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列伝 カ


瑕(衛)(カ)【王】
衛公(11(21)代目)。〜B.C.630。
B.C.632大夫元咺は衛成公を晋に裁かせて幽閉させた。 そこで公子瑕は元咺に擁立された。
B.C.630晋文公が衛成公暗殺に失敗し、衛成公は帰国することになったため、 公子瑕と元咺は衛成公に誅殺された。
(公子瑕は生き延びて亡命したとする説もある)
瑕(鄭)(カ)【公子】
鄭の公子。鄭文公の子。
B.C.629公子瑕は泄駕に嫌われたため、文公にも嫌われた。そこで公子瑕は楚に出奔した。
B.C.627楚の子上が陳と蔡に攻め入った。陳と蔡は和を請うたので、子上はすぐに鄭を討って公子瑕を鄭に入れようとした。 しかし公子瑕の車が周氏の池に転覆したため、 公子瑕は鄭の髠屯に捕えられた。
瑕(周)(カ)【王】
周王朝の公子。
B.C.543、5月、公子瑕は儋括・公子らと晋に亡命した。
過(周)(カ)【文官】
周王朝の臣。召公。
B.C.661神が莘の地に降下した。周恵王は「これはどういうことか」と尋ねると、 過は「国が興隆しようとするときには明神が降下して広く福を授け、国が滅びようとする時には、明神が降下して禍を降すのです。 夏王朝が興隆する時には祝融の神が現れ、滅亡する時には回禄の神が現れました。殷王朝が興隆する時には、檮杌の神が現れ、 滅亡するときには夷羊という神獣が現れました。
それは丹朱の神です」
莘は虢の地であるため、恵王は過に命じて虢公に犠牲とお供えを捧げるようにさせた。しかし虢公はこの命令を聞かなかった。
B.C.649周襄王は過と内史を使節として、 晋恵公に襲封(封建領主の継承を命じる詔勅)の勅命を授けさせた。しかし恵公はこれに対して無礼であったので、過はこれをそしった。
B.C.623秦繆公が戎をうち、西戎の覇となった。周襄王は繆公に慶賀の意を表わし、過に命じて金鼓を贈った。
過(周)(カ)【文官】
周王朝の臣。内史。
B.C.649周襄王は召公と内史過を使節として、 晋恵公に襲封(封建領主の継承を命じる詔勅)の勅命を授けさせた。 晋の呂省郤芮が晋恵公の礼を助けたが、恭敬の心に欠け、恵公も玉圭を執ることが低く、 稽首の礼をしなかった。
過は帰国すると襄王に報告して言った「晋は滅亡しないとしたら、その君には世継がないでしょう。また呂郤ふたりとも難を免れません。いま晋は国の内外の約束を破り、 晋の国人を虐殺し、王命を敬せず、自分がいやなことを人に施しています。こんなことでどうして国を守ることが出来ましょう。
いったい晋侯は世継でもないのに位に即いたのですから、戦戦兢兢としてその位を守って戒懼しても、それでもなお不十分と言うべきです。玉圭を低く執るということは、 式典の礼物を棄てるものです。王命を拝して稽首しないのは王をないがしろにするものです。きっと禍を受けましょう」
はたして恵公は秦と戦って敗れ、子の懐公は殺された。
過(陳)(カ)【公子】
陳の公子。陳哀公の子。〜B.C.534。
B.C.534、3月、陳哀公が病気になると、 公子過は公子とともに悼太子を殺して公子を立てた。 しかし公子が公子招を楚に訴えたため、公子招は罪を公子過になすりつけて殺した。
過(甘)(カ)【文官】
甘の臣。庾皮の子。〜B.C.530。
B.C.530、10月25日、甘悼公は成公・景公の一族に殺された。
10月26日、過も成公・景公の一族に殺された。
果(カ)【公子】
魯の公子。魯昭公の子。
公子果は公子・公子と季氏を除く相談をし、 公子果と公子賁は魯昭公の側役の僚柤に命じて季氏を追い出すように告げさせた。 魯昭公は「お前たちが口にするべきことではない」と言ったため、公子果は今度は自分から話した。そこで魯昭公は季氏を討ったが、敗れて斉に亡命した。
嘉(趙)(カ)【王】
代王。趙悼襄王の子。
趙の太子であったが、廃される。幽繆王の母が遊女であり、悼襄王がこれを寵愛したため廃された。
B.C.229幽繆王が秦に降服すると、趙の亡命大夫によって代で擁立される。
B.C.226燕は秦に攻められ国都薊を失った。代王嘉は燕王に書簡を送って「秦が燕を追撃するのは、 太子のせいである。いま王が丹を殺して秦王に献ずるなら、かならずや秦王の心は解け、社稷は安泰でしょう」と言った。
燕王喜はそこで太子丹を斬って秦に献じようとしたが、秦の追撃は止まなかった。
B.C.222秦に攻められて破られ、代は滅びる。
嘉(蛮)(カ)【王】
蛮の君。〜B.C.526。
B.C.526、1月、蛮に内乱があり、嘉は信義がなかった。嘉はこれを聞いた楚の然丹に誘い出されて殺され、蛮は楚に攻め取られた。
仮(カ)【王】
魏王(6(8)代目)。景湣王の子。
B.C.225秦に攻められ、大梁の城に水を注ぎ込まれ、仮は捕らえられる。
魏は滅び、秦の郡県となる。
華(秦)(カ)【公子】
秦の公子。
B.C.328張儀とともに魏の蒲陽を包囲し、これを降す。
華(鄭)(カ)【公子】
鄭の公子、太子。文公の子。母は陳嬀。〜B.C.644。
文公はの夫人であった陳嬀と密通して華を生んだ。
B.C.653、7月、太子華は、斉桓公・魯釐公・宋桓公・ 陳の太子と魯の甯毋で会合し、鄭に対する処置を相談した。
太子華が「わが国の大夫の泄氏、孔氏、子人氏の三族は君命に逆らっています。君がこの三族を取り除いてくださるなら、鄭は斉の家来となりましょう」と言ったので、 桓公はこれを許そうとした。しかし管仲が諌めた。
管仲「礼と信をもって諸侯を引き寄せているのに、よこしまなやり方をするのはよくありません」
桓公「鄭にまだ勝つことができない。鄭につけこむすきがあるならば、よいではないか」
管仲「徳をもって鄭を治めようとして、その上で討伐するならよいでしょう。もし父の命に背いた太子華をひきつれて鄭を討てば、鄭は言い訳が立ち、 わが軍を恐れないでしょう。太子華のような悪人を許してはなりません」
そこで桓公は太子華の意見をしりぞけた。そのため太子華は鄭で罪人として罪を受けることとなった。
B.C.644、11月13日、太子華は鄭文公に殺された。
茄(カ)【武官】
趙の臣。〜B.C.260。
B.C.260秦と長平と対峙した時、廉頗の副将となる。
4月、秦の斥候兵に殺された。
夏(カ)【公子】
陳の公子。宣公の子。
公子夏は子の夏御叔に、鄭繆公の娘夏姫を娶らせた。
牙(ガ)【公子】
斉の公子。斉霊公の子。母は仲子。〜B.C.554。
公子牙は斉霊公の寵姫である戎姫に養育された。戎姫は公子牙を太子にしてほしいと願ったので、 公子牙は太子となった。
B.C.554夏、斉霊公が危篤となると崔杼が公子を擁立したため、 公子牙は句瀆の丘の獄舎に捕らえられた。
噲(カイ)【王】
燕王(2代目)。易王の子。〜B.C.314。
蘇代が噲を説いて斉を弱める策を述べた。噲は「わしはついにきみの力で覇王たるべき天命を受けた」といって、 その子を斉に人質として蘇代と蘇厲を斉にやった。
B.C.317楚、三晋とともに秦を攻めたが、勝てないで帰還する。
斉の使者となった蘇代や鹿毛寿などにそそのかされ、国権を宰相の子之に譲り、 隠居を声明してさらに子之の臣となる。そのため国は大いに乱れた。
B.C.314子之と太子平との内乱がおこり、さらに斉がこれに乗じて燕を攻めたため噲は討死する。
槐(カイ)【皇帝】
夏王朝9代王。の子。
悝(カイ)
華陽君
開(カイ)【文官】
斉の楽師。晏子春秋に見える。
景公は新たに柏寝の室を造った。公は開に琴を演奏させた。
開は左に官を撫で、右手に商を弾じて「部屋が西向きなのですね」と言った。公は「どうしてわかったのだ」と問うた。開は答えて「東方の音がふさがり、 西方の音が揚になったためです」と言った。
外(ガイ)【公子】
秦の公子。昭襄王の子。〜B.C.268。
B.C.268外は、魏の人質となっていたが、魏で没す。
懐嬴(カイエイ)【女官】
懐公の婦人。晋文公の夫人。秦繆公の娘。 公子の母。辰嬴ともいう。
B.C.638晋恵公が病におかされると、圉は「わが母の実家の梁は秦に滅ぼされ、わしは国外で秦にあなどられ、 晋国内では孤立無援である。もしわが君に万一のことがあったら、大夫たちはわしをないがしろにして、別の公子を立てよう」と言い、 懐嬴と共に晋に逃げ帰ろうとした。懐嬴は「秦はわたしをあなたに添わせて、あなたの心を秦につなぎとめようとしたのです。あなたはお逃げなさい。 わたしはあなたについてゆきません。でも人には洩らしはいたしません」と言った。圉はついに晋へ逃げ帰った。
B.C.637秦繆公は圉が逃げ帰ったのを恨み、楚に行っていた晋の公子重耳(文公)を迎えた。
繆公は5人の娘を重耳に嫁がせたが、その中に懐嬴も入っていた。
重耳が水差の水で手を洗い、洗い終わって手を振った時、その水が懐嬴にかかったので、懐嬴は怒って「秦と晋は対等なのに、 なぜわたくしを卑下するのですか」と言った。重耳は恐れて、上着を脱いで謝罪した。
重耳がこの結婚に難色を示したので、繆公は「わたしの娘の中ではこの子が一番才があります。ですが、この件については公子のご意向に従って処理しましょう」と言った。 重耳は賈佗らと相談して、結局娶った。
懐嬴は文公の夫人としての序列は第9番目であった。
B.C.621懐嬴の子の公子楽が狐射姑に晋侯に指名されたが、趙盾に殺された。
懐王(カイオウ)【王】
楚王(20(36)代目)。名は熊槐。威王の子。〜B.C.297。
懐王は屈原を寵愛し、左徒に任じた。
上官大夫靳尚は屈原と位を同じくし、その君寵を憎んだため王に讒言して「王が屈平に法令を作らせれば、平は自分の功を誇り、 自分でなければ誰もできないと自負しています」と言った。そのため懐王は屈原を遠ざけた。
B.C.329魏は威王の喪を聞いて、楚に攻め寄せ、楚は陘山を奪われた。
B.C.323柱国昭陽に命じて魏を攻めさせ、襄陵でこれを破り、八邑を取る。
B.C.321斉が田嬰を薛に封じようとしたため、懐王は大いに怒って斉を討とうとした。 すると公孫閈が懐王に説いて「斉が土地を割いて田嬰を封じれば、それだけ斉の国力が弱まることになります」と言ったので、 懐王はあえて田嬰を封じることをとめなかった。
B.C.317蘇秦が六国を合従させ、ともに秦を攻めることとなり、懐王が合従の盟主となって函谷関に迫ったが、 秦に撃たれたので六国の兵はみな引き揚げた。
B.C.313秦が斉を討とうとしたため、楚と斉は同盟した。そのため秦恵王はこれを憂えて、 天下に「張儀の宰相の職を免じた」と宣言し、張儀を楚に送った。張儀は懐王に秦と結べば商・於の地六百里をゆずることを伝えたため、 懐王は大いに喜び連日酒宴を催した。
縦横家陳軫はこのことを危ぶんだが、懐王は聴き入れなかった。
懐王は人をやって土地を受け取らせようとしたが、張儀は「広袤六里の土地をお取りください」と言った。懐王は大いに怒り、秦との和平を断ち、出兵してこれを討った。
B.C.312春、秦と丹水の北で戦い、楚は破れ兵八万を失い、大将軍屈匄・ 副将軍逢侯ら70余人を捕虜にされ、漢中を失った。
懐王は大いに怒り、国内の兵を尽くして秦を討ったが、藍田で戦い、また大いに敗れた。
そのため韓・魏はこれを聞いて、楚を討ち、鄧まで進んだので、懐王は兵を帰した。
B.C.311秦は使者を遣わし、漢中の半分を割譲しようとしたが、懐王は「それより張儀がほしい。土地を得たいとは思わない」と言って拒否した。 秦はそこで張儀を遣わして和平を図ったが、懐王はこれを捕えて殺そうとした。張儀は靳尚と鄭袖と通じて懐王の気を和らげたため、 懐王は張儀を許した。張儀が去った後、屈原が斉の使いから帰ってきて「どうして張儀を殺されなかったのですか」と諌めた。 懐王は後悔し、人をやって彼を追跡させたが、及ばなかった。
B.C.308秦の樗里疾は戦車100台を従えて周に赴くと、周は軍を出してこれを鄭重に出迎えた。 懐王は怒って、周が秦を厚くもてなしたことを詰問した。
周の臣游騰が「むかし智伯キュウ由を討とうとしたとき、 逆にキュウ由に大きな鐘を贈りました。キュウ由はそれを運ぶために道を広げましたが、智伯はその道を利用して軍を出してこれを滅ぼしました。 また斉桓公が蔡を討ったとき、うわべは楚を討つといいながら、その実は楚の不意をついたのです。
今、周が軍を出して樗里疾を迎えたのは、その実はこれを押し込めるためなのです。どうか王にはご心配なされぬように」と言った。懐王はこれを聞くと機嫌を直した。
秦が韓の宜陽を攻めた。懐王は景翠に命じて軍を率いて韓の救援に向った。
B.C.307景翠は秦が宜陽を落としてから軍を進めた。秦は楚に煮棗の地を差し出し、韓も財宝を差し出した。そのため楚は深く東周を恩にきた。
B.C.305斉に背いて、秦と和睦した。
秦昭王が立ち、楚に厚く賄賂をして、楚は妻を秦から迎えた。
B.C.304懐王は秦に入って、秦昭王と黄棘で盟約し、ふたたび上庸を得た。
B.C.303斉・韓・魏は、楚が秦と和合したので、三国合同して楚を攻めた。懐王は太子を人質として秦に入れ、援軍を請うた。秦は通に命じて楚を助けたので、 三国は兵を引いて去った。
湣王は書簡を送り、秦と和合をしないで斉と親和することを述べた。懐王は迷ったが、 昭雎の言を取り、斉と親和して、さらに韓と親善した。
B.C.302秦の大夫と楚の太子陵が私闘し、陵は大夫を殺して逃げ帰った。
B.C.301秦・斉・韓・魏に攻められ、将軍唐眜は殺され、重丘を失う。
B.C.300秦に攻められて大いに破られ、兵二万を失い、将軍景欠も殺される。懐王は恐れて、太子を人質として斉に和平を求めた。
B.C.297秦に攻められ、八ヶ城を失う。秦昭王は書簡を送り、武関で会合し、盟約するよう請うた。懐王は行って欺かれるのが恐ろしく、 ゆかなければ秦王が怒るのが恐ろしく思い悩んだ。昭雎は「王にはお出かけにならず、兵を出してお守りになるにかぎります。秦は虎狼にひとしく、信用なりません。 諸侯併呑の野心を抱いております」と言ったが、子の子蘭は「どうして秦の善意を無視できましょう」と王に行くことを勧めたので、王は出かけて昭王と会った。
昭王はいつわって将軍に命じ、兵を武関に伏せて秦王と称させ、懐王が武関に入ると、秦は関門を閉じて懐王を捕え、咸陽に連行した。章台で秦昭王に参朝させられたが、 藩臣あつかいで、対等の礼ではなかったため懐王は大いに怒り、昭雎のことばを聴き入れなかったことを悔いた。
秦は巫と黔中の割譲を要求した。懐王は秦と盟約しようと思っていたが「秦はわしを偽ったうえ、またさらに土地を強要する。もう秦の言うことは聴くまい」と言った。
このため楚国内は公子横を斉から呼び戻して、これを立てた。
B.C.296懐王は逃亡した。楚への道は遮断されたので趙に走り、趙から国に帰ろうとした。しかし趙が秦を恐れて懐王を入れなかったため、魏に逃げようとした。 そこで秦の追っ手につかまり、秦都へ連れ戻された。発病して、秦で没す。
夏育(カイク)【武官】
斉の臣。
夏育は勇士であり、千鈞を持ち上げることができると称せられた。
懐君(カイクン)【王】
衛君(2(40)代目)。嗣君の子。〜B.C.262。
B.C.262魏に参朝するが捕えられて殺される。
会譴(カイケン)【武官】
斉の臣。
景公に仕える。
景公は病気になり、なかなか直らなかったので、祈祷する者を誅するかどうか、会譴に尋ねた。会譴は「いいでしょう」と言ったが、 晏嬰が反対したため、取りやめになった。
解狐(カイコ)【武官】
晋の臣。中軍の尉。〜B.C.570。
B.C.570晋悼公が群臣に登用すべき人材を問うたとき、 解狐は仇敵であった祁奚;から推挙され、中軍の尉となった。
解狐はこの年、没した。
懐公(晋)(カイコウ)【王】
晋公(4(6)代目)。名は圉。恵公の子。母は梁嬴。〜B.C.636。
公子圉が生まれたとき、梁の大卜招父がその子とともに卜した。子が「やがて一男一女が生まれる」と言った。招父は「その通りだ。 男は人の臣となり、女は人に使われるようになるだろう」と言った。そこで男子には圉、女子にはと名づけられた。それが公子圉である。
B.C.643夏、公子圉は恵公の命で、秦に人質として送られ、妹の妾は秦の女官となった。
そこで秦は晋に河東の地を返して、公子圉に懐嬴を娶わせた。
B.C.638恵公が病におかされると、公子圉は「わが母の実家の梁は秦に滅ぼされ、わしは国外で秦にあなどられ、晋国内では孤立無援である。 もしわが君に万一のことがあったら、大夫たちはわしをないがしろにして、別の公子を立てよう」と言い、 懐嬴と共に晋に逃げ帰ろうとした。懐嬴は「秦はわたしをあなたに添わせて、あなたの心を秦につなぎとめようとしたのです。 あなたはお逃げなさい。わたしはあなたについてゆきません。でも人には洩らしはいたしません」と言った。公子圉はついに晋へ逃げ帰った。
B.C.637、10月、恵公が没し、太子圉は代わって立った。
懐公は秦繆公の討伐を恐れ国中に命令して「重耳に従って逃亡したものは、 期日を定めて召集する。来ない者は、ことごとくその家を滅ぼす」と言い、応じなかった狐突を殺した。
B.C.636重耳は秦から帰国し、黄河を渡って令狐・臼衰・桑泉の3邑を招くと、みな降服した。
2月、懐公は高梁へ逃走した。
戌申の日、文公(重耳)は人をやって懐公を殺した。
懐公(陳)(カイコウ)【王】
陳公(23代目)。名は柳。恵公の子。〜B.C.502。
B.C.506、1月7日、陳恵公が没したため、公子柳は即位した。
3月、懐公は劉文公の召集を受け、晋定公・魯定公・ 宋景公・衛霊公・蔡昭侯・ 鄭献公・許の君・曹隠公・莒の君・邾の君・頓の君・胡の君・滕の君・ 杞悼公・小邾の君・斉の国夏を楚の召陵に集めて楚を討つ相談をした。
B.C.504呉に招かれたため、呉に赴くが、先年招きに応じなかったことを責められて抑留された。
B.C.502、7月8日、懐公は没した。
懐公(衛)(カイコウ)【王】
衛公(24(34)代目)。名は亹。〜B.C.425。
B.C.436昭公を弑し、代わって立つ。
B.C.425公子タイに殺される。
懐公(秦)(カイコウ)【王】
秦公(19(24)代目)。躁公の弟。〜B.C.428。
B.C.428庶長の鼂が大臣らと共に攻めて懐公を囲んだので、懐公は自殺した。
艾孔(カイコウ)【武官】
斉の臣。晏子春秋にみえる。
景公に仕える。
景公にへつらって晏嬰に批判される。
介子推(カイシスイ)【武官】
晋の臣。
重耳の亡命に従い、晋君となることを助ける。
B.C.636重耳がいよいよ帰国しようとしたとき、狐偃は重耳に報酬を求めた。これを聞いて介子推は笑って言った 「天帝が公子の運をひらかれたのに、子犯はそれを自分の手柄として、君に報酬を求めている。なんと恥知らずだろう。わしは彼と同列におるのがいやだ」といい、帰国後、 彼は身を隠した。
文公(重耳)は論功行賞を行ったが、まだ介子推まで及ばなかった。推は母に「9人いた公子のうち残ったのはわが君だけです。君の運命をひらいたのは天であるのに、 それを二、三の者が自分の力だと思い上がっています。何といういつわりでしょう。わたしはこういう人たちといっしょにいることなどできそうもありません」と言うと、 母は「どうしておまえもそれを求めないのか」と問うと、推は「人を咎めながら自分でそれを真似るなどできません」と答える。母が 「お上にそういう意見を知って頂いたらどうか」と言うと、推は「身を隠そうとしているのですから、なぜ身をかざろうとしましょうか」と答えた。 すると母は「おまえがそういう心になりきれるなら、わたしもお前といっしょに隠れよう」と言い、生涯、主君にまみえなかった。
文公はのちに介子推を賞していないことを知り、彼が緜上の山中に入ったと聞くと、ここに推を封じて介推の田とし、これを介山と称した。
また一説では、文公は介子推に賞しようとして追い求めたが、介子推が山から出なかったので、その山を焼かせたという。それでも介子推は山を出ずに、 樹木を抱いて立ちながら焼け死んだ。文公はその過ちを悟って、この山を介子推の領地として祭り、衆人の出入りを禁じたという。
仙人として、列仙伝にも見える。
姓は王、名は光。晋の人。公子重耳を非凡であると目をつけ、彼に伴って十余年いかなる辛苦をも厭わなかった。やがて帰国したが伯子常というものが 「逃げるがよい」と呼び出したので、介子推は俸禄を辞退し、母とともに山中に入った。のち文公(重耳)が礼物を持って招いたが、山から出てこなかった。
海若(カイジャク)【神】
海神。
介象(カイショウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
字は元則。会稽の人。学は五経に通じ、博く百家の書に目を通していた。邪鬼禁圧の術を得意とした。あるとき『左伝』について口論をしたことが呉大帝(孫権)の耳に入り、 ひどく介象を尊敬し、隠形の術を学んだ。
会人(カイジン)【神】
楚の先祖。陸終の四男。
会人の子孫はウン姓(「女」偏に「云」)を名のる。
外壬(ガイジン)【皇帝】
商王朝10代王。仲丁の弟。
外単(ガイタン)【文官】
商王朝の臣。
外単は湯王を補佐した三賢臣のひとり。
鄶仲(カイチュウ)【王】
鄶公。祝融の子孫とされる。
解張(カイチョウ)【武官】
晋の臣。
B.C.589、6月18日、晋・魯・衛連合軍は斉軍と斉の鞍の地に陣をかまえた。解張は郤克の御者となり、 鄭丘緩が右となった。郤克は矢に当たって負傷し、血は靴まで流れ滴るという重傷であった。 郤克はかろうじて進撃の太鼓を絶え絶えに鳴らした。
郤克「わたしはもうだめだ」
解張「戦が始まり、敵の矢がわたしの左手に当たり、肘まで突き通しましたが、抜くいとまもなく、その矢を折って馬を御しています。 兵車の左輪は赤黒く染まっていますが、どうして弱音を吐きましょうか。我慢してください」
鄭丘緩「戦の始めから、険しい場所に来るとわたしは下車して車を押してきましたが、お気づきにならなかったでしょう。それも気づかれないということは、 やはり重傷です」
解張「わが軍の目と耳は元帥の旗と太鼓に注がれております。どうして重傷であるからといって、この戦いを失敗させることが出来ましょう。 出陣したからには、もとより死は覚悟です。命にはまだ別状はありません。しっかりしてください」
解張は手綱を片手に握りなおし、右手で撥を取って進撃の太鼓を打ち鳴らした。
郤克の馬は駆け出して止めることができなくなり、全軍はそれに遅れじと進撃し、斉軍を大いに破った。
玄唐(ガイトウ)【在野】
晋の人。隠者。
平公は玄唐を賢人とし、彼の家に自分から訪ねていき、出された食事が素食であっても、それを満腹するまで食べて、玄唐を敬った。
蒯得(カイトク)【武官】
晋の臣。〜B.C.618。
B.C.620令狐の役のとき、晋軍が菫陰で秦軍を防いだ際、先克が蒯得の所有していた菫陰の地を奪った。
B.C.619蒯得は、先克に不平を持つ箕鄭先都士縠梁益耳らとともに乱を起こした。
B.C.618、1月、蒯得らは賊を放って先克を殺した。
3月29日、蒯得は晋人に殺された。
開方(カイホウ)【公子】
斉の臣。
開方は衛の公子であり、斉に亡命していた。管仲は斉桓公に彼を重用しないように諌言していた。
B.C.645管仲死後、開方は桓公に重用された。
B.C.633、6月、孝公が没すると、開方は公子を擁立した。
外丙(ガイヘイ)【皇帝】
商王朝3代王。大丁の弟。
『史記』では、湯王の長男の大丁がすでに亡くなっていたので、湯王の後を継いだとされる。
しかし後年発掘された甲骨文により、外丙は大丁のあとをついだ3代目の王であると考えられる。
開明(カイメイ)
叢帝
開明帝(カイメイテイ)【王】
蜀王。保子帝九世の孫。〜B.C.316。
初めて祖先の霊を祭るみたまやを建てた。
帝号をやめて、王と称した。
夢の中で城郭が移動するのを見たため、治所を成都に移した。
B.C.348秦孝公に挨拶の使者を送る。
B.C.316漢中に封じた弟の苴侯が巴王と友好関係を結んだため、これを討った。
苴侯が秦に救援を求め、秦は蜀に侵入した。開明帝はこれを阻んだが敗北し、武陽まで逃れたが、ここで殺される。
蓋余(ガイヨ)【公子】
呉の公子。〜B.C.513。
B.C.515楚平王の喪中に乗じて兵を率い六、灊を包囲する。しかし楚軍に退路を絶たれ、帰還できなくなった。 呉国内で公子光が王を弑して自立したと聞き、兵もろとも楚に降伏する。楚より舒に封じられる。
B.C.513闔閭に攻められ殺される。
解揚(カイヨウ)【武官】
晋の臣。字は子虎。霍の人。
B.C.619春、解揚は霊公に命ぜられて衛から攻め取った匡・戚を衛に還した。
B.C.608秋、晋と諸侯は楚と鄭の北林で戦ったが、解揚は楚に捕えられた。
B.C.595楚が宋を討ち、宋は晋に危急を告げた。
B.C.594晋はこれを救おうとしたが、伯宗が「楚はいまや天によって運を開かれ、 その勢いにはあたることができません」と言って反対した。そこで晋は壮士を求めて解揚を得た。そして解揚を宋に遣わして晋の援軍が来ると言わさせ、 実際には援軍を送らなかった。
その途中、解揚は鄭人に捕われて楚に送られてしまった。楚は解揚に手厚く賄賂をして、逆に晋は宋を助けにこないと言わせて、早く宋を下そうとした。
解揚は三度拒否した後、いつわってこれを承諾した。
解揚は車上に設けられた望櫓に登り、約束に背いて晋君から言いつかったことばを叫び「晋は宋を救いにきます。宋はどんな危急に迫られても、 慎重に構えて楚に降服しないように。晋の兵はもうすぐ到着しよう」と言った。
荘王は大いに怒って彼を殺そうとした。
解揚「わが君の命を奉じて出たからには、たとえわが身は死んでもその命を失墜することはいたしませぬ」
荘王「おまえがわしに約束しながら、たちまちこれに背いてどこに信義があるのか」
解揚「王に約束したのは、それでわが君の命を成し遂げたいと思ったからです」
解揚は死刑に臨んで楚軍の士卒たちに「人の臣下たるものは、忠義を尽くして殺された者のことを忘れてはならない」と言った。荘王は解揚を許して国に帰らせた。
晋は彼に爵位を与え上卿とした。
賈寅(カイン)【文官】
斉の臣。
B.C.542、5月、高子尾閭丘嬰を邪魔者であるとして殺した。 そのため閭氏の一族である賈寅、渻竈工僂灑孔虺は莒に出奔し、公子たちも国外に追放された。
華寅(カイン)【武官】
衛の臣。
B.C.522、6月29日、斉豹らが叛乱を起こしたとき、華寅は衛霊公は副車に乗った。 衛霊公は斉氏の門を通過するとき、華寅に命じて斉氏とは争わないという意味で、肌を脱がせて車の蓋いをはずした。 しかし斉氏は霊公をねらって矢を放ったため衛霊公は逃げ、華寅は追撃してくる者を防ごうとして郭門を内から閉じ、華寅自身は城壁を乗り越えて衛霊公の後に続いた。
華閲(カエツ)【宰相】
宋の宰相。右師。華元の子。〜B.C.556。
B.C.564春、宋に火災があった。華閲は子罕の命で右官を指揮した。
B.C.559春、呉が楚と戦って大敗したことを晋に告げてきた。 華閲は仲江と共に晋・魯・斉・衛・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と向で会合した。
冬、華閲は晋・魯・衛・鄭・莒・邾と戚で会合し、衛の公子の即位を認めた。
B.C.556、華閲は没した。
賈偃(カエン)【武官】
趙の臣。
B.C.274秦将白起に攻められて破られ、その士卒2万人を河中に沈められる。
賈華(カカ)【武官】
晋の臣。七輿大夫のひとり。〜B.C.650。
B.C.652晋献公の命で屈邑を討ち、公子夷吾を梁に出奔させる。
B.C.650晋恵公が即位すると郤芮は、 邳鄭と七輿大夫を殺した。
瑕嘉(カカ)
詹嘉
華亥(カガイ)【宰相】
宋の宰相。右師。華合比の弟。
B.C.536華亥は寺人と結託して華合比を追放して代わって右師となった。 向戌が「お前のような者はきっと滅びるだろう。お前は本家を滅ぼした。まして他人を滅ぼすことなど何とも思わないだろう。 そうすれば他人もお前を滅ぼすことを何とも思わないだろう」と言った。
B.C.533、1月、華亥は楚霊王、魯の叔弓、 衛の趙黶、鄭の子大叔と陳で会合した。
B.C.531秋、華亥は斉の国弱、晋の韓宣子、 魯の季平子、衛の北宮佗、鄭の子皮、 曹人、杞人と衛の厥憖で会合し、楚に攻められている蔡を救う相談をした。
B.C.522宋元公は信義がなく、華氏や向氏を嫌っていた。 そこで華亥は華定向寧と相談して 「座して死を待つより、乱をおこして逃げるほうがましだ」と言った。そこで華亥は病気になったと偽って、見舞いにきた公子たちを捕らえた。
6月9日、華亥は公子・公子御戎・ 公子・公子公孫援公孫丁を殺し、向勝向行を米倉に閉じ込めた。 宋元公は何も知らずに華氏の家に行って公子たちを釈放してほしいと申し出たが、華亥は逆にこれを脅迫した。
6月16日、華亥は太子と公子・公子を人質として取り、 宋元公もそれと交換に華亥の子華無戚と向寧の子向羅、華定の子華啓を受け取り、華氏と盟った。
宋元公の一味である公子城・公孫忌・楽舎・司馬彊・向宜・向鄭・楚の太子建・小邾の公子申が鄭に出奔した。華亥はこれらの家臣と鬼閻で戦ったが、 八公子の家来たちは敗れ、公子城は晋に出かけて救いを求めた。
10月、宋元公は華氏・向氏の人質を殺して二氏を攻めた。
10月13日、華・向の二氏は陳に逃げた。華亥は「君に背いて逃げ、そのうえ君の子を殺しては誰もわれわれを迎えてくれないであろう」と言って、 華牼に命じて公子たちを送り返した。
B.C.521、5月15日、華貙が叛乱を起こし、国外に逃れている人を呼び寄せた。
5月21日、華亥と向寧は国に戻った。楽大心豊愆・華牼がこれを横で防いだ。入国した華亥は南里の人々を率いて謀叛を起こした。
10月、華登が呉軍を率いて華亥を助けにきた。
11月7日、華亥は宋・晋・曹・斉・衛の連合軍と宋の赭丘で戦って大敗し、南里に包囲した。華亥は華貙を見つけて「わたしは晋の欒氏の二の舞をして死にましょう」と言った。 華貙は「からないなさるな。負けることになったら、その時逃げましょう」と言って、華登と連絡を取って楚に援助を求めた。
B.C.520、2月23日、楚の蔿越が宋に使者を送って謀叛人をもらいうけようと申し出たため、 華亥は向寧・華定・華貙・華登・皇奄・傷省・臧士平とともに楚に出奔した。
夏姫(カキ)【女官】
夏御叔襄老の夫人。鄭繆公の娘。 母は少妃姚子
夏姫は夏徴舒を生んだ。
夏姫は陳霊公孔寧儀行父と淫通した。
B.C.598冬、夏徴舒が叛乱を起こして霊公を弑した。楚荘王はこの乱に介入して夏徴舒を殺し、夏姫は楚に捕えられた。
楚荘王は夏姫を妾に迎え入れようとしたが、申公巫臣が「いけません。君は夏徴舒の罪を討たれたのに、 今、夏姫を妾に迎え入れれば、色をむさぼり美人を得るためであったということになります。君にはどうかお考え下さい」と諌めたので、 楚荘王は思いとどまった。
すると子反が夏姫を妻に娶ろうとしたが、巫臣は「この夏姫は不吉な人です。御叔を死なせ、霊公を弑し、 その子夏南(夏徴舒)を殺させ、孔寧と儀行父を出奔させ、陳を滅ぼしました。 こんな不吉な人はありません。世の中には美しい女は多い。何もこの人だけではありますまい」と諌めたので、子反も思いとどまった。
かくて楚荘王は夏姫を襄老に与えた。
B.C.597、6月、襄老が邲の戦いで戦死した。
夏姫は襄老の子黒要と淫通した。
巫臣は人を遣わして夏姫に「里の鄭に帰りなさい。改めてわたしが妻に迎えましょう」と言い、一方で鄭から夏姫を呼び寄せるようにさせ 「襄老のなきがらを求めるから、ぜひ帰ってきなさい」と楚に申し出させるようにした。そこで夏姫はこのことを楚荘王に報告すると、 楚荘王は巫臣に尋ねた。巫臣は「間違いないでしょう。荀首は晋の寵臣であり、 鄭の皇戌と仲良しです。 鄭に依頼して王子(公子穀臣)と襄老のなきがらを楚にかえして智罃の返還を求めたのでしょう」 と言ったので、楚荘王は夏姫を鄭に送り返した。
巫臣は鄭襄公に夏姫を迎え入れたいと申し入れ、襄公はこれを許した。
B.C.589陽橋の戦いのとき、巫臣は斉に使いし、家財を全部持ち出して出かけ、鄭に着くとみずからは夏姫をつれて鄭を去り、晋に亡命した。
華喜(カキ)【宰相】
宋の宰相。司徒。
B.C.576、6月、宋共公が没すると、 司馬蕩沢が宋の公室を弱体と見て公子を殺した。 右師華元はいったん出奔したが、魚石が引きとめたので宋に帰り、 華喜と公孫師に命じて国人を率いて蕩氏一族を攻めて蕩沢を殺した。
B.C.573、7月、華喜は老佐とともに楚に占領された彭城を攻め囲んだが、老佐が軍中で没したため勝つことができなかった。
何忌(カキ)【将軍】
楚の公子。司馬。
B.C.570陳が楚に背いて晋についたため、何忌は楚恭王の命で陳を討った。
夏姫(秦)(カキ)
夏太后
賈季(カキ)
狐射姑
瑕丘仲(カキュウチュウ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
甯の人。100余年間も薬を売っていたので、人々は長寿の人だと思っていた。地震があって仲が死んでしまったとき、彼の薬をそっくり横領して売ったものがあった。 すると仲はその男の家を訪れ、薬品を取り戻しにいった。男はびっくりして平身低頭して許しを乞うた。 仲は「お前がわしのことを他人に知らせてしまったことを残念に思うだけじゃ。わしは姿を隠すぞ」といい、どこかへ行ってしまった。
賈挙(カキョ)【宦官】
斉の宦官。
賈挙は斉荘公に笞刑を受けて懲らしめられたことがあったが、再び侍人をつとめていた。 賈挙は斉荘公に恨みを持ち、崔杼のために斉荘公を殺す隙をねらった。
B.C.548、5月、斉荘公が病気の崔杼を見舞ったとき、賈挙は斉荘公の従者を遮り斉荘公をひとりにして救援できないようにした。 斉荘公は崔杼の家臣に囲まれ弑された。
賈挙(カキョ)【武官】
斉の臣。〜B.C.548。
荘公の八人の勇士のひとり。
B.C.548、5月、斉荘公が崔杼に弑され、賈挙ら州綽邴師公孫敖封具鐸父襄伊僂堙は、 この内乱で討ち死にした。
華御事(カギョジ)【文官】
宋の臣。司寇。華督の孫。
B.C.617冬、楚穆王が蔡荘侯とともに厥貉に陣を敷き、宋を討とうとした。 華御事は「こちらから降参したほうがよろしいでしょう。こちらには実際に戦う力がありません。民には何の罪もありませんから、戦死させてはなりません」 と宋昭公に進言した。そこで昭公は穆王を迎え入れて、その労をねぎらい、楚の命令に従った。
夏御叔(カギョシュク)【文官】
陳の臣。公子の子。
夏姫を娶り、夏徴舒を生む。
瑕禽(カキン)【文官】
周王朝の臣。伯輿の大夫。
B.C.563周の卿士王叔陳生と伯輿が政権を争って周室が乱れた。 晋の范匃がこの騒ぎを治めることになった。瑕禽は王叔陳生の家老と王室の朝廷で対座して裁判に臨み、 范匃がそれをさばくことになった。
家老「くぐり戸から出入りするような賤しい者が上の者をしのぐことをしてはならない」
瑕禽「われわれの祖先の七姓の大臣が平王に従って祭りのいけにえを供えました。その子孫のわたしたちが賤しい者でしたら、 どうして周が東へ落ち着くことができたでしょう。今や王叔が宰相となってからは、政治が賄賂で行われているので、 政権にあずからないわたしどもは賤しい者にならざるを得ないではありませんか」
その結果、王叔陳生が晋に亡命し、単襄公が代わって王室の卿士となり、政治を執ることになった。
角(斉)(カク)【公子】
斉の公子。斉頃公の子。
B.C.574声孟子が斉霊公鮑牽高無咎を讒言しようとして 「高氏・鮑氏が君を都に入れないで公子角を立てようとしており、国子もその陰謀を知っています」と言った。
角(衛)(カク)【公子】
衛の公子。衛殤公の子。〜B.C.547。
B.C.547、2月7日、公子角は衛殤公とともに、衛献公に通じた甯喜に弑された。
格(カク)【公子】
楚の公子。
B.C.557晋の荀偃欒黶が軍を率いて進撃してきて楊梁の戦いの報復をした。 公子格は晋軍と湛阪で戦ったが大敗した。晋軍は勢いに乗じて楚の北境の方城山の地に攻め入って引き揚げた。
B.C.555冬、楚は鄭を討った。公子格は蔿子馮と共に精鋭を率いて費滑・胥靡・献于・雍梁に次々と攻め入り、 東に進んで梅山の麓をまわり、虫牢まで進撃して引き揚げた。
楽(ガク)【公子】
晋の公子。襄公の弟。母は懐嬴。〜B.C.621。
B.C.621襄公が没すると、太子が幼少であったので、公子楽は狐射姑に指名され 「楽の母辰嬴は懐公文公の二君に寵愛されました。 その子を立てれば、民は必ず安堵いたしましょう」と言われ、陳より招かれた。
しかしを擁立しようとする趙盾に郫で殺された。
華耦(カグウ)【将軍】
宋の将軍。司馬。〜B.C.611。
B.C.612、3月、華耦は魯を聘問して盟いを結んだ。華耦は属官を全部連れて行って、威儀を備え落度のないようにした。
B.C.611冬、没す。
郭栄(カクエイ)【文官】
斉の臣。
B.C.555、10月、晋が諸侯とともに斉を討ち、臨淄まで攻め入ってきた。
12月7日、東の外城と北の外城が焼かれた。斉霊公が馬を車につけて郵棠の地に逃げようとしたため、 郭栄は太子とともに馬のくつわをおさえてはありません。軽率な行動をすると多くの人々が離れます」と諌めた。
楽裔(ガクエイ)【文官】
宋の臣。司寇。
B.C.576、10月、右師華元蕩沢を討ち、桓氏は楚に亡命した。 華元は公子を擁立し、向戌を左師、老佐を司馬、 楽裔を司寇に任命して民を安心させた。
楽嬰斉(ガクエイセイ)【文官】
宋の臣。
B.C.594宋は楚に攻められ国都を包囲された。楽嬰斉は使者として晋に赴き援軍を請うたが、使者の解揚を遣わしたが、 晋は兵を出さなかった。
郭偃(カクエン)【文官】
晋の卜官。卜偃、郄偃ともいう。
占星術と占いに通じていた。
B.C.672晋献公史蘇の諌めを聴かずに驪戎を討ち、驪姫を得た。 郭偃は「晋は小諸侯でありますから、乱があっても三君から五君を越えないでしょう。わたしが君侯の奥方を観察しますに、かりに乱をしてもそれは農奴のようなものです。 肥沃な畑を得て、勤めて農耕しても、自分が食べることはできずに他人のために働くだけです」と予言した。
郭偃は「畢万の子孫はかならず強大になるだろう。万は満ち足りた数であり、魏は高大を意味する。高大な魏が、 満ち足りた万に初めて賞賜されたのである。天与の瑞兆であろう。その子孫はかならずや衆民を領有するであろう」と予言した。
B.C.658秋、虢公が戎を桑田で破った。郭偃は「虢は滅びるであろう。下陽を失ったばかりなのに、戎を破って手柄をたてた。 これは天が虢をうぬぼれさせるものである。5年とは続くまい」と言った。
B.C.655献公は郭偃に「虢を攻めるには、何月がよいか」と尋ねた。郭偃は「童謡に次のようにあります。…明け方に鶉火星が南中して、わが軍の勝利が完成し、 虢公が出奔する、と。鶉火星が南中するのは、9月と10月の間でしょうか」と答えた。
献公は冬、虢を滅ぼした。
B.C.650晋恵公申生を改葬したが、その時、悪臭が漏れたので、また民にそしられた。 郭偃は「君は共君(申生)を改葬して光栄と思ったのに、悪事がますます明らかになった。君の太子は滅びるだろう。 公子重耳が帰国するだろう」と予言した。
恵公は奚斉悼子を殺した罪を里克に着せて、 里克を殺した。しかし恵公は後悔して「芮(郤芮)がわしにこの重臣を殺させたのだ」と言った。これを聞いて郭偃は 「熟慮もせずに進言したのは冀芮(郤芮)である。考えもせずに殺したのは君である。熟慮せずに進言したのは不忠であり、考えずに殺すのは不吉である。 不忠は君の罰を受け、不吉は天の禍を受ける」と言った。
B.C.646、8月6日、沙鹿山が崩れた。郭偃は「一年の後に大きなとがを受けるであろう。おそらく国が滅びることであろう」と予言した。
B.C.637晋懐公は即位すると狐突を殺した。
郭偃は病気と称して出仕せず「周書に『君たる者が大いに明らかであれば民も心服する』とある。君が正しい正道を行わないで罪なき人を殺して自分勝手なことをしている。 そんなことでは、懐公の子孫が晋に栄えることはないであろう」と言った。
あるとき晋文公は「はじめわしは国を治めるのは容易だと思ったが、今になって困難なことが分かった」と言うと、 郭偃は「君が容易だと思えば困難がやって来ましょう。君が困難だと思えば容易になってくるでしょう」と答えた。
B.C.628、12月11日、晋文公が没した。
12月12日、曲沃で納棺の式を行うため、絳を出発したが、棺の中から牛の鳴き声のような声が聞こえた。郭偃は大夫たちに 「わが君が命ぜられた。やがて西国(秦)がわが国を通過する。これを討てば大勝するであろう」と言った。はたして秦軍が晋の郊野を通過した。
鄂王(ガクオウ)
熊紅
楽王鮒(ガクオウフ)【文官】
晋の臣。楽国の子。楽桓子ともいう。
B.C.552晋平公は欒盈を追放し、叔向をその一味として捕えた。 楽王鮒は「わたしがあなたの赦免を頼んであげましょう」と言ったが、叔向は返事もせず、帰るときにも感謝の礼もしなかった。叔向は家臣に 「楽王鮒はただ君の命に従うだけの人だ」と言った。晋平公が楽王鮒に叔向の罪を尋ねたので、 楽王鮒は「彼は身内を捨てない人ですから、羊舌虎と関係があるのかもしれません」と答えた。 祁奚;はこれを聞くと范匃とともに参朝したので、叔向は赦された。
知起中行喜州綽、 邢蒯が斉に出奔したので、楽王鮒は范匃に州綽、邢蒯を呼び戻すよう進言した。 しかし范匃は「かれらは欒氏の勇士です。わたしには役立ちません」と言った。楽王鮒は「欒氏のように待遇したらあなたの勇士となります」 と言ったが聴き入れられなかった。
B.C.550ある人が「欒氏(欒盈)がやって来た」と言ったので、范匃は驚いた。楽王鮒は「君(晋平公)をお守りして固宮に移られたら、 きっと安全です。それに欒氏には恨みを持つ人が多く、あなたは宰相として国政を執っておられます。欒氏は国外からやってきており、 あなたは宰相です。あなたの方に利があります。何を心配される必要がありましょう」と范匃を激励した。杞孝公の喪があったので、 楽王鮒は范匃に喪服を着用させ、ふたりの婦人のふりをして共に手車に乗って晋平公のところに行き、晋平公を連れて固宮に出かけて、欒盈の叛乱に抵抗した。
B.C.541虢の会盟のときに、魯の季武子が莒を討って鄆を占領し、 莒人が虢の会合に報告してきたので、楚人が怒って叔孫豹を捕らえようとした。 楽王鮒は叔孫豹に賄賂を出して許してもらうよう頼むべきだと勧めた。しかし叔孫豹はこれを断った。 そこで趙武が楚に許すよう諌めようとすると、楽王鮒は「誓い合ったばかりで、魯が盟に背けばどうして盟などする必要がありましょう。 盟に背いた者を許したりしたら、晋はどうして盟主となることができましょうか。必ず叔孫豹を殺しなされ」と言ったが、趙武は聴かなかった。 結局、楚人は叔孫豹を許した。
郭隗(カクカイ)【文官】
燕の臣。
昭王は賢人を招きたいと思い、郭隗に「斉はわしの国の内乱に乗じ、襲い掛かって燕を破った。わしは燕が小国で力が乏しく、 なかなか報復できないことを知っている。さりながら、もしも賢人を手に入れて国運を共にし、先王の恥をすすぐことができるなら、これこそわしの念願である。 先生にはどうか適任者をさがしてほしい。わしは身をもってその人に従おうと思う」と言った。郭隗は「王がどうしても賢士を招きたいと思し召すなら、 まず隗よりおはじめください。そうすれば、わたし以上の賢士がどうして千里の道を遠しとして来ないはずがありましょう」と答えた。
昭王は郭隗のために宮殿を改築して隗に師事した。その話を聞いて全国から楽毅、鄒衍、劇辛ら賢人が争って燕に赴いた。
郭開(カクカイ)【文官】
趙の臣。
廉頗は趙に罪を得て魏に出奔していた。趙悼襄王は廉頗を迎えようとして使者を出した。 郭開は廉頗と仇敵の間柄であったので、多額の金を使者に与えて買収した。そのため使者は「廉将軍は老いてますます健啖でありますが、 わたくしと対座している間に三度も便をもらしました」と報告したので、悼襄王はついに廉頗を召還しなかった。
B.C.229秦は王翦に趙を攻めさせたので、 趙は李牧司馬尚に防がせた。 秦は郭開に多額の金を与えて反間させ「李牧と司馬尚は謀叛しようとしている」と言わせた。 幽繆王はこれを信じて李牧を捕らえてこれを斬り、司馬尚を辞めさせた。
3ヵ月後、趙軍は破れ、趙は滅亡した。
楽欬(ガクガイ)【在野】
孔子の弟子。字は子声。
楽瑕公(ガクカコウ)【文官】
趙の臣。楽毅の一族の子孫。
趙が秦に滅ぼされようとした時、斉の高密に逃れた。
毛翕公より黄帝老子の書を学んだ。
楽瑕公はこれを楽巨公に教える。
楽間(ガクカン)【将軍】
燕、趙の将軍。昌国君。楽毅の子。
B.C.279燕恵王は楽毅を罷免して斉に破られたため、これを後悔した。
そこで燕恵王は人をやって楽毅を責め、かつ詫びた。楽毅も書簡をもってこれに応えた。そこで恵王は楽毅の子である楽間を昌国に封じて昌国君とした。
B.C.252燕王の命で、宰相栗腹は趙に使いして帰国すると、 「趙の民は長平で数多く戦死しており、その遺児たちはまだ年少です。討つなら今です」と進言した。
燕王は楽間を召してその可否を問うた。楽間は「趙はしばしば四方の敵と戦った国ですから、国民は戦争に習熟しています。討ってはいけません」と答えた。 燕王が「五倍の兵力ではどうか」と言っても「いけません」と答えた。燕王は大いに怒った。ほかの群臣はみなそれでよいとし、趙を討つことにした。
燕軍が趙に大敗すると、楽間は自分の意見が聴かれなかったので、趙に出奔した。
楽桓子(ガクカンシ)
楽王鮒
楽祁(ガクキ)【文官】
宋の臣。司城。子梁ともいう。子罕の孫。〜B.C.502。
B.C.520華氏の一族が楚に亡命したため、楽祁は司城に任命された。
B.C.517春、魯の叔孫婼が来聘した。叔孫婼は季孫のために宋元公の娘を迎えたいと言った。 翌日、酒宴を設けて楽しんだが、宋元公と叔孫婼は語り合っているうちに互いに泣いた。楽祁は宴席の助けをしていたが「今年、わが君と叔孫はともに亡くなるであろう。 楽しむべきことを悲しみ、悲しむべきことを楽しむのは、どちらも本心を失っています。魂魄がその身を去ってしまったら、どうして長らえることができよう」と言った。 来聘していた魯の季公若が曹氏に「(公女を季氏に)与えなさるな。 魯では季平子を追放しようとしています」と言った。宋元公は曹氏からこの話を聞き、さらに楽祁に話すと 「与えなさい。逆に魯君が国を出ることになりましょう」 と言った。
はたして宋元公と叔孫婼はこの年に没した。
B.C.504、8月、楽祁は宋景公に申し上げて「諸侯の中で宋だけが晋に仕えています。しかしこのごろは使者を遣わしていないので、晋はきっと恨んでいるでしょう」と言った。 楽祁は自分の家老の陳寅に同じことを話すと、陳寅は「きっとあなたが使者として遣わされるでしょう」と言った。 何日か経って宋景公が楽祁に「あなたの言うことはもっともなことだ。ぜひあなたが行ってくれ」と言った。陳寅は「後継ぎを立てて行かれるなら、万一のことがあってもお家がつぶれることはないし、 わが君にしてもあなたが難儀を承知で出かけるのだと思うでしょう」と言った。そこで楽祁は子の楽溷を後継ぎに立てて出かけた。
晋の趙鞅が迎えに出て緜上で酒宴を開いた。楽祁は范氏の家ではなく趙氏の家に宿泊し、趙鞅に楊の楯60を献上した。 范鞅は晋定公に「君命を受けてまだ任務を終えていないのに、非公式の宴を開いて酒を飲むとは、君を君と思わないやり方です」と言って楽祁を捕らえた。
B.C.502晋の趙鞅が晋定公に「諸侯のうち宋だけが晋に仕えています。しかるに今その使者を捕らえておくのはよくないことです」と申し上げると范鞅が「3年もの間、 捕えておいて何のわけもなしに帰したならば、宋はきっと晋に背くであろう」と言って、范鞅はこっそりと楽祁に「わが君は宋が背きはしないかと心配してあなたを引き留めたのです。 あなたのかわりに御子息をよこしてください」と言ったが、楽祁は従わなかった。そこで晋は楽祁を宋に帰そうとしたが、楽祁はその途中で没した。
楽毅(ガクキ)【将軍】
燕の将軍。昌国君。望諸君。楽羊の子孫。
楽毅は賢明であり、戦争が好きだったので趙で用いられた。
B.C.295沙丘の内乱(武霊王が餓死した事件)が起こったので、趙を去って魏に行った。
このとき燕昭王が見を屈して国土を重んじ、賢者を招こうとしているのを聞き、楽毅は魏昭王に、 自ら願い出て魏の使いとして燕に赴いた。
燕昭王は楽毅を賓客として待遇したが、楽毅は辞退して礼物を差し出して改めて燕の臣となった。昭王は彼を亜卿(上卿に次ぐ大臣)とした。
昭王が斉の討伐について問うと、楽毅は「斉は強大であり、単独で攻めるのは容易ではありません。王がどうしても斉を討とうとされるのなら、 趙・楚・魏と連合されるのがよいでしょう」と言った。
そこで楽毅は命じられて、趙恵文王を説き、楚・魏と連合し、また趙を使って秦を誘い込み、みなを合従させた。
B.C.284昭王は全兵力をくり出し、楽毅を上将軍とした。また趙は宰相の印綬を楽毅に授けた。こうして楽毅は五国趙・楚・韓・魏・燕の連合軍を統率して斉を討ち、 済西で斉軍を破った。
楽毅は退く斉軍を追撃して臨淄に迫った。斉湣王は逃げ出して莒にこもった。 楽毅はひとり留まって臨淄に攻め入り、斉の財宝・祭祀をことごとく奪って燕に送った。 昭王は大いに喜んで、自ら済水のほとりまで出かけ、功をねぎらい、楽毅を昌国に封じて昌国君と号した。
昭王はまた楽毅に命じて降服しない斉の城邑を討つように命じた。
楽毅は駐屯して斉を討伐すること5年、斉の70余城を下して燕に帰属させた。しかし、まだ莒と即墨だけは降服しなかった。
B.C.279燕昭王が没して、子の恵王が立った。恵王は太子のころから楽毅を快く思っていなかったので、 斉の田単は間諜を放って「楽毅は斉に居着いて、南面して王になる野心がある」と言わせた。恵王はこれを聞くと、 騎劫を代わりの将軍として楽毅を召還した。
楽毅は帰国すれば殺されると恐れ、趙に投降した。趙は楽毅を観津に封じて望諸君と号し、燕・斉を牽制した。
田単は騎劫と戦い、これを大いに破って失地をすべて回復した。
燕恵王は楽毅を罷免したことを悔い、人をやって楽毅を責め、かつ詫びた。楽毅も書簡をもってこれに応えた。 そこで恵王は楽毅の子楽間を昌国に封じて昌国君とした。 楽毅も燕と往来して、またよしみを通じ、燕・趙は彼を客卿とした。
楽毅は趙で没した。
楽頎(ガクキ)【武官】
魯の臣。
B.C.498夏、魯定公は孟孫・叔孫・季孫三家の都城を壊そうとした。まず叔孫氏が郈の城を壊した。
季氏が費の城を壊そうとすると、公山不狃叔孫輒は費の邑人を率いて魯を襲った。
そこで孔子申句須・楽頎に命じ、これを討って姑蔑で破った。
楽喜(ガクキ)
子罕
楽挙(ガクキョ)【文官】
宋の臣。
B.C.589、8月28日、宋文公が没した。
楽挙は華元と宋文公の葬儀を今までになく手厚いものとした。そのため世の君子に批難された。
楽巨公(ガクキョコウ)【文官】
趙の臣。楽毅の一族の子孫。
趙が秦に滅ぼされようとした時、斉の高密に逃れた。
楽瑕公より黄帝老子の書を学んだ。楽巨公は学を修得して斉に名が高く、賢師と称せられた。
楽巨公はこれを蓋公に教える。
楽祁犂(ガクキレイ)【文官】
宋の臣。司城。子梁ともいう。
B.C.515秋、楽祁犂は晋の范鞅、衛の北宮喜、曹の人、邾の人、滕の人と扈で会合した。 楽祁犂と北宮喜は魯昭公を都に入れることを強く願ったが、范鞅は季孫氏から賄賂を受けていたため 「魯君は斉にすがっているが3年経っても成功していない。ところが季氏は国の人望を得ており淮夷もこれに味方し、10年も支える備えがあり、 斉・楚の援助もあり、国を守り抜く決意がある。これを討って魯君を入れようとするのは難しいことだと思いますが、ご両人に従って魯を囲みましょう。 成功しなかったらいさぎよく死にましょう」と言った。楽祁犂と北宮喜は恐れて願いを取りさげた。そこで范鞅は他の小国にも話をして、 魯昭公を入れることは難しい旨を晋頃公に報告した。
楽懼(ガクク)【武官】
宋の臣。宋戴公6世の孫。
B.C.575夏、鄭の子罕が宋に攻め寄せた。 楽懼は将鉏とともにこれを宋の汋陂で破ったが、警戒を怠ったため鄭軍に襲撃されて打ち破られ、 将鉏は楽懼とともに鄭に捕らえられた。
虢鼓(カクコ)
虢石父(甫)
鄂侯(商)(ガクコウ)【王】
商王朝の三公のひとり。
三公九侯を殺したことで受辛を諌めたが、逆に殺されて脯(ほしにく)にされる。
鄂侯(晋)(ガクコウ)【王】
晋侯(13(14)代目)。名は郄。孝侯の子。〜B.C.718。
B.C.724曲沃の荘伯が孝侯を弑したため、代わって立つ。
荘伯が鄭と邢と共に攻めてきた。さらに周桓王が尹氏・武氏に命じてこれを援助したので、 鄂侯は随に出奔した。
B.C.718没す。
虢公長父(カクコクチョウホ)【王】
虢公。
厲王の臣。
虢公林父(カクコウリンポ)
林父
楽国(ガクコク)【文官】
晋の臣。楽王鮒の父。
楽溷(ガクコン)【文官】
宋の臣。楽祁の子。
B.C.504、楽祁が晋に遣いすることとなった。家老の陳寅が「後継ぎを立てて行かれるなら、 万一のことがあってもお家がつぶれることはないし、わが君にしてもあなたが難儀を承知で出かけるのだと思うでしょう」と言った。そこで楽祁は楽溷を後継ぎに立てて出かけた。 はたして楽祁は晋に捕らえられた。
B.C.502楽祁は晋で没した。
郭最(カクサイ)【武官】
斉の臣。
B.C.555、11月、斉軍は諸侯の軍と戦って大敗し、晋軍は勢いに乗じて斉軍を追撃した。夙沙衛は大車を並べ、 山あいの細道をふさいで敵軍の進路を絶って殿をつとめた。郭最と殖綽は「そなたがわが軍の殿をするなど、斉の恥だ。 しばらく先に行っておれ」と言って代わりに殿をつとめた。夙沙衛は腹を立て、馬を狭い道で殺して道を塞ぎ、ふたりの退路を絶った。
そのため郭最は殖綽とともに捕えられ、晋の中軍の進撃太鼓の下に座らされた。
あるとき斉荘公は朝廷に出て、郭最と殖綽のふたりを指さして「このふたりはわたしの勇士だ」と讃えた。
楽耳(ガクジ)【武官】
鄭の臣。
B.C.618楚穆王は鄭の狼淵に軍を進めて鄭を討ち、 楽耳は公子と公子とともに捕らえられた。 そのため鄭は楚と和睦することにした。
虢射(カクシャ)
虢射
楽舎(ガクシャ)【文官】
宋の臣。楽喜の孫。
B.C.522夏、華氏・向氏の騒動が起き、元公の一味である楽舎・公孫忌・公子司馬彊向宜向鄭・ 楚の太子・小邾の公子は鄭に出奔した。
虢叔(カクシュク)【王】
虢公。周文王の同母弟。
B.C.1023周王朝から虢に封じられた。この国は西虢と呼ばれる。
霍叔処(カクシュクショ)【王】
霍公(初代)。名は処。周文王の8子。
B.C.1050武王が商を滅ぼすと、霍に封じられる。
虢叔林父(カクシュクリンポ)【王】
虢公。
B.C.675周恵王は衛と燕に攻められて出奔しており、危急を鄭に告げた。
擁立された公子は三大夫と諸大夫をあつめて宴会を張り、六代の舞楽(王者の楽)を奏した。
厲公は虢叔林父に会って「司寇が死刑を執行すれば、君はそのためにご馳走をとりません。 まして禍を楽しむことをしましょうか。今、子頽は歌舞をして憂いを思わないそうです。一体、王を追い出して自分が即位するとは、 これより大きい禍がありましょうか。今こそ王を都へ入れようではありませんか」と言った。
B.C.674春、鄭厲公は周の王室の乱を治めようとしたが成功しなかった。
夏、厲公は恵王を奉じて鄭に帰り、恵王を櫟に居らせた。
秋、厲公は恵王とともに鄥に行き、進んで王城の東の成周に入り、周の宝器を取り出して鄭に帰った。
B.C.673春、虢叔林父は鄭厲公と鄭の弭で恵王を王城に入れる約束を固めた。
夏、虢叔林父は鄭厲公とともに王城を攻めた。厲公は恵王をつれて南門から攻め入り、虢叔林父は北門から攻め入り、 公子頽と6人の大夫を殺して、恵王を周に入れた。
郭縦(カクショウ)【在野】
邯鄲の商人。
鉄冶をもって業を成し、その富は王者と匹敵した。
楽霄(ガクショウ)【文官】
晋の臣。
B.C.514秋、祁氏・羊舌氏が滅び、その土地は10の県に分けられ、楽霄は銅鞮の大夫となった。 楽霄は卿の庶子の中でよく職分を守り父祖の務めを守る者であるためにであり、魏献子のお目にかかったからである。
楽乗(ガクジョウ)【将軍】
燕、趙の将軍。武襄君。楽間の一族。
B.C.257慶舎とともに秦の信梁を攻め取る。
B.C.252趙を討ったが、廉頗に破られ、楽乗は捕らえられる。
その後、趙に仕えた。
B.C.251軍功により武襄君に封じられる。
B.C.250廉頗とともに燕を討ち、薊を包囲した。
B.C.245趙孝成王が没して悼襄王が代わって立つと、 魏を攻撃中の廉頗を更迭して楽乗に交替させた。それを怨みに思った廉頗に攻められ、楽乗は逃亡した。
楽成(ガクセイ)【武官】
鄭、楚、晋の臣。
B.C.571楽成は楚に出奔した。
楽成は晋に亡命した。
B.C.543羽頡は晋に亡命し、 楽成をたよりにして趙武に仕えて鄭を討つ策を進言したが、趙武は聴き入れなかった。
楽正裘(ガクセイキュウ)【在野】
孟献子の友人。
楽正克(ガクセイコク)【文官】
魯の臣。孟子の弟子。姓は楽正、名は克。
平公が近臣の臧倉に進言で、孟子に会うことを取りやめた。 楽克は孟子に会うよう平公を説得したが、聴き入れられなかった。
あるとき浩生不害が孟子に「楽正子とはどんな人物でしょうか」と尋ねると、孟子は「彼は善人であり、信人である」と答えた。
楽正子春(ガクセイシシュン)【在野】
曾参の門人。
楽正子輿(ガクセイシヨ)【在野】
戦国時代の思想家。『列子』にみえる。姓は楽正。
楽正子輿は公孫竜を批判して「その行動にも先生はいないし、学問にも仲間がいない。 弁舌は達者だが道理にはずれ、博識だが基盤はなく、怪奇を好んで出まかせを言う」と言った。 これを聞いた公子は「智恵ある人の言葉は、愚か者にはとうてい理解できない」と反論した。
虢射(カクセキ)【武官】
晋の臣。カクシャともいう。
B.C.652里克が軍を率い、梁繇靡が御者、虢射が右となって狄を采桑で打ち破った。
梁繇靡が「狄を追撃すれば大勝するだろう」と言ったが、里克は「狄を脅すだけである。他の狄の報復を受けるようなことはすべきではない」と言って反対した。
虢射は「一年のうちに狄に攻められるだろう。こちらの弱さを見せてしまった」と言った。
夏、晋は狄に攻められた。
B.C.646秦に飢饉があり、穀物の買入れを請われた。晋恵公は河外の5城に命じて穀物を秦へ送らせようとした。 しかし虢射は「ただ敵を強くするだけです。与えないほうがいいでしょう。先年、天帝は晋を秦にお与えなされたのに、秦はそれを取りませんでした。 いま天は秦を晋にお与えになるのです。秦をお討ちなさいませ」と言った。一方、慶鄭は「いけません。秦の善意を忘れ恩徳に背けば、 必ず秦に討たれましょう」と言った。結局、恵公は虢射の進言に従って秦に穀物を供給せず、逆に出兵して秦を討った。
B.C.645秦との戦で、梁繇靡が韓簡の車を御し、 虢射が車右となって恵公の車に続いた。
韓原の戦いで、恵公の馬が泥土におちいったので、替わって右乗となるが、秦に破られて恵公は秦の捕虜となる。
虢石父(カクセキホ)【文官】
周の臣。名は鼓。字は石父(甫)。
幽王に仕える。
虢石父は人となりが佞巧にしてよく諛い、利を好む人物であったので国人はみな恨んだ。
B.C.777褒姒とともに太子宜臼を廃して、 褒姒の子伯服を太子とする。
楽遄(ガクセン)【宰相】
宋の宰相。司寇。
B.C.564春、宋に火災があった。楽遄は子罕の命で、刑具を備えた。
楽大心(宋)(ガクダイシン)【宰相】
宋の臣。右師。桐門右師ともいう。
楽大心は都城の北門(桐門)のそばに住んでおり、右師であったため桐門右師ともいう。
B.C.535晋の韓宣子が晋平公から州の田地を頂いたが、前に趙武と州を争ったことがあったため気にやみ、 楽大心に相談して結局、原と州とを交換した。
B.C.521、5月21日、華亥向寧が国に戻った。 楽大心は豊愆華牼とこれを横で防いだ。
B.C.520華氏の一族が楚に亡命したため、楽大心は右師に任命された。
B.C.517春、魯の叔孫婼が宋に来聘した。楽大心は叔孫婼と話をしたが、楽大心は宋の大夫たちをいやしみ、 本家の司城氏をさげすんだ。叔孫婼は「右師はきっと滅びるであろう。大夫をいやしみ、本家をさげすんでいる。これは自分自身をいやしむというものだ。 礼儀などあったものではない。礼儀がなければ必ず滅びる」と言った。
夏、楽大心は晋の趙鞅、魯の叔詣、衛の北宮喜、 鄭の子大叔、曹の人、邾の人、滕の人、薛の人、小邾の人と黄父で会合し、王室の乱について相談した。 楽大心は「わが国は周に穀物は送りません。宋は周にとっては客分です。どうして送る必要があろう」と言うと、 晋の士弥牟が「践土の盟いこのかた、宋は戦いに参加せず、盟いに同調しなかったことがありましょうか。 みなが王室を助けると言っているのに、どうしてあなただけが逃れることができましょう。あなたは君命を受けておりながら、あなたの国が盟いに背くなら、 まずいことではありませんか」と忠告した。楽大心は答えようとはせず、書きつけを受け取って退出した。士弥牟は趙鞅に「宋の右師はきっと滅びるでしょう。 盟いに背いて盟主にたてつこうとした。これより大きな不善はない」と言った。
B.C.501春、宋景公は楽大心を遣わして晋と盟い、晋で亡くなった楽祁のなきがらを迎え取らせようとした。 しかし楽大心が病気を理由に辞退したため、向巣を遣わした。子明は「わたしはまだ喪服をまとっているのに、 どうしてあなたは鐘をならして楽しんでいるのですか」と言ったため、楽大心は「なきがらがここにないからだ」と答えた。やがて楽大心は人に話して「喪服をつけておきながら、子を生ませている。 わたしはどうして鐘をならすのをやめる必要があろうか」と言った。これをきいて子明は立腹して、 宋景公に「右師(楽大心)はわが戴氏にとってためにならない。出かけることを断ったのは、やがて謀叛を起こそうとしているのです。病気でもないのに断るのはおかしなことではありませんか」 と言ったため、宋景公は楽大心を追放した。
楽大心(楚)(ガクダイシン)【文官】
楚の臣。監馬尹。
B.C.512呉の公子掩余と公子燭庸が楚に亡命してきた。楽大心はこれを出迎えた。
楽池(ガクチ)【宰相】
秦の宰相。趙の臣。
B.C.318秦の宰相となる。
B.C.315趙の武霊王に仕え、燕の公子職を韓から招いて、燕王に立てることとし、彼を燕に送った。
虢仲(カクチュウ)【王】
虢公。周文王の同母弟。
B.C.1023周王朝から虢に封じられた。この国は東虢と呼ばれる。
虢仲(カクチュウ)
林父
楽徴(ガクチョウ)【武官】
B.C.520閏月、楽徴・箕遺右行詭は先発隊に続いて周の前城を攻め取ってその東南に進み、 周王の軍は京楚に進撃した。
郭璞(カクハク)【神】
仙人。神仙伝に見える。
字は景純。河東の人。博学多識で天文地理・河図洛書・占卜予言・墓相家相などの奥義を窮めていた。王導について晋建国の制度を企画した。
王郭が反逆をくわだて、郭璞にその是非をたずねた。郭璞は反乱は成功しないと答えたため殺されてしまう。しかし後日、郭璞は見かけられたという。
『山海経』『夏小正』『爾雅』『方言』に注釈を加えたとされる。
楽轡(ガクヒ)【武官】
宋の臣。子蕩ともいう。
B.C.567楽轡は幼いころから華弱と親しかったが、華弱が楽轡をからかったので、楽轡は華弱の首を弓でおさえつけた。 宋平公はこれを見て華弱を追放した。司城子罕が「罪は同じで罰が違うのは公平ではない。 子蕩こそ華弱を朝で辱しめた。これより大きな罪はあるまい」と言ったので、楽轡は追放された。
楽轡は悔しさのあまり、子罕の門を弓で射て「まもないうちにお前もわたしと同じ目にあうだろう」と言った。
楽轡は後に帰国したが、また以前と同じように子罕と仲良くした。
楽輓(ガクバン)【文官】
宋の臣。大司寇。子罕の孫。
B.C.520華氏の一族が楚に亡命したため、楽輓は大司寇に任命された。
楽予(ガクヨ)【将軍】
宋の将軍。司馬。戴公の玄孫。
B.C.620、4月、宋成公が没した。公子が乱を起こし、太子を殺して自ら立ったが、 宋人に殺されたので、杵臼が擁立された。
昭公(杵臼)は穆公襄公の一族を追い払おうとした。 楽予は「それはいけません。公族は公室の枝とも葉ともいうべきもの。もしもこれを取り除くと、根もとを覆うものがなくなります」と諌めたが、昭公は聴き入れなかった。 そのため穆公と襄公の一族が国の人々を率いて昭公を攻め、公孫固と公孫鄭を公宮の中で殺した。
六卿たちが仲に入って昭公と公族たちの不和を取り持ち、楽予は司馬の官を辞して公子に譲った。
楽羊(ガクヨウ)【武官】
魏の臣。楽毅の先祖。
翟璜の推挙で魏文侯に仕える。
中山国を攻め、功によって霊寿に封じられる。
没して、霊寿に葬られたので、子孫も代々この地に定住した。
楽羊の子孫に楽毅がいる。
楽呂(ガクリョ)【文官】
宋の臣。司寇。宋戴公の曾孫。〜B.C.607。
B.C.609、12月、公子が没したので、楽呂は宋文公から司寇に任じられた。
B.C.607春、鄭が宋を討ったので、楽呂は華元とともにこれを迎え撃った。しかし宋軍は華元の軍の乱れにより大敗し、 楽呂は討ち死にした。
賈君(カクン)【女官】
申生の夫人。
B.C.650晋恵公(夷吾)が即位すると、繆姫は恵公に賈君の身を頼み、 さらに国外に逃げている公子たちを晋に呼び戻すよう言った。しかし恵公は賈君に淫通し、公子たちを呼び戻さなかった。
華啓(カケイ)【文官】
宋の臣。華定の子。〜B.C.522。
B.C.522、6月16日、華氏と向氏は叛乱をおこしたが、お互いに人質を出すことで盟いあった。 華啓は向羅華無戚とともに宋元公の人質となった。
10月、宋元公は人質を殺して華氏・向氏を討ち、華啓も殺された。
華牼(カケイ)【武官】
宋の臣。
B.C.521、5月21日、華亥向寧が国に戻った。華牼は楽大心豊愆とこれを横で防いだ。
夏齧(カケツ)【武官】
陳の臣。
B.C.519秋、呉が州来を討ったため、陳は頓・胡・沈・蔡・許とともにこれを救った。
7月29日、呉楚両軍は楚の雞父で戦った。呉軍の囚徒隊は逃げ走ったり踏み止まったりして連合軍を悩ましたため3国は乱れた。呉軍はそれにつけこんで3国の軍を破り、 夏齧は胡・沈の君とともに捕らえられた。
華元(カゲン)【宰相】
宋の宰相。右師。華御事の子。
B.C.607春、鄭の子家が楚の命令で宋に攻めてきた。華元は楽呂とともにこれを防いだ。
2月9日、華元は羊を殺して将兵にご馳走したが、御者の羊斟にはその名に羊があるということでご馳走を与えなかった。
2月10日、宋軍と鄭軍は大棘で戦ったが、羊斟が「昨夕の羊はあなたが自由にされたが、今日の兵車はわたしが思うままにできます」と言って、 華元を乗せたまま鄭軍に突入した。そのため宋軍は大敗し、華元は捕えられ、楽呂は討死し、兵車400乗、捕虜250人、斬り耳100個という損害となった。
宋は鄭に兵車100台と良馬400頭を贈物として与え、華元をもらいうけようとした。その半分が鄭に贈られた時、華元は逃げて宋に帰った。 華元は宋の城門の外に立ち止まり、名を告げて堂々と入って羊斟に会うと「お前の馬がああさせたので、お前の罪ではない」と言ったが、 羊斟は「いや馬ではありません。わたくしです」と答えて魯に出奔した。
B.C.595楚の申舟が通行の許可を得ずに宋を通過しようとした。華元はこれを捕らえて「通行の挨拶をしないのは、 楚はわが国を楚の領土扱いにしているのだ。領土扱いにされては、国が滅亡したのと同様であるし、楚の使者を殺せばきっと楚は宋を討つだろう。 いずれにしても滅亡することになる」と言い、申舟を殺した。
9月、楚は宋都を攻め包囲は7ヶ月に及んだ。
B.C.594、5月、楚軍は宋の郊外に家を作り、そこに引き下がって耕作して持久の計を取った。華元はこれを恐れて、 夜分ひそかに楚の将軍子反に会いに行った。華元は子反の寝台に上がり、子反を呼び起こして「宋は今や子どもを交換して食べあい、 使者の骨をくだいて炊事をしている有様です。どうか30里退却してください。そうすればどんなご命令にも従います」と申し入れた。子反は不意をつかれてびっくりし、 即座にその申し入れに従うと約束した。結果楚軍は子反の進言で退いた。
華元の身代りに公子囲亀が楚の人質となった。
B.C.589、8月28日、宋文公が没した。 華元と楽挙は文公の葬儀を今までになく手厚いものとした。そのため世の君子から批難された。
11月、華元は楚の将軍子重、晋の将軍欒書とも親しかったので、宋は晋と楚と双方に盟約した。
B.C.587春、華元は魯を聘問し、宋共公の即位の挨拶をした。
B.C.586公子囲亀が楚から帰国した。華元はその労を慰めかつ自分への恨みを和らげようと宴を開いた。公子囲亀が「これからは家を出るときも入るときも、太鼓を鳴らし、 ときの声をあげるようにしたい」と宋共公に願い出た。宋共公はなぜかと尋ねると、公子囲亀は「華氏を攻める練習のためです」と言った。 そのため宋共公は恐れて公子囲亀を殺した。
B.C.583華元は魯を訪れ、魯の共姫を宋共公の夫人として迎えた。
B.C.580冬、華元は楚に行き、また晋に行って、子重と欒書のつてで両国に和睦を結ばせた。
B.C.576、6月、宋共公が没した。そこで華元は右師となったが、 司馬蕩沢が宋の公室を弱体と見て公子を殺した。華元は「わたしは右師であり、 君臣の守るべき教えはわたしの司るところだ。これを正しく出来ないのはわたしの罪である」と言って晋に出奔した。
魚石が華元を引きとめようとしたが、魚府は「右師が引き返したらきっと蕩沢を討つでしょう。 そうしたら桓氏(桓公の子孫)は全滅するでしょう」と反対した。魚石は「右師は帰ることさえできたら、桓氏の恩を感じて蕩沢を討たないでしょう。 それに彼には大功が多いので、民は彼に味方している。彼が帰国できなければ、桓氏は宋の祖先の祭りができなくなるだろう。 もし右師が蕩沢を討っても向戌がいるから全滅はしないだろう」と言い、みずから華元を追って黄河のほとりで引きとめた。
華元は蕩沢を討たせてほしいと求めると、魚石がそれを許したので華元は宋に帰り、 華喜公孫師に命じて国人を率いて蕩氏一族を攻めて蕩沢を殺した。
魚石、大司寇向為人、少司寇鱗朱、 大宰向帯、魚府ら桓氏一族は都を出て雎水に行った。華元は引きとめようとしたが彼らは聴き入れなかった。
10月、華元はみずから出むいて出奔した桓氏一族を引きとめたが、聴き入れられなかったため引きかえした。魚府は「右師はほかのことを考えているにちがいない。 もし我らを戻す心がないなら、今ごろは馬を走らせているだろう」と言って眺めると、華元は馬を走らせていた。5人も馬を走らせて都に帰ろうとしたので、 華元は雎水の堤防を決壊して都を防備したので、5人は楚に出奔した。
華元は公子を擁立し、向戌を左師、老佐を司馬、 楽裔を司寇に任命して民を安心させた。
11月、華元は魯の叔孫喬如・晋の士燮・斉の高無咎・ 衛の孫文子・鄭の公子鰌・邾人と鐘離で会合し、初めて呉と国交をもち、 呉王寿夢と会合した。
B.C.575秋、華元は晋厲公・魯成公・斉霊公・ 衛献公・邾の人と宋の沙随で会合し、鄭を討つ相談をした。
7月24日、鄭の子罕に夜襲をかけられ、衛・宋・斉の陣地は乱れて潰滅した。
B.C.573、11月、楚が宋に攻め寄せてきた。華元は事態の急を晋に告げた。晋は諸侯と共に軍を発して宋を助けたので、楚軍は撤退した。
B.C.572、1月、華元は諸侯とともに彭城を包囲し、これを降した。
B.C.571、7月、華元は智罃孟献子・孫文子・曹人・邾人の戚で会合して、 鄭を討つ相談をした。
冬、華元は智罃・孟献子・崔杼・孫文子・曹人・邾人・滕人・薛人・小邾人と戚で会合し、虎牢に城を築いたので、 鄭は諸侯と和睦した。
華呉(カゴ)【文官】
宋の臣。華皐比の家宰。〜B.C.556。
B.C.556華閲が没した。華閲の弟華臣は華皐比の家を侮って、6人の賊を使役し、 賊は刀剣をもって華呉を向戌の家の後ろで殺した。
賈幸(カコウ)【文官】
晋の臣。右行幸ともいう。司空。
B.C.573悼公は即位すると、賈辛がよく計数に長じて仕事を計り、計画を成功させることを知って、賈辛を司空に任命した。
華牼(カコウ)【文官】
宋の臣。少司寇。華亥の兄。
B.C.522夏、華定・華亥・向寧が叛乱を起こしたが敗れて国外に亡命しようとした。 華亥は「君に背いて逃げ、そのうえ君の子を殺しては誰もわれわれを迎えてくれないであろう」と言って、華牼に命じて公子たちを送り返した。 華牼は公子を送り届けて、そこから立ち去ろうとした。宋元公はあわてて華牼に会い、その手を取って 「わたしはお前に罪のないことがわかりました。前の役に戻ってくれ」と言った。
娥皇(ガコウ)【女官】
の子。の妻となる。
舜が蒼梧の野で没すると、もう一人の妻の女英とともにかけつけ、悲しみの余り湘江に身を投げて死んだ。
夏侯章(カコウショウ)【在野】
孟嘗君の食客。
斉の人。
夏侯章は孟嘗君に礼遇されたが、口を開くたびに孟嘗君の悪口を言っていた。食客の董之繁菁が夏侯章にその理由を尋ねると、 夏侯章は「わが君はわたしに手柄もないのに手厚い待遇をしているという噂が立ちます。これこそわたしが自分の身を犠牲にしてわが君に尽くしていることなのです」 と答えた。
華皐比(カコウヒ)【文官】
宋の臣。華閲の子。
B.C.556華閲が没した。華閲の弟華臣は華皐比の家を侮って、賊を使って家宰華呉を殺し、その妻を幽閉した。
華合比(カゴウヒ)【宰相】
宋の宰相。右師。
B.C.536宦官のは宋平公のお気に入りであったが、 太子に憎まれていた。華合比は太子佐に「わたしが柳を殺しましょう」と相談したが、それを聞いた柳は穴を掘り、 いけにえを備えて盟いの書を埋めて、宋平公に讒言して「合比が国外に逃げた者を入れようとして盟いを結びました」と言った。宋平公は調べさせると、 その証拠があった。そこで華合比は追放され、衛に亡命した。
夏之御寇(カシギョコウ)【将軍】
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、夏之御寇は後陣の将となった。
華弱(カジャク)【将軍】
宋の臣。司馬。
B.C.567華弱は幼いころから楽轡と親しかったが、華弱は楽轡をからかったので、楽轡は華弱の首を弓でおさえつけた。 宋平公はこれを見て「司武(司馬)でありながら朝(役所)で首かせをかけられるようでは、その任に耐えない」と言い、 華弱は追放された。
夏、華弱は魯に出奔した。
華周(カシュウ)【武官】
斉の臣。〜B.C.550。
B.C.550斉は莒と戦ったとき、隘路で多勢の莒の君に出会った。莒の君は華周と杞梁とを殺せば大事に至ると考え、 贈り物を送って退くようとりはからった。しかし華周は「財貨を欲張って君命を破るのは、君もいやでしょう」と言って拒絶した。 そのため莒の君に追撃されて華周は戦死した。
華周の妻(カシュウノツマ)【女官】
兵士華周の妻。
夫の戦死を悲しみ哭する声が悲痛を極めたので、ついに一国の風俗がこれに感化されて、夫婦の間柄がみな善くなったという。
和叔(カシュク)【神】
の臣。
北方で冬の貯蔵や冬ごもりのことを司る。
瑕叔盈(カシュクエイ)【武官】
鄭の臣。
B.C.712鄭は斉、魯とともに許を討つこととなった。
7月1日、連合軍は許を討伐し、許の城壁に迫った。瑕叔盈は蝥弧(軍旗)を持って城壁を登り「わが君は登られたぞ」と叫んだ。 それを見て鄭軍は勇んで城壁を登った。
7月3日、連合軍は許城に攻め入り、許荘公は衛に出奔した。
柯相(カショウ)【王】
呉王。熊遂の子。
華椒(カショウ)【武官】
宋の臣。
B.C.597冬、華椒は晋の先縠、衛の孔達、曹の大夫と衛の清丘で同盟した。
荘王が蕭を攻めた。華椒は蔡の兵を率いて蕭を救援した。
河上丈人(カジョウジョウジン)【在野】
道人。
黄帝老子の学を安期生に教えた。
華臣(カシン)【宰相】
宋の宰相。司徒。華元の子。
B.C.564春、宋で火災があった。華臣は子罕の命により正規の人夫を準備させ、 隧正には郊外の小城の人々を集めて火事場に走らせた。
B.C.556華臣の兄華閲が没した。華臣は華閲の子華皐比の家を侮って、賊を使って家宰華呉を殺し、 その妻を幽閉した。宋平公はこれを聞いて「華臣のやつは本家を荒らしたばかりではなく、国の政治までも乱した。 必ず彼を追い出せ」と言った。左師向戌が「華臣も国の卿です。大臣が不順であるのは国の恥です。 隠して公表しないのが得策です」と進言したので、斉平公は華臣を許してそのままにした。
11月22日、宋人が狂犬を追ったところ華臣の家に逃げ込んだので、人々も侵入した。そのため華臣は恐れて陳に亡命した。
瑕辛(カシン)【武官】
甘の臣。〜B.C.530。
悼公の一味。
B.C.530甘悼公は甘成公・甘景公の一族を除こうとしたため彼らに殺され、瑕辛も市場で殺されてさらされた。
賈辛(カシン)【武官】
晋の臣。
B.C.520、12月8日、賈辛・荀躒籍談司馬督は、軍を率いて陰・侯氏・谿泉に軍を進め、前軍は社に陣を取り、さらに王の軍は氾・解に進軍し、その前軍は任人に陣を取った。
B.C.514秋、祁氏・羊舌氏が滅び、その土地は10の県に分けられ、賈辛は祁の大夫となった。それは賈辛が周の王室のために努力したためであった。 賈辛が任地に赴く前に魏献子に会いに行った。魏献子は「昔、鄭の鬷蔑は顔の醜い男であったが、 その声は大変美しかった。叔向はその声を聞いて『あれはきっと鬷明であろう』と言って堂をおり、 その手を取って親しんだといいます。今、あなたは王室に手柄を立てたので、引き上げたのです。さあ出かけなさい。今までの手柄を落とすことのないように」と言った。
華斉(カセイ)【武官】
衛の臣。
B.C.522、6月29日、孟縶が郭門の外で祭りを行ったとき、華斉はその御者となった。 このとき孟縶は斉豹に襲われて殺された。
賈佗(カタ)【宰相】
晋の宰相。胥臣、司空臼季、司空季子ともいう。司空。下軍の佐。襄公の太師。〜B.C.621。
賈佗は重耳の亡命に従い、晋君となることを助けた。
B.C.637重耳が秦に亡命したとき、秦繆公は5人の娘を重耳に嫁がせたが、 その中に懐公に嫁いだ懐嬴も入っていた。重耳が難色を示して賈佗に相談した。 賈佗は「今、わが主と圉(懐公)とは、道の上では赤の他人です。彼の棄てた女を拾って大事を成就することができれば、大変良いではありませんか」と進言した。 そこで重耳はこれを娶った。
重耳が自分の帰国を占うと、筮史が不吉であると答えた。しかし賈佗は「吉です。これは周易ではみな諸侯を立てるによろしいとあります」と判断した。
B.C.632郤縠が死んだので、先軫をその後任とし、 賈佗は先軫に代って下軍の佐となった。
この年、晋は城濮で楚と戦った。
賈佗は馬に虎の皮をかぶせ、まっさきに陳・蔡の軍を攻撃してこれを破ったため、陳・蔡の軍は敗走して楚の右軍は破れ、晋はこの戦いに勝利した。
あるとき文公は読書を賈佗に学んだ。3日目に文公は「わたしはとても行えないが、聞くことは多いなあ」と言った。 賈佗は「そうです。多く聞いて行うことのできる人を待てば、学ばないよりはましではありませんか」と言った。
あるとき文公は賈佗に言った。
文公「わしは陽処父を歓(襄公)の傅にしようと思うが、どうだろうか」
賈佗「それは太子本人にかかっています。性質がよくて、賢人が助け導くならば、必ず大成します」
文公「それでは教育は無益だろうか」
賈佗「どうしてそんなことがありましょうか。文教が性質を磨き上げるのです」
文公はそこで陽処父を傅とした。
賈佗は使節として出国し、途中で冀の郊外に泊まった。賈佗はその地で、男が草取りをして、妻が弁当を届けたが互いに賓客をもてなすように敬い合っていたのを見た。 賈佗は不思議に思い近寄って聞けば、郤芮の子の郤欠であった。
賈佗は郤欠を都に連れて帰り、使節の報告を済ませてから郤欠を推薦した。
文公「彼の父は、わしを殺そうとした罪があるが、それでもよかろうか」
賈佗「国の賢良は、前の罪は免除します。を死刑にしましたが、 その子を挙げて天子にしました。 斉桓公もみずからを殺そうとした管敬子を宰相に登用しました」
文公「何によって彼が賢人だと分かるのか」
賈佗「わたくしは、彼が敬を忘れないことを見ました。敬は徳の慎み深さです。徳を慎んで事を行えば、成就しないことがありましょうか」
ついに文公は郤欠に会って、彼を下軍大夫に任命した。
B.C.627賈佗は郤欠を推挙した功により、卿に任じて先茅県を与えられた。
B.C.626、5月、賈佗は先且居と共に衛を討ち、戚を包囲した。
6月9日、戚を陥落させ、孫昭子を捕えた。
B.C.621、襄公が没すると趙盾が国政を握り、陽処父と賈佗に案を授けて国の定法とすることとなった。
賈佗はこの年、没す。
夏太后(カタイコウ)【女官】
孝文王の夫人。秦荘襄王の生母。〜B.C.240。
夏太后(当時夏姫)は孝文王の寵愛を失って、その子の子楚(のちの荘襄王)は趙の人質となった。 子楚は呂不韋の謀略で孝文王の寵妃の華陽夫人に近づき、その養子となる。
B.C.251孝文王が没し、代わって荘襄王が即位すると、荘襄王は養母の華陽后を華陽太后とし、実母の夏姫を尊んで夏太后とした。
B.C.240、5月16日薨じる。
華多僚(カタリョウ)【武官】
宋の臣。華費遂の子。〜B.C.521。
華多僚は宋元公の近臣となった。
華多僚は兄弟の華貙と仲が悪く、これを讒言して「貙は国外に逃れている者を入れようとしています」とたびたび言った。宋元公は 「お前の父はわたしのためによい子(華登)を国外へ逃がした。わたしはまたその子(華貙)を逃がすようなことはできない」と言うと、 華多僚は「わが君が司馬(華費遂)を愛されるなら、お逃げになることです」と答えた。 そこで宋元公は追放されることを心配して華費遂の側役の宜僚を呼び寄せて華貙を追い払うよう華費遂に告げさせた。華費遂は嘆息して 「これはきっと多僚の讒言によるものだ。讒言をする悪い子(多僚)があるのに殺すこともできず、わたしも死ぬこともできずにこんな目にあった」と言い、 宋元公と相談して華貙を追放することになり、 孟諸で狩りをしてそこから追放することにした。
5月15日、華多僚は華費遂を車に乗せて出発する時華貙に出会った。 華貙の家来の張匄は立腹のあまり臼任鄭翩とともに華多僚を殺した。
河亶甲(カダンコウ)
戔甲
華貙(カチュ)【将軍】
宋の臣。少司馬。華費遂の子。子皮ともいう。
B.C.521華多僚が華貙を讒言して「貙は国外に逃れている者を入れようとしています」とたびたび言ったため、 宋元公は華費遂と相談して、孟諸で狩りをして、そこから華貙を追放することにした。 華貙の家来張匄が不思議に思って華費遂の側役の宜僚に剣を突き付けてわけを問いただすと、 宜僚は一切を白状した。
5月15日、華貙は出発するとき華多僚が華費遂を車に乗せているのに出会った。 張匄は立腹のあまり臼任鄭翩とともに華多僚を殺し、 華費遂をおどして謀叛を起こし、、国外に逃れている人を呼び寄せた。
5月21日、華亥向寧が国に戻った。
10月、華登が呉軍を率いて華亥を助けにきた。
11月、晋・曹・斉・衛が宋を助けに援軍を出した。
11月7日、華氏は諸侯の軍と宋の赭丘で戦い、大敗して南里に包囲された。華亥は華貙を見つけて「わたしは晋の欒氏の二の舞をして死にましょう」と言った。 華貙は「からないなさるな。負けることになったら、その時逃げましょう」と言って、みずから兵車15乗と歩卒70人を率いて敵軍を突き抜けて南里を出て、 睢水のほとりで、華登とともに食事をして、華登に命じて楚に援軍を請わせ、泣いて華登を見送った。華貙はそれから再び南里に入った。
B.C.520、2月23日、楚の蔿越は宋に使者を送って謀叛人をもらいうけようと申し出たため、 華貙は華亥・傷省・向寧・皇奄華定華登臧士平とともに楚に出奔した。
和仲(カチュウ)【神】
の臣。
西方の昧谷(甘粛)で日の入りを導き、秋の収穫のことを司る。秋分の日を標準として、老幼に強壮を助けることにさせた。
華仲(カチュウ)【武官】
衛の臣。
B.C.632、6月、衛成公が晋と和睦して帰国した。 華仲とセン犬甯兪に続いて、成公の前駆として都に乗り込んだ。
夏徴舒(カチョウジョ)【武官】
陳の臣。字は子南。夏御叔の子。母は夏姫。〜B.C.598。
母の夏姫は陳霊公孔寧儀行父と私通していた。
B.C.598冬、霊公が夏姫の家で酒を飲んでいたとき、孔寧・儀行父に戯れて「徴舒はおまえによく似ているぞ」と言うと、二人は「徴舒はお上にも似ておりますよ」 と言ってふざけあった。これを聞いた夏徴舒は怒り、厩の門に弩を伏せておいて、霊公を射殺し自立して陳公となった。
荘王はこれを聞き、諸侯の軍を率いて陳を討ち、夏徴舒は殺され、陳は一時滅ぼされた。
括(カツ)【公子】
魯の公子。武公の長子。
B.C.818武公が括と弟のをつれて参朝した。宣王は弟の戯を可愛がり、魯の太子に立てようとした。 樊仲山父が諌めて「目下の者が目上の者に仕え、年少の者が年長の者に仕えるのは、正道に従うといいます。正道に逆らえと教えれば、 諸侯はまねをして、王の命令は行われなくなりましょう」と言ったが、宣王は聴き入れず、戯を太子とした。
渇(カツ)【武官】
趙の公子。
B.C.318韓・趙・魏・燕・斉の諸国が匈奴を誘って秦を攻めた。秦恵文君は庶長樗里疾に命じ、 これと修魚に戦って、渇は敗れる。
葛嬴(カツエイ)【女官】
桓公の夫人。葛の公女。
葛嬴は公子を生んだ。
葛越(カツエツ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
病を治すことを得意とし、病人の体を診察しなくても姓名を聞くだけで治療することが出来た。ある日親戚知人に辞別して、竜に乗って去ったまま、 ついに二度と帰ってこなかった。
葛玄(カツゲン)【神】
仙人。神仙伝に見える。
字を孝先。左慈に師事して『九丹金液仙経』を授けられる。呉大帝が葛玄を接見し、彼を賓客として扱った。あるとき尸解して去った。
葛由(カツユウ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
成王のころ木の羊を刻んで売っていた。蜀にいたとき、王侯貴人たちが葛由のあとを追いかけていくと、みな二度と帰らず、 仙道を得た。
葛盧(カツロ)【王】
介の君。
B.C.631春、葛盧は魯に聘問した。魯釐公は会盟のため不在であったが、魯は礼をつくして対応した。
冬、葛盧は魯を聘問し、釐公は饗宴を開き、引き出物を与えて礼遇された。このとき、葛盧は牛の鳴き声を聞いて「この牛は三頭の子を産んで、 いずれも犠牲にされているでしょう」と言った。調べてみると、はたしてその通りであった。
華定(カテイ)【宰相】
宋の宰相。大司徒。華椒の孫。
B.C.544、6月、晋が杞の城壁工事をしたため、華定は命ぜられてこれに出かけた。 華定は高止とともに晋の智盈に面会したが、 智盈の介添をした女叔斉は「あのふたりはともに禍から逃れられないだろう。子容は自分勝手であり、 司徒(華定)はおごり高ぶっている。ともに家を滅ぼす者だ」と言った。
B.C.532、9月、華定は晋平公の弔問に出かけた。
B.C.530夏、華定は宋元公の命で魯を聘問し、宋元公が後を継いで即位したことを告げた。 魯昭公が宴を開き、蓼蕭の詩を歌ったが、華定はその意味がわからず、また答礼の詩も歌わなかった。 魯の叔孫婼は「華定はきっと身を滅ぼすであろう」と言った。
B.C.522宋元公は信義がなく、華氏や向氏を嫌っていた。 そこで華定は華亥向寧と相談して「座して死を待つより、乱をおこして逃げるほうがましだ」と言った。
6月、華氏と向氏は反乱を起こした。
10月、華氏と向氏は宋元公に攻められて陳に出奔した。
B.C.520、2月23日、楚の蔿越が宋に使者を送って謀叛人をもらいうけようと申し出たため、 華定は華亥・傷省・向寧・皇奄華貙華登臧士平とともに楚に出奔した。
華登(カトウ)【武官】
宋の臣、呉の臣。華費遂の子。
B.C.522夏、華定華亥向寧が叛乱を起こし、華登はこれにくみした。
10月13日、華氏・向氏の二氏は宋元公・華費遂に攻められて陳に逃げ、華登は呉に逃げた。
B.C.521、5月15日、宋の華貙が謀叛を起こし、国外に逃亡した人々を呼び寄せた。
5月21日、華亥・向寧が国に戻った。
10月、華登は呉軍を率いて華亥を助けに行った。
10月17日、呉軍は宋都を守っていた斉の烏枝鳴と宋軍に鴻口で敗れた。しかし華登は残兵を率いて宋軍を破ったため、宋元公は恐れて逃げようとした。 しかし烏枝鳴が決死の覚悟で戦ったため華登の軍は討ち破られ、新里でさらに破られた。
11月7日、華登は華貙と睢水のほとりで食事をして、楚に援軍を請うよう命じられた。
B.C.520、2月23日、華登の要求を受けた楚の蔿越が宋に使者を送って謀叛人をもらいうけようと申し出たため、 華登は華亥・傷省・向寧・皇奄華定・華貙・ 臧士平とともに楚に出奔した。
華娃(カトウ)【武官】
宋の臣。
B.C.521華氏・向氏の乱が起こった。華娃は新里で宋元公を助けていたが、 華氏との戦いが終わると、宋元公から授かった甲冑をぬいで宋元公に返した。
華督(カトク)【宰相】
 
宋の太宰、宰相。華父督ともいう。宋戴公の孫。〜B.C.681。
B.C.711華督は道で大司馬孔父嘉の妻を見たとき、その美貌に魅せられて、彼女を手に入れたいと思い、 「殤公即位後10年で11度も戦争をしている。これはみな孔父のしわざである。わしは孔父を殺して、 民を安楽させたいと思う」と宣伝した。
B.C.710孔父を攻め殺し、その妻を奪う。そこで殤公が怒ったので、殤公も弑し、公子馮を迎えて自分は宰相となった。
華督は鄭荘公との親善をはかった。
さらに華督は諸侯の歓心を得るために、魯桓公に郜の大鼎を賂として贈り、さらに斉・陳・鄭にも賄賂を贈った。
このようにして華督は諸侯の支持を得て、大宰として荘公を助けた。
B.C.681南宮万に殺される。
河伯(カハク)【神】
黄河の神。
『山海経』には、冰夷といい人の姿をして竜に乗るとあり、『穆天子伝』には、無夷といい、陽紆の山に都するという。また『抱朴子』には、馮夷といい、 8月のはじめの庚の日に黄河を渡って溺死し、天帝は彼を河伯としたとある。また『清泠伝』には、馮夷は華陰の潼郷隄首の人で、 八石(仙薬)を服して水仙となることができ、河伯となったとある。また『博物志』には、が黄河を見たとき、 背が高くて身体が魚になっている人を見て、その者が、自分は黄河の精であるといい、おそらく河伯であろう、とある。
あるとき河伯は変化して白竜となって水端で遊んでいると、羿に左目を射られた。 河伯は天帝に訴えて「私のために羿を殺してください」と言ったが、天帝は「おまえが竜に変化していたから射られたのだ」と答えた。 河伯は「私は時に変化して白竜となって出て遊ぶことがあるのです」と言ったが、天帝は「おまえが神霊を守れば、羿はどうしてこのようなことをしようか。 汝を獣とみれば、人の射られるところとなるのはあたりまえではないか。どうして羿に罪があろう。 また、おまえは洛水の神宓妃と交接しているではないか」とさとした。
河伯は黄河の神であったが、古くは河神といわれ、河伯と称するのは戦国以後のようである。『楚辞』にもたびたび登場する。
商王朝の先祖王亥の子上甲は、帥を河伯に借りて有易を討ち、 父の仇である緜臣を殺した。
華費遂(カヒスイ)【将軍】
宋の将軍。大司馬。
B.C.538冬、楚が諸侯とともに呉を討った。華費遂は楚に従って呉を討った。
B.C.522華氏・向氏の乱が起こった。宋元公は華費遂に依頼して華氏を攻めようとした。華費遂は「わたしは死を厭いませんが、 公子たちが殺されることを恐れます」と答えたが、宋元公は「子たちが死ぬも生きるも天命です。わたしはこの恥辱に耐えられないのだ」と言った。
10月、宋元公は華氏・向氏の人質を殺して二氏を攻めた。
B.C.521華多僚華貙を讒言して「貙は国外に逃れている者を入れようとしています」とたびたび言った。 宋元公は「お前の父(華費遂)はわたしのためによい子(華登)を国外へ逃がした。わたしはまたその子(華貙)を逃がすようなことはできない」と言うと、 華多僚は「わが君が司馬(華費遂)を愛されるなら、お逃げになることです」と答えた。そこで宋元公は追放されることを心配して、 華費遂の側役の宜僚を呼び寄せて華貙を追い払うよう華費遂に告げさせた。華費遂は嘆息して「これはきっと多僚の讒言によるものだ。 讒言をする悪い子(多僚)があるのに殺すこともできず、わたしも死ぬこともできずにこんな目にあった」と言い、宋元公と相談して華貙を追放することにして、 孟諸で狩りをしてそこから追放することにした。
5月15日、華費遂は華多僚とともに出発したとき華貙に出会った。華貙は華多僚を殺して、華費遂をおどして謀叛を起こした。
B.C.520華費遂は大司馬の職を解かれた。
華豹(カヒョウ)【武官】
宋の臣。〜B.C.521。
華豹は呂の国境を守る役人であった。
B.C.521、11月7日、華豹は公子が晋から宋に帰る途中に出会った。華豹は「城や」と大呼したため、公子城は腹を立てて引き返し、 矢を弓につがえようとした。華豹がすばやく矢を射ようとしたため公子城は祈ると矢は当たらなかった。公子城が矢をつがえようとすると、華豹がまた弓を引いたため、 公子城は「かわるがわるしないのは卑怯であるぞ」と叫んだため、華豹はつがえた弓を外した。そこで公子城が射たため、 華豹は倒れて死んだ。
嘉父(戎)(カホ)【武官】
無終山戎の長。
B.C.569冬、嘉父は晋の魏絳をたより、孟楽を使節として晋との講和を希望した。 晋悼公は魏絳の進言により、諸戎と親和した。
嘉父(晋)(カホ)【武官】
晋の臣。〜B.C.552。
B.C.552晋平公欒盈を追放し、欒盈の一味である箕遺黄淵・嘉父・司空靖邴豫董叔邴師申書羊舌虎叔熊を殺した。
(一説では箕遺・黄淵・嘉父は叛乱を起こして鎮圧されて殺されたとなっている)
家父(カホ)【文官】
周王朝の卿士。姓は家、字は父。
B.C.704周桓王の命で、家父はに王后を迎えるために魯に訪問した。
B.C.697、2月、桓王は家父を魯に遣わして、車を要求した。
家僕徒(カボクト)
夏父展(カホテン)【文官】
魯の臣。氏は夏父、名は展。宗伯。
B.C.670魯荘公は斉から哀姜を迎えた。
哀姜が嫁いでくると、魯では礼物の男女の別がなくなった。夏父展は故事にはないことであると諌めたが、荘公は「君主が行えば、それが故事になるのだ」と言って聞かなかった。 夏父展は「道に従えば故事となりますが、道に逆らえば、その無道を記録します。 わたくしは君の無道が後世まで記録されることを恐れます。男女の別は国家の大きな礼節であり、無しでは済まされません」と言ったが、やはり聴き入れられなかった。
華父督(カホトク)
華督
夏父弗忌(カホフツキ)【文官】
魯の臣。宗伯。
B.C.624、8月、蒸祭を行った。夏父弗忌は先君釐公を新しく廟におさめ、釐公の前の湣公の上に祭った。 宗伯の役人が昭穆の廟制に正しくないと言ったが、夏父弗忌は「徳の明らかなものを昭とし、その次を穆とするのだ」と言った。 役人は「下の者が上の者を乗り越えることを恐れます。商と周の蒸祭において、いまだかつて文王武王とを祖先の上に祭らないのは、順序を越えるからです。魯はまだ商と周に及ばないのに、その常道を改めるのは、 よくないことではないでしょうか」と言ったが、夏父弗忌はこれを聞かず、ついに釐公を上位においた。
夏父弗忌が没して、埋葬の時になって棺槨が燃え、煙が墓の上まで出てくる異常があったという。
華無戚(カムイ)【文官】
宋の臣。華亥の子。〜B.C.522。
B.C.522、6月16日、華氏と向氏は叛乱をおこしたが、お互いに人質を出すことで盟いあった。 華無戚は向羅華啓とともに宋元公の人質となった。
10月、宋元公は人質を殺して華氏・向氏を討ち、華無戚も殺された。
夏無且(カムショ)【文官】
秦の臣。侍医。
B.C.227荊軻が秦王を殺そうと切りかかったので、秦王政はあわてて剣が抜けなかった。 群臣は宮殿にあがる時は武器を帯びることを許されていなかったので、殿上にのぼれなかった。荊軻は秦王政を追いまわしたため、夏無且は薬嚢を荊軻に投げつけた。
荊軻がひるんだ隙に、左右の者が「王よ、剣を背負われませ」と言ったので、王は剣を背負い、ついに抜いて荊軻を打ち、荊軻を斬ることができた。
夏無且はこの功で黄金200鎰を賜り「無且は我を愛して薬嚢を荊軻に投げつけた」という勅語があった。
華免(カメン)【武官】
斉の臣。
B.C.573、1月29日、華免は斉霊公の命により国佐を戈で殺した。
下門子(カモンシ)【文官】
周王朝の臣。
太子猛(悼王)の太傅となる。
景王に殺される。
夏陽(カヨウ)
少梁
華陽君(カヨウクン)【公子】
秦の公子。名は悝。〜B.C.262。
B.C.291鄧に封じられる。
華陽君(カヨウクン)
羋戎
華陽后(カヨウコウ)
華陽夫人
夏陽説(カヨウセツ)【武官】
晋の臣。
B.C.585、3月、宋が前年の会合を拒否したため、夏陽説は伯宗、衛の孫良夫、 衛の甯相、鄭人、伊雒の戎、陸渾の蛮氏が宋を侵略した。晋軍が衛の鋮に進軍したとき、衛人は守りをかためていなかった。 立腹した夏陽説は「衛都に攻め入れないとしても、捕虜を大勢連れて帰れば、死刑にはならないだろう」と衛を急襲しようとしたが、伯宗に諌められて取りやめた。
華陽夫人(カヨウフジン)【女官】
孝文王の夫人。
孝文王に寵愛されたが、子がなかった。
呂不韋は持参した品を残らず華陽夫人に献上して、子楚が賢明であり、華陽夫人をしたっている旨を告げた。
また、呂不韋は華陽夫人の姉を使って「いま夫人には子供がありません。どうして今のうちに諸公子で賢明な孝行者と親しくて、世継として養子にされないのですか。 夫の亡き後も養子が王となれば、勢いを失うことはありません」と言わせた。
華陽夫人はもっともに思い、安国君(孝文王)に「子楚という趙の人質になっている子は非常に賢明です」と言い、子楚を養子にしたいことを伝えた。 そこで太子安国君はこれを許した。
安国君と華陽夫人は、子楚に手厚く仕送りをし、呂不韋に後見を請うたので子楚の名声は列国に高まった。
B.C.252昭襄王が没し、太子安国君が代わって立ち、華陽夫人は王后となった。
B.C.251孝文王が没し、代わって子楚が位に即いた。そして荘襄王(子楚)は養母の華陽后を華陽太后とした。
瑕呂飴甥(カリョイセイ)
呂省
柯盧(カロ)【王】
呉王。余橋疑吾の子。
奐(カン)【公子】
韓の太子。
B.C.318韓・趙・魏・燕・斉の諸国が匈奴を誘って秦を攻めた。秦恵文君は庶長樗里疾に命じ、 これと修魚に戦って、奐は敗れる。
奐(カン)【武官】
秦の臣。庶長。
B.C.301楚を討ち、首級二万を斬る。
B.C.298楚を討ち、8城を取り、楚将景快を殺す。
敢(カン)【文官】
趙の筮史(占筮の官)。
B.C.263孝成王が偏トクの衣(背縫いで左右色を異にした衣)を着て飛竜に乗り、天に上ろうとして途中で墜落し、 金玉が山のように積まれている夢を見た。
敢を招いて占わせると「夢で偏トクの衣を着るのは不全の意味であり、途中から墜落するのは、気だけあって実のないこと、 金玉が山のように積まれているのは禍いである」と占った。
B.C.260趙は上党を韓から譲られたが、そのため秦に攻められ上党と兵40万を失ってしまう。敢の占いどおりとなったのである。
緩(カン)【文官】
秦の医者。
B.C.581晋景公が病気となり、秦に医師を依頼したので、秦桓公は緩を晋に遣わした。
緩が到着する前に景公は、その病気が二人の子供になって話をしている夢を見た。
「緩は名医だ。われわれを苦しめるであろう。どこに逃げようか」
「肓(横隔膜の上)の上で膏(心臓の下)の下におれば、どうすることもできまい」
やがて緩が到着して診察して「病気は治すことができません。すでに膏肓に入ってしまっており、針もとどかず、薬もとどきません」と言った。
景公は「名医である」といって手厚い礼遇をして帰した。
このエピソードから、手遅れであることを「病膏肓に入る」というようになりました。
翰(カン)【王】
虢(小虢)公。
B.C.771周幽王が犬戎に殺されると、翰は幽王の子の余(携王)を擁立する。
貫(カン)【文官】
周王朝の臣。原伯。
B.C.635周襄王は原の地を晋に与えた。 そこで晋文公は貫を翼に移して、趙衰を原伯とした。
環(カン)【公子】
周王朝の王子。〜B.C.520。
B.C.520、6月17日、単穆公が周悼王を王城から自分の家に連れて帰ったため、 王子環はこれを奪い返した。
単穆公が都を出奔したため、王子環は周悼王を守って単穆公を追って領まで行った。王子環は召荘公と相談して「単旗(単穆公)を殺さなければ勝てない。 彼と盟うといつわって来たら殺しましょう」と言った。召荘公はこれに従った。 これを聞いた樊頃子は「士君子の言うべき言葉ではない。きっと勝てないだろう」 と言った。そして王子環は単穆公を都に呼び戻して殺そうとして、周悼王を奪ったことを摯荒のせいにしてこれを殺した。 しかし単穆公は計画を見抜いて戻ってこなかった。
6月20日、単穆公が平畤に逃げたため、王子環は諸王子とこれを追ったが、逆に殺された。
鱄(カン)【公子】
衛の公子。衛定公の子。
奐(カン)【王】
召伯。
B.C.519、6月20日、召伯奐は南宮極とともに成周の人を率いて尹を守った。
ガン(ガン)【公子】
呉の公子。
B.C.521、10月17日、公子ガンと偃州員は斉・宋軍に鴻口で破られ、捕虜となった。
韓イ(カンイ)【宰相】
韓の宰相。
韓王に仕える。
罕夷(カンイ)【武官】
晋の臣。
B.C.660冬、申生に東山の皋落狄を討つように命令が下り、狐突が申生の御者となり、 先友がその右乗となり、梁余子養が罕夷の御者となり、 先丹木がその右乗となり、羊舌大夫が軍尉となった。
罕夷は「たとえ国に帰ることができたとしてもどうにもなりません。君には何か悪心を持っておられる」と言った。
そこで狐突が申生を連れて逃げ去ろうとしたが、羊舌大夫がこれを諌めたので、申生は戦いを決意し、狄を破った。
顔懿姫(ガンイキ)【女官】
霊公の夫人。魯の公女。
顔懿姫は斉霊公に嫁いだが、子がなかった。
管于奚(カンウケイ)【文官】
斉の臣。
管于奚は魯を追放された公孫嬰の母を娶り、一男一女を生んだ。
観射父(カンエキホ)【文官】
楚の臣。
昭王は観射父に尋ねた。
昭王「周書にある『重黎が実に天地を行き来できなくさせた』というのは、どういう事なのか。もしそうしなかったら民は天に登れたのか」
観射父「そうではありません。太古は民と神が交じり合わず、上下を見通す賢明さがあり、よく聞き窮める聡明なものがおりました。 顓頊がその後をうけてに命じて、天をつかさどって神を管理させ、 に命じて、地をつかさどって民を管理させ、旧法を回復して神と人が相犯し汚さないようにさせました。
その後、重黎氏は代々天地を秩序立てたのです。周の宣王のときになると、天地を分けさせる官がなくなったのです」
あるとき司馬子期平王を祀り、いけにえの肉を昭王に届けた。昭王は観射父に尋ねた。
昭王「祭祀の犠牲は何を用いるのか」
観射父「天子は大牢を用い、諸侯は牛を用い、卿は少牢を用い、大夫は豚だけを用い、士は魚を焼いて食べ、庶人は野菜を食べます」
昭王「犠牲の大きさはどうか」
観射父「天を祀る郊祭の大きさは、まゆか粟に過ぎませんし、大祭でもひとにぎりに過ぎません」
昭王「何と小さいことか」
観射父「神は精明な心で民に臨むものですから、豊大なことは要求しません。また恭敬は長続きできず、民の力は堪えません。それゆえ、敏速に供えるのです」
昭王「犠牲を清浄に飼育する期間はどのくらいか」
観射父「長くとも3ヶ月に過ぎませんし、短いものは10日を出ません」
昭王「祭祀は止められないか」
観射父「祭祀は孝行を明らかにし民を繁殖させて、国家を鎮撫し、百姓を安定させる道ですから、止めることはできません。祭祀は上は民に敬虔の心を教える道であり、 下は目上に仕えることを明らかにする道です」
昭王「一純・二精・七事とは何か」
観射父「衣冠を正して邪悪ない心で祭祀に臨んで神に対してうしろめたい気持ちがないのを一純と言い、玉と帛とを二精と言い、天と地と民と四季の職務を七事と言います」
昭王「三事とは何か」
観射父「天の事は武であり、地の事は文であり、民の事は忠信です」
昭王「百姓・千品・万官・億醜・兆民・経入・畡数とは何か」
観射父「民の自分の名によって上部に通達できる官を百姓といい、一姓ごとに属官が十品あるので千品といい、天地神民物の五官には輔佐の官があって千品とすれば、 万官になります。官ごとに十種類あって億(十万)醜となります。天子の農地は九畡(十億)あって、兆(百万)民を養います。王は経(千万)の税収入を取って、 万官を養います」
環淵(カンエン)【在野】
稷下の学士。楚の人。
環淵は黄老の道徳の学を学び、自らの主旨を叙述した。
環淵は稷下に邸宅を授かり、議論を戦わせた。
管燕(カンエン)【文官】
田斉の臣。
管燕は斉王の咎めを受けたので斉を去ろうとし、左右の者に同行する者がないか尋ねた。しかし誰も答えるものがいなかった。管燕は涙を流して 「士とは得るは易く、使うは難いものである」と歎くと、田需が答えて「重んずべき士を軽んじて、 軽んずべき財を重んじたためである」と言った。
顔淵(ガンエン)
顔回
桓王(カンオウ)【皇帝】
周王朝14代王。名は林。洩父の子。〜B.C.697。
B.C.720、3月25日、平王が没し、桓王は即位した。
桓王は鄭との誓いを破って虢公に周の政治を取らせようとした。
4月、怒った鄭荘公に攻められ、温の麦を刈り取られる。
秋、鄭に攻められ、成周の粟を刈り取られる。
曲沃の荘伯は鄭と邢と共に宗家の翼を討った。そこで桓王は尹氏・武氏に命じてこれを援助したので、 晋鄂侯は随に出奔した。
そこで桓王は鄂侯の子光(哀侯)を立てたが、荘伯は王命に従わず、更に翼に攻め入り、光を国外に放逐した。
B.C.718秋、桓王は虢公に命じて曲沃を討たせて、哀侯を都の翼で即位させた。
B.C.717冬、周で飢饉となり、桓王は魯隠公に食糧難であることを告げた。隠公はそれを救うために、 宋・衛・斉・鄭に対して穀物の買い入れを申し込んだ。
鄭荘公が入朝したが、先年、鄭が温の麦を刈り取ったことを恨んで、桓王はこれを礼遇しなかった。 周桓公が「周室が東遷したとき、晋と鄭の二国を頼りとしました。 鄭とは仲良くすべきです。礼遇しなければ、もうやってこないでしょう」と諌めたが、桓王は聴き入れなかった。
B.C.715鄭は怒って魯と許の田を変えた。
B.C.714春、桓王は南季を魯に遣わした。
この年、宋が周室に対する職貢を怠ったので、周は鄭に命じてその罪を責め正すとして宋を討たせた。
B.C.712桓王は鄔・劉・蔿・邘を鄭から取り上げて、 その代償として温・原・絺・樊・隰郕・欑茅・向・盟・州・陘・隤・懐を鄭に与えた。 君子は「周王はやがて鄭を逃がしてしまうであろう」と評した。
B.C.708桓王は周の宰渠伯糺を魯に遣わした。
冬、桓王は秦軍とともに魏を攻め囲み、芮伯を捕えて連れ帰った。
B.C.707夏、桓王は仍叔の子を魯に遣わした。
桓王は鄭荘公の政権を奪ったので、荘公は怒って周に参朝しなくなった。
秋、桓王は陳・蔡・虢・衛の兵を率いて鄭を討った。桓王は中軍を率い、卿士の虢公林父は右軍の将となり、 蔡・衛の軍はそれに付いた。周桓公は左軍の将となり、陳の軍がそれに付いた。
鄭の公子子元は「陳は乱れて、その民は戦う心がありません。真っ先に陳の軍を攻め立てたら、逃走するでしょう。 周王の軍はそれを見たら、きっと乱れるでしょう。そこを集中攻撃すれば、事は成功いたします」と進言したので、鄭荘公はそれに従った。
鄭荘公は曼伯に右軍を、祭仲に左軍を率いさせ、 原繁高渠弥に中軍を率いさせて自らを守らせ、魚麗の陣をつくり、 兵車を前に歩兵を後ろにして、鄭の繻葛で戦った。
鄭の左右軍は連合軍の左右の軍を破り、桓王の軍も乱れた。そこで鄭軍は集中してこれを攻撃したので、桓王の軍は大敗した。(繻葛の戦い)
この戦いで桓王は鄭の臣祝瞻に弓で射られた。祝瞻は追撃を請うたが、鄭荘公は 「長上を犯すことさえはばかりがあるのに、ましてや天子をしのごうとするのはよくない」と言って、追わせなかった。 その後、祭仲をつかわして王の傷を見舞わせた。
B.C.705夏、盟・向の2邑が鄭に和睦を申し込んだが、間もなく鄭に反した。
秋、鄭荘公が斉・衛とともに盟・向を征伐した。桓王はそのため盟・向の民を畿内の郟に移した。
B.C.704桓王は家父を魯に遣わして、王后を迎えるために来朝させた。
冬、小子侯が曲沃武公に殺されたので、 桓王は虢公林父に命じて晋哀侯の弟湣侯を晋の君に立てる。
B.C.702春、虢公林父が大夫の詹父を讒言した。しかし詹父はそれを弁明することができたので、周は軍を率いて林父を討った。
夏、林父は虞に出奔した。
B.C.697、2月、桓王は家父を魯に遣わして、車を要求した。
3月11日、崩御する。
簡王(周)(カンオウ)【皇帝】
周王朝22代王。名は夷。定王の子。〜B.C.572。
B.C.586、11月14日、定王が崩御したため、公子夷は即位した。
B.C.583、7月、簡王は召桓公を遣わして、魯成公の即位を認める天子の辞令を賜わった。
B.C.580周公が周恵王襄王の一族が権力を得ているのをにくみ、 また卿士伯子との政権争いに負けたため、周を出奔しようと晋の陽樊まで行った。 簡王は劉子を遣わして周の鄄邑で盟いを立てて周公楚を周に帰らせたが、3日経つと晋に出奔した。
B.C.578魯の叔孫喬如は周王からの賜賞を期待して、 請願して魯成公を周に訪朝させるようにした。王孫説が「王に謁見する礼物が粗末で、言葉はへつらっています。 おそらくは来朝したくて自分から請願したのでしょう。王は下され物をなさいますな。もし乱暴者の欲望を満足させるなら不善を賞することになります」と言った。 そのため簡王は叔孫喬如に物を与えなかった。
その後、簡王は諸侯の朝見を受けたが、魯成公の介添役孟献子に謙譲の徳があったため、簡王は彼らに厚く贈り物をした。
B.C.572、9月15日、簡王は没した。
B.C.571、1月、簡王は葬られた。
簡王(楚)(カンオウ)【王】
楚王(14(30)代目)。名は中。恵王の子。〜B.C.403。
B.C.431北伐して莒を滅ぼす。
甘過(カンカ)【武官】
周王朝の臣。
B.C.543、5月5日、甘過は劉毅単蔑尹言多鞏成らとともに公子佞夫を殺した。
顔何(ガンカ)【在野】
孔子の弟子。字は冄。
顔回(ガンカイ)【在野】
孔子の弟子。字は子淵。顔無繇の子。魯の人。B.C.521〜B.C.492。
うす汚くて狭い路地裏に住んで、一日に一椀の飯と一瓢の飲物という質素な貧乏生活をしても変わらず平気で、聖人の道を楽しんでいた。
貧乏で食事にも困ることがあったが、道を楽しんだ。
頭髪が白く、若死にしてしまう。
孔子は顔回を評して「学を好み、怒を人に移さず、過ちを二度繰り返さぬ男でしたが、不幸にも短命で死にました。いまでは他に学を好むという者はおりません」と言った。
顔噲(ガンカイ)【在野】
孔子の弟子。字は子声。
韓簡(カンカン)【武官】
晋の臣。韓万の孫。
B.C.645秦が晋を攻めた。梁繇靡が韓簡の車を御し、 虢射が車右となって晋恵公の車に続いた。
恵公は韓簡に秦軍を視察させたところ「戦闘意欲は盛んです。秦は君の帰国を手助けし、飢饉には穀物を輸出したのに報いがありません。秦には怒らない者はおりません」 と言った。恵公は「わしが攻撃をしなかったら必ず威張るに違いない。ひとりでも威張らせてはならぬ」と言った。
恵公は韓簡を使者として挑戦させた。韓簡は秦繆公に「昔の君の恩をわたくしは決して忘れてはおりません。 君がお帰りくださるのが、わたくしの願うところです。君がもし帰られないならば、わたくしも逃げ隠れはしません」と言った。繆公は「もはや晋君の位も安定したであろう。 隊列を整えられよ、戦場でお目にかかろう」と答えたので、ついに決戦することとなった。
韓カン(カンカン)【在野】
韓の子孫。
B.C.230韓が秦に滅ぼされると、韓カンは長江や淮河流域各地を放浪した。
寒い季節に韓カンが河を渡ろうとした時、渡し場を守る秦兵に姓名を問い詰められた。韓カンは恐怖のあまり返事もできず、 河の水を指差して水の寒(ハン=韓と同音)をもって韓姓を知らせようとした。ところが秦兵は「河姓か」と尋ねた。韓カンはとっさに機知が働き「姓氏は人がつくべきもの、 水にあらず、水を去りて人となす、わが姓は何である」と答えた。
秦兵はこれを信じ渡河を許した。韓カンはこれを記念して何姓に改めた。
韓簡子(カンカンシ)【武官】
晋の臣、韓の先祖。名は不信。韓伯音ともいう。韓貞子の子。
B.C.510、8月、周が晋に使いを遣わして成周に城壁を築きたいと申し入れた。 韓簡子は魏献子の命を受けて敬王の使者にその旨を告げた。
11月、韓簡子は魏献子とともに周の都に出かけ、諸侯の大夫を阦泉に集めて平丘の盟い(B.C.529)を再確認し、そのうえで成周に城壁を築くことを命じた。 韓簡子は現場に行って監督の任にあたり、命令として諸侯に申しつけた。
B.C.509、1月、魏献子は韓簡子と原寿過に城普請をまかせて大陸に狩りに行った。
宋の仲幾が工事の割り当てを承諾しないで薛の家老と言い争った。 士弥牟がこれに介入したが仲幾はこれも退けたため、士弥牟は立腹して韓簡子に「神にあかしを求めて、神を汚す宋の罪は大きい。 ぜひとも仲幾に処罰を加えてやりましょう」と言った。韓簡子は仲幾は捕らえられて晋に連れていかれ、3月に周に送りかして処刑することとした。
B.C.497荀寅范吉射趙鞅を攻めたため、 荀櫟・魏侈とともに彼らを討つ。 そして定公に請うて趙鞅をもとの地位に戻させる。
観起(楚)(カンキ)【武官】
楚の臣。〜B.C.551。
B.C.551観起は令尹子南に寵愛されていたので、数十乗の馬を持ち、楚人はこれを心配した。 楚康王は子南を朝廷で処刑し、観起も車裂きにされた。
観起(蔡)(カンキ)【武官】
蔡の臣。〜B.C.542。
B.C.542、6月、楚霊王が申で諸侯と会盟したとき、霊王に殺される。
桓齮(カンキ)【将軍】
秦の将軍。
B.C.239秦王に将軍に任じられる。
B.C.236王翦を主将、桓齮を副将、楊端和を末将とし、鄴を討ったが、なかなか落ちず、 まず9城を取った。
王翦は別に閼与と橑陽を攻め、桓齮は留まって鄴を攻めた。鄴を落とすと、また橑陽を攻めた。
B.C.234趙を討ち、趙将扈輒を殺し、首級10万を挙げる。
10月、趙を討つ。
B.C.233赤麗・宜安を攻めるが李牧に破られる。
寒キ(カンキ)【武官】
寒浞の子。母は元后羿の妻。
寒浞は后羿の妻を奪って寒キを生んだ。
寒浞は斟灌・斟尋の2国を滅ぼし、寒キを戈の国に住まわせた。
韓起(カンキ)
韓宣子
韓咎(カンキュウ)【文官】
楚の臣。
B.C.298韓の太子が没す。韓の公子咎と公子蟣蝨が、太子の位を争った。
蟣蝨は楚に人質となっていたので、蘇代は韓咎に「楚王は蟣蝨を韓に入れることにすこぶる熱心です。 あなたはどうして楚王に万戸の都邑を雍氏のかたわらに築かせ、 雍氏を包囲させないのですか。もし築けば、韓はかならず出兵して雍氏を救おうとし、あなたはかならずその軍の将軍となりましょう。
もし蟣蝨を奉じてこれを韓に入れれば、彼は必ずあなたを徳とし、あなたを奉ずるに相違ありません」と言った。
韓咎はそのはかりごとに従い、雍氏を包囲した。
しかし韓が楚と友好を結んだため、楚は包囲を解いた。
咸丘蒙(カンキュウモウ)【在野】
孟子の弟子。斉の人。
孟子と問答する。
韓挙(趙)(カンキョ)【武官】
趙の臣。〜B.C.327。
B.C.327斉・魏と戦い、燕の桑丘で戦死する。
韓挙(韓)(カンキョ)【武官】
韓の臣。
B.C.325魏に攻められ、破られる。
寒澆(カンギョウ)【将軍】
有窮の将軍。寒浞の子。母は后羿の元妻
寒浞は斟灌・斟尋の2国を滅ぼし、寒澆を過国に住まわせた。
寒澆は多力を身につけており強かったが、道義がなく、兄嫁である女岐に情交を求めて淫らな関係があった。
2年後、寒浞の命で夏王朝のを弑した。
あるとき寒澆は女岐と一緒に泊まっている所を夏王朝の少康に夜襲されたが、少康は間違って女岐の首を打ち落としたため、 寒澆は助かった。
韓慶(カンケイ)【文官】
西周の臣。
B.C.296孟嘗君が韓、魏とともに秦を討ち、兵卒・食糧を西周から借りようとした。
韓慶は西周のため孟嘗君に説いて「君は兵や食を借りて秦を討つよりも、わが国を使って『薛公には秦を討つ気はありません。 楚懐王に東部の地を割かせ、秦と和睦したいのです』と言い、わが国に秦へ恩を売らせていただきたい」と言った。
孟嘗君はこれを容れ、韓慶を秦に入れたが、秦は受け入れなかった。
(『国語』では秦は韓慶の申し入れを受けたとなっており、整合性がとれていない)
桓恵王(カンケイオウ)【王】
韓王(4(10)代目)。釐王の子。〜B.C.240。
B.C.273燕を討つ。
B.C.264秦に攻められ、陘を抜かれ、汾水のほとりに城を築いた。
B.C.263秦に攻められ、太行山で戦う。
上党太守馮亭が上党郡もろとも趙に降服する。
B.C.256秦に攻められ、陽城と負黍を抜かれる。
B.C.250秦に攻められ、城皋と滎陽を抜かれる。
B.C.248秦に攻められ、上党を抜かれる。
B.C.245秦に攻められ、13城を抜かれる。
韓厥(カンケツ)【将軍】
晋の将軍。韓の先祖。司馬、新中軍の将、僕大夫、下軍の将。韓子輿の子。韓献子ともいう。
韓厥は幼児期、趙盾に養育された。
B.C.620韓厥は趙盾に推薦され司馬となった。
B.C.615河曲の戦役で、趙盾の家臣が隊列を乱したので、韓厥はこれを捕らえて処刑した。衆人は韓厥は恩知らずであり、終わりをまっとうできないと言ったが、 趙盾は韓厥に「わたしはその方を君に推薦したが、その方が無能であることを恐れた。それ故、その方の能力を試したのだ。厥よ、つとめよ。 晋を統治するのは、その方を置いて誰がいよう」と言い、諸大夫に「諸君、わたしを祝ってくだされ。厥を推挙したことが当りました」と言った。
B.C.597春、鄭が楚に攻められた。
6月、晋は鄭を救援することとし、韓厥は司馬に任じられた。
晋軍が黄河に到着すると、すでに鄭は楚に降服して和睦したと伝わった。中軍の将荀林父は帰国しようとしたが、 中軍の佐先縠が勝手に黄河を渡った。韓厥は荀林父に「彘子(先縠)が命令に従わなかったのはあなたの罪です。鄭を失い、 部下を敗滅させる罪は極めて重い。むしろ進撃したほうがよい。戦いに負ければ、みなで罪を分け合いましょう」と言ったので、荀林父は早速、黄河を渡って進撃した。 しかし晋軍は楚軍に破られた。
この年、司寇屠岸賈は趙氏を誅しようとして霊公殺害事件をとりあげて 「盾は事件を知らなかったといえ、犯人一味の頭目です。臣下の身で君を弑しながら、その子孫が朝廷にいるようでは、どうして罪を懲らしめることができましょう。 誅したいと思います」と言った。
韓厥は「趙盾は都の外遠くにいましたし、当時先君も盾に罪はないと思われたので、誅殺されなかったのです。 いまその子を誅すのは先君のご意向にそむいて、みだりに誅するものです。 また君にも申し上げないで処置するのは、君を無視するものです」と反論した。
屠岸賈が承服しなかったので韓厥は趙朔に、はやく逃げるよう勧めたが、趙朔は「あなたが必ず趙氏の祀りを絶やさないというのなら、 わたしは殺されても恨みはない」と言ったので、韓厥は承諾して病と称して外出しなかった。
屠岸賈はついに趙朔を殺し、趙氏一族を滅ぼした。
(『史記』は屠岸賈がB.C.598に趙氏を族滅させたとしているが、他の古典と整合性が取れていない)
B.C.589春、斉が魯を討った。そこで魯・衛を助けるため晋は郤克欒書・韓厥に命じて斉を討った。 韓厥は司馬に任じられて斉軍を鞍で大破した。
韓厥は夢で韓子輿に明朝の戦いには車の左や右に乗ってはいけないと告げるのを見た。そこで韓厥は中央の御者となって戦いに挑んだ。
韓厥は斉頃公を追撃した。頃公の御者邴夏が「敵の御者を射とめよ。すぐれた人物のようだ」 と言ったが、斉頃公は「すぐれた人物とわかっていながらこれを射るのは非礼である」と言って、韓厥の左役を射てこれを落車させ、右役を射て車中に倒れさせた。 そのとき綦毋張が兵車を失っていたので、韓厥の車に乗り込んだ。韓厥は綦毋張の身を案じて彼を自分の後ろに立たせ、 車中に倒れている右のしかばねを安らかに横たえて、敵に見えないようにした。 この隙に斉頃公の右逢丑父は斉頃公と座席を換えて君の身代りになった。
華不注の麓の華泉に差し掛かったとき、斉頃公のそえ馬が木に引っかかって止まってしまった。そこで韓厥は追いつき手綱を取って斉頃公の馬前に進み、 再拝稽首して杯をささげ、さらに璧を加えて献上し「わが君は、貴国の軍の引き揚げをお願いさせ、誤って貴公の領地に踏み込むことのないようにとの命令でございました。 ところが偶然に貴公の軍と出会いまして引き揚げるわけにもいかず、一戦を交えました。おわび申し上げまして、貴公の側の代行者となり、 欠員の役をつとめさせていただきます」と申し入れた。斉頃公の身代りとなった逢丑父は斉頃公を下車させて華泉の水を汲んでくるよう命じたので、 頃公は逃げることができた。韓厥はそのまま逢丑父を捕えた。
B.C.588冬、斉頃公が晋に朝して玉を晋景公に授けた。このとき斉頃公は韓厥をじっと見つめ、韓厥かどうか半信半疑でいた。
韓厥「君はわたくしを知っておられますか」
頃公「服装が変わっていたので、よくわかりませんでした」
韓厥は宴席に登り、杯をあげて「わたしが奮戦しましたのは、両国の君がこうして親しく宴を開かれることを願ったからであります」と言った。
12月27日、晋は初めて六卿を設けて、韓厥は卿となった。
韓厥は後に新中軍の将となり、僕大夫(侍従長)を兼任した。
B.C.585晋は遷都について相談した。大夫たちは物産が豊かで塩の産地に近い郇瑕氏の地に遷都したいと言った。景公は韓厥に相談すると韓厥は 「それはいけません。郇瑕氏の地は土地が低く水が浅いので悪疾が発生しやすい土地です。それよりは新田に移るほうがいいです。 新田は土層が高く水も深いので病気になりません。その民は質朴でお上の教えに従います。山や沢や林や塩地は宝ではありますが、都が豊かになると民は怠けるようになり、 公室が貧しくなります」と言った。景公は韓厥の意見に従った。
4月14日、景公は都を新田に移した。
冬、晋は楚に攻められた鄭の救援に出かけた。晋軍は繞角から進んで蔡を侵略した。楚の公子申と公子成が蔡を助け、 桑隧で晋軍を防いだ。趙同趙括が決戦の望んだため欒書は許そうとしたが、 韓厥・荀首士燮は「いけません。もともと鄭を助けに来て、 はからずも蔡まで来てしまいました。罪なき人を攻め殺してはなりません。そもそも大軍を整えてきたのに、わずか楚の2県を破っても何の名誉になりましょう」 と言ったので、欒書はそのまま引き揚げた。
B.C.583晋景公が病んだ。占うと「大業の後の遂げざる者祟りをなす」と出た。 景公はこれを韓厥に問うと、韓厥は趙朔の孤児が生きているのを知っていたので「それは趙氏でありましょうか。中衍というもの以来、 みな嬴姓を名乗り、晋に仕えました。成公のときまで代々功労を立て、かつて祖先の祭祀を絶ったことはなかったのです。
しかし今、趙氏の宗家は滅ぼされ、国人はこれを哀しんでおります。わが君には、このことをご配慮さないますように」と言った。
景公が「趙氏にはまだ子孫が残っているのか」と問うたので、韓厥はつぶさに実情を告げた。そこで景公は趙氏の孤児を立て、 趙武程嬰を呼び出し、諸将とともに屠岸賈を攻め、その一族を滅ぼした。
趙武が成人して大夫に挨拶回りをした。このとき韓厥は「戒められよ、これを成人と言います。最初に善人を友とすれば、善人は善人を連れてきます」と言葉を贈った。 張孟は「韓子(厥)の戒めは人を完成させることができます」と評した。
B.C.578、5月、韓厥は下軍の将として秦軍と戦い、麻隧でこれを大破した。
B.C.576楚が鄭・衛を攻めて、鄭が反撃して楚を討った。欒書が楚に一矢報いたいと望んだが、韓厥は「よしなさい。楚にさらに悪いことをさせれば、民も背くであろう。 民がなくなれば誰が戦うであろうか」と諌めた。
10月、三郤が伯宗を讒言してこれを殺し、賢大夫の欒弗忌までも殺した。 そのため伯宗の子伯州犂が楚に出奔した。韓厥は 「郤子は禍にかかるであろう。善人を殺して滅びないので何が期待されようか」 と言った。
B.C.575、4月、晋は鄭討伐の軍を発し、韓厥は下軍の将として参戦した。
この戦いで韓厥は鄭成公を追撃した。御者の杜溷羅は 「早く追いましょう。鄭伯の御者は後ろを振り返ってばかりで、馬のことを考えていません。きっと追いつけます」と言ったが、韓厥は 「二度も国君に恥をかかせてはならない」と言って追撃するのをやめた。
B.C.574欒書は荀偃と図り、厲公を匠麗氏の邸に包囲して、韓厥にこれに加わるよう呼び寄せた。 しかし韓厥は「君を弑して自分の威を立てようとするのは、わたしにはできないことです。昔、わたくしは趙氏に養育されましたが、 孟姫の乱のときも兵力を使うことはありませんでした。まして君に対しては無論のことです」と断った。
荀偃は韓厥を殺そうとしたが、欒書は「いけません。彼の行動は果断で、言葉は順当である。われわれが攻めようとしてもできるものではない」と言って、それを止めた。 結局、欒書は厲公を弑した。
B.C.573、11月、楚が宋を攻めたため、宋の華元が事態の急を告げてきた。韓厥は「人を従えようと思うなら、 まずその人のために骨を折ってやるべきです。覇業を成す仕事は、宋を助けることから始めましょう」と進言したので、 晋悼公は軍を進めて宋を助けた。
B.C.572、5月、韓厥は荀偃とともに諸侯の軍を率いて鄭を討った。晋軍は鄭の外城に攻め入り、鄭の歩兵を洧水のほとりで打ち破った。 晋軍は勢いに乗って諸侯と連合して楚の焦夷に攻め入り、陳まで攻め込んだ。
B.C.569春、楚軍が春になっても陳を攻めるため、楚の繁陽に留まっていた。韓厥は 「周の文王紂王に仕えていたのは、まだ争うべからざる時勢をわきまえていたからだ。 しかし今、わが国は文王と違ったやり方をしている。うまくゆかないだろう」と言った。
B.C.566、10月、韓厥は老年を理由に隠居を願い出た。晋悼公はその子韓無忌に父の後を継がせようとしたが、 韓無忌は不治の病気にかかっていたので辞退して、弟の韓宣子を勧めたため、韓宣子が韓厥の後を継いだ。
献子と諡される。
韓虔(カンケン)
景侯
韓厳(カンゲン)【武官】
韓の臣。
B.C.371哀侯を弑す。
管厳(カンゲン)【武官】
斉の臣。管仲の父。
管厳は斉の大夫を勤めたこともあったが、没落した。
韓献子(カンケンシ)
韓厥
鍼虎(カンコ)【武官】
秦の臣。
B.C.621秦繆公が没すると、鍼虎は殉死する。
秦人はこれを悲しんだ。
翰胡(カンコ)【武官】
曹の臣。
B.C.521、11月7日、翰胡は晋・斉・衛とともに宋を助けて、宋で叛乱した華氏を赭丘で討った。
韓固(カンコ)【文官】
晋の臣。
B.C.514秋、祁氏・羊舌氏が滅び、その土地は10の県に分けられ、韓固は馬首の大夫となった。
韓固は卿の庶子の中でよく職分を守り父祖の務めを守る者であるためにであり、魏献子のお目にかかったからである。
観虎(カンコ)【武官】
晋の臣。〜B.C.507。
B.C.507、9月、観虎は鮮虞と戦ったが、自分の武勇を誇って敵を軽んじたため平中で破られて戦死した。
罕虎(カンコ)
子皮
韓虎(カンコ)
韓康子
桓公(鄭)(カンコウ)【王】
鄭公(初代)。名は友。周の宣王の弟。〜B.C.771。
B.C.806鄭に封じられ、初代鄭公となる。
領民はみな安堵して桓公を敬愛した。
B.C.774桓公は周王朝の司徒に任命された。
桓公は周の民をやわらげ安んじたので、民はみな喜び、河・雒の間の人々はみな公を思慕した。
B.C.773周幽王褒姒を寵愛し、政治が乱れたため、桓公はこれに巻き込まれたくないと思い、 周の太史伯陽に相談した。
桓公「王室は多難で、わたしはこの災難に巻き込まれるのが心配です。どこへ行ったら逃げられるでしょうか」
伯陽「王室が衰微して、戎狄が必ず盛んになるでしょうから、かれらに近づいてはなりません。結局は、済・洛・河・潁の4つの川の間がよろしいでしょう。 その地方の子爵男爵の国では、虢と鄶が大国ですが、虢叔は地勢を頼みとし、鄶仲は険阻を頼んで、みな驕侈怠慢のうえ貪欲です。 あなたがご家族と財産を依頼すれば、きっと彼らは受けるでしょう。周が乱れて衰えたら、彼らはきっとあなたの信頼を裏切るでしょう。そのとき、 あなたは成周の民を率いて大義を責めて彼らの罪を討てば、 勝たないはずはありません。もし、このニ国に勝てば、鄢・弊・補・丹・依・ジュウ・歴・華も君の領土となりましょう。
華国を前にし、黄河を後ろにし、洛水を右に、済水を左にして、芣山とカイ山の祭主として、シン水と洧水の流域の生産によって生活し、国家の常法を守っていけば、 少しは強固になることができましょう」と答えた。
そこで桓公は幽王に言上して、妻子と財産と鄭の民を東のほう洛水の東に移そうとすると、虢鄶二国が引き受けて、 10国とも皆あずける地を提供してくれた。
B.C.771犬戎が幽王を攻め殺し、同時に桓公も殺される。
桓公(魯)(カンコウ)【王】
魯公(15代目)。名は允。隠公の弟。母は仲子。〜B.C.694。
恵公が隠公の妻仲子を奪って允は生まれ、太子に立てられた。
B.C.723恵公が早く没したため、隠公が摂政となり政治をとる。
B.C.712冬、公子が「息姑(隠公)は即位してあなたを退けようとしています」と讒言して隠公を弑したため、允は即位することとなる。
B.C.711、1月、桓公は魯の君の位につき、鄭と友好関係を修めた。
鄭がまた鄭の祊と魯の許を交換して欲しいと申し入れたので、桓公はこれを許した。
3月、桓公は鄭荘公と垂で会合し、祊と許を交換した。
4月2日、桓公は鄭荘公と越で会合し、祊と許の交換のことで「この盟を破棄するならば、国を保ってゆくことはできないであろう」と誓った。
秋、洪水があった。
冬、鄭荘公が魯に来朝して、越の盟いに対するお礼のあいさつをした。
B.C.710、宋の大宰華督は主君を殺した。
滕の君が来朝する。
3月、桓公は斉釐公・陳桓公・鄭荘公と宋の稷で会合して、 宋の乱の後処理をする。
4月、華督が賄賂として魯に郜の国で造られた大鼎を贈り、桓公はこれを受けた。
5月10日、桓公は始祖周公の太廟に納めた。臧哀伯はこれを諌めて 「君は無道の逆臣華父督を援助し、その賄賂である大鼎を大廟に奉納して百官に明示している。これでは百官が君にならって悪事をはたらいても、 どうして責めることができましょう」と言ったが、桓公は聴き入れなかった。
7月、杞侯が来朝したが、不敬であったので、杞を討つ相談をする。
9月、桓公は杞を討った。
桓公は戎との友好関係を修めるため、唐で盟う。
冬、戎との会合が成立し、桓公は帰国する。
B.C.709桓公は斉釐公と斉の嬴で会合し、斉と婚約を結ぶ。
6月、杞侯は魯との和平を求めたので、桓公は杞侯と郕で会合した。
7月、皆既日食があった。
秋、公子揮を斉に行かせ、斉の公女を迎えた。
9月、斉釐公が公女姜氏を讙に送った。桓公は釐公と讙で会合した。姜氏が斉から魯に入った。
冬、斉の夷仲年が魯に来聘した。
この年、魯は豊作であった。
B.C.708、1月、桓公は郎で狩を行った。
夏、周の宰渠伯糺が魯に来聘した。
B.C.707夏、周桓王仍叔の子を魯に遣わした。
桓公は祝丘に城壁を築く。
秋、桓公は雨乞いの大祭を行ったが、時期が違うとそしられた。
この年、蝗の被害があった。
B.C.706州公淳于公が曹から魯に来た。
4月、紀の君が斉に滅ぼされるのを恐れて、対策を相談するために魯に来朝し、桓公はこれと成で会合した。
6月、斉が北戎に攻められたため、諸侯は斉を助けた。その中で鄭の太子の功が最も高かった。 しかし斉が労をねぎらうとして秣や米を分与しようとした時、魯がその順番を決めることとなった。そこで魯は周の爵位に従って順番をつけ、 鄭をあとにした。そのため太子忽は魯を恨んだ。
秋、斉・鄭が強大であったので、桓公は大閲を行い、戦争に用いる車馬を調べた。
9月24日、子のが生まれた。桓公はその命名を申繻に問うた。
申繻「命名には五つあり、名をもって生まれてきたのが信であり、徳義の名をつけるのが義であり、容貌にちなんで名をつけるのが象であり、 生まれた時の事柄にちなんでつけるのが仮であり、父と関係のあることにちなんでつけるのが類です。官名や地名と同じ名を取って命名すると、 それを改名しなくてはなりませんので、軽々しくしてはいけません」
そこで桓公は自分と同じ日に生まれたので、名を同とした。
冬、紀の君が来朝し、天子の命をいただいて斉と和睦したいと魯に申し込んだが、桓公は天子の寵愛を受けていなかったので、その力がないとして断った。
B.C.705、2月、桓公は咸丘に焼き狩りを行った。
春、穀伯が来朝する。
鄧侯吾離が来朝する。
B.C.704正月、桓公は蒸の祭りを行った。
周桓王が家父を魯に遣わして、王后を迎えるために来朝させた。
5月、桓公は蒸の祭りを行った。
秋、桓公は邾を討った。
10月、雪が降る異常があった(周暦の10月は夏暦の8月)。
祭公が魯に来朝し、王后を紀に迎えた。
B.C.703冬、曹の太子夜姑が魯に来朝した。魯はこれを上卿の礼をもって礼遇した。
B.C.701桓公は宋荘公と郕の夫鐘で会合した。
12月、桓公は宋荘公と魯の闞で会合した。
B.C.700、6月、桓公は杞と莒を仲直りさせるため、杞君と莒君と魯の曲地で盟いを結んだ。
7月、桓公は宋と鄭を仲直りさせるため、宋荘公と宋の穀丘で盟いを結んだ。
8月、宋が和平を望んでいるか疑わしかったので、桓公は宋荘公と宋の虚で会合した。
11月、桓公はまた宋荘公と宋の亀で会合した。
宋が信義を守らなかったので、桓公は鄭厲公と鄭の武父で盟った。
12月、桓公は軍を率いて宋を討った。
B.C.699、2月、桓公は紀の君と鄭厲公と会合した。
桓公は鄭を援助して紀軍とともに、斉・宋・衛・燕と戦い、これを破った。しかし桓公はこの戦いに遅刻してしまった。
夏、洪水があった。
B.C.698春、桓公は鄭厲公と曹で会合した。
夏、鄭厲公の弟語が魯にやってきて、武父の盟いと曹の会合の友好を深めた。
8月15日、御廩が焼けた。
8月18日、御廩が焼けていたが、無事に嘗の祭りを行った。
B.C.697、2月、周桓王は家父を遣わして、魯に車を要求してきた。
夏、桓公は斉襄公と魯の艾で会合し、許を平和にすることを相談した。
牟の使者が来朝する。
葛の使者が来朝する。
11月、桓公は宋荘公・衛恵公・ 陳荘公と宋の袲で会合して鄭を討って、鄭厲公を帰国させようとしたが、うまくいかなかったので帰国した。
B.C.696、1月、桓公は宋荘公・蔡桓侯・衛恵公と曹で会合し、鄭を討つことを相談した。
4月、桓公は宋・衛・陳・蔡とともに鄭を討った。
7月、桓公は鄭の討伐から帰った。
冬、向に城壁を築いた。
B.C.695、1月13日、桓公は斉襄公と紀の君と斉の黄で盟いして、斉と紀を仲良くさせ、衛の騒ぎについて相談した。
2月、桓公は邾の儀父と魯の趡で盟い、蔑の盟いを復活させた。
5月5日、斉が魯の国境に侵入してきたので、斉と魯との間に国境争いが起こり、魯の奚で斉軍と戦った。
秋、桓公は宋・衛とともに邾を討った。
10月、日食があった。
B.C.694、1月、桓公は夫人の文姜とともに斉に行こうとした。申繻が「女は夫の家に安んじ、 男は妻の室に安んじて夫婦の道を守るべきです。これを乱して守らなければ、必ず禍がやってきます」と諌めたが、桓公は聴き入れなかった。
桓公は斉襄公と濼で会合し、そのまま文姜をつれて斉に入った。
そこで文姜が斉襄公と密通したため、桓公は文姜を叱った。文姜はそれを襄公に告げた。
4月10日、桓公は宴会に饗応され、酒に酔ったときに彭生に殺された。
魯の人は「わが君は貴国に出かけて旧来のよしみを修めましたのに、まだ帰られない。だれをとがめようにも相手がなく、諸侯に対して外聞が悪い。 彭生を殺して、この恥辱をそそぎたい」と斉に申し出た。そこで襄公は彭生を殺した。
桓公(斉)(カンコウ)【王】
斉公(15代目)。名は小白。釐公の子。〜B.C.643。
B.C.686斉襄公の政令はでたらめであった。 小白の守役の鮑叔が「君は民を使うことがだらしない。きっと乱が起こるでしょう」と進言したので、 小白は莒に亡命した。
B.C.685春、斉の大夫雍廩公孫無知を弑した。
夏、魯荘公は斉を討って公子を斉君にしようとした。 しかし小白は一歩先に斉に入って即位した。
8月、桓公は魯と斉の乾時で戦い、これを大破し、荘公の御の秦子と戎右の梁氏を捕えた。
9月、鮑叔は勝ちに乗じて魯に進軍して、魯に居る管仲を宰相に推薦した。
桓公「管夷吾はわしを射て鉤に当て、死ぬところであったのだぞ」
鮑叔「その君のためにしたことです。君が彼を許せば、彼は君のためにあの時のように働きましょう」
桓公「魯には施伯がいる。わしが夷吾を重用すると知ったら、わしに引き渡すまい」
鮑叔「管夷吾を斉の群臣の面前で処刑して見せしめにしたいと言えば、わが国に渡すでしょう」
はたして魯は管仲を斉に送り、桓公は管仲を宰相に任じた。
B.C.684、1月、桓公は魯を討ったが撃退された(長勺の戦い)。
6月、桓公は宋軍と共に魯の郎に攻め入って陣をかまえた。魯の公子が虎の皮をかぶり、宋軍に攻め入り、 魯荘公もそれに続いて、大いに宋軍を魯の乗丘で破った。そのため斉軍は引き揚げた(乗丘の戦い)。
10月、かつて桓公が亡命した時、譚で礼遇されず、桓公が斉に戻った時、譚だけがお祝いに来なかった。そこで桓公は譚を滅ぼした。譚の君は莒に亡命した。
また遂に罪があったので、桓公はこれを滅ぼした。しかし桓公はこれを領有しなかったので、諸侯はその寛大さをたたえた。
B.C.683桓公、郯を攻め滅ぼす。桓公は南方の諸国で萊・莒・徐夷・呉・越など淫乱のものが多かったので、一戦して31国を征服した。
冬、桓公は王女キョウ姫を迎えるために魯に行った。
B.C.682、3月、紀に嫁いでいた魯の叔姫がケイに一時身を寄せた。
B.C.681春、桓公は宋の乱を治めるため、宋・陳・蔡・邾・魯・衛・鄭と斉の北杏で会合した。
6月、北杏の会盟に遂が参加しなかったので、斉は遂を攻め滅ぼして、そこを守備した。
冬、桓公は魯荘公と斉の柯で会合した。
宋が北杏の会盟の盟いに背いた。
B.C.680斉は、陳・曹とともに宋を討った。
斉は王命によって宋を討とうとして軍を周に願い出た。
夏、周の単伯が諸侯の軍に参加し、宋を和平させて帰国した。
冬、宋が降服したので、周の単伯が桓公・宋桓公・衛恵公・ 鄭厲公と衛の鄄で会合した。
B.C.679春、桓公は再び鄄で宋・陳・衛・鄭と再び会盟を行い、桓公は斉が盟主となることを承認させた。桓公は覇業を成し、その名声は天下に轟いた。
夏、文姜が斉に入った。
秋、斉と邾は宋のために、宋に背いた郳(小邾)を討った。
B.C.678夏、斉は宋・衛とともに鄭を討った。
12月、桓公は宋桓公・陳宣公・衛恵公・鄭厲公・許の君・滑の君・滕の君と宋の幽で会合し、鄭は斉と和平した。
B.C.677春、鄭は去年、斉と和睦しながら、鄭厲公みずから斉に聘せず、叔詹を遣わしたので、斉は叔詹を捕えた。
夏、遂の因氏、頜氏、工婁氏、須遂氏が謀って斉の守備兵を酒に酔わせて殺した。
秋、鄭の叔詹が魯に逃亡する。
B.C.675桓公は宋・陳とともに魯の西に侵入した。
B.C.674冬、桓公は戎を討った。
B.C.672、6月2日、鄭文公が朝見した。
7月9日、桓公は高傒に命じて魯荘公と防で盟約させた。
B.C.671夏、桓公は魯荘公と穀で会合した。
12月5日、桓公は魯荘公と鄭の扈で盟約した。
B.C.670夏、妹の哀姜が魯荘公に嫁いだ。
桓公は鄭文公に命じて蔡を攻めさせた。
B.C.668秋、桓公は魯・宋と会合して徐を討った。
B.C.667、6月、桓公は魯荘公・宋桓公・陳宣公、 鄭文公と会合して幽で同盟し、陳と鄭が斉に服従した。
冬、桓公は魯荘公と城濮で会合した。
恵王が召伯を使者として斉に派遣し、桓公に覇者(侯伯)の辞令を賜わらせ、 さらに衛を討ってほしいと依頼した。
B.C.666、3月29日、桓公は衛を討った。両国は大いに戦ったが、斉軍は衛軍を破り、天子の命であるといって衛の罪を責め立て、衛より財貨を取り立てて帰った。
秋、楚が鄭を討ち、桔シツの門に攻め入った。桓公は宋と会合して鄭を救いに行ったので、楚軍は夜にまぎれて逃げ去った。
B.C.664、7月、斉は鄣国を降した。
冬、桓公は魯荘公と済水のほとりで会合し、燕を悩ます山戎を討つ相談をした。
桓公は山戎を討った。
B.C.663、6月、桓公は魯に赴き、戎の戦利品を贈った。
B.C.662桓公は、楚が鄭を討ったので、その報復を図るために諸侯を招集した。宋桓公がその前に会見したいと願い出たので、桓公は夏に梁丘で会見した。
冬、魯の慶父が斉に来た。
邢は狄に攻められたので、斉に救いを求めた。管仲が「戎や狄はおおかみのように貪欲であるから、満足させてはならず、 中国の諸侯は見棄ててはなりません」と進言したので、桓公は邢を救うため兵を出した。
B.C.661燕の要請を受けて山戎を孤竹まで討った。海浜の諸侯は、斉に朝貢して服従しないものはなかった。
このとき燕荘公は桓公を送って斉の境内に入った。桓公は「天子を送るときのほか、諸侯が送りあうには国境を出ないものである。 わしは燕に礼をつくさなくてはならぬ」といい、荘公が送って来た地点までを燕に与えた。諸侯はみな斉に心服した。
8月、桓公は魯湣公と斉の落姑で盟い、湣公は陳に出奔した季友を魯に戻すよう請うたので、 桓公はそれを許した。
冬、桓公は大夫仲孫湫を魯に遣わして、魯の乱れを視察した。
仲孫湫「慶父を除かなければ、騒ぎは収まらないでしょう」
桓公「どうしたら除くことができようか」
仲孫湫「自分から倒れるでしょう。君にはしばらくお待ちください」
桓公「魯は攻め取ることができようか」
仲孫湫「それはできません。魯は今も昔の周の礼を守っております。君には魯の騒ぎを鎮めて魯に親しんでください。 これこそ覇王のなすべきことです」
B.C.660春、桓公は陽国を移した。
8月、魯に叛乱がおこり、9月に慶父が自殺した。慶父と淫通した哀姜は邾に出奔した。桓公は哀姜を捕えて夷で殺し、そのなきがらを運んで斉に帰った。
釐公が哀姜のなきがらを求めたので、これを魯に送った。
狄が衛を攻め、衛懿公は戦死し、衛は滅ぼされた。宋桓公は衛戴公を擁立して、曹に仮住まいさせた。 桓公は子の無詭に命じて兵車300乗と兵3000人を率いさせて、曹を警備し、戴公には馬4頭と祭服5着、 牛羊豚鶏狗300ずつと門戸を造る材料を贈った。
B.C.659春、桓公は諸侯とともに邢を助けた。邢人は聶北にいた諸侯の軍に逃げてきたので、連合軍は狄の人を追い払った。
6月、桓公は邢を夷儀に移して、城壁を築いた。
8月、桓公は宋桓公、鄭文公、曹昭公、邾と宋の檉で会合し、 楚に攻められている鄭を救うことを相談した。(檉の会盟)
B.C.658春、桓公は諸侯とともに楚丘に城壁を築いて良馬300頭を贈り、公子を立てて国君とし(文公)、 そこで衛を復興させた。諸侯は桓公の人徳をたたえた。
9月、桓公は宋桓公、江、黄と宋の貫で会盟し、江・黄を斉に従えた。
斉の寺人が、はじめて軍の秘密を多魚で洩らした。これがやがて斉の乱れのもととなった。
B.C.657秋、桓公は宋桓公・江・黄と陽穀で会合し、楚を討つ相談をする。
桓公は魯が陽穀の会合に参加しなかったので、人を魯に遣わして旧来のよしみを復活させようとした。
冬、魯釐公は季友を斉に遣って、斉と同盟した。
B.C.656春、桓公は魯釐公、宋桓公、陳宣公、衛文公、鄭文公、許穆公、曹昭公と会合して蔡を討った。
連合軍は蔡を破り、蔡繆侯を捕らえ、勢いに乗じて楚に攻め入って汝水を渡り、方城の塞を越え、汶山を望祭するまで進軍した。 楚の使者が問うた。
使者「君は北海におり、わたしは南海におり、遠く隔たっているのに、どうしてわが領土に攻め入るのですか」
管仲「その昔、 召康公(召公奭)がわが先君の太公(太公望)に四方を征伐して周室を護るよう命ぜられました。 汝、楚の献納すべき苞茅が入らないので、天子の祭りに事欠いている。わが君はそれをお求めである。
また昔、周昭王が南に巡狩せられたまま帰られなかったが、わが君はその理由を問うているのである」
使者「貢ぎ物を入れないのは事実で、これは私の罪である。今後は上供することとしよう。しかし昭王が還られなかったのは、私の知らぬこと、岸の柳にお問いなされ」
そこで桓公は進撃して楚の陘に布陣した。
成王屈完を使者として和平の意を伝えてきた。 そこで諸侯の軍は退却して召陵に止まった。桓公は諸侯の軍勢を並べ、屈完と同じ車に乗って閲兵して言った。
桓公「楚も諸侯と同様にわたくしと友好を結ばれてはいかがですか」
屈完「わが君を諸侯の中にお加えくださるならば、それこそわが君の願うところです」
桓公「この大軍を持つなら、いかなる者も敵対せず、いかなる堅固な城でも攻め落とせないものはないであろう」
屈完「君が徳をもって諸侯を治められれば誰でも服従するでしょうが、武力を用いるなら、わが楚は方城山を城とし、漢水を池として戦いましょう」
かくて楚と諸侯は和平の盟いを結んだ。そのため南方の諸国は朝貢して服従しないものはなかった。
帰国の際、陳の袁濤塗が「軍が陳と鄭の間を通れば、両国とも食糧の供給に困りますので、 東方を通って東夷に武力を見せつけて海に沿って帰るのがよろしいでしょう」と進言したので、桓公はこれに従おうとした。
しかし鄭の申侯が「軍は疲れています。東夷にはかなわないでしょう。陳と鄭の間を通り、 両国に食糧を出させるほうがよろしいでしょう」と進言したので、桓公はよろこんで、申侯には鄭邑の虎牢を与え、袁濤塗を捕えた。
秋、桓公は袁濤塗が軍道を誤らせようとしたのを責めて、宋・衛・鄭・許・曹・魯とともに陳を討った。
冬、陳が罪に服して和睦を乞うたので、桓公は捕えていた袁濤塗を帰国させた。
B.C.655夏、桓公は、魯釐公・陳宣公・衛文公・鄭文公・許僖公・曹昭公・ 周の太子と衛の首止で会合し、太子鄭の地位を固め、周室の安泰を図る相談をした。
8月、諸侯は首止で盟った。
B.C.654桓公は、魯釐公・宋桓公・陳宣公・衛文公・曹昭公と会合して鄭を討ち、新城を包囲した。
秋、楚が許を包囲して鄭を助けようとしたが、諸侯が許を救ったので、楚軍は引き揚げた。
B.C.653桓公は鄭を討った。
夏、鄭は申侯を殺して斉に申し開きをした。
7月、桓公は、魯釐公・宋桓公・陳の太子・鄭の太子と魯の甯毋で会合し、 鄭に対する処置を相談した。
管仲が「離れている者は礼を用いて招きよせ、遠い者は徳でもってなつけるといいます」と進言したので、桓公は諸侯に対して礼を行った。
鄭の太子華が「わが国の大夫の泄氏、孔氏、子人氏の三族は君命に逆らっています。君がこの三族を取り除いてくださるなら、鄭は斉の家来となりましょう」と言ったので、 桓公はこれを許そうとした。しかし管仲が諌めた。
管仲「礼と信をもって諸侯を引き寄せているのに、よこしまなやり方をするのはよくありません」
桓公「鄭にまだ勝つことができない。鄭につけこむすきがあるならば、よいではないか」
管仲「徳をもって鄭を治めようとして、その上で討伐するならよいでしょう。もし父の命に背いた太子華をひきつれて鄭を討てば、 鄭は言い訳が立ち、わが軍を恐れないでしょう。太子華のような悪人を許してはなりません」
そこで桓公は太子華の意見をしりぞけた。
冬、鄭文公は斉に使者を遣わして、盟いに参加させてもらうよう請うてきた。
恵王が崩御し、襄王が即位したが、弟の叔帯の謀反を気に病んで、 自分が天子の位に立てなくなることを心配して、恵王崩御を公表しないで、叔帯の謀反を斉に報告してきた。
B.C.652春、桓公は魯釐公・宋桓公・衛文公・曹共公・陳の太子款・許僖公・周王の使者と会合し、 曹の洮で盟い、周王室の騒ぎを鎮めることを相談した。
鄭文公が斉に服従を求めて会盟に参加することを願い出てきた。
周襄王は位について王位が安定してから、恵王の崩御を公表した。
B.C.651夏、桓公は、魯釐公・宋襄公・衛文公・鄭文公・許僖公・曹共公・宰孔と葵丘で会合し、 同盟関係を温め、誓約書を取り交わした。
 第一条 親不孝者は必ずこれをこらしめる。一度定めた世嗣は妄りに代えてはならない。妾は決して本妻とせぬこと。
 第二条 賢者を尊び、人材を育成し、、有徳者を表彰すること。
 第三条 老人を敬い、幼者を慈しみ、賓客や旅人を大切にすること。
 第四条 官職は世襲するな。官職を兼任させるな。必ず立派な人物を採用すること。みだりに大夫を殺さぬこと。
 第五条 堤防を曲げて作らぬこと。他国の買い入れ米を妨害するな。臣下に領地を与えたら、必ず盟主に報告すること。

桓公は宰孔より祭に供えた肉を賜わったが、宰孔は堂下で拝礼することをしなくてよいと伝えた。しかし桓公は恐縮して、断って堂を降りて拝し、 堂に登って胙を受けた。
しかしこのような取り決めは天子がすることであったため、宰孔は帰国する途中に、 会盟に遅れて出席しようとする晋献公に「斉侯は驕れり。ただ往くこと無かれ」といい、欠席するよう勧めた。
9月15日、桓公は再び諸侯と葵丘で同盟を結んだ。
10月、晋の里克奚斉を弑し、晋室は混乱した。 桓公は諸侯の軍を率いて晋を討ち、高梁まで攻め入って引き返した。
桓公は封禅の儀式を行おうとするが、管仲の必死の諫言で取りやめた。
B.C.650夏、桓公は許僖公とともに北戎を討った。
4月、隰朋は宰孔と周の王子と会合して、 晋恵公を即位させた。
B.C.649夏、桓公は魯釐公とその夫人姜氏と陽穀で会合した。
B.C.648周襄王は戎を手引きした叔帯を討ち、叔帯は秋に斉に出奔してきた。
冬、桓公は管仲に命じて戎と周を和解させ、隰朋に命じて戎と晋を和解させた。
B.C.647桓公は仲孫湫を周に遣わして聘問させ、ついでに叔帯を取り持って周に帰させようとしたが、周襄王の怒りが解けていなかったので、実現しなかった。
夏、桓公は魯釐公・宋襄公・陳穆公・衛文公・鄭文公・許僖公・曹共公と衛の鹹で会合し、淮夷が杞を苦しめたことへの対応と、王室の騒ぎについて相談した。
秋、戎が周を攻めたので、桓公は諸侯とともに周に兵を送って守城を修築した。
B.C.645春、魯釐公が斉を訪れる。
3月、桓公は魯釐公・宋襄公・陳穆公・衛文公・鄭文公・許僖公・曹共公と斉の牡丘で会合して葵丘の盟いを忘れないようにし、 楚に討たれた徐を救うことを相談した。
桓公は諸侯と協力して徐を救った。
7月、桓公は曹とともに厲を討った。
桓公には夫人が3人おり、王姫徐嬴蔡姫とも子がなかった。桓公は女色を好み、愛する女が多く、夫人のような待遇を受ける愛妾は6人もいた。 長衛姫無詭を、少衛姫は公子を、 鄭姫は公子を、葛嬴は公子を、密姫は公子商人を、 宋の華氏の姫は公子雍を生んだ。桓公は管仲と相談して公子昭を宋襄公に依頼して太子に立てていた。
管仲は雍巫開方賢刁を疎んじて、 これを登用することのないよう桓公を諌めた。ところが桓公は雍巫を寵愛して、公子無詭を立ててもよいと許した。
この年、管仲が没した。すると5人の公子は後を継ごうと争った。
B.C.644夏、斉は厲を討ったが勝てず、徐を救っただけで引き返した。
秋、周襄王は戎の侵略に悩まされ、救いを斉に求めたので、桓公は諸侯の軍を集めて周を守らせた。
12月、桓公は魯釐公・宋襄公・衛文公・鄭文公・許僖公・邢侯・曹共公と淮で会合し、淮夷に苦しめられている鄫を救うことを相談し、 さらに斉の東方攻略を図るためであった。
B.C.643春、斉は徐とともに英を討った。
夏、魯が項を滅ぼした。桓公はこれをとがめて魯釐公を捕えた。
秋、魯釐公夫人の声姜が魯釐公を釈放してもらうため、桓公は声姜と魯の卞で会合した。
9月、桓公は魯釐公を魯に帰した。
10月8日、桓公は没した。
雍巫は宮中に入って、寺人貂と力を合わせて、長衛姫のはからいで、無詭を擁立することに反対する大夫を殺してこれを擁立した。公子昭は宋に出奔した。
12月15日、桓公はやっと納棺された。
B.C.642、8月、孝公(昭)が立って乱が治まり、桓公はやっと葬られた。長い間、埋葬されることがなく、死体に虫が湧いていたという。
桓公(西周)(カンコウ)【王】
西周(諸侯)の君(初代)。名は掲。河南公。周考王の弟。
公子掲は王城の地に封じられ、河南公となる。
公子掲は後、諸侯としての西周の桓公と呼ばれる。
桓公(周)(カンコウ)【文官】
周王朝の臣。周公。名は黒肩。〜B.C.694。
B.C.717冬、鄭荘公が周に入朝したが、先年、鄭が温の麦を刈り取ったことを恨んで、 桓王はこれを礼遇しなかった。桓公は「周室が東遷したとき、晋と鄭の二国を頼りとしました。 鄭とは仲良くすべきです。礼遇しなければ、もうやってこないでしょう」と諌めたが、桓王は聴き入れなかった。
B.C.707桓王が鄭荘公の政権を奪ったので、荘公は怒って周に参朝しなくなった。
秋、桓王は陳・蔡・虢・衛の兵を率いて鄭を討った。虢公林父は右軍の将となり、蔡・衛の軍はそれに付いた。 桓公は左軍の将となり、陳の軍がそれに付いた。
鄭の公子子元は「陳は乱れて、その民は戦う心がありません。真っ先に陳の軍を攻め立てたら、逃走するでしょう。 周王の軍はそれを見たら、きっと乱れるでしょう。そこを集中攻撃すれば、事は成功いたします」と進言したので、鄭荘公はそれに従った。
鄭荘公は曼伯に右軍を、祭仲に左軍を率いさせ、 原繁高渠弥に中軍を率いさせて自らを守らせ、魚麗の陣をつくり、 兵車を前に歩兵を後ろにして、鄭の繻葛で戦った。
鄭の左右軍は連合軍の左右の軍を破り、桓王の軍も乱れた。そこで鄭軍は集中してこれを攻撃したので、桓王の軍は大敗した。(繻葛の戦い)
周桓王は桓公に公子を依頼して後見させた。辛伯は「妾が王后と肩を並べ、 庶子が嫡子のようにはばをきかせ、寵臣が正卿とならんで政権をとり、地方の大都が国都に匹敵するのは、国の乱れるもとです」と諌めたが、桓王は聴き入れなかった。
B.C.694桓公は周荘王を弑して、公子克を擁立しようとした。それを知った辛伯が荘王に告げ、桓公は荘王と辛伯に殺された。
桓公(燕)(カンコウ)【王】
燕公。〜B.C.362。
B.C.373即位する。
桓公(曹)(カンコウ)【王】
曹公(11代目)。名は終生。穆公の子。〜B.C.702。
B.C.756即位する。
B.C.702春、没す。
桓公(陳)(カンコウ)【王】
陳公(12代目)。名は鮑。文公の子。〜B.C.707。
B.C.745即位する。
B.C.719桓公は衛の公子州吁の収集に参加して鄭を討った。鄭荘公が陳に和睦を申し出たが、 桓公は許さなかった。桓公の弟五父が「仁者に親しみ隣国と仲良くすることは国の宝です。申し入れを許すべきです」と諌めたが、 桓公は「今わが国が争うことのできない国は、宋と衛である。鄭など何ができようか」と言って聴き入れなかった。
そこで陳は諸侯とともに鄭の都の東門を包囲した。しかし5日かかって攻め落とせなかったので引き返した。(東門の役)
秋、桓公は衛・宋・蔡・魯とともに再び鄭を討ち、鄭の歩兵を打ち破り、鄭の禾を刈り取って引き揚げた。
州吁は衛の桓公(完)を弑して代わって立ったが、民がなつかなかった。 そこで石碏の進言を聞いた石厚の勧めで州吁は陳桓公にとりいって、 天子に即位を認めてもらうこととした。
一方で石碏は陳に人をつかわして「この二人はわが君を弑した無道の者です。貴国にお願いします、殺してください」と言った。
桓公はこれを容れて、二人を捕らえた。そして処刑の立会いを衛に求めた。
9月、衛の右宰の立会いで州吁を濮で殺し、ドウ羊肩の立会いで石厚を殺した。
B.C.717、5月11日、鄭に攻められて大敗する。
B.C.716桓公は、鄭の公子が周の人質となり、桓王の寵愛を受けていることを知り、 娘を妻に与えようと鄭に申し入れ、鄭もこれを許可したので、婚約が成立して陳と鄭は和睦した。
12月11日、鄭と盟いを結んだが、鄭の臣良佐は陳の政治を見て、陳はやがて乱れるであろうと予言した。
B.C.710宋の宰相華督が宋殤公を弑した。
3月、桓公は魯桓公・斉釐公・鄭荘公と宋の稷で会合して、 宋の乱の後処理をする。
B.C.707公子佗(厲公)が太子を殺して、それに代った。 桓公は、国が乱れて人々が四散しているときに没した。
桓公(杞)(カンコウ)【王】
杞公(9代目)。名は姑容。徳公の弟。〜B.C.567。
B.C.615桓公は魯を聘問し、魯から娶った叔姫と離婚して他の公女を迎えたいと願い出てきた。 魯文公はこれを許した。
B.C.591春、魯に攻められた。
B.C.586、12月24日、鄭が晋に服従したので、桓公は晋景公・魯宣公・ 斉頃公・宋共公・衛定公・ 鄭悼公・曹宣公と晋の虫牢で会盟した。
B.C.584秋、桓公は晋景公・曹宣公・斉頃公・魯成公・莒の君・邾定公・衛定公と会合して、楚に攻められた鄭を救う相談をした。 しかし鄭は単独で楚軍を破った。
8月13日、桓公は衛の馬陵で諸侯と同盟し、虫牢の盟いを確認し、莒が晋に服従したことを確認した。
B.C.582春、前年に汶陽の田を斉に返したことで諸侯が晋の信義を疑ったため、晋景公は桓公や魯成公・斉頃公・衛定公・宋共公・ 鄭成公・莒渠丘公・曹宣公と衛の蒲で会合して、馬陵の盟いを忘れないようにした。
B.C.573秋、桓公は魯を訪問して晋の様子を尋ねた。魯成公が晋悼公の立派な政治ぶりを話したので、桓公は晋に縁組を願い出た。
B.C.567、3月2日、没す。
桓公(衛)(カンコウ)【王】
衛公(3(13)代目)。名は完。荘公の子。母は戴嬀。〜B.C.719。
B.C.733弟の州吁が驕奢であったため排斥すると、州吁は国外に出奔した。
B.C.722、10月15日、桓公は魯恵公を改葬した。
鄭の公子が叛乱を起し、その子の公孫滑が衛に出奔して救いを求めてきたので、 桓公は鄭を討って廩延の地を取った。
荘公は周と虢の軍を率いて衛の南境に攻め入った。
B.C.721、12月、前年に鄭の廩延を攻めた報復として、鄭に攻められた。
B.C.719、3月17日、桓公は州吁に攻められ殺された。
桓公(宋)(カンコウ)【王】
宋公(18代目)。名は禦説。湣公の弟。〜B.C.651。
B.C.683秋、宋に洪水があった。魯荘公臧文仲を遣わしてお見舞いをさせ 「天は長雨を降らせて祭りに供える穀物を損なったとのこと。どうしてお見舞いせずにおられましょうか」と言った。
湣公は「わたしが不敬で政治をつつしまないばかりに、天は災害を降し、その上、君にもご心配をかけました。 仰せのほどありがたく存じます」と答えた。臧文仲はこれを聞き「宋は盛んになるだろう。 湯王は自分を責めたからこそ国は栄えた。 またみずからを『孤』と称してつつしんでおられる」と言った。しかしこれはすべて公子禦説が助言したものであった。 魯の臧孫達はこれを聞いて「この人は君になれる人である。民を憂える心を持っている」と言った。
B.C.682南宮万が叛乱を起こし、湣公を殺したため、公子禦説は毫に出奔したが、 南宮牛に包囲された。
冬10月、宋の臣叔大心が、宋の先君荘公の子孫と力を合わせ、 曹に救援を求めて南宮牛の軍を攻めてこれを殺し、公子禦説は宋公に擁立された。
B.C.681桓公は北杏の会盟に参加する。
桓公は北杏の会盟に背いた。
B.C.680斉・陳・曹に攻められた。
夏、周の単伯が諸侯の軍に参加して、宋は諸侯と和平した。
冬、桓公は周単伯・斉桓公・衛恵公・ 鄭厲公と衛の鄄で会合した。
B.C.679春、桓公は再び鄄で斉・衛・陳・鄭と会盟を行った。
秋、宋は郳(小邾)を討伐した。その隙に鄭が宋に攻め入った。
B.C.678夏、宋は斉・衛とともに鄭を討った。
12月、桓公は斉桓公・陳宣公・衛恵公・鄭厲公・許の君・滑の君・滕の君と宋の幽で会合し、鄭は斉と和平した。
B.C.675冬、斉と宋と陳は魯の西に侵入した。
B.C.668秋、桓公は魯・斉と会合して徐を討った。
B.C.667、6月、桓公は魯荘公・斉桓公・陳宣公、 鄭文公と会合して幽で同盟し、 陳と鄭が斉に服従した。
B.C.662斉桓公は、楚が鄭を討ったので、その報復を図るために諸侯を招集した。桓公はその前に会見したいと願い出たので、斉桓公と夏に梁丘で会見した。
B.C.660衛懿公が狄に殺されて衛が滅びると、桓公は衛の民を黄河まで迎えに行き、夜に乗じて黄河を渡った。 そして衛の生き残りの男女730人と共・滕の民をあわせて5000人を連れて、衛の公子申(戴公)を擁立し、 衛の曹邑に仮住まいさせた。
B.C.659春、桓公は諸侯とともに邢を助けた。邢人は聶北にいた諸侯の軍に逃げてきたので、連合軍は狄の人を追い払った。
8月、桓公は斉桓公、鄭文公、曹昭公、邾と宋の檉で会合し、楚に攻められている鄭を救うことを相談した。
B.C.658、9月、桓公は斉桓公・江・黄と宋の貫で会盟する。
B.C.657秋、桓公は斉桓公・江・黄と陽穀で会合し、楚を討つ相談をする。
B.C.656春、桓公は斉桓公、魯釐公、陳宣公、衛文公、鄭文公、 許穆公、曹昭公と会合して蔡を討ち、勢いに乗じて楚に攻め入った。連合軍は楚と和平の盟いを結んだ。
秋、斉桓公は袁濤塗が軍道を誤らせようとしたのを責めて、宋・衛・鄭・許・曹・魯とともに陳を討った。
B.C.654桓公は、斉桓公・魯釐公・陳宣公・衛文公・曹昭公と会合して鄭を討ち、新城を包囲した。
秋、楚が許を包囲して鄭を助けようとしたが、諸侯が許を救ったので、楚軍は引き揚げた。
B.C.653、7月、桓公は、斉桓公・魯釐公・陳の太子・鄭の太子と魯の甯毋で会合し、 鄭に対する処置を相談した。
B.C.652春、桓公は斉桓公・魯釐公・衛文公・曹共公・陳の太子款・許僖公・周王の使者と会合し、 曹の洮で盟い、周王室の騒ぎを鎮めることを相談した。
桓公は病気となった。太子茲甫目夷に位を譲ると言ったので、 桓公は目夷を太子にしようとした。しかし目夷は辞退して「国を譲れるというのは、これより大きな仁はありません。また庶子のわたしが立つのは道にはずれています」 と言ったので、桓公はこれを取りやめた。
B.C.651、3月21日、没す。
桓公(秦)(カンコウ)【王】
秦公(12(17)代目)。共公の子。〜B.C.579。
B.C.604桓公は即位した。
B.C.601夏、晋が白狄とともに秦に攻め入ってきた。
B.C.594晋が赤狄潞氏に勝利した。
7月、桓公はこれに乗じて晋の地である輔氏に侵略したが、晋の臣魏顆の奮戦によって撃退され、 杜回が捕らえられた。
B.C.589、11月、右大夫が魯・楚・蔡・陳・許・宋・衛・斉と蜀で和睦の盟いを結んだ。 諸侯は一方で晋を恐れていながら、こっそりと楚と盟っていた。
B.C.582冬、桓公は晋景公と黄河をはさんでたがいに誓った。しかし帰ると桓公はこれに背き、 白狄とともに晋を討った。
B.C.580秦は晋と和睦して、晋の令狐で会合することとなった。晋厲公は先に到着したが、 桓公は黄河を渡ろうとせずに秦の王城にとどまり、大夫史顆を遣わして晋と盟った。 そのため晋の郤犨が王城で盟うこととなった。晋の士燮は「この盟いに何の利益があろう。 盟いの場は信を表す始めである。始めが守られないのに、どうして信を実行することができよう」と言った。
果たして、桓公は都に戻ると晋との和睦を破った。
桓公(田斉)(カンコウ)【王】
田斉公(2代目)。名は午。太公の子。〜B.C.379。
B.C.380秦と魏が韓を攻め、韓は援けを斉に求めた。桓公は田臣思のはかりごとを用い、いつわって韓を援けると告げた。
韓はそれを信じて秦・魏と戦い、楚・趙は韓を援けた。
そこで桓公は兵を起して燕を襲い、桑丘を取る。
B.C.379衛を救った。
桓公(召)(カンコウ)【文官】
周王朝の臣。召公。
B.C.603冬、桓公は王后を斉から迎え入れた。
B.C.583、7月、桓公は簡王の命で魯に赴き、魯成公の即位を認める天子の辞令を賜わった。
桓公(甘)(カンコウ)【王】
甘公。
B.C.518、1月5日、桓公は召簡公南宮嚚に連れられて子朝にお目にかかり、 味方についた。
桓公(劉)(カンコウ)【王】
劉公。
B.C.503、4月、桓公は単武公とともに儋翩に加担した尹氏を窮谷で討ち取った。
11月24日、桓公は単武公とともに周敬王を周に迎え入れた。
B.C.502、2月26日、単武公が穀城を討ち、桓公は儀栗を討った。
2月28日、単武公が簡城を討ち、桓公は盂を討ち、かくして王室は安定した。
桓公(成)(カンコウ)【王】
成公。周王朝の卿士。
B.C.502秋、桓公は晋の范鞅と会合して鄭に攻め入った。
桓侯(燕)(カンコウ)【王】
燕公。宣侯の子。〜B.C.691。
B.C.698即位する。
桓侯(蔡)(カンコウ)【王】
蔡侯(11代目)。名は封人。宣侯の子。〜B.C.695。
B.C.715即位する。
B.C.713、6月、魯・斉・鄭は天子の命により宋を討った。このとき桓侯は天子の命に従わず、連合軍に参加しなかった。
宋はそこで桓侯に働きかけて、宋・衛・蔡は連合した。しかし連合軍は、蔡に鄭討伐に参加させず、鄭の与国の戴を討たせた。
8月8日、宋・衛・蔡の連合軍は鄭軍に包囲された。
8月9日、連合軍は鄭軍に破られて降服した。
宋・衛・蔡の連合軍が敗れたのは、蔡が宋・衛に腹を立てたため連合軍が和合しなかったためである。
B.C.710桓侯は鄭荘公と蔡の鄧で会合した。楚の脅威が心配になってきたためである。
B.C.707周桓王が鄭荘公の政権を奪ったので、荘公は怒って周に参朝しなくなった。
秋、桓王は陳・蔡・虢・衛の兵を率いて鄭を討った。虢公林父は右軍の将となり、蔡・衛の軍はそれに付いた。 桓公は左軍の将となり、陳の軍がそれに付いた。
鄭の公子子元は「陳は乱れて、その民は戦う心がありません。真っ先に陳の軍を攻め立てたら、逃走するでしょう。 周王の軍はそれを見たら、きっと乱れるでしょう。そこを集中攻撃すれば、事は成功いたします」と進言したので、鄭荘公はそれに従った。
鄭荘公は曼伯に右軍を、祭仲に左軍を率いさせ、 原繁高渠弥に中軍を率いさせて自らを守らせ、魚麗の陣をつくり、 兵車を前に歩兵を後ろにして、鄭の繻葛で戦った。
鄭の左右軍は連合軍の左右の軍を破り、桓王の軍も乱れた。そこで鄭軍は集中してこれを攻撃したので、桓王の軍は大敗した。(繻葛の戦い)
B.C.698、12月、宋・斉・蔡・衛・陳は鄭を討つ。
B.C.696、1月、桓侯は魯桓公・宋荘公・衛恵公と曹で会合し、 鄭を討つことを相談した。
4月、桓侯は宋・衛・陳・魯とともに鄭を討った。
B.C.695、6月6日、没す。
簡公(斉)(カンコウ)【王】
斉公(28代目)。名は壬。悼公の子。〜B.C.481。
B.C.485悼公が鮑牧に殺されたため、国人に擁立される。
B.C.481夏5月壬申の日、田常の反乱に合い、寵臣監止は殺され、 簡公も庚辰の日、徐州で捕らえられる。公は「わたしは早くに御者ののことばに従っていたら、 よもやこうした憂き目にはあわなかったろう」と後悔し、甲午の日に田常に殺される。
簡公(燕)(カンコウ)【王】
燕公。名は伯款。懿公の子。〜B.C.493。
(時代と出来事から考えて、『春秋左氏伝』の簡公は『史記』の恵公と考えられる)
B.C.544懿公が没したため、公子伯款は即位した。
簡公は斉の高止の亡命を受け入れた。
B.C.539簡公は諸大夫をやめさせてお気に入りの臣を大夫にしようとした。そこで燕の大夫たちは徒党を組んで簡公のお気に入りの臣を殺した。
冬、簡公は恐れて斉に出奔した。
B.C.535、1月、斉景公が燕を討って簡公を燕に入れようとしたが、 両国がジュ水のほとりで盟いを結んだため簡公は帰国することができなかった。
B.C.530春、簡公は唐に送られた。
簡公(杞)(カンコウ)【王】
杞公(19代目)。名は春。出公の子。〜B.C.445。
B.C.445楚に滅ぼされる。
簡公(鄭)(カンコウ)【王】
鄭公(15代目)。名は嘉。釐公の子。B.C.570〜B.C.530。
B.C.566、12月16日、宰相子駟が鄭釐公を毒殺し、公子嘉は子駟に擁立された。
B.C.565夏、簡公は鄭釐公を葬った。
鄭の公子たちは鄭釐公が殺されたので、子駟を討とうと相談していた。
4月12日、子駟は先手を討って子狐子煕子侯子丁の4人の公子に罪を着せて殺した。 子狐の子孫撃孫悪は衛に逃れた。
4月22日、子国子耳は晋の機嫌を取るために、 蔡を討って司馬公子を捕えた。
5月7日、晋悼公は諸侯の大夫を邢丘に会合させた。簡公は蔡の戦利品を献上するためみずから参加した。
冬、楚の子嚢が鄭を討ち、蔡を侵した罪を責め正した。子駟・子国・子耳は楚につこうとしたが、 子孔子蟜子展は晋の援軍を待つべきだと主張した。 子駟が「楚につきましょう。もしうまくゆかなかったら、この騑が責任を取りましょう」と言ったので、簡公は楚についた。
B.C.564、10月、晋は鄭が楚と同盟したのを怒って、鄭を討った。簡公はこれを聞いて恐れ晋と和睦しようとした。
11月10日、簡公は晋と鄭の戯で同盟し、晋に降服した。このとき鄭の六卿である子駟・子国・子孔・公孫輒・ 子蟜・子展とその家来や嫡子が参加した。このとき鄭は「大国(晋と楚)が鄭に恵みを施さず、武力をもって服従を強要しており、 鄭は神々の祭りを受けることができず、民も土地の利を楽しむことができない」と盟いの文を読んだ。晋が反発したが、鄭はそのまま盟いを結んで引き揚げた。
晋が再び諸侯を率いて攻め入ってきた。
12月5日、鄭の三門が攻められた。
閏12月に連合軍は陰阪を渡って鄭に攻め入り、鄭の陰口で止まって引き揚げた。子孔が追撃すべきであると言ったが、子展はこれに反対した。
今度は、楚恭王に攻められた。子駟が楚と和睦しようとすると、子孔と子蟜が反対した。子駟と子展は 「われわれが晋に盟ったのは、晋が強い国であるからです。今、楚が攻めてきたのに、晋が助けにこないのは楚が強いということになります。 無理にしいられた盟いというものには実質はないものです」と言って、楚と和睦した。楚の大夫公子罷戎が鄭の軍中を訪れて盟い、 中分という里で正式に同盟を結んだ。
B.C.563、6月、子耳が楚の子嚢とともに宋軍を宋の訾毋で討った。
7月、子耳が子嚢とともに魯の西境に攻め入り、引き返して宋の蕭邑を包囲した。
9月25日、諸侯に攻められ、鄭の牛首に進撃された。
10月14日、堵女父司臣尉止尉翩司斉子師僕侯晋らが叛徒を率いて公宮に攻め入り、子駟・子国・子耳を殺した。子孔・子産・ 子蟜が叛乱を鎮圧し、子孔が子駟に代わって国政を執った。
11月、楚の子嚢が鄭の援助に出かけた。
11月16日、子嚢が諸侯の軍と潁水をはさんで対陣した。すると鄭は楚に服従した。
11月24日、諸侯の軍が引き揚げたので、子嚢も引き揚げた。
B.C.562、4月、簡公は晋と楚にかわるがわる攻められることで悩んでいた。子展が宋を攻めて晋に攻められたら晋につき、楚に攻められたら楚につくよう進言した。 そこで簡公は子展に命じて宋を討った。
簡公は子蟜とともに楚に赴いた。
はたして晋・魯・宋・衛・曹・斉・莒・邾・滕・薛・杞・小邾が鄭に攻め込んできた。
4月19日、斉と宋が真っ先に都の東門に攻め込み、夕暮れに晋が西郊に進み、さらに西進した。また衛が鄭の北境に攻め入った。
6月、諸侯は北林で会合し、鄭の向に軍を進めた。
楚が秦とともに鄭を討とうとした。簡公はこれを出迎えて降服した。
7月27日、鄭は宋を討った。
9月、晋・魯・宋・衛・曹・斉・莒・邾・滕・薛・杞・小邾が会合して、鄭を討った。 簡公は良霄と大宰の石㚟を楚に遣わし、 晋に降服しようとしている旨を報告させた。そのためふたりの使者は楚に捕えられた。
諸侯の連合軍は鄭の東門で勢ぞろいして武威を示したので、簡公は公子伯駢に命じて和睦した。
9月26日、簡公は鄭の軍中で晋の趙武と盟った。
10月10日、子展が晋の軍中に出かけて晋悼公と盟った。
12月1日、諸侯は鄭の蕭魚で会合した。
12月3日、諸侯は鄭の捕虜を釈放し、丁重に扱って帰した。
晋に攻められたため、鄭は降服した。晋が蕭魚で諸侯と会合したので簡公は降服して、女や楽器を献納した。
簡公は石盂を処刑した。
B.C.559春、呉が楚と戦って大敗したことを晋に告げてきた。簡公は子蟜に命じて晋・魯・宋・衛・斉・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と向で会合させた。
夏、鄭は晋・魯・宋・衛・斉・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾とともに秦を討った。
冬、簡公は子蟜に命じて晋・魯・宋・莒・邾と戚で会合させ、衛の公子の即位を認めた。
B.C.558、1月、簡公は馬160頭と楽師のと慧を贈り物として、B.C.563の内乱のときに宋に亡命した者を渡すよう依頼した。
2月、簡公はさらに公孫黒を人質として差し出して、亡命した者を渡すよう依頼した。 そこで宋の子罕は亡命していた堵女父・尉翩・司斉を鄭に渡した。簡公はこの3人を処刑して潮漬けにした。
宋に行った師慧が無礼であったので、宋は師慧を鄭に返してきた。
11月9日、晋悼公が没した。簡公は子西に命じて晋に出かけて喪礼の世話をさせ、子蟜が会葬した。
12月、鄭人は堵狗が妻の里の范氏と謀って謀叛することを恐れ、堵狗の妻を奪って晋の范氏のもとへ送り返した。
B.C.557、3月、簡公は晋平公・魯・宋・衛・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と会合し、諸侯は侵略した土地を帰した。
晋平公は温で宴会を催した。このとき許の君が晋に都を移したいと申し出たので、晋は独力で許を討って都を移させようとした。 簡公は許に対するうらみを晴らそうとして許討伐の軍に参加した。
6月、諸侯の軍は許の棫林にとどまった。
6月9日、諸侯の軍は許を討って許の函氏に軍をとどめた。
B.C.555子蟜が引退した。
簡公、子西とともに晋に赴いた。
10月、簡公は晋平公・魯襄公・宋平公・衛殤公・ 曹成公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・杞文公・ 小邾の君と魯の済水のほとりで会合し、B.C.557の湨梁の盟いを再確認して諸侯と共に斉を討った。
簡公が斉討伐に出かけているときに、子孔が楚軍を引き入れて叛乱を起こそうとした。楚の子庚が進軍してきたが、 子展と子西がその陰謀を知って守備を十分に固くして城を守ったので、子孔は叛乱を起こすことができなかった。楚軍は魚陵に軍をとどめ、精鋭をつかって費滑・ 胥靡・献于・雍梁に次々と攻め入り、東に進んで梅山の麓をまわり、虫牢まで進撃して引き揚げた。子庚は鄭都の純門を攻め、城下に二泊して帰った。
B.C.554、1月、簡公は斉の督揚で諸侯と盟いを結んだ。
4月、子蟜が没した。
子孔がわがまま勝手に国政を行ったので、人々は心配した。そこでB.C.563の西宮の騒動とB.C.555の純門の戦いにおける事情を正したところ、 子孔は有罪となった。そのため子孔は家兵と子革子良の家兵で家を守った。
8月12日、子展と子西は国人を率いて子孔を殺してその家財を分け合った。子革と子良は楚に亡命した。
鄭人は簡公が弱かったので子展を摂政として君事を代行させ、子西を宰相として国政を執らせ、子産を卿に任命した。
B.C.553、4月、簡公は晋に赴いた。
B.C.552冬、簡公は晋平公・斉荘公・宋平公・魯襄公・鄭殤公・曹武公・莒の君・邾の君とともに商任で会合した。 諸侯は晋を出奔した欒盈を受け入れることのないように取り決めた。
B.C.551夏、晋が簡公に対して来朝せよと要求した。そこで子産は晋に赴いて弁明した。
B.C.549、2月、簡公は晋へ行き、重い幣物を軽くしてもらうためと、陳を討つことを願った。簡公は晋の范匃に稽首の礼をしてお願いした。
秋、簡公は晋平公・魯襄公・衛殤公・宋平公・曹武公・莒犂比公・邾悼公・滕の君・薛の君・杞文公・ 小邾の君と夷儀で会合し、斉を討とうとしたが、大水が出て斉を討つことができなかった。
冬、楚康王が鄭を討って斉を助けようとした。楚軍は鄭の東門を攻め、鄭の棘沢に軍を留めたが、諸侯が鄭を救おうとしたため引き揚げた。
B.C.548夏、簡公は泮から泮水を渡り、晋平公・魯襄公・衛殤公・宋平公・曹武公・莒犂比公・邾悼公・滕の君・薛の君・杞文公・ 小邾の君と夷儀で会合して斉を討ち、朝歌の戦い(B.C.550)の報復をした。
簡公は諸侯と会合し、晋平公は斉に逃れていた衛献公を迎えようとした。
6月24日、子展と子産が兵車700台を率いて陳を討ち、都を陥落させた。
7月11日、斉が降服したので、簡公は諸侯と重丘で同盟した。
10月、簡公は子展とともに晋に出かけ、晋が陳の捕虜を受け入れたことに対するお礼を申し上げた。
子西が再び陳を討ち、陳は鄭と和睦した。
B.C.547、3月1日、簡公は陳に攻め入った軍功を賞し、子展に先路(車)と三命の服を与え、続いて8邑を贈った。また子産には次路(車)と再命の服を与え、 続いて6邑を贈ったが、子産が辞退したので、3邑のみ贈った。
5月、秦と楚が攻め入ってきた。皇頡が城麇を守っていたが、楚軍と戦って敗れ、 皇頡と印菫父は捕らえられた。鄭人は財貨を印菫父の一族から取り上げ、 それを秦に贈って身柄をもらい受けようとした。そこで秦は印菫父を鄭に引渡した。
6月、簡公は良霄に命じて、晋・宋・曹と澶淵に会合して衛を討った。
7月、晋が衛献公を捕らえたので、簡公は斉景公とともに晋に出かけて衛献公を許すよう請うた。 そこで晋平公はこれを許した。
10月、楚が攻めてきた。子産は楚軍はすぐに撤退すると進言したため、子展はこれを防がなかった。
12月6日、楚軍は鄭の南里に攻め入ってその城壁を壊し、楽氏から川を渡って鄭の都の城門師之梁を攻めた。楚軍は氾から汝水を渡って引き揚げた。
B.C.546冬、簡公は会合から帰国する晋の趙武を垂隴でもてなした。
B.C.545夏、蔡景侯が鄭を通過して晋に朝聘するとき、簡公は子展を遣わして東門の外でこれを慰労した。
簡公は子大叔を楚に遣わした。
秋、蔡景侯が晋からの帰途、鄭に立ち寄ったので、簡公はこれをもてなした。
9月、簡公は子大叔を晋に遣わして楚に朝して宋で盟ったことを実行するという報告をした。
11月、簡公は魯襄公・宋平公・陳哀公・許の君と一緒に楚を朝聘した。
B.C.544、4月、楚康王が葬られた。簡公は陳哀公・魯襄公・許の君とともに会葬して西門の外まで送った。
子展が没して、子の子皮が後を継いだ。
6月、晋が杞の城壁の工事をしたため、簡公は子大叔と公孫段をこれに遣わした。
呉の季札が来聘した。
B.C.543簡公は子産とともに晋に赴いた。
4月16日、簡公は大夫たちと盟った。
6月、簡公は子産を陳に遣わした。
7月13日、公孫黒が駟氏の兵を率いて伯有氏を攻め、良霄は許に亡命した。
7月16日、簡公は大夫たちと祖廟で盟いを結び、国人と師之梁門の外で盟いを結んだ。
7月26日、良霄はひそかに都に戻って叛乱を起こしたが殺された。
子皮が公孫鉏羽頡に代えて馬師に任命した。
冬、宋で火災があったので、諸侯の大夫が会合して宋に財物を贈ることになり、簡公は罕虎を遣わした。
子皮が子産に政権を譲った。
B.C.542簡公は子産とともに晋を聘問した。子皮が印段を楚に遣わして、簡公が晋へ出かけることを告げさせた。
12月、衛の北宮文子が鄭に立ち寄った。
B.C.541、1月、楚の公子が鄭を聘問し、公孫段の娘を妻に迎えた。
鄭で虢の会盟が行われ、趙武、国弱向戌、斉悪、 叔孫豹公孫帰生、子皮、許の人、曹の人と会同した。
4月、趙武、叔孫豹、曹の大夫が鄭都に立ち寄った。簡公はこれをもてなした。
6月11日、子南の騒動のため、簡公は大夫とともに公孫段の家で盟いを結んで和合を図った。
晋平公が病気になったため、簡公は子産を晋に遣わして病気見舞いをさせた。
11月、楚の公子囲が主君を殺し(霊王)、子皙が鄭に亡命してきた。
12月7日、趙武が没した。簡公は晋に出かけて弔問しようとしたが、雍まで行って趙家から辞退されたため、そこで引き返した。
冬、楚霊王の強盛を恐れて、簡公は子大叔を楚に遣わして即位の挨拶をさせた。
B.C.540秋、公孫黒が謀叛を起こそうとした。公孫黒の一族の駟氏が公孫黒を殺そうとしたため、子産は役人に命じて公孫黒を責めて自決を促した。
7月2日、公孫黒は自決した。
11月、印段は晋を聘問して亡くなった少姜の弔問をした。
B.C.539、1月、子大叔が晋に出かけて少姜の葬儀に参列した。
4月、簡公は晋を聘問した。
7月、子皮が晋に出かけて、新たに迎えた夫人のお祝いを申し上げた。
10月、簡公は楚に出かけた。簡公は楚霊王と一緒に江南の夢沢で狩をした。
B.C.538、1月、簡公は楚に出かけた。簡公は許の君とともに楚霊王と一緒に江南で狩をした。
楚は晋に諸侯と会合を開くことを申し出たため、簡公はそのまま会合が開かれるのを楚で待った。
夏、蔡霊侯・陳哀公・許の君・徐の君・滕の君・頓の君・胡の君・沈の君・小邾の君・ 宋の公子・淮夷の君が楚の申で会合した。簡公は真っ先に会合の地に行って待機した。
6月17日、諸侯は申で会合した。
7月、楚霊王は諸侯を率いて呉を討ったが、簡公は先に帰国して大夫が楚霊王に従った。
この年、子産が丘賦という兵賦の税法を始めた。
B.C.537春、楚の子蕩屈生が晋に使いして鄭に立ち寄ると、 簡公は子蕩を氾でねぎらい屈生を兎氏でねぎらった。晋平公がわざわざ公女を邢丘まで送って出迎えていたため、簡公は子産とともに晋平公と会合した。
晋の韓宣子が楚に使いして帰国するとき、簡公は国内の圉で慰労しようとしたが、韓宣子は辞退した。
B.C.536、3月3日、駟帯が没した。
3月、子産が刑法の文を鼎に彫りつけ、国の常法として国民に示した(中国史上初の成文法)。
6月8日、鄭で火災が起こった。
夏、楚の公子棄疾が鄭に立ち寄ったため、子皮・子大叔・子産が柤でこれを慰労した。
B.C.535鄭では良霄の幽霊が出たと騒動になった。良霄の霊はある人の夢の中で駟帯を殺し(B.C.536)、1月28日に公孫段を殺そうと言っていたが、 はたしてその通りとなったため国の人々は一層恐れた。
2月、子産が良霄の霊をなだめたため、たたりがやんだ。
罕朔が罕魋を殺して晋に出奔した。
3月、魯昭公が楚に行く途中に鄭に立ち寄った。
B.C.533、1月、子大叔が楚霊王、叔弓華亥趙黶と陳で会合した。
B.C.532、7月4日、晋平公が没した。簡公は晋に弔問に出かけて黄河まで行ったが晋人が辞退したため、子大叔を晋に遣わした。
9月、簡公は子皮を晋に遣わして晋平公の弔問に出かけた。
B.C.531秋、子皮が晋・魯・斉・宋・衛・曹・杞と厥憖で会合し、楚に攻められている蔡を救う相談をした。
B.C.530、3月28日、簡公は没した。
6月、簡公は葬られた。
簡公(秦)(カンコウ)【王】
秦公(21(26)代目)。名は悼子。懐公の子。〜B.C.403。
B.C.418霊公が没すると、子の献公は立つことが出来ず、悼子が立った。
B.C.412令を出して初めて役人に剣を帯びさせる。
洛水に溝を掘り、重泉に長城を築く。
簡公(成)(カンコウ)【王】
成公。
B.C.535周景王の命で、簡公は衛襄公の弔問に出かけた。
簡公(鞏)(カンコウ)【王】
鞏公。周王朝の臣。〜B.C.508。
B.C.520、6月26日、簡公は京で子朝の軍に大敗した。
B.C.509簡公はその親族を用いずに、血のつながりのない他人を用いることを好んだ。
B.C.508、4月24日、簡公は鞏氏の子弟たちに殺された。
簡公(召)(カンコウ)【王】
召公。
B.C.518、1月5日、簡公と南宮嚚は、 甘桓公を連れて子朝にお目にかかり、味方につけた。
甘公(カンコウ)【文官】
楚の臣。
甘公は、卜筮など数術の専門家であった。
顔高(ガンコウ)【武官】
魯の臣。
B.C.502、1月、魯は斉を討ち、陽州の城門に攻め込んだが勝てなかった。魯の兵士は戦意なく座り込んで「顔高の弓は6釣(46kg)の重さのものを懸けることができる強い弓だ」と言って、 皆が手にとって見ていた。そのとき不意をついて陽州の人が攻めて来たため、顔高は他人の弱い弓を奪い取って、籍丘子鉏を射て、 頬に命中させて殺した。
顔高(ガンコウ)【在野】
孔子の弟子。字は子驕。
B.C.495孔子が陳に行こうとして、宋の邑の匡の城外を通った。顔高は孔子の御者であったが 「先生、わたしが陽虎に随行してここに来た時は、 あの城壁の欠けているところから入ったのです」と言い、一行はそこから入った。
匡人が孔子を陽虎と間違えて一行を取り囲み、一行は窮した。
顔幸(ガンコウ)【在野】
孔子の弟子。字は子柳。B.C.505〜。
韓康子(カンコウシ)【武官】
晋の臣。韓の先祖。名は虎。韓荘子の子。韓康伯ともいう。〜B.C.430。
B.C.457韓康子は荀瑶と藍台で宴会をしたとき、魏の相段規とともに辱しめられた。
B.C.456荀瑶とともに趙毋卹を討つが、韓康子は魏桓子と謀って、 逆に荀瑶を討ち、その土地を分割した。
韓氏の領地はますます広まり、諸侯をしのぐに至った。
寒浞(カンサク)【王】
有窮国后羿の宰相、王。
寒浞は寒の国人であったが、伯明に追放された。
寒浞は后羿に拾い上げられ、信頼されて宰相となった。
寒浞は内に媚び、外に賄賂を施して、民をだまし、后羿には狩猟ばかりをさせた。さらに寒浞は詐偽邪悪な手段を用いて国を乗っ取り、 宮人も群臣も寒浞を信頼した。
后羿は夏王朝の政権を奪った。
后羿が狩猟から帰るとき、寒浞は逢蒙に命じてこれを射殺させ、 后羿の妻を奪って寒澆寒キを生み、有窮国の長となった。
寒浞は民に徳を施さず、寒澆に命じて軍を率いて斟灌・斟尋の2国を滅ぼし、寒澆を過国に、寒キを戈の国に住まわせた。
有窮から有鬲氏へ出奔した靡は、有鬲氏で旗揚げをして斟灌と斟尋の生き残りを集めた。そして寒浞はかれらに滅ぼされた。
(『史記』では、寒浞は夏の将軍斟灌斟尋に滅ぼされたことになっているが、『春秋左氏伝』の伝承では、斟灌と斟尋は国名になっている)
罕朔(カンサク)【武官】
鄭の臣。馬師。公孫鉏の子。
B.C.535、2月、子皮の一族は酒に耽って節度がなかったため、同族の馬師氏と不和であった。 そこで罕朔は罕魋を殺して晋に出奔した。罕朔は晋で位一等を下されて嬖大夫(下大夫)となった。
監止(カンシ)【宰相】
斉の宰相。字は子我。〜B.C.481。
B.C.485簡公が公子の時代から彼に寵愛され、簡公が即位すると田常とともに左右大臣となり政事を司る。
B.C.481田氏の遠縁の田豹が監止に仕えており、監止は「わしは田氏の嫡流をことごとく滅ぼし、豹を田氏の宗主としたい」と言った。 しかし田豹はひそかにこのことを田常に告げた。
夏5月壬申の日、監止が公宮に宿泊すると、田常が兄弟と共に公宮に赴き、監止と簡公とを離れ離れにされる。
その場は事なきを得たが、逆に監止は徒党を組み田常を攻めたが 敗退する。田常に攻められたため逃亡するが、豊丘の人に捕らえられ、郭関で殺される。
邗子(カンシ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
犬を放し飼いにしていたが、あるとき犬が山の洞窟に走りこんだため、邗子はそれについて入り、十余晩も泊まりを重ね、数百里を歩き続けるうち、宮殿を見つけた。 そこで亡くなった女房が魚を洗う係りをしているのに出会い、護符と薬をもらった。護符の箱の中には稚魚がおり、1年すると竜の形になった。 邗子は往来すること百余年にわたったという。
甘始(カンシ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
太原の人。行気をよくして飲食せず、また天門冬を服用し、房中のことを実践した。100余年も世に住んでいたが、やがて王屋山に入って仙去した。
韓侈(カンシ)【将軍】
韓の将軍。宜陽の守将。
B.C.307秦に攻められ、宜陽を失う。
桓子(カンシ)【将軍】
陳の将軍。司馬。
B.C.548、6月、鄭が兵車700台を率いて攻め込んできて、陳の都は陥落した。 不意を討たれた陳哀公はその悼太子を守り助けて墓場に逃げようとした。 桓子はこれに出会い、陳哀公が「車に乗せてくれ」と言ったが、桓子は「城を見回るところです」と言って断った。
韓子休(カンシキュウ)【武官】
斉の臣。
晏嬰が斉景公を諌めたが聴き入れられなかった。そのため晏嬰は国を出ようとした。 景公は韓子休に命じてその非を詫びさせた。
そのため晏嬰は帰国した。
管至父(カンシホ)【文官】
斉の臣。
B.C.686連称と共に葵丘の守備を命じられる。一年で交代する約束であったが、一年たっても交代させられなかったので、 公孫無知に叛乱するよう誘う。
B.C.685公孫無知・連称と共に宮中に侵入し、襄公を見つけ出して弑す。
簡師父(カンシホ)【文官】
周王朝の臣。
B.C.636冬、周襄王が狄に攻められて鄭の氾に出奔した。 襄王の命で左鄢父は秦に、簡師父は晋に使いして叛乱のことを伝えた。
顔之僕(ガンシボク)【在野】
孔子の弟子。字は子叔。
韓須(カンシュ)
韓貞子
干犨(カンシュウ)【武官】
宋の臣。〜B.C.521。
B.C.521、11月、華豹の御者となった。華豹は公子城に殺され、 その右役張匄も殺された。そのため干犨は「自分を殺してくれ」と願ったが、公子城は「わが君に申し上げて命乞いをしてあげよう」 と答えた。しかし干犨は「同乗の者と一緒に死なないのは、軍法の大罪です。早く殺してくれ」と願ったため、公子城はこれを射て殺した。
韓衆(カンシュウ)【在野】
斉の人。韓終とも書く。
王のために薬を取ったが、王が服しなかったので、韓衆は自ら服して仙人となったという。
また始皇帝が仙人不死の薬を求めた韓終であるともいう。
韓終
顔聚(ガンシュウ)【武官】
斉の臣。
B.C.229趙が秦に攻められる。李牧司馬尚がこれを討ったが、 幽繆王は李牧を誅し、司馬尚を罷免する。
趙葱と斉の将顔聚がこれに代わったが、趙葱は敗れ、顔聚は逃亡した。
顔讐由(ガンシュウユウ)
顔濁鄒
桓叔(カンシュク)【公子】
晋の公子。名は成師。文侯の弟。B.C.804〜738。
B.C.804千畝の戦いがあり、晋は戦果を挙げた。このとき生まれたので、戦勝にちなんで成師と名づけられた。
B.C.745周王朝より曲沃に封じられる。曲沃は晋の国都翼よりも大きかった。曲沃に封ぜられると、号して桓叔と称す。
欒賓を宰相とし、その勢力は本家を凌いだ。
徳を好んだため晋国の民はみな彼になついた。
B.C.739潘父昭侯を弑して桓叔を迎えようとした。桓叔は都に入ろうとしたが、 晋人が兵を出したため、桓叔は敗れて曲沃に帰った。
管叔鮮(カンシュクセン)【王】
管公。名は鮮(次子だから叔という)。周武王の弟。
B.C.1023武王が商を滅ぼすと、管に封じられ、紂王の子禄父を補佐して、商の遺民を治める。
B.C.1021武王が崩じ成王が幼少で即位して、周公旦が王室の権をもっぱらにしたので、 周公旦を排除しようとして禄父を擁して反乱を起こした。しかし周公旦に鎮圧されて殺される。
誅殺されたため子孫はない。
韓春(カンシュン)【在野】
戦国時代の説客。
韓春は秦昭襄王に説いて「王は、魏王と離縁した斉女を娶って妻とされるべきです。そうすれば斉と縁ができて、 魏を脅かすことができます。また斉と合同して斉女が生んだ公子負芻を魏王に立てるようにするべきです。 負芻が立って、その母が王の夫人となれば、魏は秦の県になったも同然です」と言った。
韓子輿(カンシヨ)【文官】
晋の臣。韓の先祖。韓厥の父。
簡如(カンジョ)【王】
鄋瞞(長狄)の君。栄如の弟。〜B.C.609。
B.C.609栄如が斉に攻め入ったが討ち取られたので、簡如が後を継いだ。
しかし敗走して衛を通りかかったときに、簡如は衛に討ち取られた。かくて鄋瞞は滅亡した。
韓徐(カンジョ)【武官】
趙の臣。
B.C.285斉を討つ。
干将(カンショウ)【在野】
呉の名刀匠。
呉王闔閭に越の宝剣よりもすばらしい剣を作るよう依頼された。妻の莫邪と共に二振りの剣を作る。 これを「干将」「莫邪」と名づけたが、あまりにもすばらしい出来だったため「莫邪」のみ呉王に献上する。
しかし3年後にそのことがばれてしまい、呉王に殺される。
観従(カンショウ)【武官】
楚、蔡の臣。卜尹。子玉ともいう。観起の子。
B.C.542、6月、観起が楚霊王に殺されたため、観従は蔡に出奔して朝呉に仕えた。
B.C.529春、楚で内乱が起こった。観従は蔡を復興させようと考え「今、蔡の復興を図らなければ、蔡は永遠に復興されなくなるであろう」と言って、 公子弃疾といつわって亡命していた公子子皙を呼び寄せた。 そして観従はふたりに事情を打ち明けて、ためらっている二人を無理に盟約させて、城内に入ってわざと公子弃疾を襲った。 公子弃疾は驚いて逃げ出した。観従は公子比に食事を食べさせて公子弃疾と盟約したように見せかけ、自ら蔡の国中に公子弃疾が二公子を呼んで楚を攻めようとしていると言った。 これを聞いた蔡の人々は観従を捕らえようとしたが、観従は「謀反人(公子比)はもう逃げたし、蔡公(公子弃疾)も軍を整えてしまった。 わたしを殺しても何の益があろう」と言ったため、蔡の人々は観従を許した。
5月、叛乱軍は都に入り、楚霊王は自殺した。観従は新王の公子比に「弃疾を殺さなければ、王になっても禍にかかるであろう」と言ったが、 公子比は「わたしにはそんなことはできない」と答えた。観従は「彼は平気であなたを殺そうとしています。私はそれを待つことはできない」と言って都を立ち去った。 はたして公子弃疾は公子比を自殺させて自ら楚王となり(平王)、観従を呼び寄せて「そなたの望むことをしましょう」と言ったため、 観従は「わたしの祖先は卜人の補佐役でした」と答えたため、観従は卜尹に任じられた。
(観従は呉に出奔して呉王に楚を討つことを勧めて叛乱を起こしたともいう)
韓聶(カンショウ)【武官】
田斉の臣。
昭襄王と親しかった。
韓襄(カンジョウ)【文官】
晋の臣。公族大夫。韓無忌の子。
B.C.557、1月、晋平公が即位すると、韓襄は祁奚;欒盈范鞅とともに公族大夫に任じられた。
甘ショク(カンショク)【武官】
周王朝の臣。
B.C.610秋、甘ショクは戎が酒を飲んで酔っているところにつけこんで、これを周の邥垂で破った。
顔ショク(ガンショク)【在野】
斉の処士、隠者。
宣王は顔ショクを引見した。
宣王「ショクよ、こちらへ」
顔ショク「王よ、こちらへ」
お側の者「王は人君であり、ショクは人臣である。無礼であろう」
顔ショク「わたしが進み出たら権勢に媚びることになります。王が進み出られたら、賢士に赴く英明の君ということになります。 そちらのほうがよろしいのではないでしょうか」
宣王「王と士ではどちらが貴いか」
顔ショク「士こそ貴いのです。むかし秦は斉を攻めたとき、柳下季(柳下恵)の塚で薪を採る者は死刑に処すとふれを出し、 斉王の首級を挙げる者は万戸侯にするとふれを出しました。生ける王の首級は、死んだ賢士の塚にも及ばないのです」
お側の者「王は戦車千乗を有する広い土地を持たれ、弁舌・賢智の士も仕えておる。士は高級なものでも野におる。とても話にはなるまい」
顔ショク「そうではありません。かつて大禹の時代には諸侯が一万もあったというのに、当代は24しかありません。 立派な君主は、道を問うことを恥とせず、下々に学ぶことを恥としません。王が孤や寡と自称するのは、人にへり下って士を貴ぶからではありますまいか」
宣王「士を軽んじたのは私の過失である。どうか私を弟子にしてお教えください」
顔ショク「真心を尽くして直言申し上げるのがわたくしの任務です。大切な事柄は、もうすっかり申し上げてしまいました。どうか帰郷のお許しを得て、 帰らせて下さいますよう」
顔ショクは丁寧にお辞儀をして、暇を告げて立ち去った。君子は「ショクは足ることを知っていた。だからこそ生涯辱めを受けずに済んだのである」と言った。
干辛(カンシン)【武官】
夏王朝の臣。
干辛は桀王の佞臣とされる。
韓穿(カンセン)【将軍】
晋の将軍。上軍大夫。
B.C.597春、鄭が楚に攻められた。
6月、晋は鄭を救援することとし、韓穿は上軍の大夫に任じられた。
しかし晋軍が到着する前に鄭は楚に降服した。 そこで荀林父は魏錡と趙旃に命じて和睦しようとした。
上軍の将士会は「防備をしておくのはよいことだ。もしも楚が悪意を持って攻めてきても、防備があれば破られまい」と言い、 鞏朔と韓穿に命じて敖山の前に伏兵を7ヶ所に設けさせた。はたして楚軍は晋軍に攻め込み、中軍と下軍は大破されたが、 上軍は破られなかった。
B.C.588、12月27日、晋は初めて六卿を設け、韓穿は卿に任じられた。
B.C.585冬、晋は楚に攻められた鄭の救援に出かけた。晋軍は繞角から進んで蔡を侵略した。 楚の公子と公子が蔡を助け、桑隧で晋軍を防いだ。 郤錡は諸将とともに決戦をするよう進言したが、韓厥荀首士燮が諌めたため、中軍の将欒書はそのまま引き揚げた。
B.C.583春、晋景公の命で、魯に赴き、汶陽の田を斉に返させた。
季孫行父は送別の宴を設けて、こっそり韓穿に「汶陽の田は、わが魯の昔からの領地であります。一時斉に取られていたので、 貴国はわが国に返して頂きました。しかるにいまご命令が変わり、斉に返せと仰せられる。信が守られず義が行われないなら、 天下の諸侯は離反しましょう。わたくしはそれを心配致します」と言った。
管浅(カンセン)【在野】
戦国時代の在野の士。
B.C.329魏と楚が陘山で戦い、魏は上洛の地を贈る約束をして秦に援けを求めたが、魏が楚に勝利すると違約して秦に土地を与えなかった。
管浅は秦恵文君に説いて「楚王に『わたしと会いましょう。魏は秦と楚が結ぶことを恐れて秦に土地を提供するでしょう。 楚は敗れても魏の土地を奪ったことになります。また秦も楚にお礼をいたしましょう』と言うのがよろしいでしょう」と進言した。
恵文君は「なるほど」と言ってその通りにした。すると魏恵王は上洛の地を秦に提供した。
韓宣子(カンセンシ)【宰相】
晋の宰相。上軍の佐、正卿。名は起。韓の先祖。韓厥の子。〜B.C.514。
B.C.566、10月、韓厥が隠居を願い出た。晋悼公韓無忌に父のあとを継がせようとしたが、 韓無忌は不治の病にかかっていたので辞退して、弟の韓宣子を勧めた。
10月9日、悼公は韓宣子を参内させ、父のあとを継がせた。
B.C.564、10月、諸侯は鄭を討ち、韓宣子は荀偃とともに衛・曹・邾とともに上軍を率いて鄭の師之梁門を攻めた。
B.C.560中軍の将智罃と下軍の佐士魴が没した。韓宣子は上軍の将に任じられたが、 韓宣子は趙武のほうが適任であるといって辞退した。 しかし晋悼公は趙武にはまだ早いと考えて欒黶を任命しようとした。しかし欒黶が「わたしは韓起の才能には及びません。 それに韓起は趙武を上にするように望んでおります。どうかお聞ききとどけください」と言って辞退した。そこで趙武が上軍の将、韓宣子は上軍の佐、 欒黶は下軍の将に任じられた。
B.C.555晋は諸侯と共に斉を討った。
12月3日、韓宣子は趙武とともに上軍を率いて盧を包囲したが攻め落とせなかったため、秦周の地に進み、 臨淄の雍門(西門)の萩の木を切り倒した。
韓宣子は韓原から居州にうつった。
B.C.549、5月、晋と秦が和睦した。韓宣子は秦に出かけて立ち会って盟い、また秦の伯車が晋に出かけて立ち会って盟った。 和睦が成ったが、両国の仲はかたく結ばれなかった。
B.C.547冬、韓宣子は周を聘問した。周霊王がその要件を尋ねると、 韓宣子は「晋の士起(自分)なるこのわたしが四時に奉るべき貢職をご報告したまでで、ほかに用事はございません」と答えた。周霊王は「韓氏はきっと栄えるであろう。 言葉づかいがしきたりにかなっている」と言った。
B.C.546宋の向戌が晋と楚を和睦させて戦をなくそうと謀った。趙武が大夫たちに相談すると、 韓宣子は「戦は民をそこなうものですから、これをやめようという者があるなら、たとえいけないと思っても必ず承諾しましょう。 もししなければ楚が承諾して諸侯を集めるだろう。そうなると、わが晋は盟主を失うであろう」と言ったので、晋人は承諾した。
B.C.544呉の季札が晋を聘問して、趙武・韓宣子・魏献子に会って、その人物に感服して 「晋はきっとこの三族のものになるであろう」と言った。
B.C.542魯の叔孫豹は趙武の後は韓宣子が正卿になると考えて、早めに韓宣子に近づくよう魯の重臣に勧めた。
B.C.541、12月、趙武が没すると、韓宣子が代わって正卿となった。
この年、楚の公子郟敖を弑して王となったので、 公子が晋に亡命してきた。 韓宣子は先に亡命していた公子と公子比の俸禄について叔向に尋ねた。
叔向「大国の卿は一族(500人)の田で、上大夫は一卒(100人)の田です。どちらも一卒でいいでしょう」
韓宣子「秦の公子は裕福である。どうして同じにするのか」
叔向「爵によって職務を決め、禄によって爵のある者を養い、徳によって分け、功績につり合うようにします。どうして富によって禄を分けましょうか。 その上、秦と楚は同格です。どうして富のために法をまげましょうか」
そこで韓宣子は、ふたりの俸禄を同じにした。
B.C.540春、韓宣子は魯に赴いて魯昭公の即位を祝う挨拶をし、自分が正卿になったことを報告した。 宴席で季武子のもてなしを受けた。
韓宣子はそのまま斉に赴いて斉の公女を迎えるための結納の品を納めた。 韓宣子は欒子雅の子欒子旗高子尾の子高子彊と面会したが、 「一家を保ってゆく大夫ではありません。思い上がって不忠の臣にみえる」と言った。斉の大夫はこれを冗談として笑ったが、 晏嬰だけは韓宣子のことばを信じた。
韓宣子はそのまま衛を訪れた。宴席で北宮文子のもてなしを受けた。
B.C.539春、斉の晏嬰が少姜の後を継ぐ方を晋に差し上げたいと申し出た。 韓宣子は叔向に命じてこれを受けさせた。
夏、韓宣子は斉に出かけて晋平公のために公女を迎えた。斉の高子尾が自分の娘を納めようと考えて公女にすりかえて、公女は他に嫁がせた。 ある人が韓宣子に「子尾は晋をだましている」と忠告したが、韓宣子は「わが晋は斉を味方にしようと考えている。斉の寵臣を遠ざけたら、 それを達せられなくなる」と言った。
B.C.537韓宣子は叔向とともに公女を楚に送り届けた。帰国するとき鄭が慰労しようとしたが、韓宣子は辞退した。
B.C.535鄭の子産が晋を訪問した。そのとき晋平公は病気であった。子産は韓宣子に病気について尋ねると、 韓宣子は「わが君の病気は久しく、何をしても治りません。ところが、黄熊が寝門に入る夢を見たそうです。何でしょうか」と尋ねた。 子産は「昔、の命を犯して殺されたとき、黄熊になって羽山に入ったといいます。 これが夏王朝の郊祭となりました。今周は衰えて、晋が実際にはそれを継いでいます。もしや、まだ夏の郊を祭っていないのではないでしょうか」と答えた。 そこで晋平公は夏の郊を祭ると、5日にして病気が治った。晋平公は子産に莒国の鼎を賜わった。
子産が、公孫段が賜った州の地を返還した。晋平公はこれを韓宣子に与えようとしたが、 韓宣子は前に趙武と州を争ったことがあったため気にやみ、楽大心に相談して結局、原と州とを交換した。
2月、鄭の罕朔が晋に亡命してきた。韓宣子は子産に罕朔をどの地位にすえるべきか問い、その進言に従って位一等を降ろして嬖大夫(下大夫)とした。
8月、衛襄公が没した。范鞅が弔問に行かなければ衛は晋に背き、 そうすると諸侯は晋に背くだろうと進言した。そこで韓宣子は喜んで范鞅を衛に弔問させ、かつて奪った土地を衛に返還した。
B.C.533晋の閻嘉と周の大夫が閻の耕地について争い、晋は陰戎の人を率いて周の穎邑を討った。 そのため周景王は晋を訴えた。叔向は韓宣子に「わが文公のときは周王を補佐し、 恭敬の心を捧げて仕えました。ところが今は周をないがしろにしています。どうかよろしく取り計らってください」と言った。これを聞いて韓宣子は喜んで周と和睦した。
B.C.531、4月、楚が蔡を討った。中行呉が韓宣子に「わが晋は陳を助けることができなかったし、 いままた蔡を救うことができなかった。盟主でありながら滅びゆく国を救うことができないようでは、盟主としての存在がありましょうか」と言った。
秋、韓宣子は魯の季平子、斉の国弱、宋の華亥、 衛の北宮佗、鄭の子皮、曹人、杞人と衛の厥憖で会合し、 楚に攻められている蔡を救う相談をした。
韓宣子は単成公と戚で会合した。
あるとき韓宣子は叔向に貧乏であることが苦痛であると話をすると、叔向は祝意を示した。韓宣子はなぜかと尋ねると、 叔向は「欒懐(欒盈)や郤昭子(郤至)は富を蓄え、高慢贅沢であったため滅びました。 今あなたは欒武子(欒書)のように貧乏ですから、彼のような徳義を行なうことができます。それゆえ祝賀の意を示したのです」 と答えた。
韓宣子はぬかずいて「滅亡するところをあなたのお陰で長らえることができました。先祖桓叔以下、感謝いたします」 と言った。
B.C.529、8月、諸侯は平丘に集まり会盟した。先年(B.C.541)に魯の季武子が莒を侵略したことを咎めるためであった。 そのため晋昭公は魯昭公の出席を辞退させた。
そこで魯の季平子が魯昭公の出席を請願してきたが、晋昭公は季平子を捕らえた。 魯の子服椒は韓宣子に会って「かつて欒氏の乱のとき、 先君襄公は斉の脅威も恐れず晋を救いました。今蛮夷の莒を信じて魯を棄てるならば、諸侯は何を目当てに晋君に忠勤しましょうか。 蛮夷を味方につけても、諸侯の信義を失うのではないでしょうか」と言った。韓宣子はこれを聞いて喜び、季平子を帰国させた。
B.C.527楚の公子比が晋から楚に帰ったとき、韓宣子は叔向に問うて「公子比のことは成功するだろうか」と尋ねると、叔向は「成就いたしますまい」と答えた。
B.C.526、3月、韓宣子は鄭を聘問した。韓宣子は環(たま)を持っていたが、一対のもうひとつは鄭の商人が持っていたため、韓宣子はこれを鄭定公に請うた。 しかし鄭の子産は朝廷のものではないとしてことわった。そこで韓宣子は商人から買い求めようとした。商人が「是非とも執政にお話しください」と言ったため、 韓宣子は子産にお願いした。子産は「今、あなたは親善で来られたのに、商人から無理に玉を取り上げようとなさっている。玉を手に入れて、 諸侯から信頼を失うことはいかがでしょうか」と言った。韓宣子が「わたしが愚かでした。お断りいたします」と辞退した。
4月、韓宣子は鄭の六卿である子齹・子産・子大叔・子游・子旗・子柳に送別の宴を開いてもらった。
B.C.519邾が大夫を捕らえられたとして魯を訴えてきた。魯の叔孫婼が晋にやってくると晋人はこれを捕らえた。 韓宣子は叔孫婼を邾の大夫と対座させて裁こうとしたが叔孫婼がこれを断ったため、邾人に命じて大勢の兵を集めさせ、これに叔孫婼を渡そうとした。 叔孫婼は恐れず晋の朝廷に出かけた。 士弥牟が韓宣子に「叔孫はきっと死ぬでしょう。魯は彼を失ったら、きっと邾を滅ぼしてその仇を討つであろう。 そのとき後悔しても追いつきません。そもそも諸侯がみな捕らえあいをするなら、盟主はいりません」と進言したため、これをとりやめた。
B.C.518秋、范鞅が諸侯の非難を恐れて周の王室を収めるよう韓宣子に相談した。韓宣子は諸侯に会合の命を下し、日取りを定めた。
B.C.514秋、韓宣子は没して宣子と諡された。
寒泉子(カンセンシ)【文官】
秦の臣。
恵文君蘇秦が趙の宰相となって六国を合従させていることを憎んで、 白起を諸国に行かせてこれを論破させようとした。
寒泉子は「それはいけません。そもそも城を攻めたり、邑を壊すのでしたら武安君(白起)がよろしいでしょう。諸侯に使いを出されるのでしたら、 どうか客卿の張儀をお使いください」と進言した。恵文君はこれに従った。
顔祖(ガンソ)【在野】
孔子の弟子。字は襄。
桓臧(カンゾウ)【文官】
楚の臣。楚の人。
B.C.311楚懐王は、昭雎を秦に行かせて張儀を重んじようとしたが、 秦恵文君が没して武王が立ち、武王は張儀を追放した。そこで懐王は昭雎を捕らえて、 斉と結ぼうとした。
桓臧は「今の秦の宰相甘茂樗里疾は、魏・韓と親密です。ここは昭雎の待遇を元通りにし、 張儀を魏・韓で重んぜられるようにするのがよろしいでしょう」と進言した。
韓荘子(カンソウシ)【武官】
晋の臣。韓の先祖。韓簡子の子。
顔息(ガンソク)【武官】
魯の臣。
B.C.502魯が斉を討った。顔息は敵兵を射て盾に命中させた。
顔率(ガンソツ)【文官】
東周の臣。姓は顔、名は率。
秦が東周を攻め、九鼎を引き渡せと要求した。東周の君は顔率に対応を問うと、顔率は「心配には及びません。援けを斉に借りましょう」と言い、 斉宣王に説いて「周は九鼎を秦にくれてやるよりは、貴国の物になる方がましだと考えております。大王には、 ご検討くださいますよう」と言った。
宣王は大いに喜んで5万の兵を出し、田臣思を将として東周を救ったため、秦軍は引き揚げた。
斉が九鼎を引き渡すよう要求しそうになったので、東周の君は顔率に再び対応を尋ねた。顔率は斉に赴いて宣王に言った。
顔率「お約束どおり九鼎を献上いたしますが、どの道を通りましょうか」
宣王「梁(魏)に道を借りよう」
顔率「それはいけません。梁は九鼎を入手しようとして計画を練っています」
宣王「では、楚に道を借りよう」
顔率「それもいけません。楚も九鼎を入手しようとして計画を練っています」
宣王「ではどこを通ればよいか」
顔率「内心それを心配しておりました。さらにむかし周が商を討って九鼎を入手したとき、鼎ひとつを9万人が引っ張ったといいます。大王には、 それだけの人数と道が確保できますでしょうか」
宣王「きさまは、引き渡す気がなかったのだな」
顔率「めっそうもございません。どこからお持ちだしになるか、お決めください。私どもはお待ちしております」
宣王は結局、思いとどまった。
罕魋(カンタイ)【武官】
鄭の臣。子皮の弟。〜B.C.535。
B.C.535、2月、子皮の一族は酒に耽って節度がなかったため、同族の馬師氏と不和であった。そこで罕魋は罕朔に殺された。
桓魋(カンタイ)【武官】
宋の司馬。
B.C.495孔子が宋に来た。桓魋は彼を恨み殺そうとしたが、孔子は身を卑賤にやつして逃げた。
顔濁鄒(ガンダクスウ)【文官】
衛の臣。仲由の妻の兄。顔涿聚、顔讐由ともいう。
B.C.496孔子は魯を出て顔濁鄒の家に身を寄せた。
桓団(カンダン)【在野】
名家。韓槽とも書く。
趙の人。
公孫竜の門人。
管仲(カンチュウ)【宰相】
斉の宰相。名は夷吾。字は仲。管厳の子。〜B.C.645。
潁水のほとり(河南省)の人。
管仲は太子に仕える。
B.C.686、12月、 斉襄公公孫無知連称管至父に襲撃され殺された。
公子糾は管仲と召忽とともに魯に出奔した。
B.C.685公孫無知が殺されると、管仲は公子糾を斉公に就けようと小白(桓公)と争った。
管仲は小白を攻撃したとき、小白を矢で射当てる。矢は鈎(ベルトの留め金)に当たったが、小白が死んだふりをしたため管仲は小白を殺したと勘違いしてしまう。 糾はライバルがいなくなったためゆっくり帰国すると、先に帰国して斉公となっていた小白に攻撃されて殺され、管仲は捕虜となる。
桓公は鮑叔に彼を迎えさせ、管仲は大夫に取り立てられた。管仲ははじめからそうなることがわかって捕虜となったのである。
若いころ、鮑叔と交遊した。管仲は貧困のあまり、よく鮑叔を欺いたが鮑叔はいつまでも管仲を見棄てなかった。
管仲は後で振り返って「かつて私が困窮していたころ、鮑叔とともに商売をしたが、利益を分けるとき、私は分け前を多く取ったのに、鮑叔は私を貪欲とは思わなかった。 私の貧乏を知っていたからである。
かつて私は鮑叔のために事業を企てたが、失敗していよいよ困窮したのに、鮑叔は私を愚か者とは思わなかった。時に利・不利のあることを知っていたからである。
かつて私は三度仕えて、三度とも君から逐われたが、鮑叔は私を無能だと思わなかった。私が時の利にあわなかったのを知っていたからである。
かつて私は三度戦い、三度とも敗れて逃げ出したのに、鮑叔は私を卑怯だとは思わなかった。私に老母のあるのを知っていたからである。
公子糾の敗れたとき、同僚の召忽は戦死し、私は幽囚されて辱めを受けたが、鮑叔は私を恥知らずとは思わなかった。私が小節を恥じず、 功名を天下に現せないのを恥としたのを知っていたからである。
私を生んでくれたのは父母だが、私を知ってくれるのは鮑子である」と言った。
この二人の関係は管鮑の交わりとして後世、称される。
斉の国政を整え、五家の兵制を定め、物価調節の法や漁労製塩の利を設けて貧乏人をにぎわし、賢能の士に禄を与え、 軽重(貨幣)を司る九府(大府・玉府・内府・外府・泉府・天府・職内・職金・職幣)を設けた。
また地方官には優れた人材を登用させ、人材を隠したら地方長官を処罰した。また管内に親不孝者や命令を聞かない者がいたら報告させ、 それを怠った地方長官は処罰させた。
製鉄、製塩、採銅及び山林資源などは、国家の管理とした。しかし実際には民の仕事となるから、民は7割を得、君が3割を得ることとした。
このようにして管仲は桓公を補佐し、周辺の小国を次々と併呑した。
『管子』には「倉廩がみちて民は礼節を知り、衣食が足って人は栄辱を知る。上に立つ者が節度を守れば六親の結合は固く、 四維(礼・義・廉・恥)がゆるめば国は滅亡する」といっている。
その論ずるところは卑近でおこないやすく、大衆の望むものは与え、厭うものはこれを除いた。
政治の仕方は禍をもよく利用して福とし、失敗を転じて成功に導き、事の軽重をはかることを要務とし、均衡を得ることに慎重であった。
B.C.680魯を打ち破り講和会議で遂という土地の割譲を決めたとき、魯将曹沫が匕首を持ち桓公を脅して土地の返還を求め、 桓公は仕方なしにそれを承諾するが、桓公は脅迫によるものだから取り消そうとする。管仲は「いったん承諾したことを破棄すれば、天下の信用を失います。 いけません」桓公は約束を守り、斉は諸侯から大いに信頼されるようになったという。
B.C.662冬、狄が邢国に攻め入った。管仲は「夷狄は山犬や狼のごとく残酷で貪欲だから欲望を満足させるべきではありません」と進言して、邢を援けた。
B.C.656春、斉は魯、宋、陳、衛、鄭、許、曹と会合して蔡を討った。
連合軍は蔡を破り、蔡繆侯を捕らえ、勢いに乗じて楚に攻め入って汝水を渡り、方城の塞を越え、汶山を望祭するまで進軍した。 楚の使者が問うた。
使者「君は北海におり、わたしは南海におり、遠く隔たっているのに、どうしてわが領土に攻め入るのですか」
管仲「その昔、 召康公(召公奭)がわが先君の太公(太公望)に四方を征伐して周室を護るよう命ぜられました。 汝、楚の献納すべき苞茅が入らないので、天子の祭りに事欠いている。わが君はそれをお求めである。
また昔、周昭王が南に巡狩せられたまま帰られなかったが、わが君はその理由を問うているのである」
使者「貢ぎ物を入れないのは事実で、これは私の罪である。今後は上供することとしよう。しかし昭王が還られなかったのは、私の知らぬこと、岸の柳にお問いなされ」
そこで桓公は進撃して楚の陘に布陣し、楚と盟約した。
B.C.653、7月、斉桓公は、魯釐公・宋桓公・ 陳の太子・鄭の太子と魯の甯毋で会合し、鄭に対する処置を相談した。
管仲は「離れている者は礼を用いて招きよせ、遠い者は徳でもってなつけるといいます」と進言した。そこで桓公は諸侯に対して礼を行った。
鄭の太子華が「わが国の大夫の泄氏、孔氏、子人氏の三族は君命に逆らっています。君がこの三族を取り除いてくださるなら、鄭は斉の家来となりましょう」と言ったので、 桓公はこれを許そうとした。しかし管仲は諌めた。
管仲「礼と信をもって諸侯を引き寄せているのに、よこしまなやり方をするのはよくありません」
桓公「鄭にまだ勝つことができない。鄭につけこむすきがあるならば、よいではないか」
管仲「徳をもって鄭を治めようとして、その上で討伐するならよいでしょう。もし父の命に背いた太子華をひきつれて鄭を討てば、 鄭は言い訳が立ち、わが軍を恐れないでしょう。太子華のような悪人を許してはなりません」
そこで桓公は太子華の意見をしりぞけた。
B.C.651葵丘の会盟のときに周王朝の使者から周の贈物を受け取る際は堂を下りて拝礼しなくてもよいと言われたが、管仲は信義を重んじ今までの礼で受け取るよう諫言した。
桓公が封禅の儀式を行おうとしたときも懸命にこれを諌めた。
B.C.648周襄王は戎を手引きした叔帯を討ち、叔帯は秋に斉に出奔してきた。
冬、桓公は管仲に命じて戎と周を和解させ、隰朋に命じて戎と晋を和解させた。
その功績を賞して周襄王は管仲に上卿の地位を与えようとしたが、管仲は「私は斉の臣ですから周王の陪臣にすぎません。そのような礼遇は受けられません」 といい下卿の礼遇で周襄王にまみえた。
B.C.645宰相40年にして没す。
管仲の私財は公室に匹敵し、三帰(帰る家が3つある)・反坫(諸侯が杯を返す台)があったが、斉人はこれを分にすぎた贅沢と思わなかった。
桓跳(カンチョウ)【将軍】
斉の将軍。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、桓跳は右翼侯朝の右役となった。
顔徴在(ガンチョウザイ)【女官】
叔梁紇の夫人。孔子の母。
叔梁紇の長男孔孟皮は足が不自由であったので、家の跡継ぎを任せられなかった。また叔梁紇は10人の子があったが、 孔孟皮以外はすべて女の子であったため、叔梁紇は顔徴在を娶って男子を生みたいと思った。
そこで顔徴在は、子が授かるようにと尼丘で祈った。すると孔子が生まれたのである。
干徴師(カンチョウシ)【文官】
陳の臣。〜B.C.534。
B.C.534、4月4日、陳哀公が没した。干徴師は楚に遣いして陳哀公の喪を告げ、新君が立ったことを告げた。 陳の公子勝が公子一派を陳哀公殺しで訴えたため、干徴師は楚人に捕らえられて殺された。
韓貞子(カンテイシ)【武官】
晋の臣。韓の先祖。名は須。公族大夫。韓宣子の子。
B.C.540、4月、韓貞子は斉に出かけて斉の公女少姜を迎えした。
韓貞子は拠点を居州から平陽に移した。
簡狄(カンテキ)【女官】
帝嚳の次妃。の母。
有娀国の公主であった。
水浴びをしていたとき、玄鳥(ツバメ)が卵を落としたのを見た。その卵をのんだところ、身ごもって契を生んだという。
驩兜(カントウ)【神】
時代の宰相。司徒。
驩兜は堯に後継ぎについて尋ねられたとき、共工を推薦するが退けられた。
のち、 驩兜は共工と結託して悪事を働いたため、堯に崇山に追放され南蛮となったという。
顔般(ガンハン)【在野】
春秋時代の在野の士。
恵公に「わしは子思(孔伋)に対しては先生として敬い、 顔般に対しては友人として付き合うが、王順長息はわしのただの家来である」と称される。
韓非(カンピ)【公子】
韓の公子の末流。〜B.C.233。
刑名・法術の学を学んだが、帰着するところは黄帝老子の学であった。
韓非は生まれつきどもりで、弁舌はまずかったが、著述をよくした。
李斯と共に荀子に師事した。
韓の国土が削り取られ、弱められるのを見、しばしば書簡をもって王を諌めたが用いられなかった。
韓非は、廉直な人物がよこしまな権臣のために用いられないのを悲しみ、いにしえの王者の政事における成敗得失を考え、孤憤・五蠹・内外儲・説林・ 説難などの諸篇十余万字の文章をつづった。
この書物を携えて秦に行った者があった。
秦王は孤憤・五蠹の諸篇を見て「ああ、わしはこの著者に会って交遊することができれば、死んでも本望である」と言った。 秦の臣であった李斯が、その著者は韓非であると説明した。
B.C.237秦王政は韓非を手に入れるために、李斯の進言で韓を降させることとし、李斯を使わした。そして急に韓を討った。韓王はこれを聞いて大いに憂え、 韓非に秦の力を弱めることを図らせる。
B.C.233韓非は秦に使いした。
韓非は政に気に入られたが、まだ信用して登用されていなかった。李斯と姚賈らは、 韓非が用いられると自分に不利と思い、韓非を讒言した。
またあるとき燕・趙・呉・楚が秦を攻めようとしたため、秦王政は対処法を群臣に求め、姚賈が使者として四国をまわって出兵を見合わせるようにさせると言った。 そこで秦王政は戦車100乗、黄金1000斤を与え、姚賈は四国に出かけ、そのはかりごとを断ち切り、出兵を思いとどまらせ、さらに四国と交わりを結んで帰国した。
秦王政は大いに悦んで、姚賈を1000戸に封じて上卿に取り立てた。
しかし韓非は姚賈を非難して「四国との交わりはまだ確立されておりません。しかし賈の珍珠重宝は失われてしまいました。 これは賈が個人的に諸侯と私交を結んでいるのです。もともと賈は梁の門番の小倅、かつて大泥棒を働き、趙を追放されています。 このような者に大事をたくすのはよろしくありません」と言った。
秦王政がこれを姚賈に問いただすと、姚賈は「たしかに私交を結びましたが、私には身を寄せるところがないため、四国の君と交わったのです。 もしわたくしが王に忠誠でなければ、四国の君はどうしてわたくしを採用しましょうか。わたしは生まれは賤しいですが、 太公望は妻に追い出され、管仲は鄙人の行商人であり、 百里奚は虞の乞食でありましたが、聡明な君主がこれを登用したのです。国家を保つことのできる人物でありさえすれば、 たとえ誹謗する者がいても、聡明な君主は耳を傾けないはずです」と答えた。
秦王政は「いかにも」と言い、ふたたび姚賈を用い、韓非を退けた。
李斯は韓非に毒薬をもって自殺を迫った。韓非は、王に陳弁したいと願ったが、許されず、自殺した。
秦王政はこれを後悔したが、韓非はすでに死んでしまっていた。
カン臂子弓(カンピシキュウ)【在野】
楚の人。
商瞿から易を伝授される。
これを江東の人矯子庸に伝授する。
韓馮(カンヒョウ)
公仲
韓服(カンフク)【文官】
巴の臣。〜B.C.703。
B.C.703韓服は巴の君の命により、鄧と友好を結びたいと楚に願い出た。 楚武王は大夫道朔に命じて韓服を鄧に行かせたが、鄧の南部のユウの人が彼らを殺した。
韓武子(カンブシ)【武官】
晋の臣。韓の先祖。
晋に仕え、韓原に封ぜられる。
韓武子(カンブシ)【武官】
晋の臣。韓の先祖。韓康子の子。〜B.C.414。
B.C.428鄭を討ち、鄭幽公を攻め殺す。
韓不信(カンフシン)
韓簡子
簡璧(カンペキ)【女官】
繆公の娘。
B.C.645繆公が晋恵公を捕えて都に連れて帰ろうとしたとき、 繆姫は太子と公子と簡璧をつれて台に登って 「もし晋君が都に入ってくれば死にましょう」と言った。そこで繆公は晋恵公を郊外の霊台に留めた。
罕父黒(カンホコク)【在野】
孔子の弟子。字は子索。
韓万(カンマン)【武官】
晋の公子。韓の先祖。荘伯の弟。
B.C.709曲沃は、宗家の晋哀侯を翼に討った。韓万は曲沃武公の御者となり、 梁弘が右となり、哀侯を汾水のほとりで追撃し、夜にこれを捕え、 その輔佐をしていた欒成を捕えて殺した。
その後、韓万は武公の命で哀侯を弑した。
韓の地を受けて、氏を韓とする。
韓無忌(カンムキ)【文官】
晋の臣。韓厥の長子。公族大夫。公族大夫の長。韓穆子、公族穆子ともいう。
B.C.573欒書が公族大夫の任命を願うと、晋悼公は「韓無忌は鎮重安静である」と言い、 韓無忌は公族大夫に任命された。
B.C.566、10月、韓厥は隠退して韓無忌に卿の職務を受けさせようとしたが、韓無忌は辞退して 「厲公の乱にわたくしは公族でありながら死ぬことができませんでした。どうして君の朝廷を汚し、韓の宗家を辱しめましょうか」 と言った。悼公はこれを聞いて「危難に君のために死ぬことはできなかったが、それでもよく位を譲ったからには、賞しなければならぬ」と言い、 韓無忌は公族大夫を司ることとなった。
(『春秋左氏伝』では、韓無忌は不治の病にかかっているため後を継ぐことを辞退したとしている)
顔無繇(ガンムヨウ)【在野】
孔子の弟子。名は無繇、あるいは由。字は路。顔回の父。B.C.545〜。
父子ともども時を違えて、孔子に師事した。顔無繇は孔子が最初に教えた時の門人であった。
顔回が早く死ぬと、顔無繇は貧しかったので、孔子の車を申し請け、銭に替えて葬ろうとした。
顔鳴(ガンメイ)【武官】
魯の臣。
B.C.516斉が魯に攻め入った。この戦いで林雍は顔鳴の右役をつとめることを恥として車からおりて戦った。 林雍は斉の苑何忌に車上から撃たれて耳を切り落とされた。これを見た顔鳴は恐れて逃げ去った。林雍はさらに片足を切り落とされたため、 他の車に乗って陣地に引き返した。それを知らずに顔鳴は三度も斉軍に攻め入り「林雍よ。早く車に乗れ」と大声で叫んだ。
甘茂(カンモ)【宰相】
秦の丞相。蔡の人。庶長。左丞相。
下蔡の人。
甘茂は、下蔡の史挙先生に師事して、百家の学説を学んだ。
甘茂は張儀樗里疾の口添えで、 秦恵文君に謁見を求めた。恵文君は甘茂を将軍に取り立てた。
B.C.312甘茂は魏章の輔佐として、漢中を攻略した。
B.C.310蜀の国相陳荘が謀反して、蜀侯を殺した。 そこで甘茂は張儀と司馬錯とともに蜀を討伐し、陳荘を誅殺した。
張儀が軍を借りて魏を救おうとした。説客左成が「軍を貸すのがよいでしょう。 敗れて軍が返せなくなれば張君は秦に帰ってこないでしょうし、勝っても張君は魏で望みを遂げられますから、秦に帰ってこないでしょう。 張君が秦を去らない限り、あなたは張君より高い地位にはなれないでしょう」と言ったので、甘茂はこれに従った。
B.C.309甘茂は蜀から帰還すると秦が初めて丞相を置き、甘茂は左丞相に任じられた。
11月、甘茂は武王に命じられて「為田律」を定め、詳細に農田と道路の制度を規定し、毎年指定した時期に修復することとした。
B.C.308秦武王は甘茂に「わしは兵車を三川(伊水・洛水・河水のある地)に入れ、そこを通って周室をおびやかし天下に号令できるなら、 死んでも恨みはない」と言った。甘茂は「どうか私を魏にやり、いっしょに韓を討つ約束を決めさせていただきたい」と言った。
そこで向寿とともに魏へ行った。魏に着くと向寿に「子は国に帰って王に『魏はわたくしのことばを聴き入れましたが、 王には韓を討たれませぬように』と申し上げて欲しい。功はすべて子のものとしよう」と言った。
向寿は帰国して武王に報告すると、武王は甘茂の帰国を待ちきれず、息壌まで出迎えた。甘茂は魏から帰国して息壌で武王に合うと、 武王が事情を尋ねた。甘茂は「宜陽は大邑であり、落とすのは容易ではありません。いまわたくしは外に出ております。戦の途中で、 ご一族の樗里疾や公孫衍らが韓に好意を寄せると、王はきっと魏を欺きましょう。
かつて曾子の母に、ある男が『曹参が人を殺したぞ』と知らせました。曾子の母は最初は信じませんでしたが、 それから2人も同じように言ってきたので、曾子の母は逃げ去りました。曾子ほどの賢明さと、母の厚い信頼があっても、信じられなくなるのです。 臣の賢明さは曾子に及ばず、王の臣に対する信頼も、曾子の母ほどではございますまい。しかも臣を疑う者は3人だけにとどまりません。 臣は王がわたしを見捨てられることを心配するのであります」と言った。
武王はそこで「わしは樗里子・公孫衍らのことばを聞き入れまい。子と誓おう」と答え、甘茂と息壌で堅く盟いを結んだ。
秋、甘茂は庶長とともに宜陽を討つが、5ヶ月たっても攻略できなかった。
甘茂は宜陽がなかなか落ちず、秦軍の死傷する者がおびただしかったので、戦をやめようと思った。 左成が「公は国内では樗里疾、公孫衍に攻められ、国外では韓侈(公仲)と怨みを構えておられる。 ここで宜陽を落とさなければ、公は窮地に陥られましょう。宜陽が落ちれば、公のお手柄は大変なものになり、さずがの樗里疾、公孫衍も手が出せないでしょう」と言った。 そこで甘茂は戦を続けた。
はたして樗里疾と犀首が非難したので、武王は甘茂を召還しようとした。甘茂は「息壌はあそこにあります」と言ったので、 武王は全軍を動員してふたたび甘茂に宜陽を攻撃させた。
B.C.307甘茂は敵首を斬ること6万、ついに宜陽を陥れた。
襄王は宰相公仲を遣わして、謝罪して秦と和睦した。
犀首は秦武王に可愛がられ、武王は犀首に「わしはきみを宰相にしようと思う」とこっそり話した。甘茂の部下が通りすがりにこれを聞き、甘茂に伝えた。 甘茂はすかさず武王にお目見えして言った。
甘茂「王には優れた宰相を得られたとのこと、お喜び申し上げます」
武王「きみはどこからそれを聞いたのか」
甘茂「公孫衍(犀首)が臣に告げました」
武王は犀首が秘密を洩らしたことに立腹し、犀首は国外に追放された。
楚が韓を討ち、雍氏を包囲した。韓は公仲を遣わして甘茂に取り入って秦の援助を求めた。甘茂は韓のため、昭襄王に 「もし韓は秦が味方しないと知れば、国を挙げて楚と同盟しましょう。こうなれば魏も順応しないわけにはいきますまい。秦として坐して三国に討たれることを待つよりは、 進んで人を討ったほうが有利です」と言った。
また韓は張翠を秦に派遣した。張翠は病気だと言いながら、日々一県ずつ進んでいった。
甘茂は「韓はさぞかし急迫しているのでしょう。先生には病をおして来られるのですから」と言った。
張翠は「まだ急迫しておりません」と答えた。
「ほんとうにそうなのでしょうか」
「ほんとうに火急に陥れば、韓は腰を折って楚に参入いたしましょう。どうして私がここへ来たりしましょうか」
甘茂と昭襄王は「なるほど」と言い、殽の塞から兵を出して韓を救った。
樗里疾とともに魏の皮氏を討った。
B.C.306甘茂は昭襄王に言って、武遂を韓に返還した。向寿と公孫衍は反対して争ったが聞かれず、このため甘茂を恨んで讒言した。 甘茂は恐れて魏の蒲阪を討つのをやめて逃亡した。
甘茂は斉に出奔し、函谷関で蘇代に会った。甘茂は蘇代に秦に復帰できるように頼んだ。蘇代は秦に行って「甘茂は非凡の士であります。 また甘茂は長く秦に仕えていたので、秦の険阻平坦をみな知っています。もし彼が斉を動かし、韓・魏と同盟して逆に秦にはかるなら、 秦のためにはなりますまい」と言った。
昭襄王は即刻、甘茂に上卿の位を与え、宰相の印をもって斉から迎えようとした。しかし甘茂は行かなかった。蘇代はまた斉湣王に 「甘茂は賢人であります。秦が上卿の位を与え、宰相に任じようというのに、甘茂は王の臣となることを喜んでこれを辞退しました。王は何をもって彼を礼遇なさいますか」 と言った。そこで湣王は甘茂に上卿の位を与えて、斉に留めおいた。
甘茂は斉のため使者として楚へ行った。楚懐王は甘茂を秦に戻そうとしたが、 范蜎の諫言によってとりやめた。
そのため甘茂は秦に帰ることが出来ずに、魏で没した。
甘羅(カンラ)【文官】
秦の臣。甘茂の孫。B.C.248〜。
秦の宰相文信侯呂不韋に仕えた。
B.C.236甘羅は12歳であった。秦は蔡沢を燕にやり、同盟が成り、燕は太子を人質に送ってきた。 そこで秦は張唐を燕の宰相にさせようとしたが、張唐はこれを拒んだ。呂不韋はこれを悩んでいたが、 甘羅は「わたくしが張唐をやらせてごらんに入れます」と言った。呂不韋は甘羅をしかったが、 「かの項橐は7歳で孔子の師となりました。わたくしは今年12であります。どうかお試しください」 と言い、張唐に会った。
甘羅は「あなたの勲功は武安君(白起)とどちらが大きいでしょうか」と問うた。
「わたしの勲功などとうてい及ばない」
「応侯(范雎)と文信侯とどちらが権力をふるったでしょうか」
「応侯は文信侯に及ばない」
「武安君は趙を攻めることをしぶったため、応侯に死を賜りました。いま文信侯があなたに宰相となるよう頼まれたのに、あなたは行こうとされません。 あなたはどこで死なれるのでしょうか」
張唐は燕に赴くことにした。
また甘羅は趙に赴き、趙悼襄王と会見し「燕と秦が同盟しております。王としては両国に攻められるより、 秦に河間の地を献上されるのがよいと思います」と言った。悼襄王は即座に五城を割いて秦に献上した。
秦は甘羅を封じて上卿とし、もとの甘茂の田宅を賜うた。
甘竜(カンリュウ)【文官】
秦の臣。
B.C.359商鞅が法律を変え、刑罰を整え、内は人民に耕作を務めさせ、 外は戦士の賞罰を明らかにすることを秦孝公に勧めた。 孝公はこの意見をいれたが、甘竜は反対し、たがいに論争した。
甘竜は「聖人は民俗を改めないで教化し、智者は国法を変えないで統治するものです。そのままで統治すれば役人はこれに習熟し、 人民はこれに安住するものです」と反対した。
商鞅は「竜の言うことは俗論であります。三代(夏・商・周)は礼を同じくしませんでしたが、みな王となり、五伯(春秋五覇)は法を同じくしませんがみな覇者となりました。 智者が法をつくり、愚者はそれに制せられるのです」と答えた。
結局、孝公は商鞅の法を用いた。
関竜逢(カンリョウホウ)【神】
夏王朝の臣。
関竜逢は夏王朝の良臣であったが、桀王の長夜の宴を諌めたため殺された。
関令尹(カンレイイン)【文官】
周王朝の臣。名は尹喜。仙人として列仙伝に見える。
方術予言の学に精通し、いつも物の精を服んで栄養とした。
老子が西へ旅したとき、尹喜はその前ぶれの気配を占い、はたして老人に出会った。老子も尹喜が非凡な人物であることを認め、 書を著してこれを授けた。
関令尹はのち老子とともに砂漠を旅し、西域の人となったという。
関令尹もみずから九篇の著述をし、『関尹子』と称した。
顔路(ガンロ)
顔無繇


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