- 羨(セン)【武官】
- 翟王の子。
斉景公に仕える。16頭立ての馬車を使用して、
景公の寵愛を得たが、晏嬰の反対にあい、帰国する。
- 詹(セン)【武官】
- 秦の臣。右大夫。
B.C.562、7月、鄭は諸侯に攻められたため、諸侯と同盟を結んだ。楚の子嚢が援軍を秦に請うてきた。
秦景公は詹に命じて軍を率いて鄭を討つこととしたが、鄭は先に楚に降服した。
- 宣(セン)【文官】
- 楚の臣。楊豚の長官。
B.C.555鄭の子孔が叛乱を起こすため楚軍を引き入れようとしたが、
令尹子庚はこれを許さなかった。しかし楚康王はこの話を聞いて、
宣に命じて子庚に「わが楚はわたしが国君となってから中原に軍を進めて武勲を立てていない。死んだらきっと立派な葬式を受けられないであろう。
人々はわたしがみずから安逸をむさぼって父君の業を忘れていると思っているであろう。ひとつ考えてくれ」と言わせた。子庚は嘆息して
「わが君はわたしが安楽をむさぼっているとお考えなのか。わたしは国のためになることをしようとしているのです」
と言って、宣に会って「天下の諸侯は晋と親しい。もしも鄭を攻めるのがよいとしたら、わが君はわたしのあとに続いて攻められよ。
もしいけなかったら軍をおさめて帰りましょう。そうすれば何の損害もなく、わが君も敗戦の汚名を受けることもないでしょう」と言って鄭を討った。
- 然(ゼン)
- →莠尹然
- 善(ゼン)
- →子元
- 苫夷(センイ)【武官】
- 魯の臣。季氏の家臣。
B.C.503斉の国夏が魯を攻めた。陽虎が夜襲をかけようとすると、
斉軍はこれを聞いて伏兵を設けて待ち受けた。公斂処父が「虎は災いにかかることを考えずに攻めようとしている。
きっと死ぬであろう」と言い、苫夷は「虎がおふたり(季氏と孟氏)を難儀の目に合わせたら、判決を待たずにわたしが殺してやる」と言ったため、陽虎は恐れて引き返した。
そのため魯軍は敗北せずに済んだ。
- 宣王(周)(センオウ)【皇帝】
- 周王朝11代王。名は静、または靖。厲王の子。〜B.C.782。
厲王時代に大反乱が起きた際、邵公の家に匿われる。国人がその噂を聞き邵公の家を囲んだ。
邵公は「王はわたしの諌めを聴かなかったのでこの危難にあいました。今王子を殺したら、王は私がうらんでいると思うでしょう。国君に仕える者は不満でもうらまず、
怨んでも怒ってはなりません」と言い、自分の子を宣王の身代りにしたので、静は生き延びることが出来た。
B.C.827厲王が亡命先で没すると、執政の毛公は静に大政を奉還する。
B.C.826静は立って王となる。宣王は文・武・成・康の遺風にのっとったので、諸侯はまた周を宗主国として認め、入朝した。
B.C.822、夏6月、尹吉甫に命じ、儼狁を討ち、太原に至る。
B.C.821召伯虎に命じて、淮夷を討ち、雲夢沢まで進攻する。
B.C.816魯武公が子の括と戯をつれて参朝した。
宣王は弟の戯を可愛がり、魯の太子に立てようとした。樊仲山父が諌めて
「目下の者が目上の者に仕え、年少の者が年長の者に仕えるのは、正道に従うといいます。正道に逆らえと教えれば、諸侯はまねをして、王の命令は行われなくなりましょう」
と言ったが、宣王は聴き入れず、戯を太子とした。
武公は帰国してすぐ亡くなったので、魯人は戯を殺して、括の子の伯御を立てた。
杜伯を重用して西戎、犬戎、荊蛮、淮夷、戎を討伐して周王朝の権威を回復させる。
宣王は千畝に親耕する籍田の礼を行わなかった。虢文公がこれを諌めたが、宣王は聴かなかった。
B.C.806末弟の友を鄭に封じる。
B.C.796宣王は魯を征伐して、懿公(戯)の弟孝公を立てた。そのためこれ以後、諸侯は周に親しまなくなった。
また宣王は同族の諸侯で、諸侯を教化できる者を州伯にしたいと思った。樊仲山父は魯孝公が明神を崇敬し、長老に敬事し、先王の遺訓により政事・
刑罰を行っていると薦めたので、宣王は孝公を州伯に命じた。
B.C.789千畝で戦い、姜・氐の戎に敗北する。
宣王は千畝の戦いで江漠地方(南方)の兵を失ったので、太原地方の人口調査をして徴兵しようとした。樊仲山父はこれを諌めて「司民は孤児と死亡人口を調べ、司商は姓名を調べ、
司徒は軍隊を調べ、司寇は犯罪者を調べ、牧人は家畜を調べ、工人は皮莘を調べ、場人は果実を調べ、廩人は穀物を調べますので、
これらは居ながらにして知ることが出来ます。
事故もないのに人口を数えるのは、天の憎むところです。政事を害い、後継者のさわりになりましょう」と言ったが、宣王は反対を押し切って人口を数えた。
B.C.785無実の罪で杜伯を死罪とした。杜伯は死の直前に「私は無罪である。我が君は私を殺しても罪とならないが、
もし死者に知覚があるとすれば3年後それを我が君にお知らせしよう」と復讐を誓った。
B.C.782、3年目のある日、宣王は諸侯を集めて大掛かりな狩をした。その真昼間に、杜伯は白馬に牽かせた白木造りの戦車に乗って突然姿を現した。朱の衣服をまとい、
朱の冠をかぶり、朱塗りの矢を小脇に挟んで宣王を追いかけて、これを狙撃した。杜伯の矢は宣王の心臓に命中し、さらに背骨までも打ち砕いた。
人々は、杜伯の亡霊が宣王を殺したのだといいあった。
- 宣王(楚)(センオウ)【王】
- 楚王(18(34)代目)。名は熊良夫。粛王の弟。〜B.C.340。
宣王は江乙に「北方の諸国は、昭奚恤を恐れていると聞いているが、果たして事実だろうか」と問うた。
江乙は「あるとき虎が狐を捕らえました。狐は『天帝が私をすべての獣の長にされたので、きみが私を食べることは、天帝の意に逆らうことになる。うそだと思うなら、
私が先に立って歩いてみよう。きみは、どんな獣も私を見て逃げるのをよく見るがよい』と言いました。
はたして獣たちは、これを見て一斉に逃げ出しました。虎は獣たちが自分を恐れて逃げ出したとは気づかず『狐を恐れているのだ』と思ったのです。
ですから、諸国が昭奚恤を恐れるのは、実は大王の軍兵を恐れていることなのです」と言った。
B.C.370粛王が没したが、子がなかったため、熊良夫が擁立される。
B.C.341斉の田忌が楚に出奔してきた。
杜赫が宣王に説いて「田忌を江南の地に封じて斉に帰らないことを示せば、
斉の騶忌は国をあげて感謝するでしょう。また田忌も封地を賜わったら、王のご恩を感じましょう。
もし田忌が後日、斉に帰っても斉をあげて楚に仕えましょう。これこそ二忌を利用する良策です」と言い、田忌を江南に封じるよう進言した。
そのため宣王は田忌を江南の地に封じた。
B.C.340秦に攻められた。
- 宣王(田斉)(センオウ)【王】
- 田斉王(2(4)代目)。名は辟彊。威王の子。〜B.C.324。
B.C.346威王が没して宣王が立つと、田忌が騶忌におとしいれられたことがわかったので、
田忌を召し返してふたたび将軍に任じた。
B.C.341魏が趙を討つ。趙は危急を斉に告げ、宣王は孫臏のはかりごとを用いて、趙が疲弊してから救援することにした。
趙が五戦して敗北すると、宣王は兵をおこし、田忌・田嬰を将軍とし、孫臏を軍師として、趙を救うため魏を討った。
魏軍を馬陵で大いに破り、龐涓を殺し、太子申を捕らえた。
その後、韓・魏・趙の王はいずれも田嬰を手づるとして宣王と博望で会同した。
B.C.336宣王は魏恵侯と平阿の南で会同した。
B.C.335宣王は魏恵侯と甄で会同する。
B.C.334田嬰を宰相とする。
宣王は魏恵侯と徐州で会同し、たがいに王号を称することとした。
蘇秦が遊説に来て、宣王に説いて「秦が斉を攻めようとすれば、韓・魏を通過しなくてはなりません。
ここで大王はあえて秦に屈従する汚名をきず、
六国合従を行うべきです」 と言った。宣王はよしと言い、これに従った。
楚が斉を討とうとしたので、宣王は、魯が楚と親しいので楚を援けるのではないかと心配した。
そこで張丑が魯を中立させることを約束して魯に赴き、出兵を留まらせた。
B.C.333楚に攻められ、徐州を包囲された。
燕文公が没したので宣王は喪に乗じて燕を討ち、十城を取った。燕は蘇秦を斉に遣わし、「いま秦と燕は婚姻関係を結んでおり、
燕を攻めることはよくありません。ここは禍を転じて福と為して、先に取った燕の十城をお返しになり、秦にお詫びをするのが一番です。
秦は恩義を感じましょうし、燕も十城が戻ったことで、王に恩義を感じましょう」と宣王に説いた。宣王は「なるほど」と言い、燕に十城を返還した。
B.C.332魏とともに趙を討つが、趙粛侯が河水の堤を切って陣に注いだので、退いた。
B.C.329陘山の戦役の時、趙は秦と結んで斉を討とうとした。
宣王は田章に命じて、陽武の地を趙に割いて趙と同盟し、公子順を人質にすることとした。
宣王は文学・遊説の士を喜んだ。鄒衍・淳于髠・田駢・接予・
慎到・環淵などをはじめ、76人の者に邸宅を賜い、上大夫とした。彼らは政治にあずからないで議論を事とした。
ここで斉の稷下の学士は盛大となり、その数は数千に達するほどであった。宣王は天下の賢士を招くことが出来たと誇った。
- 詹嘉(センカ)【武官】
- 晋の臣。瑕嘉ともいう。
B.C.614春、詹嘉は瑕を与えられてそこに住み、交通の要路である桃林の塞を守って、秦の東進の野望をおさえようとした。
そのため詹嘉は瑕嘉ともいわれる。
B.C.590詹嘉は晋景公の命で周に使いして戎と周を和平させたが、周は戎と友好しなかった。
- 冉会(ゼンカイ)【文官】
- 魯の臣。冉猛の兄。
B.C.502魯が斉を討った。魯軍が退却するとき、冉猛が足に負傷したと偽って先に逃げ帰った。そこで冉会はいつわって大声をあげて「猛はしんがりをつとめている」と言った。
- 詹桓伯(センカンハク)【文官】
- 周王朝の臣。
B.C.533晋の閻嘉と周の大夫襄が閻の耕地について争い、晋は陰戎の人を率いて周の穎邑を討った。
周景王は詹桓伯に命じて晋に訴えた。そのため周と晋は和解した。
- 冄求(ゼンキュウ)
- →冄有
- 宣姜(周)(センキョウ)【女官】
- 周宣王の妃。斉侯の娘。
- 宣姜(衛)(センキョウ)【女官】
- 衛宣公の夫人。
斉の公女。
宣姜は太子伋のため斉から迎えられたが、宣公が彼女の美貌を見てすっかり気に入り、これを我がものとした。
宣姜は寿・朔を生んだ。
宣姜は公子朔と図って太子伋を讒言した。宣公も太子の妻を奪ったことから、後ろめたい気持ちがあり、廃嫡したいと思っていたので、これを聞くと大いに怒り、
伋を斉に使いに出し、盗賊に殺させた。
- 宣姜(衛)(センキョウ)【女官】
- 衛襄公の夫人。〜B.C.522。
宣姜は公子朝と通じた。
B.C.522、6月、公子朝らは叛乱を起こしたが鎮圧された。宣姜は乱平定後、衛霊公に殺された。
- 宣恵王(センケイオウ)【王】
- 韓王(初代(7代目))。昭侯の子。〜B.C.312。
B.C.334蘇秦が韓に来て、宣恵王を説き「もし大王が秦に仕えたら、秦はかならず韓の地を求めて、あくことを知らないでしょう。
俗諺に『鶏口となるも、牛後となるなかれ』といいますが、秦に臣事すること、何と牛後となるに異なることがありましょうぞ」と言った。
宣恵王は色をなし臂をまくり目をいからせ「わしは不肖の者ながら、秦には断じて仕えない。いまあなたから趙王の忠言を告げていただいた。つつしんで国家を挙げて、
ご意見に従いましょう」と言った。
B.C.325魏に攻められ、韓挙が破られる。
B.C.322王号を称す。
趙武霊王と区鼠で会同する。
B.C.319秦に攻められ、鄢で破られる
B.C.318秦に脩魚で破られ、ソウ・申差が観沢で捕らえられる。
公仲の進言に従って、公仲を秦につかわせて秦と和を講じようとした。
それを恐れた楚が兵をおこして「韓を助ける」と宣言し、使者をつかわしてきて「不穀の国は小国ながら、すでに全兵力を出しました。貴国は、
どうか思う存分に秦と戦って欲しい。わたしは今や国を賭して韓に殉じようと思います」と言ってきた。
宣恵王はこれを喜び、公仲を秦にやらず、秦と国交を断った。
秦は大いに怒り、兵を増して韓を討ち、大いに戦ったが、楚の援軍は来なかった。
B.C.314秦に攻められ岸門で大敗し、太子蒼を秦に人質として出して和睦した。
B.C.312秦とともに楚を攻め、屈匄を破り、八万の首を丹陽で斬る。
- セン犬(センケン)【公子】
- 衛の公子。〜B.C.632。
B.C.632、6月、衛成公が晋と和睦して帰国した。
セン犬と華仲は甯兪に続いて、
成公の前駆として都に乗り込んだ。約束の時間よりも早く入ったため留守役の叔武はまだ髪を洗っていたが、
成公が到着したと聞いて喜びのあまり、髪を手でつかんで走り出たところ、セン犬の兵があやまって叔武を殺してしまった。
成公は屍を自分の股に枕させて泣き悲しんだ。これを見て公子セン犬は逃げ出したが、成公に殺された。
- 宣公(斉)(センコウ)【王】
- 斉公(30代目)。名は積。平公の子。〜B.C.405。
B.C.456即位する。
B.C.407鄭の国人と西城で会同する。
- 宣公(魯)(センコウ)【王】
- 魯公(20代目)。名は俀、倭ともいう。文公の子。母は敬嬴。〜B.C.591。
母の敬嬴はひそかに襄仲に取り入り、公子俀のうしろだてになってもらっていた。
B.C.609、2月24日、文公が没すると、公子俀は襄仲に擁立され、
さらに斉恵公の助力を受けて公子悪と公子視を殺した。
この年、莒の公子僕が主君を弑して、莒の国宝を持って魯に出奔してきた。
宣公は僕人に書類を持たせて、季孫行父に命じて太子僕に封邑を与えるようにさせた。
しかし里革が僕人に会い、その命令書を変えさせて、太子僕を追放するようにさせた。
宣公は怒って里革を捕らえて詰問した。里革は「君命に逆らった罪は死罪に当ります。しかし『則を破る者を賊となし、賊をかくまう者を蔵となし、
宝を盗む者を宄(乱)となし、宄を用いる者を姦となす』と申します。君主を蔵姦させる者は、追放しなければなりません」と言った。
宣公は「わたしこそ本当に欲張りでした。あなたの罪ではない」と言って里革を許し、太子僕を追放した。
B.C.608夏、宣公は斉恵公と斉の平州で会合した。
6月、宣公は済西の田地を斉に差し出した。
秋、邾の君が来朝した。
B.C.605宣公は斉恵公とともに、莒と郯を仲直りさせようとしたが、莒人はこれを聴き入れなかった。そこで宣公は莒を討って向の地を攻め取った。
秋、宣公は斉に赴いた。
斉恵公が魯を訪れた。
B.C.604春、宣公は斉に赴いた。このとき斉の高固が斉恵公に願って宣公を引きとめさせて、
魯の公女叔姫を妻にほしいと強請した。
9月、高固が叔姫を迎えた。
B.C.603、8月、蝗の害があった。
B.C.602春、衛の孫良夫が魯にやって来た。宣公は衛と友好を結び、宣公が晋と会合することを相談した。
夏、宣公は斉恵公とともに萊を討った。
冬、宣公は晋成公・宋文公・衛成公・
鄭襄公・曹文公と黒壌で会合した。
宣公は晋成公が即位したとき(B.C.607)朝することをせず、また大夫も遣わさなかったので、このとき捕えられて黒壌の盟いに参加できなかった。
宣公は晋に物を贈って許された。
B.C.601、6月24日、母の敬嬴が没した。
7月30日、皆既日食があった。
10月26日、宣公は敬嬴を葬った。
宣公は平陽に城壁を築いた。
B.C.600、1月、宣公は斉に赴いた。
春、周定王は魯に使者を遣わして、周を聘問することを要求した。
夏、宣公は孟献子に命じて周を聘問させた。
秋、宣公は根牟をたやすく攻め取った。
B.C.599春、宣公は斉に赴いた。斉恵公は魯が斉に服従しているとして、済西の田地を魯に還した。
4月1日、日食があった。
4月14日、斉恵公が没したので、宣公は急ぎ恵公の喪のため斉に赴いた。
秋、王季子が魯に来て、孟献子が周を聘問した返礼をした。
公孫帰父が邾を討って繹を攻め取った。
斉頃公が即位したので、季孫行父が斉を聘問した。
冬、公孫帰父は斉に赴いて、邾を討ったことを釈明した。斉は国佐を遣わして返礼した。
この年は大水のため不作であった。
B.C.595冬、公孫帰父が斉頃公と斉の穀で会合した。
ある夏、宣公は泗水で網で魚を捕った。里革がその網を切断し、破棄して「今は魚類が雌雄別れて子を孕む時であり、魚の成長することを民に教えず、
かえって網で捕ろうとするのは、貪欲きわまりないものです」と言った。
宣公は「里革はわしの過ちを正してくれる。この網をしまわせておいて、わしがこの諌めを忘れないようにしよう」と言った。
楽官の師存が「網をしまっておくよりも、里革を重用して、彼を忘れないほうがようございます」と言った。
B.C.594秋、害虫の被害があった。
孟献子が高固と無婁で会合した。
冬、いなごの被害が出た。
この年、初めて公田以外の私田に税をかけた(十分の二税)。
B.C.593秋、伯姫は郯の君に嫁いでいたが、離縁されて追い出され、魯に帰ってきた。
この年、魯は大豊作であった。
B.C.592、6月1日、日食があった。
B.C.591春、宣公は杞を討った。
7月8日、楚荘王が没した。魯は楚軍とともに斉を討とうとしていたが、あてがなくなったため晋から援軍を借りて斉を討った。
宣公は公孫帰父と相談して三桓を除いて公室の権勢を強めようと考えて、公孫帰父を晋に赴かせて晋の力を借りようとした。
10月28日、没す。
- 宣公(燕)(センコウ)【王】
- 燕公。襄公の子。〜B.C.603。
B.C.618即位する。
- 宣公(曹)(センコウ)【王】
- 曹公(17代目)。名は盧。文公の子。〜B.C.578。
B.C.595、5月12日、文公が没したため、公子盧は即位した。
B.C.588春、宣公は晋景公・魯成公・衛定公・
宋共公とともに鄭を討ったが、鄭の伏兵にあって打ち破られた。
B.C.586、12月24日、宣公は晋景公・魯成公・宋共公・鄭悼公・衛定公・斉頃公・
邾定公・杞桓公と晋の虫牢で会盟した。
B.C.584、5月、宣公は魯を訪れた。
秋、宣公は晋景公・斉頃公・衛定公・魯成公・莒の君・邾成公・杞桓公と会合して、
楚に攻められた鄭を救う相談をした。しかし鄭は単独で楚軍を破った。
8月13日、宣公は衛の馬陵で諸侯と同盟し、虫牢の盟いを確認し、莒が晋に服従したことを確認した。
B.C.582春、前年に汶陽の田を斉に返したことで諸侯が晋の信義を疑ったため、晋景公は宣公や魯成公・斉頃公・衛定公・宋共公・
鄭成公・莒渠丘公・杞桓公と衛の蒲で会合して、馬陵の盟いを忘れないようにした。
B.C.581、5月、宣公は晋の太子州蒲・魯成公・斉霊公・衛定公・宋共公と会合して鄭を討った。
B.C.578、5月、宣公は晋厲公・宋共公・斉霊公・衛定公・邾・鄭成公・滕と会合して秦を討った。
5月5日、定公は諸侯と共に秦軍と秦の麻隧で戦い、これを大破した。諸侯の軍は勢いに乗って涇水を渡って侯麗まで攻め入って引き揚げた。
宣公はこの戦いで、陣中で没した。
- 宣公(陳)(センコウ)【王】
- 陳公(16代目)。名は杵臼。桓公の子。〜B.C.648。
B.C.693、即位する。
B.C.692、2月、荘公を葬る。
B.C.690夏、宣公は斉襄公・鄭伯嬰と垂で会合する。
B.C.689冬、宣公は斉・宋・魯・蔡とともに衛を討った。
B.C.686、1月、陳は魯・蔡とともに郕を討った。
B.C.682、10月、宋で叛乱を起こした南宮万は陳に亡命してきた。しかし宣公は宋から賄賂をもらったため、
婦人をつかって南宮万に酒を飲まして酔ったところを革に包んで、宋に送り返した。
B.C.681春、宣公は斉・宋・蔡・邾・魯・衛・鄭と斉の北杏で会合した。
B.C.680宣公は、斉・曹とともに宋を討った。
B.C.679春、宣公は斉・宋・衛・鄭と鄄で会合した。
B.C.678、12月、宣公は斉桓公・宋桓公・
衛恵公・鄭厲公・許の君・滑の君・滕の君と宋の幽で会合し、鄭は斉と和平した。
B.C.676周恵王が陳の公女をめとって后にする。
B.C.675冬、斉と宋と陳は魯の西に侵入した。
B.C.672春、宣公は公子款を立てようとして、太子禦寇を殺す。
B.C.670冬、曹釐公が陳に亡命してきた。
B.C.669宣公は女叔を魯に遣わして、魯との友好関係が成った。
冬、魯の公子友が陳に来聘した。
B.C.667、6月、宣公は斉桓公・魯荘公・宋桓公・鄭文公と会合して幽で同盟し、
陳と鄭は斉に服従した。
B.C.660鄭の臣高克が陳に亡命してくる。
B.C.656春、宣公は斉桓公、魯釐公、宋桓公、衛文公、鄭文公、
許穆公、曹昭公と会合して蔡を討ち、勢いに乗じて楚に攻め入った。
連合軍は楚と和平の盟いを結んだ。
帰国の際、陳の袁濤塗が「軍が陳と鄭の間を通れば、両国とも食糧の供給に困りますので、
東方を通って東夷に武力を見せつけて海に沿って帰るのがよろしいでしょう」と進言したので、桓公はこれに従おうとした。
しかし鄭の申侯が「軍は疲れています。東夷にはかなわないでしょう。陳と鄭の間を通り、
両国に食糧を出させるほうがよろしいでしょう」と進言したので、桓公はよろこんで、申侯には鄭邑の虎牢を与え、袁濤塗を捕えた。
秋、斉桓公は袁濤塗が軍道を誤らせようとしたのを責めて、宋・衛・鄭・許・曹・魯とともに陳を討った。
冬、陳宣公は罪に服して和睦を乞うたので、桓公は捕えていた袁濤塗を帰国させた。
B.C.655夏、宣公は、斉桓公・魯釐公・衛文公・鄭文公・許僖公・曹昭公・
周の太子鄭と衛の首止で会合し、太子鄭の地位を固め、周室の安泰を図る相談をした。
8月、諸侯は首止で盟った。
B.C.654宣公は、斉桓公・魯釐公・宋桓公・衛文公・曹昭公と会合して鄭を討ち、新城を包囲した。
秋、楚が許を包囲して鄭を助けようとしたが、諸侯が許を救ったので、楚軍は引き揚げた。
B.C.652桓公は洮で諸侯と会盟する。
B.C.648、12月、没す。
- 宣公(衛)(センコウ)【王】
- 衛公(4(14)代目)。名は晋。桓公の弟。〜B.C.700。
B.C.719州吁が殺されると、衛の国人は晋を邢から迎え入れた。
12月、宣公は即位した。
B.C.718、4月、宣公はようやく桓公を葬った。
この年、鄭に攻められる。衛は南燕の軍を率いてこれに対応した。鄭の祭仲・原繁
・泄駕が鄭の三軍を率いて南燕軍の前方に陣し、
公子曼伯と子元に命じてこっそりと制の軍を率いて南燕の背後に陣をとらせた。
南燕軍は鄭の三軍を恐れて、制の軍に気がつかなかった。
6月、鄭の曼伯と子元に南燕軍は北制で撃ち破られた。
秋、先年、衛が乱れた時、郕に攻められたので、衛はその報復として郕を討った。
B.C.715春、斉釐公は宋・衛と鄭とを仲直りさせようとして会合の期日を定めた。
しかし宋殤公は会合の前に衛宣公に願い出て、贈物を献上して、犬丘で会合した。
7月、当初の予定通り、宋・衛と鄭は親和し、斉・鄭・衛の三国が温で会合し、瓦屋で盟った。
B.C.713、6月、魯・斉・鄭は天子の命により宋を討った。このとき宣公は天子の命に従わず、連合軍に参加しなかった。
宋はそこで宣公に働きかけて、宋・衛・蔡は連合した。しかし連合軍は、蔡に鄭討伐に参加させず、鄭の与国の戴を討たせた。
8月8日、宋・衛・蔡の連合軍は鄭軍に包囲された。
8月9日、連合軍は鄭軍に破られて降服した。
宋・衛・蔡の連合軍が敗れたのは、蔡が宋・衛に腹を立てたため連合軍が和合しなかったためである。
宣公は太子伋のために斉の公女宣姜を迎えたが、彼女の美貌を見てすっかり気に入り、これを我がものにして、
寿・朔を生んだ。
B.C.709宣公は斉釐公と衛の蒲で会合した。
B.C.707周桓王が鄭荘公の政権を奪ったので、荘公は怒って周に参朝しなくなった。
秋、桓王は陳・蔡・虢・衛の兵を率いて鄭を討った。虢公林父は右軍の将となり、蔡・衛の軍はそれに付いた。
桓公は左軍の将となり、陳の軍がそれに付いた。
鄭の公子子元は「陳は乱れて、その民は戦う心がありません。真っ先に陳の軍を攻め立てたら、逃走するでしょう。
周王の軍はそれを見たら、きっと乱れるでしょう。そこを集中攻撃すれば、事は成功いたします」と進言したので、鄭荘公はそれに従った。
鄭荘公は曼伯に右軍を、祭仲に左軍を率いさせ、
原繁と高渠弥に中軍を率いさせて自らを守らせ、魚麗の陣をつくり、
兵車を前に歩兵を後ろにして、鄭の繻葛で戦った。
鄭の左右軍は連合軍の左右の軍を破り、桓王の軍も乱れた。そこで鄭軍は集中してこれを攻撃したので、桓王の軍は大敗した。(繻葛の戦い)
B.C.705秋、宣公は斉・鄭とともに盟・向を征伐した。
B.C.702、12月、衛は斉・鄭とともに魯を討ち、魯の郎で戦う。
B.C.701春、鄭と斉と衛と宋は魯を攻めようとして悪曹(鳥曹)で盟った。
9月13日、鄭昭公が衛に亡命してきた。
夷姜(太子伋の母)は宣公の寵愛を失ったので、首をくくって自殺した。さらに宣姜と公子朔が太子伋を讒言した。
宣公も太子の妻を奪ったことから、後ろめたい気持ちがあり、廃嫡したいと思っていたので、これを聞くと大いに怒り、
伋を斉に使いに出し、盗賊に殺させた。そして朔を太子とした。
B.C.700、11月、没す。
- 宣公(宋)(センコウ)【王】
- 宋公(13代目)。名は力。武公の子。〜B.C.729。
B.C.729宣公は病気となり、弟の和に位を譲ろうとして「父が死ねば、子があとを継ぎ、兄が死ねば、弟に及ぶのは、天下の通義である。
わしは和を立てようと思う」と言った。
結局、和が立ったあと、宣公の子与夷が後を継いだ。君子らがこれを聞いて言うよう「宋の宣公は人を知る明があると言わねばならぬ。弟を立てて義を立てながら、
わが子もまたその後を受けて国君となった」と。
- 宣公(秦)(センコウ)【王】
- 秦公(7(21)代目)。徳公の長子。〜B.C.664。
B.C.673密畤(祭壇)を作る。
晋と河陽で戦って勝った。
- 宣公(滕)(センコウ)【王】
- 滕公。名は嬰斉。
B.C.641、3月、宣公は宋襄公が主催した会盟に参加しなかったので捕えられた。
- 宣公(邾)(センコウ)【王】
- 邾公。名は牼。〜B.C.556。
B.C.574、12月、邾定公が没したので、宣公は即位した。
B.C.573、8月、宣公は魯を訪問して即位の挨拶をした。
12月、宣公は晋悼公・魯の孟献子・宋平公・
衛献公・斉の崔杼と虚朾で会合して同盟した。
B.C.572、1月、宣公は諸侯とともに彭城を討ち、これを降した。
9月、宣公は魯を訪れた。
B.C.557、3月、宣公は晋平公・宋平公・衛殤公・
鄭簡公・曹成公・魯襄公・薛の君・
杞文公・莒犂比公・小邾の君と会合し、侵略した土地を帰した。
邾は莒とともに魯を討ったため、邾宣公は莒犂比公とともに晋に捕えられた。
B.C.556、2月24日、宣公は没した。
- 宣侯(燕)(センコウ)【王】
- 燕公。繆侯の子。〜B.C.698。
B.C.711即位する。
B.C.699魯と鄭と紀の連合軍と戦ったが、斉・宋・衛・燕は破れた。
- 宣侯(蔡)(センコウ)【王】
- 蔡侯(10代目)。名は措父または考父。戴侯の子。〜B.C.715。
B.C.750即位する。
B.C.719宣侯は衛の公子州吁の収集に参加して鄭を討ち、鄭の都の東門を包囲した。
5日かかって攻め落とせなかったので引き返した。(東門の役)
秋、宣侯は衛・宋・陳・魯とともに再び鄭を討ち、鄭の歩兵を打ち破り、鄭の禾を刈り取って引き揚げた。
B.C.715、6月己亥の日、没す。
- 戔甲(センコウ)【皇帝】
- 商王朝11代王。外壬の弟。
『史記』では、河亶甲とされる。
相に遷都する。この王の時代に商王朝は衰える。
- 冄耕(ゼンコウ)【在野】
- 孔子の弟子。姓は冄、名は耕、字は伯牛。B.C.544〜。
魯の人。孔門の十哲のひとり。
冄耕は魯の中都の宰を務めたという。
冄耕は生来、癩病をもっていた。孔子は見舞いに行って窓から彼の手をとって「運命というものか。この人に、こうした病があるとは。
運命というものか」とその徳行ゆえに嘆いた。
- 先縠(センコク)【将軍】
- 晋の将軍。右行の将、中軍の佐。屠撃、先彘子ともいう。先軫の子。〜B.C.596。
B.C.632晋ははじめて三行(三隊の歩兵部隊)を編成し、先縠は右行の将に任じられた。
B.C.597春、鄭が楚に攻められたため、それを救うため晋は兵を出し、先縠は中軍の佐として従軍した。
6月、黄河に到着すると、すでに楚は鄭を降していた。荀林父が帰還しようとし、
士会もこれに賛成した。しかし先縠は反対して「晋が覇者となっているのは、わが軍が強く、臣下が努力するからです。
今、鄭を見捨てて軍を還すのは努力しているとは言えず、眼前の敵を追撃しないのは、武勇があるとは言えません」と言って勝手に軍を率いて黄河を渡った。
そのため晋軍は全軍、黄河を渡ることになった。
晋軍は敖山と鄗山の間に陣をしいた。鄭の皇戌が晋の陣地に来て「鄭が楚についたのは国を守るためで、
貴国に対して二心を持つものではありません。貴国が楚を攻めるのなら、わが軍もあとに続きましょう」と申し入れてきた。
先縠はよろこんで「楚を破って鄭を従わせるのは今です。ぜひその申し入れを受けよう」と言うと、
欒書が「わが国の方が徳義がなくて楚に恨まれているので、こちらが不義で楚が正義である。だから楚は疲労しているとはいえない。
鄭は晋が勝てばこちらにつくが、負けたらさっさと楚になびくであろう。鄭の使者は信じることはできませんぞ」と反対した。
趙括と趙同は「軍を率いたからにはただ敵を攻撃するだけだ。
鄭を属国にさえすればそれで十分だ。彘子の意見に従うべきである」と言った。
このとき楚荘王は少寧を遣わして和睦を申し入れ、士会はこれを受諾した。
先縠は楚にこびへつらていると思い、趙括に命じて楚の使者を追いかけて訂正し「ただ今、当方の接待者が言い誤りました。
わたくしどもは大国(楚)の足跡を鄭から移そうと考えております(楚をけちらそうと思う)」と言わせた。
魏錡と趙旃が和睦の使者として出発した。
郤克「ふたりの不平者が出かけた。防備をしておかないと楚に攻め込まれるだろう」
先縠「わが軍には戦うか和するか決定的な命令がない。防備したとしても役に立つまい」
はたして楚軍は全軍で攻撃してきて、晋軍はなすすべなく敗れた。
冬、先縠は宋の華椒、衛の孔達、曹の大夫と衛の清丘で同盟した。
B.C.596秋、先縠は前年、自分が主張して晋軍を敗北させる結果を招いたので、誅殺を恐れて赤狄をそそのかせて晋を討たせた。
冬、邲の敗戦と清の侵略を招いた罪により、先縠は一族ともども皆殺しにされた。
- 先克(センコク)【将軍】
- 晋の将軍。中軍の佐。先且居の子。〜B.C.618。
B.C.621夷の蒐のとき、晋襄公は箕鄭と先都を昇進させ、
士縠・梁益耳を中軍の将と佐に任命しようとしたが、
先克は「狐偃や趙衰の功績を忘れてはなりません」と諌めたので、
襄公は狐射姑を中軍の将、趙盾を中軍の佐に任命した。
B.C.620趙盾は中軍の将となり、先克を中軍の佐、荀林父を上軍の佐、
先都を下軍の佐、歩招を霊公の御者、
戎津をその右とし、晋の菫陰まで軍を進め、秦軍に気づかれぬようにこっそりと夜中に出発した。
4月2日、晋軍は秦軍を令狐で打ち破り、晋の刳首まで追撃した。先克は晋軍が菫陰で秦軍を防いだとき、
先克は蒯得の所有していた菫陰の地を奪った。
B.C.619先克に不平を持つ箕鄭・先都・士縠・梁益耳・蒯得らが乱を起こした。
B.C.618、1月、先克は箕鄭らに殺された。
- 冉豎(ゼンジュ)【武官】
- 魯の臣。季氏の家臣。
B.C.516斉が魯に攻め入った。冉豎は斉の田開を射て手に当てた。田開は弓を落として冉豎をののしった。
冉豎は季平子に報告して「立派な人物がおりました。顔が白く、ひげも眉も真っ黒で、大きな口でした」と言うと、
季平子は「きっと子彊(田開)であろう。相手にならぬのがよかろう」と言った。そこで冉豎は「立派な人物であるからには、どうして手向かいいたしましょう」
と答えた。
- 冄孺(ゼンジュ)【在野】
- 孔子の弟子。字は子魯。B.C.501〜。
- 専諸(センショ)【武官】
- 刺客。呉の堂邑の人。鱄設諸ともいう。〜B.C.515。
伍子胥が楚を逃げて呉に行ったとき、専諸の才能を知った。
伍子胥は呉の公子光が呉王僚を殺そうとしているのを知ると、
専諸を公子光に推薦し、後日に備えた。公子光は平素からひそかに腹心の謀心を養って、王位を奪おうとしていたので、専諸を得ると賓客として厚く待遇した。
B.C.515楚平王が没したので、
呉王僚は公子掩余と燭庸とともに楚を討ったが、
楚に退路を断たれて帰国できなくなった。そこで公子光は「この時機を失ってはならない」と言うと、専諸は「王僚を殺すときでしょう。その母は年老い、その子は年若く、
しかも二弟は兵を率いて出て、後方を断たれています。いまや呉は国外で楚に苦しみ、国内では兵力空しく気骨ある臣がおりません。
これではわが方をどうすることもできません」と言った。
公子光は頓首して「わしの身は、子の身である」と言った。
4月丙子、公子光は武装兵を地下室に伏せ、酒を用意して王僚を招待した。僚王は兵士を列ねて警護を堅固にしていた。酒宴がたけなわになると、
公子光はいつわって足を痛むふりをして地下室に入り、専諸に命じて腹中に匕首をひそめた焼魚をすすめさせた。王の前に行くと専諸は魚をつんざき、匕首をもって僚王を刺した。
王はたちどころに死んだが、専諸もまた左右の者に殺された。
公子光は自立して王となったが(闔閭)、専諸の子を封じて上卿として優遇した。
- 先且居(センショキョ)【将軍】
- 晋の将軍。上軍の将。中軍の将。先軫の子。蒲城伯ともいう。〜B.C.622。
B.C.629狐毛が死んだので、文公は趙衰を後任に命じたが、
趙衰は「城濮の戦いで、 先且居はよく軍を輔佐しました。戦功には賞があり、君を善導すれば賞があり、その官職に有能なら賞があります。
且居にはこの三賞があって放置できません。その上、臣の同輩には箕鄭・胥嬰・
先都がいます」と言って辞退した。そこで文公は先且居を上軍の将に任じた。
狐偃が死んだため先且居は上軍の佐の後任をお願いしたので、文公は趙衰を上軍の佐に任じた。
B.C.627、8月、晋は狄を箕で打ち破ったが、先軫が戦死した。襄公は帰還すると、先且居を中軍の将に任じた。
B.C.626夏、襄公は衛を討ち、衛の南陽まで攻め入った。先且居が襄公を諌めて「他人を咎めながら、それと同じことをするのは禍を招きます。
君にはどうか温の周王のところにお出かけください。わたしが軍を引き受けましょう」と言った。
5月、先且居と賈佗は衛を討ち、戚を包囲した。
6月9日、戚を陥落させ、孫昭子を捕えた。
B.C.625春、秦の孟明視が晋に攻め入ってきた。
2月、先且居は中軍の将となり、趙衰が中軍の佐となり、王官無地が襄公の御者、
狐鞫居がその右を務めた。
2月9日、晋軍は秦軍と彭衙で戦い、秦軍を大破した。晋の人はこの秦軍を拝賜の師と読んで嘲笑した。
冬、先且居は宋の公子成、陳の轅選、
鄭の子家とともに秦を討って汪を攻め取り、彭衙まで攻め込んで引き返し、彭衙の役の報復をした。
先且居は霍邑を受封したので、霍伯ともいわれる。
B.C.622没す。
- 先軫(センシン)【将軍】
- 晋の将軍。下軍の佐。中軍の将。〜B.C.627。
原の地に領土を有したので、原軫ともいわれる。
重耳の亡命に従い、晋君となることを助ける。
B.C.633楚成王が宋の都を包囲し、宋の公孫固が危急を告げた。
先軫は「宋の贈物に報い、わが覇業を定めるには、いまこそその機会です」といい楚を討つことを勧めた。そこで文公は三軍を編成し、
趙衰を卿にしようとしたが、趙衰は「欒枝は貞節慎重で、先軫は智謀あり、
胥臣は物知りですから、皆補佐の卿に適任です。臣はかないません」と言って辞退したので、先軫は下軍の佐に任じられた。
B.C.632、2月、中軍の将郤縠が死んだので、先軫が代って中軍の将となった。
再び楚が宋を包囲した。文公はかつての恩義があるため楚を討ちたくなかった。そこで先軫は「曹伯を捕え、曹・衛の土地を分割して宋に与えるのがよいと思います。
そうすれば楚は曹・衛を救い、宋を放棄するでしょう」と言い、文公はそれに従った。
楚成王は兵を引いたが、将軍子玉は残って曹・衛の君を復位させれば宋を許すと交換条件をつけてきた。
先軫は「人をおさめることを礼と申します。今、楚は一言で三国(衛・曹・宋)をおさめようとし、君は一言で滅ぼそうとしています。
これでは晋が礼をわきまえぬことになります。そこでひそかに衛・曹を復位させて味方につけ、楚の使者宛春を捕えて、
楚を討てばよろしいと存じます」と進言し、文公は城濮で楚と戦った。
このとき王孫ケイが「楚では子玉だけが戦いたがって、王の心を逆らったので、ただニ軍だけであり、
友軍も子玉に離反する者が半分です。若敖氏ですら離反しているのですから、楚は必敗の態勢です。どうして逃げるのですか」と進言したので、
先軫は勇んで戦いに臨んだ。
上軍の将であった狐毛は、二本の大旗を立てていつわって退却し、
楚将子西が追撃したところを先軫と郤臻が中軍を率いて横から攻撃をかけ大いに破った。
B.C.627春、秦は周、晋を通過して無礼であり、さらに滑を滅ぼした。
先軫「秦は多くの人々の心に背いております。撃たねばなりません」
欒枝「先君文公が受けた恩義に報いないうちに秦を撃つのはよくないことです」
先軫「秦は孤児となられたわが君をあなどり、わが同姓の国を討ちました。いかなる徳に報いようとするのですか」
そこで先軫は早馬をもって姜戎に走らせ、その出兵を促し、晋は秦を討ち、殽でこれを破った。
しかし襄公は夫人の進言で殽で捕えた孟明視・西乞秫・
白乙丙を釈放した。
先軫は「武人が奮戦して捕らえたものを夫人が放免するとはどうしたことです。晋は間もなく滅びるであろう」と言って、ふり向きもせずに君の面前でつばきを吐き、
彼らを追跡したが、すでに黄河を渡っており彼らはついに引き返さなかった。
8月、晋は狄と箕で戦った。
8月22日、先軫は「あんな不敬を犯したのに、わが君は私をおとがめなさることもなかった。この上は自分でわが罪を罰せねばならない」と言って、
冑を脱いで狄軍の中に攻め入って討ち死にした。晋軍は狄を打ち破った。
- 先辛(センシン)【文官】
- 晋の臣。
B.C.608夏、河曲の戦いのときに軍令に従わなかった者を処罰するとして胥甲は衛に追放され、胥甲についていた先辛は斉に出奔した。
- 鱄設諸(センセツショ)
- →専諸
- セン孫(センソン)【武官】
- 魯の臣。荘公の戎右。
B.C.684宋と戦い(乗丘の戦い)、荘公が射落とした南宮万を生け捕りにした。
- 顓孫(センソン)【武官】
- 陳の臣。
B.C.672陳の太子禦寇が殺されると、田完とともに斉に逃れ、顓孫は斉から魯に出奔した。
- 顓孫師(センソンシ)【在野】
- 孔子の弟子。姓は顓孫、名は師、または賜。字は子張。B.C.503〜。
陳の人。
孔子に随行して陳・蔡で困窮した時、どうしたら自分のことばが行われるのだろうかと問うた。
孔子は言った「ことばに真心があり、おこないが、うやうやしければ蛮貊の国でも行われよう。いつも真心を離れることなく、立てば眼の前にあるよう、
離れれば衡(よこぎ)にかかるように見えてこそ、自分のことばが行われるのである」
孔子は顓孫師と卜商を評して「師は行き過ぎ、商は控えめ過ぎる」と言った。
顓孫師は、琴をよくしたので琴張といったという。
- 宣太后(センタイコウ)【女官】
- 秦恵文君の夫人。昭襄王の母。姓は羋。〜B.C.265。
楚の王族。
B.C.307武王が没すると、昭襄王が代わって立ち、宣太后はもとは羋八子(八子は婦官の爵第四等)と呼ばれていたが、
宣太后と号した。
昭襄王が若かったので、宣太后が摂政となる。一族の魏冄・高陵君・
涇陽君らはみな権力を振るった。
楚が韓を討ち雍氏を包囲して5ヶ月になった。韓は秦に救援を求めたが、秦は殽山から降りて救援に向かわなかった。
尚靳は秦に使者として赴き「韓は秦に対する関係は、平時には敵に対する覆いとなり、非常時には先鋒となっています。
私は『唇がそりかえれば、歯は寒いものだ』と聞いています。どうか大王には、このことをよくお考え下さい」と言った。
宣太后はもっともだと思い、尚靳を召し入れた。
しかし宣太后は「秦には、韓を救援する軍もなく、兵糧も豊かでないのです」と婉曲に断った。尚靳は帰国して襄王に報告した。
韓は今度は張翠を秦に派遣した。張翠は病気だと言いながら、日々一県ずつ進んでいった。
秦の宰相甘茂は「韓はさぞかし急迫しているのでしょう。先生には病をおして来られるのですから」と言った。
張翠は「まだ急迫しておりません」と答えた。
「ほんとうにそうなのでしょうか」
「ほんとうに火急に陥れば、韓は腰を折って楚に参入いたしましょう。どうして私がここへ来たりしましょうか」
秦はすぐに韓を救った。
B.C.271范雎が昭襄王に取り立てられ、宣太后が専制であること、魏冄が諸侯に対してほしいままに権力を振るうこと、
涇陽君・高陵君らがすこぶる奢侈で王室よりも裕福なことを言上した。
B.C.265宣太后は魏醜夫を寵愛していたが、宣太后は危篤に陥ると、魏醜夫を殉死させるよう命じた。
魏醜夫はこれを聞いて悩んでいたので、庸芮が宣太后を説いて言った。
庸芮「死者に知覚があるとお考えですか」
宣太后「あるはずがない」 庸芮「知覚がないのであれば、どうして生前で寵愛の男を葬ろうとされるのでしょうか。もし死者に知覚があるのならば、
先王は太后に対して怒りをためておられます。魏醜夫をこっそり寵愛することはできないでしょう」
宣太后は殉死の件をとりやめた。
7月、宣太后は薨じて芷陽の酈山に葬られた。
- 然丹(ゼンタン)【文官】
- 楚の臣。右尹(侍従)。子然の子。子革ともいう。
B.C.538冬、呉が楚に攻め入った。そのため然丹は州来に城壁を築いた。
B.C.533春、然丹は城父(夷)に住んでいた人を陳に移し、夷の濮水以西の耕地を陳につけ加え、方城の外の人をもとの許の地に移した。
B.C.531楚霊王は陳と蔡と不羮に城を築いて言った。
霊王「この3城だけで晋に対抗できよう。その上楚を加えたなら、諸侯は楚に仕えるであろう」
申無宇が諌めて「鄭に京・櫟があり、衛に蒲・戚があり、宋に蕭・蒙あり、魯に弁・費あり、斉に渠丘あり、晋に曲沃あり、
秦に徴衙があります。これらはみな宗家に叛乱をしました。わたくしは楚もこのようなことになることを恐れるのです」
霊王「彼は天を知っているだけで、どうして民を知っていようか」
然丹「民は天が生んだものですから、天を知っていればきっと民を知っています」
しかし霊王は諫言を聴き入れなかった。
B.C.530冬、楚霊王は徐を討ち、乾谿に宿った。然丹が夕方にご機嫌伺いに参った。
楚霊王「わが先王熊繹は周に仕えたが宝を与えられなかった。今わたしは周からもらおうと思うが、周王は私に与えるであろうか」
然丹「賜るでしょう。今や周や四方は楚に服従しております。どうして賜らないことがありましょう」
楚霊王「わが先祖の昆吾は許の地に住んでいたが、今は鄭がその地をむさぼり、返そうとしない。要求したら返すであろうか」
然丹「返すでしょう。周でさえ宝を与えるのですから、小国の鄭が返さないはずはありません」
楚霊王「諸侯はわが国を恐れているだろうか」
然丹「恐れています。陳・蔡・不羮はそれだけで一国の力がありますが、これに楚が加わっているのです」
これらの問答から楚霊王は然丹を「故事に通じている」と評した。楚霊王が退出した隙に僕析父が然丹に
「あなたは王の心のままに従っている。この国をどうなさるおつもりか」と責めた。然丹は「わが刃を研いで王の出方を待っているのです。
やがて王のみだらな心を断ち切るでしょう」と答えた。その後、然丹は祭公謀父のたとえを出して楚霊王を諌めたが、
楚霊王は私欲を抑えることができなかった。
B.C.529、4月、各地で叛乱が起こり、叛乱軍は都に入って太子禄を殺して公子比を立てて王とした。
楚霊王はこれを聞いて驚き、車から転げ落ちた。
然丹「どうか郊外でお待ちください。だれが味方になるか見てきましょう」
楚霊王「大衆の怒りは防ぎきれるものではない」
然丹「ならば大きな町に入って諸侯に援軍を求めましょう」
楚霊王「みな背いているからどうにもならぬ」
然丹「ならば諸侯に逃げて王を助けてくれるか見ましょう」
楚霊王「ただ辱しめを受けるだけだ」
然丹は霊王を見限って都に立ち去った。
B.C.528夏、然丹は楚平王の命に都の西方の軍を宗丘で検閲し、かつその地方の民を慰撫した。
B.C.526、1月、蛮に内乱があり、蛮の君嘉が信義のないことを聞いて、然丹は蛮の君嘉を誘い騙して殺し、すぐに蛮を攻め取った。
- 先丹木(センタンボク)【武官】
- 晋の臣。
B.C.660冬、申生に東山の皋落狄を討つように命令が下り、狐突が申生の御者となり、
先友がその右乗となり、梁余子養が罕夷の御者となり、
先丹木がその右乗となり、羊舌大夫が軍尉となった。
先丹木は「敵を全滅させることなどできるものではない。できたとしても、まだ宮中で太子の悪口を言う者がいる。逃げたほうがよい」と言った。
そこで狐突が申生を連れて逃げ去ろうとしたが、羊舌大夫がこれを諌めたので、申生は戦いを決意し、狄を破った。
- 先彘子(センテイシ)
- →先縠
- 先都(セント)【将軍】
- 晋の将軍。新下軍の将、下軍の佐。〜B.C.618。
B.C.629狐毛が死んだので、文公は趙衰を後任に命じたが、
趙衰は「城濮の戦いで、 先且居はよく軍を輔佐しました。戦功には賞があり、君を善導すれば賞があり、
その官職に有能なら賞があります。且居にはこの三賞があって放置できません。
その上、臣の同輩には箕鄭・胥嬰・先都がいます」と言って辞退した。
そこで先都は新下軍の将に任じられた。
B.C.621夷の蒐のとき、晋襄公は先都を昇進させようとしたが、
先克が「狐偃や趙衰の功績を忘れてはなりません」
と諌めたので、襄公はとりやめた。
B.C.620趙盾は中軍の将となり、先克を中軍の佐、荀林父を上軍の佐、
先都を下軍の佐、歩招を霊公の御者、
戎津をその右とし、晋の菫陰まで軍を進め、秦軍に気づかれぬようにこっそりと夜中に出発した。
4月2日、晋軍は秦軍を令狐で打ち破り、晋の刳首まで追撃した。
B.C.619先都は、先克に不平を持つ箕鄭・士縠・梁益耳・
蒯得らとともに乱を起こした。
B.C.618、1月、先都らは賊を放って先克を殺した。
1月19日、先都は晋人に殺された。
- 冄伯牛(ゼンハクギュウ)
- →冄耕
- 先蔑(センベツ)【将軍】
- 晋の将軍。左行の将。士伯ともいう。
B.C.632晋ははじめて三行(三隊の歩兵部隊)を編成し、先蔑は左行の将に任じられた。
B.C.621趙盾の命で、
先蔑は士会とともに秦から公子雍を迎えるため秦に出向いた。
荀林父がそれをとどめて
「夫人(繆嬴)も太子(霊公)もいるのに他から君を迎えようとするのは、
うまくゆかないに決まっている。病気にかこつけて辞退されるのがよい。出かけたら災難にかかるでしょう」と諌めたが、先蔑は聴き入れなかった。
B.C.620はたして心変わりした趙盾に攻められて令狐で敗れたため、先蔑は秦に亡命した。荀林父は先蔑の妻子と家財道具をすべて秦に送り届けた。
- 単蔑(ゼンベツ)【武官】
- 周王朝の臣。
B.C.543、5月5日、単蔑は劉毅・尹言多・甘過・
鞏成らとともに公子佞夫を殺した。
- 詹父(センポ)【文官】
- 周王朝の臣。〜B.C.673。
B.C.702春、詹父は虢公林父に讒言された。しかし詹父はそれを弁明することができたので、
周桓王は怒って軍を率いて林父を討った。林父は虞に出奔した。
周恵王は蔿国の菜園を取り上げて王の庭園とし、
辺伯の邸宅が王宮に近かったので、これを取り上げ、さらに子禽・
祝跪・詹父の田地を取り上げ、石速の秩禄をも取り上げた。
B.C.675蔿国・辺伯・子禽・祝跪・詹父・石速は乱を起こし、かねて王室を恨んでいた蘇氏を中心として団結した。
秋、詹父らは公子頽をかつぎ上げて恵王を攻めたが、恵王はこれを撃退した。勝つことができなかったので、
詹父らは蘇氏の領地の温に出奔した。
そこで6人は衛と南燕の軍とともに周を攻め、恵王は温に逃げ、鄭の都櫟に移った。
冬、詹父ら6人は公子頽を擁立した。
B.C.673夏、鄭厲公と虢叔林父が挙兵し、
厲公は恵王と共に南門から都城に入り、虢叔林父は北門から入って頽を殺し、詹父も誅殺された。
- 穿封戌(センホウジュツ)【武官】
- 楚の臣。陳の県令。
B.C.547、5月、楚は鄭を討ち、穿封戌は皇頡を捕らえた。
ところが楚の公子囲がその功を争ったため、伯州犂が裁くことになった。
伯州犂が尋ねると、皇頡はいつわって「わたしは王子(公子囲)に出会って負けたのです」と答えた。穿封戌は立腹して戈を抜いて公子囲を追いかけたが、
追いつかなかった。
B.C.534、10月、楚霊王は陳を滅ぼして陳を県に改め、穿封戌を陳の県令に任じて「お前は城麋の役(B.C.547)のときに、わたしにへつらわなかったからだ」と言った。
穿封戌は「もし王が今日のようになることを知っていたら、わたしは一命を投げ出して礼を守り、楚を安らかにするため働いたでしょう」と答えた。
B.C.529陳は復興し、穿封戌は陳公を免ぜられた。
- 先僕(センボク)【武官】
- 晋の臣。
B.C.624秋、楚が江を攻め囲んだ。先僕は命ぜられて楚を討って江を助けた。
- 還無社(センムシャ)【文官】
- 蕭の臣。
B.C.597冬、楚が蕭を討ち、楚兵が蕭の城壁にせまった。還無社は楚の司馬卯に話しかけ、
知り合いの楚の申叔展を呼び寄せてもらった。
申叔展「麦のもやし(内乱を防ぐ策)はあるのか」
還無社「ない」
申叔展「山鞠窮(外患を防ぐ策)はあるのか」
還無社「ない」
申叔展「河魚の腹疾(国が大敗すること)をどうするのか」
還無社「空ら井戸を目当てに助けてくれ」
申叔展「お前は茅で輪を作って井戸の目印にせよ。その井戸に哭声をあげる者はわたしだから、出て来い」
その翌日に蕭は全滅した。申叔展が井戸を探すと茅の輪があったので、還無社は救い出された。
- 冉猛(ゼンモウ)【武官】
- 魯の臣。
B.C.502魯が斉を討った。魯軍が退却するとき、冉猛は足に負傷したと偽って先に逃げ帰った。
すると兄の冉会がいつわって大声をあげて「猛はしんがりをつとめている」と言った。
2月、魯は斉に攻め入り、廩丘の外城を攻めた。魯軍が勢いに乗じて外城をぶちこわした。すると城内の軍が討って出たため、魯軍は驚いて逃げ走った。
陽虎は先に逃げ帰った冉猛を見なかったふりをして「猛がこの場におれば、きっと敵を討ち破るであろう」と言って冉猛を激励した。
冉猛はこれを聞いて敵兵を追ったが、振り返ってみると続いてくる者がいなかったため、わざと倒れた。これを見た陽虎は「みな真の勇者ではない」と言った。
- 先友(センユウ)【将軍】
- 晋の将軍。
B.C.660冬、申生が皋落狄討伐に出ると、先友はその車右となった。
申生が「君侯がわたしに偏衣と金玦を下さったのは、なぜでしょうか」と尋ねた。先友は「君侯の衣服を二つに分けて、金属の武器で切断する権威があります。
すべてはこの征伐にかかっております。若君よ、つとめなされよ」と答えた。
狐突が先友に「君侯が太子に偏衣を着せ、金玦を佩びさせた。たとえ努めても、狄を全滅できようか」と言った。
先友は「すべてはこの征伐にかかっています。ただ努めるだけです。何の心配もいりません」と答えた。
申生は皋落狄を破った。
- 冄有(ゼンユウ)【文官】
- 魯の臣。名は有または求。字は子有。孔子の弟子。B.C.522〜
魯の人。孔門の十哲のひとり。
冄有は孔子に、大きな町や卿大夫の領地の宰となる力をもっていると称される。
冄有は季康子の家宰となる。
冄有が孔子に「よいことは聞くままにすぐおこなってよろしいでしょうか」と問うた。孔子は「よろしい」と答えた。
また仲由が孔子に同じことを聞くと、孔子は「相談すべき父兄があるからには、聞くままにおこなってよいことがあろうか」と答えた。
子華がこれを怪しみ「同じ質問であるのに、お答えが違うのは、どうしてでしょう」と問うた。孔子は「求(冄有)は慎重で、引き込みがちだから進めたのであり、
由は勇敢で、人に先んずるふうがあるから抑えたのである」と答えた。
B.C.484季氏のために軍を率い、斉を破った。
季康子に「そなたのはかりごとは、学んだものですか、それとも生まれつきのものですか」と問われると、
「孔子から学びました」と答えた。
「わたしは孔子を招きたいと思うが、どうだろうか」と問われると、
「小人扱いをして、賤しめるようなことがなければ、よろしゅうございましょう」と答えた。
こうして季康子は孔子を招いた。
B.C.483季康子は軍備の賦課方式を改め、課税範囲を狭めて田ごとに馬1頭牛3頭を課す大改革を行った。
それに先だって季康子は冉有に命じて孔子に事の可否を尋ねさせた。孔子は返答せず、非公式に冉有に「もし季孫どのが法を知りたいのであれば、周公の定めた典籍がある。
もし法を犯そうとするならば、勝手に賦課したらよい」と言ったが、季康子は聴き入れなかった。
冉有は、季康子の悪政を改めさせることができず、さらに租税を二倍にしたため、孔子に「もはや求は我々の仲間ではない」と非難された。
- 冄雍(ゼンヨウ)【在野】
- 孔子の弟子。姓は冄、名は雍、字は仲弓。
魯の人。孔門の十哲のひとり。
孔子は冄雍を徳行あるものとして「雍は人君として南面させるにふさわしい」と言った。
冄雍の父は身分の賤しい人であった。しかし孔子は「犂牛(祭りに供えられないまだらな耕牛)の子も、赤くて角があれば、
大事な祭祠の犠牲に用いないでおこうとしても、山川の神々は、これを見棄てるはずがない」と言った。
冄雍は魯の季氏の宰となった。
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