中国的こころ>列伝>列伝 サ
サ
- 瑣(サ)【王】
- 邾公。~B.C.666。
B.C.666、4月23日、瑣は没した。
- 佐(サ)【公子】
- 魏の公子。魏昭王の子。
公子佐は、弟の負芻を魏王に立てようとしたが、できなかった。
- 痤(宋)(ザ)【公子】
- 宋の公子。宋平公の子。~B.C.547。
公子痤は顔は美しいが、心がねじけていたため、向戌に恐れ嫌われていた。
B.C.547秋、公子痤の知り合いの楚の使者が宋を通過したため、公子痤は宋平公に願い出て郊外の野原で彼をもてなした。
側役の恵牆伊戻が公子痤のお供をしたが、恵牆伊戻はその場に到着すると公子痤を陥れようとして、
穴を掘って盟いの場所を作り、生贄を供え、その上に盟いの文書を載せ、公子痤の謀叛の証拠をかためた。
そして恵牆伊戻は都へ駆け戻って宋平公に公子痤の謀叛を讒言した。宋平公は人を遣わして調べてみると、はたしてその証拠があった。
そこで宋平公は夫人棄と向戌に相談すると、ふたりとも「かねがねその噂を聞いておりました」と言ったので、
公子痤は捕らえられた。公子痤は「佐だけはきっとわたしを助けてくれるだろう」と言ったが、
それを聞いた向戌が公子佐とむだな長話をして正午が過ぎた。そのため太子痤は救いがないと悟って自殺した。
- 痤(魏)(ザ)【公子】
- 魏の太子。
B.C.366秦と戦い、庶長国に捕らえられる。
- 宰我(サイガ)
- →宰予
- 蔡姫(サイキ)【女官】
- 斉桓公の夫人。
蔡姫は桓公の正夫人であったが、子がなかった。
B.C.656桓公と船中で戯れたとき、蔡姫は水練に巧みであったので、桓公が止めるのも聞かず船を揺さぶり続けた。桓公は怒って蔡姫を実家に返した。
蔡も怒って蔡姫を他に嫁入らせたため、桓公は兵を蔡に向けた。
- 蔡鳩居(サイキュウキョ)【武官】
- 楚の臣。
B.C.597、6月、邲の戦いで蔡鳩居は楚荘王に命ぜられて唐狡とともに唐恵侯に
「あなたのお力にすがって楚軍を救いたい」と申し入れて晋軍を大破した。
- 崔彊(サイキョウ)【文官】
- 斉の臣。崔杼の子。崔成の同異弟。
崔杼は東郭姜を後妻に迎えて崔明を生んだ。
一方、崔成は後嗣を廃されたため崔邑に引退したいと請うたが棠無咎と東郭偃は崔の町を与えることを拒んだ。
B.C.546秋、崔成と崔彊は腹を立てて慶封に相談した。
崔成は「無咎(棠無咎)と偃(東郭偃)だけが父(崔杼)のそばについており、親族も近寄ることができません。父君を害するのではないかと心配です」と相談してきた。
慶封は「しばらくじっとしておりなさい」と言い、 属大夫の盧蒲嫳にこのことを話した。盧蒲嫳は
「崔子はわが君の仇です。天が彼を見捨てようとするのかもしれません」と言ったので、慶封はいつわって崔成と崔彊に「父上のためになることなら、ぜひ殺しなさい。
わたしが助けましょう」と言った。
9月5日、崔成と崔彊は東郭偃と棠無咎を殺した。崔杼が慶封の所に行くと慶封は「彼らはどうしてそのようなことをしたのだろう。
ふたりの罪を正しましょう」と言い、盧蒲嫳に命じて兵を率いて崔氏を攻めてこれを滅ぼし、崔成は崔彊とともに殺された。
- 宰孔(サイコウ)【文官】
- 周王朝の臣。名は閲、字は忌父。卿士。周公。大宰。孔氏、大宰忌父、宰周公ともいう。
B.C.655夏、斉桓公が、魯・陳・衛・鄭・許・曹と周の太子鄭と首止で会合し、
太子鄭の地位を固め、周室の安泰を図る相談をした。周恵王は斉桓公が太子鄭の位を定めたことを恨んで、
宰孔に命じて鄭文公を呼び寄せて太子鄭の地位を固めさせないように謀った。
文公は喜んで、諸侯の盟いに参加せずに鄭軍を残して自らは帰国した。
B.C.651夏、宰孔は、斉桓公・魯釐公・宋襄公・
衛文公・鄭文公・
許僖公と葵丘で会合した。この会盟で、宰孔は斉桓公に祭に供えた肉や朱塗りの弓矢および参朝用の大車を賜わったが、
宰孔は堂下で拝礼することをしなくてよいと伝えた。しかし桓公は恐縮して、断って堂を降りて拝し、堂に登って胙を受けた。
この会盟で斉桓公が行ったような取り決めは天子がすることであったため、宰孔は帰国する途中に、
会盟に遅れて出席しようとする晋献公に「斉侯は驕れり。ただ往くこと無かれ」といい、欠席するよう勧めた。
その後で、宰孔は「晋侯(献公)は死ぬだろう。大霍山の険を城とし、汾河涑澮の4つの川を堀とし、戎狄が晋を取り巻いており、まさに大国です。
今、斉侯に徳があるかないかを考えずに旅に出るのは、その心を失ってしまったのです。君子が心を失えば、若死にしたり狂乱になったりします」と言った。
はたして献公はこの年に没した。
B.C.650、4月、宰孔は王子党と斉の隰朋と会合して、
晋恵公を擁立した。
B.C.630冬、宰孔は周襄王の命で、魯を聘問する。
B.C.613頃王が崩御した。宰孔は王孫蘇を相手取り、晋に訴えてさばきを受けようとしていた。
すると王孫蘇に味方していた周匡王は尹氏とタン啓に命じて宰孔の無実の罪を晋に裁いてもらうように取り計らせた。
そのため宰孔は頃王の崩御を諸侯に告げなかった。
晋の趙盾は王室の騒動を治めて元どおりにした。
- 祭公謀父(サイコウボウホ)【宰相】
- 周王朝の宰相。祭公。国王の卿士。字は謀父。
周穆王が犬戎を征伐しようとした。祭公謀父はこれを諌めて言った「いけません。先王は文徳を輝かせて、兵力を誇示しませんでした。
先王が民を治めるには、つとめて道徳を正し、生活を重厚にし、財貨を豊かにしたため、天下は保たれました。
武王は商王の紂を討ちましたが、これは武力を務めたのではなく、民の苦しみを憐れんだためなのです。
たとえ来朝しなくても、さらに徳を修めて、遠征のために人民を苦しめるべきではありません。そうすると、近隣の国で心服しないものはなく、
遠方の国で服従しないものはありません。今、犬戎の大畢と伯士が死んで、犬戎は来朝しました。
それなのに征伐されると、必ず失敗なさるでしょう」
しかし穆王は聴き入れず、犬戎を征伐して、白狼4頭と白鹿4頭を得て帰った。しかしこの時から荒服の戎狄は来朝しなくなった。
- 犀首(サイシュ)【宰相】
- 縦横家。秦、魏の宰相。姓は公孫、名は衍。
魏の陰晋の人。
犀首とは古の官名で、かつて公孫衍がこの官にあったため、彼の異称となった。一説には彼の号ともいう。
犀首は張儀と仲がよくなかった。
B.C.333犀首は秦で大良造に任じられる。
B.C.331犀首は魏を討ち、魏将竜虎を捕らえ、8万を斬った。
B.C.323張儀が連衡策を勧めているのを知った犀首は、合従策をとってこれに対抗した。
B.C.322張儀が魏に来て、宰相となった。犀首は人をやって韓の公叔に「張儀はすでに魏と秦を同盟させた。これでは韓はあやうい。
どうして韓の国事を任せて衍の功労とさせないのか。そうすれば秦・魏の国交は止み、魏は張儀を棄てて、韓と親しみ、衍を宰相とするだろう」と言わせた。公叔はもっともと思い、
韓の国事を犀首にまかせた、はたして犀首は魏で宰相となり、張儀は魏を去った。
犀首は閑職に追いやられたので、酒ばかり飲んでいた。縦横家の陳軫が魏に来て
「きみはどうして王に『わたくしは燕・趙の王と旧交があり、しばしば人をよこし、
仕事がないならどうしてわしに会いに来ないのかと言われます。どうか、わたくしが燕・趙に行くのをお許し願いたい』と言わないのか。そして燕・
趙に行くことを明言するのがよい」と言った。
犀首がそのとおりにすると、燕・趙の人々はこれを聞き、自らの王に犀首を迎えさせるようにした。犀首が北行すると斉・燕・趙の三カ国の宰相に任じられた。
B.C.318犀首は楚懐王を長として、趙・魏・韓・燕と連合して秦を攻めた。
B.C.314犀首は秦の樗里疾に攻められ、曲沃を失い、岸門へ走った。
義渠の君が魏に入朝した。犀首は張儀が秦の宰相となったことを不利に思い、義渠の君に「六国が秦を攻めないと、秦はあなたの国を攻めましょう。もし諸侯が秦を攻めると、
秦は手厚い贈り物をあなたにするでしょう」と言った。
はたしてそのとおりとなり、義渠の君は「これぞ公孫衍が予言したことなのだろうか」と言って諸侯にならって秦を討った。
B.C.309張儀が没すると、犀首は迎えられて秦の宰相となり、連衡策を勧めた。
B.C.307甘茂が5ヶ月たっても韓の宜陽を攻略できなかった。犀首は樗里疾とともに甘茂を非難したので、
秦武王は甘茂を召還しようとした。しかし甘茂は武王と誓い合っていたので武王は讒言を聴き入れず、
全軍を動員してふたたび甘茂に宜陽を攻撃させた。
犀首は秦武王に可愛がられ、武王は犀首に「わしはきみを宰相にしようと思う」とこっそり話した。甘茂の部下が通りすがりにこれを聞き、甘茂に伝えた。
甘茂はすかさず武王にお目見えして言った。
甘茂「王には優れた宰相を得られたとのこと、お喜び申し上げます」
武王「きみはどこからそれを聞いたのか」
甘茂「公孫衍(犀首)が臣に告げました」
武王は犀首が秘密を洩らしたことに立腹し、犀首は国外に追放された。
- 宰周公(サイシュウコウ)
- →宰孔
- 祭叔(サイシュク)【公子】
- 祭の公子。祭君の弟。
B.C.671春、祭叔は魯を聘問した。
- 蔡叔度(サイシュクド)【王】
- 蔡公(初代)。名は度。周武王の弟。
B.C.1023武王が商を滅ぼすと、蔡に封じられ、紂王の子禄父を補佐して、商の遺民を治める。
B.C.1021武王が崩じ成王が幼少で即位して、周公旦が王室の権をもっぱらにしたので、
周公旦を排除しようとして禄父を擁して反乱を起こした。しかし周公旦に鎮圧されて、辺地に移された後没す。
- 崔如(サイジョ)【将軍】
- 斉の将軍。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、崔如は後陣夏之御寇の右役となった。
- 崔成(サイセイ)【文官】
- 斉の臣。崔杼の子。
崔杼は東郭姜を後妻に迎えて崔明を生んだ。
一方、崔成は罪を犯したため義兄の棠無咎と叔父の東郭偃に処分され後嗣を廃された。
崔成は崔邑に引退したいと請うたため崔杼はこれを許したが棠無咎と東郭偃は崔の町を与えることを拒んだ。
B.C.546秋、崔成と崔彊は腹を立てて慶封に相談した。
崔成は「無咎(棠無咎)と偃(東郭偃)だけが父(崔杼)のそばについており、親族も近寄ることができません。父君を害するのではないかと心配です」と相談してきた。
慶封は「しばらくじっとしておりなさい」と言い、 属大夫の盧蒲嫳にこのことを話した。盧蒲嫳は
「崔子はわが君の仇です。天が彼を見捨てようとするのかもしれません」と言ったので、慶封はいつわって崔成と崔彊に「父上のためになることなら、ぜひ殺しなさい。
わたしが助けましょう」と言った。
9月5日、崔成と崔彊は東郭偃と棠無咎を殺した。崔杼が慶封の所に行くと慶封は「彼らはどうしてそのようなことをしたのだろう。
ふたりの罪を正しましょう」と言い、盧蒲嫳に命じて兵を率いて崔氏を攻めてこれを滅ぼし、崔成は崔彊とともに殺された。
- 蔡沢(サイタク)【宰相】
- 秦の宰相。剛成君。燕の人。
諸方に遊学して、諸侯に仕官を求めたが、用いられなかった。
あるとき唐挙という人相見に人相を見てもらうと、唐挙は「先生の寿命は今から43年でしょう」と言った。蔡沢は笑いながら礼を述べて立ち去り「上粱・肥肉を食い、宰相の印綬を結んで君主の前に侍る。
こうした富貴が極められれば、あと43年の寿命で充分だ」と言った。
趙に赴くが、趙を追われ、韓・魏に向かう途中、賊に釜や鍋を奪われた。
その時、秦の宰相范雎が自分の推薦した鄭安平と王稽が重罪を犯し、范雎が内心慚愧していると聞き、
秦に赴いて人をやって范雎に「燕の客人蔡沢は天下きっての俊秀で、ひとたび秦王に謁見するなら、応侯を苦しめ宰相の地位を奪うだろう」と言わせた。
范雎はそこで蔡沢を呼ばせた。蔡沢は「かの商君(商鞅)・呉起・大夫種・
白公(白起)らは国家に忠誠で、功は計り知れないのに最期には殺されました。これは范蠡を見習わなかったためです。
ところであなたの功は極まったのに、高位に坐しておられます。どうしてあなたは宰相の印を帰し、賢者に譲って引退されないのですか」と言った。
范雎は「よろしい」と言い、蔡沢を上客として待遇し、彼を昭襄王に推挙した。
昭襄王はあらたに蔡沢の計画を採用して、彼を宰相とした。
宰相となって数ヶ月で自分をそしる者があったので、蔡沢は誅殺されることを恐れて病と称して宰相の印を返上した。
のち剛成君と号し、昭襄王・孝文王・秦王政に仕えた。
B.C.239秦は蔡沢を燕にやった。蔡沢は3年かけて同盟を成功させ、燕は太子丹を人質に送ってきた。
- 祭仲(サイチュウ)【宰相】
- 鄭の宰相。字は仲足。~B.C.681。
祭仲は祭で国境を守る役人をしていた。
祭仲は鄭荘公に寵愛を受け、卿となった。
B.C.743鄭荘公は即位すると弟の段を京に封じた。
祭仲「京の城はあまりに広大で、おきてにかなっておりません。わが君にはその圧迫にたえられなくなるでしょう」
荘公「母上が望んでおられるのです。しかたのないことです」
祭仲「姜氏(武姜)はこれで満足されないでしょう。今のうちに早く適当な処置をするべきです」
荘公「不義を重ねていけば、自分から倒れるでしょう。しばらく待ちなさい」
やがて段は鄭の西境と北境の2つの地方の人々を買収して自分に従わせるようにした。のち段はやはり叛乱を起した。
祭仲は荘公のために夫人鄧曼を迎え、太子忽(昭公)が生まれた。
B.C.718鄭は衛を攻めた。衛は南燕の軍を率いてこれに対応した。祭仲・原繁・
泄駕が鄭の三軍を率いて南燕軍の前方に陣し、
公子曼伯と子元に命じてこっそりと制の軍を率いて南燕の背後に陣をとらせた。
南燕軍は鄭の三軍を恐れて、制の軍に気がつかなかった。
6月、鄭の曼伯と子元は南燕軍を北制で撃ち破った。
B.C.707周桓王が鄭荘公の政権を奪ったので、荘公は怒って周に参朝しなくなった。
秋、桓王は陳・蔡・虢・衛の兵を率いて鄭を討った。虢公林父は右軍の将となり、蔡・衛の軍はそれに付いた。
桓公は左軍の将となり、陳の軍がそれに付いた。
子元が「陳は乱れて、その民は戦う心がありません。真っ先に陳の軍を攻め立てたら、逃走するでしょう。
周王の軍はそれを見たら、きっと乱れるでしょう。そこを集中攻撃すれば、事は成功いたします」と進言したので、鄭荘公はそれに従った。
鄭荘公は曼伯に右軍を、祭仲に左軍を率いさせ、原繁と高渠弥に中軍を率いさせて自らを守らせ、魚麗の陣をつくり、
兵車を前に歩兵を後ろにして、鄭の繻葛で戦った。
鄭の左右軍は連合軍の左右の軍を破り、桓王の軍も乱れた。そこで鄭軍は集中してこれを攻撃したので、桓王の軍は大敗した。(繻葛の戦い)
この戦いで祝瞻が矢を王の臂に当てた。祝瞻は追撃を請うたが、荘公は
「長上を犯すことさえはばかりがあるのにましてや天子をしのごうとするのはよくない」と言って、追わせなかった。
その後、祭仲をつかわして王の傷を見舞わせた。
B.C.705斉釐公は文姜を太子忽に嫁がせようとしたが、
忽は「私は斉に何もしなかった時でさえ、妻に迎える気がなかった。しかるに今、わが君の命令によって斉国の危急に出かけ、妻を娶って帰るならば、
戦争を口実として結婚したことになる。民は何と言うだろうか」と言い、再び辞退した。
祭仲は「必ず娶りなさい。わが君荘公には内寵多くて公子が多くあるのに、
あなたには大きな後ろ盾がない。このままでは君となることがむずかしい」と言って諌めたが、忽は拒絶した。
B.C.701荘公が没した。
宋の大夫雍氏の娘雍姞が荘公に嫁ぎ、公子突を生んでいたので、
宋は公子突を即位させようと謀った。祭仲が宋に誘われて宋に赴いたところ捕えられ、「突を鄭の君にしなければ命はない」と脅された。一方で宋は公子突も捕えて、
鄭に賄賂を要求した。
祭仲は盟って約束し、公子突をつれて鄭に帰り、これを君とした。(厲公)
B.C.697祭仲は思うがままのふるまいをしていたため、厲公にその権力を疎んじられた。厲公は祭仲の娘婿雍糾に祭仲暗殺を命じた。
雍糾は悩んで妻の雍姫に相談した。雍姫はその母親に「父と夫はどちらが親しいものでしょうか」と問うた。
母は「父は一人しかいないが、男はみな夫にできます」と答えたので、彼女は祭仲にこのことを告げた。祭仲は怒って雍糾を殺した。そのため厲公は櫟に出奔した。
祭仲はふたたび昭公を迎えて、国君とする。
B.C.695昭公が高渠弥に射殺されると、祭仲は高渠弥とともに子亹を即位した。
B.C.694秋、斉襄公が会盟の召集をかけ、子亹がそれに応じようとすると、
祭仲は子亹が公子時代に襄公と喧嘩沙汰になったことを理由に行くことを諌めたが、聴き入れられなかった。
そこで祭仲は自分も殺されると思い、病と称して行かなかった。子亹は結局殺されてしまった。ある人が「祭仲は智恵を働かせて逃れた」と言って謗ると、
祭仲は「そのとおりだ」と言ったという。
祭仲はそこで昭公の弟の公子嬰(子儀)を陳から迎えて即位させた。
- 蔡仲(サイチュウ)【王】
- 蔡侯(初代)。名は胡。蔡叔度の子。
蔡叔度が反乱を起こしたため、辺地に移されていた。しかしおこないを改めて徳にしたがい善に従ったため魯の卿士(行政長官)に取り立てられた。
魯の国はよく治まったので、周公旦は成王に言上し、蔡国を復興して胡を封じ、
蔡叔の祭祀を継承させた。
これを新蔡といい、胡は蔡仲と呼ばれる。
- 崔杼(サイチョ)【宰相】
- 斉の宰相。崔武子ともいう。~B.C.548。
崔杼は斉恵公に寵愛された。
B.C.599夏、斉恵公が没すると、(斉の正卿)高・国二氏は崔杼が自分達に圧力をかけることを恐れ、崔杼を国外に追放した。そのため崔杼は衛に出奔した。
B.C.574崔杼は大夫に任命され、慶克を補佐として謀叛を起こした国弱を盧に討った。
12月、盧が降服した。
B.C.573、12月、崔杼は晋悼公・魯の孟献子・宋平公・
衛献公・邾宣公と虚朾で会合して同盟した。
B.C.571冬、崔杼は孟献子・智罃・華元・
孫文子・曹人・邾人・滕人・薛人・小邾人と戚で会合して虎牢に城を築いたので、鄭は諸侯と和睦した。
B.C.567冬、斉は萊を滅ぼした。崔杼は高厚とともに斉の領地となった萊の耕地の境界を正し定めた。
B.C.564、10月、晋が諸侯とともに鄭を討ち、崔杼はこれに参加した。
B.C.563秋、諸侯が鄭を討つことになった。崔杼は太子光を遣わしてまっさきに諸侯の軍に参加させた。
そのため太子光は滕公よりも上席として扱われた。
B.C.559春、呉が楚と戦って大敗したことを晋に告げてきた。崔杼は晋・魯・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾と向で会合した。
夏、崔杼は晋・魯・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾と共に秦を討ったが、崔杼は怠って働かなかった。
B.C.554斉霊公が病気になると、崔杼はこっそり公子光を迎え入れ、斉霊公が危篤になると公子光を太子に立てた。公子光は即位して自分を廃した戎子を殺した。
8月、崔杼は高厚を斉の灑藍で殺し、その家財をわがものとした。
B.C.550秋、斉荘公が欒盈の乱につけこんで衛を討ってさらに晋を討とうとした。崔杼は「小国が大国の禍乱につけこんで攻めると、
必ず罰を受けるといいます」と諌めたが、聴き入れられなかった。田須無が崔杼に会って「君をどうなさる考えか」と尋ねると、
崔杼は「わたしは進言しましたが、聴き入れられませんでした。晋を盟主と仰いでおりながら、晋の禍につけこんで討とうとしておられる。
われわれが晋に討たれるという危急にせまられたら、君に遠慮などしましょうか(殺します)。まあじっとしておられよ」と答えた。田須無は立ち去って、
従者に「崔氏はやがて死ぬであろう。君を非難しながら、自分はそれ以上のことをしようとしている。きっと満足な死に方はできないであろう」と言った。
B.C.549、7月、崔杼は軍を率いて使いする田無宇を見送り、ついでに莒を討って介根を侵略した。
B.C.548春、崔杼は魯の北境を討った。前年に魯が斉を討ったことに対する報復であった。しかし斉軍は何もすることなく帰った。
さて崔杼の家臣東郭偃の姉東郭姜は棠公の夫人であった。棠公が死んだ時、
崔杼は弔いに出かけたが、東郭姜を見て美人であるのに感心し、東郭偃に命じて妻に迎えようとした。東郭偃や田須無が反対したが、崔杼はこれを妻に迎えた。
斉荘公は東郭姜に通じ、たびたび崔家に出かけた。そのため崔杼は斉荘公に恨みをいだいて殺そうと思ったが、その隙がなかった。
5月、莒犂比公が斉に来聘した。
5月16日、斉では犂比公を北の外城でもてなしたが、崔杼はわざと病気と称して政務をとらなかった。
5月17日、斉荘公ははたして崔杼の病気見舞いをしたが、そのまま東郭姜の部屋に入った。
斉荘公のそば役賈挙が門を閉めて斉荘公を閉じ込めて、待ち伏せの兵士がどっと現れた。斉荘公は許しを請うたが、
兵士は許さずにこれを弑した。崔杼はさらに斉荘公のお気に入りの鬷蔑を平陰で殺した。
晏嬰が騒ぎを聞いてやって来て哭泣する礼をして立ち去った。
部下が「彼を殺しなさい」と勧めたが、崔杼は「彼には人望がある。このままにしておいて民心を得ることにしよう」と言った。
5月19日、崔杼は斉霊公の子景公を擁立し、自分はその宰相(右相)となり、
慶封を左相に任命した。
5月23日、斉景公は大夫たちや犂比公と盟った。斉の太史が「崔杼、其の君を弑す」と記録したため、崔杼は怒って彼を殺した。
するとその弟が同じことを書いたため、崔杼はまた彼を殺した。しかしその末弟がまた同じことを書いたので崔杼はあきらめて、そのままにした。
南史氏は史官が殺されたのを聞いて朝廷に赴いて記録しようとしていたが、記録されたことを聞くと引き返した。
崔杼は内乱を恐れ「崔・慶に与しないものはこれを殺す」と宣言した。
崔杼は斉荘公のなきがらを一重の棺に入れて北の城外にすえ置いた。
5月29日、崔杼は斉荘公を士孫の里に葬った。
諸侯は会合し、晋平公は斉に逃れていた衛献公を迎えようとした。崔杼は衛献公の妻子を人質に斉に留め置いて、
衛の五鹿の地をもらおうとした。
B.C.546崔杼には崔成・崔彊という子があったが、妻に先立たれて東郭姜を後妻に迎えて崔明を生んだ。
東郭姜の連れ子の棠無咎と弟の東郭偃はともに崔氏を助けた。崔杼が病身であったため、彼らは世継をやめさせて崔明を立てた。
そこで崔成は崔の町に引退して老後を送りたいと願い出たたため崔杼はこれを許した。ところが棠無咎と東郭偃は崔の町を与えることを拒んだため、
崔成と崔彊は腹を立てて慶封に相談した。
9月5日、崔成・崔彊と棠無咎・東郭偃の争いが起こり、棠無咎・東郭偃が殺された。崔杼は怒って外に出ると、家中の者はみな逃げ出した。
崔杼は人を捜して馬車を準備させようとしたが人もなく、ようやく馬飼いに準備させて、小臣が馬車を御して出かけ、そのまま慶封の所に行って助けを求めた。
慶封は「彼らはどうしてそのようなことをしたのだろう。ふたりの罪を正しましょう」と言い、
盧蒲嫳に命じて兵を率いて崔成と崔彊を殺し、さらに崔氏まで滅ぼした。崔杼はこれを聞いて首をくくって死んだ。
斉景公は崔杼の屍を市上にさらして見せしめとした。
- 蔡朝(サイチョウ)【文官】
- 斉の臣。
B.C.592春、斉頃公は晋の使者郤克を辱しめた。
郤克は怒り、斉を討伐して恨みを晴らそうと考えた。
そのため斉頃公は高固、晏弱、蔡朝、
南郭偃を遣わして諸侯の会合に参加させることにした。しかし高固は途中でおそれて帰国した。
諸侯は巻楚で同盟を結んだが、この同盟から斉の使者は除外され、蔡朝は捕えられて原に幽閉された。
B.C.591春、晋が衛とともに斉を討ち、陽穀に攻め入った。斉頃公は公子彊を人質にして晋と和睦した。
蔡朝はこの機会に、逃げて斉に帰った。
- 宰琱生(サイチョウセイ)【宰相】
- 周王朝の宰相。
宣王に仕える。
- 崔天(サイテン)【武官】
- 斉の臣。
B.C.632晋文公・宋成公・
秦の将軍小子憗とともに城濮で楚を破った。
- 蔡伯荒(サイハクコウ)【王】
- 蔡侯(2代目)。蔡仲の子。
- 崔文子(サイブンシ)【神】
- 仙人。列仙伝に見える。
黄帝の術に熱心で、自分では300歳だと称していた。疫病が流行ったとき、黄散をさげて各戸とまわり、
その散薬を服んだものはたちどころに病気が治ったという。
- 蔡墨(サイボク)【文官】
- 晋の史官。
B.C.513秋、竜が絳の郊外に現れた。魏献子は蔡墨に竜について問うた。
趙鞅と荀寅が軍を率いて汝兵に城壁を築き、さらに一鼓の鉄を出させて刑法を刻む鼎を作り、
范匃がかつてつくった刑法の文を刻んで人民に示した。蔡墨は「范氏と中行氏は滅びるであろう。
中行寅は下卿でありながら上の権限や命令を無視して勝手に刑法の鼎を作り、国法と定めた。さらに范氏も邪悪の仲間に入れ、さらに趙氏にも災いが及ぶであろう」
と言った。
趙簡子に魯の季氏は滅びるかと問われたとき「魯君は国政からはなれ、季氏は政権を手にして4代になります。
人民が国君を知らない始末では、国君といえども国権を回復することはできません」と回答する。
- 崔明(サイメイ)【文官】
- 崔杼の子。母は東郭姜。
崔杼には崔成・崔彊という子があったが、妻に先立たれて東郭姜を後妻に迎えて崔明を生んだ。
東郭姜の連れ子の棠無咎と弟の東郭偃はともに崔氏を助けた。
崔杼が病身であったため、彼らは世継をやめさせて崔明を立てた。
B.C.546、9月5日、 崔成とが崔彊が棠無咎と東郭偃を殺し、乱に介入した慶封が崔氏を滅ぼした。
9月6日、崔明は魯に亡命した。
- 宰予(サイヨ)【文官】
- 孔子の弟子。名は予、字は子我。B.C.522~B.C.481。
魯の人。孔門の十哲のひとり。
弁舌がさわやかであった。
3年の喪が長すぎるので1年に縮めてはどうかと孔子に問うた。孔子は「予(宰予)には仁の心がない。子は生後3年で、ようやく父母の懐から離れるもの。
だから3年の喪は天下の通用の道理であろう」と言った。
また宰予が学問を怠って昼寝をした。孔子は「朽ちた木には彫刻できない。糞土で築いた土塀には壁ぬることができない」と言った。
宰予が五帝の徳について問うと、孔子は「予には五帝の徳を論ずる資格がない」と言った。
宰予は斉の大夫となった。
B.C.481宰予は田常の乱に加わって、一族が皆殺しにされた。孔子はこれを恥とした。
- 崔夭(サイヨウ)【武官】
- 斉の大夫。
B.C.632衛の城濮に陣地を構え、晋文公とともに楚を討った。
- 左鄢父(サエンホ)【文官】
- 周王朝の臣。
B.C.636冬、周襄王が狄に攻められて鄭の氾に出奔した。
襄王の命で左鄢父は秦に、簡師父は晋に使いして叛乱のことを伝えた。
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