- 奐(カン)【公子】
- 韓の太子。
B.C.318韓・趙・魏・燕・斉の諸国が匈奴を誘って秦を攻めた。秦恵文君は庶長樗里疾に命じ、
これと修魚に戦って、奐は敗れる。
- 奐(カン)【武官】
- 秦の臣。庶長。
B.C.301楚を討ち、首級二万を斬る。
B.C.298楚を討ち、8城を取り、楚将景快を殺す。
- 敢(カン)【文官】
- 趙の筮史(占筮の官)。
B.C.263孝成王が偏トクの衣(背縫いで左右色を異にした衣)を着て飛竜に乗り、天に上ろうとして途中で墜落し、
金玉が山のように積まれている夢を見た。 敢を招いて占わせると「夢で偏トクの衣を着るのは不全の意味であり、途中から墜落するのは、気だけあって実のないこと、
金玉が山のように積まれているのは禍いである」と占った。
B.C.260趙は上党を韓から譲られたが、そのため秦に攻められ上党と兵40万を失ってしまう。敢の占いどおりとなったのである。
- 緩(カン)【文官】
- 秦の医者。
B.C.581晋景公が病気となり、秦に医師を依頼したので、秦桓公は緩を晋に遣わした。
緩が到着する前に景公は、その病気が二人の子供になって話をしている夢を見た。
「緩は名医だ。われわれを苦しめるであろう。どこに逃げようか」
「肓(横隔膜の上)の上で膏(心臓の下)の下におれば、どうすることもできまい」
やがて緩が到着して診察して「病気は治すことができません。すでに膏肓に入ってしまっており、針もとどかず、薬もとどきません」と言った。
景公は「名医である」といって手厚い礼遇をして帰した。
このエピソードから、手遅れであることを「病膏肓に入る」というようになりました。
- 翰(カン)【王】
- 虢(小虢)公。
B.C.771周幽王が犬戎に殺されると、翰は幽王の子の余(携王)を擁立する。
- 貫(カン)【文官】
- 周王朝の臣。原伯。
B.C.635周襄王は原の地を晋に与えた。
そこで晋文公は貫を翼に移して、趙衰を原伯とした。
- 環(カン)【公子】
- 周王朝の王子。〜B.C.520。
B.C.520、6月17日、単穆公が周悼王を王城から自分の家に連れて帰ったため、
王子環はこれを奪い返した。
単穆公が都を出奔したため、王子環は周悼王を守って単穆公を追って領まで行った。王子環は召荘公と相談して「単旗(単穆公)を殺さなければ勝てない。
彼と盟うといつわって来たら殺しましょう」と言った。召荘公はこれに従った。
これを聞いた樊頃子は「士君子の言うべき言葉ではない。きっと勝てないだろう」
と言った。そして王子環は単穆公を都に呼び戻して殺そうとして、周悼王を奪ったことを摯荒のせいにしてこれを殺した。
しかし単穆公は計画を見抜いて戻ってこなかった。
6月20日、単穆公が平畤に逃げたため、王子環は諸王子とこれを追ったが、逆に殺された。
- 鱄(カン)【公子】
- 衛の公子。衛定公の子。
- 奐(カン)【王】
- 召伯。
B.C.519、6月20日、召伯奐は南宮極とともに成周の人を率いて尹を守った。
- ガン(ガン)【公子】
- 呉の公子。
B.C.521、10月17日、公子ガンと偃州員は斉・宋軍に鴻口で破られ、捕虜となった。
- 韓イ(カンイ)【宰相】
- 韓の宰相。
韓王安に仕える。
- 罕夷(カンイ)【武官】
- 晋の臣。
B.C.660冬、申生に東山の皋落狄を討つように命令が下り、狐突が申生の御者となり、
先友がその右乗となり、梁余子養が罕夷の御者となり、
先丹木がその右乗となり、羊舌大夫が軍尉となった。
罕夷は「たとえ国に帰ることができたとしてもどうにもなりません。君には何か悪心を持っておられる」と言った。
そこで狐突が申生を連れて逃げ去ろうとしたが、羊舌大夫がこれを諌めたので、申生は戦いを決意し、狄を破った。
- 顔懿姫(ガンイキ)【女官】
- 斉霊公の夫人。魯の公女。
顔懿姫は斉霊公に嫁いだが、子がなかった。
- 管于奚(カンウケイ)【文官】
- 斉の臣。
管于奚は魯を追放された公孫嬰の母を娶り、一男一女を生んだ。
- 観射父(カンエキホ)【文官】
- 楚の臣。
楚昭王は観射父に尋ねた。
昭王「周書にある『重黎が実に天地を行き来できなくさせた』というのは、どういう事なのか。もしそうしなかったら民は天に登れたのか」
観射父「そうではありません。太古は民と神が交じり合わず、上下を見通す賢明さがあり、よく聞き窮める聡明なものがおりました。
顓頊がその後をうけて重に命じて、天をつかさどって神を管理させ、
黎に命じて、地をつかさどって民を管理させ、旧法を回復して神と人が相犯し汚さないようにさせました。
その後、重黎氏は代々天地を秩序立てたのです。周の宣王のときになると、天地を分けさせる官がなくなったのです」
あるとき司馬子期が平王を祀り、いけにえの肉を昭王に届けた。昭王は観射父に尋ねた。
昭王「祭祀の犠牲は何を用いるのか」
観射父「天子は大牢を用い、諸侯は牛を用い、卿は少牢を用い、大夫は豚だけを用い、士は魚を焼いて食べ、庶人は野菜を食べます」
昭王「犠牲の大きさはどうか」
観射父「天を祀る郊祭の大きさは、まゆか粟に過ぎませんし、大祭でもひとにぎりに過ぎません」
昭王「何と小さいことか」
観射父「神は精明な心で民に臨むものですから、豊大なことは要求しません。また恭敬は長続きできず、民の力は堪えません。それゆえ、敏速に供えるのです」
昭王「犠牲を清浄に飼育する期間はどのくらいか」
観射父「長くとも3ヶ月に過ぎませんし、短いものは10日を出ません」
昭王「祭祀は止められないか」
観射父「祭祀は孝行を明らかにし民を繁殖させて、国家を鎮撫し、百姓を安定させる道ですから、止めることはできません。祭祀は上は民に敬虔の心を教える道であり、
下は目上に仕えることを明らかにする道です」
昭王「一純・二精・七事とは何か」
観射父「衣冠を正して邪悪ない心で祭祀に臨んで神に対してうしろめたい気持ちがないのを一純と言い、玉と帛とを二精と言い、天と地と民と四季の職務を七事と言います」
昭王「三事とは何か」
観射父「天の事は武であり、地の事は文であり、民の事は忠信です」
昭王「百姓・千品・万官・億醜・兆民・経入・畡数とは何か」
観射父「民の自分の名によって上部に通達できる官を百姓といい、一姓ごとに属官が十品あるので千品といい、天地神民物の五官には輔佐の官があって千品とすれば、
万官になります。官ごとに十種類あって億(十万)醜となります。天子の農地は九畡(十億)あって、兆(百万)民を養います。王は経(千万)の税収入を取って、
万官を養います」
- 環淵(カンエン)【在野】
- 稷下の学士。楚の人。
環淵は黄老の道徳の学を学び、自らの主旨を叙述した。
環淵は稷下に邸宅を授かり、議論を戦わせた。
- 管燕(カンエン)【文官】
- 田斉の臣。
管燕は斉王の咎めを受けたので斉を去ろうとし、左右の者に同行する者がないか尋ねた。しかし誰も答えるものがいなかった。管燕は涙を流して
「士とは得るは易く、使うは難いものである」と歎くと、田需が答えて「重んずべき士を軽んじて、
軽んずべき財を重んじたためである」と言った。
- 顔淵(ガンエン)
- →顔回
- 桓王(カンオウ)【皇帝】
- 周王朝14代王。名は林。洩父の子。〜B.C.697。
B.C.720、3月25日、平王が没し、桓王は即位した。
桓王は鄭との誓いを破って虢公に周の政治を取らせようとした。
4月、怒った鄭荘公に攻められ、温の麦を刈り取られる。
秋、鄭に攻められ、成周の粟を刈り取られる。
曲沃の荘伯は鄭と邢と共に宗家の翼を討った。そこで桓王は尹氏・武氏に命じてこれを援助したので、
晋鄂侯は随に出奔した。
そこで桓王は鄂侯の子光(哀侯)を立てたが、荘伯は王命に従わず、更に翼に攻め入り、光を国外に放逐した。
B.C.718秋、桓王は虢公に命じて曲沃を討たせて、哀侯を都の翼で即位させた。
B.C.717冬、周で飢饉となり、桓王は魯隠公に食糧難であることを告げた。隠公はそれを救うために、
宋・衛・斉・鄭に対して穀物の買い入れを申し込んだ。
鄭荘公が入朝したが、先年、鄭が温の麦を刈り取ったことを恨んで、桓王はこれを礼遇しなかった。
周桓公が「周室が東遷したとき、晋と鄭の二国を頼りとしました。
鄭とは仲良くすべきです。礼遇しなければ、もうやってこないでしょう」と諌めたが、桓王は聴き入れなかった。
B.C.715鄭は怒って魯と許の田を変えた。
B.C.714春、桓王は南季を魯に遣わした。
この年、宋が周室に対する職貢を怠ったので、周は鄭に命じてその罪を責め正すとして宋を討たせた。
B.C.712桓王は鄔・劉・蔿・邘を鄭から取り上げて、
その代償として温・原・絺・樊・隰郕・欑茅・向・盟・州・陘・隤・懐を鄭に与えた。
君子は「周王はやがて鄭を逃がしてしまうであろう」と評した。
B.C.708桓王は周の宰渠伯糺を魯に遣わした。
冬、桓王は秦軍とともに魏を攻め囲み、芮伯万を捕えて連れ帰った。
B.C.707夏、桓王は仍叔の子を魯に遣わした。
桓王は鄭荘公の政権を奪ったので、荘公は怒って周に参朝しなくなった。
秋、桓王は陳・蔡・虢・衛の兵を率いて鄭を討った。桓王は中軍を率い、卿士の虢公林父は右軍の将となり、
蔡・衛の軍はそれに付いた。周桓公は左軍の将となり、陳の軍がそれに付いた。
鄭の公子子元は「陳は乱れて、その民は戦う心がありません。真っ先に陳の軍を攻め立てたら、逃走するでしょう。
周王の軍はそれを見たら、きっと乱れるでしょう。そこを集中攻撃すれば、事は成功いたします」と進言したので、鄭荘公はそれに従った。
鄭荘公は曼伯に右軍を、祭仲に左軍を率いさせ、
原繁と高渠弥に中軍を率いさせて自らを守らせ、魚麗の陣をつくり、
兵車を前に歩兵を後ろにして、鄭の繻葛で戦った。
鄭の左右軍は連合軍の左右の軍を破り、桓王の軍も乱れた。そこで鄭軍は集中してこれを攻撃したので、桓王の軍は大敗した。(繻葛の戦い)
この戦いで桓王は鄭の臣祝瞻に弓で射られた。祝瞻は追撃を請うたが、鄭荘公は
「長上を犯すことさえはばかりがあるのに、ましてや天子をしのごうとするのはよくない」と言って、追わせなかった。
その後、祭仲をつかわして王の傷を見舞わせた。
B.C.705夏、盟・向の2邑が鄭に和睦を申し込んだが、間もなく鄭に反した。
秋、鄭荘公が斉・衛とともに盟・向を征伐した。桓王はそのため盟・向の民を畿内の郟に移した。
B.C.704桓王は家父を魯に遣わして、王后を迎えるために来朝させた。
冬、小子侯が曲沃武公に殺されたので、
桓王は虢公林父に命じて晋哀侯の弟湣侯を晋の君に立てる。
B.C.702春、虢公林父が大夫の詹父を讒言した。しかし詹父はそれを弁明することができたので、周は軍を率いて林父を討った。
夏、林父は虞に出奔した。
B.C.697、2月、桓王は家父を魯に遣わして、車を要求した。
3月11日、崩御する。
- 簡王(周)(カンオウ)【皇帝】
- 周王朝22代王。名は夷。定王の子。〜B.C.572。
B.C.586、11月14日、定王が崩御したため、公子夷は即位した。
B.C.583、7月、簡王は召桓公を遣わして、魯成公の即位を認める天子の辞令を賜わった。
B.C.580周公楚が周恵王と襄王の一族が権力を得ているのをにくみ、
また卿士伯子との政権争いに負けたため、周を出奔しようと晋の陽樊まで行った。
簡王は劉子を遣わして周の鄄邑で盟いを立てて周公楚を周に帰らせたが、3日経つと晋に出奔した。
B.C.578魯の叔孫喬如は周王からの賜賞を期待して、
請願して魯成公を周に訪朝させるようにした。王孫説が「王に謁見する礼物が粗末で、言葉はへつらっています。
おそらくは来朝したくて自分から請願したのでしょう。王は下され物をなさいますな。もし乱暴者の欲望を満足させるなら不善を賞することになります」と言った。
そのため簡王は叔孫喬如に物を与えなかった。
その後、簡王は諸侯の朝見を受けたが、魯成公の介添役孟献子に謙譲の徳があったため、簡王は彼らに厚く贈り物をした。
B.C.572、9月15日、簡王は没した。
B.C.571、1月、簡王は葬られた。
- 簡王(楚)(カンオウ)【王】
- 楚王(14(30)代目)。名は中。恵王の子。〜B.C.403。
B.C.431北伐して莒を滅ぼす。
- 甘過(カンカ)【武官】
- 周王朝の臣。
B.C.543、5月5日、甘過は劉毅・単蔑・尹言多・
鞏成らとともに公子佞夫を殺した。
- 顔何(ガンカ)【在野】
- 孔子の弟子。字は冄。
- 顔回(ガンカイ)【在野】
- 孔子の弟子。字は子淵。顔無繇の子。魯の人。B.C.521〜B.C.492。
うす汚くて狭い路地裏に住んで、一日に一椀の飯と一瓢の飲物という質素な貧乏生活をしても変わらず平気で、聖人の道を楽しんでいた。
貧乏で食事にも困ることがあったが、道を楽しんだ。
頭髪が白く、若死にしてしまう。
孔子は顔回を評して「学を好み、怒を人に移さず、過ちを二度繰り返さぬ男でしたが、不幸にも短命で死にました。いまでは他に学を好むという者はおりません」と言った。
- 顔噲(ガンカイ)【在野】
- 孔子の弟子。字は子声。
- 韓簡(カンカン)【武官】
- 晋の臣。韓万の孫。
B.C.645秦が晋を攻めた。梁繇靡が韓簡の車を御し、
虢射が車右となって晋恵公の車に続いた。
恵公は韓簡に秦軍を視察させたところ「戦闘意欲は盛んです。秦は君の帰国を手助けし、飢饉には穀物を輸出したのに報いがありません。秦には怒らない者はおりません」
と言った。恵公は「わしが攻撃をしなかったら必ず威張るに違いない。ひとりでも威張らせてはならぬ」と言った。
恵公は韓簡を使者として挑戦させた。韓簡は秦繆公に「昔の君の恩をわたくしは決して忘れてはおりません。
君がお帰りくださるのが、わたくしの願うところです。君がもし帰られないならば、わたくしも逃げ隠れはしません」と言った。繆公は「もはや晋君の位も安定したであろう。
隊列を整えられよ、戦場でお目にかかろう」と答えたので、ついに決戦することとなった。
- 韓カン(カンカン)【在野】
- 韓の子孫。
B.C.230韓が秦に滅ぼされると、韓カンは長江や淮河流域各地を放浪した。
寒い季節に韓カンが河を渡ろうとした時、渡し場を守る秦兵に姓名を問い詰められた。韓カンは恐怖のあまり返事もできず、
河の水を指差して水の寒(ハン=韓と同音)をもって韓姓を知らせようとした。ところが秦兵は「河姓か」と尋ねた。韓カンはとっさに機知が働き「姓氏は人がつくべきもの、
水にあらず、水を去りて人となす、わが姓は何である」と答えた。
秦兵はこれを信じ渡河を許した。韓カンはこれを記念して何姓に改めた。
- 韓簡子(カンカンシ)【武官】
- 晋の臣、韓の先祖。名は不信。韓伯音ともいう。韓貞子の子。
B.C.510、8月、周が晋に使いを遣わして成周に城壁を築きたいと申し入れた。
韓簡子は魏献子の命を受けて敬王の使者にその旨を告げた。
11月、韓簡子は魏献子とともに周の都に出かけ、諸侯の大夫を阦泉に集めて平丘の盟い(B.C.529)を再確認し、そのうえで成周に城壁を築くことを命じた。
韓簡子は現場に行って監督の任にあたり、命令として諸侯に申しつけた。
B.C.509、1月、魏献子は韓簡子と原寿過に城普請をまかせて大陸に狩りに行った。
宋の仲幾が工事の割り当てを承諾しないで薛の家老と言い争った。
士弥牟がこれに介入したが仲幾はこれも退けたため、士弥牟は立腹して韓簡子に「神にあかしを求めて、神を汚す宋の罪は大きい。
ぜひとも仲幾に処罰を加えてやりましょう」と言った。韓簡子は仲幾は捕らえられて晋に連れていかれ、3月に周に送りかして処刑することとした。
B.C.497荀寅・范吉射が趙鞅を攻めたため、
荀櫟・魏侈とともに彼らを討つ。 そして定公に請うて趙鞅をもとの地位に戻させる。
- 観起(楚)(カンキ)【武官】
- 楚の臣。〜B.C.551。
B.C.551観起は令尹子南に寵愛されていたので、数十乗の馬を持ち、楚人はこれを心配した。
楚康王は子南を朝廷で処刑し、観起も車裂きにされた。
- 観起(蔡)(カンキ)【武官】
- 蔡の臣。〜B.C.542。
B.C.542、6月、楚霊王が申で諸侯と会盟したとき、霊王に殺される。
- 桓齮(カンキ)【将軍】
- 秦の将軍。
B.C.239秦王政に将軍に任じられる。
B.C.236王翦を主将、桓齮を副将、楊端和を末将とし、鄴を討ったが、なかなか落ちず、
まず9城を取った。
王翦は別に閼与と橑陽を攻め、桓齮は留まって鄴を攻めた。鄴を落とすと、また橑陽を攻めた。
B.C.234趙を討ち、趙将扈輒を殺し、首級10万を挙げる。
10月、趙を討つ。
B.C.233赤麗・宜安を攻めるが李牧に破られる。
- 寒キ(カンキ)【武官】
- 寒浞の子。母は元后羿の妻。
寒浞は后羿の妻を奪って寒キを生んだ。
寒浞は斟灌・斟尋の2国を滅ぼし、寒キを戈の国に住まわせた。
- 韓起(カンキ)
- →韓宣子
- 韓咎(カンキュウ)【文官】
- 楚の臣。
B.C.298韓の太子嬰が没す。韓の公子咎と公子蟣蝨が、太子の位を争った。
蟣蝨は楚に人質となっていたので、蘇代は韓咎に「楚王は蟣蝨を韓に入れることにすこぶる熱心です。
あなたはどうして楚王に万戸の都邑を雍氏のかたわらに築かせ、
雍氏を包囲させないのですか。もし築けば、韓はかならず出兵して雍氏を救おうとし、あなたはかならずその軍の将軍となりましょう。
もし蟣蝨を奉じてこれを韓に入れれば、彼は必ずあなたを徳とし、あなたを奉ずるに相違ありません」と言った。
韓咎はそのはかりごとに従い、雍氏を包囲した。
しかし韓が楚と友好を結んだため、楚は包囲を解いた。
- 咸丘蒙(カンキュウモウ)【在野】
- 孟子の弟子。斉の人。
孟子と問答する。
- 韓挙(趙)(カンキョ)【武官】
- 趙の臣。〜B.C.327。
B.C.327斉・魏と戦い、燕の桑丘で戦死する。
- 韓挙(韓)(カンキョ)【武官】
- 韓の臣。
B.C.325魏に攻められ、破られる。
- 寒澆(カンギョウ)【将軍】
- 有窮の将軍。寒浞の子。母は后羿の元妻
寒浞は斟灌・斟尋の2国を滅ぼし、寒澆を過国に住まわせた。
寒澆は多力を身につけており強かったが、道義がなく、兄嫁である女岐に情交を求めて淫らな関係があった。
2年後、寒浞の命で夏王朝の相を弑した。
あるとき寒澆は女岐と一緒に泊まっている所を夏王朝の少康に夜襲されたが、少康は間違って女岐の首を打ち落としたため、
寒澆は助かった。
- 韓慶(カンケイ)【文官】
- 西周の臣。
B.C.296孟嘗君が韓、魏とともに秦を討ち、兵卒・食糧を西周から借りようとした。
韓慶は西周のため孟嘗君に説いて「君は兵や食を借りて秦を討つよりも、わが国を使って『薛公には秦を討つ気はありません。
楚懐王に東部の地を割かせ、秦と和睦したいのです』と言い、わが国に秦へ恩を売らせていただきたい」と言った。
孟嘗君はこれを容れ、韓慶を秦に入れたが、秦は受け入れなかった。
(『国語』では秦は韓慶の申し入れを受けたとなっており、整合性がとれていない)
- 桓恵王(カンケイオウ)【王】
- 韓王(4(10)代目)。釐王の子。〜B.C.240。
B.C.273燕を討つ。
B.C.264秦に攻められ、陘を抜かれ、汾水のほとりに城を築いた。
B.C.263秦に攻められ、太行山で戦う。
上党太守馮亭が上党郡もろとも趙に降服する。
B.C.256秦に攻められ、陽城と負黍を抜かれる。
B.C.250秦に攻められ、城皋と滎陽を抜かれる。
B.C.248秦に攻められ、上党を抜かれる。
B.C.245秦に攻められ、13城を抜かれる。
- 韓厥(カンケツ)【将軍】
- 晋の将軍。韓の先祖。司馬、新中軍の将、僕大夫、下軍の将。韓子輿の子。韓献子ともいう。
韓厥は幼児期、趙盾に養育された。
B.C.620韓厥は趙盾に推薦され司馬となった。
B.C.615河曲の戦役で、趙盾の家臣が隊列を乱したので、韓厥はこれを捕らえて処刑した。衆人は韓厥は恩知らずであり、終わりをまっとうできないと言ったが、
趙盾は韓厥に「わたしはその方を君に推薦したが、その方が無能であることを恐れた。それ故、その方の能力を試したのだ。厥よ、つとめよ。
晋を統治するのは、その方を置いて誰がいよう」と言い、諸大夫に「諸君、わたしを祝ってくだされ。厥を推挙したことが当りました」と言った。
B.C.597春、鄭が楚に攻められた。
6月、晋は鄭を救援することとし、韓厥は司馬に任じられた。
晋軍が黄河に到着すると、すでに鄭は楚に降服して和睦したと伝わった。中軍の将荀林父は帰国しようとしたが、
中軍の佐先縠が勝手に黄河を渡った。韓厥は荀林父に「彘子(先縠)が命令に従わなかったのはあなたの罪です。鄭を失い、
部下を敗滅させる罪は極めて重い。むしろ進撃したほうがよい。戦いに負ければ、みなで罪を分け合いましょう」と言ったので、荀林父は早速、黄河を渡って進撃した。
しかし晋軍は楚軍に破られた。
この年、司寇屠岸賈は趙氏を誅しようとして霊公殺害事件をとりあげて
「盾は事件を知らなかったといえ、犯人一味の頭目です。臣下の身で君を弑しながら、その子孫が朝廷にいるようでは、どうして罪を懲らしめることができましょう。
誅したいと思います」と言った。
韓厥は「趙盾は都の外遠くにいましたし、当時先君も盾に罪はないと思われたので、誅殺されなかったのです。
いまその子を誅すのは先君のご意向にそむいて、みだりに誅するものです。
また君にも申し上げないで処置するのは、君を無視するものです」と反論した。
屠岸賈が承服しなかったので韓厥は趙朔に、はやく逃げるよう勧めたが、趙朔は「あなたが必ず趙氏の祀りを絶やさないというのなら、
わたしは殺されても恨みはない」と言ったので、韓厥は承諾して病と称して外出しなかった。
屠岸賈はついに趙朔を殺し、趙氏一族を滅ぼした。
(『史記』は屠岸賈がB.C.598に趙氏を族滅させたとしているが、他の古典と整合性が取れていない)
B.C.589春、斉が魯を討った。そこで魯・衛を助けるため晋は郤克・欒書・韓厥に命じて斉を討った。
韓厥は司馬に任じられて斉軍を鞍で大破した。
韓厥は夢で韓子輿に明朝の戦いには車の左や右に乗ってはいけないと告げるのを見た。そこで韓厥は中央の御者となって戦いに挑んだ。
韓厥は斉頃公を追撃した。頃公の御者邴夏が「敵の御者を射とめよ。すぐれた人物のようだ」
と言ったが、斉頃公は「すぐれた人物とわかっていながらこれを射るのは非礼である」と言って、韓厥の左役を射てこれを落車させ、右役を射て車中に倒れさせた。
そのとき綦毋張が兵車を失っていたので、韓厥の車に乗り込んだ。韓厥は綦毋張の身を案じて彼を自分の後ろに立たせ、
車中に倒れている右のしかばねを安らかに横たえて、敵に見えないようにした。
この隙に斉頃公の右逢丑父は斉頃公と座席を換えて君の身代りになった。
華不注の麓の華泉に差し掛かったとき、斉頃公のそえ馬が木に引っかかって止まってしまった。そこで韓厥は追いつき手綱を取って斉頃公の馬前に進み、
再拝稽首して杯をささげ、さらに璧を加えて献上し「わが君は、貴国の軍の引き揚げをお願いさせ、誤って貴公の領地に踏み込むことのないようにとの命令でございました。
ところが偶然に貴公の軍と出会いまして引き揚げるわけにもいかず、一戦を交えました。おわび申し上げまして、貴公の側の代行者となり、
欠員の役をつとめさせていただきます」と申し入れた。斉頃公の身代りとなった逢丑父は斉頃公を下車させて華泉の水を汲んでくるよう命じたので、
頃公は逃げることができた。韓厥はそのまま逢丑父を捕えた。
B.C.588冬、斉頃公が晋に朝して玉を晋景公に授けた。このとき斉頃公は韓厥をじっと見つめ、韓厥かどうか半信半疑でいた。
韓厥「君はわたくしを知っておられますか」
頃公「服装が変わっていたので、よくわかりませんでした」
韓厥は宴席に登り、杯をあげて「わたしが奮戦しましたのは、両国の君がこうして親しく宴を開かれることを願ったからであります」と言った。
12月27日、晋は初めて六卿を設けて、韓厥は卿となった。
韓厥は後に新中軍の将となり、僕大夫(侍従長)を兼任した。
B.C.585晋は遷都について相談した。大夫たちは物産が豊かで塩の産地に近い郇瑕氏の地に遷都したいと言った。景公は韓厥に相談すると韓厥は
「それはいけません。郇瑕氏の地は土地が低く水が浅いので悪疾が発生しやすい土地です。それよりは新田に移るほうがいいです。
新田は土層が高く水も深いので病気になりません。その民は質朴でお上の教えに従います。山や沢や林や塩地は宝ではありますが、都が豊かになると民は怠けるようになり、
公室が貧しくなります」と言った。景公は韓厥の意見に従った。
4月14日、景公は都を新田に移した。
冬、晋は楚に攻められた鄭の救援に出かけた。晋軍は繞角から進んで蔡を侵略した。楚の公子申と公子成が蔡を助け、
桑隧で晋軍を防いだ。趙同と趙括が決戦の望んだため欒書は許そうとしたが、
韓厥・荀首・士燮は「いけません。もともと鄭を助けに来て、
はからずも蔡まで来てしまいました。罪なき人を攻め殺してはなりません。そもそも大軍を整えてきたのに、わずか楚の2県を破っても何の名誉になりましょう」
と言ったので、欒書はそのまま引き揚げた。
B.C.583晋景公が病んだ。占うと「大業の後の遂げざる者祟りをなす」と出た。
景公はこれを韓厥に問うと、韓厥は趙朔の孤児が生きているのを知っていたので「それは趙氏でありましょうか。中衍というもの以来、
みな嬴姓を名乗り、晋に仕えました。成公のときまで代々功労を立て、かつて祖先の祭祀を絶ったことはなかったのです。
しかし今、趙氏の宗家は滅ぼされ、国人はこれを哀しんでおります。わが君には、このことをご配慮さないますように」と言った。
景公が「趙氏にはまだ子孫が残っているのか」と問うたので、韓厥はつぶさに実情を告げた。そこで景公は趙氏の孤児を立て、
趙武と程嬰を呼び出し、諸将とともに屠岸賈を攻め、その一族を滅ぼした。
趙武が成人して大夫に挨拶回りをした。このとき韓厥は「戒められよ、これを成人と言います。最初に善人を友とすれば、善人は善人を連れてきます」と言葉を贈った。
張孟は「韓子(厥)の戒めは人を完成させることができます」と評した。
B.C.578、5月、韓厥は下軍の将として秦軍と戦い、麻隧でこれを大破した。
B.C.576楚が鄭・衛を攻めて、鄭が反撃して楚を討った。欒書が楚に一矢報いたいと望んだが、韓厥は「よしなさい。楚にさらに悪いことをさせれば、民も背くであろう。
民がなくなれば誰が戦うであろうか」と諌めた。
10月、三郤が伯宗を讒言してこれを殺し、賢大夫の欒弗忌までも殺した。
そのため伯宗の子伯州犂が楚に出奔した。韓厥は 「郤子は禍にかかるであろう。善人を殺して滅びないので何が期待されようか」
と言った。
B.C.575、4月、晋は鄭討伐の軍を発し、韓厥は下軍の将として参戦した。
この戦いで韓厥は鄭成公を追撃した。御者の杜溷羅は
「早く追いましょう。鄭伯の御者は後ろを振り返ってばかりで、馬のことを考えていません。きっと追いつけます」と言ったが、韓厥は
「二度も国君に恥をかかせてはならない」と言って追撃するのをやめた。
B.C.574欒書は荀偃と図り、厲公を匠麗氏の邸に包囲して、韓厥にこれに加わるよう呼び寄せた。
しかし韓厥は「君を弑して自分の威を立てようとするのは、わたしにはできないことです。昔、わたくしは趙氏に養育されましたが、
孟姫の乱のときも兵力を使うことはありませんでした。まして君に対しては無論のことです」と断った。
荀偃は韓厥を殺そうとしたが、欒書は「いけません。彼の行動は果断で、言葉は順当である。われわれが攻めようとしてもできるものではない」と言って、それを止めた。
結局、欒書は厲公を弑した。
B.C.573、11月、楚が宋を攻めたため、宋の華元が事態の急を告げてきた。韓厥は「人を従えようと思うなら、
まずその人のために骨を折ってやるべきです。覇業を成す仕事は、宋を助けることから始めましょう」と進言したので、
晋悼公は軍を進めて宋を助けた。
B.C.572、5月、韓厥は荀偃とともに諸侯の軍を率いて鄭を討った。晋軍は鄭の外城に攻め入り、鄭の歩兵を洧水のほとりで打ち破った。
晋軍は勢いに乗って諸侯と連合して楚の焦夷に攻め入り、陳まで攻め込んだ。
B.C.569春、楚軍が春になっても陳を攻めるため、楚の繁陽に留まっていた。韓厥は
「周の文王が紂王に仕えていたのは、まだ争うべからざる時勢をわきまえていたからだ。
しかし今、わが国は文王と違ったやり方をしている。うまくゆかないだろう」と言った。
B.C.566、10月、韓厥は老年を理由に隠居を願い出た。晋悼公はその子韓無忌に父の後を継がせようとしたが、
韓無忌は不治の病気にかかっていたので辞退して、弟の韓宣子を勧めたため、韓宣子が韓厥の後を継いだ。
献子と諡される。
- 韓虔(カンケン)
- →景侯
- 韓厳(カンゲン)【武官】
- 韓の臣。
B.C.371哀侯を弑す。
- 管厳(カンゲン)【武官】
- 斉の臣。管仲の父。
管厳は斉の大夫を勤めたこともあったが、没落した。
- 韓献子(カンケンシ)
- →韓厥
- 鍼虎(カンコ)【武官】
- 秦の臣。
B.C.621秦繆公が没すると、鍼虎は殉死する。
秦人はこれを悲しんだ。
- 翰胡(カンコ)【武官】
- 曹の臣。
B.C.521、11月7日、翰胡は晋・斉・衛とともに宋を助けて、宋で叛乱した華氏を赭丘で討った。
- 韓固(カンコ)【文官】
- 晋の臣。
B.C.514秋、祁氏・羊舌氏が滅び、その土地は10の県に分けられ、韓固は馬首の大夫となった。
韓固は卿の庶子の中でよく職分を守り父祖の務めを守る者であるためにであり、魏献子のお目にかかったからである。
- 観虎(カンコ)【武官】
- 晋の臣。〜B.C.507。
B.C.507、9月、観虎は鮮虞と戦ったが、自分の武勇を誇って敵を軽んじたため平中で破られて戦死した。
- 罕虎(カンコ)
- →子皮
- 韓虎(カンコ)
- →韓康子
- 桓公(鄭)(カンコウ)【王】
- 鄭公(初代)。名は友。周の宣王の弟。〜B.C.771。
B.C.806鄭に封じられ、初代鄭公となる。
領民はみな安堵して桓公を敬愛した。
B.C.774桓公は周王朝の司徒に任命された。
桓公は周の民をやわらげ安んじたので、民はみな喜び、河・雒の間の人々はみな公を思慕した。
B.C.773周幽王が褒姒を寵愛し、政治が乱れたため、桓公はこれに巻き込まれたくないと思い、
周の太史伯陽に相談した。
桓公「王室は多難で、わたしはこの災難に巻き込まれるのが心配です。どこへ行ったら逃げられるでしょうか」
伯陽「王室が衰微して、戎狄が必ず盛んになるでしょうから、かれらに近づいてはなりません。結局は、済・洛・河・潁の4つの川の間がよろしいでしょう。
その地方の子爵男爵の国では、虢と鄶が大国ですが、虢叔は地勢を頼みとし、鄶仲は険阻を頼んで、みな驕侈怠慢のうえ貪欲です。
あなたがご家族と財産を依頼すれば、きっと彼らは受けるでしょう。周が乱れて衰えたら、彼らはきっとあなたの信頼を裏切るでしょう。そのとき、
あなたは成周の民を率いて大義を責めて彼らの罪を討てば、
勝たないはずはありません。もし、このニ国に勝てば、鄢・弊・補・丹・依・ジュウ・歴・華も君の領土となりましょう。
華国を前にし、黄河を後ろにし、洛水を右に、済水を左にして、芣山とカイ山の祭主として、シン水と洧水の流域の生産によって生活し、国家の常法を守っていけば、
少しは強固になることができましょう」と答えた。
そこで桓公は幽王に言上して、妻子と財産と鄭の民を東のほう洛水の東に移そうとすると、虢鄶二国が引き受けて、
10国とも皆あずける地を提供してくれた。
B.C.771犬戎が幽王を攻め殺し、同時に桓公も殺される。
- 桓公(魯)(カンコウ)【王】
- 魯公(15代目)。名は允。隠公の弟。母は仲子。〜B.C.694。
恵公が隠公の妻仲子を奪って允は生まれ、太子に立てられた。
B.C.723恵公が早く没したため、隠公が摂政となり政治をとる。
B.C.712冬、公子揮が「息姑(隠公)は即位してあなたを退けようとしています」と讒言して隠公を弑したため、允は即位することとなる。
B.C.711、1月、桓公は魯の君の位につき、鄭と友好関係を修めた。
鄭がまた鄭の祊と魯の許を交換して欲しいと申し入れたので、桓公はこれを許した。
3月、桓公は鄭荘公と垂で会合し、祊と許を交換した。
4月2日、桓公は鄭荘公と越で会合し、祊と許の交換のことで「この盟を破棄するならば、国を保ってゆくことはできないであろう」と誓った。
秋、洪水があった。
冬、鄭荘公が魯に来朝して、越の盟いに対するお礼のあいさつをした。
B.C.710、宋の大宰華督は主君を殺した。
滕の君が来朝する。
3月、桓公は斉釐公・陳桓公・鄭荘公と宋の稷で会合して、
宋の乱の後処理をする。
4月、華督が賄賂として魯に郜の国で造られた大鼎を贈り、桓公はこれを受けた。
5月10日、桓公は始祖周公の太廟に納めた。臧哀伯はこれを諌めて
「君は無道の逆臣華父督を援助し、その賄賂である大鼎を大廟に奉納して百官に明示している。これでは百官が君にならって悪事をはたらいても、
どうして責めることができましょう」と言ったが、桓公は聴き入れなかった。
7月、杞侯が来朝したが、不敬であったので、杞を討つ相談をする。
9月、桓公は杞を討った。
桓公は戎との友好関係を修めるため、唐で盟う。
冬、戎との会合が成立し、桓公は帰国する。
B.C.709桓公は斉釐公と斉の嬴で会合し、斉と婚約を結ぶ。
6月、杞侯は魯との和平を求めたので、桓公は杞侯と郕で会合した。
7月、皆既日食があった。
秋、公子揮を斉に行かせ、斉の公女を迎えた。
9月、斉釐公が公女姜氏を讙に送った。桓公は釐公と讙で会合した。姜氏が斉から魯に入った。
冬、斉の夷仲年が魯に来聘した。
この年、魯は豊作であった。
B.C.708、1月、桓公は郎で狩を行った。
夏、周の宰渠伯糺が魯に来聘した。
B.C.707夏、周桓王は仍叔の子を魯に遣わした。
桓公は祝丘に城壁を築く。
秋、桓公は雨乞いの大祭を行ったが、時期が違うとそしられた。
この年、蝗の被害があった。
B.C.706州公淳于公が曹から魯に来た。
4月、紀の君が斉に滅ぼされるのを恐れて、対策を相談するために魯に来朝し、桓公はこれと成で会合した。
6月、斉が北戎に攻められたため、諸侯は斉を助けた。その中で鄭の太子忽の功が最も高かった。
しかし斉が労をねぎらうとして秣や米を分与しようとした時、魯がその順番を決めることとなった。そこで魯は周の爵位に従って順番をつけ、
鄭をあとにした。そのため太子忽は魯を恨んだ。
秋、斉・鄭が強大であったので、桓公は大閲を行い、戦争に用いる車馬を調べた。
9月24日、子の同が生まれた。桓公はその命名を申繻に問うた。
申繻「命名には五つあり、名をもって生まれてきたのが信であり、徳義の名をつけるのが義であり、容貌にちなんで名をつけるのが象であり、
生まれた時の事柄にちなんでつけるのが仮であり、父と関係のあることにちなんでつけるのが類です。官名や地名と同じ名を取って命名すると、
それを改名しなくてはなりませんので、軽々しくしてはいけません」
そこで桓公は自分と同じ日に生まれたので、名を同とした。
冬、紀の君が来朝し、天子の命をいただいて斉と和睦したいと魯に申し込んだが、桓公は天子の寵愛を受けていなかったので、その力がないとして断った。
B.C.705、2月、桓公は咸丘に焼き狩りを行った。
春、穀伯綏が来朝する。
鄧侯吾離が来朝する。
B.C.704正月、桓公は蒸の祭りを行った。
周桓王が家父を魯に遣わして、王后を迎えるために来朝させた。
5月、桓公は蒸の祭りを行った。
秋、桓公は邾を討った。
10月、雪が降る異常があった(周暦の10月は夏暦の8月)。
祭公が魯に来朝し、王后を紀に迎えた。
B.C.703冬、曹の太子夜姑が魯に来朝した。魯はこれを上卿の礼をもって礼遇した。
B.C.701桓公は宋荘公と郕の夫鐘で会合した。
12月、桓公は宋荘公と魯の闞で会合した。
B.C.700、6月、桓公は杞と莒を仲直りさせるため、杞君と莒君と魯の曲地で盟いを結んだ。
7月、桓公は宋と鄭を仲直りさせるため、宋荘公と宋の穀丘で盟いを結んだ。
8月、宋が和平を望んでいるか疑わしかったので、桓公は宋荘公と宋の虚で会合した。
11月、桓公はまた宋荘公と宋の亀で会合した。
宋が信義を守らなかったので、桓公は鄭厲公と鄭の武父で盟った。
12月、桓公は軍を率いて宋を討った。
B.C.699、2月、桓公は紀の君と鄭厲公と会合した。
桓公は鄭を援助して紀軍とともに、斉・宋・衛・燕と戦い、これを破った。しかし桓公はこの戦いに遅刻してしまった。
夏、洪水があった。
B.C.698春、桓公は鄭厲公と曹で会合した。
夏、鄭厲公の弟語が魯にやってきて、武父の盟いと曹の会合の友好を深めた。
8月15日、御廩が焼けた。
8月18日、御廩が焼けていたが、無事に嘗の祭りを行った。
B.C.697、2月、周桓王は家父を遣わして、魯に車を要求してきた。
夏、桓公は斉襄公と魯の艾で会合し、許を平和にすることを相談した。
牟の使者が来朝する。
葛の使者が来朝する。
11月、桓公は宋荘公・衛恵公・
陳荘公と宋の袲で会合して鄭を討って、鄭厲公を帰国させようとしたが、うまくいかなかったので帰国した。
B.C.696、1月、桓公は宋荘公・蔡桓侯・衛恵公と曹で会合し、鄭を討つことを相談した。
4月、桓公は宋・衛・陳・蔡とともに鄭を討った。
7月、桓公は鄭の討伐から帰った。
冬、向に城壁を築いた。
B.C.695、1月13日、桓公は斉襄公と紀の君と斉の黄で盟いして、斉と紀を仲良くさせ、衛の騒ぎについて相談した。
2月、桓公は邾の儀父と魯の趡で盟い、蔑の盟いを復活させた。
5月5日、斉が魯の国境に侵入してきたので、斉と魯との間に国境争いが起こり、魯の奚で斉軍と戦った。
秋、桓公は宋・衛とともに邾を討った。
10月、日食があった。
B.C.694、1月、桓公は夫人の文姜とともに斉に行こうとした。申繻が「女は夫の家に安んじ、
男は妻の室に安んじて夫婦の道を守るべきです。これを乱して守らなければ、必ず禍がやってきます」と諌めたが、桓公は聴き入れなかった。
桓公は斉襄公と濼で会合し、そのまま文姜をつれて斉に入った。
そこで文姜が斉襄公と密通したため、桓公は文姜を叱った。文姜はそれを襄公に告げた。
4月10日、桓公は宴会に饗応され、酒に酔ったときに彭生に殺された。
魯の人は「わが君は貴国に出かけて旧来のよしみを修めましたのに、まだ帰られない。だれをとがめようにも相手がなく、諸侯に対して外聞が悪い。
彭生を殺して、この恥辱をそそぎたい」と斉に申し出た。そこで襄公は彭生を殺した。
- 桓公(斉)(カンコウ)【王】
- 斉公(15代目)。名は小白。釐公の子。〜B.C.643。
B.C.686斉襄公の政令はでたらめであった。
小白の守役の鮑叔が「君は民を使うことがだらしない。きっと乱が起こるでしょう」と進言したので、
小白は莒に亡命した。
B.C.685春、斉の大夫雍廩が公孫無知を弑した。
夏、魯荘公は斉を討って公子糾を斉君にしようとした。
しかし小白は一歩先に斉に入って即位した。
8月、桓公は魯と斉の乾時で戦い、これを大破し、荘公の御の秦子と戎右の梁氏を捕えた。
9月、鮑叔は勝ちに乗じて魯に進軍して、魯に居る管仲を宰相に推薦した。
桓公「管夷吾はわしを射て鉤に当て、死ぬところであったのだぞ」
鮑叔「その君のためにしたことです。君が彼を許せば、彼は君のためにあの時のように働きましょう」
桓公「魯には施伯がいる。わしが夷吾を重用すると知ったら、わしに引き渡すまい」
鮑叔「管夷吾を斉の群臣の面前で処刑して見せしめにしたいと言えば、わが国に渡すでしょう」
はたして魯は管仲を斉に送り、桓公は管仲を宰相に任じた。
B.C.684、1月、桓公は魯を討ったが撃退された(長勺の戦い)。
6月、桓公は宋軍と共に魯の郎に攻め入って陣をかまえた。魯の公子偃が虎の皮をかぶり、宋軍に攻め入り、
魯荘公もそれに続いて、大いに宋軍を魯の乗丘で破った。そのため斉軍は引き揚げた(乗丘の戦い)。
10月、かつて桓公が亡命した時、譚で礼遇されず、桓公が斉に戻った時、譚だけがお祝いに来なかった。そこで桓公は譚を滅ぼした。譚の君は莒に亡命した。
また遂に罪があったので、桓公はこれを滅ぼした。しかし桓公はこれを領有しなかったので、諸侯はその寛大さをたたえた。
B.C.683桓公、郯を攻め滅ぼす。桓公は南方の諸国で萊・莒・徐夷・呉・越など淫乱のものが多かったので、一戦して31国を征服した。
冬、桓公は王女キョウ姫を迎えるために魯に行った。
B.C.682、3月、紀に嫁いでいた魯の叔姫がケイに一時身を寄せた。
B.C.681春、桓公は宋の乱を治めるため、宋・陳・蔡・邾・魯・衛・鄭と斉の北杏で会合した。
6月、北杏の会盟に遂が参加しなかったので、斉は遂を攻め滅ぼして、そこを守備した。
冬、桓公は魯荘公と斉の柯で会合した。
宋が北杏の会盟の盟いに背いた。
B.C.680斉は、陳・曹とともに宋を討った。
斉は王命によって宋を討とうとして軍を周に願い出た。
夏、周の単伯が諸侯の軍に参加し、宋を和平させて帰国した。
冬、宋が降服したので、周の単伯が桓公・宋桓公・衛恵公・
鄭厲公と衛の鄄で会合した。
B.C.679春、桓公は再び鄄で宋・陳・衛・鄭と再び会盟を行い、桓公は斉が盟主となることを承認させた。桓公は覇業を成し、その名声は天下に轟いた。
夏、文姜が斉に入った。
秋、斉と邾は宋のために、宋に背いた郳(小邾)を討った。
B.C.678夏、斉は宋・衛とともに鄭を討った。
12月、桓公は宋桓公・陳宣公・衛恵公・鄭厲公・許の君・滑の君・滕の君と宋の幽で会合し、鄭は斉と和平した。
B.C.677春、鄭は去年、斉と和睦しながら、鄭厲公みずから斉に聘せず、叔詹を遣わしたので、斉は叔詹を捕えた。
夏、遂の因氏、頜氏、工婁氏、須遂氏が謀って斉の守備兵を酒に酔わせて殺した。
秋、鄭の叔詹が魯に逃亡する。
B.C.675桓公は宋・陳とともに魯の西に侵入した。
B.C.674冬、桓公は戎を討った。
B.C.672、6月2日、鄭文公が朝見した。
7月9日、桓公は高傒に命じて魯荘公と防で盟約させた。
B.C.671夏、桓公は魯荘公と穀で会合した。
12月5日、桓公は魯荘公と鄭の扈で盟約した。
B.C.670夏、妹の哀姜が魯荘公に嫁いだ。
桓公は鄭文公に命じて蔡を攻めさせた。
B.C.668秋、桓公は魯・宋と会合して徐を討った。
B.C.667、6月、桓公は魯荘公・宋桓公・陳宣公、 鄭文公と会合して幽で同盟し、陳と鄭が斉に服従した。
冬、桓公は魯荘公と城濮で会合した。
周恵王が召伯廖を使者として斉に派遣し、桓公に覇者(侯伯)の辞令を賜わらせ、
さらに衛を討ってほしいと依頼した。
B.C.666、3月29日、桓公は衛を討った。両国は大いに戦ったが、斉軍は衛軍を破り、天子の命であるといって衛の罪を責め立て、衛より財貨を取り立てて帰った。
秋、楚が鄭を討ち、桔シツの門に攻め入った。桓公は宋と会合して鄭を救いに行ったので、楚軍は夜にまぎれて逃げ去った。
B.C.664、7月、斉は鄣国を降した。
冬、桓公は魯荘公と済水のほとりで会合し、燕を悩ます山戎を討つ相談をした。
桓公は山戎を討った。
B.C.663、6月、桓公は魯に赴き、戎の戦利品を贈った。
B.C.662桓公は、楚が鄭を討ったので、その報復を図るために諸侯を招集した。宋桓公がその前に会見したいと願い出たので、桓公は夏に梁丘で会見した。
冬、魯の慶父が斉に来た。
邢は狄に攻められたので、斉に救いを求めた。管仲が「戎や狄はおおかみのように貪欲であるから、満足させてはならず、
中国の諸侯は見棄ててはなりません」と進言したので、桓公は邢を救うため兵を出した。
B.C.661燕の要請を受けて山戎を孤竹まで討った。海浜の諸侯は、斉に朝貢して服従しないものはなかった。
このとき燕荘公は桓公を送って斉の境内に入った。桓公は「天子を送るときのほか、諸侯が送りあうには国境を出ないものである。
わしは燕に礼をつくさなくてはならぬ」といい、荘公が送って来た地点までを燕に与えた。諸侯はみな斉に心服した。
8月、桓公は魯湣公と斉の落姑で盟い、湣公は陳に出奔した季友を魯に戻すよう請うたので、
桓公はそれを許した。
冬、桓公は大夫仲孫湫を魯に遣わして、魯の乱れを視察した。
仲孫湫「慶父を除かなければ、騒ぎは収まらないでしょう」
桓公「どうしたら除くことができようか」
仲孫湫「自分から倒れるでしょう。君にはしばらくお待ちください」
桓公「魯は攻め取ることができようか」
仲孫湫「それはできません。魯は今も昔の周の礼を守っております。君には魯の騒ぎを鎮めて魯に親しんでください。
これこそ覇王のなすべきことです」
B.C.660春、桓公は陽国を移した。
8月、魯に叛乱がおこり、9月に慶父が自殺した。慶父と淫通した哀姜は邾に出奔した。桓公は哀姜を捕えて夷で殺し、そのなきがらを運んで斉に帰った。
魯釐公が哀姜のなきがらを求めたので、これを魯に送った。
狄が衛を攻め、衛懿公は戦死し、衛は滅ぼされた。宋桓公は衛戴公を擁立して、曹に仮住まいさせた。
桓公は子の無詭に命じて兵車300乗と兵3000人を率いさせて、曹を警備し、戴公には馬4頭と祭服5着、
牛羊豚鶏狗300ずつと門戸を造る材料を贈った。
B.C.659春、桓公は諸侯とともに邢を助けた。邢人は聶北にいた諸侯の軍に逃げてきたので、連合軍は狄の人を追い払った。
6月、桓公は邢を夷儀に移して、城壁を築いた。
8月、桓公は宋桓公、鄭文公、曹昭公、邾と宋の檉で会合し、
楚に攻められている鄭を救うことを相談した。(檉の会盟)
B.C.658春、桓公は諸侯とともに楚丘に城壁を築いて良馬300頭を贈り、公子燬を立てて国君とし(文公)、
そこで衛を復興させた。諸侯は桓公の人徳をたたえた。
9月、桓公は宋桓公、江、黄と宋の貫で会盟し、江・黄を斉に従えた。
斉の寺人貂が、はじめて軍の秘密を多魚で洩らした。これがやがて斉の乱れのもととなった。
B.C.657秋、桓公は宋桓公・江・黄と陽穀で会合し、楚を討つ相談をする。
桓公は魯が陽穀の会合に参加しなかったので、人を魯に遣わして旧来のよしみを復活させようとした。
冬、魯釐公は季友を斉に遣って、斉と同盟した。
B.C.656春、桓公は魯釐公、宋桓公、陳宣公、衛文公、鄭文公、許穆公、曹昭公と会合して蔡を討った。
連合軍は蔡を破り、蔡繆侯を捕らえ、勢いに乗じて楚に攻め入って汝水を渡り、方城の塞を越え、汶山を望祭するまで進軍した。
楚の使者が問うた。
使者「君は北海におり、わたしは南海におり、遠く隔たっているのに、どうしてわが領土に攻め入るのですか」
管仲「その昔、
召康公(召公奭)がわが先君の太公(太公望)に四方を征伐して周室を護るよう命ぜられました。
汝、楚の献納すべき苞茅が入らないので、天子の祭りに事欠いている。わが君はそれをお求めである。
また昔、周昭王が南に巡狩せられたまま帰られなかったが、わが君はその理由を問うているのである」
使者「貢ぎ物を入れないのは事実で、これは私の罪である。今後は上供することとしよう。しかし昭王が還られなかったのは、私の知らぬこと、岸の柳にお問いなされ」
そこで桓公は進撃して楚の陘に布陣した。
楚成王は屈完を使者として和平の意を伝えてきた。
そこで諸侯の軍は退却して召陵に止まった。桓公は諸侯の軍勢を並べ、屈完と同じ車に乗って閲兵して言った。
桓公「楚も諸侯と同様にわたくしと友好を結ばれてはいかがですか」
屈完「わが君を諸侯の中にお加えくださるならば、それこそわが君の願うところです」
桓公「この大軍を持つなら、いかなる者も敵対せず、いかなる堅固な城でも攻め落とせないものはないであろう」
屈完「君が徳をもって諸侯を治められれば誰でも服従するでしょうが、武力を用いるなら、わが楚は方城山を城とし、漢水を池として戦いましょう」
かくて楚と諸侯は和平の盟いを結んだ。そのため南方の諸国は朝貢して服従しないものはなかった。
帰国の際、陳の袁濤塗が「軍が陳と鄭の間を通れば、両国とも食糧の供給に困りますので、
東方を通って東夷に武力を見せつけて海に沿って帰るのがよろしいでしょう」と進言したので、桓公はこれに従おうとした。
しかし鄭の申侯が「軍は疲れています。東夷にはかなわないでしょう。陳と鄭の間を通り、
両国に食糧を出させるほうがよろしいでしょう」と進言したので、桓公はよろこんで、申侯には鄭邑の虎牢を与え、袁濤塗を捕えた。
秋、桓公は袁濤塗が軍道を誤らせようとしたのを責めて、宋・衛・鄭・許・曹・魯とともに陳を討った。
冬、陳が罪に服して和睦を乞うたので、桓公は捕えていた袁濤塗を帰国させた。
B.C.655夏、桓公は、魯釐公・陳宣公・衛文公・鄭文公・許僖公・曹昭公・
周の太子鄭と衛の首止で会合し、太子鄭の地位を固め、周室の安泰を図る相談をした。
8月、諸侯は首止で盟った。
B.C.654桓公は、魯釐公・宋桓公・陳宣公・衛文公・曹昭公と会合して鄭を討ち、新城を包囲した。
秋、楚が許を包囲して鄭を助けようとしたが、諸侯が許を救ったので、楚軍は引き揚げた。
B.C.653桓公は鄭を討った。
夏、鄭は申侯を殺して斉に申し開きをした。
7月、桓公は、魯釐公・宋桓公・陳の太子款・鄭の太子華と魯の甯毋で会合し、
鄭に対する処置を相談した。
管仲が「離れている者は礼を用いて招きよせ、遠い者は徳でもってなつけるといいます」と進言したので、桓公は諸侯に対して礼を行った。
鄭の太子華が「わが国の大夫の泄氏、孔氏、子人氏の三族は君命に逆らっています。君がこの三族を取り除いてくださるなら、鄭は斉の家来となりましょう」と言ったので、
桓公はこれを許そうとした。しかし管仲が諌めた。
管仲「礼と信をもって諸侯を引き寄せているのに、よこしまなやり方をするのはよくありません」
桓公「鄭にまだ勝つことができない。鄭につけこむすきがあるならば、よいではないか」
管仲「徳をもって鄭を治めようとして、その上で討伐するならよいでしょう。もし父の命に背いた太子華をひきつれて鄭を討てば、
鄭は言い訳が立ち、わが軍を恐れないでしょう。太子華のような悪人を許してはなりません」
そこで桓公は太子華の意見をしりぞけた。
冬、鄭文公は斉に使者を遣わして、盟いに参加させてもらうよう請うてきた。
周恵王が崩御し、襄王が即位したが、弟の叔帯の謀反を気に病んで、
自分が天子の位に立てなくなることを心配して、恵王崩御を公表しないで、叔帯の謀反を斉に報告してきた。
B.C.652春、桓公は魯釐公・宋桓公・衛文公・曹共公・陳の太子款・許僖公・周王の使者と会合し、
曹の洮で盟い、周王室の騒ぎを鎮めることを相談した。
鄭文公が斉に服従を求めて会盟に参加することを願い出てきた。
周襄王は位について王位が安定してから、恵王の崩御を公表した。
B.C.651夏、桓公は、魯釐公・宋襄公・衛文公・鄭文公・許僖公・曹共公・宰孔と葵丘で会合し、
同盟関係を温め、誓約書を取り交わした。
第一条 親不孝者は必ずこれをこらしめる。一度定めた世嗣は妄りに代えてはならない。妾は決して本妻とせぬこと。
第二条 賢者を尊び、人材を育成し、、有徳者を表彰すること。
第三条 老人を敬い、幼者を慈しみ、賓客や旅人を大切にすること。
第四条 官職は世襲するな。官職を兼任させるな。必ず立派な人物を採用すること。みだりに大夫を殺さぬこと。
第五条 堤防を曲げて作らぬこと。他国の買い入れ米を妨害するな。臣下に領地を与えたら、必ず盟主に報告すること。
桓公は宰孔より祭に供えた肉を賜わったが、宰孔は堂下で拝礼することをしなくてよいと伝えた。しかし桓公は恐縮して、断って堂を降りて拝し、
堂に登って胙を受けた。
しかしこのような取り決めは天子がすることであったため、宰孔は帰国する途中に、
会盟に遅れて出席しようとする晋献公に「斉侯は驕れり。ただ往くこと無かれ」といい、欠席するよう勧めた。
9月15日、桓公は再び諸侯と葵丘で同盟を結んだ。
10月、晋の里克が奚斉を弑し、晋室は混乱した。
桓公は諸侯の軍を率いて晋を討ち、高梁まで攻め入って引き返した。
桓公は封禅の儀式を行おうとするが、管仲の必死の諫言で取りやめた。
B.C.650夏、桓公は許僖公とともに北戎を討った。
4月、隰朋は宰孔と周の王子党と会合して、
晋恵公を即位させた。
B.C.649夏、桓公は魯釐公とその夫人姜氏と陽穀で会合した。
B.C.648周襄王は戎を手引きした叔帯を討ち、叔帯は秋に斉に出奔してきた。
冬、桓公は管仲に命じて戎と周を和解させ、隰朋に命じて戎と晋を和解させた。
B.C.647桓公は仲孫湫を周に遣わして聘問させ、ついでに叔帯を取り持って周に帰させようとしたが、周襄王の怒りが解けていなかったので、実現しなかった。
夏、桓公は魯釐公・宋襄公・陳穆公・衛文公・鄭文公・許僖公・曹共公と衛の鹹で会合し、淮夷が杞を苦しめたことへの対応と、王室の騒ぎについて相談した。
秋、戎が周を攻めたので、桓公は諸侯とともに周に兵を送って守城を修築した。
B.C.645春、魯釐公が斉を訪れる。
3月、桓公は魯釐公・宋襄公・陳穆公・衛文公・鄭文公・許僖公・曹共公と斉の牡丘で会合して葵丘の盟いを忘れないようにし、 楚に討たれた徐を救うことを相談した。
桓公は諸侯と協力して徐を救った。
7月、桓公は曹とともに厲を討った。
桓公には夫人が3人おり、王姫・徐嬴・
蔡姫とも子がなかった。桓公は女色を好み、愛する女が多く、夫人のような待遇を受ける愛妾は6人もいた。
長衛姫は無詭を、少衛姫は公子元を、
鄭姫は公子昭を、葛嬴は公子潘を、密姫は公子商人を、
宋の華氏の姫は公子雍を生んだ。桓公は管仲と相談して公子昭を宋襄公に依頼して太子に立てていた。
管仲は雍巫・開方・賢刁を疎んじて、
これを登用することのないよう桓公を諌めた。ところが桓公は雍巫を寵愛して、公子無詭を立ててもよいと許した。
この年、管仲が没した。すると5人の公子は後を継ごうと争った。
B.C.644夏、斉は厲を討ったが勝てず、徐を救っただけで引き返した。
秋、周襄王は戎の侵略に悩まされ、救いを斉に求めたので、桓公は諸侯の軍を集めて周を守らせた。
12月、桓公は魯釐公・宋襄公・衛文公・鄭文公・許僖公・邢侯・曹共公と淮で会合し、淮夷に苦しめられている鄫を救うことを相談し、
さらに斉の東方攻略を図るためであった。
B.C.643春、斉は徐とともに英を討った。
夏、魯が項を滅ぼした。桓公はこれをとがめて魯釐公を捕えた。
秋、魯釐公夫人の声姜が魯釐公を釈放してもらうため、桓公は声姜と魯の卞で会合した。
9月、桓公は魯釐公を魯に帰した。
10月8日、桓公は没した。
雍巫は宮中に入って、寺人貂と力を合わせて、長衛姫のはからいで、無詭を擁立することに反対する大夫を殺してこれを擁立した。公子昭は宋に出奔した。
12月15日、桓公はやっと納棺された。
B.C.642、8月、孝公(昭)が立って乱が治まり、桓公はやっと葬られた。長い間、埋葬されることがなく、死体に虫が湧いていたという。
- 桓公(西周)(カンコウ)【王】
- 西周(諸侯)の君(初代)。名は掲。河南公。周考王の弟。
公子掲は王城の地に封じられ、河南公となる。
公子掲は後、諸侯としての西周の桓公と呼ばれる。
- 桓公(周)(カンコウ)【文官】
- 周王朝の臣。周公。名は黒肩。〜B.C.694。
B.C.717冬、鄭荘公が周に入朝したが、先年、鄭が温の麦を刈り取ったことを恨んで、
桓王はこれを礼遇しなかった。桓公は「周室が東遷したとき、晋と鄭の二国を頼りとしました。
鄭とは仲良くすべきです。礼遇しなければ、もうやってこないでしょう」と諌めたが、桓王は聴き入れなかった。
B.C.707桓王が鄭荘公の政権を奪ったので、荘公は怒って周に参朝しなくなった。
秋、桓王は陳・蔡・虢・衛の兵を率いて鄭を討った。虢公林父は右軍の将となり、蔡・衛の軍はそれに付いた。
桓公は左軍の将となり、陳の軍がそれに付いた。
鄭の公子子元は「陳は乱れて、その民は戦う心がありません。真っ先に陳の軍を攻め立てたら、逃走するでしょう。
周王の軍はそれを見たら、きっと乱れるでしょう。そこを集中攻撃すれば、事は成功いたします」と進言したので、鄭荘公はそれに従った。
鄭荘公は曼伯に右軍を、祭仲に左軍を率いさせ、
原繁と高渠弥に中軍を率いさせて自らを守らせ、魚麗の陣をつくり、
兵車を前に歩兵を後ろにして、鄭の繻葛で戦った。
鄭の左右軍は連合軍の左右の軍を破り、桓王の軍も乱れた。そこで鄭軍は集中してこれを攻撃したので、桓王の軍は大敗した。(繻葛の戦い)
周桓王は桓公に公子克を依頼して後見させた。辛伯は「妾が王后と肩を並べ、
庶子が嫡子のようにはばをきかせ、寵臣が正卿とならんで政権をとり、地方の大都が国都に匹敵するのは、国の乱れるもとです」と諌めたが、桓王は聴き入れなかった。
B.C.694桓公は周荘王を弑して、公子克を擁立しようとした。それを知った辛伯が荘王に告げ、桓公は荘王と辛伯に殺された。
- 桓公(燕)(カンコウ)【王】
- 燕公。〜B.C.362。
B.C.373即位する。
- 桓公(曹)(カンコウ)【王】
- 曹公(11代目)。名は終生。穆公の子。〜B.C.702。
B.C.756即位する。
B.C.702春、没す。
- 桓公(陳)(カンコウ)【王】
- 陳公(12代目)。名は鮑。文公の子。〜B.C.707。
B.C.745即位する。
B.C.719桓公は衛の公子州吁の収集に参加して鄭を討った。鄭荘公が陳に和睦を申し出たが、
桓公は許さなかった。桓公の弟五父が「仁者に親しみ隣国と仲良くすることは国の宝です。申し入れを許すべきです」と諌めたが、
桓公は「今わが国が争うことのできない国は、宋と衛である。鄭など何ができようか」と言って聴き入れなかった。
そこで陳は諸侯とともに鄭の都の東門を包囲した。しかし5日かかって攻め落とせなかったので引き返した。(東門の役)
秋、桓公は衛・宋・蔡・魯とともに再び鄭を討ち、鄭の歩兵を打ち破り、鄭の禾を刈り取って引き揚げた。
州吁は衛の桓公(完)を弑して代わって立ったが、民がなつかなかった。
そこで石碏の進言を聞いた石厚の勧めで州吁は陳桓公にとりいって、
天子に即位を認めてもらうこととした。
一方で石碏は陳に人をつかわして「この二人はわが君を弑した無道の者です。貴国にお願いします、殺してください」と言った。
桓公はこれを容れて、二人を捕らえた。そして処刑の立会いを衛に求めた。
9月、衛の右宰醜の立会いで州吁を濮で殺し、ドウ羊肩の立会いで石厚を殺した。
B.C.717、5月11日、鄭に攻められて大敗する。
B.C.716桓公は、鄭の公子忽が周の人質となり、桓王の寵愛を受けていることを知り、
娘を妻に与えようと鄭に申し入れ、鄭もこれを許可したので、婚約が成立して陳と鄭は和睦した。
12月11日、鄭と盟いを結んだが、鄭の臣良佐は陳の政治を見て、陳はやがて乱れるであろうと予言した。
B.C.710宋の宰相華督が宋殤公を弑した。
3月、桓公は魯桓公・斉釐公・鄭荘公と宋の稷で会合して、
宋の乱の後処理をする。
B.C.707公子佗(厲公)が太子免を殺して、それに代った。
桓公は、国が乱れて人々が四散しているときに没した。
- 桓公(杞)(カンコウ)【王】
- 杞公(9代目)。名は姑容。徳公の弟。〜B.C.567。
B.C.615桓公は魯を聘問し、魯から娶った叔姫と離婚して他の公女を迎えたいと願い出てきた。
魯文公はこれを許した。
B.C.591春、魯に攻められた。
B.C.586、12月24日、鄭が晋に服従したので、桓公は晋景公・魯宣公・
斉頃公・宋共公・衛定公・
鄭悼公・曹宣公と晋の虫牢で会盟した。
B.C.584秋、桓公は晋景公・曹宣公・斉頃公・魯成公・莒の君・邾定公・衛定公と会合して、楚に攻められた鄭を救う相談をした。
しかし鄭は単独で楚軍を破った。
8月13日、桓公は衛の馬陵で諸侯と同盟し、虫牢の盟いを確認し、莒が晋に服従したことを確認した。
B.C.582春、前年に汶陽の田を斉に返したことで諸侯が晋の信義を疑ったため、晋景公は桓公や魯成公・斉頃公・衛定公・宋共公・
鄭成公・莒渠丘公・曹宣公と衛の蒲で会合して、馬陵の盟いを忘れないようにした。
B.C.573秋、桓公は魯を訪問して晋の様子を尋ねた。魯成公が晋悼公の立派な政治ぶりを話したので、桓公は晋に縁組を願い出た。
B.C.567、3月2日、没す。
- 桓公(衛)(カンコウ)【王】
- 衛公(3(13)代目)。名は完。荘公の子。母は戴嬀。〜B.C.719。
B.C.733弟の州吁が驕奢であったため排斥すると、州吁は国外に出奔した。
B.C.722、10月15日、桓公は魯恵公を改葬した。
鄭の公子段が叛乱を起し、その子の公孫滑が衛に出奔して救いを求めてきたので、
桓公は鄭を討って廩延の地を取った。
鄭荘公は周と虢の軍を率いて衛の南境に攻め入った。
B.C.721、12月、前年に鄭の廩延を攻めた報復として、鄭に攻められた。
B.C.719、3月17日、桓公は州吁に攻められ殺された。
- 桓公(宋)(カンコウ)【王】
- 宋公(18代目)。名は禦説。湣公の弟。〜B.C.651。
B.C.683秋、宋に洪水があった。魯荘公が臧文仲を遣わしてお見舞いをさせ
「天は長雨を降らせて祭りに供える穀物を損なったとのこと。どうしてお見舞いせずにおられましょうか」と言った。
宋湣公は「わたしが不敬で政治をつつしまないばかりに、天は災害を降し、その上、君にもご心配をかけました。
仰せのほどありがたく存じます」と答えた。臧文仲はこれを聞き「宋は盛んになるだろう。
禹や湯王は自分を責めたからこそ国は栄えた。
またみずからを『孤』と称してつつしんでおられる」と言った。しかしこれはすべて公子禦説が助言したものであった。
魯の臧孫達はこれを聞いて「この人は君になれる人である。民を憂える心を持っている」と言った。
B.C.682南宮万が叛乱を起こし、湣公を殺したため、公子禦説は毫に出奔したが、
南宮牛に包囲された。
冬10月、宋の臣叔大心が、宋の先君戴・武・
宣・穆・荘公の子孫と力を合わせ、
曹に救援を求めて南宮牛の軍を攻めてこれを殺し、公子禦説は宋公に擁立された。
B.C.681桓公は北杏の会盟に参加する。
桓公は北杏の会盟に背いた。
B.C.680斉・陳・曹に攻められた。
夏、周の単伯が諸侯の軍に参加して、宋は諸侯と和平した。
冬、桓公は周単伯・斉桓公・衛恵公・
鄭厲公と衛の鄄で会合した。
B.C.679春、桓公は再び鄄で斉・衛・陳・鄭と会盟を行った。
秋、宋は郳(小邾)を討伐した。その隙に鄭が宋に攻め入った。
B.C.678夏、宋は斉・衛とともに鄭を討った。
12月、桓公は斉桓公・陳宣公・衛恵公・鄭厲公・許の君・滑の君・滕の君と宋の幽で会合し、鄭は斉と和平した。
B.C.675冬、斉と宋と陳は魯の西に侵入した。
B.C.668秋、桓公は魯・斉と会合して徐を討った。
B.C.667、6月、桓公は魯荘公・斉桓公・陳宣公、 鄭文公と会合して幽で同盟し、
陳と鄭が斉に服従した。
B.C.662斉桓公は、楚が鄭を討ったので、その報復を図るために諸侯を招集した。桓公はその前に会見したいと願い出たので、斉桓公と夏に梁丘で会見した。
B.C.660衛懿公が狄に殺されて衛が滅びると、桓公は衛の民を黄河まで迎えに行き、夜に乗じて黄河を渡った。
そして衛の生き残りの男女730人と共・滕の民をあわせて5000人を連れて、衛の公子申(戴公)を擁立し、
衛の曹邑に仮住まいさせた。
B.C.659春、桓公は諸侯とともに邢を助けた。邢人は聶北にいた諸侯の軍に逃げてきたので、連合軍は狄の人を追い払った。
8月、桓公は斉桓公、鄭文公、曹昭公、邾と宋の檉で会合し、楚に攻められている鄭を救うことを相談した。
B.C.658、9月、桓公は斉桓公・江・黄と宋の貫で会盟する。
B.C.657秋、桓公は斉桓公・江・黄と陽穀で会合し、楚を討つ相談をする。
B.C.656春、桓公は斉桓公、魯釐公、陳宣公、衛文公、鄭文公、
許穆公、曹昭公と会合して蔡を討ち、勢いに乗じて楚に攻め入った。連合軍は楚と和平の盟いを結んだ。
秋、斉桓公は袁濤塗が軍道を誤らせようとしたのを責めて、宋・衛・鄭・許・曹・魯とともに陳を討った。
B.C.654桓公は、斉桓公・魯釐公・陳宣公・衛文公・曹昭公と会合して鄭を討ち、新城を包囲した。
秋、楚が許を包囲して鄭を助けようとしたが、諸侯が許を救ったので、楚軍は引き揚げた。
B.C.653、7月、桓公は、斉桓公・魯釐公・陳の太子款・鄭の太子華と魯の甯毋で会合し、
鄭に対する処置を相談した。
B.C.652春、桓公は斉桓公・魯釐公・衛文公・曹共公・陳の太子款・許僖公・周王の使者と会合し、
曹の洮で盟い、周王室の騒ぎを鎮めることを相談した。
桓公は病気となった。太子茲甫が目夷に位を譲ると言ったので、
桓公は目夷を太子にしようとした。しかし目夷は辞退して「国を譲れるというのは、これより大きな仁はありません。また庶子のわたしが立つのは道にはずれています」
と言ったので、桓公はこれを取りやめた。
B.C.651、3月21日、没す。
- 桓公(秦)(カンコウ)【王】
- 秦公(12(17)代目)。共公の子。〜B.C.579。
B.C.604桓公は即位した。
B.C.601夏、晋が白狄とともに秦に攻め入ってきた。
B.C.594晋が赤狄潞氏に勝利した。
7月、桓公はこれに乗じて晋の地である輔氏に侵略したが、晋の臣魏顆の奮戦によって撃退され、
杜回が捕らえられた。
B.C.589、11月、右大夫説が魯・楚・蔡・陳・許・宋・衛・斉と蜀で和睦の盟いを結んだ。
諸侯は一方で晋を恐れていながら、こっそりと楚と盟っていた。
B.C.582冬、桓公は晋景公と黄河をはさんでたがいに誓った。しかし帰ると桓公はこれに背き、
白狄とともに晋を討った。
B.C.580秦は晋と和睦して、晋の令狐で会合することとなった。晋厲公は先に到着したが、
桓公は黄河を渡ろうとせずに秦の王城にとどまり、大夫史顆を遣わして晋と盟った。
そのため晋の郤犨が王城で盟うこととなった。晋の士燮は「この盟いに何の利益があろう。
盟いの場は信を表す始めである。始めが守られないのに、どうして信を実行することができよう」と言った。
果たして、桓公は都に戻ると晋との和睦を破った。
- 桓公(田斉)(カンコウ)【王】
- 田斉公(2代目)。名は午。太公の子。〜B.C.379。
B.C.380秦と魏が韓を攻め、韓は援けを斉に求めた。桓公は田臣思のはかりごとを用い、いつわって韓を援けると告げた。
韓はそれを信じて秦・魏と戦い、楚・趙は韓を援けた。
そこで桓公は兵を起して燕を襲い、桑丘を取る。
B.C.379衛を救った。
- 桓公(召)(カンコウ)【文官】
- 周王朝の臣。召公。
B.C.603冬、桓公は王后を斉から迎え入れた。
B.C.583、7月、桓公は簡王の命で魯に赴き、魯成公の即位を認める天子の辞令を賜わった。
- 桓公(甘)(カンコウ)【王】
- 甘公。
B.C.518、1月5日、桓公は召簡公と南宮嚚に連れられて子朝にお目にかかり、
味方についた。
- 桓公(劉)(カンコウ)【王】
- 劉公。
B.C.503、4月、桓公は単武公とともに儋翩に加担した尹氏を窮谷で討ち取った。
11月24日、桓公は単武公とともに周敬王を周に迎え入れた。
B.C.502、2月26日、単武公が穀城を討ち、桓公は儀栗を討った。
2月28日、単武公が簡城を討ち、桓公は盂を討ち、かくして王室は安定した。
- 桓公(成)(カンコウ)【王】
- 成公。周王朝の卿士。
B.C.502秋、桓公は晋の范鞅と会合して鄭に攻め入った。
- 桓侯(燕)(カンコウ)【王】
- 燕公。宣侯の子。〜B.C.691。
B.C.698即位する。
- 桓侯(蔡)(カンコウ)【王】
- 蔡侯(11代目)。名は封人。宣侯の子。〜B.C.695。
B.C.715即位する。
B.C.713、6月、魯・斉・鄭は天子の命により宋を討った。このとき桓侯は天子の命に従わず、連合軍に参加しなかった。
宋はそこで桓侯に働きかけて、宋・衛・蔡は連合した。しかし連合軍は、蔡に鄭討伐に参加させず、鄭の与国の戴を討たせた。
8月8日、宋・衛・蔡の連合軍は鄭軍に包囲された。
8月9日、連合軍は鄭軍に破られて降服した。
宋・衛・蔡の連合軍が敗れたのは、蔡が宋・衛に腹を立てたため連合軍が和合しなかったためである。
B.C.710桓侯は鄭荘公と蔡の鄧で会合した。楚の脅威が心配になってきたためである。
B.C.707周桓王が鄭荘公の政権を奪ったので、荘公は怒って周に参朝しなくなった。
秋、桓王は陳・蔡・虢・衛の兵を率いて鄭を討った。虢公林父は右軍の将となり、蔡・衛の軍はそれに付いた。
桓公は左軍の将となり、陳の軍がそれに付いた。
鄭の公子子元は「陳は乱れて、その民は戦う心がありません。真っ先に陳の軍を攻め立てたら、逃走するでしょう。
周王の軍はそれを見たら、きっと乱れるでしょう。そこを集中攻撃すれば、事は成功いたします」と進言したので、鄭荘公はそれに従った。
鄭荘公は曼伯に右軍を、祭仲に左軍を率いさせ、
原繁と高渠弥に中軍を率いさせて自らを守らせ、魚麗の陣をつくり、
兵車を前に歩兵を後ろにして、鄭の繻葛で戦った。
鄭の左右軍は連合軍の左右の軍を破り、桓王の軍も乱れた。そこで鄭軍は集中してこれを攻撃したので、桓王の軍は大敗した。(繻葛の戦い)
B.C.698、12月、宋・斉・蔡・衛・陳は鄭を討つ。
B.C.696、1月、桓侯は魯桓公・宋荘公・衛恵公と曹で会合し、
鄭を討つことを相談した。
4月、桓侯は宋・衛・陳・魯とともに鄭を討った。
B.C.695、6月6日、没す。
- 簡公(斉)(カンコウ)【王】
- 斉公(28代目)。名は壬。悼公の子。〜B.C.481。
B.C.485悼公が鮑牧に殺されたため、国人に擁立される。
B.C.481夏5月壬申の日、田常の反乱に合い、寵臣監止は殺され、
簡公も庚辰の日、徐州で捕らえられる。公は「わたしは早くに御者の鞅のことばに従っていたら、
よもやこうした憂き目にはあわなかったろう」と後悔し、甲午の日に田常に殺される。
- 簡公(燕)(カンコウ)【王】
- 燕公。名は伯款。懿公の子。〜B.C.493。
(時代と出来事から考えて、『春秋左氏伝』の簡公は『史記』の恵公と考えられる)
B.C.544懿公が没したため、公子伯款は即位した。
簡公は斉の高止の亡命を受け入れた。
B.C.539簡公は諸大夫をやめさせてお気に入りの臣を大夫にしようとした。そこで燕の大夫たちは徒党を組んで簡公のお気に入りの臣を殺した。
冬、簡公は恐れて斉に出奔した。
B.C.535、1月、斉景公が燕を討って簡公を燕に入れようとしたが、
両国がジュ水のほとりで盟いを結んだため簡公は帰国することができなかった。
B.C.530春、簡公は唐に送られた。
- 簡公(杞)(カンコウ)【王】
- 杞公(19代目)。名は春。出公の子。〜B.C.445。
B.C.445楚に滅ぼされる。
- 簡公(鄭)(カンコウ)【王】
- 鄭公(15代目)。名は嘉。釐公の子。B.C.570〜B.C.530。
B.C.566、12月16日、宰相子駟が鄭釐公を毒殺し、公子嘉は子駟に擁立された。
B.C.565夏、簡公は鄭釐公を葬った。
鄭の公子たちは鄭釐公が殺されたので、子駟を討とうと相談していた。
4月12日、子駟は先手を討って子狐・子煕・子侯・
子丁の4人の公子に罪を着せて殺した。
子狐の子孫撃と孫悪は衛に逃れた。
4月22日、子国と子耳は晋の機嫌を取るために、
蔡を討って司馬公子燮を捕えた。
5月7日、晋悼公は諸侯の大夫を邢丘に会合させた。簡公は蔡の戦利品を献上するためみずから参加した。
冬、楚の子嚢が鄭を討ち、蔡を侵した罪を責め正した。子駟・子国・子耳は楚につこうとしたが、
子孔・子蟜・子展は晋の援軍を待つべきだと主張した。
子駟が「楚につきましょう。もしうまくゆかなかったら、この騑が責任を取りましょう」と言ったので、簡公は楚についた。
B.C.564、10月、晋は鄭が楚と同盟したのを怒って、鄭を討った。簡公はこれを聞いて恐れ晋と和睦しようとした。
11月10日、簡公は晋と鄭の戯で同盟し、晋に降服した。このとき鄭の六卿である子駟・子国・子孔・公孫輒・
子蟜・子展とその家来や嫡子が参加した。このとき鄭は「大国(晋と楚)が鄭に恵みを施さず、武力をもって服従を強要しており、
鄭は神々の祭りを受けることができず、民も土地の利を楽しむことができない」と盟いの文を読んだ。晋が反発したが、鄭はそのまま盟いを結んで引き揚げた。
晋が再び諸侯を率いて攻め入ってきた。
12月5日、鄭の三門が攻められた。
閏12月に連合軍は陰阪を渡って鄭に攻め入り、鄭の陰口で止まって引き揚げた。子孔が追撃すべきであると言ったが、子展はこれに反対した。
今度は、楚恭王に攻められた。子駟が楚と和睦しようとすると、子孔と子蟜が反対した。子駟と子展は
「われわれが晋に盟ったのは、晋が強い国であるからです。今、楚が攻めてきたのに、晋が助けにこないのは楚が強いということになります。
無理にしいられた盟いというものには実質はないものです」と言って、楚と和睦した。楚の大夫公子罷戎が鄭の軍中を訪れて盟い、
中分という里で正式に同盟を結んだ。
B.C.563、6月、子耳が楚の子嚢とともに宋軍を宋の訾毋で討った。
7月、子耳が子嚢とともに魯の西境に攻め入り、引き返して宋の蕭邑を包囲した。
9月25日、諸侯に攻められ、鄭の牛首に進撃された。
10月14日、堵女父・司臣・尉止・
尉翩・司斉・子師僕・
侯晋らが叛徒を率いて公宮に攻め入り、子駟・子国・子耳を殺した。子孔・子産・
子蟜が叛乱を鎮圧し、子孔が子駟に代わって国政を執った。
11月、楚の子嚢が鄭の援助に出かけた。
11月16日、子嚢が諸侯の軍と潁水をはさんで対陣した。すると鄭は楚に服従した。
11月24日、諸侯の軍が引き揚げたので、子嚢も引き揚げた。
B.C.562、4月、簡公は晋と楚にかわるがわる攻められることで悩んでいた。子展が宋を攻めて晋に攻められたら晋につき、楚に攻められたら楚につくよう進言した。
そこで簡公は子展に命じて宋を討った。
簡公は子蟜とともに楚に赴いた。
はたして晋・魯・宋・衛・曹・斉・莒・邾・滕・薛・杞・小邾が鄭に攻め込んできた。
4月19日、斉と宋が真っ先に都の東門に攻め込み、夕暮れに晋が西郊に進み、さらに西進した。また衛が鄭の北境に攻め入った。
6月、諸侯は北林で会合し、鄭の向に軍を進めた。
楚が秦とともに鄭を討とうとした。簡公はこれを出迎えて降服した。
7月27日、鄭は宋を討った。
9月、晋・魯・宋・衛・曹・斉・莒・邾・滕・薛・杞・小邾が会合して、鄭を討った。
簡公は良霄と大宰の石㚟を楚に遣わし、
晋に降服しようとしている旨を報告させた。そのためふたりの使者は楚に捕えられた。
諸侯の連合軍は鄭の東門で勢ぞろいして武威を示したので、簡公は公子伯駢に命じて和睦した。
9月26日、簡公は鄭の軍中で晋の趙武と盟った。
10月10日、子展が晋の軍中に出かけて晋悼公と盟った。
12月1日、諸侯は鄭の蕭魚で会合した。
12月3日、諸侯は鄭の捕虜を釈放し、丁重に扱って帰した。
晋に攻められたため、鄭は降服した。晋が蕭魚で諸侯と会合したので簡公は降服して、女や楽器を献納した。
簡公は石盂を処刑した。
B.C.559春、呉が楚と戦って大敗したことを晋に告げてきた。簡公は子蟜に命じて晋・魯・宋・衛・斉・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と向で会合させた。
夏、鄭は晋・魯・宋・衛・斉・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾とともに秦を討った。
冬、簡公は子蟜に命じて晋・魯・宋・莒・邾と戚で会合させ、衛の公子剽の即位を認めた。
B.C.558、1月、簡公は馬160頭と楽師の茷と慧を贈り物として、B.C.563の内乱のときに宋に亡命した者を渡すよう依頼した。
2月、簡公はさらに公孫黒を人質として差し出して、亡命した者を渡すよう依頼した。
そこで宋の子罕は亡命していた堵女父・尉翩・司斉を鄭に渡した。簡公はこの3人を処刑して潮漬けにした。
宋に行った師慧が無礼であったので、宋は師慧を鄭に返してきた。
11月9日、晋悼公が没した。簡公は子西に命じて晋に出かけて喪礼の世話をさせ、子蟜が会葬した。
12月、鄭人は堵狗が妻の里の范氏と謀って謀叛することを恐れ、堵狗の妻を奪って晋の范氏のもとへ送り返した。
B.C.557、3月、簡公は晋平公・魯・宋・衛・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と会合し、諸侯は侵略した土地を帰した。
晋平公は温で宴会を催した。このとき許の君が晋に都を移したいと申し出たので、晋は独力で許を討って都を移させようとした。
簡公は許に対するうらみを晴らそうとして許討伐の軍に参加した。
6月、諸侯の軍は許の棫林にとどまった。
6月9日、諸侯の軍は許を討って許の函氏に軍をとどめた。
B.C.555子蟜が引退した。
簡公、子西とともに晋に赴いた。
10月、簡公は晋平公・魯襄公・宋平公・衛殤公・
曹成公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・杞文公・
小邾の君と魯の済水のほとりで会合し、B.C.557の湨梁の盟いを再確認して諸侯と共に斉を討った。
簡公が斉討伐に出かけているときに、子孔が楚軍を引き入れて叛乱を起こそうとした。楚の子庚が進軍してきたが、
子展と子西がその陰謀を知って守備を十分に固くして城を守ったので、子孔は叛乱を起こすことができなかった。楚軍は魚陵に軍をとどめ、精鋭をつかって費滑・
胥靡・献于・雍梁に次々と攻め入り、東に進んで梅山の麓をまわり、虫牢まで進撃して引き揚げた。子庚は鄭都の純門を攻め、城下に二泊して帰った。
B.C.554、1月、簡公は斉の督揚で諸侯と盟いを結んだ。
4月、子蟜が没した。
子孔がわがまま勝手に国政を行ったので、人々は心配した。そこでB.C.563の西宮の騒動とB.C.555の純門の戦いにおける事情を正したところ、
子孔は有罪となった。そのため子孔は家兵と子革・子良の家兵で家を守った。
8月12日、子展と子西は国人を率いて子孔を殺してその家財を分け合った。子革と子良は楚に亡命した。
鄭人は簡公が弱かったので子展を摂政として君事を代行させ、子西を宰相として国政を執らせ、子産を卿に任命した。
B.C.553、4月、簡公は晋に赴いた。
B.C.552冬、簡公は晋平公・斉荘公・宋平公・魯襄公・鄭殤公・曹武公・莒の君・邾の君とともに商任で会合した。
諸侯は晋を出奔した欒盈を受け入れることのないように取り決めた。
B.C.551夏、晋が簡公に対して来朝せよと要求した。そこで子産は晋に赴いて弁明した。
B.C.549、2月、簡公は晋へ行き、重い幣物を軽くしてもらうためと、陳を討つことを願った。簡公は晋の范匃に稽首の礼をしてお願いした。
秋、簡公は晋平公・魯襄公・衛殤公・宋平公・曹武公・莒犂比公・邾悼公・滕の君・薛の君・杞文公・
小邾の君と夷儀で会合し、斉を討とうとしたが、大水が出て斉を討つことができなかった。
冬、楚康王が鄭を討って斉を助けようとした。楚軍は鄭の東門を攻め、鄭の棘沢に軍を留めたが、諸侯が鄭を救おうとしたため引き揚げた。
B.C.548夏、簡公は泮から泮水を渡り、晋平公・魯襄公・衛殤公・宋平公・曹武公・莒犂比公・邾悼公・滕の君・薛の君・杞文公・
小邾の君と夷儀で会合して斉を討ち、朝歌の戦い(B.C.550)の報復をした。
簡公は諸侯と会合し、晋平公は斉に逃れていた衛献公を迎えようとした。
6月24日、子展と子産が兵車700台を率いて陳を討ち、都を陥落させた。
7月11日、斉が降服したので、簡公は諸侯と重丘で同盟した。
10月、簡公は子展とともに晋に出かけ、晋が陳の捕虜を受け入れたことに対するお礼を申し上げた。
子西が再び陳を討ち、陳は鄭と和睦した。
B.C.547、3月1日、簡公は陳に攻め入った軍功を賞し、子展に先路(車)と三命の服を与え、続いて8邑を贈った。また子産には次路(車)と再命の服を与え、
続いて6邑を贈ったが、子産が辞退したので、3邑のみ贈った。
5月、秦と楚が攻め入ってきた。皇頡が城麇を守っていたが、楚軍と戦って敗れ、
皇頡と印菫父は捕らえられた。鄭人は財貨を印菫父の一族から取り上げ、
それを秦に贈って身柄をもらい受けようとした。そこで秦は印菫父を鄭に引渡した。
6月、簡公は良霄に命じて、晋・宋・曹と澶淵に会合して衛を討った。
7月、晋が衛献公を捕らえたので、簡公は斉景公とともに晋に出かけて衛献公を許すよう請うた。
そこで晋平公はこれを許した。
10月、楚が攻めてきた。子産は楚軍はすぐに撤退すると進言したため、子展はこれを防がなかった。
12月6日、楚軍は鄭の南里に攻め入ってその城壁を壊し、楽氏から川を渡って鄭の都の城門師之梁を攻めた。楚軍は氾から汝水を渡って引き揚げた。
B.C.546冬、簡公は会合から帰国する晋の趙武を垂隴でもてなした。
B.C.545夏、蔡景侯が鄭を通過して晋に朝聘するとき、簡公は子展を遣わして東門の外でこれを慰労した。
簡公は子大叔を楚に遣わした。
秋、蔡景侯が晋からの帰途、鄭に立ち寄ったので、簡公はこれをもてなした。
9月、簡公は子大叔を晋に遣わして楚に朝して宋で盟ったことを実行するという報告をした。
11月、簡公は魯襄公・宋平公・陳哀公・許の君と一緒に楚を朝聘した。
B.C.544、4月、楚康王が葬られた。簡公は陳哀公・魯襄公・許の君とともに会葬して西門の外まで送った。
子展が没して、子の子皮が後を継いだ。
6月、晋が杞の城壁の工事をしたため、簡公は子大叔と公孫段をこれに遣わした。
呉の季札が来聘した。
B.C.543簡公は子産とともに晋に赴いた。
4月16日、簡公は大夫たちと盟った。
6月、簡公は子産を陳に遣わした。
7月13日、公孫黒が駟氏の兵を率いて伯有氏を攻め、良霄は許に亡命した。
7月16日、簡公は大夫たちと祖廟で盟いを結び、国人と師之梁門の外で盟いを結んだ。
7月26日、良霄はひそかに都に戻って叛乱を起こしたが殺された。
子皮が公孫鉏を羽頡に代えて馬師に任命した。
冬、宋で火災があったので、諸侯の大夫が会合して宋に財物を贈ることになり、簡公は罕虎を遣わした。
子皮が子産に政権を譲った。
B.C.542簡公は子産とともに晋を聘問した。子皮が印段を楚に遣わして、簡公が晋へ出かけることを告げさせた。
12月、衛の北宮文子が鄭に立ち寄った。
B.C.541、1月、楚の公子囲が鄭を聘問し、公孫段の娘を妻に迎えた。
鄭で虢の会盟が行われ、趙武、国弱、向戌、斉悪、
叔孫豹、公孫帰生、子皮、許の人、曹の人と会同した。
4月、趙武、叔孫豹、曹の大夫が鄭都に立ち寄った。簡公はこれをもてなした。
6月11日、子南の騒動のため、簡公は大夫とともに公孫段の家で盟いを結んで和合を図った。
晋平公が病気になったため、簡公は子産を晋に遣わして病気見舞いをさせた。
11月、楚の公子囲が主君を殺し(霊王)、子皙が鄭に亡命してきた。
12月7日、趙武が没した。簡公は晋に出かけて弔問しようとしたが、雍まで行って趙家から辞退されたため、そこで引き返した。
冬、楚霊王の強盛を恐れて、簡公は子大叔を楚に遣わして即位の挨拶をさせた。
B.C.540秋、公孫黒が謀叛を起こそうとした。公孫黒の一族の駟氏が公孫黒を殺そうとしたため、子産は役人に命じて公孫黒を責めて自決を促した。
7月2日、公孫黒は自決した。
11月、印段は晋を聘問して亡くなった少姜の弔問をした。
B.C.539、1月、子大叔が晋に出かけて少姜の葬儀に参列した。
4月、簡公は晋を聘問した。
7月、子皮が晋に出かけて、新たに迎えた夫人のお祝いを申し上げた。
10月、簡公は楚に出かけた。簡公は楚霊王と一緒に江南の夢沢で狩をした。
B.C.538、1月、簡公は楚に出かけた。簡公は許の君とともに楚霊王と一緒に江南で狩をした。
楚は晋に諸侯と会合を開くことを申し出たため、簡公はそのまま会合が開かれるのを楚で待った。
夏、蔡霊侯・陳哀公・許の君・徐の君・滕の君・頓の君・胡の君・沈の君・小邾の君・
宋の公子佐・淮夷の君が楚の申で会合した。簡公は真っ先に会合の地に行って待機した。
6月17日、諸侯は申で会合した。
7月、楚霊王は諸侯を率いて呉を討ったが、簡公は先に帰国して大夫が楚霊王に従った。
この年、子産が丘賦という兵賦の税法を始めた。
B.C.537春、楚の子蕩と屈生が晋に使いして鄭に立ち寄ると、
簡公は子蕩を氾でねぎらい屈生を兎氏でねぎらった。晋平公がわざわざ公女を邢丘まで送って出迎えていたため、簡公は子産とともに晋平公と会合した。
晋の韓宣子が楚に使いして帰国するとき、簡公は国内の圉で慰労しようとしたが、韓宣子は辞退した。
B.C.536、3月3日、駟帯が没した。
3月、子産が刑法の文を鼎に彫りつけ、国の常法として国民に示した(中国史上初の成文法)。
6月8日、鄭で火災が起こった。
夏、楚の公子棄疾が鄭に立ち寄ったため、子皮・子大叔・子産が柤でこれを慰労した。
B.C.535鄭では良霄の幽霊が出たと騒動になった。良霄の霊はある人の夢の中で駟帯を殺し(B.C.536)、1月28日に公孫段を殺そうと言っていたが、
はたしてその通りとなったため国の人々は一層恐れた。
2月、子産が良霄の霊をなだめたため、たたりがやんだ。
罕朔が罕魋を殺して晋に出奔した。
3月、魯昭公が楚に行く途中に鄭に立ち寄った。
B.C.533、1月、子大叔が楚霊王、叔弓、華亥、
趙黶と陳で会合した。
B.C.532、7月4日、晋平公が没した。簡公は晋に弔問に出かけて黄河まで行ったが晋人が辞退したため、子大叔を晋に遣わした。
9月、簡公は子皮を晋に遣わして晋平公の弔問に出かけた。
B.C.531秋、子皮が晋・魯・斉・宋・衛・曹・杞と厥憖で会合し、楚に攻められている蔡を救う相談をした。
B.C.530、3月28日、簡公は没した。
6月、簡公は葬られた。
- 簡公(秦)(カンコウ)【王】
- 秦公(21(26)代目)。名は悼子。懐公の子。〜B.C.403。
B.C.418霊公が没すると、子の献公は立つことが出来ず、悼子が立った。
B.C.412令を出して初めて役人に剣を帯びさせる。
洛水に溝を掘り、重泉に長城を築く。
- 簡公(成)(カンコウ)【王】
- 成公。
B.C.535周景王の命で、簡公は衛襄公の弔問に出かけた。
- 簡公(鞏)(カンコウ)【王】
- 鞏公。周王朝の臣。〜B.C.508。
B.C.520、6月26日、簡公は京で子朝の軍に大敗した。
B.C.509簡公はその親族を用いずに、血のつながりのない他人を用いることを好んだ。
B.C.508、4月24日、簡公は鞏氏の子弟たちに殺された。
- 簡公(召)(カンコウ)【王】
- 召公。
B.C.518、1月5日、簡公と南宮嚚は、
甘桓公を連れて子朝にお目にかかり、味方につけた。
- 甘公(カンコウ)【文官】
- 楚の臣。
甘公は、卜筮など数術の専門家であった。
- 顔高(ガンコウ)【武官】
- 魯の臣。
B.C.502、1月、魯は斉を討ち、陽州の城門に攻め込んだが勝てなかった。魯の兵士は戦意なく座り込んで「顔高の弓は6釣(46kg)の重さのものを懸けることができる強い弓だ」と言って、
皆が手にとって見ていた。そのとき不意をついて陽州の人が攻めて来たため、顔高は他人の弱い弓を奪い取って、籍丘子鉏を射て、
頬に命中させて殺した。
- 顔高(ガンコウ)【在野】
- 孔子の弟子。字は子驕。
B.C.495孔子が陳に行こうとして、宋の邑の匡の城外を通った。顔高は孔子の御者であったが
「先生、わたしが陽虎に随行してここに来た時は、
あの城壁の欠けているところから入ったのです」と言い、一行はそこから入った。
匡人が孔子を陽虎と間違えて一行を取り囲み、一行は窮した。
- 顔幸(ガンコウ)【在野】
- 孔子の弟子。字は子柳。B.C.505〜。
- 韓康子(カンコウシ)【武官】
- 晋の臣。韓の先祖。名は虎。韓荘子の子。韓康伯ともいう。〜B.C.430。
B.C.457韓康子は荀瑶と藍台で宴会をしたとき、魏の相段規とともに辱しめられた。
B.C.456荀瑶とともに趙毋卹を討つが、韓康子は魏桓子と謀って、
逆に荀瑶を討ち、その土地を分割した。
韓氏の領地はますます広まり、諸侯をしのぐに至った。
- 寒浞(カンサク)【王】
- 有窮国后羿の宰相、王。
寒浞は寒の国人であったが、伯明に追放された。
寒浞は后羿に拾い上げられ、信頼されて宰相となった。
寒浞は内に媚び、外に賄賂を施して、民をだまし、后羿には狩猟ばかりをさせた。さらに寒浞は詐偽邪悪な手段を用いて国を乗っ取り、
宮人も群臣も寒浞を信頼した。
后羿は夏王朝の政権を奪った。
后羿が狩猟から帰るとき、寒浞は逢蒙に命じてこれを射殺させ、
后羿の妻を奪って寒澆と寒キを生み、有窮国の長となった。
寒浞は民に徳を施さず、寒澆に命じて軍を率いて斟灌・斟尋の2国を滅ぼし、寒澆を過国に、寒キを戈の国に住まわせた。
有窮から有鬲氏へ出奔した靡は、有鬲氏で旗揚げをして斟灌と斟尋の生き残りを集めた。そして寒浞はかれらに滅ぼされた。
(『史記』では、寒浞は夏の将軍斟灌・
斟尋に滅ぼされたことになっているが、『春秋左氏伝』の伝承では、斟灌と斟尋は国名になっている)
- 罕朔(カンサク)【武官】
- 鄭の臣。馬師。公孫鉏の子。
B.C.535、2月、子皮の一族は酒に耽って節度がなかったため、同族の馬師氏と不和であった。
そこで罕朔は罕魋を殺して晋に出奔した。罕朔は晋で位一等を下されて嬖大夫(下大夫)となった。
- 監止(カンシ)【宰相】
- 斉の宰相。字は子我。〜B.C.481。
B.C.485簡公が公子の時代から彼に寵愛され、簡公が即位すると田常とともに左右大臣となり政事を司る。
B.C.481田氏の遠縁の田豹が監止に仕えており、監止は「わしは田氏の嫡流をことごとく滅ぼし、豹を田氏の宗主としたい」と言った。
しかし田豹はひそかにこのことを田常に告げた。
夏5月壬申の日、監止が公宮に宿泊すると、田常が兄弟と共に公宮に赴き、監止と簡公とを離れ離れにされる。
その場は事なきを得たが、逆に監止は徒党を組み田常を攻めたが 敗退する。田常に攻められたため逃亡するが、豊丘の人に捕らえられ、郭関で殺される。
- 邗子(カンシ)【神】
- 仙人。列仙伝に見える。
犬を放し飼いにしていたが、あるとき犬が山の洞窟に走りこんだため、邗子はそれについて入り、十余晩も泊まりを重ね、数百里を歩き続けるうち、宮殿を見つけた。
そこで亡くなった女房が魚を洗う係りをしているのに出会い、護符と薬をもらった。護符の箱の中には稚魚がおり、1年すると竜の形になった。
邗子は往来すること百余年にわたったという。
- 甘始(カンシ)【神】
- 仙人。神仙伝に見える。
太原の人。行気をよくして飲食せず、また天門冬を服用し、房中のことを実践した。100余年も世に住んでいたが、やがて王屋山に入って仙去した。
- 韓侈(カンシ)【将軍】
- 韓の将軍。宜陽の守将。
B.C.307秦に攻められ、宜陽を失う。
- 桓子(カンシ)【将軍】
- 陳の将軍。司馬。
B.C.548、6月、鄭が兵車700台を率いて攻め込んできて、陳の都は陥落した。
不意を討たれた陳哀公はその悼太子を守り助けて墓場に逃げようとした。
桓子はこれに出会い、陳哀公が「車に乗せてくれ」と言ったが、桓子は「城を見回るところです」と言って断った。
- 韓子休(カンシキュウ)【武官】
- 斉の臣。
晏嬰が斉景公を諌めたが聴き入れられなかった。そのため晏嬰は国を出ようとした。
景公は韓子休に命じてその非を詫びさせた。
そのため晏嬰は帰国した。
- 管至父(カンシホ)【文官】
- 斉の臣。
B.C.686連称と共に葵丘の守備を命じられる。一年で交代する約束であったが、一年たっても交代させられなかったので、
公孫無知に叛乱するよう誘う。
B.C.685公孫無知・連称と共に宮中に侵入し、襄公を見つけ出して弑す。
- 簡師父(カンシホ)【文官】
- 周王朝の臣。
B.C.636冬、周襄王が狄に攻められて鄭の氾に出奔した。
襄王の命で左鄢父は秦に、簡師父は晋に使いして叛乱のことを伝えた。
- 顔之僕(ガンシボク)【在野】
- 孔子の弟子。字は子叔。
- 韓須(カンシュ)
- →韓貞子
- 干犨(カンシュウ)【武官】
- 宋の臣。〜B.C.521。
B.C.521、11月、華豹の御者となった。華豹は公子城城に殺され、
その右役張匄も殺された。そのため干犨は「自分を殺してくれ」と願ったが、公子城は「わが君に申し上げて命乞いをしてあげよう」
と答えた。しかし干犨は「同乗の者と一緒に死なないのは、軍法の大罪です。早く殺してくれ」と願ったため、公子城はこれを射て殺した。
- 韓衆(カンシュウ)【在野】
- 斉の人。韓終とも書く。
王のために薬を取ったが、王が服しなかったので、韓衆は自ら服して仙人となったという。
また始皇帝が仙人不死の薬を求めた韓終であるともいう。
→韓終
- 顔聚(ガンシュウ)【武官】
- 斉の臣。
B.C.229趙が秦に攻められる。李牧と司馬尚がこれを討ったが、
幽繆王は李牧を誅し、司馬尚を罷免する。
趙葱と斉の将顔聚がこれに代わったが、趙葱は敗れ、顔聚は逃亡した。
- 顔讐由(ガンシュウユウ)
- →顔濁鄒
- 桓叔(カンシュク)【公子】
- 晋の公子。名は成師。文侯の弟。B.C.804〜738。
B.C.804千畝の戦いがあり、晋は戦果を挙げた。このとき生まれたので、戦勝にちなんで成師と名づけられた。
B.C.745周王朝より曲沃に封じられる。曲沃は晋の国都翼よりも大きかった。曲沃に封ぜられると、号して桓叔と称す。
欒賓を宰相とし、その勢力は本家を凌いだ。
徳を好んだため晋国の民はみな彼になついた。
B.C.739潘父が昭侯を弑して桓叔を迎えようとした。桓叔は都に入ろうとしたが、
晋人が兵を出したため、桓叔は敗れて曲沃に帰った。
- 管叔鮮(カンシュクセン)【王】
- 管公。名は鮮(次子だから叔という)。周武王の弟。
B.C.1023武王が商を滅ぼすと、管に封じられ、紂王の子禄父を補佐して、商の遺民を治める。
B.C.1021武王が崩じ成王が幼少で即位して、周公旦が王室の権をもっぱらにしたので、
周公旦を排除しようとして禄父を擁して反乱を起こした。しかし周公旦に鎮圧されて殺される。
誅殺されたため子孫はない。
- 韓春(カンシュン)【在野】
- 戦国時代の説客。
韓春は秦昭襄王に説いて「王は、魏王と離縁した斉女を娶って妻とされるべきです。そうすれば斉と縁ができて、
魏を脅かすことができます。また斉と合同して斉女が生んだ公子負芻を魏王に立てるようにするべきです。
負芻が立って、その母が王の夫人となれば、魏は秦の県になったも同然です」と言った。
- 韓子輿(カンシヨ)【文官】
- 晋の臣。韓の先祖。韓厥の父。
- 簡如(カンジョ)【王】
- 鄋瞞(長狄)の君。栄如の弟。〜B.C.609。
B.C.609栄如が斉に攻め入ったが討ち取られたので、簡如が後を継いだ。
しかし敗走して衛を通りかかったときに、簡如は衛に討ち取られた。かくて鄋瞞は滅亡した。
- 韓徐(カンジョ)【武官】
- 趙の臣。
B.C.285斉を討つ。
- 干将(カンショウ)【在野】
- 呉の名刀匠。
呉王闔閭に越の宝剣よりもすばらしい剣を作るよう依頼された。妻の莫邪と共に二振りの剣を作る。
これを「干将」「莫邪」と名づけたが、あまりにもすばらしい出来だったため「莫邪」のみ呉王に献上する。
しかし3年後にそのことがばれてしまい、呉王に殺される。
- 観従(カンショウ)【武官】
- 楚、蔡の臣。卜尹。子玉ともいう。観起の子。
B.C.542、6月、観起が楚霊王に殺されたため、観従は蔡に出奔して朝呉に仕えた。
B.C.529春、楚で内乱が起こった。観従は蔡を復興させようと考え「今、蔡の復興を図らなければ、蔡は永遠に復興されなくなるであろう」と言って、
公子弃疾といつわって亡命していた公子比と子皙を呼び寄せた。
そして観従はふたりに事情を打ち明けて、ためらっている二人を無理に盟約させて、城内に入ってわざと公子弃疾を襲った。
公子弃疾は驚いて逃げ出した。観従は公子比に食事を食べさせて公子弃疾と盟約したように見せかけ、自ら蔡の国中に公子弃疾が二公子を呼んで楚を攻めようとしていると言った。
これを聞いた蔡の人々は観従を捕らえようとしたが、観従は「謀反人(公子比)はもう逃げたし、蔡公(公子弃疾)も軍を整えてしまった。
わたしを殺しても何の益があろう」と言ったため、蔡の人々は観従を許した。
5月、叛乱軍は都に入り、楚霊王は自殺した。観従は新王の公子比に「弃疾を殺さなければ、王になっても禍にかかるであろう」と言ったが、
公子比は「わたしにはそんなことはできない」と答えた。観従は「彼は平気であなたを殺そうとしています。私はそれを待つことはできない」と言って都を立ち去った。
はたして公子弃疾は公子比を自殺させて自ら楚王となり(平王)、観従を呼び寄せて「そなたの望むことをしましょう」と言ったため、
観従は「わたしの祖先は卜人の補佐役でした」と答えたため、観従は卜尹に任じられた。
(観従は呉に出奔して呉王に楚を討つことを勧めて叛乱を起こしたともいう)
- 韓聶(カンショウ)【武官】
- 田斉の臣。
秦昭襄王と親しかった。
- 韓襄(カンジョウ)【文官】
- 晋の臣。公族大夫。韓無忌の子。
B.C.557、1月、晋平公が即位すると、韓襄は祁奚;・欒盈・
范鞅とともに公族大夫に任じられた。
- 甘ショク(カンショク)【武官】
- 周王朝の臣。
B.C.610秋、甘ショクは戎が酒を飲んで酔っているところにつけこんで、これを周の邥垂で破った。
- 顔ショク(ガンショク)【在野】
- 斉の処士、隠者。
斉宣王は顔ショクを引見した。
宣王「ショクよ、こちらへ」
顔ショク「王よ、こちらへ」
お側の者「王は人君であり、ショクは人臣である。無礼であろう」
顔ショク「わたしが進み出たら権勢に媚びることになります。王が進み出られたら、賢士に赴く英明の君ということになります。
そちらのほうがよろしいのではないでしょうか」
宣王「王と士ではどちらが貴いか」
顔ショク「士こそ貴いのです。むかし秦は斉を攻めたとき、柳下季(柳下恵)の塚で薪を採る者は死刑に処すとふれを出し、
斉王の首級を挙げる者は万戸侯にするとふれを出しました。生ける王の首級は、死んだ賢士の塚にも及ばないのです」
お側の者「王は戦車千乗を有する広い土地を持たれ、弁舌・賢智の士も仕えておる。士は高級なものでも野におる。とても話にはなるまい」
顔ショク「そうではありません。かつて大禹の時代には諸侯が一万もあったというのに、当代は24しかありません。
立派な君主は、道を問うことを恥とせず、下々に学ぶことを恥としません。王が孤や寡と自称するのは、人にへり下って士を貴ぶからではありますまいか」
宣王「士を軽んじたのは私の過失である。どうか私を弟子にしてお教えください」
顔ショク「真心を尽くして直言申し上げるのがわたくしの任務です。大切な事柄は、もうすっかり申し上げてしまいました。どうか帰郷のお許しを得て、
帰らせて下さいますよう」
顔ショクは丁寧にお辞儀をして、暇を告げて立ち去った。君子は「ショクは足ることを知っていた。だからこそ生涯辱めを受けずに済んだのである」と言った。
- 干辛(カンシン)【武官】
- 夏王朝の臣。
干辛は桀王の佞臣とされる。
- 韓穿(カンセン)【将軍】
- 晋の将軍。上軍大夫。
B.C.597春、鄭が楚に攻められた。
6月、晋は鄭を救援することとし、韓穿は上軍の大夫に任じられた。
しかし晋軍が到着する前に鄭は楚に降服した。
そこで荀林父は魏錡と趙旃に命じて和睦しようとした。
上軍の将士会は「防備をしておくのはよいことだ。もしも楚が悪意を持って攻めてきても、防備があれば破られまい」と言い、
鞏朔と韓穿に命じて敖山の前に伏兵を7ヶ所に設けさせた。はたして楚軍は晋軍に攻め込み、中軍と下軍は大破されたが、
上軍は破られなかった。
B.C.588、12月27日、晋は初めて六卿を設け、韓穿は卿に任じられた。
B.C.585冬、晋は楚に攻められた鄭の救援に出かけた。晋軍は繞角から進んで蔡を侵略した。
楚の公子申と公子成が蔡を助け、桑隧で晋軍を防いだ。
郤錡は諸将とともに決戦をするよう進言したが、韓厥・荀首・
士燮が諌めたため、中軍の将欒書はそのまま引き揚げた。
B.C.583春、晋景公の命で、魯に赴き、汶陽の田を斉に返させた。
季孫行父は送別の宴を設けて、こっそり韓穿に「汶陽の田は、わが魯の昔からの領地であります。一時斉に取られていたので、
貴国はわが国に返して頂きました。しかるにいまご命令が変わり、斉に返せと仰せられる。信が守られず義が行われないなら、
天下の諸侯は離反しましょう。わたくしはそれを心配致します」と言った。
- 管浅(カンセン)【在野】
- 戦国時代の在野の士。
B.C.329魏と楚が陘山で戦い、魏は上洛の地を贈る約束をして秦に援けを求めたが、魏が楚に勝利すると違約して秦に土地を与えなかった。
管浅は秦恵文君に説いて「楚王に『わたしと会いましょう。魏は秦と楚が結ぶことを恐れて秦に土地を提供するでしょう。
楚は敗れても魏の土地を奪ったことになります。また秦も楚にお礼をいたしましょう』と言うのがよろしいでしょう」と進言した。
恵文君は「なるほど」と言ってその通りにした。すると魏恵王は上洛の地を秦に提供した。
- 韓宣子(カンセンシ)【宰相】
- 晋の宰相。上軍の佐、正卿。名は起。韓の先祖。韓厥の子。〜B.C.514。
B.C.566、10月、韓厥が隠居を願い出た。晋悼公は韓無忌に父のあとを継がせようとしたが、
韓無忌は不治の病にかかっていたので辞退して、弟の韓宣子を勧めた。
10月9日、悼公は韓宣子を参内させ、父のあとを継がせた。
B.C.564、10月、諸侯は鄭を討ち、韓宣子は荀偃とともに衛・曹・邾とともに上軍を率いて鄭の師之梁門を攻めた。
B.C.560中軍の将智罃と下軍の佐士魴が没した。韓宣子は上軍の将に任じられたが、
韓宣子は趙武のほうが適任であるといって辞退した。
しかし晋悼公は趙武にはまだ早いと考えて欒黶を任命しようとした。しかし欒黶が「わたしは韓起の才能には及びません。
それに韓起は趙武を上にするように望んでおります。どうかお聞ききとどけください」と言って辞退した。そこで趙武が上軍の将、韓宣子は上軍の佐、
欒黶は下軍の将に任じられた。
B.C.555晋は諸侯と共に斉を討った。
12月3日、韓宣子は趙武とともに上軍を率いて盧を包囲したが攻め落とせなかったため、秦周の地に進み、
臨淄の雍門(西門)の萩の木を切り倒した。
韓宣子は韓原から居州にうつった。
B.C.549、5月、晋と秦が和睦した。韓宣子は秦に出かけて立ち会って盟い、また秦の伯車が晋に出かけて立ち会って盟った。
和睦が成ったが、両国の仲はかたく結ばれなかった。
B.C.547冬、韓宣子は周を聘問した。周霊王がその要件を尋ねると、
韓宣子は「晋の士起(自分)なるこのわたしが四時に奉るべき貢職をご報告したまでで、ほかに用事はございません」と答えた。周霊王は「韓氏はきっと栄えるであろう。
言葉づかいがしきたりにかなっている」と言った。
B.C.546宋の向戌が晋と楚を和睦させて戦をなくそうと謀った。趙武が大夫たちに相談すると、
韓宣子は「戦は民をそこなうものですから、これをやめようという者があるなら、たとえいけないと思っても必ず承諾しましょう。
もししなければ楚が承諾して諸侯を集めるだろう。そうなると、わが晋は盟主を失うであろう」と言ったので、晋人は承諾した。
B.C.544呉の季札が晋を聘問して、趙武・韓宣子・魏献子に会って、その人物に感服して
「晋はきっとこの三族のものになるであろう」と言った。
B.C.542魯の叔孫豹は趙武の後は韓宣子が正卿になると考えて、早めに韓宣子に近づくよう魯の重臣に勧めた。
B.C.541、12月、趙武が没すると、韓宣子が代わって正卿となった。
この年、楚の公子囲が郟敖を弑して王となったので、
公子比が晋に亡命してきた。
韓宣子は先に亡命していた公子鍼と公子比の俸禄について叔向に尋ねた。
叔向「大国の卿は一族(500人)の田で、上大夫は一卒(100人)の田です。どちらも一卒でいいでしょう」
韓宣子「秦の公子は裕福である。どうして同じにするのか」
叔向「爵によって職務を決め、禄によって爵のある者を養い、徳によって分け、功績につり合うようにします。どうして富によって禄を分けましょうか。
その上、秦と楚は同格です。どうして富のために法をまげましょうか」
そこで韓宣子は、ふたりの俸禄を同じにした。
B.C.540春、韓宣子は魯に赴いて魯昭公の即位を祝う挨拶をし、自分が正卿になったことを報告した。
宴席で季武子のもてなしを受けた。
韓宣子はそのまま斉に赴いて斉の公女を迎えるための結納の品を納めた。
韓宣子は欒子雅の子欒子旗と高子尾の子高子彊と面会したが、
「一家を保ってゆく大夫ではありません。思い上がって不忠の臣にみえる」と言った。斉の大夫はこれを冗談として笑ったが、
晏嬰だけは韓宣子のことばを信じた。
韓宣子はそのまま衛を訪れた。宴席で北宮文子のもてなしを受けた。
B.C.539春、斉の晏嬰が少姜の後を継ぐ方を晋に差し上げたいと申し出た。
韓宣子は叔向に命じてこれを受けさせた。
夏、韓宣子は斉に出かけて晋平公のために公女を迎えた。斉の高子尾が自分の娘を納めようと考えて公女にすりかえて、公女は他に嫁がせた。
ある人が韓宣子に「子尾は晋をだましている」と忠告したが、韓宣子は「わが晋は斉を味方にしようと考えている。斉の寵臣を遠ざけたら、
それを達せられなくなる」と言った。
B.C.537韓宣子は叔向とともに公女を楚に送り届けた。帰国するとき鄭が慰労しようとしたが、韓宣子は辞退した。
B.C.535鄭の子産が晋を訪問した。そのとき晋平公は病気であった。子産は韓宣子に病気について尋ねると、
韓宣子は「わが君の病気は久しく、何をしても治りません。ところが、黄熊が寝門に入る夢を見たそうです。何でしょうか」と尋ねた。
子産は「昔、鯀が堯の命を犯して殺されたとき、黄熊になって羽山に入ったといいます。
これが夏王朝の郊祭となりました。今周は衰えて、晋が実際にはそれを継いでいます。もしや、まだ夏の郊を祭っていないのではないでしょうか」と答えた。
そこで晋平公は夏の郊を祭ると、5日にして病気が治った。晋平公は子産に莒国の鼎を賜わった。
子産が、公孫段が賜った州の地を返還した。晋平公はこれを韓宣子に与えようとしたが、
韓宣子は前に趙武と州を争ったことがあったため気にやみ、楽大心に相談して結局、原と州とを交換した。
2月、鄭の罕朔が晋に亡命してきた。韓宣子は子産に罕朔をどの地位にすえるべきか問い、その進言に従って位一等を降ろして嬖大夫(下大夫)とした。
8月、衛襄公が没した。范鞅が弔問に行かなければ衛は晋に背き、
そうすると諸侯は晋に背くだろうと進言した。そこで韓宣子は喜んで范鞅を衛に弔問させ、かつて奪った土地を衛に返還した。
B.C.533晋の閻嘉と周の大夫襄が閻の耕地について争い、晋は陰戎の人を率いて周の穎邑を討った。
そのため周景王は晋を訴えた。叔向は韓宣子に「わが文公のときは周王を補佐し、
恭敬の心を捧げて仕えました。ところが今は周をないがしろにしています。どうかよろしく取り計らってください」と言った。これを聞いて韓宣子は喜んで周と和睦した。
B.C.531、4月、楚が蔡を討った。中行呉が韓宣子に「わが晋は陳を助けることができなかったし、
いままた蔡を救うことができなかった。盟主でありながら滅びゆく国を救うことができないようでは、盟主としての存在がありましょうか」と言った。
秋、韓宣子は魯の季平子、斉の国弱、宋の華亥、
衛の北宮佗、鄭の子皮、曹人、杞人と衛の厥憖で会合し、
楚に攻められている蔡を救う相談をした。
韓宣子は単成公と戚で会合した。
あるとき韓宣子は叔向に貧乏であることが苦痛であると話をすると、叔向は祝意を示した。韓宣子はなぜかと尋ねると、
叔向は「欒懐(欒盈)や郤昭子(郤至)は富を蓄え、高慢贅沢であったため滅びました。
今あなたは欒武子(欒書)のように貧乏ですから、彼のような徳義を行なうことができます。それゆえ祝賀の意を示したのです」
と答えた。
韓宣子はぬかずいて「滅亡するところをあなたのお陰で長らえることができました。先祖桓叔以下、感謝いたします」
と言った。
B.C.529、8月、諸侯は平丘に集まり会盟した。先年(B.C.541)に魯の季武子が莒を侵略したことを咎めるためであった。
そのため晋昭公は魯昭公の出席を辞退させた。
そこで魯の季平子が魯昭公の出席を請願してきたが、晋昭公は季平子を捕らえた。
魯の子服椒は韓宣子に会って「かつて欒氏の乱のとき、
先君襄公は斉の脅威も恐れず晋を救いました。今蛮夷の莒を信じて魯を棄てるならば、諸侯は何を目当てに晋君に忠勤しましょうか。
蛮夷を味方につけても、諸侯の信義を失うのではないでしょうか」と言った。韓宣子はこれを聞いて喜び、季平子を帰国させた。
B.C.527楚の公子比が晋から楚に帰ったとき、韓宣子は叔向に問うて「公子比のことは成功するだろうか」と尋ねると、叔向は「成就いたしますまい」と答えた。
B.C.526、3月、韓宣子は鄭を聘問した。韓宣子は環(たま)を持っていたが、一対のもうひとつは鄭の商人が持っていたため、韓宣子はこれを鄭定公に請うた。
しかし鄭の子産は朝廷のものではないとしてことわった。そこで韓宣子は商人から買い求めようとした。商人が「是非とも執政にお話しください」と言ったため、
韓宣子は子産にお願いした。子産は「今、あなたは親善で来られたのに、商人から無理に玉を取り上げようとなさっている。玉を手に入れて、
諸侯から信頼を失うことはいかがでしょうか」と言った。韓宣子が「わたしが愚かでした。お断りいたします」と辞退した。
4月、韓宣子は鄭の六卿である子齹・子産・子大叔・子游・子旗・子柳に送別の宴を開いてもらった。
B.C.519邾が大夫を捕らえられたとして魯を訴えてきた。魯の叔孫婼が晋にやってくると晋人はこれを捕らえた。
韓宣子は叔孫婼を邾の大夫と対座させて裁こうとしたが叔孫婼がこれを断ったため、邾人に命じて大勢の兵を集めさせ、これに叔孫婼を渡そうとした。
叔孫婼は恐れず晋の朝廷に出かけた。 士弥牟が韓宣子に「叔孫はきっと死ぬでしょう。魯は彼を失ったら、きっと邾を滅ぼしてその仇を討つであろう。
そのとき後悔しても追いつきません。そもそも諸侯がみな捕らえあいをするなら、盟主はいりません」と進言したため、これをとりやめた。
B.C.518秋、范鞅が諸侯の非難を恐れて周の王室を収めるよう韓宣子に相談した。韓宣子は諸侯に会合の命を下し、日取りを定めた。
B.C.514秋、韓宣子は没して宣子と諡された。
- 寒泉子(カンセンシ)【文官】
- 秦の臣。
秦恵文君は蘇秦が趙の宰相となって六国を合従させていることを憎んで、
白起を諸国に行かせてこれを論破させようとした。
寒泉子は「それはいけません。そもそも城を攻めたり、邑を壊すのでしたら武安君(白起)がよろしいでしょう。諸侯に使いを出されるのでしたら、
どうか客卿の張儀をお使いください」と進言した。恵文君はこれに従った。
- 顔祖(ガンソ)【在野】
- 孔子の弟子。字は襄。
- 桓臧(カンゾウ)【文官】
- 楚の臣。楚の人。
B.C.311楚懐王は、昭雎を秦に行かせて張儀を重んじようとしたが、
秦恵文君が没して武王が立ち、武王は張儀を追放した。そこで懐王は昭雎を捕らえて、
斉と結ぼうとした。
桓臧は「今の秦の宰相甘茂・樗里疾は、魏・韓と親密です。ここは昭雎の待遇を元通りにし、
張儀を魏・韓で重んぜられるようにするのがよろしいでしょう」と進言した。
- 韓荘子(カンソウシ)【武官】
- 晋の臣。韓の先祖。韓簡子の子。
- 顔息(ガンソク)【武官】
- 魯の臣。
B.C.502魯が斉を討った。顔息は敵兵を射て盾に命中させた。
- 顔率(ガンソツ)【文官】
- 東周の臣。姓は顔、名は率。
秦が東周を攻め、九鼎を引き渡せと要求した。東周の君は顔率に対応を問うと、顔率は「心配には及びません。援けを斉に借りましょう」と言い、
斉宣王に説いて「周は九鼎を秦にくれてやるよりは、貴国の物になる方がましだと考えております。大王には、
ご検討くださいますよう」と言った。
宣王は大いに喜んで5万の兵を出し、田臣思を将として東周を救ったため、秦軍は引き揚げた。
斉が九鼎を引き渡すよう要求しそうになったので、東周の君は顔率に再び対応を尋ねた。顔率は斉に赴いて宣王に言った。
顔率「お約束どおり九鼎を献上いたしますが、どの道を通りましょうか」
宣王「梁(魏)に道を借りよう」
顔率「それはいけません。梁は九鼎を入手しようとして計画を練っています」
宣王「では、楚に道を借りよう」
顔率「それもいけません。楚も九鼎を入手しようとして計画を練っています」
宣王「ではどこを通ればよいか」
顔率「内心それを心配しておりました。さらにむかし周が商を討って九鼎を入手したとき、鼎ひとつを9万人が引っ張ったといいます。大王には、
それだけの人数と道が確保できますでしょうか」
宣王「きさまは、引き渡す気がなかったのだな」
顔率「めっそうもございません。どこからお持ちだしになるか、お決めください。私どもはお待ちしております」
宣王は結局、思いとどまった。
- 罕魋(カンタイ)【武官】
- 鄭の臣。子皮の弟。〜B.C.535。
B.C.535、2月、子皮の一族は酒に耽って節度がなかったため、同族の馬師氏と不和であった。そこで罕魋は罕朔に殺された。
- 桓魋(カンタイ)【武官】
- 宋の司馬。
B.C.495孔子が宋に来た。桓魋は彼を恨み殺そうとしたが、孔子は身を卑賤にやつして逃げた。
- 顔濁鄒(ガンダクスウ)【文官】
- 衛の臣。仲由の妻の兄。顔涿聚、顔讐由ともいう。
B.C.496孔子は魯を出て顔濁鄒の家に身を寄せた。
- 桓団(カンダン)【在野】
- 名家。韓槽とも書く。
趙の人。
公孫竜の門人。
- 管仲(カンチュウ)【宰相】
- 斉の宰相。名は夷吾。字は仲。管厳の子。〜B.C.645。
潁水のほとり(河南省)の人。
管仲は太子糾に仕える。
B.C.686、12月、
斉襄公は公孫無知・連称・
管至父に襲撃され殺された。
公子糾は管仲と召忽とともに魯に出奔した。
B.C.685公孫無知が殺されると、管仲は公子糾を斉公に就けようと小白(桓公)と争った。
管仲は小白を攻撃したとき、小白を矢で射当てる。矢は鈎(ベルトの留め金)に当たったが、小白が死んだふりをしたため管仲は小白を殺したと勘違いしてしまう。
糾はライバルがいなくなったためゆっくり帰国すると、先に帰国して斉公となっていた小白に攻撃されて殺され、管仲は捕虜となる。
桓公は鮑叔に彼を迎えさせ、管仲は大夫に取り立てられた。管仲ははじめからそうなることがわかって捕虜となったのである。
若いころ、鮑叔と交遊した。管仲は貧困のあまり、よく鮑叔を欺いたが鮑叔はいつまでも管仲を見棄てなかった。
管仲は後で振り返って「かつて私が困窮していたころ、鮑叔とともに商売をしたが、利益を分けるとき、私は分け前を多く取ったのに、鮑叔は私を貪欲とは思わなかった。
私の貧乏を知っていたからである。
かつて私は鮑叔のために事業を企てたが、失敗していよいよ困窮したのに、鮑叔は私を愚か者とは思わなかった。時に利・不利のあることを知っていたからである。
かつて私は三度仕えて、三度とも君から逐われたが、鮑叔は私を無能だと思わなかった。私が時の利にあわなかったのを知っていたからである。
かつて私は三度戦い、三度とも敗れて逃げ出したのに、鮑叔は私を卑怯だとは思わなかった。私に老母のあるのを知っていたからである。
公子糾の敗れたとき、同僚の召忽は戦死し、私は幽囚されて辱めを受けたが、鮑叔は私を恥知らずとは思わなかった。私が小節を恥じず、
功名を天下に現せないのを恥としたのを知っていたからである。
私を生んでくれたのは父母だが、私を知ってくれるのは鮑子である」と言った。
この二人の関係は管鮑の交わりとして後世、称される。
斉の国政を整え、五家の兵制を定め、物価調節の法や漁労製塩の利を設けて貧乏人をにぎわし、賢能の士に禄を与え、
軽重(貨幣)を司る九府(大府・玉府・内府・外府・泉府・天府・職内・職金・職幣)を設けた。
また地方官には優れた人材を登用させ、人材を隠したら地方長官を処罰した。また管内に親不孝者や命令を聞かない者がいたら報告させ、
それを怠った地方長官は処罰させた。
製鉄、製塩、採銅及び山林資源などは、国家の管理とした。しかし実際には民の仕事となるから、民は7割を得、君が3割を得ることとした。
このようにして管仲は桓公を補佐し、周辺の小国を次々と併呑した。
『管子』には「倉廩がみちて民は礼節を知り、衣食が足って人は栄辱を知る。上に立つ者が節度を守れば六親の結合は固く、
四維(礼・義・廉・恥)がゆるめば国は滅亡する」といっている。
その論ずるところは卑近でおこないやすく、大衆の望むものは与え、厭うものはこれを除いた。
政治の仕方は禍をもよく利用して福とし、失敗を転じて成功に導き、事の軽重をはかることを要務とし、均衡を得ることに慎重であった。
B.C.680魯を打ち破り講和会議で遂という土地の割譲を決めたとき、魯将曹沫が匕首を持ち桓公を脅して土地の返還を求め、
桓公は仕方なしにそれを承諾するが、桓公は脅迫によるものだから取り消そうとする。管仲は「いったん承諾したことを破棄すれば、天下の信用を失います。
いけません」桓公は約束を守り、斉は諸侯から大いに信頼されるようになったという。
B.C.662冬、狄が邢国に攻め入った。管仲は「夷狄は山犬や狼のごとく残酷で貪欲だから欲望を満足させるべきではありません」と進言して、邢を援けた。
B.C.656春、斉は魯、宋、陳、衛、鄭、許、曹と会合して蔡を討った。
連合軍は蔡を破り、蔡繆侯を捕らえ、勢いに乗じて楚に攻め入って汝水を渡り、方城の塞を越え、汶山を望祭するまで進軍した。
楚の使者が問うた。
使者「君は北海におり、わたしは南海におり、遠く隔たっているのに、どうしてわが領土に攻め入るのですか」
管仲「その昔、
召康公(召公奭)がわが先君の太公(太公望)に四方を征伐して周室を護るよう命ぜられました。
汝、楚の献納すべき苞茅が入らないので、天子の祭りに事欠いている。わが君はそれをお求めである。
また昔、周昭王が南に巡狩せられたまま帰られなかったが、わが君はその理由を問うているのである」
使者「貢ぎ物を入れないのは事実で、これは私の罪である。今後は上供することとしよう。しかし昭王が還られなかったのは、私の知らぬこと、岸の柳にお問いなされ」
そこで桓公は進撃して楚の陘に布陣し、楚と盟約した。
B.C.653、7月、斉桓公は、魯釐公・宋桓公・
陳の太子款・鄭の太子華と魯の甯毋で会合し、鄭に対する処置を相談した。
管仲は「離れている者は礼を用いて招きよせ、遠い者は徳でもってなつけるといいます」と進言した。そこで桓公は諸侯に対して礼を行った。
鄭の太子華が「わが国の大夫の泄氏、孔氏、子人氏の三族は君命に逆らっています。君がこの三族を取り除いてくださるなら、鄭は斉の家来となりましょう」と言ったので、
桓公はこれを許そうとした。しかし管仲は諌めた。
管仲「礼と信をもって諸侯を引き寄せているのに、よこしまなやり方をするのはよくありません」
桓公「鄭にまだ勝つことができない。鄭につけこむすきがあるならば、よいではないか」
管仲「徳をもって鄭を治めようとして、その上で討伐するならよいでしょう。もし父の命に背いた太子華をひきつれて鄭を討てば、
鄭は言い訳が立ち、わが軍を恐れないでしょう。太子華のような悪人を許してはなりません」
そこで桓公は太子華の意見をしりぞけた。
B.C.651葵丘の会盟のときに周王朝の使者から周の贈物を受け取る際は堂を下りて拝礼しなくてもよいと言われたが、管仲は信義を重んじ今までの礼で受け取るよう諫言した。
桓公が封禅の儀式を行おうとしたときも懸命にこれを諌めた。
B.C.648周襄王は戎を手引きした叔帯を討ち、叔帯は秋に斉に出奔してきた。
冬、桓公は管仲に命じて戎と周を和解させ、隰朋に命じて戎と晋を和解させた。
その功績を賞して周襄王は管仲に上卿の地位を与えようとしたが、管仲は「私は斉の臣ですから周王の陪臣にすぎません。そのような礼遇は受けられません」
といい下卿の礼遇で周襄王にまみえた。
B.C.645宰相40年にして没す。
管仲の私財は公室に匹敵し、三帰(帰る家が3つある)・反坫(諸侯が杯を返す台)があったが、斉人はこれを分にすぎた贅沢と思わなかった。
- 桓跳(カンチョウ)【将軍】
- 斉の将軍。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、桓跳は右翼侯朝の右役となった。
- 顔徴在(ガンチョウザイ)【女官】
- 叔梁紇の夫人。孔子の母。
叔梁紇の長男孔孟皮は足が不自由であったので、家の跡継ぎを任せられなかった。また叔梁紇は10人の子があったが、
孔孟皮以外はすべて女の子であったため、叔梁紇は顔徴在を娶って男子を生みたいと思った。
そこで顔徴在は、子が授かるようにと尼丘で祈った。すると孔子が生まれたのである。
- 干徴師(カンチョウシ)【文官】
- 陳の臣。〜B.C.534。
B.C.534、4月4日、陳哀公が没した。干徴師は楚に遣いして陳哀公の喪を告げ、新君が立ったことを告げた。
陳の公子勝が公子招一派を陳哀公殺しで訴えたため、干徴師は楚人に捕らえられて殺された。
- 韓貞子(カンテイシ)【武官】
- 晋の臣。韓の先祖。名は須。公族大夫。韓宣子の子。
B.C.540、4月、韓貞子は斉に出かけて斉の公女少姜を迎えした。
韓貞子は拠点を居州から平陽に移した。
- 簡狄(カンテキ)【女官】
- 帝嚳の次妃。契の母。
有娀国の公主であった。
水浴びをしていたとき、玄鳥(ツバメ)が卵を落としたのを見た。その卵をのんだところ、身ごもって契を生んだという。
- 驩兜(カントウ)【神】
- 堯時代の宰相。司徒。
驩兜は堯に後継ぎについて尋ねられたとき、共工を推薦するが退けられた。 のち、
驩兜は共工と結託して悪事を働いたため、堯に崇山に追放され南蛮となったという。
- 顔般(ガンハン)【在野】
- 春秋時代の在野の士。
費恵公に「わしは子思(孔伋)に対しては先生として敬い、
顔般に対しては友人として付き合うが、王順と長息はわしのただの家来である」と称される。
- 韓非(カンピ)【公子】
- 韓の公子の末流。〜B.C.233。
刑名・法術の学を学んだが、帰着するところは黄帝・老子の学であった。
韓非は生まれつきどもりで、弁舌はまずかったが、著述をよくした。
李斯と共に荀子に師事した。
韓の国土が削り取られ、弱められるのを見、しばしば書簡をもって王を諌めたが用いられなかった。
韓非は、廉直な人物がよこしまな権臣のために用いられないのを悲しみ、いにしえの王者の政事における成敗得失を考え、孤憤・五蠹・内外儲・説林・
説難などの諸篇十余万字の文章をつづった。
この書物を携えて秦に行った者があった。
秦王政は孤憤・五蠹の諸篇を見て「ああ、わしはこの著者に会って交遊することができれば、死んでも本望である」と言った。
秦の臣であった李斯が、その著者は韓非であると説明した。
B.C.237秦王政は韓非を手に入れるために、李斯の進言で韓を降させることとし、李斯を使わした。そして急に韓を討った。韓王はこれを聞いて大いに憂え、
韓非に秦の力を弱めることを図らせる。
B.C.233韓非は秦に使いした。
韓非は政に気に入られたが、まだ信用して登用されていなかった。李斯と姚賈らは、
韓非が用いられると自分に不利と思い、韓非を讒言した。
またあるとき燕・趙・呉・楚が秦を攻めようとしたため、秦王政は対処法を群臣に求め、姚賈が使者として四国をまわって出兵を見合わせるようにさせると言った。
そこで秦王政は戦車100乗、黄金1000斤を与え、姚賈は四国に出かけ、そのはかりごとを断ち切り、出兵を思いとどまらせ、さらに四国と交わりを結んで帰国した。
秦王政は大いに悦んで、姚賈を1000戸に封じて上卿に取り立てた。
しかし韓非は姚賈を非難して「四国との交わりはまだ確立されておりません。しかし賈の珍珠重宝は失われてしまいました。
これは賈が個人的に諸侯と私交を結んでいるのです。もともと賈は梁の門番の小倅、かつて大泥棒を働き、趙を追放されています。
このような者に大事をたくすのはよろしくありません」と言った。
秦王政がこれを姚賈に問いただすと、姚賈は「たしかに私交を結びましたが、私には身を寄せるところがないため、四国の君と交わったのです。
もしわたくしが王に忠誠でなければ、四国の君はどうしてわたくしを採用しましょうか。わたしは生まれは賤しいですが、
太公望は妻に追い出され、管仲は鄙人の行商人であり、
百里奚は虞の乞食でありましたが、聡明な君主がこれを登用したのです。国家を保つことのできる人物でありさえすれば、
たとえ誹謗する者がいても、聡明な君主は耳を傾けないはずです」と答えた。
秦王政は「いかにも」と言い、ふたたび姚賈を用い、韓非を退けた。
李斯は韓非に毒薬をもって自殺を迫った。韓非は、王に陳弁したいと願ったが、許されず、自殺した。
秦王政はこれを後悔したが、韓非はすでに死んでしまっていた。
- カン臂子弓(カンピシキュウ)【在野】
- 楚の人。
商瞿から易を伝授される。
これを江東の人矯子庸に伝授する。
- 韓馮(カンヒョウ)
- →公仲
- 韓服(カンフク)【文官】
- 巴の臣。〜B.C.703。
B.C.703韓服は巴の君の命により、鄧と友好を結びたいと楚に願い出た。
楚武王は大夫道朔に命じて韓服を鄧に行かせたが、鄧の南部のユウの人が彼らを殺した。
- 韓武子(カンブシ)【武官】
- 晋の臣。韓の先祖。
晋に仕え、韓原に封ぜられる。
- 韓武子(カンブシ)【武官】
- 晋の臣。韓の先祖。韓康子の子。〜B.C.414。
B.C.428鄭を討ち、鄭幽公を攻め殺す。
- 韓不信(カンフシン)
- →韓簡子
- 簡璧(カンペキ)【女官】
- 秦繆公の娘。
B.C.645繆公が晋恵公を捕えて都に連れて帰ろうとしたとき、
繆姫は太子罃と公子弘と簡璧をつれて台に登って
「もし晋君が都に入ってくれば死にましょう」と言った。そこで繆公は晋恵公を郊外の霊台に留めた。
- 罕父黒(カンホコク)【在野】
- 孔子の弟子。字は子索。
- 韓万(カンマン)【武官】
- 晋の公子。韓の先祖。荘伯の弟。
B.C.709曲沃は、宗家の晋哀侯を翼に討った。韓万は曲沃武公の御者となり、
梁弘が右となり、哀侯を汾水のほとりで追撃し、夜にこれを捕え、
その輔佐をしていた欒成を捕えて殺した。
その後、韓万は武公の命で哀侯を弑した。
韓の地を受けて、氏を韓とする。
- 韓無忌(カンムキ)【文官】
- 晋の臣。韓厥の長子。公族大夫。公族大夫の長。韓穆子、公族穆子ともいう。
B.C.573欒書が公族大夫の任命を願うと、晋悼公は「韓無忌は鎮重安静である」と言い、
韓無忌は公族大夫に任命された。
B.C.566、10月、韓厥は隠退して韓無忌に卿の職務を受けさせようとしたが、韓無忌は辞退して
「厲公の乱にわたくしは公族でありながら死ぬことができませんでした。どうして君の朝廷を汚し、韓の宗家を辱しめましょうか」
と言った。悼公はこれを聞いて「危難に君のために死ぬことはできなかったが、それでもよく位を譲ったからには、賞しなければならぬ」と言い、
韓無忌は公族大夫を司ることとなった。
(『春秋左氏伝』では、韓無忌は不治の病にかかっているため後を継ぐことを辞退したとしている)
- 顔無繇(ガンムヨウ)【在野】
- 孔子の弟子。名は無繇、あるいは由。字は路。顔回の父。B.C.545〜。
父子ともども時を違えて、孔子に師事した。顔無繇は孔子が最初に教えた時の門人であった。
顔回が早く死ぬと、顔無繇は貧しかったので、孔子の車を申し請け、銭に替えて葬ろうとした。
- 顔鳴(ガンメイ)【武官】
- 魯の臣。
B.C.516斉が魯に攻め入った。この戦いで林雍は顔鳴の右役をつとめることを恥として車からおりて戦った。
林雍は斉の苑何忌に車上から撃たれて耳を切り落とされた。これを見た顔鳴は恐れて逃げ去った。林雍はさらに片足を切り落とされたため、
他の車に乗って陣地に引き返した。それを知らずに顔鳴は三度も斉軍に攻め入り「林雍よ。早く車に乗れ」と大声で叫んだ。
- 甘茂(カンモ)【宰相】
- 秦の丞相。蔡の人。庶長。左丞相。
下蔡の人。
甘茂は、下蔡の史挙先生に師事して、百家の学説を学んだ。
甘茂は張儀・樗里疾の口添えで、
秦恵文君に謁見を求めた。恵文君は甘茂を将軍に取り立てた。
B.C.312甘茂は魏章の輔佐として、漢中を攻略した。
B.C.310蜀の国相陳荘が謀反して、蜀侯通を殺した。
そこで甘茂は張儀と司馬錯とともに蜀を討伐し、陳荘を誅殺した。
張儀が軍を借りて魏を救おうとした。説客左成が「軍を貸すのがよいでしょう。
敗れて軍が返せなくなれば張君は秦に帰ってこないでしょうし、勝っても張君は魏で望みを遂げられますから、秦に帰ってこないでしょう。
張君が秦を去らない限り、あなたは張君より高い地位にはなれないでしょう」と言ったので、甘茂はこれに従った。
B.C.309甘茂は蜀から帰還すると秦が初めて丞相を置き、甘茂は左丞相に任じられた。
11月、甘茂は武王に命じられて「為田律」を定め、詳細に農田と道路の制度を規定し、毎年指定した時期に修復することとした。
B.C.308秦武王は甘茂に「わしは兵車を三川(伊水・洛水・河水のある地)に入れ、そこを通って周室をおびやかし天下に号令できるなら、
死んでも恨みはない」と言った。甘茂は「どうか私を魏にやり、いっしょに韓を討つ約束を決めさせていただきたい」と言った。
そこで向寿とともに魏へ行った。魏に着くと向寿に「子は国に帰って王に『魏はわたくしのことばを聴き入れましたが、
王には韓を討たれませぬように』と申し上げて欲しい。功はすべて子のものとしよう」と言った。
向寿は帰国して武王に報告すると、武王は甘茂の帰国を待ちきれず、息壌まで出迎えた。甘茂は魏から帰国して息壌で武王に合うと、
武王が事情を尋ねた。甘茂は「宜陽は大邑であり、落とすのは容易ではありません。いまわたくしは外に出ております。戦の途中で、
ご一族の樗里疾や公孫衍らが韓に好意を寄せると、王はきっと魏を欺きましょう。
かつて曾子の母に、ある男が『曹参が人を殺したぞ』と知らせました。曾子の母は最初は信じませんでしたが、
それから2人も同じように言ってきたので、曾子の母は逃げ去りました。曾子ほどの賢明さと、母の厚い信頼があっても、信じられなくなるのです。
臣の賢明さは曾子に及ばず、王の臣に対する信頼も、曾子の母ほどではございますまい。しかも臣を疑う者は3人だけにとどまりません。
臣は王がわたしを見捨てられることを心配するのであります」と言った。
武王はそこで「わしは樗里子・公孫衍らのことばを聞き入れまい。子と誓おう」と答え、甘茂と息壌で堅く盟いを結んだ。
秋、甘茂は庶長封とともに宜陽を討つが、5ヶ月たっても攻略できなかった。
甘茂は宜陽がなかなか落ちず、秦軍の死傷する者がおびただしかったので、戦をやめようと思った。
左成が「公は国内では樗里疾、公孫衍に攻められ、国外では韓侈(公仲)と怨みを構えておられる。
ここで宜陽を落とさなければ、公は窮地に陥られましょう。宜陽が落ちれば、公のお手柄は大変なものになり、さずがの樗里疾、公孫衍も手が出せないでしょう」と言った。
そこで甘茂は戦を続けた。
はたして樗里疾と犀首が非難したので、武王は甘茂を召還しようとした。甘茂は「息壌はあそこにあります」と言ったので、
武王は全軍を動員してふたたび甘茂に宜陽を攻撃させた。
B.C.307甘茂は敵首を斬ること6万、ついに宜陽を陥れた。
韓襄王は宰相公仲を遣わして、謝罪して秦と和睦した。
犀首は秦武王に可愛がられ、武王は犀首に「わしはきみを宰相にしようと思う」とこっそり話した。甘茂の部下が通りすがりにこれを聞き、甘茂に伝えた。
甘茂はすかさず武王にお目見えして言った。
甘茂「王には優れた宰相を得られたとのこと、お喜び申し上げます」
武王「きみはどこからそれを聞いたのか」
甘茂「公孫衍(犀首)が臣に告げました」
武王は犀首が秘密を洩らしたことに立腹し、犀首は国外に追放された。
楚が韓を討ち、雍氏を包囲した。韓は公仲を遣わして甘茂に取り入って秦の援助を求めた。甘茂は韓のため、昭襄王に
「もし韓は秦が味方しないと知れば、国を挙げて楚と同盟しましょう。こうなれば魏も順応しないわけにはいきますまい。秦として坐して三国に討たれることを待つよりは、
進んで人を討ったほうが有利です」と言った。
また韓は張翠を秦に派遣した。張翠は病気だと言いながら、日々一県ずつ進んでいった。
甘茂は「韓はさぞかし急迫しているのでしょう。先生には病をおして来られるのですから」と言った。
張翠は「まだ急迫しておりません」と答えた。
「ほんとうにそうなのでしょうか」
「ほんとうに火急に陥れば、韓は腰を折って楚に参入いたしましょう。どうして私がここへ来たりしましょうか」
甘茂と昭襄王は「なるほど」と言い、殽の塞から兵を出して韓を救った。
樗里疾とともに魏の皮氏を討った。
B.C.306甘茂は昭襄王に言って、武遂を韓に返還した。向寿と公孫衍は反対して争ったが聞かれず、このため甘茂を恨んで讒言した。
甘茂は恐れて魏の蒲阪を討つのをやめて逃亡した。
甘茂は斉に出奔し、函谷関で蘇代に会った。甘茂は蘇代に秦に復帰できるように頼んだ。蘇代は秦に行って「甘茂は非凡の士であります。
また甘茂は長く秦に仕えていたので、秦の険阻平坦をみな知っています。もし彼が斉を動かし、韓・魏と同盟して逆に秦にはかるなら、
秦のためにはなりますまい」と言った。
昭襄王は即刻、甘茂に上卿の位を与え、宰相の印をもって斉から迎えようとした。しかし甘茂は行かなかった。蘇代はまた斉湣王に
「甘茂は賢人であります。秦が上卿の位を与え、宰相に任じようというのに、甘茂は王の臣となることを喜んでこれを辞退しました。王は何をもって彼を礼遇なさいますか」
と言った。そこで湣王は甘茂に上卿の位を与えて、斉に留めおいた。
甘茂は斉のため使者として楚へ行った。楚懐王は甘茂を秦に戻そうとしたが、
范蜎の諫言によってとりやめた。
そのため甘茂は秦に帰ることが出来ずに、魏で没した。
- 甘羅(カンラ)【文官】
- 秦の臣。甘茂の孫。B.C.248〜。
秦の宰相文信侯呂不韋に仕えた。
B.C.236甘羅は12歳であった。秦は蔡沢を燕にやり、同盟が成り、燕は太子丹を人質に送ってきた。
そこで秦は張唐を燕の宰相にさせようとしたが、張唐はこれを拒んだ。呂不韋はこれを悩んでいたが、
甘羅は「わたくしが張唐をやらせてごらんに入れます」と言った。呂不韋は甘羅をしかったが、
「かの項橐は7歳で孔子の師となりました。わたくしは今年12であります。どうかお試しください」
と言い、張唐に会った。
甘羅は「あなたの勲功は武安君(白起)とどちらが大きいでしょうか」と問うた。
「わたしの勲功などとうてい及ばない」
「応侯(范雎)と文信侯とどちらが権力をふるったでしょうか」
「応侯は文信侯に及ばない」
「武安君は趙を攻めることをしぶったため、応侯に死を賜りました。いま文信侯があなたに宰相となるよう頼まれたのに、あなたは行こうとされません。
あなたはどこで死なれるのでしょうか」
張唐は燕に赴くことにした。
また甘羅は趙に赴き、趙悼襄王と会見し「燕と秦が同盟しております。王としては両国に攻められるより、
秦に河間の地を献上されるのがよいと思います」と言った。悼襄王は即座に五城を割いて秦に献上した。
秦は甘羅を封じて上卿とし、もとの甘茂の田宅を賜うた。
- 甘竜(カンリュウ)【文官】
- 秦の臣。
B.C.359商鞅が法律を変え、刑罰を整え、内は人民に耕作を務めさせ、
外は戦士の賞罰を明らかにすることを秦孝公に勧めた。
孝公はこの意見をいれたが、甘竜は反対し、たがいに論争した。
甘竜は「聖人は民俗を改めないで教化し、智者は国法を変えないで統治するものです。そのままで統治すれば役人はこれに習熟し、
人民はこれに安住するものです」と反対した。
商鞅は「竜の言うことは俗論であります。三代(夏・商・周)は礼を同じくしませんでしたが、みな王となり、五伯(春秋五覇)は法を同じくしませんがみな覇者となりました。
智者が法をつくり、愚者はそれに制せられるのです」と答えた。
結局、孝公は商鞅の法を用いた。
- 関竜逢(カンリョウホウ)【神】
- 夏王朝の臣。
関竜逢は夏王朝の良臣であったが、桀王の長夜の宴を諌めたため殺された。
- 関令尹(カンレイイン)【文官】
- 周王朝の臣。名は尹喜。仙人として列仙伝に見える。
方術予言の学に精通し、いつも物の精を服んで栄養とした。
老子が西へ旅したとき、尹喜はその前ぶれの気配を占い、はたして老人に出会った。老子も尹喜が非凡な人物であることを認め、
書を著してこれを授けた。
関令尹はのち老子とともに砂漠を旅し、西域の人となったという。
関令尹もみずから九篇の著述をし、『関尹子』と称した。
- 顔路(ガンロ)
- →顔無繇
|