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平(舒)(ヘイ)【王】
舒の君。
B.C.615夏、舒は楚に背いた。そのため楚の令尹成嘉に攻められ、平は宗の君とともに捕えられた。
平(楚)(ヘイ)【公子】
楚の公子。~B.C.582。
B.C.582、11月、楚は莒を討ったが、渠丘を攻め取る時に公子平は莒に捕えられて殺された。
丙(ヘイ)【公子】
楚の公子。~B.C.597。
B.C.597冬、楚荘王は蕭を攻めた。公子丙は熊相宜僚とともに蕭に捕えられた。 荘王は「退却するので殺さないでくれ」と申し入れたが、公子丙は殺されてしまった。荘王は立腹してただちに蕭を攻め囲み、これを滅ぼした。
邴意玆(ヘイイジ)【文官】
斉の臣。秉意玆とも書く。
B.C.497春、斉景公は衛が晋を討ったため垂葭に軍を進めた。いよいよ軍を進めて黄河を渡ろうとすると、 大夫たちが反対した。しかし邴意玆がひとりだけ「問題ありません。河内を討ったら宿継ぎの早馬がきっと数日で絳に着いて危急を告げるでしょう。 しかし絳からは3ヶ月も経たなければ晋軍は河内に着くことができません。その間に我々は精鋭の軍をもって事をやり終え、黄河を渡って国に帰りましょう」と進言したため、 河内を討つこととなった。斉景公は見せしめとして反対した大夫たちの車を全部取り上げ、邴意玆だけ車に乗ることを許した。
B.C.489、8月、田乞鮑牧の乱により国氏・高氏の一味である邴意玆は、 魯に亡命した二氏とともに魯へ逃げた。
秉意玆(ヘイイジ)
邴意玆
蓱翳(ヘイエイ)【神】
雨師。雨の神。蓱号ともいう。
また天神の使ともいう。
平王(周)(ヘイオウ)【皇帝】
周王朝13代王。名は宜臼。幽王の子。母は姜氏。~B.C.720。
B.C.774一度太子となったが、幽王の寵愛を受けた褒姒が王后になったため、太子を廃される。
B.C.770幽王戦死後、申侯・魯孝公・許文公に擁立され即位して成周に遷都する。 遷都の際、秦襄公が兵を出して平王を送ったので、襄公を諸侯として岐山以西の地を賜る。
宗周には携王が即位しており、ここに周は二分される。
B.C.759虢季子白に命じて、儼狁を討ち、洛水の北において敵の首を斬ること500、獲得した捕虜は50であった。
また西周の携王を討ち、これを滅ぼして周を再び統一する。
平王の時代に周王室は衰え、諸侯の強いものは弱いものを併せ、天子は天下の政治を司ることができなくなった。この代から東周と呼ばれる時代になる。
B.C.722、7月、平王は宰咺を遣わし、魯恵公仲子の葬礼に用いる車馬を贈った。
しかし恵公の葬式の前に間に合わず、喪主を弔問しても悲しみを表さず、さらに生存している仲子に対して死亡した時の贈り物を前もって贈ったので、 礼に背いたとそしられた。
10月、衛が鄭の内乱に介入し、鄭が周に救援を求めたので、平王は援軍を送った。
平王は鄭武公荘公を卿士としていたが、虢公に政権を与えようとした。 そのため鄭荘公は平王を恨んだ。そこで平王は「そんなことはない」と言い、互いに人質を取り交わし、王子を鄭に出した。
B.C.720、3月25日、没す。
平王(楚)(ヘイオウ)【王】
楚王(11(27)代目)。蔡公。名は弃疾。恭王の末子。~B.C.516。
公子弃疾は蔡の郹陽の国境を守る役人の娘と正式な婚礼をせずに公子を生んだ。
B.C.538、8月、公子弃疾は呉の朱方を討ち、慶封を捕え、楚霊王の命で彼を殺した。
冬、楚霊王は許国を頼に移そうと考え、公子弃疾と闘韋亀に命じて許のために城壁を築かせた。
B.C.536夏、公子弃疾は晋に出かけて前年に韓宣子が公女を送って楚に来たことに対するお礼をした。 公子弃疾は鄭に立ち寄ると、 子皮子産子大叔の慰労を受けた。 公子弃疾は辞退したが、ぜひにと申したので面会したが、 公子弃疾の鄭簡公にまみえる作法は楚王にまみえるときと同様にうやうやしいものであった。 子皮らはみな公子弃疾が楚王になるであろうと思った。
B.C.534、3月、陳の公子と公子悼太子を殺して公子を太子に立て、 さらに陳哀公を攻め囲み、陳哀公が自殺した。そのため公子が公子招を楚に訴えてきた。
9月、公子弃疾は軍を率いて公子を奉じて陳の都を包囲した。
10月18日、公子弃疾は陳を滅ぼした。
B.C.533、2月、公子弃疾は許を夷に移した。夷には耕地が少なかったため、州来と淮水以北の耕地を割いて夷につけ加えた。
B.C.531楚霊王は蔡霊侯を殺して、公子弃疾に命じて蔡を攻め囲んだ。
11月、公子弃疾は蔡を滅ぼし、蔡公に任じられた。
B.C.529春、蔡の臣観従の策謀で公子弃疾は公子と盟約して叛乱を起こした。 公子弃疾は須務牟史ヒに命じて先に都に入らせ、 太子の侍従長を使って太子と公子罷敵を殺した。 叛乱軍は都に入り、公子比は王となり、公子弃疾は司馬に任じられた。公子弃疾は真っ先に王宮に入って宮殿を掃除し、 観従を使者として乾谿に出陣している楚霊王のところに赴かせ、その軍の将士に「急いで帰る者にはもとの地位と禄を与えよう。遅れる者は鼻切りの刑に処す」とふれさせた。 そのため楚霊王の軍は都へ帰ったが、将士の心は乱れて訾梁まで帰ると潰滅した。
5月18日夜、そのころ都では楚霊王が帰ってきたと騒ぎがあった。公子弃疾は人を使って国中を走り回らせて 「王が戻ってきて人々は新王(公子比)と司馬(弃疾)を殺そうとしている」と言わせ、また別の者に「大軍がやってきた」と言わせた。そのため公子比と子皙は自殺した。
5月19日、公子弃疾は楚王の位につき(平王)、改名して熊居といった。
平王は公子比を訾に葬った。また平王は囚人を殺してそれに王服を着させて、それを漢水に流し楚霊王に見せかけて葬り、国中の人々の心を落ち着けた。
平王は即位に功があった曼成然を令尹に命じた。
平王は陳と蔡を復興させ、B.C.533に移した村里の人々を元に戻し、恩恵を施して民をくつろがせ、罪人を許し廃官を復活した。
平王は即位に功があったが逃亡していた観従に「なんじの願いを何なりとかなえてやろう」と言い、観従は卜尹(卜を司る大夫)になることを望んだので、これを許した。
平王は枝如子躬を使者として鄭を聘問させ、以前に占領したシュウ・檪の地を返還した。
芋尹申亥が楚霊王の柩を都に運んできたため、平王はそれを改葬した。
10月、平王は蔡霊侯を葬った。
呉が州来を滅ぼした。曼成然が呉を討つことを願い出たが、平王は「わたしはまだ民を安らかに治めていない。州来を呉が所有するのは、 楚が所有するのと同じだ」と言って許さなかった。
B.C.528夏、平王は然丹に命じて都の西方の軍を宗丘で検閲し、かつその地方の民を慰撫させた。 貧しい者に財貨を分け与えて困窮を救い、幼い孤児を養育し、老い病める者を扶養し、身寄りのないひとり者を収容して世話をし、 みなしごややもめに対しては賦税を軽くしてやり、罪人を赦免し、才能があっても昇任されないでいる者を登用し、勲功ある者には禄を与えて賞し、親族を和合させ、 賢良の者を選んで官職に任命し、官職はその適材の者を選ぶようにした。
また平王は屈能に命じて都の東方の軍を邵陵で検閲して、西方の軍と同様のことをした。
また平王は四方の隣国と友好を図り、民を休息させること5年に及んではじめて軍を用いた。
9月4日、曼成然は平王を擁立した功をほこって欲望をわきまえず、一味の養氏と組んで要求に限度がなかったため、平王は困り果てた。 そこで平王は曼成然を殺し、養氏の一族を滅ぼした。そしてその子闘辛を鄖の地に居住させて、 曼成然の旧勲を忘れないようにした。
B.C.527夏、費無忌が朝呉を讒言したため、蔡の人は朝呉を追放した。平王は立腹して「わたしは呉(朝呉)を信用して蔡に置いたのだ。 それに呉がいなかったら、わたしは王になれなかったであろう。どうして追い出したのか」と言うと、費無忌は「わたしは呉の人柄を知っております。 呉が蔡におれば、蔡はきっと楚に叛いて飛び去るでしょう。蔡の翼を切って飛べないようにしたわけです」と答えた。
B.C.526、1月、平王は蛮に内乱があり、蛮の君嘉が信義のないことを聞いて、然丹に命じて蛮の君嘉を誘い騙して殺し、すぐに蛮を攻め取ったが、 やがて再びその子を立てて復活させた。
B.C.525、9月、晋が陸渾の戎を滅ぼし、陸渾の君が楚に逃げてきた。
冬、呉が楚に攻め入った。司馬子魚が長岸で呉軍と戦って戦死したが、楚軍はこれに続いて戦い、大いに呉軍を破った。
B.C.524冬、公子勝が晋と鄭の脅威にさらされている許を移すよう進言した。平王は喜んで公子勝に命じて許を析に移した。
B.C.523、1月、費無忌が太子建を讒言しようとして太子のために夫人を迎えることを進言した。そして費無忌はその夫人を平王に勧めて王の夫人として迎えた。
一説では、太子建の妃として秦の公女を迎えたとき、その公女があまりにも美しかったため自分の妃とし、太子建がそれを恨んでいると思ったため、 平王は公子建を疑い、城父におらせて国境を守らせたとする。
春、工尹は陰の戎を下陰に移し、令尹子瑕は郟に城壁を築いた。
夏、平王は水軍を仕立てて南夷の濮を討った。
費無忌が進言して「楚は辺鄙な所なので、晋と覇権を争うことができませんでした。城父に堅固な城壁を築いて、 太子建を置いて北方の諸侯と仲良くさせれば、天下を取ることができましょう」と進言した。平王は喜んでそれに従った。
平王は子瑕を秦に遣わして夫人を迎えたお礼をした。
楚人が州来に城壁を築いた。沈尹戌は「楚はきっと敗れるだろう。王はまだ民をいつくしんでいないと仰せられたが、 州来に築いて呉に挑戦しておられる」と言った。役人が「民を休養させること5年になりました。民をよくいつくしんだというべきです」と言うと沈尹戌は 「宮室の造営は止まることはなく、民は敵の攻撃や徴発を恐れて疲れている」と答えた。
冬、子瑕が呉の公子蹶由をとりなしたため、平王は蹶由を呉に返した。
B.C.522春、費無忌が太子建を讒言して「わたくしが秦の公女をお入れしてこのかた、太子はわたしを恨んでいるので、わが君にも恨みを抱かぬはずがありません。 太子と伍奢は方城で謀反を起こそうとしており、斉と晋と通じております」と言った。 平王はこれを伍奢に問いただしたところ、伍奢は「王はどうして、たかが小臣の口先だけで、骨肉の親をうとんじられますか」と答えた。 しかし費無忌が「いまにして彼らを抑えなければ、後悔なさいましょう」と言ったので、平王は伍奢を捕らえ、 城父の司馬奮揚に命じて太子建を殺そうとした。しかし奮揚は郢から城父に着くまでに太子建を逃がすよう取り計らった。
3月、太子建は宋に逃げた。平王は立腹して奮揚を呼びつけると、奮揚は出頭してきた。
平王「わたしはお前にしか話していなかった。誰が建に告げたのか」
奮揚「わたしです。ご命令に従う気になれませんでしたので逃しました」
平王「それならなぜ隠れもせずやって来たのか」
奮揚「王の使者となり命令に背き、召されても参らぬなら、二度も命令に背くことになります。そのような者を受け入れてくれる国はないでしょう」
平王「任地に戻れ。今まで通り励むがよい」
平王は奮揚を許した。
費無忌が「著の子は才能があります。もし呉に逃れたならば、きっと楚の憂いとなりましょう。父を許すことにして彼らを呼び出しましょう」と言ったため、平王は彼らを呼び出した。 しかし長子の伍尚だけやってきて伍子胥は呉に出奔した。 伍奢はこれを聞いて「楚は心配事が多くなるであろう」と言った。そこで楚人は伍奢と伍尚を殺した。
これより先、呉の国境の邑卑梁と楚の国境の邑鐘離の者が争ったため、楚が国兵を出して卑梁を滅ぼしたことがあった。
B.C.521宋の華登が叛乱を起こして楚に援軍を求めたため、蔿越が軍を率いて出陣した。 子犯が諫めて「今の宋は君臣和合せず争っています。宋の君を捨ておいてその臣を助けるというのは、いけないのではありませんか」と言ったが、 平王は「おまえは言うのが遅かった。もう助ける約束をしてしまった」と答えた。
B.C.520太子建の母は居巣におり、彼女は呉軍を導き、陳・蔡を破って鐘離・居巣を滅ぼし、建の母を連れて帰った。平王は恐れて国都郢城を修築した。
B.C.518冬、平王は水軍を作って呉の国境を侵略した。沈尹戌は「今度の戦いで楚はきっと邑を失うであろう。呉はじっとして敵を招き寄せている。 呉が攻め寄せたときに楚の国境に備えがないとしたら、邑を失わずにおれようか」と言った。
越の大夫胥犴は平王を豫章の入り江でねぎらい、越の公子は平王に舟を贈り、 大夫寿夢とともに軍を率いて平王に従った。平王は楚の圉陽まで行って引き返した。そこで呉軍は楚軍のあとを追ったが、 国境の人々は備えていなかったため、呉軍は容易に巣と鐘離を攻め滅ぼして引き揚げた。沈尹戌は「郢が滅びる兆しはここから起こった」と言った。
B.C.517、12月、平王は蔿射に命じて州屈に城壁を築かせ、茄の人々をそこにもどって住まわせ、さらに丘皇に城壁を築かせ、 訾の人々をそこに移住させ、熊相禖に命じて巣に外城を築かせ、季然に命じて巻に外城を築かせた。
B.C.516、9月、平王は没した。
死後、父兄の復讐のために郢を陥した伍子胥により墓を暴かれて300回も鞭打たれた。
平夏(ヘイカ)【公子】
楚の公子。郟敖の子。~B.C.541。
B.C.541、12月、公子が王宮に入って楚王郟敖の病気を見舞ったとき、郟敖を弑した。 平夏ともすぐに殺された。
邴夏(ヘイカ)【武官】
斉の臣。
B.C.589、6月18日、斉軍と晋・魯・衛連合軍は鞍の地に陣地を構えた。
邴夏は斉頃公の御者となった。頃公は「晋軍を全滅させてから朝食にしよう」と豪語し、 馬を武装しないで晋軍の中に駆け入った。しかし斉軍は晋軍に追い回された。
斉頃公は晋の韓厥に追撃された。邴夏は「敵の御者を射とめよ。すぐれた人物のようだ」と言うと、 斉頃公は「すぐれた人物とわかっていながらこれを射るのは非礼である」と言って、韓厥の左役を射てこれを落車させ、右役を射て車中に倒れさせた。
結局、斉頃公の身代りとなった逢丑父が捕えられた。
屏季(ヘイキ)
趙括
嬖奚(ヘイケイ)【武官】
晋の臣。趙鞅の近臣。
趙鞅が王良を招いて、嬖奚のために馬車に一緒に乗って狩をした。しかし朝から晩までかかっても一羽の鳥しか取れなかった。
嬖奚が「王良は天下第一の下手くそだ」と言ったので、王良は再度やらせてくれるよう請うた。今度は朝飯前に10羽も取れたので、嬖奚は「王良は天下第一の名人だ」と言った。
趙鞅は王良を嬖奚専属の御者にしようとしたが、王良は「わたしが正しい御し方をしましたら、一羽も取れませんでした。それで、 ただ乗り手に調子をあわせて法にはずれた御し方をしましたら、10羽も取れたのです。ふつう射手が上手なら正しい御し方で必ず当るもの。それだけはお断りいたします」 と言って辞退した。
平原君(ヘイゲンクン)【宰相】
戦国四君のひとり。名は趙勝。恵文王の弟。~B.C.250。
諸公子の内、平原君がもっとも賢く、賓客を好み、数千人の客を集めた。
趙の恵文王と孝成王の宰相となり、三度位を去り、三度復活し、東武城に封じられた。
名家公孫竜騶衍を礼遇した。平原君は座る時に 自分の服の袖で騶衍の席の塵を払ってやるほどであった。
ある時、平原君の妾がびっこの者を見て大いに笑った。翌日、びっこは平原君を訪れ「わたしは君が士を好むと聞いています。君ならば士を貴び妾を賤しめましょう。 どうか私を笑った者の首を頂戴したいと思います」と言った。平原君は笑って「よろしい」と答えたが、この者を軽んじて相手にしなかった。
一年余りで、賓客・門人・舎人らがだんだんと去り、ついに過半数に及んだ。平原君は不審に思って「わしは諸君を遇するのに、かつて礼を失わなかったつもりだ。 なのに立ち去る者が多いのはどうしてか」と問うと、門下の一人が進み出て「君がびっこを笑った者を殺されなかったので、 士らは君が女色を愛して士を賤しまれると思ったからです」 と答えた。そこで平原君は妾を斬り、みずからびっこの門を訪ね、首を差し出して詫びた。すると門下の食客がまた、だんだんと集まって来た。
当時、斉の孟嘗君、魏の信陵君、 楚の春申君らは競って士を招き待遇した。
B.C.297孟嘗君が秦を出国し、趙を通過すると、平原君はこれを賓客として迎えた。
B.C.263韓の上党太守馮亭が趙に上党を献上してきた。孝成王は平原君と趙禹を招いて相談した。
平原君は「百万の大軍を出動させて攻め、歳を越えましたが、いまだに一城さえ得られないのです。いま座して17の城邑を受けるのは、国家の大利です。 むざむざ取り逃がしてはいけません」と進言した。
孝成王は「よし」と言って平原君をつかわし、土地を受け取らせた。
B.C.260趙は長平で秦に多いに破れた。孝成王は平陽君のはかりごとを聴き入れず平原君・趙禹の進言を聴いたことを後悔した。
B.C.259秦に攻められたとき救援を請うために楚に赴いた。平原君は「文で勝ち取れるものなら、それでよし。文で取れないなら武力でおびやかし、血を華屋の下にすすっても、 かならず合従を約すのだ。同行の士は、外に求めなくてもわが食客・門下から取れば十分だ」と言い、門下から19人を選んだが、あと一人は人がなかった。 すると門下の毛遂が自薦した。平原君は、
「先生はわしの門下に来て何年になりますか」
「3年になります」
「賢士たるもの、たとえば袋の中に錐があるように、その先端は立ちどころに現れるものである。いま先生は来て3年になられるが、評判を聞いたことがない。 お留まりくだされ」
「わたくしを早くからふくろの中におらせたなら、突き出してしまし、穂先だけが現れるどころではないでしょう」
平原君はついに毛遂を同行させた。
平原君は楚考烈王に説いて合従しようとした。毛遂は剣の柄に手をかけ堂に上り、平原君に「日の出から合従を論じ、 日中まで決着しないのはどうしてですか」と言った。
考烈王は「この者は誰か」と問うと平原君は「わしの舎人です」と答えた。
考烈王は叱咤して「どうして堂を下りないのか。わしはおまえの主君と論じているのだ」と言った。毛遂は「王がわたしを叱咤するのは、楚国をたのんでのこと、 いま王とわたしの間は十歩で、王は国の衆を頼むわけにはいきますまい。王の命はわたしの手中にあります。そこでわが君の面前で叱咤するとはなにごとでしょうか。 いま楚は方五千里、兵は百万といいます。しかるに秦の白起は小僧っ子にすぎないのに一戦して鄢・郢を屠り、夷陵を焼き、 楚の祖先を辱めました。これは百世の痛恨事、他国の趙でさえ恥じるところです。それなのに、王は秦を恨むことをご存知ありません。 合従はただ趙のためにあるのではありません」と説いた。
考烈王は「もっともだ。まことに先生の言うとおりである。謹んで国家をささげて説に従おう」と言った。
平原君は帰国し、毛遂を上客とした。
B.C.258平原君の夫人は信陵君の姉であったので、しばしば魏安釐王と信陵君に書信を送り、魏の救援を請うた。 魏は将軍晋鄙に十万の軍を出させたが、鄴に留まって動かなかった。平原君はたびたび信陵君に使者を送り、 ついに信陵君は晋鄙を殺して趙を救った。
また楚は春申君に命じて兵を出し、平原君は李談の進言に従い、決死の士3000人をもって秦に立ち向かい、秦軍は30里退いた。 そこに援軍が来たので、秦軍は退却して邯鄲は救われた。
また李談が戦死したので、その父は封じられて李侯とされた。
戦後、信陵君が趙に出奔してきた。平原君は名声をあえて比べようとせず、謙虚に対応した。
信陵君は趙に滞在中、博徒の毛公、味噌屋の薛公を貴び、訪問して大いに語り、満足した。平原君は妻に「そなたの弟は博徒・味噌屋を相手にするのか」と言った。 夫人がそれを信陵君に告げると、信陵君は夫人にいとまごいをして「私は平原君を賢明な人だと聞いていました。だから魏王に背いてまで趙を救ったのです。 しかし平原君の交際は、外面を華やかにするだけのようです。わたしは大梁にいる頃からこの二人の賢明を聞いていました。こうした交際を恥とする平原君こそ、 共に交際するに足らぬ人物である」と言って、趙を去ろうとした。夫人はこれを平原君に告げると、平原君は冠を脱いで、おのが不明を謝り、信陵君を引き留めた。 これを聞いて平原君の門下の者は、半分が去って信陵君に投じた。
楚が春申君によってふたたび強国になった。平原君は使者を春申君のもとに送った。使者は楚に見せびらかそうとして瑇瑁でつくった簪を挿し、 鞘を珠で飾った剣を佩びて春申君の食客に会見を求めた。春申君には食客が三千余人いたが、みな上客は珠で飾った履をはいて使者に会見したので、使者は大いに恥じ入った。
魏の宰相魏斉は秦の范雎に殺されることを恐れて趙に出奔し、平原君のもとに身を隠した。 秦昭襄王は、いつわって友好的な書簡をしたためて「もし幸いに君の光来を得るなら、君と十日の連飲を楽しみたい」と言ってきた。 平原君は秦を恐れていたが、秦に入った。昭襄王は酒を飲み、おもむろに「いま范君はわたしが叔父として遇する人である。その仇が君の家にいる。その首を取ってきて欲しい。 さもないと、わたしは君を函谷関から出すわけにいかぬ」と言った。平原君は「貴いときに友の交わりを結ぶのは賤しくなった時のためをおもんぱかるからであります。 かの魏斉はわたくしの友であり、差し出すわけには行きません。まして、いまわたくしのところにおりません」と言った。
魏斉は確かに魏に出奔していたが、自殺したため、平原君は帰国できた。
B.C.250没す。
子孫が代わって後を嗣いだが、趙とともに滅んだ。
平公(晋)(ヘイコウ)【王】
晋公(12(14)代目)。名は彪。悼公の子。母は杞孝公の娘。~B.C.532。
B.C.558、11月9日、晋悼公が没した。
B.C.557、1月、平公はあとを継いで位につき、叔向を傅、張君臣を中軍の司馬、 祁奚;韓襄欒盈范鞅を公族大夫、虞丘書を乗馬御に任命し、 喪服を変え、祭官を整えて曲沃の廟で冬の祭りを行った。平公は隠者の玄唐を賢人とし、 彼の家に自分から訪ねていき、出された食事が素食であっても、それを満腹するまで食べて、玄唐を敬った。
3月、平公は黄河の流れに沿って東に下り、湨梁で宋平公・衛殤公・ 鄭簡公・曹成公・魯襄公・ 莒犂比公・邾宣公・ 薛の君・杞孝公・小邾の君と会合し、諸侯に命じて侵略した土地を帰させた。
邾と莒が魯を討ったため、晋は邾宣公と莒犂比公を捕えた。
平公は諸侯と温で宴会を催した。このとき大夫たちに舞わせ「歌う詩は必ず舞に合わせよ」と命じたが、斉の高厚の詩は舞と合わなかった。 荀偃は立腹して諸侯の大夫たちに命じて高厚と盟わせようとしたが、高厚は斉に逃げ帰った。 そこで荀偃と魯の叔孫豹、宋の向戌、 衛の甯恵子 、鄭の子蟜、小邾の大夫と盟って斉を討つことを申し合わせた。 この会合の時、許の君が楚に叛いて都を晋に移したいと願い出て、諸侯はすぐに許を許そうとした。しかし許の大夫が承知しなかった。 そこで晋人は諸侯を帰らせて独力で許を討って都を移させようとした。鄭と魯が荀偃と会合して討伐軍に加わった。
6月、諸侯の軍は許の棫林にとどまった。
6月9日、諸侯の軍は許を討って許の函氏に軍をとどめた。
荀偃と欒黶は軍を率いて楚を討って、楊梁の戦いの報復をした。楚の公子格は晋軍と湛阪で戦い、 晋軍は楚軍を大破した。晋軍は勢いに乗じて楚の北境の方城山の地に攻め入り、再び許を討って引き揚げた。
冬、魯の叔孫豹が来聘して斉が魯を討ったことを報告してきた。しかし晋人はまだ先君の忌明けの祭りをしていないことと、許と楚を討って民力が回復していないので、 援助できなかったと弁解した。
B.C.555夏、晋は衛の行人石買を晋の長子で捕え、孫蒯を晋の純留で捕えた。
10月、平公は魯襄公・宋平公・衛殤公・鄭簡公・曹成公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・杞孝公・小邾の君と魯の済水のほとりで会合し、 B.C.557の湨梁の盟いを再確認して諸侯と共に斉を討った。諸侯の軍は斉軍と平陰で戦った。諸侯の軍は堀を越えて城門に攻め込み、 斉軍の兵はたくさん戦死した。
11月1日、晋軍は平陰に攻め入り、勢いに乗じて斉軍を追撃し、斉の殖綽と郭最を捕えた。
晋軍は逃走する斉軍を追撃しようとしたが、魯と衛は城壁にたてこもる斉軍を攻撃したいと望んだ。
11月13日、荀偃と范匃は中軍を率いて京玆を攻め落とした。
11月19日、魏絳欒盈は下軍を率いてシを攻め落とした。
12月3日、趙武韓宣子は上軍を率いて盧を包囲したが攻め落とせなかったため、 秦周の地に進み、臨淄の雍門(西門)の萩の木を切り倒した。
12月4日、雍門と西の外城および南の外城を焼き、 劉難士弱は諸侯の軍を率いて斉の西南門外の申池の竹や木を焼き払った。
12月7日、東の外城と北の外城を焼いた。范鞅は揚門(西北門)に攻め入り、州綽は閭門(東門)に攻め入った。
12月9日、晋軍は東方に攻め入って濰水まで進み、さらに南進して沂水に達した。
B.C.554、1月、平公は沂水のほとりから引き揚げて斉の督揚で諸侯と盟いを結んだ。 晋は邾悼公を捕えてB.C.556に魯を討ったことを責めた。そして諸侯は泗水のほとりに軍をとどめて魯の領地の境界を決め、 邾の土地を取り上げて潡水の北の地を魯に帰した。
2月20日、荀偃が没した。平公は荀偃に代わって范匃を正卿に任命した。
夏、欒魴が軍を率いて衛の孫林父に従って斉を討った。范匃は斉の穀まで攻め入ったが斉霊公が亡くなったのを聞いて、引き揚げた。
4月14日、鄭の子蟜が没した。その死を聞いて范匃がB.C.559の秦を討った際によくやってくれたと申し上げた。
6月、平公は周霊王に子蟜の追賜をお願いした。周霊王は大路(事)を賜って葬礼を行わせた。
晋は斉と和睦して、大隧で盟った。
B.C.553、6月3日、平公は魯襄公・斉荘公・宋平公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・ 莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・杞孝公・小邾の君と会合して、澶淵で盟った。
B.C.552、1月、魯襄公がやって来て、斉討伐と邾の田を返してくれたことのお礼をした。
范匃が讒言を信じて欒盈に命じて著に城壁を築かせて、その出先から欒盈を追い出そうとした。 平公は祁奚;陽畢に命じて、曲沃の欒盈を放逐させ、欒盈は楚に亡命した。
范匃が箕遺黄淵嘉父司空靖邴豫董叔邴師申書羊舌虎叔熊を殺し、伯華・叔向・籍游を捕えた。 平公は楽王鮒に叔向の罪を尋ねると、楽王鮒は「彼は身内を捨てない人ですから、羊舌虎と関係があるのかもしれません」と答えた。 祁奚;はこれを聞くと、すでに引退していたが早馬に乗って駆けつけて范匃とともに参朝したので、平公は叔向を赦した。
(一説では黄淵・嘉父は叛乱を起こして鎮圧されて殺されたとなっている)
平公は彼らの一党を放逐して、陽畢に言った。
平公「晋は穆侯から今まで内乱が絶えない。禍難がわが身に及ぶことが心配だ。どうしたらよかろうか」
陽畢「禍乱の枝葉を切り去り、その根を断ち切ったなら、少しは静かになりましょう」
平公「実際に計画せよ」
陽畢「君は賢人の子孫で国家の中で位はあるけれども衰微した者を選んで取り立てなさい。また、わがまま勝手で君を顧みず、国を乱す者の子孫を選んで除去しなさい。 このようにすれば、人心を教化することができます」
平公「欒書はわが先君(悼公)を立て、欒盈には罪がないが、どうか」
陽畢「もし欒盈を愛されるのでしたら、堂々と彼の一党を放逐して国家の道理を知らせるべきです。もし欒盈が君に対して仇を報いようとするなら、これより重い罪はありません。 もし彼が報復しようとせず遠くに亡命するならば、亡命先との外交に礼を厚くして、彼の徳に報いるべきです。これは大いに結構なことではありませんか」
欒盈が亡命すると、范匃は命令を出して欒氏の臣が君(欒盈)とともに亡命することを禁じ、犯した者は死刑にしてさらすことにした。 しかし欒氏の臣辛兪が亡命しようとして逮捕された。
平公「法令があるのに、なぜ犯すのか」
辛兪「臣は法令に従っています。正卿は『欒氏に従うな、君に従え』と言いました。臣は祖父以来、代々欒氏に隷属して今や三代になります。 臣はそれゆえ欒氏を君としないわけにはまいりません。法令を犯した者は死刑にされますので、それに従います」
平公は辛兪の忠節を喜んで、晋にとどめようとしたが、辛兪は聴かなかった。そこで平公は重く下賜しようとしたが、辛兪は辞退して「先ほど臣の気持ちを述べました。 ここでもし、君の下賜をお受けしたなら、前言を破ることになります」と言った。平公は辛兪の亡命を許した。
冬、平公は魯襄公・斉荘公・宋平公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・莒の君・邾の君と商任で会合し、欒盈を受け入れることのないように取り決めた。
B.C.551夏、平公は鄭に対して来朝せよと要求した。そのため鄭人は少正子産を遣わして弁明した。
冬、平公・斉荘公・宋平公・魯襄公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・莒の君・邾の君・薛の君・杞孝公・小邾の君と沙隋で会合した。 会合では欒氏を受け入れないように話し合った。
B.C.550、3月28日、杞孝公が没した。平公の母は喪に服したが、平公は音楽を楽しむことを止めなかった。
4月、欒盈がひそかに曲沃に入り込んで曲沃の武装兵を率い、魏献子の助けを借りて絳の公宮に攻め入った。 平公は自殺しようとしたが、范鞅がそれをとどめ、范匃が平公を守って襄公の廟に入って防戦したので欒盈は退却した。 范鞅は欒盈を追撃して曲沃でこれを包囲して一族もろとも殺した。
斉軍は欒盈の失敗を聞いて、朝歌を取って去った。
B.C.549春、魯の叔孫豹が来聘した。
2月、鄭簡公と子西が来聘した。
5月、平公は秦と和睦した。
秋、平公は魯襄公・衛殤公・宋平公・鄭簡公・曹武公・莒犂比公・邾悼公・滕の君・薛の君・杞文公・ 小邾の君と夷儀で会合し、斉を討とうとしたが、大水が出て斉を討つことができなかった。
平公は程鄭を寵愛して、下軍の佐に任じた。
B.C.548夏、平公は泮から泮水を渡り、魯襄公・宋平公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・莒犂比公・邾悼公・滕の君・ 薛の君・杞文公・小邾の君と夷儀で会合して斉を討ち、朝歌の戦い(B.C.550)の報復をした。 斉では崔杼が斉荘公を弑したので、諸侯はこれに乗じ、斉を高唐で打ち破った。
斉人は斉荘公を弑した言い訳をし、隰鉏に命じて和平を請わせ、 慶封を晋軍のもとに遣わした。かくて平公は和平を許し、叔向に命じて諸侯に告げさせた。
平公は魏献子閻没に命じて諸侯と会合させた。 平公は斉に逃れていた衛献公を迎えようとした。
7月11日、斉が降服したので、平公は諸侯と重丘で同盟した。
晋では范匃に代わって趙武が正卿となって政治を行い、諸侯の貢幣を軽くする一方、朝聘の礼儀を重んずるようにした。
B.C.547、2月、衛の孫文子が戚の地を持参して晋に亡命してきた。
衛が戚の東のはずれに攻め入り、孫文子が救いを求めてきたので、平公は東のはずれの茅氏を守備させた。
孫文子の子孫蒯が衛軍を討ち破った。孫文子は再び衛を討つよう依頼した。そこで平公は諸侯を招いて衛を討つことにした。
夏、中行呉を魯に遣わし、魯襄公を招いて会合に参加させようとした。
6月、趙武が魯襄公、宋の向戌、鄭の良霄、曹人と澶淵で会合して衛を討ち、戚の境界を正し、 衛の西境の懿氏という地60邑を取り上げて孫文子に与えた。
晋は甯喜を捕えた。衛献公が晋にやって来たので、晋人は衛殤公を捕えて士弱の家に閉じ込めた。
7月、斉景公と鄭簡公が衛献公を救うために晋にやってきた。平公はふたりをいっしょにもてなし、 衛献公を帰すことを許した。
鄭の子西が来朝して「わが君には貴国を伺いまして、ご迷惑をかけたのではないかと心配して、この私を遣わして不行き届きをお詫びさせます」と言ってきた。
衛が衛の娘を平公に嫁がせてきたので、平公は衛献公を許して国に帰した。君子はこの事から、平公が政治を失敗すると知った。
景公が弟のを使節として和平交渉によこしたとき、 叔向と接待役の子朱のふたりが争ったので人々が中に入って静めた。 平公はこれを聞いて「晋は盛んになるであろうか。臣下の争う所は重大である」と言うと、 師曠は「公室はおそらく衰微するでしょう。臣下が徳を競争せずに、力で競争してます」と言った。
B.C.546弭兵の会にて宋・楚・晋・斉の諸侯が宋に集まり、晋楚は初めて同盟して、南北の抗争を止めることとなった。
B.C.545夏、斉景公、陳哀公、蔡景侯、 北燕の君、杞文公、胡の君、沈の君、白狄が来朝した。
衛の石悪が晋に亡命してきた。
9月、鄭の子大叔が晋に来て、これから楚に朝して宋で盟ったことを実行するという報告をした。
B.C.544平公は母が杞から嫁いだ関係から、杞の城壁工事をすることにした。
6月、智盈は諸侯の大夫を集めて杞に城壁を築いた。鄭の子大叔は「晋は周室の衰えを心配しないで、夏の後裔の杞をかばっている。 このようでは、同姓の諸侯も見捨てるだろう。誰がなつき従うであろうか」と言った。
平公は范鞅を魯に遣わし、杞の城壁工事の援助に対するお礼をさせた。
平公は女叔斉を魯に遣わし、魯が以前に杞から攻め取った田地を杞に返すよう要求した。 しかし魯襄公はすべてを返さなかった。
呉の季札が使者として晋に来聘し、「晋国の政権は結局趙・魏・韓の三家に帰するでしょう」と語った。
冬、魯の孟孝伯が来聘し、夏に范鞅の訪問にたいする返礼をした。
11月24日、斉の高豎が晋に亡命してきた。晋人は緜に城を築いて、そこに住まわせた。
B.C.543鄭簡公が子産とともに来聘した。
5月、周の儋括と公子瑕と公子廖が晋に亡命してきた。
8月7日、鄭の子大叔が晋に亡命してきた。
冬、宋で火災があったため、諸侯の大夫が会合して財物を贈ろうという相談をした。そこで平公は趙武を遣わした。
B.C.542、6月、鄭の子産が来聘したが平公は魯襄公の喪中ということで面会しなかった。そこで子産は旅館の堀を壊して車馬を入れさせた。士文伯がその無礼を責めると、 子産は「持参した品を納められず風雨にさらしてもおけないのでおとがめを重ねた次第です。お役人にはどのようなご命令を下さるのでしょうか」と答えた。 趙武は「子産の言うとおりだ。堀の中に諸侯をお入れしたのは、わたしの過ちでした」と言って、士文伯を遣わして不行き届をお詫びした。 そこで平公は鄭簡公を特別に礼遇し、宴席で贈る引出物を手厚くして国へ帰らせた。また諸侯を宿泊させる宿舎を改築した。
冬、呉の屈狐庸が来聘した。
B.C.541、3月、趙武が虢で楚・魯・斉・宋・衛・陳・蔡・鄭・許・曹と会盟した。
夏、秦の公子が晋に出奔してきた。
中行呉と魏献子が軍を率いて狄を大鹵で破った。
平公は病気になった。鄭簡公が子産を遣わして病気見舞いに来朝した。平公は子産について「物事をよく知っている。君子である」と言ってたくさんの贈り物をした。
平公は秦に医者を依頼すると秦景公は医和を晋によこした。
医和は病気を見て「この病気は治療できません。色欲が度を過ぎています。もし君が死ななければ、諸侯を失うでしょう」
趙武「私は諸卿とともに輔佐して8年になります。なぜ諸侯が離反しましょうか」
医和「あなたは君の惑乱を諌めることができず病気にかからせ、自分も引退せずにその政治を光栄とされています。8年でさえも長すぎるのに、 どうしてもっと長生きできましょう」
趙武「君はどのくらい生きるでしょうか」
医和「もし諸侯が服従するなら3年を越えませんが、服従しなければ10年を越えません」
冬、楚の公子が晋に出奔してきた。
12月7日、趙武が没した。
B.C.540春、平公は韓宣子を魯に遣わして魯昭公の即位を祝う挨拶をさせ、同時に韓宣子が正卿となったことを報告した。
4月、韓貞子を斉に遣わして斉の公女少姜をお迎えした。 平公は少姜を寵愛して少斉という特別な称号を与えた。 しかし少姜のお供をした斉の田無宇が卿ではなかったため、平公はその非礼を責めて田無宇を中都に閉じ込めた。
夏、魯の叔弓が韓宣子の返礼のため来聘した。
少姜が没した。
冬、魯昭公が弔問のため黄河まで来たが、平公は士文伯を遣わして「正卿ではありません。どうかおいでにならぬように」と辞退させた。
B.C.539、1月、鄭の子大叔が少姜の葬儀に参列した。
4月、鄭簡公が晋を聘問した。その介添の公孫段はたいへん慎み深く謙虚な態度で礼儀作法もかなっていたため、 平公は喜んで彼に州の田地を与えた。
夏、韓宣子が斉に出かけて、平公のために公女を迎えた。
7月、鄭の子皮が晋を聘問して新たに迎えた夫人のお祝いを申し上げた。
B.C.538楚の伍挙が諸侯を集めて会合したいと申し出た。平公は聴き入れまいと思ったが、女叔斉が「それはいけません。 晋と楚はただ天の助けにまかせておくべきです。わが君には楚の申し出をお許しになり、わが身の徳を修めて楚王の成り行きをお待ちになるべきです」と進言した。 平公は「晋の国土は険しく馬が多く、斉と楚には内乱が多い。これらがあるからには何も問題あるまい」と言ったが、女叔斉は「四嶽・三塗・陽城・大室・荊山・ 中南の山々は天下の険ですが、これを頼みとするために治めた国々は滅亡しております。冀の北部は馬の産地ですが、それで栄えた国はありません。 斉の桓公や晋の文公は内乱によって興りました」と答えた。
B.C.537春、楚の令尹子蕩と莫敖屈生が来聘して公女を迎えた。 平公は楚に敬意を表してわざわざ邢丘まで出向いてこれを迎えた。鄭簡公と子産も邢丘に来たため、これと会合した。
魯昭公が来聘した。
B.C.536、夏、魯の季武子が晋を聘問した。
楚の公子棄疾が晋にやってきた。平公は前年、晋の使者が楚に冷遇されたため迎えの者を出すまいとした。 しかし叔向が「こちらは正しいことをしましょう。いやしい男でも善を行えば民はそれを手本とします。まして国君が善をしたらなおさらでございます」と進言したため、 平公は喜んでこれを出迎えた。
平公は新しい音楽を好んだ。師曠は「公室は衰微しましょう。音楽は山河の風を開通して君徳を高遠に輝かすものです。 君徳が高遠で時にかない節制があるから、遠い者も帰服し、近い者は他国へ流れていきません」と言った。
あるとき平公は、かやぐきを射たが死ななかったため、小者のに捕らえさせたが、逃してしまった。平公は怒って襄を殺そうとした。 叔向が朝廷に出てきたので、平公はこのことを告げると、叔向は「必ず彼を殺されよ。今、君は射ても死なず、小者が叩いて取ろうとしても取れませんでした。 これは君の恥をさらすものです。 彼を殺して遠国に聞こえないようにするべきです」と逆のことを進言した。平公は恥ずかしくなって襄を許した。
B.C.535魯昭公が楚に出かけた。晋人はこれを恨みに思い、魯に赴いて土地を調査し、成を取り上げて杞に渡した。
4月、日食があった。平公は士文伯に「だれが日食のとがを受けるだろうか」と問うた。士文伯は「魯と衛でしょう。 日食が衛の星宿にあたる娵訾から始まって魯の降婁に及んでいるので、衛で禍が起こり、魯はその余波を受けるでしょう」と答えた。
鄭の子産が晋を訪問した。そのとき平公は病気であった。子産は韓宣子に病気について尋ねると、韓宣子は「わが君の病気は久しく、何をしても治りません。 ところが、黄熊が寝門に入る夢を見たそうです。何でしょうか」と尋ねた。子産は 「昔、の命を犯して殺されたとき、黄熊になって羽山に入ったといいます。 これが夏王朝の郊祭となりました。今周は衰えて、晋が実際にはそれを継いでいます。もしや、まだ夏の郊を祭っていないのではないでしょうか」と答えた。 そこで平公は夏の郊を祭ると、5日にして病気が治った。そこで平公は子産に莒国の鼎を賜わった。
B.C.534春、魏楡の石がものを言った。平公は師曠に「石はなぜものを言ったのか」と問うた。師曠は「事を行うのに時節にかなっていなければ、 ものを言うべきでない物がものを言うことがあるといいます」と答えた。このころ平公は虒キの宮殿を建築中であった。
夏、魯の叔弓が来聘して、虒キの宮殿の落成を祝った。また鄭簡公と子大叔も祝いのため来聘した。
B.C.533閻嘉は周の大夫と閻の耕地について争った。 そこで平公は梁丙と張趯に命じて陰戎の人を率いて周の穎邑を討ったため、周景王が晋を訴えた。 時に周景王には姻戚の喪があったため、平公は趙景叔に命じて弔問に行かせて閻の地と襚(衣服)を周に贈り、 穎邑を討った時の捕虜を帰した。そのため周景王も賓滑に命じて大夫襄を捕らえて晋に弁解させた。
6月、智盈が没した。絳でかりもがりを行い、まだ葬らないでいるうちに平公は酒を飲み音楽を催して遊びに耽ったが、 料理人の屠蒯が諌めたため平公は酒宴をやめた。 さらに平公は知氏をやめさせて寵臣を用いようと考えていたが、この諌めのために改心してその考えをやめた。
8月、平公は智盈の子智躒を下軍の佐に任命して、みずからの過ちを弁解した。
B.C.532、7月4日、平公は没した。
平公(斉)(ヘイコウ)【王】
斉公(29代目)。名は驁。簡公の弟。~B.C.456。
B.C.481田常が簡公を殺し、擁立される。
平公(魯)(ヘイコウ)【王】
魯公(32代目)。名は叔。景公の子。~B.C.295。
孟子に会いに行こうとしたが、近臣の臧倉が「公が軽々しく一平民をこちらから訪問なさるとは。 あの孟子は礼儀もわきまえず、 母の葬式はその前の父の葬式よりも立派にしました。かように礼儀を知らない男にはお会いなされますな」と言った。そのため平公は訪問を取りやめた。
平公(燕)(ヘイコウ)【王】
燕公。共公の子。~B.C.505。
B.C.524即位する。
平公(曹)(ヘイコウ)【王】
曹公(20代目)。名は頃。武公の子。~B.C.524。
B.C.528武公が没したため、須は即位した。
B.C.524、3月、平公は没した。
平公(陳)(ヘイコウ)【王】
陳公(10代目)。名は燮。夷公の弟。~B.C.755。
B.C.778即位する。
平公(杞)(ヘイコウ)【王】
杞公(12代目)。名は鬱。文公の弟。~B.C.518。
B.C.536、1月、杞文公が没すると、公子鬱は即位した。
魯が大夫を遣わして杞文公の弔問をした。
B.C.531秋、杞人は晋・魯・斉・宋・鄭・曹と厥憖で会合し、楚に攻められている蔡を救う相談をした。
B.C.529、8月、平公は晋・劉・魯・斉・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・小邾と平丘で会合して同盟した。
B.C.518、8月29日、平公は没した。
(『史記』ではB.C.525に没したとしている)
平公(宋)(ヘイコウ)【王】
宋公(24代目)。名は成。宋共公の末子。母は共姫。~B.C.532。
B.C.576、6月、宋共公が没した。司馬蕩沢が宋の公室を弱体と見て公子を殺した。 右師華元が蕩沢を殺し、左師魚石・大司寇向為人・ 少司寇鱗朱・大宰向帯魚府ら桓氏一族らが楚に亡命した。
10月、公子成は華元に擁立され、向戌が左師、老佐が司馬、 楽裔が司寇に任命された。
B.C.575夏、鄭の子罕が宋に攻め寄せた。将鉏楽懼はこれを宋の汋陂で破ったが、警戒を怠ったため鄭軍に襲撃されて打ち破られ、将鉏・楽懼は鄭に捕らえられた。
7月24日、鄭の子罕に夜襲をかけられ、宋・斉・衛の陣地は乱れて潰滅した。
B.C.574夏、平公は晋厲公・魯成公・斉霊公・ 衛献公・曹成公・尹武公・ 単襄公・邾人と会合して鄭を討ち、戯童から曲洧まで侵攻した。
6月26日、諸侯は鄭の柯陵で同盟し、戚の盟い(B.C.576)を温めた。
冬、平公は晋・魯・斉・衛・曹・単・邾とともに鄭を討った。
10月13日、諸侯は鄭を包囲した。楚軍が鄭を助けるため汝水に陣を敷いた。
11月、諸侯は軍を引き上げた。
B.C.573、6月、鄭に攻められて宋の曹門まで攻め入られ、さらに鄭は勢いに乗じて楚と会合して朝郟を攻め取った。 また鄭の皇辰は楚の子辛とともに宋の城郜に攻め入り、幽丘を攻略し、鄭・楚の全軍は彭城を攻撃して、 楚に出奔していた魚石らをそこに封じた。
宋はこの五大夫が彭城に帰ることを心配した。すると西鉏吾が「何を心配なさいます。楚は悪人を満足させているが、 楚についている諸侯を離間させ、諸侯を悩ませて、呉と晋をおどすことになろう。わが宋は晋に対する功績は多い。心配するに及ばない。晋はきっと助けてくれる」と言った。
7月、平公は老佐と華喜を遣わして彭城を攻めたが、老佐が軍中で没したため勝つことができなかった。
11月、楚の子重は楚の全軍を率いて鄭軍とともに彭城を攻撃して、魚石らを彭城に入れた。 平公は華元を遣わして晋に援軍を請うたので、晋は援軍を出した。楚軍は晋軍と宋の靡角の谷あいで出会ったが、晋軍を恐れて退却した。
12月、平公は晋悼公・魯の孟献子・衛献公・邾宣公・ 斉の崔杼と虚朾で会合して同盟した。そして平公は諸侯自らの出陣を辞退し、ただ軍勢だけをお願いして彭城を攻め囲んだ。
B.C.572、1月、諸侯が共同して彭城を攻め囲み、彭城は降服して宋に返還された。そして魚石らは晋に送られた。
秋、楚の子辛が鄭を助けるため宋の呂・留に攻め入り、鄭の子然は宋に攻め入って犬丘を取った。
B.C.571春、鄭に攻められた。
6月、平公は晋と衛とともに鄭を討った。
7月、華元が孟献子・智罃孫林父・曹人・邾人の戚で会合して、 鄭を討つ相談をした。
秋、魯の叔孫豹が来朝し、魯襄公の即位を告げてきた。
B.C.570、6月23日、鄭が服従したので平公は晋悼公・単頃公・衛献公・鄭釐公・ 莒の君・邾の君・斉の公子と会合し、鶏沢で同盟し、呉と仲良くしようとした。
B.C.568、9月23日、平公は晋悼公・魯襄公・陳哀公・衛献公・鄭釐公・曹成公・ 莒の君・邾の君・滕の君・薛の君、斉の公子光、呉の人、鄫の人と戚で盟約し、陳を守ることを誓った。
11月12日、楚が陳を討ったので、平公は晋・魯・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・斉と鄭の城棣で会合して陳を救った。
B.C.567華弱楽轡をからかったので、楽轡は華弱の首を弓でおさえつけた。 平公はこれを見て「司武(司馬)でありながら朝(役所)で首かせをかけられるようでは、その任に耐えない」と言い、華弱を追放した。 さらに子罕が楽轡を追放した。
B.C.566冬、楚が陳を攻め囲んだ。平公は、晋・魯・衛・曹・莒・邾とともに鄭のイで会合して陳を助けた。
B.C.565、5月7日、晋・魯・鄭・斉・宋・衛・邾の大夫が邢丘に会合した。宋からは向戌が参加した。
B.C.564春、宋で火災があった。
10月、諸侯が鄭を討った。
10月11日、皇鄖が晋の智罃范匃の率いる中軍について鄭のセン門を攻めた。
11月10日、諸侯は鄭の和睦を許した。
B.C.563、4月1日、平公は晋悼公、魯襄公、衛献公、曹成公、莒の君、邾の君、滕の君、薛の君、杞孝公、小邾の君、 斉の公子光、呉王寿夢と楚の柤で会合した。
夏、諸侯は偪陽を討った。
5月8日、諸侯は偪陽を滅ぼした。晋悼公は偪陽を宋の臣向戌に与えようとしたが、向戌が辞退したため、 これを平公に与えた。平公は悼公を宋の楚丘で桑林の音楽をもってもてなした。そのとき宋が天子の用いる旗を用いたので、悼公は恐れ憚って次の部屋に引き下がった。
6月、楚の子嚢と鄭の子耳が宋軍を宋の訾毋で討った。
6月14日、楚・鄭軍が宋の都を囲んで桐門(北門)に攻め入ってきた。
衛献公は宋を救うために衛の襄牛まで軍を進め、鄭軍を破った。
7月、楚の子嚢と鄭の子耳が魯を討ち、引き返して宋の蕭邑を包囲した。
8月11日、蕭邑が攻め落とされた。
9月、鄭の子耳が宋の北境に攻め入ってきた。
鄭で内乱が起き、堵女父司臣尉翩司斉が宋に亡命してきた。
B.C.562、4月、鄭の子展が宋に悪事を仕掛けてきた。そこで平公は晋悼公、魯襄公、衛献公、曹成公、莒の君、 邾の君、滕の君、薛の君、杞孝公、小邾の君、斉の公子光と会合して鄭を討った。
7月、鄭の子展が攻め込んできた。
9月、平公は再び諸侯と共に鄭を討った。
B.C.559春、呉が楚と戦って大敗したことを晋に告げてきた。 平公は華閲と仲江を遣わして晋・魯・斉・衛・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小&##37054;と向で会合させた。
夏、宋は晋・魯・斉・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾とともに秦を討った。
冬、平公は華閲に命じて晋・魯・衛・鄭・莒・邾と戚で会合させ、衛の公子の即位を認めた。
B.C.558春、向戌が魯に赴いて、B.C.562に結んだ盟いを続けるよう話し合った。
鄭が馬160頭と楽師のを贈り物として、 B.C.563の内乱のときに宋に亡命した者を渡すよう依頼してきた。
2月、鄭はさらに公孫黒を人質として差し出して、亡命した者を渡すよう依頼してきた。 そこで司城子罕は亡命していた堵女父・尉翩・司斉を鄭に渡したが、司臣を人物と見込んで逃がして、魯の季武子にあずけた。
宋に来た慧が無礼であったので、子罕が強く帰すことを望んだ。そこで平公は慧を鄭に返した。
B.C.557、3月、平公は晋平公・魯・衛・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と会合し、諸侯は侵略した土地を帰した。
B.C.556春、荘朝が陳を討って司馬を捕えた。
華閲が没した。その弟華臣が華閲の子華皐比の家を侮って、 賊を使って家宰華呉を殺し、その妻を幽閉した。平公はこれを聞いて 「華臣のやつは本家を荒らしたばかりではなく、国の政治までも乱した。必ず彼を追い出せ」と言った。左師向戌が「華臣も国の卿です。 大臣が不順であるのは国の恥です。隠して公表しないのが得策です」と進言したので、平公は華臣を許してそのままにした。
11月22日、宋人が狂犬を追ったところ華臣の家に逃げ込んだので、人々も侵入した。華臣は恐れて陳に逃げた。
この年、大宰皇国父は平公のために物見台をつくることになった。 子罕は収穫の時期が終わってからにしてほしいと願ったが、平公は許さなかった。
B.C.555、10月、平公は晋平公・魯襄公・衛殤公・鄭簡公・曹成公・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・ 杞孝公・小邾の君と魯の済水のほとりで会合し、B.C.557の湨梁の盟いを再確認して諸侯と共に斉を討った。
B.C.554、1月、平公は斉の督揚で諸侯と盟いを結んだ。
B.C.553、6月3日、平公は晋平公・魯襄公・斉荘公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・莒の君・ 邾の君・滕の君・薛の君・杞孝公・小邾の君と会合して、澶淵で盟った。
魯の季武子が来聘し、先年に向戌が聘問したことに対する返礼をしてきた。
B.C.552平公は晋平公・魯襄公・斉荘公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・莒の君・邾の君と商任で会合し、 亡命した晋の欒盈を受け入れることのないように取り決めた。
B.C.551冬、平公は晋平公・斉荘公・魯襄公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・莒の君・邾の君・薛の君・杞孝公・小邾の君と沙隋で会合した。 会合では欒氏を受け入れないように話し合った。
B.C.549斉の烏余は晋に亡命して各地に侵攻し、宋の町も攻め取った。
秋、平公は晋平公・魯襄公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・莒犂比公・邾悼公・滕の君・薛の君・杞文公・ 小邾の君と夷儀で会合し、斉を討とうとしたが、大水が出て斉を討つことができなかった。
B.C.548夏、平公は泮から泮水を渡り、晋平公・魯襄公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・莒犂比公・邾悼公・滕の君・薛の君・杞文公・ 小邾の君と夷儀で会合して斉を討ち、朝歌の戦い(B.C.550)の報復をした。
平公は諸侯と会合し、晋平公は斉に逃れていた衛献公を迎えようとした。
7月11日、斉が降服したので、平公は諸侯と重丘で同盟した。
B.C.547、6月、諸侯が澶淵で会合したため、平公は向戌を遣わした。
秋、太子が楚と通じて謀叛を起こそうとしているという報告があった。 宋平公は向戌と夫人に尋ねた。 向戌は太子痤を恐れ嫌っていたので「かねがねその噂を聞いておりました」と言った。そこで宋平公は太子痤を捕らえた。 太子痤は自殺したが、のちに無罪であることが判明した。平公は謀略を巡らせた恵牆伊戻を釜ゆでの刑に処した。
B.C.546春、晋の胥梁帯烏余を捕らえて、斉・魯・宋・衛が奪われた土地を返還した。
向戌が晋と楚を和睦させて戦をなくし、また自分の名声を上げようとして諸侯に働きかけて会合する役割を果たした。
7月2日、晋の趙武と楚の子皙が盟いを結び、正式な盟いで結ぶ言葉を調整した。
7月5日、諸侯は宋の西門の外で盟いを結んだ。
7月6日、平公は晋と楚の大夫を一緒にもてなした。そのとき、晋の趙武を一座の正賓とした。
7月9日、平公は諸侯の大夫と宋の蒙門の外で盟いを結んだ。
向戌が恩賞を望んで「この度、一命を捨てる思いで成功させた盟いの功績に相当する土地を頂きたい」とお願いしてきた。 そこで平公は向戌に60邑を与えたが子罕がこれを諌めたため、向戌はこれを辞退した。
B.C.544宋が飢饉になると平公は子罕の進言で公室の穀物を放出して民に貸しつけ、また大夫たちに余裕のある穀物を民に貸し付けさせた。 そこで宋では飢える人はいなくなった。
6月、晋が杞に城壁を築いた。そこで平公は華定を遣わした。
B.C.543宋の大廟で何ものかが痛ましげな声で叫んだ。また鳥が亳社で鳴いた。
5月6日、宋で大火事がおこり、共姫が没した。
7月、魯の叔弓が来聘して、共姫の葬礼に参加した。
宋の火災のために諸侯の大夫が会合して、宋に財物を贈ろうという相談をするため会合したが、終わっても宋に物を贈らなかった。
B.C.541春、向戌が鄭の虢で諸侯の大夫と会合した。
B.C.536宦官のが讒言して「華合比が国外に逃げた者を入れようとして盟いを結びました」 と言った。平公は調べさせるとその証拠があった。そこで平公は華合比を追放した。
B.C.534、9月、楚が陳を攻めて都を包囲した。宋平公は戴悪に命じてこれに参加させて陳を討った。
B.C.533、1月、華亥が楚霊王、叔弓、子大叔趙黶と陳で会合した。
B.C.532、9月、華定が晋平公の弔問に出かけた。
12月、平公は没した。
平公(甘)(ヘイコウ)【王】
甘公。
B.C.520、6月30日、平公は子朝の軍に大敗した。
平侯(蔡)(ヘイコウ)【王】
蔡侯(18(初代)代目)。名は盧。隠太子の子。~B.C.522。
B.C.529秋、楚平王が楚王となると、公子盧を探し出して蔡を再興させた。
B.C.527夏、費無極朝呉を讒言したため、蔡の人は朝呉を追放した。
平侯(衛)(ヘイコウ)【王】
衛侯(2(38)代目)。成侯の子。~B.C.335。
B.C.343即位する。
邴師(晋)(ヘイシ)【武官】
晋の臣。~B.C.552。
B.C.552晋平公欒盈を追放し、欒盈の一味である箕遺黄淵嘉父司空靖邴豫董叔・邴師・申書羊舌虎叔熊を殺した。
邴師(斉)(ヘイシ)【武官】
斉の臣。~B.C.548。
荘公の八人の勇士のひとり。
B.C.548、5月、斉荘公が崔杼に弑され、邴師ら州綽賈挙公孫敖封具鐸父襄伊僂堙は、この内乱で討ち死にした。
丙戎(ヘイジュウ)【武官】
斉の臣。丙ショクともいう。
丙戎の父が、懿公がまだ公子のころ狩猟の獲物を争って、懿公に勝った。
B.C.614、懿公は即位すると、丙戎の父の屍を掘り出して足を斬り、丙戎を下僕として御者とした。
B.C.609、5月、懿公は申池に遊んだとき、公に随行した丙戎は庸職と池で水浴びをしたが、丙戎は庸職をからかって鞭でこれを打った。
庸職が怒ると「人(懿公)に妻を奪われても怒らないのに、一度打たれたくらいで怒る必要はあるまい」と言うと
庸職は「自分の父が足きりの刑にされても恨みに思わない者と、どっちがふがいないのか」と言い返した。
そこで二人は相談して懿公を殺して竹薮の中に隠し、祝杯をあげて去った。
嬖叔(ヘイシュク)【武官】
晋の臣。晋平公の寵臣。
B.C.533、6月、智盈が没したが、晋平公はまだ葬らないでいるうちに酒を飲み音楽を催した。 膳宰屠蒯が嬖叔に酒を飲ませて「お前はわが君の目というべき者で、 わが君に代わって見ることを掌る者である。わが君のふるまいは宰相の亡くなった時にやるべきものではない。しかるにお前は見て見ぬふりをしている。 これでは見ることを掌らぬということだ」と諌めた。
平常生(ヘイジョウセイ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
幾度も死んではまた生き返るので、当時の人々は信用しなかった。
平仲節(ヘイチュウセツ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
河中の人。西晋末五胡の乱のときに長江を渡り括蒼山に入った。345年5月1日に中央黄老君からの迎えが来て、雲竜に乗って白日昇天した。
平都君(ヘイトクン)【文官】
魏の臣。
B.C.261平都君は魏安釐王に「王には、どうして合従されないのですか」と問うた。
「秦が垣雍を贈ると約束しているからだ」
「それは空約束でしょう。今、秦と趙は長平で持久戦に入っています。ここで六国が合従すれば、秦は滅びましょう。 そのため秦王は王の心変わりを恐れて垣雍の割譲を申し出たのです。秦は趙に勝てば、危険が去り、垣雍を割かないでしょうし、秦が敗れれば、割譲どころではありません」
安釐王は納得した。
敝無存(ヘイムソン)【武官】
斉の臣。~B.C.501。
B.C.501秋、斉は晋の夷儀を討った。このとき父が敝無存に妻をめとらせようとしたが、敝無存は辞退してその女を弟にめとらせ「今度の戦いで死ななかったら、 名門の高氏・国氏から妻をめとります」と言った。敝無存は夷儀を攻めるとき、真っ先に城壁に登って攻め入り、城門から外に出ようとしたが、城門の軒下のところで戦死した。
戦のあと斉景公は夷儀の人々に「敝無存のなきがらを見つけたものには、5戸分の田地を与え、国の課役を免除してやろう」と言った。 そのなきがらが見つかると、斉景公はなきがらに着せる衣を3度も送り、犀の皮で飾った車と高い車の覆いを与えて先に斉に帰らせた。その時、斉景公は柩車を引く人々を道に座らせ、 軍を引き連れて哭泣し、みずから車輪を推すこと3度に及んだ。
邴豫(ヘイヨ)【武官】
晋の臣。~B.C.552。
B.C.552晋平公欒盈を追放し、欒盈の一味である箕遺黄淵嘉父司空靖・邴豫・ 董叔邴師申書羊舌虎叔熊を殺した。
平陽君(ヘイヨウクン)【宰相】
趙の宰相。名は趙豹。恵文王の母の弟。陽文君ともいう。
武霊王の宰相となる。
B.C.272平陽君に封じられる。
B.C.263韓の上党太守馮亭が趙に上党を献上してきた。孝成王は平原君を招いて言った。
「馮亭が城邑17を趙に入れるというが、これを受けるのはどうだろうか」
「聖人は理由もなく利益を受けるのを、まことの災いの元としております」
「人がわしの徳になついているのだ。どうして理由がないというのか」
「韓が上党を秦に入れようとしないのは、秦の禍を趙に転嫁したいからです。強大な秦でさえ弱小の韓から得られないのに、弱小の趙が強大な秦から得られるものでしょうか。 かつ秦はすでにその地を耕し、軍を侵行させております。そうした秦と争ってはいけません。かならずお受けになりませぬように」
しかし孝成王はこれを聴かず上党を取った。
B.C.260趙は長平で秦と戦い、初戦で敗退した。そこで孝成王の命で、平陽君は鄭朱とともに秦に入り、和を講じたが、失敗に終わり、 趙は秦に大敗した。
孝成王は平原君のはかりごとを聴き入れなかったことを後悔した。
壁(ヘキ)【将軍】
秦の将軍。~B.C.239。
B.C.239没す。
辟公(ヘキコウ)【王】
宋公(30代目)。名は兵。休公の子。~B.C.372。
B.C.375即位する。
卞糾(ベンキュウ)【武官】
晋の臣。欒糾ともいう。
B.C.573悼公は即位すると、卞糾が馬を御することに巧みで、軍事を治めることを知って、悼公の戎御に任命した。
辺卭(ヘンコウ)【宰相】
宋の宰相。大司徒。宋平公の曾孫。
B.C.520華氏の一族が楚に亡命したため、辺卭は大司徒に任命された。
扁鵲(ヘンジャク)【在野】
名医。渤海郡の鄚の人。姓は秦、名は越人、少斉ともいう。
若い頃、賓客をおく館舎の舎長となった。そこに長桑君という隠者が賓客となって身を寄せたが、扁鵲だけは彼を奇人として、 終始うやうやしく待遇した。
およそ十余年ののち、長桑君はひそかに扁鵲を呼び「わたしは秘伝の医術を知っているが、年をとったのできみに伝授したい」と言い、懐中から薬を出して扁鵲に与え、 秘伝の医書をすべて与えた。
扁鵲は長桑君のことばに従い、薬を飲んで30日経つと、土塀の向こう側の人が見えるようになった。この眼力で病人を診ると、五臓の気血の凝り固まりがことごとく透視できた。
そこで医者となって斉や趙に逗留し、趙にいたころ扁鵲と称せられた。
B.C.501趙鞅が病んで昏睡に陥った。扁鵲は診察の後、家臣の董安于に「血脈が平静ですから、 昏睡しておられても心配には及びません。
むかし秦の繆公も7日間昏睡されたことがあります。そのとき目覚めて『わしは天帝の所に行って、とても楽しかった。 わしが長らく還らなかったのは、たまたま天帝に学んでいたのである。
天帝によると晋はそのうち大いに乱れようとしている。今後五世の間は安らかではないが、その後は覇者となるだろう。しかし年寄らぬうちに晋でその子が立ち、 父に代わって諸侯に号令にするが、その国は淫らになり、男女の区別がなくなろう』と告げました。
大夫公孫支がこれを記録しましたが、のちに秦の予言書として世に現れました。
晋の献公が内乱を招いたこと、文公が覇権を握ったこと、 襄公が秦を殽で破り、勝ち誇って淫乱をほしいままにしたことは、あなたもお聞き及びのことでしょう。
今、主君の病は繆公と同じであって、3日の後、必ず癒えましょう。癒えれば必ず何かおっしゃることでしょう」と言った。
はたして趙鞅は2日半経つと昏睡から目覚めて、扁鵲の言うとおりとなった。
董安于が趙鞅にこのことを告げたので、扁鵲は田地四万畝を賜った。
扁鵲は虢国を訪れた。虢の太子が病死した直後であった。扁鵲はその病状を詳しく聞くと「私は太子を生返らせることが出来ます」と言い、虢君に謁見した。
そこで扁鵲は、弟子の子陽に砥石で鍼を研がせ、体の外面にある腧穴、すなわち三陽、五会に鍼を刺した。 しばらくすると太子が蘇生した。そこで弟子の子豹に命じて、五分の熨り薬をつくり、八鹹の調合剤をまぜ、あわせて煮詰め、 それを次々と両脇の下に貼って温めさせた。
その後20日間で太子は回復した。天下の人は、扁鵲は死人を生返らせることができると言い合ったが、扁鵲は「わたしは死人を生返らせたのではない。当然に生きるものを、 わたしが単に起せただけのことである」と言った。
扁鵲は邯鄲を訪れ、その地に婦人を尊重する風俗があるのを聞くとただちに帯下医(婦人科医)となり、洛陽を訪れて、その住民が老人を敬愛すると聞くと、ただちに耳疾・ 眼疾および冷え込みなど老人病の医者となり、咸陽に入り、秦の人々が小児をよく愛護すると聞いて、ただちに小児科医となるなど、各地の人情風俗に適応して自在に変転した。
秦の太医令丞李醯は、自分の技術が扁鵲に及ばないのを知り、刺客をさしむけたため、扁鵲は刺し殺された。
卞随(ベンズイ)【在野】
夏王朝時代の賢人。
湯王が卞随に帝位を譲ろうとしたが、卞随は受けずに自ら椆水に投じて死んだ。
辺伯(ヘンパク)【文官】
周王朝の臣。~B.C.673。
恵王蔿国の菜園を取り上げて王の庭園とし、辺伯の邸宅が王宮に近かったので、 これを取り上げ、さらに子禽祝跪?父の田地を取り上げ、 石速の秩禄をも取り上げた。
B.C.675蔿国・辺伯・子禽・祝跪・詹父・石速は乱を起こし、かねて王室を恨んでいた蘇氏を中心として団結した。
秋、辺伯らは公子をかつぎ上げて恵王を攻めたが、恵王はこれを撃退した。勝つことができなかったので、 辺伯らは蘇氏の領地の温に出奔した。
そこで6人は衛と南燕の軍とともに周を攻め、恵王は温に逃げ、鄭の都櫟に移った。
冬、辺伯ら6人は公子頽を擁立した。
B.C.673夏、鄭厲公虢叔林父が挙兵し、 厲公は恵王と共に南門から都城に入り、虢叔林父は北門から入って頽を殺し、辺伯も誅殺された。


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