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列伝 イ


囲(イ)【武官】
許の臣。
B.C.533楚霊王は許を夷に移して、囲を人質とした。
B.C.529囲は自分と同じように楚霊王に礼遇されている蔡の曼成然蔿居と力を合わせ、越の大夫常寿過を誘い出して乱を起こし、固城を囲み、 息舟の邑を陥れてそこに城壁を築いて立てこもった。 ついに叛乱軍は都に入り、楚霊王は自殺した。
洧(イ)【武官】
蔡、楚の臣。蔡の人。
B.C.531洧は楚霊王の寵愛を受けていたが、楚が蔡を滅ぼしたときに洧の父が戦死したため、 洧は楚霊王を恨んでいた。
B.C.529洧は自分と同じように楚霊王に礼遇されている許の曼成然蔿居と力を合わせ、 越の大夫常寿過を誘い出して乱を起こし、固城を囲み、息舟の邑を陥れてそこに城壁を築いて立てこもった。 ついに叛乱軍は都に入り、楚霊王は自殺した。
為(イ)【公子】
魯の公子。魯昭公の子。
公子と公子為が生まれたとき、ふたりの母が一緒に産室に入ったが、公子衍が先に生まれた。すると公子為の母が「一緒に産室に入ったのだから、 一緒に主に報告しましょう」と言ったため公子衍の母は報告を待った。しかし3日経って公子為が生まれると、その母はすぐに魯昭公に報告したため公子為が兄となった。
B.C.517季公若が公子為に弓を献上して、弓を射る遊びをして季氏を追い出す相談をした。 そこで公子為は弟の公子・公子とともに魯昭公に相談した。 そこで魯昭公は季氏を討ったが、敗れて斉に亡命した。
B.C.513魯昭公は公子衍に小羊の皮衣を与え、竜輔という玉を斉景公に献上したところ、公子衍は小羊の皮衣までも斉景公に献上したため、 斉景公は喜んで陽穀の邑を公子衍に与えた。魯昭公は内々これを喜ぶとともに、魯を失った災いを残念に思い「この務人(公子為)がこうした出亡の災いを引き起こした。 それに後に生まれて兄となっている」と言って、公子為を退けて公子衍を太子とした。
伊尹(イイン)【宰相】
商王朝の阿衡(宰相)。名は摯。商王朝建国の功労者。
伊尹の母は妊娠した時、夢を見て神女が臼やかまどに蛙が出たら洪水の前兆なので、すぐに立ち去って振り返ってはならないと言われた。そのうちに臼やかまどに蛙が現れたので、 母は去って東に走ったが、振り返って邑を見た。すると母は空桑の木となってしまったという。
洪水が起り、その後、その桑の木に小児があり、人の養うところとなったが、これが伊尹である。
姿は色黒く短身で髯面、頭でっかちで下がとがり、せむしで声が低かったといわれる。
湯王は東方を巡って有シン国に至り、有莘氏の娘と結婚し、伊尹を得て宰相とする。
伊尹は湯王を助け、中華を統一した。4代目王大甲を3年間追放するなど湯王死後も宰相として手腕を発揮し、商王朝の安定に努めた。 5代王沃丁の時代に死す。
伊尹の仕官については諸説あります。
㈰湯王に仕えるため、湯王と結婚する有莘氏の娘の召使となり、おいしい料理を作って湯王が彼の存在に注目するようになった (鼎俎を負い、滋味を以って湯に説き、王道を致せり)。
㈪在野の士であったが、湯王が5たび使者を送り軍師として迎えた。
㈫『繹史』では、伊尹は始め桀王に仕えていたが彼の悪政を恨んでいた。 また桀王の寵姫妺嬉は王の寵愛が薄れたことに恨みをもっていた。妹喜は復讐を果たすために伊尹を商に行かせ内通を図った。 妹喜は夏王朝の重要な情報を商に漏らし、夏を滅亡に追い詰めた。
また『容成氏』では伊尹は湯王の腹心であり桀王の補佐として送り込まれたとされる。伊尹は桀王をそそのかして岷山氏を討ち、ふたりの娘を連れて帰って娶り、 彼女たちのために豪華な宮殿を造営させた。これを聞いた湯王は逆に賢者を登用し、公平に恩徳を施して人民を収攬して桀王を討って商王朝を樹立した。
蔿射(イエキ)【武官】
楚の臣。
B.C.517、12月、蔿射に楚平王に命じられて州屈に城壁を築いて茄の人々をそこにもどって住まわせ、 さらに丘皇に城壁を築いて訾の人々をそこに移住させた。
B.C.505蔿射は呉軍と戦って柏挙で捕らえられた。
夷射姑(イエキコ)【武官】
邾の臣。
B.C.508夷射姑は邾荘公と酒を飲み、小用のために外に出た。門番が帰るのだと早合点して夷射姑から土産の肉をせびったため、 夷射姑は腹を立てて、その杖を奪い取って門番を打ちたたいた。
B.C.507、2月29日、邾荘公が宮門の物見台で外朝を見下ろすと、門番がかめの水をそこに流していた。邾荘公はこれを叱りつけると門番は 「夷射姑が小用をしましたので」と言った。そこで邾荘公は夷射姑を捕らえるよう命令したが、捕らえる事ができなかったため、 ますます腹を立ててあやまって椅子から転げ落ちて、炉の炭火の中に落ちてやけどをして、やがて亡くなった。
蔿越(イエツ)【将軍】
楚の臣。司馬。
B.C.521宋の華登が叛乱を起こして楚に援軍を求めたため、蔿越は軍を率いて出陣した。
B.C.520、2月、蔿越は使者を宋に遣わして「君にはよからぬ臣があると聞いております。 わが君がその者をもらい受けて処罰させていただきましょう」を申し入れた。 そこで宋は華亥向寧華定華貙・華登・皇奄傷省臧士平を楚に亡命させた。
B.C.519秋、呉が州来を討った。蔿越は頓・胡・沈・蔡・許の連合軍とともに州来を救った。呉軍はこれを鐘離で防いだ。 このとき楚の令尹子瑕が亡くなったため、楚軍の意気が衰えた。呉の公子が 「諸侯はみな小国であり、やむを得ず楚に従っている。今や楚の令尹が死んで士気が衰え、将たる者(蔿越)は身分が低く、王のお気に入りが多くて命令が定まっていない。 まず胡と陳を討ち破れば、あとの3国は逃げだすでしょう、そうすると諸侯は動揺し、楚はきっと総退却するでしょう」と進言した。
7月29日、両軍は戦い、公子光の計画通り3国が逃げ出したため、楚軍は総退却した。
10月17日、呉の太子諸樊が郹に入り、王子の母とその宝器を奪い去って帰った。蔿越は諸樊を追いかけたが追いつかなかったため、 その責任を取って死のうとした。家臣たちが「これから呉を討ちましょう」と言ってとどめたが、蔿越は「二度もわが君の軍を負けさせては死んでも罪がありましょう。 ここで死ななければなりません」と言って、イ澨で首をくくって死んだ。
蔿掩(イエン)【将軍】
楚の将軍。司馬、大司馬。蔿子馮の子。~B.C.543。
B.C.548蔿掩は司馬に任じられた。
令尹屈建は蔿掩に命じて租税を調べととのえ、武器を検閲して軍備を充実させるようにした。
10月8日、蔿掩は土地や田畑を調査して登記した。山林や藪沢に生ずる材物を見積もって集計し、高地や丘、 あるいは水につかった土地や不毛の地を平地を区別して税を取らぬようにし、流水や水たまりを数え調べて灌漑に備えるようにし、 河川流域には小さな区画を設けて耕作しやすいようにし、耕作のできない湿地帯は牧場にし、広い肥沃の地は区割りして井田とし、 各地からの収入を計算して租税を整え、車を割り当て馬の頭数を帳簿に記入し、兵車の乗る甲士や歩卒の用いる武器、甲、楯などを割当てた。 その書類を完成させて屈建に手渡したが、国を治める法にかなったものである。
12月、楚康王は舒鳩を滅ぼした功績を賞しようとしたが、屈建は辞退して「亡き大夫蔿子の手柄です」と言ったので、 蔿掩に賞が与えられた。
B.C.543蔿掩は公子に殺され、その財産は奪われた。
懿王(イオウ)【皇帝】
周王朝7代王。名は囏。恭(共)王の子。~B.C.876。
B.C.891南征を行う。
淮夷が叛乱したため懿王は親征して、エン皇父はその総帥となった。エン皇父は淮水の下流近くまで侵攻して諸夷を震撼させ、 南国の諸夷はことごとく周の威勢に服した。
B.C.885日食がおこり、それにつづくはげしい地震があった。エン皇父は一派を率いて荒廃した宗周を棄てて、成周に近い向に遷都しようとした。 懿王を補佐する者はなく、懿王はひとり旧都に残され、周はエン皇父派と王党派に分裂した。
この時代に周王室は衰微し、詩人が初めて諷刺の詩をつくる。
夷王(イオウ)【皇帝】
周王朝9代王。名は變。懿王の子。~B.C.854。
孝王が崩ずると、諸侯に擁立される。
B.C.863斉哀公を煮殺す。
またこの年、夷王は南征を行ったが噩侯ギョ方がにわかに周に叛いて南淮夷・東夷を率いて周に侵攻した。 夷王は西の六師、殷の八師を動員してこれを討たせたが、彼らは王命に従わず、戦わなかった。
しかし武公が、公直属の戦車百乗、戦士徒兵をに与え、再び西の六師、 殷の八師を率いて殲滅せよとの厳命を下し、禹は勇戦したので、大勝し、ギョ方を捕らえた。
南淮夷が侵攻して伊洛の近くまで及んだ。夷王は成周に赴き、にその撃退を命じ、敔はこれを破った。
威王(田斉)(イオウ)【王】
田斉王(初代(3代目))。名は因斉。桓公の子。~B.C.346。
B.C.378三晋が桓公の喪中に乗じて、斉の霊丘を攻めた。
B.C.373魯に攻められ、陽関に入られる。
三晋に攻められ、博陵まで侵入される。
B.C.372衛に攻められ、薛陵を失う。
B.C.371魏武侯が没し、太子罃と公子中緩がその位を争った。 公孫頎という者が宋から趙、趙から斉に入り、威王に進言した。
「魏罃が公中緩と太子の位を争ったことは、お聞き及びでしょうか。これに乗じて彼らを除けば、魏を破ること必定です。この機会を失ってはなりません」
威王は喜んで、趙とともに魏を討ち、濁沢でこれを破る。
しかし趙成侯は「魏の君を除いて公中緩を立て、土地を割き取けば、われらの利益になろう」と言った。 威王は「それはよろしくない。魏の君を殺せば、世間はかならず乱暴だと言うだろう。土地を割き取けば、世間はかならず貪欲だと言うだろう。 むしろ魏を二分するにこしたことはない。魏が分かれて二つになれば、宋や衛以上に強くなく、われらとても魏の禍いから逃れることができる」と言ったが、趙は聴き入れなかった。
威王はそれを喜ばず、少数の兵を引き連れて、夜のうちに去った。そのため魏は助かり、魏罃は即位した。(恵王)
また楚が斉を討った。威王は淳于髠に命じて、趙に精兵10万と兵車4台を援軍として出させた。そのため楚はこれを聞いて夜のうちに去った。
B.C.370趙に攻められ、甄を失う。
威王は即位以来、何も行わなわず、淫楽長夜の宴を好み、酒色におぼれて国事を顧みず、政務は卿大夫に任せきりであった。 百官の政は荒廃し、諸侯に侵略されたが、誰ひとり王を諌めようとする者がなかった。
淳于髠は謁見して「わが国に大きな鳥がいます。王宮の庭にとまって3年の間飛ばず鳴かずです。王よ、これは何と言う鳥でしょうか?」
「その鳥はいったん飛び立てば飛び続けるであろう。いったん鳴けば鳴き続けるであろう」
そこで威王は即墨の大夫を招いて「日ごとにそちの悪口を聞いた。しかし調べてみると即墨はよく治まっておる。 これはそちがわしの左右の者につかえて栄誉を求めようとしなかったからである」といって万家の邑に封じた。
また阿の大夫を招いて「日ごとにそちを褒めることばを聞いた。しかし調べてみると田野は拓かれず、人民は貧苦し、かつて趙が甄を攻めたとき、そちはこれを救うことができず、 衛が薛陵を取った時もそちは対策を知らなかった。これはそちがわしの左右の者に賄賂を厚くして栄誉を求めたのである」と言い、これを煮殺した。
威王は急に人が変わったように政務に励むようになり、72人の地方長官を呼び出し、功績のあったものは昇進させ、政務を疎かにしたものを処刑した。
B.C.368趙、衛を討ち、魏を濁沢で破り、魏恵侯を囲んだ。魏は観を献上して和を請うた。
また趙が長城を返還した。
かくて斉の国内は震い恐れ人々は非行を飾ろうとせず、誠実を尽くそうと務め、斉の国は大いに治まった。
B.C.359趙成侯と平陸で会同する。
B.C.358魏恵侯と会同し、郊外で狩をした。
恵侯が「王も宝を持っておられるでしょう」と問うた。
威王は「もっておりません」と答えると、
「わたしの国は小国ですが、それでも直径一寸の珠で車十二乗を照らすものが十個あります。万乗のあなたの国にどうして宝のないわけがありましょう」
「わたしが宝とするのは、王とは違います。わたしの臣下に檀子という者がおり、南境の城を守っていますが、そのために楚人は土地を取ろうとせず、 泗水地方の十二諸侯はみな来朝しました。
わたしの臣下に盼子という者がおり、高唐を守っていますが、そのため趙人は漁をしようとしません。
わたしの役人に黔夫という者がおり、徐州を守っていますが、そのため燕・趙の民で移住してきたものが七千余戸あります。
わたしの臣下に種首という者がおり、盗賊に備えていますが、そのため道に落し物があっても、拾う者がありません。
この四つの宝は、千里をも照らしましょう。何と車十二乗ぐらいのものでしょうか」と言った。
恵侯は恥じ入り、不興の体で去った。
B.C.356魏が趙の邯鄲を包囲し、趙が援けを求めた。威王は段干朋の進言を用いて、 田忌に魏の襄陵を攻めさせることにした。
10月、邯鄲が魏軍によって抜かれると、斉は出兵して魏を討ち、桂陵でこれを大いに破った。
斉は諸侯のうちでもっとも強くなり、自ら王と称して天下に号令した。
B.C.349大夫の牟辛を殺す。
B.C.347田忌が徒党を率いて臨淄を攻め、騶忌を捕らえようとしたが、勝たないで出奔した。
威王(楚)(イオウ)【王】
楚王(19(35)代目)。名は熊商。宣王の子。~B.C.329。
蘇秦が遊説に来て、威王に説いて「楚は強国でありますが、その勢いは秦と両立いたしません。大王のために利害をはかりますに、 六国が従親して秦を孤立させるのが一番です」と言った。威王はこれに従った。
B.C.334斉宣王が王と称した。威王はこれを聞いて大いに怒った。
B.C.333田嬰が楚を欺いた(斉王が王号を称した)ので、斉を討ってこれを徐州で破り、斉に田嬰の追放を迫った。 斉人張丑が「王が徐州で戦勝なされたのは、田盼子が斉に用いられなかったからです。 田嬰は盼子と仲が悪く、申紀を用いたため、王は勝つことができました。もし田嬰が追放されれば、田盼子が用いられましょう。 これは楚にとって有利ではないでしょう」と言ったため、威王は田嬰を追放させなかった。
蔿賈(イカ)【将軍】
楚の将軍。工正。司馬。伯嬴ともいう。~B.C.605。
B.C.633楚成王は宋を討とうとして、子文に命じて睽で兵の演習をさせた。
子文は子玉に委任しようとしてわずか朝食前に終わり、ひとりも罰しなかった。一方、子玉は蔿で演習したが、一日かかって行い、 7人を鞭打ち、3人の耳を矢で突き通して罰した。国老たちは子文に対して軍紀を厳しく行った子玉の有能なことをお祝いした。 蔿賈は遅れて来たが、お祝いを言わなかった。子文がその理由を尋ねると、蔿賈は「何をお祝いするのでしょう。子玉が国外でしくじると、 推挙したあなたの責任です。子玉は気が強く礼儀をわきまえず、民を治めることができません。300乗以上の軍を率いたら無事に帰ることはできないでしょう」 と答えた。
B.C.632はたして子玉は城濮の戦いで敗北した。
B.C.611楚の凶作につけ込んで戎や庸や麋などが楚に背いてこれを攻めようとした。群臣は都を阪高という険要の地に遷そうと相談したが、 蔿賈は「それはいけない。われわれが行けるところなら、敵も行くことができる。それよりも庸を討ったほうがよい。 麋と百濮はわれわれが戦をすることができないと考えているのだ。もしこちらが軍を出せば、きっと退くだろう」と進言した。 そこで楚荘王は軍を出すと、はたして15日にして百濮は退却し、楚軍は続いて庸を滅ぼした。
B.C.608秋、楚が陳と宋を攻めたので晋の趙盾が陳・宋の二国を助け、鄭の棐林で会合して鄭を討った。 蔿賈は楚荘王に命じて鄭を助け、晋軍と鄭の北林で戦い、晋の解揚を捕えた。 そのため晋軍は引き揚げた。
子文が没すると、子文の子闘般が令尹、闘椒が司馬、蔿賈は工正となった。
蔿賈は闘般を讒言して殺したため、闘椒は令尹となり、蔿賈は司馬となった。
B.C.605蔿賈は闘椒に憎まれたため、若敖氏の一族に攻められて轑陽に閉じ込めて殺された。
意恢(イカイ)【公子】
莒の公子。~B.C.528。
B.C.528、12月、蒲餘侯玆父は郊公を嫌って庚与と親しかった。 また郊公は公子鐸を嫌って公子意恢と親しかった。そこで公子鐸は玆父にたよって共に謀り「お前は意恢を殺しなさい。 わたしは君(郊公)を追い出して庚与を入れて君にしよう」と言ったため、玆父はそれを聴き入れ、公子意恢は殺された。
蔿艾猟(イガイリョウ)
孫叔敖
囲亀(イキ)【公子】
宋の公子。~B.C.586。
B.C.594公子囲亀は、華元の身代りとして楚に人質となった。
B.C.586秋、公子囲亀は帰国した。華元はその労を慰めかつ自分への恨みを和らげようと宴を開いた。公子囲亀は「これからは家を出るときも入るときも、太鼓を鳴らし、 ときの声をあげるようにしたい」と宋共公に願い出た。共公はなぜかと尋ねると、公子囲亀は「華氏を攻める練習のためです」と言った。 そのため宋共公は恐れて公子囲亀を殺した。
夷詭諸(イキショ)【王】
夷の君。
武公に攻められて夷詭諸を捕えられた。周の蔿国が夷詭諸の命乞いをしたので、 武公はこれを釈放した。
しかし夷詭諸は蔿国にお礼をしなかったので、蔿国は武公に「わたしと力を合わせて夷を攻めて、その領地を取りなさい」と言った。 そこで武公は夷を討ち、夷詭諸を殺した。
蔿居(イキョ)【武官】
楚の臣。
蔿居は楚霊王に田地を奪われて、これを恨みに思っていた。
B.C.529蔿居は自分と同じように楚霊王に礼遇されている許の大夫、蔡の曼成然と力を合わせ、越の大夫常寿過を誘い出して乱を起こし、固城を囲み、 息舟の邑を陥れてそこに城壁を築いて立てこもった。ついに叛乱軍は都に入り、楚霊王は自殺した。
夷姜(イキョウ)【女官】
荘公宣公の夫人。
荘公の夫人であったが、のち宣公と通じて太子を生む。
のちに宣公が宣姜を寵愛したため、夷姜は首をくくって自殺した。
鬻拳(イクケン)【宰相】
楚の宰相。~B.C.675。
B.C.675春、楚文王は巴の軍を防いだが、津で大敗して引き返した。鬻拳は文王に強く意見したが聴き入れられなかった。 ついに武器をもっておどしつけ「大敗して帰るとは何事ですか」と言って文王を都に入れなかった。
のちに鬻拳は「武器をもってわが君をおどしつけた。これより大きな罪はない」と言ってみずから足を切って自殺した。
楚の人は彼を門番の総帥に任じて大伯と呼び、その子孫にその職を継がせた。
鬻子(イクシ)【文官】
周王朝の臣。姫昌が有徳の人物であると聞き、周に帰服する。
鬻熊(イクユウ)【王】
楚の族長。
鬻熊は博学の優れた人物であり、周文王武王ともに彼を師と仰いだという。
鬻熊は周文王に仕えたが、早く没した。
鬻熊は風后力牧の著した『風后』『力牧』、 伊尹の著した『伊尹』などを元にして『鬻子』を著した。『鬻子』は22編とも19編ともいい、 諸子の書の最初のものとされる。
鬻熊の子孫は熊を氏とした。
蔿啓彊(イケイキョウ)【文官】
楚の臣。大宰。
B.C.549斉荘公が晋を恐れて楚と結ぼうとした。 楚康王は蔿啓彊を斉に遣わして会合の期日をうかがわせた。
冬、楚は鄭を攻めた。蔿啓彊は斉の田無宇が帰国するのを見送った。
B.C.541冬、蔿啓彊は楚霊王が即位すると大宰に任じられた。
B.C.538冬、呉が楚に攻め入った。そのため蔿啓彊は巣に城壁を築いた。
B.C.537晋の韓宣子叔向が公女を送り届けに来た。 楚霊王は大夫を出仕させて「晋は楚の仇敵である。今、上卿と上大夫の足を切って門番とし、宮刑をくわえて宦官にしたら晋をはずかしめることができる」と言った。 大夫らはだれも答えなかったが、蔿啓彊は「晋に対する備えがあるならよろしいでしょう。いやしい者をはずかしめるにしても、それに対する備えが必要です。 ましてや国であればなおさらです。その備えができないからこそ古の聖王はつとめて礼を行って人をはずかしめなかったのです。もし戦って敗れ、 わが楚の群臣を晋の捕虜として満足されるなら、何も悪いことはありません」と諌めた。楚霊王は「わたしのあやまちであった。 大夫よ、そうかしこまらないでくれ」と言って韓宣子に対して手厚い礼を行った。
10月、楚は呉を討った。呉軍が出撃してきたため蔿啓彊はこれに対応したが、防備をしていなかったため鵲岸で討ち破られた。
B.C.535楚霊王は章華台を築き、諸侯を集めて落成式をしようとした。蔿啓彊は「わたくしは魯侯を連れてまいりましょう」と言って魯に行き、 魯昭公を招待した。
このとき楚霊王は大屈という弓を引出物として魯昭公に贈ったが後悔した。蔿啓彊はこれを聞いて魯昭公に面会してめでたいことだとお祝い申し上げた。 魯昭公は「なぜお祝いをいうのか」と尋ねると、蔿啓彊は「斉・晋・越がその大屈を欲しがっておりましたが、わが君はそれを殿に差し上げたのです。 どうか警戒してお守りください」と言った。魯昭公は恐ろしくなって大屈を楚霊王に返した。
夷吾(イゴ)
恵公
夷吾(イゴ)【王】
呉王。屈羽の子。
夷公(周)(イコウ)【文官】
周王朝の臣。栄伯。
周の神都の民を領有する権力者として、政権を掌握した。
のち栄での政治手腕を買われて周厲王に重用される。栄では国家に利益を独占させる経営を行ったため栄室は富んでいたという。 芮良夫が諌めて言った「王室は衰微するでしょう。栄公は利益を独占したがって、大難を知りません。 一人の男が利益を独占してさえ、盗といいます。王ともあろう者がそんなことをすれば、終わりをまっとうできなくなります」
しかし厲王は聴き入れず、栄公を大臣とした。そのため諸侯は来朝しなくなった。
夷公は民や諸侯を搾取したため、民心が離れ、諸侯も反した。
夷公(陳)(イコウ)【王】
陳公(9代目)。名は説。武公の子。~B.C.779。
B.C.782即位する。
夷公(秦)(イコウ)【公子】
秦の公子。哀公の子。
哀公よりも早く死んだ。
夷侯(イコウ)【王】
蔡侯(6代目)。武侯の子。~B.C.810。
B.C.838即位する。
懿公(衛)(イコウ)【王】
衛公(7(17)代目)。名は赤。恵公の子。~B.C.660。
B.C.669即位する。
B.C.666、3月29日、斉桓公に攻められる。両国は大いに戦ったが、斉軍は衛軍を破り、 天子の命であるといって衛の罪を責め立て、衛より財貨を取り立てて帰った。
懿公は鶴を好み、淫楽奢侈であったため、人民も大臣もみな服従しなかった。
B.C.660、12月、狄に攻められる。懿公はこれを迎撃しようとしたが大臣らに「君は鶴がお好きです。鶴に翟を撃たせたらよろしゅうございましょう」と言われる。 そのため懿公は石キ子に玦を与えて指揮権を与え、 甯遠に矢を与えて防禦させ、夫人に繍衣を与えて 「あのふたりに相談せよ」と言って自ら出陣した。
懿公は狄軍と熒沢で戦ったが、懿公は自分の軍旗を引っ込めなかったので狄の攻撃を受けて大敗し、懿公は殺され、狄は勝ちに乗じて衛を滅ぼした。
懿公(斉)(イコウ)【王】
斉公(20代目)。名は商人。桓公の子。母は密姫。~B.C.609。
桓公には夫人が3人おり、王姫徐嬴蔡姫とも子がなかった。桓公は女色を好み、愛する女が多く、夫人のような待遇を受ける愛妾は6人もいた。
B.C.645管仲が没した。 すると公子商人・公子無詭・公子・公子・ 公子は後を継ごうと争った。
B.C.643桓公が没すると、無詭が立ち、その後孝公(公子昭)、昭公(公子潘)が立った。
昭公の太子は、母の叔姫が昭公に愛されなかったので、権勢がなかった。 一方、公子商人はひそかに賢人と交わり、国人に恩恵を施して多くの子分を持っていた。公子商人は自分の家財を使い尽くして役人に借りてまでそれを続けてた。
B.C.613、4月、昭公が没し、公子舎が即位した。
7月、公子商人は国人を煽動して舎を弑し、兄の公子元に位を譲ろうとした。公子元は「お前は君の位を望んでいるのだからお前が位につくがよい。 わたしはお前の臣として仕えていける。わたしを助けようとするなら、お前がなってくれ」と言ったので、公子商人は即位した(懿公)。
冬、単伯が斉に来朝し、叔姫を渡して欲しいと願い出たが、斉の人は周と魯の工作に立腹し、単伯を捕え、叔姫も捕えた。
B.C.612夏、懿公は単伯を許して釈放し、魯に行かせて叔姫を魯に還すということを伝えさせた。
秋、懿公は諸侯は何もできないと考えて、魯の西境を侵略した。
11月、晋霊公は宋昭公・衛成公・ 蔡文侯・陳霊公・鄭繆公・許の君・ 曹文公・魯の季孫行父と扈で盟い、斉を討つ相談をした。 そこで懿公は晋霊公に賄賂をつかったので、晋霊公は斉討伐をとりやめた。
12月、懿公は、曹が魯を聘問したことをとがめるため、曹を討って外城まで攻め入った。
B.C.611、1月、斉は魯と和平を結んだ。魯文公は病気であったので、季孫行父に命じて懿公と斉の陽穀で会合させたが、 懿公は「魯公の全快するのを待ちましょう」と言って、盟いを結ばなかった。
6月5日、魯文公が襄仲に命じて懿公に賄賂を贈ったので、懿公は斉のセイ丘で魯と盟った。
B.C.610夏、懿公は魯の北辺を侵略した。魯の襄仲が斉に和平を請うてきた。
6月26日、懿公は斉の穀で魯と盟った。
B.C.609懿公は魯を討とうとしたが、病気にかかってできなかった。
5月16日、懿公は丙戎庸職に恨みをもたれて、申池の竹薮の中で殺された。
懿公(魯)(イコウ)【王】
魯公(10代目)。名は戯。武公の子。~B.C.816。
B.C.816武公がと戯をつれて参朝した。宣王は弟の戯を可愛がり、魯の太子に立てようとした。 樊仲山父が諌めて「目下の者が目上の者に仕え、年少の者が年長の者に仕えるのは、正道に従うといいます。正道に逆らえと教えれば、 諸侯はまねをして、王の命令は行われなくなりましょう」と言ったが、宣王は聴き入れず、戯を太子とした。
武公は帰国すると没し、懿公は即位するが、括の子伯御に攻め殺される。
懿公(燕)(イコウ)【王】
燕公。文公の子。~B.C.544。
B.C.548即位する。
懿侯(イコウ)【王】
韓侯(5代目)。哀侯の子。~B.C.359。
B.C.369魏に攻められ、馬陵で破られる。
B.C.367魏恵王と宅陽で会同する。
B.C.362魏に攻められ、澮水のほとりで破られる。
威公(イコウ)【王】
西周公(諸侯)(2代目)。桓公の子。
威后(イコウ)
恵文后
蔿国(イコク)【文官】
周王朝の臣。~B.C.673。
蔿国は公子の師傅となった。
武公は夷を討って、夷詭諸を捕えた。蔿国は夷詭諸の命乞いをしたので、 武公はこれを釈放した。
しかし夷詭諸が蔿国にお礼をしなかったので、蔿国は武公に「わたしと力を合わせて夷を攻めて、その領地を取りなさい」と言った。 そこで武公は夷を討ち、夷詭諸を殺した。
恵王は蔿国の菜園を取り上げて王の庭園とし、辺伯の邸宅が王宮に近かったので、 これを取り上げ、さらに子禽祝跪詹父の田地を取り上げ、 石速の秩禄をも取り上げた。
B.C.675蔿国・辺伯・子禽・祝跪・詹父・石速は乱を起こし、かねて王室を恨んでいた蘇氏を中心として団結した。
秋、蔿国らは公子頽をかつぎ上げて恵王を攻めたが、恵王はこれを撃退した。勝つことができなかったので、蔿国らは蘇氏の領地の温に出奔した。
そこで6人は衛と南燕の軍とともに周を攻め、恵王は温に逃げ、鄭の都櫟に移った。
冬、蔿国ら6人は公子頽を擁立した。
B.C.673夏、鄭厲公虢叔林父が挙兵し、厲公は恵王と共に南門から都城に入り、 虢叔林父は北門から入って頽を殺し、蔿国も誅殺された。
尉止(イシ)【武官】
鄭の臣。~B.C.563。
尉止は子駟と争いごとをして不和であった。
B.C.563諸侯が鄭を攻めると、子駟は尉止に軍を用いてはならぬと命令した。また尉止が捕虜を捕えると、子駟はそれを自分の手柄として 「お前の車は身分に過ぎたものだ」と言って、捕虜を君に献上させなかった。
尉止は子駟に恨みを持つ司氏・堵氏・侯氏・子師氏と多くの不平分子を集めて乱を起こした。
10月14日、尉止は堵女父司臣尉翩司斉子師僕侯晋らとともに叛徒を率いて公宮に攻め入り、 子駟・子国子耳を殺した。
子駟の子子西が反撃してきたので、尉止らは北宮に入って立てこもった。 子産が役人たちを集めて攻め寄せ、子蟜が国人を率いて応援したため、 尉止は子師僕とともに殺され、反乱は鎮圧された。
夷之(イシ)【在野】
墨家。『孟子』に見える。
孟子の門人徐辟を介して孟子と薄葬について論争したが、論破される。
蔿子馮(イシヒョウ)【将軍】
楚の将軍。大司馬、令尹。孫叔敖の従子。~B.C.548。
B.C.558蔿子馮は大司馬に任じられた。
B.C.555冬、楚は鄭を討った。蔿子馮は公子と共に精鋭を率いて費滑・胥靡・献于・雍梁に次々と攻め入り、 東に進んで梅山の麓をまわり、虫牢まで進撃して引き揚げた。
B.C.552夏、令尹子庚が没した。楚康王は蔿子馮を令尹に任命しようとした。 蔿子馮は申叔豫に相談すると、申叔豫は「国は君の権臣が多くて国王は若い。国をとても治めることはできません」と言ったので、 蔿子馮は病気だといって辞退した。楚康王は医者を遣わして見舞わせたが、「痩せたことは大変ひどいが、体調は普段と変わらない」と報告したので、 楚康王はあきらめて子南を令尹に任命した。
B.C.551子南が処刑されたので、蔿子馮は令尹に任じられた。
蔿子馮の寵愛を受けている8人の者は、役人になっていないにもかかわらず馬をたくさんもっていた。ある日、蔿子馮が申叔豫に話し掛けたが、 申叔豫は答えもせず、家に帰ってしまった。
蔿子馮「わたしは気がかりでお目にかからずにはおれません。わたしに過ちがあるなら話して下さい」
申叔豫「わたしはあなたの巻き添えを受けて罪にされたくありません」
蔿子馮「どうしてです」
申叔豫「前に観起が子南に寵愛されており、子南が処刑されると観起も車裂きにされました」
蔿子馮は家に帰って8人の寵臣に向かって「申叔に会ったが、死んだ客を生かして骨に肉をつけるという人だ。わたしを理解してくれる人なら、 あのような人だ。そうでないなら絶交しよう」と言い、8人と絶交した。そこで楚康王は蔿子馮に心を許すようになった。
B.C.549冬、舒鳩が呉にそそのかされて楚に叛いた。楚康王はこれを責めたが、舒鳩の君はその事実がないことを告げ、盟いを結びたいと願い出た。 しかし楚康王はどうしても舒鳩を討とうとした。蔿子馮は「いけません。ひとまず引き揚げて民を休ませ、先方がどう出るかを見届けましょう。 もしわが国に叛くとしたら、こちらは堂々と彼を討つことができます」と言ったので、楚康王は引き揚げた。
B.C.548没した。
夷叔(イシュク)
叔武
薳章(イショウ)【文官】
楚の臣。
B.C.706楚武王は随を討ち、大夫薳章を使者として和睦させた。
B.C.704武王は随を討とうとして諸侯を楚の沈鹿に集めたが、黄・随が来なかった。 武王は薳章を遣わして黄を責めさせ、武王みずからは隋を討った。
B.C.703鄧国のユウの人が楚の使者道朔・巴の使者韓服を殺した。 武王は薳章を遣わしてユウを責めたが、鄧は相手にしなかった。
イ相(イショウ)【文官】
楚の臣。左史。
イ相は朝廷で士亹に会おうとしたが、士亹は出てこなかったので、イ相はこれを非難した。 挙伯がこれを士亹に告げると、 士亹は怒って「きみはわしが老いぼれたとして、わしを非難するな」と言った。
イ相は「あなたが老齢になったので、お目にかかって戒めたかったのです。かつて衛の武公は95歳になっても卿大夫に 『わしを捨てるでないぞ。わしを教導してくれよ』と言ったそうです。今あなたは老いたことをいいことにして、安楽をほしいままにされて、 戒諌する者を拒否されます。このようなことでは楚は治められません」と言った。
士亹は「わたしがまちがっていた」と言い、たびたびイ相に会った。
公子が妾を正妻にしようとしてイ相にたずねると、イ相は「君子の行動は道を得ようとするものです。 それゆえ、立ち振る舞もただ道に従うだけです。あなたは楚を治めて道を犯そうとされますが、それでよいのですか」と答えた。 公子結はそこでとりやめた。
匡章(イショウ)【武官】
田斉の臣。
濮上の戦いで、斉は魏に敗れて匡章は敗走した。
秦が道を韓・魏に借りて斉を攻めた。斉威王は匡章を将軍として応戦させた。
匡章は秦軍と対峙して軍営を構え、軍使がしきりにその間を往来した。匡章は斉の旗印を秦のものに変えて、将兵を秦軍の中に紛れ込ませるために軍使の往来をしていた。
しかし斉の斥候は何度も匡章が秦に降服したと報告し、軍吏も匡章を罷免して他の者に代わらせるよう進言したが、 威王は「あれがわしに背かないのは明らかである」と言って聴かなかった。
はたして匡章は秦軍を討って、これを大破した。
左右の者が威王に「どうして二心のないことを知っておられたのですか」と尋ねると、威王は「章子(匡章)の母の啓は、夫に対して罪を犯したため、 馬屋の床下に埋められたという。わしは章子を将軍に任命した時、母の改葬をしてやろうと言ったが、章子は『父の言い付けを得ないまま、母を改葬することは、 父を欺くことになるのでできなかったのです』と答えた。そもそも人の子として、死んだ父を欺かない者が、どうして人の臣となって、 生きている主君を欺こうか」と答えた。
尹辛(イシン)【武官】
周王朝の臣。
B.C.519王室の乱で尹辛は子朝について劉文公の軍を唐で破った。
7月25日、尹辛は西イを攻め取った。
7月27日、尹辛は蒯を攻めたため蒯はつぶれた。
蔿射(イセキ)【武官】
楚の臣。
B.C.537冬、楚は諸侯を率いて呉を討った。蔿射は繁揚の軍を率いて夏汭で楚霊王の軍と合流した。蔿射はまず呉の南懐に攻め入り、 楚軍はこれに従って汝清まで進んだが、呉の防備が強くて攻め入ることができなかった。
蔿洩(イセツ)【武官】
楚の臣。~B.C.536。
B.C.536秋、蔿洩は楚霊王の命を受けて徐を討った。 すると呉が徐を助けようとしたため令尹子蕩が呉を討った。しかし子蕩は呉に敗れたため、敗戦の罪を蔿洩に負わせて、 蔿洩は殺された。
倚相(イソウ)【文官】
楚の臣。左史。
倚相は楚霊王に仕えた。
懿仲(イチュウ)【文官】
斉の臣。
自分の娘を田完に娶わせようとして占ったところ吉であったため、娶わせた。
夷仲年(イチュウネン)【公子】
斉の公子。荘公の子。公孫無知の父。~B.C.698。
B.C.716斉釐公は魯との艾の盟約を温めるため、夷仲年を魯に来聘させた。
B.C.709この年、斉の公女が魯に嫁いだ。
冬、夷仲年は魯を来聘した。
伊陟(イチョク)【宰相】
商王朝の宰相。伊尹の子。
父と同じく宰相となる。時の皇帝太戊は彼を臣下扱いしなかったという。
乙喜(イツキ)
展喜
乙公(イツコウ)【王】
斉公(3代目)。名は得。丁公の子。
矞似(イツジ)【文官】
楚の臣。巫。
矞似は楚成王子玉子西に向って 「お三方は天命を全うせず無理死にをなさるであろう」と予言した。
B.C.632城濮の戦いのとき、成王はこの言葉を思い出したが、子玉の自殺に間に合わなかった。
B.C.626成王は公子商臣によって殺された。
B.C.617子西は子家と謀って楚穆王を殺そうとしたが、逆に殺された。
はたしてこの3人は予言どおりに無理死にした。
佚之狐(イツシコ)【文官】
鄭の臣。
B.C.630、9月13日、佚之狐は「燭之武を使者として秦君に面会させたら、秦軍はきっと退くでしょう」と進言したので、 鄭文公は燭之武を召した。
燭之武「わたしは若いときには顧みられず、今や老人となり働くことができません」
文公「あなたを用いなかったのはわたしの過ちです。しかし鄭の滅亡は、あなたにとっても不利でしょう」
そこで燭之武は承諾し、秦との停戦の盟いを結んだ。そのため晋も軍を引いた。
猗頓(イトン)【在野】
商人。
塩池の塩によって富豪となる。
井伯(イハク)【文官】
虞の臣。
B.C.655晋献公は虢を滅ぼし、軍を引き上げる時に虞に宿泊し、そのまま虞を襲撃してこれを滅ぼした。 井伯は虞公・百里奚とともに捕えられた。
夷伯(イハク)【文官】
魯の臣。字は伯、諡は夷。
展氏の祖先。
B.C.645夷伯の廟に落雷があった。
夷伯喜(イハクキ)【王】
曹公(6代目)。孝伯雲の子。~B.C.833。
B.C.863即位する。
薳罷(イヒ)
子蕩
尉翩(イヘン)【武官】
鄭の臣。尉止の子。~B.C.558。
B.C.563、10月14日、尉翩は尉止・堵女父司臣司斉子師僕侯晋らとともに叛徒を率いて公宮に攻め入り、 子駟子国子耳を殺した。
子駟の子子西が反撃してきたので、尉翩は宋に亡命した。
B.C.558、2月、鄭がたびたび宋に亡命した尉翩らの返還を要求したので、宋は了承して尉翩らを鄭に送り返した。尉翩は処刑されて塩漬けにされた。
夷末(イマツ)
余祭
夷陽五(イヨウゴ)【武官】
晋の臣。夷羊五ともかく。
夷陽五は郤錡に土地を奪われたため、これを恨んでいた。
B.C.574、12月26日、夷陽五は胥童とともに500の武装兵を率いて郤氏を討ち、 郤錡と郤犨郤至を殺した。
威烈王(イレツオウ)【皇帝】
周王朝32代王。名は午。考王の子。~B.C.402。
B.C.403九鼎が震える。威烈王は命じて韓・魏・趙を諸侯とする。
医和(イワ)【文官】
秦の医者。名は和。
B.C.541晋平公が病気になったので、秦景公は医和を晋によこした。
医和は病気を見て「この病気は治療できません。色欲が度を過ぎています。もし君が死ななければ、諸侯を失うでしょう」
趙武「私は諸卿とともに輔佐して8年になります。なぜ諸侯が離反しましょうか」
医和「あなたは君の惑乱を諌めることができず病気にかからせ、自分も引退せずにその政治を光栄とされています。8年でさえも長すぎるのに、 どうしてもっと長生きできましょう」
趙武「君はどのくらい生きるでしょうか」
医和「もし諸侯が服従するなら3年を越えませんが、服従しなければ10年を越えません」
はたしてこの年に趙武は没し、諸侯は晋に叛いた。さらに10年後、平公が没した。
胤(イン)【王】
中康の時代の人。
胤国の君とも、中康の臣下ともいう。羲氏と和氏の乱れた政治を正した。
寅(楚)(イン)【公子】
楚の公子。
B.C.574、5月、鄭は諸侯に攻められたため楚の援助を得ようとして、 太子髠頑侯ドウを楚に人質として差し出した。 そこで公子寅は公子とともに鄭を守備した。
寅(陳)(イン)【公子】
陳の公子。陳哀公の弟。
B.C.566冬、楚の子嚢が陳を攻め囲んだ。陳哀公は、晋・魯・宋・衛・曹・莒・邾と鄭のイで会合した。
12月、陳の人は楚の包囲を恐れた。慶虎慶寅が楚人に「こちらで公子寅を遣わすから、 すぐに捕まえてくれ」と申し入れた。公子寅は楚人に捕えられたので、陳人は会合に出席している陳哀公に「楚人が公子寅を捕えました。君がお帰りにならないと、 陳の社稷や宗廟が滅びてしまうので、陳は君に背いて公子寅についてしまうでしょう」と報告した。そこで陳哀公は会合から逃げて国に帰った。
寅(宋)(イン)【公子】
宋の公子。~B.C.522。
B.C.522、6月9日、華氏と向氏が反乱をおこし、公子寅は華亥に殺された。
尹佚(インイツ)【文官】
周王朝の臣。史佚ともいう。
殷周革命が成ったときに、尹佚は周の武王が天命により即位する祝文を読む。
「殷の末孫季紂、先王の明徳を荒廃し、神祗を侮蔑して祀らず、商邑の百姓を昬暴(暴虐を加える)す。 其れ章顕して天皇、上帝に聞こえたり。・・・大命を受くるに膺り、殷を革め、天の明命を受けよ」
成王唐叔虞と戯れていたとき、桐の葉を四角に切って叔虞に与え 「これをもっておまえを封じよう」と言った。佚は吉日を選んで叔虞を封ずるように請うた。成王が「わしはあれと戯れていただけのことだ」と言ったが、 佚は「天子に戯言ということはございません。天子が一言を言えば、史官はそれを書き記し、礼によってその事をおこない、楽によってその事をうたうのでございます」と答え、 ついに叔虞を唐に封じた。
尹何(インカ)【文官】
鄭の臣。子皮の家臣。
子皮は尹何を愛していたので、村里の長にしようとしたが、子産は反対した。
子皮は「尹何は実直な人物であるから、役人となってから学問させたら、政道をわきまえるであろう」と言うと、子産は「学んだ後に役人になると聞いても、 役人になってから学問をするなど聞いたことはありません」と答えた。
允格(インカク)【神】
の子。
尹軌(インキ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
字は公度。太原の人。博く五経を研究し、天文星象・易学・予言に明るかった。漆塗りの竹筒十数本を腰に下げていて、その中に入れた薬は、 兵乱や疫病を避けることが出来たという。
陰忌(甘)(インキ)【文官】
甘の臣。~B.C.530。
悼公の一味。
B.C.530甘悼公は甘成公・甘景公の一族を除こうとしたため彼らに殺された。陰忌も王孫没劉州鳩宮嬖綽老陽子とともに殺された。
陰忌(周)(インキ)【武官】
周王朝の臣。
B.C.516冬、子朝は周敬王に敗れて楚に亡命し、 陰忌は周の莒へ逃げてそこにたてこもって叛いた。
尹喜(インキ)
関尹令
印癸(インキ)
子柳
尹吉甫(インキツホ)【将軍】
周王朝の将軍。
B.C.822、夏6月、儼狁を討ち、太原に至る。
印菫父(インキンボ)【武官】
鄭の臣。
B.C.547、5月、楚と秦が印菫父と皇頡の守っている城麇に進撃してきた。 印菫父は戦って敗れて捕らえられた。楚は印菫父を秦に譲り渡した。鄭人は財貨を印菫父の一族から取り上げ、 それを秦に贈って身柄をもらい受けようとした。そこで秦は印菫父を鄭に引き渡した。
尹言多(インゲンタ)【武官】
周王朝の臣。
B.C.543、5月5日、尹言多は劉毅単蔑甘過鞏成らとともに公子佞夫を殺した。
尹固(インコ)
尹氏固
隠公(魯)(インコウ)【王】
魯公(14代目)。名は息姑。恵公の長子。母は声子。~B.C.712。
公子息姑は、鄭と狐壌で戦って捕虜となり、鄭の大夫尹氏の家に幽閉された。
公子息姑は尹氏に賄賂を使い、尹氏の守り神である鐘巫にお祈りした。その後、尹氏とともに魯に帰り、鐘巫の祠を建ててこれを祭った。
B.C.723恵公が没したとき、太子允(桓公)が年少であったため、隠公は国人の推薦で摂政することとなった。
B.C.722、3月、隠公は邾の君と蔑で会盟した。
4月、大夫費庈父が軍を率いて郎に城壁を築いた。
7月、周平王は宰咺を遣わし、恵公と仲子の葬礼に用いる車馬を贈った。
8月、蜚という稲虫が発生したが、災害はなかった。
9月、宋との関係がこじれていたが、隠公は和睦を申し入れ、宿の国で会盟した。
10月15日、恵公を改葬したが、隠公は太子允に遠慮して喪主とならず、その葬礼に臨まなかった。
この時、衛桓公がみずから魯にやって来て会葬した。
鄭の内乱で、衛は介入して鄭を討った。鄭は周と虢とともに衛を討ち、援軍を邾に求めた。 邾の君克は使者を遣わして魯の公子に援軍を求めた。 公子予は出陣したいと願い出たが、隠公は許さなかった。しかし公子予は勝手に出陣して、邾と鄭と翼で同盟を結んだ。
冬、魯の都の南門を新築したが、隠公の命令によるものではなかった。
12月、祭伯が魯に来た。
B.C.721春、隠公は戎と潜で会合した。戎は盟約を結ぶことを申し出たが、隠公は断った。
夏、司空展無駭が軍を率いて極の地に侵略した。 すると郎にいた費庈父がこれに乗じて極に攻め入り、これを滅ぼした。
秋、戎が再び魯との盟約を請い、隠公は唐で盟い、かさねて戎との友好を修めた。
9月、紀の裂繻が魯に来て、魯の公女伯姫を迎えた。
10月、伯姫が紀に嫁いだ。
裂繻が魯と莒の仲を取り持つため、莒の君と密で盟約した。
12月16日、仲子が没した。
B.C.720、2月1日、日食があった。
4月24日、生母の声子が没した。
秋、周の大夫武氏の嗣子が来朝して、周平王の葬礼に用いる財貨を求めた。
B.C.719衛の公子州吁桓公を弑して自立した。
隠公は衆仲に「州吁は国君として立派にやってゆけるであろうか」と問うた。衆仲は 「武力をたのみ残酷なことをして国民をなつけるということを聞いたことはございません。必ず滅亡するでしょう」と答えた。
そこで隠公は州吁に協力して鄭を討つことを拒絶した。
夏、宋殤公と清で会合し、先年の宿の盟いを回復して親善した。
秋、宋殤公が使者を魯に遣わして鄭討伐の援軍を請うた。隠公はこれを許可しなかったが、魯の公子は勝手に出陣した。
B.C.718春、隠公は棠に出かけて魚を取る漁を見物しようとした。臧僖伯が「およそ山林や川沢から取れる物は、 いやしい下僕どものやる仕事であり、君がそれを監督するべきではありません」と諌めたが、隠公は「わたしは領地を巡行しようとするのだ」と言って棠に出かけた。
9月、仲子の廟が落成したので、、隠公は六羽の舞を奉納して初めて六佾の舞を用いた。(魯はそれまで八佾の舞(天子が用いる)を用いていた)
宋が邾を討ち、邾は鄭に救援を求めて、周と鄭と邾で宋を討った。宋は魯に救援を求めた。隠公は使者に「敵軍はどこまで攻め入ったか」ち尋ねると、 「まだ国都まで攻められていません」と答えた。隠公はすでに連合軍が宋の城郭に攻め入ったことを知っていたので、立腹して援助を中止した。
12月30日、臧僖伯が没した。隠公は「叔父は私を恨んでおられたが、私は決してその忠誠を忘れません」と言い、位一等をのぼらせて葬った。
B.C.717春、鄭人が魯にやってきて、魯と鄭は和睦する。
5月11日、隠公は斉釐公と艾で盟い、はじめて親和する。
冬、周が飢饉となったため周桓王は隠公に食糧難であることを告げた。隠公はそれを救うために、宋・衛・斉・鄭に対して穀物の買い入れを申し込んだ。
B.C.716、3月、魯は叔姫を紀に嫁がせる。
夏、魯は中丘に城壁を築いた。
斉釐公が艾の盟約を温めるため、弟の夷仲年を魯に来聘させた。
秋、隠公は宋と友好関係を結ぼうとして、邾を討った。
冬、周の凡伯が魯に来聘した。
B.C.715、3月、鄭荘公は周の無礼を怒ったため泰山の祭りを止めて代わりに周公を祭るとして、魯に祊を与えて許と交換しようとして、 大夫のを遣わした。
9月、隠公は紀と友好関係を厚くするため、莒人と浮来で盟った。
冬、斉釐公は魯に使者を遣わして、宋・衛と鄭を和親させたことを報告してきた。隠公は衆仲に命じて対応させ 「斉の君の行いは、深いお恵みのお陰でございます」と答えさせた。
12月、展無駭が没した。公子翬は展無駭のために諡と族名を賜わるよう隠公にお願いした。隠公はこのことを衆仲に尋ねて、展無駭の王父の字をもって族名とし、 展氏と名乗らせた。
B.C.714春、周桓王南季を魯に遣わした。
3月11日、大雨が降り、雷が鳴り響き、数日続いた。
3月18日、大雪が降り、数日続いた。
夏、隠公は郎に城壁を築く。
宋は周室に対する職貢を怠ったため鄭に攻められたが、宋は魯を恨んでいたため、このことを魯に報告しなかった。そこで隠公は怒って宋との国交を断ち、 宋への使者を禁止した。
冬、宋を討つことを検討するため、隠公は斉釐公と防で会合した。
B.C.713隠公は斉釐公、鄭荘公と魯の中丘で会合し、1月26日に魯の鄧で盟って宋を討つ期日を定めた。
5月、隠公よりさきに公子翬が斉と鄭と会合して宋を討った。
6月、隠公は斉釐公、鄭荘公と宋の老桃に会合した。
6月7日、隠公は宋軍を菅で破った。
6月16日、鄭軍は前日攻め取った郜を魯に譲り渡した。
6月26日、鄭軍は前日攻め取った防を魯に譲り渡した。
B.C.712春、滕侯と薛侯が魯に来朝し、礼を行う順番と位の高低を争った。薛侯は「わたしの方が先に封じられた国である」と言い、 滕侯は「わたしの方は周室の卜官の長をつとめた国で、薛は異姓の国である」と言った。隠公は公子翬に命じて「周室が諸侯と同盟を結ぶ時には、 異姓を後にするのが定めであります。どうか滕君を上席にするようにお願い致します」と言わせた。薛侯はこれを聞き入れて、滕侯を上席とした。
荘公が周室を侮り、その職貢を怠った。
夏、隠公は許を討伐することを相談するため、鄭荘公と鄭のコウで会合した。
7月、隠公は斉釐公、鄭荘公と会合して許を討った。
7月3日、連合軍は許城に攻め入り、許荘公は衛に出奔した。
斉釐公は隠公に許を譲ろうとした。隠公は辞退して「斉侯が許の不供の罪を責めて討伐の軍を起されたから、それに従ったまでのこと。今や許がその罪に服したからには、 斉侯の御命令でも従うわけにはまいりません」と言った。
冬、公子翬は太子允を殺して隠公に即位するよう進言するが、息姑はそれを断った。事の露見を恐れた公子翬は、 反対に太子允に隠公を殺すべきであると進言した。
11月、隠公は鐘巫のお祭りをしようとして、蔿氏の家に宿泊した。
11月15日、公子翬は賊に命じて隠公を蔿氏の家で弑した。
隠公(曹)(インコウ)【王】
曹公(23代目)。名は通。平公の弟。~B.C.504。
B.C.510声公を弑し、代わって立つ。
B.C.506、3月、隠公は劉文公の召集を受け、晋定公・魯定公・ 宋景公・衛霊公・蔡昭侯・ 陳懐公・許の君・鄭献公・莒の君・邾の君・頓の君・胡の君・滕の君・ 杞悼公・小邾の君・斉の国夏を楚の召陵に集めて楚を討つ相談をした。
B.C.504公子露(靖公)に殺される。
隠公(杞)(インコウ)【王】
杞公(14代目)。名は乞。悼公の子。~B.C.513。
即位してその年の7月、弟の遂(釐公)に殺される。
隠公(邾)(インコウ)【王】
邾公。
B.C.495、1月、隠公は魯を聘問する。このとき隠公は献上する玉の持ち方が高すぎており、魯定公は玉の受け方が低すぎていた。 魯の子貢は「両君はどちらも亡くなられるであろう。礼は人間の生死存亡根幹となるものです。両君とも法度にかなっておらず、 心はもはや精気を失っております。魯侯は主人役ですから邾の君より先に亡くなるであろう」と言った。
5月22日、はたして魯定公は高寝の宮殿で没した。
9月、隠公は喪のため魯を聘問した。
尹公他(インコウタ)【在野】
衛の人。尹公。尹公佗とも書く。
尹公他は弓を子濯に学んだ。
B.C.559尹公他と子濯は孫文子について衛献公を追うことになった。 衛献公の御者は公孫丁であり、子濯は公孫丁の弟子であったため、わざと狙いをはずした。 尹公他は「公孫丁はわたしにとっては縁が遠い」と言って衛献公の車を追ったが、公孫丁に射られて臂を負傷した。
尹公他は弓を庾公斯に教えた。
尹士(インシ)【在野】
斉の在野の士。
孟子が斉を去るとき昼というところで3日逗留した。尹士は未練がましいとして孟子を非難した。孟子「三泊して昼を出たのは、 私はまだはやいと思える。王よ、お願いです。考えを改めてください。王が改めれば、必ず私を連れ戻すでしょう。しかし昼を出ても王は私を追ってこない。 私はそれから帰ったのです。私はだからといって王を見捨てたわけではないのだ」尹士はそれを人伝えに聞いて「私は誠に小人である」と自ら恥じたという。
尹氏固(インシコ)【武官】
周王朝の臣。尹固ともいう。~B.C.513。
B.C.516冬、子朝は周敬王に敗れたため、 召氏の一族・毛伯得・尹氏固・南宮嚚と一緒に周の文書を持ち出して楚へ逃げた。 しかし尹氏固は途中で引き返した。ある婦人が尹氏固に「国に居れば人をそそのかして災いを起こし、国外に行くとわずか数日で戻ってきた。 この人はきっと3年も長らえないであろう」と言った。
B.C.513、3月13日、尹氏固は敬王に殺された。
允常(インジョウ)【王】
越王。勾践の父。~B.C.496。
呉王闔閭と戦い、たがいに恨んで討ちあう。
B.C.505呉が楚を攻めた隙を狙って、允常は呉を討った。
B.C.496没す。
隠太子(インタイシ)【公子】
蔡の公子。名は友もしくは有。霊侯の子。~B.C.531。
B.C.531、11月、蔡は楚に滅ぼされ隠太子は岡山の祭りのいけにえにされた。
(楚平王は蔡を復興させるにあたり、隠太子を殺してその子盧を立てたともいい、 また隠太子は盧に殺されたともいう。)
尹沢(インタク)【文官】
趙鞅の家臣。尹鐸とも書く。
B.C.495尹沢は董安于のあとを継いで、晋陽を治めた。
趙鞅が晋陽を城塞にするよう命じると、尹沢は晋陽の税を軽減した。 趙鞅は子の趙毋卹を戒めて「お前は尹沢を軽く見てはならぬ。また晋陽を遠いとしてはならぬ。 必ず最後の根拠地とせよ」と言った。
趙鞅は尹沢に「必ず敵の作った営塁を破壊せよ」を命じたが、尹沢はこれを増して高くした。
趙鞅が晋陽に来てこれを見て怒って「沢を殺してから入城しよう。これはわしの仇を宣伝し、わしに恥をかかせるものだ」と言った。 郵無生が進み出て「尹沢はこれを高く修築して、これを手本として戒めて趙家を安んじたいとものだと考えたのでしょう。 彼を罰するならば、善を罰することになります」と言ったので、趙鞅は尹沢を戦で君の危難を救う功と同じ賞を与えた。
尹沢と郵無生は怨み合っていたが、尹沢は「あなたはわたくしの死を救って下さいました。この賞を差し上げないでおられましょうか」と言うと、 郵無生は辞退して「わたしは主君のためにしたのであり、あなたのためではありません。怨みはやはりうらみのままです」と答えた。
印段(インダン)【文官】
鄭の臣。子石ともいう。
B.C.546冬、鄭簡公が会合から帰国する晋の趙武を垂隴でもてなした。 印段は蟋蟀の詩を歌って深思遠謀して楚に油断すべきではないという意を寓すると、趙武は「立派なことです。家を保ってゆかれる方です」と言った。
B.C.544子展は手放せない政務があったため、 印段を代理として周に行かせて周霊王の会葬をさせた。良霄が 「印段は年が若くて適任ではない」と言ったが、子展は「行かないよりはよい。王事は揺るがせにしてはならない。 どうして上卿が行かなければならないことがあろう」と言った。そこで印段はそのまま周に赴いた。
B.C.543、7月14日、子産公孫黒の乱を避けて国を立ち去ったとき、 印段はこれに同行した。
7月16日、印段は子産が鄭都に戻った翌日、都に戻った。そしてふたりとも公孫黒の家で盟いを結んだ。
B.C.542、6月、鄭簡公が晋に赴いたため、印段は子皮の命により楚に使いして、鄭簡公が晋へ出かけていることを告げた。
12月、衛の北宮文子が鄭に立ち寄った。印段は使者となって出かけ、棐林で慰労した。
B.C.541、6月11日、子南の騒動のため、印段は公孫段の家で子産・子皮・公孫段子大叔駟帯と盟いを結んだ。
B.C.540、11月、、印段は晋に出かけて晋平公の夫人少姜の弔問をした。
陰不佞(インフネイ)【武官】
周王朝の臣。
B.C.513、5月25日、子朝の余党であった公子趙車が鄻邑に入って周に背いたため、 陰不佞はこれを討ち破った。
尹文(インブン)【文官】
斉の人。名家。
宣王のとき、尹文は稷下で学んだ。尹文はよく宋銒と並んで、宋尹学派と称される。
尹文は『尹文子』を著した。
尹文は国内の平和、人々の和合、戦争の否定を掲げて遊説をした。そのため名家ではなく、道家・墨家・縦横家に位置づけされることもある。
闉輿罷(インヨヒ)【文官】
楚の臣。
B.C.505闉輿罷は呉に捕らえられたが、呉軍が撤退するときに先に呉に行かせ欲しいと願い、途中からさっさと楚に逃げ帰った。
陰里(インリ)【文官】
周王朝の臣。
B.C.561冬、周霊王が斉に王后を求めた。斉霊公が承諾したので、 陰里は命ぜられて結婚の世話をした。




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