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列伝 セ


斉(蔡)(セイ)【王】
蔡侯(24(7)代目)。元侯の子。
B.C.447楚恵王に滅ぼされる。蔡国はその祭祀を絶った。
斉(楚)(セイ)【武官】
楚の臣。工尹。
B.C.597、6月、邲の戦いで、斉は右翼の軍を率いて晋の下軍を追撃した。
成(秦)(セイ)【公子】
秦の公子。大駱の子。母は申侯の娘。
非子が周孝王に召されて馬をよく飼育したため、 嫡嗣に立てられそうになった。申侯はとりなして「わたしは大駱に妻を与えて、嫡子の成を生み、申と駱が婚姻を重ねたので、 西戎はみな服従しています。周が天下の王になっておられるのは、ひとつはこのためでありまして、王には十分ご考慮願いたい」と言った。
そこで孝王はこれをとりやめた。
成(趙)(セイ)【公子】
趙の公子。粛侯の弟。奉陽君。
蘇秦が趙に来たが、成はこれを歓迎しなかったので、蘇秦は去った。
B.C.307武霊王が服装を胡服に変えると、成は病気と称して参内しなかった。
武霊王は王緤を成のもとに遣わして「家では親のいいつけに従い、国では君の命令に従うのが、古今の公道であり、子が親に背かず、 臣が君に逆らわないのが上下の通念である。
いまわたしは教えをつくり、服を変えたのに、叔父上が胡服されないなら、天下の者が非難しましょう」と言わせた。
成は再拝頓首して「わたしの聞くところでは、中国は聡明叡智の人のいる所であり、賢人聖人の強化する所であり、仁義の行われる所であり、詩書・礼楽の用いられる所であり、 遠方の見習う所であるのに、いま王には、中国を捨ておいて遠方の服に従い、古来の教えや道を変え、中国から離れようとされています。
わたくしは、王がこの点を熟考されるよう念願しております」と言った。
武霊王はそれを聞くと自ら成の家に行き請うて言った「礼制も服装も、その民によってそれぞれ異なるが、便宜に従う点ではひとつです。郷土が異なれば用が変わり、 事が異なれば礼が変わります。
わが国は河水・漳水をもって斉・中山と接していますが、舟揖の備えがありません。また燕や東胡、楼煩・秦・韓と辺境を交えていますが、 騎馬弓射の備えがありません。
だから私は服を変え、騎射してこれに備えようとするのです。
叔父上には中国の習俗にこだわって、簡子・襄子の意に逆らい、胡服の名を憎んで、鄗の恥(斉に討たれたこと)を忘れることがないように願います」
成は再拝頓首して「わたくしは愚か者で、王のお心を察することが出来ませんでした。そのお言葉を聞いて、どうしてご命令に従わないでおられましょうか」と言い、 王より胡服を賜り、翌日胡服して参朝した。
こうして初めて胡服の令が出された。
B.C.295公子田不礼とともに叛乱を起し、肥義を殺した。
成は李兌とともに都から駆けつけて、章を攻め、田不礼を殺してその一味を滅ぼした。
章は逃れて、主父(武霊王)の宮に逃げ込んだため、成はこれを囲んだ。章はそこで死んだが、宮殿を包囲したことで武霊王に処罰されることを恐れて、 「章のために主父の宮を囲んだが、もし兵を解いたら、われらは誅殺されるだろう」と言い、包囲を解くことをせず、武霊王を餓死させた。
成は叛乱を鎮めた功により、宰相となり安平君と号した。
成(宋)(セイ)【宰相】
宋の公子。右師。荘公の子。
B.C.625冬、公子成は晋の先且居、陳の轅選、 鄭の子家とともに秦を討って汪を攻め取った。
成(楚)(セイ)【公子】
楚の公子。左司馬。
B.C.585冬、晋軍が楚軍に攻められた鄭の救援に来た。公子成は公子とともに申と息の軍を率いて蔡を助け、桑隧で晋軍を防いだ。 晋軍は引き揚げた。
B.C.582楚は鄭に財貨を与え、公子成は鄭成公と会合して鄭を楚につかせた。
B.C.575春、公子成は命じられて鄭に遣いして、汝水の南の地を与えるとして和睦を申し込んだ。鄭は晋に背いて楚についた。
B.C.574、5月、鄭は諸侯に攻められたため楚の援助を得ようとして、 太子髠頑侯ドウを楚に人質として差し出した。 そこで公子成は公子とともに鄭を守備した。
B.C.558公子成は左司馬に任じられた。
政(セイ)
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清尹弗忌(セイインフツキ)【文官】
楚の臣。巫臣の一族。
子重子反子閻子蕩や清尹弗忌らを殺し、さらに黒要まで殺し、それらの人々の家財を分け合った。
清尹弗忌の家財は子反が取った。
靖淵(セイエン)【王】
邢侯(初代)。名は靖淵。周公旦の四子。
靖淵は邢に封じられた。
斉悪(セイオ)【文官】
衛の臣。
B.C.541春、斉悪は鄭の虢の会盟に出席し趙武、公子向戌国弱叔孫豹公孫帰生、公子子皮、許の人、曹の人と会同した。
B.C.535、8月27日、衛襄公が没した。斉悪は衛襄公の喪を周に告げ、天子のご沙汰をお願いした。 そこで周景王は成簡公に命じて衛を弔問させた。
成王(周)(セイオウ)【皇帝】
周王朝2代王。武王の子。名は誦。母は呂尚の娘。〜B.C.1002。
B.C.1021武王が没したとき、誦は幼年であったため、叔父の周公旦が摂政をする。実際は、周公旦が王位についたと考えられている。
B.C.1014成周(洛邑)を築き、諸侯を各地に封じる(封建制度)。
管叔鮮蔡叔度と武庚(禄父)が反乱を起こすが、 それを鎮圧して代わりに微子開を立てる。
B.C.1009周公旦の摂政の後、政務を執る。成王は豊邑におり、召公に洛邑を営ませた。のち召公を保(補佐)とし、周公旦を師とする。
商の残存勢力を討伐し、熊盈の族17国を討った。
淮夷を討ち、奄国を滅ぼす。
虎方を討伐する。
南国を討伐し、漢水まで進軍する。
成王(楚)(セイオウ)【王】
楚王(4(20)代目)。名は熊惲、熊頵ともいう。文王の子。母は息嬀。〜B.C.626。
B.C.675兄の荘敖に殺されそうになったので、熊惲は随に出奔した。
B.C.671熊惲は随の軍とともにやって来て、荘敖を殺して代わって立った。
成王は徳をしき、恵みを施し、諸侯と旧交を結び、人をつかわして天子に朝貢した。
天子は胙を賜うて「なんじの南方を鎮め、越の乱を平らげて、中国を侵すな」と言った。こうして楚の土地は方千里に及んだ。
また成王は使者を魯に遣わした。
B.C.670鄭文公が晋についたとみせかけて、楚と和平を結んだ。
B.C.666秋、子元が兵車600乗を率いて鄭を討ち、桔シツの門に攻め入ったが、斉と宋の援軍が来たため退却した。
B.C.662成王は鄭を討った。
B.C.659、7月、鄭が楚に背いて斉についたため、成王は鄭を討った。
B.C.658冬、成王は鄭を討った。
B.C.657冬、成王は鄭を討った。
B.C.656春、斉桓公は魯・宋・陳・衛・鄭・許・曹と会合して蔡を討ち、勢いに乗じて楚に攻め入って汝水を渡り、 方城の塞を越え、汶山を望祭するまで進軍した。楚の使者が問うた。
使者「君は北海におり、わたしは南海におり、遠く隔たっているのに、どうしてわが領土に攻め入るのですか」
管仲「その昔、 召康公(召公奭)がわが先君の太公(太公望)に四方を征伐して周室を護るよう命ぜられました。 汝、楚の献納すべき苞茅が入らないので、天子の祭りに事欠いている。わが君はそれをお求めである。
また昔、周昭王が南に巡狩せられたまま帰られなかったが、わが君はその理由を問うているのである」
使者「貢ぎ物を入れないのは事実で、これは私の罪である。今後は上供することとしよう。しかし昭王が還られなかったのは、私の知らぬこと、岸の柳にお問いなされ」
そこで桓公は進撃して楚の陘に布陣した。
成王は屈完を使者として和平の意を伝えた。 そこで諸侯の軍は退却して召陵に止まった。桓公は諸侯の軍勢を並べ、屈完と同じ車に乗って閲兵して言った。
桓公「楚も諸侯と同様にわたくしと友好を結ばれてはいかがですか」
屈完「わが君を諸侯の中にお加えくださるならば、それこそわが君の願うところです」
桓公「この大軍を持つなら、いかなる者も敵対せず、いかなる堅固な城でも攻め落とせないものはないであろう」
屈完「君が徳をもって諸侯を治められれば誰でも服従するでしょうが、武力を用いるなら、わが楚は方城山を城とし、漢水を池として戦いましょう」
かくて楚と諸侯は和平の盟いを結んだ。そのため南方の諸国は朝貢して服従しないものはなかった。
B.C.655子文が弦を攻め滅ぼした。弦の君は黄に出奔した。
B.C.654斉桓公が諸侯と共に鄭を討った。
秋、成王は許を包囲して鄭を助けようとしたが、諸侯が許を救ったので、楚軍は引き揚げた。
冬、蔡繆侯が許僖公をつれて楚の武城にやって来た。 僖公は両手を前で縛り、璧を口に加えて使者の様を示し、大夫は喪服をつけ、士は棺桶を背負っていた。成王は逢伯に対処を相談すると、 逢伯は「昔、微子啓がこのようにして周武王にまみえました。武王はみずから縄を解き、 手厚く扱って国へ戻らせました」と答えたので、成王はこれに従い、僖公を許した。
B.C.649冬、黄が斉をたのんで楚に貢物を送らなかったので、成王は黄を討った。
B.C.648夏、成王は黄を滅ぼす。
B.C.647英を滅ぼす。
B.C.645春、徐が中原の諸侯についたので、成王は徐を討った。
3月、諸侯は会盟して徐を救うために兵を発した。
7月、斉と曹が楚の与国である厲を討った。
冬、成王は徐を婁林で破った。
B.C.642鄭文公がはじめて楚に朝聘した。成王はこれをめでて銅を与えた。 成王は文公と盟いを立てて、その銅で武器を作らないように言った。そこで鄭文公は3つの鐘をつくった。
B.C.641冬、陳穆公は宋襄公の暴虐ぶりを見て、 蔡・楚・鄭と共に斉桓公の徳を忘れないようにするため、斉で会合した。
B.C.640随が漢水以東の諸侯をたのみにして楚に背いた。
冬、成王は子文に命じて隋を討ち、これと和睦した。
B.C.639春、宋は斉と楚と鹿上で会盟して、宋が諸侯の盟主となることを楚に求めた。成王は怒って「弱小の宋がわしを招くとは無礼だ。 わしは友好をよそおうて行き、彼を撃って辱めてくれよう」と言い、これを許した。
秋、宋襄公は楚・陳穆公・蔡荘侯・許の君・曹共公と宋の盂で会合した。 楚はこのとき宋襄公を捕らえて、宋を討った。
12月、楚は宋と薄(毫)で会合し、宋襄公を許して釈放した。
成王は子西を魯に遣わして、捷(戦利品)を献じた。
B.C.638、3月、鄭文公が楚に参朝した。そのため宋が鄭を攻めた。
そこで成王は北上して宋を討ち、泓水でこれを破り、弓を射て襄公を傷つけた。
11月8日、鄭文公の夫人が柯沢で成王をもてなした。
11月9日、成王が鄭の都に入った。鄭文公は上公をもてなす九献の礼を用い、庭には100種類の贈物をならべ、ご馳走は籩、 豆それぞれ6品を増してもてなした。成王は退出するとき、鄭の公女2人を連れて帰った。鄭の叔詹は 「楚王は天寿を全うすることはできないであろう。男女の別を乱しては礼とはいえない」と言った。このことから、諸侯は成王が覇業を成就することができないと悟った。
B.C.637秋、陳が宋と通じて楚に背こうとしたので、成王は子玉に命じてこれを討った。 子玉は勢いに乗じて陳の焦と夷を攻め取り、頓に城壁を築いて引き揚げた。 子玉はこの功により、子文に代って令尹となった。
晋の公子重耳が楚に来ると、成王は周の礼によって重耳を饗応し、9度献杯し、庭に並べた贈物は100品もあった。
成王「もしあなたが国に帰って後を継ぐことになったら何をしてくれますか?」
重耳「大王はあらゆる物をお持ちで、何をお礼にすることができましょうか」
成王「それでも、たってお聞きしたい」
重耳「もしも晋に帰ることができ、晋楚両国が中原の地で出会いましたら、三舎(1日行軍距離)軍を引かせましょう。それでもお許しの命令がなければ、 大王と一戦致しましょう」
子玉がこの受け答えを聞いて言った。
「無礼なので殺しましょう。晋に帰れば、楚をおどすことになりましょう」
成王「いかん。公子は礼を守り、3人の賢才が教導しているのは、天が幸いするものだ。天がまさに(晋を)興そうとしているのだ。 誰がそれをとどめることが出来ようか。天に従わなければ必ず大きな咎めをうけるだろう」
子玉「それなら狐偃を人質にされますように」
成王「ならぬ。それでは礼に背くことになる」と言ってこれを退けた。
恵公が没し、懐公が即位すると、成王は重耳を晋に帰国させるため、 手厚い贈物をして重耳を秦に送った。
B.C.636宋成公が楚に来て、和睦した。
B.C.635秦と晋が鄀を討ってこれを降し、闘克屈禦寇を捕虜にした。 子玉を派遣して秦軍を追撃させたが追いつけなかった。そこで子玉はそのまますぐに陳を包囲し、出奔していた頓の君を頓に帰らせた。
B.C.634斉が魯を攻めたので、魯の臧文仲襄仲が来て、 兵を借り斉を討つことを請うた。そこで成王は申公叔侯に命じ兵を率いて斉を討たせた。
秋、夔の君が先祖の祝融鬻熊を祭らなかったので、 楚はこれを責めた。すると夔の君は「わが祖先の熊摯は病気にかかって位を継ぐことができず、 先祖にお祈りしたがよくならず、そのため楚を継げなかった。どうして祭る必要がありましょう」と言った。 そこで成王は令尹子玉と司馬子西に命じて夔を滅ぼし、夔の君を連れて帰った。
冬、宋が楚に背いて晋についたため、成王は子玉と子西に命じて宋を討たせ、緡を包囲した。
楚軍は魯軍とともに斉の穀を攻め取り、斉桓公の子をここに置いた。 斉の易牙がこれを君に奉じて斉を攻める足がかりとしたので、楚も叔侯にここを守備させた。
(易牙はすでにB.C.643に死んでいるので、『春秋左氏伝』と『史記』の整合性が取れていない。別人の易牙か)
斉桓公の子7人がみな楚に出奔したので、成王は彼らすべて上大夫とした。
B.C.633成王は陳・蔡・鄭・許とともに宋を攻め囲んだ。宋は晋に救援を請い、晋は兵を出した。
晋軍は斉の穀城を守備していた叔侯の軍を追い払った。
B.C.632晋文公が諸侯を率いて宋を助けたので、成王は戦いをやめて帰ろうとした。子玉が戦わんことを請うたが、成王は「重耳は亡命して国外にいたが、 ついに国に帰ることができた。天の運には逆らうことができない」と言い許さなかった。しかし子玉が伯棼を使者として 「しいて手柄を立てようとするわけではありませんが、 わたしの悪口を言った人の口をふさいでやりたいのです」と言ったので、成王は怒って、少数の兵を子玉に与えて自身は帰国した。
結局、子玉は破れた。
子西は首をつって死のうとしたが縄が切れて助かり、成王の遣わした使者がすぐに止めさせた。そこで成王は子西を商という町の長に左遷した。
成王は使者を出して子玉に「申や息の老人たちに対してどうする考えか」と言った。子西と成大心が 「得臣(子玉)は自殺しようとしたが、わたくしどもが止めて、大王の処刑を待つように言いました」と命乞いをした。子玉は楚の連穀までやって来たが、 成王が許さなかったので、自殺した。
その後、子西は漢水を渡り江水をさかのぼって郢に攻め入ろうとした。成王は渚宮に来ていたためこれを見ることができた。子西は恐れて言い訳をして 「私を中傷する者があり、わたしが亡命すると言っております。そんな汚名を受けるよりは、むしろ司敗のさばきを受けて処刑されようと思い参りました」と言った。 そこで成王は子西を百工を司る工尹に任命した。
B.C.629鄭の公子が、楚に出奔してきた。
B.C.628春、成王は闘章に命じて晋に和睦を願い出た。晋は陽処父を遣わして、 楚と晋は友好した。
B.C.627成王は子上が陳と蔡を討ち、さらに鄭を討って公子瑕を鄭に入れようとしたが、公子瑕は鄭に捕えられた。
秦が捕えていた闘克を楚に還してきて友好を求めた。そこで成王は秦と友好を結んだ。
12月、晋の陽処父が蔡に攻め入ったので、成王は子上に蔡を助けさせた。公子商臣は子上に恨みを持っていたので、子上をそしって 「晋から贈物を受けて退却するとは楚の恥である」と成王に言ったため、成王は子上を殺した。
B.C.626成王は子の職を立てて、太子商臣を退けようとした。
冬10月、商臣が宮中警護の兵を率いて、成王を囲んだ。
成王は熊掌を食べて死にたいと請うたが、それも聞き入れられなかった。
10月20日、成王は首をくくって死んだ。
霊という諡をつけると、成王は目を閉じなかったので、成と諡すると目を閉じたという。
声王(セイオウ)【王】
楚王(15(31)代目)。名は当。簡王の子。〜B.C.402。
B.C.402盗賊に殺される。
西王母(セイオウボ)【女官】
崑崙山に住むとされる仙女。神話や演義・小説によく出現する。
初期の神話では、西王母は、虎の牙と黒豹の尾をもち、髪は伸び放題であり、九尾狐などの獣に守られ、3羽の青い鳥が西王母に食物を運ぶというもので、 人間界に病気や災害をもたらし、野蛮で無慈悲な神とされる。
後の神話では、人類に不死を与える女神、世界の疫病と処罰を司り、また西山の楽園を統括するとされる。
古代の弓の名人羿に不老不死の薬を与える。
また周穆王に引見し、詩や唄を交換し、人間の統治者に礼儀を尽くす教養のある君主として描かれている。
成嘉(セイカ)【宰相】
楚の宰相。令尹。成大心の弟。子孔ともいう。
B.C.615春、成大心が没したので、成嘉は代わって令尹となった。
夏、舒庸・舒鳩などの諸国が楚に背いたので、成嘉は舒の君と宗の君を捕え、引き続いて巣を攻め囲んだ。
B.C.613成嘉は太師潘崇と舒蓼などの小国を討つため、 公子闘克に留守を命じた。しかし公子燮は闘克と謀って、 潘崇と成嘉に罪を得させて、その家財を横領した。さらに闘克と公子燮は郢に城壁を築き、刺客を使って成嘉を殺そうとしたが、成功しなかった。
(『史記』では、闘克と公子燮が成嘉に命令して舒を討伐させたことになっている。)
成何(セイカ)【武官】
晋の臣。
B.C.502衛は晋と衛のセン沢で盟いを結ぶことになった。趙鞅が「だれか、われこそ衛君と盟おうと思う者はないか」と言うと、 渉佗と成何が「われわれが盟ってみせましょう」と答えた。いよいよ会盟での血をすすろうとすると 渉佗は衛霊公の手を血を盛った盤の方へ強く推しつけたため、盤の血が霊公の腕にまではねかえった。この無礼に衛霊公は立腹し、衛は晋に背いた。
B.C.500晋人は衛が背いたわけを調べた結果、渉佗と成何に原因があるということになった。 そこで晋人は渉佗を捕らえてこれを殺したため、成何は燕に逃げた。
靖郭君(セイカククン)
田嬰
斉帰(セイキ)【女官】
襄公の妾。魯昭公の母。胡の公女。敬帰の妹。〜B.C.531。
B.C.542魯襄公が没して敬帰の生んだ子野が立ったが、その年に没したため、斉帰が生んだ公子稠(昭公)が即位した。
B.C.531、5月5日、斉帰は没した。
盛姫(セイキ)【女官】
穆王の夫人。
盛姫は若くして亡くなったので、穆王はその悲痛を表すため、その一族の氏を痛氏と改めさせた。
成季(セイキ)
季友
声己(セイキ)【女官】
公孫敖の夫人。公孫難の母。戴己の妹。
莒の人。
声己は公孫難を生んだ。
西乞秫(セイキツジュツ)【武官】
秦の臣。蹇叔の子。西乞術とも書く。
B.C.628冬、鄭を討つために孟明視とともに出兵する。
B.C.627春、軍が滑に着くと、鄭の商人弦高が牛12頭を献上した。そのため鄭を攻めず晋の辺邑の滑を滅ぼした。
襄公は怒って兵をおこし、殽で大いに秦を破り、秦軍は一人残らず全滅して、西乞秫は捕えられた。
晋文公夫人のとりなしで西乞秫ら三将は帰国した。繆公は白い服(喪服)を着て郊外に出迎えて三人に泣いて 「わしは百里奚と蹇叔の忠言を聴かなかったので、三子を辱めた。三子に何の罪があろうか。 おまえたちは、この後専心恥をすすぐよう努めてくれ」と言い、もとのままの官秩として、いよいよ厚遇された。
B.C.626繆公の命で晋を討ち彭衙で戦ったが、利なく帰った。
B.C.624さらに繆公に厚遇され、兵をひきいて晋を討った。大いに晋軍を破って王官、鄗を取り、殽の戦いの敗北に報いた。
B.C.615西乞秫は秦康公に命じられて魯に赴き、晋を討つことを伝えた。 魯の襄仲が進物の玉を三度辞退したので、 西乞秫は「わが君には周公(旦)と魯公(伯禽)のおかげをもって貴国と友好を結ぶことを願っております」 と言った。そこで襄仲は西乞秫に手厚く贈物をした。
斉姜(晋)(セイキョウ)【女官】
武公の妾。晋献公の夫人。
献公は賈国から夫人を迎えたが、子がなかった。そこで武公の妾であった斉姜と通じて、 太子申生と秦繆公夫人を生んだ。
斉姜(晋)(セイキョウ)【女官】
文公の夫人。斉の公女。
B.C.644重耳(文公)が斉に亡命してくると、斉姜はこれに嫁いだ。
B.C.643重耳は斉姜を愛し、斉を去る気がなかった。重耳は「人生は安楽が一番だ。それ以外のことなど、誰が知ろう。 わしは何としてもここで死ぬのだ。去る気は毛頭ない」と言った。
12月、斉桓公が没し、孝公が即位すると、諸侯は斉に背いた。
狐偃は、斉を動かして帰国を支援してもらうことが不可能だと知ると、群臣たちと相談し出国すべきだと話し合った。
この話を養蚕の女が聞いて、斉姜に知らせた。斉姜はこの女を殺して重耳に「あなたの従者があなたを出国させる計画を立てていますが、これを聞いた者を殺しました。 あなたは天命を疑ってはなりません。晋君になられるのはあなたをおいて誰がありますか」と言ったが、重耳は聞かなかった。
さらに斉姜は「斉の政治は失敗し、晋の無道は久しく、従者の計画は忠義であり、時期は到来し、公子の帰国は間近です。晋に君臨して百姓を救済できるのに、 それもしないなら人間の資格はありません。是非とも急いでお立ちください」と言ったが、またも重耳は聞かなかった。
そこで斉姜は趙衰と狐偃と謀って、重耳を酒に酔わせて無理やり車に乗せて出発させた。
斉姜(邾)(セイキョウ)【女官】
文公の夫人。
斉姜は貜且(定公)を生んだ。
声姜(セイキョウ)【女官】
釐公の夫人。魯文公の母。〜B.C.611。
B.C.643夏、魯が項を滅ぼした。斉桓公はこれをとがめて魯釐公を捕えた。
秋、声姜は魯釐公を釈放してもらうため、斉桓公と魯の卞で会合した。
9月、桓公は魯釐公を魯に帰した。
B.C.626子の文公が即位した。
B.C.611、8月9日、声姜は没した。
芮姜(ゼイキョウ)【女官】
芮伯の母。
B.C.709芮伯万がよからぬ臣を多く寵愛していたので、芮姜は万を追放した。
成覵(セイケン)【武官】
斉の臣。
成覵は勇士であり、景公が他の勇士を褒めたので、成覵は「他の勇士も一個の男子なら、自分も一個の男子です。 どうして畏れることがありましょう」といった。
成虎(セイコ)【文官】
楚の臣。〜B.C.530。
B.C.530夏、楚霊王が讒言を信じて成虎を若敖氏の残党であるとして殺そうとした。 成虎はそれを知っていたが楚を離れることができなかったためそのまま殺された。
成公(斉)(セイコウ)【王】
斉公(11代目)。名は説。文公の子。〜B.C.794。
成公(魯)(セイコウ)【王】
魯公(21代目)。名は黒肱。宣公の子。母は穆姜。〜B.C.573。
B.C.591、10月28日、宣公が没した。
B.C.590、1月、公子黒肱は即位した。
2月、成公は宣公を葬った。
この年、氷がはらないという異常気象であった。
3月、斉からの攻撃に備えて成公は丘甲を作り、城外田野の民に対して軍役負担をさせた。(兵甲の制)
夏、魯は斉が楚の軍を出陣させて魯を攻めようとするのを聞いて、晋と赤棘で同盟を結んで、斉・楚の攻撃に備えた。
冬、臧宣叔は民に税を賦課し、武器をつくろい城郭をかためて防備を十分にさせて斉・楚に備えた。
B.C.589春、魯は斉に攻められ、龍を攻略されて単丘まで侵攻された。
臧宣叔は晋に出かけて援軍を求めた。そこで晋景公は700乗の援軍を出すことを許した。
臧宣叔は晋の軍を迎えに出かけて道案内役をつとめ、季孫行父は軍を率いて晋軍に合流した。
晋・魯・衛の連合軍は斉軍を追撃して衛のコウに追いやった。
6月18日、連合軍は斉軍を鞍で大破した。
成公は禽鄭に付き添われて晋軍と会合した。
9月、晋は斉と和睦し、斉は侵略した汶陽の地を魯に返還した。そこで成公は晋軍と上鄍で会合し、晋の郤克士燮欒書に先路(卿の正車)と三命の服(衣服や旌旗)を与え、 司馬・司空・輿帥・侯正・亜旅にも一命の服を与えてその労をねぎらった。
冬、楚が衛を討ち、勢いに乗じて蜀に出陣していた魯軍を攻撃してきた。成公は臧宣叔を楚軍に遣わして退却させようとしたが、臧宣叔は辞退して 「楚軍は長期の遠征ですから、そのうち退却するでしょう。何の手柄も立てないで退却させたという名声を受けたくはありません」と言った。そうしているうちに、 楚軍は陽橋まで進撃してきた。そこで孟献子が楚軍に赴き、贈り物をして楚と交流したいと願い出て、 大工・女工・機織女・それぞれ100人を贈り、公子を人質として和睦を申し出た。楚はこれを承諾した。
11月、成公は衛の孫良夫・楚の公子子重・蔡景侯・ 許霊公・ 秦の右大夫・宋の華元・陳の公孫寧・ 鄭の公子子良・斉の大夫らと蜀で和睦の盟いを結んだ。諸侯は一方で晋を恐れていながら、こっそりと楚と盟っていた。
楚が軍を引き返して宋に着いたとき、公子衡は逃げて魯に帰ってきた。
B.C.588春、成公は晋景公・宋共公・衛定公・ 曹宣公とともに鄭を討ったが、鄭の伏兵にあって打ち破られた。
2月13日、宣公の廟に火災があった。
夏、成公は晋に赴いて、汶陽の田を返してもらったお礼を述べた。
秋、棘の人々が魯に服従しなかったので、叔孫喬如が棘を攻め囲んだ。
11月、晋景公は荀庚を魯に聘問させ、以前に結んだ盟いを存続させるようにした。
衛も孫良夫を使者として魯に聘問してきた。成公はこの使者の扱いについて臧宣叔に尋ねた。
成公「中行伯(荀庚)は晋で3番目の下卿であり、孫子(孫良夫)は衛では上卿である。どちらを先に扱ったらよいか」
臧宣叔「衛は大国の晋に対してとてもその次国ということはできません。衛を下国とすれば、下国の上卿は大国の下卿に相当します。 しかし晋は盟主ですから晋を先にしたらよいでしょう」
11月29日、成公は荀庚と盟った。
11月30日、成公は孫良夫と盟った。
B.C.587春、宋の華元が来聘し、宋共公の即位の挨拶をした。
桓公が来朝し、叔姫と離婚して、叔姫を魯に帰す言い訳をした。
夏、成公は晋に出かけて晋景公と会見したが、景公は無礼であった。
秋、成公は晋から帰ると楚と友好を結んで晋に背こうとした。しかし季孫行父が「それはいけません。晋は無道といっても大国であり、 臣下は和合し、わが魯とは近く、諸侯はその命令に服従しております。楚は大国といっても、わが魯と同じ血筋ではありません。どうしてわれわれをいつくしみましょうか」 と諌めたので、成公は思いとどまった。
冬、鄆に城壁を築いた。
B.C.586春、叔姫が杞桓公に離縁されて帰国した。
秋、洪水があった。
12月24日、成公は晋景公・斉頃公・宋共公・衛定公・鄭悼公・ 曹宣公・邾の君・杞桓公と晋の虫牢で会盟した。
B.C.585、2月17日、季孫行父が鞍の武功を伝えるために武宮を建てたが、礼にかなっていないとそしられた。
成公はセンを攻め取った。
6月、邾の君が来朝した。
公孫嬰を晋に遣わすと、晋は宋を討つよう命じた。
秋、孟献子と叔孫喬如が宋を討った。
冬、季孫行父を晋に遣わし、晋が都を移したお祝いを述べた。
B.C.584、5月、曹宣公が魯に来朝した。
成公は郊祭を行わず、三望を行った。
秋、成公は晋景公・斉頃公・衛定公・曹宣公・莒の君・邾定公・杞桓公と会合して、楚に攻められた鄭を救う相談をした。 しかし鄭は単独で楚軍を破った。
8月13日、成公は衛の馬陵で諸侯と同盟し、虫牢の盟いを確認し、莒が晋に服従したことを確認した。
B.C.583春、晋景公が韓穿を魯に遣わしてきて、汶陽の地を斉から魯に還した。
宋の華元が魯に来聘し、共姫を宋共公の夫人として迎えた。
夏、宋の公孫寿が魯に来聘し、結納の品を納めた。
7月、周簡王は召桓公を遣わして、成公の即位を認める天子の辞令を送ってきた。
冬、士燮が魯に来聘し、郯が呉についたため、郯を討つ相談をした。 成公は士燮に物を贈って急いで戦をおこさないように依頼したが、士燮は「君の命に対しては二心を懐きません。朝聘の礼には物を贈るということはありません。 君が諸侯よりも出陣をおくらせるならば、わが君は君とのつきあいを断ることになりましょう」と言って断った。そこで魯は叔孫喬如に命じて軍を出させて、 晋・斉・邾とともに郯を討った。
衛の人が魯にやって来て、宋に嫁ぐ共姫の付き添いになった。
B.C.582春、成公は晋景公・斉頃公・宋共公・衛定公・鄭成公・曹宣公・莒渠丘公・ 杞桓公と衛の蒲で会合して、馬陵の盟いを忘れないようにした。
2月、共姫が宋に嫁いだ。
B.C.581、5月、成公は晋の太子州蒲・斉霊公・宋共公・衛定公・曹宣公と会合して鄭を討った。
6月7日、晋景公が没した。
秋、成公は晋に出かけて景公の喪を弔った。晋は無理に成公を引きとめて葬儀に参加させ、 楚に使いしている糴茷から魯が楚に内通しているか否かを判断する時間稼ぎをした。
冬、晋景公は葬られたが、成公は諸侯のうちただひとり参加した。魯の人はこれを恥じた。
B.C.580、3月、成公は盟いを結んで無実をあかしたいと晋に申し入れたので、やっと帰国を許された。
晋の郤犨が魯にやって来て、成公は晋と盟約した。
夏、成公は季孫行父を晋に行かせ、郤犨の聘問の返礼と晋で行う盟いに立ち会わせた。
秋、成公は叔孫喬如を晋に行かせ、友好関係を深めた。
B.C.578春、晋の郤錡が来聘して秦を討つための援軍を請うてきた。
3月、成公は叔孫喬如の勧めで周の都に出かけた。
成公は諸侯と共に周簡王に朝見した。このとき成公の介添役は孟献子であったが、 孟献子が謙譲の徳を備えていたため、周簡王から厚く贈り物を貰うことができた。
5月、成公は王季子・ 成粛公に従って晋厲公と会合して秦を討った。
5月5日、成公は諸侯と共に秦軍と秦の麻隧で戦い、これを大破した。諸侯の軍は勢いに乗って涇水を渡って侯麗まで攻め入って引き揚げた。
B.C.577叔孫喬如と私通した成公の母穆姜は、成公をそそのかして季孫氏と孟孫氏を放逐するよう進言した。
B.C.576、3月12日、成公は晋厲公・衛献公・鄭成公・曹成公・ 宋の世子成・斉の国佐・邾人と戚で会合し、曹成公の罪を正した。
11月、叔孫喬如が晋の士燮・斉の高無咎・宋の華元・衛の孫文子・鄭の公子鰌・邾人と鐘離で会合し、 初めて呉と国交をもち、呉王寿夢と会合した。
B.C.575、6月1日、日食があった。
鄢陵の戦いの翌日、成公は魯の壊隤を出発して晋軍を見舞おうとした。そのとき穆姜が成公を見送りながら季孫行父と孟献子を追放するよう請うたが、 成公は晋に加勢する大事な時であるとして断り「帰ってから仰せを承りましょう」と言った。穆姜は怒った。 そのとき公子と公子が通り過ぎたので、 穆姜はふたりを指さして「お前が聴き入れないのなら、あのふたりはどちらでも君になれるのですよ」と言った。 そのため成公は孟献子に命じて公宮の警備を厳しくさせてから出発したので、諸侯の会合に遅れてしまった。
秋、諸侯が宋の沙随に会合した。このとき叔孫喬如が晋の郤犨に「わが君が壊隤で待機して戦に遅れたのは、晋と楚のどちらが勝つかを見ていたからです」と讒言した。 郤犨は叔孫喬如から賄賂を受けたため晋厲公に報告したので、成公は晋厲公に面会することができなかった。
7月、成公は晋・斉・尹・邾と会合することになった。成公が出発しようとすると、穆姜が再び季・孟の二氏を追放せよと言ったので、 成公は留守の警備を厳しくしてから出発した。
連合軍は鄭に西に陣を敷き、魯軍は鄭の東の督揚に陣を敷いた。連合軍は鄭の制田に移動し、陳と蔡に攻め入った。
9月、成公は鄭の討伐から引き上げ、鄆で季孫行父の帰りを待ったが、季孫行父が晋に捕えられたことを聞いた。そこで公孫嬰を晋に遣わして、 季孫行父の身柄を渡すよう請うた。晋の士燮が欒書にとりなしたため、晋は魯と友好して季孫行父を帰した。
10月12日、成公は叔孫喬如を追放し、今後同じことを起こさぬよう大夫たちが誓い合った。叔孫喬如は斉に出奔した。
季孫行父は帰国すると、叔孫喬如の一味であった公子偃を殺し、叔孫豹を斉から呼び寄せて叔孫氏の家を継がせた。
B.C.574、6月26日、諸侯は鄭の柯陵で同盟し、戚の盟い(B.C.576)を温めた。成公は単襄公に会見して、 晋の災難と郤犨による悪口中傷の話をした。単襄公は晋に騒乱があり、厲公と三郤は禍と受けると予言した。
夏、成公は晋厲公・斉霊公・宋平公・単襄公・曹成公・衛献公・尹武公・ 邾人と会合して鄭を討ち、戯童から曲洧まで侵攻した。楚の子重が鄭を助けるため鄭の首止に陣どったので、 諸侯の軍は引き揚げた。
9月14日、正月に行うべき郊祭を行ったため、成公はそしられた。
冬、単襄公は晋・魯・斉・宋・衛・曹・邾とともに再び鄭を討った。
10月13日、諸侯は鄭を包囲した。楚の公子申が鄭を助けるため汝水に陣を敷いた。
11月、諸侯の兵は引き上げた。
この月、公孫嬰が貍シンで没した。
12月、日食があった。
B.C.573、1月、晋悼公が即位した。成公は晋に赴いて即位に対する挨拶をした。
夏、晋の范匃が魯に来て、返礼をした。
秋、杞桓公が魯に来て、晋の様子を尋ねた。成公が晋悼公の立派な政治ぶりを話したので、杞桓公は晋に縁組を願い出た。
8月、邾宣公が魯に来て、即位の挨拶をした。
成公は鹿囿を築いた。
8月7日、成公は路寝(正殿)で没した。
成公(燕)(セイコウ)【王】
燕公。〜B.C.422。
B.C.438即位する。
成公(曹)(セイコウ)【王】
曹公(18代目)。名は負芻。宣公の弟。〜B.C.554。
B.C.578曹宣公が秦討伐の陣中で没した。曹人は公子負芻に都を守らせて、公子欣時に宣公のなきがらを迎えさせた。
秋、公子負芻は太子を殺して自立した。
冬、公子欣時は国外に亡命しようとし、国人にもついて行こうとする者もあった。成公は事態を心配して、公子欣時に自分の罪をわび、国に留まって欲しいと願った。 そのため公子欣時は国に留まった。
B.C.576、3月12日、成公は晋厲公・衛献公・鄭成公・ 魯成公・ 宋の世子成・斉の国佐・邾人と戚で会合し、 成公は太子殺害の罪を正された。そして成公は晋厲公に捕えられて周の都に送られた。
B.C.575晋厲公が宋に亡命している公子欣時に「国に帰りなさい。君が帰ればわたしもお前の君をお帰しする」と言い、 公子欣時は曹に帰り、曹成公も帰国した。
B.C.574夏、成公は晋厲公・魯成公・斉霊公・衛献公・宋平公・ 尹武公・単襄公・邾人と会合して鄭を討ち、戯童から曲洧まで侵攻した。
6月26日、諸侯は鄭の柯陵で同盟し、戚の盟い(B.C.576)を温めた。
冬、成公は晋・魯・斉・衛・宋・単・邾とともに鄭を討った。
10月13日、諸侯は鄭を包囲した。楚軍が鄭を助けるため汝水に陣を敷いた。
11月、諸侯は軍を引き上げた。
B.C.572、1月、曹成公は諸侯とともに彭城を討ち、これを降した。
B.C.568、9月23日、成公は晋悼公・魯襄公・ 陳哀公・衛献公・鄭釐公・宋成公・ 莒の君・邾の君・滕の君・薛の君、斉の公子、呉の人、鄫の人と戚で盟約し、陳を守ることを誓った。
11月12日、楚が陳を討ったので、成公は晋・魯・衛・鄭・宋・莒・邾・滕・薛・斉と鄭の城棣で会合して陳を救った。
B.C.566冬、楚が陳を攻め囲んだ。成公は、晋・魯・衛・宋・莒・邾とともに鄭のイで会合して陳を助けた。
B.C.564、10月、諸侯は鄭を討った。 曹は衛、邾とともに晋の荀偃韓宣子の率いる上軍について鄭の師之梁門を攻めた。
B.C.563、4月1日、成公は晋悼公、宋平公、衛献公、魯襄公、莒の君、邾の君、滕の君、薛の君、杞孝公、小邾の君、 斉の公子光、呉王寿夢と楚の柤で会合した。
夏、諸侯は偪陽を討った。
5月8日、諸侯は偪陽を滅ぼした。
成公は晋悼公、衛献公、魯襄公、莒の君、邾の君、斉の公子光、滕の君、薛の君、杞孝公、小邾の君とともに鄭を討った。
9月25日、諸侯の軍は鄭の牛首に進撃した。
冬、諸侯の軍は鄭の虎牢に城壁を築いてそこを守った。楚の子嚢が鄭の救援に来た。
11月、諸侯の軍は鄭を遠回りして南進し、鄭の陽陵に進んだが、楚軍は退かなかった。
11月16日、諸侯の軍は潁水をはさんで楚軍と対陣した。
11月24日、諸侯の軍は引き揚げたため、楚軍も引き揚げた。
B.C.562、4月、成公は晋悼公、宋平公、魯襄公、衛献公、莒の君、邾の君、滕の君、薛の君、杞孝公、小邾の君、 斉の公子光と会合して鄭を討った。
9月、成公は再び諸侯と共に会合して鄭を討った。
B.C.559春、呉が楚と戦って大敗したことを晋に告げてきた。成公は晋・魯・宋・衛・斉・鄭・莒・邾・薛・杞・小邾と向で会合した。
夏、曹は晋・魯・宋・衛・斉・鄭・莒・邾・滕・薛・杞・小邾とともに秦を討った。
冬、成公は晋・魯・宋・鄭・莒・邾と戚で会合させ、衛の公子の即位を認めた。
B.C.557、3月、成公は晋平公・魯・宋・鄭・衛・莒・邾・薛・杞・小邾と会合し、諸侯は侵略した土地を帰した。
B.C.556夏、衛の孫蒯石買が曹に攻め入ってきて重丘を占領した。
B.C.554、1月、成公は斉の督揚で諸侯と盟いを結んだ。
春、没した。
成公(陳)(セイコウ)【王】
陳公(20代目)。名は午。霊公の子。〜B.C.569。
B.C.598冬、霊公が夏徴舒に殺されると、公子午は晋に出奔した。 楚荘王は兵を出し、夏徴舒を誅し、陳を併呑したがのち公子午を迎えて再び陳を復興させた。
B.C.597冬、晋・宋・衛・曹が盟約した。宋はこの盟いを守って楚に二心を持った陳を討ったが、衛は陳との盟約を理由にして、陳を助けた。
B.C.589、11月、公孫寧が衛・魯・楚・蔡・許・宋・秦・斉と蜀で和睦の盟いを結んだ。 諸侯は一方で晋を恐れていながら、こっそりと楚と盟っていた。
B.C.582秋、楚恭王に攻められた。
B.C.570楚の子辛が小国を侵略しようとしたので、成公は袁僑を遣わして鶏沢の会に参加させて、 晋に和睦を申し込んだ。
そのため楚の司馬何忌に攻められた。
B.C.569、3月、没した。
成公(衛)(セイコウ)【王】
衛公(10(20)代目)。名は鄭。文公の子。〜B.C.600。
B.C.635、4月、文公が没し、即位する。
12月、成公は魯と莒の仲介をして仲直りさせ、洮で盟約をさせた。
B.C.634、1月、魯釐公は莒君玆丕公と衛の甯遠と会合して、魯の向で盟い、 前年の洮の盟いをあたためた。そのため斉が魯を討った。
夏、再び斉が魯を討ったので、成公は洮の盟いを履行するため、斉を討った。
B.C.632春、晋軍が衛に道を借りようとしたが成公は許さなかった。また晋は宋を救うため衛から軍を徴発しようとしたが、これも許さなかった。
1月11日、晋軍が衛の五鹿を取った。
2月、晋文公は斉昭公と衛の斂盂で会盟した。成公はこの盟いに参加したいと申し出たが、 晋文公は許さなかった。そこで成公は楚に取り入ろうとしたが、衛の臣元咺はそれを望まず成公を都から追放して晋に弁解した。 成公は都を出て襄牛に出奔した。
5月、成公は楚軍が晋軍に敗れたことを聞いて、楚に出奔し、陳に赴いた。成公は一方で元咺に命じて、 弟の叔武の共をさせて晋との盟いを受けさせた。
ある人が讒言して「元咺は叔武を擁立した」と言ったので、成公は元咺の子元角を殺した。
6月、成公は晋と和睦して帰国した。成公に従っていた甯兪は衛の人と宛濮で盟って「国に残って守る者がなかったら、 だれが衛を守っただろうか。君について国外に行く者がなかったら、だれが君の世話をしただろうか。今後、国外に行った者はその苦労を誇ることなく、 留守をした者は罪にかかるのではないかと心配することはない。和合して衛の国を守ろうではないか」と言った。 そのため衛の人は成公を君とすることに惑わなくなった。
そうして成公は衛の都に入ることになったが、約束の時間よりも早く入った。叔武は髪を洗っていたが、成公が到着したと聞いて喜びのあまり、 髪を手でつかんで走り出たところ、前駆の兵が叔武を殺してしまった。成公は叔武に悪心がなかったことを悟り、屍を自分の股に枕させて泣き悲しんだ。 これを見て公子セン犬が逃げ出したが、成公はこれを殺した。
元咺はこれを訴えるため晋に出奔した。
冬、成公は叔武を殺したことについて元咺と言い争いをして晋に裁きを求めた。成公が敗訴となったので、 晋文公は成公の弁護人の士栄を殺し、代理人の鍼荘子を足切りの刑に処したが、 補佐役の甯兪は忠義者であるとして許した。かくて成公は囚室にとじこめられ、元咺は公子を立てて君とした。
B.C.630夏、晋は成公を周に送り、医者に命じて鴆毒で毒殺しようとしたが、成公は鴆毒をつかさどる者に賄賂を贈って毒を薄めさせ、 死を免れた。
さらに文公は天子の命でこれを殺そうとしたが、周襄王は許すように勧めた。
秋、魯釐公の釈放運動によって許されて、成公は復位することができた。
成公は周歂冶廑に賄賂を贈って「わたしを衛に入れてくれたら、 あなた方を卿にしよう」と言った。 そこで周歂と冶廑は元咺と公子瑕と子儀を殺した。成公は衛に入って、先君の祭りをおこなった。
成公は釈放は魯の臧孫辰の計らいであると聞いて、贈物をしたが、臧孫辰は「外臣はみだりに外国と関係を持ってはなりません。 君侯をわずらわすことは辞退いたします」と言って辞退した。
B.C.629冬、衛は狄に攻められたため、成公は難を避けて帝丘に移った。
B.C.628夏、狄で騒動がおこったので、成公はそれにつけこんで狄を攻めた。狄は衛に和を請うた。
秋、衛は狄と和睦の盟いを結んだ。
B.C.626、5月、晋に攻められ、戚が囲まれた。
6月9日、戚は陥落し、孫昭子が捕えられた。
成公は陳に救いを求めると、陳共公は「もう一度晋に攻め入りなさい。そうすればわたしが和解の口をきいてあげましょう」と言った。 そこで成公は孔達に命じて晋を討った。
B.C.625陳共公は、晋を攻めた孔達を捕えて、晋に衛と和睦するよう願い出た。
B.C.624春、沈が楚に服従したので、成公は晋・魯・宋・陳・鄭と会合して沈を討ち、沈は潰滅した。
衛成公は陳に赴いて、晋と和睦できたお礼を述べた。
B.C.623春、孔達が良臣であったため、晋襄公は孔達を許して衛に帰らせた。
成公は晋に参朝した。
秋、甯兪が魯を訪問した。
B.C.620、8月、成公は晋の趙盾、魯・斉・宋・陳・鄭・許・曹と鄭の扈で会盟した。
B.C.614冬、魯文公の晋を聘問した。成公はその途中で、文公と衛の沓で会合して晋と仲直りすることをお願いした。
魯文公が晋から帰る途中に成公は鄭の棐で会合し、再度晋と仲直りすることを話し合った。
B.C.613、6月28日、成公は魯文公・宋昭公・ 陳霊公・鄭繆公・許の君・曹文公・ 晋の趙盾と会合し、新城で会盟した。
B.C.612、11月、成公は晋霊公・宋昭公・蔡文侯・ 陳霊公・鄭繆公・許の君・曹文公・魯の季孫行父と扈で盟い、斉を討つ相談をした。 しかし斉が晋霊公に賄賂をつかったので、斉討伐はとりやめとなった。
B.C.610衛の孔達は晋の荀林父、陳の公孫寧、 鄭の石楚とともに宋を討ち、 宋昭公を弑したことを責めたが、結局宋文公の即位を認めた。
B.C.609斉が鄋瞞(長狄)の君栄如を討ち取った。 その際、成公は敗走して衛を通りかかった長狄簡如を討ち取った。かくて鄋瞞は滅亡した。
B.C.608夏、晋の胥甲が追放されて衛に出奔した。
秋、楚が陳に攻め入り、勢いに乗じて宋にまで攻め入った。晋の趙盾は陳・宋の二国を助けようとして、成公・宋文公・ 陳霊公・曹文公と鄭の棐林で会合して鄭を討った。
B.C.607夏、成公は晋の趙盾・宋文公・陳霊公とともに鄭に攻め入った。
B.C.602冬、成公は晋成公・魯宣公・宋文公・鄭襄公・ 曹文公と黒壌で会合した。
B.C.600、9月、成公は晋成公・宋文公・鄭襄公・曹文公と鄭の扈で会合し、晋に従わない諸侯を討つ相談をした。陳がこの会合に参加しなかったため、 諸侯は陳を討ったが、晋成公が没したため引き揚げた。
10月16日、成公は没した。
成公(宋)(セイコウ)【王】
宋公(20代目)。名は王臣。襄公の子。〜B.C.620。
B.C.637即位する。
B.C.636宋は楚と和睦し、成公は楚に赴いた。
成公はその帰途に鄭に入って、鄭と友好した。
B.C.634宋は楚との誓約にそむき、晋と親善した。
冬、楚の子玉子西に攻められ、緡を包囲される。
B.C.633楚・陳・蔡・許の連合軍に攻められたため、公孫固に命じて危急を晋に告げた。
B.C.632、3月、門尹班を使者として晋軍に派遣し、事態の急を告げた。
4月3日、成公は、晋文公、斉の将国帰父、崔天、 秦の将小子憗とともに城濮に陣取った。
4月4日、城濮の戦いで、楚軍を大破した。
5月28日、晋文公の号令で成公は、周の王子虎・魯釐公・ 斉孝公・蔡荘侯・鄭文公・衛・ 莒とともに践土の王宮で盟った。
冬、成公は晋文公・魯釐公・魯昭公・蔡荘侯・鄭文公・陳共公・莒の君・邾の君・秦人と温で会同し、 晋に服従しない衛と許を討つことを相談した。
10月15日、成公は諸侯と共に許を攻め囲んだ。
B.C.625冬、成公は公子に命じて、晋の先且居、 陳の轅選、鄭の子家とともに秦を討って汪を攻め取った。
B.C.624春、沈が楚に服従したので、成公は晋・魯・陳・衛・鄭と会合して沈を討ち、沈は潰滅した。
秋、いなごの群が雨のように降り落ちて死ぬ現象があった。
B.C.620、4月、没す。
成公(晋)(セイコウ)【王】
晋公(8(10)代目)。名は黒臀。襄公の弟。〜B.C.600。
公子黒臀が生まれたとき、生母が夢で神が公子黒臀の臀部に墨で「晋国に君臨させ、三代後に驩の子孫に与えよう」と書いたので、黒臀と命名された。
献公驪姫と諸大夫に約束して諸公子たちを養わないようにしたため、 公子黒臀は周に赴いた。
B.C.607、9月、公子黒臀は趙盾に周から迎えられて即位した。
10月5日、成公は先祖武公の廟にまみえて正式に君となった。
成公は卿の嫡長子を任官させて、これに土地を与えて公族とした。さらにその同母弟を任官させて余子とし、庶子たちを公行とした。晋にはこれより公族、余子、 公行という三族ができた。趙盾は身分を降って三行となった。
B.C.606春、鄭が晋に背いたため、成公は鄭を討って鄭の延まで攻め入った。そこで鄭は晋と和睦することになり、 士会が鄭に行って盟った。
B.C.605鄭が晋についたため、楚は鄭を討ち、晋はその救援に出かける。
B.C.604陳が楚についたため、荀林父が楚に攻められている鄭を助けて陳を攻撃した。
B.C.603春、趙盾と衛の孫免が陳を討った。
秋、赤狄が晋に攻めてきて、懐を包囲し、邢丘まで攻め入ってきた。そこで成公はこれを撃退しようとしたが、荀林父が「戦は民を苦しめます。しばらく待ちましょう」 と諌めたので、取りやめた。
B.C.602夏、赤狄が晋に攻めてきて、向陰の禾を刈り取った。
冬、成公は魯宣公・宋文公・衛成公・ 鄭襄公・曹文公と黒壌で会合した。 成公は、即位したときに魯宣公が朝することをせず、また大夫も遣わさなかったので、魯宣公を捕えた。
宣公は晋に物を贈って許された。
B.C.601春、成公は白狄と和睦した。
夏、成公は白狄とともに秦を討った。
このとき胥克が精神病にかかっており、郤欠が趙盾に代わって国政を執っていた。
秋、成公は胥克を辞めさせて趙朔を下軍の佐に任命した。
荘王と強盛を争い、諸侯と扈で会同した。陳が参加しなかったので、 荀林父に命じて陳を討たせ、鄭を救い、楚を討った。
成公は士会を使節として周を聘問させた。
B.C.600、9月、成公は宋文公・衛成公・鄭襄公・曹文公と鄭の扈で会合し、晋に従わない諸侯を討つ相談をした。 陳霊公がこの会合に参加しなかったため、荀林父に命じて諸侯の軍を率いて陳を討った。
この月に成公が没したため、連合軍は引き揚げた。
成公(鄭)(セイコウ)【王】
鄭公(13代目)。名は睔。悼公の弟。〜B.C.571。
B.C.587許の君が楚に鄭のことを悪く言った。悼公は公子睔に命じて楚に行って訴えさせたが、鄭の言い分が正しくなかったため、公子睔は楚に捕えられた。 公子睔は楚の子反と結託し、子反が楚恭王にとりなしたので公子睔は鄭に帰った。
B.C.585、6月10日、悼公が没し、公子睔は擁立された。
B.C.584成公は晋に出かけて即位の挨拶をし、また前年に晋が鄭を援けてくれたお礼を述べた。
秋、楚の子重に攻められ、鄭軍は氾で戦った。
諸侯は鄭を助けようとしたが、鄭の共仲侯羽は楚軍と単独で戦い、 楚の鄖公と鐘儀の二将を虜にして晋に献上した。
B.C.583春、晋が蔡と楚を討った。成公は晋軍に参加しようとして出かけ、その途中に許の東門に攻め入って、多くの兵士を捕虜にした。
B.C.582春、前年に汶陽の田を斉に返したことで諸侯が晋の信義を疑ったため、晋景公は成公や魯成公・ 斉頃公・衛定公・宋共公・ 曹宣公・莒渠丘公・杞桓公と衛の蒲で会合して、 馬陵の盟いを忘れないようにした。
恭王が「鄭の君はわしの恩を受けている」と言って使者をよこして財貨をたくさん出してきたので、 成公は楚の公子成と鄧で会合してひそかに楚と結んだ。
秋、成公は晋を訪れたが、晋景公は成公が楚についたことを責め、成公は銅鞮に幽閉された。 そして晋は欒書を派遣して鄭を討った。
B.C.581、3月、子如が成公の庶兄を擁立した。
5月、晋はこれを聞いて鄭を討って脩沢で盟った。
5月12日、成公は帰国した。
6月9日、成公は自分の代わりに君を立てた者を討ち、公孫申叔禽を殺した。
B.C.578、5月、成公は晋厲公・宋共公・斉霊公・曹宣公・衛定公・邾・ 滕と会合して秦を討った。
5月5日、成公は諸侯と共に秦軍と秦の麻隧で戦い、これを大破した。諸侯の軍は勢いに乗って涇水を渡って侯麗まで攻め入って引き揚げた。
6月15日夜、許に出奔していた子如が鄭の訾から祖廟に入ろうとしたが失敗した。 そこで子如は子印子羽を殺し、引き返して市街に陣を張った。
6月17日、子駟は国人を率いて祖廟で子如の討伐を盟い、子如の軍を追撃して市街に火をかけて全焼させ、 子如・子駹・孫叔・孫知を殺した。
B.C.577、8月、子罕が許を討ったが敗れた。
8月23日、成公はかさねて許を討った。
8月25日、成公は許の外城に攻め入った。許は土地の割譲を条件に鄭と和睦した。
B.C.576、3月12日、成公は晋厲公・魯成公・衛献公・曹成公・ 宋の世子成・斉の国佐・邾人と戚で会合し、曹成公の罪を正した。
6月、楚に攻められて暴隧まで侵攻された。
B.C.575春、楚の公子が遣いしてきて、汝水の南の地を与えるとして和睦を申し入れてきた。そこで成公は晋に背いて楚についた。 成公は子駟を楚に遣わせて、楚恭王と盟約した。
夏、子罕が宋を討ったが、宋の将鉏と楽懼に宋の汋陂で破られた。 しかし宋軍が警戒を怠ったため、鄭軍はこれを襲撃して宋の汋陂で討ち破り、将鉏と楽懼を捕らえた。
献公が鄭を討って、鳴鴈まで攻め込んできた。
4月13日、晋は鄭討伐の軍を発した。成公は使者を楚に遣わして報告した。
6月、鄭軍は楚軍とともに晋軍と鄢陵で戦った。戦いの最中、成公は晋の韓厥に追撃されたが、 韓厥が「国君に恥をかかせてはいけない」と言って追撃を止めたので、成公は助かった。
また成公は晋の郤至にも追撃されたが、 郤至も「国君に傷を負わせると刑罰を受ける」と言って追撃を止めた。
御者の石首は「昔、衛の懿公は軍旗をおろさなかったため、滎で破れた」と言って軍旗をしまった。
唐苟が石首に「あなたはわが君のそばにいてくれ。全くひどい負け戦だ。どうか君を連れて逃げてください。 わたしは踏みとどまりましょう」と言って、やがて討ち死にした。
この戦いで鄭軍と楚軍は大敗した。
7月、晋厲公、斉の国佐、尹武公、魯成公、邾人が会合して、鄭を討った。連合軍は鄭の西に陣をしき、 魯軍は鄭の東の督揚に陣をしいた。連合軍は鄭の制田に移動し、陳と蔡に攻め入り、潁水のほとりに移動した。
7月24日、子罕が夜襲をかけ、宋・斉・衛の陣地は乱れて潰滅した。
楚軍は晋軍と戦ったが、鄢陵で敗れた。
B.C.574、1月、子駟が晋の虚と滑に攻め入った。そのため衛の北宮括が晋を助けるため鄭に攻め入り、 鄭の高氏まで攻め込んできた。
5月、鄭成公は楚の援助を得るため、太子髠頑侯ドウを楚に人質として差し出した。 そこで楚は公子と公子を派遣して鄭を守備した。
夏、晋・魯・斉・宋・衛・曹・邾・尹・単が会合して鄭を討ち、戯童から曲洧まで侵攻してきた。
6月、楚の子重が鄭を助けるため鄭の首止に陣どったが、諸侯の軍は引き揚げた。
冬、晋・魯・斉・宋・衛・曹・邾・単に攻められた。
10月13日、諸侯は鄭を包囲した。楚の公子申が鄭を助けるため汝水に陣を敷いた。
11月、諸侯の兵が引き上げた。
B.C.573、6月、成公は宋を討って、宋の曹門まで押し寄せ、勢いに乗じて楚恭王と会合して宋を討って朝郟を攻め取った。 さらに皇辰は楚の子辛とともに宋の城郜に攻め入り、幽丘を攻略し、鄭・楚の全軍は彭城を攻撃して、 楚に出奔していた魚石向為人鱗朱向帯魚府を彭城に入れた。
B.C.572、5月、鄭は諸侯に攻められた。晋軍は鄭の外城に攻め入り、鄭の歩兵を洧水のほとりで打ち破った。
秋、楚の子辛は鄭を救うために宋を討ち、成公も子然に命じて宋に攻め入って犬丘を取った。
B.C.571春、成公は楚の命により宋を討った。
成公は病気になった。子駟が晋について楚の負担をのがれたいと申し出た。成公は「楚の君は鄭を助けるために目に矢傷を負われた。 こちらから楚に背くのは、盟約の言葉を棄てるようなものだ」と言って拒否した。
6月、晋・宋・衛に攻められた。
7月9日、成公は没した。
成公(秦)(セイコウ)【王】
秦公(8(13)代目)。宣公の弟。〜B.C.660。
B.C.663梁伯と芮伯が来朝する。
成公(滕)(セイコウ)【王】
滕公。名は原。〜B.C.539。
B.C.567秋、成公は魯を訪れて、はじめて魯襄公と会見した。
B.C.564成公は晋・魯・斉・宋・衛・曹・杞・郳(小邾)・薛・邾と鄭を討つが、鄭が降服したので、諸侯は戯で会合してこれを許した。
B.C.563成公は晋・魯・斉・宋・衛・曹・杞・莒・邾・薛・小邾・呉とサで会合した。
B.C.562成公は晋・魯・斉・宋・衛・曹・杞・莒・邾・薛・小邾と会合して鄭を討ったため、鄭は諸侯と和睦した。
B.C.555成公は晋・魯・宋・衛・鄭・曹・莒・薛・杞・小邾と済水のほとりで会合して斉を討ち、沂水まで達した。
B.C.553成公は晋・魯・斉・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と澶淵で盟約した。
B.C.549成公は晋・魯・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾、夷儀で会合して斉を討とうとしたが、大水のためできなかった。
B.C.548成公は晋・魯・宋・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾、衛の夷儀で会合して斉を討った。
B.C.546、6月22日、成公は諸侯と会合するため宋に到着した。宋が滕を属国にしたいと申し出たので、成公はそれを承諾して盟いには参加しなかった。
B.C.542、10月、成公は魯襄公の葬式に参列した。そのとき成公は不作法でただ涙だけを流していたため、魯の子服椒は 「滕の君はまもなく亡くなるであろう。死ぬ兆候が見える」と言った。
B.C.539、1月10日、成公は没した。
成公(単)(セイコウ)【王】
単公。周王朝の卿士。単献公の弟。〜B.C.531。
B.C.535、10月21日、単献公が親類を見捨てて他国から来た人を用いたため、 単襄公と単頃公の一族に殺され、成公が立てられた。
B.C.531秋、成公は周景王の命で厥憖の会合に参加し、晋の韓宣子と会見したが、成公のまなざしは低い所を見ており、 その言葉もゆっくりしていた。晋の叔向は「単子はやがて死ぬであろう。単子には身を守る気力が無い」と言った。
12月、成公は没した。
成公(唐)(セイコウ)【王】
唐公。
B.C.509成公は楚に出かけたが、二頭の白い毛なみの名馬があった。楚の令尹子常がこれをほしがったが成公が与えなかったため、 成公は3年も楚に留められた。唐人で成公の供と交代する者があり、その名馬を盗んで子常に献上したため、子常は成公を帰した。 馬を盗んだ者はみずから進んで獄官に捕らわれて「わが君は馬を愛されたためその身を他国に留められ、国をお捨てになられた」と言った。 成公はこれを聞いて「わたしのあやまちであった。お前たちは心配なさるな」と言って、家来たち一同を賞した。
成侯(蔡)(セイコウ)【王】
蔡侯(21(4)代目)。名は朔。昭侯の子。〜B.C.472。
B.C.491昭侯を弑した大夫らは罪を弁解し、朔を立てる。
成侯(衛)(セイコウ)【王】
衛公(1(37)代目)。名は遬。声公の子。〜B.C.343。
B.C.356爵号を下げ、侯と称す。
成侯(晋)(セイコウ)【王】
晋侯(3(4)代目)。名は服人。武侯の子。
成侯(趙)(セイコウ)【王】
趙公(4代目)。名は種。敬侯の子。〜B.C.353。
B.C.374公子が成侯と位を争って乱を起こした。
B.C.373、6月、大雪が降った。
B.C.372大成午を宰相とする。また衛を討って、郷邑73を取る。
魏に攻められ、藺で破られる。
B.C.371秦と高安で戦い、これを破る。
武侯が没し、太子罃と公子中緩がその位を争った。 斉威王とともに魏を討ち、濁沢でこれを破る。
成侯は「魏の君を除いて公中緩を立て、土地を割き取けば、われらの利益になろう」と言った。
しかし威王は「それはよろしくない。魏の君を殺せば、世間はかならず乱暴だと言うだろう。土地を割き取けば、世間はかならず貪欲だろ言うだろう。 むしろ魏を二分するにこしたことはない。魏が分かれて二つになれば、宋や衛以上に強くなく、われらとても魏の禍いから逃れることができる」と言って聴き入れず、 威王は少数の兵を引き連れて、夜のうちに去った。そのため魏は助かり、魏罃は即位した。(恵王)
B.C.370斉を鄄で討つ。また魏に攻められ、懐で破られる。
魏を討ち、涿沢で破り、魏恵王を包囲する。
B.C.369斉を討ち、長城まで行く。また韓とともに周を討ち、周を東西に分けて2つにする。
B.C.368斉と阿下で戦う。また衛を討ち、甄を取る。
B.C.367秦が魏を攻めたので、趙はこれを石門山で救うが、敗れる。
B.C.366秦が魏の少梁を攻めたので、趙はこれを援けるが、敗れる。
B.C.365魏に攻められ、澮で破られ、皮牢を失う。また韓昭侯と上党で会見する。
B.C.364韓とともに秦を討つ。
B.C.363魏を援けて斉を攻める。
B.C.362韓・魏とともに晋を分割し、あらためて晋君を端氏に封じる。
B.C.361魏恵王と葛孽で会見する。
B.C.359斉・宋と平陸で会同し、また燕と阿で会同する。
B.C.358魏が良質の椽材を献上したので、檀台をつくった。
B.C.357魏に攻められ、邯鄲を包囲される。
B.C.356魏恵王に邯鄲を落とされる。
B.C.354魏に邯鄲を還される。魏と漳水のほとりで会盟する。また秦に攻められ、藺で戦う。
成侯(セイコウ)
騶忌
声公(曹)(セイコウ)【王】
曹公(22代目)。名は野。悼公の弟。〜B.C.510。
B.C.515、10月、曹悼公が宋に参朝したが捕らえられ、そのまま没したため、公子野は代わって即位した。
B.C.514、3月、声公は曹悼公を葬った。
B.C.510公子通(隠公)に殺された。
声公(衛)(セイコウ)【王】
衛公(26(36)代目)。名は訓。慎公の子。〜B.C.372。
B.C.383即位する。
声公(鄭)(セイコウ)【王】
鄭公(18代目)。名は勝。献公の子。〜B.C.464。
B.C.501鄭献公が没したため、公子勝は即位した。
B.C.493晋の范・中行の二氏が晋に背いて、危急を鄭に告げた。声公は援けに行ったが鉄で晋に破られた。
B.C.475晋の知伯に攻められ、九邑を失う。
声侯(セイコウ)【王】
蔡侯(22(5)代目)。名は産。成侯の子。〜B.C.457。
B.C.472即位する。
靖公(曹)(セイコウ)【王】
曹公(24代目)。名は露。声公の弟。〜B.C.502。
B.C.504隠公を弑し、代わって立つ。
B.C.502、3月、靖公は没した。
夏、靖公は葬られた。
靖公(杞)(セイコウ)【王】
杞公(6代目)。成公とも書く。武公の子。〜B.C.637。
B.C.642即位する。
B.C.637、11月、没す。
靖公(単)(セイコウ)【王】
単公。頃公の子。
晋の叔向が使節となり周に入った。靖公が叔向を饗宴したが、倹約で恭敬であった。叔向はこれを褒め、 靖公が天子の卿士となって輔佐をするならば、周王朝は再興するであろうと言った。
B.C.558春、靖公は劉夏とともに斉に行き、周霊王のきさきを迎えた。 卿の身分の者が行かなかったのは礼にかなっていないと批難された。
靖侯(セイコウ)【王】
晋侯(5(6)代目)。名は宜臼。厲侯の子。〜B.C.840。
B.C.858即位する。
静公(セイコウ)【王】
晋公(21(23)代目)。名は倶酒。孝公の子。
B.C.378魏武侯・韓哀侯・趙敬侯は晋の土地を三分して晋を滅ぼす。
静公は庶民に移される。
竫公(セイコウ)【公子】
秦の公子。文公の子。〜B.C.718。
B.C.718文公よりも先に没す。
成公般(セイコウハン)【武官】
晋の臣。
B.C.516、11月24日、周敬王は内乱を収拾して群臣と盟った。晋軍は成公般に命じて周を守らせて引きあげた。
正考父(セイコウホ)【公子】
宋の公子。孔子の先祖。弗父何の曾孫。
戴公武公宣公の三君を補佐し、 三度君命を拝して上卿の位にいたった。
成差(セイサ)【武官】
秦の臣。
B.C.578、5月、秦軍は晋軍と麻隧で戦って大破し、成差は捕らえられた。
成師(セイシ)
桓叔
声子(セイシ)【女官】
恵公の妾。息姑(隠公)の母。
孟子が恵公に嫁いだとき、声子は孟子の腰元として魯に赴いた。
孟子が没したので、声子はその後妻となり、息姑を生んだ。
西施(セイシ)【女官】
越の絶世の美女。
呉王夫差を惑わせるために、越王勾践が西施を献じた。夫差はこれを愛して国を滅ぼした。
贅子(ゼイシ)【武官】
田斉の臣。姓は不明、名は贅。
濮上の戦いで、贅子は戦死する。
芮姒(ゼイジ)【女官】
景公の夫人。
身分は賤しく素行が悪かった。
荼(晏孺子)を産む。悼公が即位すると追放される。
世子成(セイシセイ)【女官】
宋の臣。
B.C.576、3月12日、世子成は晋厲公・衛献公・鄭成公・ 曹成公・斉の国佐・邾人と戚で会合し、曹成公の罪を正した。
芮司徒(ゼイシト)【武官】
宋の臣。
芮司徒は女の子を生んだが、体が赤くて毛がはえていたので、堤の下に棄てた。それを共姫の侍女が拾い上げて公宮に入れ、 棄と名づけた。はのちに宋平公の夫人となった。
世叔儀(セイシュクギ)
大叔儀
世叔申(セイシュクシン)【文官】
衛の臣。
B.C.510、11月、世叔申は晋の韓簡子、魯の孟懃子、 斉の高張、宋の仲幾、鄭の国参、 曹の人、莒の人、杞の人、薛の人、小邾の人と会合して成周に城壁を築いた。
成叔武(セイシュクブ)【王】
成公(初代)。名は武。周武王の弟。
B.C.1050武王が商を滅ぼすと、成に封じられる。
西鉏吾(セイショゴ)【文官】
宋の臣。
B.C.573、6月、鄭と楚は宋の彭城を攻め、楚に亡命してた魚石らを彭城に封じようとした。 宋はこの五大夫が彭城に帰ることを心配した。すると西鉏吾は「何を心配なさいます。楚は悪人を満足させているが、楚についている諸侯を離間させ、 諸侯を悩ませて、呉と晋をおどすことになろう。わが宋は晋に対する功績は多い。心配するに及ばない。晋はきっと助けてくれる」と言った。 はたして晋は諸侯とともに楚を討った。
B.C.564春、宋で火災があった。西鉏吾は子罕の命で、府庫の守護にあたった。
成鱄(セイセン)【文官】
晋の臣。
B.C.514魏献子は自分の子の魏戊を梗陽の大夫に任じた。そこで魏献子は成鱄に「わたしは戊に県を与えたが、 わたしのことを身びいきで行ったと言うだろうか」と尋ねると、成鱄は「どうしてそんなことがありましょう。 戊は君を忘れることなく、いばることなく、 義にかなうことを考え、みだらな行為はありません。あの人に県を与えても結構なことではありませんか」と答えた。
成仙公(セイセンコウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
本名は武丁。桂陽の臨武の烏里の人。幼少より経学に造詣が深かったが、それは師から授かったものではなく、ただ自然の性向によるものであった。 長沙郡で2人の仙人に出会い、丸薬2粒をもらって仙人となる。
渻竈(セイソウ)【文官】
B.C.542、5月、高子尾閭丘嬰を邪魔者であるとして殺した。 そのため閭氏の一族である渻竈、工僂灑孔虺賈寅は莒に出奔し、公子たちも国外に追放された。
成大心(セイダイシン)【宰相】
楚の宰相。令尹。子玉の子。大心、心、大孫伯ともいう。〜B.C.615。
B.C.632子玉が城濮の戦いで晋に大敗した。楚成王が使者を出して子玉に「申や息の老人たちに対してどうする考えか」と言った。 成大心は子西と「得臣(子玉)は自殺しようとしたが、わたくしどもが止めて、大王の処刑を待つように言いました」と命乞いをした。 子玉は楚の連穀までやって来たが、成王が許さなかったので、自殺した。
B.C.627、12月、晋の陽処父が蔡を討った。子上は蔡を助け、 晋楚両軍は泜水をはさんで対陣した。
陽処父は「あなたが戦おうとするなら、わたしは陣を退却させるので川を渡って陣をしきなさい。それが嫌なら、あなた方が退却して、わたしが川を渡る余裕を与えよ。 このまま対陣しても軍を疲労させるだけである」と言った。
子上は川を渡ろうとしたが、成大心は「晋は信義を守らない。もし約束を破って攻められて、負けを後悔しても取り返しがつきません」と諌めたので、 子上は退却して陣をしいた。
陽処父はこれを見て「楚軍は逃げたぞ」と言いふらして、そのまま引き上げた。
B.C.622秋、六が楚に背いて東夷に従ったので、成大心は子家と共に六を滅ぼした。
B.C.616春、楚は麇を討ち、成大心は麇軍を麇の防渚で討ち破った。
B.C.615春、没す。
成秩(セイチツ)【武官】
斉の臣。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、成秩は第二陣莒恒の御者となった。
西帝(セイテイ)
昭襄王
成得臣(セイトクシン)
子玉
西伯(セイハク)
姫昌
靖伯(セイハク)【王】
衛伯(6代目)。寁伯の子。
井伯(セイハク)【文官】
虞の大夫。
B.C.653晋に攻められたとき捕らえられ、晋献公の公女である秦繆姫の媵(付添い人)とされる。
芮伯(ゼイハク)【王】
芮の君。周王朝の卿士。名は不明。
芮伯は周成王に仕え、芮に封じられる。
斉豹(セイヒョウ)【文官】
衛の臣。司寇。
斉豹は孟縶にあなどられ、司寇の職と鄄の邑を取り上げられ、労役などがおこるときだけこれを返された。
B.C.522斉豹は孟縶に恨みを持つ北宮喜褚師圃・ 公子とともに謀叛を起こすこととした。
6月29日、孟縶は蓋獲という郭門の外で祭りを行うこととなった。斉豹はその門の外にとばりをめぐらせて武装兵を伏せておき、薪の積んだ車の中に戈をかくして、 その車を門前に置いて孟縶のあとを追わせて襲った。右役の宗魯が孟縶をかばって背で戈を受けとめようとしたが、 その一撃は宗魯の腕を切り落として孟縶の肩をも切りつけ、ふたりとも殺した。
北宮氏の家老は謀叛の相談に乗らず、策をめぐらせて斉氏の家老渠子を殺して、斉氏を討ってこれを滅ぼした。
成風(セイフウ)【女官】
荘公の夫人。魯釐公の母。須句の公女。〜B.C.623。
成風は季友に対して礼を尽くし、公子申(釐公)のことを頼んだ。
B.C.660はたして季友は公子申を魯侯に擁立した。
B.C.639邾が須句を攻め滅ぼしたので、須句の君が魯に逃げてきた。成風は釐公に須句を復興させることを願った。
B.C.623冬、没す。
清沸魋(セイフツタイ)【武官】
晋の臣。
B.C.574、12月26日、晋厲公胥童とともに三郤を誅殺しようとした。 長魚矯は多数の兵を用いないように申し出たので、晋厲公は寵臣の清沸魋に命じて長魚矯を支援させた。
世父(セイホ)【公子】
秦の公子。荘公の長男。
世父は「戎がわが大父仲(秦仲)を殺した。わしは戎王を殺すまで邑に帰らぬ」と言って、ついに将として戎を討ち、 太子を弟の襄公に譲った。
B.C.775戎が犬丘を囲んだため、これを討つが捕えられる。
B.C.774帰される。
成父(セイホ)
王子城父
斉貌辯(セイボウベン)【在野】
田嬰の食客。
斉貌辯は田嬰に礼遇されたが、人物には欠陥が多かったので、他の食客は快く思っていなかった。食客の士尉が田嬰を諌めたが、 田嬰は聴き入れなかったので、士尉は暇乞いして去った。孟嘗君も諌めたが、田嬰はやはり聴き入れなかった。
あるとき斉貌辯は田嬰に斉宣王にお目にかかりたいと願い出た。田嬰が「王はわたしをひどく嫌っておられるので、 貴公は殺されるに決まっている」と言ったが、斉貌辯はそのまま出かけた。
宣王「君が靖郭君の寵愛を受け、何でも聴き入れられるというご仁か」
斉貌辯「そうではありません。王が太子であられたとき、わたしは靖郭君に太子を廃して他の者を立てるように申し上げましたが、靖郭君は聴き入れませんでした。 また楚の昭陽が薛の何倍の地をもって封じようとしたときも、わたしは受け入れるよう申し上げましたが、 靖郭君は聴き入れませんでした」
宣王「靖郭君はわたしに対して、それほどまでに思ってくれていたのか。わたしのために靖郭君を連れて来てくだされ」
斉貌辯は靖郭君を連れて行き、ふたりの仲をとりもった。
斉明(セイメイ)【在野】
戦国時代の説客。姓は斉、名は明。
斉の人とも楚の人ともいう。
東周と西周が争い、西周は韓・楚と友好して自国の援けとしようとした。
斉明は東周の君に説いて「楚・韓に対して『東周が西周を攻めなければ、きっと西周は財宝も贈ろうとはしません』と言うのがよろしいでしょう。 楚・韓は財宝が欲しければ、わが国に西周を攻めるよう言ってくるでしょう。そうすれば韓・楚に恩を売ることができますし、同時に西周は弱まるでしょう」と言った。
声孟子(セイモウシ)【女官】
頃公の夫人。斉霊公の母。宋の公女。
B.C.575声孟子は斉に亡命してきた魯の叔孫喬如と密通した。
B.C.574声孟子は慶克と淫通していた。ある日、 慶克が宮仕えの女に女装して後宮に入ったのを鮑牽に見られてしまい、 そのため国佐に戒められた。慶克は長い間、家に閉じこもって外出せず、声孟子に「国子(国佐)が私を責めるので弱りました」 と言ったので、声孟子は国佐を恨みに思った。
斉霊公は鄭討伐に出征していたので留守役の高無咎と鮑牽は城門を閉じて旅人を調べて間者や奸人の侵入を防ごうとしていた。 声孟子は斉霊公に讒言して「高氏・鮑氏が君を都に入れないで公子を立てようとしており、国子もその陰謀を知っています」と言った。 そこで斉霊公は鮑牽を足きりの刑に処し、高無咎を国外に追放した。そのため高弱が謀叛を起こし、 国佐も鄭討伐から帰国して穀で謀叛を起こした。斉霊公は国佐と和睦し、高弱も降服した。
西門豹(セイモンヒョウ)【文官】
魏の臣。卜商の弟子。
翟璜に推挙されて魏文侯に仕える。
鄴の知事となった。
西門豹は長老を集めて、人民が何に苦しんでいるか問うたところ、毎年河伯に妻を娶らすことで苦労し、巫女に金を支払うことで困窮しているということであった。
そこで西門豹は妻を河伯に娶らす日に随行した。そこには三老、官属、豪族および里の父老が集まり、老女の巫女はその女弟子10人ばかりを従えていた。 西門豹は献上される女を見て「この女は顔がよくない。大巫女の婆さんに頼むが、河に入って河伯に数日待ってもらうよう報告してきて欲しい」と言い、 部下に命じて老婆を河の中に投げ込ませた。
しばらくして「巫女の帰りが遅いのはどうしたことだろう。弟子よ、催促に行って来い」と言い、次々と弟子を河の中に投げ込んだ。
3人の弟子を投げ込むと、西門豹は「巫女や婆さんは女子であるから、うまく事情を言えないのだろう。三老に頼むが、河に入って河伯に申し上げてくれ」と言って、 また三老を河の中に投げ込んだ。
西門豹はうやうやしく一揖して待っていたが、誰も帰らなかった。そこでさらに属官と豪族を投げ込もうとした。すると皆、頭を地につけて詫びた。このこと以来、 二度と河伯のために妻を娶ろうと言い出す者はいなくなった。
西門豹は、人民を徴発して12の溝を築き、黄河の水を導入し、民の田に注ぎ入れて灌漑した。人民はその労苦を喜ばなかったが、西門豹は 「『民は事業の成功を楽しんでおればそれでよろしく、ともの事業の着手を思案するには及ばない(商鞅の言)』といわれる。 いまわしを厭い嫌っているが、100年ののち、父老たちの子孫に、わしのことばが思い当たればよいのだ」と言った。
後に、この十二溝は天子の馳道を横切っており、漢代にこれを変えようとした。しかし鄴の人民父老は「西門さまの造ったものである。 賢人の法式は改めるものではない」と言い、命令に従わなかった。
西門豹は漳水を引いて鄴の地を灌漑した。
正輿子(セイヨシ)【文官】
萊の臣。〜B.C.567。
B.C.571斉が萊に侵攻してきた。正輿子は斉の夙沙衛に馬牛各100頭を贈ったので斉軍は引き揚げた。
B.C.567、3月15日、正輿子は王湫とともに軍を率いて棠人とともに斉軍と戦ったが、打ち破られた。
3月27日、斉軍が萊の都に攻め入った。正輿子は王湫とともに莒に逃げたが、莒人に殺された。
成陵君(セイリョウクン)【文官】
魏の臣。
B.C.311魏が衛を討ち、衛の嗣君はこれを憂えた。魏の大夫如耳は嗣君に謁見して言った。
「魏の攻撃を止めさせ、成陵君を罷免させてごらんに入れたいと思いますが、いかがでしょう」
嗣君は「もしも先生にそれができるなら、わたしはもとより、子々孫々まで、衛の国として先生にお仕えしましょう」と言った。
如耳は成陵君に謁見して「衛はいま秦に臣事しようとしています。魏としては、秦よりも魏として衛を許すほうがましです。そうなれば衛は恩義に感じて、魏を徳としましょう」 と言った。成陵君はこれを承諾した。
如耳はまた魏襄王に謁見して「衛が宝器を国外に出さないのは、衛を攻めるも許すも大王ではなく、 権臣の心によるものだと思っているからです。 わたくしの推察するところでは、まっさきに『衛を許そう』と言い出すものが衛から賄賂を受けているものだと思います」と言った。
如耳が退出すると、成陵君が参入し、如耳の意見どおりに襄王に言上した。襄王はそれを聴き入れて戦さを止めたが、また成陵君を罷免して、生涯会わなかった。
芮良夫(ゼイリョウフ)【文官】
周王朝の臣。姫姓の伯爵。名は良夫。
厲王が栄の夷公を寵愛したので、芮良夫が諌めて言った「王室は衰微するでしょう。 栄公は利益を独占したがって、大難を知りません。一人の男が利益を独占してさえ、盗といいます。王ともあろう者がそんなことをすれば、終わりをまっとうできなくなります」
しかし厲王は聴き入れず、栄公を大臣とした。そのため諸侯は来朝しなくなった。
西楼公(セイロウコウ)【王】
杞公(2代目)。東楼公の子。
跖(セキ)【在野】
古代の大泥棒。
赤(曹)(セキ)【公子】
曹の公子。
B.C.670公子赤は戎の支援を受けて、曹釐公を追放して曹に入った。
赤(楚)(セキ)【武官】
楚の臣。工尹。
B.C.523春、工尹赤は陰(陸渾)の戎を下陰に移した。
石厚(セキアツ)【武官】
衛の臣。石碏の子。〜B.C.719。
公子州吁と親友であった。石碏にそれを諌められたが、やめなかった。
B.C.719、3月17日、州吁が衛の逃亡者を集めて桓公を弑し代わって立った。
しかし民はまだ州吁を国君としていだいていなかった。石厚は石碏にどうしたら地位を固めることができるか尋ねると石碏はいつわって 「周室と親しい陳の桓公にとりいって、天子に即位を認めてもらうのがよい」と答えた。
そこで石厚はこれを州吁に進め、二人で陳に向ったところ、石碏の命を受けた桓公に裏切られて捕らえられ、陳で殺された。
石盂(セキウ)【武官】
鄭の臣。〜B.C.562。
B.C.562石盂は鄭簡公に処刑された。
籍偃(セキエン)
籍游
石悪(セキオ)【文官】
衛の臣。石買の子。石悼子ともいう。
B.C.554石買が没したが、石悪はこれを悲しまなかった。孔成子は「こうしたことをその本を倒すというものだ。 きっとその宗族を保つことができないであろう」と言った。
B.C.546夏、公孫免余甯喜と右宰を攻め殺して、 それを役所にさらした。石悪は宋での盟いに参加するところであったが、甯喜の屍に衣をかけ、それを自分の膝に枕させて哭泣し、宋に出かけた。
6月2日、石悪は宋に到着した。
7月、石悪は諸侯の大夫と盟いを結んだ。
B.C.545衛人が甯氏の仲間の罪を責め正したため、石悪は晋に亡命した。
瘠環(セキカン)【宦官】
斉の宦官。
石癸(セキキ)
石甲父
籍季(セキキ)【文官】
晋の臣。籍偃の父。
石キ子(セキキシ)【文官】
衛の臣。
B.C.682宋の南宮万は宋湣公を殺すと、 南宮牛猛獲に命じて、 公子禦説を攻めさせた。
冬10月、南宮牛が敗れると、猛獲は衛に出奔した。
石キ子は「天下の悪はどこでも同じである。その悪人を衛でかくまったところで何の役に立つであろうか。一人の悪人をかくまって一国を失い、 悪人に加担して旧来のよしみを棄てるのは、取るべき良策ではない」と言った。結局、衛は猛獲を宋に送り返した。
B.C.660、12月、衛は狄に攻められる。衛懿公はこれを迎撃しようとしたが、大臣らは「君は鶴がお好きです。 鶴に翟を撃たせたらよろしゅうございましょう」と言った。
そのため懿公は石キ子に玦を与えて指揮権を与え、甯遠に矢を与えて防禦させ、夫人に繍衣を与えて 「あのふたりに相談せよ」と言って自ら出陣した。
懿公は狄軍と熒沢で戦ったが大敗し、狄は勝ちに乗じて衛を滅ぼした。
石乞(セキキツ)(衛)【武官】
衛の臣。太子蒯聵の臣下。
B.C.479蒯聵の乱を仲由が鎮圧しようとしたので、蒯聵の命で彼を殺す。
石乞(セキキツ)(楚)【武官】
楚の臣。〜B.C.479。
B.C.479白公は叛乱を起こし、 石乞とともに子西司馬子期を襲って殺した。 石乞は「なんとしても王を殺さなくてはなるまい」と言い、恵王を脅迫して高府に置いた。しかし従者屈固が恵王を背負って逃走したので、 殺すことができなかった。
葉公沈諸梁の討伐軍に破れて捕らえられる。勝の屍のありかを訊問されたが「事成就すれば卿となっただろう。 成就しないで煮られるのは、もとよりわが職分のせいである」と言い、煮殺された。
析帰父(セキキホ)【文官】
斉の臣。子家ともいう。
B.C.550晋が公女を呉に嫁がせようとしていた。斉荘公の命で、析帰父は晋に腰元を送らせて助けを装って、 欒盈とその兵をまぎらせて晋の曲沃で叛乱を起こさせた。
B.C.545欒子雅高子尾が朝廷に不満をもったため、 析帰父は慶封の命で彼らを処理しようとして北郭子車晏嬰に相談した。
籍丘子鉏(セキキュウシショ)【武官】
斉の臣。〜B.C.502。
B.C.502魯が斉を討った。魯の顔高が弓を射ようとしたところを、籍丘子鉏はこれを射て顔高ともうひとりを射倒した。 しかし顔高は他人の弱い弓を奪い取って、籍丘子鉏を射て、頬に命中させて殺した。
石共子(セキキョウシ)
石買
析公臣(セキコウシン)【文官】
楚の臣。
B.C.613析公臣は中傷されたので、晋に亡命した。
石行秦(セキコウシン)【文官】
東周の臣。
石行秦は秦の白起に説いて「秦が天下に覇者たり王者たろうとするならば、東西両周の雄弁才智の士をおかかえになるのが上策です」 と言い、秦の逐客令を解こうとした。
石甲父(セキコウホ)【文官】
鄭の臣。石癸ともいう。
B.C.636冬、周襄王が狄に攻められて鄭の氾に出奔してきた。 石甲父は鄭文公の命で孔将鉏侯宣多とともに氾に赴き、天子の役人の用いる調度品を整えて献上した。
B.C.630晋文公が鄭を包囲して、晋に亡命していた公子を太子に立てるよう鄭に申し入れてきた。 石甲父は「姫姓と姞姓が結婚するとその子孫は栄えるという。姞という字はめでたい人の意で、 この姓の夫人が周を興した后稷の正夫人であった。もし公子蘭を天が助けるならきっと君になるであろうし、 その子孫も栄えるであろう」と言って、侯宣多・孔将鉏とともに晋に出奔している公子蘭を迎えて太子に立てるとし、晋との和睦を求めた。 晋文公はこれを許した。
石作蜀(セキサクショク)【在野】
孔子の弟子。姓は石作、名は蜀、字は子明。
石之紛如(セキシフンジョ)【武官】
斉の小役人。〜B.C.686。
B.C.686、12月、連称管至父公孫無知と結託して襄公を攻め殺した。
石之紛如はこれを防ごうとしたが、階段の下で戦死した。
石奢(セキシャ)【宰相】
楚の宰相。
昭王に仕える。
剛直清廉で、人におもねったり人を見てことばを避けることがなかった。
県内を巡行した時、人を殺した者を見つけた。追いかけてみると自分の父親であった。そこで石奢は父親をゆるし、自分自身を牢につなぎ「人を殺したのはわたしの父であります。 父を処分して法を執行するのは、孝行ではありません。法を無視して父の罪を許すのは、忠義ではありません。わたくしの罪は死罪にあたります」と言上した。
昭王は許そうとしたが「王がわたくしの罪をお許しくださるのは、主上としての恩恵ですが、誅に伏して死ぬのは、臣下としての職分です」と言って、ついに命令に従わず、 みずから首をはねて死んだ。
石碏(セキシャク)【文官】
衛の臣。上卿。
妾の子州吁荘公に愛され、 また荘姜が公子完を育てているのを憂えた。
荘公が州吁を将軍に任じると、石碏は「庶子州吁は兵戦が好きで、将軍になりました。もしも州吁を太子に立てようとするなら、早く決めるべきです。 もしもこのままにしておかれると、(州吁は)君の寵愛をたのんで禍を引き起こします。禍乱はここから起こるでしょう」と諌めたが聴きいれられなかった。
石碏の子石厚が州吁と遊び相手であったので、石碏は禁止したが、石厚は聴き入れなかった。
しかし公子完(桓公)が太子となったので、石碏は安心して大夫の位を隠退した。
B.C.719、3月17日、州吁が公子完を弑して代わって立ったが、民がなつかなかった。石厚は石碏にどうしたら地位を固めることができるか尋ねた。
石碏「それは天子に即位を認めてもらうのがよい」
石厚「陳桓公はいま天子の寵愛を受けている。陳と衛は仲がよいので、陳の国に行って依頼すれば、 きっとうまくゆく」
そうして石厚は州吁とともに陳へ出かけた。
一方で石碏は陳に人をつかわして「この二人はわが君を弑した無道の者です。貴国にお願いします、殺してください」と言った。
陳はこれを容れて、二人を捕らえて殺した。
そこで石碏は桓公の弟晋を迎えて国君に立てた。(宣公)
君子は「石碏は実に立派な忠臣である。州吁の大逆を憎んで、わが子の石厚をも殺した」と評した。
石首(セキシュ)【武官】
鄭の臣。
B.C.575鄢陵の戦いのとき、石首は鄭成公の御者となった。
この戦いで鄭軍と楚軍は大敗した。石首は「昔、衛の懿公は軍旗をおろさなかったため、滎で破れた」と言って軍旗をしまった。 唐苟が石首に「あなたはわが君のそばにいてくれ。全くひどい負け戦だ。どうか君を連れて逃げてください。 わたしは踏みとどまりましょう」と言って、やがて討ち死にした。
赤須子(セキシュシ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
豊の人。幾代も前から姿を見かけ、秦穆公の時代に漁業の取締官だったともいわれる。 しばしば豊地方の災害や洪水などを予言したという。
析朱鉏(セキシュショ)【武官】
衛の臣。
B.C.522、6月29日、斉豹らが叛乱を起こしたとき、 衛霊公はこの騒ぎを聞いて車を飛ばして都に入り、公宮に到着して宝を積んで公宮を出た。析朱鉏は夜に城の水門からくぐりぬけて、 徒歩で衛霊公の後に続いた。
赤松子(セキショウシ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
神農のころの雨師。
赤将子輿(セキショウシヨ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
黄帝のころの人。の時代になって木正(木官)となり、よく風雨につれて上下することができた。
石稷(セキショク)【武官】
衛の臣。石碏の四世の孫。石成子ともいう。
B.C.589春、斉が魯を討ったので、石稷は衛穆公の命で孫良夫甯相向禽将と共に斉を攻めた。衛軍は途中で引き揚げている斉軍と出くわした。 石稷は引き返そうとしたが、孫良夫は「それはいけない。敵を討ちに出かけたのに、敵軍に会って引き返したのでは、わが君に何と言い訳することができよう」と言った。
夏、衛軍は斉軍と新築で戦ったが衛軍は大敗した。
石稷は孫良父に「わが軍は敗れました。あなたが反撃して全軍を失うことがあれば、どうして君に報告できましょう」と言ったが、誰一人答える者がなかった。 そこで石稷はかさねて「あなたは正卿でございます。あなたが捕えられれば国の恥です。あなたは退却してください。わたしはここに残ります」と言った。
石稷は斉軍に援軍の兵車がたくさんやってくると言いふらしたので、斉軍は衛軍を攻撃するのをやめ、衛の鞫居に軍を留めた。 そこで新築を守っていた仲叔于奚が孫良夫を助けに行ったので孫良夫は助かった。
籍秦(セキシン)【武官】
晋の臣。
籍秦は荀寅の邪臣とされる。
B.C.515、12月、籍秦は晋頃公の命で諸侯の守備兵を周の都に出させたが、魯は国難があるといってことわった。
B.C.503、12月5日、籍秦は叛乱を避けていた周敬王を送って王城に入れた。
石申夫(セキシンフ)【文官】
魏の臣。
石申夫は、卜筮など数術の専門家であった。
石成子(セキセイシ)
石稷
石楚(セキソ)【文官】
鄭の臣。
B.C.610石楚は晋の荀林父、陳の公孫寧、 衛の孔達とともに宋を討ち、 宋昭公を弑したことを責めたが、結局宋文公の即位を認めた。
10月、石楚は鄭晋の和親のため、太子夷とともに晋の人質となった。
石速(セキソク)【文官】
周王朝の臣。膳夫。〜B.C.673。
B.C.675周恵王蔿国の菜園を取り上げて王の庭園とし、 辺伯の邸宅が王宮に近かったので、これを取り上げ、さらに子禽祝跪詹父の田地を取り上げ、石速の秩禄をも取り上げた。
B.C.675蔿国・辺伯・子禽・祝跪・詹父・石速は乱を起こし、かねて王室を恨んでいた蘇氏を中心として団結した。
秋、石速らは公子をかつぎ上げて恵王を攻めたが、恵王はこれを撃退した。勝つことができなかったので、 石速らは蘇氏の領地の温に出奔した。
そこで6人は衛と南燕の軍とともに周を攻め、恵王は温に逃げ、鄭の都櫟に移った。
冬、石速ら6人は公子頽を擁立した。
B.C.673夏、鄭厲公虢叔林父が挙兵し、 厲公は恵王と共に南門から都城に入り、虢叔林父は北門から入って頽を殺し、石速も誅殺された。
籍談(セキダン)【文官】
晋の臣。
B.C.527、12月、荀躒が来聘して穆后を葬った。 周景王は葬式を終えて荀躒と酒宴を開き「伯氏よ、諸侯はみな贈り物を献上して王室を慰安してくれるのに、 晋だけしないのはなぜか」と問うた。荀躒は籍談に回答を促すと、籍談は「わが晋は深山の中にあり、戎狄と近接して、王の恵みも至りません。 どうして器物を献上することができましょう」と答えた。周景王は「叔氏よ、汝は忘れてしまったのか。武王は商に勝ち、 晋の地を唐叔に与えたのではないか。その幸福の記録をしなければ、晋の存在はないことになる。 汝は晋の記録を司る籍氏の子孫であるのに、どうしてそれを忘れたのか」と言った。籍談は返答することができなかった。彼らが退席した後、 周景王は「籍父はきっと子孫が絶えるであろう。晋の記録を司ってその先祖を忘れている」と言った。 一方で、籍談から話を聞いた晋の叔向は「王は天寿を全うできないであろう。憂いの中にあって憂いを楽しんでいる」と言った。
B.C.520、10月14日、籍談と荀躒が九州の戎と焦・瑕・温・原の軍を率いて周悼王を王城に入れた。
12月8日、籍談・荀躒・賈辛・司馬督は、軍を率いて陰・侯氏・谿泉に軍を進め、前軍は社に陣を取り、さらに王の軍は氾・解に進軍し、 その前軍は任人に陣を取った。
石㚟(セキチャク)【文官】
鄭の臣。大宰。
B.C.562、9月、石㚟は鄭簡公の命により、良霄とともに楚に遣いして、 鄭は晋に降服しようとしている旨を報告した。しかし石㚟と良霄は楚に捕えられた。
B.C.560石㚟は楚の子嚢に「鄭の大夫たちは鄭の卿である良霄を追い払って晋との結束を固くしようとしています。 楚は、彼を捕らえているよりは、彼を鄭に返して鄭の君と臣をいがみ合わせるのが得策ではありませんか」と言ったので、楚は石㚟と良霄を鄭に返した。
石張(セキチョウ)【文官】
周王朝の臣。
B.C.510、8月、石張は富辛とともに晋に遣いして成周に城壁を築きたいと申し入れた。
石悼子(セキトウシ)
石悪
石買(セキバイ)【武官】
衛の臣。石共子ともいう。〜B.C.554。
B.C.556夏、石買は孫蒯とともに曹を討って重丘を占領した。
B.C.555夏、石買は行人として晋に行ったが、晋の長子で捕えられた。
B.C.554没す。
赤斧(セキフ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
巴戎の人。丹砂を精製し、消石と併せてこれを服用すること30年、逆に童子のように若返った。
碩甫(セキホ)【王】
曹の公子。恵伯兕の子。〜B.C.759。
B.C.759恵伯兕が没すると代わって立つが、弟の武(穆公)に殺される。
石圃(セキホ)【文官】
衛の臣。石悪の甥。
B.C.545石悪が晋に亡命したため、石圃は衛人に立てられて石氏の祀りを守ることとなった。
石ホ(セキホ)【武官】
衛の臣。
B.C.475主君のを放逐し、出公を斉より迎える。
籍游(セキユウ)【文官】
晋の臣。籍偃ともいう。籍季の子。上軍司馬。
B.C.573晋悼公は即位すると、籍游が努めて旧職に従って恭敬敏捷なのを知って、これを上軍司馬に任じた。
B.C.552晋平公欒盈を追放し、欒盈の一味である箕遺らを殺し、 伯華叔向・籍游を捕えた。
范匃和大夫と田畑の境界争いをして、決着がつかなかったので、 范匃は和大夫を攻めようとして籍游に尋ねた。籍游は「わたしは斧鉞をもって張老(張孟)に従います。 あの方の命令であれば、どうして叛きましょう」と答えた。結局、范匃は土地を和大夫に与えて仲直りした。
女叔斉が没すると、叔向は女叔斉の子を愛撫して「あなたの父上が死んでからは、 ともに親しんで君に仕える人はいなくなった」と言った。籍游がそばに居て「君子にも親しむことがあるのですか」と言った。叔向は「君子は親しんでも別け隔てしません。 徳に親しんで事を援けるのは、比(親しむ)です」と答えた。
鼫与(セキヨ)【王】
越王。勾践の子。
勾践が没して後を継ぐ。
契(セツ)【神】
商王朝の始祖。父は帝嚳。母は簡狄
の司徒となる。
に仕える。司徒となり、父・母・兄・弟・子が仲良くするよう教化させた。
商の地に封ぜられる。のちに湯王が王朝を創始したとき、契が商の地に奉ぜられたことから「商」と称した。
緤(セツ)【公子】
趙の公子。
B.C.353成侯が没すると、粛侯と位を争うが、敗れて韓に出奔した。
説(晋)(セツ)【武官】
晋の臣。司馬。
B.C.651、11月、秦に捕らえられた晋恵公は帰国して都城絳の近郊まで来て、慶鄭が都に居ると聞き、 家僕徒をやって慶鄭を呼び寄せた。
恵公「鄭よ、罪ある身で、まだ都に居たのか」
慶鄭「わが君が秦の徳に報いていたら、国勢は傾かなかったでしょう。戦っても賢良の人を用いられたら、敗れなかったでしょう。わたしはこのことをお怨みします。 また有罪の人を逃がすようでは、国を守ることさえできません。わたしは君をお待ちして処刑を受け、君の政を成就させようと存じます」
ついに恵公は司馬の説に処刑を命じた。
説「隊列を乱して命令を犯したのが罪の一。鄭が勝手に進退したのが罪の二。梁繇靡を誤らせて秦公を取り逃がしたのが罪の三。 君が捕虜となったのに顔に負傷していないのが罪の四である。鄭よ、刑を受けよ」
慶鄭「われは座って処刑を待っているのだ。すぐに処刑せよ」
丁丑の日、説は慶鄭を処刑した。
説(秦)(セツ)【文官】
秦の臣。右大夫。
B.C.589、11月、説は衛の孫良夫・魯成公・楚の公子子重・ 蔡景侯・許霊公・宋の華元・ 陳の公孫寧・鄭の公子子良・斉の大夫らと蜀で和睦の盟いを結んだ。 諸侯は一方で晋を恐れていながら、こっそりと楚と盟っていた。
泄(セツ)
左公子
泄駕(セツガ)【武官】
鄭の臣。
B.C.718鄭は衛を攻めた。衛は南燕の軍を率いてこれに対応した。祭仲原繁 ・泄駕が鄭の三軍を率いて南燕軍の前方に陣し、 公子曼伯子元に命じてこっそりと制の軍を率いて南燕の背後に陣をとらせた。
南燕軍は鄭の三軍を恐れて、制の軍に気がつかなかった。
6月、鄭の曼伯と子元は南燕軍を北制で撃ち破った。
B.C.629公子が、泄駕と鄭文公に嫌われたとして、楚に出奔した。
薛居州(セツキョシュウ)【文官】
宋の臣。
『孟子』に見え、賢臣と称される。
薛公(セツコウ)【在野】
趙の処士。
味噌屋に隠れ住んでいた。
信陵君はその名声を聞き、訪れて親しく語った。
B.C.248魏安釐王は、信陵君がいないため秦に日夜兵を出して討たれるので、使者を遣わして信陵君の帰国を請うた。 信陵君は害されるのを恐れたが、薛公は「もしも秦に大梁を破らせ、先王の宗廟を蹂躙させるというなら、公子は何の面目があって天下に立つことができましょう」と言ったので、 信陵君は急いで帰国して魏を救った。
摂叔(セツシュク)【武官】
楚の臣。
B.C.597春、楚は鄭を討って、これを降服させた。
6月、晋が鄭の救援にやってきた。許伯が楽伯の御者となり、摂叔は右を務めて晋に戦いを挑んで晋兵を殺して引き返した。晋軍はこれを追撃してきたため、 許伯は矢を射たが、矢を一本残すのみとなった。時に鹿が突然前方に立ちふさがったので、鹿を射た。 そのとき晋の鮑癸は楽伯の背後に迫っていたが、 楽伯は摂叔に命じて鹿をささげて鮑癸に献上し「まだ獲物がない季節ですので、失礼ながらこの鹿を献上いたします」と言わせた。 鮑癸は追撃をやめて「左は射の名人、右はことば達者。いずれも君子である」と言った。
洩声子(セツセイシ)【武官】
魯の臣。
B.C.516斉が魯昭公を魯に入れようとして進軍し、魯軍と魯の炊鼻で戦った。斉の子淵捷は洩声子を追撃し、 洩声子を射て、その盾にやじりを食いこませた。洩声子は子淵捷の馬を射たため、馬は倒れこんだ。 斉の子囊帯が洩声子を追いかけて怒鳴りつけてきたため、 洩声子は「軍中では個人的な怒りはない。しかえしをすれば個人的な怒りになる。が、ひとつ相手になってやろう」と言った。子囊帯がまたも怒鳴りつけたため、 洩声子も怒鳴り返した。
泄伯(セツハク)【文官】
鄭の臣。
B.C.716陳は鄭と和睦した。
12月2日、陳の五父と鄭荘公は盟いを結んだが、五父は血を口元に塗るとき、 気の抜けた様子であった。泄伯はこれを見て「五父はきっと禍にかかるであろう」と言った。
薛文(セツブン)
孟嘗君
洩父(セツホ)【公子】
周王朝の公子。周平王の子。
平王よりも早く没す。子の林が後を継ぐ。
泄冶(セツヤ)【文官】
陳の臣。〜B.C.600。
B.C.600陳霊公孔寧儀行父とともに夏姫に淫通して、夏姫の肌着を着てふざけあっていた。 泄冶はこれを諌めると霊公は「改めよう」と言って孔寧・儀行父に伝えた。しかしふたりが泄冶を殺そうとして、霊公もこれを止めなかったので、泄冶は殺された。
接輿(セツヨ)【在野】
楚の狂人・隠者。姓は陸、名は通。
昭王のとき、政令は一定せず政治が乱れたので、接輿は髪を剃っていつわり狂して世を避けた。時の人は楚狂と称した。
あるとき孔子の前を通った接輿は「鳳よ、鳳よ、なんと徳の衰えたことか。過ぎたことは諌めてもしかたないが、 これからのことはまだ間に合う。やめなさい、やめなさい。今の世の政治に関与する者は危険だ」と歌いながら去っていった。
舌庸(ゼツヨウ)【武官】
越の臣。
B.C.482越王勾践范蠡と舌庸に命じて兵を率いて海岸に沿って淮河をさかのぼり、 呉軍の帰路を断ち、呉の公子を呉都郊外の姑熊夷に破った。
B.C.473勾践が呉を討つことを大夫に謀ると、舌庸は「賞を慎重にすべきです」と進言した。
泄柳(セツリュウ)【在野】
魯の臣。
穆公の時の賢人。
穆公が泄柳を大臣にしようとして自ら会いに来たが、泄柳は門を閉じて中へ入れなかったという。
羨(セン)【武官】
翟王の子。
景公に仕える。16頭立ての馬車を使用して、 景公の寵愛を得たが、晏嬰の反対にあい、帰国する。
詹(セン)【武官】
秦の臣。右大夫。
B.C.562、7月、鄭は諸侯に攻められたため、諸侯と同盟を結んだ。楚の子嚢が援軍を秦に請うてきた。 秦景公は詹に命じて軍を率いて鄭を討つこととしたが、鄭は先に楚に降服した。
宣(セン)【文官】
楚の臣。楊豚の長官。
B.C.555鄭の子孔が叛乱を起こすため楚軍を引き入れようとしたが、 令尹子庚はこれを許さなかった。しかし楚康王はこの話を聞いて、 宣に命じて子庚に「わが楚はわたしが国君となってから中原に軍を進めて武勲を立てていない。死んだらきっと立派な葬式を受けられないであろう。 人々はわたしがみずから安逸をむさぼって父君の業を忘れていると思っているであろう。ひとつ考えてくれ」と言わせた。子庚は嘆息して 「わが君はわたしが安楽をむさぼっているとお考えなのか。わたしは国のためになることをしようとしているのです」 と言って、宣に会って「天下の諸侯は晋と親しい。もしも鄭を攻めるのがよいとしたら、わが君はわたしのあとに続いて攻められよ。 もしいけなかったら軍をおさめて帰りましょう。そうすれば何の損害もなく、わが君も敗戦の汚名を受けることもないでしょう」と言って鄭を討った。
然(ゼン)
莠尹然
善(ゼン)
子元
苫夷(センイ)【武官】
魯の臣。季氏の家臣。
B.C.503斉の国夏が魯を攻めた。陽虎が夜襲をかけようとすると、 斉軍はこれを聞いて伏兵を設けて待ち受けた。公斂処父が「虎は災いにかかることを考えずに攻めようとしている。 きっと死ぬであろう」と言い、苫夷は「虎がおふたり(季氏と孟氏)を難儀の目に合わせたら、判決を待たずにわたしが殺してやる」と言ったため、陽虎は恐れて引き返した。 そのため魯軍は敗北せずに済んだ。
宣王(周)(センオウ)【皇帝】
周王朝11代王。名は静、または靖。厲王の子。〜B.C.782。
厲王時代に大反乱が起きた際、邵公の家に匿われる。国人がその噂を聞き邵公の家を囲んだ。
邵公は「王はわたしの諌めを聴かなかったのでこの危難にあいました。今王子を殺したら、王は私がうらんでいると思うでしょう。国君に仕える者は不満でもうらまず、 怨んでも怒ってはなりません」と言い、自分の子を宣王の身代りにしたので、静は生き延びることが出来た。
B.C.827厲王が亡命先で没すると、執政の毛公は静に大政を奉還する。
B.C.826静は立って王となる。宣王は文・武・成・康の遺風にのっとったので、諸侯はまた周を宗主国として認め、入朝した。
B.C.822、夏6月、尹吉甫に命じ、儼狁を討ち、太原に至る。
B.C.821召伯虎に命じて、淮夷を討ち、雲夢沢まで進攻する。
B.C.816魯武公が子のをつれて参朝した。 宣王は弟の戯を可愛がり、魯の太子に立てようとした。樊仲山父が諌めて 「目下の者が目上の者に仕え、年少の者が年長の者に仕えるのは、正道に従うといいます。正道に逆らえと教えれば、諸侯はまねをして、王の命令は行われなくなりましょう」 と言ったが、宣王は聴き入れず、戯を太子とした。
武公は帰国してすぐ亡くなったので、魯人は戯を殺して、括の子の伯御を立てた。
杜伯を重用して西戎、犬戎、荊蛮、淮夷、戎を討伐して周王朝の権威を回復させる。
宣王は千畝に親耕する籍田の礼を行わなかった。虢文公がこれを諌めたが、宣王は聴かなかった。
B.C.806末弟のを鄭に封じる。
B.C.796宣王は魯を征伐して、懿公(戯)の弟孝公を立てた。そのためこれ以後、諸侯は周に親しまなくなった。
また宣王は同族の諸侯で、諸侯を教化できる者を州伯にしたいと思った。樊仲山父は魯孝公が明神を崇敬し、長老に敬事し、先王の遺訓により政事・ 刑罰を行っていると薦めたので、宣王は孝公を州伯に命じた。
B.C.789千畝で戦い、姜・氐の戎に敗北する。
宣王は千畝の戦いで江漠地方(南方)の兵を失ったので、太原地方の人口調査をして徴兵しようとした。樊仲山父はこれを諌めて「司民は孤児と死亡人口を調べ、司商は姓名を調べ、 司徒は軍隊を調べ、司寇は犯罪者を調べ、牧人は家畜を調べ、工人は皮莘を調べ、場人は果実を調べ、廩人は穀物を調べますので、 これらは居ながらにして知ることが出来ます。 事故もないのに人口を数えるのは、天の憎むところです。政事を害い、後継者のさわりになりましょう」と言ったが、宣王は反対を押し切って人口を数えた。
B.C.785無実の罪で杜伯を死罪とした。杜伯は死の直前に「私は無罪である。我が君は私を殺しても罪とならないが、 もし死者に知覚があるとすれば3年後それを我が君にお知らせしよう」と復讐を誓った。
B.C.782、3年目のある日、宣王は諸侯を集めて大掛かりな狩をした。その真昼間に、杜伯は白馬に牽かせた白木造りの戦車に乗って突然姿を現した。朱の衣服をまとい、 朱の冠をかぶり、朱塗りの矢を小脇に挟んで宣王を追いかけて、これを狙撃した。杜伯の矢は宣王の心臓に命中し、さらに背骨までも打ち砕いた。
人々は、杜伯の亡霊が宣王を殺したのだといいあった。
宣王(楚)(センオウ)【王】
楚王(18(34)代目)。名は熊良夫。粛王の弟。〜B.C.340。
宣王は江乙に「北方の諸国は、昭奚恤を恐れていると聞いているが、果たして事実だろうか」と問うた。
江乙は「あるとき虎が狐を捕らえました。狐は『天帝が私をすべての獣の長にされたので、きみが私を食べることは、天帝の意に逆らうことになる。うそだと思うなら、 私が先に立って歩いてみよう。きみは、どんな獣も私を見て逃げるのをよく見るがよい』と言いました。
はたして獣たちは、これを見て一斉に逃げ出しました。虎は獣たちが自分を恐れて逃げ出したとは気づかず『狐を恐れているのだ』と思ったのです。
ですから、諸国が昭奚恤を恐れるのは、実は大王の軍兵を恐れていることなのです」と言った。
B.C.370粛王が没したが、子がなかったため、熊良夫が擁立される。
B.C.341斉の田忌が楚に出奔してきた。 杜赫が宣王に説いて「田忌を江南の地に封じて斉に帰らないことを示せば、 斉の騶忌は国をあげて感謝するでしょう。また田忌も封地を賜わったら、王のご恩を感じましょう。 もし田忌が後日、斉に帰っても斉をあげて楚に仕えましょう。これこそ二忌を利用する良策です」と言い、田忌を江南に封じるよう進言した。 そのため宣王は田忌を江南の地に封じた。
B.C.340秦に攻められた。
宣王(田斉)(センオウ)【王】
田斉王(2(4)代目)。名は辟彊。威王の子。〜B.C.324。
B.C.346威王が没して宣王が立つと、田忌騶忌におとしいれられたことがわかったので、 田忌を召し返してふたたび将軍に任じた。
B.C.341魏が趙を討つ。趙は危急を斉に告げ、宣王は孫臏のはかりごとを用いて、趙が疲弊してから救援することにした。
趙が五戦して敗北すると、宣王は兵をおこし、田忌・田嬰を将軍とし、孫臏を軍師として、趙を救うため魏を討った。
魏軍を馬陵で大いに破り、龐涓を殺し、太子を捕らえた。
その後、韓・魏・趙の王はいずれも田嬰を手づるとして宣王と博望で会同した。
B.C.336宣王は魏恵侯と平阿の南で会同した。
B.C.335宣王は魏恵侯と甄で会同する。
B.C.334田嬰を宰相とする。
宣王は魏恵侯と徐州で会同し、たがいに王号を称することとした。
蘇秦が遊説に来て、宣王に説いて「秦が斉を攻めようとすれば、韓・魏を通過しなくてはなりません。 ここで大王はあえて秦に屈従する汚名をきず、 六国合従を行うべきです」 と言った。宣王はよしと言い、これに従った。
楚が斉を討とうとしたので、宣王は、魯が楚と親しいので楚を援けるのではないかと心配した。 そこで張丑が魯を中立させることを約束して魯に赴き、出兵を留まらせた。
B.C.333楚に攻められ、徐州を包囲された。
文公が没したので宣王は喪に乗じて燕を討ち、十城を取った。燕は蘇秦を斉に遣わし、「いま秦と燕は婚姻関係を結んでおり、 燕を攻めることはよくありません。ここは禍を転じて福と為して、先に取った燕の十城をお返しになり、秦にお詫びをするのが一番です。
秦は恩義を感じましょうし、燕も十城が戻ったことで、王に恩義を感じましょう」と宣王に説いた。宣王は「なるほど」と言い、燕に十城を返還した。
B.C.332魏とともに趙を討つが、趙粛侯が河水の堤を切って陣に注いだので、退いた。
B.C.329陘山の戦役の時、趙は秦と結んで斉を討とうとした。
宣王は田章に命じて、陽武の地を趙に割いて趙と同盟し、公子を人質にすることとした。
宣王は文学・遊説の士を喜んだ。鄒衍淳于髠・田駢・接予・ 慎到・環淵などをはじめ、76人の者に邸宅を賜い、上大夫とした。彼らは政治にあずからないで議論を事とした。
ここで斉の稷下の学士は盛大となり、その数は数千に達するほどであった。宣王は天下の賢士を招くことが出来たと誇った。
詹嘉(センカ)【武官】
晋の臣。瑕嘉ともいう。
B.C.614春、詹嘉は瑕を与えられてそこに住み、交通の要路である桃林の塞を守って、秦の東進の野望をおさえようとした。 そのため詹嘉は瑕嘉ともいわれる。
B.C.590詹嘉は晋景公の命で周に使いして戎と周を和平させたが、周は戎と友好しなかった。
冉会(ゼンカイ)【文官】
魯の臣。冉猛の兄。
B.C.502魯が斉を討った。魯軍が退却するとき、冉猛が足に負傷したと偽って先に逃げ帰った。そこで冉会はいつわって大声をあげて「猛はしんがりをつとめている」と言った。
詹桓伯(センカンハク)【文官】
周王朝の臣。
B.C.533晋の閻嘉と周の大夫が閻の耕地について争い、晋は陰戎の人を率いて周の穎邑を討った。 周景王は詹桓伯に命じて晋に訴えた。そのため周と晋は和解した。
冄求(ゼンキュウ)
冄有
宣姜(周)(センキョウ)【女官】
宣王の妃。斉侯の娘。
宣姜(衛)(センキョウ)【女官】
宣公の夫人。
斉の公女。
宣姜は太子のため斉から迎えられたが、宣公が彼女の美貌を見てすっかり気に入り、これを我がものとした。
宣姜は寿を生んだ。
宣姜は公子朔と図って太子伋を讒言した。宣公も太子の妻を奪ったことから、後ろめたい気持ちがあり、廃嫡したいと思っていたので、これを聞くと大いに怒り、 伋を斉に使いに出し、盗賊に殺させた。
宣姜(衛)(センキョウ)【女官】
襄公の夫人。〜B.C.522。
宣姜は公子と通じた。
B.C.522、6月、公子朝らは叛乱を起こしたが鎮圧された。宣姜は乱平定後、衛霊公に殺された。
宣恵王(センケイオウ)【王】
韓王(初代(7代目))。昭侯の子。〜B.C.312。
B.C.334蘇秦が韓に来て、宣恵王を説き「もし大王が秦に仕えたら、秦はかならず韓の地を求めて、あくことを知らないでしょう。 俗諺に『鶏口となるも、牛後となるなかれ』といいますが、秦に臣事すること、何と牛後となるに異なることがありましょうぞ」と言った。 宣恵王は色をなし臂をまくり目をいからせ「わしは不肖の者ながら、秦には断じて仕えない。いまあなたから趙王の忠言を告げていただいた。つつしんで国家を挙げて、 ご意見に従いましょう」と言った。
B.C.325魏に攻められ、韓挙が破られる。
B.C.322王号を称す。
武霊王と区鼠で会同する。
B.C.319秦に攻められ、鄢で破られる
B.C.318秦に脩魚で破られ、ソウ申差が観沢で捕らえられる。
公仲の進言に従って、公仲を秦につかわせて秦と和を講じようとした。
それを恐れた楚が兵をおこして「韓を助ける」と宣言し、使者をつかわしてきて「不穀の国は小国ながら、すでに全兵力を出しました。貴国は、 どうか思う存分に秦と戦って欲しい。わたしは今や国を賭して韓に殉じようと思います」と言ってきた。
宣恵王はこれを喜び、公仲を秦にやらず、秦と国交を断った。
秦は大いに怒り、兵を増して韓を討ち、大いに戦ったが、楚の援軍は来なかった。
B.C.314秦に攻められ岸門で大敗し、太子蒼を秦に人質として出して和睦した。
B.C.312秦とともに楚を攻め、屈匄を破り、八万の首を丹陽で斬る。
セン犬(センケン)【公子】
衛の公子。〜B.C.632。
B.C.632、6月、衛成公が晋と和睦して帰国した。 セン犬と華仲甯兪に続いて、 成公の前駆として都に乗り込んだ。約束の時間よりも早く入ったため留守役の叔武はまだ髪を洗っていたが、 成公が到着したと聞いて喜びのあまり、髪を手でつかんで走り出たところ、セン犬の兵があやまって叔武を殺してしまった。 成公は屍を自分の股に枕させて泣き悲しんだ。これを見て公子セン犬は逃げ出したが、成公に殺された。
宣公(斉)(センコウ)【王】
斉公(30代目)。名は積。平公の子。〜B.C.405。
B.C.456即位する。
B.C.407鄭の国人と西城で会同する。
宣公(魯)(センコウ)【王】
魯公(20代目)。名は俀、倭ともいう。文公の子。母は敬嬴。〜B.C.591。
母の敬嬴はひそかに襄仲に取り入り、公子俀のうしろだてになってもらっていた。
B.C.609、2月24日、文公が没すると、公子俀は襄仲に擁立され、 さらに斉恵公の助力を受けて公子と公子を殺した。
この年、莒の公子が主君を弑して、莒の国宝を持って魯に出奔してきた。
宣公は僕人に書類を持たせて、季孫行父に命じて太子僕に封邑を与えるようにさせた。 しかし里革が僕人に会い、その命令書を変えさせて、太子僕を追放するようにさせた。
宣公は怒って里革を捕らえて詰問した。里革は「君命に逆らった罪は死罪に当ります。しかし『則を破る者を賊となし、賊をかくまう者を蔵となし、 宝を盗む者を宄(乱)となし、宄を用いる者を姦となす』と申します。君主を蔵姦させる者は、追放しなければなりません」と言った。
宣公は「わたしこそ本当に欲張りでした。あなたの罪ではない」と言って里革を許し、太子僕を追放した。
B.C.608夏、宣公は斉恵公と斉の平州で会合した。
6月、宣公は済西の田地を斉に差し出した。
秋、邾の君が来朝した。
B.C.605宣公は斉恵公とともに、莒と郯を仲直りさせようとしたが、莒人はこれを聴き入れなかった。そこで宣公は莒を討って向の地を攻め取った。
秋、宣公は斉に赴いた。
斉恵公が魯を訪れた。
B.C.604春、宣公は斉に赴いた。このとき斉の高固が斉恵公に願って宣公を引きとめさせて、 魯の公女叔姫を妻にほしいと強請した。
9月、高固が叔姫を迎えた。
B.C.603、8月、蝗の害があった。
B.C.602春、衛の孫良夫が魯にやって来た。宣公は衛と友好を結び、宣公が晋と会合することを相談した。
夏、宣公は斉恵公とともに萊を討った。
冬、宣公は晋成公・宋文公・衛成公・ 鄭襄公・曹文公と黒壌で会合した。 宣公は晋成公が即位したとき(B.C.607)朝することをせず、また大夫も遣わさなかったので、このとき捕えられて黒壌の盟いに参加できなかった。
宣公は晋に物を贈って許された。
B.C.601、6月24日、母の敬嬴が没した。
7月30日、皆既日食があった。
10月26日、宣公は敬嬴を葬った。
宣公は平陽に城壁を築いた。
B.C.600、1月、宣公は斉に赴いた。
春、周定王は魯に使者を遣わして、周を聘問することを要求した。
夏、宣公は孟献子に命じて周を聘問させた。
秋、宣公は根牟をたやすく攻め取った。
B.C.599春、宣公は斉に赴いた。斉恵公は魯が斉に服従しているとして、済西の田地を魯に還した。
4月1日、日食があった。
4月14日、斉恵公が没したので、宣公は急ぎ恵公の喪のため斉に赴いた。
秋、王季子が魯に来て、孟献子が周を聘問した返礼をした。
公孫帰父が邾を討って繹を攻め取った。
頃公が即位したので、季孫行父が斉を聘問した。
冬、公孫帰父は斉に赴いて、邾を討ったことを釈明した。斉は国佐を遣わして返礼した。
この年は大水のため不作であった。
B.C.595冬、公孫帰父が斉頃公と斉の穀で会合した。
ある夏、宣公は泗水で網で魚を捕った。里革がその網を切断し、破棄して「今は魚類が雌雄別れて子を孕む時であり、魚の成長することを民に教えず、 かえって網で捕ろうとするのは、貪欲きわまりないものです」と言った。
宣公は「里革はわしの過ちを正してくれる。この網をしまわせておいて、わしがこの諌めを忘れないようにしよう」と言った。
楽官の師存が「網をしまっておくよりも、里革を重用して、彼を忘れないほうがようございます」と言った。
B.C.594秋、害虫の被害があった。
孟献子が高固と無婁で会合した。
冬、いなごの被害が出た。
この年、初めて公田以外の私田に税をかけた(十分の二税)。
B.C.593秋、伯姫は郯の君に嫁いでいたが、離縁されて追い出され、魯に帰ってきた。
この年、魯は大豊作であった。
B.C.592、6月1日、日食があった。
B.C.591春、宣公は杞を討った。
7月8日、楚荘王が没した。魯は楚軍とともに斉を討とうとしていたが、あてがなくなったため晋から援軍を借りて斉を討った。
宣公は公孫帰父と相談して三桓を除いて公室の権勢を強めようと考えて、公孫帰父を晋に赴かせて晋の力を借りようとした。
10月28日、没す。
宣公(燕)(センコウ)【王】
燕公。襄公の子。〜B.C.603。
B.C.618即位する。
宣公(曹)(センコウ)【王】
曹公(17代目)。名は盧。文公の子。〜B.C.578。
B.C.595、5月12日、文公が没したため、公子盧は即位した。
B.C.588春、宣公は晋景公・魯成公・衛定公・ 宋共公とともに鄭を討ったが、鄭の伏兵にあって打ち破られた。
B.C.586、12月24日、宣公は晋景公・魯成公・宋共公・鄭悼公・衛定公・斉頃公・ 邾定公・杞桓公と晋の虫牢で会盟した。
B.C.584、5月、宣公は魯を訪れた。
秋、宣公は晋景公・斉頃公・衛定公・魯成公・莒の君・邾成公・杞桓公と会合して、 楚に攻められた鄭を救う相談をした。しかし鄭は単独で楚軍を破った。
8月13日、宣公は衛の馬陵で諸侯と同盟し、虫牢の盟いを確認し、莒が晋に服従したことを確認した。
B.C.582春、前年に汶陽の田を斉に返したことで諸侯が晋の信義を疑ったため、晋景公は宣公や魯成公・斉頃公・衛定公・宋共公・ 鄭成公・莒渠丘公・杞桓公と衛の蒲で会合して、馬陵の盟いを忘れないようにした。
B.C.581、5月、宣公は晋の太子州蒲・魯成公・斉霊公・衛定公・宋共公と会合して鄭を討った。
B.C.578、5月、宣公は晋厲公・宋共公・斉霊公・衛定公・邾・鄭成公・滕と会合して秦を討った。
5月5日、定公は諸侯と共に秦軍と秦の麻隧で戦い、これを大破した。諸侯の軍は勢いに乗って涇水を渡って侯麗まで攻め入って引き揚げた。
宣公はこの戦いで、陣中で没した。
宣公(陳)(センコウ)【王】
陳公(16代目)。名は杵臼。桓公の子。〜B.C.648。
B.C.693、即位する。
B.C.692、2月、荘公を葬る。
B.C.690夏、宣公は斉襄公・鄭伯と垂で会合する。
B.C.689冬、宣公は斉・宋・魯・蔡とともに衛を討った。
B.C.686、1月、陳は魯・蔡とともに郕を討った。
B.C.682、10月、宋で叛乱を起こした南宮万は陳に亡命してきた。しかし宣公は宋から賄賂をもらったため、 婦人をつかって南宮万に酒を飲まして酔ったところを革に包んで、宋に送り返した。
B.C.681春、宣公は斉・宋・蔡・邾・魯・衛・鄭と斉の北杏で会合した。
B.C.680宣公は、斉・曹とともに宋を討った。
B.C.679春、宣公は斉・宋・衛・鄭と鄄で会合した。
B.C.678、12月、宣公は斉桓公・宋桓公・ 衛恵公・鄭厲公・許の君・滑の君・滕の君と宋の幽で会合し、鄭は斉と和平した。
B.C.676周恵王が陳の公女をめとって后にする。
B.C.675冬、斉と宋と陳は魯の西に侵入した。
B.C.672春、宣公は公子を立てようとして、太子禦寇を殺す。
B.C.670冬、曹釐公が陳に亡命してきた。
B.C.669宣公は女叔を魯に遣わして、魯との友好関係が成った。
冬、魯の公子が陳に来聘した。
B.C.667、6月、宣公は斉桓公・魯荘公・宋桓公・鄭文公と会合して幽で同盟し、 陳と鄭は斉に服従した。
B.C.660鄭の臣高克が陳に亡命してくる。
B.C.656春、宣公は斉桓公、魯釐公、宋桓公、衛文公、鄭文公、 許穆公、曹昭公と会合して蔡を討ち、勢いに乗じて楚に攻め入った。 連合軍は楚と和平の盟いを結んだ。
帰国の際、陳の袁濤塗が「軍が陳と鄭の間を通れば、両国とも食糧の供給に困りますので、 東方を通って東夷に武力を見せつけて海に沿って帰るのがよろしいでしょう」と進言したので、桓公はこれに従おうとした。
しかし鄭の申侯が「軍は疲れています。東夷にはかなわないでしょう。陳と鄭の間を通り、 両国に食糧を出させるほうがよろしいでしょう」と進言したので、桓公はよろこんで、申侯には鄭邑の虎牢を与え、袁濤塗を捕えた。
秋、斉桓公は袁濤塗が軍道を誤らせようとしたのを責めて、宋・衛・鄭・許・曹・魯とともに陳を討った。
冬、陳宣公は罪に服して和睦を乞うたので、桓公は捕えていた袁濤塗を帰国させた。
B.C.655夏、宣公は、斉桓公・魯釐公・衛文公・鄭文公・許僖公・曹昭公・ 周の太子と衛の首止で会合し、太子鄭の地位を固め、周室の安泰を図る相談をした。
8月、諸侯は首止で盟った。
B.C.654宣公は、斉桓公・魯釐公・宋桓公・衛文公・曹昭公と会合して鄭を討ち、新城を包囲した。
秋、楚が許を包囲して鄭を助けようとしたが、諸侯が許を救ったので、楚軍は引き揚げた。
B.C.652桓公は洮で諸侯と会盟する。
B.C.648、12月、没す。
宣公(衛)(センコウ)【王】
衛公(4(14)代目)。名は晋。桓公の弟。〜B.C.700。
B.C.719州吁が殺されると、衛の国人は晋を邢から迎え入れた。
12月、宣公は即位した。
B.C.718、4月、宣公はようやく桓公を葬った。
この年、鄭に攻められる。衛は南燕の軍を率いてこれに対応した。鄭の祭仲原繁泄駕が鄭の三軍を率いて南燕軍の前方に陣し、 公子曼伯子元に命じてこっそりと制の軍を率いて南燕の背後に陣をとらせた。
南燕軍は鄭の三軍を恐れて、制の軍に気がつかなかった。
6月、鄭の曼伯と子元に南燕軍は北制で撃ち破られた。
秋、先年、衛が乱れた時、郕に攻められたので、衛はその報復として郕を討った。
B.C.715春、斉釐公は宋・衛と鄭とを仲直りさせようとして会合の期日を定めた。 しかし宋殤公は会合の前に衛宣公に願い出て、贈物を献上して、犬丘で会合した。
7月、当初の予定通り、宋・衛と鄭は親和し、斉・鄭・衛の三国が温で会合し、瓦屋で盟った。
B.C.713、6月、魯・斉・鄭は天子の命により宋を討った。このとき宣公は天子の命に従わず、連合軍に参加しなかった。
宋はそこで宣公に働きかけて、宋・衛・蔡は連合した。しかし連合軍は、蔡に鄭討伐に参加させず、鄭の与国の戴を討たせた。
8月8日、宋・衛・蔡の連合軍は鄭軍に包囲された。
8月9日、連合軍は鄭軍に破られて降服した。
宋・衛・蔡の連合軍が敗れたのは、蔡が宋・衛に腹を立てたため連合軍が和合しなかったためである。
宣公は太子のために斉の公女宣姜を迎えたが、彼女の美貌を見てすっかり気に入り、これを我がものにして、 寿を生んだ。
B.C.709宣公は斉釐公と衛の蒲で会合した。
B.C.707周桓王が鄭荘公の政権を奪ったので、荘公は怒って周に参朝しなくなった。
秋、桓王は陳・蔡・虢・衛の兵を率いて鄭を討った。虢公林父は右軍の将となり、蔡・衛の軍はそれに付いた。 桓公は左軍の将となり、陳の軍がそれに付いた。
鄭の公子子元は「陳は乱れて、その民は戦う心がありません。真っ先に陳の軍を攻め立てたら、逃走するでしょう。 周王の軍はそれを見たら、きっと乱れるでしょう。そこを集中攻撃すれば、事は成功いたします」と進言したので、鄭荘公はそれに従った。
鄭荘公は曼伯に右軍を、祭仲に左軍を率いさせ、 原繁と高渠弥に中軍を率いさせて自らを守らせ、魚麗の陣をつくり、 兵車を前に歩兵を後ろにして、鄭の繻葛で戦った。
鄭の左右軍は連合軍の左右の軍を破り、桓王の軍も乱れた。そこで鄭軍は集中してこれを攻撃したので、桓王の軍は大敗した。(繻葛の戦い)
B.C.705秋、宣公は斉・鄭とともに盟・向を征伐した。
B.C.702、12月、衛は斉・鄭とともに魯を討ち、魯の郎で戦う。
B.C.701春、鄭と斉と衛と宋は魯を攻めようとして悪曹(鳥曹)で盟った。
9月13日、鄭昭公が衛に亡命してきた。
夷姜(太子伋の母)は宣公の寵愛を失ったので、首をくくって自殺した。さらに宣姜と公子朔が太子伋を讒言した。 宣公も太子の妻を奪ったことから、後ろめたい気持ちがあり、廃嫡したいと思っていたので、これを聞くと大いに怒り、 伋を斉に使いに出し、盗賊に殺させた。そして朔を太子とした。
B.C.700、11月、没す。
宣公(宋)(センコウ)【王】
宋公(13代目)。名は力。武公の子。〜B.C.729。
B.C.729宣公は病気となり、弟の和に位を譲ろうとして「父が死ねば、子があとを継ぎ、兄が死ねば、弟に及ぶのは、天下の通義である。 わしは和を立てようと思う」と言った。
結局、和が立ったあと、宣公の子与夷が後を継いだ。君子らがこれを聞いて言うよう「宋の宣公は人を知る明があると言わねばならぬ。弟を立てて義を立てながら、 わが子もまたその後を受けて国君となった」と。
宣公(秦)(センコウ)【王】
秦公(7(21)代目)。徳公の長子。〜B.C.664。
B.C.673密畤(祭壇)を作る。
晋と河陽で戦って勝った。
宣公(滕)(センコウ)【王】
滕公。名は嬰斉。
B.C.641、3月、宣公は宋襄公が主催した会盟に参加しなかったので捕えられた。
宣公(邾)(センコウ)【王】
邾公。名は牼。〜B.C.556。
B.C.574、12月、邾定公が没したので、宣公は即位した。
B.C.573、8月、宣公は魯を訪問して即位の挨拶をした。
12月、宣公は晋悼公・魯の孟献子・宋平公・ 衛献公・斉の崔杼と虚朾で会合して同盟した。
B.C.572、1月、宣公は諸侯とともに彭城を討ち、これを降した。
9月、宣公は魯を訪れた。
B.C.557、3月、宣公は晋平公・宋平公・衛殤公・ 鄭簡公・曹成公・魯襄公・薛の君・ 杞文公・莒犂比公・小邾の君と会合し、侵略した土地を帰した。
邾は莒とともに魯を討ったため、邾宣公は莒犂比公とともに晋に捕えられた。
B.C.556、2月24日、宣公は没した。
宣侯(燕)(センコウ)【王】
燕公。繆侯の子。〜B.C.698。
B.C.711即位する。
B.C.699魯と鄭と紀の連合軍と戦ったが、斉・宋・衛・燕は破れた。
宣侯(蔡)(センコウ)【王】
蔡侯(10代目)。名は措父または考父。戴侯の子。〜B.C.715。
B.C.750即位する。
B.C.719宣侯は衛の公子州吁の収集に参加して鄭を討ち、鄭の都の東門を包囲した。 5日かかって攻め落とせなかったので引き返した。(東門の役)
秋、宣侯は衛・宋・陳・魯とともに再び鄭を討ち、鄭の歩兵を打ち破り、鄭の禾を刈り取って引き揚げた。
B.C.715、6月己亥の日、没す。
戔甲(センコウ)【皇帝】
商王朝11代王。外壬の弟。
『史記』では、河亶甲とされる。
相に遷都する。この王の時代に商王朝は衰える。
冄耕(ゼンコウ)【在野】
孔子の弟子。姓は冄、名は耕、字は伯牛。B.C.544〜。
魯の人。孔門の十哲のひとり。
冄耕は魯の中都の宰を務めたという。
冄耕は生来、癩病をもっていた。孔子は見舞いに行って窓から彼の手をとって「運命というものか。この人に、こうした病があるとは。 運命というものか」とその徳行ゆえに嘆いた。
先縠(センコク)【将軍】
晋の将軍。右行の将、中軍の佐。屠撃、先彘子ともいう。先軫の子。〜B.C.596。
B.C.632晋ははじめて三行(三隊の歩兵部隊)を編成し、先縠は右行の将に任じられた。
B.C.597春、鄭が楚に攻められたため、それを救うため晋は兵を出し、先縠は中軍の佐として従軍した。
6月、黄河に到着すると、すでに楚は鄭を降していた。荀林父が帰還しようとし、 士会もこれに賛成した。しかし先縠は反対して「晋が覇者となっているのは、わが軍が強く、臣下が努力するからです。 今、鄭を見捨てて軍を還すのは努力しているとは言えず、眼前の敵を追撃しないのは、武勇があるとは言えません」と言って勝手に軍を率いて黄河を渡った。 そのため晋軍は全軍、黄河を渡ることになった。
晋軍は敖山と鄗山の間に陣をしいた。鄭の皇戌が晋の陣地に来て「鄭が楚についたのは国を守るためで、 貴国に対して二心を持つものではありません。貴国が楚を攻めるのなら、わが軍もあとに続きましょう」と申し入れてきた。 先縠はよろこんで「楚を破って鄭を従わせるのは今です。ぜひその申し入れを受けよう」と言うと、 欒書が「わが国の方が徳義がなくて楚に恨まれているので、こちらが不義で楚が正義である。だから楚は疲労しているとはいえない。 鄭は晋が勝てばこちらにつくが、負けたらさっさと楚になびくであろう。鄭の使者は信じることはできませんぞ」と反対した。 趙括趙同は「軍を率いたからにはただ敵を攻撃するだけだ。 鄭を属国にさえすればそれで十分だ。彘子の意見に従うべきである」と言った。
このとき楚荘王少寧を遣わして和睦を申し入れ、士会はこれを受諾した。 先縠は楚にこびへつらていると思い、趙括に命じて楚の使者を追いかけて訂正し「ただ今、当方の接待者が言い誤りました。 わたくしどもは大国(楚)の足跡を鄭から移そうと考えております(楚をけちらそうと思う)」と言わせた。
魏錡と趙旃が和睦の使者として出発した。
郤克「ふたりの不平者が出かけた。防備をしておかないと楚に攻め込まれるだろう」
先縠「わが軍には戦うか和するか決定的な命令がない。防備したとしても役に立つまい」
はたして楚軍は全軍で攻撃してきて、晋軍はなすすべなく敗れた。
冬、先縠は宋の華椒、衛の孔達、曹の大夫と衛の清丘で同盟した。
B.C.596秋、先縠は前年、自分が主張して晋軍を敗北させる結果を招いたので、誅殺を恐れて赤狄をそそのかせて晋を討たせた。
冬、邲の敗戦と清の侵略を招いた罪により、先縠は一族ともども皆殺しにされた。
先克(センコク)【将軍】
晋の将軍。中軍の佐。先且居の子。〜B.C.618。
B.C.621夷の蒐のとき、晋襄公箕鄭先都を昇進させ、 士縠梁益耳を中軍の将と佐に任命しようとしたが、 先克は「狐偃趙衰の功績を忘れてはなりません」と諌めたので、 襄公は狐射姑を中軍の将、趙盾を中軍の佐に任命した。
B.C.620趙盾は中軍の将となり、先克を中軍の佐、荀林父を上軍の佐、 先都を下軍の佐、歩招霊公の御者、 戎津をその右とし、晋の菫陰まで軍を進め、秦軍に気づかれぬようにこっそりと夜中に出発した。
4月2日、晋軍は秦軍を令狐で打ち破り、晋の刳首まで追撃した。先克は晋軍が菫陰で秦軍を防いだとき、 先克は蒯得の所有していた菫陰の地を奪った。
B.C.619先克に不平を持つ箕鄭・先都・士縠・梁益耳・蒯得らが乱を起こした。
B.C.618、1月、先克は箕鄭らに殺された。
冉豎(ゼンジュ)【武官】
魯の臣。季氏の家臣。
B.C.516斉が魯に攻め入った。冉豎は斉の田開を射て手に当てた。田開は弓を落として冉豎をののしった。 冉豎は季平子に報告して「立派な人物がおりました。顔が白く、ひげも眉も真っ黒で、大きな口でした」と言うと、 季平子は「きっと子彊(田開)であろう。相手にならぬのがよかろう」と言った。そこで冉豎は「立派な人物であるからには、どうして手向かいいたしましょう」 と答えた。
冄孺(ゼンジュ)【在野】
孔子の弟子。字は子魯。B.C.501〜。
専諸(センショ)【武官】
刺客。呉の堂邑の人。鱄設諸ともいう。〜B.C.515。
伍子胥が楚を逃げて呉に行ったとき、専諸の才能を知った。 伍子胥は呉の公子が呉王を殺そうとしているのを知ると、 専諸を公子光に推薦し、後日に備えた。公子光は平素からひそかに腹心の謀心を養って、王位を奪おうとしていたので、専諸を得ると賓客として厚く待遇した。
B.C.515楚平王が没したので、 呉王僚は公子掩余燭庸とともに楚を討ったが、 楚に退路を断たれて帰国できなくなった。そこで公子光は「この時機を失ってはならない」と言うと、専諸は「王僚を殺すときでしょう。その母は年老い、その子は年若く、 しかも二弟は兵を率いて出て、後方を断たれています。いまや呉は国外で楚に苦しみ、国内では兵力空しく気骨ある臣がおりません。 これではわが方をどうすることもできません」と言った。
公子光は頓首して「わしの身は、子の身である」と言った。
4月丙子、公子光は武装兵を地下室に伏せ、酒を用意して王僚を招待した。僚王は兵士を列ねて警護を堅固にしていた。酒宴がたけなわになると、 公子光はいつわって足を痛むふりをして地下室に入り、専諸に命じて腹中に匕首をひそめた焼魚をすすめさせた。王の前に行くと専諸は魚をつんざき、匕首をもって僚王を刺した。 王はたちどころに死んだが、専諸もまた左右の者に殺された。
公子光は自立して王となったが(闔閭)、専諸の子を封じて上卿として優遇した。
先且居(センショキョ)【将軍】
晋の将軍。上軍の将。中軍の将。先軫の子。蒲城伯ともいう。〜B.C.622。
B.C.629狐毛が死んだので、文公趙衰を後任に命じたが、 趙衰は「城濮の戦いで、 先且居はよく軍を輔佐しました。戦功には賞があり、君を善導すれば賞があり、その官職に有能なら賞があります。 且居にはこの三賞があって放置できません。その上、臣の同輩には箕鄭胥嬰先都がいます」と言って辞退した。そこで文公は先且居を上軍の将に任じた。
狐偃が死んだため先且居は上軍の佐の後任をお願いしたので、文公は趙衰を上軍の佐に任じた。
B.C.627、8月、晋は狄を箕で打ち破ったが、先軫が戦死した。襄公は帰還すると、先且居を中軍の将に任じた。
B.C.626夏、襄公は衛を討ち、衛の南陽まで攻め入った。先且居が襄公を諌めて「他人を咎めながら、それと同じことをするのは禍を招きます。 君にはどうか温の周王のところにお出かけください。わたしが軍を引き受けましょう」と言った。
5月、先且居と賈佗は衛を討ち、戚を包囲した。
6月9日、戚を陥落させ、孫昭子を捕えた。
B.C.625春、秦の孟明視が晋に攻め入ってきた。
2月、先且居は中軍の将となり、趙衰が中軍の佐となり、王官無地が襄公の御者、 狐鞫居がその右を務めた。
2月9日、晋軍は秦軍と彭衙で戦い、秦軍を大破した。晋の人はこの秦軍を拝賜の師と読んで嘲笑した。
冬、先且居は宋の公子、陳の轅選、 鄭の子家とともに秦を討って汪を攻め取り、彭衙まで攻め込んで引き返し、彭衙の役の報復をした。
先且居は霍邑を受封したので、霍伯ともいわれる。
B.C.622没す。
先軫(センシン)【将軍】
晋の将軍。下軍の佐。中軍の将。〜B.C.627。
原の地に領土を有したので、原軫ともいわれる。
重耳の亡命に従い、晋君となることを助ける。
B.C.633楚成王が宋の都を包囲し、宋の公孫固が危急を告げた。 先軫は「宋の贈物に報い、わが覇業を定めるには、いまこそその機会です」といい楚を討つことを勧めた。そこで文公は三軍を編成し、 趙衰を卿にしようとしたが、趙衰は「欒枝は貞節慎重で、先軫は智謀あり、 胥臣は物知りですから、皆補佐の卿に適任です。臣はかないません」と言って辞退したので、先軫は下軍の佐に任じられた。
B.C.632、2月、中軍の将郤縠が死んだので、先軫が代って中軍の将となった。
再び楚が宋を包囲した。文公はかつての恩義があるため楚を討ちたくなかった。そこで先軫は「曹伯を捕え、曹・衛の土地を分割して宋に与えるのがよいと思います。 そうすれば楚は曹・衛を救い、宋を放棄するでしょう」と言い、文公はそれに従った。
楚成王は兵を引いたが、将軍子玉は残って曹・衛の君を復位させれば宋を許すと交換条件をつけてきた。 先軫は「人をおさめることを礼と申します。今、楚は一言で三国(衛・曹・宋)をおさめようとし、君は一言で滅ぼそうとしています。 これでは晋が礼をわきまえぬことになります。そこでひそかに衛・曹を復位させて味方につけ、楚の使者宛春を捕えて、 楚を討てばよろしいと存じます」と進言し、文公は城濮で楚と戦った。
このとき王孫ケイが「楚では子玉だけが戦いたがって、王の心を逆らったので、ただニ軍だけであり、 友軍も子玉に離反する者が半分です。若敖氏ですら離反しているのですから、楚は必敗の態勢です。どうして逃げるのですか」と進言したので、 先軫は勇んで戦いに臨んだ。
上軍の将であった狐毛は、二本の大旗を立てていつわって退却し、 楚将子西が追撃したところを先軫と郤臻が中軍を率いて横から攻撃をかけ大いに破った。
B.C.627春、秦は周、晋を通過して無礼であり、さらに滑を滅ぼした。
先軫「秦は多くの人々の心に背いております。撃たねばなりません」
欒枝「先君文公が受けた恩義に報いないうちに秦を撃つのはよくないことです」
先軫「秦は孤児となられたわが君をあなどり、わが同姓の国を討ちました。いかなる徳に報いようとするのですか」
そこで先軫は早馬をもって姜戎に走らせ、その出兵を促し、晋は秦を討ち、殽でこれを破った。
しかし襄公は夫人の進言で殽で捕えた孟明視西乞秫白乙丙を釈放した。
先軫は「武人が奮戦して捕らえたものを夫人が放免するとはどうしたことです。晋は間もなく滅びるであろう」と言って、ふり向きもせずに君の面前でつばきを吐き、 彼らを追跡したが、すでに黄河を渡っており彼らはついに引き返さなかった。
8月、晋は狄と箕で戦った。
8月22日、先軫は「あんな不敬を犯したのに、わが君は私をおとがめなさることもなかった。この上は自分でわが罪を罰せねばならない」と言って、 冑を脱いで狄軍の中に攻め入って討ち死にした。晋軍は狄を打ち破った。
先辛(センシン)【文官】
晋の臣。
B.C.608夏、河曲の戦いのときに軍令に従わなかった者を処罰するとして胥甲は衛に追放され、胥甲についていた先辛は斉に出奔した。
鱄設諸(センセツショ)
専諸
セン孫(センソン)【武官】
魯の臣。荘公の戎右。
B.C.684宋と戦い(乗丘の戦い)、荘公が射落とした南宮万を生け捕りにした。
顓孫(センソン)【武官】
陳の臣。
B.C.672陳の太子禦寇が殺されると、田完とともに斉に逃れ、顓孫は斉から魯に出奔した。
顓孫師(センソンシ)【在野】
孔子の弟子。姓は顓孫、名は師、または賜。字は子張。B.C.503〜。
陳の人。
孔子に随行して陳・蔡で困窮した時、どうしたら自分のことばが行われるのだろうかと問うた。
孔子は言った「ことばに真心があり、おこないが、うやうやしければ蛮貊の国でも行われよう。いつも真心を離れることなく、立てば眼の前にあるよう、 離れれば衡(よこぎ)にかかるように見えてこそ、自分のことばが行われるのである」
孔子は顓孫師と卜商を評して「師は行き過ぎ、商は控えめ過ぎる」と言った。
顓孫師は、琴をよくしたので琴張といったという。
宣太后(センタイコウ)【女官】
恵文君の夫人。昭襄王の母。姓は羋。〜B.C.265。
楚の王族。
B.C.307武王が没すると、昭襄王が代わって立ち、宣太后はもとは羋八子(八子は婦官の爵第四等)と呼ばれていたが、 宣太后と号した。
昭襄王が若かったので、宣太后が摂政となる。一族の魏冄高陵君涇陽君らはみな権力を振るった。
楚が韓を討ち雍氏を包囲して5ヶ月になった。韓は秦に救援を求めたが、秦は殽山から降りて救援に向かわなかった。 尚靳は秦に使者として赴き「韓は秦に対する関係は、平時には敵に対する覆いとなり、非常時には先鋒となっています。 私は『唇がそりかえれば、歯は寒いものだ』と聞いています。どうか大王には、このことをよくお考え下さい」と言った。
宣太后はもっともだと思い、尚靳を召し入れた。
しかし宣太后は「秦には、韓を救援する軍もなく、兵糧も豊かでないのです」と婉曲に断った。尚靳は帰国して襄王に報告した。
韓は今度は張翠を秦に派遣した。張翠は病気だと言いながら、日々一県ずつ進んでいった。
秦の宰相甘茂は「韓はさぞかし急迫しているのでしょう。先生には病をおして来られるのですから」と言った。
張翠は「まだ急迫しておりません」と答えた。
「ほんとうにそうなのでしょうか」
「ほんとうに火急に陥れば、韓は腰を折って楚に参入いたしましょう。どうして私がここへ来たりしましょうか」
秦はすぐに韓を救った。
B.C.271范雎が昭襄王に取り立てられ、宣太后が専制であること、魏冄が諸侯に対してほしいままに権力を振るうこと、 涇陽君・高陵君らがすこぶる奢侈で王室よりも裕福なことを言上した。
B.C.265宣太后は魏醜夫を寵愛していたが、宣太后は危篤に陥ると、魏醜夫を殉死させるよう命じた。 魏醜夫はこれを聞いて悩んでいたので、庸芮が宣太后を説いて言った。
庸芮「死者に知覚があるとお考えですか」
宣太后「あるはずがない」
庸芮「知覚がないのであれば、どうして生前で寵愛の男を葬ろうとされるのでしょうか。もし死者に知覚があるのならば、 先王は太后に対して怒りをためておられます。魏醜夫をこっそり寵愛することはできないでしょう」
宣太后は殉死の件をとりやめた。
7月、宣太后は薨じて芷陽の酈山に葬られた。
然丹(ゼンタン)【文官】
楚の臣。右尹(侍従)。子然の子。子革ともいう。
B.C.538冬、呉が楚に攻め入った。そのため然丹は州来に城壁を築いた。
B.C.533春、然丹は城父(夷)に住んでいた人を陳に移し、夷の濮水以西の耕地を陳につけ加え、方城の外の人をもとの許の地に移した。
B.C.531楚霊王は陳と蔡と不羮に城を築いて言った。
霊王「この3城だけで晋に対抗できよう。その上楚を加えたなら、諸侯は楚に仕えるであろう」
申無宇が諌めて「鄭に京・櫟があり、衛に蒲・戚があり、宋に蕭・蒙あり、魯に弁・費あり、斉に渠丘あり、晋に曲沃あり、 秦に徴衙があります。これらはみな宗家に叛乱をしました。わたくしは楚もこのようなことになることを恐れるのです」
霊王「彼は天を知っているだけで、どうして民を知っていようか」
然丹「民は天が生んだものですから、天を知っていればきっと民を知っています」
しかし霊王は諫言を聴き入れなかった。
B.C.530冬、楚霊王は徐を討ち、乾谿に宿った。然丹が夕方にご機嫌伺いに参った。
楚霊王「わが先王熊繹は周に仕えたが宝を与えられなかった。今わたしは周からもらおうと思うが、周王は私に与えるであろうか」
然丹「賜るでしょう。今や周や四方は楚に服従しております。どうして賜らないことがありましょう」
楚霊王「わが先祖の昆吾は許の地に住んでいたが、今は鄭がその地をむさぼり、返そうとしない。要求したら返すであろうか」
然丹「返すでしょう。周でさえ宝を与えるのですから、小国の鄭が返さないはずはありません」
楚霊王「諸侯はわが国を恐れているだろうか」
然丹「恐れています。陳・蔡・不羮はそれだけで一国の力がありますが、これに楚が加わっているのです」
これらの問答から楚霊王は然丹を「故事に通じている」と評した。楚霊王が退出した隙に僕析父が然丹に 「あなたは王の心のままに従っている。この国をどうなさるおつもりか」と責めた。然丹は「わが刃を研いで王の出方を待っているのです。 やがて王のみだらな心を断ち切るでしょう」と答えた。その後、然丹は祭公謀父のたとえを出して楚霊王を諌めたが、 楚霊王は私欲を抑えることができなかった。
B.C.529、4月、各地で叛乱が起こり、叛乱軍は都に入って太子を殺して公子を立てて王とした。 楚霊王はこれを聞いて驚き、車から転げ落ちた。
然丹「どうか郊外でお待ちください。だれが味方になるか見てきましょう」
楚霊王「大衆の怒りは防ぎきれるものではない」
然丹「ならば大きな町に入って諸侯に援軍を求めましょう」
楚霊王「みな背いているからどうにもならぬ」
然丹「ならば諸侯に逃げて王を助けてくれるか見ましょう」
楚霊王「ただ辱しめを受けるだけだ」
然丹は霊王を見限って都に立ち去った。
B.C.528夏、然丹は楚平王の命に都の西方の軍を宗丘で検閲し、かつその地方の民を慰撫した。
B.C.526、1月、蛮に内乱があり、蛮の君が信義のないことを聞いて、然丹は蛮の君嘉を誘い騙して殺し、すぐに蛮を攻め取った。
先丹木(センタンボク)【武官】
晋の臣。
B.C.660冬、申生に東山の皋落狄を討つように命令が下り、狐突が申生の御者となり、 先友がその右乗となり、梁余子養罕夷の御者となり、 先丹木がその右乗となり、羊舌大夫が軍尉となった。
先丹木は「敵を全滅させることなどできるものではない。できたとしても、まだ宮中で太子の悪口を言う者がいる。逃げたほうがよい」と言った。
そこで狐突が申生を連れて逃げ去ろうとしたが、羊舌大夫がこれを諌めたので、申生は戦いを決意し、狄を破った。
先彘子(センテイシ)
先縠
先都(セント)【将軍】
晋の将軍。新下軍の将、下軍の佐。〜B.C.618。
B.C.629狐毛が死んだので、文公趙衰を後任に命じたが、 趙衰は「城濮の戦いで、 先且居はよく軍を輔佐しました。戦功には賞があり、君を善導すれば賞があり、 その官職に有能なら賞があります。且居にはこの三賞があって放置できません。 その上、臣の同輩には箕鄭胥嬰・先都がいます」と言って辞退した。 そこで先都は新下軍の将に任じられた。
B.C.621夷の蒐のとき、晋襄公は先都を昇進させようとしたが、 先克が「狐偃や趙衰の功績を忘れてはなりません」 と諌めたので、襄公はとりやめた。
B.C.620趙盾は中軍の将となり、先克を中軍の佐、荀林父を上軍の佐、 先都を下軍の佐、歩招霊公の御者、 戎津をその右とし、晋の菫陰まで軍を進め、秦軍に気づかれぬようにこっそりと夜中に出発した。
4月2日、晋軍は秦軍を令狐で打ち破り、晋の刳首まで追撃した。
B.C.619先都は、先克に不平を持つ箕鄭・士縠梁益耳蒯得らとともに乱を起こした。
B.C.618、1月、先都らは賊を放って先克を殺した。
1月19日、先都は晋人に殺された。
冄伯牛(ゼンハクギュウ)
冄耕
先蔑(センベツ)【将軍】
晋の将軍。左行の将。士伯ともいう。
B.C.632晋ははじめて三行(三隊の歩兵部隊)を編成し、先蔑は左行の将に任じられた。
B.C.621趙盾の命で、 先蔑は士会とともに秦から公子を迎えるため秦に出向いた。
荀林父がそれをとどめて 「夫人(繆嬴)も太子(霊公)もいるのに他から君を迎えようとするのは、 うまくゆかないに決まっている。病気にかこつけて辞退されるのがよい。出かけたら災難にかかるでしょう」と諌めたが、先蔑は聴き入れなかった。
B.C.620はたして心変わりした趙盾に攻められて令狐で敗れたため、先蔑は秦に亡命した。荀林父は先蔑の妻子と家財道具をすべて秦に送り届けた。
単蔑(ゼンベツ)【武官】
周王朝の臣。
B.C.543、5月5日、単蔑は劉毅尹言多甘過鞏成らとともに公子佞夫を殺した。
詹父(センポ)【文官】
周王朝の臣。〜B.C.673。
B.C.702春、詹父は虢公林父に讒言された。しかし詹父はそれを弁明することができたので、 周桓王は怒って軍を率いて林父を討った。林父は虞に出奔した。
恵王蔿国の菜園を取り上げて王の庭園とし、 辺伯の邸宅が王宮に近かったので、これを取り上げ、さらに子禽祝跪・詹父の田地を取り上げ、石速の秩禄をも取り上げた。
B.C.675蔿国・辺伯・子禽・祝跪・詹父・石速は乱を起こし、かねて王室を恨んでいた蘇氏を中心として団結した。
秋、詹父らは公子をかつぎ上げて恵王を攻めたが、恵王はこれを撃退した。勝つことができなかったので、 詹父らは蘇氏の領地の温に出奔した。
そこで6人は衛と南燕の軍とともに周を攻め、恵王は温に逃げ、鄭の都櫟に移った。
冬、詹父ら6人は公子頽を擁立した。
B.C.673夏、鄭厲公虢叔林父が挙兵し、 厲公は恵王と共に南門から都城に入り、虢叔林父は北門から入って頽を殺し、詹父も誅殺された。
穿封戌(センホウジュツ)【武官】
楚の臣。陳の県令。
B.C.547、5月、楚は鄭を討ち、穿封戌は皇頡を捕らえた。 ところが楚の公子がその功を争ったため、伯州犂が裁くことになった。 伯州犂が尋ねると、皇頡はいつわって「わたしは王子(公子囲)に出会って負けたのです」と答えた。穿封戌は立腹して戈を抜いて公子囲を追いかけたが、 追いつかなかった。
B.C.534、10月、楚霊王は陳を滅ぼして陳を県に改め、穿封戌を陳の県令に任じて「お前は城麋の役(B.C.547)のときに、わたしにへつらわなかったからだ」と言った。 穿封戌は「もし王が今日のようになることを知っていたら、わたしは一命を投げ出して礼を守り、楚を安らかにするため働いたでしょう」と答えた。
B.C.529陳は復興し、穿封戌は陳公を免ぜられた。
先僕(センボク)【武官】
晋の臣。
B.C.624秋、楚が江を攻め囲んだ。先僕は命ぜられて楚を討って江を助けた。
還無社(センムシャ)【文官】
蕭の臣。
B.C.597冬、楚が蕭を討ち、楚兵が蕭の城壁にせまった。還無社は楚の司馬卯に話しかけ、 知り合いの楚の申叔展を呼び寄せてもらった。
申叔展「麦のもやし(内乱を防ぐ策)はあるのか」
還無社「ない」
申叔展「山鞠窮(外患を防ぐ策)はあるのか」
還無社「ない」
申叔展「河魚の腹疾(国が大敗すること)をどうするのか」
還無社「空ら井戸を目当てに助けてくれ」
申叔展「お前は茅で輪を作って井戸の目印にせよ。その井戸に哭声をあげる者はわたしだから、出て来い」
その翌日に蕭は全滅した。申叔展が井戸を探すと茅の輪があったので、還無社は救い出された。
冉猛(ゼンモウ)【武官】
魯の臣。
B.C.502魯が斉を討った。魯軍が退却するとき、冉猛は足に負傷したと偽って先に逃げ帰った。 すると兄の冉会がいつわって大声をあげて「猛はしんがりをつとめている」と言った。
2月、魯は斉に攻め入り、廩丘の外城を攻めた。魯軍が勢いに乗じて外城をぶちこわした。すると城内の軍が討って出たため、魯軍は驚いて逃げ走った。 陽虎は先に逃げ帰った冉猛を見なかったふりをして「猛がこの場におれば、きっと敵を討ち破るであろう」と言って冉猛を激励した。 冉猛はこれを聞いて敵兵を追ったが、振り返ってみると続いてくる者がいなかったため、わざと倒れた。これを見た陽虎は「みな真の勇者ではない」と言った。
先友(センユウ)【将軍】
晋の将軍。
B.C.660冬、申生が皋落狄討伐に出ると、先友はその車右となった。 申生が「君侯がわたしに偏衣と金玦を下さったのは、なぜでしょうか」と尋ねた。先友は「君侯の衣服を二つに分けて、金属の武器で切断する権威があります。 すべてはこの征伐にかかっております。若君よ、つとめなされよ」と答えた。
狐突が先友に「君侯が太子に偏衣を着せ、金玦を佩びさせた。たとえ努めても、狄を全滅できようか」と言った。 先友は「すべてはこの征伐にかかっています。ただ努めるだけです。何の心配もいりません」と答えた。
申生は皋落狄を破った。
冄有(ゼンユウ)【文官】
魯の臣。名は有または求。字は子有。孔子の弟子。B.C.522〜
魯の人。孔門の十哲のひとり。
冄有は孔子に、大きな町や卿大夫の領地の宰となる力をもっていると称される。
冄有は季康子の家宰となる。
冄有が孔子に「よいことは聞くままにすぐおこなってよろしいでしょうか」と問うた。孔子は「よろしい」と答えた。 また仲由が孔子に同じことを聞くと、孔子は「相談すべき父兄があるからには、聞くままにおこなってよいことがあろうか」と答えた。
子華がこれを怪しみ「同じ質問であるのに、お答えが違うのは、どうしてでしょう」と問うた。孔子は「求(冄有)は慎重で、引き込みがちだから進めたのであり、 由は勇敢で、人に先んずるふうがあるから抑えたのである」と答えた。
B.C.484季氏のために軍を率い、斉を破った。
季康子に「そなたのはかりごとは、学んだものですか、それとも生まれつきのものですか」と問われると、
「孔子から学びました」と答えた。
「わたしは孔子を招きたいと思うが、どうだろうか」と問われると、 「小人扱いをして、賤しめるようなことがなければ、よろしゅうございましょう」と答えた。
こうして季康子は孔子を招いた。
B.C.483季康子は軍備の賦課方式を改め、課税範囲を狭めて田ごとに馬1頭牛3頭を課す大改革を行った。 それに先だって季康子は冉有に命じて孔子に事の可否を尋ねさせた。孔子は返答せず、非公式に冉有に「もし季孫どのが法を知りたいのであれば、周公の定めた典籍がある。 もし法を犯そうとするならば、勝手に賦課したらよい」と言ったが、季康子は聴き入れなかった。
冉有は、季康子の悪政を改めさせることができず、さらに租税を二倍にしたため、孔子に「もはや求は我々の仲間ではない」と非難された。
冄雍(ゼンヨウ)【在野】
孔子の弟子。姓は冄、名は雍、字は仲弓。
魯の人。孔門の十哲のひとり。
孔子は冄雍を徳行あるものとして「雍は人君として南面させるにふさわしい」と言った。
冄雍の父は身分の賤しい人であった。しかし孔子は「犂牛(祭りに供えられないまだらな耕牛)の子も、赤くて角があれば、 大事な祭祠の犠牲に用いないでおこうとしても、山川の神々は、これを見棄てるはずがない」と言った。
冄雍は魯の季氏の宰となった。


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