- 郤宛(ゲキエン)【武官】
- 楚の臣。左尹。子悪ともいう。〜B.C.515。
B.C.515呉の公子掩余と公子燭庸が楚の潜を攻め囲んだ。
莠尹然と工尹麋が軍を率いて潜を救い、
沈尹戌が都城に住む人士と王の馬役の者たちを率いて軍勢を増やし、呉軍と窮谷で出会った。
また令尹子常が水軍を率いて沙水の河口まで進んで引き返し、郤宛と工尹寿は軍を率いて潜に到着した。そのため呉軍は退くことができなくなった。
4月、呉の公子光が呉王僚を弑したため、呉軍は引きあげた。
さて郤宛は正直でなごやかな人柄であったため、国中の人から好かれていた。費無忌があるとき子常に
「子悪(郤宛)はあなたに酒をふるまいたいと言っております」と言い、一方で郤宛には「令尹があなたの家で酒を御馳走になりたがっております」と言った。郤宛は「この上もないお恵みですが、
わたしは卑しい者でお礼の進物を差し上げることはできないでしょう。どうすればよいでしょうか」と問うと、費無忌は「令尹は武具を好まれる。わたしが選びましょう」
と言ってよろいを5つ、武器を5つ取って門に並べるよう勧めた。いよいよ饗応の日になると、費無忌は子常に「わたしはあなた様に災いをおかけするところでした。
子悪は武装兵を門に伏せております。行ってはいけません」と言った。子常は郤宛の様子を調べさせると、武器が用意してあった。
そこで子常は鄢将師を呼び寄せると、鄢将師は「郤氏を攻め、さらに家を焼き払え」と命令した。郤宛はこれを聞くと、すぐに自殺した。
9月14日、子常が郤宛を殺したことについて国中のそしりがやまなかったため、子常は費無忌と鄢将師を殺し、その一族を残らず滅ぼして国の人々に申し開きをし、そのため衆人は喜んだ。
- 郄偃(ゲキエン)
- →郭偃
- 郤錡(ゲキキ)【将軍】
- 晋の将軍。上軍の佐、上軍の将。郤克の子。駒伯ともいう。〜B.C.574。
三郤(郤錡・郤犨・郤至)と称される。
B.C.585冬、晋は楚に攻められた鄭の救援に出かけた。晋軍は繞角から進んで蔡を侵略した。
楚の公子申と公子成が蔡を助け、桑隧で晋軍を防いだ。
郤錡は諸将とともに決戦をするよう進言したが、韓厥・荀首・
士燮が諌めたため、中軍の将欒書はそのまま引き揚げた。
B.C.583趙武が成人して大夫に挨拶回りをした。
このとき郤錡は「美しいですね。しかし若い者が年寄りにかなわないものはたくさんあります」と言った。
張孟は「あの3人の郤氏の話など妄人の話であり、説明する価値もありません」と評した。
B.C.578春、郤錡は魯に赴いて秦討伐の援軍を請うた。このとき郤錡の君命を伝える作法が不敬であったので、
孟献子に批難された。
5月、郤錡は上軍の佐として秦軍と戦い、麻隧でこれを大破した。
B.C.576、10月、三郤は伯宗を讒言してこれを殺し、賢大夫の欒弗忌までも殺した。
そのため伯宗の子伯州犂が楚に出奔した。韓厥は
「郤子は禍にかかるであろう。善人を殺して滅びないので何が期待されようか」と言った。
B.C.575、4月、晋は背いた鄭を討つために軍を発し、郤錡は上軍の将として参戦したが、鄢陵で楚軍に破られた。
B.C.574柯陵の会盟のとき、郤錡は単襄公に会見すると、その言葉は人を犯しないがしろにした。
単襄公は、郤錡は禍を受けるであろうと言った。
郤錡は夷陽五の土地を奪ったため、夷陽五に恨まれていた。
この年、晋厲公が諸大夫を除こうとし、胥童が郤氏を誅するよう進言していた。
郤氏もこの噂を聞いており、郤錡は晋厲公を攻めようとして「君が理不尽をされるのだから、われわれも一族を率いてこれを討とう。
戦死しても国を破壊してやろう」と言った。しかし郤至は「いけない。武人は叛乱をせず、知人は詐らず、仁人は党派を組まないという。
そのようなことを計画するのであれば、君が我々を殺すのは遅すぎるぐらいだ。その上、民に何の罪があろう。どうせ死ぬなら、君命を聞くのがよい」
と言って賛成しなかった。
12月26日、胥童と夷陽五が500の武装兵を率いて郤氏を討ち、郤錡は長魚矯に戈で突き殺され、
郤犨と郤至も殺されて3人のなきがらは朝廷でさらされた(車轅の難)。そして晋厲公はその女や財貨を奪った。 また郤錡は自殺したともいう。
- 郤毅(ゲキキ)【武官】
- 晋の臣。蒲城鵲居の子。
B.C.578、5月、郤毅は晋厲公の御者として秦軍と戦い、麻隧でこれを大破した。
- 郤乞(ゲキキツ)【文官】
- 晋の臣。
B.C.645晋恵公は3ヶ月間秦にいたが、講和が成りそうであることを聞くと、
郤乞を晋にやって呂省にこれを知らせた。
- 郤駒伯(ゲキクハク)
- →郤錡
- 郤欠(ゲキケツ)【将軍】
- 晋の将軍。郤芮の子。下軍大夫。上軍の将。郤缺とも書く、郤成子ともいう。
郤芮の文公殺害失敗によって郤欠は野に下り、冀で農事に携わった。
賈佗が使節として出国し、途中で冀の郊外に泊まった。賈佗はその地で、男が草取りをして、
妻が弁当を届けたが互いに賓客をもてなすように敬い合っていたのを見た。賈佗は不思議に思い近寄って聞けば、これが郤欠であると知った。
賈佗は郤欠を都に連れて帰り、使節の報告を済ませてから郤欠を推薦した。
文公「彼の父は、わしを殺そうとした罪があるが、それでもよかろうか」
賈佗「国の賢良は、前の罪は免除します。舜は鯀を死刑にしましたが、
その子禹を挙げて天子にしました。
斉桓公もみずからを殺そうとした管敬子を宰相に登用しました」
文公「何によって彼が賢人だと分かるのか」
賈佗「わたくしは、彼が敬を忘れないことを見ました。敬は徳の慎み深さです。徳を慎んで事を行えば、成就しないことがありましょうか」
ついに文公は郤欠に会って、彼を下軍大夫に任命した。
B.C.627郤欠は白狄を討ち、白狄の君を得る戦功を立てた。郤欠はその功により卿に任命されて父の故領の冀を与えられたが、用心されたため兵は与えられなかった。
B.C.620、8月、趙盾は斉・魯・宋・衛・陳・鄭・許・曹の諸侯と鄭の扈で会盟した。
郤欠は「今、晋と衛は親しくなったので、以前占領した衛の地を還すのがよろしいでしょう」と進言した。趙盾はこれを聞いてよろこんだ。
B.C.616夏、郤欠は魯の叔仲恵伯と承匡で会合し、楚に従った諸侯の取り扱いについて相談した。
B.C.615冬、秦が晋を討って羈馬の地を攻め取った。
郤欠は上軍の将として秦軍と戦ったが勝敗がつかなかった。
B.C.614夏、晋の六卿は、秦が士会を用いて晋に敵することを恐れて、近郊の諸浮で会合して密謀した。
趙盾「随会(士会)が秦におり、賈季(狐射姑)が狄におり、そのために国難が日ごとにやってくる。どうしたらよいか」
荀林父「賈季を戻しましょう。彼は国外の事情に通じており、処理する才能があり、それに旧勲の子である」
郤欠「賈季は罪を犯している。随会を戻したほうがよい。彼は卑賤の身分におりながら恥をわきまえており、柔順であるが人から犯されて不義をなすことがなく、
その智謀は国の役に立つ」
そこで六卿は魏寿余に命じて魏にたてこもらせて晋に背いて秦につくふりをさせて、士会を帰国させた。
B.C.612夏、蔡が新城の盟い(B.C.612)に参加しなかったので、郤欠は上軍と下軍を率いて蔡を討った。
6月8日、郤欠は蔡に攻め入って城下の盟いを結んで引き揚げた。
B.C.601このころ郤欠は趙盾に代わって国政を執った。
秋、下軍の将胥克は精神病にかかっていたので、郤欠はこれを罷免した。
B.C.600冬、楚が鄭を討った。そこで郤欠は鄭の援助に出かけて、楚を撃退した。
B.C.598郤欠は狄の部族たちに和睦を申し入れた。狄の部族たちは赤狄に使役されるのを嫌がって、早速晋に服従した。
秋、晋の大夫たちは狄の人々を晋に呼びつけて会合しようとしたが、郤欠は「徳でやれない場合は、勤労にまさるものはないと言います。
こちらが勤労しないようでは、人をなつけることはできません」と言ったので、晋景公は欑函で狄と会合した。
成子と諡される。
- 郤献子(ゲキケンシ)
- →郤克
- 郤克(ゲキコク)【宰相】
- 晋の正卿。上軍の佐。郤献子ともいう。郤欠の子。
B.C.597春、鄭が楚に攻められた。
6月、晋は鄭を救援することとし、郤克は上軍の佐に任じられた。
魏錡と趙旃が和睦の使者として出発した。
郤克「ふたりの不平者が出かけた。防備をしておかないと楚に攻め込まれるだろう」
先縠「わが軍には戦うか和するか決定的な命令がない。防備したとしても役に立つまい」
はたして楚軍は全軍で攻撃してきて、晋軍はなすすべなく敗れた。
B.C.592春、郤克は斉に使いして諸侯の会合に出席するよう申し入れた。郤克がせむしであったため、それを見て斉の太夫人は笑った。
郤克は怒ってすぐ退出して、帰国の際、黄河のほとりで「黄河の神よ。御覧あれ。誓ってこの恨みを報いよう」と復讐を誓い、
副使の欒京廬を斉に留めて斉の回答を待たせ「斉が会合に参加するという返事をもらわなければ、帰国してはならない」
と言いつけた。
郤克は国に帰って斉を討伐することを願い出たが、晋景公は「そなたの恨みは国家を煩わすほどのことだろうか」と言って、
聴き入れなかった。しかし郤克は怒りが収まらず、手勢で討ちたいと願ったが、それも許されなかった。そのため郤克は晋に来た斉の使者4人を河内で殺した。
8月、士会が「人の怒りの邪魔をすればその毒害を受けると。今、郤子(郤克)の怒りは大変だ。斉でその心を晴らさなければ、必ず晋の国内で晴らすだろう。
わしは政権を郤氏に渡して、彼の怒りを晴らさせようと思う」と言って引退したので、郤克が国政を執ることとなった。
郤克は斉を討った。斉が公子彊を人質として晋に入れたので、戦いをやめた。
B.C.589夏、斉軍に攻められた魯と衛が晋に援軍を求めてきた。晋景公は700乗の援軍を出すことを許したが、郤克は「それは城濮の時の軍勢です。
あの時は文公の明識と将軍たちの敏捷さがあったから勝てたのであります。私ごときではあの先大夫の召使ほどの仕事さえできません」と言って800乗の兵車を請うたので、
景公はこれを許した。
景公は、郤克を中軍の将、士燮を上軍の将、欒書を下軍の将、
韓厥を司馬として衛と魯を救わせることとした。
晋・魯・衛軍は斉軍と鞍で戦った。
6月18日、両軍は斉の鞍の地に陣をかまえた。解張が郤克の御者となり、
鄭丘緩が右となった。郤克は矢に当たって負傷し、血は靴まで流れ滴るという重傷であった。
郤克はかろうじて進撃の太鼓を絶え絶えに鳴らした。
郤克「わたしはもうだめだ」
解張「戦が始まり、敵の矢がわたしの左手に当たり、肘まで突き通しましたが、抜くいとまもなく、その矢を折って馬を御しています。
兵車の左輪は赤黒く染まっていますが、どうして弱音を吐きましょうか。我慢してください」
鄭丘緩「戦の始めから、険しい場所に来るとわたしは下車して車を押してきましたが、お気づきにならなかったでしょう。それも気づかれないということは、
やはり重傷です」
解張「わが軍の目と耳は元帥の旗と太鼓に注がれております。どうして重傷であるからといって、この戦いを失敗させることが出来ましょう。
出陣したからには、もとより死は覚悟です。命にはまだ別状はありません。しっかりしてください」
解張は手綱を片手に握りなおし、右手で撥を取って進撃の太鼓を打ち鳴らした。
郤克の馬は駆け出して止めることができなくなり、全軍はそれに遅れじと進撃し、斉軍を大いに破った。
晋軍は敗走する斉軍を追撃して華不注山を三度も追いまわした。
韓厥が逢丑父を捕えたので、郤克はこれを殺そうとした。
逢丑父「これからのちは主君の身代りとなる者はいなくなるであろう」
郤克「一命を捨てても主君を逃がすことをものともしない忠臣がいるのに、それを殺すのは不吉なことだ。むしろ赦して主君に忠義を働く者を奨励することにしよう」
そこで郤克は逢丑父を赦して処刑しなかった。
晋軍は斉軍を追撃し、丘輿から斉の地に攻め入り、馬陘を攻撃した。
頃公は国佐を使者として郤克に和睦を求めさせ、聴き入れられなければ決戦しようと言わせた。郤克は聴き入れず
「蕭同叔子を人質にし、(晋軍が進みやすいように)斉の田地の畝をすべて東に向けよ」と言った。国佐がその申し入れは礼に背くことであると言うと、
魯・衛が郤克を諌めた。そこで郤克は「わたくしどもは、魯と衛のために斉軍の引き揚げをお願いしました。どうしてご命令に従わないことがありましょう」と言って、
これを受け入れた。
7月、晋軍は国佐と斉の爰婁で和睦を盟い、斉は侵略した汶陽の田を魯に還した。
魯成公は晋軍と上鄍で会合し、郤克・士燮・欒書に先路(卿の正車)と三命の服(衣服や旌旗)を与え、
司馬・司空・輿帥・侯正・亜旅にも一命の服を与えてその労をねぎらった。
この鞍の戦いの時、韓厥が軍律を犯した者を斬ろうとした。郤克は減刑しようとしたが、郤克が着いた時にはすでに斬られていた。
すると郤克はこのことを全軍に布告した。郤克の御者が「救おうとなさったのではありませんか」と言うと、郤克は「救うことは出来なかったが、殺したからには、
その非難を分け合わないでよかろうか」と答えた。
9月、衛穆公が没した。郤克は士燮・欒書とともに戦の帰途に弔問し、衛の大門の外で哭礼を行った。
晋景公は鞍の勝利をほめて郤克に「あなたの力であろう」と言った。しかし郤克は「いいえ、三軍の士が働いたのです。私には何の力がありましょう」と謙譲した。
次に士燮が謁見したので、景公は「あなたの力であろう」と言った。士燮は「いいえ、わたしは命を中軍に受け、
上軍の士に命じて上軍の士が命を用いたからです。私には何の力がありましょう」と謙譲した。欒書が謁見したので、景公はまた同じ問いをすると、
欒書は「いいえ、わたしは命を上軍に受け、下軍の士に命じ、下軍の士が命を用いたからです。わたくしに何の力がありましょう」と謙譲した。
B.C.588秋、郤克は衛の孫良夫とともに赤狄と廧咎如を討った。
斉頃公が晋に朝して玉を晋景公に授けた。このとき郤克は「斉侯がお出ましになったのは、先年婦人がわたしを笑った無礼をお詫びするためであり、
わが君ではなく、わたしが受けるのです」と言って斉頃公を国君を捕虜にした礼で対応して辱しめた。
苗賁皇はこれを聞いて「郤子は勇気はあるが礼を知らず、その功を誇って国君を辱しめた。どれだけ生きられるだろうか」と言った。
献子と諡される。
- 郤縠(ゲキコク)【将軍】
- 晋の将軍。中軍の将。〜B.C.632。
B.C.637郤縠は秦繆公に内応して、晋懐公を攻め殺した。
B.C.633晋が三軍を編成するとき、晋文公は趙衰に誰が元帥に適任か諮問すると、
趙衰が「郤縠がいいでしょう。50歳になってますます篤学です。篤学の人は百姓を忘れません。郤縠を任命してください」と郤縠を推挙したので、
郤縠は中軍の将となった。
B.C.632、2月、没す。
- 郤至(ゲキシ)【武官】
- 晋の臣。蒲城鵲居の子。字は温季。新軍の佐。季子ともいう。〜B.C.574。
三郤(郤錡・郤犨・郤至)といわれる。
B.C.589楚の巫臣が郤至を頼って楚から亡命してきた。晋は巫臣を邢の大夫とし、楚の内情を知る者として重用した。
B.C.583趙武が成人して大夫に挨拶回りをした。このとき郤至は「誰にも負けないとしても、高位を求められようか」と言った。
張孟は「あの3人の郤氏の話など妄人の話であり、説明する価値もありません」と批難した。
B.C.580秋、郤至は鄇の地について周と争った。
周簡王が王季子と単襄公に命じて晋に訴えた。
郤至「温の地はすべてわたくしの領地です」
王季子・単襄公「周は商に勝ったとき、蘇忿生に温の地をまかせました。後世、
襄王が晋の文公に温を与えて、その後にお前の領地となったのです。
もとは王の役人(蘇忿生)の領地です。どうしてお前がわがものにすることができよう」
晋厲公は郤至をなだめて争わないようにさせた。
B.C.579晋と楚が盟約した。このとき郤至は楚を聘問して楚恭王との盟いに立ち会った。
このとき楚の子反が「もし楚・晋の両君がお会いすることがあったら、それは戦場でしょう」と言った。郤至は帰国してこのことを話すと、
士燮は「礼をわきまえない者は約束を実行しないであろう」と言った。
B.C.578、5月、郤至は新軍の佐として秦軍と戦い、麻隧でこれを大破した。
B.C.576、10月、三郤は伯宗を讒言してこれを殺し、賢大夫の欒弗忌までも殺した。
そのため伯宗の子伯州犂が楚に出奔した。韓厥は
「郤子は禍にかかるであろう。善人を殺して滅びないので何が期待されようか」と言った。
B.C.575春、鄭が背いたため、晋はこれを討った。郤至は新軍の佐として参戦した。
5月、晋厲公は鄭を討伐するため、郤犨と欒黶とを斉魯にやって兵を出させようとした。
楚恭王が東夷の兵を率いて鄭を救援しようとした。楚軍が半ば布陣したとき、厲公はこれを攻撃しようとした。
欒書が郤犨と欒黶を待つよう諌めたが、郤至は「いけません。楚が陣立てに禁忌の晦日を避けないのは落度のひとつです。
南夷(東夷)がともに布陣しないのは落度のふたつ目です。楚と鄭の布陣が整理されていないのは落度の三つ目です。その士卒が騒がしいのは落度の四つ目です。
恐れているのは落度の五つ目です。この好機を逸してはなりません」と急襲するよう進言した。厲公は喜んで楚と合戦した。
6月、士燮が「徳が無いのに服従する国が多いと、必ず自分が傷つくと言います。晋の徳にふさわしいのは、諸侯がみな叛いて、国が少し平安になることです。
今わが国が戦って勝ったならば、わが君はその知を誇り、その功を高しとして教化を怠り、税を重くし、側近を増やし、愛妾の禄を増すでしょう。
かえって勝たないほうが晋の福です」と言った。郤至は「韓の戦いでは恵公は捕えられ、
箕の戦いでは先軫は戦死し、邲の戦いでは荀伯(荀林父)は大敗した。
いずれも晋の恥とするところです。ここで避ければさらに恥を増すだけです」と反論した。士燮は「先君のときは、戦わねば子孫が弱められて衰えていたでしょう。
いま斉・秦・狄の強国が服従しています。楚はほうっておけばよろしいではありませんか」と言ったが、欒書は聴き入れなかった。
6月29日、晋軍は鄢陵で楚軍と戦った。
欒書が「楚軍は軽率だ。陣地をかためて待つがよい。3日経てば退くであろう」と言った。さらに郤至は「楚にはつけいる隙が6つある。
司馬(子反と令尹(子重の仲が悪いことがひとつ目。楚王の精兵は旧家の兵を用いていることが2つ目。
鄭軍の陣地が乱れていつことが3つ目。蛮夷が陣立てをしていないのが4つ目。兵事の忌む晦日に陣をしいたのが5つ目。陣がざわついているのが6つ目である。
わが軍はきっと勝てる」と言った。
鄢陵の戦いのとき、郤至はだいだい色のはかまを着て楚恭王の兵を追い、楚恭王を見ると必ず下車して走った。戦いの後、
楚恭王は工尹襄を使者として、郤至に弓を贈って「戦の真っ最中にだいだい色のはかまの方が居て、礼儀正しい君子でしたが、
傷はありませんか」と言った。郤至は兜を脱いで「わたくしはわが君のお陰により、よろいかぶとで身を固めておりますので、失礼ながら君命を跪拝することができません。
御使者に対して三粛の礼をさせていただきます」と答えた。世の君子は郤至を「勇気があり、礼を知る」と讃えた。
郤至はまた鄭成公を追撃したが「国君に傷を負わせると刑罰を受ける」と言って追うのをやめた。
12月、郤至は鄢陵の戦勝の報告をするため周に入った。郤至は周簡王に報告する前に邵桓公に会って
「わたくしがいなかったら晋は戦わなかったでしょう。5つも勝因があるのに欒・范両将が戦争したがらないので、わたくしが無理にやらせたのです。戦勝はわたしの力です。
きっと晋の正卿になれるでしょう」と言った。
しかしこれを聞いた単襄公は「君子は自分から褒めたりしません。郤至は七卿の下位にありながら、他を押しのけようとしています。
これは7人の美点を覆い隠そうとするものであって、7人の怨みを買います。晋の勝利は、天が楚を憎んだから、晋の手で警告したのです。
それなのに郤至は天功を盗んで自分の功績としており、不祥です」と言った。
B.C.574柯陵の会盟のとき、郤至は単襄公に会見すると、その話は手柄話であった。単襄公は、郤至は禍を受けるであろうと言った。
あるとき晋厲公が狩猟したとき、郤至は豚を殺して奉進したが、孟張に奪い取られたので、
これを射殺した。そのため晋厲公は「季子(郤至)はわしをあなどっている」と言い、三郤を殺そうと考えた。郤錡は公を攻めようとして「君が理不尽をされるのだから、
われわれも一族を率いてこれを討とう。戦死しても国を破壊してやろう」と言った。しかし郤至は「いけない。武人は叛乱をせず、知人は詐らず、仁人は党派を組まないという。
そのようなことを計画するのであれば、君が我々を殺すのは遅すぎるぐらいだ。その上、民に何の罪があろう。どうせ死ぬなら、君命を聞くのがよい」
と言って賛成しなかった。
12月26日、晋厲公の命を受けた胥童に三郤もろとも殺された(車轅の難)。また自殺したともいう。
昭子と諡される。
- 郤犨(ゲキシュウ)【将軍】
- 晋の臣。歩揚の子。新軍の将。公族大夫。苦成叔子、苦成叔ともいう。〜B.C.574。
三郤(郤錡・郤犨・郤至)といわれる。
叔肸の娘を娶る。
B.C.583趙武が成人して大夫に挨拶回りをした。このとき郤犨は「いったい年少のくせに大夫になる人が多いが、
どうしてあなたを容認できようか」と言った。張孟は「あの3人の郤氏の話など妄人の話であり、
説明する価値もありません」と批難した。
B.C.580、3月、郤犨は魯に赴いて魯と盟約した。郤犨はこのとき公孫嬰の身内から妻を迎えたいと求め、
公孫嬰の妹を娶った。
晋は秦と盟約することになったが、
秦桓公が黄河を渡ろうとせずに秦の王城に留まって大夫史顆を遣わしてきたので、
郤犨は王城で秦桓公と盟約した。
B.C.577郤犨は衛に遣いして、晋に亡命していた孫文子を衛に送届けた。
衛定公が郤犨をもてなす宴を開き、甯殖が介添を務めたが、
郤犨は傲慢であった。甯殖は「苦成叔の家はきっと滅びるであろう。昔は宴会を設けて威儀作法を見て、その人の吉凶禍福を占ったのだ。
いまの大夫は禍を受けるであろう」と言った。
B.C.576、10月、三郤は伯宗を讒言してこれを殺し、賢大夫の欒弗忌までも殺した。
そのため伯宗の子伯州犂が楚に出奔した。韓厥は
「郤子は禍にかかるであろう。善人を殺して滅びないので何が期待されようか」と言った。
この年、魯の公孫嬰が晋に赴いて、捕らえられた季孫行父の釈放を懇請した。
そのとき郤犨は公孫嬰に封邑を与えようとしたが、辞退して受けなかった。公孫嬰は帰国するとなぜ辞退したのか尋ねられると
「苦成叔(郤犨)の家(与えられようとした封邑)は3つの滅亡すべき理由があります。その身さえ無事に保てない人が、どうして人に封邑を与えられますか」と答えた。
B.C.575春、鄭が背いたため、晋はこれを討った。郤犨は新軍の将として参戦した。さらに郤犨は衛と斉に派遣されて援軍を求めた。
しかし晋軍は救援を待つ前に、楚軍を急襲してこれを鄢陵で破った。
秋、諸侯が宋の沙随に会合した。魯の叔孫喬如が郤犨に
「わが君(魯成公が壊隤で待機して戦に遅れたのは、晋と楚のどちらが勝つかを見ていたからです」と讒言した。
郤犨は新軍の将であり、公族大夫として東方の諸侯を扱っていたので、叔孫喬如の財貨を受けて晋厲公に報告したので、
晋厲公は魯成公に面会しなかった。
9月、叔孫喬如が人を遣わしてきて季氏、孟氏を讒言した。そこで晋は季孫行父を苕丘で捕えた。しかし晋はその後、
季孫行父を釈放した。
12月、郤犨は魯の季孫行父と扈で和平の盟いを結んだ。
B.C.574柯陵の会盟のとき、郤犨は単襄公に会見すると、その話は虚妄であった。
単襄公は、郤犨は禍を受けるであろうと言った。
郤犨は長魚矯と田地を争い、長魚矯とその父母妻子をひとつのながえ(轅)に縛りつけたことがあった。
12月26日、長魚矯の恨みによって晋厲公の命を受けた胥童に三郤もろとも殺された。(車轅の難)
- 郤称(ゲキショウ)【文官】
- 晋の臣。恵公に仕える。
B.C.651里克と共に謀って、
蒲城午を遣って夷吾(恵公)を国君として迎えさせ、夷吾は帰国を承諾した。
B.C.650秦に使いしていた邳鄭が、秦の使者と共に賄賂を送ってきた。郤称は呂省・
郤芮と謀り「賄賂が手厚く、言葉が甘い。これは邳鄭がわれらを秦に売ったに違いない」
と言って邳鄭と七輿大夫を殺した。
- 郤昭子(ゲキショウシ)
- →郤至
- 劇辛(ゲキシン)【武官】
- 燕の臣。〜B.C.243。
劇辛はかつて趙におり、龐煖とは仲が良かった。
B.C.243劇辛は龐煖が将軍になったことを聞き「龐煖はいたって与しやすい人物だ」と言い、趙を攻めた。しかし龐煖に破られて殺される。
- 郤臻(ゲキシン)【将軍】
- 晋の臣。郤溱とも書く。中軍の佐。
B.C.663晋が被廬の蒐で三軍を編成すると、郤臻は中軍の将郤縠の佐に任じられた。
B.C.633晋は城濮で楚と戦った。上軍の将であった狐毛は、二本の大旗を立てていつわって退却し、
楚将子西が追撃したところを先軫と郤臻が中軍を率いて横から攻撃をかけ大いに破った。
- 郤芮(ゲキゼイ)【宰相】
- 晋の宰相。字は子公。郄芮とも書く。冀芮ともいう。〜B.C.636。
B.C.652献公が屈邑の夷吾(恵公)を攻める。夷吾が狄に出奔しようとすると郤芮は
「いけません。すでに重耳がいますので、今ゆかれると晋はかならず狄を討つでしょう。
狄は晋を恐れているので、君に禍が及ぶでしょう。梁は秦に近く、秦は強国ですから、わが君の死後、秦の後援で晋に入ることを求められたらよいと存じます。梁に逃げるに
こしたことはありません」と進言する。夷吾はついに梁に出奔した。
B.C.651里克は奚斉、悼子を殺し、
呂省が夷吾を迎えるため蒲城午を遣わした。
夷吾は郤芮に「呂省がわたしを迎え入れようとしています」と相談した。郤芮は「国の内外に賄賂して、
財力を虚しくすることを惜しまず、帰国を求めるべきです」と言った。そこで夷吾は使者に会って再拝稽首して承諾した。
このとき秦の公子縶が献公の弔問にやって来た。縶は「国を得るのは常に喪の時であり、国を失うのも常に喪の時であるといいます。
好機は逸すべからず。公子よ、帰国を計られよ」と言った。夷吾はまた郤芮に相談すると、郤芮は「亡命者は律儀で清廉であってはなりません。
帰国を求めるべきです」と言った。そこで夷吾は使者に会って再拝稽首して承諾し「わたくしが帰国して社稷を安んずることができましたら、
河外の大きな城5つを献上いたしましょう」と言った。
こうして夷吾は帰国して晋公となった。
入国すると恵公のもとで恵公に反対する大夫をことごとく誅殺する。
B.C.650秦に使いしていた邳鄭が、秦の使者と共に賄賂を送ってきた。郤芮は呂省・
郤称と謀り「賄賂が手厚く、言葉が甘い。これは邳鄭がわれらを秦に売ったに違いない」
と言って邳鄭と七輿大夫を殺した。
B.C.649周襄王は召公過と内史過を使節として、
恵公に襲封(封建領主の継承を命じる詔勅)の勅命を授けさせた。郤芮は呂省と共に恵公の礼を助けたが、恭敬の心に欠け、
恵公も玉圭を執ることが低く、稽首の礼をしなかった。内史過は襄王に「晋は滅亡しないとしたら、その君には世継がないでしょう。また呂郤ふたりとも難を免れません」
と報告した。
B.C.636重耳が帰国しようと黄河を渡って令狐・臼衰・桑泉の3邑を招くと、みな降服した。
2月、懐公は高梁へ逃走した。
郤芮と呂省は兵を率い廬柳に陣を布いた。秦繆公は公子縶を呂省・郤芮のもとにやったので、
郤芮らは軍を引いて郇の地に駐屯した。
辛丑の日、狐偃が秦と晋の大夫と郇で和議を盟ったので、郤芮・呂省は重耳の帰国を承認した。
3月己丑の日、郤芮は重耳が即位すると(文公)、彼に殺されるのを恐れ、文公を帰国させたことを後悔して、徒党とともに公宮を焼いて文公を殺そうとした。
しかし計画は勃鞮の密告により文公を取り逃がし、郤芮は兵を率いて文公を追った。
ここで郤芮は秦繆公におびき寄せられて、黄河のほとりで殺された。
- 郤成子(ゲキセイシ)
- →郤欠
- 郤豹(ゲキヒョウ)【武官】
- 晋の臣。名は豹、字は叔虎。
晋献公が狩をして、翟柤の国から凶兆の気が出るのを見た。郤豹は朝見してこの話を聞き、
退出して士蔿に「翟柤の君は利益に専念し、その家来は媚びへつらっています。民はおのおのばらばらの心を持ち、
落ち着く所がありません。わたくしは提案しませんが、あなたは是非提案してください」と言った。
士蔿は献公に進言して翟柤を征伐した。
郤豹は敵城によじ登ろうとすると、部下が「将たる者が兵卒の労役をするのは、その任ではありません」と言った。郤豹は「老練な謀略もなく、壮者の労役もないならば、
何によって君に仕えるのか」と言い、鳥の羽を背につけて一番乗りし、とうとう戦いに勝った。
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