- 李八百(リハッピャク)【神】
- 仙人。神仙伝に見える。
蜀の人。各世代に渡って姿を見せていたので、人々はその年齢を800歳としてそれをもって通称とした。漢中の唐公氏が修行を志しているのを知り、いつわって彼に雇われて、
彼を試した。氏は李八百に特別に目をかけ、病気になると必死に看護してやった。そのため李八百は正体を明かすと氏に昇仙の秘訣を与えた。
- 犂比公(リヒコウ)【王】
- 莒公。レイヒコウともいう。〜B.C.542。
B.C.557、3月、犂比公は晋平公・宋平公・衛殤公・
鄭簡公・曹成公・魯襄公・
邾宣公・薛の君・杞文公・小邾の君と会合し、侵略した土地を帰した。
莒は邾とともに魯を討ったため、犂比公は邾宣公とともに晋に捕えられた。
B.C.555犂比公は晋・魯・宋・衛・鄭・曹・滕・薛・杞・小邾、済水のほとりで会合して斉を討ち、沂水まで達した。
B.C.553犂比公は晋・魯・斉・宋・衛・鄭・曹・邾・滕・薛・杞・小邾と澶淵で盟約した。
B.C.552犂比公は晋・魯・斉・宋・衛・鄭・曹・邾、商任で会合し、亡命した欒盈を受け入れることのないように決めた。
B.C.551犂比公は晋・魯・斉・宋・衛・鄭・曹・邾・杞・小邾、沙隋で会合した。
B.C.549、7月、斉の崔杼が莒に攻め入り、介根が侵略された。
秋、犂比公は魯襄公・晋平公・宋平公・鄭簡公・曹武公・衛殤公・滕悼公・薛の君・杞文公・小邾の君と夷儀で会合し、斉を討とうとしたが、
大水が出て斉を討つことができなかった。
B.C.548夏、平公は泮から泮水を渡り、晋平公・魯襄公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・莒犂比公・邾悼公・
滕の君・薛の君・杞文公・小邾の君と夷儀で会合して斉を討ち、朝歌の戦い(B.C.550)の報復をした。
犂比公は諸侯と会合し、晋平公は斉に逃れていた衛献公を迎えようとした。
7月11日、斉が降服したので、犂比公は諸侯と重丘で同盟した。
B.C.542犂比公には去疾と展輿のふたりの子があった。犂比公は展輿を世子に立てたが、
またそれを廃した。犂比公は残虐であり国人はこれを心配した。
11月、展輿は国人の助けを受けて攻め込み、犂比公は殺された。
- 李冰(リヒョウ)【文官】
- 秦の臣。
B.C.250蜀郡太守となる。
天文や地理に明るく、江水の水辺三ヶ所に神祠を建て、牛と羊と豚の犠牲を用い、祭祀用の玉器をみぎわに沈めて祭った。
前漢王朝が勃興した後もここを治めたという。
江水を土でふさいで堤防をつくり、郫江と検江を掘穿して支流を導き、両渠とも蜀郡内を通過させて船舶を運航させた。木材の運搬に非常に便利であった。
また蜀・広漢・犍為三郡に水路を作って水を注ぎ込み、稲田を開発した。蜀はよく肥えた田野が千里も広がり、物産に富んだ海のごとき陸地だと号した。
沫水の流れがはげしく、船舶に被害を与えて歴代それを悩んでいた。そこで李冰は兵員を発動して突き出た山崖を平らに削り取り、水脈が正常に通過できるようにした。
後漢時代の応邵の『風俗通義』に李冰にまつわる神話がある。李冰は江神に童女を捧げる悪しき習俗に対し、自分の娘をおとりにして江神にいどみ、
水中に剣を持って飛び込んだ。江神とともに二頭の蒼牛に変身した。李冰は、官印の印綬をさげたほうが自分であるとして属官に江神を刺殺させた。
李冰の勝利によって洪水もおさまったという。
- 李牧(リボク)【将軍】
- 趙の将軍。〜B.C.229。
趙の北方を守り、代の雁門に駐屯して匈奴に備えた。李牧は専断で役人を置き、市場の租税はみな将軍の幕府に収入して、士卒の費用に充てた。
日々数頭の牛を屠って士に饗し、射術と騎馬を習わせ、烽火を注意し、多くの間謀を放ち、厚く戦士を待遇した。
匈奴が侵入しても城塞に立てこもって戦わなかったので格別の損害がなかった。
そのため匈奴は李牧を卑怯者とし、趙の兵でさえ李牧を臆病だと思った。
趙王はこれを責めたが、李牧は改めなかったので、ついに他の者に代わられた。
しかし一年余りして、趙は破られて損害が大きかった。
また李牧は任を請われたが、門を閉じて外に出ず、病と称して固持した。強いて将軍に起用されたので「王がどうしてもわたくしを用いようとされるなら、
わたくしの前の方針を変えないようにさせて下さい」と言い、許された。
匈奴はまた得るところがなくなった。
しかし兵が一戦を願ったので、匈奴が侵入してきた時、いつわって逃げ数千人を置き去りにした。単于は大兵を率いて侵攻してきた。李牧は幾つも奇陣を布いて左右の両翼を張り、
大いに撃ち破って匈奴十余万騎を殺した。
こうして代の北にいた襜襤を滅ぼし、東胡を破り、林胡を降したので、単于は敗走し、その後十余年は趙の辺城に近づかなかった。
B.C.244燕を討ち、武遂・方城を抜く。
B.C.234趙は秦に大いに破られたので、李牧を大将軍に任じ、これにあたらせた。
B.C.233秦に赤麗・宜安を攻められる。李牧はこれを討ち、秦将桓齮を肥下で退ける。
この功により武安君に封じられる。
B.C.232秦に番吾を攻められる。李牧は秦軍を撃破し、また南のかた韓・魏の兵を防いだ。
B.C.229秦は王翦に趙を攻めさせたので、趙は李牧と司馬尚に防がせた。
秦は幽繆王の寵臣郭開に多額の金を与えて反間させ「李牧と司馬尚は謀叛しようとしている」
と言わせた。幽繆王はこれを信じて李牧を更迭しようとしたが、李牧は王命を拒んだ。幽繆王は人をやって、ひそかに李牧を捕らえてこれを斬り、司馬尚を辞めさせた。
3ヵ月後、趙軍は破れ、趙は滅亡した。
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