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列伝 チ
チ
- 地(チ)【公子】
- 宋の公子。宋元公の子。太子欒の同母弟。
B.C.522、6月16日、華氏と向氏は叛乱を起こし、公子地は太子欒・公子辰とともに華亥の人質となった。
10月13日、華・向の二氏は敗れて陳に逃げ、華亥は「君に背いて逃げ、そのうえ君の子を殺しては誰もわれわれを迎えてくれないであろう」と言って、
華牼に命じて公子たちを送り返した。
B.C.500秋、公子地は蘧富猟を愛し、自分の財産を11等分して、その5を与えた。
冬、斉景公は向魋を愛していたため、公子地の白馬をとりあげて向魋に与えた。
公子地は立腹して向魋を打ちすえた。そのため公子地は陳へ出奔し、公子辰は引き留めるようお願いしたが、景公は聴き入れなかった。
B.C.499春、公子地は亡命した公子辰・仲佗・石彄とともに宋の蕭に入って叛乱を起こした。
- 蚳ア(チア)【文官】
- 田斉の臣。霊丘の長官。
霊丘の長官をやめて士師となったが、王に諫言しないことを孟子に指摘された。蚳アはそこで王を諌めたが、
用いられなかったので、官を辞して立ち去った。
- 智盈(チエイ)【文官】
- 晋の臣。智朔の子。智悼子、荀盈、伯夙ともいう。B.C.566~B.C.533。
B.C.566智盈が生まれると、父の智朔は没した。
B.C.550、4月、欒盈がひそかに曲沃に入って叛乱を起こした。智盈は年が若かったので、
中行氏の意見に従って欒盈に組しなかった。結局、欒盈の叛乱は失敗した。
B.C.546、6月8日、諸侯が宋で会合することになり、智盈は趙武の後を追って宋に到着し、諸侯と盟いを結んだ。
7月4日、智盈は趙武に「楚の様子が大変険悪である。晋に襲いかかるかもしれない」と言うと、趙武は「こちらが左(東)まわりして宋の都に入るならば、
どうすることもできまい」と答えた。
智盈は会合が終わるとすぐに楚に出かけて、直接立ち会って楚と盟いを結んだ。
B.C.544、6月、智盈は諸侯の大夫を集めて、杞に城壁を築いた。
B.C.533、6月、智盈は斉に出かけて妻を迎えた。帰る途中、智盈は戯陽で没した。
- 智罃(チオウ)【将軍】
- 晋の臣。下軍の佐、中軍の将。字は子羽。荀首の子。荀罃、知伯、智武子ともいう。~B.C.560。
B.C.597、6月、邲の戦いで楚と戦い、智罃は敗れて熊負羈に捕えられた。
B.C.588邲の戦いで晋が捕らえた楚の公子穀臣と襄老との交換条件で、
智罃は楚から晋に帰ることとなった。楚恭王は智罃を見送って言った。
恭王「わたしを恨んでいるか」
智罃「君はわたしを国に帰って処刑を受けるようにして下さいました。どうして恨みましょうか」
恭王「それなら恩義に感じているか」
智罃「両国が捕虜の縄をといて友好を結ぼうとしているのです。どうして恩義を感じましょうか」
恭王「国へ帰ったら、わたしにどんなお礼をするつもりか」
智罃「恨みも恩義もないのに、どうして恩返しをしなければならないのでしょうか」
恭王「そうはいっても、ぜひとも聞かせてくれ」
智罃「もし処刑することを許されずに父の職を継ぎ、国政に関与し、君の軍とお会いすることがありましたら、
その時は全力を尽くし一命をささげて戦いましょう。これが君への返礼です」
これを聞いた恭王は「晋はまだ争うことの出来ない強国である」と言って、手厚いもてなしをして智罃を晋に返した。
B.C.583趙武が成人して大夫に挨拶回りをした。このとき智罃は「あなたは努力しなされ。宣子(趙盾)の忠節があって、
成子(趙衰)の文徳によって君に仕えるならば、きっと成功するでしょう」と言葉を贈った。
張孟は「智子(智罃)の教訓は立派です。成子宣子はあなたを愛護されているのです」と評した。
B.C.578、5月、智罃は下軍の佐として秦軍と戦い、麻隧でこれを大破した。
B.C.575、4月、晋は鄭討伐の軍を発し、智罃は留守となった。
7月、晋は斉・尹・魯・邾とともに鄭を討った。諸侯の軍は制田に移動した。智罃は下軍の佐として諸侯の軍を率いて陳に攻め入り、陳の鳴鹿まで進撃し、
勢いに乗じて蔡に攻め入った。
B.C.574、智罃は魯に赴いて鄭を討つための援軍を請うた。
B.C.573、1月、欒書の命で、智罃は士魴とともに周へ赴いて、公孫周を晋君に迎えた。
B.C.572冬、智罃は魯を訪問し、従来の友好をつなぎ、諸事を相談した。
武子と諡される。
B.C.571、7月、智罃は孟献子・華元・孫文子・
曹人・邾人の戚で会合して、鄭を討つ相談をした。
冬、智罃は孟献子・斉の崔杼・華元・孫文子・曹人・邾人・滕人・薛人・小邾人と戚で会合した。
孟献子「晋の虎牢に城を築いて鄭を威圧しましょう」
智罃「それはよい。前年、鄶の会合のとき、斉の崔子(崔杼)が晋についている不平を言っていた。彼は今の会合に参加していないし、
滕・薛・小邾も斉を恐れてやって来ない。わが君の心配は鄭ばかりではありません。わたしは今のことをわが君に申し出てみます。もしうまくいけば、
これはあなたの功です。もし斉の承諾を得なければ斉を討ちましょう。あなたの提案は諸侯にとって幸いとなるでしょう」
諸侯は虎牢に城を築いたので、鄭は諸侯と和睦した。
B.C.570冬、許霊公が鶏沢の会合に参加しなかったため、智罃は許を討った。
B.C.565冬、楚が鄭を討った。鄭は王子伯駢を使者として晋に遣わして、しかたなく楚についたことを報告した。
智罃は子貢に答えさせて「貴国の君はわが君に報告することなく楚と仲良くされました。
それは貴国の君の望んでいることでしょう。わが君は諸侯を率いて貴国の城下でお目にかかるでしょう」と言った。
B.C.564、10月、晋は諸侯とともに鄭を討った。智罃は范匃とともに魯の季武子、
斉の崔杼、宋の皇鄖をつれて中軍を率いて鄭のセン門を攻めた。
10月15日、連合軍は鄭の氾に集まり、晋悼公が鄭を包囲するよう命じた。鄭はこれを恐れて晋と和睦しようとした。
荀偃「このまま鄭を包囲して、楚の到着を待って決戦しよう。そうしなければ鄭はまた楚につくでしょう」
智罃「鄭の和睦を許して、鄭を救おうとする楚にひどい目をあわせよう。晋の全四軍を3つに分けて諸侯とともに楚を迎え討とう。
そうすれば、こちらは疲れておらず、楚は疲れているだろう」
諸侯はみな戦うことを望んでいなかったので、鄭の和睦を許した。
11月10日、諸侯は鄭の戯で同盟し、鄭の降服を許した。このとき鄭は「大国(晋と楚)が鄭に恵みを施さず、武力をもって服従を強要しており、
鄭は神々の祭りを受けることができず、民も土地の利を楽しむことができない」と盟いの文を読んだ。
荀偃が立腹して「その盟いの言葉を改められよ」と言うと、鄭の子展は「神霊に告げて誓いの言葉を結びました。
これが改められるなら、貴国のような大国に背いてよいことになります」と答えた。智罃は荀偃に「われわれが無理に力で盟わせたのです。
礼にかなっていませんでした。しばらく盟いを結んで帰国し、徳を収め、軍を休息してから再び来れば、その時こそ鄭を服従させることができましょう」と言って、
そのまま盟いを結んで引き揚げた。
B.C.563荀偃と范匃が偪陽を討って、宋を晋の与国にするべく努力した宋の向戌に与えて欲しいと願い出た。
智罃は「偪陽の城壁は小さいが堅固である。勝っても武勇とは言われないし、勝てなかったら笑いものにされる」と反対したが、范匃は強く願ったので、
夏に諸侯と共に偪陽を討った。
諸侯は偪陽の攻略に長い時間かかった。荀偃と范匃は智罃に「長雨になりそうです。帰ることができなくなるかもしれませんので、軍を引き揚げましょう」と言った。
智罃は立腹して肘掛を投げつけて「お前たちは偪陽を向戌に与えると決めてかかってわたしに告げたのだ。そのとき許さなければお前たちが命令に背いてはと心配して、
お前たちのいいなりになったのだ。わが君にお勧めして軍を起こさせ、この老骨まで引き連れてきたのに、さしたる武功もなくわたしに罪を着せようとしている。
わたしはとても重い責任には耐えられない。7日で勝てなければ、お前たちに責任を取らせるぞ」と言った。
5月4日、荀偃と范匃はみずから先に立って矢や石をものともせず、8日に偪陽を滅ぼした。晋悼公は偪陽を向戌に与えようとしたが、向戌が辞退したため、
これを宋平公に与えた。宋平公は悼公を宋の楚丘でもてなした。そのとき宋が天子の用いる旗を用いたので、
晋悼公は恐れ憚って次の部屋に引き下がった。そしてその旗を去らせてもらい、宴会を終えて帰路についた。晋悼公は晋の著雍に着くと病気になった。
卜してみると桑林の神のたたりと出た。智罃は「こちらはあの礼楽をお断りしたのに、先方が無理に用いたものだ。宋にたたるべきだ」と言った。
6月、智罃は秦を討った。
9月、晋は諸侯とともに鄭を討った。
11月、楚が鄭の救援に来たので、諸侯の軍は鄭の陽陵に進んだ。
智罃「いまこちらが楚軍を避けて逃げたら、楚はきっと奢るでしょう。その時こそ決戦すべきです」
欒黶「逃げるのは恥です。わたしだけでも進もう」
そこで晋軍は直ちに進撃した。
11月16日、晋軍は潁水をはさんで対陣した。そのとき鄭は楚に服従してしまった。
欒黶は楚に服従した鄭を討とうとしたが、智罃は反対して「われわれは楚軍を防ぐこともできず、鄭を守ることもできなかった。鄭には何の罪があろう。
いま鄭を討ったら楚はきっと救助するに違いない。勝てるとは断言できない。引き揚げるにこしたことはあるまい」と言った。
11月24日、諸侯の軍は引き揚げることになり、鄭の北境を侵して帰った。
B.C.562、4月19日、諸侯は会合して鄭を討った。智罃は夕暮れに鄭の西郊に進み、さらに東進して攻め入った。
B.C.560没す。
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