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列伝 ケ


啓(ケイ)【皇帝】
夏王朝3代王。の子。母は女嬌
前漢景帝の名を避けて、開と称されることがある。
女嬌は、熊の姿になって険路を走る禹を見てしまい石になってしまった。その時女嬌は既に身ごもっており、 禹は石化した女嬌に「我が子を返せ!」と叫ぶと石は割れて啓が生まれた。啓はひらくという意味があるのでそう名づけられた。
禹の治水を助けて功があり、商に封じられる。
禹は位をにゆずったが、民は益になつかずに啓に従ったため、啓は立って帝位を継いだ。
しかし多くの文献では、禹は啓を後継者にしようとしたが、長じても任せきれる器量がないと判断したため、禹は益に位を譲ったという。 そこで啓は徒党を組んで益を攻めて天下を奪う武力革命を起したという。
有扈氏が反したので甘(陝西・扶風地方)で戦い、これを滅した。
啓は禹の業を修め明らかにし、商(音律)をならべて、「九辯」「九歌」を作った。
また神話では、啓は緑の蛇を耳につけ、二頭の龍にまたがって天まで昇り、そこで天の音楽の贈り物を受け取ったとされる。
在位39年、78歳で没する。
啓の伝説は、古来諸説一定しないが、それは啓が憶測の域を出ない人物であることを表している。
扃(ケイ)【皇帝】
夏王朝13代王。不降の弟。
荊(ケイ)【公子】
衛の公子。
B.C.544呉の季札が衛を聘問し、遽伯玉史狗史鰌・公子荊・ 公叔発・公子に会い、その人物に感服して 「衛には君子が多い。まだ心配はない」と言った。
掲(ケイ)【公子】
秦の臣。南公。〜B.C.310。
B.C.310没す。
慶(魯)(ケイ)【文官】
魯の臣。匠師。
B.C.671魯荘公は斉から夫人を迎えるため桓宮(桓公の廟)の柱を朱塗りにした。
B.C.670荘公は桓宮の垂木に彫刻をした。慶は諌めて「先君は倹約でありましたが、君は奢侈となって前代の令徳はすたれました」と言った。 荘公は「わしはただ美しくしたかっただけだ」と言うと慶は「君にとって無益な上に、前代の令徳を棄てるものです。お止めになるのがよろしゅうございます」 と言ったが、荘公は聴き入れなかった。
(『春秋左氏伝』では、この言葉は禦孫が言ったことになっている。この場面は整合性が取れていない)
慶(莒)(ケイ)【文官】
莒の臣。
B.C.667慶は魯を訪れ、叔姫を迎えた。
稽(ケイ)【武官】
楚の臣。右司馬。
B.C.511秋、呉が楚に攻め入り、夷を討ち、潜と六とを侵略した。楚軍が援軍を出すと呉軍は引きあげて帰った。楚軍は潜を南岡に移して帰ると、呉軍は弦を攻め囲んだ。 右司馬稽は左司馬沈尹戌は軍を率いて弦を救い、予章まで進んだため呉軍は引きあげた。
羿(ゲイ)【神】
古代の弓の名人。姓は夷、名は羿。
羿については4つの伝説がある。
ひとつは、帝嚳のときの射官である。
羿はアツ寙鑿歯九嬰大風封豨修蛇という怪獣を討ち、処刑した。
二つ目は、の時の諸侯であり、天に10つの太陽が出現し、天下が干害に苦しむことがあった。 羿は堯の命令で9つの太陽を弓で射落とした。しかし太陽は上帝の子であったため、上帝から恨まれることになり、そのため神籍から外されてしまい不老不死の力を失った。 羿は失意したが、不老不死の薬を西王母にねだった。西王母から薬をもらったが、 妻の常娥(恆娥)に盗まれてしまう。常娥は月に逃げて、羿はついに死ぬ運命となった。
三つ目は、のときの諸侯であり、貪欲で飽くことを知らない伯封を后羿が滅ぼした。 さらに舜の命で、赤い弓と白い射ぐるみを賜って、下の国を討ったという。
四つ目は、有窮の后羿であり、夏王朝少康のときの人である。
また羿には逢蒙という弟子がおり、彼に殺されたという。
慶寅(ケイイン)【文官】
陳の臣。
B.C.566、12月、陳の人は楚の包囲を恐れた。慶寅は慶虎とともに楚人に「こちらで公子を遣わすから、 すぐに捕まえてくれ」と申し入れた。楚人が公子寅を捕えたので、陳人は会合に出席している陳哀公に「楚人が公子寅を捕えました。 君がお帰りにならないと、陳の社稷や宗廟が滅びてしまうので、陳は君に背いて公子寅についてしまうでしょう」と報告した。そこで陳哀公は会合から逃げて国に帰った。
B.C.553秋、慶寅と慶虎は公子が自分たちにせまって政権を奪うのではないかと恐れて、 楚に「蔡の司馬(公子)と同じことを謀りました」と讒言した。そのため楚人は公子黄の罪を責め正した。 そこで公子黄は自分の無罪を明らかにするために楚に出奔した。
B.C.550楚に出奔していた公子黄は、自分を中傷した慶寅と慶虎を楚に訴えたので、楚はふたりを呼びつけた。 慶寅と慶虎は慶楽を代理として行かせたが、楚ではこれを殺したため、ふたりは陳にたてこもって謀叛をおこした。 楚の屈建が陳哀公とともに陳に攻め入った。陳人は城壁を築いて防戦したが、構築の板が落ちて人を殺したので、 人夫たちが互いに言いあわせてそれぞれの人夫頭を殺し、勢いに任せて慶寅と慶虎も殺された。
敬嬴(ケイエイ)【女官】
文公の第二夫人。〜B.C.601。
敬嬴は文公に愛されて公子俀(宣公)を生んだ。
敬嬴はひそかに襄仲に取り入り、公子俀が生長すると、襄仲に依頼してそのうしろだてとなってもらった。
B.C.609文公が没すると、襄仲は公子俀を擁立した。
B.C.601、6月24日、没した。
兒説(ゲイエツ)【在野】
名家。稷下の学士。
宋の人。
兒説は公孫竜とともに名家の代表とされる。また「白馬非馬説」は兒説が唱えたともいわれる。
兒説は稷下で弁論家たちを抑えていたが、あるとき兒説が白馬に乗って関所を通った時、きちんと白馬に通行税をかけられたという。
恵王(周)(ケイオウ)【皇帝】
周王朝17代王。名は閬または毋凉。釐王の子。〜B.C.653。
B.C.676恵王は即位すると、虢公忌父を周に呼び戻した。
春、虢公と晋武公が来朝した。恵王は宴を開いて甘酒を賜わり、引き出物を贈った。それは玉5対と馬3匹ずつであったが、 虢公、晋公とも同じであった。人はこれを批難した(虢は公爵、晋は侯爵で身分が異なるため)。
恵王は恵后を陳より迎える。恵王は恵后を愛して、 太子を廃して叔帯を立てようとしたため、周室は乱れた。
恵王は蔿国の菜園を取り上げて王の庭園とし、辺伯の邸宅が王宮に近かったので、 これを取り上げ、さらに子禽祝跪詹父の田地を取り上げ、 石速の秩禄をも取り上げた。
B.C.675蔿国・辺伯・子禽・祝跪・詹父・石速は乱を起こし、かねて王室を恨んでいた蘇氏を中心として団結した。
秋、6人の叛徒は公子をかつぎ上げて恵王を攻めたが、恵王はこれを撃退した。
そこで6人は衛と南燕の軍とともに周を攻め、恵王は温に逃げ、鄭の都櫟に移った。
冬、叛徒6人は公子頽を擁立した。
B.C.674春、鄭厲公虢叔林父は周室の乱を治めようとしたが成功しなかった。
夏、恵王は鄭厲公とともに鄭に赴き、櫟に居らされた。
秋、鄭厲公は恵王とともに鄥に行き、進んで王城の東の成周に入った。
B.C.673夏、鄭厲公は虢叔林父とともに王城を攻めた。厲公は恵王をつれて南門から攻め入り、虢叔林父は北門から攻め入り、公子頽と6人の大夫を殺した。 厲公は恵王をもてなし、舞楽をことごとく奏するという盛儀を極めた。恵王はその功績を愛でて、 かつて鄭武公が周平王から賜わった虎牢より東の地を厲公に与えた。
恵王は虢に巡幸した。虢公が虢のホウに王宮を作って歓迎したので、恵王は虢公に酒泉の地を与えた。
冬、恵王は都に帰った。
B.C.667恵王は召伯を使者として斉に派遣し、斉桓公に覇者(侯伯)の辞令を賜わらせ、 さらに衛を討ってほしいと依頼した。
B.C.666、3月29日、斉桓公は衛を討ち、衛の罪を責め立て、財貨を取り立てて帰った。
B.C.665樊皮が恵王に対し謀反を起こした。
B.C.664恵王は虢公に命じて樊皮を討伐させた。
4月14日、虢公は樊に攻め入り、樊皮を捕らえて周都に送った。
B.C.661神が莘の地に降下した。恵王は何の神が降りたのか内史に尋ねると、 それは丹朱の神であるという。 莘は虢の地であるため、恵王は過に命じて虢公に犠牲とお供えを捧げるようにさせた。しかし虢公はこの命令を聞かなかった。
B.C.655夏、斉桓公は、魯・陳・衛・鄭・許・曹と周の太子鄭と首止で会合し、太子鄭の地位を固め、周室の安泰を図る相談をした。 恵王は斉桓公が太子鄭の位を定めたことを恨んで、鄭文公を呼び寄せ「わたしはお前を楚につくようにさせ、晋にも助けるようにさせよう。 そうすれば斉は鄭に手出しはできまい」と言い、太子鄭の地位を固めさせないように謀った。文公は喜んで、諸侯の盟いに参加せずに鄭軍を残して自らは帰国した。
B.C.653、閏12月、崩御する。
恵王(魏)(ケイオウ)【王】
魏王(初代(3代目))。名は罃。武侯の子。B.C.400〜B.C.319。
B.C.371武侯が没すると、公子中緩と太子の位を争った。斉威王は趙成侯と計って魏を討ち、 濁沢で魏は大敗し、囲まれた。
趙は罃を殺して、中緩を立てようとし、斉は魏を二分しようとして意見が分かれたため、斉は兵を引き連れて帰国した。そのため罃は助かった。
B.C.369韓を討ち、これを馬陵で破る。
趙を討ち、これを懐で破る。
B.C.368斉に攻められ、観で破られる。
B.C.367韓懿侯と宅陽で会同する。
武都に城を築く。また秦と戦い、破られる。
B.C.366宋を討ち、儀台を取る。
B.C.365趙を討ち、澮でこれを破り皮牢を取る。
また秦と少梁で戦い、敗れて公孫座が捕らえられる。
この年、彗星が現れる。
B.C.361星が昼に落ちて音がした。
この年、恵王は安邑から大梁に遷都する。
B.C.359趙成侯と鄗で会同する。
B.C.358魯共公・衛成侯・宋剔成が魏に来朝した。
B.C.357秦孝公と杜平で会同する。
宋を討ち、黄池を侵略したが、宋にまた奪回される。
趙を討ち、邯鄲を囲む。
B.C.356秦と元里で戦い、少梁を失う。
趙は斉に救援を請い、田忌孫臏に攻められて桂陵で破れる。
B.C.354諸侯に攻められ、襄陵を囲まれる。
長城を築き、固陽に要塞を造る。
趙に邯鄲を返し、ともに漳水のほとりで誓った。
B.C.353秦孝公と彤で会同する。
B.C.351逢沢(孟津)で周顕王と会見する。
B.C.346中山君を宰相とする。
B.C.343周顕王から文武の胙を頂く。
B.C.341趙を討つ。趙は危急を斉に告げ、斉宣王は孫臏のはかりごとを用いて、趙を救い魏を討った。
魏は大挙出兵し、龐涓を将軍とし、太子を上将軍とした。
斉と戦い、馬陵で大敗し、申は捕らえられ、龐涓は戦死する。
B.C.340秦・趙・斉連合軍に攻められる。秦の商鞅は公子をいつわって襲い、 その軍を奪ってこれを破る。
秦は領土を拡げて黄河に及んだ。斉・趙もしばしば魏を破ったので、遷都して大梁を都とし、公子赫を太子とする。 恵王は「わしは今、公叔座の諫言を用いなかったことが悔やまれる」と言って悔しがった。
B.C.338秦孝公が没し、商鞅が魏に逃亡してきたが、魏は怒ってこれを受け入れなかった。
B.C.336恵侯は斉宣王と平阿の南で会同する。
恵侯はしばしば敗戦の憂き目を見たので、謙譲の礼をつくし、幣物を厚くして、賢者を招いた。騶衍淳于髠孟子などがみな大梁に来た。
淳于髠は恵王に謁見したが、2回も何も言わなかった。恵王は謁見させた者にこれを責めて「子は淳于先生を推称して、 いにしえの管仲晏嬰も及ばないと言ったが、 何もしゃべらない。わしは話すに足らん相手ということか」と言った。その者が淳于髠にこれを告げると、淳于髠は「もとよりそうである。はじめ謁見した時、 王の心は馬を乗り回すことにあった。後に謁見した時には、王の心は音楽に奪われていた。それで私はだまっていたのである」と答えた。
恵王はこれを伝え聞くと大いに驚いて「ああ、淳于髠はまことに聖人である。はじめのときは、ちょうどよい馬が献上されてわしが見ようと思った時に先生が来られたのだ。 二度目の時は、歌うたいを献上するものがあり、歌を聞こうと思ったところに先生が来られたのだ。わたしは人払いをしながら、内心はそれに気を奪われていたのだ。まことに、 そのとおりであった」と言った。
そののち、淳于髠は恵王と三日三晩語り合った。恵王は宰相をもって待遇しようとしたが、淳于髠は辞退して去った。
B.C.335恵侯は斉宣王と甄で会同する。
B.C.334恵侯は王号を称す。(恵王)
B.C.331秦と戦い、竜賈の軍4万5千は雕陰で破られ、焦・曲沃を包囲される。
B.C.330秦に河西の地を与える。
B.C.329秦恵文君と応で会同する。
秦に攻められ、汾陰・皮氏・焦・曲沃を失う。
魏は楚と陘山で戦った。恵王は上洛の地を贈る約束をして秦に援けを求めて、楚を破った。
しかし魏が楚に勝利すると、恵王は違約して秦に土地を与えなかった。すると秦が楚と通じようとしたので、恵王は約束どおり上洛の地を秦に与えた。
B.C.328上郡15県をことごとく秦に入れた。
秦に攻められ、蒲陽を失う。
B.C.327秦から焦・曲沃を還される。
B.C.323楚に襄陵で破られ八邑を失う。
諸侯の執政者が、秦の宰相張儀と齧桑で会同する。
B.C.322張儀を宰相とする。
また魏で女子が変わって男になった者があった。
秦に攻められ、曲沃と平周を失う。
B.C.321孟子に謁見したが、言うことが迂遠で現実の事情にうといと思ったため、孟子の言うことを信じなかった。
恵王(秦)(ケイオウ)
恵文君
恵王(燕)(ケイオウ)【王】
燕王(4代目)。昭王の子。〜B.C.273。
B.C.279即位すると楽毅を更迭して騎劫を上将軍としたため、楽毅を趙に亡命させてしまう。
斉をあと二城のところまで追い詰めていたが、斉の将軍田単に反撃され大敗を喫し、占領した城をことごとく失った。
恵王は楽毅を罷免したことを悔い、人をやって楽毅を責め、かつ詫びて「たまたま先王が亡くなられたとき、左右の近臣がわたしを誤らせた。わたしが将軍を騎劫と代わらせたのは、 将軍が久しく国外にあって苦労を重ねているので、しばらく休養させようとしたのだ。それを将軍はわたしと不仲ゆえと聞きあやまって、趙に投じたのだ。 それでは、先王が将軍を殊遇された盛意に逆らっているのではないだろうか」と言った。楽毅も書簡をもってこれに応えた。 そこで恵王は楽毅の子楽間を昌国に封じて昌国君とした。 楽毅も燕と往来して、またよしみを通じ、燕・趙は彼を客卿とした。
恵王(楚)(ケイオウ)【王】
楚王(13(29)代目)。名は章、または章梁。昭王の子。母は越王勾践の娘。〜B.C.432。
B.C.489公子子西司馬子期に迎えられ、擁立される。 そこで呉との戦いを止めて帰国し、昭王を葬った。
あるとき恵王は梁の地を魯陽文子に与えようとした。魯陽文子は辞退して「梁は険阻で国境にありますので、 子孫に二心を抱く者が出るのが心配です。たとえわたくしは処刑を免れて往生できるとしても、おそらくは子孫はわたくしの祭祀を絶やすでしょう」と言った。
恵王は「あなたの仁は子孫のことだけでなく、楚までもその恩恵に浴します。どうしてあなたの意見に従わないでおられましょうか」と言い、 結局、魯陽文子に魯陽を与えた。
B.C.484晋が鄭を討ち、鄭は楚に危急を告げた。恵王は子西に命じて、これを救わせたが、子西が鄭の賄賂を受けて帰ったため、 白公は怒ってこれを恨んだ。
B.C.479勝は叛乱を起こし、子西と子綦を朝廷で襲って殺した。
さらに勝は恵王も弑しようとしたが、従者の屈固が恵王を背負って昭王夫人の宮に逃げたため、恵王は助かった。
勝は自立して王となったが、葉公沈諸梁が救援に来たため、恵王はこれとともに勝を討ち殺して、恵王は復位する。
この年、陳を滅ぼして、その地を県とした。
B.C.477巴に攻められ、破られる。
B.C.476呉王夫差に攻められる。
B.C.447蔡を滅ぼす。
B.C.445杞を滅ぼす。また、秦と和睦する。
楚は東方を侵略し、土地を広めて、泗水のほとりに達した。
景王(ケイオウ)【皇帝】
周王朝24代王。名は貴。霊王の子。〜B.C.520。
B.C.545即位する。
B.C.543、4月29日、儋括が蔿を攻め囲み、愆期を追い出した。
5月5日、尹言多劉毅単蔑甘過鞏成が公子佞夫を殺したため、 儋括は公子・公子らと晋に亡命した。
B.C.541景王は晋の趙武が鄭から帰国することを聞き、劉夏に周の潁邑で慰労させた。
B.C.535衛の斉悪が衛襄公が没したことを告げてきた。 景王は成簡公に命じて衛に弔問に行かせた。
10月21日、単襄公と単頃公の一族が単献公を殺してその弟の単成公を立てた。
B.C.533晋の閻嘉と周の大夫が閻の耕地について争い、晋は陰戎の人を率いて周の穎邑を討った。 景王は詹桓伯に命じて晋に訴えた。時に景王には姻戚の喪があったため、 晋の趙景叔が弔問に来て和解した。 そこで景王も大夫の賓滑に命じて大夫襄を捕らえて晋に弁解させた。
B.C.531景王は萇弘に「今年はどこに吉があり、どこに凶があるだろうか」と尋ねると、 萇弘は「蔡が凶を受けるでしょう。しかし歳星が大梁に移っていったら蔡は復興し、楚が凶となるでしょう」と答えた。
B.C.527、6月9日、太子寿が没した。
8月23日、穆后が崩じた。
12月、晋の荀躒が来聘して穆后を葬った。景王は葬式を終えて荀躒と酒宴を開き「伯氏よ、諸侯はみな贈り物を献上して王室を慰安してくれるのに、 晋だけしないのはなぜか」と問うた。荀躒は籍談に回答を促すと、籍談は「わが晋は深山の中にあり、戎狄と近接して、 王の恵みも至りません。どうして器物を献上することができましょう」と答えた。景王は「叔氏よ、汝は忘れてしまったのか。武王は商に勝ち、 晋の地を唐叔に与えたのではないか。その幸福の記録をしなければ、晋の存在はないことになる。 汝は晋の記録を司る籍氏の子孫であるのに、どうしてそれを忘れたのか」と言った。籍談は返答することができなかった。彼らが退席した後、 景王は「籍父はきっと子孫が絶えるであろう。晋の記録を司ってその先祖を忘れている」と言った。 一方で、籍談から話を聞いた晋の叔向は「王は天寿を全うできないであろう。憂いの中にあって憂いを楽しんでいる」と言った。
B.C.525秋、晋の屠蒯が来朝し、洛水と三塗山で祭りを行いたいと申し入れをさせた。萇弘は「使者の顔つきがきびしい。祭りを行うのではありますまい。 きっと戎を討つのであろう」と言った。
9月28日、はたして晋軍は陸渾に攻め入ってこれを滅ぼし、陸渾が楚に心を寄せていたことを責め立てた。陸渾の君は楚に逃げ、大勢の人が周の甘鹿に逃げ込んだ。
B.C.524、2月16日、毛得毛伯過を殺してその地位についた。萇弘が「毛得はきっと滅びるであろう」と言った。
景王は大型貨幣を鋳造しようとした。単穆公が諌めて「いけません。物価高(インフレ)には高額貨幣を、 物価低(デフレ)には低額貨幣を多くします。すなわち、高額の重い貨幣に堪えなければ、軽い貨幣を多く作って流通させますが、重い貨幣も廃止せず、民は大小の貨幣を利用します。 もし今、重量貨幣だけを作れば、民はその貨幣価値の損失を受け、貧乏で苦しむことになります」と言ったが、景王はこれを聴き入れず、大型貨幣を鋳造した。
B.C.522春、景王は無射の鐘を鋳て、その覆いとして大林の鐘を作ろうとした。単穆公が諌めて「重い貨幣をつくって民の資産を絶ち、今また大鐘を鋳て資産を浪費するならば、 生産はどうして増殖しましょうか」と言ったが、景王は聴き入れなかった。景王はまたこのことを伶州鳩に聞くと、 伶州鳩は「大昔の大林の鐘を作れば、主音の宮音を出て、正雅の音楽に害があり、また財政を圧迫すれば、音楽に妨げとなります」と言った。しかし景王は諌めを聞かず、大鐘を鋳た。 伶州鳩は「王はきっと気の病気で亡くなられるであろう。音声がか細すぎると人の心に充満せず、あまりに大きすぎると聞くに堪えられなくなり心を痛める。 この鐘の音は大きすぎる。きっと長くは生きられないであろう」と言った。
B.C.521鐘が完成し、音楽官が鐘声の調和を報告した。
景王「鐘は調和したぞ」
伶州鳩「まだわかりません。お上が楽器をつくって、民がみんなで楽しむならば調和したと申します。今資財はなくなって民は疲れており、わたくしは調和したとは思いません」
景王「この老いぼれめが、何が分かるか」
あるとき景王は長子猛(悼王)の太傅下門子を殺した。 賓起はこれを暗に諌めた。
B.C.520太子寿が早く死んだため、景王と賓起は子朝を寵愛して太子に立てようとした。 しかし劉狄は賓起の人柄を憎んでおり、また子朝のことも憎んでいて、これを追い払いたいと考えた。
4月、景王は北山で狩りをした。景王はそこで子朝を立てるのを好まない劉献公と単穆公を殺そうとした。
4月19日、景王は急に精神病がおこって栄錡の家で没した。景王が崩じると、鐘は調和しなくなった。
敬王(ケイオウ)【皇帝】
周王朝26代王。名は匄。景王の子。〜B.C.476。
B.C.520、11月13日、周悼王が崩御した。
11月17日、王子匄は即位し(敬王)、子旅氏の邸に宿った。
B.C.519、1月、晋軍と周王の軍は周の郊を攻め囲んだ。
1月2日、子朝の郊と鄩が崩れた。
1月6日、晋軍は陰に、周王の軍は沢邑に留まっていたが、敬王はもはや子朝は敗れたということを晋軍に告げた。
1月9日、晋軍は帰国の途についた。
4月15日、単穆公が周の訾を攻め取り、 劉文公は鄫の人と直の人を攻め取って支配下に入れた。
6月13日、子朝は京を去って尹氏の領地に入った。
6月14日、尹文公劉佗をだまして殺した。
6月17日、単穆公は阪道から、劉文公は尹道から進んで尹を討ったが、敗れた。
6月20日、召伯南宮極が成周の人を率いて尹を守った。
6月21日、敬王は単穆公・劉文公・樊斉に連れられて劉文公の領地に出かけた。
6月25日、子朝が王城に入り、左巷に軍を進めた。
7月9日、鄩羅が子朝を荘宮に入れた。尹辛が劉文公の軍を唐で破った。
7月17日、劉文公の軍は再び鄩で破られた。
7月25日、尹辛が西イを攻め取った。
7月27日、尹辛が蒯を攻めて、蒯はつぶれた。
8月29日、子朝の臣南宮極が地震で死んだ。
B.C.517敬王は子朝が周都で自立していたため、 敬王は洛陽の王城から東郊へ移り、そこを成周と呼んだ。ここにおいて王城と成周は分かれて2つの城となった。
B.C.516、4月、単穆公が晋に出かけて王室の危急を告げた。
5月5日、劉文公が子朝の軍を尸氏で打ち破った。
5月15日、王城の人と劉文公が施谷で戦ったが、劉文公は大敗した。
7月18日、劉文公は戦いに敗れたため、敬王を連れて狄泉を出た。
7月19日、敬王は周の渠に宿営した。王城の人は劉氏の邑に焼き討ちをかけた。
7月25日、敬王は褚氏に宿った。
7月26日、敬王は萑谷に宿営した。
7月29日、敬王は胥靡の地に入った。
7月30日、敬王は滑の地に宿営した。
晋の荀躒趙鞅が軍を率いて敬王を都に入れようとして、 女寛に命じて闕塞の要塞を守らせた。
10月16日、敬王は滑で兵を挙げた。
10月21日、敬王は子朝の領地の郊邑におり、勢いに乗じて尸の地に進んでそこに留まった。
11月11日、晋軍が鞏で子朝の軍を破った。子朝についていた召伯は見限って子朝を追い出した。 子朝は召氏の一族、毛伯得尹氏固・ 南宮嚚と一緒に周の文書を持ち出して楚へ逃げ、陰忌は周の莒へ逃げてそこにたてこもって叛いた。
召伯盈は敬王を尸から迎えて劉文公・単穆公と盟い、ただちに敬王を奉じて圉沢に軍を進め、隄上に留まった。
11月23日、敬王は成周に入った。
11月24日、敬王は周襄王の廟で群臣と盟った。晋軍は成公般に命じて周を守らせて引きあげた。
12月4日、敬王は王城の周荘王の廟に入った。
そこで諸侯は周の都城を築いた。
B.C.513、3月13日、周の都では召伯盈と尹氏固そして原伯魯の子を殺した。
5月25日、子朝の余党の王子趙車が鄻邑に入って叛いたが、陰不佞がこれを討ち破った。
B.C.510、8月、敬王は富辛石張を晋に遣わして成周に城壁を築きたいと申し入れた。
11月、晋の魏献子韓簡子が周の都に来て、諸侯の大夫を狄泉に集めて平丘の盟い(B.C.529)を再確認し、 そのうえで成周に城壁を築くことを命じた。
B.C.506、3月、劉文公が晋定公・魯定公・宋景公・ 蔡昭侯・衛霊公・陳懐公・ 鄭献公・許の君・曹隠公・莒の君・邾の君・頓の君・胡の君・滕の君・ 杞悼公・小邾の君・斉の国夏を楚の召陵に集めて楚を討つ相談をした。
B.C.504夏、鄭人は周の儋翩を援助して、子朝の一味に周で騒動を起こそうとした。そこで鄭は馮・滑・胥靡・負黍・狐人・闕外の周の邑を討った。
12月、敬王は儋翩の乱を避けて姑蕕に住むことになった。
B.C.503、2月、儋翩が周の儀栗に入って叛いた。
4月、単武公と劉桓公が儋翩に加担した尹氏を窮谷で討ち取った。
11月24日、敬王は単武公と劉桓公に迎えられた。
12月5日、敬王は晋の籍秦に送られて王城に入り、一時、一族の党氏の家に宿泊してから荘王の廟にお参りした。
B.C.502、2月26日、単武公が穀城を討ち、劉桓公が儀栗を討った。
2月28日、単武公が簡城を討ち、劉桓公が盂を討ち、かくして王室は安定した。
B.C.482呉王夫差は、黄池の会盟を終えると王孫苟を周に派遣して、 呉が楚と斉を討伐したことを報告した。
王孫苟「昔、楚人が無道を行い王命を遵奉しなかったので、先君闔閭は楚を討伐し、郢を陥れました。 また斉は楚の敗北を戒めとせず王命を遵奉しなかったので、夫差はこれを艾陵で破りました。どうして功を誇りましょうか。 これは文王 武王の善意のお陰でございます。夫差は会盟を成就しましたので、 ご報告いたします」
敬王「苟よ、伯父(夫差)がそなたを遣わしたことによって、わしは嘉納するぞ。伯父が力を合わせて徳を共にしようとするなら、わしも大なる祝福を受けるだけでなく、 伯父もまた年寿を経ておん身を終えられよう」
頃王(ケイオウ)【皇帝】
周王朝19代王。名は壬臣。襄王の子。〜B.C.613。
B.C.619襄王が崩御すると、頃王は即位した。
B.C.613頃王は崩御する。
携王(ケイオウ)【王】
周王。幽王の子。名は余。〜B.C.759。
B.C.771幽王が犬戎に殺されると、携王は虢公に擁立される。
B.C.770携王の即位に反対する諸侯は、公子宜臼を擁して、成周に移り、平王として即位させた。
ここに周は西の携王、東の平王が並び立った。
B.C.759平王に攻められて没す。
荊軻(ケイカ)【在野】
衛の人。刺客。〜B.C.227。
先祖は斉の人であったが、荊軻は衛に移り、慶卿と呼ばれた。
のち燕に行って、燕では荊卿と呼ばれた。
荊軻は読書・撃剣を好み、衛元君に説いたが用いられなかった。
荊軻は遊歴をしたが、楡次で蓋聶と剣のことを論じた。蓋聶が怒ってにらみつけると荊軻はすぐに立ち去った。
また邯鄲に遊んだとき、魯句践という者と双六をして、その道筋を争った。魯句践が怒って大声で叱ったので、荊軻は黙って逃げ出し、 二度と会わなかった。
荊軻は燕に移ってから犬殺しと、筑の名手高漸離という者と親交した。高漸離が筑を撃ち、荊軻がこれにあわせ歌ってかつ泣き、 周囲に人が無きようであった。
荊軻は遊歴した諸国の国々では、賢人・豪傑・長者と交わり、燕でも処士の田光に礼遇された。
B.C.233燕の太子が秦から逃げ戻った。秦王に軽んじられたためであった。
丹は秦王政に復讐したいと思い、太傅鞠武の推挙で田光に会い、策を請うた。
田光は「太子はわたしの壮んなころのことを聞いて、精力の衰えた今のわたしをご存じないのです。わたしの親友に荊卿というものがおり、 これこそお役に立ちましょう」と言った。
太子丹は荊軻と会う約束をかわし、退出する時「わたしの話したことも先生の言ったことも、国の大事だから、おもらしなさらぬように」と念を押した。田光は身をかがめて、 笑って承諾した。
田光は荊軻にこのことを話し「太子は最後に念を押された。これは太子がわたしを疑うものである。事をはかって人に疑わせるのは気節義侠とはいえない」と言い、 みずから首をはねて死んだ。
荊軻は太子に謁見し、田光がすでに死んだことを伝えた。太子丹は涙を流して「わたしが他言せぬよう申したのは、大事のはかりごとを成し遂げたいと思ったからです。 田先生が死なれたのは、わたしの本意ではない」と言った。
荊軻は秦王政を暗殺することを承諾し、太子丹は荊軻を尊んで上卿とした。
かくて、日数が経ったが、荊軻は出立しようとしなかった。太子丹は恐れて「秦兵が易水を渡ったなら、あなたにお願いしても、どうしてできましょうや」と言った。
荊軻は「いま秦に行っても信用がなければ、秦王に親近することはできません。ところで、かの樊将軍の首には、金千斤と一万戸の食邑が懸賞されているとか。 もし樊将軍と燕の督亢の地図を持参して秦王に献上するなら、必ず引見いたしましょう」と言った。 しかし太子丹は樊於期を殺すことをためらった。
荊軻はひそかに樊於期に会い「秦のあなたに対する仕打ちは、まことに深刻です。宗族はすべて殺戮され、金千が懸けられています。 将軍はどうなさるおつもりですか」と言った。
樊於期は天を仰いで嘆息し、涙を流して「どうすればよいか、私にもわからないのです」と言った。
荊軻は「いま燕国の憂いを解き、将軍の仇を報いる策があります。あなたの御首をいただいて秦王に献ずるのです。秦王は喜んでわたしを引見しましょう。 そのとき私が秦王を刺し殺せば、将軍の仇は報いられるでしょう」と言った。
樊於期は「私はいま教えを承ることができた」と言い、みずから首をはねて死んだ。
B.C.227燕に勇士秦舞陽というものがおり、13歳で人を殺したことがあり、太子丹は秦舞陽を荊軻に随行させようとした。 荊軻は別に期待していた者がいたが、まだやって来なかった。 太子丹は出発をせかしたので、荊軻は怒って「舞陽を遣わすとは何事です。失敗するなら、その原因となるのはその小僧でしょう」と言い、ついに出発した。
見送りの者は、いずれも白い装束で易水まで行った。高漸離は筑を撃ち、荊軻はこれに和して歌った。
 風は蕭々として易水寒し
 壮士一たび去って復た還らず

かくて荊軻は車に乗って去り、ついにうしろを振り向かなかった。
荊軻は秦王政の寵臣である十庶子蒙嘉に厚く賄賂して引見を求めた。
秦王は喜び咸陽宮で荊軻を引見した。荊軻は樊於期の首桶を持ち、秦舞陽は地図を匣を捧げて進んだ。秦舞陽は顔色を変えて震え出した。群臣がこれを怪しんだので、 荊軻は顧みて秦舞陽を笑い、「北方蛮夷の卑賤の者、いまだかつて天子に拝謁したことがありませんので震え恐れたのでございます」と詫びた。
秦王政は「舞陽の持っている地図を取り出して見せよ」と言ったので、荊軻は地図を取り出して渡した。王が地図をひらいて、図が終わるところ、 巻き込んであった匕首があらわれた。
すると荊軻はすぐ左手で王の袖をとらえ、右手に匕首を持って王を刺した。あわや身に届くかと見えたが、王が身を引いたはずみに袖がちぎれたので、 王は逃げることができた。
秦王政は剣を抜こうとしたが、あわてていたので即座に抜けなかった。群臣は宮殿にあがる時は武器を帯びることを許されていなかったので、殿上にのぼれなかった。 荊軻は秦王政を追いまわしたが、侍医夏無且が薬嚢を荊軻に投げつけた。
左右の者が「王よ、剣を背負われませ」と言ったので、王は剣を背負い、ついに抜いて荊軻を打ち、その左股を斬った。荊軻は匕首を投げつけたが、王にあたらず銅柱にあたった。 秦王政は荊軻を斬りつけ、八箇所に傷を負わせた。荊軻はいまや事成らずと観念し、柱によりかかって笑い、両足を前に投げ出してののしって言った。
「事が成就しなかったのは王を生かして契約を燕の太子に報告したかったからである」
左右の者は進み出て荊軻は殺された。
秦王政は大いに怒って荊軻の手足を切り離して天下にさらし、さらに兵力を増して燕を討った。
邢蒯(ケイカイ)【武官】
晋、斉の臣。
B.C.552欒盈が罪を問われて追放された。欒氏の一味であった知起中行喜州綽、邢蒯は斉に出奔した。
景快(ケイカイ)【武官】
楚の臣。〜B.C.298。
B.C.298秦将に攻められて8城を失い、景快は殺される。
慶楽(ケイガク)【文官】
陳の臣。〜B.C.550。
B.C.550陳の公子慶虎慶寅を楚に訴えたので、 楚康王はふたりを呼びつけた。慶楽は慶虎と慶寅の代理として楚に行ったが楚で殺された。
景監(ケイカン)【文官】
秦の臣。
B.C.359商鞅のとりなしをして、彼を秦孝公に謁見させる。
敬帰(ケイキ)【女官】
襄公の夫人。子野の母。胡の公女。
B.C.542魯襄公が没すると、敬帰の生んだ子野が立ったが、その年に没した。
荊嬀(ケイギ)【女官】
盧国の夫人。
盧国は荊嬀を夫人にしたため滅んだという。
圭嬀(ケイギ)【女官】
繆公の夫人。士子孔の母。
圭嬀は宋子より位がひとつ下であり、仲が良かった。
敬姜(ケイキョウ)【女官】
公父靖の夫人。公父ショクの母。
賢女の名が高かった。
あるとき季康子が敬姜に尋ねた「おばあ様、わたくしにお教えくださることがありましょうか」 敬姜は「亡くなった姑から聞きました。君子はよく謙遜して労苦をいとわなければ、後世子孫が祭祀を絶やさないとのことです」と答えた。
またあるとき敬姜が季康子の家に行ったとき、季康子が外朝にいて敬姜に話しかけたが、返事をしなかった。季康子は寝門を入ってきて「何か失礼申し上げましたでしょうか」 と言った。敬姜は「天子と諸侯は、民の政事を外朝で議し、神事を内朝で議すといいます。卿以下は、公職は外朝で議し、家のことは内朝で議します。 外はあなたが主君の公官の職務を遂行し、内朝はあなたが季氏の政事を治めるところであり、どちらもわたくしがお話すべき所ではありません」と答えた。
またあるとき公父ショクが帰宅し、敬姜に挨拶しに来た時、敬姜はちょうど糸を紡いでいた。公父ショクは「母上が糸を紡ぐのでしたら、 季孫(主家)は、わたくしが母上を大事にしていないと思いはしないでしょうか」と言った。敬姜は歎いて「まあ、おすわり。民というものは苦労させれば考え、 考えれば善心が生じます。安逸であれば淫乱になり、淫乱になれば善を忘れ、悪心が生じます。ですからみな職分に応じて朝から夜までその職務があるのです。
今わたくしはやもめであり、そなたは下大夫です。朝夕仕事をしてもそれでもなお先祖の業績を忘れることを恐れるのに、まして怠けていたらどうやって罪を避けるのですか」 と言った。
孔子はこの話を聞いて「弟子たちよ、覚えておきなさい。季氏の婦人は淫乱でなく、礼節がある」と言った。
またあるとき季康子が訪問すると、敬姜は寝門を開いてともに話し、互いに敷居を出なかった。
また公父靖を祭ったとき、季康子も参加したが、敬姜は返杯を直接受けず、神前の供物をさげて後は饗宴をせず、祭祀を司る宗臣がそろわなければ、祭りの後の繹祭もせず、 繹祭の後の饗宴には出ても、ほどよいころに退席した。孔子はこの話を聞いて、男女のけじめをつける礼とした。
慶ケツ(ケイケツ)【文官】
斉の臣。〜B.C.545。
B.C.545、11月8日、斉の先祖の廟で秋の祭りを行ったとき、慶ケツは一番に酒を献上する上賓をつとめた。 この祭りに乗じて欒・高・陳・鮑氏が慶舎を殺し、この乱で慶ケツも殺された。
景欠(ケイケツ)【将軍】
楚の将軍。
B.C.300秦に攻められて大いに破られ、二万の兵を失い、景欠も殺される。
慶虎(ケイコ)【文官】
陳の臣。〜B.C.550。
B.C.566、12月、陳の人は楚の包囲を恐れた。慶虎は慶寅とともに楚人に「こちらで公子を遣わすから、 すぐに捕まえてくれ」と申し入れた。楚人が公子寅を捕えたので、陳人は会合に出席している陳哀公に 「楚人が公子寅を捕えました。君がお帰りにならないと、陳の社稷や宗廟が滅びてしまうので、陳は君に背いて公子寅についてしまうでしょう」と報告した。 そこで陳哀公は会合から逃げて国に帰った。
B.C.553秋、慶虎と慶寅は公子が自分たちにせまって政権を奪うのではないかと恐れて、 楚に「蔡の司馬(公子)と同じことを謀りました」と讒言した。そのため楚人は公子黄の罪を責め正した。 そこで公子黄は自分の無罪を明らかにするために楚に出奔した。
B.C.550楚に出奔していた公子黄は、自分を中傷した慶虎と慶寅を楚に訴えたので、楚はふたりを呼びつけた。 慶虎と慶寅は慶楽を代理として行かせたが、楚ではこれを殺したため、ふたりは陳にたてこもって謀叛をおこした。 楚の屈建が陳哀公とともに陳に攻め入った。陳人は城壁を築いて防戦したが、構築の板が落ちて人を殺したので、 人夫たちが互いに言いあわせてそれぞれの人夫頭を殺し、勢いに任せて慶虎と慶寅も殺された。
恵公(晋)(ケイコウ)【王】
晋公(3(5)代目)。名は夷吾。献公の子。母は狐姫、または小戎子。〜B.C.637。
B.C.663晋献公夫人驪姫が奚斉を生んだので夷吾は屈邑に赴任させられる。
B.C.656献公暗殺の疑いをかけられて攻められるが、籠城して反撃する。
B.C.652賈華に攻められたため郤芮の進言で秦に近い梁に出奔する。
B.C.651里克奚斉悼子を殺し、 呂省が夷吾を迎えるため蒲城午を遣わした。
夷吾は郤芮に「呂省がわたしを迎え入れようとしています」と相談した。郤芮は「国の内外に賄賂して、 財力を虚しくすることを惜しまず、帰国を求めるべきです」と言った。そこで夷吾は使者に会って再拝稽首して承諾した。
このとき秦の公子が献公の弔問にやって来た。縶は「国を得るのは常に喪の時であり、 国を失うのも常に喪の時であるといいます。好機は逸すべからず。公子よ、帰国を計られよ」と言った。夷吾はまた郤芮に相談すると、 郤芮は「亡命者は律儀で清廉であってはなりません。帰国を求めるべきです」と言った。そこで夷吾は使者に会って再拝稽首して承諾し 「わたくしが帰国して社稷を安んずることができましたら、河外の大きな城5つを献上いたしましょう」と言った。
こうして夷吾は秦と斉の援助によって帰国することとなった。
B.C.650、4月、夷吾は宰孔と周の王子と斉の隰朋と会合して、 彼らの援助で即位した。
恵公は邳鄭を秦に遣わし、約束した土地の割譲に断りを入れ、また里克に約束した汾陽の邑を与えず、 逆にその権勢を奪った。
4月、恵公は里克が乱を起こすのを恐れ、里克に「あなたは二君と一大夫を殺した。あなたの君となる者は難しいことではないか」と言い、里克に死を賜った。
恵公が里克や邳鄭や秦と交わした約束を反故にしたので、民は歌をうたってこれをそしった。
また恵公は申生を改葬したが、その時、悪臭が漏れたので、また民にそしられた。
B.C.649周襄王は召公と内史過を使節として、恵公に襲封(封建領主の継承を命じる詔勅)の勅命を授けさせた。 呂省と郤芮が恵公の礼を助けたが、恭敬の心に欠け、恵公も玉圭を執ることが低く、稽首の礼をしなかった。
過は帰国すると襄王に報告して言った「晋は滅亡しないとしたら、その君には世継がないでしょう。また呂郤ふたりとも難を免れません。いま晋は国の内外の約束を破り、 晋の国人を虐殺し、王命を敬せず、自分がいやなことを人に施しています。こんなことでどうして国を守ることが出来ましょう。
いったい晋侯は世継でもないのに位に即いたのですから、戦戦兢兢としてその位を守って戒懼しても、それでもなお不十分と言うべきです。玉圭を低く執るということは、 式典の礼物を棄てるものです。王命を拝して稽首しないのは王をないがしろにするものです。きっと禍を受けましょう」
周の叔帯が戎を手引きして周都を討ったので、恵公は秦とともに戎を討った。
秋、恵公は戎と周襄王を和解させたため、乱は治まった。
B.C.647晋が飢饉になったため秦に穀物の買入れを乞い、許された。
B.C.646秦に飢饉があり、穀物の買入れを請われた。恵公は河外の5城に命じて穀物を秦へ送らせようとした。 しかし虢射は「ただ敵を強くするだけです。与えないほうがいいでしょう」と言った。一方、 慶鄭は「いけません。秦の善意を忘れ恩徳に背けば、必ず秦に討たれましょう」と言った。結局、恵公は虢射の進言に従って秦に穀物を供給せず、 逆に出兵して秦を討った。
B.C.645春、秦繆公が晋を攻めた。恵公は慶鄭にどうしたらよいだろうと聞くと「秦がわが君を晋に入れてくれたときには、 君は土地割譲の約束に背き、また飢饉の時には食糧を送ってくれましたが、君は秦の飢饉の時には逆に秦を討ちました。秦が攻めてくるのは当然のことではないでしょうか。 わたくしは存じませぬ」と言った。
恵公は自分の車右を誰にするか占った時、慶鄭が吉と出た。しかし恵公は「鄭は不遜でいかん」と言い、 大夫歩陽を御者に、家僕徒を車右とした。
梁繇靡韓簡の車を御し、虢射が車右となって恵公の車に続いた。
恵公は韓簡に秦軍を視察させたところ「戦闘意欲は盛んです。秦は君の帰国を手助けし、飢饉には穀物を輸出したのに報いがありません。秦には怒らない者はおりません」 と言った。恵公は「わしが攻撃をしなかったら必ず威張るに違いない。ひとりでも威張らせてはならぬ」と言った。
9月13日、秦と韓原で合戦したとき、晋は大敗し恵公の馬が泥土におちいった。恵公は慶鄭を呼び寄せ「わしを乗せよ」と言ったが、 慶鄭は「善を忘れて徳に背き、また占いを用いなかったのですから、敗北するのも当然ではないでしょうか。なにが『わしを乗せよ』ですか。 わたしの車に君が乗られるのは勿体のうございます」と言い、秦軍を討っていた梁繇靡に「君を援けに来い」と言ったが、 恵公はついに捕虜となった。
秦は恵公を祭壇に供えて天帝を祀ろうとしたが、恵公の姉である繆公夫人(繆姫)が請うたため、殺されることをまぬがれた。
11月、晋と秦の講和が成りそうであると聞くと、恵公は郤乞を晋にやってこのことを呂省に知らせた。
晋恵公は都城絳の近郊まで来て、慶鄭が都に居ると聞き、家僕徒をやって慶鄭を呼び寄せた。
恵公「鄭よ、罪ある身で、まだ都に居たのか」
慶鄭「わが君が秦の徳に報いていたら、国勢は傾かなかったでしょう。戦っても賢良の人を用いられたら、敗れなかったでしょう。わたしはこのことをお怨みします。 また有罪の人を逃がすようでは、国を守ることさえできません。わたしは君をお待ちして処刑を受け、君の政を成就させようと存じます」
恵公「処刑せよ」
蛾析「進んで刑を受けようとする臣は、罪を赦して仇敵に報いさせる方がよいと申します」
梁繇靡「いけません。戦で勝てずに賊を使って報いようとするのは武ではありません。処刑するのがよろしいでしょう」
恵公「鄭を斬れ、自殺させるな」
家僕徒「すすんで刑を受けて死のうとする臣がおれば、その評判はかれを処刑するよりもよいでしょう」
梁繇靡「鄭は命令も聞かず勝手に進退し、自分の気持ちを満足させたために、君を捕虜にさせました。赦してはなりません。自殺するならば臣は気持ちが済みますが、 君は刑罰を失うことになります」
ついに恵公は司馬のに処刑を命じた。
説「隊列を乱して命令を犯したのが罪の一。鄭が勝手に進退したのが罪の二。梁繇靡を誤らせて秦公を取り逃がしたのが罪の三。 君が捕虜となったのに顔に負傷していないのが罪の四である。鄭よ、刑を受けよ」
慶鄭「われは座って処刑を待っているのだ。すぐに処刑せよ」
11月29日、慶鄭は処刑された。
この年、晋は初めて爰田の制・州兵の制を定める。
B.C.644狄が晋の敗戦につけ込んで晋に攻め入り、狐廚と受鐸を攻め取り、汾水を渡って昆都まで攻め入った。
B.C.643夏、恵公は公子を秦に人質として出し、その妹のを秦の女官とした。
そこで秦は晋に河東の地を返して、公子圉に懐嬴を娶わせた。
恵公はさらに人をやって重耳を狄の地で殺させようとした。
B.C.638秋、晋・秦は陸渾の戎を誘って伊川に移した。
B.C.637、10月没す。
恵公(西周)(ケイコウ)【公子】
西周公(諸侯)(3代目)。威公の子。
恵公は末子を封じて王とさせ(東周)、ここに周は二分した。
恵公(斉)(ケイコウ)【王】
斉公(21代目)。名は元。桓公の子。母は少衛姫。〜B.C.599。
B.C.613、7月、公子商人が国人を煽動して公子を弑した。 公子商人は兄である公子元に位を譲ろうとしたが公子元は「お前は君の位を望んでいるのだからお前が位につくがよい。 わたしはお前の臣として仕えていける。わたしを助けようとするなら、お前がなってくれ」と言ったので、公子商人は即位した(懿公)。
そこで公子元は斉の内乱を避けて、衛に亡命した。公子元は懿公の政治が道に背くものとして、最後まで懿公のことを「公」とは呼ばないで 「あの人」と呼んだ。
B.C.609、6月16日、懿公が弑殺されると、公子元は斉の国人に迎えられ位に即いた。
秋、魯の襄仲叔孫得臣が斉に来て、恵公の即位のお祝いと、 斉が魯文公の葬儀に会葬したお礼をした。
このとき襄仲は恵公に面会して公子俀(宣公)を擁立してほしいとお願いした。恵公は即位したばかりだったので、 魯と仲良くしようと思い、これを許した。
鄋瞞(長狄)が斉に攻め入った。恵公は王子城父に命じて長狄栄如を討ち取り、 その首を斉の周首の北門に埋めた。
冬、哀姜が魯から斉に帰った。
B.C.608、1月、魯の襄仲が来朝して斉の公女を迎えた。
夏、魯の季孫行父が来朝して贈物を届けて、魯宣公との会合のお願いをした。
晋の先辛が亡命してきた。
恵公は魯宣公と斉の平州で会合して、宣公の位を安定させた。
魯の襄仲が来朝して、斉・魯が会合して友好を修めたことに対するお礼を述べた。
6月、魯が済西の田地を差し出したので、恵公はこれを受け取った。
B.C.606秋、斉は赤狄に攻められた。
B.C.605恵公は魯宣公とともに、莒と郯を仲直りさせようとしたが、莒人はこれを聴き入れなかった。そこで魯は莒を討って向の地を攻め取った。
秋、魯宣公が斉を聘問した。
恵公は魯に赴いた。
B.C.604春、魯宣公が斉を訪れた。このとき高固が恵公に願って宣公を引きとめさせて、 魯の公女叔姫を妻にほしいと強請したので、宣公はこれを許した。
B.C.603夏、周定王子服を遣わして、斉から王后を迎え入れる世話をした。
冬、召桓公が王后を斉から迎え入れた。
B.C.602夏、恵公は魯宣公とともに萊を討った。
B.C.601、6月、魯の襄仲が斉に亡命してきて、垂で没した。
B.C.600、1月、魯宣公が斉を訪れた。
B.C.599春、魯宣公が斉を訪れた。恵公は魯が斉に服従しているとして、済西の田地を魯に還した。
4月14日、恵公は没した。
恵公(魯)(ケイコウ)【王】
魯公(13代目)。名は弗湟。孝公の子。〜B.C.723。
子の息姑の妻となる宋の公女が美人であったため、奪って自分の妻とする。
恵公は晩年に宋の軍を黄で攻め破った。
恵公(燕)(ケイコウ)
簡公
(時代と出来事から考えて、『史記』の恵公は『春秋左氏伝』の簡公と考えられる)
恵公(陳)(ケイコウ)【王】
陳公(22代目)。名は呉。悼太子の子。〜B.C.506。
B.C.534、3月、悼太子が司徒に殺されたため、公子呉は晋に出奔した。
9月、楚の公子弃疾が公子陳を奉じて陳を攻め、陳は滅ぼされた。
B.C.529秋、公子呉は、楚平王に陳君に擁立され、陳は復興した。
B.C.524、5月、陳で火災があった。しかし陳では火災に対する手段を設けなかった。
B.C.522陳に火災があった。
B.C.519秋、呉が楚の州来に攻め入ったため、陳は頓・胡・沈・蔡・許とともにこれを救ったが夏齧が捕らえられた。
B.C.506、1月7日、恵公は没した。
6月、恵公は葬られた。
恵公(衛)(ケイコウ)【王】
衛公(5(15)代目)。名は朔。宣公の子。〜B.C.669。
B.C.701母と共に太子を讒言して彼を殺させ、代わって太子となる。
B.C.699魯と鄭と紀の連合軍と戦ったが、斉・宋・衛・燕は破れた。
B.C.698、12月、宋・斉・蔡・衛・陳は鄭を討つ。
B.C.697、11月、恵公は魯桓公・宋荘公・ 陳荘公と宋の袲で会合して鄭を討って、鄭厲公を帰国させようとしたが、 うまくいかなかったので帰国した。
B.C.696、1月、恵公は魯桓公・宋荘公・蔡桓侯と曹で会合し、鄭を討つことを相談した。
4月、恵公は宋・蔡・陳・魯とともに鄭を討った。
11月、左公子右公子が乱を起こして公子黔牟を立てて衛公としたので、恵公は母の生国の斉に出奔した。
B.C.689冬、魯・斉・宋・陳・蔡が衛を討った。
B.C.688、1月、周の子突が衛の乱を治める。
6月、恵公は衛に帰り、公子黔牟を周に追放し、甯跪を秦に追放し、左公子と右公子を殺して復位する。
B.C.682、10月、宋の内乱で叛乱軍の猛獲が衛に出奔した。宋は衛に猛獲の引渡しを要求したが、恵公は拒絶しようとした。 しかし石キ子が「それはいけません。天下の悪はどこでも同じです。悪人をかくまってこれに加担し、 旧来のよしみを棄てるのは良策ではありません」と反対したので、猛獲を宋に帰した。
B.C.681春、恵公は斉・宋・蔡・邾・魯・陳・鄭と斉の北杏で会合した。
B.C.680冬、宋が降服したので、恵公は周単伯・斉桓公・ 宋桓公・鄭厲公と衛の鄄で会合した。
B.C.679春、恵公は再び鄄で斉・宋・陳・鄭と会盟を行った。
B.C.678夏、衛は宋・斉とともに鄭を討った。
12月、恵公は宋桓公・斉桓公・陳宣公・鄭厲公・許の君・滑の君・滕の君と宋の幽で会合し、鄭は斉と和平した。
B.C.676恵公は周が黔牟をかくまっていることを恨み、燕と共に周を討った。周恵王が出奔したので、 恵王の弟タイを立てて王とする。
B.C.669、5月12日、没す。
恵公(宋)(ケイコウ)【王】
宋公(9代目)。名は覵。釐公の子。〜B.C.802。
B.C.830即位する。
恵公(秦)(ケイコウ)【王】
秦公(15(20)代目)。夷公の子。〜B.C.492。
B.C.501即位する。
恵公(秦)(ケイコウ)【王】
秦公(22(27)代目)。簡公の子。〜B.C.390。
B.C.391出公を生む。
B.C.390蜀を討ち、南鄭を取る。
恵公(東周)(ケイコウ)【王】
東周(諸侯)の初代王。名は班。恵公の子。
公子班は鞏の地に封じられ、諸侯としての東周の王となった。
恵公(費)(ケイコウ)【王】
費公。
恵公は「わしは子思(孔伋)に対しては先生として敬い、顔般に対しては友人として付き合うが、 王順長息はわしのただの家来である」と言う。
恵侯(燕)(ケイコウ)【王】
燕公。
恵侯(唐)(ケイコウ)【王】
唐侯。
B.C.597、6月、邲の戦いで恵侯は楚の唐狡蔡鳩居に 「あなたのお力にすがって楚軍を救いたい」と請われたため、参戦して晋軍を大破した。
恵后(ケイコウ)【女官】
恵王の夫人。襄王の継母。姓は陳、名は嬀。
B.C.676恵后は陳より周に迎えられた。
叔帯を生み、この子を天子にしようと計ったが、恵后はその前に死んだ。
景公(晋)(ケイコウ)【王】
晋公(9(11)代目)。名は拠。成公の子。〜B.C.581。
B.C.600、9月、成公が没したため、公子拠は即位した。
冬、楚が鄭を討った。そこで郤欠が鄭の援助に出かけて、楚を撃退した。
B.C.599冬、鄭が楚に討たれた。景公は士会に鄭を救援させ、楚軍を潁水の北で撃退した。
B.C.598秋、郤欠が狄と和睦するよう進言したため、景公は欑函で狄と会合した。
冬、陳霊公夏徴舒に殺されたので、 公子が晋に出奔してきた。楚荘王は兵を出して陳を併呑したが、 のち公子午を迎えて再び陳を復興させた。
B.C.597春、楚荘王が鄭を攻め、鄭が危急を晋に告げた。
6月、景公は荀林父を中軍の将、士会を上軍の将、趙朔を下軍の将、郤克欒書先縠韓厥鞏朔をそれらの輔佐とした。
晋軍が黄河に到着すると、楚はすでに鄭を降していた。晋軍はこれからどうするか意見がまとまらないまま黄河を渡った。そこで楚軍と戦い敗北した。
秋、荀林父が邲の戦いの敗戦の責任を取るため死を願い出た。景公はこれを許そうとしたが士渥濁が諌めたので、 景公は荀林父を正卿に戻した。
(『史記』では景公を諌めたのは士会としています)
この年、景公は趙朔趙同趙括趙嬰斉を誅殺し、その一族を族滅した。
(『史記』は屠岸賈がB.C.598に趙氏を族滅させたとしているが、他の古典と整合性が取れていない)

B.C.596秋、赤狄が先縠のさしがねによって晋を討ち、清まで攻め込んできた。
冬、景公は邲の敗戦と清の侵略を招いた罪により、先縠とその一族を皆殺しにした。
景公は衛が清丘の盟いに背いたことを責め正し、晋の使者は「罪の所在が不明なら、汝の国に軍を差し向けよう」と脅した。
B.C.595春、衛の孔達が首をくくって死んだ。衛はこれを晋に報告したので、景公は衛を討たなかった。
夏、荀林父の進言で、景公は鄭を討つことを諸侯に告げ、閲兵を行って引き揚げた。はたして鄭は晋を恐れ、 鄭襄公は楚に出かけて対晋について相談した。
楚が宋を討ち、宋は晋に危急を告げた。
B.C.594景公は宋を助けようとしたが、伯宗が「いかにわが晋が強いといっても楚と争うことはできません。 国君たる者、一時の恥を忍ぶのは、天の道にかなうことです。しばらく待ちましょう」と諌めたので、景公は中止した。 そこで景公は解揚を宋に送り、宋が楚に降服しないように「晋は全軍をあげて、間もなく宋に到着する」と言わせるようにした。
赤狄の潞の宰相鄷舒が潞の君嬰児の眼を傷つけ、 夫人伯姫を殺した。嬰児の夫人は景公の姉であったので、 景公は鄷舒を討とうとした。大夫らはみなこれを諌めたが、伯宗は「ぜひとも討伐しましょう」と進言したので、景公はこれに従った。
6月19日、荀林父は赤狄の軍を曲梁で破った。
6月27日、荀林父は潞国を攻め滅ぼした。また景公は士会に命じ、赤狄潞氏を滅ぼし、長狄焚如を討ち取った。
鄷舒は衛に逃れたが、衛人はこれを晋に送り、晋はこれを処刑した。
7月、秦に攻められ、輔氏まで侵入された。
7月29日、景公は稷で兵を整えて、狄地を攻め取り、黎侯を復位させて引き揚げた。
雒まで引き換えしたところ魏顆は身を賭して秦軍を輔氏で破って杜回を生け捕りにした。
景公は荀林父に狄の1000戸の領地を賞として与え、また景公は「あなたがいなかったらわたしは伯氏(荀林父)を失うところであった」と言って、 士渥濁には瓜衍県を与えた。
景公は趙同に命じて狄の捕虜を周に献上した。
B.C.593、1月、景公は士会に命じて軍を率いて赤狄の甲氏と劉吁および鐸辰を攻め滅ぼした。
3月、景公は狄の捕虜を周に献上し、周定王に士会を正卿に任命することを認めて欲しいと願い出た。
3月29日、景公は士会に卿の正服を着せて中軍の将に任命し、さらに太傅の官を兼ねさせた。士会が晋の正卿となると、晋の盗賊はみな黄河を渡って秦へ逃げたという。
周の臣王孫蘇は周が乱れたため、難を逃れて晋に逃げてきた。景公はこれを周に入れてもとの地位につけさせた。
冬、景公は士会に命じて周王室の騒ぎを治めた。
B.C.592春、景公は郤克を斉に使わしたが、郤克は斉で辱められた。郤克は斉の征伐を請うたが景公は「そなたの恨みは、国家を煩わすほどのことだろうか」 と言って聴き入れなかった。さらに郤克が手勢で斉を討ちたいと願ったが、景公はこれも許さなかった。
6月17日、景公は晋の断道で、魯宣公・衛穆公・曹宣公・ 邾定公と会合し、二心を抱く諸侯を討伐する相談をした。
諸侯は巻楚で同盟を結んだが、この同盟から斉の使者を除外し、晏弱を野王に、 蔡朝を原に、南郭偃を温に捕えて幽閉した。
苗賁皇が野王に捕えられている晏弱にあった後、景公に「あの晏子は何の罪がありましょう。斉君は晋に礼遇されないことを恐れて、 みずからは出かけないで4人の使者を遣わしたのです。これを捕えるのはこちらの過ちではありませんか」と諌めた。そこで景公は晏弱の見張りを緩めて逃げさせた。
8月、士会が郤克の怒りを静めるため引退を請い、郤克が代わって正卿となった。
B.C.591春、景公は衛の太子とともに斉を討ち、陽穀に攻め入った。
斉頃公は景公と会合して、繒で和睦して盟い、公子を人質とすることにした。景公は軍を引き揚げた。
秋、魯が晋軍を借りて斉を討った。
魯の公孫帰父が三桓を除こうとして、晋にやってきて晋の力を借りようとした。
B.C.590景公は詹嘉を遣わして戎と周を和平させた。 しかし王季子が戎を討ったため戎はこれを撃退した。
夏、晋は魯と赤棘で同盟を結んだ。
楚の申公巫臣夏姫を盗んで晋に亡命してきた。晋は巫臣を邢の大夫とした。
B.C.589夏、衛の孫良夫と魯の臧宣叔が斉軍に攻められ、晋に援軍を請うてきた。 景公は700乗の援軍を出すことを許したが、郤克が「それは城濮の時の軍勢です。あの時は文公の明識と将軍たちの敏捷さがあったから勝てたのであります。 私ごときではあの先大夫の召使ほどの仕事さえできません」と言い、800乗の兵車を請うたので、景公はこれを許した。
景公は、郤克を中軍の将、士燮を上軍の将、欒書を下軍の将、韓厥を司馬として衛と魯を救わせることとした。
6月18日、晋軍は鞍で斉軍を破り、斉頃公の右乗逢丑父を捕えた。
さらに晋軍は斉軍を追撃し、丘輿から斉の地に攻め入り、馬陘を攻撃した。斉は和睦を請うたが、郤克は許さなかった。魯と衛がこれを諌めたため郤克はこれを受け入れた。
景公は鞍の勝利をほめて郤克に「あなたの力であろう」と言った。しかし郤克は「いいえ、三軍の士が働いたのです。私には何の力がありましょう」と謙譲した。 次に士燮が謁見したので、景公は「あなたの力であろう」と言った。士燮は「いいえ、わたしは命を中軍に受け、 上軍の士に命じて上軍の士が命を用いたからです。私には何の力がありましょう」と謙譲した。欒書が謁見したので、景公はまた同じ問いをすると、 欒書は「いいえ、わたしは命を上軍に受け、下軍の士に命じ、下軍の士が命を用いたからです。わたくしに何の力がありましょう」と謙譲した。
冬、楚が衛・魯を討ち、魯・蔡・許・秦・宋・陳・衛・鄭・斉はひそかに楚と和睦の盟いを結んだ。しかし晋は楚を恐れて手出しをしなかった。
景公は鞏朔に命じて斉の戦利品を周に献上した。しかし周はこれを非礼として正式に受けなかった。
B.C.588春、景公は鄭が晋に背いて楚についたので、魯成公・宋共公・ 衛定公・曹宣公とともに鄭を討って鄭の伯牛に陣取った。
諸侯の軍は東方に進んで鄭の都に攻め入ろうとした。鄭の公子はこれを防ぎ、鄭の東部落の兵に命じてバンに伏兵を設けて不意に攻めたため、 諸侯の軍は丘輿で打ち破られた。
夏、魯成公が晋に来て汶陽の田を返してもらったお礼を述べた。景公は魯成公に敬意を表さなかったので、成公は怒って去り、晋に背いた。
景公は邲の戦いで捕えた公子穀臣襄老のなきがらとひきかえに、 楚に捕えられている智罃を返してもらいたいと申し出た。楚はこれを許した。
秋、郤克が衛の孫良夫とともに赤狄と廧咎如を討った。
11月、景公は荀庚を魯に聘問させ、以前に結んだ盟いを存続させるようにした。
12月27日、景公は晋に六軍を設け、韓厥を新中軍の将、趙括を新中軍の佐、鞏朔を新上軍の将、韓穿を新上軍の佐、 荀騅を新下軍の将、趙旃を新下軍の佐に任じ、鞍の戦いの功績を賞した。
斉頃公が晋に朝して玉を景公に授けた。このとき郤克が「斉侯がお出ましになったのは、先年婦人がわたしを笑った無礼をお詫びするためであり、 わが君ではなく、わたしが受けるのです」と言って斉頃公をはずかしめた。
このとき斉頃公は景公を尊んで王にまつりあげようとしたが、景公は辞退して受けなかった。
B.C.587夏、魯成公が来朝して景公と会見したが、景公は無礼であった。魯の季孫行父は「晋侯はきっと無事な死に方はできないでしょう。 覇者としての晋侯の天命は諸侯を敬して、これを心服させることです。諸侯を大事にしないでよかろうか」と言った。
冬、鄭が許を討ったので、景公は欒書を中軍の将、荀首を中軍の佐、士燮を上軍の将に任じて鄭の汜・祭の地を占領した。
B.C.586趙同と趙括は、趙嬰斉が趙荘姫と淫通したとして彼を斉に放逐した。
夏、荀首が斉に出かけて景公の婦人を迎えた。
梁山が崩れた。
8月、景公は趙同に命じて鄭悼公と晋の垂棘で和睦の盟いを結んだ。
12月24日、鄭が晋に服従したので、景公は魯成公・斉頃公・宋共公・衛定公・鄭悼公・曹宣公・邾定公・ 杞桓公と晋の虫牢で会盟した。
B.C.585春、鄭悼公が晋にやって来て、和平の盟いを結んだことに対するお礼を述べた。
3月、宋が前年の会合を拒否したため、伯宗・夏陽説、衛の孫良夫、衛の甯相、鄭人、 伊雒の戎、陸渾の蛮氏が宋を侵略した。
晋は遷都について相談した。大夫たちは物産が豊かで塩の産地に近い郇瑕氏の地に遷都したいと言った。景公は韓厥に相談すると、韓厥は新田に遷都することを勧めた。 景公は韓厥の意見に従った。
4月14日、景公は都を新田に移した。
巫臣を呉に使いさせ、初めて国交を通じ、楚を討つことを約束した。
魯の公孫嬰が来朝したので、景公は魯に宋を討つよう命じた。
冬、魯の季孫行父が来朝して、遷都したお祝いを述べた。
欒書に命じて、楚に攻められた鄭を救援した。
B.C.584鄭成公子良が即位の挨拶に来朝し、 また前年に晋が鄭を援けたことについてお礼を述べた。
秋、景公は魯成公・斉頃公・衛定公・曹宣公・莒の君・邾の君・杞桓公と会合して、楚に攻められた鄭を救う相談をした。
8月13日、景公は衛の馬陵で諸侯と同盟し、虫牢の盟いを確認し、莒が晋に服従したことを確認した。
鄭軍が楚軍を破り、楚の鄖公と鐘儀を捕えて晋に献上した。景公は鐘儀を武器庫に幽閉した。
冬、衛の孫林父が亡命して来た。衛定公は晋に来朝して事情を訴えたので、景公は孫林父が晋に献上した戚の邑を衛に返した。
B.C.583春、景公は韓穿を魯に遣わせて汶陽の田を斉に返させた。
景公は欒書に命じて蔡を攻めさせ、さらに進んで楚に攻め入り、楚の申驪を捕えた。
趙荘姫が趙同と趙括を讒言して「原同、屏季のふたりは謀反を起こそうとたくらんでおり、欒氏・郤氏のふたりがそれを立証しております」と言った。
6月、景公は趙同と趙括を討って、これを殺した。
景公は巫臣を呉に遣わした。
冬、景公は士燮を魯に遣わし、郯が呉についたため、郯を討つ相談をした。
士燮は斉と魯と邾と会合して郯を討った。
この年、景公は病んだ。占うと「大業の後の遂げざる者祟りをなす」と出た。景公はこれを韓厥に問うと、 韓厥は趙朔の孤児が生きているのを知っていたので「それは趙氏でありましょうか。中衍というもの以来、みな嬴姓を名乗り、 晋に仕えました。成公のときまで代々功労を立て、かつて祖先の祭祀を絶ったことはなかったのです。
しかし今、趙氏の宗家は滅ぼされ、国人はこれを哀しんでおります。わが君には、このことをご配慮さないますように」と言った。
景公は「趙氏にはまだ子孫が残っているのか」と問うと韓厥はつぶさに実情を告げた。そこで景公は趙氏の孤児を立て、 趙武程嬰を呼び出し、諸将とともに屠岸賈を攻め、 その一族を滅ぼした。
B.C.582春、前年に汶陽の田を斉に返したことで諸侯が晋の信義を疑ったため、景公は魯成公・斉頃公・宋共公・衛定公・鄭成公・曹宣公・ 莒渠丘公・杞桓公と衛の蒲で会合して、馬陵の盟いを忘れないようにした。
魯の季孫行父は士燮に言った。
季孫行父「徳を施すことを努めないで、盟いを温めたところで何になりましょう」
士燮「諸侯を努力して手なずけ、寛大に扱い、忍耐強く裁き、謀反者を討伐することは徳に次ぐやり方です」
景公ははじめて呉を会合に加えようとしたが、呉は参加しなかった。
夏、魯の共姫が宋共公に嫁いだので、景公は人をやって共姫の付き添いとさせた。
秋、鄭成公が晋にやってくると、景公は鄭成公が晋を裏切って楚についたことを責め、銅鞮に閉じ込めた。そして欒書に命じて鄭を討った。 鄭人は伯蠲を遣わして和睦を請うたが、晋はこれを殺した。
景公は武器庫を見回ったとき、楚の鐘儀を見て楚の囚人であるとわかると、縄を解かせて鐘儀を召し寄せていたわった。 景公は鐘儀との話の内容を士燮に話すと、士燮は「立派な人物です。わが君はどうして彼を楚に返して和睦を行わせるようになさらないのですか」と進言した。 景公は喜んで鐘儀を厚く礼遇して楚に返して和睦をはかった。
冬、秦と白狄が晋を討った。
12月、楚が公子辰を晋に遣わして和睦を申し入れてきた。
B.C.581春、景公は糴茷を楚に遣わして、前年の公子に対する答礼をした。
景公は衛に命じて鄭を討たせた。
5月、景公は病気となったので、太子寿曼を立てて君の代理とし、魯成公・斉霊公・宋共公・衛定公・曹宣公と会合して鄭を討った。 鄭の子罕は鄭襄公の廟の鐘を晋に贈って和睦を願い出た。晋は鄭の子然と鄭の脩沢で盟い、 鄭の子駟を人質にした。
5月12日、晋は鄭成公を帰国させた。
景公は秦から名医のを呼び寄せたが、病気は治らなかった。
そこで景公は太子寿曼を立てて国君とした。
また夢占いの巫が景公を見て「今年の新麦を食べずに亡くなられるでしょう」と言った。
6月7日、料理人が新麦を料理して食膳に供えた。景公は予言した巫を呼んで、「この通りだ」と言ってこれを殺した。 しかし景公はいざ食べようとする時に急に腹が張ってきて、便所に行ったところ、中に落ちて死んでしまった。
景公(斉)(ケイコウ)【王】
斉公(25代目)。名は杵臼。荘公の異母弟。母は叔孫喬如の娘。〜B.C.490。
B.C.548、5月17日、崔杼が斉荘公を弑した。
5月19日、公子杵臼は崔杼に擁立されて君となり、崔杼が宰相となり、慶封が左相となった。 景公は宮殿を修築し、犬馬を蒐集し、奢侈にふけり、租税を重くし、刑罰を厳しくして民を苦しめた。
5月23日、景公は大夫たちや来聘している莒犂比公と盟った。
晋・魯・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾が夷儀で会合して斉を討ち、朝歌の戦い(B.C.550)の報復をした。斉人は斉荘公を弑した言い訳をし、 隰鉏に命じて和平を請わせ、慶封を晋軍のもとに遣わした。かくて晋平公は和平を許した。
7月11日、景公は降服し、重丘で諸侯と会合した。
景公は晏嬰の推薦で司馬穰苴を将軍に登用し、燕・晋を破った。
B.C.547、7月、晋が衛献公を捕らえた。 そこで景公は鄭簡公とともに衛献公を救うために晋に出かけた。 晋の趙武は晋平公に進言して衛献公は帰国を許された。
B.C.546春、晋の胥梁帯烏余を捕らえて、斉・魯・宋・衛が奪われた土地を返還した。
景公は慶封を魯に遣わした。
宋の向戌が、晋と楚を和睦させて諸侯に戦をやめさせようとして諸侯をめぐり、斉にもやって来た。 斉人は難色を示したが、田須無が進言したため、斉人はこれを承諾し、慶封が会合に参加した。 この会合で、斉は邾を属国とした。
9月5日、崔杼の家で乱が起こり、慶封がこれを鎮めて崔氏を滅ぼした。崔杼はこれを見て自殺した。
9月6日、崔杼の子崔明が魯に出奔したため、慶封が国政を執ることとなった。
B.C.545夏、景公は諸侯とともに晋に朝聘した。出かけようとしたとき、慶封が晋に行く必要はないと言ったが、田須無が行くべきだと進言した。
11月、欒子雅高子尾・陳須無・ 鮑国が叛乱を起こして慶舎を攻め殺した。 景公はおそれおののいたが、鮑国が「臣らは君のためにやったのです」と言った。
11月20日、萊に狩に行っていた慶封が斉の西門を攻めて来たが勝てなかった。そこで慶封は魯に亡命した。景公は崔氏の乱(B.C.552)で亡命した多くの公子たちを呼び戻して、 以前の采邑を返した。さらに慶氏の乱で功績のあった晏嬰・北郭佐・欒子雅・高子尾に邑を与えた。高子尾は一旦いただいて返却したため、 景公は高子尾を忠実な人物と考えて、これを寵愛した。一方、盧蒲嫳を斉の北方の国境に追放した。
12月1日、斉人は斉荘公の殯(仮に葬ったなきがら)を公宮の路寝に運び、その棺を用いて崔杼を市にさらした。
B.C.544、2月7日、斉人は斉荘公を城北の郊外に葬った。
6月、晋が杞の城壁の工事をしたため、景公は高止をこれに遣わした。
呉の季札に来聘した。
9月、高子尾と欒子雅が高止を燕に追放した。そのためその子の高豎が盧にたてこもって謀叛を起こした。
10月28日、閭丘嬰が軍を率いて盧を攻め囲んだ。高豎が「もしわが高氏を続くようにしてくれれば、盧を返上しましょう」と言ったため 斉人は高傒の曾孫にあたる高エンを立てた。
11月24日、高豎は盧を返上して晋に亡命した。
B.C.542閭丘嬰が魯の陽州を討った。魯は何故に討つのかと問いただしてきた。
高子尾は閭丘嬰を殺して魯に弁明した。そのため閭氏の一族である工僂灑渻竈孔虺賈寅は莒に出奔し、公子たちも国外に追放された。
B.C.541、3月、国弱が鄭の虢で晋・楚・魯・宋・衛・陳・蔡・鄭・許・曹と会盟した。
秋、公子が莒の公子去疾を莒に送り込んだため、 莒公展輿は呉に出奔した。
B.C.540春、晋の韓宣子が来聘して公女を迎えるための結納の品を納めた。
4月、晋の韓貞子が来聘して公女少姜を迎えた。 景公は田無宇を遣わして少姜の供をさせたが、晋は田無宇が卿でなかったと責めてこれを拘留した。
10月、晋は田無宇を許して帰国させた。
B.C.539春、景公は晏嬰を晋に遣わして少姜の後を継ぐ方を晋に差し上げたいと申し出た。晏嬰が晋に出かけた隙に、景公は晏嬰の邸宅を新築させた。 晏嬰はお礼を述べたが、それを壊してもとの人々の住宅を作ってあげて、自分はもとの邸宅に帰ろうとした。景公はこれを許さなかったが、 田無宇もお願いしたため、やっと許した。
夏、晋の韓宣子が来聘して晋平公のために公女を迎えた。
景公は莒で狩をした。すると盧蒲嫳が面会してきて泣きながら許しを請うた。景公は欒子雅と高子尾に相談すると、欒子雅が反対した。
9月、欒子雅は盧蒲嫳を燕に追放した。
冬、燕簡公が斉に亡命してきた。
欒子雅が没した。
B.C.536冬、景公は晋に出かけて燕を討つ許しを得た。
12月、景公はさっそく燕を討って亡命してきている燕簡公を燕に入れようとした。晏嬰が「入国できないであろう。燕ではすでに君がおり、 民は二心を持っていない。しかるにわが君は財貨を貪り、左右の者はこびへつらっている」と言った。
B.C.535、1月、景公は求めて魯と和睦した。
1月19日、景公は燕の国境の虢に軍を進駐させると、燕は和睦を求めた。公孫皙が「燕の降服を許して、 そのすきに再び軍を出すのがよろしいでしょう」と進言した。
2月15日、景公は燕のジュ水のほとりで盟いを結んだ。燕は公女を景公に嫁がせて贈り物をした。景公は燕簡公を燕に入れることができずに帰国した。
B.C.534、7月9日、高子尾が没した。
B.C.532夏、田無宇と鮑国が欒子旗高子彊を攻めた。 欒・高氏は景公を味方につけようと公宮に入ろうとしたが、景公はこれを許さなかったため二氏に攻められた。景公は晏嬰を召し、 王黒に命じて公旗を用いて占ってみると吉であったためこれを稷で戦って破り、さらに荘でも破り、欒子旗と高子彊は魯に亡命した。
9月、国弱が晋に赴いて晋平公の弔問に出かけた。
秋、魯の孟釐子が来聘した。
B.C.531秋、国弱が晋・魯・宋・衛・鄭・曹・杞と厥憖で会合し、楚に攻められている蔡を救う相談をした。
B.C.530春、高偃が燕伯款を唐に送りいれた。
夏、景公は衛霊公・鄭定公とともに晋に出かけ、 新しく即位した晋昭公にあいさつをした。
B.C.529、7月、晋人は諸侯と再び盟約しようとしたが、斉人が承知しなかった。そこで晋の叔向は斉に申し入れると、 斉は「諸侯はみな晋の命に従っているのに盟いを結ぶ必要がありましょう」と答えた。叔向は「王者の制度では諸侯に命じて貢納をはっきりと意識させ、礼を修め、 京師に会合し、盟いを結ぶことにしています」と言った。そこで斉は参加することにした。
8月8日、斉は晋に服従し、諸侯は平丘で同盟した。
B.C.528魯の南蒯が斉に亡命してきた。酒宴の席で景公は「謀反人」と呼ぶと南蒯は「魯の公室を強めようと思ったのです」 と答えた。すると子韓皙は「家臣の分際で公室を強めようと考えるとは、これより大きな罪はない」と言った。 結局、費は魯に返すことになったため、景公は鮑文子を遣わして費を返した。
12月、莒君郊公が斉に亡命してきた。 そこで莒の公子は斉から庚与を迎え、お礼に斉に土地を贈った。
B.C.526春、景公は徐を討った。
2月15日、斉軍が徐の蒲隧に進撃すると、徐人が和睦を求めた。景公は郯人・莒人とともに徐の君と会合して蒲隧で盟いを結び、 景公は甲父の国から求めたという鼎をもらった。
B.C.523秋、高発が軍を率いて莒を討った。莒共公が逃げたため、 高発は孫書に命じてこれを討たせた。
B.C.522秋、景公は公孫青を使者として衛に遣わした。このとき衛では内乱があり、衛霊公が死鳥に逃れていたが、 景公は「衛君がまだ国内におられるなら衛の君だ。そこへ行って聘問の礼を行え」と命令した。
景公は皮膚病にかかり、続いて熱病が出て、一年経っても治らなかった。そこで諸侯の使者で見舞いをする者が多かった。 梁丘拠と裔款が「公室のお祭りの供えが十分なことは先代よりもまさっています。 しかるにわが君のご病気が治らないのは祭官の祝固史嚚のためでしょう」と言ったため、 景公は喜んでそれを晏嬰に話した。 しかし晏嬰は反対の意を述べたため、景公は「どうしたらよいか」と問うた。晏嬰は「山林の木や沢地や海の塩は官が守っていて、民はどうにもなりません。 田舎の者が都で労役にかり出され、関所では私物に無理な税をかけ、大夫たちは市で民の物を無理に交換し、法制にもきまりがなく、 税の徴収はでたらめで、宮殿を毎日のように作りかえ、奥の女たちはやたらに市から物を奪い取り、お気に入りの臣たちは地方でほしい物を要求するので、 民は苦しみ疲れ、いやしい男も女も上を呪っております。たとえ神主が神に病気平癒を祈っても効果はないでしょう」と答えた。 景公は喜んで役人に命じて政治を寛大にし、都近くの関所を取り壊し、立ち入り禁止の場所をなくし、税を薄くし、滞納の税を取り上げないようにさせた。
12月、景公は沛で狩りをしたが、狩場の役人を弓でさし招いたところ、役人は来なかった。景公は捕えて詰問すると、 役人は「かつては旗でもって大夫を招き、弓で士を招き、皮の冠で役人を招きました。わたしは皮の冠を見なかったので行かなかったのです」と答えた。 そこで景公はこれを許した。
景公は狩から帰って遄台に休んだとき「ただ拠(梁丘拠)と自分だけが心の和合することよ」と言った。晏嬰は「拠はただ君と心を同じにしているだけで、 和合しているとはいえません」と言った。景公は「和と同は違うのか」と問うた。晏嬰は「心が和合するのは、吸い物を作るようなものです。 味の足りないところを増し加え、味の強すぎるところを減らします。かくてお上が召し上がれば心に満足されます。君臣もこれと同じで、 君がよいと言われるところでもよくなければそれを諌め、君がいけないと言われるところでもよいと思われることを進言します。 かくて政治は公平で道理にもとることがなくなります。しかし拠は君がよいと言われることはよいと同調し、君がいけないと言われることはいけないと言って同調します。 これは水に水をくわえて吸い物をつくるようなものです」と答えた。
B.C.520、2月17日、北郭啓が莒を討ったが、莒公に莒の寿余で敗れた。
そこで景公は莒を討った。莒公が和睦を申し出たため、景公は司馬竈を遣わして盟いを結び、 莒公もまた斉に出かけて稷門の外で盟いを結んだ。
B.C.519莒公庚与が斉に背こうとしたため国人に追放された。そこで景公は郊公を莒に入れた。
B.C.517、9月12日、魯昭公が三桓に敗れて斉の陽州に留まった。景公は魯昭公を平陰でお見舞いしようとしたところ、 魯昭公は先に野井に行って景公を迎えた。景公は「莒の国境から西の千社の地をさしあげます。わたしは軍を率いてあなたのご命令に従います」と言ったため、魯昭公は喜んだ。
12月25日、景公は魯昭公を住まわせようとして鄆を囲んだ。
孔子が斉に来た。景公が政治について孔子に問うと、孔子は「君は君としての道をつくし、臣は臣としての道をつくし、 父は父としての道をつくし、子は子としての道をつくせばよいのです」また「政治の要諦は財を節約することです」と答えた。景公はこれを喜び、 尼谿の田をもって孔子を封じようとしたが、晏嬰が「学者は滑稽多弁ですから、そのことばを手本としてはなりません。 傲慢不遜で自分の思いのままにふるまうので、低い身分に置くこともなりません。周の王室はすでに衰微し、礼楽も残欠して、久しい年月を経ました。 しかるに今、孔子は容儀修飾を盛大にし、登降の礼儀や歩行の節度を煩雑にしています。 これを採用するのは、微賤な細民を救済する急務ではありません」と言ったので、景公は孔子を登用しなかった。
B.C.516、1月6日、景公は魯の鄆を攻め取った。
3月、景公は魯昭公を鄆に入れた。
夏、景公は魯昭公を魯に入れるため、魯のまいないを受けてはならないと命令した。
景公は公子鉏に命じて軍を率いて魯昭公に付き添わせた。
秋、景公は魯昭公・邾の君・杞悼公と鄟陵で盟いを結び、昭公を魯に入れる相談をした。
冬、斉に彗星が現れた。景公は祈祷してその災いを除こうとしたが、晏嬰が「何の役にもたちません。彗星はそれによって世の汚れを払い除こうとするものです。 わが君に汚らわしい悪徳がないときに、お祓いをする必要はありません。もし悪徳があれば祈祷しても災いを少なくすることはできません」と諌めた。 景公はこれを喜んで祈祷を行うことをやめた。
景公は晏嬰と表御殿にいたとき、ため息をついて「美しい御殿だ。(自分のあとに)誰のものになるであろうか」と言った。晏嬰が「どういう意味でしょうか」と問うと、 景公は「わたしは有徳者のものになると思う」と言った。晏嬰は「きっと陳氏のものになるでしょう。陳氏には立派な徳はないけれども、 民に厚く恵み施しており、民は陳氏になびいでおります。もし朝廷が政治を怠れば、この国は陳氏の国となりましょう」と答えた。 景公は「もっともなことだ。どうしたらよかろう」と問うと、晏嬰は「ただ礼によってそれを止めることができます」と答えた。
B.C.515春、魯昭公が斉に来た。
冬、魯昭公が再び斉に来た。景公は正式の饗宴を開きたいと言ったが、魯の子家懿伯が「朝な夕なに朝廷に伺っておりますのに、 どうしてそのような饗宴を開かれる必要がありましょう」と申し出たため、ただ酒を飲む宴が開かれた。 時に魯の公子の娘という人が景公の夫人となっていたが、 景公は「重をお目にかからせたい」と話したが、子家懿伯はそれを避けて魯昭公を連れて帰った。
B.C.513景公は高張を遣わして魯昭公を慰問させた。
魯昭公は公子が来聘して小羊の皮衣と竜輔という玉を献上したため、景公は喜んで陽穀の邑を公子衍に与えた。
B.C.510、11月、高張が晋・魯・宋・衛・鄭・曹・莒・杞・薛・小邾と会合して成周に城壁を築いた。
B.C.503春、斉は鄆と陽関を魯に返した。
秋、景公は鄭献公と衛の鹹で盟い、衛に参加するよう求めた。衛霊公は晋に背いて斉・鄭につこうとしたが、 大夫たちが聴かなかった。衛の北宮結が斉に来て「この結を捕らえて我が国に攻め入られよ」と言ったため景公はそのとおりにし、 はたして瑣で衛と盟った。
国夏が魯を討った。
B.C.502、1月、魯が斉に攻め入り、陽州の城門に攻め込んだが斉はこれを防いだ。
2月、魯が斉に攻め入り、廩丘の外城を攻めた。
国夏と高張が魯の西境を攻めたが、晋の范鞅趙鞅荀寅が魯を救った。
B.C.501、6月、魯の陽虎が反乱を起こして斉に亡命してきた。陽虎は斉に援軍を依頼して魯を討ちたいと願い、「三度、攻撃すればきっと魯を攻め取ることができる」と言った。 景公は許そうとしたが、鮑国が「わたしは魯の施氏に仕えて魯のことを知っておりますが、魯はまだ攻め取ることはできません。陽虎は斉の軍を疲れさせ、大臣がたを多く死なせて、 そうなったときにはかりごとを盛んに巡らせて斉を乗っ取ろうと考えているのです」と諌めた。そこで景公は陽虎を捕らえて魯に追いやろうとした。陽虎は西の晋に行きたかったため、 いつわって東の方に行きたいと願い出た。すると斉は逆に陽虎を西の国境に閉じ込めておいた。陽虎は逃亡して直ちに晋に逃げ込んで趙氏の家に落ち着いた。
秋、景公は晋の夷儀を討った。中牟の人が斉軍を討ってこれを破った。
景公は援軍を出してくれた衛にシャク・媚・杏の3邑を贈って、衛に感謝の意を表した。
景公は夷儀の人々に「(戦死した)敝無存のなきがらを見つけたものには、5戸分の田地を与え、国の課役を免除してやろう」と言った。そのなきがらが見つかると、 景公はなきがらに着せる衣を3度も送り、犀の皮で飾った車と高い車の覆いを与えて先に斉に帰らせた。その時、景公は柩車を引く人々を道に座らせ、軍を引き連れて哭泣し、 みずから車輪を推すこと3度に及んだ。
B.C.500春、斉は魯と和睦した。
秋、魯の侯犯と駟赤は郈を斉に引き渡そうとしたが、郈の人々がこれに反対した。
冬、叔孫州仇が斉を訪れた。景公は「叔孫よ、郈が斉との国境にあったから、進んで魯君を助けて心配してあげたのですよ」と言った。叔孫州仇は「それはわが君が望んだことではありません。 謀叛をはかるような悪臣は、天下で誰しもが憎むものです。どうしてわが君を助けたとお考えでございますか」と答えて、景公の恩を売ろうとする心をくじいた。
景公は衛霊公と鄭の游連と安甫で会合した。
B.C.500斉と魯は夾谷で会同した。
会同の場で斉は夷狄の楽を奏すると、孔子はこれをそしり、やめさせた。また斉が俳優や侏儒を舞わせた。孔子はこれをそしり、俳優達を処刑した。
景公は大いに恥じ入り、帰国した後、侵略した魯の汶陽の鄆・讙・亀陰の田地を返して、過失の罪を詫びた。
当時、呉の勢力が強く、呉から公女をほしいと迫られた。景公は「もはや斉は呉に命令するだけの実力を持たず、さりとて、その申し出を受け付けないのは、 国交を断って自分から危険を招くというものだ」と言って、涙ながらに公女を呉に嫁がせた。
景公(魯)(ケイコウ)【王】
魯公(31代目)。名は匽。康公の子。〜B.C.317。
景公(宋)(ケイコウ)【王】
宋公(26代目)。名は頭曼。元公の子。〜B.C.453。
B.C.517、11月13日、元公が没したため、公子頭曼は即位した。
B.C.516、1月、景公は元公を葬ったが、元公の遺言に従わないで先君と同じ礼に従ったのは、礼にかなったことである。
B.C.515秋、景公は楽祁犂を遣わして晋・衛・曹・邾・滕と扈で会合し、周を守ることと魯昭公を都に入れることを相談した。
B.C.510、11月、仲幾が晋・魯・斉・鄭・衛・曹・莒・杞・薛・小邾と会合して成周に城壁を築いた。
B.C.506、3月、景公は劉文公の召集を受け、晋定公・魯定公・ 蔡昭侯・衛霊公・ 陳懐公・鄭献公・許の君・曹隠公・莒の君・邾の君・頓の君・胡の君・滕の君・ 杞悼公・小邾の君・斉の国夏を楚の召陵に集めて楚を討つ相談をした。このとき晋人が鄭に羽毛でかざった旗を借りて、 その旗をかかげて会合の場所にでかけたため、晋は諸侯の信用を失った。
B.C.504、8月、楽祁が景公に申し上げて「諸侯の中で宋だけが晋に仕えています。しかしこのごろは使者を遣わしていないので、 晋はきっと恨んでいるでしょう」と言った。何日か経って景公は楽祁に「あなたの言うことはもっともなことだ。ぜひあなたが行ってくれ」と言い、 楽祁は晋に出かけたが晋の范鞅に捕らえられた。
B.C.502楽祁は釈放されたが、帰国の途中に没した。
B.C.501春、景公は楽大心を遣わして晋と盟い、楽祁のなきがらを迎え取らせようとした。しかし楽大心が病気を理由に辞退したため、 向巣を遣わした。子明は楽大心に立腹して、 景公に「右師(楽大心)はわが戴氏にとってためにならない。出かけることを断ったのは、やがて謀叛を起こそうとしているのです。病気でもないのに断るのはおかしなことではありませんか」 と言ったため、景公は楽大心を追放した。
魯の陽虎が亡命してきたが、やがて去った。
B.C.492孔子が宋に来る。
B.C.487曹が背いたのでこれを討ち、曹を滅ぼす。
B.C.479熒惑(火星)が心に宿った。天井の心は座は地上では宋の分野であったので、これについて司星子韋に問うた。 子韋は「この禍を宰相に移したらよいと存じます」と言ったので景公は「宰相はわしの股肱じゃ」と答える。 「では、民に移したらよいと存じます」と子韋が言うと景公は「人君というものは民に頼らなくてはならない」と答えた。 子韋が「年に移したらよいと存じます」と言うと「 はたして熒惑は3度にわたって移動した。
景公(秦)(ケイコウ)【王】
秦公(13(18)代目)。桓公の子。〜B.C.537。
B.C.579、桓公が没し、景公は即位した。
B.C.578、4月5日、秦が晋との盟約に背いたため、晋の魏相が来聘して絶交した。
5月5日、晋軍は諸侯の連合軍を率いて秦軍と秦の麻隧で戦った。秦軍は連合軍に大破され、 成差不更女父が捕えられた。
諸侯の連合軍は勢いに乗じて涇水を渡り、秦の侯麗まで攻め入って引き揚げた。
B.C.564景公は士ケンを楚に遣わして、晋を討つ援軍を請うた。
秋、楚軍が楚の武城に軍を進めて秦を援護した。景公は晋が凶作でしかえしができないことにつけこんで晋を討った。
B.C.563、6月、晋の智罃に攻められ、前年に晋を侵した報復をされた。
B.C.562、7月、鄭は諸侯に攻められたため、諸侯と同盟を結んだ。楚の子嚢が援軍を秦に請うてきた。 景公は右大夫に命じて軍を率いて鄭を討つこととしたが、鄭は先に楚に降服した。
景公は庶長と庶長に命じて晋を討って鄭を救おうとした。 晋の士魴がこれを防いだが、秦軍は多くないと侮って防備を怠った。
12月5日、庶長武は輔氏から黄河を渡って庶長鮑とかわるがわる晋軍を攻撃した。
12月12日、秦軍は櫟で晋軍と戦い、これを大破した。
B.C.561冬、景公は庶長無地に命じて楚の子嚢とともに宋を討ち、 楊梁に軍を進めた。
景公は秦嬴を楚恭王の夫人として嫁がせた。
B.C.559夏、晋・魯・斉・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾が攻め寄せてきた。諸侯の軍が涇水の上流に毒を流して、諸侯の軍をたくさん殺した。 諸侯の軍は秦の棫林まで進撃して退却した。
晋の范鞅が秦に亡命してきた。景公は范鞅と面会した。
景公「晋の大夫でだれが一番先に滅びるであろうか」
范鞅「きっと欒氏でしょう」
景公「おごり高ぶっているためか」
范鞅「そうです。欒黶のおごりと暴虐ぶりはたいへんなものですが、それでも災いから逃れることができましょう。 きっとその子のの時に滅びるでしょう」
景公「それはどういうわけか」
范鞅「武子(欒書)の恩徳は民に及んでいますので、その子を滅ぼしたりはしないでしょう。しかし欒黶が死んだら、 盈が立派な徳をもっていても広く民に行き渡らないから、欒黶の恨みが出てくるでしょう。欒氏の滅びるのはその時です」
景公は道理にかなった言葉だと感服し、范鞅のために晋にお願いして帰国させた。
B.C.551景公は晋にゆき、晋平公と和睦するが、またこれに背いた。
B.C.549、5月、景公は晋と和睦した。
B.C.547景公は弟の公子を使節として晋に赴かせ、和平交渉を行なった。
夏、景公は楚とともに呉を討とうとして雩婁まで出かけたが、呉には堅固な備えがあると聞いて引き返し、すぐに鄭に攻め入った。
5月、楚が鄭の印菫父を捕らえて秦に譲り渡した。鄭人が財貨をもって身柄を請うたので、秦はこれを鄭に引渡した。
B.C.541、5月26日、公子鍼は讒言を恐れて晋に亡命した。
晋平公が病気になって医者を秦に求めたため、景公は医和を晋に遣わした。
B.C.537秋、没した。
景侯(蔡)(ケイコウ)【王】
蔡侯(16代目)。名は固。文侯の子。〜B.C.543。
B.C.592、2月4日、文侯が没したため、公子固は即位した。
B.C.589楚の子重が衛・魯を討った。
恭王は年が若くて出陣しなかったが、景侯は左役をつとめ、彭名が御者となり、 許霊公が右役をつとめた。蔡景侯と許霊公はまだ年が若かったが、無理に元服させて成人にさせられた。
11月、景侯は楚の公子子重・魯成公・衛の孫良夫・ 許霊公・秦の右大夫・宋の華元・陳の公孫寧・ 鄭の公子子良・斉の大夫らと蜀で和睦の盟いを結んだ。諸侯は一方で晋を恐れていながら、こっそりと楚と盟っていた。
B.C.583晋の欒書が蔡に侵攻してきた。
B.C.565、4月22日、鄭の子耳子国が攻めて来て、 司馬公子が捕えられた。
冬、楚の子嚢が鄭を討ち、蔡を侵した罪を責め正した。
B.C.553公子燮が蔡の人々を従えて、楚に叛いて晋につこうとしたので、蔡人はこれを殺した。その同母弟の公子が楚に出奔した。
B.C.549冬、景侯は楚康王・陳哀公とともに鄭を討った。
B.C.546諸侯が宋で会合したため、景侯は公孫帰生を遣わして諸侯と盟いを結ばせた。
B.C.545夏、景侯は諸侯とともに晋に朝聘した。景侯は帰途、鄭に立ち寄った。鄭簡公にもてなされたが、 景侯は不作法であった。鄭の子産は「蔡侯はきっと禍から逃れられまい。晋に行くときもおごり高ぶっており、 帰るときには改めているだろうと思ったが、今も不作法である」と言った。
B.C.543、4月、景侯は太子のために楚から妃を迎えたが、これと密通したため、太子般に殺された。
10月、景侯は葬られた。
景侯(韓)(ケイコウ)【王】
晋の臣。韓侯(初代)。名は虔。韓武子の子。〜B.C.400。
B.C.413鄭を討って雍丘を取る。
B.C.412鄭に攻められ、負黍で破られる。
B.C.403景侯は趙・魏とともに諸侯の列に連なり、都を陽翟に定めた。
B.C.400鄭に攻められ、陽翟を囲まれた。
敬康(ケイコウ)【皇帝】
窮ゼンの子。
敬公(ケイコウ)【王】
衛公(22(32)代目)。名は弗。悼公の子。〜B.C.442。
B.C.461即位する。
敬侯(ケイコウ)【王】
趙公(3代目)。名は章。烈侯の子。〜B.C.375。
B.C.387敬侯は即位する。
B.C.386公子の叛乱が起った。敬侯はこれを鎮圧し、朝は魏に出奔した。
はじめて邯鄲に都した。
B.C.385霊丘で斉を破った。
B.C.384魏を廩丘で救い、大いに斉軍を破った。
B.C.383兎台で魏に破られた。
趙は剛平に城を築いて、衛を侵した。
B.C.382斉・魏が衛のため趙を討ち、趙は剛平で破られた。
B.C.381楚から兵を借りて魏を討ち、棘蒲を取った。
B.C.380秦・魏は韓を攻めた(南梁の戦い)。敬侯は楚とともに韓を援けた。
B.C.379魏の黄城を抜く。
B.C.378燕を援けて斉を討つ。
B.C.377中山の軍と房子で戦う。
B.C.376中山を討ち、中人で戦う。
頃公(斉)(ケイコウ)【王】
斉公(22代目)。名は無野。恵公の子。〜B.C.582。
B.C.599、4月14日、恵公が没したため、公子無野は即位した。
魯の季孫行父が斉を訪れた。
B.C.596春、莒が斉に仕えなかったので頃公は莒を討った。
B.C.595冬、頃公は魯の公孫帰父と斉の穀で会合した。
B.C.594秋、高固孟献子と無婁で会合した。
B.C.592春、晋の使者郤克が斉に赴き、諸侯の会合に出席するように申し入れてきた。郤克がびっこをひいていたので、 頃公はそのありさまを母の太夫人にこっそりと見させた。これを見た太夫人は笑ったので郤克は怒り、斉を討伐して恨みを晴らそうと考えた。
頃公は高固、晏弱蔡朝南郭偃を遣わして会合に参加させることにした。しかし衛の斂盂まで行って、 高固は郤克の怒りを恐れて逃げ帰った。
6月、諸侯は断道で会合したが、斉の使者を除外して晏弱を野王に、蔡朝を原に、南郭偃を温に幽閉した。
晏弱は後に釈放された。
晋に攻められ斉は公子を人質として晋に入れた。
B.C.591冬、魯の公孫帰父が斉に亡命してきた。
B.C.589春、頃公は魯を討ち龍を包囲した。頃公の寵臣盧蒲就魁が城門に攻め入ったが捕えられた。 頃公は「殺さないでくれ。わたしはあなたと盟って、領内に攻め入らないようにしよう」と申し入れたが、龍の人は盧蒲就魁を殺して城壁の上にはりつけにした。 頃公は怒ってみずから進撃の太鼓を鳴らし、3日で龍を攻略し、南方に進撃して単丘に達した。
夏、斉軍はひきあげようとして、斉を討とうとする衛軍に出くわした。斉軍はこれを新築で大破した。
晋が魯と衛の頼みを受けて、郤克に800乗の兵車を与えて斉を討たせた。
晋・魯・衛の連合軍は斉軍を追撃したため、斉軍は衛のコウに追いやられた。
6月17日、両軍は靡ケイ山のふもとで対陣した。
頃公は使者を遣わして決戦を挑ませた。高固は晋軍に突入して、大石をかつぎあげて敵兵に投げつけて倒し、 それを捕えて自分の車に乗せ「勇気をふるいたいと思う者にはわたしの勇気の残りを売ってやろう」と言って斉軍を鼓舞した。
6月18日、両軍は鞍の地に陣地を構えた。
邴夏が頃公の御者となり、逢丑父が右をつとめた。 頃公は「晋軍を全滅させてから朝食にしよう」と豪語し、馬を武装しないで晋軍の中に駆け入った。郤克は矢に当たって負傷していたが、進軍の太鼓を打ち鳴らし、 兵車を走らせたので、晋軍はこれに遅れじと進撃した。そのため斉軍は大敗し、華不注の山麓を三度も追い回された。
頃公は晋の韓厥に追撃された。邴夏が「敵の御者を射とめよ。すぐれた人物のようだ」と言うと、 頃公は「すぐれた人物とわかっていながらこれを射るのは非礼である」と言って、韓厥の左役を射てこれを落車させ、右役を射て車中に倒れさせた。 韓厥は綦毋張を兵車に乗せ換えた。そのすきに逢丑父は頃公と座席を換えて君の身代りとなった。
華不注の麓の華泉に差し掛かったとき、頃公のそえ馬が木に引っかかって止まってしまった。そのため韓厥に追いつかれてしまった。韓厥は手綱を取って頃公の馬前に進み、 再拝稽首して杯をささげ、さらに璧を加えて献上し「わが君は、貴国の軍の引き揚げをお願いさせ、誤って貴公の領地に踏み込むことのないようにとの命令でございました。 ところが偶然に貴公の軍と出会いまして引き揚げるわけにもいかず、一戦を交えました。おわび申し上げまして、貴公の側の代行者となり、 欠員の役をつとめさせていただきます」と申し入れた。頃公の身代りとなった逢丑父は、頃公を下車させて華泉の水を汲んでくるよう命じた。 そのとき鄭周父は副車の御者となり、宛茷が右役をつとめて頃公を乗せて逃げ去った。 そのため逢丑父は晋軍に捕えられた。
頃公は逢丑父を取り返そうとして敵陣に3度も出入りした。頃公はしりごみする軍を率いて晋の援軍である狄軍に突入した。狄軍は頃公に立ち向かうふりをしながら、 楯で頃公を護って衛軍に突入した。衛軍も斉軍を恐れて頃公をわざと逃がした。頃公はそのまま帰国しようとして徐関から都に入った。
晋軍は斉軍を追撃し、丘輿から斉の地に攻め入り、馬陘を攻撃した。
頃公は国佐を使者として郤克に和睦を求めさせ、聴き入れられなければ決戦しようと言わせた。郤克は聴き入れず 「蕭同叔子を人質にし、(晋軍が進みやすいように)斉の田地の畝をすべて東に向けよ」と言った。国佐がその申し入れは礼に背くことであると言うと、 魯・衛が郤克を諌めた。そこで郤克もこれを受け入れた。
7月、晋軍は国佐と斉の爰婁で和睦を盟い、斉は侵略した汶陽の田を魯に還した。
B.C.588鞍の役の敗北のため、頃公は晋に訪朝した。頃公は晋景公を尊んで王にまつりあげようとしたが、景公は辞退して受けなかった。 このとき頃公は郤克に国君を捕虜にした礼で対応された。
B.C.586、12月24日、頃公は晋景公・魯成公・宋共公・ 鄭悼公・衛定公・曹宣公・ 邾定公・杞桓公と晋の虫牢で会盟した。
B.C.584秋、頃公は晋景公・曹宣公・衛定公・魯成公・莒の君・邾定公・杞桓公と会合して、楚に攻められた鄭を救う相談をした。しかし鄭は単独で楚軍を破った。
8月13日、頃公は衛の馬陵で諸侯と同盟し、虫牢の盟いを確認し、莒が晋に服従したことを確認した。
B.C.583冬、頃公は晋・魯・邾と会合して郯を討った。
B.C.582春、前年に汶陽の田を斉に返したことで諸侯が晋の信義を疑ったため、晋景公は頃公や魯成公・宋共公・衛定公・鄭成公・ 曹宣公・莒渠丘公・杞桓公と衛の蒲で会合して、馬陵の盟いを忘れないようにした。
頃公は庭苑や鳥獣苑の制を緩め、租税を軽減し、孤児を救い病人を見舞い、貯蔵米をみな放出して民を救ったので、人民は大いに喜んだ。 また諸侯に対しては礼を厚くしたので人民は帰服し、諸侯からは犯されなかった。
頃公(魯)(ケイコウ)【王】
魯公(34代目)。名は讎。文公の子。
B.C.253楚に攻められ、徐州を失う。
B.C.248楚の考烈王に攻められ魯は滅びる。頃公は卞邑に移り庶民となる。魯の公室の祭祀が絶たれる。
斉の柯で没す。
頃公(晋)(ケイコウ)【王】
晋公(14(16)代目)。名は去疾。晋昭公の子。〜B.C.512。
B.C.526、8月、晋昭公が没し、去疾は即位した。
B.C.525秋、頃公は屠蒯を周に遣わして、洛水と三塗山で祭りを行いたいと申し入れをさせた。 周の萇弘は「使者の顔つきがきびしい。祭りを行うのではありますまい。きっと戎を討つのであろう」と言った。
9月25日、中行呉が軍を率いて棘津から黄河を渡り、祭官に命じて犠牲を洛水の神に供えたため、 陸渾の人は討たれるとは気がつかなかった。晋軍はそれに乗じて進軍した。
9月28日、晋軍は陸渾に攻め入ってこれを滅ぼし、陸渾が楚に心を寄せていたことを責め立てた。陸渾の君は楚に逃げ、大勢の人が周の甘鹿に逃げ込んだ。
B.C.522楚の亡命王子が晋に赴くと、頃公は「もし太子が鄭を裏切って晋に応対するなら、わがほうは外から攻めて鄭を滅ぼし、 太子を封じて領邑を与えよう」とすすめ、王子建は鄭に帰った。しかし事が発覚して王子建は殺された。
B.C.521夏、頃公は范鞅を魯に遣わした。
11月4日、宋の華氏が反乱を起こしたため、中行呉が宋の公子城、曹の翰胡、斉の苑何忌、衛の公子朝と会合して宋を助けた。
11月7日、諸侯の軍は華氏と宋の赭丘で戦い、大いにこれを破り、南里に包囲した。
冬、鼓の国が晋に背いて鮮虞についた。魯昭公が晋に来ようとしたが、晋は鮮虞を討つため魯昭公の来朝を断った。
B.C.520周景王が没し、王子らが位を争ったため、晋の六卿は王室の乱に介入した。
10月14日、籍談荀躒が九州の戎と焦・ 瑕・温・原の軍を率いて周悼王を王城に入れた。
鼓君鼓子苑支が反したので、頃公は中行呉にこれを討伐させ、 鼓子苑支を捕らえて鼓人が主君(鼓子苑支)に従うことを禁じた。
しかし鼓子苑支の臣夙沙釐という者が妻子を連れて去ろうとしたので、軍吏がこれを捕らえた。
中行呉「鼓に新しい君がいるから、ここに止まって君に仕えよ」
夙沙釐「わたくしは狄の鼓君に君臣の宣誓をしましたが、晋の鼓君に対してはしていません。宣誓して臣になったからには二心を持ってはならないといいます。 もし私利を計って旧法を犯すのなら、どうして禍難に会わないことがありましょう」
中行呉は感嘆して「わしはこのような忠臣を得ることができようか」と言い、彼を去らせた。
中行呉はこのことを頃公に報告し、頃公は鼓子苑支に河陰の地を与え、夙沙釐をその宰相とした。
B.C.519、1月、晋軍と周王の軍は周の郊を攻め囲んだ。
1月2日、子朝の郊と鄩が崩れた。
1月6日、晋軍は陰に、周王の軍は沢邑に留まっていたが、周敬王はもはや子朝は敗れたということを晋軍に告げた。
1月9日、晋軍は帰国の途についた。
邾人が魯と争ってこれを晋に訴えたため、晋人は魯に赴いて罪を責め正した。そこで魯の叔孫婼が晋に出かけたところ、 晋人はこれを捕らえた。晋人は叔孫婼を邾人に渡そうとしたが、士弥牟が諌めたため、とりやめた。
B.C.518、2月、頃公は叔孫婼を魯に返した。
3月15日、頃公は士弥牟に命じて周の内乱の事情を調べさせた。
秋、鄭定公が晋に来聘した。
B.C.516、4月、単穆公が晋に出かけて王室の危急を告げた。 荀躒と趙鞅が軍を率いて周敬王を都に入れようとして、女寛に命じて闕塞の要塞を守らせた。
11月11日、晋軍が鞏で子朝の軍を破った。
11月24日、周敬王は襄王の廟で群臣と盟い、晋軍は成公般に命じて周を守らせて引きあげた。
B.C.515秋、頃公は范鞅を遣わして、宋・衛・曹・邾・滕と扈で会合し、諸侯に周を守らせ、 魯昭公を都に入れることを相談した。しかし諸侯は話し合って、魯昭公を入れることは難しいと頃公に報告した。
12月、頃公は籍秦に諸侯の守備兵を周の都に出させたが、魯は国難があるといってことわった。
衛・宋の使者が来て、亡命中の魯昭公を帰国させるよう請われる。 魯の季平子が范献子に賄賂したため、范献子は頃公に「季氏に罪はありません」と言ったので、 頃公は昭公の入国を援助しなかった。
B.C.514春、魯昭公が乾侯に入り、晋に迎え入れてほしいと申し出た。晋人は「たった一人の使者もわが君のもとに遣わせもしないで、異姓の国(斉)に落ち着いておられました。 それなのに今になって迎えてほしいと言われるのですか」と言って、魯昭公を一旦国境にもどらせてから迎えることにした。
6月、六卿は祁盈楊食我の一族を族滅した。
秋、韓宣子が没した。魏献子が政権を担当し、祁氏の土地を分けて7つの県とし、 羊舌氏の土地を分けて3つの県とし、 司馬弥牟を鄔の大夫に、賈辛を祁の大夫に、 司馬烏を平陵の大夫に、魏戊を梗陽の大夫に、知徐吾を塗水の大夫に、 韓固を馬首の大夫に、盂丙を盂の大夫に、楽霄を銅鞮の大夫に、 趙朝を平陽の大夫に、僚安を楊氏の大夫に任命した。そのため晋室はますます弱化し、 六卿はいずれも強大さを加えた。
B.C.513秋、竜が絳の郊外に現れた。
冬、趙鞅と荀寅が軍を率いて汝兵に城壁を築き、さらに一鼓の鉄を出させて刑法を刻む鼎を作り、 范匃がかつてつくった刑法の文を刻んで人民に示した。
B.C.512、6月23日、頃公は没した。
8月、葬られた。
頃公(単)(ケイコウ)【王】
単公。単襄公の子。
晋の公孫周(悼公)は周で単襄公に仕えていた。単襄公は頃公に「必ず晋周に善くしてあげなさい。今に晋の君となるだろう。 その行為は文徳がある。また八卦や夢でも、晋周が君となることをいっているのだ」と言った。頃公は承諾した。
B.C.573はたして晋厲公の乱の後、晋は公孫周を迎えて君とした。
B.C.570、6月23日、鄭が服従したので頃公は晋悼公・宋平公・衛献公・ 鄭釐公・莒の君・邾の君・斉の公子と会合し、鶏沢で同盟し、呉と仲良くしようとした。
頃侯(燕)(ケイコウ)【王】
燕公。釐侯の子。〜B.C.767。
B.C.791即位する。
頃侯(衛)(ケイコウ)【王】
衛侯(初代(8))。貞伯の子。〜B.C.854。
夷王に手厚い賄賂を贈り、伯爵から侯爵に昇格する。
邢侯(ケイコウ)【文官】
晋の臣。巫臣の子。
B.C.590巫臣が晋に亡命して、邢を領地として受けたので、氏を邢とした。
B.C.528司法官士弥牟が楚に使いしていたので、羊舌鮒が司法官を代行することとなった。
邢侯は雍子と境界争いをしていたが、雍子が娘を羊舌鮒に与えて、自分の有利に判決するよう頼んだ。 そのため罪は雍子のほうにあったが、羊舌鮒は雍子が正しいと判決した。邢侯は怒って羊舌鮒と雍子を朝廷で殺した。
韓宣子はこの事件の処理に苦しむと、叔向が「3人とも同罪です。鮒は獄を売り、 雍子は獄を買い取り、邢侯は司法官でもないのに人を殺しました。生きている者を殺し、死んだ者をさらしましょう」と言った。邢侯はこれを聞くと亡命したが、 邢侯の家族は処罰された。
(この事件で、邢侯は処刑されたともいう)
倪侯(ゲイコウ)【文官】
宋の臣。
B.C.284斉が宋を討った。宋の人心は宋王から離れており、城は守られなかった。
宋王偃は倪侯の館に逃れたが、やがて捕らえられて殺された。
慶克(ケイコク)【武官】
斉の臣。〜B.C.574。
慶克は声孟子と淫通していた。ある日、 慶克が宮仕えの女に女装して後宮に入ったのを鮑牽に見られてしまい、そのため国佐に戒められた。
B.C.574慶克は長い間、家に閉じこもって外出せず、声孟子に「国子(国佐)が私を責めるので弱りました」と言ったので、声孟子は国佐を恨みに思った。
7月14日、讒言を信じた斉霊公は鮑牽を足切りの刑に、高無咎を追放しました。 そのため高無咎の子高弱が斉に謀叛を起こした。慶克は、崔杼の輔佐となり、軍を率いて高弱を討った。
国佐は諸侯と共に鄭を討っていたが、斉に帰ってくると、慶克は国佐に殺された。
景差(ケイサ)【文官】
楚の臣。
文辞を好み、賦の作者として名声があった。
慶佐(ケイサ)【文官】
斉の臣。司寇。慶克の子。
B.C.573斉霊公は国氏を粛清して、慶氏を重用し、慶佐は司寇に任じられた。
慶佐は斉荘公に大夫に任命され、再び公子の一味を責め正し、 公子を句瀆の丘で捕えて幽閉した。
慶嗣(ケイシ)【文官】
斉の臣。慶封の一族。子息ともいう。
B.C.545、10月、慶封が萊に狩をしたとき、田無宇が母の病気のため帰国した。 慶嗣はこのことを聞いて「やがて騒ぎが起こるだろう。早く帰りなさい。騒ぎが起こるのはきっと秋の祭りのときであろう。 いま急いで帰れば間に合いましょう」と言ったが、慶封は聴き入れず、また前非を改心することもなかった。慶嗣は「滅ぶであろう。 幸いにゆけば呉や越に逃れることができよう」と言った。
11月8日、秋の祭りで慶氏は諸大夫に攻められて慶封は魯に逃れ、その後、呉に逃れた。
奚斯(魯)(ケイシ)【文官】
魯の臣。慶父の臣。
季友が慶父の身柄を求めたとき、慶父を国外に出奔させるように請うた。しかし季友が聞き入れなかったので、 途中哭しながら報告に行った。慶父はそれが奚斯の泣き声だとわかると自殺した。
奚斯(呉)(ケイシ)【文官】
呉の臣。
B.C.485呉王夫差は斉を艾陵で破ると、奚斯を斉に派遣して「呉の兵はみだりに民に乱暴しませんでしたが、 貴国の大夫国子は多くの庶民を動員して、わが軍を犯し暴虐を行いました。それゆえ天が斉を罰したのです」と言わせた。
恵施(ケイシ)【宰相】
魏の宰相。名家。
恵施は魏恵王に仕えて宰相となり、合縦策を主張して秦に対抗しようとした。
恵施は多方面に博学で、その蔵書は車5台分もあったという。
恵施は『恵子』を著したとされ、名家に属される。恵施は荘子と交際があり、その問答は『荘子』に詳しい。 荘子よりも先に没したようで、恵施が没すると荘子は、自説を語る相手が死んでしまったので、意見を述べることを止めたという。
敬姒(ケイジ)【女官】
定公の妾。
敬姒は衛献公子鮮を生んだ。
B.C.547衛献公が子鮮に命じて帰国の策を立てさせようとしたが、子鮮は辞退した。そこで敬姒は子鮮にお願いをしたため、 やっと子鮮は承諾した。
慶舎(斉)(ケイシャ)【武官】
斉の臣。子之ともいう。慶封の子。〜B.C.545。
B.C.545慶封は狩を好み酒を飲んで、慶舎に政治を任せた。
慶舎は崔氏の乱(B.C.546)で亡命していた盧蒲癸を寵愛し、娘を妻に与えた。 慶舎は盧蒲癸と王何を気に入り、 枕刀をもって自分を警護させた。しかし一方で盧蒲癸と王何は慶氏を攻めようと考えていた。彼らは卜を行い、そのうらかたを慶舎に見せて 「誰かが仇を討とうとして卜にかけたものです」と言うと、慶舎は「きっと勝つ。ただし血を流すことであろう」と言った。
11月8日、斉の先祖の廟で秋の祭りが行われた。慶舎が祀りに出かけようとすると、 盧蒲癸に通じていた娘の盧蒲姜が慶舎を出かけさせるためにわざと引き止めようとした。 はたして慶舎は聴き入れずにさっさと廟に出かけた。盧蒲癸と王何は枕刀を持って慶舎の供をした。慶舎の家では武装兵で公宮をとりまいて守備していたが、 慶氏の兵はよろいをぬぎ、馬をしばりつけてから酒を飲み、劇の見物に魚里に出かけた。その留守に乗じて田須無欒子雅高子尾鮑国らの兵が慶氏の兵がぬぎすてたよろいを着けて盧蒲癸に合図し、 慶舎は盧蒲癸と王何に殺され、慶封は魯に出奔した。
慶舎(趙)(ケイシャ)【武官】
趙の臣。
B.C.257楽乗とともに秦の信梁を攻め取る。
B.C.239将軍として東陽に陣を布く。
恵叔(ケイシュク)
公孫難
景春(ケイシュン)【在野】
縦横家。
人物論で孟子と論争する。
景春は犀首張儀について「公孫衍(犀首)や張儀は、 なんと真に優れた人物だ。彼らが一たび怒ると諸侯は恐れ、じっとしていると天下の兵乱も終息する」と評した。
恵牆伊戻(ケイショウイレイ)【宦官】
宋の宦官。内師。〜B.C.547。
恵牆伊戻は太子の宮内を司っていたが、太子痤に好かれていなかった。
B.C.547秋、公子痤が知り合いの楚の使者をもてなすため出かけ、恵牆伊戻はそのお供をした。恵牆伊戻はその場に到着すると公子痤を陥れようとして、 穴を掘って盟いの場所を作り、生贄を供え、その上に盟いの文書を載せ、公子痤の謀叛の証拠をかためた。 そして恵牆伊戻は都へ駆け戻って宋平公に「太子は謀叛を起こそうとしています。すでに楚の使者と盟っています」と讒言をした。 宋平公は「わたしの子だ。何を欲しがってそんなことをするはずがあろうか」と言ったが、恵牆伊戻は「早く君になりたいと望んでいるのです」と答えた。 そこで宋平公は人を遣わして調べてみると、はたしてその証拠があった。そのため太子痤は捕らえられて自殺した。 しかし後に太子痤の無実が判明したため、恵牆伊戻は釜ゆでの刑に処せられた。
頃襄王(ケイジョウオウ)【王】
楚王(21(37)代目)。名は横。懐王の子。〜B.C.264。
B.C.297楚懐王が秦に欺かれて捕えられると、大臣たちはこれを案じて斉にいつわって王が薨じたと告げて、横を帰国させて、彼を擁立した。 そして秦に「社稷の神霊により、わが国には王がおります」と告げた。
秦昭王は怒って兵を発し、楚は大敗して兵五万を失い、析と15城を失った。
B.C.296懐王は秦で没した。
B.C.294秦は韓に大勝した。そこで書簡を送り「楚は秦に背いた。秦は諸侯を率いて楚を討ち、勝敗を争おうと思う。王には士卒を率いて一大決戦を交えられんことを願う」 と言った。頃襄王はこれを憂えて、また秦と和平しようとした。
B.C.293秦から妻を迎えて和親する。
B.C.285秦昭襄王と宛で宴会を催し、和平を結んだ。
B.C.284秦・三晋・燕とともに斉を討ち、淮北を取った。
B.C.283秦昭襄王と鄢で宴会を催す。
秋、秦昭王と穣で会合する。
B.C.282小さい弓と弋(いぐるみ:糸をつけた矢で獲物を射る)の小さい矢で、雁をうまく射落とす名人がいた。頃襄王はその男を召してこのことを問うと、男は 「わたくしは小さな屋を射るだけのことでございます。大王は方五千里、帯甲(武装兵)は百万ありながら、どうして鳥(諸侯)をお射ちにならないのですか。坐して 屈辱を忍ぶのはわたくしとしてひそかに大王のためにならないと存じます」と言った。
頃襄王は発憤して諸侯と再び合従して秦を討とうとした。そこで秦に親しい周を討とうとしたが周王赧の使者武公の説得によって沙汰やみとなった。
B.C.280秦に攻められて破れ、上庸・漢北を秦に譲る。
B.C.279秦将白起に攻められ、鄢と鄧を失った。
B.C.278秦将白起に攻められ国都郢を失い、先王の墓夷陵を焼かれた。兵が四散したため頃襄王は戦わず、陳城に逃げた。
B.C.277秦に攻められ、巫と黔中郡を失った。
B.C.276東方の兵を集結して、十余万を得、ふたたび西行して、15の邑を取り返し、これを郡にして秦に備えた。
B.C.273三万の兵を出して三晋を援け、燕を討った。
秦と和平し、太子熊元を人質として秦に入れた。
B.C.269秦が魏の懐を攻めて去ろうとしたとき、頃襄王は斉・趙とともにこれを追撃した。
B.C.264病気となり、太子熊元は秦から逃げ帰る。
秋、没す。
卿秦(ケイシン)【武官】
燕の臣。
B.C.252燕は二軍を起して趙を討ち、卿秦は将軍として代を討った。
しかし廉頗に破れて虜となる。
景翠(ケイスイ)【宰相】
楚の宰相。柱国、執珪。
B.C.308秦が韓の宜陽を攻めた。景翠は軍を率いて韓の救援に向った。
東周の周累が人を遣わして景翠を説いて「公は爵位は執珪、官職は柱国という最高位ですので、勝ったとしても利はないし、 勝たねば殺されます。それより公は秦が宜陽を落とすのを待つのがよろしいでしょう。その後に軍を進めれば、 秦は戦後の疲弊時に攻められることを恐れて公に財宝を贈るでしょうし、 韓の公仲も公が秦を討つことを願って財宝を出すでしょう」と言った。
B.C.307景翠は秦が宜陽を落としてから軍を進めた。秦は楚に煮棗の地を差し出し、韓も財宝を差し出した。そのため楚は深く東周を恩にきた。
奚斉(ケイセイ)【公子】
晋の公子。献公の子。母は驪姫。B.C.663〜651。
母の驪姫が献公に愛されたため、後継ぎに指名される。
B.C.651秋9月、献公が没すると、荀息に擁立される。
10月、里克に服喪の殿中で殺される。
慶節(ケイセツ)【神】
公劉の子。周国の都を豳に遷す。
計然(ケイゼン)【文官】
越の臣。
勾践に「旱魃の時に舟を買い、洪水の時に車を買うのが物の道理です。穀物を売り出すのに、穀価は高くても80銭を超えず、 安くても30銭を割らないようにすれば、農商ともに便利です。
売価を公平にして物価を適正にし、関市を経て流通する物資を乏しくないようにするのが、国を治める常道です。
物資の過不足を考えれば、物価の高低はわかるもので、騰貴の頂点に達すれば、やがてかならず下落し、下落の極点に達すれば、やがてかならず騰貴するものです。 だから高いときには糞土を棄てるように惜しみなく売り出し、安い時には、珠玉を求めるように惜しんで買い入れ、 流通させるのがよいのです」と進言した。
勾践はこれを実施したところ、10年で国は富み、戦士を手厚く待遇することができた。
范蠡は越を去ってこの計然の策をつかって万金の富を得た。
邢帯(ケイタイ)【文官】
晋の臣。
奚仲(ケイチュウ)【王】
薛の始祖。黄帝の子孫とされる。
奚仲はの車正となった。
慶鄭(ケイテイ)【武官】
晋の大夫。〜B.C.645。
B.C.646秦に飢饉があり、秦は晋に穀物の買入れを請うた。晋恵公は河外の5城に命じて穀物を秦へ送らせようとした。 虢射が「ただ敵を強くするだけです。与えないほうがいいでしょう」と言った。そこで慶鄭は「いけません。 秦のおかげで立たれたのに、土地割譲の約束に背き、また晋の飢饉に際しては、秦は食糧を貸してくれました。 いま、秦に食糧をお与えになるのに何を躊躇することがありましょう。秦の善意を忘れ恩徳に背けば、必ず秦に討たれましょう」と言った。 結局、恵公は虢射の進言に従って秦に穀物を供給せず、逆に出兵して秦を討った。
B.C.645秦繆公が晋を攻めた。恵公は慶鄭にどうしたらよいだろうと聞くと「秦がわが君を晋に入れてくれたときには、 君は土地割譲の約束に背き、また飢饉の時には食糧を送ってくれましたが、君は秦の飢饉の時には逆に秦を討ちました。秦が攻めてくるのは当然のことではないでしょうか。 わたくしは存じませぬ」と言った。
恵公が自分の車右を誰にするか占った時、慶鄭が吉と出た。しかし恵公は「鄭は不遜でいかん」と言い、家僕徒を車右とした。
9月壬戌の日、秦と韓原で合戦したとき、晋は大敗し恵公の馬が泥土におちいった。恵公は慶鄭を呼び寄せ「わしを乗せよ」と言ったが、 慶鄭は「善を忘れて徳に背き、また占いを用いなかったのですから、敗北するのも当然ではないでしょうか。なにが『わしを乗せよ』ですか。 わたしの車に君が乗られるのは勿体のうございます」と言い、秦軍を討っていた梁繇靡に「君を援けに来い」と言ったが、 恵公はついに捕虜となった。
11月、恵公が晋に帰国することになった。蛾析が慶鄭に言った。
蛾析「君が捕虜になったのは、あなたの罪です。どうして待っているのですか」
慶鄭「軍が負ければ死に、大将が捕虜となれば部下は死ぬと聞いています。さらに梁繇靡を誤らせて、その君を失いました。私は3つの大罪があるのに、 どこへ逃げられましょう。もし君が帰られるならば、処刑を受けましょう。もし君が帰られなければ、ひとりで秦を討ち戦死しましょう」
晋恵公は都城絳の近郊まで来て、慶鄭が都に居ると聞き、家僕徒をやって慶鄭を呼び寄せた。
恵公「鄭よ、罪ある身で、まだ都に居たのか」
慶鄭「わが君が秦の徳に報いていたら、国勢は傾かなかったでしょう。戦っても賢良の人を用いられたら、敗れなかったでしょう。わたしはこのことをお怨みします。 また有罪の人を逃がすようでは、国を守ることさえできません。わたしは君をお待ちして処刑を受け、君の政を成就させようと存じます」
恵公「処刑せよ」
蛾析「進んで刑を受けようとする臣は、罪を赦して仇敵に報いさせる方がよいと申します」
梁繇靡「いけません。戦で勝てずに賊を使って報いようとするのは武ではありません。処刑するのがよろしいでしょう」
恵公「鄭を斬れ、自殺させるな」
家僕徒「すすんで刑を受けて死のうとする臣がおれば、その評判はかれを処刑するよりもよいでしょう」
梁繇靡「鄭は命令も聞かず勝手に進退し、自分の気持ちを満足させたために、君を捕虜にさせました。赦してはなりません。自殺するならば臣は気持ちが済みますが、 君は刑罰を失うことになります」
ついに恵公は司馬のに処刑を命じた。
説「隊列を乱して命令を犯したのが罪の一。鄭が勝手に進退したのが罪の二。梁繇靡を誤らせて秦公を取り逃がしたのが罪の三。 君が捕虜となったのに顔に負傷していないのが罪の四である。鄭よ、刑を受けよ」
慶鄭「われは座って処刑を待っているのだ。すぐに処刑せよ」
11月29日、慶鄭は処刑された。
形天(ケイテン)【神】
古代の戦の神。
形天は帝と争ったが、これに敗れて首を斬りおとされ、首は山に埋められた。だが形天は自分の乳首を目とし、へそを口にして、盾と斧を振り回して戦の舞を舞ったという。
駒伯(ケイハク)
郤錡
恵伯兕(ケイハクジ)【王】
曹公(9代目)。戴伯の子。〜B.C.759。
B.C.795即位する。
恵伯談(ケイハクダン)【公子】
晋の公子。名は談。の子。
(悼公)の父。
慶比(ケイヒ)【武官】
衛の臣。
B.C.522、6月29日、斉豹らが叛乱を起こしたとき、慶比は衛霊公の御者であり、 衛霊公とともに衛の死鳥に逃げた。
景湣王(ケイビンオウ)【王】
魏王(5(7)代目)。名は増。安釐王の子。〜B.C.228。
B.C.247魏の信陵君は五カ国の兵を率いて秦を攻め、これを河内で破り、 秦の蒙驁を敗走させる。
増は秦に人質となっており、秦荘襄王は怒って増を捕らえようとした。
しかしある人が増のために荘襄王に説き「魏将公孫喜は以前から魏の宰相に『どうかすみやかに秦をお撃ちなさい。 秦王は怒ってかならず増を捕らえるでしょう。 そうすれば魏王もまた怒って秦を討ち、かならず勝ちましょう』と言っています。いま増を捕らえるのは、喜のはかりごとにかかることになります。
逆に増をよく待遇して魏と和合し、斉・韓に魏を疑わせるのが一番です」と言った。
そこで荘襄王は増を捕らえることを止めた。
B.C.243安釐王が没すると、代わって立つ。
B.C.241秦に攻められ、20城を失う。
B.C.240秦に攻められ、朝歌を失う。
B.C.239秦に攻められ、汲を失う。
B.C.237秦に攻められ、垣・蒲陽・衍を失う。
恵文王(ケイブンオウ)【王】
趙王(初代(7代目))。名は何。武霊王の子。母は恵后孟姚。〜B.C.265。
B.C.298、5月戊申の日、武霊王は大いに群臣を東宮に朝見させ、国を譲って王子何を国王に立て、自ら主父と称した。
B.C.295安陽君が叛乱を起すが、 公子李兌によりこれを鎮圧する。
恵文王あるとき楚の和氏の璧を手に入れた。秦昭襄王はこれを聞いて 「願わくは15城をもって璧と交換したい」と申し入れた。趙の朝廷は対応に悩み、決しかねていた。
繆賢藺相如を推挙し、藺相如は「わたくしに任じていただければ、 もし城が手に入れば璧を置いてきますが、手に入らなければ、璧を全うして帰ってまいります」と言った。恵文王はこれを許した。
藺相如は璧を失うことなく帰国したので、恵文王は大いに喜び、藺相如を上大夫とした。
B.C.294燕に鄚・易の二邑を与える。
B.C.292南行唐に城を築く。
B.C.291趙梁を将軍とし、斉と連合して韓を討ち、魯関の下まで行って帰還する。
B.C.287董叔に命じて魏氏とともに宋を討ち、河陽の地を魏から取る。
秦に攻められ、梗陽を失う。
B.C.286趙梁に命じて斉を討つ。
B.C.285韓徐に命じて斉を討つ。
B.C.284燕の相国楽毅が使者としてやってきて、彼と約束して、秦も誘って諸侯と連合して斉を討つこととした。 そこで楽毅に宰相の印綬を授けて燕とともに五国連合して斉を討ち、霊丘を取る。
秦と中陽で会同する。
B.C.283燕昭王と会見する。
秦とともにしばしば斉を討ち、斉人はこれを憂えた。斉は蘇厲をして趙に書簡を送って言った「今、秦が趙と結んで斉を討っているのは、 秦が韓と周を滅ぼそうとしているためです。 それゆえ斉を討ってその土地を分割しようと天下を誘っているのです。決して趙のためになりません。
また斉が討たれるのは、斉が趙王に仕えているからです。これでは天下の諸侯は逆に王を滅ぼそうとはかるでしょう」
そこで趙は兵を退き、秦にことわって斉を討たなかった。
廉頗を将軍に任じて、秦を討ち、昔陽を取る。
B.C.282燕の楽毅に命じて魏を討ち、柏陽を取る。
秦に攻められ、2城を失う。
B.C.281秦に攻められ、石城を抜かれる。
恵文王はふたたび衛の東陽に行き、河水を決壊させて魏氏を討った。
趙に洪水があり、漳水が氾濫した。
B.C.280秦に攻められ、2城を抜かれる。
趙は魏に柏陽を返還させる。また趙奢を将軍に任じて斉の麦丘を取る。
B.C.279秦は趙を討ち、2万人を殺した。秦は恵文王との会見を求めた。そして藺相如が随行することとなった。 藺相如は秦の脅迫に一歩もひくこともなく、趙の国益を守った。会見を終えて帰国すると恵文王は藺相如を上卿に任じた。
楽毅が亡命してきたので、これを観津に封じて望諸君と号し、燕・斉を牽制した。
また廉頗に命じて斉を討つ。
B.C.278廉頗に命じて魏を討ち、幾をおとす。
漳水の流れを導いて武平の西へ移す。
B.C.277疫病が大流行する。公子丹を立てる。
B.C.276楼昌を将軍に任じて魏を討ち、幾を取る。
B.C.275廉頗に命じて魏を討ち、房子を抜き、ここに城を築いて帰還する。また安陽を取る。
B.C.274燕周を将軍に任じ、斉を討ち、昌城・高唐を取る。
魏とともに秦を討つ。
秦の白起に攻められ、華陽で破られる。
B.C.273東胡を取り、代の地を討つ。
B.C.272漳水の流れを武平の南に移す。また趙豹を封じて平陽君とする。河水が氾濫して洪水となった。
B.C.271藺相如に命じて斉を討ち、平邑まで侵入し、退いて北九門に大城を築く。
B.C.269秦・韓に攻められ、閼与が囲まれる。趙奢に命じて秦軍を閼与の城下で大いに破った。そこで趙奢に馬服君を賜った。
秦が魏の懐を攻めて去ろうとしたとき、恵文王は斉・楚とともにこれを追撃した。
恵文君(ケイブンクン)【王】
秦王(初代(31代目)。孝公の子。B.C.355〜B.C.311。
B.C.338孝公が没すると、商鞅が逃亡したため、法によってこれを車裂きの刑に処す。
B.C.337楚・韓・趙・蜀の人が来朝する。
B.C.336周顕王は恵文君に慶賀の意を表する。
B.C.335冠礼を行う。
B.C.334周顕王が周文王武王を祭った祭肉を秦に贈った。
B.C.333犀首を大良造とする。
B.C.332魏が陰晋を秦に入れ、寧泰と改名する。
B.C.331犀首に命じて魏を討ち、魏将竜虎を捕らえ、敵首八万を斬った。
B.C.330魏が河西の地を秦に入れる。
B.C.329黄河を渡って汾陰・皮氏を取り、魏恵王と応で会合した。また焦を囲んで、これを降した。
魏が楚と陘山で戦い、魏は上洛の地を贈る約束をして秦に援けを求めてきたので、恵文君は魏を援けた。 しかし魏恵王は楚に勝利すると違約して秦に土地を与えなかった。
策士管浅が説いて「楚王に『わたしと会いましょう。魏は秦と楚が結ぶことを恐れて秦に土地を提供するでしょう。 楚は敗れても魏の土地を奪ったことになります。また秦も楚にお礼をいたしましょう』と言うのがよろしいでしょう」と進言した。
恵文君は「なるほど」と言ってその通りにした。すると魏恵王は上洛の地を秦に提供した。
B.C.328公子張儀に命じて魏の蒲陽を包囲し、これを降した。 しかし張儀は恵文君に進言して蒲陽を魏に返し、秦の公子を魏に人質として入れさせた。そして張儀は魏恵王に説いて 「秦に返礼されるべきです」と言い、秦に上郡・少梁を贈らせた。この功で張儀を秦の宰相とした。
B.C.327戎国の義渠を県にし、魏に焦と曲沃を返還した。
義渠の君が秦の臣となり、名を少梁と改め、夏陽と号した。
B.C.326初めて中国にまねて狩をし、先祖を祭った。
B.C.325張儀に陝を攻略させ、陝人を追い出して魏に与えた。
B.C.324王号を称した。(恵王)
B.C.323張儀に命じ、斉・楚の大臣と齧桑で会盟させた。
B.C.322韓と魏の太子が秦に来朝する。また張儀が魏の宰相となった。
B.C.320出遊して北河にいった。
B.C.318楽池を宰相とする。
韓・趙・魏・燕・斉の諸国が匈奴を誘って秦を攻めた。恵文王は庶長樗里疾に命じ、これと修魚に戦って、 韓将申差を虜にし、趙の公子、韓の太子を破り、 首を斬ること八万二千に及んだ。
B.C.317張儀がまた秦の宰相となった。
B.C.316司馬錯・張儀に命じ、蜀を滅ぼす。また趙を討ち、西都と中陽を取った。
B.C.315韓の太子が人質として来た。
韓を討ち、石章を取った。また趙を討ち、将軍を破った。
また義渠を討ち、25城を取った。
B.C.314樗里疾に命じ、魏の焦を攻め降し韓の岸門を破り、首級一万を斬った。
公子を蜀に封じ、陳荘を国相とした。また巴郡を設置し、 張若を蜀太守とした。
さらに秦の人々一万家を蜀に移住させ、氐・羌族と対抗できるようにした。
恵文君は巴中を経略したとき、巴王を貶めて君長とし、代々秦女を娶わせ、巴中の民を爵制秩序の中に組み込み、法制支配を及ぼした。
B.C.313巴と蜀を分割して漢中郡を設置した。
また梁王と臨晋で会見した。
庶長樗里疾に命じ、趙を攻め、趙将荘豹を虜にした。また張儀が楚の宰相になった。
B.C.312庶長魏章が楚を討ち、丹陽で楚将屈匄を捕らえ、首級八万を斬った。
楚の漢中を攻めて地六百里を取り、漢中郡を置いた。
楚が韓を攻めたため、樗里疾に命じて韓を助けさせ、斉を攻めた。
到満に命じて魏を援けて燕を攻めさせる。
B.C.311楚を討ち、召陵を取った。
この年、恵文君は没した。
恵文后(秦)(ケイブンコウ)【女官】
恵文君の夫人。武王の母。〜B.C.305。
B.C.305庶長が大臣・諸侯・公子と謀反を起こしたため、恵文后も疑われて没す。
(『史記』魏侯列伝第十二では、恵文后は武王に先立って没したとされる。この場面は史記の中での整合性が取れていない。)
恵文后(趙)(ケイブンコウ)【女官】
恵文王の夫人。威后、孝威太后ともいう。〜B.C.263。
B.C.265恵文王が没すると、恵文后が政務を取った。
B.C.264秦が攻めてきたため、援けを斉に求めた。
斉は「長安君を人質にするなら、出兵しよう」と返答した。長安君は恵文后の末子であったため、 恵文后は承知せず「このうえ長安君のことを言う者があれば、この老婆がきっとその顔に唾をはきましょう」と言った。
しかし左師触竜に説得されて、長安君を斉へ人質として出した。
斉王が恵文后に安否を問う使者を遣わした。恵文后は斉王建の施政がよくないと言い、 斉の処士の鐘離子葉陽子に官職を与え、 佞臣である於陵子仲を殺すべきであると忠告した。
慶父(ケイホ)【公子】
魯の公子。荘公の弟。共仲ともいう。〜B.C.660。
B.C.692夏、慶父は軍を率いて邾の閭丘を討った。
B.C.686夏、魯軍は斉軍とともに郕を囲んだ。郕は斉軍に降服した。慶父は、斉が魯をさしおいて功を立てたことを怒り、斉を攻撃しようと言ったが、 荘公は「それはいけない。斉に降服したのは、わたしが不徳であったからだ。斉に何の罪があろうか。人は有徳の者に降服するという。 まあ、つとめて徳を修めて時節を待つこととしよう」と言った。
慶父は荘公の妻哀姜と私通していたため、 哀姜の妹叔姜の子啓(湣公)を立てたいと思っていた。
B.C.662、8月5日、荘公が没すると、叔牙は慶父を推薦したが、荘公の遺命により、 が立った。
10月2日、慶父は斑に恨みを持つ馬飼いのを使って、斑を党氏の邸宅で殺害させた。
季友は陳に亡命し、慶父は公子啓を擁立した。
B.C.660哀姜との密通はさらに露骨となり、哀姜は慶父を魯侯にしようと考えた。 そこで慶父は卜齮に命じて湣公を宮中の小門で殺させた。
しかし国人は慶父を誅しようとしたため、慶父は莒に出奔した。
釐公を立てた季友が財貨を使って莒に慶父を引き渡すよう求めたので、莒は慶父を魯に帰した。慶父は密まで来ると、 公子に命じて命乞いをさせたが、釐公は許さなかった。そこで公子魚は泣き声をあげて戻ってきた。 慶父はその泣き声を聞いて「あれは奚斯(公子魚)の声である」と言って、首をくくって死んだ。
共仲と諡され、慶父の子孫は孟氏となった。
慶封(ケイホウ)【宰相】
斉の宰相。字は子家。慶季ともいう。慶克の子。〜B.C.538。
B.C.573慶封は、斉霊公に大夫に任じられた。
B.C.554夙沙衛が高唐で叛乱したため、慶封は鎮圧を命ぜられたがこれを降せなかった。
B.C.548、慶封は斉景公が即位すると崔杼に左相に任じられ、 崔杼と共に勢力をほしいままにした。
晋・魯・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾が夷儀で会合して斉を討ち、朝歌の戦い(B.C.550)の報復をした。 斉人は斉荘公を弑した言い訳をし、隰鉏に命じて和平を請わせ、慶封を晋軍のもとに遣わした。かくて晋平公は和平を許した。
B.C.546春、斉景公の命で慶封は魯を訪問した。魯の孟孝伯が「慶季の車はなんと立派ではないか」と言うと、 叔孫豹が「衣服が立派でも身分不相応であれば、終わりはよくないといいます」と答えた。 食事の時、慶封が不作法であったため、 叔孫豹は相鼠の詩でそれを暗にそしったが、慶封はその意味がわからなかった。
6月2日、諸侯が宋で会合したため、慶封は宋を訪問した。この会合で晋と楚が和睦し、諸侯は斉と秦を除いて晋・楚どちらにもまみえるよう決定された。
秋、崔成と崔彊が「無咎(棠無咎)と偃(東郭偃)だけが父(崔杼)のそばについており、 親族も近寄ることができません。父君を害するのではないかと心配です」と相談してきた。慶封は「しばらくじっとしておりなさい」と言い、 属大夫の盧蒲嫳にこのことを話した。盧蒲嫳は「崔子はわが君の仇です。天が彼を見捨てようとするのかもしれません」 と言ったので、慶封はいつわって崔成と崔彊に「父上のためになることなら、ぜひ殺しなさい。わたしが助けましょう」と言った。
9月5日、崔成と崔彊は東郭偃と棠無咎を殺した。崔杼は家中の供もなく、そのまま慶封の所に来た。慶封は「彼らはどうしてそのようなことをしたのだろう。 ふたりの罪を正しましょう」と言い、盧蒲嫳に命じて兵を率いて崔氏を攻めてこれを滅ぼし、崔成と崔彊を殺した。崔杼はこれを聞いて首をくくって死んだ。 かくて慶封は斉の国政を執るようになり相国となった。
B.C.545夏、斉景公が晋に朝見しようとした。慶封は「わが斉は盟い(弭兵の会)に参加しなかったので、行く必要はない」と進言した。
慶封は狩を好み酒を飲んで、子の慶舎に政治を任せた。そして家財や妻妾を盧蒲嫳の家に移し、お互いに女を交換したり酒を飲み遊んだ。 国の役人たちは、慶封に朝見するようになった。慶封は崔氏の難を避けて亡命した者でも、賊をつかまえたと報告した者は国に帰すことにした。 そこで盧蒲癸は国に戻され、慶舎の家来となった。しかし盧蒲癸は慶氏を攻めようと考えた。
10月、慶封は萊で狩をした。
10月18日、田無宇が母の病気のため狩から帰った。慶嗣がこのことを聞いて「やがて騒ぎが起こるだろう。 早く帰りなさい。騒ぎが起こるのはきっと秋の祭りのときであろう。いま急いで帰れば間に合いましょう」と言ったが、慶封は聴き入れず、また前非を改心することもなかった。 田無宇は帰る途中、舟をこわし、橋も壊して慶封が追ってこられないようにした。
11月8日、斉の先祖の廟で秋の祭りが行われた。そこで慶舎は欒氏、高氏、陳氏、鮑氏ら諸氏と盧蒲癸と王何によって殺された。
11月20日、慶封は狩から帰る途中に騒動を知り、斉の西門を攻めたが勝てなかった。そして引き返して北門を討って勝ち、城内に攻め入って奥御殿を討ったが勝てなかった。 慶封はやむを得ず引き返して城下の嶽という町に陣を布き、陳氏・鮑氏に戦いを申し入れたが彼らは応じなかった。そこで慶封は魯に亡命した。
慶封は魯の季武子に車を献上したが、それはきれいでつやがあって顔がうつるほどであった。 展荘叔が「きっと民は疲れているだろう。家が滅びるのももっともなことだ」と言った。 叔孫豹が慶封を食事に招いたとき、慶封は食事を古人に供えて祭るのにそれを遠くまき散らすという不作法ぶりであった。 叔孫豹は不快に思い茅鴟の詩を口ずさんでそしったが、慶封はそれにも気付かなかった。
斉人が魯に来てなぜ慶封をかくまっているのかと責め正した。そこで慶封は呉に亡命した。呉王余祭は慶封に朱方という地を与えた。 慶封は一族を集めてそこに住みつき、斉にいた時よりも豊かになった。
B.C.538、7月、朱方は楚に攻められた。
8月、慶封は敗れて捕らえられた。楚霊王は衆人に「慶封は主君を弑し、その遺児が若かったので自ら取って代わり、 諸大夫に誓った叛逆を見習ってはならない」と言った。そこで慶封は「囲(霊王)が主君であり兄の子である員を弑し、 これに取って代わった叛逆を見習ってはならない」と言ったため、楚霊王は怒って公子弃疾に命じて慶封を殺した。
蹶由(ケイユウ)【公子】
呉の公子。余祭の弟。
B.C.537冬、楚が呉に攻め入った。 蹶由は楚軍をねぎらうため赴いたが、楚人はこれを捕らえて殺し、その血を軍鼓に塗ろうとした。 楚霊王は「お前は出発の時、占って吉と出たのか」と問うたので、蹶由は「吉でした。 手荒く使者を扱えば呉は防備を固めて楚を食い止めるでしょう。これより大きな吉はありますまい」と答えた。そこで楚霊王は蹶由を殺さなかった。 しかし楚軍が呉を討ち破ることができなかったため、蹶由は楚に連れて行かれた。
B.C.523冬、楚の令尹子瑕が蹶由をとりなしたため、楚平王は蹶由を呉に返した。
景陽(ケイヨウ)【将軍】
楚の将軍。
B.C.264斉・韓・魏が燕を討った。燕は楚に救援を求め、楚は景陽を出動させた。
景陽の軍は進軍し、日が暮れて宿営することになり、それぞれの陣地を見回ると、景陽は「おまえたちが設営しようとしている場所は、洪水が出たらみんな水没するであろう。 どうしてこんなところに宿営できようか」と怒り、他に設営した。
翌日になると、大雨が降り、山水が押し寄せて、さきの陣地は水没した。軍吏は景陽の先見の明に敬服した。
景陽は、燕を救援せずに魏の雍丘を討ち、これを取って宋に与えた。
そのため三国は燕攻撃を止めて、楚軍と対峙した。斉軍は楚軍の東に陣を布いたため楚は引き返せなくなった。そこで景陽は西側の軍門を開き、昼は戦車や騎馬を出入りさせ、 夜はかがり火をたいて、魏と使者を通じているように見せかけた。
斉軍はこれを怪しみ、兵を率いて立ち去った。そのため魏も同盟国を失い、夜中にこっそり逃げ去った。そこで楚軍は帰還することができた。
B.C.258秦が趙の都邯鄲を包囲した。趙が危急を楚に告げたため、考烈王の命で趙を救うため出陣する。翌年、 邯鄲に到着する前に秦兵が去ったため戦いはなかった。
涇陽君(ケイヨウクン)【公子】
秦の公子。名は市。昭襄王の弟。母は宣太后
B.C.301斉の人質となる。
B.C.300斉より帰国する。
B.C.286宛に封じられる。
B.C.271范雎が昭襄王に取り立てられ、宣太后が専制であること、 魏冄が諸侯に対してほしいままに権力を振るうこと、 涇陽君・高陵君らがすこぶる奢侈で王室よりも裕福なことを言上した。
B.C.265、9月、そこで昭襄王は、魏冄の相国を罷免し、涇陽君らを函谷関の外に出して、それぞれの領地に住まわせた。
奚容テン(ケイヨウテン)【在野】
孔子の弟子。字は子皙。
景鯉(ケイリ)【文官】
楚の臣。
景鯉は使者として秦に赴いた。秦昭襄王は景鯉を抑留して楚に土地を要求しようとした。 そこで景鯉は人を使って昭襄王に説いて「今、斉や魏が土地を割いて秦に仕えようとしているのは、秦が楚と親しくしているからです。 わたしを抑留するのは、楚と親しくないのを吹聴しているようなものです。そうなると秦はきっと危うくなります」と言った。
そこで昭襄王は景鯉を釈放した。
郤宛(ゲキエン)【武官】
楚の臣。左尹。子悪ともいう。〜B.C.515。
B.C.515呉の公子掩余と公子燭庸が楚の潜を攻め囲んだ。 莠尹然と工尹が軍を率いて潜を救い、 沈尹戌が都城に住む人士と王の馬役の者たちを率いて軍勢を増やし、呉軍と窮谷で出会った。 また令尹子常が水軍を率いて沙水の河口まで進んで引き返し、郤宛と工尹寿は軍を率いて潜に到着した。そのため呉軍は退くことができなくなった。
4月、呉の公子が呉王を弑したため、呉軍は引きあげた。
さて郤宛は正直でなごやかな人柄であったため、国中の人から好かれていた。費無忌があるとき子常に 「子悪(郤宛)はあなたに酒をふるまいたいと言っております」と言い、一方で郤宛には「令尹があなたの家で酒を御馳走になりたがっております」と言った。郤宛は「この上もないお恵みですが、 わたしは卑しい者でお礼の進物を差し上げることはできないでしょう。どうすればよいでしょうか」と問うと、費無忌は「令尹は武具を好まれる。わたしが選びましょう」 と言ってよろいを5つ、武器を5つ取って門に並べるよう勧めた。いよいよ饗応の日になると、費無忌は子常に「わたしはあなた様に災いをおかけするところでした。 子悪は武装兵を門に伏せております。行ってはいけません」と言った。子常は郤宛の様子を調べさせると、武器が用意してあった。 そこで子常は鄢将師を呼び寄せると、鄢将師は「郤氏を攻め、さらに家を焼き払え」と命令した。郤宛はこれを聞くと、すぐに自殺した。
9月14日、子常が郤宛を殺したことについて国中のそしりがやまなかったため、子常は費無忌と鄢将師を殺し、その一族を残らず滅ぼして国の人々に申し開きをし、そのため衆人は喜んだ。
郄偃(ゲキエン)
郭偃
郤錡(ゲキキ)【将軍】
晋の将軍。上軍の佐、上軍の将。郤克の子。駒伯ともいう。〜B.C.574。
三郤(郤錡・郤犨郤至)と称される。
B.C.585冬、晋は楚に攻められた鄭の救援に出かけた。晋軍は繞角から進んで蔡を侵略した。 楚の公子と公子が蔡を助け、桑隧で晋軍を防いだ。 郤錡は諸将とともに決戦をするよう進言したが、韓厥荀首士燮が諌めたため、中軍の将欒書はそのまま引き揚げた。
B.C.583趙武が成人して大夫に挨拶回りをした。 このとき郤錡は「美しいですね。しかし若い者が年寄りにかなわないものはたくさんあります」と言った。 張孟は「あの3人の郤氏の話など妄人の話であり、説明する価値もありません」と評した。
B.C.578春、郤錡は魯に赴いて秦討伐の援軍を請うた。このとき郤錡の君命を伝える作法が不敬であったので、 孟献子に批難された。
5月、郤錡は上軍の佐として秦軍と戦い、麻隧でこれを大破した。
B.C.576、10月、三郤は伯宗を讒言してこれを殺し、賢大夫の欒弗忌までも殺した。 そのため伯宗の子伯州犂が楚に出奔した。韓厥は 「郤子は禍にかかるであろう。善人を殺して滅びないので何が期待されようか」と言った。
B.C.575、4月、晋は背いた鄭を討つために軍を発し、郤錡は上軍の将として参戦したが、鄢陵で楚軍に破られた。
B.C.574柯陵の会盟のとき、郤錡は単襄公に会見すると、その言葉は人を犯しないがしろにした。 単襄公は、郤錡は禍を受けるであろうと言った。
郤錡は夷陽五の土地を奪ったため、夷陽五に恨まれていた。
この年、晋厲公が諸大夫を除こうとし、胥童が郤氏を誅するよう進言していた。 郤氏もこの噂を聞いており、郤錡は晋厲公を攻めようとして「君が理不尽をされるのだから、われわれも一族を率いてこれを討とう。 戦死しても国を破壊してやろう」と言った。しかし郤至は「いけない。武人は叛乱をせず、知人は詐らず、仁人は党派を組まないという。 そのようなことを計画するのであれば、君が我々を殺すのは遅すぎるぐらいだ。その上、民に何の罪があろう。どうせ死ぬなら、君命を聞くのがよい」 と言って賛成しなかった。
12月26日、胥童と夷陽五が500の武装兵を率いて郤氏を討ち、郤錡は長魚矯に戈で突き殺され、 郤犨と郤至も殺されて3人のなきがらは朝廷でさらされた(車轅の難)。そして晋厲公はその女や財貨を奪った。 また郤錡は自殺したともいう。
郤毅(ゲキキ)【武官】
晋の臣。蒲城鵲居の子。
B.C.578、5月、郤毅は晋厲公の御者として秦軍と戦い、麻隧でこれを大破した。
郤乞(ゲキキツ)【文官】
晋の臣。
B.C.645晋恵公は3ヶ月間秦にいたが、講和が成りそうであることを聞くと、 郤乞を晋にやって呂省にこれを知らせた。
郤駒伯(ゲキクハク)
郤錡
郤欠(ゲキケツ)【将軍】
晋の将軍。郤芮の子。下軍大夫。上軍の将。郤缺とも書く、郤成子ともいう。
郤芮の文公殺害失敗によって郤欠は野に下り、冀で農事に携わった。
賈佗が使節として出国し、途中で冀の郊外に泊まった。賈佗はその地で、男が草取りをして、 妻が弁当を届けたが互いに賓客をもてなすように敬い合っていたのを見た。賈佗は不思議に思い近寄って聞けば、これが郤欠であると知った。
賈佗は郤欠を都に連れて帰り、使節の報告を済ませてから郤欠を推薦した。
文公「彼の父は、わしを殺そうとした罪があるが、それでもよかろうか」
賈佗「国の賢良は、前の罪は免除します。を死刑にしましたが、 その子を挙げて天子にしました。 斉桓公もみずからを殺そうとした管敬子を宰相に登用しました」
文公「何によって彼が賢人だと分かるのか」
賈佗「わたくしは、彼が敬を忘れないことを見ました。敬は徳の慎み深さです。徳を慎んで事を行えば、成就しないことがありましょうか」
ついに文公は郤欠に会って、彼を下軍大夫に任命した。
B.C.627郤欠は白狄を討ち、白狄の君を得る戦功を立てた。郤欠はその功により卿に任命されて父の故領の冀を与えられたが、用心されたため兵は与えられなかった。
B.C.620、8月、趙盾は斉・魯・宋・衛・陳・鄭・許・曹の諸侯と鄭の扈で会盟した。 郤欠は「今、晋と衛は親しくなったので、以前占領した衛の地を還すのがよろしいでしょう」と進言した。趙盾はこれを聞いてよろこんだ。
B.C.616夏、郤欠は魯の叔仲恵伯と承匡で会合し、楚に従った諸侯の取り扱いについて相談した。
B.C.615冬、秦が晋を討って羈馬の地を攻め取った。
郤欠は上軍の将として秦軍と戦ったが勝敗がつかなかった。
B.C.614夏、晋の六卿は、秦が士会を用いて晋に敵することを恐れて、近郊の諸浮で会合して密謀した。
趙盾「随会(士会)が秦におり、賈季(狐射姑)が狄におり、そのために国難が日ごとにやってくる。どうしたらよいか」
荀林父「賈季を戻しましょう。彼は国外の事情に通じており、処理する才能があり、それに旧勲の子である」
郤欠「賈季は罪を犯している。随会を戻したほうがよい。彼は卑賤の身分におりながら恥をわきまえており、柔順であるが人から犯されて不義をなすことがなく、 その智謀は国の役に立つ」
そこで六卿は魏寿余に命じて魏にたてこもらせて晋に背いて秦につくふりをさせて、士会を帰国させた。
B.C.612夏、蔡が新城の盟い(B.C.612)に参加しなかったので、郤欠は上軍と下軍を率いて蔡を討った。
6月8日、郤欠は蔡に攻め入って城下の盟いを結んで引き揚げた。
B.C.601このころ郤欠は趙盾に代わって国政を執った。
秋、下軍の将胥克は精神病にかかっていたので、郤欠はこれを罷免した。
B.C.600冬、楚が鄭を討った。そこで郤欠は鄭の援助に出かけて、楚を撃退した。
B.C.598郤欠は狄の部族たちに和睦を申し入れた。狄の部族たちは赤狄に使役されるのを嫌がって、早速晋に服従した。
秋、晋の大夫たちは狄の人々を晋に呼びつけて会合しようとしたが、郤欠は「徳でやれない場合は、勤労にまさるものはないと言います。 こちらが勤労しないようでは、人をなつけることはできません」と言ったので、晋景公は欑函で狄と会合した。
成子と諡される。
郤献子(ゲキケンシ)
郤克
郤克(ゲキコク)【宰相】
晋の正卿。上軍の佐。郤献子ともいう。郤欠の子。
B.C.597春、鄭が楚に攻められた。
6月、晋は鄭を救援することとし、郤克は上軍の佐に任じられた。
魏錡と趙旃が和睦の使者として出発した。
郤克「ふたりの不平者が出かけた。防備をしておかないと楚に攻め込まれるだろう」
先縠「わが軍には戦うか和するか決定的な命令がない。防備したとしても役に立つまい」
はたして楚軍は全軍で攻撃してきて、晋軍はなすすべなく敗れた。
B.C.592春、郤克は斉に使いして諸侯の会合に出席するよう申し入れた。郤克がせむしであったため、それを見て斉の太夫人は笑った。 郤克は怒ってすぐ退出して、帰国の際、黄河のほとりで「黄河の神よ。御覧あれ。誓ってこの恨みを報いよう」と復讐を誓い、 副使の欒京廬を斉に留めて斉の回答を待たせ「斉が会合に参加するという返事をもらわなければ、帰国してはならない」 と言いつけた。
郤克は国に帰って斉を討伐することを願い出たが、晋景公は「そなたの恨みは国家を煩わすほどのことだろうか」と言って、 聴き入れなかった。しかし郤克は怒りが収まらず、手勢で討ちたいと願ったが、それも許されなかった。そのため郤克は晋に来た斉の使者4人を河内で殺した。
8月、士会が「人の怒りの邪魔をすればその毒害を受けると。今、郤子(郤克)の怒りは大変だ。斉でその心を晴らさなければ、必ず晋の国内で晴らすだろう。 わしは政権を郤氏に渡して、彼の怒りを晴らさせようと思う」と言って引退したので、郤克が国政を執ることとなった。
郤克は斉を討った。斉が公子を人質として晋に入れたので、戦いをやめた。
B.C.589夏、斉軍に攻められた魯と衛が晋に援軍を求めてきた。晋景公は700乗の援軍を出すことを許したが、郤克は「それは城濮の時の軍勢です。 あの時は文公の明識と将軍たちの敏捷さがあったから勝てたのであります。私ごときではあの先大夫の召使ほどの仕事さえできません」と言って800乗の兵車を請うたので、 景公はこれを許した。
景公は、郤克を中軍の将、士燮を上軍の将、欒書を下軍の将、 韓厥を司馬として衛と魯を救わせることとした。
晋・魯・衛軍は斉軍と鞍で戦った。
6月18日、両軍は斉の鞍の地に陣をかまえた。解張が郤克の御者となり、 鄭丘緩が右となった。郤克は矢に当たって負傷し、血は靴まで流れ滴るという重傷であった。 郤克はかろうじて進撃の太鼓を絶え絶えに鳴らした。
郤克「わたしはもうだめだ」
解張「戦が始まり、敵の矢がわたしの左手に当たり、肘まで突き通しましたが、抜くいとまもなく、その矢を折って馬を御しています。 兵車の左輪は赤黒く染まっていますが、どうして弱音を吐きましょうか。我慢してください」
鄭丘緩「戦の始めから、険しい場所に来るとわたしは下車して車を押してきましたが、お気づきにならなかったでしょう。それも気づかれないということは、 やはり重傷です」
解張「わが軍の目と耳は元帥の旗と太鼓に注がれております。どうして重傷であるからといって、この戦いを失敗させることが出来ましょう。 出陣したからには、もとより死は覚悟です。命にはまだ別状はありません。しっかりしてください」
解張は手綱を片手に握りなおし、右手で撥を取って進撃の太鼓を打ち鳴らした。
郤克の馬は駆け出して止めることができなくなり、全軍はそれに遅れじと進撃し、斉軍を大いに破った。
晋軍は敗走する斉軍を追撃して華不注山を三度も追いまわした。
韓厥が逢丑父を捕えたので、郤克はこれを殺そうとした。
逢丑父「これからのちは主君の身代りとなる者はいなくなるであろう」
郤克「一命を捨てても主君を逃がすことをものともしない忠臣がいるのに、それを殺すのは不吉なことだ。むしろ赦して主君に忠義を働く者を奨励することにしよう」
そこで郤克は逢丑父を赦して処刑しなかった。
晋軍は斉軍を追撃し、丘輿から斉の地に攻め入り、馬陘を攻撃した。
頃公は国佐を使者として郤克に和睦を求めさせ、聴き入れられなければ決戦しようと言わせた。郤克は聴き入れず 「蕭同叔子を人質にし、(晋軍が進みやすいように)斉の田地の畝をすべて東に向けよ」と言った。国佐がその申し入れは礼に背くことであると言うと、 魯・衛が郤克を諌めた。そこで郤克は「わたくしどもは、魯と衛のために斉軍の引き揚げをお願いしました。どうしてご命令に従わないことがありましょう」と言って、 これを受け入れた。
7月、晋軍は国佐と斉の爰婁で和睦を盟い、斉は侵略した汶陽の田を魯に還した。
成公は晋軍と上鄍で会合し、郤克・士燮・欒書に先路(卿の正車)と三命の服(衣服や旌旗)を与え、 司馬・司空・輿帥・侯正・亜旅にも一命の服を与えてその労をねぎらった。
この鞍の戦いの時、韓厥が軍律を犯した者を斬ろうとした。郤克は減刑しようとしたが、郤克が着いた時にはすでに斬られていた。 すると郤克はこのことを全軍に布告した。郤克の御者が「救おうとなさったのではありませんか」と言うと、郤克は「救うことは出来なかったが、殺したからには、 その非難を分け合わないでよかろうか」と答えた。
9月、衛穆公が没した。郤克は士燮・欒書とともに戦の帰途に弔問し、衛の大門の外で哭礼を行った。
晋景公は鞍の勝利をほめて郤克に「あなたの力であろう」と言った。しかし郤克は「いいえ、三軍の士が働いたのです。私には何の力がありましょう」と謙譲した。 次に士燮が謁見したので、景公は「あなたの力であろう」と言った。士燮は「いいえ、わたしは命を中軍に受け、 上軍の士に命じて上軍の士が命を用いたからです。私には何の力がありましょう」と謙譲した。欒書が謁見したので、景公はまた同じ問いをすると、 欒書は「いいえ、わたしは命を上軍に受け、下軍の士に命じ、下軍の士が命を用いたからです。わたくしに何の力がありましょう」と謙譲した。
B.C.588秋、郤克は衛の孫良夫とともに赤狄と廧咎如を討った。
斉頃公が晋に朝して玉を晋景公に授けた。このとき郤克は「斉侯がお出ましになったのは、先年婦人がわたしを笑った無礼をお詫びするためであり、 わが君ではなく、わたしが受けるのです」と言って斉頃公を国君を捕虜にした礼で対応して辱しめた。 苗賁皇はこれを聞いて「郤子は勇気はあるが礼を知らず、その功を誇って国君を辱しめた。どれだけ生きられるだろうか」と言った。
献子と諡される。
郤縠(ゲキコク)【将軍】
晋の将軍。中軍の将。〜B.C.632。
B.C.637郤縠は秦繆公に内応して、晋懐公を攻め殺した。
B.C.633晋が三軍を編成するとき、晋文公趙衰に誰が元帥に適任か諮問すると、 趙衰が「郤縠がいいでしょう。50歳になってますます篤学です。篤学の人は百姓を忘れません。郤縠を任命してください」と郤縠を推挙したので、 郤縠は中軍の将となった。
B.C.632、2月、没す。
郤至(ゲキシ)【武官】
晋の臣。蒲城鵲居の子。字は温季。新軍の佐。季子ともいう。〜B.C.574。
三郤(郤錡郤犨・郤至)といわれる。
B.C.589楚の巫臣が郤至を頼って楚から亡命してきた。晋は巫臣を邢の大夫とし、楚の内情を知る者として重用した。
B.C.583趙武が成人して大夫に挨拶回りをした。このとき郤至は「誰にも負けないとしても、高位を求められようか」と言った。 張孟は「あの3人の郤氏の話など妄人の話であり、説明する価値もありません」と批難した。
B.C.580秋、郤至は鄇の地について周と争った。 周簡王王季子単襄公に命じて晋に訴えた。
郤至「温の地はすべてわたくしの領地です」
王季子・単襄公「周は商に勝ったとき、蘇忿生に温の地をまかせました。後世、 襄王が晋の文公に温を与えて、その後にお前の領地となったのです。 もとは王の役人(蘇忿生)の領地です。どうしてお前がわがものにすることができよう」
厲公は郤至をなだめて争わないようにさせた。
B.C.579晋と楚が盟約した。このとき郤至は楚を聘問して楚恭王との盟いに立ち会った。 このとき楚の子反が「もし楚・晋の両君がお会いすることがあったら、それは戦場でしょう」と言った。郤至は帰国してこのことを話すと、 士燮は「礼をわきまえない者は約束を実行しないであろう」と言った。
B.C.578、5月、郤至は新軍の佐として秦軍と戦い、麻隧でこれを大破した。
B.C.576、10月、三郤は伯宗を讒言してこれを殺し、賢大夫の欒弗忌までも殺した。 そのため伯宗の子伯州犂が楚に出奔した。韓厥は 「郤子は禍にかかるであろう。善人を殺して滅びないので何が期待されようか」と言った。
B.C.575春、鄭が背いたため、晋はこれを討った。郤至は新軍の佐として参戦した。
5月、晋厲公は鄭を討伐するため、郤犨と欒黶とを斉魯にやって兵を出させようとした。
楚恭王が東夷の兵を率いて鄭を救援しようとした。楚軍が半ば布陣したとき、厲公はこれを攻撃しようとした。 欒書が郤犨と欒黶を待つよう諌めたが、郤至は「いけません。楚が陣立てに禁忌の晦日を避けないのは落度のひとつです。 南夷(東夷)がともに布陣しないのは落度のふたつ目です。楚と鄭の布陣が整理されていないのは落度の三つ目です。その士卒が騒がしいのは落度の四つ目です。 恐れているのは落度の五つ目です。この好機を逸してはなりません」と急襲するよう進言した。厲公は喜んで楚と合戦した。
6月、士燮が「徳が無いのに服従する国が多いと、必ず自分が傷つくと言います。晋の徳にふさわしいのは、諸侯がみな叛いて、国が少し平安になることです。 今わが国が戦って勝ったならば、わが君はその知を誇り、その功を高しとして教化を怠り、税を重くし、側近を増やし、愛妾の禄を増すでしょう。 かえって勝たないほうが晋の福です」と言った。郤至は「韓の戦いでは恵公は捕えられ、 箕の戦いでは先軫は戦死し、邲の戦いでは荀伯(荀林父)は大敗した。 いずれも晋の恥とするところです。ここで避ければさらに恥を増すだけです」と反論した。士燮は「先君のときは、戦わねば子孫が弱められて衰えていたでしょう。 いま斉・秦・狄の強国が服従しています。楚はほうっておけばよろしいではありませんか」と言ったが、欒書は聴き入れなかった。
6月29日、晋軍は鄢陵で楚軍と戦った。
欒書が「楚軍は軽率だ。陣地をかためて待つがよい。3日経てば退くであろう」と言った。さらに郤至は「楚にはつけいる隙が6つある。 司馬(子反と令尹(子重の仲が悪いことがひとつ目。楚王の精兵は旧家の兵を用いていることが2つ目。 鄭軍の陣地が乱れていつことが3つ目。蛮夷が陣立てをしていないのが4つ目。兵事の忌む晦日に陣をしいたのが5つ目。陣がざわついているのが6つ目である。 わが軍はきっと勝てる」と言った。
鄢陵の戦いのとき、郤至はだいだい色のはかまを着て楚恭王の兵を追い、楚恭王を見ると必ず下車して走った。戦いの後、 楚恭王は工尹を使者として、郤至に弓を贈って「戦の真っ最中にだいだい色のはかまの方が居て、礼儀正しい君子でしたが、 傷はありませんか」と言った。郤至は兜を脱いで「わたくしはわが君のお陰により、よろいかぶとで身を固めておりますので、失礼ながら君命を跪拝することができません。 御使者に対して三粛の礼をさせていただきます」と答えた。世の君子は郤至を「勇気があり、礼を知る」と讃えた。
郤至はまた鄭成公を追撃したが「国君に傷を負わせると刑罰を受ける」と言って追うのをやめた。
12月、郤至は鄢陵の戦勝の報告をするため周に入った。郤至は周簡王に報告する前に邵桓公に会って 「わたくしがいなかったら晋は戦わなかったでしょう。5つも勝因があるのに欒・范両将が戦争したがらないので、わたくしが無理にやらせたのです。戦勝はわたしの力です。 きっと晋の正卿になれるでしょう」と言った。
しかしこれを聞いた単襄公は「君子は自分から褒めたりしません。郤至は七卿の下位にありながら、他を押しのけようとしています。 これは7人の美点を覆い隠そうとするものであって、7人の怨みを買います。晋の勝利は、天が楚を憎んだから、晋の手で警告したのです。 それなのに郤至は天功を盗んで自分の功績としており、不祥です」と言った。
B.C.574柯陵の会盟のとき、郤至は単襄公に会見すると、その話は手柄話であった。単襄公は、郤至は禍を受けるであろうと言った。
あるとき晋厲公が狩猟したとき、郤至は豚を殺して奉進したが、孟張に奪い取られたので、 これを射殺した。そのため晋厲公は「季子(郤至)はわしをあなどっている」と言い、三郤を殺そうと考えた。郤錡は公を攻めようとして「君が理不尽をされるのだから、 われわれも一族を率いてこれを討とう。戦死しても国を破壊してやろう」と言った。しかし郤至は「いけない。武人は叛乱をせず、知人は詐らず、仁人は党派を組まないという。 そのようなことを計画するのであれば、君が我々を殺すのは遅すぎるぐらいだ。その上、民に何の罪があろう。どうせ死ぬなら、君命を聞くのがよい」 と言って賛成しなかった。
12月26日、晋厲公の命を受けた胥童に三郤もろとも殺された(車轅の難)。また自殺したともいう。
昭子と諡される。
郤犨(ゲキシュウ)【将軍】
晋の臣。歩揚の子。新軍の将。公族大夫。苦成叔子、苦成叔ともいう。〜B.C.574。
三郤(郤錡・郤犨・郤至)といわれる。
叔肸の娘を娶る。
B.C.583趙武が成人して大夫に挨拶回りをした。このとき郤犨は「いったい年少のくせに大夫になる人が多いが、 どうしてあなたを容認できようか」と言った。張孟は「あの3人の郤氏の話など妄人の話であり、 説明する価値もありません」と批難した。
B.C.580、3月、郤犨は魯に赴いて魯と盟約した。郤犨はこのとき公孫嬰の身内から妻を迎えたいと求め、 公孫嬰の妹を娶った。
晋は秦と盟約することになったが、 秦桓公が黄河を渡ろうとせずに秦の王城に留まって大夫史顆を遣わしてきたので、 郤犨は王城で秦桓公と盟約した。
B.C.577郤犨は衛に遣いして、晋に亡命していた孫文子を衛に送届けた。 衛定公が郤犨をもてなす宴を開き、甯殖が介添を務めたが、 郤犨は傲慢であった。甯殖は「苦成叔の家はきっと滅びるであろう。昔は宴会を設けて威儀作法を見て、その人の吉凶禍福を占ったのだ。 いまの大夫は禍を受けるであろう」と言った。
B.C.576、10月、三郤は伯宗を讒言してこれを殺し、賢大夫の欒弗忌までも殺した。 そのため伯宗の子伯州犂が楚に出奔した。韓厥は 「郤子は禍にかかるであろう。善人を殺して滅びないので何が期待されようか」と言った。
この年、魯の公孫嬰が晋に赴いて、捕らえられた季孫行父の釈放を懇請した。 そのとき郤犨は公孫嬰に封邑を与えようとしたが、辞退して受けなかった。公孫嬰は帰国するとなぜ辞退したのか尋ねられると 「苦成叔(郤犨)の家(与えられようとした封邑)は3つの滅亡すべき理由があります。その身さえ無事に保てない人が、どうして人に封邑を与えられますか」と答えた。
B.C.575春、鄭が背いたため、晋はこれを討った。郤犨は新軍の将として参戦した。さらに郤犨は衛と斉に派遣されて援軍を求めた。 しかし晋軍は救援を待つ前に、楚軍を急襲してこれを鄢陵で破った。
秋、諸侯が宋の沙随に会合した。魯の叔孫喬如が郤犨に 「わが君(魯成公が壊隤で待機して戦に遅れたのは、晋と楚のどちらが勝つかを見ていたからです」と讒言した。 郤犨は新軍の将であり、公族大夫として東方の諸侯を扱っていたので、叔孫喬如の財貨を受けて晋厲公に報告したので、 晋厲公は魯成公に面会しなかった。
9月、叔孫喬如が人を遣わしてきて季氏、孟氏を讒言した。そこで晋は季孫行父を苕丘で捕えた。しかし晋はその後、 季孫行父を釈放した。
12月、郤犨は魯の季孫行父と扈で和平の盟いを結んだ。
B.C.574柯陵の会盟のとき、郤犨は単襄公に会見すると、その話は虚妄であった。 単襄公は、郤犨は禍を受けるであろうと言った。
郤犨は長魚矯と田地を争い、長魚矯とその父母妻子をひとつのながえ(轅)に縛りつけたことがあった。
12月26日、長魚矯の恨みによって晋厲公の命を受けた胥童に三郤もろとも殺された。(車轅の難)
郤称(ゲキショウ)【文官】
晋の臣。恵公に仕える。
B.C.651里克と共に謀って、 蒲城午を遣って夷吾(恵公)を国君として迎えさせ、夷吾は帰国を承諾した。
B.C.650秦に使いしていた邳鄭が、秦の使者と共に賄賂を送ってきた。郤称は呂省郤芮と謀り「賄賂が手厚く、言葉が甘い。これは邳鄭がわれらを秦に売ったに違いない」 と言って邳鄭と七輿大夫を殺した。
郤昭子(ゲキショウシ)
郤至
劇辛(ゲキシン)【武官】
燕の臣。〜B.C.243。
劇辛はかつて趙におり、龐煖とは仲が良かった。
B.C.243劇辛は龐煖が将軍になったことを聞き「龐煖はいたって与しやすい人物だ」と言い、趙を攻めた。しかし龐煖に破られて殺される。
郤臻(ゲキシン)【将軍】
晋の臣。郤溱とも書く。中軍の佐。
B.C.663晋が被廬の蒐で三軍を編成すると、郤臻は中軍の将郤縠の佐に任じられた。
B.C.633晋は城濮で楚と戦った。上軍の将であった狐毛は、二本の大旗を立てていつわって退却し、 楚将子西が追撃したところを先軫と郤臻が中軍を率いて横から攻撃をかけ大いに破った。
郤芮(ゲキゼイ)【宰相】
晋の宰相。字は子公。郄芮とも書く。冀芮ともいう。〜B.C.636。
B.C.652献公が屈邑の夷吾(恵公)を攻める。夷吾が狄に出奔しようとすると郤芮は 「いけません。すでに重耳がいますので、今ゆかれると晋はかならず狄を討つでしょう。 狄は晋を恐れているので、君に禍が及ぶでしょう。梁は秦に近く、秦は強国ですから、わが君の死後、秦の後援で晋に入ることを求められたらよいと存じます。梁に逃げるに こしたことはありません」と進言する。夷吾はついに梁に出奔した。
B.C.651里克奚斉悼子を殺し、 呂省が夷吾を迎えるため蒲城午を遣わした。
夷吾は郤芮に「呂省がわたしを迎え入れようとしています」と相談した。郤芮は「国の内外に賄賂して、 財力を虚しくすることを惜しまず、帰国を求めるべきです」と言った。そこで夷吾は使者に会って再拝稽首して承諾した。
このとき秦の公子縶が献公の弔問にやって来た。縶は「国を得るのは常に喪の時であり、国を失うのも常に喪の時であるといいます。 好機は逸すべからず。公子よ、帰国を計られよ」と言った。夷吾はまた郤芮に相談すると、郤芮は「亡命者は律儀で清廉であってはなりません。 帰国を求めるべきです」と言った。そこで夷吾は使者に会って再拝稽首して承諾し「わたくしが帰国して社稷を安んずることができましたら、 河外の大きな城5つを献上いたしましょう」と言った。
こうして夷吾は帰国して晋公となった。
入国すると恵公のもとで恵公に反対する大夫をことごとく誅殺する。
B.C.650秦に使いしていた邳鄭が、秦の使者と共に賄賂を送ってきた。郤芮は呂省・ 郤称と謀り「賄賂が手厚く、言葉が甘い。これは邳鄭がわれらを秦に売ったに違いない」 と言って邳鄭と七輿大夫を殺した。
B.C.649周襄王は召公と内史を使節として、 恵公に襲封(封建領主の継承を命じる詔勅)の勅命を授けさせた。郤芮は呂省と共に恵公の礼を助けたが、恭敬の心に欠け、 恵公も玉圭を執ることが低く、稽首の礼をしなかった。内史過は襄王に「晋は滅亡しないとしたら、その君には世継がないでしょう。また呂郤ふたりとも難を免れません」 と報告した。
B.C.636重耳が帰国しようと黄河を渡って令狐・臼衰・桑泉の3邑を招くと、みな降服した。
2月、懐公は高梁へ逃走した。
郤芮と呂省は兵を率い廬柳に陣を布いた。秦繆公は公子を呂省・郤芮のもとにやったので、 郤芮らは軍を引いて郇の地に駐屯した。
辛丑の日、狐偃が秦と晋の大夫と郇で和議を盟ったので、郤芮・呂省は重耳の帰国を承認した。
3月己丑の日、郤芮は重耳が即位すると(文公)、彼に殺されるのを恐れ、文公を帰国させたことを後悔して、徒党とともに公宮を焼いて文公を殺そうとした。 しかし計画は勃鞮の密告により文公を取り逃がし、郤芮は兵を率いて文公を追った。
ここで郤芮は秦繆公におびき寄せられて、黄河のほとりで殺された。
郤成子(ゲキセイシ)
 
郤欠
郤豹(ゲキヒョウ)【武官】
晋の臣。名は豹、字は叔虎。
献公が狩をして、翟柤の国から凶兆の気が出るのを見た。郤豹は朝見してこの話を聞き、 退出して士蔿に「翟柤の君は利益に専念し、その家来は媚びへつらっています。民はおのおのばらばらの心を持ち、 落ち着く所がありません。わたくしは提案しませんが、あなたは是非提案してください」と言った。
士蔿は献公に進言して翟柤を征伐した。
郤豹は敵城によじ登ろうとすると、部下が「将たる者が兵卒の労役をするのは、その任ではありません」と言った。郤豹は「老練な謀略もなく、壮者の労役もないならば、 何によって君に仕えるのか」と言い、鳥の羽を背につけて一番乗りし、とうとう戦いに勝った。
桀(ケツ)【皇帝】
夏王朝18代王。夏王朝最後の王。の子。
桀は民を搾取して贅を尽くし、諸侯や家臣たちにも暴虐を振るった。
桀は有施氏を討ち、美人の妺嬉を得て、彼女を溺愛して徳を修めずに民を苦しめた。
さらに桀は趙梁の進言を容れて、商の湯王を夏台に繋ぎ、 良臣関竜逢を殺した。
民心は離れ、ついに桀は商の湯王の率いる諸侯に攻められ、鳴条で戦ったが、桀は南巣に追放されて、病死して夏王朝は滅びた。
紂王とともに暴君の代表とされる。
『容成氏』では、桀は夏の先王の道に従わずに奇矯な振舞いに走り、そのために天下は混乱したとしている。そこで商湯王は桀を補佐するかのように装いながら、 課税台帳を作製して関所や市場に課税させたために、民は怨嗟の声をあげ、はじめて疫病が発生して、その後遺症で身体に障害を持つ者が増え始めた。 さらに湯王が送り込んだ伊尹を重用して、岷山氏を討ってふたりの娘を連れて帰って、桀はこれを娶った。 そして桀は彼女たちのために豪華な宮殿を造営した。
湯王が桀の非道を鳴らして人心を離反させて攻撃してきた。桀は都落ちして鬲山氏の領内に逃亡したが、湯王に追撃され、南巣氏の領地に逃げ込んだ。
結(楚)(ケツ)【公子】
楚の公子。の弟。司馬子期、子期ともいう。大司馬。〜B.C.479。
公子結は楚昭王の従臣であった。
B.C.506冬、昭王は呉に攻められ、随国に逃げ込んだ。呉軍が随にせまったため、随人は楚昭王を殺そうとした。公子結は王を奥深くに隠し、自分を王と偽って随人に 「わしを呉に引き渡せ」と言った。たまたま随人が占いによってひきわたさないことになったので、公子結は死をまぬがれた。
B.C.504公子結は陸軍を率いて呉軍を攻めたが繁揚で敗れた。
公子結は妾を正妻にしようとして左史イ相にたずねると、イ相は「君子の行動は道を得ようとするものです。 それゆえ、立ち振る舞もただ道に従うだけです。あなたは楚を治めて道を犯そうとされますが、それでよいのですか」と答えた。 公子結はそこでとりやめた。
B.C.489昭王は病が篤くなると、子西に位を譲ろうとしたが、 子西は承諾しなかった。そのため昭王は公子結に位を譲ろうとしたが、結も承諾しなかった。 そこで公子結は後継者に指名されたと相談し、軍を伏せ通行を禁じて、ひそかに昭王の子章を迎えて、王に立てた。
B.C.479公子結は子西とともに白公に殺された。
結(魯)(ケツ)【公子】
魯の公子。
B.C.675秋、魯荘公の命で、公子結は魯の公女が陳の大夫に嫁ぐのを見送った。
桀溺(ケツデキ)【在野】
葉の隠者。
B.C.490孔子が蔡から葉にうつった。
また葉を去って蔡に帰った。途中、長沮と桀溺が耕していた。孔子は彼らを隠者と思い、 子路に渡し場を問わせた。
長沮は「あの手綱をとっているのは誰か」と問うた。
「孔丘です」
「それなら渡し場ぐらいは知っているだろう」
桀溺は「きみは誰だ」と問うた。
「仲由と申します」
「滔々としてかえることのないのが、なべて天下の趨勢なのだ。それなのに、いったい誰とともにこの世を変えようというのか。人を避ける説士(孔子)に従うより、 世を避ける隠士に従うほうがましではないか」
子路がこれを孔子に告げると「わたしは鳥獣などと群れを同じゅうして、自らいさぎよしとしておれないのだ。天下に道さえおこなわれておれば、 丘は誰と共に世を変えようなどとするものか」と言った。
穴熊(ケツユウ)【神】
楚の先祖。附沮の子。
建(楚)(ケン)【公子】
楚の公子。楚平王の子。〜B.C.522。
公子弃疾(楚平王)は蔡の郹陽の国境を守る役人の娘と正式な婚礼をせずに公子を生んだ。
B.C.529楚平王が即位すると、伍奢が太子建の大傅となり、費無忌は少傅となった。 しかし費無忌は太子建に愛されなかったため、これを恨んだ。
B.C.523、1月、太子建は妻を秦から迎えたが、その公女が美人であったため、費無忌はこれを楚平王に勧め、楚平王はこれを受けた。
夏、太子建はかつてから費無忌を厭がっていた。そのため費無忌に讒言されて楚平王の信用を失い、城父に出させられ、国境を守らされた。
B.C.522なおも費無忌が讒言を続けたため、伍奢が捕えられた。そして楚平王は司馬奮揚に命じて太子建を殺させようとした。 奮揚は使いを建にやって「太子よ、急ぎ去りたまえ。さもなければ、やがて誅せられましょう」と告げたので、太子建は宋に出奔した。
6月、華氏・向氏の乱が起こったため、太子建は宋に出奔していた伍子胥と共に鄭へ逃れた。そこですこぶる礼遇された。
また晋に赴くと、晋頃公は「もし太子が鄭を裏切って晋に応対するなら、わがほうは外から攻めて鄭を滅ぼし、 太子を封じて領邑を与えよう」とすすめ、建は鄭に帰った。建はあるとき自分の従者を殺そうとした。その従者は建の陰謀を知っていたので、鄭に密告したため、 建は鄭定公子産に誅殺される。
建(田斉)(ケン)【王】
田斉王(5(7)代目)。襄王の子。母は君王后。〜B.C.221。
建は趙恵文后に安否を問う使者を遣わした。恵文后は斉王建の施政がよくないと言い、 斉の処士の鐘離子葉陽子に官職を与え、 佞臣である於陵子仲を殺すべきであると忠告した。
B.C.260秦が趙を攻めた。趙は食料が乏しくなり、斉に穀物を請うたが、建は応じなかった。
B.C.236建は秦に入朝する。秦王は建を咸陽に迎えて置酒(さかもり)した。
B.C.225秦軍が斉の歴城に布陣した。
B.C.221斉は秦に攻められた。建は宰相后勝のはかりごとを聴き入れて、秦に入朝しようとした。 雍門の司馬がこれを諌めたが、秦の説客陳馳が「秦に入られたら、秦は500里の土地を差し上げる」と言ったので、 建は秦に入って戦わずして秦に降った。
しかし秦は建を捕らえて共の松柏の塞にうつし、建は食を絶たれて餓死した。秦は斉を滅ぼして郡とした。ここに天下は統一された。
斉人は、建が姦臣・賓客のことばを聴いて国を滅ぼしたことを恨み、こう詠った。
 松なるか 柏なるか
 共に遷さしめしは 客なるか(斉が滅亡したのは、建が客を間違って登用したからだ)
虔(ケン)【公子】
秦の公子。太子(のちの恵文君)の傅。
B.C.351太子が幼少のころ法を犯したため、かわりに処罰される。
B.C.349再び法に触れ、劓(鼻をそぎおとす)の刑に処せられてしまう。
鼻を失ったことを恥じて門を閉ざし、外に出なかった。
B.C.338孝公が没し、太子が即位すると、公子虔は商鞅が謀反していると讒言をして、彼を車裂きの刑に処し、復讐を果たした。
憲(ケン)【公子】
周王朝の臣。召の公子。
召公奭の弟。
鍼(ケン)【公子】
秦の公子。景公の弟。后子ともいう。
B.C.547秦景公は公子鍼を使節として晋に赴かせ、和平交渉を行なった。
B.C.541夏、公子鍼は秦桓公の寵愛を受けて勢力があったため、景公と並んでまるで二君があるようだった。 公子鍼の母は心配して「他国に逃れないと罪を数えられて殺されるでしょう」と言った。
5月26日、公子鍼は晋に亡命したが、その時の馬車は1000台もあった。晋の女叔斉が「あなたの馬車はこれだけですか」 と問うと、公子鍼は「これでも多すぎると言われ、その罪によって逃れてきたのです」と答えた。女叔斉は晋平公に 「秦の公子はきっと帰国できましょう。自分のあやまちに気づいている」と報告した。
趙武が秦景公のことを問うと、公子鍼は「5年とはもたないでしょう」と答えた。趙武は「だれが5年も待つことができよう」と言った。 公子鍼は引き下がって「趙孟は間もなく死ぬであろう。為すこともなく無駄に月日を過ごしている。きっと長いことはありますまい」と言った。
冬、楚の公子が晋に亡命してきたが馬車はわずか5台であった。晋は公子鍼と公子比とを同等に扱った。すると公子鍼は 「わたしと新来の客とを同等に扱いくださるのは、かえってよくないことではありませんか」と自ら一歩へりくだった。
B.C.537秋、秦景公が没したため、公子鍼は秦に帰国した。
咺(ケン)【文官】
周王朝の臣。宰。
B.C.722、7月、周平王の命で咺は、 魯恵公仲子の葬礼に用いる車馬を贈った。
しかし恵公の葬式の前に間に合わず、喪主を弔問しても悲しみを表さず、さらに生存している仲子に対して死亡した時の贈り物を前もって贈ったので、 礼に背いたとそしられた。
堅(ケン)【公子】
鄭の公子。
B.C.618楚穆王は鄭の狼淵に軍を進めて鄭を討ち、 公子堅は公子楽耳とともに捕らえられた。 そのため鄭は楚と和睦することにした。
乾(ケン)【公子】
蔡の公子。蔡昭侯の子。
B.C.506公子乾は呉の人質となり、蔡は呉とともに楚を討った。
原(ゲン)【公子】
鄭の公子。厲公の伯父。〜B.C.680。
B.C.718鄭は衛を攻めた。衛は南燕の軍を率いてこれに対応した。祭仲・原・ 泄駕が鄭の三軍を率いて南燕軍の前方に陣し、 公子曼伯子元に命じてこっそりと制の軍を率いて南燕の背後に陣をとらせた。
南燕軍は鄭の三軍を恐れて、制の軍に気がつかなかった。
6月、鄭の曼伯と子元は南燕軍を北制で撃ち破った。
B.C.707周桓王が鄭荘公の政権を奪ったので、荘公は怒って周に参朝しなくなった。
秋、桓王は陳・蔡・虢・衛の兵を率いて鄭を討った。虢公林父は右軍の将となり、蔡・衛の軍はそれに付いた。 桓公は左軍の将となり、陳の軍がそれに付いた。
子元が「陳は乱れて、その民は戦う心がありません。真っ先に陳の軍を攻め立てたら、逃走するでしょう。 周王の軍はそれを見たら、きっと乱れるでしょう。そこを集中攻撃すれば、事は成功いたします」と進言したので、鄭荘公はそれに従った。
鄭荘公は曼伯に右軍を、祭仲に左軍を率いさせ、原と高渠弥に中軍を率いさせて自らを守らせ、魚麗の陣をつくり、 兵車を前に歩兵を後ろにして、鄭の繻葛で戦った。
鄭の左右軍は連合軍の左右の軍を破り、桓王の軍も乱れた。そこで鄭軍は集中してこれを攻撃したので、桓王の軍は大敗した。(繻葛の戦い)
B.C.680厲公は復位すると、厲公は原が復位を計画しなかったとして「伯父上にはわたしを迎え入れようという気などなかった。無情もはなはだしい」と責めた。 原はこれを聞いて「主君に仕えて二心をいだかないのが、人臣としての職分です。しかし、わたしは自分の罪を知っています」と言って自殺した。
元(ゲン)【公子】
蔡の公子。蔡昭侯の子。
B.C.507蔡は晋と同盟して楚にあたろうとして公子元は人質として晋に行った。
黔嬴(ゲンエイ)【神】
造化の神。
あるいは水神ともいう。
言偃(ゲンエン)【文官】
孔子の弟子。姓は言、名は偃。字は子游。B.C.506〜。
魯の人とも、衛の人ともいう。孔門の十哲のひとり。
言偃は武城の宰となった。
孔子が武城を訪ねた時、絃歌の声が聞こえたので、にっこり笑って言った「鶏を裂くのに、 牛刀を用いる必要もあるまい(小邑を治めるのに礼楽の大道を用いるまでのあるまい)」
言偃は「むかしわたくしは先生から『礼楽の道を学べば、君子は人を愛するようになり、小人は温順となって使いやすくなる』と承りましたが」と言うと、 孔子は「偃の言うことは正しい。さきほど私が言ったのは冗談にすぎない」と言った。
孔子は言偃を文学に習熟するものとした。
言偃は澹台滅明を登用した。
顕王(ケンオウ)【皇帝】
周王朝35代王。名は扁。烈王の弟。
B.C.364秦献公を賀し、献公は伯と称す。
B.C.360秦孝公に文・武の胙(文王・武王に供えた祭りの肉)を贈る。
B.C.351逢沢(孟津)で魏恵侯と会見する。
B.C.345秦孝公を賀し、孝公は伯と称す。
B.C.343魏恵王に文武の胙(文王・武王に供えた祭りの肉)を贈る。
B.C.336秦恵文君を賀す。
蘇秦が遊説に来て、顕王を説こうとしたが、側近の者は蘇秦を熟知していたので、軽蔑して相手にしなかった。
B.C.334秦恵文君に文武の胙を贈る。
蘇秦は合従を完成させその長となり、六ヶ国に同時に宰相となり、趙王に復命しようと、洛陽を通過した。顕王はこれを聞き、恐懼して沿道の人払いをし、 使者を郊外に出迎えさせてねぎらった。
B.C.324秦恵文君がはじめて王を称したことで、諸侯も王を称するようになる。
元王(ゲンオウ)【皇帝】
周王朝27代王。名は仁。敬王の子。〜B.C.469。在位8年で没す。
原過(ゲンカ)【文官】
趙毋卹の家臣。
B.C.457知伯・魏氏・韓氏が趙氏を討ち、晋陽を囲んだ。
原過は趙毋卹に従っていたが、遅れて王沢まで来た時、3人の人物に出会った。3人とも帯から上は見えたが、下は見えなかった。 彼らは原過に二節の長さの節のふさがっている竹を与え「わたしらのために、これを趙毋卹にお渡しください」と言った。
原過はこれを趙毋卹に渡した。そこには書があり「趙毋卹よ、わしは霍の太山の陽侯の大史である。3月丙戌の日、わしはなんじのため知氏を滅ぼそう。 なんじもまた、わしを百邑に立てよ。
またなんじに林胡の地を与えよう。後世に至って、なんじの子孫に英主が現れよう。河源を領して、休溷・諸貉にいたり、南は晋の別邑を討ち、 北は黒姑を滅ぼすことだろう」とあった。
B.C.456、3月丙戌の日、趙は韓・魏とともに逆に知伯を滅ぼし、その土地を分割した。
趙毋卹は原過に命じて霍の太山の祠の祀りをさせた。
元角(ゲンカク)【文官】
衛の臣。元咺の子。〜B.C.632。
B.C.632、4月、晋文公が楚を城濮で破り、践土で諸侯と会盟すると、 亡命中の衛成公は元咺に命じて、弟の叔武を同盟に参加させた。
ある人が讒言して「元咺は叔武を擁立した」と言ったので、元角は成公に殺された。
愆期(ケンキ)【文官】
周王朝の臣。成愆ともいう。単公の子。
愆期は周霊王の近習となった。
儋括が入朝したとき「ああ、この朝廷の権力を持ちたいものだ」と溜息をついた。 これを聞いた愆期は周霊王に讒言して儋括を殺すよう言ったが、周霊王は「子供には何も分かるまい」と問題にしなかった。
B.C.543、4月29日、儋括は蔿を攻め囲み、愆期は平畤に逃げた。
鍼宜咎(ケンギキュウ)【文官】
陳の臣。
B.C.549冬、陳人は慶氏の一味徒党を討ったので、鍼宜咎は楚に出奔した。
牽牛(ケンギュウ)【神】
罪により織女と別れ別れにさせられ、年に一度だけ7月7日に天の川が渡れるようになったら、天で会うことが許された。
日本でも七夕のひこぼしとして有名。
元君(ゲンクン)【王】
衛君(3(41)代目)。平侯の子。〜B.C.230。
B.C.262魏王の女婿であったので、魏に擁立される。
荊軻が元君を説いたが、元君はこれを容れなかった。
B.C.240秦が魏を討ち、衛は野王県に移され、東郡に編入される。ここにおいて事実上、衛は滅びた。
元咺(ゲンケン)【文官】
衛の臣。ゲンカンともいう。〜B.C.630。
B.C.632晋軍が衛に道を借りようとしたが、衛成公は許さなかった。また晋は宋を救うため衛から軍を徴発しようとしたが、 これも許さなかった。さらに成公が楚と通じようとしたので、元咺は成公を追放して、晋に釈明した。
4月、晋文公が楚を城濮で破り、践土で諸侯と会盟すると、成公は元咺に命じて、 弟の叔武を同盟に参加させた。
ある人が讒言して「元咺は叔武を擁立した」と言ったので、成公は元咺の子元角を殺した。しかし元咺は受けた命を守り、 叔武をもりたてて国を守った。
6月、晋との和解がなると、成公は帰国して衛を守っていた叔武を殺した。そのため元咺は晋に出奔して成公を訴えた。
冬、晋文公は衛成公を敗訴とし、衛成公の弁護人の士栄を殺し、 代理人の鍼荘子を足切りの刑に処したが、補佐役の甯兪は忠義者であるとして許した。 かくて成公は囚室にとじこめられ、元咺は公子を立てて君とした。
B.C.630晋文公は衛成公を暗殺しようとしたが失敗し、 周襄王と魯釐公の執り成しにより成公は帰国した。
元咺と公子瑕は衛成公の賄賂に動かされた周歂冶廑に殺された。
原憲(ゲンケン)【在野】
孔子の弟子。名は憲、字は子思。
魯の人、宋の人、斉の人ともいう。
原憲は孔子の家の宰となった。孔子は俸禄として穀物900を与えようとしたが、原憲は多すぎるとして辞退した。
B.C.479孔子の没後、原憲は草深い田舎に隠れた。
同門の子貢が衛の宰相となり、原憲を訪ねた。原憲はくたびれた衣冠を整えて子貢に会った。子貢はこの姿を恥知らずとして 「夫子はなんと病ではあるまいか」と言った。原憲は「わたしは『財産のない者を貧といい、道を学んで行えない者を病いという』と聞いております。わたしごときは、 貧ではあるが、病いではありません」と答えた。
子貢は慙愧に絶えず、やりきれぬ気持ちで去り、生涯自分の失言を恥じた。
献公(晋)(ケンコウ)【王】
晋公(2(4)代目)。名は詭諸。武公の子。〜B.C.651。
B.C.672驪戎を討ち、驪姫と驪姫の妹を手に入れ、二人を寵愛した。
B.C.671献公は桓叔荘伯の子孫たちが盛んになって公室を圧迫しているのを心配した。
士蔿「二族の中で最も勢力のある富子を去れば、あとの公子たちはどうにでもなります」
献公「それではお前がやってくれ」
そこで士蔿は公子たちと相談し、富子を殺した。
B.C.670士蔿が公子たちと相談して游氏の二公子を殺させた。士蔿は献公に「これでよろしいでしょう。2年経たないうちに、 君の心配はなくなるでしょう」と言った。
B.C.669士蔿は公子たちを利用して游氏の一族を皆殺しにさせ、聚に城壁を築いて公子らを住まわせた。
冬、献公は聚を攻め囲んで公子たちを皆殺しにした。
B.C.668春、士蔿を大司空に任じた。
夏、献公は士蔿に命じて絳に城壁を築いて都を移し、晋の宮殿を高大にした。
秋、虢が晋に攻め入ってきた。
冬、また虢が晋に攻め入ってきた。
B.C.667献公は虢を討とうとしたが、士蔿が「いけません。虢公は驕り高ぶっています。きっと民を捨てて顧みなくなるでしょう」と諌めたので、 献公は討伐を取りやめた。
B.C.666公子たちの一部が虢に亡命していたので、虢は晋を討ったが献公はこれを撃退した。
B.C.663驪姫が奚斉を生んだので、太子を廃嫡したいと思った。そこで「曲沃はわが先祖の宗廟があり、 蒲邑は秦の国境に近く、屈邑は翟に近い。子供らをここにおらせなくては危険でならない」と言って、 申生重耳夷吾を絳から出させた。
献公は驪姫と諸大夫に約束して諸公子たちを養わないようにし、これらを国外に出した。
B.C.661上下二軍を編成し、太子申生を下軍の将、趙夙を御者、畢万を右乗に任じた。
士蔿が申生を下軍の将に任じたことを諌めたが、献公は聴き入れなかった。
また献公は申生に命じて霍国を討たせてこれを滅ぼした。また献公は魏国、耿国を滅ぼし、太子のために曲沃に城を築き、趙夙には耿を、畢万には魏を賜って大夫とした。
B.C.660献公は申生に命じて東山を討たせた。里克に諌められたが、献公は聴き入れなかった。
B.C.658荀息が虢を討とうと考え、献公に屈の良馬4頭と玉を虞に贈り、道を借りることを願い出た。
献公「それは晋の宝であるから、与えることはできない」
荀息「もし虢を攻めることができたら、やがて虞を滅ぼすことができますので、国外の倉庫に預けるようなものです」
献公「虞には宮之奇という忠臣がいるから、うまくはゆくまい」
荀息「宮之奇は性格が弱く強く諌めることができません。また幼少から虞公と共に成長したので、馴れ合っています。虞公は諫言に従わないでしょう」
そこで献公は荀息に命じて道を借りさせた。すると虞公はこれを許したばかりではなく、晋軍の先に立って虢を攻撃すると言ってきた。
夏、荀息は里克とともに虞軍と協力して虢を攻撃し、下陽を攻め滅ぼした
B.C.656献公は驪姫の策略に乗せられ、申生に毒殺されると疑った。申生が新城へ出奔したので、 献公は怒って太子の傅の杜原款を誅殺した。
12月27日、申生は自殺し、重耳、夷吾はそれぞれの居城に出奔した。
重耳は蒲に出奔した。献公は「あの2人は暇乞いもしないで帰っていったが、やはり陰謀があったのだろう」と怒って出兵して蒲邑を討った。重耳は狄に出奔した。 また献公は屈邑も討ったが、夷吾が籠城したため降せなかった。
B.C.655献公は「わが先君荘伯・武公が晋の乱を鎮圧したとき、虢は常に晋を助けて、わが曲沃を討ち、 また晋の公子をかくまった。彼らは乱を起こすであろう。誅伐しなければ、のちのち子孫に憂いを残す」と言い、 郭偃に「虢を攻めるには、何月がよいか」と尋ねた。郭偃は「童謡に次のようにあります。 …明け方に鶉火星が南中して、わが軍の勝利が完成し、虢公が出奔する、と。鶉火星が南中するのは、9月と10月の間でしょうか」と答えた。
献公は再び虞に道をかりて虢を討った。
8月17日、献公は虢都の上都を攻め囲んだ。
12月、献公は虢を滅ぼした。虢公は周に出奔した。
献公は軍を引き上げる時、虞に宿泊し、そのまま虞を襲撃してこれを滅ぼし、 虞公と井伯百里奚を捕えた。
B.C.652賈華らを遣わし、屈邑を討ち、夷吾は出奔する。
B.C.651夏、葵丘の盟がひらかれたが、献公は病気のため行くことが遅れて、途中で周の太宰宰孔に出会い 「君は行かれる必要はありません。斉侯はその功を誇り、恩恵と功績とを務めて、徳を務めません」と言われた。 再び病気になったので、また引き返した。
荀息を宰相に任じ、奚斉を後継ぎにした。
献公は国を合併させること17、国を降服させること38、戦って12勝した。
9月11日、没す。
献公(斉)(ケンコウ)
呂山
献公(魯)(ケンコウ)【王】
魯公(7代目)。名は具。厲公の弟。〜B.C.856。
B.C.887厲公が没すると、国人に擁立される。
献公(燕)(ケンコウ)【王】
燕公。〜B.C.465。
B.C.493即位する。
献公(衛)(ケンコウ)【王】
衛公(13(23)代目)。名は衎。衛定公の子。母は敬姒。〜B.C.544。
B.C.577、9月、衛定公は病気になった。 そこで衛定公は孔成子甯恵子に命じて公子衎を太子と定めた。
10月16日、衛定公が没した。しかし公子衎は悲しそうな態度をしなかった。 そのため衛定公の夫人定姜は憤慨のあまり食事もとらず歎いて 「この者は衛の国を乱し、このわたしを手始めに無礼をはたらくであろう」と言った。衛の大夫たちはこれを聞いて、恐れない者はなかった。
B.C.576公子衎は即位した。
2月、献公は定公を葬った。
3月12日、献公は晋厲公・魯成公・鄭成公・ 曹成公・宋の世子成・斉の国佐・邾人と戚で会合し、 曹成公の罪を正した。
6月、楚は鄭に攻め入り、勢いに乗じて衛の首止まで攻め込んできた。
11月、孫文子は晋の士燮・魯の叔孫喬如・ 斉の高無咎・宋の華元・鄭の公子鰌・邾人と鐘離で会合し、呉王寿夢と会合した。
B.C.575献公は鄭を討って、鳴鴈まで攻め込んだ。
鄢陵の戦いの翌日、献公は都を出発して晋軍を見舞おうとした。
秋、献公は晋厲公・魯成公・斉霊公・宋の華元・邾の人と宋の沙随で会合し、鄭を討つ相談をした。
7月24日、鄭の子罕に夜襲をかけられ、衛・宋・斉の陣地は乱れて潰滅した。
B.C.574、1月、鄭が晋の虚と滑に攻め入った。献公は晋を助けるために北宮括に命じて鄭を討ち、鄭の高氏まで攻め入った。
夏、献公は晋厲公・魯成公・斉霊公・宋平公・曹成公・尹武公・ 単襄公・邾人と会合して鄭を討ち、戯童から曲洧まで侵攻した。
6月26日、諸侯は鄭の柯陵で同盟し、戚の盟い(B.C.576)を温めた。
冬、献公は晋・魯・斉・宋・曹・単・邾とともに鄭を討った。
10月13日、諸侯は鄭を包囲した。楚軍が鄭を助けるため汝水に陣を敷いた。
11月、諸侯は軍を引き上げた。
B.C.573、12月、献公は晋悼公・魯の孟献子・宋平公・ 邾宣公・斉の崔杼と虚朾で会合して同盟した。
B.C.572、1月、献公は諸侯とともに彭城を討ち、これを降した。
冬、衛の子叔は晋の智罃とともに魯を訪問し、従来の友好をつなぎ、諸事を相談した。
B.C.571、6月、献公は甯恵子に命じて晋と宋とともに鄭を討った。
7月、献公は孫文子に命じて諸侯と衛の戚で会合させ、鄭を討つ相談をした。
冬、献公は孫文子に命じて諸侯と衛の戚で会合させ、虎牢に城を築いた。そのため鄭は諸侯と和睦した。
B.C.570、6月23日、鄭が服従したので献公は晋悼公・単頃公・宋平公・鄭釐公・ 莒の君・邾の君・斉の公子と会合し、鶏沢で同盟し、呉と仲良くしようとした。
B.C.568晋が衛と魯に命じて、さきに呉と会合させ、諸侯との会合の日取りを呉に伝えさせることとした。そのため献公は孫文子を魯の孟献子とともに呉に行かせ、 呉の善道で会合させた。
B.C.566秋、魯の季武子が衛に来聘して、子叔の来聘に対する返礼を行い、返礼が遅れたことを弁解した。
10月、献公は孫文子に命じて魯を訪問させ、魯と盟った。
B.C.565、5月7日、晋悼公は諸侯の大夫を邢丘に会合させ、晋に朝聘すべき回数を命じた。衛からは甯恵子が参加した。
B.C.564、10月、諸侯が鄭を討った。献公は北宮括に命じて鄭を攻めさせた。
献公は楽人に命じ、妾に琴を教えさせたが、曹が妾を鞭打ったので、献公もまた曹を300回鞭打った。
閏12月、魯襄公が衛を訪れて、衛成公の廟で元服の式を行った。
B.C.563、4月1日、献公は晋悼公、宋平公、魯襄公、曹成公、莒の君、邾の君、滕の君、薛の君、杞孝公、小邾の君、 斉の公子光、呉王寿夢と楚の柤で会合した。
夏、諸侯は偪陽を討った。
5月8日、諸侯は偪陽を滅ぼした。
6月14日、楚・鄭軍が宋の都を囲んで桐門(北門)に攻め入った。献公は宋を救うために衛の襄牛まで軍を進め、鄭軍を破った。 鄭の皇耳がこれを迎え撃って衛に攻め入ってきた。孫文子がこれを討ち、 孫蒯は皇耳を鄭の犬丘で捕らえた。
献公は晋悼公、魯襄公、曹成公、莒の君、邾の君、斉の公子光、滕の君、薛の君、杞孝公、小邾の君とともに鄭を討った。
9月25日、諸侯の軍は鄭の牛首に進撃した。
B.C.562、4月、献公は晋悼公、宋平公、魯襄公、曹成公、莒の君、邾の君、滕の君、薛の君、杞孝公、小邾の君、 斉の公子光と会合して鄭を討った。孫文子は鄭の北境まで攻め入った。
9月、献公は再び諸侯と共に会合して鄭を討った。
B.C.559春、呉が楚と戦って大敗したことを晋に告げてきた。 献公は北宮活に命じて晋・魯・宋・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と向で会合させた。
4月、衛は晋・魯・宋・斉・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾とともに秦を討った。
献公は孫文子と甯恵子に一緒に食事をしようと誘ったが、日が暮れてもふたりを召さずにおおとりを林で射ていた。孫文子と甯恵子がそこへ行くと、 献公は挨拶もせずに話しかけた。ふたりはその無礼さに腹を立て、孫文子は私邑の戚に退き、子の孫蒯を参上させた。 献公は大師に「巧言」を歌わせて孫文子が謀叛を企てていると言おうとしたが、大師は辞退した。孫蒯はその意味を知って大いに恐れ、 孫文子に報告した。献公は子蟜子伯子皮ら公子に命じて孫文子と丘宮で盟わせて仲直りしようとしたが、孫文子はこの3人を殺した。
4月26日、子展が斉に出奔した。
献公は衛の鄄に逃れ、公子子行を孫文子に遣わして和議を申し入れたが、孫文子はまたもこれを殺した。そこで献公は斉に出奔した。 その途中に孫文子に追撃され、阿沢で討ち破られた。
斉霊公はライの地に献公を住まわせた。
魯の臧武仲がライにやってきてお見舞いした。献公のことばが暴虐であったため、臧武仲は「衛君はきっと帰国できないだろう。 彼のことばは道理がなく、けがらわしい」と言った。子展と子鮮はこれを聞いて臧武仲と話をしたが、 ふたりの言葉は道理にかなうものであった。臧武仲はよろこんで「衛君はきっと帰国するだろう。あのふたりが君を補佐している」と言った。
衛人は公孫を擁立し、孫文子と甯恵子がこれを補佐した。
B.C.548諸侯が会合し、晋平公は靖に逃れていた献公を斉から迎えようとした。斉の崔杼は献公の妻子を人質に斉に留め置いて、 衛の五鹿の地をもらおうとした。
秋、献公は夷儀に入った。
冬、献公は夷儀から使者を遣わして甯喜に国に帰りたいと伝えると、甯喜はこれを承諾した。
B.C.547献公は子鮮に命じて帰国の策を立てさせようとしたが、辞退された。そこで敬姒が子鮮にお願いしたので、子鮮は承諾した。 子鮮は甯喜と相談して策を立てた。
2月7日、甯喜は衛殤公とその太子を弑した。
2月10日、献公は衛に入り、復位した。献公は国境まで出迎えた大夫に対しては手を取って共に話し合い、都までの道路で出迎えた者に対しては車中から会釈し、 都の門で出迎えた者に対してはうなずくだけであった。
献公は都に着くと大叔儀を責めて「わたしは長い間、国外で難儀したが、お前だけはわたしを心にかけてくれなかった。 わたしはお前を恨みに思う」と言ったので、大叔儀は国外に亡命した。そこで献公はこれを引きとめた。
孫文子が謀叛したので、献公はその私邑の戚の東を討った。しかし孫文子は晋の援助を受けて衛を圉で討ち破った。
6月、晋・魯・宋・鄭・曹が澶淵で会合して衛に攻め入り、戚の境界を正し、衛の西境の懿氏という地60邑を取り上げて孫氏に与えた。 甯喜と北宮遺が晋に捕えられた。そこで献公は晋に出かけると捕らえられて士弱の家に幽閉された。
7月、斉・鄭がこれを諌めたため、晋平公は献公を帰すことにした。
衛人が娘を晋平公に嫁がせたので、晋平公は献公を衛に帰した。
B.C.546春、晋の胥梁帯烏余を捕らえて、斉・魯・宋・衛が奪われた土地を返還した。
甯喜が専権したため、献公は心配した。公孫免余が甯喜を殺すことを進言したが、献公は「甯子がいなければ今日はなかった。 彼を殺せば悪評が立つ。よしなさい」と言った。公孫免余は「わたしがやりましょう。君にはご存知ないということに」と言って、 公孫無地公孫臣と相談して甯氏を攻めたが、勝てずにふたりは戦死した。
夏、公孫免余は再び甯氏を攻め、甯喜と右宰穀を殺して役所にさらした。子鮮が晋に出奔した。献公は止めさせたが、子鮮は聴かずに晋の木門に出奔し、 衛の国に向って座ろうとはしなかった。
献公は公孫免余に60邑を与えたが、公孫免余は辞退して30邑だけを取った。そこで献公はこれを卿に任命しようとしたが、公孫免余は大叔儀を推薦したため、 献公は大叔儀を卿に任命した。
宋の向戌が晋と楚を和睦させようとして諸侯を集めたため、献公は石悪を遣わして諸侯と会合させた。
B.C.545衛人は甯氏の仲間の罪を責め正したため、石悪は晋に亡命した。そこで衛人は石圃を立てて石氏の祀りを守らせた。
B.C.544、5月5日、献公は子鮮が没したため、その喪に服してやがて没した。
献公(鄭)(ケンコウ)【王】
鄭公(17代目)。名は蠆。定公の子。〜B.C.501。
B.C.514、4月14日、鄭定公が没したため、公子蠆は代わって立った。
6月、献公は鄭定公を葬った。
B.C.510、11月、国参が晋・魯・宋・斉・衛・曹・莒・杞・薛・小邾と会合して成周に城壁を築いた。
B.C.506、3月、献公は劉文公の召集を受け、晋定公・魯定公・ 宋景公・衛霊公・蔡昭侯・ 陳懐公・許の君・曹隠公・莒の君・邾の君・頓の君・胡の君・滕の君・ 杞悼公・小邾の君・斉の国夏を楚の召陵に集めて楚を討つ相談をした。
会盟が終わって帰る途中、子大叔が没した。
冬、楚の子常が戦に敗れて鄭に亡命してきた。
B.C.504、1月18日、献公は游速に命じて許を滅ぼし、許の君を連れて帰った。
2月、魯に攻められて匡を取られた。これは鄭が周の胥靡を討ったことを責め正したものである。
夏、鄭人は周の儋翩を援助して、子朝の一味に周で騒動を起こそうとした。そこで鄭は馮・滑・胥靡・負黍・狐人・闕外の周の邑を討った。
6月、晋の閻没が周を守り、さらに胥靡に城壁を築いた。
B.C.503秋、献公は斉景公と衛霊公と衛の鹹で盟った。
B.C.501子然鄧析を殺してその刑法を採用した。
4月22日、献公は没した。
6月、献公は葬られた。
献公(秦)(ケンコウ)【王】
秦公(24(29)代目)。霊公の子。〜B.C.364。
B.C.418霊公が没すると、子の献公は立つことが出来ず、悼子が立った。(簡公)
B.C.388庶長が出公を弑し、献公を河西から迎えて位につける。
秦はしばしば君を代えたので、君臣の間が離反し、晋に河西を奪われる。
B.C.387殉死を禁じる。
B.C.386櫟陽に城を築いて、都を移す。
B.C.384正月庚寅の日、孝公を生む。
B.C.380献公は魏とともに韓を討った(南梁の戦い)。楚・趙は韓を援けた。
B.C.377周の太史が献公にまみえ「周はもと秦といっしょになっていたが、その後別れて500年でまたいっしょになった。 今後17年経つと、覇王が出ましょう」と言った。
B.C.371桃の花が冬に開いた。
B.C.369櫟陽に金の雨が降った。
B.C.367晋と石門山で戦い、首級六万を挙げた。
顕王は黼黻の衣服(古代の礼服)を賜うて慶賀した。
B.C.365晋と泗・少梁で戦い、晋将公孫座を虜にした。
B.C.364周顕王から許され伯と称す。
献公(単)(ケンコウ)【王】
単公。周王朝の卿士。
B.C.535、10月21日、献公は親類を見捨てて他国から来た人を用いたため、 単襄公と単頃公の一族に殺され、その弟の単成公が立てられた。
献公(劉)(ケンコウ)【王】
劉公。名は摯。周王朝の卿士。〜B.C.520。
B.C.529、7月、晋人は諸侯と再び盟約しようとしたが、斉人が承知しなかった。そこで晋の叔向が献公に相談した。 献公は「盟いはそれによって誠信をしめすものです。晋君に誠信があるなら、諸侯は二心を抱くものではありません。 斉に対して鄭重な言葉で申し入れてから武力でその不正を正すなら、斉が聴き入れなくても晋君の功績は多いことになります」と答えた。 そこで叔向はその通り斉に申し入れると、斉は承諾した。
B.C.520、4月22日、没す。
献公(薛)(ケンコウ)【王】
薛公。〜B.C.511。
B.C.511、4月3日、献公は没した。
秋、献公は葬られた。
献侯(晋)(ケンコウ)【王】
晋侯(7(8)代目)。名は籍。釐侯の子。〜B.C.813。
B.C.824即位する。
献侯(趙)(ケンコウ)【武官】
趙の先祖。晋の臣。名は浣。代王趙周の子。〜B.C.410。
趙毋卹は兄伯魯に代わって立ったので、わが子を立てようとせず、なんとか位を趙周に伝えたいと思った。
しかし趙周は先立って死んだので、浣を太子とした。
B.C.430趙毋卹が没すると、浣は若くして立ち、中牟で政をとった。
趙桓子に追放され、位を失う。
B.C.429趙桓子が没すると、国人は「桓子の立ったのは、襄子の本意にもとる」と言って、ともに桓子の子を殺し、また浣を迎え入れて位に立てた。
B.C.414中山国の武公がはじめて立った。
B.C.412代の平邑に城を築く。
憲公(ケンコウ)【王】
秦公(3(8)代目)。竫公の子。B.C.726〜B.C.704。
B.C.718竫公が没したので、憲公が太子に立てられる。
B.C.716文公が没し、代わって立つ。
B.C.714居を平陽にうつす。
兵を出して蕩を討った。
B.C.713西戎の亳王と戦い、これを破り、蕩社を滅ぼす。
B.C.708憲公は芮を攻めたが、憲公は芮を小国とあなどっていたので敗れた。
冬、憲公は周桓王とともに魏を討ち、魏に亡命していた芮伯を捕えた。
B.C.704蕩氏を討ってこれを取った。
この年に没して、岐の西山に葬られる。
元公(魯)(ゲンコウ)【王】
魯公(27代目)。名は嘉。悼公の子。〜B.C.410。
元公(宋)(ゲンコウ)【王】
宋公(25代目)。名は佐。宋平公の子。〜B.C.517。
B.C.538夏、諸侯が楚の申で会合した。公子佐は会合に遅れて到着した。楚霊王は武城の地で狩をしていたため公子佐と面会しなかったが、 楚の伍挙が代わりに公子佐にあいさつした。
7月、楚は諸侯を率いて呉を討った。公子佐は先に帰国し、代わりに華費遂が楚王に従って呉を討った。
B.C.537公子佐は宋平公の宦官を憎んでおり、華合比とこれを除くよう相談した。 そこで柳は宋平公に華合比を讒言したため、華合比は追放された。
B.C.532、12月、宋平公が没した。公子佐はその喪に服することになったが、宦官柳は喪礼を行う場所を炭火で暖めておき、公子佐が来る時には除いておいた。 そのため宋平公の葬儀を行うころには、公子佐は柳を寵愛するようになった。
B.C.531秋、華亥が晋・魯・斉・衛・鄭・曹・杞と厥憖で会合し、楚に攻められている蔡を救う相談をした。
B.C.530夏、元公は華定に命じて魯を聘問させ、後を継いで即位したことを告げた。
宋の泉陽の漁夫予且が亀を捕らえた。夜半、泉陽に来ていた元公は夢で亀を見て「わたしは江神のために河神のもとに使いに行く途中、 網にかかって予且という者に捕らえられました。どうか助けていただきたい」とあった。元公は恐ろしくなり、博士衛平に問うた。 衛平は式(占い道具)をとって立ち上がり、占って亀を捜し求めるよう進言した。元公は「よろしい」と言って、予且を捜し出し、亀をひきとったが、 神霊あらたかとして殺して占いにつかった。
B.C.529、8月8日、元公は晋・劉・魯・斉・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾と平丘で同盟した。
B.C.524宋に火災があった。
B.C.523、2月、向寧が鄅のために邾を討つようお願いした。そこで元公は邾を討って虫邑を攻め囲んだ。
3月、宋軍は虫邑を占領した。そこで邾は前年に捕らえた鄅の捕虜を全部鄅に返した。
B.C.522、3月、楚の公子が宋に亡命してきた。
元公は信義がなく、華氏や向氏を嫌っていた。そこで華定・華亥向寧と相談して 「座して死を待つより、乱をおこして逃げるほうがましだ」と言った。そこで華亥は病気になったと偽って、見舞いにきた公子たちを捕らえた。
6月9日、華亥は公子・公子御戎・ 公子・公子公孫援公孫丁を殺し、向勝向行を米倉に閉じ込めた。 元公は何も知らずに華氏の家に行って公子たちを釈放してほしいと申し出たが、逆に脅迫された。
6月16日、華亥は太子と公子・公子を人質として取り、 元公もそれと交換に華亥の子華無戚と向寧の子向羅、 華定の子華啓を受け取り、華氏と盟った。
元公の一味である楽舎公孫忌・公子向宜向鄭司馬彊・楚の太子建・ 小邾の公子申が鄭に出奔した。これらの家来が華氏と鬼閻で戦ったが、八公子の家来たちは敗れ、公子城は晋に出かけて救いを求めた。
元公は華費遂に依頼して華氏を攻めようとした。華費遂は「わたしは死を厭いませんが、公子たちが殺されることを恐れます」と答えたが、 元公は「子たちが死ぬも生きるも天命です。わたしはこの恥辱に耐えられないのだ」と言った。
10月、元公は華氏・向氏の人質を殺して二氏を攻めた。
10月13日、華・向の二氏は陳に逃げ、華登は呉に逃げた。華亥は「君に背いて逃げ、 そのうえ君の子を殺しては誰もわれわれを迎えてくれないであろう」と言って、華牼に命じて公子たちを送り返した。 華牼は公子を送り届けて、そこから立ち去ろうとした。元公はあわてて華牼に会い、その手を取って「わたしはお前に罪のないことがわかりました。 前の役に戻ってくれ」と言った。
B.C.521華多僚華貙を讒言して「貙は国外に逃れている者を入れようとしています」 とたびたび言った。元公は「お前の父(華費遂)はわたしのためによい子(華登)を国外へ逃がした。 わたしはまたその子(華貙)を逃がすようなことはできない」と言うと、華多僚は「わが君が司馬(華費遂)を愛されるなら、お逃げになることです」と答えた。 そこで元公は追放されることを心配して華費遂の側役の宜僚を呼び寄せて華貙を追い払うよう華費遂に告げさせた。 かくして元公は華費遂と相談して華貙を追放することになり、孟諸で狩りをしてそこから追放することにした。
5月15日、華貙は出発するとき華多僚が華費遂を車に乗せているのに出会った。華貙の家来の張匄が華多僚を殺し、 華費遂をおどして謀叛を起こし、国外に逃れている人を呼び寄せた。
5月21日、華亥・向寧が国に戻った。楽大心豊愆華牼がこれを横で防いだ。入国した華亥は南里の人々を率いて謀叛を起こした。
6月29日、宋では故城の旧鄘に城壁を築き、そこから外城の桑林の門にかけて守備を固めた。
10月、華登が呉軍を率いて華亥を助けにきた。
10月17日、宋都を守っていた斉の烏枝鳴は宋軍とともに呉軍を鴻口で破り、 公子偃州員ガンを捕虜にした。
華登が残兵を率いて宋軍を破ったため、元公は恐れて逃げようとした。料理人のがこれを諌め、 烏枝鳴が決死の覚悟で戦うと言うと全軍がこれに従った。宋軍は華登の軍を討ち破り、追撃して新里でさらに破った。
11月4日、宋の華氏が反乱を起こしたため、中行呉が宋の公子城、曹の翰胡、斉の苑何忌、衛の公子朝と会合して宋を助けた。
11月7日、諸侯の軍は華氏と宋の赭丘で戦い、大いにこれを破り、南里に包囲した。
B.C.520、2月、楚の蔿越が使者を遣わしてきて「君にはよからぬ臣があると聞いております。 わが君がその者をもらい受けて処罰させていただきましょう」を申し入れた。元公は「ご主君にはどうしても臣を助けるとの仰せでしたら、 そのとおりにして下さい。ご主君がもしわが国を助けて下さるというなら、謀叛人を助けることはなさらぬようにして下さい」と返事をした。 しかし諸侯の大夫たちが華氏を送り出すよう固く請うたため、宋人はその意見に従った。
2月23日、華亥・向寧・華定・華貙・華登・皇奄傷省臧士平が楚に出奔した。
元公は公孫忌を大司馬に、辺卭を司徒に、 楽祁を司城に、仲幾を左師に、楽大心を右師に、楽輓を大司寇に任命して、国の人々を安定させた。
B.C.517春、魯の叔孫婼が来聘した。元公は宴を開いて叔孫婼をもてなした。 叔孫婼は季孫のために宋公の娘を迎えたいと言った。翌日、酒宴を設けて楽しんだが、元公と叔孫婼は語り合っているうちに互いに泣いた。 宋の楽祁は「今年、わが君と叔孫はともに亡くなるであろう。楽しむべきことを悲しみ、悲しむべきことを楽しむのは、どちらも本心を失っています。 魂魄がその身を去ってしまったら、どうして長らえることができよう」と言った。
魯が元公の娘を季平子に嫁がせようとして季公若を遣わしていたが、 逆に季公若は曹氏に「与えなさるな。魯では季平子を追放しようとしています」と言った。元公は曹氏からこの話を聞き、 さらに楽祁に話すと「与えなさい。逆に魯君が国を出ることになりましょう」と言った。
夏、楽大心が晋・魯・衛・鄭・宋・邾・滕・薛・小邾と黄父で会合し、王室の乱について相談した。
11月、元公は斉に亡命した魯昭公を魯に入れることをお願いするため晋に出かけようとした。そのとき元公は自分が死ぬ夢を見た。 仲幾が「親しい方々との酒宴などをお控えください」と言ったが、元公は直ちに晋に出かけた。
11月13日、元公は曲棘で亡くなった。
元侯(ゲンコウ)【王】
蔡侯(23(6)代目)。声侯の子。〜B.C.451。
B.C.457即位する。
弦高(ゲンコウ)【在野】
鄭の商人。
B.C.627秦が鄭を討とうとして、滑国まで進んだ。弦高は周で商売をしようと出かけてちょうど秦兵に出会った。 彼は鄭繆公の命令だと偽って牛12頭を献じたため、秦は鄭を討つことを取りやめ、 滑を滅ぼして引き返した。
原公(ゲンコウ)【文官】
周王朝の卿士。
晋の士会が周を聘問したとき、原公は士会の介添役をした。
玄囂(ゲンゴウ)【神】
黄帝の長男。少昊ともいう。青陽と号す。
彼の後裔はキョに封じられる。
原亢籍(ゲンコウセキ)【在野】
孔子の弟子。
玄妻(ゲンサイ)【女官】
有仍氏の女。楽正后の夫人。
玄妻は髪は黒々として容姿も大変美しく、そのかがやきは鏡として物を写すことができるようであったという。玄妻は夔の妻となり、 伯封を生んだが、彼は貪欲であり、夔の国は有窮の后羿に滅ぼされた。
涓子(ケンシ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
斉の人。300歳に達したとき『天人経』48篇を著した。
宕山に隠れ住んだが、よく風雨を喚び起こすことができ、伯陽九仙法という術を伝える。
建疵(ケンシ)【女官】
帝嚳の夫人。簡狄とは姉妹。
有娀国の公主であった。
献子(ケンシ)
献侯
蹇修(ケンシュウ)【神】
伏犠の臣。
蹇修が宓妃の求婚の申し入れのことを司ったので、現在でも媒人(仲人)のことを蹇修という。
原寿過(ゲンジュカ)【文官】
周王朝の臣。
B.C.509、1月、晋の魏献子は原寿過と晋の韓簡子に城普請をまかせて大陸に狩りに行った。
蹇叔(ケンシュク)【宰相】
秦の宰相。
B.C.653百里奚は秦繆公に登用されると謙遜して「わたくしはわたくしの友蹇叔に及びません」 と蹇叔を推挙した。
百里奚は「わたしが斉で飢えたところを彼は救い、わたしが斉君に仕えようとすると、彼はそれを止めたので、斉の難を逃れることが出来ました。周の王子頽は牛が好きで、 わたしはよく牛を育てることができたので仕官を求めたとき、蹇叔はまた止めました。そのため誅殺を免れたのです。その後、虞君に仕えましたが、 この時は蹇叔のことを聴かなかったため、虞君の難にあったのです。わたしは蹇叔の賢明なことを知っています」と言った。
繆公は人をやって礼物を厚くして蹇叔を迎え、上大夫にした。
B.C.628冬、鄭人で鄭国を秦に売る者があり「自分が鄭の城門を司っているので、鄭を襲うのがよろしい」と言った。繆公は百里奚・蹇叔に相談した。百里奚は「数ヶ国をこえ、 千里の遠方に人を襲って、利益を得たものはありません」と言ったが、繆公は「おまえらはわからないのだ。わしはもう決めている」と言い、 百里奚の子孟明視・蹇叔の子西乞術白乙兵を将として出発した。
百里奚と蹇叔は哭き、子らに「もしおまえらの軍が敗れるなら、きっと殽の険であろう」と言った。
B.C.627春、秦軍は殽で晋に破られ、三将は捕えられる。
巻章(ケンショウ)【神】
楚の先祖。の子。
弦章(ゲンショウ)【文官】
斉の臣。
景公が酒を7日7夜飲んでいたため、たまりかねてこれを諌めて「酒を廃せずんば我に死を賜え」と言った。 景公は諫言に従えば臣下の言いなりになるし、従わなければ弦章に死を命じなければならないので、悩んで晏嬰にはかった。 そして晏嬰の言により酒を断った。
県成(ケンセイ)【在野】
孔子の弟子。字は子祺。
厳清(ゲンセイ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
会稽の人。あるとき誰とも知れぬ人と語り合い、別れるとき一巻の書を与えられた。厳清はそれを見て術を会得し、霍山に入って仙人となった。
鍼荘子(ケンソウシ)【文官】
衛の臣。
B.C.632冬、衛成公叔武を殺したことについて、 元咺と言い争いをして晋に裁きを求めた。 衛成公が敗訴となったので、晋文公は衛成公の弁護人の士栄を殺し、 代理人であった鍼荘子は足切りの刑に処せられた。
献則(ケンソク)【在野】
戦国時代の説客。
魏の人。
献則は秦の公孫消に「公は功労を立てておられるのに丞相となられないのは、 宣太后の好意を得られていないためです。羋戎は宣太后と親しい人ですが、 今、楚から逃げ出して東周におられます。公は羋戎を周の宰相にさせるべきです。楚はきっとそれを好都合と考えられますし、 宣太后もきっとお喜びになりましょう。そうすれば公も宰相に抜擢されることは間違いありません」と進言した。
厳仲子(ゲンチュウシ)【文官】
韓の臣。濮陽の人。
厳仲子は韓列侯に仕え、宰相俠累と仲違いして出奔し、 諸方に遊んで俠累に復讐できる人を捜しながら斉に来た。
ある者が聶政を推挙したので、厳仲子は面会して交際を求めた。そして黄金百鎰を贈ろうとして 「わたしには仇があるので諸国を遊行しているのです。百金は母堂のためにお使いください」 と言った。聶政は「今、屠殺をしているのも、ただ老母を見送りたいからで、母が在世するかぎりわたしの身体は人に捧げられないのです」と答えた。 しかし厳仲子は最後まで主客の礼をつくして去った。
B.C.397聶政は厳仲子の元にやってきた。厳仲子は聶政につぶさに事情を説明して、復讐を依頼した。そして聶政は俠累を刺し殺した。
原伯(ゲンハク)【公子】
周の公子。周文王の第16子。
原伯の子孫は原を氏とした。
文王の第16子は鄷侯であるともいい、はっきりしない。
原伯魯(ゲンハクロ)【文官】
周王朝の臣。
B.C.524秋、原伯魯は曹平公の会葬に出かけて魯人と話したが、学問を好まない様子であった。 このことを聞いた魯の閔子馬は「周はきっと乱れるであろう。下々の風潮が在位者にも及んだのだろう」と言った。
B.C.513、3月13日、原伯魯の子は敬王に殺された。
原伯(ゲンパク)【文官】
周王朝の臣。
B.C.636翟人の来襲により殺される。
原繁(ゲンハン)
玄武(ゲンブ)【神】
北方の神であり、亀のような蛇の姿をしている。
また28宿のうち北方を玄武という。
黔牟(ゲンボウ)【王】
衛公(6(16)代目)。公子の弟。
B.C.696左公子右公子が反乱を起こして、黔牟は衛君に擁立された。
B.C.695秋、黔牟は魯・宋とともに邾を討った。
B.C.691、1月、斉と魯の公子に攻められる。
B.C.689冬、斉・魯・宋・陳・蔡に攻められる。
B.C.688、1月、周の子突が衛の乱を治めて、6月に恵公が衛に入ったので、 黔牟は周に出奔した。
玄冥(ゲンメイ)【神】
帝顓頊の補佐神。


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