- 傅瑕(フカ)
- →甫瑕
- 夫概(フガイ)【公子】
- 呉の公子。闔閭の弟。夫槩とも書く。
B.C.506冬、呉は蔡・唐とともに楚を討ち、呉軍は五度戦って五度勝った。
11月19日、楚・呉の両軍は柏挙に陣を構えた。夫概は早朝に願い出て「楚の瓦(子常)は愛情がないため、
部下は討死する覚悟がありません。先にこれを討てば必ず逃げ出しましょう。そこを大軍をもって攻めたらきっと勝でしょう」と進言したが、闔閭は聴き入れなかった。
しかし夫概は勝手に5,000人の兵を率いて真っ先に子常の軍を攻撃した。子常の軍が逃げ出したため楚軍は乱れて呉軍は楚軍を大いに討ち破り、
史皇を戦死させた。
呉軍は楚軍を追撃して清発の川まで来て、ここでも楚軍を討ち破った。夫概は「追いつめられると獣でさえも戦います。先に川を渡った者には助かると思わせ、
あとに続く者にも助かると思わせれば戦う気はおこらないでしょう。半分ほど渡ったら攻めかかるのがよろしいでしょう」と進言した。闔閭はこの意見に従ってまたも楚軍を討ち破った。
11月29日、呉軍は郢に攻め入り、王宮内に居を定めた。王子子山が令尹の家に落ち着いたため、
夫概はこれを攻め取ろうとした。王子子山は恐れて立ち去った。
B.C.505呉は秦、越に攻められ敗北を喫した。
9月、夫概は闔閭が楚の地から帰国できない情勢であることを見て取ると、呉に戻り自立して王となった。しかしすぐに闔閭に敗れたため楚に亡命し、
楚昭王に堂谿に封じられ、堂谿氏と称す。
- 巫咸(商)(フカン)【文官】
- 商王朝の臣。史官。
王事に尽くして功があり、伊陟に表彰される。
- 巫咸(フカン)【神】
- 神巫。
10人の神巫とともに天から降り、そこには百薬があると信じられた。
- 婦姜(フキョウ)【女官】
- 魯文公の夫人。斉の公女。
B.C.623夏、婦姜は魯文公に嫁いだ。
- 武姜(ブキョウ)【女官】
- 鄭武公の妻。申君の娘。
荘公(寤生)、段を生む。寤生は逆子であったため、段を愛した。
B.C.744荘公が病気になると、段を太子に立てて欲しいと願ったが、公は聴き入れられなかった。
荘公が位につくと、段を制という要害の地を与えて欲しいと願ったが、断られたので京の地を所望して、段をそこに封じた。
やがて段が叛乱を起そうと軍勢を整え、鄭の都を討とうとし、武姜はその手引きをする計画をたてた。
B.C.722段が叛乱を起こそうとし武姜はこれに内応するが、荘公に討たれて失敗し、城潁に幽閉される。
- 負局先生(フキョクセンセイ)【神】
- 仙人。列仙伝に見える。
鏡研ぎをしていたが、よく注文主に誰か病気で苦しんでいるものはないかと聞き、もしあれば赤い丸薬を取り出して与えた。治らない者はなかったという。
疫病が大流行したとき家々を訪れて薬を与え、代金はもらわなかったため、呉の人々は非凡な真人であると称した。
- 伏犠(フクギ)【神】
- 中国の伝説上(神話上)の創始者。
伏犠は女禍・神農と並んで三皇と称される。女禍と同一視され、伏犠は男神、
女禍は女神とされる。
伏犠の上半身は人間の形をしており、蛇の尾を持つとされる。
伏犠は自然の秩序を基本とした知識で占いをするための最初の八卦をつくった。また伏犠は蜘蛛が巣を作るのを見て、結び目のついた縄を網にしたものを作り、
狩や魚釣を人間に教えた。
また最初の聖なる夫婦として女禍と結ばれたとされ、音楽を作り人間に教えたとされる。
伏犠は庖犠とも書かれる。庖は「包み込む」とか「偉大である」という意味で、犠は「いけにえ」という意味。
いけにえになるのは完全な姿でないといけないから、「完全なもの」という意味となり、伏犠は偉大にして完全なものとされる。
伏犠は、任・宿・須句・顓臾の4国の祖とされる。
- 宓羲(フクギ)【神】
- 宓妃の父。
- 偪姞(フクキツ)
- →文嬴
- 復遂(フクスイ)【文官】
- 楚の臣。期思公。
B.C.617冬、楚穆王と宋昭公と鄭繆公が孟諸で狩をしたとき、
復遂は右司馬となってこれに参加した。
- 腹トン(フクトン)【在野】
- 思想家。墨家の鉅子(指導者)。
腹トンの子が殺人を起した。秦恵文君はこれを赦してやろうとしたが、腹トンは「墨家の法では『人を殺す者は死し、
人を傷つける者は刑せらる』のです。これは人の殺傷を禁じるためであり、これはまた天下の『大義』です」と言い、私情に背いて大義を行った。
- 宓妃(フクヒ)【女官】
- 黄河または洛水の女神。宓羲の娘。雒嬪ともいう。
洛水に溺れて洛水の女神となった。
羿の妻となる。
- 宓不斉(フクフセイ)【文官】
- 孔子の弟子。字は子賤。B.C.521〜。
宓不斉が単父の邑宰となったとき、孔子に報告して「この国にわたくしより賢い者が5人おり、治国の方法を教えてくれました」と言った。孔子は「惜しいことじゃ、
不斉の治める土地の狭いのが。もし広かったら、すばらしい政治をやるだろうに」と言った。
- 服閭(フクリョ)【神】
- 仙人。列仙伝に見える。
ある廟に三人の仙人がいて、瓜を賭けて博打をしていた。そして服閭を雇い、その瓜を買いに行かせた。目をつぶるように命じられるとそこは方丈山であり、
そこから珍宝珠玉をもって帰り、それを売ることが出来たという。
- 鳧徯(フケイ)【神】
- 鳧徯は人間の顔をした雄鶏で、鳴くとき自分の名前を呼び、その鳥が現れると戦争が起るという。
- 不降(フコウ)【皇帝】
- 夏王朝12代王。泄の子。
- 婦好(フコウ)【女官】
- 武丁の夫人。
青銅器の銘文の中に見える。甲骨文には妣辛とみえる人物で、妣辛は廟号といわれる。
- 武公(鄭)(ブコウ)【王】
- 鄭公(2代目)。名は掘突、滑突とも書く。桓公の子。〜B.C.744。
B.C.770即位する。
B.C.761申の君の娘を娶って夫人とする。
B.C.744病んだとき、夫人に末子段を太子に立てて欲しいと請われたが聴き入れなかった。
- 武公(晋)(ブコウ)【王】
- 晋曲沃の公(初代(3))。名は称。荘伯の子。〜B.C.675。
B.C.709陘廷と謀り、宗家の晋哀侯を翼に討つ。韓万が御者となり、
梁弘が右となり、哀侯を汾水のほとりで追撃し、夜にこれを捕え、
その輔佐をしていた欒成を捕えた。
しかし宗家が小子を立てたため、韓万に命じて哀侯を殺す。
武公は捕えた欒成に向かって「無駄死にしてはならぬ。わしはあなたを上卿に命じて晋の政を執らせようと思うのだ」と言った。
しかし欒成は「わたくしが私利によって人の道を破棄するならば、君侯はどうやって民に教えるのですか。その上、君侯に仕えて二心を持つならば、
君侯はわたくしをどのように用いられるのですか」と言って、ついに戦って死んだ。
B.C.704武公は晋の小子侯をおびき寄せて弑した。周王朝の命で虢が侵入して湣侯を擁立したので、
武公は曲沃に帰った。
B.C.703秋、虢公林父、芮伯、梁伯、荀侯、賈伯に攻められた。
周釐王が虢公忌父に命じ、武公が一軍(12,500人)をかまえて晋侯になれるように世話させた。
武公は夷を討って、夷詭諸を捕えた。周の蔿国の夷詭諸の命乞いをしたので、
武公はこれを釈放した。
しかし夷詭諸が蔿国にお礼をしなかったので、蔿国は武公に「わたしと力を合わせて夷を攻めて、その領地を取りなさい」と言った。
そこで武公は夷を討ち、夷詭諸を殺した。
B.C.677晋湣侯を討ち滅ぼす。その宝物をことごとく賄賂として周釐王に献上し、
正式に晋の君となり、諸侯の列に加わった。
これにより晋の土地はことごとく合併され、武公は晋の武公に号を改め絳に都する。
B.C.676春、虢公と晋武公は周に入朝した。周恵王は宴を開いて甘酒を賜わり、引き出物を贈った。
それは玉5対と馬3匹ずつであったが、虢公、晋公とも同じであった。人はこれを批難した(虢は公爵、晋は侯爵で身分が異なるため)。
武公は虢公と鄭厲公とともに原荘公を使者として、
陳から恵后を迎えさせた。
- 武公(周)(ブコウ)【王】
- 東周の王。
- 武公(斉)(ブコウ)【王】
- 斉公(8代目)。名は寿。献公の子。〜B.C.826。
- 武公(魯)(ブコウ)【王】
- 魯公(9代目)。名は敖。真公の弟。〜B.C.816。
B.C.825即位する。
B.C.818春、長子括および末子戯とともに宣王に朝見する。
B.C.816没す。
- 武公(燕)(ブコウ)【王】
- 燕公。昭公の子。〜B.C.571。
B.C.590即位する。
- 武公(曹)(ブコウ)【王】
- 曹公(19代目)。名は勝または滕。成公の子。〜B.C.528。
B.C.554春、成公が没したので、公子勝は即位した。
B.C.553、6月3日、武公は晋平公・魯襄公・斉荘公・
宋平公・衛殤公・鄭簡公・莒の君・
邾の君・滕の君・薛の君・杞文公・小邾の君と会合して、澶淵で盟った。
B.C.552武公は魯を聘問した。
冬、武公は晋平公・斉荘公・宋平公・衛殤公・鄭簡公・魯襄公・莒の君・邾の君とともに商任で会合した。
諸侯は晋を出奔した欒盈を受け入れることのないように取り決めた。
B.C.551冬、武公は晋平公・斉荘公・宋平公・魯襄公・衛殤公・鄭簡公・莒の君・邾の君・薛の君・杞文公・小邾の君と沙隋で会合した。
会合では欒氏を受け入れないように話し合った。
B.C.549秋、曹武公は晋平公・魯襄公・衛殤公・宋平公・鄭簡公・莒犂比公・邾悼公・
滕の君・薛の君・杞文公・小邾の君と夷儀で会合し、斉を討とうとしたが、大水が出て斉を討つことができなかった。
B.C.548夏、武公は泮から泮水を渡り、晋平公・魯襄公・宋平公・鄭簡公・衛殤公・莒犂比公・邾悼公・滕の君・薛の君・杞文公・
小邾の君と夷儀で会合して斉を討ち、朝歌の戦い(B.C.550)の報復をした。
武公は諸侯と会合し、晋平公は斉に逃れていた衛献公を迎えようとした。
7月11日、斉が降服したので、武公は諸侯と重丘で同盟した。
B.C.546武公は人を遣わして宋での会合に参加させて、諸侯と盟った。
B.C.544、6月、晋が杞の城壁の工事をした。武公はこれを援助した。
B.C.538夏、楚霊王が諸侯を招集したが、武公は国に騒ぎがあるとして断った。
B.C.531秋、曹人が晋・魯・斉・宋・鄭・衛・杞と厥憖で会合し、楚に攻められている蔡を救う相談をした。
B.C.529、8月、武公は晋・劉・魯・斉・宋・衛・鄭・莒・邾・滕・薛・杞・小邾と平丘で会合して同盟した。
B.C.528没した。
- 武公(陳)(ブコウ)【王】
- 陳公(8代目)。名は霊。釐公の子。〜B.C.783。
B.C.798即位する。
- 武公(杞)(ブコウ)【王】
- 杞公(5代目)。謀娶公の子。〜B.C.642。
B.C.646春、諸侯は淮夷に備えるため、杞の縁陵に城壁を築いて、そこに杞の都を移した。
- 武公(衛)(ブコウ)【王】
- 衛公(初代(11))。名は和。釐侯の子。〜B.C.758。
釐侯に寵愛され、財貨を多く与えられたが、和はそれを分け与えて士を手なずけていた。
B.C.812共伯を墓地で襲い、共伯が自殺すると武公は国人に擁立された。
位に即いて、衛叔康の善政を行い、人民は泰平を楽しんだ。
B.C.771犬戎が周幽王を殺すと、兵を率いて周を救い、犬戎を平定し、すこぶる功労があった。
のち周平王は武公に命じて、侯爵を公爵に昇格させる。
武公は95歳になっても卿大夫に「わしを捨てるでないぞ。わしを教導してくれよ」と言い、すすんで戒諌をうけた。
- 武公(宋)(ブコウ)【王】
- 宋公(12代目)。名は司空。戴公の子。〜B.C.748。
B.C.766即位する。
狄の鄋瞞が宋に攻め入った。武公は司徒皇父に命じてこれを防がせた。
耏班が皇父の御者となり、穀甥が右をつとめ、
司寇牛父が4人乗りとして同乗した。宋軍は狄軍を宋の長丘で討ち破り、
長狄縁斯を討ち取ったが、皇父と公子穀甥と牛父は戦死した。
武公はそこで城門のひとつを耏班に賞として与え、その門で納めさせる税を禄とした。これを耏門と呼んだ。
- 武公(西周)(ブコウ)【王】
- 西周公(諸侯)(4代目)。恵公の子。
B.C.282楚頃襄王は使者を諸侯に遣わし、ふたたび合従して秦を討とうとし、まず秦と親しい周を侵そうとした。
周王赧の命で楚の宰相昭雎に「楚は周を臣従させようとしていますが、それはいけません」と言った。
昭雎が「周を侵そうなどということはありません。しかし、どうして侵してはならないのでしょうか」と問うた。武公は「周は方百里にすぎませんが、その名は天下に響き渡り、
諸侯の宗主であります。だから、たとえ周の土地を取っても何の利もありませんし、逆に君を弑した汚名を受けることになります。今やあなたは天下の共主を弑し、
三代相伝の九鼎を楚に移そうとしていますが、これは貪欲でなくて何でしょう。周書に『事をなそうとすると欲するものは人に先だって事をおこしてはならない』とあります。
それゆえ、宝鼎が南遷すれば、天下の兵は楚を攻めることになりましょう」と言った。昭雎は納得し、このことは沙汰やみとなった。
- 武公(秦)(ブコウ)【王】
- 秦公(5(10)代目)。憲公の子。〜B.C.678。
B.C.704憲公が没したが、太子の武公は大庶長弗忌と威塁三父に太子を廃される。
B.C.698三父らは出子を弑し、また武公を立てる。
B.C.697彭戯氏を討って華山の麓に行き、平陽の封宮にいった。
B.C.695三父らを誅し、その三族を平らげた。
B.C.688邽・冀の戎を討って、初めてその地方を県とする。
B.C.687初めて杜・鄭を県とし、小虢を滅ぼした。
- 武公(随)(ブコウ)【王】
- 随公。
B.C.706楚武王に攻められる。
少師に楚を討つよう勧められたが、季梁の進言を容れて、政治にはげみ、諸侯と親しくした。
楚は随を恐れて討とうとはしなかった。
B.C.704武公はいよいよ少師を寵愛した。
楚が再び攻めてきた。
季梁「楚に降参しましょう。許されなかったら、そこで戦いましょう。その方がわが軍の士気が上がり、敵の士気が下がります」
少師「戦いましょう。楚の軍を逃がしてしまいます」
武公は戦うことに決め、楚の軍を見渡した。
季梁「楚人は左を尊びますから、楚君は左翼にいるでしょう。弱い右翼を攻めましょう。右翼が破れると楚軍は混乱しましょう」
少師「楚君と決戦しなければ敵と戦ったとはいえません」
武公は討って出て随の速キで戦ったが、大破され出奔した。
- 武公(周)(ブコウ)【宰相】
- 周王朝の臣。夷王、厲王の執政に当る。
B.C.863夷王は南征を行ったが、噩侯ギョ方が叛乱し、淮夷諸族を率いて侵攻した。夷王は西の六師、
殷の八師を動員してこれを討たせたが、彼らは王命に従わず、戦わなかった。
武公は公直属の戦車百乗、戦士徒兵を禹に与え、再び西の六師、殷の八師を率いて殲滅せよとの厳命を下した。禹は勇戦したので、大勝し、
ギョ方を捕らえた。
- 武公(召)(ブコウ)【文官】
- 周王朝の臣。召公。
- 武公(尹)(ブコウ)【王】
- 尹の君。
B.C.575、7月、武公は晋厲公・斉の国佐、魯成公、
邾人と会合して、鄭を討った。連合軍は鄭の西に陣をしき、魯軍は鄭の東の督揚に陣をしいた。連合軍は鄭の制田に移動し、陳と蔡に攻め入った。
B.C.574、6月26日、諸侯は鄭の柯陵で同盟し、戚の盟い(B.C.576)を温めた。
夏、武公は晋厲公・魯成公・斉霊公・宋平公・曹成公・
衛献公・単襄公・邾人と会合して鄭を討ち、戯童から曲洧まで侵攻した。
- 武公(単)(ブコウ)【王】
- 単公。
B.C.503、4月、武公は劉桓公とともに儋翩に加担した尹氏を窮谷で討ち取った。
11月24日、武公は劉桓公とともに周敬王を周に迎え入れた。
B.C.502、2月26日、武公は穀城を討ち、劉桓公が儀栗を討った。
2月28日、武公は簡城を討ち、劉桓公が盂を討ち、かくして王室は安定した。
- 武侯(趙)(ブコウ)【王】
- 趙公(2代目)。烈侯の弟。〜B.C.387。
B.C.400烈侯が没すると代わって立つ。
- 武侯(蔡)(ブコウ)【王】
- 蔡侯(5代目)。厲侯の子。〜B.C.838。
- 武侯(晋)(ブコウ)【王】
- 晋侯(2(3)代目)。名は寧族。晋侯燮の子。
- 武侯(魏)(ブコウ)【王】
- 魏侯(2代目)。名は撃。文侯の子。〜B.C.371。
B.C.412文侯の命で秦を討ち、繁龐を囲む。その民を城外に出して兵禍を免れさせた。
B.C.408中山国を滅ぼし、撃はここの守備をする。
撃は西行して秦を討ち、鄭に行って帰国する。
B.C.387文侯が没し、後を継ぐ。
B.C.386趙敬侯が立つと、公子朝が乱を起こし、魏に出奔してきた。
武侯は朝とともに邯鄲を攻めるが、敗れて兵を引いた。
B.C.385安邑・王垣に城を築く。
B.C.380武侯は秦とともに韓を討った(南梁の戦い)。楚・趙は韓を援けた。
武侯は斉を討ち、桑丘まで進軍した。
B.C.378翟に攻められ、澮で破られる。
斉を討ち、霊丘に至る。また韓・趙とともに晋の国土を三分し、公室の子孫を滅ぼす。
B.C.372趙を討ち、北藺でこれを破る。
B.C.371楚を討ち、魯陽を取る。
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