中国的こころ>列伝>列伝 イ
イ
- 囲(イ)【武官】
- 許の臣。
B.C.533楚霊王は許を夷に移して、囲を人質とした。
B.C.529囲は自分と同じように楚霊王に礼遇されている蔡の洧、曼成然、
蔿居と力を合わせ、越の大夫常寿過を誘い出して乱を起こし、固城を囲み、
息舟の邑を陥れてそこに城壁を築いて立てこもった。
ついに叛乱軍は都に入り、楚霊王は自殺した。
- 洧(イ)【武官】
- 蔡、楚の臣。蔡の人。
B.C.531洧は楚霊王の寵愛を受けていたが、楚が蔡を滅ぼしたときに洧の父が戦死したため、
洧は楚霊王を恨んでいた。
B.C.529洧は自分と同じように楚霊王に礼遇されている許の囲、曼成然、蔿居と力を合わせ、
越の大夫常寿過を誘い出して乱を起こし、固城を囲み、息舟の邑を陥れてそこに城壁を築いて立てこもった。
ついに叛乱軍は都に入り、楚霊王は自殺した。
- 為(イ)【公子】
- 魯の公子。魯昭公の子。
公子衍と公子為が生まれたとき、ふたりの母が一緒に産室に入ったが、公子衍が先に生まれた。すると公子為の母が「一緒に産室に入ったのだから、
一緒に主に報告しましょう」と言ったため公子衍の母は報告を待った。しかし3日経って公子為が生まれると、その母はすぐに魯昭公に報告したため公子為が兄となった。
B.C.517季公若が公子為に弓を献上して、弓を射る遊びをして季氏を追い出す相談をした。
そこで公子為は弟の公子果・公子賁とともに魯昭公に相談した。
そこで魯昭公は季氏を討ったが、敗れて斉に亡命した。
B.C.513魯昭公は公子衍に小羊の皮衣を与え、竜輔という玉を斉景公に献上したところ、公子衍は小羊の皮衣までも斉景公に献上したため、
斉景公は喜んで陽穀の邑を公子衍に与えた。魯昭公は内々これを喜ぶとともに、魯を失った災いを残念に思い「この務人(公子為)がこうした出亡の災いを引き起こした。
それに後に生まれて兄となっている」と言って、公子為を退けて公子衍を太子とした。
- 伊尹(イイン)【宰相】
- 商王朝の阿衡(宰相)。名は摯。商王朝建国の功労者。
伊尹の母は妊娠した時、夢を見て神女が臼やかまどに蛙が出たら洪水の前兆なので、すぐに立ち去って振り返ってはならないと言われた。そのうちに臼やかまどに蛙が現れたので、
母は去って東に走ったが、振り返って邑を見た。すると母は空桑の木となってしまったという。
洪水が起り、その後、その桑の木に小児があり、人の養うところとなったが、これが伊尹である。
姿は色黒く短身で髯面、頭でっかちで下がとがり、せむしで声が低かったといわれる。
湯王は東方を巡って有シン国に至り、有莘氏の娘と結婚し、伊尹を得て宰相とする。
伊尹は湯王を助け、中華を統一した。4代目王大甲を3年間追放するなど湯王死後も宰相として手腕を発揮し、商王朝の安定に努めた。
5代王沃丁の時代に死す。
伊尹の仕官については諸説あります。
㈰湯王に仕えるため、湯王と結婚する有莘氏の娘の召使となり、おいしい料理を作って湯王が彼の存在に注目するようになった
(鼎俎を負い、滋味を以って湯に説き、王道を致せり)。
㈪在野の士であったが、湯王が5たび使者を送り軍師として迎えた。
㈫『繹史』では、伊尹は始め桀王に仕えていたが彼の悪政を恨んでいた。
また桀王の寵姫妺嬉は王の寵愛が薄れたことに恨みをもっていた。妹喜は復讐を果たすために伊尹を商に行かせ内通を図った。
妹喜は夏王朝の重要な情報を商に漏らし、夏を滅亡に追い詰めた。
また『容成氏』では伊尹は湯王の腹心であり桀王の補佐として送り込まれたとされる。伊尹は桀王をそそのかして岷山氏を討ち、ふたりの娘を連れて帰って娶り、
彼女たちのために豪華な宮殿を造営させた。これを聞いた湯王は逆に賢者を登用し、公平に恩徳を施して人民を収攬して桀王を討って商王朝を樹立した。
- 蔿射(イエキ)【武官】
- 楚の臣。
B.C.517、12月、蔿射に楚平王に命じられて州屈に城壁を築いて茄の人々をそこにもどって住まわせ、
さらに丘皇に城壁を築いて訾の人々をそこに移住させた。
B.C.505蔿射は呉軍と戦って柏挙で捕らえられた。
- 夷射姑(イエキコ)【武官】
- 邾の臣。
B.C.508夷射姑は邾荘公と酒を飲み、小用のために外に出た。門番が帰るのだと早合点して夷射姑から土産の肉をせびったため、
夷射姑は腹を立てて、その杖を奪い取って門番を打ちたたいた。
B.C.507、2月29日、邾荘公が宮門の物見台で外朝を見下ろすと、門番がかめの水をそこに流していた。邾荘公はこれを叱りつけると門番は
「夷射姑が小用をしましたので」と言った。そこで邾荘公は夷射姑を捕らえるよう命令したが、捕らえる事ができなかったため、
ますます腹を立ててあやまって椅子から転げ落ちて、炉の炭火の中に落ちてやけどをして、やがて亡くなった。
- 蔿越(イエツ)【将軍】
- 楚の臣。司馬。
B.C.521宋の華登が叛乱を起こして楚に援軍を求めたため、蔿越は軍を率いて出陣した。
B.C.520、2月、蔿越は使者を宋に遣わして「君にはよからぬ臣があると聞いております。 わが君がその者をもらい受けて処罰させていただきましょう」を申し入れた。
そこで宋は華亥・向寧・華定・
華貙・華登・皇奄・傷省・
臧士平を楚に亡命させた。
B.C.519秋、呉が州来を討った。蔿越は頓・胡・沈・蔡・許の連合軍とともに州来を救った。呉軍はこれを鐘離で防いだ。
このとき楚の令尹子瑕が亡くなったため、楚軍の意気が衰えた。呉の公子光が
「諸侯はみな小国であり、やむを得ず楚に従っている。今や楚の令尹が死んで士気が衰え、将たる者(蔿越)は身分が低く、王のお気に入りが多くて命令が定まっていない。
まず胡と陳を討ち破れば、あとの3国は逃げだすでしょう、そうすると諸侯は動揺し、楚はきっと総退却するでしょう」と進言した。
7月29日、両軍は戦い、公子光の計画通り3国が逃げ出したため、楚軍は総退却した。
10月17日、呉の太子諸樊が郹に入り、王子建の母とその宝器を奪い去って帰った。蔿越は諸樊を追いかけたが追いつかなかったため、
その責任を取って死のうとした。家臣たちが「これから呉を討ちましょう」と言ってとどめたが、蔿越は「二度もわが君の軍を負けさせては死んでも罪がありましょう。
ここで死ななければなりません」と言って、イ澨で首をくくって死んだ。
- 蔿掩(イエン)【将軍】
- 楚の将軍。司馬、大司馬。蔿子馮の子。~B.C.543。
B.C.548蔿掩は司馬に任じられた。
令尹屈建は蔿掩に命じて租税を調べととのえ、武器を検閲して軍備を充実させるようにした。
10月8日、蔿掩は土地や田畑を調査して登記した。山林や藪沢に生ずる材物を見積もって集計し、高地や丘、
あるいは水につかった土地や不毛の地を平地を区別して税を取らぬようにし、流水や水たまりを数え調べて灌漑に備えるようにし、
河川流域には小さな区画を設けて耕作しやすいようにし、耕作のできない湿地帯は牧場にし、広い肥沃の地は区割りして井田とし、
各地からの収入を計算して租税を整え、車を割り当て馬の頭数を帳簿に記入し、兵車の乗る甲士や歩卒の用いる武器、甲、楯などを割当てた。
その書類を完成させて屈建に手渡したが、国を治める法にかなったものである。
12月、楚康王は舒鳩を滅ぼした功績を賞しようとしたが、屈建は辞退して「亡き大夫蔿子の手柄です」と言ったので、
蔿掩に賞が与えられた。
B.C.543蔿掩は公子囲に殺され、その財産は奪われた。
- 懿王(イオウ)【皇帝】
- 周王朝7代王。名は囏。恭(共)王の子。~B.C.876。
B.C.891南征を行う。
淮夷が叛乱したため懿王は親征して、エン皇父はその総帥となった。エン皇父は淮水の下流近くまで侵攻して諸夷を震撼させ、
南国の諸夷はことごとく周の威勢に服した。
B.C.885日食がおこり、それにつづくはげしい地震があった。エン皇父は一派を率いて荒廃した宗周を棄てて、成周に近い向に遷都しようとした。
懿王を補佐する者はなく、懿王はひとり旧都に残され、周はエン皇父派と王党派に分裂した。
この時代に周王室は衰微し、詩人が初めて諷刺の詩をつくる。
- 夷王(イオウ)【皇帝】
- 周王朝9代王。名は變。懿王の子。~B.C.854。
孝王が崩ずると、諸侯に擁立される。
B.C.863斉哀公を煮殺す。
またこの年、夷王は南征を行ったが噩侯ギョ方がにわかに周に叛いて南淮夷・東夷を率いて周に侵攻した。
夷王は西の六師、殷の八師を動員してこれを討たせたが、彼らは王命に従わず、戦わなかった。
しかし武公が、公直属の戦車百乗、戦士徒兵を禹に与え、再び西の六師、
殷の八師を率いて殲滅せよとの厳命を下し、禹は勇戦したので、大勝し、ギョ方を捕らえた。
南淮夷が侵攻して伊洛の近くまで及んだ。夷王は成周に赴き、敔にその撃退を命じ、敔はこれを破った。
- 威王(田斉)(イオウ)【王】
- 田斉王(初代(3代目))。名は因斉。桓公の子。~B.C.346。
B.C.378三晋が桓公の喪中に乗じて、斉の霊丘を攻めた。
B.C.373魯に攻められ、陽関に入られる。
三晋に攻められ、博陵まで侵入される。
B.C.372衛に攻められ、薛陵を失う。
B.C.371魏武侯が没し、太子罃と公子中緩がその位を争った。
公孫頎という者が宋から趙、趙から斉に入り、威王に進言した。
「魏罃が公中緩と太子の位を争ったことは、お聞き及びでしょうか。これに乗じて彼らを除けば、魏を破ること必定です。この機会を失ってはなりません」
威王は喜んで、趙とともに魏を討ち、濁沢でこれを破る。
しかし趙成侯は「魏の君を除いて公中緩を立て、土地を割き取けば、われらの利益になろう」と言った。
威王は「それはよろしくない。魏の君を殺せば、世間はかならず乱暴だと言うだろう。土地を割き取けば、世間はかならず貪欲だと言うだろう。
むしろ魏を二分するにこしたことはない。魏が分かれて二つになれば、宋や衛以上に強くなく、われらとても魏の禍いから逃れることができる」と言ったが、趙は聴き入れなかった。
威王はそれを喜ばず、少数の兵を引き連れて、夜のうちに去った。そのため魏は助かり、魏罃は即位した。(恵王)。
また楚が斉を討った。威王は淳于髠に命じて、趙に精兵10万と兵車4台を援軍として出させた。そのため楚はこれを聞いて夜のうちに去った。
B.C.370趙に攻められ、甄を失う。
威王は即位以来、何も行わなわず、淫楽長夜の宴を好み、酒色におぼれて国事を顧みず、政務は卿大夫に任せきりであった。
百官の政は荒廃し、諸侯に侵略されたが、誰ひとり王を諌めようとする者がなかった。
淳于髠は謁見して「わが国に大きな鳥がいます。王宮の庭にとまって3年の間飛ばず鳴かずです。王よ、これは何と言う鳥でしょうか?」
「その鳥はいったん飛び立てば飛び続けるであろう。いったん鳴けば鳴き続けるであろう」
そこで威王は即墨の大夫を招いて「日ごとにそちの悪口を聞いた。しかし調べてみると即墨はよく治まっておる。
これはそちがわしの左右の者につかえて栄誉を求めようとしなかったからである」といって万家の邑に封じた。
また阿の大夫を招いて「日ごとにそちを褒めることばを聞いた。しかし調べてみると田野は拓かれず、人民は貧苦し、かつて趙が甄を攻めたとき、そちはこれを救うことができず、
衛が薛陵を取った時もそちは対策を知らなかった。これはそちがわしの左右の者に賄賂を厚くして栄誉を求めたのである」と言い、これを煮殺した。
威王は急に人が変わったように政務に励むようになり、72人の地方長官を呼び出し、功績のあったものは昇進させ、政務を疎かにしたものを処刑した。
B.C.368趙、衛を討ち、魏を濁沢で破り、魏恵侯を囲んだ。魏は観を献上して和を請うた。
また趙が長城を返還した。
かくて斉の国内は震い恐れ人々は非行を飾ろうとせず、誠実を尽くそうと務め、斉の国は大いに治まった。
B.C.359趙成侯と平陸で会同する。
B.C.358魏恵侯と会同し、郊外で狩をした。
恵侯が「王も宝を持っておられるでしょう」と問うた。
威王は「もっておりません」と答えると、
「わたしの国は小国ですが、それでも直径一寸の珠で車十二乗を照らすものが十個あります。万乗のあなたの国にどうして宝のないわけがありましょう」
「わたしが宝とするのは、王とは違います。わたしの臣下に檀子という者がおり、南境の城を守っていますが、そのために楚人は土地を取ろうとせず、
泗水地方の十二諸侯はみな来朝しました。
わたしの臣下に盼子という者がおり、高唐を守っていますが、そのため趙人は漁をしようとしません。
わたしの役人に黔夫という者がおり、徐州を守っていますが、そのため燕・趙の民で移住してきたものが七千余戸あります。
わたしの臣下に種首という者がおり、盗賊に備えていますが、そのため道に落し物があっても、拾う者がありません。
この四つの宝は、千里をも照らしましょう。何と車十二乗ぐらいのものでしょうか」と言った。
恵侯は恥じ入り、不興の体で去った。
B.C.356魏が趙の邯鄲を包囲し、趙が援けを求めた。威王は段干朋の進言を用いて、
田忌に魏の襄陵を攻めさせることにした。
10月、邯鄲が魏軍によって抜かれると、斉は出兵して魏を討ち、桂陵でこれを大いに破った。
斉は諸侯のうちでもっとも強くなり、自ら王と称して天下に号令した。
B.C.349大夫の牟辛を殺す。
B.C.347田忌が徒党を率いて臨淄を攻め、騶忌を捕らえようとしたが、勝たないで出奔した。
- 威王(楚)(イオウ)【王】
- 楚王(19(35)代目)。名は熊商。宣王の子。~B.C.329。
蘇秦が遊説に来て、威王に説いて「楚は強国でありますが、その勢いは秦と両立いたしません。大王のために利害をはかりますに、
六国が従親して秦を孤立させるのが一番です」と言った。威王はこれに従った。
B.C.334斉宣王が王と称した。威王はこれを聞いて大いに怒った。
B.C.333田嬰が楚を欺いた(斉王が王号を称した)ので、斉を討ってこれを徐州で破り、斉に田嬰の追放を迫った。
斉人張丑が「王が徐州で戦勝なされたのは、田盼子が斉に用いられなかったからです。
田嬰は盼子と仲が悪く、申紀を用いたため、王は勝つことができました。もし田嬰が追放されれば、田盼子が用いられましょう。
これは楚にとって有利ではないでしょう」と言ったため、威王は田嬰を追放させなかった。
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