- 儋(タン)【文官】
- 周の太史。
B.C.373秦献公に謁見して「はじめ周は秦国と親しいが、そのうち分かれて500年でまた合同し、
合同して17年で覇王が出るでしょう」と予言した。
B.C.770年の周の東遷から考えると覇王は始皇帝であろうか。
この人物は老子であるとも言われる。
- 赧(タン)【皇帝】
- 周王朝37代王。慎靚王の子。
B.C.314即位する。周の都は王城と成周に分かれていたが、また王城ひとつに戻った。
B.C.282楚頃襄王は使者を諸侯に遣わして合従して秦を討とうとし、まず秦と親しい周を侵そうとした。
赧王は武公を遣わし、楚の宰相昭雎に説かせて攻撃をやめさせた。
周を東西に分けて治めることとなり、王赧は都を西周にうつした。
B.C.256秦に背いたことで攻められ、赧王は頓首して罪を謝し、36邑と3万人の人民をことごとく秦に献上した。
赧王が没すると周の民はついに東方に逃げ、西周もB.C.249秦荘襄王に滅ぼされる。周の帝祚はことごとく滅び、祭をするものがいなくなった。
- 丹(タン)【公子】
- 燕の公子。燕王喜の子。〜B.C.226。
秦の人質となる。
B.C.233秦から燕に逃げ戻る。秦王政に軽んじられたためであった。
丹は秦の侵攻を憂え、太傅鞠武にその対策を尋ねた。
また、秦の将軍樊於期が秦に罪を得て、燕に逃亡してくると、丹はこれを受け入れた。
鞠武はこのことで燕王喜を諌めたが、王は丹のためこれを聴き入れなかった。そこで鞠武は田光を推挙して彼に相談するよう進言した。
そこで丹は田光に会い策を請うた。
田光は「太子はわたしの壮んなころのことを聞いて、精力の衰えた今のわたしをご存じないのです。わたしの親友に荊卿というものがおり、
これこそお役に立ちましょう」と言った。
丹は荊軻と会う約束をかわし、退出する時「わたしの話したことも先生の言ったことも、国の大事だから、おもらしなさらぬように」
と念を押した。田光は身をかがめて、笑って承諾した。
田光は荊軻にこのことを話し「太子は最後に念を押された。これは太子がわたしを疑うものである。事をはかって人に疑わせるのは気節義侠とはいえない」と言い、
みずから首をはねて死んだ。
荊軻は丹に謁見し、田光がすでに死んだことを伝えた。丹は涙を流して「わたしが他言せぬよう申したのは、大事のはかりごとを成し遂げたいと思ったからです。
田先生が死なれたのは、わたしの本意ではない」と言った。
荊軻は秦王政を暗殺することを承諾し、丹は荊軻を尊んで上卿とした。
B.C.227燕に勇士秦舞陽というものがおり、13歳で人を殺したことがあり、丹は秦舞陽を荊軻に随行させようとした。
荊軻は別に期待していた者がいたが、まだやって来なかった。
丹は出発をせかしたので、荊軻は怒って「舞陽を遣わすとは何事です。失敗するなら、その原因となるのはその小僧でしょう」と言い、ついに出発した。
荊軻は督亢の地図と樊於期の首を秦に献上し秦王政を暗殺しようとしたが失敗した。
B.C.226秦に攻められ国都薊を失うと、丹は斬られて秦に献じられる。
(『史記』白起王翦列伝第十三では丹は秦に攻められ、衍水の水中で李信に捕えられたことになっている。
この場面は史記の中での整合性が取れていない。)
- 単(タン)【武官】
- 周王朝の臣。商王朝の王族。
周の克殷の後、周の下で東方の商系勢力を討ち、貝10朋を賜る。
- 段(ダン)【公子】
- 鄭の公子。武公の子。荘公の弟。
B.C.744母の武姜に愛されたため、京という人口の多い土地に封じられた。兄をもしのぐ勢いであったので、
世の人は「京城の大叔」と呼んだ。
さらに領地の拡張をくわだて、鄭の西鄙・北鄙の人々を買収した。
西鄙・北鄙の地を自己の領地とし、さらに廩延の地までも手を伸ばした。
さらに城壁を固め、兵糧を集め、武器をつくろい、軍勢を整えた。
B.C.722段は叛乱を起こそうとしたが、荘公に京城を攻められると、京城の民は段に背いた。そのため段は鄢に走り、さらに鄢でも大敗した。
5月22日、段は共の国に出奔した。
- 段(ダン)【文官】
- 鄭の臣。子張の子。
B.C.551、9月、父の子張は病気になったので、家老や親族を集めて、段を立てて相続させ、家臣の数を減らし、祖先の祭りを質素に行い、
余分の領邑は残らず君に返上して言った「乱れた世では貴い位についても貧しい生活に耐えておれば滅亡をのばすことができるといいます。
よくよく身をつつしんで君と大臣にお仕えしなさい。生きながらえる道は身をいましめて用心することで、財を豊かにすることではない」
- 檀(ダン)【文官】
- 魯の臣。季公鳥の家臣。〜B.C.517。
B.C.517季公鳥が没したあと、
季公若と公思展と申夜姑は季公鳥の家を世話した。
ところが季公鳥の夫人季似は檀と密通するようになり、季公若に責められることを恐れて、自分を打って傷つけさせ、
季公若が自分をわがものにしようとしたと訴えた。これを聞いた季平子は公思展を卞に拘留し、申夜姑を捕らえて殺そうとした。
季公若は泣いて悲しみ「夜姑を殺すのはわたしを殺そうとするようなものだ」と言って命乞いをしようとした。しかし季平子は役人に命じて季公若を面会させないようにし、
申夜姑は季公之に殺された。
- 儋括(タンカツ)【文官】
- 周王朝の臣。儋季の子。
父の儋季が亡くなり、喪を終えてから儋括は周霊王にお目にかかるため入朝したとき、
「ああ、この朝廷の権力を持ちたいものだ」と溜息をついた。これを聞いた愆期は周霊王に讒言して儋括を殺すよう言ったが、
周霊王は「子供には何も分かるまい」と問題にしなかった。
B.C.545周霊王が崩御すると、儋括は公子佞夫を立てようとした。
B.C.543、4月29日、儋括は蔿を攻め囲み、愆期を追い出した。
5月5日、尹言多・劉毅・単蔑・
甘過・ 鞏成が公子佞夫を殺したため、
儋括は公子瑕・公子廖らと晋に亡命した。
- 段干越人(ダンカンエツジン)【在野】
- 戦国時代の説客。
段干越人は秦に赴き、秦の宰相羋戎に、自分と羋戎との間を塞いでいる姦人を取り除いて、
大いに腕を振るわせて欲しいと求めた。
- 段干子(ダンカンシ)【文官】
- 魏の臣。
B.C.274魏は秦に趙・韓とともに破られ、15万の兵を失い、将軍芒卯は敗走する。
段干子は秦に南陽を与えて和睦するよう安釐王に請うた。
- 段干朋(ダンカンホウ)【文官】
- 田斉の臣。段干綸ともいう。
B.C.380秦と魏が韓を攻め、韓は援けを斉に求めた。桓公は大臣にこれをはかった。
段干朋は「援けなければ、韓は今にも屈して、魏に入ろうとするでしょう。援けたほうがいいでしょう」と進言した。
結局、田臣思のはかりごとを用い、いつわって韓を援けると告げた。
韓はそれを信じて秦・魏と戦い、楚・趙が韓を援けた。
B.C.356魏が趙の邯鄲を包囲し、趙が援けを求めた。威王は大臣にはかった。
段干朋は「援けなければ不義であり、不利でもあります。魏氏が邯鄲を取っても斉には利なく、趙を援けると言って趙の郊野に駐屯するだけで、趙は討たれず、
損害もありません。そして襄陵を攻めて魏を疲弊させ、魏が邯鄲を抜いた時、魏の後を討てばよいのです」と言った。
威王はこれに従い、桂陵で大いに魏を破った。
- 段干木(ダンカンボク)【文官】
- 魏の臣。卜商の弟子。
魏成子の推挙で魏文侯に仕え、賓客として処遇される。
文侯は段干木の郷里の門を通り過ぎるごとに、首を垂れ車の横木を撫でて、敬意を払わないことがなかった。
- 段干綸(ダンカンリン)
- →段干朋
- 儋季(タンキ)【公子】
- 周王朝の公子。周簡王の子。
- 段規(ダンキ)【文官】
- 晋の臣。魏の相。
B.C.457段規は荀瑶と藍台で宴会をしたとき、韓康子とともに辱しめられた。
B.C.456魏桓子は荀瑶とともに趙毋卹を討つが、
魏桓子は韓康子と謀って、逆に荀瑶を討ち、これを破った。
三晋がその地を分割しようとした。段規は韓氏に「必ず成皋の地を取ってください」と進言した。
韓氏は「成皋は石だらけの土地で、私には使いようがないが」と言った。
「そうではありません。『わずか一里四方の要害の地でもって、広大な千里四方の権勢を震動させることができるのは地勢の利である』と。成皋を取れば、
韓は必ず鄭を取れるでしょう」
韓氏は「もっともだ」と言い、果たして成皋を取った。
後に韓が鄭を取るときに至って、成皋を起点としたのである。
- 冄季載(タンキサイ)【王】
- 冄公(初代)。名は載。周文王の10子。司空。
管叔鮮・蔡叔度・禄父が反乱を起こした後、
冄に封じられる。
おこないがおだやかであったため、周公旦より周の司空(内政の最高官)に任じられる。
沈、冄氏の始祖となる。
- タン啓(タンケイ)【文官】
- 周王朝の臣。
B.C.613宰孔と王孫蘇が政権を争っていた。
タン啓は周匡王の命で王孫蘇に味方して、宰孔の無実の罪を晋に裁いてもらうよう謀った。
晋の趙盾は王室の騒動を治めて元どおりにした。
- 段産(ダンサン)【文官】
- 秦の臣。秦王の近侍。
段産は新城君に、新城君のことを讒言しないから、他人が段産のことを誹謗しても信用しないようにとお願いした。
- 郯子(タンシ)【文官】
- 商代の夷系の古族。
B.C.528魯を訪れて、孔子に古代の諸伝承を伝えた。孔子は感服して「学、四夷に在り」と言った。
- 丹朱(タンシュ)【神】
- 堯の子。
頑固であるとして、堯の後継者にはなれなかった。
舜は位を丹朱に譲ったが、諸侯は丹朱のところへは参内せず、舜のところへ行き、民も舜のことを謳歌したという。
- 譚拾子(タンシュウシ)【在野】
- 戦国時代の説客。
斉の人。
B.C.296孟嘗君が斉から追放された後、復帰することができた。譚拾子は孟嘗君を出迎えて言った。
譚拾子「君は、讒言した斉の士大夫をお怨みになっていることでしょう」
孟嘗君「もちろんだ」
譚拾子「彼らに報復しますか」
孟嘗君「そのとおりだ」
譚拾子「君は、事には必至があり、理には必然があるということをご存知ですか」
孟嘗君「知らない」
譚拾子「事の必至というのは死のことであり、理の必然とは、富貴になれば人は従い、貧賤になれば人が離れるということです。たとえば、
市場は朝は人が満ちていますが、夕にはいなくなります。朝に市場を愛し、夕にこれを憎むというのではなく、朝には求める物があるから人が集まり、
夕にはないから離れるのです。
どうか君にはお怨みにならないで下さい」
そこで孟嘗君は怨みに思っていた者の名を書いた札500枚を削り去り、決して口にしようとはしなかった。
- 褍秦(タンシン)【公子】
- 宋の公子。元公の末子。
- 聃甥(タンセイ)【武官】
- 鄧の公子。
B.C.703鄧の邑ユウの人が巴の使者韓服と楚の使者道朔を殺した。
夏、鬭廉は楚武王の命で巴軍と連合してユウを包囲した。
聃甥は養甥とともにユウを救援し、三度巴軍を追い払ったが、楚軍には勝てなかった。
鬭廉はわざと逃げるふりをして鄧の軍を誘い込み、巴軍とこれを挟撃して大破し、ユウ軍は夜のうちに壊滅させられた。
B.C.688楚文王は申を討つ途中、鄧に立ち寄った。鄧キ侯は「わたしのおい子である」
と言って文王をもてなした。公子騅甥が「やがて鄧を滅ぼすのはきっとこの人です。早いうちに処理しないと、
後でどうにもなりません」と諌めたが、キ侯は「わたしが甥を殺したりすれば、わたしをいやしんで、わたしの食べ残しを食べるものはないであろう」と答えた。
聃甥は騅甥・養甥とともに「国が滅亡すれば社稷宗廟にはお供え物があがらなくなります。
そうなったら、どこに食べ残しなどがありましょうか」と言ったが、聴き入れられなかった。
はたして文王は申の討伐を終えると、その帰途に鄧を討った。
B.C.678楚文王に攻められて、鄧は滅亡する。
- 単襄公(タンゼンコウ)【王】
- 単公。周王朝の卿士。名は朝。
B.C.601周定王の命で使節として宋を聘問し、陳を経由して楚を聘問した。
陳を経由した時、道路は草が茂って通ることが出来ないほどであり、侯人の出迎えがなく、司空は道の補修を視察せず、沢には堤防がなく、川には橋がなかった。
田野には収穫した穀物が野積みにされ、膳宰は肉類を届けず、司里は旅館に案内せず、国には宿舎も無く、県にも休息宿泊の設備が無かった。
民は夏氏の家に台を建てるために働かされていた。
単襄公が陳の都に来ると、陳霊公は孔寧、
儀行父とともに楚の冠をかぶって夏姫の家に遊びにいっており、周の貴賓を朝見しなかった。
単襄公は帰国して定王に報告した「陳侯に大きなとがめがないならば、国はきっと滅びるでしょう。今、陳では道がどこだか分からず、畑は雑草の中にうずもれ、
穀物は収穫されず、民は上の逸楽のために働かされており、これは先王の法制を棄てるものです。
また周の賓客が訪れたのに、各当事者が来ないのは先王の官を棄てるものです。今、陳侯は補佐の大臣と一緒に同族の妻である夏姫と姦淫するとは、家門を汚すものです。
もし先王の教えを廃止し、先王の制度を棄て、先王の官を棄て、先王の法令を犯すならば、どうやって国を守ろうとするのでしょうか」
B.C.599はたして陳霊公は夏徴舒に殺された。
楚荘王が陳に侵入し、陳は一時滅びた。
B.C.590晋景公が詹嘉を遣わして戎と周を和平させた。
単襄公は晋に赴いて戎と和平させてくれた労に対しお礼を述べた。
B.C.589冬、晋の鞏朔が斉の戦利品を周に献上した。
周定王はこれを非礼として単襄公に「命卿ならぬ鞏伯は王室にてその職分が登録されていません。
また斉はわが王室と婚姻を結んでいる親しい国である。斉が欲望をほしいままにして晋侯を立腹させたかもしれないが、
なんとか諌めて戦にならぬようにさせることができなかったのか」と言わせた。鞏朔は一言も答えることが出来なかった。
B.C.580秋、晋の郤至が鄇の地を周と争った。
単襄公は周簡王の命で王季子とともに晋に訴えた。
郤至「温の地はすべてわたくしの領地です」
王季子・単襄公「周は商に勝ったとき、蘇忿生に温の地をまかせました。後世、
襄王が晋の文公に温を与えて、その後にお前の領地となったのです。
もとは王の役人(蘇忿生)の領地です。どうしてお前がわがものにすることができよう」
晋厲公は郤至をなだめて争わないようにさせた。
B.C.575晋の郤至が鄢陵の戦勝の報告をするため周に入った。郤至は周簡王に報告する前に邵桓公に会って自分の功を自慢した。
単襄公はこれを聞いて「君子は自分から褒めたりしません。郤至は七卿の下位にありながら、他を押しのけようとしています。
これは7人の美点を覆い隠そうとするものであって、7人の怨みを買います。晋の勝利は天が楚を憎んだから、晋の手で警告したのです。
それなのに郤至は天功を盗んで自分の功績としており、不祥です」と言った。
B.C.574、6月26日、諸侯は鄭の柯陵で同盟し、戚の盟い(B.C.576)を温めた。単襄公は晋厲公、郤錡、
郤犨、郤至、斉の国佐の乱れた言行を見た。単襄公は彼らが滅びるであろうと予言した。
はたして郤至は乱によって死んだ。
夏、単襄公は晋厲公・魯成公・斉霊公・宋平公・
曹成公・衛献公・尹武公・
邾人と会合して鄭を討ち、戯童から曲洧まで侵攻した。楚の子重が鄭を助けるため鄭の首止に陣どったので、
諸侯の軍は引き揚げた。
冬、単襄公は晋・魯・斉・宋・衛・曹・邾とともに再び鄭を討った。
10月13日、諸侯は鄭を包囲した。楚の公子申が鄭を助けるため汝水に陣を敷いた。
11月、諸侯の兵は引き上げた。
晋の公孫周(悼公)は周で単襄公に仕えていた。単襄公は子の頃公に
「必ず晋周に善くしてあげなさい。今に晋の君となるだろう。その行為は文徳がある。また八卦や夢でも、晋周が君となることをいっているのだ」と言った。頃公は承諾した。
B.C.573はたして晋厲公の乱の後、晋は公孫周を迎えて君とした。
B.C.563卿士王叔陳生と伯輿が政権を争い、王叔陳生は敗れて晋に亡命した。
そのため単襄公は代わって王室の卿士となった。
- 澹台滅明(タンダイメツメイ)【在野】
- 孔子の弟子。姓は澹台、名は滅明、字は子羽。B.C.522〜。
魯の武城の人。
容貌ははなはだ醜く、孔子に師事しようとしたとき、孔子は彼を愚鈍で才能に乏しいものと思った。しかし学業を受けてから、隠退して行いを修め、道を学び、
公用以外では卿大夫に会わなかった。
澹台滅明は言偃の部下となった。
弟子300人を従え、南方に遊んで長江にいたり、名が諸侯の間に伝わった。
孔子は「私は言論で人を判断して、実行の伴わない宰予を買いかぶり、容貌で人を判断して、醜い子羽を見誤った」と言った。
- 単朝(タンチョウ)
- →単襄公
- 譚伯(タンハク)【文官】
- 周王朝の大夫。〜B.C.636。
B.C.636冬、周襄王は狄人の皇后叔隗を廃した。
そのため狄は周を攻めて、譚伯は殺された。
- 聃伯(タンハク)【武官】
- 鄭の臣。
B.C.658冬、鄭は楚に攻められる。聃伯は闘章に捕えられた。
- 単伯(鄭)(ダンハク)【文官】
- 鄭の臣。檀伯とも書く。〜B.C.697。
単伯は櫟を治めた。
B.C.697鄭厲公が都を出奔して、櫟にやってきた。そこで単伯は厲公に殺され、厲公は櫟を治めた。
- 単伯(周)(ダンハク)【文官】
- 周王朝の臣。
B.C.680斉は王命によって宋を討とうとして軍を周に願い出た。
夏、単伯は諸侯の軍に参加し、宋を和平させて帰国した。
冬、宋が降服したので、単伯は斉桓公・宋桓公・衛恵公・
鄭厲公と衛の鄄で会合した。
- 檀伯達(ダンハクタツ)【文官】
- 周王朝の臣。
檀伯達は蘇忿生とともに河内地方に封じられた。
- 儋翩(タンヘン)【武官】
- 周王朝の臣。
B.C.504夏、儋翩は鄭人とともに子朝の一味を率いて周で騒動を起こそうとした。そこで鄭は馮・滑・胥靡・負黍・狐人・闕外の周の邑を討った。
12月、周敬王は儋翩の乱を避けて姑蕕に住むことになった。
B.C.503、2月、儋翩は周の儀栗に入って叛いた。
- 端木賜(タンボクシ)
- →子貢
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