)【王】
曹公(3代目)。太伯の子。
中潏(チュウケツ)【神】
秦王朝の先祖。仲衍の玄孫。
西戎の中に居て、西方の辺地を領す。
中康(チュウコウ)【皇帝】
夏王朝5代王。太康の弟。仲康とも書く。
中康の時代、羲氏と和氏が酒におぼれて、司るべき天時を廃し、日の甲乙を乱したので、がこれを正した。
中康は微弱で没した。
仲行(チュウコウ)【武官】
秦の臣。
B.C.621秦繆公が没すると、仲行は殉死した。
秦人はこれを悲しんだ。
仲江(チュウコウ)【文官】
宋の臣。公孫師の子。
B.C.559春、呉が楚と戦って大敗したことを晋に告げてきた。 仲江は華閲と共に晋・魯・斉・衛・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と向で会合した。
中行偃(チュウコウエン)
荀偃
中行桓子(チュウコウカンシ)
荀林父
中行喜(チュウコウキ)【武官】
晋、斉の臣。
B.C.552欒盈が罪を問われて追放された。欒氏の一味であった知起、中行喜、 州綽邢蒯は斉に出奔した。
中行献子(チュウコウケンシ)
荀偃
中行呉(チュウコウゴ)【武官】
晋の臣。荀呉、中行穆子ともいう。荀偃の子。
B.C.554、2月20日、荀偃が没し、中行呉は家を継いだ。
B.C.547夏、中行呉は魯に使いして、魯襄公を招いて会合に参加させた。
B.C.541、6月、中行呉は無終と群狄の軍を大原で討ち破った。
B.C.531、4月、楚が蔡を討った。中行呉は韓宣子に「わが晋は陳を助けることができなかったし、 いままた蔡を救うことができなかった。盟主でありながら滅びゆく国を救うことができないようでは、盟主としての存在がありましょうか」と言った。
B.C.530夏、晋昭公と斉景公が酒盛りをしたとき、 中行呉は晋昭公の介添をした。両君は投壺の遊びをしたが、中行呉は「わが君の矢が命中したら諸侯の旗頭となるだろう」と祈ると、晋昭公の矢は命中した。 士文伯が「あなたの口上は間違っている。すでに晋は盟主です。投壺でそれを決めたりしましょうか。 斉君はわが君をあなどっていますから、もう来なくなるでしょう」と言ったが、中行呉は「わが国は武勇に優れています。斉はわが国に仕えずにどこに仕えるのか」と答えた。 それを聞いた斉の公孫傁は斉景公を連れて退出した。
中行呉は斉軍と合同するふりをして鮮虞に請うてその国を通らせてもらい、そのまま昔陽に侵入した。
8月11日、中行呉は肥を滅ぼし、肥の君緜皐を連れて帰った。
B.C.529中行呉は著雍から上軍を率いて鮮虞に攻め入って中人に至り、敵陣に衝車を突入させて激戦し、大いに戦果をあげて帰った。
晋は魯の季平子を捕らえて国に連れて帰っていた。 魯昭公が彼を迎えるために晋に赴いた。中行呉は韓宣子に「わが君が魯の卿を捕らえて、 その主君を来朝させるのは好ましいことではない。辞退するべきだ」と進言した。そこで晋は士景伯に命じて黄河のほとりで魯昭公に会って辞退させた。
冬、魯の子服椒が中行呉に私的に会って季平子を釈放するよう懇願した。中行呉は韓宣子に進言して季平子を釈放させた。
B.C.527秋、中行呉は軍を率いて鮮虞を討ち、その属国の鼓を包囲した。鼓人が狄に叛き降服したいと内通してきたが、中行呉は受けつけなかった。軍吏がなぜかと尋ねると、 中行呉は「わたしは叔向から、上にある者が善を好み悪を憎むならば、下の者は進むべき所を知る、と聞いた。 鼓人は城を守っていながら二心がある。これは悪であるし、もしこれを賞すれば、わが国の辺境地方に二心を教えるようなものだ」と言い、 包囲を続けた。包囲して3ヶ月たって鼓の人々で降服を願い出る者があったが、中行呉は「民にはまだ物を食べている顔色がある」と言ってまた断った。 軍吏が軍を疲労させていると諌めると、中行呉は「わたしはひとつの城を取って民に怠け心を教える事はしない」と答えた。かくて鼓の人々が食糧がなくなったことを告げてから、 中行呉はその城を取ったが、ひとりも殺さなかった。中行呉は鼓の君エン鞮をつれて帰った。
B.C.525秋、晋頃公はいつわって周に洛水と三塗山で祭りを行いたいと申し入れをさせて、そのすきに陸渾を討とうとした。
9月25日、中行呉は軍を率いて棘津から黄河を渡り、祭官に命じて犠牲を洛水の神に供えたため、陸渾の人は討たれるとは気がつかなかった。晋軍はそれに乗じて進軍した。
9月28日、晋軍は陸渾に攻め入ってこれを滅ぼし、陸渾が楚に心を寄せていたことを責め立てた。陸渾の君は楚に逃げ、大勢の人が周の甘鹿に逃げ込んだ。
B.C.521、11月7日、中行呉は曹・斉・衛とともに宋で叛乱を起こしている華氏と宋の赭丘で戦った。
B.C.520鼓子苑支が反したので、再び中行呉はこれを討伐し、鼓子苑支を捕らえて鼓人が主君(鼓子苑支)に従うことを禁じた。
しかし鼓子苑支の臣夙沙釐という者が妻子を連れて去ろうとしたので、軍吏がこれを捕らえた。
中行呉「鼓に新しい君がいるから、ここに止まって君に仕えよ」
夙沙釐「わたくしは狄の鼓君に君臣の宣誓をしましたが、晋の鼓君に対してはしていません。宣誓して臣になったからには二心を持ってはならないといいます。 もし私利を計って旧法を犯すのなら、どうして禍難に会わないことがありましょう」
中行呉は感嘆して「わしはこのような忠臣を得ることができようか」と言い、彼を去らせた。
中行呉はこのことを晋頃公に報告し、鼓子苑支に河陰の地を与え、夙沙釐をその宰相とした。
穆子と諡される。
中行宣子(チュウコウセンシ)
荀庚
中行文子(チュウコウブンシ)
荀寅
中行穆子(チュウコウボクシ)
中行呉
仲山甫(チュウザンポ)【文官】
周王朝の臣。
B.C.789千畝の戦いで兵を失った宣王が、民を数えて新兵を募集しようとするのを諌めた。
仲子(魯)(チュウシ)【女官】
恵公の夫人。宋武公の娘。~B.C.721。
仲子は生まれたとき、魯という字型のすじが手のひらに出ていたので、武公は「この子はきっと魯の夫人になるであろう」と言い、仲子を魯恵公に嫁がせた。
仲子は允(桓公)を生んだ。
B.C.721、12月16日に没す。
仲子(斉)(チュウシ)【女官】
霊公の夫人。公子の母。
斉霊公には、宋の妾のなかで仲子と戎姫がいて、戎姫は斉霊公のお気に入りであった。 仲子が公子牙を生むと、これを戎姫に依頼した。戎姫は公子牙を太子にしてほしいと願ったので、斉霊公はこれを許した。仲子は 「それはいけません。後を継ぐべき方を廃するのは不吉であり、諸侯を偽るのは為し難いことです。光は太子となって諸侯の会合に列しております。 今、罪もないのに廃するのは、諸侯をないがしろにすることです。君は必ず後悔なさるでしょう」と諌めたが、斉霊公は「わたしのやることだ」と言って公子牙を太子とした。
B.C.554夏、斉霊公が危篤になると崔杼は公子光を呼び戻してこれを立て、 公子牙は句瀆の丘の獄舎に閉じ込められた。
仲叔于奚(チュウシュクウケイ)【武官】
衛の臣。
B.C.589衛軍が斉軍に敗れた。衛の臣石稷が斉軍に援軍の兵車がたくさんやってくると言いふらしたので、 斉軍は衛軍を攻撃するのをやめ、衛の鞫居に軍を留めた。このとき仲叔于奚は新築を守っていたが孫良夫を助けた。
この戦ののち、衛人が仲叔于奚の功をたたえて邑を与えようとすると、仲叔于奚はそれを辞退して「邑よりは諸侯と同じように曲県を用いることと、 繁纓をつけた馬で朝することを許していただきたい」と願ったので、許された。
仲章(チュウショウ)【文官】
赤狄の潞の臣。
B.C.594宰相鄷舒が君主の嬰児の眼を傷つけ、 夫人伯姫を殺した。晋の臣伯宗は「狄には5つの罪悪があります。先祖の祭りをしないのが1つ。 酒に沈っているのが2つ。賢人の仲章を用いず黎氏の領土を奪ったのが3つ。わが伯姫を殺したのが4つ。その君の眼を傷つけたのが5つ。 罪悪はすべてそろっているので討伐すべきです」と口実をつけて晋は潞を攻め滅ぼした。
中壬(チュウジン)【皇帝】
『史記』では商王朝3代王という。
外丙の弟、湯王の3男で在位4年で没したとされる。
しかし後年、発掘された甲骨文には沃丁の名は見られず、実在の人物ではないとされる。
仲壬(チュウジン)【文官】
魯の臣。叔孫豹の子。~B.C.537。
仲壬は萊書と公宮で遊んでいると、魯昭公から玉環を賜った。 そこで仲壬は豎牛に命じて叔孫豹にお目にかけようとしたが、豎牛はいつわって叔孫豹の命として仲壬の身につけさせた。 何も知らない叔孫豹はこれを見て立腹して、ただちに仲壬を追い出した。そこで仲壬は斉に出奔した。
B.C.538冬、叔孫豹は病気が重くなったため仲壬を呼び寄せようとした。しかし豎牛は仲壬を呼び寄せず、叔孫豹は没した。
B.C.537春、仲壬は父の喪を聞いて斉から魯に帰った。しかし豎牛と南遺に攻められた。 司宮が仲壬を射ると、その矢が仲壬の目にあたって死んだ。
仲任(チュウジン)【女官】
鄢国の夫人。
鄢国は仲任を夫人にしたために鄭武公に滅ぼされた。
仲孫(チュウソン)【文官】
斉の臣。
B.C.647叔帯が斉に亡命してきたので、叔帯に代わって襄王に詫びるが、聴き入れられなかった。
仲孫何忌(チュウソンカキ)
孟懃子
仲孫貜(チュウソンカク)【文官】
魯の臣。
B.C.518、2月21日、没した。
仲孫湫(チュウソンショウ)【文官】
斉の大夫。名は湫。字は仲孫。
B.C.661冬、仲孫湫は魯に赴き、斉に帰って報告した。
仲孫湫「魯の公子慶父を除かなければ、魯の騒動は治まらないでしょう」
桓公「どうしたら除くことができようか」
仲孫湫「やがて自分から倒れるでしょうから、それまで待つべきです」
斉桓公「魯を攻めることができるか」
仲孫湫「できません。魯は周の礼を守っております。君には騒動を鎮めて魯と親しくされるべきです。これこそ覇王たる者のなすべき仕事です」
B.C.647仲孫湫は斉桓公の命で周を聘問し、ついでに叔帯を取り持って周に帰させようとした。 しかし仲孫湫は、周襄王の怒りが解けていないとして、この話を持ち出さなかった。
秋、戎が周を攻めたので、仲孫湫は奔走して諸侯の兵を周に送り、周を守備させた。
仲孫速(チュウソンソク)
孟荘子
仲孫它(チュウソンタ)【文官】
魯の臣。名は它。字は子服。孟献子の子。
季孫行父は宰相であったが、その妾は絹を着ず、穀物を食べる馬もなかった。仲孫它は諌めて「あなたは魯の上卿であり、 宣成二君の相となられましたのに、質素にしておられます。人々はあなたをけちであるといい、国家の光栄にもならないでしょう」と言った。
季孫行父は「民をみると彼らの父兄で粗衣粗食の者が多くいるので、わたしは派手にしないのです。民が粗衣粗食なのに、 わたしの妾と馬とをもって国家の華とするとは聞いたことがありません」と答えた。
父の孟献子は季孫行父からこの話を聞くと、彼は仲孫它を7日間監禁した。
この後、仲孫它は妾に粗末な服を着させ、馬には雑草しかやらなくなった。季孫行父はこれを聞いて「過去があっても反省して改められる人は、民の上に立つべき人だ」と言い、 仲孫它を上大夫に任命した。
仲孫它の子孫は子服氏を称する。
仲孫秩(チュウソンチツ)【文官】
魯の臣。名は秩。孟荘子の子。
B.C.550、8月10日、孟荘子が没した。季孫弥孟孝伯を孟氏の後継ぎにしようとしたので、 仲孫秩は邾に出奔した。
仲孫蔑(チュウソンベツ)
孟献子
仲佗(チュウタ)【文官】
宋の臣。公子の家老。
B.C.500冬、仲佗は公子辰と石彄らとともに陳へ出奔した。
B.C.499春、仲佗は公子辰・公子・石彄とともに宋の蕭に入って叛乱を起こした。
仲丁(チュウテイ)【皇帝】
商王朝9代王。太戊の子。
『史記』では、中丁とされる。
都を慠にうつす。この時代に商が衰える。
仲伯(チュウハク)【文官】
商王朝の臣。
湯王に仕え、典宝(国家の宝典)を作る。
厨武子(チュウブシ)
魏錡
仲父(チュウホ)【王】
南燕公。
B.C.675秋、仲父は周の公子を助けて周室を攻めた。
B.C.674春、鄭厲公に攻められて、仲父は捕えられた。
仲旄父(チュウボウホ)【文官】
周王朝の臣。
三監の乱(禄父の乱)ののち、東方の経営に当った。
仲由(チュウユウ)【武官】
衛、魯の臣。名は由、字は子路。孔子の弟子。季氏の家老。B.C.542~B.C.479。
卞の人。孔門の十哲のひとり。
仲由は性質が粗野で、勇力を好み、志が剛直で、雄鶏の羽で作った冠をかぶり、牡豚の皮で作った剣飾を佩び、孔子を軽んじ粗暴であった。
しかし孔子が礼をもって漸次これを誘導したので、後には儒者の服を着、進物を持参し、弟子になったことを請うた。
仲由は孔子の護衛役として生涯を尽くした。仲由が孔子に仕えて以後、孔子の悪口を言う者がなくなったという。
仲由は何かよいことを聞いて、それを実行できないうちは、他のことを聞かなかった。
B.C.498夏、仲由は季氏の家老となり、郈・費・成の三都城を取り壊そうとした。このころ叔孫氏は郈を取り壊したので、 季氏も魯定公の命で費を取り壊そうとしたが、 しかし孟孫氏がその本城の取り壊しを許さなかったため不首尾に終わった。
B.C.490孔子が蔡から葉にうつった。
また葉を去って蔡に帰った。途中、長沮桀溺が耕していた。孔子は彼らを隠者と思い、 仲由に渡し場を問わせた。
長沮は「あの手綱をとっているのは誰か」と問うた。
「孔丘です」
「それなら渡し場ぐらいは知っているだろう」
桀溺は「きみは誰だ」と問うた。
「仲由と申します」
「滔々としてかえることのないのが、なべて天下の趨勢なのだ。それなのに、いったい誰とともにこの世を変えようというのか。人を避ける説士(孔子)に従うより、 世を避ける隠士に従うほうがましではないか」
仲由がこれを孔子に告げると「わたしは鳥獣などと群れを同じゅうして、自らいさぎよしとしておれないのだ。天下に道さえおこなわれておれば、 丘は誰と共に世を変えようなどとするものか」と言った。
仲由は魯の大夫である季氏の家宰となった。
B.C.479蒯聵が乱を起こし、自ら立とうとした。仲由は孔氏の邸に入ろうとすると、子羔が出てくるのに出会った。 子羔は「門はすでに閉じられました」と言うと、仲由は「とにかく門まで行ってみます」と答えると、「もう間に合いません。 禍に遇いに行くにはあたらないでしょう」と言われたが、仲由は「禄を食んでいるからには、禍を避けようとは思いません」と言い、門に入ろうとした。 公孫敢が「入ろうとなさるな」と内から言ったので、仲由は「利を求めて禍を逃れるのは、小人の振る舞いです。私は違います」と答え、 使者が内から出た隙に門内に入った。
仲由は「太子には孔悝を捕えておく必要などございますまい。またたとい孔悝を殺したとて、 必ずこれに継ぐ者がおりましょう」と叫び、また衆人に向かって「太子は勇気のない方です。もし台(うてな)を焼けば、孔叔(悝)を許すでしょう」と叫んだ。
太子蒯聵はこれを聞いて恐れ、石乞・盂黶を仲由に立ち向かわせ、彼らは戈で子路の冠の紐を絶ち切った。 「君子は死んでも冠を取り落としませぬ」と言って、仲由は紐を結んで死んだ。
孔子は衛の乱を聞いて「ああ、柴(子羔)なら逃げてこようが、由(子路)は死ぬだろう」と嘆いたという。
仲熊(チュウユウ)【神】
いにしえの賢者。八元のひとりといわれる。帝嚳の子。
仲熊はに仕えたとされる。
仲雍(チュウヨウ)
虞仲
仲梁(チュウリョウ)【在野】
B.C.3世紀前半の思想家。仲良とも書く。
孔子の死後、儒家は8派に分かれたとされるが、仲梁はその一派の代表。
仲梁懐(チュウリョウカイ)【武官】
魯の臣。
B.C.505、6月18日、季平子が没した。 陽虎が魯君が佩びる璵璠という美玉を季平子のなきがらに佩びさせて納棺しようとしたため、 仲梁懐がそれを与えないで「臣としての歩み方を変えてよかろうか」と言った。陽虎は立腹して仲梁懐を追い出そうとして公山不狃に告げると、 公山不狃は「彼は主人(季平子)のことを思っているのです。何もとがめる必要はあるまい」と言った。
季桓子が季平子に代わって領地を見て回ったが、仲梁懐は侮って無作法であったため、季桓子は陽虎に「彼を追い払ってくれないか」と言った。
9月28日、陽虎は季桓子とそのまたいとこの公父文伯を捕らえ、仲梁懐を追い払った。
杼(チョ)
太戊
智瑶(チヨウ)
荀瑶
朝(衛)(チョウ)【公子】
衛の公子。
B.C.544呉の季札が衛を聘問し、遽伯玉史狗史鰌・公子公叔発・公子朝に会い、その人物に感服して「衛には君子が多い。まだ心配はない」と言った。
公子朝は衛襄公の夫人宣姜と通じたため、 責められることを恐れて謀叛を起こそうとした。
B.C.522公子朝は孟縶に恨みを持つ斉豹北宮喜褚師圃とともに謀叛を起こすこととした。
6月29日、斉豹が孟縶を殺した。
8月25日、しかし叛乱は鎮圧されたため公子朝は褚師圃・子玉霄・子高魴とともに晋に出奔した。
B.C.521、11月7日、公子朝は晋・曹・斉とともに宋で叛乱を起こしている華氏と宋の赭丘で戦った。
朝(趙)(チョウ)【公子】
趙の公子。武侯の子。
B.C.386敬候に叛乱を起こすが勝たず、魏に出奔した。
朝(宋)(チョウ)【公子】
宋の公子。司寇。~B.C.609。
B.C.609、12月、没す。
朝(宋)(チョウ)【武官】
宋の公子。
公子朝は美貌であり、かつて南子と淫通した。
B.C.496秋、衛霊公が夫人南子のために公子朝を呼び寄せて置いた。世間はこれを非難した。
稠(チョウ)【公子】
周王朝の王子。~B.C.520。
B.C.520、6月20日、周王室の内乱で王子稠は諸王子とともに単穆公を追撃したが、逆に殺された。
鼂(チョウ)【武官】
秦の臣。庶長
B.C.428大臣らと共に攻めて懐公を囲み、懐公を自殺させる。
重(チョウ)【神】
帝顓頊の孫。
帝顓頊は天の中心を支配し、孫の重に天を永久に支えているように命令し、 もうひとりの孫のに地を永久に押し付けているように命じた。
重(チョウ)【女官】
景公の夫人。魯の公子の子。
B.C.515冬、魯昭公が再び斉に来た。斉景公は酒を飲む宴を開き、そのときに「重をお目にかからせたい」と話したが、 魯の子家懿伯は礼に背くとしてそれを避けて魯昭公を連れて帰った。
縶(チョウ)【公子】
秦の公子。
B.C.651晋献公が没すると、 晋の公子夷吾(恵公)の一党は梁由靡を秦にやって晋に入る許しを請うた。 そこで秦繆公子明公孫支を呼んで「晋の国乱について、 わしは誰を使節としたらよかろうか」と言った。子明は「君は公子縶を使節とすべきです。縶は明敏で礼を知り、恭敬で精密なことが分かります。 明敏であれば細かく行き届いた計画ができます」と言い、公子縶を勧めた。そこで繆公は縶を使節として重耳を弔問させた。
公子縶は「国を得るのは常に喪の時であり、国を失うのも常に喪の時であるといいます。好機は逸すべからず、喪は長くありません。公子よ、 帰国を計られよ」と言った。しかし重耳は「わたしは亡命中に父が死に、霊前哭泣の席に連なることもできないのに、どうして大それた気持ちをおこすことができましょう」 と言って断った。
そこで公子縶は夷吾を弔問して同様の質問をした。夷吾は再拝稽首して承諾し「わたくしが帰国して社稷を安んずることができましたら、 河外の大きな城5つを献上いたしましょう」と言った。
公子縶は帰国して復命した。繆公は二人の公子を比べて「わしは公子重耳の味方をしよう。重耳は仁者である」と言った。 公子縶は「君のお言葉はまちがっておられます。君がもし晋君を立てて成功させたければ、重耳を立てるのもよいでしょう。 しかし君が威光を天下に挙げようとされるのでしたら、不仁の人を立てるほうがよいでしょう」と言ったので、繆公は夷吾を立てることとした。
B.C.645秦は韓原の戦いで晋を破り、晋恵公を捕らえた。繆公は王城まで帰還すると、大夫を集めて相談した。
繆公「晋君を殺すか、放逐するか、つれて帰るか、晋へ送り返すか、どれがよいか」
公子縶「殺すのがよいでしょう。放逐すれば諸侯と策謀する恐れがあり、つれて帰れば国内に悪事が多くなりましょう。晋に返せば、君の憂患となりましょう」
公孫支「いけません。大国の晋の軍を辱しめた上、その君を殺せば、臣は報復しようとするにちがいありません」
公子縶「むやみに殺すのではありません。公子重耳を置き換えようとするのです。戦争で勝つのは武であり、無道を殺して有道を立てるのは仁であり、 勝利の後に損害がないのは知です」
公孫支「戦争して諸侯の笑い者になるのは武とはいえず、弟を殺して兄を立てるのは仁とはいえず、再び恩恵を施しながら完成しないのは知とはいえません。 つれて帰って晋と和平を結ぶのがよろしいでしょう。そしてその嫡子を人質にすれば、わが国に損害はないでしょう」
繆公は晋君を許して国へ帰すこととして上舎(上等の宿舎)に泊め、七牢のご馳走をした。
11月、晋恵公を帰し、その子を人質とし、秦はここに初めて河東の政治を管理するようになった。
B.C.636晋の重耳が秦の援助を受けて帰国した。
2月、晋の臣呂省郤芮はこれを防ごうと兵を率い廬柳に陣を布いた。 秦繆公は公子縶を呂省のもとにやったので、呂省らは軍を引いて郇の地に駐屯した。そのため重耳は即位できた。
貂(チョウ)【宦官】
斉の寺人(宦官)。
B.C.658貂は、はじめて軍の秘密を多魚で洩らした。これがやがて斉の乱れのもととなった。
貂は雍巫に、料理を斉桓公にすすめさせて、桓公のお気に入りとさせた。
長安君(秦)(チョウアンクン)【公子】
秦の公子。名は成蟜。秦王の弟。~B.C.239。
B.C.239趙を討つ。しかし趙の屯留の民を従えて秦に謀反した。
秦はこれを討って長安君を殺し、軍吏をみな斬り、屯留の民を臨洮にうつした。
長安君(趙)(チョウアンクン)【公子】
趙の公子。孝成王の弟。母は恵文后
B.C.264秦が攻めてきたため、援けを斉に求めた。
斉は「長安君を人質にするなら、出兵しよう」と返答したので、趙は長安君を人質に出した。
B.C.238饒に封じられる。
趙禹(チョウウ)【文官】
趙の臣。
B.C.263韓の上党太守馮亭が趙に上党を献上してきた。孝成王は平原君と趙禹を招いて相談した。
趙禹は「百万の大軍を出動させて攻め、歳を越えましたが、いまだに一城さえ得られないのです。いま座して17の城邑を受けるのは、国家の大利です。 むざむざ取り逃がしてはいけません」と進言した。
B.C.260趙は長平で秦に多いに破れた。孝成王は趙豹のはかりごとを聴き入れず平原君・趙禹の進言を聴いたことを後悔した。
琱ウン(チョウウン)【女官】
召伯虎の夫人。エン皇父の娘。
趙嬰(チョウエイ)
趙嬰斉
長衛妃(チョウエイキ)【女官】
桓公の夫人。昭伯の娘。母は宣姜。 長衛姫とも書く。
長衛妃は無詭を生んだ。
長衛妃は易牙を寵愛し、易牙を斉桓公のお気に入りにする。
B.C.643、10月8日、斉桓公が没した。長衛妃は易牙とともに、無詭を擁立することに反対する大夫を殺してこれを擁立した。
長衛妃は、元太子を擁立する宋襄公に攻められる。斉の国人は戦おうとせず、 長衛妃は無詭ともども殺された。
趙嬰斉(チョウエイセイ)【武官】
趙の先祖。晋の臣。中軍大夫。趙衰の子。母は趙姫。趙嬰ともいう。
趙姫の勧めで、趙衰は狄の妻叔隗を引き取り、その子趙盾を嫡子とした。 趙嬰斉ら三人の子はみな謙遜して、趙盾に仕えた。
B.C.597春、鄭が楚に攻められた。
6月、晋は鄭を救援することとし、趙嬰斉は中軍大夫に任じられた。
晋軍が黄河に到着すると、すでに鄭は楚に降服して和睦した。
晋は邲の戦いで大敗したが、趙嬰斉は部下に命じて舟を黄河の岸に準備させておいたので、真っ先に黄河を渡って逃げることができた。
この年、大夫屠岸賈は趙氏を誅しようとして、司寇となると、 霊公を弑した犯人を取り調べ、 趙盾に疑いをかけた。韓厥趙朔にはやく逃げるよう勧めたが、 趙朔は「あなたが必ず趙氏の祀りを絶やさないというのなら、わたしは殺されても恨みはない」と拒否した。
屠岸賈は景公の許可を得ず、勝手に将軍たちと共に趙氏を下宮(私邸)で襲い、趙朔、趙同趙括、趙嬰斉を殺して、その一族を滅ぼした。
(『史記』は屠岸賈がB.C.598に趙氏を族滅させたとしているが、他の古典と整合性が取れていない)

趙嬰斉は趙朔が早く没したので、その妻趙荘姫と淫通した。
B.C.586趙嬰斉は、趙同と趙括に斉に放逐された。趙嬰斉は「わたしがいるから欒氏が乱をおこさないのです。わたしが晋から離れると、 兄上おふたりがどんな迫害を受けるか心配です」と言ったが、ふたりは聴き入れなかった。
時に趙嬰斉は夢を見て、天帝が「わたしを祭れば、お前に幸いを授けましょう」と言った。 趙嬰斉はどうしたものかと士渥濁に尋ねた。士渥濁は「わかりません」といったが、 自分の従者に「神は立派な人に幸いを与え、みだらな者に禍いを与えるものだ。お祭をすればきっと無事逃げられるだろう」と言った。
かくて趙嬰斉は天帝を祭り、その翌日に斉に出奔した。
趙黶(チョウエン)【文官】
衛の臣。
B.C.533、1月、趙黶は楚霊王、魯の叔弓、 宋の華亥、鄭の子大叔と陳で会合した。
趙鞅(チョウオウ)【将軍】
趙の先祖。晋の大夫。姓は趙、名は鞅または志父。趙簡子、趙孟ともいう。趙景叔の子。~B.C.463。
あるとき趙鞅は「魯の孟献子には彼のために戦う臣が5人もいるのに、 わたしには1人もいないのはどうしてでしょうか」と言った。叔向は「あなたが欲しないからです。 もし、欲するならわたしは勇士の列に加わってもいいのです」と言った。
B.C.517夏、趙鞅は魯の叔詣、宋の楽大心、衛の北宮喜、 鄭の子大叔、曹の人、邾の人、滕の人、薛の人、小邾の人と黄父で会合し、王室の乱について相談した。 趙鞅は諸侯の大夫に命じて周王に穀物を送り、護衛の兵士を備えさせて「明年、王を都にお入れしよう」と言った。この会合で趙鞅は鄭の子大叔に会い、 礼の偉大さを知り「わたしは一生あなたの教えてくださったお言葉を守りましょう」と言った。
B.C.516趙鞅と荀躒は軍を率いて周敬王を都に入れようとして、 女寛に命じて闕塞の要塞を守らせた。
B.C.514六卿は法をもって公族の祁氏(祁盈)・羊舌氏(楊食我)を誅し、その領邑を10県に分け、 それぞれ自分の一族をそれらの県の大夫とする。晋の公室は、これによってますます弱められる。
あるとき楚の王孫圉が晋を訪問すると、晋定公は王孫圉を饗宴に招いた。 趙鞅は佩玉を響かせて王孫圉の礼を助けて言った。
趙鞅「楚には白珩(佩玉)はありますか」
王孫圉「あります」
趙鞅「それが宝として伝えられて、何代になりますか」
王孫圉「まだ一度も宝としたことはありません。楚が宝とするのはよく訓辞を作る観射父と、 よく古典に通じる左史イ相です。やかましく鳴る華美な珩などは、わが楚は蛮夷ではありますが、 宝とすることはありません」
趙鞅は恥じ入った。
B.C.513冬、趙鞅は荀寅とともに軍を率いて汝兵に城壁を築き、さらに一鼓の鉄を出させて刑法を刻む鼎を作り、 范匃がかつてつくった刑法の文を刻んで人民に示した。蔡墨が「范氏と中行氏は滅びるであろう。 中行寅は下卿でありながら上の権限や命令を無視して勝手に刑法の鼎を作り、国法と定めた。さらに范氏も邪悪の仲間に入れ、さらに趙氏にも災いが及ぶであろう」と言った。
B.C.506子大叔が没した。趙鞅はその弔いに出かけて大いに悲しんだ。
B.C.504夏、魯の季桓子孟懃子が鄭の捕虜を献上してきた。 孟懃子は范鞅に向かって「陽虎がもし魯にいられなくなったら、晋の中軍の司馬にしていただきたい」と言うと、范鞅は 「わが君にはそれぞれ官職が決まっていて、わたしは関知できません」と答えた。范鞅は趙鞅に「魯人は陽虎を嫌っている。 孟孫は陽虎が亡命する兆しを見抜いて晋に行くものと思っている」と言った。
8月、宋の楽祁が晋に遣いして范氏の家ではなく趙氏の家に宿泊し、趙鞅に楊の楯60を献上した。
B.C.502趙鞅は晋定公に「諸侯のうち宋だけが晋に仕えています。しかるに今その使者を捕らえておくのはよくないことです」と申し上げたため、 楽祁を宋に帰そうとしたが、その途中で没した。
4月、斉が魯を討ったため趙鞅は范鞅と荀寅とともに魯を救った。
晋軍は衛のセン沢で盟いを結ぼうとした。趙鞅は衛霊公を抑えつけようとして、渉佗と成何をその役に任じた。 そのため衛は晋に背いた。
B.C.501陽虎が出奔してきたので、趙鞅はこれを受け入れて手厚く待遇した。
あるとき、趙鞅は病み、5日して昏睡におちいった。二日半して昏睡から覚めて大夫たちに語った。
「わしは天帝のもとに行って、はなはだ楽しかった。一匹の熊がいて、わしをさらおうとしたので、天帝に命ぜられ、わしがこれを射ると命中して死んだ。羆が現れて、 またこれを射ると命中して死んだ。
天帝はすこぶる喜ばれ、わしに二つの笥を下されたが、それぞれ一対ずつの笥であった。
またわしの子が天帝のそばにいるのを見た。天帝は一匹の翟種の犬をわしに預けて『おまえの子が聖人したあかつきには、この犬を与えよ。』と言われた。 また『趙氏はまさに興隆しようとしている。周人(衛)を范魁の西で破るだろうが、これも長続きしないだろう。いまわしは虞舜の勲を思うて、 その後裔の女の孟姚をおまえの十世の孫にめあわそうと思う』と」家臣の董安于はこれを記録して締まった。 ある日、趙鞅が外出すると、一人の男が道に立ちはだかった。これを避けようとしたが、のかなかった。 男は「わたしはご主君に申し上げたいことがございます」と言った。趙鞅は「おお、わしは確かにそちを見たことがある」と言った。男は人払いを請うて話を始めた。
「あなたがご病気の折、わたしは天帝のそばにおりました」
「そうだ。そういうことがあった」
「天帝があなたに熊と羆を射殺させたのは、天帝が晋の君主に范・中行の二卿を滅ぼされるということです。かの熊と羆は、それぞれ二卿の先祖です」
「天帝がわしに、一対ずつの笥を賜ったのはどういうことか」
「主君の子が、やがて翟の地で代と智氏の二国に打ち勝つことです」
「翟種の犬を預けて『おまえの子が成長したとき、これを与えよ』と言われたが、あの子はいったい誰か。またどうして犬を与えよとおっしゃったのだろう」
「あの児はあなたのお子で、翟の犬は代の先祖です。主君のお子はやがて代を領有なさいましょう。主君の世嗣(武霊王)の時になれば、 政治を改め、胡服をつけ、中山・楼煩の二国を併合されるでしょう」
趙鞅はこの男を登用しようとしたが、男は断って去っていった。趙鞅はこのことを記録して府庫にしまった。
またある日、姑布子卿が趙鞅に謁見した。子卿は趙鞅の子らの人相を見て、ただ毋卹を見たときだけ「この子こそ、 まさしく将軍になられます」と言った。後日、子らをあつめて「わしは宝の符を常山の頂きに隠してある。最初に見つけたものに褒美をやろう」と言った。 子らは捜したが、誰にも見つけられなかった。 毋卹が帰って「符を見つけました」と言うので「出して見せよ」と言うと毋卹は「代を見下ろしましたが、代は取ることが出来ます」と答えた。 こうして趙鞅は太子の伯魯を廃して毋卹を太子とした。
B.C.500夏、趙鞅は衛を攻め囲んだ。
B.C.497春、趙鞅は邯鄲の代官趙午に「先年、衛からわしに贈られた民五百家を返してくれ。わしはそれを晋陽に置こうと思う」 と言った(以前に趙鞅が衛を囲んだ時、衛は五百家を貢入していた)。趙午は承諾して帰ったが、邯鄲の長老たちが「それはいけない。衛はこの五百家を以って邯鄲と親しくしようとしているのだ。 それを移すのは衛との往来を断ち切ってしまうことになる。斉との戦いの結果を見てからにしよう」と言ったので、趙午は約束にそむいた。趙鞅はその話を知らず、断られたため立腹して、 趙午を捕らえて晋陽に拘禁し、使者を邯鄲に遣わして「わたしは内々の事情で午を成敗するので、あなた方は午の後継ぎを立てるがよい」と言って、早速に趙午を殺した。 そのため趙午の子の趙稷渉賓とはかって邯鄲で叛いた。
6月、趙午は荀寅の甥であり、荀寅は范吉射の姻戚であり仲が良かったため、邯鄲を攻め囲むことには関係せず、 謀叛を起こして趙鞅を殺そうとした。董安于がこれを聞いて趙鞅に報告し「まずこれに対処しましょうか」と言った。趙鞅は「わが晋には君より定められた命令があり、 先に災いを起こした者は殺されることになっています。こちらは後手に出る方がよい」と言うと、董安于は「多くの民に害を与えるよりは、 むしろ私一人が死にましょう。どうかわたしに罪を着せて申し開きをしてください」と言ったが、趙鞅は聴き入れなかった。
7月、范氏と中行氏が乱を起こして趙鞅の邸を討った。趙鞅は晋陽に逃げ込み、晋人はこれを囲んだ。
11月、荀躒韓簡子魏襄子らは晋定公の命令を奉じて、 范氏・中行氏を討ったが勝たず、かえって攻められた。都の人々は晋定公を助け、二氏は敗れた。人々は逃げる二氏に追い討ちをかけた。
12月12日、韓簡子・魏襄子が趙鞅を許してほしいと願い出たので、趙鞅は絳に入り、晋定公と公宮で盟った。
この下邑の戦いで、董安于の功績が多かったので、趙鞅は賞を与えようとしたが、董安于は辞退して「わたくしは前代から全力を尽くして職務を行ってきましたが、 それは記録されませんでした。ところが今、狂暴な戦をして賞すると言われます。これでは狂暴を賞することになりますので逃亡したほうがましです」と言った。 そのため趙鞅は賞せず、そのままにしておいた。
B.C.496荀躒が趙鞅に「范氏と中行氏が、乱を起こしたのは、もとは安于からでたものです。晋の法に『乱を起こした者は死罪にする』とありますが、他の二人は罪に伏したのに、 安于だけがそのままになっておるのです」と言った。趙鞅は処置に困り、心を痛めたが、董安于は「わたくしが死んで趙氏が安定し、晋国が安泰になるなら、 わたしの死ぬのは遅すぎました」と言って自殺した。趙鞅はそのなきがらを市場にさらして荀躒に「あなたの仰せで罪人安于を処罰せよということでしたが、もはや安于はその罪に服しました」 と報告した。そこで荀躒は趙鞅と仲直りの盟いを結んで、趙氏は安定した。そして趙鞅は董安于を自分の廟に祭った。 孔子は趙鞅が晋定公の許可を得ないで趙午を捕らえ、また晋陽に立てこもったと聞いて「春秋」には『趙鞅、晋陽に拠ってそむく』と書いた。
趙鞅は尹沢に晋陽を治めさせた。趙鞅は晋陽を城塞にするよう命じると、尹沢は晋陽の税を軽減した。 趙鞅は子の趙毋卹を戒めて「お前は尹沢を軽く見てはならぬ。また晋陽を遠いとしてはならぬ。必ず最後の根拠地とせよ」と言った。
趙鞅は尹沢に「必ず敵の作った営塁を破壊せよ」を命じたが、尹沢はこれを増して高くした。
趙鞅が晋陽に来てこれを見て怒って「沢を殺してから入城しよう。これはわしの仇を宣伝し、わしに恥をかかせるものだ」と言った。 郵無生が進み出て「尹沢はこれを高く修築して、これを手本として戒めて趙家を安んじたいとものだと考えたのでしょう。 彼を罰するならば、善を罰することになります」と言ったので、趙鞅は尹沢を戦で君の危難を救う功と同じ賞を与えた。
B.C.494趙鞅は衛から亡命してきた蒯聵をかくまった。
B.C.493趙鞅は范・中行二氏を朝歌で包囲し、彼らは邯鄲に出奔した。
霊公が没した。
6月乙酉の日、趙鞅は蒯聵を衛に入れようとして、晋に亡命中の陽虎の詐謀を用い、 蒯聵に従って晋に来ていた衛の人十余人に喪服を着せ、衛霊公の喪で衛から迎えに来たもののようによそおって、蒯聵を帰国させた。 しかしこれは失敗して蒯聵は入国できず、宿に入って立てこもった。
そこで晋は蒯聵を衛に入れようとして、趙鞅は兵を率いて衛に味方した鄭軍を鉄の地で大破した。
趙鞅は「わたしは鄭人に撃たれて血袋の上に伏せて血を吐いたが、鼓を打ち続けた。今日の手柄は、わたしに勝る者はいない」と言った。 衛荘公(蒯聵)は趙鞅の車右であったが「わたしは車から9回下り、9回上って敵をみな殺しました。今日の手柄はわたしが一番でしょう」と言った。 また郵無生は趙鞅の御者であったが「わたしの車はむながいが切れるところでしたが、わたしは馬の勢いを止めて切れないようにしました。 今日の手柄はわたしが一番です」と言い合った。
あるとき趙鞅の戎右少室周牛談と力比べをして勝てなかった。 そこで少室周は戎右の役を牛談に譲った。趙鞅はそれを許可したが、少室周を家宰に取り立てて「賢人と知って譲るのは、教訓とすべきである」と言った。
あるとき趙鞅が史官史墨に言った。「范氏と中行氏の良臣を得たいものだ」
史墨「彼らは良臣ではありません。彼らは君を正し助けることができず、禍難に会わせて、その地位を安定させることもできませんでした。 彼らを君のために国外で立ち行くようにさせ、死ぬまで努力させるべきです。もし戻ってくるようでしたら、それは良臣ではありません」
趙鞅「その通りである、わしが間違っていた」
あるとき趙鞅は壮馳玆に「東方の士で、誰が賢人ですか」と尋ねた。
壮馳玆「お祝い申し上げます」
趙鞅「質問に答えもせず、なぜお祝いするのか」
壮馳玆「今、主は晋の政をされながら、わたくしのような小人にまで質問され、その上賢者を求められています。わたくしはそれゆえ、お祝い申し上げたのです」
B.C.491趙鞅は鳴犢竇犨を殺した。
B.C.490邯鄲を討ち、荀寅らは柏人に出奔した。趙鞅はまた柏人を囲み、荀寅らは斉に出奔する。
かくして趙氏は邯鄲と柏人を領有し、領邑の広いことは諸侯と変わりなかった。
B.C.485斉を討ち、頼まで侵入する。
B.C.482黄池での会盟で呉王夫差と会盟の長の地位を争った。
このとき、越の勾践が兵を率いて呉軍の帰路を断ち、呉の都を急襲した。夫差は恐れて、早く事を収拾しようとして、 3万の軍を編成して早朝に陣立てをし、晋軍との距離は500mほどであった。晋は驚いて董褐を軍使として 「戦を止め友好を進めようとして正午を会合の時としましたのに、今軍を起したのはなぜですか」と問うた。
夫差は「周の天子から勅命があり、貢物が入らないということだったので、すぐ参上したのです。このままで事が不成功に終わり、諸侯に笑われることを恐れます。 わたくしが君に仕えるかどうかは今日決定します(決戦によって盟主を決めましょう)」と言い、決死の兵5人を連れて来て董褐の前で首を刎ねさせた。
董褐は帰陣して趙鞅に報告して「呉王の顔色を見ますに、大きな憂患があるように思われます。寵妾か嫡出子が死に、 そうでなければ越が攻め入ったのでしょう。とにかく戦をしてはなりませんが、無条件で呉を長とすることを許してはなりません」と言った。
そこで趙鞅は夫差の申し出を承諾し、また董褐を遣わして「諸侯には2人の君はなく、 周には2人の王はありません。君がもし王を僭称することなく、呉公と言われるならば、長幼の序に従う(呉を盟主とする)ことにしましょう」と言った。
夫差は承諾して、盟主として先に血をすすり、晋定公が次にすすった。
(『史記』には、趙鞅が怒って呉を討とうとする動きを見せたので、定公が会盟の長になったとする記述もあり、整合性が取れていない)
B.C.476即位した蒯聵(荘公)が戎州を攻めようとし、戎州から救援の申請を受けたため、趙鞅は衛を包囲する。
B.C.475定公が没す。趙鞅は三年の喪を切り上げ、一年で止めてしまった。
荀櫟が鄭を討った。趙鞅は病んだので、太子毋卹を将として派遣した。荀櫟は毋卹を廃すように説いたが、趙鞅は聴き入れなかった。
B.C.463没し、簡子と諡される。
趙何(チョウカ)【武官】
趙の臣。
B.C.312魏を討つ。
張匄(宋)(チョウカイ)【武官】
宋の臣。華貙の家来。~B.C.521。
B.C.521宋元公は華貙を追放しようとして宜僚を呼び寄せて、 このことを華費遂に告げさせた。不思議に思った張匄は宜僚に剣を突き付けてわけを問いただすと、宜僚は一切を白状した。 そこで張匄は華貙を讒言した華多僚を殺そうとしたが、華貙に止められた。
5月15日、華貙が出発するとき華多僚が華費遂を車に乗せているのに出会った。張匄は立腹のあまり臼任・鄭翩とともに華多僚を殺し、 華費遂をおどして謀叛を起こし、 国外に逃れている人を呼び寄せた。
11月7日、華氏の叛乱軍は、晋・曹・斉・衛の連合軍と宋の赭丘で戦った。張匄は華豹の御者となったが、華豹と公子城が仲たがいして華豹が射殺された。 張匄は車の脇に備えてあったほこを引き抜いて下車したが、公子城にももを射られた。張匄はひるまずに腹ばいになって公子城めがけて撃ちかかったが、 車の横木を折っただけで傷つけられなかった。さらに公子城が矢を射たため、張匄は殺された。
張匄(斉)(チョウカイ)【文官】
斉の臣。
B.C.341魏が趙を討つ。趙は危急を斉に告げ、宣王は大臣にはかった。
張匄は「援けなければ趙は屈して魏に入られてしまいます。 早く援けるのが一番です」と進言した。しかし宣王は孫臏のはかりごとを用いて、趙が疲弊してから救援することにした。
張開地(チョウカイチ)【宰相】
韓の宰相。
昭侯宣恵王襄王のとき宰相となる。
張骼(チョウカク)【武官】
晋の臣。
B.C.549冬、楚が鄭を攻めたので、晋平公は張骼と輔躒に命じて楚軍にいどませ、 地の利に明るい御者を鄭に求め、射犬がその役となった。張骼と輔躒はとばりの中にいて射犬を外に座らせ、 自分たちが食事をすませてから射犬に食事をさせた。そして射犬を兵車を御して進ませ、自分たちは普通の車に乗って出かけた。 いよいよ楚軍に近づいて初めて射犬の兵車に乗り移ったが、ふたりとも足を投げ出して歌を歌い琴を弾いてゆとりのある態度を示した。しかし楚軍に接近した時、 射犬はふたりに知らせずに車を馳せた。ふたりは冑を袋から取り出してかぶり、敵陣に攻め入った。ふたりは兵車から降りて敵兵を手打ちにして投げつけ、 捕虜を寄せ集め小脇に抱えて戦ったが、射犬はふたりの乗車を待たずに車を走らせた。ふたりはかろうじて車に飛び乗り、弓を引いて楚兵に矢を放ち、楚軍から脱出した。 そのときもふたりは車上で足を投げ出して歌を歌い、琴を弾き「公孫(射犬)よ、同乗したのは兄弟のよしみともいうべきだ。どうして二度とも相談してくれなかったのか」 と言うと、射犬は「前は敵陣に突入することを考えただけ。今度は恐ろしかったのです」と答えたので、ふたりとも笑って「公孫の気ばやなことよ」と言った。
趙獲(チョウカク)【武官】
晋の臣。趙武の子。
趙武が執政になると趙獲は「今こそ(范氏、趙氏、韓氏で争っている)州をわがものにしよう」と言ったが、趙武にとめられた。
趙括(チョウカツ)【将軍】
趙の先祖。晋の臣。公族大夫。趙屏、屏季ともいう。趙衰の子。母は趙姫。~B.C.583。
B.C.636趙姫の勧めで、趙衰は狄の妻叔隗を引き取り、その子趙盾を嫡子とした。 趙括ら三人の子はみな謙遜して、趙盾に仕えた。
B.C.607趙盾が趙括を公族にしてほしいと願い出て「括は君姫氏(趙姫)の子であります」と申したので、成公はこれを許した。
冬、趙盾は身分を降って公行となり、趙括に一族を率いさせて公族大夫とした。
B.C.597春、鄭が楚に攻められた。
6月、晋は鄭を救援することとし、趙括は中軍大夫に任じられた。
晋軍が黄河に到着すると、すでに鄭は楚に降服して和睦した。鄭の皇戌が晋の陣地に来て「鄭が楚についたのは国を守るためで、 貴国に対して二心を持つものではありません。貴国が楚を攻めるのなら、わが軍もあとに続きましょう」と申し入れてきた。
先縠「楚を破って鄭を従わせるのは今です。ぜひその申し入れを受けよう」
欒書「わが国の方が徳義がなくて楚に恨まれているので、こちらが不義で楚が正義である。だから楚は疲労しているとはいえない。 鄭は晋が勝てばこちらにつくが、負けたらさっさと楚になびくであろう。鄭の使者は信じることはできませんぞ」
趙括・趙同「軍を率いたからにはただ敵を攻撃するだけだ。鄭を属国にさえすればそれで十分だ。 彘子(先縠)の意見に従うべきである」
これを聞いた荀首は「原(趙同)と屏(趙括)は、失敗して咎めを受けるやからだ」と言った。
結局、晋は邲の戦いで楚に敗れた。
(他の史書では、この年、大夫屠岸賈は趙氏を誅しようとして、司寇となると、 霊公を弑した犯人を取り調べ、趙盾に疑いをかけた。 韓厥趙朔にはやく逃げるよう勧めたが、 趙朔は「あなたが必ず趙氏の祀りを絶やさないというのなら、わたしは殺されても恨みはない」と拒否した。
屠岸賈は景公の許可を得ず、勝手に将軍たちと共に趙氏を下宮(私邸)で襲い、趙朔、趙同、趙括、 趙嬰斉を殺して、その一族を滅ぼした)

B.C.588、12月27日、晋は初めて六卿を設け、趙括は卿となった。
(晋が六卿を設けたのはB.C.588であり、このときには趙括はすでに殺害されているので、整合性が取れていない)
B.C.586趙括と趙同は、趙荘姫に淫通した趙嬰斉を斉に放逐した。
B.C.585冬、晋は楚に攻められた鄭の救援に出かけた。晋軍は繞角から進んで蔡を侵略した。 楚の公子と公子が蔡を助け、桑隧で晋軍を防いだ。 趙同と趙括が決戦の望んだため欒書は許そうとしたが、韓厥・荀首・士燮が諌めたため、欒書はそのまま引き揚げた。
B.C.583趙荘姫が趙同と趙括を讒言して晋景公に「原同、屏季のふたりは謀反を起こそうとたくらんでおり、欒氏・郤氏のふたりがそれを立証しております」と言った。
6月、趙括は趙同と共に晋景公に殺された。
趙括(チョウカツ)【将軍】
趙の将軍。趙奢の子。~B.C.260。
若い頃から兵法を学び兵事を論じ、天下に自分以上の者はいないと自惚れていた。かつて父の趙奢を論破したが、趙奢は「よし」と言わなかった。趙括の母がその理由を問うと、 趙奢は「戦とは生死のことなのに、括は気軽に言っている。括が将軍となったら、趙の軍を敗北させるのは、きっと括だろう」と言った。
B.C.260秦は長平で趙と対峙した。秦は趙の名将廉頗を更迭させようとして、「秦がおそれているのは馬服君趙奢の子趙括が、 軍を指揮してわがほうにあたることである。廉頗ならくみしやすい。やがて降伏するだろう」と言わせた。そこで趙は廉頗に代わって趙括を将軍とした。
趙括は着任すると、軍令をすべて変え、軍吏を更迭した。そして兵を進めて秦軍を撃った。 秦将白起は敗走すると見せかけて二手の伏兵を張って、 敵をおびやかそうとした。趙軍は勝ちに乗じて追撃し、秦は塁壁でこれに抵抗した。
一方、秦の伏兵の一手2万5千人は、趙軍の後方を遮断し、別の一手5千騎は、趙軍と趙の塁壁の間を遮断したため、趙軍は二分され、糧道を絶たれた。
昭襄王はこれを聞くと、みずから河内に出かけ、民にそれぞれ爵一級をやり、年15以上の者を徴発して、大挙して長平に行かせ、 趙の援軍と糧道をさらに遮断させた。
9月、趙軍の絶食は46日間に及び、みなひそかに殺しあって人肉を食った。最後に趙括は血路を開こうとして4隊となって秦の塁を反撃し、4、5たびも繰り返したが、 出られなかった。また趙括は精兵とともに白兵戦を演じたが、秦はこれを射て趙括を殺した。そこで趙軍40万は白起に降服した。
趙簡子(チョウカンシ)
趙鞅
趙桓子(チョウカンシ)【武官】
趙の先祖。晋の臣。趙毋卹の子。~B.C.429。
B.C.430趙毋卹が没すると、浣は若くして立った。
B.C.425趙簡子は中牟に移って政をとった。
趙桓子は献侯を放逐し、自立した。
B.C.429趙桓子が没すると、国人は「桓子の立ったのは、襄子の本意にもとる」と言って、ともに桓子の子を殺し、また浣を迎え入れて位に立てた。
趙希(チョウキ)【将軍】
趙の将軍。
B.C.304武霊王は中山を攻める。
趙祒を右軍とし、許鈞を左軍とし、公子を中軍とし、 王はそれらすべてを統率する将軍となる。牛翦を車騎の将軍とし、趙希は胡軍と代の軍をあわせてその将軍となり、 趙与は陘山に行った。これらの軍は曲陽で合流し、攻めて丹丘・華陽・鴟の塞を取る。
趙姫(チョウキ)【女官】
趙衰の夫人。晋文公の娘。君姫氏ともいう。
趙姫は趙同趙括趙嬰斉を生んだ。
B.C.636趙姫は趙衰が狄にいたときに生ませた趙盾とその母叔隗を晋に迎え入れるように願った。 趙衰がこれを断ると、趙姫は「昔の妻を忘れるようでは、人の上に立って人を使うことはできません」と言ったので、趙衰もようやく許した。
趙姫は趙盾が才能ある人物であるとして、晋文公にお願いして趙盾を嫡子とし、叔隗を正夫人として、自分とその子たちはその下についた。
張儀(チョウギ)【宰相】
縦横家。秦、魏、楚の宰相。魏の人。~B.C.309。
張儀は貴族の末裔であったという。
蘇秦とともに鬼谷先生について縦横の術を学んだ。蘇秦は、 才能が張儀には及ばないと思っていた。張儀は学業を終えると諸侯に遊説して歩いた。
あるとき楚の宰相と酒を飲んだが、たまたま宰相の璧がなくなり、宰相の門下の者は趙魏を疑って「儀は貧乏で品行がよくない。きっと儀だろう」と言い、 張儀を鞭で何百回も打った。
張儀の妻は「ああ、あなたが読書遊説などしなかったら、こうした辱めを受けなくてもすんだのに」と嘆くと、
「わしの舌は、まだあるか」と尋ねた。
妻は笑って「ありますよ」と言うと。
「この舌さえあれば充分だ」と言った。
B.C.329あるとき張儀は楚懐王に「私は用いられないので、北の晋君にお目にかかろうと思います」と言った。
「よかろう」
「大王には、晋から何か手に入れたい物はありませんか」
「黄金も宝石も犀の角も象牙も、楚で産するから欲しい物はない」
「鄭や周の女性が街角に立つと、それと知らない者は天女と見誤るそうです」
「わたしはそれほどまでに美しい中国の女性を見たことがない。どうして女色を好まないはずがあろう」
そこで懐王は張儀に珠玉を与えて資金とした。
懐王の后の南后鄭袖はこれを聞いて恐れ、張儀に黄金一千斤を与えて、 美女を献上しないよう賄賂した。
張儀は懐王との別れの宴で酔い、南后と鄭袖を呼ぶよう請うた。張儀は彼女たちを見て「私は死罪にあたります。わたしはこれほど美しい方を見たことがありません。 それなのに晋から美女を得てきましょうと言い、大王を欺きました」と言った。
懐王は「もうよい。私は天下にこの2人に及ぶ者はないと思っていたのだから」と言った。こうして張儀はまんまと莫大な財宝をせしめた。
蘇秦は諸侯に説いて合従を成立させたが、秦が諸侯を攻めて、合従が崩れることを恐れた。そこで張儀に使いをやり、彼を発憤させようとして「なぜ蘇秦を訪ねて、 斡旋を頼まないのか」と言わせた。
張儀は蘇秦に面会したが、数日も待たされ、粗末な食事を与えられ「きみほどの才能がありながら、これほどまでに困窮するとは情けない。推薦するに値しない」 と言って立ち去らされた。
張儀は発憤して秦に仕えて蘇秦と趙を苦しめてやろうと思い、秦に向かった。
蘇秦は舎人に「張儀は天下の賢士だ。わしなどの及ぶところではない。秦をあやつれるのは彼だけにできることだ。ただ彼は貧乏であったので、 彼が小成に安んじて大志を遂げないかと気がかりだったので心をはげましたのである。おまえはわしのため、それとなく彼に車馬金銭の資を提供してやってくれ」と言った。
そのため張儀は秦恵文君に謁見することが出来、その客卿となった。
蘇秦の舎人が帰国しようとすると、張儀はこれをひきとめた。そこで舎人は全てを話した。張儀は「ああ、私は悟ることが出来なかった。私は明らかに蘇君には及ばない。 この恩があるのにどうして趙をたばかることができよう。蘇君にこう伝言していただきたい『蘇君の存命中は、わたしに何が言えましょうか。 何ができましょうか』と」と言った。
張儀は陳軫と互いに仲が悪かった。張儀が恵文君に「陳軫は楚に行きたがっている」と告げ口をしたが、 陳軫は巧みに言い逃れて、かえって厚遇された。
B.C.328公子とともに魏の蒲陽を包囲し、これを降す。しかし張儀は恵文君に進言して蒲陽を魏に返し、 秦の公子を魏に人質として入れさせた。そして張儀は魏恵王に説いて 「秦に返礼されるべきです」と言い、秦に上郡・少梁を贈らせた。この功で張儀は秦の宰相とする。
張儀は檄文をもって楚の宰相に「かつてわたしが璧を盗んだとして鞭打った。こんどこそ、なんじの城を盗んでやろう」と言った。
B.C.325秦恵文君の命で陝を攻略し、陝人を追い出して魏に与えた。
B.C.324恵文君を立てて王とした(恵王)。
B.C.323斉・楚の大臣と齧桑で会盟する。
B.C.322秦の宰相を免ぜられ、魏の宰相となって秦のために謀った。しかし魏恵王は張儀のことばを聴かなかった。張儀は秦に帰って報告するほどの功績がないことを恥じた。
B.C.319恵王が没し、代わって襄王が立った。張儀はまた襄王に説いたが、襄王にも聴き入れられなかった。 そこで張儀はひそかに秦に通報して魏を討たせた。諸侯はこれを恐れた。
張儀は襄王に秦と結ぶように説き、自身は辞退して秦に戻った。襄王は合従の盟約に背き、張儀の取次ぎで秦に和睦を請うた。
B.C.317再び秦の宰相となる。
B.C.316蜀に内乱があり、苴侯が秦に助けを求めた。一方で韓が秦に攻めてきた。 恵文君はこれを張儀と司馬錯に問うた。
張儀は韓を討つべきだと述べ「韓を討ち、周を脅迫して天子を擁立し、天下に号令すべきです」と言った。
しかし恵文君は司馬錯にしたがい、張儀も司馬錯とともに蜀を討ち、これを滅ぼす。
B.C.313楚が斉と盟約したため、秦恵文君は偽って天下に「張儀の宰相の職を免じた」と宣言し、一方で張儀を楚にやった。
張儀は楚懐王と会見し「わが王が友好したいのは大王であり、わたくしもその門番になってもいいと思っております。 またわが王が最も嫌うのは斉王であり、わたくしの最も厭なものも斉王であります。大王が斉と親しくしておられるのでわが王は大王に仕えることができず、 わたくしも門番になれないのです。王よ、わたくしのために関門を閉じて斉とお断ちくだされ。そしてすぐに使者を出してわたくしとともに西行し、商・於の地、 方六百里を譲ってもらうように秦に請いましょう。こうすれば、斉は弱まり、秦と結ばれ、国を富ますことが出来ます」と言った。懐王はこれを聞いて喜び、 一将を秦に遣わした。
張儀は秦に帰ると、酒に酔って車から落ちたと偽って三ヶ月外出しなかった。懐王は「張儀はわしが斉と交わりを絶っただけでは、まだ足らぬと申すのか」 と言って宋遺を斉にやって斉王を侮辱させた。斉王は怒って楚との盟約を破棄して秦と結んだ。
秦と斉の交わりが出来ると、張儀は朝廷に参内し、楚の将に「あなたはどうして広袤の地六里をお取りにならないのですか」と言った。将軍は「方六百里であり、 六里とは聞いておりませぬ」と言い帰国した。怒った懐王は出兵したが、秦はこれを大破した。
B.C.311秦は楚と和睦しようとしたが、懐王は「張儀が欲しい。土地を得たいとは思わない」と言った。張儀は進んで楚に行きたいと申し出た。秦昭王が 「楚はおまえを殺そうとしているのだ。それでもよいのか」と言うと「わたくしは楚王の近侍靳尚と仲がよく、 靳尚は寵姫鄭袖にうまく取り入っていますので心配ありません。それに以前わたしは商・於の約束のことで楚に背いたため、 わたくし自ら楚王に詫びなければだめでしょう」と答え、楚に行った。
楚で捕えられそうになったが、ひそかに靳尚に会い、靳尚は鄭袖を言いくるめ、鄭袖は張儀のことを王にとりなし、張儀を放免させ、これをよく待遇した。
のち懐王は心変わりしたが、張儀はすでに楚をはなれていた。
張儀は韓に立ち寄り、韓襄王に説いて「王の地は小さく秦に攻められるとひとたまりもありません。合従を解き、 秦と結ぶべきです」と言った。襄王は張儀に従った。
張儀は帰国すると、五邑に封じられ、武信君と号した。ついで恵文君の命で斉に使いした。
張儀は斉湣王を説いて「大王がもし秦に仕えなければ、秦は韓・魏をつかって斉の南を攻め、趙は西を攻め、 臨淄・即墨は王の所有でなくなります」と言った。湣王は張儀に従った。
また趙武霊王に説いて「願わくは趙軍と合戦し、殷の紂王の故事になぞらえて事の理を正したいと思います。 しかしわたくしがひそかに大王のために謀りますに、秦王と会見し、たがいに親善をはかられるにこしたことはありません」と言った。武霊王はこの申し入れを許諾した。
さらに燕に赴き、昭王に説いて「趙は秦と結び、出兵して燕を攻めるでしょう。もし王が秦に仕えるなら趙はみだりに動かないでしょう」 と言った。昭王はこれに従った。
張儀は報告のため帰国したが、恵文君が没し、武王が立った。武王は太子の時から張儀を嫌っていた。諸侯は張儀が武王と仲が悪く、 隙があるのを聞くと、みな連衡に背いて、ふたたび合従した。
B.C.310張儀は誅されるのを恐れ「斉はわたくしを恨んでおりますので、どうかわたくしを魏にやって下さい。そうすればかならず斉は魏を討ちましょう。 大王はその隙に魏や韓をお討ちください」と言い、魏に赴いた。
はたして斉は魏を討った。魏襄王はこれを恐れると、張儀は「王よ案じ給うな。斉の兵を引かせてごらんに入れましょう」と言った。 そして舎人の馮喜を楚にやって楚の名義を借りて斉に入らせ「秦は斉と魏を疲弊させるために張儀を魏にやったのです。王にははかりごとにのることのないように」と言わせた。 斉湣王は「なるほど」と言い、軍を引いた。
B.C.309魏で宰相たること一年で、魏で没す。
長魚矯(チョウギョキョウ)【武官】
晋の臣。晋厲公の側近。
B.C.574長魚矯はかつて郤犨と田地を争い、長魚矯はその父母妻子をひとつのながえ(轅)に縛りつけられたことがあった。 長魚矯はこれを恨みに思っていた。
12月26日、長魚矯は胥童とともに三郤を誅殺しようとした。長魚矯は多数の兵を用いないように申し出たので、 晋厲公は寵臣の清沸魋に命じて長魚矯を支援させた。胥童らは500の武装兵を率いて郤氏を討ち、 長魚矯は郤犨を戈で突き殺した。また郤至が逃走して車に乗ろうとしたところを長魚矯は追いついて戈で突き殺した。
胥童が欒書荀偃を朝廷でおどしつけた。
長魚矯「この二人を殺さなければ、きっと禍となります」
晋厲公「一度に3人の卿を殺した。これ以上殺すのは忍びない」
長魚矯「あの二人は君を殺すことを何とも思っておりません。国の外で謀られる乱を姦といい、国の内で謀られる乱を軌といいますが、姦を防ぐには恩徳を用い、 軌を防ぐには刑罰を用いるべきだといいます、徳と刑が立派に行われないようでは姦と軌がおこりましょう。わたしはおいとまいたします」
長魚矯はすぐに狄に出奔した。
はたして胥童と晋厲公は欒書と荀偃に殺された。
趙瞿(チョウク)【神】
仙人。神仙伝に見える。
上党の人。字は子栄。癩病にかかったため家人に山中に棄てられた。そこで3人の仙人に出会い、薬を飲まされると病気は平癒した。人間界にあること300余年、 その後、山に入ったきり行方知れずになった。
張君臣(チョウクンシン)【武官】
晋の臣。中軍の司馬。
B.C.557、1月、晋平公が即位すると、張君臣は中軍の司馬に任じられた。
趙景子(チョウケイシ)
趙景叔
趙景叔(チョウケイシュク)【将軍】
趙の先祖、晋の将軍。中軍の佐。名は成。趙景子ともいう。趙武の子。
B.C.535鄭の子産が晋にやって来たとき、趙景叔は「伯有は今でもたたりをなすのですか」 と尋ねた。子産は「それはできるでしょう。いやしい者でも非業の死をとげると、その魂魄が後に残ってたたりをなします。まして良霄(伯有)はわが先君の後裔です。 たたりをなすのは当然でしょう」と答えた。
B.C.533晋の閻嘉と周の大夫が閻の耕地について争い、晋は陰戎の人を率いて周の穎邑を討った。 そこで周景王が晋に訴えた。時に周景王には姻戚の喪があったため、趙景叔は弔問に行き周と和解した。
張撃(チョウゲキ)【公子】
趙の公子。烈侯の子。
B.C.409魏文公が中山を討ったので、趙撃はこれを守る。
趙固(チョウコ)【宰相】
代の宰相。
B.C.307秦の公子稷を燕から迎えて秦に送りとどけた。これが昭襄王である。
B.C.305趙が中山を平定し、趙固に胡のことを司らせ、胡兵を徴集する。
朝呉(チョウゴ)【武官】
蔡の臣。公孫帰生の子。
B.C.529観従が公子子皙を呼び寄せて公子弃疾を襲って楚に背いた。朝呉は叛乱軍に 「一刻も早く安定したいと思うなら、蔡公(公子弃疾)を味方にして、思うことをやり遂げるのがよいであろう」と言った。 人々は「蔡公に味方しよう」と言って公子弃疾を推し立てて楚の都に進軍して叛乱を成功させた。そして公子弃疾は楚王となり(平王)、 蔡と陳を復興させた。
B.C.527費無忌が朝呉を陥れようとして、朝呉に「王はあなたを信用しています。 もっと高い地位をお求めになりなさい」と言い、また蔡の上位の人に向って「王は朝呉を信用しており、とてもあなたはこれに及びません。 今のうちに処置しないと禍にかかるでしょう」と言った。
夏、蔡の人は朝呉を追い出し、朝呉は鄭に出奔した。楚平王は立腹して「わたしは呉(朝呉)を信用して蔡に置いたのだ。 それに呉がいなかったら、わたしは王になれなかったであろう。どうして追い出したのか」と言うと、費無忌は「わたしは呉の人柄を知っております。 呉が蔡におれば、蔡はきっと楚に叛いて飛び去るでしょう。蔡の翼を切って飛べないようにしたわけです」と答えた。
趙午(チョウゴ)【武官】
晋の大夫。仏肸ともいう。邯鄲の代官。~B.C.497。
B.C.501衛霊公が邯鄲を攻めたため、趙午は邯鄲の西北の隅に城壁を作って守った。 しかし夜にそこを守っていた兵士が離散してしまい、趙午は寒氏で敗れた。
B.C.500夏、趙鞅が衛を攻め囲んだ。晋軍が衛を攻め囲むに及んで、趙午は歩兵70人を率いて衛の西門に攻め込んだ。 衛軍が趙午を侮って城門を開けて戦ったため、趙午は門内に進んで敵兵を城門の中で殺して「寒氏の戦いの仕返しをさせていただきます」と言った。
B.C.497春、趙鞅は趙午に「わしに衛の民五百家を贈ってほしい。わしはそれを晋陽に置こうと思う」と言った。 (以前に、趙鞅が衛を囲んだ時、衛は五百家を貢入していた)趙午は承諾して帰ったが、邯鄲の長老たちが承知しなかったので、 結果的に趙午は趙鞅の約束にそむいてしまった。そのため趙午は反乱を起したことになった。趙午はそこで孔子を招いたが、 孔子は子路の反対にあって取りやめた。
趙午は趙鞅に捕らえられて晋陽に拘禁されて殺された。怒った子の趙稷は、渉賓とはかって邯鄲で叛いた。
萇弘(チョウコウ)【文官】
周王朝の大夫、晋の臣。~B.C.490。
B.C.531景王が萇弘に「今年はどこに吉があり、どこに凶があるだろうか」と尋ねると、 萇弘は「蔡が凶を受けるでしょう。しかし歳星が大梁に移っていったら蔡は復興し、楚が凶となるでしょう」と答えた。
B.C.525秋、晋の屠蒯が来朝し、洛水と三塗山で祭りを行いたいと申し入れをさせた。萇弘は「使者の顔つきがきびしい。 祭りを行うのではありますまい。きっと戎を討つのであろう」と言った。はたして晋軍は陸渾に攻め入ってこれを滅ぼし、 陸渾が楚に心を寄せていたことを責め立てた。
B.C.524、2月16日、毛得毛伯過を殺してその地位についた。 萇弘は「毛得はきっと滅びるであろう」と言った。
B.C.519、8月29日、子朝の臣南宮極が地震で死んだ。 萇弘は劉文公に向かって「どうか努力して下さい。亡くなられた父君の受け継いで立派にやらなければなりません。 昔、周が滅びたとき、周の3つの川岸が地震のために崩れました。いま、西王(子朝)の大臣が地震で死にました。 天は西王を見捨てました。東王(敬王)はきっと大勝するでしょう」と言った。
B.C.518、1月5日、甘桓公が子朝についた。劉文公が萇弘に「甘氏もまた行ってしまった」と言うと、 萇弘は「何の害もないでしょう。周が興り栄えたのは徳をおさめたからです。君も徳をおさめることに努めて下さい」と答えた。
萇弘は孔子に楽を教えた。
B.C.506春、蔡と衛が会見したとき、蔡昭侯に蔡を上席にするよう頼まれた。蔡を上席にしようとしたが、 衛の祝佗が「先王の定めから考えますと、有徳の者を貴んで上といたします。 昔、武王が商に勝った時、康叔には夏の政治を用いて民を治めさせましたが、 蔡叔は商を手引きして王室に毒害を与えました。 どうして蔡を衛の先にすることができましょう。あなたは文王・武王の道を復興しようとするなら、徳を尊ぶことをしないといけない」 と言った。そこで萇弘は喜んで劉文公と范鞅に相談して、衛を先にすることにした。
萇弘は劉文公とともに成周に築城しようとして、このことを晋に告げた。晋の魏舒はこれを認めて諸侯を会合しようとした。
B.C.490晋の范・中行氏の叛乱に関係したとして、晋人に責任を追及され、周で殺される。
張侯(チョウコウ)【武官】
晋の臣。
B.C.589鞍の戦いで、張侯は郤克の御者となった。
郤克は負傷して「わしはもうだめだ」と言った。張侯は「三軍の心は大将にかかっています。我慢して、苦しいなど言ってはなりません。 君命を祖廟で受け、祭肉を社で受け、よろいかぶとに身を固めて戦死するのが、戦争の政です。負傷するくらいなら死んだほうがましです」と言い、太鼓を打ち続けた。 郤克の車馬は飛ぶように走って止めようがなく、三軍がその後を追ったので晋軍は斉軍を大破し、斉軍を追って華不注山を三周もした。
趙公明(チョウコウメイ)【文官】
晋の臣。趙の先祖。趙夙の子。
趙朔(チョウサク)【将軍】
趙の先祖。晋の将軍。下軍の佐。趙盾の子。趙荘子ともいう。
趙朔は景公の姉(趙荘姫)をめとって夫人とした。
B.C.601秋、胥克が精神病にかかっていたので、趙朔は代わって下軍の佐に任じられた。
B.C.597春、鄭が楚に攻められた。
6月、晋は鄭を救援することとし、趙朔は下軍の将に任じられた。
晋軍が黄河に到着すると、すでに鄭は楚に降服して和睦した。鄭の皇戌が晋の陣地に来て「鄭が楚についたのは国を守るためで、 貴国に対して二心を持つものではありません。貴国が楚を攻めるのなら、わが軍もあとに続きましょう」と申し入れてきた。 先縠趙括趙同はこの言葉を信じて楚を討つべしと主張した。 欒書が「わが国の方が徳義がなくて楚に恨まれているので、こちらが不義で楚が正義である。だから楚は疲労しているとはいえない。 鄭は晋が勝てばこちらにつくが、負けたらさっさと楚になびくであろう。鄭の使者は信じることはできませんぞ」と反対した。趙朔はこれを聞いて 「欒伯はすぐれた人物だ。そのことば通りに実行できたら、きっと晋の政治にあたることになろう」と言った。
結局、晋は泌の戦いで楚に敗れた。
この年、大夫屠岸賈は趙氏を誅しようとして、司寇となると、霊公を弑した犯人を取り調べ、 趙盾に疑いをかけた。韓厥は趙朔に、 はやく逃げるよう勧めたが、趙朔は「あなたが必ず趙氏の祀りを絶やさないというのなら、わたしは殺されても恨みはない」と拒否した。
屠岸賈は景公の許可を得ず、勝手に将軍たちと共に趙氏を下宮(私邸)で襲い、趙朔、趙同、 趙括、趙嬰斉を殺して、その一族を滅ぼした。
友人の程嬰、食客の公孫杵臼、 韓厥の尽力によって趙朔の子は命を救われ、のち趙氏は復興した。
(『史記』は屠岸賈がB.C.598に趙氏を族滅させたとしているが、他の古典と整合性が取れていない)
趙衰(チョウシ)【将軍】
趙の先祖。晋の将軍。字は子余。原季ともいう。趙公明の子。上軍の佐、中軍の佐。~B.C.622。
献公の公子のうち、誰に仕えるのがよいか占ったところ、重耳が吉と出たので、これに仕えた。
B.C.653重耳が驪姫の乱のため、逃げて狄に出奔すると、趙衰も彼に従った。
狄が咎如(赤狄の別種族)を討って、その族長の娘季隗を得ると、 趙衰はその姉叔隗をめとり、趙盾を生んだ。
B.C.645恵公が立ち、刺客を送って来たので、重耳と謀り斉へ出奔した。
斉へ行く途中、衛を通過したとき、衛の野人に食を乞うたが、土を容器に盛って勧められた。重耳は怒ったが趙衰は「野人が土を勧めたのは、土地を領有できる吉兆であります。 君は謹んでこれをお受けなさいますように」と進言した。
B.C.640重耳は斉に滞在して、斉を去る気がなかった。趙衰は斉姜と謀って、重耳を酒に酔わせ車に乗せて出発させた。
B.C.637重耳が楚に行ったとき、楚成王は諸侯と対等の礼をもって待遇しようとしたが、重耳は辞退しようとした。 趙衰は「国外に亡命して十余年、小国には軽んぜられ、まして大国にはなおさらのことでした。しかるに楚は大国であるのに、まことによく君を礼遇してくれます。 辞退なさいますな。これは天があなたのご運をひらいてくれたものと存じます」といい、ついに賓客の礼をもって成王に謁見した。
繆公に重耳が迎えられた。繆公は5人の娘を重耳に嫁がせたが、 その中に懐公に嫁いだ懐嬴も入っていた。重耳が難色を示して趙衰に相談した。 趙衰は「今、秦に従おうとしています。それなのに何を疑うのですか」と進言した。そこで重耳はこれを娶った。
秦繆公が重耳を饗礼でもてなしたので、重耳は狐偃を伴おうとしたが、狐偃は「わたくしは衰の文辞に及びません。 どうか衰をお供にしてください」と言ったので、重耳は趙衰を介添役とした。宴席で趙衰は黍苗の詩をうたうと、 繆公は「あなたがはやく国に帰りたいのがわかりました」と言った。趙衰と重耳は座をすさり再拝して「不遇のわれわれが君にお会いできたのは、 ちょうど百穀が時雨を恵まれたようなものでございます」とお礼を申し上げた。
B.C.636重耳はついに帰国し、晋君となった。文公が国に帰り、覇者となることが出来たのは、趙衰のはかりごとに負うところが多かった。
趙衰は原の大夫となり、原で国政にあたった。
晋にいた妻趙姫の勧めで、叔隗を引き取り、その子盾を嫡子とした。晋の妻の三人の子はみな謙遜して、盾に仕えた。
B.C.635周襄王が内乱により亡命していた。趙衰は「覇業を成就するには王を周に入れるのが一番です。秦に遅れるなら、 天下に号令できないでしょう」と進言した。そこで文公は叔帯を誅し、襄王を周に入れた。
周襄王は晋に陽樊・温・原・州・陘・絺・組・欑茅の地を賜った。文公は趙衰を原伯に任じた。
B.C.633晋が三軍を編成したとき、諮問があったので趙衰は郤縠を推挙したので郤縠は中軍の将となった。 また趙衰は卿に命ぜられたが、趙衰は「欒枝は貞節慎重で、先軫は智謀あり、 胥臣は物知りですから、皆補佐の卿に適任です。臣はかないません」と言って辞退した。
B.C.629狐毛が死んだので、文公は趙衰を後任に命じたが、趙衰は「城濮の戦いで、 先且居はよく軍を輔佐しました。戦功には賞があり、君を善導すれば賞があり、その官職に有能なら賞があります。 且居にはこの三賞があって放置できません。その上、臣の同輩には箕鄭胥嬰先都がいます」と言って辞退した。
狐偃が死んだので先且居が上軍の佐の後任をお願いしたので、文公は「趙衰は三譲して義を失わぬ。位を譲って賢人を推薦し、義によってその徳を広くした。 衰をあなたの佐としよう」と言い、趙衰は上軍の佐に任じられた。
B.C.625春、秦の孟明視が晋に攻め入ってきた。
2月、先且居が中軍の将となり、趙衰は中軍の佐となり、王官無地が襄公の御者、 狐鞫居がその右を務めた。
2月9日、晋軍は秦軍と彭衙で戦い、秦軍を大破した。晋の人はこの秦軍を拝賜の師と読んで嘲笑した。
しかし秦繆公は孟明視が再度晋と戦って大敗しても、なお孟明視を用いて辞めさせなかった。孟明視はいよいよ国政に励み、 厚く恩恵を民に施して晋に報復することを謀った。趙衰は晋の大夫たちに「秦軍はまた攻めてくるだろうが、必ず避けて相手にせぬよう。 孟明は敗戦して懼れ退いて徳を修めている。敵対することのできぬ人物である」と言った。
B.C.622没し、成子と諡された。
趙疵(チョウシ)【武官】
趙の臣。~B.C.328。
B.C.328秦と戦って破れ、藺・離石を失う。趙疵は河西で殺される。
重耳(チョウジ)
文公
趙車(チョウシャ)【公子】
周王朝の公子。
B.C.513、5月25日、子朝の余党であった公子趙車は鄻邑に入って周に背いたが、陰不佞に討ち破られた。
趙奢(チョウシャ)【将軍】
趙の将軍。馬服君。
趙の田祖を司る役人であった。平原君の家がどうしても税を納めないので、趙奢は法に照らして罪を裁き、執事9人を殺した。 平原君は怒って趙奢を殺そうとすると、趙奢は「君が公の義務を尽くされるなら、法も守られ国も安泰堅固でしょう。しかも君は身分の高い王の一族、どうして天下に軽んぜられましょう」 と言った。
平原君はそこで趙奢を推挙し、王は重用して国家の租税を管理させた。その結果、租税はすこふる公平で民は豊かに、国庫は充実した。
B.C.280将軍となり斉の麦丘を取る。
B.C.269秦軍が韓を討つため閼与に駐屯した。趙恵文王廉頗を召して「閼与を救えるか」と問うと 「道が遠くて険阻ですから、容易に救えないでしょう」 と言った。そこで趙奢に問うと「険阻な地ですから、ちょうど2匹の鼠が穴の中で戦うようなもの、将軍の勇敢なほうが勝つでしょう」と答えた。
そこで趙奢は将軍として、救援に赴いた。
趙奢は邯鄲からわずか30里離れたところで、塁壁を築き、救援を勧める者を斬った。また秦の間諜が入り込んだとき、趙奢はこれを手厚くもてなして帰した。 そこで秦軍はもはや趙は関与をすてたのだと考えた。
趙奢は秦の間諜を帰すと、すぐに軽兵を率いて閼与に向かい、2日で閼与まで50里の地点に着いた。
趙の軍士許歴が「真っ先に北山の頂上に拠ったほうが勝ち、遅れたほうが敗れましょう」と進言した。趙奢はそれに従い、すぐ一万の兵を出し北山に赴かせ、秦軍よりも先に制圧した。 趙奢は兵を突撃させて大いに秦軍を破り、閼与の包囲を解いて凱旋し、馬服君を賜った。
趙奢は廉頗や藺相如と位を同じくすることとなった。
趙爵(チョウシャク)【武官】
趙の臣。
B.C.305武霊王は中山の地を攻略し、寧葭に行き、西行して胡の地を攻略し、楡中まで行った。
林胡王が馬を献上した。
帰途、楼緩を秦に、仇液を韓に、王賁を楚に、 富丁を魏に、趙爵を斉に遣わした。
張若(チョウジャク)【武官】
秦の臣。蜀の太守。
B.C.314秦は巴郡を設置し、張若は蜀の太守とする。
B.C.310成都に大城を築く。
B.C.285江南の地を奪い取り、これを平定した。
B.C.277楚を討ち、巫郡および江南を取る。
趙周(チョウシュウ)【公子】
趙の先祖。趙伯魯の子。
B.C.463趙毋卹が代を取ると、趙周を封じて代君とした。
趙毋卹が趙伯魯に代わって趙氏を継いだためであった。
趙夙(チョウシュク)【武官】
趙の先祖。叔帯の五世の孫。晋の大夫。
B.C.661晋献公が上下二軍を編成したとき、趙夙は公の兵車の御者となる。
霍・魏・耿を討ち、霍公求は斉に出奔した。
晋で大旱魃がおこり、占いで「霍の太山、祟りをなす」とあったため、趙夙は命ぜられて求を斉より招き、もとの位に復して、霍の太山の祀りを奉祭させた。
すると晋の穀物がまた実った。
趙夙は献公より耿を賜り、大夫となる。
趙俊(チョウシュン)【武官】
趙の臣。
B.C.307武霊王が胡服の令を出すと、これを諌めて「王よ、胡服なさいますな。しきたりに従うのが便利です」と止めた。
武霊王は「どの古代にのっとろうというのか。歴代の帝王とて前代を継いでいるわけではない。いつの礼に従おうというのか。もし服制の奇異なことが淫邪な志を招くというなら、 鄒・魯に奇行はないはずであり、習俗の偏狭が民をかえるというなら、呉・越に秀才はいないはずである。
聖人は身に便利なように服制を定め、事に便利なように礼制を定めるものだ。そちはここに思い及ばないのだ」と言い、ついに胡服して騎射の士を招いた。
趙祒(チョウショウ)【武官】
趙の臣。
B.C.304武霊王は中山を攻める。
趙祒を右軍とし、許鈞を左軍とし、公子を中軍とし、王はそれらすべてを統率する将軍となる。 牛翦を車騎の将軍とし、趙希は胡軍と代の軍をあわせてその将軍とし、 趙与は陘山に行った。これらの軍は曲陽で合流し、攻めて丹丘・華陽・鴟の塞を取る。
朝渉(チョウショウ)【文官】
商王朝の臣。
紂王によって脛を斬られる。
趙勝(晋)(チョウショウ)【武官】
晋の臣。趙旃の子。
B.C.550秋、欒盈が斉の援助によって叛乱を起した。趙勝は東陽の軍を率いて魯軍とともに斉の左軍を破り、 晏萊を捕らえた。
趙勝(趙)(チョウショウ)
平原君
長牂(チョウショウ)【武官】
衛の臣。
B.C.632、6月、衛成公が晋と和睦して帰国した。長牂は城門を守っていたが、 先頭の甯兪を成公の使者と思い込んで、車に乗り込んで進んで合流した。
趙襄子(チョウジョウシ)
趙毋卹
趙稷(チョウショク)【武官】
晋の臣。趙午の子。
B.C.497趙午が趙鞅に殺されたため、趙稷は渉賓とともに邯鄲に拠って叛いた。
6月、晋の上軍司馬籍秦に攻め囲まれた。
張翠(チョウスイ)【文官】
韓の臣。
B.C.307楚が韓を討ち雍氏を包囲して5ヶ月になった。韓は秦に救援を求めたが、秦は殽山から降りて救援に向かわなかった。 尚靳は秦に使者として赴き、宣太后を説いたが、「秦には、韓を救援する軍もなく、 兵糧も豊かでないのです」と婉曲に断られた。尚靳は帰国して襄王に報告した。
韓は今度は張翠を秦に派遣した。張翠は病気だと言いながら、日々一県ずつ進んでいった。
秦の宰相甘茂は「韓はさぞかし急迫しているのでしょう。先生には病をおして来られるのですから」と言った。
張翠は「まだ急迫しておりません」と答えた。
「ほんとうにそうなのでしょうか」
「ほんとうに火急に陥れば、韓は腰を折って楚に参入いたしましょう。どうして私がここへ来たりしましょうか」
秦はすぐに韓を救った。
趙成(チョウセイ)
趙景叔
趙成子(チョウセイシ)
趙衰
趙籍(チョウセキ)
武侯
趙郝(チョウセキ)【文官】
趙の臣。
B.C.256秦が邯鄲の包囲を解いて、趙孝成王が秦に入朝することになった。そこで趙は趙郝を遣わして秦と条約を結び、 6県を割いて講和しようとした。虞卿が孝成王に問うた。
「秦は戦に倦み疲れて帰ったのでしょうか、それとも余力をもちながら、王をいとおしんで攻めなかったのでしょうか」
「倦み疲れて帰ったにちがいない」
「それなのに王は秦が力で取れないところ(6県)を献じようとしています。これは秦を助けることになります」
孝成王はこれを趙郝に伝えた。趙郝は「ここで講和しなかったら、また来年攻められ、今度は内地を割いても講和なしにはすまされないでしょう」と答えた。
「では子は、今講和して、来年秦が攻めないと保証できるか」
「それはわたくしの請け合えることではありません」
孝成王はこれを虞卿に伝えた。虞卿は「郝は講和しても、秦が攻めてこないことを保証できないのです。それなら、いま6県を割譲したといっても何の利益がありましょう。 講和しないほうがましです。秦がよく攻め、趙はよく守れないにしても、6県を失うことはないでしょう。
秦の要求には限りがありません。これに応ずれば、趙はかならず消えてなくなりましょう」と答えた。
そこで孝成王は虞卿の策を容れ、秦と和親した。
趙穿(チョウセン)【将軍】
晋の臣。趙夙の庶孫。
趙穿は晋襄公の娘を娶った。
B.C.615冬、秦が令狐の役の恨みを晴らすため、晋を討って羈馬の地を攻め取った。
趙盾臾駢の進言を聴き入れてとりでを高くして備えを堅固にして守った。 秦軍は晋の上軍を襲撃したが、上軍は動かなかった。しかし趙穿は「わしはこんな計略はわからない。 自分だけ出撃しよう」と言って出陣した。趙盾はこれを見て「秦が穿を討ち取ったら、卿を討ち取られたことになる。そうなったら、 わたしは君に報告のしようがなくなる」と言って全軍を出して戦った。しかし両軍勝敗なく、互いに退却した。
B.C.610晋は鄭と和平を結び、趙穿は公聟池とともに人質として鄭に行った。
B.C.608秋、楚が陳と宋を討った。晋は陳と宋を救うため軍を出し、趙穿も参戦した。
冬、晋は秦と和睦しようと考えた。趙穿は「秦の与国である崇を攻めましょう。秦がこれを助けた機会に乗じて和睦を申し込みましょう」と進言した。 そこで趙穿は崇に攻め入ったが、その計略を見抜いた秦は、晋の和睦に応じなかった。
B.C.607、9月29日、趙穿は霊公を桃園で襲って弑した。
そこで趙穿は趙盾を帰国させ、晋襄公の弟黒臀を立てた。
趙旃(チョウセン)【将軍】
晋の将軍。新軍の将。
趙旃は卿になりたいと願っていたが、なれなかったためこれを恨みに思っていた。
B.C.597春、楚が鄭を討った。
6月、晋は鄭を救援するため出兵し、楚軍と戦うこととなった。
趙旃は戦いを挑みたいと願い出たが、荀林父は許さなかった。そこで楚の使者を呼び寄せて盟いを結ぶことを願い出たので、 荀林父はこれを許した。かくて趙旃は魏錡とともに出かけた。しかし趙旃と魏錡は夜に楚の陣地に攻め入った。 楚荘王は軍を編成して進撃を開始し、晋軍に攻めかかった。晋軍は敗走し、趙旃は自分の兵車の良馬2頭を兄と叔父に与えて逃がしてやり、 自分は他の馬で引き返そうとしたが、敵に出会って逃げることができなくなり、兵車を捨てて林に逃げ込んだ。
そこに逢大夫の親子が趙旃に気付いたので、趙旃はこれに同車して助かったが、逢大夫のふたりの子は殺された。
B.C.588、12月27日、晋は初めて六卿を設け、趙旃は卿となった。
B.C.585冬、晋は楚に攻められた鄭の救援に出かけた。晋軍は繞角から進んで蔡を侵略した。 楚の公子と公子が蔡を助け、桑隧で晋軍を防いだ。 趙旃は諸将とともに決戦をするよう進言したが、韓厥荀首士燮が諌めたため、中軍の将欒書はそのまま引き揚げた。
B.C.578、5月、趙旃は新軍の将として秦軍と戦い、麻隧でこれを大破した。
趙宣子(チョウセンシ)
趙盾
趙宣孟(チョウセンモウ)
趙盾
長沮(チョウソ)【在野】
葉の隠者。
B.C.490孔子が蔡から葉にうつった。
また葉を去って蔡に帰った。途中、長沮と桀溺が耕していた。孔子は彼らを隠者と思い、 子路に渡し場を問わせた。
長沮は「あの手綱をとっているのは誰か」と問うた。
「孔丘です」
「それなら渡し場ぐらいは知っているだろう」
桀溺は「きみは誰だ」と問うた。
「仲由と申します」
「滔々としてかえることのないのが、なべて天下の趨勢なのだ。それなのに、いったい誰とともにこの世を変えようというのか。人を避ける説士(孔子)に従うより、 世を避ける隠士に従うほうがましではないか」
子路がこれを孔子に告げると「わたしは鳥獣などと群れを同じゅうして、自らいさぎよしとしておれないのだ。天下に道さえおこなわれておれば、 丘は誰と共に世を変えようなどとするものか」と言った。
趙荘(チョウソウ)【武官】
趙の臣。
B.C.313秦に攻められて藺を抜かれ、趙荘は捕らえられる。
趙葱(チョウソウ)【武官】
趙の臣。
B.C.229趙は秦に攻められる。李牧司馬尚がこれを討ったが、 幽繆王は李牧を誅し、司馬尚を罷免する。
趙葱と斉の将顔聚がこれに代わったが、趙葱は敗れ、顔聚は逃亡した。
趙荘姫(チョウソウキ)【女官】
趙朔の夫人。晋景公の姉。
B.C.598夫の趙朔が早く死んだので、夫の叔父である趙嬰斉と密通した。
そのため趙同趙括は怒って趙嬰斉を斉に追放した。
B.C.583趙荘姫は趙同と趙括を讒言して「原同、屏季のふたりは謀反を起こそうとたくらんでおり、欒氏・郤氏のふたりがそれを立証しております」と言った。
6月、景公は趙同と趙括を討って、これを殺した。
(『史記』は趙朔・趙同・趙括・趙嬰斉は一斉に殺されたとしている。『国語』『春秋左氏伝』と整合性が取れていない)
長桑君(チョウソウクン)【在野】
神医。
賓客となり館舎に身を寄せたが、舎長扁鵲だけは長桑君を奇人として、終始うやうやしく待遇した。
およそ十余年ののち、長桑君はひそかに扁鵲を呼び「わたしは秘伝の医術を知っているが、年をとったのできみに伝授したい」と言い、懐中から薬を出して扁鵲に与え、 秘伝の医書をすべて与えた。
趙荘子(チョウソウシ)
趙朔
趙倉唐(チョウソウトウ)【文官】
魏の臣。
B.C.408文侯の太子撃(のちの武侯)の師傅となる。
趙造(チョウゾウ)【武官】
趙の臣。
B.C.307武霊王が胡服の令を出すと、これを諌めて「王よ、胡服なさいますな。しきたりに従うのが便利です」と止めた。
武霊王は「どの古代にのっとろうというのか。歴代の帝王とて前代を継いでいるわけではない。いつの礼に従おうというのか。もし服制の奇異なことが淫邪な志を招くというなら、 鄒・魯に奇行はないはずであり、習俗の偏狭が民をかえるというなら、呉・越に秀才はいないはずである。
聖人は身に便利なように服制を定め、事に便利なように礼制を定めるものだ。そちはここに思い及ばないのだ」と言い、ついに胡服して騎射の士を招いた。
長息(チョウソク)【在野】
儒者。
公明高の弟子。
長息(費)(チョウソク)【文官】
費の臣。
恵公に「わしは子思(孔伋)に対しては先生として敬い、 顔般に対しては友人として付き合うが、王順と長息はわしのただの家来である」と称される。
張丑(チョウチュウ)【在野】
縦横家。
斉の人。
B.C.380南梁の戦いのとき、韓は斉に援けを求めた。張丑は「ゆっくり救ったら韓は魏についてしまうので、早く救いましょう」と進言したが、 田臣思が「韓は今にも滅びると知れば、きっと斉に救いを求めるでしょう。ですから、わが国はこっそり韓と友好を結び、 ゆっくり魏の疲弊を待って付け入れば、国の威厳は加わり、利益も得られます」と進言したので、斉威王は田臣思の意見を取り入れた。
楚が斉を討とうとしたとき、斉宣王は、魯が楚と親しいので楚を援けるのではないかと心配した。
張丑は魯を中立させることを約束して、魯に赴いた。
景公「斉王は恐れておられるか」
張丑「それは臣の存ずるところではありません。臣は君にお悔やみをするために参りました」
景公「何を悔やむというのか」
張丑「君は勝つ者に味方されず、負ける者に味方されるからでございます」
景公「きみは斉と楚とは、どちらが勝つと思うのか」
張丑「それは誰にも分かりません」
景公「ではどうしてわたしに悔やみを言うのか」
張丑「斉・楚の力はつりあっております。君にはむしろ軍を無事に保たれて、勝った方に味方するのが一番です。斉・楚はどちらが勝っても疲弊していますから、 きっと魯を恩徳に感じましょう」
景公は「なるほど」と考え、楚には味方せず、軍を引き返した。
B.C.333楚威王が斉を討ち、徐州で斉を破った。威王は田嬰の追放を斉に迫った。 張丑は田嬰のために威王に「王が徐州で戦勝なされたのは、田盼子が斉に用いられなかったからです。 田嬰は盼子と仲が悪く、申紀を用いたため、王は勝つことができました。もし田嬰が追放されれば、 田盼子が用いられましょう。これは楚にとって有利ではないでしょう」と言った。そのため威王は田嬰を追放させなかった。
あるとき張丑は燕の人質となった。
燕王に殺されそうになったので、出奔したが国境の守備の役人に捕らえられた。
張丑は「燕王が私を殺そうとするのは、私が宝玉を持っていると思っているからだ。ところが私はもうその宝玉を持っていないのに燕王は信じない。 あなたは私を王に差し出そうとしているが、わたしはそのときあなたが宝玉を奪って飲み込んだと申し上げよう。燕王はきっとあなたを殺し、腹を割き、腸までも割くでしょう」と言った。
役人は怖くなって張丑を釈放した。
趙朝(チョウテイ)【文官】
晋の臣。
B.C.514秋、祁氏・羊舌氏が滅び、その土地は10の県に分けられ、趙朝は平陽の大夫となった。 趙朝は周の王室のために努力したためであり、魏献子のお目にかかったからである。
張趯(チョウテキ)【文官】
晋の臣。
B.C.539、1月、鄭の子大叔は晋に出かけて晋平公の夫人少姜の葬儀に参列した。 張趯と梁丙は「あまりにも手厚いことです」とお礼を述べた。子大叔は「やむを得ません。 貴国の文公襄公のときにはこのようなことはなかったが、 今ではお気に入りの夫人の葬儀にも卿を遣わしています。また今年中に斉は後継ぎを入れるでしょうが、また参ることになるでしょう」と答えた。 張趯は「今後は晋においでになる事もなくなるでしょう。晋は衰えやがて諸侯を失うでしょう」と言った。二大夫が退出すると、 子大叔は「張趯は知者である。君子の末席に入るであろう」と言った。
B.C.533晋の閻嘉が周の大夫と閻の耕地について争った。 そこで張趯と梁丙は陰戎の人を率いて周の穎邑を討った。
長狄喬如(チョウテキキョウジョ)
喬如
張唐(チョウトウ)【武官】
秦の臣。
B.C.257、10月、魏を討つ。
B.C.256、2月、晋を討ち、首級6千を挙げる。
鄭を討ち、国都を落とす。
B.C.236秦は蔡沢を燕にやり、同盟が成り、燕は太子を人質に送ってきた。 そこで秦は張唐を燕の宰相にさせようとしたが、張唐はこれを拒んだ。張唐は呂不韋に「かつてわたしは趙を討ったので、趙はわたしを恨んで 『張唐を召し捕る者には方百里の地を与えよう』と布れました。いま燕に赴くには趙を通らねばなりません」と言った。
しかし甘羅は「あなたの勲功は武安君(白起)とどちらが大きいでしょうか」と問うた。
「わたしの勲功などとうてい及ばない」
「応侯(范雎)と文信侯とどちらが権力をふるったでしょうか」
「応侯は文信侯に及ばない」
「武安君は趙を攻めることをしぶったため、応侯に死を賜りました。いま文信侯があなたに宰相となるよう頼まれたのに、あなたは行こうとされません。 あなたはどこで死なれるのでしょうか」
張唐は燕に赴くことにした。
また甘茂が趙悼襄王を説得したので、張唐は無事に燕に行くことが出来た。
趙同(チョウドウ)【武官】
趙の先祖。晋の臣。下軍大夫、下軍の佐。趙原、原同ともいう。趙衰の子。趙盾の弟。 母は趙姫。~B.C.583。
趙姫の勧めで、趙衰は狄の妻叔隗を引き取り、その子盾を嫡子とした。趙同ら三人の子はみな謙遜して、盾に仕えた。
B.C.597春、鄭が楚に攻められた。
6月、晋は鄭を救援することとし、趙同は下軍の大夫に任じられた。
晋軍が黄河に到着すると、すでに鄭は楚に降服して和睦した。鄭の皇戌が晋の陣地に来て、 鄭は晋に降服する準備があると申し入れてきた。中軍の佐先縠はこの言葉を信じ、 欒書は反対した。 するとこれを聞いた趙同と趙括は「軍を率いたからにはただ敵を攻撃するだけだ。鄭を属国にさえすればそれで十分だ。 彘子(先縠)の意見に従うべきである」と言った。これを聞いた荀首は「原(趙同)と屏(趙括)は、 失敗して咎めを受けるやからだ」と言った。結局、晋は邲の戦いで楚に敗れた。
この年、大夫屠岸賈は趙氏を誅しようとして、司寇となると、 霊公を弑した犯人を取り調べ、趙盾に疑いをかけた。 韓厥趙朔にはやく逃げるよう勧めたが、 趙朔は「あなたが必ず趙氏の祀りを絶やさないというのなら、わたしは殺されても恨みはない」と拒否した。
屠岸賈は景公の許可を得ず、勝手に将軍たちと共に趙氏を下宮(私邸)で襲い、趙朔、趙同、趙括、 趙嬰斉を殺して、その一族を滅ぼした。
(『史記』は屠岸賈が趙氏を族滅させたとしているが、他の古典と整合性が取れていない)

B.C.594晋が潞国を攻め滅ぼしたので、晋景公は趙同に命じて周に狄の捕虜を献上させた。 そのとき趙同のふるまいが不敬であった。周の臣王季子は「10年たたないうちに原叔(趙同)は大きな咎めを受けるだろう。 あんな非礼をしたのは、天が彼の精気を奪ったのだ」と言った。
B.C.586趙同と趙括は、趙荘姫に淫通した趙嬰斉を斉に放逐した。
8月、趙同は鄭悼公と晋の垂棘で和睦の盟いを結んだ。
B.C.585冬、晋は楚に攻められた鄭の救援に出かけた。晋軍は繞角から進んで蔡を侵略した。 楚の公子と公子が蔡を助け、桑隧で晋軍を防いだ。 趙同と趙括が決戦の望んだため欒書は許そうとしたが、韓厥・荀首士燮が諌めたため、 欒書はそのまま引き揚げた。
B.C.583趙荘姫が趙同と趙括を讒言して晋景公に「原同、屏季のふたりは謀反を起こそうとたくらんでおり、欒氏・郤氏のふたりがそれを立証しております」と言った。
6月、趙同は趙括と共に晋景公に殺された。
張道陵(チョウドウリョウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
沛の人。
博く五経にも通じていたが、晩年になって「こんなことは寿命については役に立たない」と嘆じ、ついに長生の道を学んだ。蜀の山に籠もったとき、 東海小童と称するものから正一明威の道を授けられ、それからよく病気を治すことが出来たので、民衆があつまり、信徒の数は数万戸に達した。 そこはひとつの国家のようであった。のちに弟子と共に白日昇天して去った。
趙盾(チョウトン)【宰相】
晋の宰相、趙の先祖。中軍の佐。中軍の将。趙衰の子。母は叔隗
B.C.636趙衰が亡命から帰国すると、趙姫を娶り趙同趙括趙嬰斉を生んだ。趙盾は趙衰が狄に居る時に叔隗から生まれたため、通常では嫡子になれなかった。 しかし趙姫が叔隗と趙盾を晋に迎え入れるように願い、趙衰も許したので趙盾は帰国した。
趙姫は趙盾が才能ある人物であるとして、晋文公にお願いして趙盾を嫡子とし、叔隗を正夫人として、 自分とその子たちはその下についた。
B.C.621春、夷の蒐で狐射姑が中軍の将に任じられ、趙盾は中軍の佐に任じられた。
しかし陽処父が温から帰って来ると、陽処父は趙衰の部下であったことから趙氏に味方し、 その上、趙盾は才能のある人物であると言ったため、晋襄公は改めて蒐を行い、 狐射姑と趙盾を入れ替えた。かくて趙盾が国政を握り、太傅陽処父と太師賈佗に案を授けて国の定法とすることとなった。
趙盾は初めて晋の国政を行い、諸般の制度を定め、刑法を正し、刑罰をさばき、租税の滞納や脱税を厳しく取り締まり、貸借関係には証書を用いてごまかさないようにし、 旧来の政治の悪弊を改め、貴賤上下の秩序を重んじて維持させ、廃止されていた官を復興させ、うずもれている人材を引き上げて用いた。
8月15日、襄公が没すると、趙盾は太子夷皋が年少のため襄公の弟を立てようとした。 狐射姑はこれに反対して「公子を立てるのがよい。 彼の母辰嬴懐公と文公に愛されていたから、民も喜ぶであろう」と言った。 趙盾は反対して「辰嬴の身分は低く、二君に愛されたことは淫らである。また陳という小国に仕えているのは、見識がない。どうして民が喜ぼうか」と言い、 先蔑士会を秦にやり公子雍を迎えさせた。
狐射姑もまた公子楽を陳から呼び寄せた。しかし趙盾は公子楽を道中の郫で殺した。
10月、趙盾は襄公を葬った。
11月、狐射姑が翟に出奔した。趙盾は臾駢に命じて狐射姑の妻子を狄へ送届けた。
B.C.620太子夷皋の母繆嬴が号泣して太子以外の公子を立てることの否を訴え、さらに趙盾に太子のことを請うた。 趙盾や大夫たちはみな繆嬴のふるまいに弱り、さらに国人も同情して乱をおこすのではないかと恐れた。 そこで趙盾は公子雍を迎えに行かせた先蔑と士会に背いて太子夷皋を立て(霊公)、公子雍を護衛してくる秦軍を防いだ。
上軍の将箕鄭は留守として都に留まり、趙盾は中軍の将、先克を中軍の佐、 荀林父を上軍の佐、先都を下軍の佐、 歩招を霊公の御者、戎津をその右とし、 晋の菫陰まで軍を進めた。
趙盾は「雍を受け入れないので、相手は敵である。敵の機先を制して狄の度肝を抜くのが良策である」と言って、秦軍に気づかれぬようにこっそりと夜中に出発した。
4月2日、晋軍は秦軍を令狐で打ち破り、晋の刳首まで追撃した。
4月3日、先蔑は秦に出奔し、士会もこれについて行った。
夏、狄が魯の西辺の地を侵略したので、魯文公は晋に報告した。趙盾は狄に出奔している狐射居に依頼して、 狄の宰相鄷舒をたずね、魯を侵略したことを責めさせた。
8月、趙盾は斉・魯・宋・衛・陳・鄭・許・曹の諸侯と鄭の扈で会盟し、晋霊公が新しく即位したので、その覇者の地位をかためた。
郤欠が趙盾に「今、晋と衛は親しくなったので、以前占領した衛の地を還すのがよろしいでしょう」と進言した。 趙盾はこれを聞いてよろこんだ。
趙盾は韓厥を霊公に推薦して司馬に任命した。
B.C.619冬、魯の襄仲が晋に来て趙盾と会合して衡雍で盟い、魯文公の前年の無礼の償いをした。
B.C.615冬、秦康公が令狐の役の恨みを晴らすため、晋を討って羈馬の地を攻め取った。
趙盾は中軍の将、荀林父は中軍の佐、郤欠は上軍の将、臾駢は上軍の佐、欒盾が下軍の将、 胥甲が下軍の佐、范無恤が御者となり、秦軍と戦った。
臾駢は「秦は長期の戦いをすることができないので、とりでを高くして備えを堅固にしましょう」と進言したので、趙盾はこれに従った。(河曲の戦い)
秦康公は士会の計略を持って晋の上軍を襲撃したが、上軍は動かなかった。しかし趙穿が「わしはこんな計略はわからない。 自分だけ出撃しよう」と言って出陣した。趙盾はこれを見て「秦が穿を討ち取ったら、卿を討ち取られたことになる。そうなったら、 わたしは君に報告のしようがなくなる」と言って全軍を出して戦った。しかし両軍勝敗なく、互いに退却した。
秦の使者が夜にやって来て、明日決戦することを伝えてきた。臾駢は「使者の目が動いて、言葉に落ち着きがありませんでした。 きっと逃げようとしているのです。すぐに討ちましょう」と進言したが、胥甲と趙穿が「死傷者を収容しないで捨て置くのは無慈悲である。 時期を待たずに攻めるのは卑怯なやり方である」と言ったので、進撃は中止された。
結局、秦軍はその夜に逃げた。
この河曲の戦役で、趙盾の家臣が隊列を乱したので、韓厥はこれを捕らえて処刑した。衆人は韓厥は恩知らずであり、終わりをまっとうできないと言ったが、 趙盾は韓厥に「わたしはその方を君に推薦したが、その方が無能であることを恐れた。それ故、その方の能力を試したのだ。厥よ、つとめよ。 晋を統治するのは、その方を置いて誰がいよう」と言い、諸大夫に「諸君、わたしを祝ってくだされ。厥を推挙したことが当りました」と言った。
B.C.614夏、晋の六卿は、秦が士会を用いて晋に敵することを恐れて、近郊の諸浮で会合して密謀した。
趙盾「随会(士会)が秦におり、賈季(狐射姑)が狄におり、そのために国難が日ごとにやってくる。どうしたらよいか」
荀林父「賈季を戻しましょう。彼は国外の事情に通じており、処理する才能があり、それに旧勲の子である」
郤欠「賈季は罪を犯している。随会を戻したほうがよい。彼は卑賤の身分におりながら恥をわきまえており、柔順であるが人から犯されて不義をなすことがなく、 その智謀は国の役に立つ」
そこで趙盾は魏寿余に命じて魏にたてこもらせて晋に背いて秦につくふりをさせて、士会を帰国させた。
B.C.613周頃王が没し、宰孔王孫蘇が政権を争った。 匡王は王孫蘇に味方して尹氏とタン啓に命じて宰孔の無実の罪を晋に裁いてもらいに来た。 趙盾は兵車800乗で周の乱れを治めた。
6月28日、趙盾は魯文公・宋昭公・ 衛成公・陳霊公・許の君・鄭繆公・ 曹文公と会合し、新城で会盟した。
秋、趙盾は諸侯の連合軍800乗(6万人)を率いて、邾の公子捷菑を邾に入れて君にしようとした。 しかし邾の人はそれを拒絶して「貜且が年長であるから君に立てたのだ」と言った。趙盾は「言い分が道理にかなっているのに、 それに従わないのはよくない」と言って引き揚げた。
あるとき趙盾は首陽山で狩猟したときに桑の樹の下で飢えた人を見かけた。示眯明という者であった。 その者に趙盾は食物を与え救ってやった。
趙盾は国政に専念して霊公をしばしば諌めたが、聴き入れられなかった。
B.C.611宋人が宋昭公を弑した。趙盾は出兵を請うたが、晋霊公は「晋の危急ではない」と拒否した。
趙盾は「宋人がその君を弑したことは天地に背き、民の道に逆らうもので、天は必ず罰します。晋が諸侯の盟主でありながら天罰を行わなければ、 晋に天罰が下るでしょう」と言ったので、霊公はこれを許して、翌年兵を出した。
B.C.610晋霊公が諸侯と会合したとき、晋霊公は鄭繆公が楚に心を寄せていると思って繆公に会わなかった。鄭の子家は趙盾に書簡を送って、 蔡や陳が晋になついているのは鄭が骨を折って晋に仕えているからであると伝えてきた。そこで趙盾は霊公をとりなして鄭と人質を交換して和平を結んだ。
B.C.608秋、楚が陳に攻め入り、勢いに乗じて宋にまで攻め入った。そこで趙盾は宋文公、陳霊公、衛成公、 曹文公と鄭の棐林で会合して鄭を討った。楚の蔿賈が鄭を助けたため、晋軍は鄭の北林でこれと戦ったが、 解揚が捕えられた。そのため晋軍は引き揚げた。
B.C.607春、秦が晋に攻め入ってきて崇の役の報復をしてきた。秦は焦を包囲した。
夏、趙盾は焦を救った。
趙盾は宋文公・陳霊公・衛成公とともに鄭を討ち、大棘の役の報復をした。楚の令尹闘椒が鄭に陣営を敷いて晋軍が来るのを待った。 趙盾はこれを見て「彼の一族は楚で盛んである。やがて自滅するであろう。しばらく思うままにおごらせておこう」と言って、軍を引き揚げて帰国した。
9月、霊公は趙盾に酒を飲ませ、武装の士を伏せて殺そうとした。霊公の料理人となっていた示眯明はこれを知ると、 進み出て「臣下たるものは、主君から酒を賜ったとき、杯が三巡すれば、それで止めるものです」と言い、趙盾を早く帰らせた。趙盾は出奔した。
9月29日、趙穿が霊公を弑したとき、趙盾は国境を出ていなかった。趙穿に迎えられ、 そこで趙穿を使って襄公の弟黒臀を周から迎えて国君に立てた(成公)。
趙盾はまた国政にあたったが、君子らは趙盾が正卿でありながら逃げて国境を出ず、帰って賊(趙穿)を討とうとしなかったことを非難した。 太史は「趙盾、その君を弑す」と記録した。
趙盾は異母弟の趙括を公族にしてほしいと願い出て「括は君姫氏の子であります」と申し出たので、成公はこれを許した。
冬、趙盾は身分を降って公行(旄車の族)となり、趙括に一族を率いさせて公族大夫とした。
B.C.603春、陳が楚についたため、趙盾は衛の孫免とともに陳に攻め入った。
B.C.601このころ、趙盾に代わって郤欠が国政を執った。
趙盾は没して、宣孟(宣子)と諡された。
趙盾は存命中に、夢に先祖の叔帯が腰を支えてひどく泣き悲しんでいたが、やがて笑い、手を打って歌を歌うのを見た。 趙盾はこれを占うと「絶えてのちよし」と出て、趙氏にわざわいが降りかかると出た。子の趙朔のときに趙氏は一時断絶し、 その子趙武のときにまた復興した。
趙伯魯(チョウハクロ)【公子】
趙の先祖。趙鞅の子。
趙鞅は伯魯を太子から廃し、毋卹を太子とする。
趙豹(チョウヒョウ)
平陽君
趙武(チョウブ)【宰相】
趙の先祖。晋の宰相、新軍の将、上軍の将、正卿。趙文子、趙孟ともいう。趙朔の子。B.C.598~B.C.541。
B.C.598司寇屠岸賈が趙朔とその一族を誅した。 食客公孫杵臼は趙朔の友人の程嬰に「どうして朔といっしょに死なないのか」と言った。 程嬰は「朔の妻は朔の子を宿しておる。もし幸いに男なら、わしはその子を守り立てたいと思う。 もしも女なら、そのうえで死ぬだけのことだ」と言った。その後、その妻は男子を生んだ。これが趙武である。
屠岸賈はこれを聞くと朔の遺児を捜索した。夫人は子を袴の中に隠し「趙の宗家が滅んでもよいなら、お泣きなさい。もし滅んでならないなら、声を出さないように」と祈った。
遺児は声を出さなかったので危機を脱した。
程嬰が公孫杵臼に「後日また探しに来るだろう。どうしたらよいだろう」と言った。公孫杵臼は「孤児を守り抜くことと、死ぬことは、どちらが難しいだろう」と言った。程嬰は 「死ぬほうがたやすく、守り抜くのが難しいにきまっている」と言った。
公孫杵臼は「趙子の先君はあなたを手厚く待遇されましたから、あなたはなるべく難しいほうを引き受けてください。わたしはたやすいほうを引き受けます」と言って二人相談の末、 公孫杵臼が他人の嬰児を手に入れて、りっぱなねんねを着せて、山中に隠れた。
程嬰は将軍たちに「誰かわたしに千金くれるなら、わたしは趙氏の孤児のありかを申しましょう」と言った。将軍たちはそれを承知して、兵を出して公孫杵臼を攻めた。
公孫杵臼もいつわって「何という小人だろう、程嬰という男は。かつて下官の禍のときに死ぬことが出来ず、わしと相談して趙氏の孤児を隠したのに、またわしを売った。 たとい遺児を立てることができなかったにしても、売るとはなにごとだ」と言った。
将軍たちは公孫杵臼と孤児を二人とも殺した。
程嬰は真の孤児の趙武とともに山中に隠れた。
B.C.583晋景公が病んだ。占うと「大業の後の遂げざる者祟りをなす」と出た。 景公はこれを韓厥に問うと、韓厥は趙朔の孤児が生きているのを知っていたので「それは趙氏でありましょうか。 中衍というもの以来、みな嬴姓を名乗り、晋に仕えました。 成公のときまで代々功労を立て、かつて祖先の祭祀を絶ったことはなかったのです。
しかし今、趙氏の宗家は滅ぼされ、国人はこれを哀しんでおります。わが君には、このことをご配慮さないますように」と言った。
景公が「趙氏にはまだ子孫が残っているのか」と問うたので、韓厥はつぶさに実情を告げた。そこで景公は趙氏の孤児を立て、 趙武と程嬰を呼び出し、諸将とともに屠岸賈を攻め、その一族を滅ぼした。
趙武が冠礼して成人した時、程嬰は大夫たちに別れを告げて、趙武に「むかし不宮の禍のとき、家中のものはみなよくその難に殉じました。当時、 わたしは死ぬことができなかったのではなく、趙氏の子孫を守り立てようと思ったのです。
いまやあなたはすでに趙武としてお立ちになり、もとの位に復されました。わたしは地下で趙宣孟と公孫杵臼に報告したいと思います」と言った。
趙武はすすり泣き頓首して「わしは生涯、身を尽くしてそなたに報いようと願っておるのに、わしを棄てて死のうとするのか」と言った。
程嬰は「それはいけません。かの杵臼はわたしがことを成就できると思ったからこそ、わたしに先立って死んだのです。いまわたしが報告しなければ、 成就しなかったものと思いましょう」といってついに自殺した。
趙武は3年のあいだ喪服をつけ、彼のため領邑で祭って代々春秋ごとの祀りを絶やさぬようにした。 趙武は成人した冠をかぶり、大夫に挨拶回りをした。
欒書「美しいですね。昔わたしはお父上の荘主(趙朔)にお仕えしました。花は栄えても実がなるとは限りません。 実るように務めなされ」
荀庚「美しいですね。惜しむらくは、わたしは老いてしまいました」
士燮「今こそ、自ら戒められよ。賢者は栄光に満ちた時にますます戒めますが、不徳者は栄光のために高慢になります」
郤錡「美しいですね。しかし若い者が年寄りにかなわないものはたくさんあります」
韓厥「戒められよ、これを成人と言います。最初に善人を友とすれば、善人は善人を連れてきます」
智罃「あなたは努力しなされ。宣子(趙盾)の忠節があって、 成子(趙衰)の文徳によって君に仕えるならば、きっと成功するでしょう」
郤犨「いったい年少のくせに大夫になる人が多いが、どうしてあなたを容認できようか」
郤至「誰にも負けないとしても、高位を求められようか」
趙武は張孟にこれらの話を報告すると、張孟は「見事です。欒伯(書)の話に従えば益を受けることができ、范叔(士燮)の教えは徳を大きくすることができ、 韓子(厥)の戒めは人を完成させることができます。あの3人の郤氏の話など妄人の話であり、説明する価値もありません。智子(智罃)の教訓は立派です。 成子宣子はあなたを愛護されているのです」と評した。
B.C.573呂相が没した。趙武には文徳あり、軍の大事に献身するということで、趙武は新軍の将に任命された。
B.C.564、10月、諸侯は鄭を討ち、趙武と魏絳は新軍を率いて杞人と郳(小邾)人とともに並木の栗の木を切り倒して軍用に供した。
B.C.562、9月26日、諸侯は鄭を討ち、趙武は鄭簡公と鄭の軍中で盟った。
B.C.560中軍の将智罃と下軍の佐士魴が没した。 韓宣子が上軍の将に任じられたが、韓宣子は趙武のほうが適任であるといって辞退した。 しかし晋悼公は趙武にはまだ早いと考えて欒黶を任命しようとした。 しかし欒黶が「わたしは韓起の才能には及びません。それに韓起は趙武を上にするように望んでおります。どうかお聞ききとどけください」と言って辞退した。 そこで趙武が上軍の将、韓宣子は上軍の佐、欒黶は下軍の将に任じられた。
B.C.555晋は諸侯と共に斉を討った。
12月3日、趙武は韓宣子とともに上軍を率いて盧を包囲したが攻め落とせなかったため、秦周の地に進み、臨淄の雍門(西門)の萩の木を切り倒した。
B.C.548趙武は范匃に代わって正卿となった。魯の叔孫豹が趙武に面会した。 趙武は「これから戦はしばらく起こらないだろう。斉は崔・慶氏が政権を取ったばかりなので、諸侯によしみを求めるだろう。 わたしは楚の令尹(屈建)と相知の仲です。楚に対する礼を謹んで行い、楚を教え導き、諸侯をしずめるなら、 戦をやめさせることができる」と言った。
B.C.547、6月、趙武は魯襄公向戌良霄・曹人と壇淵で会合して衛を討った。
7月、晋は衛献公を捕らえた。斉・鄭の二君は叔向に内々に話をさせて釈放を願い出た。叔向がこれを趙武に告げたので、 趙武は晋平公に告げた。そこで晋平公は衛献公を釈放した。
2年前、斉の臣烏余が廩丘の地をもって晋に亡命し、衛の羊角や魯の高魚を急襲したが、このとき范匃が亡くなったので、諸侯はその罪を正すことができなかった。 趙武が政治を執るに及んで、これに対応して烏余が得た地をそれぞれ元に帰してやることにした。 このとき趙武は胥梁帯を用いて「胥梁帯は軍を用いずにうまくやるでしょう」と進言した。
B.C.546宋の向戌が晋と楚を和睦させて戦をなくすため諸侯を会合させようとした。 趙武は大夫たちに相談して、これを承諾した。
5月27日、趙武は宋に到着した。
6月1日、趙武は宋人のもてなしを受けた。
6月24日、向戌が、楚が晋・楚についている諸侯は晋・楚どちらにも朝見するようにすることを申し出たことを伝えてきた。 趙武は「晋・楚・斉・秦の4区には同等です。楚の君がもし秦の君をわが国に朝見させてくれれば、わが君もきっと斉に申し出て楚に朝見させましょう」と言った。
7月2日夜、趙武は楚の子皙と盟いを結び、正式の盟いで結ぶ言葉を前もって調整した。
7月4日、智盈が趙武に「楚の様子が大変険悪である。晋に襲いかかるかもしれない」と言うと、趙武は「こちらが左(東)まわりして宋の都に入るならば、 どうすることもできまい」と答えた。
7月5日、諸侯は宋の西門の外で盟いを結ぶことになったところ、楚軍は衣服の下によろいを着こんで晋軍を襲う構えをした。 趙武はこれを心配して叔向に話すと、叔向は「何を心配するのですか。今わが晋は忠によって諸侯のためを謀り、信を忠の上に加えようとしています。 もし楚がわれを襲撃するなら、それはみずから信に背き、忠を断つものです。その上、諸侯の不信を行うならば、諸侯は何を楚に望めましょうか。 諸侯は必ず楚に背くでしょう。あなたは死んで晋の盟主の地位を固めることができるのですから、何を懼れるのですか。それに宋にたてこもって戦うなら、 戦力は敵に二倍します。何も恐れることはありません」と言って激励した。
さて盟いのときに、晋と楚がどちらが先に血をすするかを争った。晋人は「晋はもとより諸侯の盟主である」と言うと、楚人は「晋と楚は同等の国だ」と言って譲らなかった。 そこで叔向が「諸侯はわが国の徳になついております。あなたは徳を修めることに務め、先を争ったりなさるな」と言ったので、趙武は楚を先にした。
7月6日、宋平公は晋と楚の大夫をもてなしたが、趙武は一座の正賓とされた。
趙武は垂隴で鄭簡公のもてなしを受けた。子展・良霄・ 子西子産子大叔 ・印段・公孫段が出席して宴会が行われた。宴会後、趙武は叔向に「伯有(良霄)はやがて殺されるであろう」と言った。叔向は「仰せのとおりです。 5年とはもたないでしょう」と答えた。趙武は「そのほかの方々はいずれも数代は続くでしょう。とくに子展の家は最後まで残るでしょう」と言った。
B.C.545楚の屈建が没した。趙武は諸侯が同盟の国にするように喪に服した。
B.C.544呉の季札が晋に使いして「晋国の政は趙・韓・魏の子孫に帰するでしょう」と言った。
B.C.543鄭の羽頡が晋に亡命し、楽成をたよりにして趙武に仕えて鄭を討つ策を進言したが、 趙武は聴き入れなかった。
10月、趙武は魯の叔孫豹、斉の高子尾、宋の向戌、衛の北宮佗、鄭の子皮、 小邾の大夫と集まって、衛の澶淵で会合した。
B.C.542魯の叔孫豹は澶淵の会合から帰国すると、「趙孟(趙武)はまもなく死ぬであろう。彼は一時逃れの無責任ぶりで民の上に立つ者ではない。 歳はまだ50にもなっていないのに、くどくどしゃべって8、90の老人のようだ」と言った。
鄭の子産が鄭簡公と来朝したとき、旅館の壁を壊して車馬を入れた。子産は「持参した品を納められず風雨にさらしてもおけないのでおとがめを重ねた次第です。 お役人にはどのようなご命令を下さるのでしょうか」と答えた。趙武は「子産の言うとおりだ。堀の中に諸侯をお入れしたのは、わたしの過ちでした」と言って、 士文伯を遣わして不行き届をお詫びした。
冬、呉の屈狐庸が晋を聘問した。趙武は屈狐庸に季札は君主になるかどうか尋ねた。屈狐庸は君主にならないだろうと答えた。
B.C.541、1月、趙武は国弱、向戌、斉悪、叔孫豹、公孫帰生、 子皮、許の人、曹の人と鄭の虢で会同した。 祁午が楚の公子の不信なやり方を見て注意するよう進言した。趙武は 「ありがたい言葉をいただきました。しかし私は自分が信義を守らないことを気にやみ、楚のやり方などは気にしておりません」と答えた。
3月26日、諸侯は虢で盟った。
魯が莒に攻め入ったため、楚が晋に申し入れて魯の叔孫豹を殺すよう言った。叔孫豹は「わたしが財貨を出して助かれば、魯はそのかわりに諸侯に討たれるでしょう。 わたしが会合に参加して季が国内で国を守るのが長い間の慣例です。わたしは殺されても誰を恨みましょうか。 しかしは賄賂が好きだ。やらなければおさまらないであろう」と言って賄賂した。趙武はこれを聞いて 「わが身の災難に臨んでも国を忘れないのは忠というべきであり、自分の役目を離れないのは信を守るというべきであり、一命を捨てることを気にしないのは貞というべきだ。 この3つを第一として事を謀るのは義というべきだ。殺してはならない」と言って強く楚に要請したため、楚人はこれを許した。
4月、趙武は叔孫豹と曹の大夫とともに鄭の都に立ち寄った。趙武らは鄭でもてなしを受けて、叔孫豹と子皮と宴で酒を飲んで楽しんだ。 趙武は宴席を立って帰るとき「わたしはこんな楽しい時を二度と持つことはないでしょう」と言った。
趙武は周の潁邑で劉夏の慰労を受けた。劉夏が洛水をながめての功績をしのぶと、 趙武は「このおいぼれはただ罪にかかることのみ恐れており、遠い将来のことなど考えられません」と言った。 劉夏は帰国して周景王に「晋の正卿であるのに名もない卑しい者のような考えしか持っていない。年を越すことはできないでしょう」 と言った。
夏、秦の公子が晋に亡命してきた。趙武は秦景公のことを問うと、 公子鍼は「5年とはもたないでしょう」と答えた。趙武は「だれが5年も待つことができよう」と言った。公子鍼は引き下がって「趙孟は間もなく死ぬであろう。 為すこともなく無駄に月日を過ごしている。きっと長いことはありますまい」と言った。
あるとき趙武は家を建てた。張孟が訪問してその家の垂木を見ると帰ってしまった。趙武は「善くないことがあるなら、話して下さい」と言った。 張孟は「天子の宮の垂木は削って磨き、砥石にかけます。諸侯は磨き、大夫は削り、士は尖端だけを削ります。相応の物を備えるのは義であり、尊卑の等級に従うのは礼です。 あなたは義を忘れ、礼を忘れています」と言った。趙武は帰宅すると磨くのを止めさせ、それまで磨いていた木はそのままにして後世の人に見せるようにした。
あるとき趙武は叔向と九原(晋の墓地)へ行った。
趙武「もし死者を生き返らせることができたら、誰と帰りましょうか」
叔向「陽子(陽処父)でしょう」
趙武「陽子は身を全うできませんでした。彼の知は言うに足りません」
叔向「それでは舅犯(狐偃)でしょう」
趙武「舅犯は利益を見て君を顧みませんでした。彼の仁は言うに足りません。一緒に帰るなら、随武子(士会)でしょう。 君を諌めるにはその師を述べることを忘れず、自分のことを言うときには友人を立て、君に仕えるには賢を進め、おもねることなく不肖を退けました」
このように言い合った。
この年、晋平公が病気になったので、 秦景公が医和を晋によこした。
医和は病気を見て「この病気は治療できません。色欲が度を過ぎています。もし君が死ななければ、諸侯を失うでしょう」
趙武「私は諸卿とともに輔佐して8年になります。なぜ諸侯が離反しましょうか」
医和「あなたは君の惑乱を諌めることができず病気にかからせ、自分も引退せずにその政治を光栄とされています。8年でさえも長すぎるのに、 どうしてもっと長生きできましょう」
趙武「君はどのくらい生きるでしょうか」
医和「もし諸侯が服従するなら3年を越えませんが、服従しなければ10年を越えません」
趙武は「良医である」と言って手厚くもてなして帰国させた。
12月、趙武は南陽に出かけ、曽祖父の孟子餘の廟で祖先を合祭しようとした。
12月1日、趙武は温で祖先の合祭をした。
12月7日、趙武は没した。
文子と諡される。
張武(チョウブ)【文官】
晋の臣。長武子ともいう。
趙文(チョウブン)【武官】
趙の臣。
B.C.307武霊王が胡服の令を出すと、これを諌めて「王よ、胡服なさいますな。しきたりに従うのが便利です」と止めた。
武霊王は「どの古代にのっとろうというのか。歴代の帝王とて前代を継いでいるわけではない。いつの礼に従おうというのか。もし服制の奇異なことが淫邪な志を招くというなら、 鄒・魯に奇行はないはずであり、習俗の偏狭が民をかえるというなら、呉・越に秀才はいないはずである。
聖人は身に便利なように服制を定め、事に便利なように礼制を定めるものだ。そちはここに思い及ばないのだ」と言い、ついに胡服して騎射の士を招いた。
趙文子(チョウブンシ)
趙武
張平(チョウヘイ)【宰相】
韓の宰相。張開地の子。張良の父。~B.C.251。
釐王桓恵王の宰相となる。
B.C.251没す。
貂勃(チョウボツ)【文官】
田斉の臣。
貂勃はいつも田単を「安平君(田単)は小人だ」とそしっていた。田単がそのわけを尋ねると、 貂勃は「盗跖の狗がを見て吠えるのは、跖を貴び堯を卑しんでいるからではありません。 もともと主人でない者に吠える習性なのです。それが人であれば噛みつくだけではなく、息の根を止めるでしょう」と言った。
そこで田単は貂勃を斉襄王に推挙した。
貂勃は楚に使いして礼遇された。襄王の側近に9人の仲間がいたが、貂勃が楚に礼遇されるのは、田単の影響力が大きいからであると讒言した。
貂勃は帰国すると、襄王が「田単を呼んで参れ」と言うのを聞いた。貂勃は席を離れ、頭を地につけて「王は斉を救い、 王を位につけられた安平君に対して「単」「単」と呼ばれます。これは亡国のことばです。王には9人の者を殺して安平君に謝罪されるべきです」と言った。
そこで襄王は9人の者を殺し、田単に掖邑1万戸を加増した。
趙毋卹(チョウムジュツ)【将軍】
趙の先祖。晋の正卿。趙鞅の子。~B.C.430。
ある日、姑布子卿が趙鞅に謁見した。子卿は趙鞅の子らの人相を見て、ただ毋卹を見たときだけ「この子こそ、 まさしく将軍になられます」と言った。
後日、趙鞅は子らをあつめて「わしは宝の符を常山の頂きに隠してある。最初に見つけたものに褒美をやろう」と言った。子らは捜したが、誰にも見つけられなかった。
毋卹が帰って「符を見つけました」と言うので「出して見せよ」と言うと毋卹は「代を見下ろしましたが、代は取ることが出来ます」と答えた。
こうして趙鞅は太子の伯魯を廃して毋卹を太子とした。
B.C.475荀櫟が鄭を討った。趙鞅は病んだので、太子毋卹を将として派遣した。 そのとき荀櫟は酔って酒を趙毋卹に浴びせかけた。趙毋卹の部下は死んで恥をすすぎたいと申し出たが、趙毋卹はなだめて「わが君がわしを立てられたのも、 わしが恥を忍ぶことのできる人間だと思われたからである」と言った。しかし心の中では荀櫟を怨んだ。
荀櫟はまた趙毋卹を廃すように説いたが、趙鞅は聴き入れなかった。このことからまた荀櫟を怨んだ。
B.C.463趙鞅が没し、代わって立つ。
趙毋卹は葬儀を済ませ、まだ喪服を脱がないうちに、北行して夏屋山に登り、代王を招待した。料理人に命じ、銅の柄杓で代王とその従者に酒を飲ませ、羹をすすめながら、 ひそかに料理人雒に言いつけ、柄杓で代王を撃ち殺し、従者たちをも殺した。そして兵を出して、代の地を平定した。
趙毋卹の姉は代王の夫人であったが、これを聞くと、泣いて天に叫び、笄を摩いで自ら刺して自害して果てた。代の人々は憐れんで、そこを摩笄の山と名づけた。
兄の趙伯魯の子、を代に封じ、代の成君とした。
趙毋卹は新稚狗に狄を討たせ、新稚狗は左人と中人でこれに勝ち、早馬で報告してきた。趙毋卹は食事をしていたが、 報告を聞くと恐怖の顔色をした。 近侍の者が「狗の戦果は大きいのに主君の顔色がすぐれないのはなぜですか」と尋ねると、趙毋卹は「徳が不純なのに、福禄がやって来るのを幸というそうだ。 徳がなければ、やわらぎ楽しむ資格はないし、やわらぎ楽しむのは幸とはしない。ゆえに恐れるのじゃ」と言った。
B.C.459荀瑶、韓・魏氏とともに范・中行氏の故地をことごとく分け取った。
それを怒った晋出公が斉、魯とともに四卿を討とうとしたので、四卿は共同して出公を攻め、出公は斉に出奔し、その途中で没した。
B.C.457荀瑶が土地の割譲を迫ってきたので、これを拒否すると荀瑶は韓・魏氏の兵を率いて趙を攻め、趙毋卹はこれを恐れて晋陽に立てこもった。
このときある3人から竹をもらい、3日間斎戒してから竹を割ると、中に書があり「趙毋卹よ、わしは霍の太山の陽侯の大史である。3月丙戌の日、 わしはなんじのため知氏を滅ぼそう。なんじもまた、わしを百邑に立てよ。
またなんじに林胡の地を与えよう。後世に至って、なんじの子孫に英主が現れよう。河源を領して、休溷・諸貉にいたり、南は晋の別邑を討ち、 北は黒姑を滅ぼすことだろう」とあった。
趙毋卹は再拝して、この3人の命令を受けた。
1年あまり晋陽を守ったが、汾水の水を引いて晋陽城に注ぎ込まれ、城中では釜を懸けて炊ぎ、子を取り替えて食べるという状態になった。群臣はみな離反の心を抱いたので、 趙毋卹は夜半に宰相張孟談をやり、韓・魏と内通させた。
B.C.456、3月丙戌の日、韓・魏とともに逆に知伯を滅ぼし、その土地を分割した。
こうして趙は北は代を領し、南は知氏の地を会わせ、韓・魏よりも強大となった。
ついにあの3神を百邑の地に祀った。
趙毋卹はひどく荀瑶を恨み、荀瑶の頭蓋骨に漆を塗って尿瓶(または杯)にした。荀瑶の臣予譲はこれを聞いて仇を果たそうとして、 変名して罪人の群に逃げ、官中に入って厠の壁を塗り、趙毋卹を刺し殺そうとした。趙毋卹は胸騒ぎがして、壁塗りの刑徒を捕らえて訊問すると、 はたして予譲であった。左右の者が殺そうとすると、趙毋卹は「彼は義人である。わしさえ用心しておればよいのだ。智伯が滅んで子孫もいないのに、 旧臣として復讐しようとするのは天下の賢人である」と言って釈放した。
しばらくすると予譲は身に漆を塗って癩病をよそおい、炭を呑んで声を変え、市中に出て乞食をして道筋の橋の下で趙毋卹を待ち伏せした。 趙毋卹の馬が驚いて跳ね上がったので「これはきっと予譲に違いない」と言って捜索し、予譲を見つけた。
趙毋卹は予譲を責めて言った「おまえはかつて范氏・中行氏にも仕えたのではなかったのか。なぜ智伯のためにだけ、こんなに執念深いのか」
「わたしは二氏に仕えましたが、どちらも常人としてわたしを遇しました。だからわたしも常人としてこれに対するのです。智伯は国士をもってわたしを遇しました。 だからわたしも国士として、これに報いるのです」
趙毋卹はああと感嘆し、落涙して言った「ああ予子よ、おまえが智伯のために尽くした名声はもう全うされた。覚悟を決めよ。これ以上赦すまい」
予譲は「さきに君がわたしを寛大に赦されたことは、天下に君の賢を讃えないものはありません。今日、わたしは誅に伏しましょう。 しかしゆるされるのであれば君の衣服を申し受け、それで復讐の念をはらしたく存じます」と言った。
趙毋卹は大いにその義に感じ、衣服を与えた。予譲は三度躍り上がってこれを斬り「わたしはこれを地下の智伯に報告しよう」と言って、ついに剣に伏して自殺した。
B.C.430没し、襄子と諡される。
張孟(チョウモウ)【将軍】
晋の臣。張老ともいう。中軍司馬。上軍の将。
B.C.583趙武が成人して、大夫に挨拶回りをして受けた言葉を、張孟に報告した。
張孟は「見事です。欒伯(書)の話に従えば益を受けることができ、 范叔(士燮)の教えは徳を大きくすることができ、韓子(厥)の戒めは人を完成させることができます。 あの3人の郤氏の話など妄人の話であり、説明する価値もありません。智子(智罃)の教訓は立派です。 成子宣子はあなたを愛護されているのです」と評した。
B.C.573晋悼公は即位すると、張孟が智であり詐らないのを知って、中軍の斥候を司らせた。
張孟は命ぜられて、君の声を四方に伝えて、道に従う者と従わない者とを観察した。
B.C.570雞丘の会盟のとき、悼公の弟楊干が曲梁の地で隊列を乱したので、 中軍司馬魏絳は楊干の御者を斬った。魏絳は出頭して、剣の上に伏して死のうとした。 士魴と張孟は両側から押さえとどめた。 悼公は事情を知って、魏絳を許した。
B.C.569魏頡が没した。悼公は張孟を卿に任じようとしたが、張孟は辞退して「臣は魏絳に及びません。 絳の知は卿の大官を治める能力があり、その仁は公家の利となり、その勇は刑を決断する才能があり、その学は祖先から受け継いだ職務を破棄しません。 その上、雞丘の会では、不法を犯さず、その言葉は恭順でした。賞しなければなりません」と言った。
悼公は5度任命しようとしたが、張孟は固辞したので、魏絳が新軍の佐に任命され、張孟は中軍司馬に任じられ、 士富は候奄に任命された。
范匃和大夫と田畑の境界争いをして、決着がつかなかったので、 范匃は和大夫を攻めようとして張孟に尋ねた。張孟は「わたしは軍事によって命令を受けますから、軍事でなければわたしの関知するところではありません」と答えた。 結局、范匃は土地を和大夫に与えて仲直りした。
あるとき趙武が家を建てた。張孟は訪問してその家の垂木を見ると帰ってしまった。趙武は「善くないことがあるなら、話して下さい」と言った。 張孟は「天子の宮の垂木は削って磨き、砥石にかけます。諸侯は磨き、大夫は削り、士は尖端だけを削ります。相応の物を備えるのは義であり、尊卑の等級に従うのは礼です。 あなたは義を忘れ、礼を忘れています」と言った。趙武は帰宅すると磨くのを止めさせ、それまで磨いていた木はそのままにして後世の人に見せるようにした。
張孟談(チョウモウダン)【宰相】
趙毋卹の宰相。
B.C.457智伯荀瑶は趙毋卹に蘭・皐狼の地を割くことを要求したが、趙毋卹が断ったため、 ひそかに韓・魏と結託して趙を討とうとした。
趙毋卹は張孟談にどうするべきか尋ねると、張孟談は「あの董安于は、趙簡子に仕えた有能の臣でした。 代々晋陽を治め、尹沢がその治を継いだので、その政教の余沢がいまも残っています。君には決心して、晋陽に籠られますように」 と言った。そこで趙毋卹は晋陽に篭城した。
智伯・魏氏・韓氏が趙氏を討ち、晋陽を囲んだ。
B.C.456晋陽を守ったが、汾水の水を引いて晋陽城に注ぎ込まれ、城中では釜を懸けて炊ぎ、子を取り替えて食べるという状態になった。群臣はみな離反の心を抱いたので、 趙毋卹は夜半に張孟談をやり、韓・魏と内通させた。
3月丙戌の日、韓・魏とともに逆に知伯を滅ぼし、その土地を分割した。
趙毋卹は論功行賞を行い、高赫を第一とした。張孟談は「晋陽の難で、赫は何の功労もありませんでした」と言うと、 趙毋卹は「晋陽が危なかった時、ただ赫だけは人臣の礼を失おうとしなかった。 だから第一にしたのだ」と言った。
趙与(チョウヨ)【将軍】
趙の臣。
B.C.304武霊王が中山を攻める。
趙祒を右軍とし、許鈞を左軍とし、公子を中軍とし、 王はそれらすべてを統率する将軍となる。 牛翦を車騎の将軍とし、趙希は胡軍と代の軍をあわせてその将軍とし、 趙与は陘山に行った。これらの軍は曲陽で合流し、攻めて丹丘・華陽・鴟の塞を取る。
趙陽(チョウヨウ)【文官】
衛の臣。公叔戍の一味。
B.C.496春、衛霊公は公叔戍の一味を追放したため、趙陽は宋に亡命した。
張柳朔(チョウリュウサク)【武官】
晋の臣。
張柳朔は范吉射の邪臣とされる。
趙梁(趙)(チョウリョウ)【将軍】
趙の将軍。
B.C.291趙梁は将軍となり、斉と連合して韓を討ち、魯関の下まで行って帰還する。
B.C.286斉を討つ。
趙梁(夏)(チョウリョウ)【文官】
夏王朝の臣。
桀王にへつらい、王を無道にさせ、狼のような貪欲を勧め、商の湯王を夏台に繋ぎ、 関竜逢を殺した。
趙良(チョウリョウ)【文官】
秦の臣。
B.C.338商鞅は趙良に交際を願った。趙良は「わたしは強いて望んでおりません。あなたが今後もなお商・於の富を貪り、 秦の変法を栄誉とし、人民の恨みを積もうとされるなら、秦王が崩ぜられたとき、秦があなたを捕らえようとするのはわかりきっています」と諌めた。 しかし商鞅は聴き入れなかった。
結局、商鞅は恵文君に捕らえられて誅殺される。
重黎(チョウレイ)【神】
楚の先祖。巻章の子。
帝嚳に仕え、火正(地文を司る)に任じられてすこぶる功績があった。その功徳は天下にゆきわたり、 帝嚳より祝融 (大いに明らかの意)と名づけられた。
共工氏が乱を起こしたとき、帝嚳に彼を誅するよう命じられたが、成功しなかったため、帝嚳に誅殺される。
張老(チョウロウ)
張孟
張禄(チョウロク)
范雎
著丘公(チョキュウコウ)
去疾
儲子(チョシ)【宰相】
斉の宰相。
孟子に交際を求めたが、無礼であるとされ、交際できなかった。
褚師段(チョシダン)【公子】
宋の公子。宋共公の子。姓は褚師、名は段。子石ともいう。
子石は褚師となり、それを氏とした。
B.C.553冬、魯の季武子が来聘した。褚師段は季武子を迎えてこれをもてなした。
褚師圃(チョシホ)【武官】
衛の臣。
B.C.522褚師圃は孟縶に恨みを持つ斉豹北宮喜・公子とともに謀叛を起こすこととした。
6月29日、斉豹が孟縶を殺した。
8月25日、しかし叛乱は鎮圧されたため褚師圃は公子朝・子玉霄・子高魴とともに晋に出奔した。
B.C.501秋、斉が晋の夷儀を討ち、衛霊公は斉軍を援助した。晋の中牟には晋の兵車1000台がひかえており、 衛軍を討とうとした。褚師圃はこのとき亡命して中牟にいたが「衛は小国といってもその君がみずから出陣しているので勝つのは難しいでしょう。 斉軍は夷儀の攻撃で勝って心がおごり、その将は身分が低いので、きっと破ることができよう」と言ったため、 中牟の軍は斉軍を討ってこれを打ち破り、衛軍は助かった。
樗里疾(チョリシツ)【公子】
秦の公子。名は疾。庶長。丞相。厳君。恵文君の弟。樗里子ともいう。~B.C.300。
樗里疾は恵文君とは腹違いで、母は韓の女であった。
樗里疾は生来滑稽(円転自在)で、知恵はたくましく、秦人は彼を智嚢(ちえぶくろ)とあだ名した。
B.C.330樗里疾は右更(爵14等)に任じられ、魏の曲沃を討ち、邑民をことごとく追い出し、その地を秦の版図に入れた。
B.C.318樗里疾は秦恵文君の命で、韓・趙・魏・燕・斉の連合軍を迎え撃ち、これと修魚に戦って、韓将申差を虜にし、 趙の公子、韓の太子を破り、首を斬ること八万二千に及んだ。
B.C.314樗里疾は魏の焦を攻め降し犀首を走らせ、韓の岸門を破り、首級一万を斬った。
B.C.313趙を攻め、趙将荘豹を虜にする。
樗里疾は甘茂を恵文君に推挙し、恵文君は甘茂を将軍に取り立てた。
B.C.312楚が韓を攻めたため、秦恵文君の命で韓を助けて楚を討ち、魏章を輔佐して楚将屈匄を破り、 漢中を取った。その功で封じられ、厳君と号した。
B.C.309秦が初めて丞相を置き、樗里疾は甘茂とともに丞相となり、右丞相に任じられた。
B.C.308樗里疾は韓に出て、韓の宰相となった。このとき戦車100乗を仕立てて周に入国した。周王は護衛兵を出して迎え、 すこぶる敬意を払った。
B.C.307甘茂が5ヶ月たっても韓の宜陽を攻略できなかった。樗里疾は犀首とともに甘茂を非難したので、 武王は甘茂を召還しようとした。しかし甘茂は武王と誓い合っていたので武王は讒言を聴き入れず、 全軍を動員してふたたび甘茂に宜陽を攻撃させた。
武王が没すると、昭襄王が立ち、樗里疾はますます尊重された。
B.C.306樗里疾は再び秦の宰相となった。
また衛の蒲を討とうとしたが、胡衍の進言でとりやめ、魏の皮子を攻めた。降服しないうちに去った。
B.C.300没す。渭南の章台宮の東に葬られた。
樗里疾は生前「私の死後百年経つと、天子の宮殿が私の墓を取り巻くだろう」と言っていた。
樗里疾の宅が渭南の陰郷の樗里にあったので、俗に樗里疾と呼ばれたのである。
秦人の諺に「力は任鄙、智は樗里」というのがある。
智躒(チレキ)
荀躒
沈尹(チンイン)【将軍】
楚の将軍。中軍の将。
B.C.597春、楚は鄭を討ち、これと和睦した。
6月、晋が鄭の救援に来たので、楚軍は北上してこれを待った。
沈尹は中軍の将、子重は左軍の将、子反は右軍の将であった。
楚は晋と戦って、これに大勝した(邲の戦い)。
B.C.589に巫臣夏姫を晋に連れ去ったため、 子重と子反は子閻子蕩清尹弗忌黒要を殺し、 それらの人々の家財を分け合った。沈尹は公子とともに子蕩の家財を分け取った。
陳寅(チンイン)【文官】
宋の臣。楽祁の家老。
B.C.504、8月、楽祁は宋景公に申し上げて「諸侯の中で宋だけが晋に仕えています。しかしこのごろは使者を遣わしていないので、 晋はきっと恨んでいるでしょう」と言った。楽祁は陳寅に同じことを話すと、陳寅は「きっとあなたが使者として遣わされるでしょう」と言った。何日か経って宋景公が楽祁に 「あなたの言うことはもっともなことだ。ぜひあなたが行ってくれ」と言った。陳寅は「後継ぎを立てて行かれるなら、万一のことがあってもお家がつぶれることはないし、 わが君にしてもあなたが難儀を承知で出かけるのだと思うでしょう」と言った。そこで楽祁は子の楽溷を後継ぎに立てて出かけた。 はたして楽祁は晋の范鞅に捕らえられた。
B.C.502晋は楽祁を宋に帰そうとして、范鞅がこっそりと楽祁に「わが君は宋が背きはしないかと心配してあなたを引き留めたのです。 あなたのかわりに御子息をよこしてください」と言った。楽祁は陳寅に相談すると、陳寅は「宋はやがて晋に背くようになりますから、それは御子息を見殺しにするようなものです。 交替するのはお待ちください」と進言したため、楽祁は話を断った。そして帰国途中に楽祁は没した。
沈尹戌(チンインボウ)【武官】
楚の臣。左司馬。楚荘王の曾孫。チンインジュ、シンインジュともいう。~B.C.506。
B.C.523楚人が州来に城壁を築いた。沈尹戌は「楚はきっと敗れるだろう。王はまだ民をいつくしんでいないと仰せられたが、州来に築いて呉に挑戦しておられる」と言った。 役人が「民を休養させること5年になりました。民をよくいつくしんだというべきです」と言うと沈尹戌は「宮室の造営は止まることはなく、 民は敵の攻撃や徴発を恐れて疲れている」と答えた。
B.C.518冬、楚平王が水軍を作って呉の国境を侵略した。沈尹戌は「今度の戦いで楚はきっと邑を失うであろう。呉はじっとして敵を招き寄せている。 呉が攻め寄せたときに楚の国境に備えがないとしたら、邑を失わずにおれようか」と言った。楚平王が楚の圉陽まで行って引き返すと呉軍は楚軍のあとを追ったが、 国境の人々は備えていなかったため、呉軍は容易に巣と鐘離を攻め滅ぼして引き揚げた。沈尹戌は「郢が滅びる兆しはここから起こった」と言った。
B.C.515呉の公子掩余と公子燭庸が楚の潜を攻め囲んだ。 莠尹然と工尹が軍を率いて潜を救い、 沈尹戌は都城に住む人士と王の馬役の者たちを率いて軍勢を増やし、呉軍と窮谷で出会った。 また令尹子常は水軍を率いて沙水の河口まで進んで引き返したため呉軍は退くことができなくなった。
4月、呉の公子が呉王を弑したため、呉軍は引きあげた。
9月14日、子常が郤宛を殺したことについて国中のそしりがやまなかった。沈尹戌は「あの無忌は告げ口をする悪人です。 朝呉を去らせ、蔡侯を追い出し、太子を国外に去らせ、 連尹奢(伍奢)を殺し、今やまた罪なき3人を殺して、あなたにも災いがかかろうとしています。 いったい鄢将師はあなたの命令であると偽って三族(郤氏・陽氏・晋陳氏)を滅ぼしたが、あの三族はわが楚国の良臣です。今や呉では新しい君が立って国境は毎日安らかではありません。 知恵ある者は自分を告げ口する悪人を除いて身の安泰を図ります」と警告したため、子常は費無忌と鄢将師を殺し、 その一族を残らず滅ぼして国の人々に申し開きをし、衆人は喜んだ。
B.C.512呉の公子掩余と公子燭庸が楚に亡命してきた。楚昭王は彼らを養に住まわせ、 沈尹戌と莠尹然に命じてそこに城壁を築いて城父と元の胡子の田地を取ってふたりに与えてそれによって呉に対抗しようとした。
B.C.511秋、呉が楚に攻め入り、夷を討ち、潜と六とを侵略した。沈尹戌に潜を救わせたため呉軍は引きあげて帰った。楚軍は潜を南岡に移して帰ると、呉軍は弦を攻め囲んだ。 沈尹戌と右司馬が軍を率いて弦を救い、予章まで進んだため呉軍は引きあげた。
B.C.506冬、呉・蔡・唐が楚を討った。沈尹戌は子常に「あなたは漢水により添って敵兵が渡るのを防がれよ。 わたしは方城の外まわりにいる人々を全部率いて淮水にいる敵の船をたたき壊し、引き返して大隧・直轅・冥阨の隘路をふさぎましょう。あなたが漢水を渡って攻撃し、 わたしが背後から攻撃すれば大いに敵を破ることができましょう」と言った。しかし武城の大夫が子常に「楚の車は革を用いており、水のしめりには長く耐えられません。 すぐに戦うべきです」と言い、また史皇が「楚人はあなたを憎んで司馬(沈尹戌)を好いております。彼の言う通りだと、司馬が一人勝ちになります。 すぐに戦いましょう」と言ったため、子常はすぐに漢水を渡って敵を攻撃したため、三度戦って三度敗れた。
11月、呉軍は郢に侵攻した。沈尹戌は息まで行って引き返し、呉軍を雍澨で破ったが負傷した。沈尹戌は家来に「誰かわたしの首を隠してくれる者はいないか」と言うと、 呉句卑が名乗り出た。そこで沈尹戌は三度戦い「わたしはもうだめだ」と言うと、呉句卑は沈尹戌の首をはねて、胴体は人に知られぬように隠し、 その首をもって逃げた。
陳賈(チンカ)【文官】
田斉の臣。
宣王にこびへつらい、宣王が孟子の進言を聞かず、燕攻撃を失敗したことを気に病んでいると、 陳賈は周公のような聖人でも失敗はあるといい、気にすることはないと言った。
陳完(チンカン)
田完
陳桓子(チンカンシ)
田無宇
陳嬀(鄭)(チンキ)
、鄭文公の夫人。子華子臧の母。
文公は嬰の夫人であった陳嬀と密通して、子華と子臧を生んだ。
陳嬀(楚)(チンキ)
息嬀
陳挙(チンキョ)【公子】
田斉の公子。
陳挙は直言したため斉湣王に東門で殺された。
そのため陳挙の一族は斉に離反し、これ以後、大臣たちは湣王に親しまなくなった。
陳子皇(チンシコウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
朮(やまあざみ)を薬餌とする処方を入手してこれを服用し、霍山で仙去した。妻の姜氏が病気になったとき、その薬餌療法によって病気を治した。
陳須無(チンシュブ)
田須無
陳書(チンショ)【武官】
斉の臣。
陳書は莒を討つことに功があったので、斉景公から孫姓を賜わった。
陳相(チンショウ)【在野】
儒者。
陳良の弟子であったが、滕に行き、許行の教えに傾倒する。
孟子と論争をする。
沈諸梁(チンショリョウ)【武官】
楚の臣。字は子高。葉公。沈尹戌の子。
B.C.488子西は呉に逃れていた白公を召して帰そうとした。沈諸梁は言った。
沈諸梁「王孫勝を呼んで、どうしようとするのですか」
子西「勝は剛直な人というから、国境に置こうと思うのです」
沈諸梁「いけません。彼は誠純ですが信ならず、愛情はあるが仁ならず、詐欺にたけるが知ならず、剛毅だが勇ならず、愚直だが中正でなく、周到だが善意がありません。
もし彼が楚に来て寵遇されなければ、すぐに怒りを爆発させましょう。もし寵遇するならば、あつかましく欲張って飽くことはないでしょう」
子西「徳を施せば、かれは怨みを忘れるでしょう。わたしが彼を厚遇すれば、きっと落ち着くでしょう」
沈諸梁「仁者であればそうなるでしょう。しかし不仁者はそうはいきません。怨恨乱賊の人は絶対にいけません。どうして若敖氏と子干子皙の者を採用せず、 勝を用いようとするのですか。
あなたは話しても聞き入れません。わたしはただ逃げるだけです」
しかし子西は聴き入れず、ついに勝を招いて、単の大夫とした。沈諸梁は「勝は武勇を好み、ひそかに決死の士を求めていますが、 これは何かたくらみがあるにちがいありません」と諌めたが、やはり聴き入れられなかった。
そこで沈諸梁は病気を理由に葉に隠居した。
B.C.479はたして勝が叛乱を起こし、子西と司馬子期を殺し、恵王を脅迫して弑しようとした。
沈諸梁は「彼(子西)がわたしの話を聴き入れなかったことを怨むが、彼が楚を治めた功績を徳とする。楚が先王の功業を回復できたのは夫子の力である。 小怨によって大徳を捨ておくのは、わたしの不義である。白公を殺そう」と言って、方城の外の兵を率いて郢に入り、勝を殺して王室を安定させ、 子西・司馬子期の同族を葬った。
B.C.478沈諸梁は子西の子子甯を令尹とし、司馬子期の子子寛を司馬として、自分は葉に隠居した。
陳軫(チンシン)【文官】
縦横家。
B.C.329張儀とともに秦恵文君に仕え、ともに重んぜられて、王の寵を争った。
陳軫は張儀と互いに仲が悪かった。張儀が恵文君に「陳軫は楚に行きたがっている」と告げ口をした。陳軫は巧みに言い逃れて、かえって厚遇された。
B.C.328張儀が宰相となると、陳軫は楚に出奔した。
楚で重用されなかったが、使者として秦に赴くことがあった。途中、魏で犀首に会い、 当時閑職について酒ばかり飲んでいた犀首に智恵を貸して、燕・趙・斉の宰相にさせた。
秦に着くと、韓・魏が争っていた。恵文君はこれを救うかどうか悩んで、陳軫に問うた。陳軫は秦のために 「卞荘子という者が虎を殺そうと思ったところ、旅館の小僧がそれを止めて『二匹の虎が牛を食べようとしています。これを争えば、大きいほうは傷つき、 小さいほうは死ぬでしょう。そこにつけこんで刺せば、一挙にして双虎を刺すことが出来ます』 と言いました。卞荘子はそのとおりにすると、はたして二虎を得たといいます。
いま、韓・魏は争っていますが、傷ついたところをつけこんで討てば、一挙にして両得の効果がありましょう」と言った。
恵文君はこれを容れて、ついに救わなかった。その後、秦は出兵して大いに勝った。
B.C.323楚懐王の命で昭陽は魏を攻めてこれを襄陵で破り、その八邑を取り、さらに兵を移し、 斉を攻めた。たまたま斉に秦の使者として来ていた陳軫は「王よ、ご心配はいりません。攻撃を止めさせてごらんにいれましょう」と言い、出かけて昭陽に会見して言った。
「楚の法をお聞かせ願いたいのですが、敵を破り、敵将を殺した者には、どのような官爵を褒美とされるのでしょうか」
「その官を上柱国とし、爵を一級上げて執珪に封じる」
「それ以上の高い位がありましょうか」
「令尹だ」
「ではあなたはすでに令尹ですから、楚の最高官です。これ以上の高位に上りようがありません。
ひとつたとえ話をさせてください。ある人が舎人達に大杯に一杯の酒を与えました。舎人達は相談して、蛇を描いて一番早く描けた者が、ひとりで飲むことにしました。 『おれが一番だ』と叫んだものは『早くできたので足をつけてやろう』と言いました。次に描き上げた者が酒を奪ってそれを飲んで言いました。『蛇には足があるはずがない。 足を付け足したから蛇ではない』と。
さて将軍は斉を攻めておられますが、勝ったとて、爵位はこれ以上に加わりません。もし負ければ身は死し爵は奪われ、 楚でそしられましょう。これは蛇を描いて足を付け足すのと同じことです。兵を率いて帰り、斉に恩徳を施す ことはありません。これは極点を保つ術です」と言ったので、昭陽は「なるほど」と言い、兵を引き揚げて去った。
B.C.318韓宣恵王公仲の進言に従って、公仲を秦につかわせて秦と和を講じようとした。
楚懐王はこれを大いに恐れ、陳軫に相談した。
陳軫は「師を起して『韓を援ける』と宣言し、使者を韓につかわして幣物を手厚くして、王が韓を救うものと韓王に信じ込ませるのです。そうすれば、 たとえ韓が救援を受け入れなくても、少なくとも王を徳とし、必ず秦とともに楚を攻めないでしょう。
もしわがほうの言を聴き、秦と和親を絶つなら、秦はかならず大いに怒って、深く韓を怨みましょう。これは楚が秦・韓の兵をあやつって、 楚国の禍をまぬがれる方法です」と言った。
懐王はこれを採用した。はたして韓は秦を和親を絶ち、楚は秦・韓の侵攻を免れた。
B.C.313陳軫が楚にいる時、秦の張儀が楚懐王を説いて秦と親和させ、商・於の地を割譲することを提示した。懐王は喜び連日酒宴を催したが陳軫はひとり悔やみを述べた。
懐王が「どうしてか」と問うと「いま土地も手に入らぬうちに斉との交わりを絶とうとしていますが、孤立した楚を秦がどうして重んじましょう。必ず張儀に欺かれましょう。 そうなると、西に秦との関係が悪くなり、北に斉と交わりを断つことになり、両国の兵はわが国に攻めてまいりましょう。それゆえ、お悔やみ申すのです」と答えた。
しかし懐王はこれを聴き入れなかったため、結局、陳軫の言ったとおりとなった。
懐王は張儀に欺かれると、秦を討とうとした。陳軫はこれを諌めて「秦を討たず、逆に秦に名邑ひとつを与えて、秦とともに斉を討つべきです。それによって秦に失った 償いを斉から取ることが出来ます。ここで秦を攻めると、秦と斉の交わりを強めてしまい、 楚は大損害をこうむることになりましょう」と言ったが、これも聴き入れられなかった。
B.C.303楚が斉と交わりを絶ったので、斉は楚を討った。陳軫は楚懐王に「土地を斉に与えて斉と和解し、西方では秦と講和するべきです」と説いた。 そこで懐王は陳軫を秦に派遣した。
陳軫は秦昭襄王に説いて「王は管与(辨与)の話をご存知でしょうか。あるとき二匹の虎が人を食おうと奪い合って戦っていました。 管荘子という者がその虎を殺そうとしたとき、管与はそれを制止して『二匹の虎のうち小さいほうが殺され、大きいほう傷つくでしょう。 きみは手傷を負った虎だけになるのを待ってそれを殺せば、二匹の虎を得ることができます』と言いました。
いま斉、楚が戦っておりますが、きっと斉が敗れるでしょう。王はそこで軍を出して斉を救ってやるのです。 そうすれば斉を救うという得だけあって楚を討つ必要はありません」と言った。
(『戦国策』では、二匹の虎のたとえは秦恵文君に説いているが、 恵文君はB.C.311に没しているため、『史記』と整合性がとれていない)
陳臻(チンシン)【在野】
孟子の弟子。
『孟子』に見える。
孟子の諸侯に対する態度について、孟子と問答する。
陳辛(チンシン)【在野】
儒者。陳相の弟。
陳良の弟子であったが、滕に行き、許行の教えに傾倒する。
陳臣思(チンシンシ)
田臣思
陳筮(チンゼイ)【文官】
韓の臣。
B.C.274韓は趙と魏に攻められる。韓釐王は陳筮に「事は危急に瀕しています。願わくはご病気中恐縮ながら、 秦まで途中一泊の旅をしていただきたい」と請うた。
陳筮は魏冄に謁見した。魏冄は「事態はあなたをよこさなくてはならぬほど危急なのですか」と問うた。
「それほどでもありません」と答えると、魏冄は怒って「それが主使たることばでしょうか。韓の使者が急を告げるありさまは、すこぶる切迫しているように思われるのに、 そのようにおっしゃるのはどういうことでしょう」と言った。
陳筮は「真に危急となれば、転じて他のほうに従いましょう。まだ真の危急に瀕していないからこそ、こうしてまた来るのです」と言った。
魏冄はすぐに援軍を出し、韓とともに趙・魏を破った。
陳荘(チンソウ)【宰相】
蜀の宰相。秦の臣。~B.C.310。
B.C.314秦恵文君は公子を蜀に封じ、陳荘を国相とした。
B.C.310陳荘は謀反して、蜀侯通を殺した。
秦は庶長甘茂張儀司馬錯に命じて蜀を討伐したため、 陳荘は誅殺された。
陳代(チンダイ)【在野】
孟子の弟子。
孟子がかたくなに諸侯に会わないことを非難する。孟子は「お前は多少自分をまげてもというが、自分をまげるような正しくないものでは、 とても他人を正しくすることなどできはしない」と答える。
陳馳(チンチ)【在野】
戦国時代の説客。
陳馳は秦の命で、斉王に勧めて「秦に入られたら、秦は500里の土地を差し上げる」と言った。 そこで斉王建は秦に入って戦わずして秦に降った。
陳長(チンチョウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
陳長に奉仕する人々は、病気になると陳長が祭った水をもらい、それを飲むとみな全快した。すでに600歳になっていたが、顔色は60歳の人のようであった。
陳武子(チンブシ)
田開
陳文子(チンブンシ)
田須無
陳無宇(チンムウ)
田無宇
陳良(チンリョウ)【文官】
儒者。
『孟子』に見える。
楚の儒者。


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