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列伝 リ


履(リ)【公子】
蔡の公子。蔡荘侯の子。
B.C.553公子は蔡の人々を従えて楚に叛いて晋につこうとしたが、蔡人に殺された。同母弟である公子履は楚に出奔した。
李阿(リア)【神】
仙人。神仙伝に見える。
蜀の人。いつも成都の市中で物乞いをしていた。彼が愉快そうな表情をしておれば、尋ねたことは吉、暗い顔つきをすれば凶であったという。
李園(リエン)【武官】
楚の臣。趙の人。
妹の美貌をたのみ、これを楚王の妾に差し出したいと思った。しかし考烈王は子宝が得られていなかったので、 長い年月の間には寵愛を失うだろうと恐れた。そこで春申君に仕えて舎人となり、春申君に妹を進めた。
彼女が身ごもったと知ると、李園は妹と相談してたくらみをめぐらし、妹は春申君に「万一王が崩御されたなら、新王の親しんだ者が重用されるにちがいありません。 どうしていつまでも王の寵をつなげましょう。いまわたしがみごもったことは、誰も知りません。君のお口からわたしを楚王にお勧めいただいて寵愛され、 もし男子を生めば、次の王はこの子となり、楚の国はことごとく君のものとなります」と言った。
春申君はもっともと思い、李園の妹を考烈王に献上した。ついに男子が生まれ、この子は太子となり、李園の妹は王后となった。
李園は重用されて政務をとるようになったが、春申君から秘密が漏れたり、ますます驕り高ぶられたりするのを恐れ、ひそかに決死の士を養成し、春申君を殺そうとした。
B.C.238考烈王が病気となり、17日ののち、考烈王が没すると、李園は宮中に入り、決死の士を棘門の内に伏せさせた。春申君が棘門に入ると、 李園は士に命じて春申君を刺し殺し、その首を門外に投げ捨てた。そして春申君の一族をことごとく滅ぼした。
そして李園の妹の子は王位についた。これが幽王である。
李悝(リカイ)
李克
里革(リカク)【文官】
魯の太史。
『魯頌』の作者とされる。
B.C.609莒の公子が主君を弑して、莒の国宝を持って魯に出奔してきた。
宣公は僕人に書類を持たせて、季孫行父に太子僕に封邑を与えるようにさせた。 しかし里革は僕人に会い、その命令書を変えさせて、太子僕を追放するようにさせた。
宣公は怒って里革を捕らえて詰問した。里革は「君命に逆らった罪は死罪に当ります。しかし『則を破る者を賊となし、賊をかくまう者を蔵となし、 宝を盗む者を宄(乱)となし、宄を用いる者を姦となす』と申します。君主を蔵姦させる者は、追放しなければなりません」と言った。
宣公は「わたしこそ本当に欲張りでした。あなたの罪ではない」と言って里革を許し、太子僕を追放する。
ある夏、魯宣公は泗水で網で魚を捕った。里革がその網を切断し、破棄して「今は魚類が雌雄別れて子を孕む時であり、魚の成長することを民に教えず、 かえって網で捕ろうとするのは、貪欲きわまりないものです」と言った。
宣公は「里革はわしの過ちを正してくれる。この網をしまわせておいて、わしがこの諌めを忘れないようにしよう」と言った。
楽官の師存が「網をしまっておくよりも、里革を重用して、彼を忘れないほうがようございます」と言った。
B.C.573晋の大夫欒書荀偃厲公を弑したことをうけて、 魯成公が「臣がその君を殺したとき、だれが悪いのか」と言った。
その場の大夫は答えられなかったが、里革は進み出て「それは君が悪いのです。君が権威を失墜して殺されるのは、その過ちが多いからです。 は南巣に逃亡し、は都で殺され、厲王は彘に流され、 幽王は戯(驪)山で殺されましたが、みなこの道をたどったのでした。君は民の川沢であり、民は魚ですから、 民の善悪はみな君によって決まるのであって民はなにもすることはできません」と言った。
驪姫(リキ)【女官】
献公の寵姫。驪戎の娘。
B.C.672献公は驪戎を討ち、驪姫とその妹を手に入れ、驪姫は献公に寵愛される。
B.C.663驪姫は自分の子奚斉を後継ぎにするため謀略をめぐらせた。
また驪姫は俳優の優施と密通した。驪姫が言った。
驪姫「わたしは太子の廃立をしたいのだが、三公子をどうすればよいか」
優施「まず申生から殺しなさい。清潔であれば辱めやすく、重厚であれば速やかに倒れます」
こうして驪姫はまず申生の中傷から始めた。
驪姫は献公の側近の梁五東関五に賄賂を贈って献公にこう言わせた。 「曲沃は、君の宗家の出た都城であり、蒲と二屈とは国境に近い邑ですから、王がいなければなりません。 太子申生を曲沃の主とし、重耳を蒲城へ、 夷吾を屈へ赴任させるなら、民に威を示して戎狄を恐れさせることができます」
献公は喜んで曲沃・蒲・屈に築城して公子らを居らせ、奚斉を国都絳に居らせた。
驪姫はこうして申生を遠ざけると、さらに讒言を始めて、しだいに申生は献公に疎んじられるようになった。
B.C.660驪姫は優施に教えられて、献公に夜中に泣いて申生を讒言した。そして「太子に狄を討たせて、統率に果断であるか、衆人が親和するか観察しましょう。 もし狄に勝たなければ処罰してもよいでしょう。また勝っても、彼の欲求はますます大きくなって、きっと失脚させることができます」と言った。 献公は喜んで、申生に東山の皋落の狄を討たせた。
B.C.656献公が密かに驪姫に「わたしは太子を廃し、奚斉をこれに代えようと思う」というと驪姫はいつわって泣いて「どうして嫡子を廃して庶子を立てることがありましょう。 わが君がどうしてもそのようになさるなら、わたしは自殺します」と言った。驪姫は心をいつわって太子を褒めながら、ひそかに人に太子を讒言させ、 わが子を立てようとした。
献公が斉姜(申生の母)の夢を見たので、驪姫は太子申生に斉姜を祀って胙を献上すべきであるとすすめた。 驪姫はその酒と肉に毒を入れておき、献公がそれを受け入れようとしたとき、試してみてから貰うように進言した。はたして酒を地にそそぐと土が盛り上がり、 肉を犬に与えると犬は死んでしまった。献公は申生を疑い、申生は自殺した。 また毒殺計画は重耳、夷吾も知っていたと讒言して、彼らが国内に居られないようにした。
献公が没すると予定通り奚斉を即位させるが、一ヵ月後に反乱に会い、殺される。
李宮(リキュウ)【在野】
李注の子。
李向(リキョウ)【文官】
趙の臣。
権の戦いのとき、秦は魏冄を趙へ行かせて、趙に燕を援けて斉を討つようにさせた。
魏処田嬰の命で趙に行き、李向に説いて「もしあなたが燕を援けて斉を討てば、 斉はきっと燕と和睦して趙を討つでしょう。趙にしてみれば兵を送らず、燕・斉が疲弊するのを待ち、両方から土地を割き取るのが一番です」と言った。
陸吾(リクゴ)【神】
陸吾は虎の身体、9つの尾、猫のかぎ爪、9つの人間の頭を持つという。
陸終(リクシュウ)【神】
楚の先祖。呉回の子。
6人の子があったが、いずれも母親の身が裂けて生まれた。
陸通(リクツウ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
楚の接輿ともいわれる。諸方の名山にも出かけてゆき、のち蜀の娥媚山に住む。代々その姿を見かけたが、 数百年たって所在が知れなくなった。
李君(リクン)
李醯(リケイ)【文官】
秦の臣。太医令丞。
李醯は、自分の技術が扁鵲に及ばないのを知り、刺客をさしむけて扁鵲を刺し殺した。
利公(リコウ)【王】
陳公(14代目)。名は躍。桓公の子。〜B.C.700。
B.C.700、3月、弟たちと謀り、蔡人を使い美女をもって厲公を誘惑させて殺し、代わって立つ。
8月、即位して五ヶ月で没す。
里克(リコク)【文官】
晋の臣。
B.C.663晋献公が太子申生を廃して、奚斉を立てようとした。
里克、邳鄭荀息が会ったとき、里克が言った。
史蘇の話どおりになりそうだが、どうしたらよいでしょうか」
荀息「君に仕える者は、力の限り職務を遂行するといいます。君が太子を立てれば臣はその命に従うだけです」
邳鄭「君に仕える者は、君が義にかなえば従い、君の惑乱には従わないと言います。惑乱すれば民を誤ります。民に君があるのは、義を治めて正道を行うためです。 わたしは必ず太子申生を立てるつもりです」
里克「わたしは不徳で義を知りませんが、君の惑乱にも従いません。沈黙を守りましょう」
B.C.660冬、献公は申生に命じて東山の皋落狄を討たせた。里克は諌めて「太子派遣はいけません。君が行って太子が国に居るのは、国家を監察するためです。 君が行き、太子も随行するのは、軍隊を慰撫するためです。君が国に居て、太子だけ行くというのは、今だ無いことです」と言った。しかし献公は聴き入れなかった。
里克は退出して申生に会った。申生は「君侯がわたくしに偏衣と金玦を賜ったのは、どういう訳でしょうか」と尋ねた。里克は「若君には恐ろしいのですか。 人の子たる者は、不孝を恐れて、立つことができないことは恐れません。若君、つとめて孝敬されよ」と言った。太子は出陣したが、里克は病と称して従軍しなかった。
驪姫は奚斉を立てるときに里克が障害になると思った。そのため俳優の優施は歌を歌って里克に、 献公が太子廃立を決めたことを伝えた。里克は「君の志のままに太子を殺すことは、わたしは耐え忍ぶことはできません。そうといっても、 事情を知りながら太子と今までのように交際することもできません。中立を守れば窮地を逃れることができましょうか」と言った。
夜明けを待って、里克は邳鄭に会って言った。
里克「史蘇の話が実現しましょう。優施がわたしに知らせました」
邳鄭「あなたは何と答えたのですか」
里克「中立を守ろうと答えました」
邳鄭「惜しいことでした。信じられないと答えて驪姫の気持ちをくい止めるべきでした。今あなたが中立と言ったからには、ますます陰謀は強固となりましょう」
里克「あなたはいかが致しますか」
邳鄭「わたしには自立的な心はありません。従って君に仕える者は、君がわが心であり、規制は我にありません」
里克「志を曲げて君に従うのは、太子を廃して自分の利を計ることになります。利の正しい道によって太子を成功させようとすることは、わたしには不可能です。 わたしは隠れましょう」
こうして里克は翌日から仮病を使って朝廷に出なかった。
B.C.658夏、里克は荀息と共に、虞軍と協力して虢を攻撃し、下陽を攻め滅ぼした。
B.C.652里克は軍を率い、梁繇靡が御者、虢射が右となって狄を采桑で打ち破った。
梁繇靡が「狄を追撃すれば大勝するだろう」と言ったが、里克は「狄を脅すだけである。他の狄の報復を受けるようなことはすべきではない」と言って反対した。
虢射は「一年のうちに狄に攻められるだろう。こちらの弱さを見せてしまった」と言った。
夏、晋は狄に攻められた。
B.C.651、9月、献公が没した。里克は奚斉を殺そうとして荀息に告げたが、荀息は「わが君の遺児を殺すならば、わたくしは死ぬだけです」と言った。 里克は「あなたが死んで太子が立つことができるなら、死ぬのもいいでしょう。太子は廃されるのにどうして死ぬことがありましょう」と言ったが、 荀息は聴かなかった。
次に里克は邳鄭に告げた。邳鄭は「私はあなたを助けましょう。あなたは七輿大夫を率いて私を待っていて下さい。 私は狄と秦へ行って両国の援助を頼んで支援しましょう。そして条件の不利な公子を即位させたなら、私たちは思いのままにすることができます」と言った。 里克は「いけません。願わくは、諸侯がその君を義として愛撫し、百姓が喜んで奉戴するならば、国家は安泰しましょう」と言い、10月、 三公子の徒党を率いて乱を起こし、奚斉を殺した。
11月、荀息が悼子を立てたので、里克は悼子も殺した。そのため荀息は殉死した。
そこで里克は邳鄭とともに、屠岸夷を遣って重耳を迎えさせようとしたが、 重耳が固持したため、夷吾を迎えた。
このとき夷吾から「もし立つことができたら、ゆくゆくはあなたを汾陽の邑に封じさせていただきたい」という書簡をもらった。
B.C.650帰国した恵公に裏切られ、権勢を奪われる。里克は乱を起こすと疑われ、恵公に「里子(里克)がいなかったら、 わしは立つことができなかったろう。しかしきみも二人の君(奚斉・悼子)と一人の大夫(荀息)を殺した。きみが国君となることも、またむつかしいことではなかろうか」と言われ、 里克は「わたしはご命令に従いましょう」と言い、剣にうつ伏して死んだ。
李克(リコク)【文官】
魏の臣。李悝ともいう。卜商の弟子。〜B.C.395。
文侯のふところ刀として人事に対する相談相手となる。
また穀物の価格の調整を行って、農民の生産意欲を高めたり(地力を尽くす術)、成文法を定めたともいわれる。
その農業政策は、のちに商鞅に受け継がれた。
あるとき文侯は呉起が賢明であると聞き、李克に「呉起は如何なる人か」と尋ねた。 李克は「欲張りで女好きだが、用兵は巧みな人である」と答えたので、呉起は登用された。
また文侯は李克に「宰相に任ずべき人は成(魏成子)でなければ璜(翟璜)だが、 このふたりをどう思うか」と尋ねた。
李克は「『卑賤な者は尊貴のことを議せず、疎遠な者は親戚のことを論じない』といいます。わたくしは宮門外におり、卑賤で疎遠な者ですから、お答えいたしかねます」
「先生、これについては遠慮なくいっていただきたい」
「人を察するには、その人が日常誰と親しくしているかを見、富めば誰と与しているかを見、高位につけば誰を用いるかを見、窮すれば何をしないかを見、 貧すれば何を取らないかを見るのです。この五点を見れば、人物を選定するのに十分です。どうしてわたくしなどにお問いになることがございましょう」
「先生、どうか舎に引き取りお休みください。わたしの宰相は決まりました」
李克は退出し、翟璜の家を通り過ぎると、翟璜は「聞けば、わが君は先生を招いて宰相の人選をなされたとか。はたして誰がなるのでしょう」と問うた。
李克は「魏成子でしょう」と言うと、翟璜は憤然と色をなして言った。
「わたしはどうして魏成子に劣りましょう。西河太守(呉起)、西門豹楽羊や先生を推薦し、さらにわが君の子に師傅がなかったので、屈侯を推薦しました。 どうして魏成子に劣りましょう」
李克は「いったい、あなたがわたしを推薦してくださったのは、まさか徒党を組み、それによって大官を求めようとなさったわけではありますまい。
それはとにかく、あなたはどうして魏成子と比べることが出来ましょう。魏成子は俸禄千鐘の十分の九まで人に与えて、自分はその一つしか得ず、東のほうに卜子夏(卜商)、 田子方段干木を得ました。この三人はいずれもあなたが師とする人たちです。
あなたが推薦された五人は、みなあなたが部下とした人たちです。どうして魏成子と比べることが出来ましょう」と言った。
翟璜は後ずさりして、再拝して「わたくしはつまらぬ人間です。間違ったことを申しました。どうか弟子にしてください」と言った。
李克は『法経』6編を作成した。
また李克は『李子』32編を作成した。
B.C.395没す。
李根(リコン)【神】
仙人。神仙伝に見える。
字は子源。許昌の人。李根は両眼とも瞳が方形であったという。仙経をみると「800歳の人は、その瞳方形なり」とある。李根は弟子たちに語った「わしは神丹大道の秘訣は 得られなかったが、ただ地仙になる方法だけは会得したので、天地と共に生きる。だがこの地上の人間にはならないぞ」と。
李修(リシュウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
絶洞子ともいう。400余歳になっても顔色は衰えなかった。著書40篇、名づけて『道源』といった。のち昇天した。
李讎(リシュウ)【文官】
秦の臣。
B.C.311秦恵文王が没した。 犀首張儀を困らせてやろうと思っていた。そこで李讎は犀首に 「甘茂を魏から招き、公孫顕を韓から招き、 樗里疾を登用するのがよいでしょう。 この3人はいずれも張君の仇敵です。公がこの3人を登用すれば、諸侯は張君の政権がなくなったと思うでしょう」と進言した。
犂鉏(リショ)【文官】
斉の臣。
B.C.500魯との修好の会のとき「孔丘(孔子)は礼に通じておりますが、勇気がありません。 どうか夷の萊人に舞楽をやらせていただきとうございます。こうした方法で魯君をとらえ、志をお遂げなされ」と進言する。しかし孔子は堂々とその舞楽を止めさせ、 礼をもって斉景公を責めた。
李二郎(リジロウ)【神】
秦の臣。李冰の子。
李冰とともに都江堰の工事を手がけたといわれる。
李二郎は民間伝説で伝えられ、『西遊記』で孫悟空と戦う二郎真君として登場する。
李信(リシン)【武官】
秦の臣。
B.C.227年少で血気の勇があった。兵数千をもって燕を討ち、太子を衍水の水中で捕らえる。
B.C.226遼東に立てこもる燕王をはげしく追撃する。
B.C.224秦王は楚を討ちたいと思い、李信に問うた。
「わしは荊(楚)を攻め取りたいが、どれだけの兵があれば事足りよう」
「20万もあれば十分です」
秦王政は王翦に同じ事を問うた。王翦は「どうしても60万なくてはいけません」と答えた。
秦王政は「王将軍も老いた。なんと意気地のないことか。それに比べて李将軍は果断勇壮だ。彼の言うことは的を得ている」と言って、 李信と蒙恬に命じ、20万の兵で楚を討たせた。
李信は平輿を攻め、蒙恬は寝丘を改め、大いにこれを破った。李信は兵を引いて西行し、城父で蒙恬と会同した。しかしそこで楚に攻められて反撃にあい、二ヶ所の塁壁を破られ、 7人の将校を失い、秦軍は敗走した。そのため王翦に代わられた。
B.C.222大軍をおこし、王賁とともに燕の遼東を攻める。王賁は燕王を捕らえ、 軍を返して代を攻めて代王を虜とする。
B.C.221王賁とともに燕の南から斉を討ち、斉王を虜にし、斉を滅ぼす。
里析(リセキ)【文官】
鄭の臣。〜B.C.524。
B.C.524、5月14日、鄭で火災が起こった。里析は火災が起こる前に予言して「やがて大災がおこって民は驚いて国は滅びかけるでしょう。今に都を移すのがよろしいでしょう」 と予言したが、子産は「私の力では移すことを決めかねます」と答えた。里析は火災の前に没したが、 子産は人夫30人に命じて火災の起こる前にその柩を火災の及ばない場所に移した。
李宗(リソウ)【将軍】
魏の将軍。老子の子。
封ぜられて段干を領地とする。
李兌(リタイ)【文官】
趙の臣。
B.C.296公子が代に封じられ、田不礼がその宰相に任じられた。
李兌は肥義に「公子章は強壮で驕慢、欲望が大きく私心があるようです。また宰相の田不礼は残忍で驕慢です。 ふたりはそのうち乱を起こしましょう。あなたは勢力が大きいので乱の目標になりましょう。仁者は万物を愛し、智者は禍を未然に防ぐといいます。 どうして病と称して政事を公子にお渡しにならないのですか」と言った。
肥義は「そうではない。かつて主父(武霊王)は『なんじの節義を変えてくれるな。なんじの思慮をちがえてくれるな。堅く一心を守って、 なんじの一生を終えてくれ』と言われた。わたしは再拝して命を受け、これを記録している。いま禍を恐れて、この言葉を忘れるのでは、これ以上の変節はあるまい。
進んで厳命を受けながら、退いてこれを全うしないのでは、これ以上の背信はあるまい。変節背信の臣は刑を免れぬ。ことわざに『死者また生くとも、生者恥じず』とある。
わたしは前言を全うしたいと思う。そなたから忠告をいただき、誠実を尽くしていただいたが、わたしには前言があり、それを失うわけにはいかない」と言った。
李兌は「わかりました。どうか、せっかくおつとめください。わたしがあなたにお目にかかれるのも、今年きりです」と言い、涙を流して退出した。
B.C.295公子章が田不礼とともに叛乱を起し、肥義を殺した。
李兌は成とともに都から駆けつけて、章を攻め、田不礼を殺してその一味を滅ぼした。
その功により、李兌は司寇となる。
李談(リダン)【武官】
趙の臣。〜B.C.258。
邯鄲の宿場役人の子。
B.C.258秦が邯鄲を囲み、邯鄲は危急に瀕し、まさに降服しようとした。李談は平原君に「邯鄲の民は満足なものを着られず、 糟糠さえ十分に食べられず、人骨を焚いて薪に代え、子を取り替えあって食べております。しかるに、君の後宮の婢妾は綺穀を着て、粱肉を食べ余しています。秦が勝てば、 君はどうしてこれを保有することができましょう。いま君が、もし夫人以下を士卒の間に配置して作業を分担させ、君が家の貯蔵をことごとく放出して士に饗応するなら、 この危急困苦の時、士はどれだけ恩恵とすることでしょう」と言った。
平原君は李談の進言に従い、決死の士3000人をもって秦に立ち向かい、秦軍は30里退いた。そこに援軍が来たので、秦軍は退却して邯鄲は救われた。
しかし李談が戦死したので、その父は封じられて李侯とされた。
李注(リチュウ)【在野】
李宗の子。
李仲甫(リチュウホ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
豊邑の人。若くして仙人について道を学び、水丹を服して効あり、遁甲をおこない、歩訣隠形(忍法の類)をよくした。人間界に住むこと300余年、 のち西嶽山に入ったきり再び帰ってはこなかった。
理徴(リチョウ)【文官】
商王朝の臣。皋陶の後裔。
理徴は紂王に直言して怒らせたため、迫害された。
栗腹(リツプク)【宰相】
燕の宰相。〜B.C.252。
B.C.252燕王の命で、趙と親善を約定し、500金を投じて趙孝成王のために寿宴を催した。
しかし栗腹は帰国すると、燕王に「趙の民は長平で数多く戦死しており、その遺児たちはまだ年少です。討つなら今です」と進言する。 燕王は趙を討ち、栗腹も将軍として鄗を攻めるが、廉頗に鄗で敗れ、殺される。
李八百(リハッピャク)【神】
仙人。神仙伝に見える。
蜀の人。各世代に渡って姿を見せていたので、人々はその年齢を800歳としてそれをもって通称とした。漢中の唐公氏が修行を志しているのを知り、いつわって彼に雇われて、 彼を試した。氏は李八百に特別に目をかけ、病気になると必死に看護してやった。そのため李八百は正体を明かすと氏に昇仙の秘訣を与えた。
犂比公(リヒコウ)【王】
莒公。レイヒコウともいう。〜B.C.542。
B.C.557、3月、犂比公は晋平公・宋平公・衛殤公・ 鄭簡公・曹成公・魯襄公・ 邾宣公・薛の君・杞文公・小邾の君と会合し、侵略した土地を帰した。
莒は邾とともに魯を討ったため、犂比公は邾宣公とともに晋に捕えられた。
B.C.555犂比公は晋・魯・宋・衛・鄭・曹・滕・薛・杞・小邾、済水のほとりで会合して斉を討ち、沂水まで達した。
B.C.553犂比公は晋・魯・斉・宋・衛・鄭・曹・邾・滕・薛・杞・小邾と澶淵で盟約した。
B.C.552犂比公は晋・魯・斉・宋・衛・鄭・曹・邾、商任で会合し、亡命した欒盈を受け入れることのないように決めた。
B.C.551犂比公は晋・魯・斉・宋・衛・鄭・曹・邾・杞・小邾、沙隋で会合した。
B.C.549、7月、斉の崔杼が莒に攻め入り、介根が侵略された。
秋、犂比公は魯襄公・晋平公・宋平公・鄭簡公・曹武公・衛殤公・滕悼公・薛の君・杞文公・小邾の君と夷儀で会合し、斉を討とうとしたが、 大水が出て斉を討つことができなかった。
B.C.548夏、平公は泮から泮水を渡り、晋平公・魯襄公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・莒犂比公・邾悼公・ 滕の君・薛の君・杞文公・小邾の君と夷儀で会合して斉を討ち、朝歌の戦い(B.C.550)の報復をした。
犂比公は諸侯と会合し、晋平公は斉に逃れていた衛献公を迎えようとした。
7月11日、斉が降服したので、犂比公は諸侯と重丘で同盟した。
B.C.542犂比公には去疾展輿のふたりの子があった。犂比公は展輿を世子に立てたが、 またそれを廃した。犂比公は残虐であり国人はこれを心配した。
11月、展輿は国人の助けを受けて攻め込み、犂比公は殺された。
李冰(リヒョウ)【文官】
秦の臣。
B.C.250蜀郡太守となる。
天文や地理に明るく、江水の水辺三ヶ所に神祠を建て、牛と羊と豚の犠牲を用い、祭祀用の玉器をみぎわに沈めて祭った。
前漢王朝が勃興した後もここを治めたという。
江水を土でふさいで堤防をつくり、郫江と検江を掘穿して支流を導き、両渠とも蜀郡内を通過させて船舶を運航させた。木材の運搬に非常に便利であった。
また蜀・広漢・犍為三郡に水路を作って水を注ぎ込み、稲田を開発した。蜀はよく肥えた田野が千里も広がり、物産に富んだ海のごとき陸地だと号した。
沫水の流れがはげしく、船舶に被害を与えて歴代それを悩んでいた。そこで李冰は兵員を発動して突き出た山崖を平らに削り取り、水脈が正常に通過できるようにした。
後漢時代の応邵の『風俗通義』に李冰にまつわる神話がある。李冰は江神に童女を捧げる悪しき習俗に対し、自分の娘をおとりにして江神にいどみ、 水中に剣を持って飛び込んだ。江神とともに二頭の蒼牛に変身した。李冰は、官印の印綬をさげたほうが自分であるとして属官に江神を刺殺させた。 李冰の勝利によって洪水もおさまったという。
李牧(リボク)【将軍】
趙の将軍。〜B.C.229。
趙の北方を守り、代の雁門に駐屯して匈奴に備えた。李牧は専断で役人を置き、市場の租税はみな将軍の幕府に収入して、士卒の費用に充てた。
日々数頭の牛を屠って士に饗し、射術と騎馬を習わせ、烽火を注意し、多くの間謀を放ち、厚く戦士を待遇した。 匈奴が侵入しても城塞に立てこもって戦わなかったので格別の損害がなかった。
そのため匈奴は李牧を卑怯者とし、趙の兵でさえ李牧を臆病だと思った。
趙王はこれを責めたが、李牧は改めなかったので、ついに他の者に代わられた。
しかし一年余りして、趙は破られて損害が大きかった。
また李牧は任を請われたが、門を閉じて外に出ず、病と称して固持した。強いて将軍に起用されたので「王がどうしてもわたくしを用いようとされるなら、 わたくしの前の方針を変えないようにさせて下さい」と言い、許された。
匈奴はまた得るところがなくなった。
しかし兵が一戦を願ったので、匈奴が侵入してきた時、いつわって逃げ数千人を置き去りにした。単于は大兵を率いて侵攻してきた。李牧は幾つも奇陣を布いて左右の両翼を張り、 大いに撃ち破って匈奴十余万騎を殺した。
こうして代の北にいた襜襤を滅ぼし、東胡を破り、林胡を降したので、単于は敗走し、その後十余年は趙の辺城に近づかなかった。
B.C.244燕を討ち、武遂・方城を抜く。
B.C.234趙は秦に大いに破られたので、李牧を大将軍に任じ、これにあたらせた。
B.C.233秦に赤麗・宜安を攻められる。李牧はこれを討ち、秦将桓齮を肥下で退ける。
この功により武安君に封じられる。
B.C.232秦に番吾を攻められる。李牧は秦軍を撃破し、また南のかた韓・魏の兵を防いだ。
B.C.229秦は王翦に趙を攻めさせたので、趙は李牧と司馬尚に防がせた。 秦は幽繆王の寵臣郭開に多額の金を与えて反間させ「李牧と司馬尚は謀叛しようとしている」 と言わせた。幽繆王はこれを信じて李牧を更迭しようとしたが、李牧は王命を拒んだ。幽繆王は人をやって、ひそかに李牧を捕らえてこれを斬り、司馬尚を辞めさせた。
3ヵ月後、趙軍は破れ、趙は滅亡した。
離明(リメイ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
太陽子ともいう。玉子と同年の友人であった。玉子が仙道を成就すると彼に師事し、弟子の礼をつくして怠ることがなかった。 酒が好きで、いつも酔ってばかりいるので、そのことで叱責されていた。しかし離明は「生来強情にて俗物根性が抜け切れませぬ。されば、 みずから酒でもってそれを追い払おうとしているのでございます」と答えたという。七宝樹の術という書を著し、仙人となった。酒を飲みすぎるのでその髪は真っ白であった。
留(リュウ)【公子】
陳の公子。陳哀公の子。
公子留は陳哀公に愛され、司徒に委託された。
B.C.534、3月、陳哀公が病気になると、司徒招は悼太子を殺して公子留を太子に立てた。 そして陳哀公が没すると、公子留は代わって陳君となった。
4月、楚が後継者問題に介入して、公子を奉じて陳の都を包囲し、宋の戴悪もこれに参加した。 そのため公子留は鄭に出奔した。
柳(リュウ)【宦官】
宋の宦官(寺人)。
B.C.536柳は宋平公のお気に入りであったが、太子に憎まれていた。 華合比が太子佐に「わたしが柳を殺しましょう」と言うのを聞いて、柳は穴を掘り、いけにえを備えて盟いの書を埋めて、宋平公に讒言して 「合比が国外に逃げた者を入れようとして盟いを結びました」と言った。宋平公は調べさせると、その証拠があった。そこで華合比は追放された。 華亥は兄の華合比に代わって右師になりたがっていたため、柳と結託して証拠立てをめとおしした。
B.C.532、12月、宋平公が没した。公子佐はその喪に服することになったが、宦官柳は喪礼を行う場所を炭火で暖めておき、公子佐が来る時には除いておいた。 そのため宋平公の葬儀を行うころには、公子佐は柳を寵愛するようになった。
劉夏(リュウカ)【文官】
周王朝の臣。定公ともいう。
B.C.559劉夏は周霊王の命で、王后を斉から迎えようとして斉に遣いした。
B.C.558春、劉夏は単靖公について斉に行き、周霊王のきさきを迎えた。 卿の身分の者が行かなかったため礼にかなっていないと批難された。
B.C.541劉夏は、鄭から帰国する趙武を周の潁邑で慰労した。劉夏は洛水をながめての功績をしのぶと、 趙武は「このおいぼれはただ罪にかかることのみ恐れており、遠い将来のことなど考えられません」と言った。 劉夏は帰国して周景王に「晋の正卿であるのに名もない卑しい者のような考えしか持っていない。年を越すことはできないでしょう」 と言った。はたして趙武はこの年に没した。
柳下恵(リュウカケイ)【文官】
魯の臣。姓は展、名は禽、字は季、号を柳下という。展無駭の子。
また一説(『淮南子』)には名は獲、字は禽、家に柳の大木があり、恵の徳の高い人だから柳下恵と号したという。また朱子は柳下という食邑におり、恵と諡したという。
B.C.634斉が魯を攻めた。魯釐公展喜を斉に使いさせて、魯を攻めないよう説得に行かせた。 釐公は柳下恵にそのやり方を問わせた。展喜はその方法をもって使いし、無事役目を果たした。
(『国語』では、臧文仲が外交によって戦争を止めようとして、 柳下恵に命じて賄賂を持たせて斉に贈らせようとし、柳下恵が展喜に命じて髪油を贈らせて斉軍を慰問させたことになっている。)
あるとき爰居という海鳥が魯の東門の外に3日間もいたので、臧文仲は民にこの鳥を祭らせた。柳下恵が「非理性的なるかな、臧孫は。 祭祀は国家の大切な制度であり、制度は政治の根本である。だから慎重に祭祀を制定して国法とするのだ。理由もないのに国法を増加するのは政治の道ではない」と言った。
臧文仲はこれを聞き「わたくしの過ちである。季子の話は、法典としなければならぬ」と言い、この話を記録させた。
柳下恵は下徳の君でも平気で仕えるし、どんなつまらぬ官職でもいっこうに恥じたりせず、推薦されて仕える以上は、ひたすら才智を傾けて働き、常に自分の信ずる道を行った。 また君主に見捨てられても別に怨みもせず、どんなに困っても少しもそれを苦にしなかった。
また朝廷を去ろうとするときでも是非にと引き留められればそのまま留まった。
孟子は柳下恵を評して「慎みが足りない。一方に偏っており、君子はそれに従わない」と言った。
劉巻(リュウカン)
→劉文公
劉毅(リュウキ)【武官】
周王朝の臣。
B.C.543、5月5日、劉毅は尹言多単蔑甘過鞏成らとともに公子佞夫を殺した。
竜虎(リュウコ)【武官】
魏の臣。
B.C.331秦の公孫衍に攻められ、捕らえられる。
劉根(リュウコン)【神】
仙人。神仙伝に見える。
字は君安。長安の人。若くして五経に精通し、漢孝成帝のときに孝廉に選ばれ、郎中に任ぜられるが、のちに世を棄てて仙道を学ぶ。たびたび世にあらわれ疫病除けの法を おこなったり、悪人を誅したりした。
劉子(リュウシ)【文官】
周王朝の臣。
B.C.580周公が晋に出奔しようとして晋の陽樊まで行った。劉子は周簡王の命で、 周公楚と周の鄄邑で盟いを立てて周に帰らせた。
竜子(リュウシ)
竜穆
劉州鳩(リュウシュウキュウ)【文官】
甘の臣。〜B.C.530。
悼公の一味。
B.C.530甘悼公は甘成公・甘景公の一族を除こうとしたため彼らに殺された。劉州鳩も宮嬖綽王孫没陰忌老陽子とともに殺された。
劉政(リュウセイ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
沛の人。世間の富貴栄華は一時のものにすぎず、仙道こそ長生を達せられると考え、立身の道を断念し、養生の術を求めた。180余歳で顔色は童子のごとく、 変化隠形の術をよくした。
劉佗(リュウタ)【文官】
周王朝の臣。劉文公の一族。〜B.C.519。
B.C.519、6月14日、劉佗は尹文公にだまされて殺された。
劉狄(リュウテキ)
→劉文公
劉難(リュウナン)【武官】
晋の臣。
B.C.555晋は諸侯とともに斉を討った。
12月4日、晋軍は雍門と西の外城および南の外城を焼き、 劉難は士弱とともに諸侯の軍を率いて斉の西南門外の申池の竹や木を焼き払った。
劉憑(リュウヒョウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
沛の人。戦功により、寿光の金郷侯に封ぜられる。道を稷丘君に学び、年300余歳で若々しい容貌をしており、 最も得意としたのは禁気の術(鬼神天兵を使役する術)であった。 旅商人の用心棒として同行し、賊に会うと術を使い、これを退けた。
劉フン(リュウフン)
→劉文公
竜穆(リュウボク)【在野】
春秋時代の賢人。
『孟子』に見える。
衛の公叔戌の友人。
柳融(リュウユウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
粉を鶏卵に変えたり、卵を亀に変えたりすることができた。また水を美酒に変えたりすることも出来た。
竜陽君(リュウヨウクン)【文官】
魏の臣。
魏王に寵愛されていた。
あるとき魏王とともに釣りをして、竜陽君は十匹あまり魚を捕ると、はらはらと涙を落とした。
王は「何か心配事があるのか」と問うた。
「私は王がお捕りになった魚です」「どういうことだ」
「私ははじめて魚を釣ったとき、たいへん喜びました。ところが後から釣れるものがますます大きいのです。いまではもう私は先に得た魚を捨てようとしています。今、 私のように醜い者を王は、たいへん喜んでくださっていますが、のちに捨てられましょう。私はどうして涙を流さずにいられましょう」と答えた。
劉累(リュウルイ)【文官】
夏王朝の臣。陶唐氏(堯)の子孫。
劉累は竜をならすことを拳竜氏(竜を養うことができる一族)から学んで、それをもって孔甲に仕えた。 孔甲はこれをほめて御竜氏という姓を賜り、豕韋氏の子孫と交代させて豕章の官に任じた。
あるとき竜の牝が死んだため、劉累はこっそりと塩漬けにして夏后に食べさせた。夏后はそれを美味としてそれを求めたため、 劉累は恐れて魯県に移った。この子孫が范氏である。
閭(リョ)【公子】
楚の公子。の弟。
B.C.489昭王は病が篤くなると、公子に位を譲ろうとしたが、申は承諾しなかった。 そのため昭王は公子結に位を譲ろうとしたが、 結も承諾しなかった。そのため、昭王は公子閭に位を譲ろうとし、閭は五度辞退した上で、ようやく承諾した。昭王が没すると「わたしがお受けしたのは、 王の心を満足させるためでした。いま君主は亡くなられたが、どうして君主の御心が忘れられようか」と言い、子西司馬子期と相談し、昭王の子章を迎えて王に立てた。
呂(リョ)【公子】
鄭の公子。
B.C.743は京に封じられ、さらに鄭の西境と北境の2つの地方の人々を買収して自分に従わせるようにした。
公子呂「民が二心を懐けば、国は存立できなくなります。わが君はどうなさるおつもりか。大叔(段)に国を譲ろうとお考えなら、私は大叔に仕えましょう。 そうでないならば大叔を除きなさい」
荘公「除こうとしなくても、やがて自分から禍を招くであろう」
やがて段は鄭の西境と北境を自分の領地とし、さらに鄭の廩延の地までも勢力を伸ばしてきた。
公子呂「今こそ大叔を討つべきです。領地が広大になれば、民衆の信望を得るようになるでしょう」
荘公「不義な者に大衆はつかない。領土を広げても、必ず自滅するであろう」
B.C.722段はさらに城壁をかため、兵糧を集め、軍や兵車をととのえて鄭の都を襲撃しようとし、武姜がその手引きをする計画を立てた。
荘公はこれを聞くと「今こそ大叔を討つべきである」と言って、公子呂に兵車200台を率いて京を討たせた。
京の民は段に背いたため、段の軍は瓦解し、段は鄢に出奔した。
僚(リョウ)【王】
呉王(5代目)。余昧の子。州于ともいう。〜B.C.515。
B.C.527、1月、余昧が没したため、僚は即位した。
B.C.525冬、僚は楚を討った。呉軍は長岸で楚の子魚を戦死させたが、戦には敗れた。
B.C.522冬、宋の華氏・向氏の叛乱で敗れた華登が呉に亡命してきた。
B.C.520伍子胥が楚から亡命してきた。僚は戦好きであったためこれを謁見した。伍子胥が楚を討つのが得であると進言したが、 公子が「伍子胥は自分のために仇を報じたいと思っているだけだ」と反対したため、僚はこれを聴き入れなかった。
B.C.519秋、呉は州来を討った。楚の蔿越が頓・胡・沈・蔡・許の連合軍とともに州来を救った。呉軍はこれを鐘離で防いだ。 このとき楚の令尹子瑕が亡くなったため、楚軍の意気が衰えた。公子光が「諸侯はみな小国であり、 やむを得ず楚に従っている。今や楚の令尹が死んで士気が衰え、将たる者(蔿越)は身分が低く、王のお気に入りが多くて命令が定まっていない。 まず胡と陳を討ち破れば、あとの3国は逃げだすでしょう、そうすると諸侯は動揺し、楚はきっと総退却するでしょう。願わくは先陣は隊伍を減らして威力を弱め、 後陣は陣を固めていただきたい」と進言したため、僚はこれに従った。
7月29日、呉軍は楚の雞父で戦った。僚は3000の囚徒を率いてまず胡・沈と陳の3国に攻め込んだ。呉軍は本軍を三分して、囚徒3000の衆のあとにつけた。 中軍は僚に従い、公子光は右翼の軍を率い、掩余は左翼の軍を率いた。 呉の囚徒は逃げ走ったり踏み止まったりして敵兵を悩ましたため3国は乱れた。呉軍はそれにつけこんで3国の軍を破り、 胡・沈の君と陳の夏齧を捕らえた。さらに僚は胡・沈の捕虜を逃がして蔡・頓の軍に入れて「われわれの君は討死した」と言わせた。 呉軍はときの声をあげて攻め入ったため3国は逃げ出し、かくて楚軍は総退却した。
10月17日、諸樊が郹に入って楚の太子の母を迎えた。
(『史記』では迎えに行ったのは太子光としている)
B.C.518冬、楚平王が水軍を作って呉の国境を侵略した。楚平王が楚の圉陽まで行って引き返すと呉軍は楚軍のあとを追ったが、国境の人々は備えていなかったため、 呉軍は容易に巣と鐘離を攻め滅ぼして引き揚げた。
B.C.515僚は楚平王の喪につけこんで楚に攻め入ろうと考え、公子掩余と公子燭庸に命じて、 軍を率いて楚の潜を包囲させ、また季札に命じて中原の諸侯を聘問させた。
楚の莠尹然と工尹が軍を率いて潜を救い、 左司馬沈尹戌が都城に住む人士と王の馬役の者たちを率いて軍勢を増やし、 呉軍と窮谷で出会った。楚の令尹子常は水軍を率いて沙水の河口まで進んで引き返し、左尹郤宛と工尹寿が軍を率いて潜に到着した。 そのため呉軍は退くことができなくなった。
4月、公子光が武装兵を地下室に伏せておいて僚をもてなすことになった。すると僚も武装兵を道路に座らせて公子光の門まで続けさせた。 さらに公子光の門から階段、部屋の入口、入口から座席まで、みな僚の親兵ばかり、そしてもろはの剣を持って両側に控えて僚を護衛した。御馳走を運ぶ給仕は衣服を脱いで体をあらわに示し、 門外で衣服を着替えさせた。中で給仕するときは剣をもっている者が両側から給仕をはさんで受け入れた。 しかし酒宴がたけなわになると専諸が剣を御馳走の魚の中に隠して僚の前に進み、王の前に行くと専諸は魚をつんざき、その剣を抜いて僚を突き刺した。 すぐに左右の護衛の剣が彼の胸を突き刺したが、専諸はものともせずそのまま僚を殺した。
龍(リョウ)【神】
の臣。
伯夷の推薦により納言となり、下の言を天子に取り次ぎ、天子の言を下に取り次ぐことを司った。
廖(秦)(リョウ)【文官】
秦の臣。
B.C.626戎王が由余を秦に遣わした。秦繆公は由余と語り合い、 これが賢明であることがわかると内史の廖に 「わしは隣国に聖人がいるのは、相手の国のうれいだと聞いている。どうしたらよかろう」と問うた。
廖は「戎王の心を女楽で乱れさせ、一方で由余を秦にとどめましょう。戎王と臣との間に隙を作り、由余を戎王に疑わせればよろしいでしょう」と言った。 繆公は戎王に女楽を奏する者16人を贈った。
のちに由余は帰国して戎王を諌めたが、戎王は聴かなかった。一方で繆公は人を遣り、戎王に由余を秦に与えるように説いた。 このため由余はついに戎を去って秦に降り、繆公は賓客の礼をもって待遇した。
廖(周)(リョウ)【文官】
周王朝の卿士。召伯。
B.C.667周恵王の命で廖は使者として斉に赴き、斉桓公に覇者(侯伯)の辞令を賜わらせ、 さらに衛を討ってほしいと依頼した。
廖(周)(リョウ)【公子】
周王朝の公子。
B.C.543、5月、公子廖は儋括・公子らと晋に亡命した。
僚安(リョウアン)【文官】
晋の臣。
B.C.514秋、祁氏・羊舌氏が滅び、その土地は10の県に分けられ、僚安は楊氏の大夫となった。
陵尹喜(リョウインキ)【武官】
楚の臣。
B.C.530冬、蕩侯潘子司馬督囂尹午・陵尹喜は徐を包囲して呉に圧力をかけた。
B.C.529陵尹喜ら5将は徐から帰ったが、呉軍に豫章で邀撃されて、陵尹喜らは捕えられた。
梁嬴(リョウエイ)【女官】
恵公の夫人。梁の公女。
B.C.652晋の公子夷吾(恵公)が梁に亡命してきた時、梁嬴は夷吾に嫁ぎ、 公子を生んだ。
梁嬰(リョウエイ)【文官】
斉の臣。高子尾の家宰。〜B.C.534。
B.C.534、7月12日、高子尾が没したため、欒子旗は高子尾の家を整理しようとして梁嬰を殺した。
梁益耳(リョウエキジ)【武官】
晋の臣。〜B.C.618。
B.C.621春、晋襄公は夷で蒐を行った。 襄公は梁益耳と士縠を中軍の将と佐に任命しようとしたが、 先克が「狐偃趙衰の功績を忘れてはなりません」 と諌めたので、襄公は取りやめた。
B.C.619梁益耳は、先克に不平を持つ箕鄭先都・士縠・ 蒯得らとともに乱を起こした。
B.C.618、1月、梁益耳らは賊を放って先克を殺した。
1月19日、梁益耳は晋人に殺された。
竜賈(リョウカ)【武官】
魏の臣。
B.C.331秦と戦い、竜賈の軍4万5千は雕陰で破られ、焦・曲沃を包囲される。
梁其踁(リョウキケイ)【文官】
魯の臣。叔孫豹叔孫婼の家臣。
B.C.541虢の会盟のときに、季武子が莒を討って鄆を占領し、莒人が虢の会合に報告してきた。 楚人が怒って会盟に出席していた叔孫豹を捕らえようとしたので、 晋の楽王鮒が叔孫豹に賄賂を出して許してもらうよう頼むべきだと勧めた。しかし叔孫豹はこれを断った。
梁其踁はなぜかと尋ねると、叔孫豹は「おまえには分かるまい。わたしは君命を奉じて来たのであり、自国の罪をわたしの袖の下をつかって免ぜられるのなら、 それはわたしが私事のために会合したことになる。もし賄賂で放免されたなら、 きっとこれを真似る者があって、諸侯の卿でそうした者がいたからだと言うだろう。わたしは賄賂が惜しいのではなく、不正を惜しむのだ。
その上、わたしが罪を犯したわけではないのだから、殺されても何の不義があろうか」と言った。
楚人はこれを聞くと、叔孫豹を許した。
B.C.518、2月、晋に捕らえられていた叔孫婼が魯に帰ることになった。 晋の士弥牟が迎えに来ると、叔孫婼は梁其踁を門の中に待たせて「左のほうを向いて咳払いをしたら殺せ、 右を向いて笑ったらやめよ」と言った。
梁丘拠(リョウキュウキョ)【武官】
斉の臣。字は子猶。
梁丘拠は斉景公に仕え、こびへつらって晏嬰にたびたび批判される。
あるとき斉景公に新楽の楽師を紹介した。晏嬰はこれを諌めた。
B.C.522斉景公は皮膚病にかかり、続いて熱病が出て、一年経っても治らなかった。そこで諸侯の使者で見舞いをする者が多かった。 梁丘拠と裔款は「公室のお祭りの供えが十分なことは先代よりもまさっています。 しかるにわが君のご病気が治らないのは祭官の祝固と史嚚のためでしょう」と言ったため、 斉景公は喜んでそれを晏嬰に話した。しかし晏嬰は反対の意を述べたため、景公は「どうしたらよいか」と問うた。晏嬰は「政治がでたらめで、 奥の女たちはやたらに市から物を奪い取り、お気に入りの臣たちは地方でほしい物を要求するので、民は苦しみ疲れ、いやしい男も女も上を呪っております。 たとえ神主が神に病気平癒を祈っても効果はないでしょう」と答えた。
12月、斉景公は狩から帰って遄台に休んだとき「ただ拠(梁丘拠)と自分だけが心の和合することよ」と言った。晏嬰は「拠はただ君と心を同じにしているだけで、 和合しているとはいえません」と言った。斉景公は「和と同は違うのか」と問うた。晏嬰は「心が和合するのは、吸い物を作るようなものです。 味の足りないところを増し加え、味の強すぎるところを減らします。かくてお上が召し上がれば心に満足されます。君臣もこれと同じで、 君がよいと言われるところでもよくなければそれを諌め、君がいけないと言われるところでもよいと思われることを進言します。 かくて政治は公平で道理にもとることがなくなります。しかし拠は君がよいと言われることはよいと同調し、君がいけないと言われることはいけないと言って同調します。 これは水に水をくわえて吸い物をつくるようなものです」と答えた。
またあるとき梁丘拠は晏嬰に問うて「あなたは三人の君に仕えています。君は心が同じではないのに、あなたは君に従順であった。仁人は多心なのでしょうね」と言った。 晏嬰は答えて「嬰はこう聞いています。民を愛する心に従って努力すれば、人民を扱うことができます。強暴不忠であれば、一人も扱うことができません。一心があるのであれば、 百君にでも仕えることができます。三心を以てしては一君にも仕えることはできません」と言った。孔子はこれを聞いて「小子よ、 これを心にとどめよ。晏子は一心をもって百君に仕える者である」と言った。
B.C.516夏、斉に亡命した魯昭公を復位させないようにするため、 魯の申豊は女商人の付き添いとなって錦の織物をもって斉の軍営に行き、梁丘拠の家臣高齕に向かって 「この贈り物をご主人に送り届けてくれるなら、あなたを魯の高氏の子孫に仕立て、禄米5000庾を食む身分にしてあげよう」と言った。 そこで高齕は梁丘拠に贈り物を渡して取り入った。梁丘拠は斉景公に「宋の元公が魯君のために曲棘で亡くなり、 魯の叔孫昭子がその君を入れようとして死にました。これは天が魯を見捨てたのか、たたりを受けているためでしょう。 君には曲棘でとどまり、群臣に命じて戦いの成否をうらなわせ、そののち君も続いて進軍されればよろしいでしょう」と進言したため、斉景公はこれを聴き入れた。
B.C.500夏、斉と魯は夾谷で会合した。盟いが終わり、斉景公が魯定公をもてなそうとした。 孔子は斉景公の寵臣である梁丘拠に 「盟いはもう終わりました。それなのにさらにおもてなしくださるのは貴国の役人にご迷惑をかけるだけです。野外で雅楽を奏すべきでなく、 それができなければ正しい礼に背くことになります。それでは悪名を立てることになります。主人の徳を明らかにできないのであれば、やめた方がよろしいでしょう」と言ったため、 とりやめになった。
梁五(リョウゴ)【武官】
晋の臣。晋献公の側近。
B.C.663驪姫は梁五と東関五に賄賂を贈って献公にこう言わせた。「曲沃は、君の宗家の出た都城であり、 蒲と二屈とは国境に近い邑ですから、王がいなければなりません。太子申生を曲沃の主とし、 重耳を蒲城へ、夷吾を屈へ赴任させるなら、民に威を示して戎狄を恐れさせることができます」
献公は喜んで曲沃・蒲・屈に築城して公子らを居らせ、奚斉を国都絳に居らせた。
梁弘(リョウコウ)【武官】
晋の臣。
B.C.709曲沃は、宗家の晋哀侯を翼に討った。 韓万は曲沃武公の御者となり、 梁弘は右となり、哀侯を汾水のほとりで追撃し、夜にこれを捕え、その輔佐をしていた欒成を捕えて殺した。
B.C.627秦が晋に攻め入った。そのため晋襄公は梁弘を御者とし、これを討った。
夏4月辛巳の日に殽で大いに破った。
良佐(リョウサ)【文官】
鄭の臣。
B.C.716陳は鄭と和睦した。
良佐は陳に出かけ、盟いに列席した。
12月11日、陳桓公と盟いを結んだが、良佐は陳の政治を見て、陳はやがて乱れるであろうと予言した。
僚柤(リョウサ)【文官】
魯の臣。魯昭公の側役。
B.C.517公子と公子は、僚柤に命じて季氏を追い出すように魯昭公に告げさせた。 魯昭公は寝ていたが、戈を手に取って僚柤を討とうとしたため僚柤は逃げた。それから僚柤は恐れて数か月もまみえなかったが、魯昭公は腹も立てなかった。 そこで公子果は僚柤に再び言わせると、魯昭公はまたも戈を手に取っておどし、また僚柤が言うと、魯昭公は「お前たちが口にするべきことではない」と言ったため、 公子果は自分から話をして、ついに季氏を討った。
梁子(リョウシ)【武官】
魯の臣。
B.C.685、8月、乾時の戦いで、梁子は魯荘公の戎右となる。
魯は乾時の戦いで大敗し、荘公は兵車を失って逃げ帰った。御者の秦子と梁子は斉軍を惑わすため荘公の旗をたてて間道に逃げたので、 ふたりとも捕えられた。
良正(リョウシ)【文官】
鄭の臣。良霄の子。
B.C.535、2月、良霄の霊がたたったため、子産は良正しいを良霄の後継ぎに立てた。 そうすると良霄のたたりがやんだ。
良霄(リョウショウ)【文官】
鄭の臣。伯有ともいう。子耳の子。〜B.C.543。
B.C.562、9月、良霄は鄭簡公の命により、石㚟とともに楚に遣いして、 鄭は晋に降服しようとしている旨を報告した。しかし良霄と石㚟は楚に捕えられた。
B.C.560石㚟が楚の子嚢に「鄭の大夫たちは鄭の卿である良霄を追い払って晋との結束を固くしようとしています。 楚は、彼を捕らえているよりは、彼を鄭に返して鄭の君と臣をいがみ合わせるのが得策ではありませんか」と言ったので、楚は石㚟と良霄を鄭に返した。
B.C.555、10月、良霄は鄭簡公と共に斉討伐に従軍した。
B.C.547、6月、良霄は晋の趙武・魯襄公・宋の向戌・ 曹人と壇淵で会合して衛を討った。
B.C.546、5月29日、諸侯が宋で会合することになったため、良霄は宋に到着した。
7月5日、良霄は諸侯と宋の西門の外で盟いを結んだ。
冬、が会合から帰国する晋の趙武を垂隴でもてなした。宴会後、趙武は叔向に「伯有(良霄)はやがて殺されるであろう」と言った。 叔向は「仰せのとおりです。5年とはもたないでしょう」と答えた。
B.C.545、11月、魯襄公が鄭に立ち寄った時、良霄は黄河のほとりで魯襄公をもてなしたが、 良霄は不作法であった。魯の叔孫豹は「伯有が処罰されないなら、鄭には大きな禍がふりかかるだろう。 敬は民を治める者の大事なことです。これを守らないで、どうして先祖からの家を守っていけるだろう」と言った。
B.C.544子展は手放せない政務があったため、 印段を代理として周に行かせて周霊王の会葬をさせた。 良霄は「印段は年が若くて適任ではない」と言ったが、子展は「行かないよりはよい。王事は揺るがせにしてはならない。 どうして上卿が行かなければならないことがあろう」と言い、そのまま印段を行かせた。
良霄は公孫黒を使者として楚に使わそうとした。公孫黒は「楚と鄭は今、仲がよくない。わたしを殺そうするようなものだ」 と言った。良霄は「お前の家は代々使者として行っている」と言うと公孫黒は「都合のよいときには行き、危険なときには行かないほうがよろしい。 どうした代々使者を務めたことなどがありましょうか」と言った。良霄が無理に遣わそうとすると、公孫黒は怒って良霄を討とうとしたため、 大夫たちが和解させた。
12月8日、鄭の大夫が良霄の家で盟いを結んだ。
B.C.543良霄は酒が好きで、地下室を造って夜通し酒を飲み鐘を打って楽しんだ。良霄は参内するとまたもや公孫黒を楚に使いさせるよう進言し、 帰宅すれば酒に耽るという有様であった。
7月13日、公孫黒が駟氏の兵を率いて良霄を攻めて焼き討ちをかけてきた。良霄は雍梁に逃げ込み、酔いが醒めてはじめて事態に気付き、すぐに許に亡命した。
7月16日、鄭簡公は大夫たちと祖廟で盟いを結んだ。良霄は鄭人が良霄の追放を盟ったことを聞いて立腹したが、 子皮の兵が良霄を攻撃しなかったことを知って喜び「子皮は自分に加担してくれた」と言った。
7月26日、良霄は早朝に墓門の水門から鄭都に入り、羽頡を頼って鄭襄公の作った武庫に入って武装し、 旧北門を討った。駟帯が国人を率いて応戦してきた。良霄も駟帯も子産を呼んで味方につけようとしたが、 子産はどちらにもつかなかった。やがて良霄は羊肉を売る店のところで戦死した。
良霄は子産によって斗城に葬られた。
梁鱣(リョウセン)【在野】
孔子の弟子。字は叔魚。B.C.522〜。
廖仲(リョウチュウ)【武官】
西南非漢族であるク忍の人。
蜀で白虎が暴れまわって人々に害を与えていた。
廖仲は薬何秦精らとともに、白竹の大弓を作り、虎を射て三本の矢を虎の頭に命中させた。 白虎は怒り狂って他の虎を全て殺し、一声大きく吼えて死んだ。
昭襄王は万家の領地を与えようとしたが、彼らが非漢族であったため、彼らの名を石に彫り付け、彼らの部族の税を免じた。
梁丙(リョウヘイ)【文官】
晋の臣。
B.C.539、1月、鄭の子大叔は晋に出かけて晋平公の夫人少姜の葬儀に参列した。 梁丙は張趯とともにこれをねぎらった。
B.C.533晋の閻嘉が周の大夫と閻の耕地について争った。 そこで梁丙と張趯は陰戎の人を率いて周の穎邑を討った。
梁由靡(リョウユウビ)
梁繇靡
陵陽子明(リョウヨウシメイ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
銍郷の人。
釣りをして白い魚を釣ったところ、魚の腹から書物が出てきたので、子明は服食の法を学んだ。そこで子明は黄山に登った。3年して白竜が迎えに来て、 陵陽山上に住むこと100余年に及んだという。
梁繇靡(リョウヨウビ)【武官】
晋の臣。
B.C.652里克は軍を率い、梁繇靡が御者、虢射が右となって狄を采桑で打ち破った。
梁繇靡は「狄を追撃すれば大勝するだろう」と言ったが、里克は「狄を脅すだけである。他の狄の報復を受けるようなことはすべきではない」と言って反対した。
虢射は「一年のうちに狄に攻められるだろう。こちらの弱さを見せてしまった」と言った。
夏、晋は狄に攻められた。
B.C.651晋の大夫たちは夷吾擁立で一致した。
そこで呂省は梁繇靡を使節として秦に行かせて、 夷吾の支援を依頼して「君の大徳を受けますならば、晋国はみな君のしもべとなるでしょう」と言った。秦繆公はこれを許した。
B.C.645秦が晋を攻めた。梁繇靡は韓簡の車を御し、 虢射が車右となって恵公の車に続いた。
9月、韓原の戦いで、歩陽に代わり恵公の御者となるが、秦に破られて恵公は秦の捕虜となってしまう。
11月、秦に捕らえられた晋恵公は帰国して都城絳の近郊まで来て、慶鄭が都に居ると聞き、 家僕徒をやって慶鄭を呼び寄せた。
恵公「鄭よ、罪ある身で、まだ都に居たのか」
慶鄭「わが君が秦の徳に報いていたら、国勢は傾かなかったでしょう。戦っても賢良の人を用いられたら、敗れなかったでしょう。わたしはこのことをお怨みします。 また有罪の人を逃がすようでは、国を守ることさえできません。わたしは君をお待ちして処刑を受け、君の政を成就させようと存じます」
恵公「処刑せよ」
蛾析「進んで刑を受けようとする臣は、罪を赦して仇敵に報いさせる方がよいと申します」
梁繇靡「いけません。戦で勝てずに賊を使って報いようとするのは武ではありません。処刑するのがよろしいでしょう」
恵公「鄭を斬れ、自殺させるな」
家僕徒「すすんで刑を受けて死のうとする臣がおれば、その評判はかれを処刑するよりもよいでしょう」
梁繇靡「鄭は命令も聞かず勝手に進退し、自分の気持ちを満足させたために、君を捕虜にさせました。赦してはなりません。自殺するならば臣は気持ちが済みますが、 君は刑罰を失うことになります」
結局、恵公は慶鄭を処刑した。
梁余子養(リョウヨシヨウ)【武官】
晋の臣。
B.C.660冬、申生に東山の皋落狄を討つように命令が下り、狐突が申生の御者となり、 先友がその右乗となり、梁余子養が罕夷の御者となり、 先丹木がその右乗となり、羊舌大夫が軍尉となった。
梁余子養は「君の命令のほどはもうわかっている。あなたが戦死すれば父君の悪をあらわすことになる。それより他国にお逃げなさるのがよい」と言った。
そこで狐突が申生を連れて逃げ去ろうとしたが、羊舌大夫がこれを諌めたので、申生は戦いを決意し、狄を破った。
呂錡(リョキ)
魏錡
呂糾(リョキュウ)【公子】
斉の公子。糺とも書く。襄公の弟。〜B.C.685。
B.C.686、12月、 襄公は公孫無知連称管至父に襲撃され殺された。
公子糾は管仲召忽とともに魯に出奔した。
B.C.685公孫無知が雍廩に殺されると、公子糾は魯の援助をうけて弟小白と後継位を争った。 公子糾は管仲に命じて兵を率い、莒の道で小白を討たせた。管仲から小白を殺したという報告を受けたため、公子糾は6日かかってゆっくり斉都に着いた。
その時小白はすでに斉君に擁立されていた。
8月、公子糾は斉と斉の乾時で戦ったが大敗した。
9月、斉の鮑叔は勝ちに乗じて魯に進軍して「公子糾はわが君の肉親ゆえ、どうか魯君が殺しなさい。 管仲はわが君の仇であるから、こちらで処刑したいと思います」と言った。そこで魯は公子糾を笙瀆の地で殺し、管仲を斉に送った。
閭丘嬰(リョキュウエイ)【武官】
斉の臣。斉荘公の近臣。〜B.C.542。
B.C.548、5月、斉荘公が崔杼に弑された。閭丘嬰は、とばりで妻をくるんで車に乗せ、 申鮮虞とともに逃げた。すると申鮮虞は閭丘嬰の妻を車から降ろして「君を諌めもできず、助けることもできず、 一緒に死ぬこともできないのに、自分の可愛い者を隠すことを知っている。そんな卑怯者を誰が受け入れてくれるだろうか」と言った。 やがて弇中という狭い山道にたどりついた。閭丘嬰は「崔・慶のやからが追ってくるだろう」と言うと、申鮮虞は「ここでは一対一の戦いになる。 わたしをこわがらせる者はおるまい」と言って、そのまま野宿した。翌朝、弇中を抜け出ると、申鮮虞は「はやく走らせろ。やつらにはとてもかなわない」と言って、 魯に亡命した。
B.C.544、9月、高子尾欒子雅高止を燕に追放した。 そのため高豎は盧にたてこもって謀叛を起こした。
10月28日、閭丘嬰は軍を率いて盧を攻め囲んだ。高豎が「もしわが高氏を続くようにしてくれれば、盧を返上しましょう」と言ったため、 斉人は高傒の曾孫にあたる高エンを立てた。
B.C.542高子尾は閭丘嬰を邪魔者であると殺そうとし、閭丘嬰に軍を率い魯の陽州を討たせた。魯が何故に討つのかと問いただしてきた。
5月、閭丘嬰は高子尾に殺され、魯を討った罪人とされた。
閭丘明(リョキュウメイ)【文官】
斉の臣。
B.C.487魯の季姫を斉に迎えるため閭丘明が講和の誓いを魯とかわし、季姫をつれて帰った。
力牧(リョクボク)【神】
黄帝の臣。
『力牧』15編を著したといわれる。
呂侯(リョコウ)
甫公
呂山(リョサン)【王】
斉公(7代目)。名は山。〜B.C.851。
B.C.863同母兄の哀公が讒言により殺されて、異母兄の胡公が斉公を継いだことに不満をもっていた。
B.C.860胡公を襲って殺し、代わって立つ。山は胡公系の一族をことごとく追放する。
都を臨淄に遷す。→献公
呂尚(リョショウ)【王】
周王朝の軍師、斉公(初代)。姓は姜、字は尚父または子牙。〜B.C.997。
東海のほとりの人。四岳の末裔という。
呂尚は周の西伯とひそかに相談して徳行を修め、商王朝の政権転覆を図った。呂尚が関与したのは、 主として兵権を掌握し奇計をめぐらすことであった。
B.C.1023呂尚は商王朝を討つことを武王に勧め、牧野で勝利し、商王朝を滅ぼした。
呂尚はその功により斉に封じられて営丘を都とし、斉を氏とした。
呂尚は萊人を討伐した。
斉は塩分の多い湿地であり、住民が少なかった。そこで呂尚は女功(婦人の仕事)を勧めて工芸の技巧をきわめ、魚・塩を移出して有無相通じたところ、人も物も多く集まった。
また斉は魯を背後から守る役目を負ったとされる。
呂尚は政治を整え、習俗に随って君臣の礼を簡約にし、商工の業を通じ、魚塩の利を得た。そのため斉に帰服する人民が多く、斉は大国となった。
禄父と三監が乱を起こすと召公奭は呂尚に「東は海にいたり、西は黄河にいたり、南は穆陵(湖北・麻城)にいたり、 北は無棣(河北・慶雲地方)にいたる間の五侯九伯で罪を犯したものは征討しても良い」と命じる。これによって斉は諸侯を征討することができるようになった。
呂尚は百余歳で没したといわれる。
呂尚の先祖は禹の治水を助けて呂に封じられ、元の姓は姜といったが、封土により呂と呼ばれるようになった。しかし呂尚の時代には一族は落ちぶれて、 貧乏暮らしをしていたという。西伯昌が釣りをしている呂尚を見つけ、対話するうちに「これこそ太公(季歴)が待ち望んだ人だ!」 と思い、彼を宰相に登用する。この逸話により呂尚は後世、太公望と呼ばれるようになった。また釣人を太公望と呼ぶのもこの逸話による。
また『史記』は2つの異説を紹介している。かつて紂王に仕えていたが、紂王の無道ぶりに愛想をつかして諸侯を遊説したが、 認められずに周に行き、やっと文王に臣従したというもの。2つめは、東方で隠棲していたが、文王が投獄されたとき、文王の重臣たちが呂尚と旧知であったことから、 呂尚は招きに応じて周の臣となったという。
また『戦国策』では、呂尚は老婦人に逐われたあと、朝歌で屠殺業をしていて、周文王はこれを聞いて、見出して登用したとしている。 「覆水盆に帰らず」のモデルになった話である。
後代作られた『六韜』は呂尚が主役になり文王または武王と兵法について対話をするという形をとっている。
呂昭(リョショウ)
孝公
呂相(リョショウ)
魏相
呂省(リョセイ)【文官】
晋の臣。姓は瑕呂、名は飴甥、略して呂甥ともいう。字は子金。〜B.C.636。
B.C.651里克が夷吾(恵公)を君主に迎えようとしたとき呂省は 「国内にも立てて然るべき公子がいるのに、これを国外に求めるのは、信用しがたいことです。秦に行き、強国の威力に助けられて入国するのでなければ、 おそらく危ういでしょう」と進言し、 郤称と共に謀って蒲城午を遣って夷吾を迎えさせ、夷吾は帰国を承諾した。
呂省は朝廷に出て諸大夫にこのことを告げ、大夫たちは夷吾擁立に賛成した。
そこで呂省は梁由靡を使節として秦に行かせて、夷吾の支援を依頼した。秦繆公はこれを許し、 夷吾は帰国して即位した。
B.C.650秦に使いしていた邳鄭が秦の使者と共に帰国して、 呂省・郤称・郤芮に賄賂を送ってきた。呂省は郤芮・郤称と謀り「賄賂が手厚く、言葉が甘い。 これは邳鄭がわれらを秦に売ったに違いない」と言って邳鄭と七輿大夫を殺した。
B.C.649周襄王は召公と内史を使節として、 恵公に襲封(封建領主の継承を命じる詔勅)の勅命を授けさせた。呂省は郤芮と共に恵公の礼を助けたが、恭敬の心に欠け、 恵公も玉圭を執ることが低く、稽首の礼をしなかった。内史過は襄王に「晋は滅亡しないとしたら、その君には世継がないでしょう。また呂郤ふたりとも難を免れません」 と報告した。
B.C.645晋恵公は韓原の戦いで秦に捕らえられた。恵公は3ヶ月間秦にいたが、晋と秦の講和が成りそうであると聞くと、 郤乞を晋にやってこのことを呂省に知らせた。呂省はそこで国人を朝廷に集め、租税で武器を修繕し、太子を補佐するように命令した。 衆人はみな喜んで始めて州兵(2500家を州とし、州長が州兵に兵器を修繕させる制度)を作った。
B.C.636重耳が帰国しようと黄河を渡って令狐・臼衰・桑泉の3邑を招くと、みな降服した。
2月、懐公は高梁へ逃走した。
呂省と郤芮は兵を率い廬柳に陣を布いた。秦繆公は公子を呂省のもとにやったので、 呂省らは軍を引いて郇の地に駐屯した。
辛丑の日、狐偃が秦と晋の大夫と郇で和議を盟ったので、呂省は重耳の帰国を承認した。
3月己丑の日、呂省は重耳が即位すると(文公)、彼に殺されるのを恐れ、文公を帰国させたことを後悔して、徒党とともに公宮を焼いて文公を殺そうとした。 しかし計画は勃鞮の密告により文公を取り逃がし、呂省は兵を率いて文公を追った。
ここで呂省は秦繆公におびき寄せられて、黄河のほとりで殺された。
呂宣子(リョセンシ)
呂相
呂倉(リョソウ)【宰相】
東周の宰相。姓は呂、名は倉。
呂倉は工師籍の代わりに宰相に任命されたが、周の民は呂倉の任命を悦ばなかった。
呂不韋(リョフイ)【宰相】
秦の宰相。相国。文信侯。陽翟の人。〜B.C.235。
陽翟の商人で、諸方に往来して千金の富を築いた。
B.C.265秦昭襄王の太子が没し、次子の安国君が太子となった。安国君には子が20余人あったが、正夫人の華陽夫人には子がなかった。 その庶子の中に子楚がおり、生母夏姫は寵愛を失っており、子楚は趙の人質となっていた。
子楚は妾腹の子であったので、日常生活も苦しく不如意であった。たまたま呂不韋は邯鄲に行ったとき、子楚を見て、
「これは奇貨(ほりだしもの)だ。買い入れておいたほうがよかろう(奇貨居くべし)」と言った。
呂不韋は帰宅して父に言った。
「田畑を耕す利益は何倍になりますか」「十倍だ」
「珠玉の儲けは何倍になりますか」「百倍だ」
「一国の君主を守り立てる儲けは何倍ですか」「数え切れない」
呂不韋は「今、ここで国を建て君を立てれば、その余沢は後世子孫まで残されます。秦の公子が趙に人質となっていますが、ひとつ、 出かけていって仕えようと思います」と言って、子楚を尋ねた。
呂不韋は「わたしはあなたの門戸を盛大にしましょう」と言った。
子楚は笑って「まずあなたの門戸を盛大にした上で、わたしのを盛大にしてほしい」と言った。
「あなたはおわかりでないのです。わたしの門戸は、あなたの門戸が盛大になるにつれて盛大になるのです」と答えた。
子楚はその意を悟って奥に招き入れて密談した。
呂不韋は「安国君が太子となられ、その夫人の華陽夫人には子がいないので、他の者を世継に決めることになりますが、 それは華陽夫人の心ひとつにかかっています。 不韋は貧乏ながら、千金を投じてあなたのために西遊し、安国君と華陽夫人に取り入って、あなたを世継に仕立てましょう」と言った。
子楚は頓首して「もしあなたの計画通りになったら、秦国を折半してあなたと共有したい」と言った。
そこで呂不韋は500金を子楚に与えて、賓客と交際させ、また500金で珍奇な品々を買い、秦に出かけた。手蔓を求めて、華陽夫人の姉に会い、 持参した品を残らず華陽夫人に献上して、子楚が賢明であり、華陽夫人をしたっている旨を告げた。
また、夫人の姉を使って「いま夫人には子供がありません。どうして今のうちに諸公子で賢明な孝行者と親しくて、世継として養子にされないのですか。 夫の亡き後も養子が王となれば、勢いを失うことはありません」と言わせた。
華陽夫人はもっともに思い、太子に「子楚という趙の人質になっている子は非常に賢明です」と言い、子楚を養子にしたいことを伝えた。そこで太子安国君はこれを許した。
安国君と華陽夫人は、子楚に手厚く仕送りをし、呂不韋に後見を請うたので子楚の名声は列国に高まった。
呂不韋は邯鄲の女で美しい女と同棲していたが、その女がみごもった。たまたま子楚がその女を見初め、彼女を申し受けたいと請うた。呂不韋は心中怒ったが、 大利を得るためだと思い直し、ついに彼女を子楚に献じた。
彼女は妊娠をひたかくし、12月で子を産んだ。これがであり、彼女は子楚の夫人となった。
B.C.258秦は王齮に命じて邯鄲を包囲した。そのため趙は子楚を殺そうとしたが、 呂不韋は金600斤で役人を買収して子楚と共に脱出して帰国することができた。また夫人と子の政も隠れ住んで生き延びることができた。
B.C.252昭襄王が没し、太子安国君が代わって立ち、華陽夫人を王后とし、子楚は太子となった。
趙は子楚の夫人と子の政を鄭重に秦に帰した。
B.C.251孝文王(安国君)が没し、代わって子楚が位に即いた。これが荘襄王である。
荘襄王は養母の華陽后を華陽太后とし、実母の夏姫を尊んで夏太后とした。
B.C.250呂不韋は丞相に任じられ、封じられて文信侯と号し、洛陽の十万戸を食邑とした。
東周の君が諸侯と共に秦を攻めようとしたので、呂不韋は東周を滅ぼし、その国を秦の領有とした。しかし東周の王家を滅ぼさずに、陽人の地を周君に賜い、 祭祀を継がさせた。
また呂不韋は李斯が賢明であるとし、推薦して郎とした。
B.C.246荘襄王が没し、政が立った。呂不韋は貴ばれて相国となり、仲父(叔父)と呼ばれた。
秦王政は年少であり、母の太后はひそかに呂不韋と通じた。
呂不韋の家には、下僕・召使が一万人いたという。また当時、信陵君春申君平原君孟嘗君があり、名声を得ていたが、呂不韋は秦が強国でありながら、 これらの国におよばないのを恥じ、士を招いて厚く待遇し、食客3000人に及んだ。
B.C.239呂不韋は自分の食客に、見聞を著述させ、これを編纂して八覧・六論・十二紀など諸篇20余万字の書物を作り、天地万物古今の事を網羅してあるとし、 題して「呂氏春秋」といった。これを咸陽の市内に陳列し「一字でも増減できる者があれば、千金を与えよう」とうそぶいた。
秦王政が壮年になったが、母太后の淫乱は止まなかった。発覚を恐れた呂不韋は、大きな陰茎を持つ嫪アイというものを探し出し、 宮刑(腐刑)に処したと偽り、宦官として太后に差し出した。太后は嫪アイを寵愛した。
B.C.238、9月、嫪アイのことが発覚し、嫪アイは誅殺された。
秦王政は呂不韋も誅したいと思ったが、先王に尽くした功労が大きいことと、弁護する者が多いので、法を適用することができなかった。
10月、呂不韋は宰相を免ぜられ、都から追放されて洛陽に移った。
B.C.236秦は蔡沢を燕にやり、同盟が成り、燕は太子を人質に送ってきた。 そこで秦は張唐を燕の宰相にさせようとしたが、張唐はこれを拒んだ。呂不韋はこれを悩んでいたが、 甘羅は「わたくしが張唐をやらせてごらんに入れます」と言った。呂不韋は甘羅をしかったが、 「かの項橐は7歳で孔子の師となりました。わたくしは今年12であります。どうかお試しください」と言い、張唐を説得させた。
呂不韋が洛陽に移っても、彼に謁見を求める諸侯の賓客や使者があとをたたなかったため、秦王政は謀叛を恐れて、書簡を送り「君は秦国にどんな功労があって河南に封ぜられ、 十万戸を食むのか。 またどんな血縁があって仲父と称するのか。ともあれ家族と共に移って蜀におれ」と命じた。呂不韋はしだいに権力をそがれ、結局は殺されることになると思った。
B.C.235そこで呂不韋は酖毒をあおって自殺した。
呂不韋と嫪アイが死んだので、さきに蜀に移された嫪アイの舎人はみな復帰を許された。そして秦王政は天下に令して 「わしは自ら国政を取り、嫪アイ・呂不韋のごとき不道な者は一族を籍没(財産の没収)して徒隷とすること、この例に倣う」と言った。
呂文敬(リョブンケイ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
呂恭、字は文敬。太行山中に薬を採りに行ったとき、呂文起、孫文陽、王文上という仙人に出会い、2日間で秘法を授かった。郷里に帰るとき 「ここでの2日は人間界ではもう200年になる」と言われた。はたして帰ってみると子孫は一人もいなかったという。
呂礼(リョレイ)【宰相】
秦の臣。斉の宰相。
B.C.294呂礼は宰相の魏冄に誅されそうになったので、秦から逃げて魏に奔り、また斉に出奔した。
湣王が説客祝弗の進言を容れたため、 周最が放逐されて呂礼が宰相となった。
呂礼は宰相となって蘇代を苦しめようとした。蘇代は孟嘗君に「呂礼が重んじられば、 斉は秦と連合し、かならず君は軽んじられましょう。君には、斉と秦の連合を妨げ、諸侯と結ぶようにさせるべきです」と言った。
孟嘗君は呂礼に害されるのを恐れていたので、秦の宰相魏冄に書を送って「呂礼が斉で成功すれば、秦でも重んじられ、 これに反してきみは軽んぜられましょう。あなたとしては秦王に勧めて斉を討つのがよいでしょう。斉が敗れれば、得た地をあなたに封ずるよう請いましょう。 秦もかならずあなたを重んじましょう」と言った。
そこで魏冄は斉を討ち、呂礼は逃亡した。
B.C.288秦が西帝、斉が東帝と称した。呂礼は秦に赴き、斉・秦を談合させて、帝号をやめさせた。そして秦に帰服した。
犂来(リライ)【王】
郳(小邾)の君。
B.C.689、秋、犂来は魯を訪問する。
李離(リリ)【文官】
晋の獄官。
判決を誤り人を死刑にしたので、みずからを牢につなぎ、死罪になると言った。晋文公は「官には上下の別があり、罪には軽重の別がある。 下役人に過ちがあったとて、そなたの罪ではない」と言った。
李離は「部下のために俸禄を分け与えてもいないのに、罪だけを部下になすりつけるなど、聞いたことはありません」と言った。
文公は「してみれば、わしにもまた罪があるのだろうか」と言った。
李離は「獄官には獄官としての常法があります。過って人を刑すれば、みずから刑すべきであります」と言って、ついに命令を受けず、剣に伏して死んだ。
離婁(リロウ)【神】
伝説上の人物。
視力が非常にすぐれ、黄帝が珠を失った時、命を受けてこれを探した。
離婁は百歩はなれても獣の毛の先をよく見分けたという。
『孟子』の章句名となっている。
鱗カン(リンカン)【宰相】
宋の宰相。司徒。宋桓公の孫。
鱗朱(リンシュ)【文官】
宋の臣。少司寇。
B.C.576、6月、宋共公が没した。 司馬蕩沢が公子を殺したので、 華元は蕩沢を殺した。そこで鱗朱は魚石、大司寇向為人、 大宰向帯魚府ら桓氏一族とともに楚に出奔した。
B.C.573、6月、楚恭王は鄭とともに宋の彭城を陥れ、楚に亡命していた鱗朱らは彭城に封じられた。
7月、宋の老佐華喜に攻め囲まれた。
B.C.572、1月、晋・宋・衛・曹・莒・邾・滕・薛が彭城を包囲したため、鱗朱らは諸侯に降服した。そこで鱗朱らは晋に連れられて晋の瓠丘に留め置かれた。
藺相如(リンショウジョ)【宰相】
趙の宰相。趙の人。
趙の宦者令繆賢の舎人であった。
恵文王は楚の和氏の璧を手に入れた。秦昭襄王はこれを聞いて 「願わくは15城をもって璧と交換したい」と申し入れた。趙の朝廷は対応に悩み、決しかねていた。
繆賢は藺相如を推挙し、藺相如は「わたくしに任じていただければ、もし城が手に入れば璧を置いてきますが、 手に入らなければ、璧を全うして帰ってまいります」と言った。恵文王はこれを許した。
藺相如は昭襄王に謁見し、璧を献上した。昭襄王は官女や左右のものに手渡しして見せた。藺相如は昭襄王に約束を果たす心がないのを見破ると「璧にきずがあります。 お見せしましょう」と言って璧を取り戻すと、柱を背にして立ち、怒髪冠を衝かんばかりの形相で昭襄王を叱咤して「大王は儀礼が傲慢で、また璧をもてあそんだ。 わたくしは大王が約束を守らないと考えます。あくまで璧を奪い取ろうとするなら、わたくしの頭はこの璧もろとも柱に打ち砕けるだろう」と言った。
昭襄王は無礼を詫び、地図に示しながら、子の地を与えようと指差した。藺相如は内心、秦は約束を守らないと推量し「和氏の璧は天下の宝であり、趙王は璧を送るとき、 5日の間の斎戒をしていただきたい。そのうえで璧をたてまつりましょう」と言った。
昭襄王は仕方なくこれに従った。藺相如は従者に璧を隠し持たせ、ひそかに趙に送り届けさせた。そして昭襄王に謁見して「わたしは大王に欺かれることを恐れ、 璧を趙に送り届けました。わたくしの行為は死罪にあたります。なにとぞ煮殺していただきたい」と言った。昭襄王は「いま相如を殺したとて璧はどうなるものでもなく、 そのうえ秦・趙の間は絶たれよう。むしろ厚遇して趙に帰したほうがよい」と言って帰国させた。
そこで恵文王は大いに喜び、藺相如を上大夫とした。
B.C.279秦は趙を討ち、2万人を殺した。秦は恵文王との会見を求め、廉頗と藺相如は相談して、藺相如が随行することとなった。 澠池での会合で昭襄王は恵文王に瑟を弾じさせ、秦の御史は「某年某月日、秦王、趙王に瑟を鼓せしむ」と記録した。藺相如は進み出て昭襄王に缻を撃たそうとした。 昭襄王が怒ってこれを断ると、藺相如は「大王とは僅か五歩の距離です。相如の首の血を大王にお浴びせ申そうか(殺してやろうか)」と言った。
昭襄王はしぶしぶ一度だけ缻を討った。趙の御史は「某年某月日、秦王は趙王のために缻を撃つ」と記録した。
また秦の群臣が「趙は15城を秦に献じられたい」と言ったので、藺相如は「秦は国都咸陽を趙に献じられたい」と応じて、一歩もひかなかった。
会見を終えて帰国すると藺相如は上卿に任じられ、位は廉頗の上になった。
廉頗はこれが不満で「わしは攻城野戦の功があったのに、藺相如は口舌の労だけで、位はわしの上におる。わしは恥ずかしくて彼の下風に立つのが我慢できない。 相如に会ったらきっと辱めてくれよう」と言った。
藺相如はこれを聞くと、つとめて廉頗に会わないようにし、参朝するときもそのたびに病と称して欠席し、廉頗と序列を争うのを避けた。また外出して廉頗を遠くに見ても、 車を返して隠れるほどであった。すると藺相如の舎人が諌めて「いま君は廉君と同列でありながら、隠れてびくびくされるにもほどがあります。凡人でさえ恥ずかしいのに、 まして君は将軍宰相ではありませんか。わたくしら不肖ながら、おいとまを頂きたく存じます」と言った。藺相如は「秦王の前でもわたしはこれを叱咤し、群臣を辱めた。 どうして廉将軍だけが怖かろう。思うに秦が趙を侵さないのは、ひとえにわれら二人がおるからである。いま両虎が闘えば、生き延びることはできない。わたしが、 こうして隠れるのも、国家の急を第一とし、私情を二の次とするからである」と答えた。
廉頗はこれを伝え聞くと、肌を脱ぎ履を負い、藺相如の門に至り「鄙賤のものわたしは、将軍の寛容がこうまでだとは知らなかった」と謝罪し、 ついに親睦して刎頸の交わりを結んだ。
B.C.271藺相如は将軍となり、斉を討ち、平邑まで侵入して、退いて北九門に大城を築く。
B.C.260趙と秦は長平で戦った。廉頗は堅く守り、戦いに応じないので、 孝成王趙括に代えようとした。 藺相如は重い病の床にあったが「括は単に父の兵書を読んだだけで、臨機応変の処置を知りません」と諌めたが聴き入れられず、趙括はついに秦軍に大敗した。
廩辛(リンシン)【皇帝】
商王朝25代王。祖甲の子。
林楚(リンソ)【武官】
魯の臣。
B.C.502、10月3日、季氏は軍を発し、林楚は季桓子の御者となった。すると季桓子が突然、林楚に「お前の前代は代々季氏に仕えてきた良臣だ。 お前もそれを継いでくれ」と言った。林楚は「陽虎が政治を執って、国人はそれに服従しています。わたしは死んでしまえばあなたをお助けできません」 と言うと、季桓子は「遅くはない。孟孫の家まで行くことができるか」と問うた。林楚は馬に鞭を打って進ませ、一気に孟氏の邸に向かった。孟孫氏は季桓子を入れて門を閉じ、 陽虎と戦った。
林父(リンポ)【王】
虢公。
B.C.707秋、周桓王は陳・蔡・虢・衛の兵を率いて鄭を討った。虢公林父は右軍の将となり、蔡・衛の軍はそれに付いた。 周桓公は左軍の将となり、陳の軍がそれに付いた。
鄭の公子子元は「陳は乱れて、その民は戦う心がありません。真っ先に陳の軍を攻め立てたら、逃走するでしょう。 周王の軍はそれを見たら、きっと乱れるでしょう。そこを集中攻撃すれば、事は成功いたします」と進言したので、鄭荘公はそれに従った。
鄭荘公は昌伯に右軍を、祭仲に左軍を率いさせ、 原繁高渠弥に中軍を率いさせて自らを守らせ、魚麗の陣をつくり、 兵車を前に歩兵を後ろにして、鄭の繻葛で戦った。
鄭の左右軍は連合軍の左右の軍を破り、桓王の軍も乱れた。そこで鄭軍は集中してこれを攻撃したので、桓王の軍は大敗した。(繻葛の戦い)
B.C.703秋、虢公林父は芮伯、梁伯、荀侯、賈伯と連合して曲沃を討った。
B.C.702春、林父は大夫の詹父を周桓王に讒言した。しかし詹父はそれを弁明することができたので、周は軍を率いて林父を討った。
夏、林父は虞に出奔した。
林雍(リンヨウ)【武官】
魯の臣。
B.C.516斉が魯に攻め入った。この戦いで林雍は顔鳴の右役をつとめることを恥として車からおりて戦った。 林雍は斉の苑何忌に車上から撃たれて耳を切り落とされた。これを見た顔鳴は恐れて逃げ去った。林雍は苑何忌の後を追ったが、 さらにその片足を切り落とされた。そこで林雍は片足を引きずりながら他の車に乗って陣地に引き返した。


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