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列伝 タ


他(タ)【公子】
秦の公子。
B.C.296三国が秦を討ち、函谷関に入った。秦昭襄王楼緩に 「わたしは河東の地を割いて三国と講和したいと思うが、どうだろう」と言った。 楼緩は「このような国の大事を決めるのは、重臣方の任務です。 どうして公子他さまを召されないのですか」と答え、罪に陥れられることを避けた。
公子他は「講和されてもされなくても後悔されましょう」と言った。昭襄王が「どうしてか」と問うと「河東の地を割いて、三国の兵が引き揚げれば、きっと『惜しいことをした。 三国が引き揚げようとしたところへ、河東をくれてやるとは』とおっしゃるでしょう。その反対に、講和されなければ咸陽は危うくなり、きっと『惜しいことだ。 たった河東3県を惜しんだばかりに大敗した』とおっしゃるでしょう」と答えた。
昭襄王はついに河東を割いて三国と講和した。
佗(タ)
尹公他
頽(タイ)【公子】
周王朝の公子。荘王の子。母は。〜B.C.673。
母の姚が荘王に寵愛されたため、公子頽も可愛がられた。
蔿国が公子頽の師傅となった。
B.C.675蔿国・辺伯子禽祝跪詹父石速が叛乱を起こした。
秋、蔿国らは公子頽をかつぎ上げて恵王を攻めたが、恵王はこれを撃退した。勝つことができなかったので、蘇氏は公子頽を守って衛に出奔した。
そこで叛徒6人は衛と南燕の軍とともに周を攻め、恵王は温に逃げ、鄭の都櫟に移った。
冬、蔿国ら6人は公子頽を擁立した。
公子頽は諸大夫をあつめて宴会をはったとき、六代の舞楽(王者の楽)を奏した。
B.C.673夏、鄭厲公虢叔林父とともに王城を攻めた。 厲公は恵王をつれて南門から攻め入り、虢叔林父は北門から攻め入り、そのため公子頽と6人の大夫は殺された。
大(ダイ)【文官】
周王朝の臣。作冊(祝告などを掌る祭祀官)。
召公奭の命により彝器を製作し、公より白馬を賜与される。
太一(タイイツ)【神】
上帝、天帝の別名。
楚人は五帝(四方と中央の神)を補佐とする上帝を太一とし、これを東南の城外に祭った。
その祠の所在によって、東皇、大いなる一元神という意味で太一という。
戴悪(タイオ)【武官】
宋の臣。
B.C.534、9月、楚が陳を討って都を包囲した。戴悪もこれに参加して陳を討った。
大几(タイキ)【武官】
秦の先祖。旁皋の子。
大姫(タイキ)【女官】
胡公の夫人。周武王の長女。
戴己(タイキ)【女官】
公孫敖の夫人。穀(孟文子)の母。
莒の人。
戴己は孟文子を生んだ。
大戯(タイギ)【武官】
夏王朝の臣。
桀王に仕える。
戴嬀(タイギ)【女官】
荘公の夫人。厲嬀の妹。陳の公女。
荘公に寵愛され、完(桓公)を生む。
太姜(タイキョウ)【文官】
古公亶父の妻。
太伯虞仲季歴を生む。
大業(タイギョウ)【神】
秦の先祖。女脩の子。
(小典の娘)女華を娶り、大費を生む。
太玄女(タイゲンジョ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
姓は顓、名は和。人相見に「長生きしない」と言われたので、旅に出て王子喬の術を会得した。のち白日昇天して去った。
大甲(タイコウ)【皇帝】
商王朝4代王。大丁の子。
『史記』では、太甲とされる。
暴虐不明であり、湯の法に従わず徳を乱したので伊尹により桐宮に3年間放逐される。
3年間で過ちを悔い改めたため、伊尹から大政を奉還される。その後、太甲は徳を修め諸侯はみな帰服し百姓は安んじた。伊尹は太甲をほめて太宗と称した。
太康(タイコウ)【皇帝】
夏王朝4代王。の子。
淫楽に耽り、狩猟を好み、民事に努めなかった。有窮国の后羿が叛乱を起こしたため、太康の弟5人が母と共に国を去り、 洛水の岸で太康を待って「五子之歌」を作った。
しかし結局、后羿に天下を奪われ、太康は廃された。
大庚(タイコウ)【皇帝】
商王朝5代王。大甲の子。
『史記』では、太康とされる。
太公(タイコウ)
田和
戴公(衛)(タイコウ)【王】
衛公(8(18)代目)。名は申。昭伯の子。母は宣姜。〜B.C.660。
B.C.660衛懿公が狄に殺された後、宋桓公の支援により公子申は擁立され、 衛の曹邑に仮住まいした。
桓公が公子無詭に命じて兵車300乗と兵3000人を率いさせて、 曹を警備し、戴公には馬4頭と祭服5着、牛羊豚鶏狗300ずつと門戸を造る材料を贈った。
しかし戴公は即位した年に没した。
戴公(宋)(タイコウ)【王】
宋公(11代目)。哀公の子。〜B.C.766。
B.C.802即位する。
戴公(召)(タイコウ)【王】
召公。周王朝の臣。〜B.C.594。
B.C.594、6月、戴公は王孫蘇と政権を争ったため、王孫蘇に助力した王子に殺された。
戴侯(タイコウ)【王】
蔡侯(9代目)。共侯の子。〜B.C.750。
B.C.760即位する。
太皓(タイコウ)
伏犠
題公(ダイコウ)【王】
杞公(3代目)。西楼公の子。
太公望(タイコウボウ)
呂尚
大宰忌父(タイサイキホ)
宰孔
太姒(タイジ)【女官】
文王の正妃。の子孫姒氏の娘。
太姒の結婚が縁となって、杞・繒両国が建てられた。
伯邑考武王発管叔鮮周公旦蔡叔度曹叔振鐸成叔武霍叔処康叔封冄季載を産む。
大司命(ダイシメイ)【神】
天空の神。
少司命とともに、寿命と運命とを司る神と信じられた。『楚辞』「九歌」では大司命は男神、少司命は女神とされる。
頽叔(タイシュク)【武官】
周王朝の臣。
B.C.636秋、頽叔は周襄王の命により、桃子とともに狄の軍を出させて鄭を討ち、櫟を取った。
襄王が狄の叔隗を皇后にしたが、すぐにこれを廃した。頽叔と桃子は「われわれが狄を使って戦をさせたのだ。 そんなこと(廃皇后)をすれば狄は周を恨むであろう」と言い、頽叔と桃子は叔帯をもりたてて襄王を討った。
大叔(タイシュク)【文官】
鄭の臣。游眅の弟。
B.C.551、11月、游眅が人の妻を奪って殺された。そのため子展は游眅の子の子良をやめさせ、 その弟の大叔を立てて「子明(游眅)のような愚か者は用いないことにしよう」と言って、妻を取られた者をもとの住居に住まわせ、 游氏にはその男を恨んではいけないとさとした。
大叔儀(タイシュクギ)【文官】
衛の臣。大叔文子、世叔儀ともいう。
B.C.559、4月、衛献公が斉に亡命した。魯の厚成叔がお見舞いにやってきた。 大叔儀は「わたくしどもは無能でありますが、わが君は処罰されることなく、魯君には勿体なくもお見舞いを下されました。お礼を申し上げます」と回答した。 厚成叔は帰国して臧武仲にこのことを告げて「衛君はきっと帰国するであろう。大叔儀という大夫が国に残っており、 弟の鮮が君について国外に出ている」と言った。
B.C.548冬、衛献公が夷儀に戻って甯喜に帰国を求めると、甯喜はこれを承諾した。大叔儀はこれを聞いて 「甯子は主君を囲碁にも劣るように扱っている。どうして禍から逃れられることができようか。九代続いた名門を滅ぼそうとしている。悲しむべきことだ」と言った。
B.C.547、2月、衛献公は帰国すると大叔儀を責めて「わたしは長い間、国外で難儀したが、お前だけはわたしを心にかけてくれなかった。 わたしはお前を恨みに思う」と言ったので、大叔儀は国外に亡命した。そこで献公はこれを引きとめた。
B.C.546夏、公孫免余が甯喜を殺した。衛献公は公孫免余を卿に任命しようとしたが、 公孫免余は「大叔儀は二心がなく、よく国の大事を輔佐します。彼を卿にしてください」と辞退したため、大叔儀は卿に任じられた。
B.C.544、6月、晋が杞の城壁を築いた。大叔儀はこれを援助し、鄭の子大叔と会った。 大叔儀は「杞の城壁工事はひどいものだ」と言うと、子大叔は「晋は周室の衰えを心配しないで、夏の後裔の杞をかばっている。 このようでは同姓の諸侯も見捨てるだろう。誰がなつき従うであろうか」と言った。
大叔文子(タイシュクブンシ)
大叔儀
太壬(タイジン)【女官】
季歴の夫人。
有力諸侯壬氏の娘。
姫昌を生む。
大心(ダイシン)
成大心
大成午(タイセイゴ)【宰相】
趙の宰相。
B.C.372宰相となる。
B.C.334粛侯が大陵に遊び、鹿門から外に出ようとした。大成午は馬の手綱を持って「まさに農繁期です。一日仕事をしなければ、 百日の食を失いましょう」と言って諌めた。粛侯は馬車を降りて謝り、取りやめた。
台駘(ダイタイ)【神】
昧の子。
よく父の官(玄冥)を守り、汾川・洮川を疎通し、大沼沢に堤防を築く。
帝顓頊に嘉賞され汾川の地に封じられる。
春秋時代の沈・姒・蓐・黄の四国は台駘の子孫である。
戴仲(タイチュウ)【文官】
斉の臣。隰朋の父。
大丁(タイテイ)【皇帝】
商王朝2代王。湯王の子。
『史記』では、太丁とされ位につかないうちに没したとされる。
しかし後年発掘された甲骨文により、大丁は湯王を継いだ2代目の王であると考えられる。
太丁(タイテイ)
文武丁
太顚(タイテン)【文官】
周王朝の臣。泰顚とも書く。
もとは漁師だったといわれる。
姫昌が有徳の人物であると聞き周に帰服する。
大撓(ダイドウ)【神】
黄帝のときの史官。
大撓と容成は、月や太陽、星気の観測をした。
太伯(周)(タイハク)【公子】
古公亶父の長子。母は太姜。呉の始祖。
弟の季歴の子姫昌の代に周は栄えるであろうと古公亶父が予言したため、 太伯は季歴に後を継がせようと弟の虞仲とともに荊蛮の土地へ出て行き、いれずみをして断髪して野心のないことを示した。
太伯は国号を句呉と称した。すると荊蛮の民で彼に帰服したものが千余家あり、彼を立てて呉の太伯とする。
太伯(曹)(タイハク)【王】
曹公(2代目)。名は脾。曹叔振鐸の子。
戴伯(タイハク)【王】
曹公(8代目)。名は蘇。幽伯彊の弟。〜B.C.795。
B.C.825幽伯彊を弑し、代わって立つ。
大費(タイヒ)【神】
秦の先祖。大業の子。母は女華。柏翳ともいう。
と共に治水に当たり、よく禹を助けた。はそれを褒め、 「ああ費よ、おまえはよく禹の功を助けた。おまえに皁游(黒色の旗)を賞する。おまえの子孫は、この後大いに興隆しよう」と言った。そして姚姓の女を与えられて、 これを妻とした。
大費は鳥獣を馴らすことを司ったが、鳥獣はみな従った。
舜は彼に姓嬴氏を賜うた。
大畢(タイヒツ)【王】
犬戎の王。
大風(タイフウ)【神】
古代の怪獣。
破壊的な鳥の怪獣。
羿に成敗される。
戴不勝(タイフショウ)【文官】
宋の臣。名は不勝、字は盈之。
孟子と問答する。
太夫人(タイフジン)【女官】
恵公の夫人。頃公の母。蕭桐姪の娘。蕭同叔子ともいう。
B.C.594春、晋の使者郤克が斉に赴き、諸侯の会合に出席するように申し入れてきた。郤克がびっこをひいていたので、 斉頃公はそのありさまを太夫人にこっそりと見させた。これを見た太夫人は笑ったので郤克は怒り、斉を討伐して恨みを晴らそうと考えた。
B.C.589斉は鞍の戦いで晋に大敗した。
太戊(タイボ)【皇帝】
商王朝7代王。小甲の弟。在位75年。
恭敬をたっとび、天命を畏れて、自らその見を律し、民を治めるのに自らふるいおそれ、荒怠安逸を貪ろうとしなかった。
衰退した夏王朝を再興する。
泰逢(タイホウ)【神】
幸運の神。
泰逢は人間の形をしているが、身体は柔らかい毛で覆われ、虎の尾を持っている。
戴孟(タイモウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
姓は燕、名は済、字は仲微。漢明帝の時代の人。『玉佩金ヨウ経』ならびに石精金光符を授けられ、また『太微黄書』を所持して、よく名山を周遊することができたという。
大駱(タイラク)【武官】
秦の先祖。大几の子。
大陸子方(タイリクシホウ)【文官】
斉の臣。監止に仕える。
B.C.481田常の乱の際、殺されそうになるが、田逆が命乞いをしたため放免される。
後日田豹が大陸子方に車を与えようとしたが受け取らず「田逆は私のために命乞いをし、あなたは私に車をくれようとされてますが、 私として私交のあることになります。子我(監止)に仕えながら、敵と私交があっては、わが目指す魯・衛の士に何の面目があって会えましょう」と答えた。
大良(タイリョウ)【武官】
北戎の将。〜B.C.705。
B.C.705斉を討つ。
援助にきた鄭の太子に破られ、殺される。
大廉(タイレン)【神】
秦の先祖。大費の子。
鳥俗氏の祖となる。
宅(タク)【武官】
周王朝の臣。
将軍伯懋父隷下の将。
功を立て伯懋父から画干戈(飾りのある楯や戈)を賜る。
鐸(タク)【公子】
莒の公子。
B.C.528、12月、郊公は公子鐸を嫌って公子意恢と親しかった。 そこで公子鐸は蒲餘侯玆父にたよって共に謀り「お前は意恢を殺しなさい。 わたしは君(郊公)を追い出して庚与を入れて君にしよう」と言ったため、玆父はそれを聴き入れた。玆父は公子意恢を殺し、 公子鐸は斉から庚与を迎え入れた。
鐸遏寇(タクアツコウ)【文官】
晋の臣。上軍の尉。
B.C.573晋悼公は即位すると、鐸遏寇が恭敬で信義に強いことを知って、これを上軍の尉に任じた。
宅皋狼(タクコウロウ)
孟増
悼子(タクシ)【公子】
晋の公子。献公の子。母は驪姫の妹。卓子とも書く。B.C.652〜651。
B.C.651、10月、奚斉が殺されると、悼子は荀息に擁立される。
11月、里克に朝廷で殺される。
橐師(タクシ)【公子】
楚の公子。右司馬。
B.C.574冬、舒庸が呉人を案内して巣を包囲し、駕を討ち、釐・シを包囲した。舒庸は楚をあなどり呉を頼りにして警備を怠っていたので、 公子橐師はこれを討ち、舒庸を滅ぼした。
B.C.558橐師は右司馬に任じられた。
鐸椒(タクショウ)【文官】
楚の臣。
威王の傅となり、王がことごとく春秋をみることができないので、記事を取捨して40章とし、『鐸氏微』を著した。
鐸父(タクホ)【武官】
斉の臣。〜B.C.548。
荘公の八人の勇士のひとり。
B.C.548、5月、斉荘公が崔杼に弑され、鐸父ら州綽邴師公孫敖封具賈挙襄伊僂堙は、 この内乱で討ち死にした。
辰嬴(タツエイ)
懐嬴
妲己(ダッキ)【女官】
有蘇氏の女。〜B.C.1023。
その美貌を聞き、商の受辛は有蘇氏を滅ぼし彼女を得る。受辛は彼女の関心を得るために悪逆非道なことを行ったとされる。
国を滅ぼされたからであろうか、妲己は「炮格の刑」というむごい処刑方法が見たいといい受辛にそれをやらせたりした。妲己は後世悪女の代表とされ、 封神演義でも最大の悪役として登場する。
達子(タツシ)【武官】
斉の臣。
B.C.284斉は燕に攻められて破られた。達子は残兵を収拾して勢力を盛り返し、燕を破った。
達子は将士を賞するための金品を要求したけれども、斉湣王は与えることを拒絶した。そのため、斉軍は敗北し、 湣王は莒に出奔した。
儋(タン)【文官】
周の太史。
B.C.373秦献公に謁見して「はじめ周は秦国と親しいが、そのうち分かれて500年でまた合同し、 合同して17年で覇王が出るでしょう」と予言した。
B.C.770年の周の東遷から考えると覇王は始皇帝であろうか。
この人物は老子であるとも言われる。
赧(タン)【皇帝】
周王朝37代王。慎靚王の子。
B.C.314即位する。周の都は王城と成周に分かれていたが、また王城ひとつに戻った。
B.C.282楚頃襄王は使者を諸侯に遣わして合従して秦を討とうとし、まず秦と親しい周を侵そうとした。 赧王は武公を遣わし、楚の宰相昭雎に説かせて攻撃をやめさせた。
周を東西に分けて治めることとなり、王赧は都を西周にうつした。
B.C.256秦に背いたことで攻められ、赧王は頓首して罪を謝し、36邑と3万人の人民をことごとく秦に献上した。
赧王が没すると周の民はついに東方に逃げ、西周もB.C.249秦荘襄王に滅ぼされる。周の帝祚はことごとく滅び、祭をするものがいなくなった。
丹(タン)【公子】
燕の公子。燕王の子。〜B.C.226。
秦の人質となる。
B.C.233秦から燕に逃げ戻る。秦王に軽んじられたためであった。
丹は秦の侵攻を憂え、太傅鞠武にその対策を尋ねた。
また、秦の将軍樊於期が秦に罪を得て、燕に逃亡してくると、丹はこれを受け入れた。
鞠武はこのことで燕王喜を諌めたが、王は丹のためこれを聴き入れなかった。そこで鞠武は田光を推挙して彼に相談するよう進言した。
そこで丹は田光に会い策を請うた。
田光は「太子はわたしの壮んなころのことを聞いて、精力の衰えた今のわたしをご存じないのです。わたしの親友に荊卿というものがおり、 これこそお役に立ちましょう」と言った。
丹は荊軻と会う約束をかわし、退出する時「わたしの話したことも先生の言ったことも、国の大事だから、おもらしなさらぬように」 と念を押した。田光は身をかがめて、笑って承諾した。
田光は荊軻にこのことを話し「太子は最後に念を押された。これは太子がわたしを疑うものである。事をはかって人に疑わせるのは気節義侠とはいえない」と言い、 みずから首をはねて死んだ。
荊軻は丹に謁見し、田光がすでに死んだことを伝えた。丹は涙を流して「わたしが他言せぬよう申したのは、大事のはかりごとを成し遂げたいと思ったからです。 田先生が死なれたのは、わたしの本意ではない」と言った。
荊軻は秦王政を暗殺することを承諾し、丹は荊軻を尊んで上卿とした。
B.C.227燕に勇士秦舞陽というものがおり、13歳で人を殺したことがあり、丹は秦舞陽を荊軻に随行させようとした。 荊軻は別に期待していた者がいたが、まだやって来なかった。 丹は出発をせかしたので、荊軻は怒って「舞陽を遣わすとは何事です。失敗するなら、その原因となるのはその小僧でしょう」と言い、ついに出発した。 荊軻は督亢の地図と樊於期の首を秦に献上し秦王政を暗殺しようとしたが失敗した。
B.C.226秦に攻められ国都薊を失うと、丹は斬られて秦に献じられる。
(『史記』白起王翦列伝第十三では丹は秦に攻められ、衍水の水中で李信に捕えられたことになっている。 この場面は史記の中での整合性が取れていない。)
単(タン)【武官】
周王朝の臣。商王朝の王族。
周の克殷の後、周の下で東方の商系勢力を討ち、貝10朋を賜る。
段(ダン)【公子】
鄭の公子。武公の子。荘公の弟。
B.C.744母の武姜に愛されたため、京という人口の多い土地に封じられた。兄をもしのぐ勢いであったので、 世の人は「京城の大叔」と呼んだ。
さらに領地の拡張をくわだて、鄭の西鄙・北鄙の人々を買収した。
西鄙・北鄙の地を自己の領地とし、さらに廩延の地までも手を伸ばした。
さらに城壁を固め、兵糧を集め、武器をつくろい、軍勢を整えた。
B.C.722段は叛乱を起こそうとしたが、荘公に京城を攻められると、京城の民は段に背いた。そのため段は鄢に走り、さらに鄢でも大敗した。
5月22日、段は共の国に出奔した。
段(ダン)【文官】
鄭の臣。子張の子。
B.C.551、9月、父の子張は病気になったので、家老や親族を集めて、段を立てて相続させ、家臣の数を減らし、祖先の祭りを質素に行い、 余分の領邑は残らず君に返上して言った「乱れた世では貴い位についても貧しい生活に耐えておれば滅亡をのばすことができるといいます。 よくよく身をつつしんで君と大臣にお仕えしなさい。生きながらえる道は身をいましめて用心することで、財を豊かにすることではない」
檀(ダン)【文官】
魯の臣。季公鳥の家臣。〜B.C.517。
B.C.517季公鳥が没したあと、 季公若公思展申夜姑は季公鳥の家を世話した。 ところが季公鳥の夫人季似は檀と密通するようになり、季公若に責められることを恐れて、自分を打って傷つけさせ、 季公若が自分をわがものにしようとしたと訴えた。これを聞いた季平子は公思展を卞に拘留し、申夜姑を捕らえて殺そうとした。 季公若は泣いて悲しみ「夜姑を殺すのはわたしを殺そうとするようなものだ」と言って命乞いをしようとした。しかし季平子は役人に命じて季公若を面会させないようにし、 申夜姑は季公之に殺された。
儋括(タンカツ)【文官】
周王朝の臣。儋季の子。
父の儋季が亡くなり、喪を終えてから儋括は周霊王にお目にかかるため入朝したとき、 「ああ、この朝廷の権力を持ちたいものだ」と溜息をついた。これを聞いた愆期は周霊王に讒言して儋括を殺すよう言ったが、 周霊王は「子供には何も分かるまい」と問題にしなかった。
B.C.545周霊王が崩御すると、儋括は公子佞夫を立てようとした。
B.C.543、4月29日、儋括は蔿を攻め囲み、愆期を追い出した。
5月5日、尹言多劉毅単蔑甘過鞏成が公子佞夫を殺したため、 儋括は公子・公子らと晋に亡命した。
段干越人(ダンカンエツジン)【在野】
戦国時代の説客。
段干越人は秦に赴き、秦の宰相羋戎に、自分と羋戎との間を塞いでいる姦人を取り除いて、 大いに腕を振るわせて欲しいと求めた。
段干子(ダンカンシ)【文官】
魏の臣。
B.C.274魏は秦に趙・韓とともに破られ、15万の兵を失い、将軍芒卯は敗走する。 段干子は秦に南陽を与えて和睦するよう安釐王に請うた。
段干朋(ダンカンホウ)【文官】
田斉の臣。段干綸ともいう。
B.C.380秦と魏が韓を攻め、韓は援けを斉に求めた。桓公は大臣にこれをはかった。
段干朋は「援けなければ、韓は今にも屈して、魏に入ろうとするでしょう。援けたほうがいいでしょう」と進言した。
結局、田臣思のはかりごとを用い、いつわって韓を援けると告げた。
韓はそれを信じて秦・魏と戦い、楚・趙が韓を援けた。
B.C.356魏が趙の邯鄲を包囲し、趙が援けを求めた。威王は大臣にはかった。
段干朋は「援けなければ不義であり、不利でもあります。魏氏が邯鄲を取っても斉には利なく、趙を援けると言って趙の郊野に駐屯するだけで、趙は討たれず、 損害もありません。そして襄陵を攻めて魏を疲弊させ、魏が邯鄲を抜いた時、魏の後を討てばよいのです」と言った。
威王はこれに従い、桂陵で大いに魏を破った。
段干木(ダンカンボク)【文官】
魏の臣。卜商の弟子。
魏成子の推挙で魏文侯に仕え、賓客として処遇される。
文侯は段干木の郷里の門を通り過ぎるごとに、首を垂れ車の横木を撫でて、敬意を払わないことがなかった。
段干綸(ダンカンリン)
段干朋
儋季(タンキ)【公子】
周王朝の公子。周簡王の子。
段規(ダンキ)【文官】
晋の臣。魏の相。
B.C.457段規は荀瑶と藍台で宴会をしたとき、韓康子とともに辱しめられた。
B.C.456魏桓子は荀瑶とともに趙毋卹を討つが、 魏桓子は韓康子と謀って、逆に荀瑶を討ち、これを破った。
三晋がその地を分割しようとした。段規は韓氏に「必ず成皋の地を取ってください」と進言した。
韓氏は「成皋は石だらけの土地で、私には使いようがないが」と言った。
「そうではありません。『わずか一里四方の要害の地でもって、広大な千里四方の権勢を震動させることができるのは地勢の利である』と。成皋を取れば、 韓は必ず鄭を取れるでしょう」
韓氏は「もっともだ」と言い、果たして成皋を取った。
後に韓が鄭を取るときに至って、成皋を起点としたのである。
冄季載(タンキサイ)【王】
冄公(初代)。名は載。周文王の10子。司空。
管叔鮮蔡叔度禄父が反乱を起こした後、 冄に封じられる。
おこないがおだやかであったため、周公旦より周の司空(内政の最高官)に任じられる。
沈、冄氏の始祖となる。
タン啓(タンケイ)【文官】
周王朝の臣。
B.C.613宰孔王孫蘇が政権を争っていた。 タン啓は周匡王の命で王孫蘇に味方して、宰孔の無実の罪を晋に裁いてもらうよう謀った。 晋の趙盾は王室の騒動を治めて元どおりにした。
段産(ダンサン)【文官】
秦の臣。秦王の近侍。
段産は新城君に、新城君のことを讒言しないから、他人が段産のことを誹謗しても信用しないようにとお願いした。
郯子(タンシ)【文官】
商代の夷系の古族。
B.C.528魯を訪れて、孔子に古代の諸伝承を伝えた。孔子は感服して「学、四夷に在り」と言った。
丹朱(タンシュ)【神】
の子。
頑固であるとして、堯の後継者にはなれなかった。
は位を丹朱に譲ったが、諸侯は丹朱のところへは参内せず、舜のところへ行き、民も舜のことを謳歌したという。
譚拾子(タンシュウシ)【在野】
戦国時代の説客。
斉の人。
B.C.296孟嘗君が斉から追放された後、復帰することができた。譚拾子は孟嘗君を出迎えて言った。
譚拾子「君は、讒言した斉の士大夫をお怨みになっていることでしょう」
孟嘗君「もちろんだ」
譚拾子「彼らに報復しますか」
孟嘗君「そのとおりだ」
譚拾子「君は、事には必至があり、理には必然があるということをご存知ですか」
孟嘗君「知らない」
譚拾子「事の必至というのは死のことであり、理の必然とは、富貴になれば人は従い、貧賤になれば人が離れるということです。たとえば、 市場は朝は人が満ちていますが、夕にはいなくなります。朝に市場を愛し、夕にこれを憎むというのではなく、朝には求める物があるから人が集まり、 夕にはないから離れるのです。
どうか君にはお怨みにならないで下さい」
そこで孟嘗君は怨みに思っていた者の名を書いた札500枚を削り去り、決して口にしようとはしなかった。
褍秦(タンシン)【公子】
宋の公子。元公の末子。
聃甥(タンセイ)【武官】
鄧の公子。
B.C.703鄧の邑ユウの人が巴の使者韓服と楚の使者道朔を殺した。
夏、鬭廉は楚武王の命で巴軍と連合してユウを包囲した。 聃甥は養甥とともにユウを救援し、三度巴軍を追い払ったが、楚軍には勝てなかった。
鬭廉はわざと逃げるふりをして鄧の軍を誘い込み、巴軍とこれを挟撃して大破し、ユウ軍は夜のうちに壊滅させられた。
B.C.688楚文王は申を討つ途中、鄧に立ち寄った。鄧キ侯は「わたしのおい子である」 と言って文王をもてなした。公子騅甥が「やがて鄧を滅ぼすのはきっとこの人です。早いうちに処理しないと、 後でどうにもなりません」と諌めたが、キ侯は「わたしが甥を殺したりすれば、わたしをいやしんで、わたしの食べ残しを食べるものはないであろう」と答えた。
聃甥は騅甥・養甥とともに「国が滅亡すれば社稷宗廟にはお供え物があがらなくなります。 そうなったら、どこに食べ残しなどがありましょうか」と言ったが、聴き入れられなかった。
はたして文王は申の討伐を終えると、その帰途に鄧を討った。
B.C.678楚文王に攻められて、鄧は滅亡する。
単襄公(タンゼンコウ)【王】
単公。周王朝の卿士。名は朝。
B.C.601周定王の命で使節として宋を聘問し、陳を経由して楚を聘問した。
陳を経由した時、道路は草が茂って通ることが出来ないほどであり、侯人の出迎えがなく、司空は道の補修を視察せず、沢には堤防がなく、川には橋がなかった。 田野には収穫した穀物が野積みにされ、膳宰は肉類を届けず、司里は旅館に案内せず、国には宿舎も無く、県にも休息宿泊の設備が無かった。 民は夏氏の家に台を建てるために働かされていた。
単襄公が陳の都に来ると、陳霊公孔寧儀行父とともに楚の冠をかぶって夏姫の家に遊びにいっており、周の貴賓を朝見しなかった。
単襄公は帰国して定王に報告した「陳侯に大きなとがめがないならば、国はきっと滅びるでしょう。今、陳では道がどこだか分からず、畑は雑草の中にうずもれ、 穀物は収穫されず、民は上の逸楽のために働かされており、これは先王の法制を棄てるものです。
また周の賓客が訪れたのに、各当事者が来ないのは先王の官を棄てるものです。今、陳侯は補佐の大臣と一緒に同族の妻である夏姫と姦淫するとは、家門を汚すものです。 もし先王の教えを廃止し、先王の制度を棄て、先王の官を棄て、先王の法令を犯すならば、どうやって国を守ろうとするのでしょうか」
B.C.599はたして陳霊公は夏徴舒に殺された。
荘王が陳に侵入し、陳は一時滅びた。
B.C.590晋景公詹嘉を遣わして戎と周を和平させた。 単襄公は晋に赴いて戎と和平させてくれた労に対しお礼を述べた。
B.C.589冬、晋の鞏朔が斉の戦利品を周に献上した。 周定王はこれを非礼として単襄公に「命卿ならぬ鞏伯は王室にてその職分が登録されていません。 また斉はわが王室と婚姻を結んでいる親しい国である。斉が欲望をほしいままにして晋侯を立腹させたかもしれないが、 なんとか諌めて戦にならぬようにさせることができなかったのか」と言わせた。鞏朔は一言も答えることが出来なかった。
B.C.580秋、晋の郤至が鄇の地を周と争った。 単襄公は周簡王の命で王季子とともに晋に訴えた。
郤至「温の地はすべてわたくしの領地です」
王季子・単襄公「周は商に勝ったとき、蘇忿生に温の地をまかせました。後世、 襄王が晋の文公に温を与えて、その後にお前の領地となったのです。 もとは王の役人(蘇忿生)の領地です。どうしてお前がわがものにすることができよう」
厲公は郤至をなだめて争わないようにさせた。 B.C.575晋の郤至が鄢陵の戦勝の報告をするため周に入った。郤至は周簡王に報告する前に邵桓公に会って自分の功を自慢した。 単襄公はこれを聞いて「君子は自分から褒めたりしません。郤至は七卿の下位にありながら、他を押しのけようとしています。 これは7人の美点を覆い隠そうとするものであって、7人の怨みを買います。晋の勝利は天が楚を憎んだから、晋の手で警告したのです。 それなのに郤至は天功を盗んで自分の功績としており、不祥です」と言った。
B.C.574、6月26日、諸侯は鄭の柯陵で同盟し、戚の盟い(B.C.576)を温めた。単襄公は晋厲公、郤錡郤犨、郤至、斉の国佐の乱れた言行を見た。単襄公は彼らが滅びるであろうと予言した。 はたして郤至は乱によって死んだ。
夏、単襄公は晋厲公・魯成公・斉霊公・宋平公・ 曹成公・衛献公・尹武公・ 邾人と会合して鄭を討ち、戯童から曲洧まで侵攻した。楚の子重が鄭を助けるため鄭の首止に陣どったので、 諸侯の軍は引き揚げた。
冬、単襄公は晋・魯・斉・宋・衛・曹・邾とともに再び鄭を討った。
10月13日、諸侯は鄭を包囲した。楚の公子申が鄭を助けるため汝水に陣を敷いた。
11月、諸侯の兵は引き上げた。
晋の公孫周(悼公)は周で単襄公に仕えていた。単襄公は子の頃公に 「必ず晋周に善くしてあげなさい。今に晋の君となるだろう。その行為は文徳がある。また八卦や夢でも、晋周が君となることをいっているのだ」と言った。頃公は承諾した。
B.C.573はたして晋厲公の乱の後、晋は公孫周を迎えて君とした。
B.C.563卿士王叔陳生伯輿が政権を争い、王叔陳生は敗れて晋に亡命した。 そのため単襄公は代わって王室の卿士となった。
澹台滅明(タンダイメツメイ)【在野】
孔子の弟子。姓は澹台、名は滅明、字は子羽。B.C.522〜。
魯の武城の人。
容貌ははなはだ醜く、孔子に師事しようとしたとき、孔子は彼を愚鈍で才能に乏しいものと思った。しかし学業を受けてから、隠退して行いを修め、道を学び、 公用以外では卿大夫に会わなかった。
澹台滅明は言偃の部下となった。
弟子300人を従え、南方に遊んで長江にいたり、名が諸侯の間に伝わった。
孔子は「私は言論で人を判断して、実行の伴わない宰予を買いかぶり、容貌で人を判断して、醜い子羽を見誤った」と言った。
単朝(タンチョウ)
単襄公
譚伯(タンハク)【文官】
周王朝の大夫。〜B.C.636。
B.C.636冬、周襄王は狄人の皇后叔隗を廃した。 そのため狄は周を攻めて、譚伯は殺された。
聃伯(タンハク)【武官】
鄭の臣。
B.C.658冬、鄭は楚に攻められる。聃伯は闘章に捕えられた。
単伯(鄭)(ダンハク)【文官】
鄭の臣。檀伯とも書く。〜B.C.697。
単伯は櫟を治めた。
B.C.697鄭厲公が都を出奔して、櫟にやってきた。そこで単伯は厲公に殺され、厲公は櫟を治めた。
単伯(周)(ダンハク)【文官】
周王朝の臣。
B.C.680斉は王命によって宋を討とうとして軍を周に願い出た。
夏、単伯は諸侯の軍に参加し、宋を和平させて帰国した。
冬、宋が降服したので、単伯は斉桓公・宋桓公・衛恵公・ 鄭厲公と衛の鄄で会合した。
檀伯達(ダンハクタツ)【文官】
周王朝の臣。
檀伯達は蘇忿生とともに河内地方に封じられた。
儋翩(タンヘン)【武官】
周王朝の臣。
B.C.504夏、儋翩は鄭人とともに子朝の一味を率いて周で騒動を起こそうとした。そこで鄭は馮・滑・胥靡・負黍・狐人・闕外の周の邑を討った。
12月、周敬王は儋翩の乱を避けて姑蕕に住むことになった。
B.C.503、2月、儋翩は周の儀栗に入って叛いた。
端木賜(タンボクシ)
子貢


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