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列伝 フ


鮒(フ)【文官】
魏の臣。屈侯。
翟璜の推挙で魏文侯に仕える。
布(フ)【文官】
西周の臣。司寇。
布は西周の君に、周最を太子とするよう進言した。
巫(フ)【公子】
鄫の公子。太子。
B.C.568夏、公子巫は魯の叔孫豹とともに晋に行き、晋悼公に面会し、 鄫が魯の属国になることが正式に承認された。
武(ブ)【武官】
秦の臣。庶長。
B.C.562庶長武は庶長とともに晋を討って鄭を救おうとした。晋の士魴がこれを防いだが、 秦軍は多くないと侮って防備を怠った。
12月5日、庶長武は輔氏から黄河を渡って庶長鮑とかわるがわる晋軍を攻撃した。
12月12日、秦軍は櫟で晋軍と戦い、これを大破した。
武乙(ブイツ)【皇帝】
商王朝27代王。康丁の子。
都を亳から河北に移す。
狩猟好きで、黄河と渭水の間で雷に打たれて死んだとされる。
祖父祖甲の改革を戻した復古派であった。無道で偶人(人形)を作り、それを天神と呼んで博をして天神が勝たないと 天神の悪口を言い侮ったという。
馮驩(フウカン)【在野】
斉の人。馮諼ともいう。
貧乏で自分では生活しかねたので、孟嘗君が賓客を好むと聞き、 遠路からはるばる訪れて門下に居候させて欲しいと人に頼んでもらった。
孟嘗君は馮驩を伝舎(三等の宿舎)に置き、その様子を尋ねた。伝舎の長は「馮先生はすこぶる貧乏で、一剣を所持しておられるだけです。 それを叩きながら『長鋏(長い剣)よ、帰らんか、食うに魚なし』とうたっています」と答えた。
そこで孟嘗君は馮驩を幸舎(二等の宿舎)に置き、その様子を尋ねた。幸舎の長は「やはり剣を叩きながら『長鋏よ、帰らんか、出づるに輿なし』とうたっています」と答えた。
そこで孟嘗君は馮驩を代舎(一等の宿舎)に置き、その様子を尋ねた。代舎の長は「やはり剣を叩きながら『長鋏よ、帰らんか、 もって家を為すなし』とうたっています」と答えた。
孟嘗君はこれを不快に思い、また馮驩も一年ほど何も言わなかった。
孟嘗君は食客が三千人もおり、封邑からの収入ではまかないきれなかった。そこで封邑の者に金を貸し、利息を取り立てた。貸した金を取り立てる人を募ると、 代舎の長は馮驩を推挙した。
馮驩は薛に行き、孟嘗君の金を借りている者を呼んで、利息を払わさせた。その金で酒と肉を買って債務者を呼び集め「利息を払える者も、払えない者もみな来い」と布れた。
当日、酒と肉を振舞い、払える者には返済期限を定め、払えない者には証文を焼き捨てて「薛公(孟嘗君)が銭を貸したのは資本を与えて本業を営ませるためである。 しかし利息が払えない者にはこうして証文を焼き捨てた。このような君主があるからにはどうして思召しに背いてよかろうか」と言った。みな起立して心服した。
孟嘗君はこれを聞いて、怒って馮驩を責めた。馮驩は「利息を支払えない者には十年催促しても払えないでしょう。それでは、上は君が利を好んで士民を愛さないとされ、 下は士民が君から離れましょう。これは士民を励まし、君の名をあらわすゆえんではありません。わたしは無用な空証文を焼き、取り立てられぬ空勘定を捨てて、 君の名声をあらわそうとしたのです」と答えた。孟嘗君は手をうって感謝した。
孟嘗君が斉湣王から退けられると、食客はみな立ち去った。そこで馮驩は孟嘗君のため秦に行き、 秦昭襄王に説いて「薛公を登用されれば、斉の実情や人事の真相はすべて知り、斉の地を得られるでしょう」と言った。
そこで秦は孟嘗君を迎えさせた。馮驩はすぐに秦を去り、斉に帰って斉湣王に説いて「秦は孟嘗君を宰相にしようとしています。これは斉にとってよろしくないことです。 使者が来る前に、孟嘗君を宰相に復し、封邑を増して詫びるべきです」と言った。はたして秦の使者が斉の境内に入ってきたので、湣王は孟嘗君を宰相に任じた。 秦の使者はこれを聞いて、車を還して去った。
孟嘗君が復帰すると、馮驩は食客たちを迎えようとした。孟嘗君は溜息して嘆いて「わたしがいったん退けられると、みなわたしに背いて去った。いま先生の力によって、 元の地位に復することができた。来る者がいたら、その顔に唾して大いに辱めてやろう」と言った。
馮驩は「それはいけません。富貴であれば追従する士が多く、貧賎なれば交友が少ないのは、事の当然であります。君は朝に市場に行く人を見たことがありましょう。 しかし夜には誰もいません。それは朝を好み、日暮れを恨むからではありません。日暮れには商品がないためです。君が位を失って、 みな立ち去ったものもこれと同様です」と言った。
そこで孟嘗君はまた以前と同じように食客に対した。
馮驩は孟嘗君に「すばしこい兎でも、3つの巣穴があって、やっとその死を免れることができるといいます。いま君にはひとつの巣穴(薛)がありますが、 君のためにもう2つ掘って差し上げましょう」と言った。
孟嘗君は馮驩に戦車50台と金500斤を与えた。馮驩は魏襄王に説いて「斉は孟嘗君を諸侯に放出しました。彼を真っ先に迎え入れたお方は、 国が富むばかりか、兵も強くなるでしょう」と言った。そこで襄王は上席の地位を空けて孟嘗君を招聘した。
しかし馮驩は孟嘗君をさとして「まあ、お待ちください。斉がこれを聞いて、やってきますから」と言った。
魏から使者が何度も往復したことを斉湣王は聞くと、孟嘗君に詫びて「どうか君には先代の宗廟のことに心を留め、しばらく都に戻って、 万人を治めてはもらえまいか」と言った。
馮驩は「さあ、これで3つの巣穴が出来上がりました。君には、しばらく枕を高くしてお楽しみください」と報告した。
馮簡子(フウカンシ)【文官】
鄭の臣。
B.C.542、12月、衛の北宮文子が衛襄公の介添えとして楚に赴く途中、鄭に立ち寄った。 馮簡子は子大叔とともに北宮文子を迎えた。北宮文子は「鄭では礼が守られている。数代にわたってしあわせが続くでしょう」 と言った。
馮簡子は国の大事な問題を手際よくさばいた。鄭では諸侯と何か交渉しようとすると、 子産がまず子羽に諸侯の事情を尋ね、様々な辞令を作らせた。 さらに子産は裨と一つ車に乗って郊外に出かけてことの良し悪しを考えさせ、その上で馮簡子に告げて決断させ、 事が確定すると子大叔に授けて実行に移らせたため、鄭では外交上の失敗はめったになかった。
馮喜(フウキ)【在野】
縦横家。張儀の舎人。
B.C.310斉が魏を討った。魏襄王はこれを恐れると、張儀は「王よ案じ給うな。斉の兵を引かせてごらんに入れましょう」と言った。 そして馮喜を楚にやって楚の名義を借りて斉に入らせ「秦は斉と魏を疲弊させるために張儀を魏にやったのです。王にははかりごとにのることのないように」と言わせた。 斉湣王は「なるほど」と言い、軍を引いた。
馮忌(フウキ)【文官】
趙の臣。
平原君が燕を討とうとして、これを馮忌に謀った。馮忌は、趙が長平で秦に破れて回復していないことを理由として、 これを諌めた。
馮諼(フウケン)
馮驩
風后(フウコウ)【神】
黄帝の臣。
『風后』13編を著したといわれる。
富子(フウシ)【文官】
鄭の臣。
B.C.526、3月、晋の韓宣子が鄭を聘問した。このとき孔張は遅れて宴に参加し、 さらに立つ場所を間違えて皆に笑われた。富子は孔張が間違った責任は子産にあると諌めた。
馮雎(フウショ)【文官】
西周の臣。
西周の臣である宮他が亡命して東周へ行き、西周の内情を東周に打ち明けた。馮雎は西周の君に「臣がやつを殺してみせます。 金30斤をお下げ渡しください」と進言した。馮雎は使者にその金をいつわりの手紙を持たせ、宮他に送らせた。手紙には「宮他に告ぐ。事が成功しそうなら、しっかりやれ。 成功しそうになければ急いで逃げ帰れ。事が漏れるであろう」とあった。
馮雎は一方で別の使者をやって東周の見張りの役人に密告させ「今夜、きっと怪しい者が城に潜入しますぞ」と言わせた。
そのため見張りの役人は宮他あての金と手紙を持った使者を捕えた。手紙を見て東周は大いに怒って宮他を殺した。
馮章(フウショウ)【在野】
戦国時代の説客。
B.C.308馮章が秦に仕えていた時、秦は韓の宜陽を攻めた。
馮章は秦武王に説いて「楚に漢中を与えてやると言って、楚が韓を救わないようにさせましょう」と言った。 武王はこれを容れて馮章を使いに遣って楚に漢中の地を割譲することを約束させた。はたして楚は韓を救わず、秦は宜陽を落とした。
懐王は漢中の地を馮章に督促すると、馮章は秦武王に「王には、臣を逃亡させて、 楚王には『わたしはもともと割譲する気はなかったのです。馮章が勝手にしたことです』と仰せられませ」と進言した。
富丁(フウテイ)【武官】
趙の臣。
B.C.305武霊王は中山の地を攻略し、寧葭に行き、西行して胡の地を攻略して楡中まで行き、その帰途、 楼緩を秦に、仇液を韓に、王賁を楚に、 富丁を魏に、趙爵を斉に遣わした。
馮亭(フウテイ)【文官】
韓、趙の臣。上党の太守。
B.C.262韓は上党を守ることができないため、これを秦に献じようとした。しかし上党の官民が秦に降ることを嫌ったため、馮亭はこれを趙に献上する。
孝成王平原君を遣わせて土地を受け取り、馮亭は一万戸の邑を3つ与えられ、 そのまま太守に任じられ、華陽君に封じられる。
馮亭は涙を流し、平原君を見ないで「わたしには3つの不義があります。主のために地を守りながら、死守することができないことがひとつ、主が地を秦に入れたのに 主の命令を聞かないのがひとつ、主の地を売り、それを領地として食むのが不義のひとつであります」と言った。
馮婦(フウフ)【在野】
晋の人。姓は馮、名は婦。
馮婦は虎を手捕にできた。のちに真面目な紳士となり、郊外に行ったとき、大勢の者が虎を追い詰めているのに出会った。みな虎を恐れて近づく者がなかった。馮婦を見かけると、 人々は喜んで迎えにきた。馮婦は腕を捲り上げて車から降り立った。人々は喜んだが、心ある士はこれをあざわらったという。
富父終甥(フウホシュウセイ)【武官】
魯の臣。
B.C.616狄の鄋瞞が魯を攻めた。侯叔夏が叔孫得臣の御者となり、綿房甥が右をつとめ、 富父終甥は4人乗りとして同乗した。
10月4日、魯軍は狄軍を魯の鹹で打ち破り、富父終甥はその君喬如の喉を戈で突き刺して殺した。
傅説(フエツ)【宰相】
商王朝の宰相。名は説。
説は食を得るために囚人に代わって傅険(傅という巌窟)の近くで道路を修理していた。
武丁は彼を夢の中で見た聖人であるとし、説を登用して相とした。そのため国はよく治まったので、説は傅険の傅を姓とし傅説と称した。
死んでその魂は星になったという。
巫尩(フオウ)【文官】
魯の臣。巫。
B.C.639夏、大旱魃があった。そのため魯釐公は雨乞いをした巫尩を焼き殺そうとした。 臧文仲が「工事を止め、贅沢な物は食べず、農事を盛んにするのがよろしい。彼を殺してもどうにもなりません」 と諌めたので、釐公は取りやめた。
武王(周)(ブオウ)【皇帝】
周王朝の初代王。名は発。文王(姫昌)の子。〜B.C.1021。
文王は発を生んだとき、この子が必ず兵を発して暴を誅するであろうと言って、発と命名した。
B.C.1034文王死後、その事業を引き継ぎ商王朝を打倒すべく、国内を充実させる。
B.C.1026諸侯を率いて孟津まで兵を進めるが、時期尚早として引き返す。
B.C.1024文王の木主(位牌)を奉じて呂尚召公らを率いて商を牧野の戦いで破る。
このとき武王は兵車300台、虎賁3000人、甲士4万5000人で商を討ち、加わった諸侯は約800、その兵車は合わせて4000台になったという。
B.C.1023受辛が自殺し、商王朝を滅ぼしてその畿内の地を邶・鄘・衛の三国に分け、周王朝を建国した。 武王は徐州を青州に合併し、梁州を省略して雍州に合わせ、職方氏に命じて天下の地図を掌握させ、各地の土壌を分別し、各地の宝物や財利を明白に区別した。
武王は黄帝の子孫を薊に、の子孫を祝に、 の子孫を陳に封じた。またの子孫を杞に、商の子孫を宋に封じた。
また比干の墓を封じ、囚われていた箕子を許し、商容に行かせてその位を復した。
B.C.1021体調が優れず、若くして没す。
武王(楚)(ブオウ)【王】
楚王(初代(17))。名は熊通(達?)。蚡冒の弟。〜B.C.690。
B.C.741蚡冒が没すると、その子を弑して、代わって立つ。
B.C.706武王は随を討ち、大夫薳章を使者として和睦させた。
鬭伯比「わが楚が漢東(漢水の東の地)に勢威を振るうことができないのは、わが楚に問題があります。 武力を用いて諸侯に接するので、彼らは一致して楚に対抗するのです。
漢東の国で、随が最大ですが、随がもし尊大ぶるようになれば、隣国はこれを見棄てましょう。いま随の少師は驕り高ぶっているから、 楚の兵力を弱めて彼を油断させ、得意がらせましょう」
熊率且比「随には季梁という人がいるので、その策は何の効果もあるまい」
鬭伯比「あとで役に立つことになりましょう。少師は君の信任を得ているので、きっとこの計略がものをいう時がきます」
そこで武王は軍を減少させて、随の少師を軍中に迎え入れて楚軍の弱体を見せた。 少師は随に戻って楚を討つよう請うた。随侯はこれを許可しようとしたが、季梁が「これはわが随をあざむき誘う策略です。小国が大国に敵対できるのは、 小国が道にかなうことを行い、大国が道をはずれたことをするときです」と諌めたので、随は追撃をせず、政治にいそしんだ。 武王も随を恐れて討とうとしなかった。
B.C.704鬭伯比が「今こそ随を討つべき時です。少師が寵愛され、乗ずる隙があります」と進言した。そこで武王は諸侯を楚の沈鹿に集めたが、黄・随が来なかった。 武王は薳章を遣わして黄を責めさせ、武王みずからは隋を討ち、漢水と淮水の間に軍を進めた。
随の少師が討って出てきたので、随の速キで戦い、随軍を大破した。随武公は逃げ去ったが、少師を捕えてこれを殺した。
秋、随が楚に親和を求めてきた。武王は聞き入れまいとしたが、鬭伯比が「すでに少師は除かれました。もう随に打ち勝つことはできませぬ」と言ったので、 楚は随と和睦した。
B.C.703巴の君が韓服を遣わし、鄧と友好を結びたいと楚に願い出た。 武王は大夫道朔に命じて韓服を鄧に行かせたが、鄧の南部のユウの人が彼らを殺してしまった。
武王は薳章を遣わしてユウを責めたが、鄧は相手にしなかった。
夏、武王は鬭廉に命じて巴軍と連合してユウを包囲した。 鄧の養甥聃甥がユウを救援し、三度巴軍を追い払ったが、楚軍には勝てなかった。
鬭廉はわざと逃げるふりをして鄧の軍を誘い込み、巴軍とこれを挟撃して大破し、ユウ軍を夜のうちに壊滅させた。
B.C.702宋が随を討った。
随が楚に助けを求めたので、通は「わが国は蛮夷の国である。わが国にもいささか兵甲があるので、中国の形勢を観望しようと思う。 貴国から王室に請うてわが楚の爵号を尊くしてもらいたい」と言った。随人は周にこのことを請うたが、周は許さなかった。
通は怒って「周の成王はわが楚に子男の田を与えて楚におらせた。いま蛮夷はみな楚に服従しているのに、王がわが国の位を上げないのなら、 わしは自分で位を高くするだけだ」と言い、自立して王を称し、随と盟約して帰った。
はじめて濮の地を開拓して、これを領有した。
B.C.701武王は屈瑕に命じて弐・軫の二国と会盟しようとしたが、鄖が随・絞・州・蓼と連合して楚を攻めたので、 これを撃退した。
B.C.700楚は絞を討って、絞の南門に陣をしいた。屈瑕が「絞は軽率ですので、薪を取る人夫を守らずに敵をおびきよせてはどうでしょう」と進言した。 武王はこれに従った。すると絞はその人夫を襲って30人を捕えた。
その翌日、絞の人は先を争って楚の人夫を山中で追いまわした。楚軍はその退路を断ち、伏兵をもってこれを襲い、大いに絞軍を破って城下の盟を結んで帰国した。
B.C.699屈瑕が羅を討つため出陣した。鬭伯比はこれを見送った時、 「莫敖(屈瑕)はきっと負けるであろう。驕り高ぶって足の挙げ方が高い」と言い、武王に見えて軍勢を増加するよう進言したが、武王は許さなかった。
武王の夫人鄧曼はこれを聞いて「鬭伯比は軍の増加のことを言っているのではないでしょう。 おそらく莫敖の驕りを抑えるよう言い聞かせるべきであると申しているのでしょう。どうして鬭伯比は楚の全軍をあげて出陣したことを知らないことがありましょう」 と言った。武王は屈瑕に引き返すよう使者を出したが、追いつけなかった。はたして屈瑕は羅に敗れて自殺した。
そのため諸将は楚の冶父で武王の処刑の命を待った。武王は「このようになったのは私の罪である」と言って、すべて赦した。
B.C.690周が随君に、楚が王号を立てたことについて問責した。楚は随がそむいたことに対して怒った。
3月、武王は楚独特の陣立てを定め、はじめて軍に戟を与えて新兵器とし、随を討とうとした。
出陣の時、武器を廟でものいみしようとしたが、武王は胸騒ぎを覚えたので、鄧曼に言った。
武王「心が動揺して落ち着かない」
鄧曼「王のご運はもうおしまいです。亡くなられた君はそれをご存知で、王の心を動揺させられたのです。王が敵の手にかからずに旅先でおかくれになるならば幸いです」
武王は出陣したが、樠木の下で没した。
令尹闘キと莫敖屈重は王の死を隠し、随に進撃したので、随は和を請うた。 そこで楚は和睦して帰国し、漢水を渡ってから死を発表した。
武王(秦)(ブオウ)【王】
秦王(2(32)代目)。恵文君の子。〜B.C.307。
B.C.311恵文君が没し、武王が立つと韓・魏・斉・楚・越の諸国がみな秦に服従した。
司馬錯が楚を討ち、商於の地を奪い、黔中郡を設置した。
武王は太子の時代から張儀を嫌っていたので、群臣は張儀を讒言するようになった。そのため諸侯は張儀が武王と仲が悪く、 隙があるのを聞くと、みな連衡に背いて、ふたたび合従した。
B.C.310魏恵王と臨晋で会合する。
張儀は武王に誅されるのを恐れ「斉はわたくしを恨んでおりますので、どうかわたくしを魏にやって下さい。そうすればかならず斉は魏を討ちましょう。 大王はその隙に魏や韓をお討ちください」と言い、魏に赴いた。
また成都に大城を築く。
B.C.309蜀の国相陳荘が謀反して、蜀侯を殺した。 そこで庶長甘茂張儀司馬錯に命じて蜀を討伐し、 陳荘を誅殺した。
また張儀・魏章らが東に出て魏に行った。
義渠・丹・犂を討つ。
初めて丞相を置き、樗里疾と甘茂を左右の丞相とした。
11月、武王は丞相甘茂らに命じて「為田律」を定めさせ、詳細に農田と道路の制度を規定し、毎年指定した時期に修復することとした。
B.C.308韓襄王と臨晋の城外で会う。また樗里疾が韓の宰相となる。
甘茂に「わしは兵車を三川(伊水・洛水・河水のある地)に入れ、そこを通って周室をおびやかし天下に号令できるなら、死んでも恨みはない」と言った。 甘茂は「どうか私を魏にやり、いっしょに韓を討つ約束を決めさせていただきたい」と言ったので、 武王は甘茂と向寿を魏へ遣った。
すると向寿が先に帰国して「魏はわたくしのことばを聴き入れましたが、 王には韓を討たれませぬように」と甘茂の伝言を伝えた。武王は甘茂の帰国を待ちきれず、息壌まで出迎えた。甘茂が魏から帰国して息壌で武王に合うと、 武王は事情を尋ねた。甘茂は「宜陽は大邑であり、落とすのは容易ではありません。いまわたくしは外に出ております。戦の途中で、 ご一族の樗里疾や公孫衍らが韓に好意を寄せると、王はきっと魏を欺きましょう。
かつて曾子の母に、ある男が『曹参が人を殺したぞ』と知らせました。曾子の母は最初は信じませんでしたが、 それから2人も同じように言ってきたので、曾子の母は逃げ去りました。曾子ほどの賢明さと、母の厚い信頼があっても、信じられなくなるのです。 臣の賢明さは曾子に及ばず、王の臣に対する信頼も、曾子の母ほどではございますまい。しかも臣を疑う者は3人だけにとどまりません。 臣は王がわたしを見捨てられることを心配するのであります」と言った。
武王はそこで「わしは樗里子・公孫衍らのことばを聞き入れまい。子と誓おう」と答え、甘茂と息壌で堅く盟いを結んだ。
秋、武王は甘茂と庶長に宜陽を討たせた。
武王は公子を封じて蜀侯とした。
B.C.307甘茂は5ヶ月たっても攻略できなかった。はたして樗里疾と犀首が非難したので、武王は甘茂を召還しようとした。甘茂は「息壌はあそこにあります」 と言ったので、武王は「そうであった」と言い、全軍を動員してふたたび甘茂に宜陽を攻撃させた。甘茂は宜陽を抜いて首級6万を斬り、黄河を渡って武遂に城を築いた。
武王は力があり、力だめしを好んだ。それで力持ちの任鄙烏獲孟説などがみな大官となった。
武王は孟説と竜文の赤鼎を挙げたため、脛骨を折って、8月に没す。そのため孟説を罪して一族を滅ぼした。
傅瑕(フカ)
甫瑕
夫概(フガイ)【公子】
呉の公子。闔閭の弟。夫槩とも書く。
B.C.506冬、呉は蔡・唐とともに楚を討ち、呉軍は五度戦って五度勝った。
11月19日、楚・呉の両軍は柏挙に陣を構えた。夫概は早朝に願い出て「楚の瓦(子常)は愛情がないため、 部下は討死する覚悟がありません。先にこれを討てば必ず逃げ出しましょう。そこを大軍をもって攻めたらきっと勝でしょう」と進言したが、闔閭は聴き入れなかった。 しかし夫概は勝手に5,000人の兵を率いて真っ先に子常の軍を攻撃した。子常の軍が逃げ出したため楚軍は乱れて呉軍は楚軍を大いに討ち破り、 史皇を戦死させた。
呉軍は楚軍を追撃して清発の川まで来て、ここでも楚軍を討ち破った。夫概は「追いつめられると獣でさえも戦います。先に川を渡った者には助かると思わせ、 あとに続く者にも助かると思わせれば戦う気はおこらないでしょう。半分ほど渡ったら攻めかかるのがよろしいでしょう」と進言した。闔閭はこの意見に従ってまたも楚軍を討ち破った。
11月29日、呉軍は郢に攻め入り、王宮内に居を定めた。王子子山が令尹の家に落ち着いたため、 夫概はこれを攻め取ろうとした。王子子山は恐れて立ち去った。
B.C.505呉は秦、越に攻められ敗北を喫した。
9月、夫概は闔閭が楚の地から帰国できない情勢であることを見て取ると、呉に戻り自立して王となった。しかしすぐに闔閭に敗れたため楚に亡命し、 楚昭王に堂谿に封じられ、堂谿氏と称す。
巫咸(商)(フカン)【文官】
商王朝の臣。史官。
王事に尽くして功があり、伊陟に表彰される。
巫咸(フカン)【神】
神巫。
10人の神巫とともに天から降り、そこには百薬があると信じられた。
婦姜(フキョウ)【女官】
文公の夫人。斉の公女。
B.C.623夏、婦姜は魯文公に嫁いだ。
武姜(ブキョウ)【女官】
武公の妻。申君の娘。
荘公(寤生)、を生む。寤生は逆子であったため、段を愛した。
B.C.744荘公が病気になると、段を太子に立てて欲しいと願ったが、公は聴き入れられなかった。
荘公が位につくと、段を制という要害の地を与えて欲しいと願ったが、断られたので京の地を所望して、段をそこに封じた。
やがて段が叛乱を起そうと軍勢を整え、鄭の都を討とうとし、武姜はその手引きをする計画をたてた。
B.C.722段が叛乱を起こそうとし武姜はこれに内応するが、荘公に討たれて失敗し、城潁に幽閉される。
負局先生(フキョクセンセイ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
鏡研ぎをしていたが、よく注文主に誰か病気で苦しんでいるものはないかと聞き、もしあれば赤い丸薬を取り出して与えた。治らない者はなかったという。 疫病が大流行したとき家々を訪れて薬を与え、代金はもらわなかったため、呉の人々は非凡な真人であると称した。
伏犠(フクギ)【神】
中国の伝説上(神話上)の創始者。
伏犠は女禍神農と並んで三皇と称される。女禍と同一視され、伏犠は男神、 女禍は女神とされる。
伏犠の上半身は人間の形をしており、蛇の尾を持つとされる。
伏犠は自然の秩序を基本とした知識で占いをするための最初の八卦をつくった。また伏犠は蜘蛛が巣を作るのを見て、結び目のついた縄を網にしたものを作り、 狩や魚釣を人間に教えた。
また最初の聖なる夫婦として女禍と結ばれたとされ、音楽を作り人間に教えたとされる。
伏犠は庖犠とも書かれる。庖は「包み込む」とか「偉大である」という意味で、犠は「いけにえ」という意味。 いけにえになるのは完全な姿でないといけないから、「完全なもの」という意味となり、伏犠は偉大にして完全なものとされる。
伏犠は、任・宿・須句・顓臾の4国の祖とされる。
宓羲(フクギ)【神】
宓妃の父。
偪姞(フクキツ)
文嬴
復遂(フクスイ)【文官】
楚の臣。期思公。
B.C.617冬、楚穆王と宋昭公と鄭繆公が孟諸で狩をしたとき、 復遂は右司馬となってこれに参加した。
腹トン(フクトン)【在野】
思想家。墨家の鉅子(指導者)。
腹トンの子が殺人を起した。秦恵文君はこれを赦してやろうとしたが、腹トンは「墨家の法では『人を殺す者は死し、 人を傷つける者は刑せらる』のです。これは人の殺傷を禁じるためであり、これはまた天下の『大義』です」と言い、私情に背いて大義を行った。
宓妃(フクヒ)【女官】
黄河または洛水の女神。宓羲の娘。雒嬪ともいう。
洛水に溺れて洛水の女神となった。
羿の妻となる。
宓不斉(フクフセイ)【文官】
孔子の弟子。字は子賤。B.C.521〜。
宓不斉が単父の邑宰となったとき、孔子に報告して「この国にわたくしより賢い者が5人おり、治国の方法を教えてくれました」と言った。孔子は「惜しいことじゃ、 不斉の治める土地の狭いのが。もし広かったら、すばらしい政治をやるだろうに」と言った。
服閭(フクリョ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
ある廟に三人の仙人がいて、瓜を賭けて博打をしていた。そして服閭を雇い、その瓜を買いに行かせた。目をつぶるように命じられるとそこは方丈山であり、 そこから珍宝珠玉をもって帰り、それを売ることが出来たという。
鳧徯(フケイ)【神】
鳧徯は人間の顔をした雄鶏で、鳴くとき自分の名前を呼び、その鳥が現れると戦争が起るという。
不降(フコウ)【皇帝】
夏王朝12代王。の子。
婦好(フコウ)【女官】
武丁の夫人。
青銅器の銘文の中に見える。甲骨文には妣辛とみえる人物で、妣辛は廟号といわれる。
武公(鄭)(ブコウ)【王】
鄭公(2代目)。名は掘突、滑突とも書く。桓公の子。〜B.C.744。
B.C.770即位する。
B.C.761申の君の娘を娶って夫人とする。
B.C.744病んだとき、夫人に末子を太子に立てて欲しいと請われたが聴き入れなかった。
武公(晋)(ブコウ)【王】
晋曲沃の公(初代(3))。名は称。荘伯の子。〜B.C.675。
B.C.709陘廷と謀り、宗家の晋哀侯を翼に討つ。韓万が御者となり、 梁弘が右となり、哀侯を汾水のほとりで追撃し、夜にこれを捕え、 その輔佐をしていた欒成を捕えた。
しかし宗家が小子を立てたため、韓万に命じて哀侯を殺す。
武公は捕えた欒成に向かって「無駄死にしてはならぬ。わしはあなたを上卿に命じて晋の政を執らせようと思うのだ」と言った。 しかし欒成は「わたくしが私利によって人の道を破棄するならば、君侯はどうやって民に教えるのですか。その上、君侯に仕えて二心を持つならば、 君侯はわたくしをどのように用いられるのですか」と言って、ついに戦って死んだ。
B.C.704武公は晋の小子侯をおびき寄せて弑した。周王朝の命で虢が侵入して湣侯を擁立したので、 武公は曲沃に帰った。
B.C.703秋、虢公林父、芮伯、梁伯、荀侯、賈伯に攻められた。
釐王が虢公忌父に命じ、武公が一軍(12,500人)をかまえて晋侯になれるように世話させた。
武公は夷を討って、夷詭諸を捕えた。周の蔿国の夷詭諸の命乞いをしたので、 武公はこれを釈放した。
しかし夷詭諸が蔿国にお礼をしなかったので、蔿国は武公に「わたしと力を合わせて夷を攻めて、その領地を取りなさい」と言った。 そこで武公は夷を討ち、夷詭諸を殺した。
B.C.677晋湣侯を討ち滅ぼす。その宝物をことごとく賄賂として周釐王に献上し、 正式に晋の君となり、諸侯の列に加わった。
これにより晋の土地はことごとく合併され、武公は晋の武公に号を改め絳に都する。
B.C.676春、虢公と晋武公は周に入朝した。周恵王は宴を開いて甘酒を賜わり、引き出物を贈った。 それは玉5対と馬3匹ずつであったが、虢公、晋公とも同じであった。人はこれを批難した(虢は公爵、晋は侯爵で身分が異なるため)。
武公は虢公と鄭厲公とともに原荘公を使者として、 陳から恵后を迎えさせた。
武公(周)(ブコウ)【王】
東周の王。
武公(斉)(ブコウ)【王】
斉公(8代目)。名は寿。献公の子。〜B.C.826。
武公(魯)(ブコウ)【王】
魯公(9代目)。名は敖。真公の弟。〜B.C.816。
B.C.825即位する。
B.C.818春、長子括および末子戯とともに宣王に朝見する。
B.C.816没す。
武公(燕)(ブコウ)【王】
燕公。昭公の子。〜B.C.571。
B.C.590即位する。
武公(曹)(ブコウ)【王】
曹公(19代目)。名は勝または滕。成公の子。〜B.C.528。
B.C.554春、成公が没したので、公子勝は即位した。
B.C.553、6月3日、武公は晋平公・魯襄公・斉荘公・ 宋平公・衛殤公・鄭簡公・莒の君・ 邾の君・滕の君・薛の君・杞文公・小邾の君と会合して、澶淵で盟った。
B.C.552武公は魯を聘問した。
冬、武公は晋平公・斉荘公・宋平公・衛殤公・鄭簡公・魯襄公・莒の君・邾の君とともに商任で会合した。 諸侯は晋を出奔した欒盈を受け入れることのないように取り決めた。
B.C.551冬、武公は晋平公・斉荘公・宋平公・魯襄公・衛殤公・鄭簡公・莒の君・邾の君・薛の君・杞文公・小邾の君と沙隋で会合した。 会合では欒氏を受け入れないように話し合った。
B.C.549秋、曹武公は晋平公・魯襄公・衛殤公・宋平公・鄭簡公・莒犂比公・邾悼公・ 滕の君・薛の君・杞文公・小邾の君と夷儀で会合し、斉を討とうとしたが、大水が出て斉を討つことができなかった。
B.C.548夏、武公は泮から泮水を渡り、晋平公・魯襄公・宋平公・鄭簡公・衛殤公・莒犂比公・邾悼公・滕の君・薛の君・杞文公・ 小邾の君と夷儀で会合して斉を討ち、朝歌の戦い(B.C.550)の報復をした。
武公は諸侯と会合し、晋平公は斉に逃れていた衛献公を迎えようとした。
7月11日、斉が降服したので、武公は諸侯と重丘で同盟した。
B.C.546武公は人を遣わして宋での会合に参加させて、諸侯と盟った。
B.C.544、6月、晋が杞の城壁の工事をした。武公はこれを援助した。
B.C.538夏、楚霊王が諸侯を招集したが、武公は国に騒ぎがあるとして断った。
B.C.531秋、曹人が晋・魯・斉・宋・鄭・衛・杞と厥憖で会合し、楚に攻められている蔡を救う相談をした。
B.C.529、8月、武公は晋・劉・魯・斉・宋・衛・鄭・莒・邾・滕・薛・杞・小邾と平丘で会合して同盟した。
B.C.528没した。
武公(陳)(ブコウ)【王】
陳公(8代目)。名は霊。釐公の子。〜B.C.783。
B.C.798即位する。
武公(杞)(ブコウ)【王】
杞公(5代目)。謀娶公の子。〜B.C.642。
B.C.646春、諸侯は淮夷に備えるため、杞の縁陵に城壁を築いて、そこに杞の都を移した。
武公(衛)(ブコウ)【王】
衛公(初代(11))。名は和。釐侯の子。〜B.C.758。
釐侯に寵愛され、財貨を多く与えられたが、和はそれを分け与えて士を手なずけていた。
B.C.812共伯を墓地で襲い、共伯が自殺すると武公は国人に擁立された。
位に即いて、衛叔康の善政を行い、人民は泰平を楽しんだ。
B.C.771犬戎が周幽王を殺すと、兵を率いて周を救い、犬戎を平定し、すこぶる功労があった。
のち周平王は武公に命じて、侯爵を公爵に昇格させる。
武公は95歳になっても卿大夫に「わしを捨てるでないぞ。わしを教導してくれよ」と言い、すすんで戒諌をうけた。
武公(宋)(ブコウ)【王】
宋公(12代目)。名は司空。戴公の子。〜B.C.748。
B.C.766即位する。
狄の鄋瞞が宋に攻め入った。武公は司徒皇父に命じてこれを防がせた。
耏班が皇父の御者となり、穀甥が右をつとめ、 司寇牛父が4人乗りとして同乗した。宋軍は狄軍を宋の長丘で討ち破り、 長狄縁斯を討ち取ったが、皇父と公子穀甥と牛父は戦死した。
武公はそこで城門のひとつを耏班に賞として与え、その門で納めさせる税を禄とした。これを耏門と呼んだ。
武公(西周)(ブコウ)【王】
西周公(諸侯)(4代目)。恵公の子。
B.C.282楚頃襄王は使者を諸侯に遣わし、ふたたび合従して秦を討とうとし、まず秦と親しい周を侵そうとした。 周王の命で楚の宰相昭雎に「楚は周を臣従させようとしていますが、それはいけません」と言った。 昭雎が「周を侵そうなどということはありません。しかし、どうして侵してはならないのでしょうか」と問うた。武公は「周は方百里にすぎませんが、その名は天下に響き渡り、 諸侯の宗主であります。だから、たとえ周の土地を取っても何の利もありませんし、逆に君を弑した汚名を受けることになります。今やあなたは天下の共主を弑し、 三代相伝の九鼎を楚に移そうとしていますが、これは貪欲でなくて何でしょう。周書に『事をなそうとすると欲するものは人に先だって事をおこしてはならない』とあります。 それゆえ、宝鼎が南遷すれば、天下の兵は楚を攻めることになりましょう」と言った。昭雎は納得し、このことは沙汰やみとなった。
武公(秦)(ブコウ)【王】
秦公(5(10)代目)。憲公の子。〜B.C.678。
B.C.704憲公が没したが、太子の武公は大庶長弗忌と威塁三父に太子を廃される。
B.C.698三父らは出子を弑し、また武公を立てる。
B.C.697彭戯氏を討って華山の麓に行き、平陽の封宮にいった。
B.C.695三父らを誅し、その三族を平らげた。
B.C.688邽・冀の戎を討って、初めてその地方を県とする。
B.C.687初めて杜・鄭を県とし、小虢を滅ぼした。
武公(随)(ブコウ)【王】
随公。
B.C.706楚武王に攻められる。
少師に楚を討つよう勧められたが、季梁の進言を容れて、政治にはげみ、諸侯と親しくした。
楚は随を恐れて討とうとはしなかった。
B.C.704武公はいよいよ少師を寵愛した。
楚が再び攻めてきた。
季梁「楚に降参しましょう。許されなかったら、そこで戦いましょう。その方がわが軍の士気が上がり、敵の士気が下がります」
少師「戦いましょう。楚の軍を逃がしてしまいます」
武公は戦うことに決め、楚の軍を見渡した。
季梁「楚人は左を尊びますから、楚君は左翼にいるでしょう。弱い右翼を攻めましょう。右翼が破れると楚軍は混乱しましょう」
少師「楚君と決戦しなければ敵と戦ったとはいえません」
武公は討って出て随の速キで戦ったが、大破され出奔した。
武公(周)(ブコウ)【宰相】
周王朝の臣。夷王厲王の執政に当る。
B.C.863夷王は南征を行ったが、噩侯ギョ方が叛乱し、淮夷諸族を率いて侵攻した。夷王は西の六師、 殷の八師を動員してこれを討たせたが、彼らは王命に従わず、戦わなかった。
武公は公直属の戦車百乗、戦士徒兵をに与え、再び西の六師、殷の八師を率いて殲滅せよとの厳命を下した。禹は勇戦したので、大勝し、 ギョ方を捕らえた。
武公(召)(ブコウ)【文官】
周王朝の臣。召公。
武公(尹)(ブコウ)【王】
尹の君。
B.C.575、7月、武公は晋厲公・斉の国佐、魯成公、 邾人と会合して、鄭を討った。連合軍は鄭の西に陣をしき、魯軍は鄭の東の督揚に陣をしいた。連合軍は鄭の制田に移動し、陳と蔡に攻め入った。
B.C.574、6月26日、諸侯は鄭の柯陵で同盟し、戚の盟い(B.C.576)を温めた。
夏、武公は晋厲公・魯成公・斉霊公・宋平公・曹成公・ 衛献公・単襄公・邾人と会合して鄭を討ち、戯童から曲洧まで侵攻した。
武公(単)(ブコウ)【王】
単公。
B.C.503、4月、武公は劉桓公とともに儋翩に加担した尹氏を窮谷で討ち取った。
11月24日、武公は劉桓公とともに周敬王を周に迎え入れた。
B.C.502、2月26日、武公は穀城を討ち、劉桓公が儀栗を討った。
2月28日、武公は簡城を討ち、劉桓公が盂を討ち、かくして王室は安定した。
武侯(趙)(ブコウ)【王】
趙公(2代目)。烈侯の弟。〜B.C.387。
B.C.400烈侯が没すると代わって立つ。
武侯(蔡)(ブコウ)【王】
蔡侯(5代目)。厲侯の子。〜B.C.838。
武侯(晋)(ブコウ)【王】
晋侯(2(3)代目)。名は寧族。晋侯の子。
武侯(魏)(ブコウ)【王】
魏侯(2代目)。名は撃。文侯の子。〜B.C.371。
B.C.412文侯の命で秦を討ち、繁龐を囲む。その民を城外に出して兵禍を免れさせた。
B.C.408中山国を滅ぼし、撃はここの守備をする。
撃は西行して秦を討ち、鄭に行って帰国する。
B.C.387文侯が没し、後を継ぐ。
B.C.386趙敬侯が立つと、公子が乱を起こし、魏に出奔してきた。
武侯は朝とともに邯鄲を攻めるが、敗れて兵を引いた。
B.C.385安邑・王垣に城を築く。
B.C.380武侯は秦とともに韓を討った(南梁の戦い)。楚・趙は韓を援けた。
武侯は斉を討ち、桑丘まで進軍した。
B.C.378翟に攻められ、澮で破られる。
斉を討ち、霊丘に至る。また韓・趙とともに晋の国土を三分し、公室の子孫を滅ぼす。
B.C.372趙を討ち、北藺でこれを破る。
B.C.371楚を討ち、魯陽を取る。
夫差(フサ)【王】
呉王(7代目)。闔閭の子。〜B.C.473。
B.C.496父闔閭は越に破れ臨終にあたり夫差に「汝、勾践が汝の父を殺したのを忘れんか?」といった。 夫差は「忘れません」と答え父の復讐を誓い、薪の上に臥して遺恨を忘れず(「臥薪」)、富国強兵に尽くして復讐の機会を待った。
B.C.494越が攻めてきたのでこれを夫椒山で破り、会稽山で囲んだ。勾践は使者を遣わして降伏を請うた。伍子胥は許さないように勧め、 伯嚭は許すように勧めた。夫差は「なぜ越の盛強におびえるのか。越を滅ぼせば、 わしはどうやって春秋の演習にわが軍士の威勢を誇示できようか」と言って、ついにこれを許し、帰還させた。
また勾践から献上された美女西施を愛して、国政を顧みなかったという。
B.C.488夫差は魯を討った。
B.C.486夫差は斉を討伐するために、長江と淮河を結ぶ大運河を掘った。
B.C.485夫差は伍子胥の諫言を聴かず、魯と共に斉を攻めて、これを艾陵で破り、斉の高・国ニ大夫を虜にした。
夫差は奚斯を斉に派遣して「呉の兵はみだりに民に乱暴しませんでしたが、 貴国の大夫国子は多くの庶民を動員して、わが軍を犯し暴虐を行いました。それゆえ天が斉を罰したのです」と言わせた。
鮑牧が斉悼公を弑したため、諸侯の礼として哭臨(喪礼に多人数で哀哭する礼)し、 その隙に海上から斉を攻めるが撃退される。
夫差は伍子胥の前言を責めたが、伍子胥は「王よ、お喜びになってはなりません」と言ったので、さらに怒った。しかし伍子胥が自殺しようとしたので、これを留めた。
越が呉に粟を借りたいと申し出てきた。伍子胥は「与えてはなりません」と諌めたが、夫差はついに与えた。伍子胥は「王はわたしの諫言をお聴き入れになりませんが、 三年もすれば呉は廃墟になりましょう」と言った。
伯嚭と越の大夫逢同が伍子胥を諫言したが、夫差はこれを聴き入れず、伍子胥を斉に使いさせた。 しかし伍子胥がわが子を斉の大夫鮑氏に委託したことを聞くと大いに怒り「伍員はやはりわしを欺いた。謀反に役立てようとするのだ」と言い、 伍子胥に属鏤の剣を賜い自殺させた。
B.C.482この年収穫が不作であったが、夫差は兵を起して北征し、運河を延長して宋と魯の間から、沂水・済水まで連結し、黄池に達した。
夫差は黄池で諸侯と会盟した。このとき、越の勾践が兵を率いて呉軍の帰路を断ち、呉の公子は姑熊夷で破られた。 さらに勾践は中軍を率いて呉江をさかのぼって呉の都を急襲して外城に入り、姑蘇台を焼き、夫差の大舟を捕獲した。
夫差は黄池で晋定公と盟主の座を争っていたが、呉の急使が到着して越の反乱を報告した。夫差は恐れて大夫を集めて言った。
夫差「晋と会合せずに帰るのと、会合して晋を盟主とするのと、どちらがよいか」
王孫雒「ご下問の2つとも有利ではありません。晋と会合せずに帰れば、民は恐れて逃走し、 諸侯は呉を軽んじて攻撃してきましょう。会合して晋を盟主とするならば、 晋は諸侯を引率して天子に謁見するでしょう。どうしても晋と会合して、呉が盟主とならなければいけません」
夫差「どうすればよいか」
王孫雒「今晩晋に挑戦して、人心を奮起させましょう。晋は退避する場所があるのでかえってひるみましょう。その後は収穫が不作ですので、諸侯の貢納を責めず、 先に帰国させましょう。彼らが国に入った後に、王は一日は急ぎ、一日はゆっくりと帰国なされば、帰ることができます」
そこで夫差は3万の軍を編成して早朝に陣立てをし、晋軍との距離は500mほどであった。晋は驚いて董褐を軍使として 「戦を止め友好を進めようとして正午を会合の時としましたのに、今軍を起したのはなぜですか」と問うた。
夫差は「周の天子から勅命があり、貢物が入らないということだったので、すぐ参上したのです。このままで事が不成功に終わり、諸侯に笑われることを恐れます。 わたくしが君に仕えるかどうかは今日決定します(決戦によって盟主を決めましょう)」と言い、決死の兵5人を連れて来て董褐の前で首を刎ねさせた。
董褐は帰陣して趙鞅に報告した。趙鞅は夫差の申し出を承諾し、また董褐を遣わして「諸侯には2人の君はなく、 周には2人の王はありません。君がもし王を僭称することなく、呉公と言われるならば、長幼の序に従う(楚を盟主とする)ことにしましょう」と言った。
夫差は承諾して、盟主として先に血をすすり、晋定公が次にすすった。
夫差は会盟を終えると、王孫雒に命じ、まず勇獲とともに歩兵を率いて宋の外城を焼いて帰国させた。
また夫差は人をやり礼を厚くして越と和睦した。
また夫差は、王孫苟を周に派遣して、呉が楚と斉を討伐したことを報告した。
B.C.475越に攻められる。
3月、夫差は笠沢で越軍と対陣するが、大いに破られる(笠沢の戦い)。越軍は呉都を包囲した。
B.C.473越軍が侵攻してきたので、呉軍は松江の北に陣し、越軍は松江の南に陣した。勾践は軍を二分して左右の軍をつくり、手兵の精鋭6000人で中軍をつくった。 勾践は暗くなるのを待って、左軍に口木をかませて江をさかのぼって五里の地点で待機させ、右軍も口木をかませて江を渡って五里の地点で待機させた。
夜中に、左右両軍に命じて江を渡り鼓を鳴らし、江の中央で待機させた。呉軍は挟撃されると思い、呉軍も軍を二分した。 勾践はそこで中軍に口木をかませて江を渡り呉軍を襲撃したため呉軍は大破した。
さらに越の左軍と右軍が江を渡って追撃し、没の地で呉軍を大破し、さらに呉の近郊でこれを破り、ついに越軍は呉の都に入城し、夫差は姑蘇の山で包囲された。 夫差は公孫雄を使者として和睦を請うたが、越の大夫范蠡のために拒否された。勾践は 「わたしは王を甬東に置き、百戸の君としよう」と言ったが、夫差はこれを断り「わたしは老いました。いまさら君王に仕えることもなりますまい」と言って自殺した。 死に臨んで「わしは子胥にあわす顔がない」と顔を巾で覆い隠した。
傅摯(フシ)【武官】
斉の臣。申鮮虞の子。
B.C.550秋、斉荘公が衛を討ち、傅摯は第二陣莒恒の右役となった。
不寿(フジュ)【王】
越王。鼫与の子。
鼫与が没すると、後を継ぐ。
武叔(ブシュク)
叔孫州仇
武襄君(ブジョウクン)
楽乗
巫臣(フシン)【宰相】
楚、晋、呉の宰相。申公。字は子霊。屈巫ともいう。
B.C.598冬、楚荘王夏徴舒の乱に介入して夏姫を捕えた。
楚荘王は夏姫を妾に迎え入れようとしたが、巫臣は「いけません。君は夏徴舒の罪を討たれたのに、今、夏姫を妾に迎え入れれば、 色をむさぼり美人を得るためであったということになります。君にはどうかお考え下さい」と諌めたので、楚荘王は思いとどまった。
すると子反が夏姫を妻に娶ろうとしたが、巫臣は「この夏姫は不吉な人です。御叔を死なせ、霊公を弑し、 その子夏南(夏徴舒)を殺させ、孔寧と儀行父を出奔させ、陳を滅ぼしました。 こんな不吉な人はありません。世の中には美しい女は多い。何もこの人だけではありますまい」と諌めたので、子反も思いとどまった。
かくて楚荘王は夏姫を襄老に与えた。
B.C.597、6月、襄老が邲の戦いで戦死した。
冬、楚は蕭を討った。巫臣は楚荘王に「わが軍の兵士はみな寒さにこごえております」と申し上げた。荘王は全軍を見て回り、 兵士の肩をなで慰めて激励したので、兵士は寒さを忘れ蕭の城壁にせまって、これを滅ぼした。
巫臣は人を遣わして夏姫に「里の鄭に帰りなさい。改めてわたしが妻に迎えましょう」と言い、 一方で鄭から夏姫を呼び寄せるようにさせ「襄老のなきがらを求めるから、ぜひ帰ってきなさい」と楚に申し出させるようにした。そこで夏姫はこのことを楚荘王に報告すると、 楚荘王は巫臣に尋ねた。巫臣は「間違いないでしょう。荀首は晋の寵臣であり、鄭の皇戌と仲良しです。 鄭に依頼して王子(公子穀臣)と襄老のなきがらを楚にかえして智罃の返還を求めたのでしょう」 と言ったので、楚荘王は夏姫を鄭に送り返した。
巫臣は鄭襄公に夏姫を迎え入れたいと申し入れ、襄公はこれを許した。
B.C.589陽橋の戦いのとき、巫臣は斉に使いし、家財を全部持ち出して出かけた。巫臣は楚の申叔跪に偶然出会った。 申叔跪は「怪しいことだ。あなたは三軍の大事にかかわる使命を帯びていながら、桑畑のよろこびまで待たれている。 おそらく他人の妻を盗んで逃げてゆくのであろう」と言った。
巫臣は鄭に着くと副使に命じて斉への進物を楚に持ち帰らせ、自らは夏姫を連れて斉に行こうとした。しかし斉は晋に負けたばかりのときだったので、 巫臣は「わたしは負けた国には住みたくない」と言って、晋に亡命し、晋の郤至を頼った。
晋は巫臣を邢の大夫とした。巫臣は楚の内情を知る者として晋で重用された。
B.C.585子重と子反が巫臣の一族である子閻・子蕩や清尹弗忌らを殺し、さらに夏姫と淫通した黒要まで殺し、 それらの人々の家財を分け合った。子重は子閻の家財を取り、沈尹と公子罷に子蕩の家財を分けさせ、子反は黒要と清尹弗忌の家財を取った。
これを聞いた巫臣は、晋から子重と子反に書面を送って「お前たちは罪のない人をたくさん殺した。わたしはきっとお前たちが君命に走り疲れて死ぬようにさせてやろう」 と言った。そして巫臣は晋景公に請うて呉に使いし、わが子狐庸を呉の行人(外交官)にさせて、 巫臣は連れてきた戦車の半分の15乗を呉に留め、射者や御者と一緒に、呉に対して戦車の乗り方を教え、戦の陣立てを教え、楚に背くように指導した。
はたして呉は楚に侵攻して、子重と子反は1年で7回も君命に引きまわされた。
B.C.583巫臣は呉に使いした。その道中、莒国を通ったとき、巫臣は莒の君渠丘公と城池のほとりに立った。
巫臣「この城壁はたいへん粗末です、堅固にされてはどうです」
渠丘公「わが国は中国を遠く離れており、だれも攻めようと思っておりません」
巫臣「領土を拡張して国利を図ろうとする者はどんな国にもおります。ですから今の世に大国が多いのです」
しかし渠丘公は聴き入れなかった。
富辰(フシン)【文官】
周王朝の臣。〜B.C.636。
B.C.638富辰は周襄王に進言して「どうか斉にのがれている大叔(叔帯)を呼び戻されませ。 王のご兄弟の仲もうまくいっておられないのでは、どうして諸侯の仲たがいのことをとやかくいえるでしょうか」と言った。 襄王は悦んで叔帯を呼び戻した。
B.C.637周襄王が狄の君に娘を与えようとしたとき「先王はみな鄭の功労を受けておられます。 王がこの親信をすてて狄に親しまれるのはいけません」と諌めたが、襄王は聞かなかった。
B.C.636秋、鄭が滑を討ったので、周襄王は遊孫伯服をやって割譲するよう乞うたが、 彼らは捕らえられた。怒った襄王は狄の兵を率いて鄭を討とうとした。富辰は襄王を諌めていった「いけません。鄭は天子と兄弟も同様です。 鄭武公荘公はわが平王桓王にとって偉大な勲功を立てました。 周の東遷は晋と鄭の力によるものでしたし、子の乱は、鄭の力によって平定しました。
また兄弟げんかには他人を呼んだりしません。他人を呼べば、その者に利するだけです。王よ、鄭をお棄てになってはいけません」
しかし襄王は聞き入れず、鄭を討った。
襄王は狄の功を徳として、その娘を皇后にしようとした。富辰が諌めて言った「いけません。結婚が国内を利するならばこれによって福がやって来ますが、 国外を利するならば禍が生じます。今、王は狄に利益を与えようとされていますが、禍の原因になりはしないでしょうか」襄王は富辰に尋ねて 「利が内にあるとはどのようなことか、また利が外にあるとはどのようなことか」富辰は答えて言った「貴人を尊び、賢人を顕彰し、勲功ある人を用い、老人を敬い、親族を愛し、 新人を礼遇し、故旧を親しむと、民は王命になつき、官吏は政治の常道を変えません。これが利が内にあるということです。
これら七徳が行われなければ、民は離反し上の求めるものは得られません。これが利が外にあるということです。王が狄女を皇后とされる行為は、 七徳を棄てようとするものです。王は鄭を棄てられて、さらに狄をまだ満足させることはできません」しかし襄王はこれを聞き入れなかった。
冬、狄人が来襲したとき、富辰は「わたしは何度も諌めたが、諫言は聞き入れられなかった。しかしわたしが出陣しなければ、王はわたしが怨んでいると思われるだろう」 と言い、一族を率いて防戦し、戦死した。
富辛(フシン)【文官】
周王朝の臣。
B.C.510、8月、富辛は石張とともに晋に遣いして成周に城壁を築きたいと申し入れた。
負芻(フスウ)【王】
楚王(25(41)代目)。哀王の庶兄。
B.C.228哀王が即位して2ヶ月余で彼を襲って弑して代わって立つ。
B.C.226秦に攻められて大敗し、十余城を失う。
B.C.224王翦蒙武に破られ、負芻は虜となり、楚は滅んで秦の郡となる。
負芻(フスウ)【武官】
乱を起こし、沈猶氏を攻める。
負芻(フスウ)【公子】
魏の公子。魏昭王の子。
武成王(ブセイオウ)【王】
燕王(5代目)。〜B.C.259。
B.C.266斉田単に攻められ、中陽を失う。
附沮(フソ)【神】
楚の先祖。季連の子。
不窋(フチュツ)【神】
后稷(弃)の子。
不窋の末年に夏王朝が衰え、農耕に務めなかったため、不窋は職を失い、逃げて戎狄の間に入った。
茀(フツ)【文官】
斉の屨係。
B.C.685襄公が狩をしたとき、ブタを彭生と間違えて恐れて車から落ち、屨をなくした。 宮中に帰り茀を責めて300回も鞭打った。ちょうど公孫無知連称管至父らが襄公を殺そうと宮中に押し寄せてきた。茀は彼らを抑え、「はやまって宮中を驚かせてはいけません。 驚かせばなお入りにくいでしょう」と言った。しかし公孫無知は茀を信用しなかったので茀は鞭打たれた箇所を見せ、公孫無知らを信用させた。
茀は宮中に戻り、襄公を戸の間に隠し、公孫無知の侵入を防いだ。しかし乱入した公孫無知らに殺され、襄公も殺されてしまう。
茀翰胡(フツカンコ)【武官】
晋の臣。
B.C.575鄢陵の戦いのとき、茀翰胡は郤至の右役となった。
郤至は鄭成公を追撃した。茀翰胡は「軽兵を放って前方から迎え撃たせるようにしましょう。わたしはうしろから鄭伯の車に乗り、 これを捕えます」と進言したが、郤至は「国君に傷を負わせると刑罰を受ける」と言って追撃するのをやめた。
弗忌(フツキ)【文官】
秦の大庶長。
B.C.704憲公が没すると、太子武公を廃し、出子を立てる。
仏肸(フツキツ)
趙午
弗父何(フツホカ)【公子】
宋の公子。厲公の兄。孔子の先祖。
宋の位をつぐ身分であったが、弟の厲公に譲った。
傅抵(フテイ)【武官】
趙の臣。
B.C.239将軍として平邑に陣取った。
武丁(ブテイ)【皇帝】
商王朝21代王。小乙の子。高宗。
武丁は即位すると、荒廃安逸しようとせず、商の国家を安泰にさせた。
武丁は久しく民間で苦労し、庶民たちと事を共にした。
武丁は3年にわたり鬼方を討ち、これを退けた。
武丁は河内に遷都し、さらに亳に遷都した。
武丁は再び商を復興させようとしたが、補佐する人物に恵まれなかった。そのため3年間宰相に国政を任せて国俗を観察した。ある夜、夢で説という聖人を見たので、 その人物を探し出した。その人物は傅険で道路を修理している身分の賤しい者であったが、武丁は彼を登用し、傅説と呼び、挙げて宰相とした。 そのため国は大いに治まった。
子の孝己の生母が没すると、武丁は後妻の讒言を聞いて孝己を追放したため、孝己は死んでしまった。
高宗と諡される。
巫馬施(フバシ)【在野】
孔子の弟子。姓は巫馬、名は施、字は子旗。B.C.521〜。
ある日、陳の司敗が孔子に尋ねた。
司敗「あなたの主君である魯公(昭公)は礼を知っておられるか」
孔子「知っています」
司敗は巫馬施に会って「君子はえこひいきをせぬものだと聞いているが、 あなたの先生はどうして魯公の肩を持ったのだろう。魯公は呉から夫人を娶られたが、 呉と魯は同姓の国である(同姓同士の結婚はタブー)」と言った。 これを聞いて孔子は「私は本当に幸せ者だ。過ちがあると、他の人が必ず教えてくれる」と言ったという。
傅豹(フヒョウ)【文官】
趙の臣。武垣の県令。
B.C.260秦が邯鄲を包囲すると、王容蘇射らとともに燕の衆を率いて燕の地で背いた。
武孟(ブモウ)
無詭
巫陽(フヨウ)【神】
神巫。
上帝に仕え、招魂を司る。
『楚辞』招魂に見える。
武陽君(ブヨウクン)
鄭安平
武羅(ブラ)【文官】
有窮の臣。
武羅は賢臣といわれたが、后羿に重用されなかった。
武霊王(ブレイオウ)【王】
趙公(6代目)。粛侯の子。〜B.C.295。
B.C.325粛侯が没すると、秦・楚・燕・斉・魏がそれぞれ精兵一万ずつを出し、趙に来て会葬する。
B.C.324梁(魏)恵王が太子嗣とともに、韓宣王が太子倉とともに、信宮に来朝した。
武霊王は年少で、政務を聞くことが出来なかった。博聞の師3人、左右の補佐役が3人いた。
武霊王は政務を聴くようになると先王の貴臣の肥義の安否を問うて、その秩禄を増し、また一郷の長老たる三老の年80歳以上の者に、 月ごとの礼を贈った。
B.C.323鄗に城を築く。
B.C.322韓宣恵王と区鼠で会同する。
B.C.321公女を魏王にとつがせる。
B.C.319五国がたがいに立って王号を称したが、ひとり武霊王だけはこれに加わらず「趙にはその実質がない。どうして王の名号に安座できよう」と言い、 国人には自分を君と称させる。
B.C.318韓・魏とともに秦を討つが、破れる。
B.C.316秦に攻められ、西都と中陽を失う。
B.C.315燕の公子職を韓から招いて、燕王に立てることとし、楽池に命じて燕に送った。
B.C.313秦に攻められ、藺を抜かれ、趙荘が捕らえられる。
懐王と魏王が趙に来て、国都邯鄲を訪れた。
B.C.312趙何に命じて、魏を討つ。
B.C.311武霊王は大陵に遊んだ。後日、武霊王は一人の処女が琴を弾じ、詩をうたう夢を見た。詩の文句に、
 美人、熒々としてかがやき
 顔は苕の栄咲けるに似たり
 命なるかな、命なるかな
 かつて我をうるわしとせしものなし

とあった。王はしきりに夢を見た話を周囲の者にした。これを聞いた呉広は、 王の夫人の手づるで娘の呉娃(孟姚)を宮中に入れ、 武霊王はこれを寵愛した。これが恵后である。
また張儀は武霊王に説いて「願わくは趙軍と合戦し、殷の紂王の故事になぞらえて事の理を正したいと思います。 しかしわたくしがひそかに大王のために謀りますに、秦王と会見し、たがいに親善をはかられるにこしたことはありません」と言った。武霊王はこの申し入れを許諾した。
B.C.310王は九門宮を出て、野台を造り、そこから斉や中山の国境を望み見た。
B.C.307春正月、大いに群臣を信宮に参朝させ、肥義を招いてともに天下のことを論じ、5日で終った。
王は北行して中山の地を攻略し、房子からついに代に行き、北上して無窮の門にいたり、西行して河水に達し、黄華山の上に登った。
そこで楼緩を招いて相談した。
「いま中山は趙の腹心部にあり、北には燕、東には胡、西には林胡・楼煩・秦・韓があり、趙には強国のうしろ立てがない。これでは社稷を失うことになる。わずらいがあるが、 わしは胡服にしようと思う。どうだろうか」と言った。
楼緩は「よろしゅうございましょう」と言ったが、群臣はみな承服しなかった。
肥義がかたわらに侍っていたので「どうだろうか」と聞くと、肥義は「どうして躊躇される必要がありましょう」と言ったので「世間がこぞって笑っても、 わしは胡の地中山を必ず手に入れてみせよう」と言い、ついに服装を胡服に変えた。
公子は「古来の道を変え、民心に逆らい、学者に背き、中国から離れないように」と言った。そこで武霊王は自ら成を訪れて、説得した。
成は納得して、翌日胡服して参朝する。こうして初めて胡服の令が出された。(「胡服騎射」)
武王が没した。
代の宰相趙固に命じて、秦の公子稷を燕から迎えて秦に送りとどけた。これが昭襄王である。
B.C.305中山の地を攻略し、寧葭に行き、西行して胡の地を攻略し、楡中まで行った。
林胡王が馬を献上した。
帰途、楼緩を秦に、仇液を韓に、王賁を楚に、富丁を魏に、 趙爵を斉に遣わした。
代の宰相趙固に胡のことを司らせ、胡兵を徴集する。
B.C.304中山を攻める。
趙祒を右軍とし、許鈞を左軍とし、公子を中軍とし、 王はそれらすべてを統率する将軍となる。牛翦を車騎の将軍とし、 趙希は胡軍と代の軍をあわせてその将軍とし、趙与は陘山に行った。 これらの軍は曲陽で合流し、攻めて丹丘・華陽・鴟の塞を取る。
武霊王はまた、鄗・石邑・封竜・東垣を取る。中山が四邑を献じて和を請うたので、これを許して戦いをやめる。
B.C.302中山を攻める。
B.C.300恵后が没す。また周祒に胡服させて、王子の傅とする。
B.C.299中山を攻め、地を拓きつつ燕・代に行き、さらに西の雲中・九原にいたった。
B.C.298、5月戊申の日、大いに群臣を東宮に朝見させ、国を譲って何を国王に立て、武霊王は自ら主父と称した。
武霊王は子に国の政治を司らせ、わが身は胡服し、士大夫を率いて西北に行って胡地を侵略した。
さらに雲中・九原から南下して秦を襲おうとして、いつわって自ら秦に侵入した。秦昭襄王はその風貌がはなはだ雄偉で、人臣と違うことを疑い、人を遣って追跡した。 しかし武霊王は馬を馳せて脱出していた。秦の国人は大いに驚いた。
B.C.297新領土を巡行し、代を出て西河で楼煩王に会い、その兵を徴発した。
また楼緩が秦で孟嘗君に代わり丞相となる
B.C.296中山国を滅ぼし、その王を膚施に移した。また霊寿を起点として、ここに北地は初めて代に属し、道が開通した。
帰還して論功行賞して大赦をおこない、酒宴を設けて会集して飲食すること5日間、長子章を封じて代の安陽君とした。
B.C.295武霊王は楼緩が秦で宰相をしていることを自国の不利と考え、仇液を秦に遣わせて、 魏冄を宰相とするように請うた。そして楼緩は丞相を免ぜられた。
武霊王は群臣を参朝させ、安陽君も来朝した。主父は恵文王(王子何)に朝政を聴かせ、自分はかたわらで群臣宗室の礼を観察していた。そこで安陽君がうなだれて生気なく、 臣下として北面し、弟に屈している様子を見ると、主父はこれを憐れんだ。
そこで趙を二分して章を代において王にしようと思ったが、そのままになっていた。
主父は王と沙丘に遊び、それぞれ宮を別にして泊まった。
安陽君はその徒党を率いて、田不礼とともに乱を起こし、まず肥義を殺した。信期らはこれと戦い、 公子成は李兌とともに駆けつけてこれを討った。
田不礼は死に、安陽君は主父のもとに走り、主父はこれをかくまった。成と李兌は主父の宮を囲んで、安陽君はここで死んだ。
しかし成と李兌は主父を恐れ、そのまま包囲を続けた。主父は雀の子を探し出して食べたりしていたが、3ヶ月あまりで餓死した。
主父ははじめ長子章を太子としたが、のち呉娃を手に入れると、寵愛のあまり外出しないこと数年、子の何が生まれると、何を立てて王とした。しかし呉娃が死ぬと愛が緩み、 章を憐れんでどちらを王にしようか迷った。そのため乱がおこり、父子ともどもに死んで、天下の物笑いとなった。
賁(フン)【公子】
魯の公子。魯昭公の子。
公子賁は公子・公子と季氏を除く相談をし、 公子果と公子賁は魯昭公の側役の僚柤に命じて季氏を追い出すように告げさせた。そこで魯昭公は季氏を討ったが、敗れて斉に亡命した。
免(ブン)【王】
陳の公子。桓公の太子。〜B.C.707。
B.C.707桓公が没すると、公子佗(厲公)を擁立しようとする蔡人に殺される。
文嬴(ブンエイ)【女官】
文公の夫人。襄公の母。偪姞ともいう。
B.C.628襄公が晋君となったので、公子の母杜キは文嬴に譲って自分より上に立てた。
B.C.627晋は殽の戦いで大勝し、孟明視西乞秫白乙丙を捕えた。
しかし文嬴が「秦はあの三将を手に入れ、殺したがっています」と言ったので、襄公は孟明視・西乞秫・白乙丙を釈放した。
文王(周)(ブンオウ)【王】
周王朝の先祖。商王朝の諸侯。西伯。名は昌。季歴の子。〜B.C.1034。
生まれたときに瑞祥があり、祖父の古公亶父は文王によって周が盛んになるだろうと言って、昌と命名した。
有徳者と言われ、民政に努める。后稷公劉の業に従い、古公・公季(季歴)の法にのっとり、 仁に篤く、老を敬い、少を慈しみ、賢者を礼し、よく士を遇したので、士は多く文王に帰服した。
伯夷・叔斉は、文王がよく老人をいたわると聞いて帰服しようとし、太顚閎夭散宜生鬻子辛甲大夫らが帰服した。
崇侯虎の讒言にあい、羑里に囚えられるが、閎夭らの計らいで獄から出ることが出来、 さらに弓・矢・斧・鉞を賜り西伯に任じられる。囚われている時、易の八卦を敷衍して64卦にしたという。
そこで文王は洛西の地を献じて紂王に炮烙の刑を廃するよう請い、認められた。
文王はひそかに善行を施したので、諸侯は争い事があると、みな文王に訴えたという。
あるとき虞・芮の国人に争訟があり、文王に決してもらうため周に行った。周に入ると、田を耕すものは畔を譲り合い、民の風習はみな長者に譲り合っていた。 虞・芮の人は自ら恥じ「われわれの争いは周人にとっては恥である。どうして訴えに行くことが出来よう。ただ恥をかくだけである」といって帰ったという。
犬戎、密須を討伐し、耆国を滅ぼし、周土を広げる。
邘に出兵し、崇侯虎を討伐する。また太公望呂尚を軍師に迎え、周都を豊に遷し、 武王の周王朝開始の基礎を築いた。 商の法律制度と暦を改めて周の制度暦法を作り、古公亶父を追尊して太王、季歴を王季と称した。
文王は犬戎や密須など諸侯を配下にして足元を固め、また諸侯にも紂王討伐を呼びかけた。
また一方で、文王は盂・莒・鄷などの民族を侵略したため紂王に憎まれ、肥沃の土地一千里四方を紂王に献上して重刑を逃れ、 その復讐のために兵を挙げたともいう。
B.C.1034商王朝を討伐する前に没する。
文王(楚)(ブンオウ)【王】
楚王(2(18)代目)。名は熊貲。武王の子。母は鄧曼。〜B.C.675。
B.C.690武王が随討伐の最中に没したため、文王は即位した。
文王は、はじめて郢を国都とする。
B.C.688文王は申を討つ途中、鄧に立ち寄った。鄧キ侯は「わたしのおい子である」と言って文王をもてなした。 鄧の臣聃甥養甥が文王を殺すべきであると行ったが、キ侯は聴かなかった。
文王は申の討伐を終えると、その帰途に鄧を討った。
B.C.684蔡哀侯は陳から夫人を迎えた。ちょうど息侯も陳から息嬀を迎え、 その息嬀が息に嫁ぐ途中、蔡に立ち寄った。哀侯は「わたしの妻の姉妹だ」と言って引きとめて会ったが、無礼であったので、息侯は立腹して、 文王に「わが国を討ちに来てください。わたしは蔡に救いを求めます。そこを共に蔡を討つことにしましょう」と申し出た。
9月、楚は息と共に蔡軍をシンで破り、哀侯を捕らえて楚に連行した。
文王の時代に、楚は強力となり、江・漢の小国を凌ぎ、どの小国にも恐れられた。
B.C.680蔡哀侯は息侯夫人の息嬀の美貌を褒めはやした。そこで文王は息に出かけ、息侯をもてなす宴会を開き、それに乗じて息を滅ぼし、息嬀を連れて帰った。
7月、息を滅ぼしたのが蔡哀侯の策略であることが判明したため、文王は蔡を討った。
文王は息嬀との間に囏(荘敖)を生んだ。 しかし息嬀は文王と口を利かなかった。文王がその理由を尋ねると、息嬀は「わたしは女の身でありながら、ふたりの夫に仕えました。 たとえ死ぬことが出来ないにしても、どうして口をききましょうか」と答えた。
B.C.678文王は鄧を討って、これを滅ぼす。
厲公は櫟から復帰したことを、時が経ってから楚に知らせた。
秋、文王は鄭の無礼を怒り、鄭に侵攻した。
文王は権を討ち、闘緡にその地を治めさせたが、闘緡は権の民を率いて謀反を起こした。
文王は権を包囲して闘緡を殺し、その民を楚の那処に移し、閻敖にその地を治めさせた。
B.C.676文王は巴とともに申を攻めた。文王は巴の人に楚軍の強いことを示すため、巴軍を驚かすようなことをした。そのため巴は楚に背いて那処を攻めて占領した。 閻敖はこらえきれず、涌水を泳いで逃げ走った。そのため文王は閻敖を殺した。
そこで閻氏の一族は乱を起こし、巴も乗じて冬に楚を攻め、楚は破られた。
B.C.675春、文王は巴の軍を防いだが、楚の津で大敗して引き返した。鬻拳は「大敗して帰るとは何事ぞ」と強く意見したが、 文王は聴き入れなかった。そのため鬻拳に武器をもって脅され、文王は都に入れなかった。
そのため文王は黄を討ち、その軍を黄の踖陵で破って帰った。
文王は楚の湫まで来ると、病気にかかった。
6月15日、文王は没した。
文姜(ブンキョウ)【女官】
斉公釐公の娘。〜B.C.673。
B.C.706釐公は文姜を鄭の太子に嫁がせようとしたが、忽は身分が違うと謙遜して辞退した。
そこで文姜は魯公桓公に嫁ぎ、同(荘公)を生んだ。
文姜は実の兄襄公と恋愛関係にあった。
B.C.694、1月、文姜は桓公とともに斉に入り、桓公は斉襄公と濼で会合し、そのまま文姜をつれて斉に入った。
そこで文姜は斉襄公と密通したが、それが桓公にばれてしまい、文姜は桓公に叱られた。文姜はそれを襄公に告げた。
4月10日、襄公は桓公を宴会に誘い、桓公を酒に酔わせて彭生に殺させた。
B.C.693、3月、文姜は魯に居ることができなくなったので、斉に出奔した。
B.C.692、12月、文姜は斉襄公と斉のシャクで会った。
B.C.690、2月、文姜は斉襄公と魯の祝丘で密通した。
B.C.689夏、文姜は斉の師に赴いた。
B.C.688冬、文姜は魯が衛から略奪した財貨を所望したので、魯はこれを送った。
B.C.687春、文姜は斉襄公と魯の防で会った。
冬、文姜は斉襄公と穀で会った。
B.C.679夏、文姜は斉に入った。
B.C.675文姜は莒に赴いた。
B.C.674、2月、文姜は莒に赴いた。
B.C.673、7月、没す。
文公(斉)(ブンコウ)【王】
斉公(10代目)。名は赤。厲公の子。〜B.C.802。
厲公と胡公の子がともに戦死したので、斉の国人は赤を立てて国君とする。
文公は胡公系の70人を誅殺する。
文公(晋)(ブンコウ)【王】
晋公(5(7)代目)。名は重耳。献公の子。母は狐姫。B.C.696〜B.C.628。
B.C.679重耳は若いころから士を好み、17歳のときに、趙衰狐偃賈佗先軫魏武子の5人の賢人を集めていた。
B.C.663晋献公に奚斉が生まれたため、重耳は蒲邑に赴任させられた。
B.C.662重耳は蒲邑を守って秦に備えた。
B.C.656驪姫の謀略によって献公暗殺の疑いをかけられたため、献公にいとま乞いもせずに去り蒲邑に走った。
献公に攻められたため、重耳は母の故郷の狄に出奔し、狄の地で咎如(赤狄の別種族)の族長の娘季隗をめとった。
B.C.651里克は奚斉と悼子を殺して、 重耳を迎えようと屠岸夷を派遣して「国は乱れ民は乱れています。国を得るのは乱れた時にあり、 民を治めるのは乱れた時にあります。あなたはなぜ帰国されないのですか」と言わせた。重耳は狐偃に相談した。
狐偃「いけません。乱によって入国するのは、危ういことです。乱によって入国すれば必ず乱を喜び、乱を喜べば必ず徳を怠ります。これは喜怒哀楽のけじめが変わることになり、 どうして民を訓導できましょうか」
重耳「乱でなければ、誰がわたしを帰国させようか」
狐偃「喪乱にも大小があり、大喪と大乱のきっ先は犯すことができないと言います。今こそこれに当てはまります。それ故に難しいのです」
そこで重耳は屠岸夷に帰国を断った。
そのとき秦の公子が弔問に来て「国を得るのは常に喪の時であり、国を失うのも常に喪の時であるといいます。好機は逸すべからず、 喪は長くありません。公子よ、帰国を計られよ」と言った。重耳は狐偃に相談した。狐偃は「いけません。父が死んでわが利を求めるのは仁ではなく、 人が所有しているものを外から僥倖によって奪うのは信ではありません」と言った。そこで重耳は「わたしは亡命中に父が死に、霊前哭泣の席に連なることもできないのに、 どうして大それた気持ちをおこすことができましょう」と言って断った。
B.C.644恵公が狄の地で重耳を殺そうとしたので、重耳は趙衰らと謀り「狄に出奔したのは、狄をたのんで興起しようとしたのではない。 もとより大国に行きたいと思う。 ところで斉では管仲隰朋が死んだので桓公も賢明な輔佐を得たいと望んでいるにちがいない。 行かずばなるまい」と言い、重耳は季隗に「わしを25年待っていてくれ。それでも迎えにこなかったら、他にかたずいてくれ」と言うと、 季隗は笑って「25年もたったら、わたしの塚の上の柏も大きくなっていましょう (もう死んでいますよ)。それでもわたしはあなたを待っております」と言った。 そして重耳は斉に赴いた。
途中、重耳は衛を通過したが礼遇されず、五鹿で飢えて野人に食を乞うた。野人はあなどり土を容器に盛ってすすめたので、重耳は怒った。趙衰は「野人が土を勧めたのは、 土地を領有できる吉兆であります。謹んでそれをお受けなさいませ。12年後に、きっとこの土地を手に入れましょう」と言った。 そこで重耳はこの野人に再拝稽首し、土を受け車に載せて、斉に赴いた。
斉では手厚くもてなされ、宗室の娘をめとり、馬20乗が提供され、重耳はこれに満足した。
B.C.643斉に滞在して重耳は斉姜を愛し、斉を去る気がなかった。重耳は「人生は安楽が一番だ。それ以外のことなど、誰が知ろう。 わしは何としてもここで死ぬのだ。去る気は毛頭ない」と言った。
12月、斉桓公が没し、孝公が即位すると、諸侯は斉に背いた。
狐偃は、斉を動かして帰国を支援してもらうことが不可能だと知ると、群臣たちと相談し、重耳に斉を出るように進言したが、重耳は聴き入れなかった。
斉姜は「あなたの従者はあなたを命とたのんでおります。あなたは功臣に報いるために国に帰ろうとなさらないのをわたしは恥ずかしく思います」と言った。 そこで趙衰と狐偃は斉姜と謀って、重耳を酒に酔わせて車に乗せて出発した。重耳は目を覚ますと大いに怒って、戈をもって狐偃を追いかけて言った。
重耳「もし成功しなかったら、わしはおじきの肉をくってやるぞ」
狐偃「成功しなかったら、(死に場所もわかりませんから)わたしの肉は食べられるものではなくなっているでしょう」
一行はとうとう出国して衛に向った。
B.C.642重耳は衛に亡命したが、衛文公に冷遇されたため、衛から曹に向った。
曹では曹共公が無礼であったが、大夫釐負羈だけは食物を贈って来て、 その中に璧を入れていた。重耳はその食物を受けて、璧は還して曹を去った。
B.C.638重耳が宋を通ったとき、宋襄公に礼遇され、馬80頭を賜った。
B.C.637重耳は鄭に行ったが、鄭文公に礼遇されなかったので、楚に入った。
成王に諸侯と対等の礼をもって待遇された。成王は 「もしあなたが国に帰って後を継ぐことになったら何をしてくれますか?」と尋ねた。 重耳は「王と戦うことになりましたら三舎(1日行軍距離)軍を引かせましょう」と答えた。
楚の子玉が重耳を殺すように成王にすすめたが、成王は「天が興そうとする者を、だれが止めれようか」と言って聴かなかった。
晋の太子圉が秦から逃亡したため、これを恨みに思った秦は、楚に居る重耳を招いた。成王は「楚は遠国で数カ国を経なければ晋には行けません。秦は晋に接しており、 秦君は賢君です。なんとしてもお出になるがよろしいでしょう」と勧めたので、重耳は秦に赴いた。
秋、秦繆公は5人の娘を重耳に嫁がせたが、 その中に懐公に嫁いだ懐嬴も入っていた。
重耳が水差の水で手を洗い、洗い終わって手を振った時、その水が懐嬴にかかったので、懐嬴は怒って「秦と晋は対等なのに、 なぜわたくしを卑下するのですか」と言った。重耳は恐れて、上着を脱いで謝罪した。
重耳がこの結婚に難色を示したので、繆公は「わたしの娘の中ではこの子が一番才があります。ですが、この件については公子のご意向に従って処理しましょう」と言った。 重耳は辞退しようとしたが賈佗は結婚を勧め、さらに狐偃は「その国を奪おうとしているのです。妻が何ですか。秦の命じるところに従いましょう」と言い、 さらに趙衰も勧めたので、重耳は親迎の礼によってこれを娶った。
10月、晋恵公が没した。
12月、秦繆公は出兵して、ついに重耳は晋に入った。黄河まで来ると、狐偃は重耳に神を祭る璧玉を渡して「わたしは今まで天下を周遊しましたが、悪事も多くありました。 今ここでおいとましたいと思います」と言った。重耳は「いけません。父上(狐偃)と心を同じくしない者は神罰を受けますように」と言い、璧を黄河に沈めて誓った。
董因が黄河まで迎えに来た。重耳は「わたしは成功するだろうか」と尋ねると、董因は「天文や占いをみましたが、 成功しないはずがありません。君よ恐れてはいけません」と答えた。
B.C.636重耳は黄河を渡って令狐・臼衰・桑泉の3邑を招くと、みな降服した。
2月、懐公は高梁へ逃走した。
2月4日、呂省郤芮は兵を率い廬柳に陣を布いた。 秦繆公は公子縶を呂省のもとにやったので、呂省らは軍を引いて郇の地に駐屯した。
2月12日、狐偃が秦と晋の大夫と郇で和議を盟った。
2月13日、重耳は晋軍に入り、これを指揮することとなった。
秦繆公は秦に帰国した。
2月18日、重耳は曲沃に入った。
2月19日、重耳は絳の都に入って、先祖武公の廟に参拝し、位に即いて晋の国君となった。
2月20日、文公は人をやって懐公を殺した。
3月、論功行賞の最中、宦官の勃鞮が呂省と郤芮の陰謀を文公に伝えた。 文公は引見せず「蒲城の事件のときおまえはわしの袂を斬り、また恵公のために狄でわしを殺すよう要求した。おまえはそれらのことを考えてみるがいい」と言った。 勃鞮は「わたくしは刀鋸のはしくれ(刀鋸によって去勢された者)にすぎません。あえて二心をもって君に仕え、主君に背くことはいたしませんでした。 そのため君に罪を犯したのです。いまや君がわたしの君主です。斉の管仲は桓公の帯鉤を射ましたが、その管仲によって桓公は覇者となることができました。 いま一大事を告げようとしておりますが、君は会ってくださいません。禍がせまって来ております」と言った。文公は「おまえの言うとおりだ。これはわたしの悪い心だ。 この心を無くしたいものだ」と言い、文公はこれを聞き入れて恐れて早馬に乗り近道を通って脱走して、秦繆公と王城で会って叛乱のことを告げた。
3月29日、呂省と郤芮らが背き、公宮を焼いたが、文公は逃れていたため、彼らは文公を黄河まで迫ってきた。繆公は彼らをおびき寄せて、 黄河のほとりで彼らを殺した。
文公は夫人懐嬴と共に王城から晋へ戻った。秦繆公は衛士3000人を派遣して、文公を護衛した。
文公は百官を集めて功労のある者を任じ、税を軽くし、悪法を廃し、窮乏の者を救い、無産者には融資し、関税を軽くし、商人を流通させ、農政をゆるくし、 支出を省き、財政を充足し、徳義を明らかにして民の生活を重厚にした。
また亡命に従った者や功臣を褒賞し、善良の人をとり挙げ、賢能を用い、賓客を礼遇し、胥・籍・狐・箕・欒・郤・先・羊舌・董・韓の旧族を内外の官に任命した。
文公は介子推を賞していないことを知り、彼が緜上の山中に入ったと聞くと賞しようとして追い求めたが、介子推が山から出なかったので、 その山を焼かせたという。それでも介子推は山を出ずに、樹木を抱いて立ちながら焼け死んだ。文公はその過ちを悟って、この山を介子推の領地として祭り、 衆人の出入りを禁じたという。
頭須という者は蔵番人をしており、文公が亡命した時、蔵の物を盗み出し、後に盗品をすべて賄賂にして文公の帰国の運動を行った。
文公が帰国すると、頭須は謁見を求めたが、文公は洗髪中を理由に断った。頭須は「髪を洗えば心もひっくり返り、考えもひっくり返るでしょう。 わたしがお目にかかれないのも当然です。お供した人は従僕の労をとり、国に居た人は国家の守りとなったのですから、どうしてお供しない人を罰するのでしょうか」と言った。 これを聞くと文公はすぐさま頭須を引見した。
襄王王子虎と内史を使節として派遣し、 文公に襲封の勅命を賜った。文公はすべて礼にかなった対応をしたため、内史興は晋と親しむように進言した。襄王はその言葉に従って晋への使節をたびたび送った。
周襄王は叔帯の乱を避けて鄭の地に亡命し、晋と秦に救援を求めた。
狐偃は「民は君に親しみましたが、まだ義を知りません。君は王を周に入れて、民に義を教えるべきです」と進言した。文公はこれを聞いて喜び、救援することにした。
そこで文公は草中の戎と麗土の狄に賄賂して、東方出兵の道を開いた。
B.C.635春、文公は左右二軍を率いて東行した。
3月20日、文公は周の陽樊に軍を留め、右師をもって叔帯を討ち、左師をもって周襄王を迎え入れた。
4月、右師は叔帯のいる温を包囲した。
4月4日、文公は周襄王を王城に入れた。
4月5日、文公は叔帯を温で捕えて、隰城でこれを殺した。
文公は朝廷に参内し、天子の用いる隧(天子の通る道)を用いたいと願ったが、周襄王は「わたしはなお姫姓のまま公侯に列して先王の事業を復旧しようとしているので、 天子の礼章であるものは授けられません。叔父よ、まだ周に代わる徳を持った者がないのに、天子の用いる隧を許して、あたかも王が二人いるようになるのは、 あなたもいやでしょう」と言い、許されなかった。
そこで襄王より陽樊・温・原・州・陘・絺・組・欑茅の地を賜った。
秋、文公は秦とともに鄀を討った。 楚の闘克屈禦寇が申・息の軍を率いて鄀の都の商密を守った。 秦が策略を使って商密を降服させた。
冬、陽(陽樊)が晋に帰属しなかった。そこで文公は陽を包囲した。陽の人倉葛が大声で話しかけた 「陽はまだ晋君の政になれないだけのこと、どうして軍を派遣されるほどのことがありましょう。暴虐をなさらなければ晋に服従しないことがありましょうか」
文公はこれを聞いて「これは君子の言葉である」と言って、包囲を解いて陽の民の降服を許した。
また文公は原を討ったが、3日分の食糧しか用意しなかった。3日経っても原が降服しなかったので、文公は撤兵するよう命令した。 間諜が「原はあと1、2日しないうちに降服するでしょう」と言ったが、文公は「原を手に入れても信用を失ったなら、どうして人を使えようか。 信用は民をかばい守るものであり、失ってはならない」と言って兵を率いて去った。孟門という所まで来たとき、原が降服を申し出た。
文公は原伯を翼に移し、趙衰を原の大夫とし、狐溱を温の大夫とした。
B.C.633楚と諸侯が宋の都を包囲したので、宋が晋に救援を求めた。
先軫「かつて受けた恩恵に報い、その災難を救って、国威を諸侯に示して覇者となるのは、このときです」
狐偃「楚はようやく曹を仲間にし、このごろ衛と縁組したばかりです。もし曹と衛を討てば、楚はこれを助けるでしょう。 そうすれば斉と宋は楚の攻撃を受けなくなるでしょう」
そこで文公は宋を救うため被廬の蒐を行い三軍を編成した。文公は趙衰に誰が元帥に適任か諮問すると、 趙衰は郤縠を推挙したので郤縠を中軍の将とし、郤臻を中軍の佐とした。 そして狐毛を上軍の将とし、狐偃を上軍の佐とし、さらに文公は趙衰を卿にしようとしたが、趙衰が辞退したので欒枝を下軍の将とし、 先軫をその佐とし、荀林父を御者、魏犨を右乗とした。
12月、晋軍は山東を平定した。
さらに晋軍は斉の穀城を守備していた楚の申公叔侯の軍を追い払った。
B.C.632春、文公は曹を討とうとして、衛に道を借りようとしたが衛が許可しなかった。そこで晋軍は河南から黄河を渡り、曹・衛を討った。
1月11日、晋軍は衛の五鹿を取った。
2月、郤縠が死んだため、文公は先軫を中軍の将に任じ、賈佗を下軍の佐に任じた。
文公は斉昭公と衛の斂盂で会盟した。衛成公はこの盟いに参加したいと申し出たが、 文公は許さなかった。そこで成公は楚に取り入ろうとしたが、衛人はそれを望まず成公を都から追放して晋に弁解した。成公は都を出て襄牛に出奔した。
魯は衛を守備していたが、晋軍に敗れたため、魯釐公は公子を殺して晋に弁解してきた。
3月、文公は曹を包囲したが戦死者が多く出た。曹は屍を城壁の上にさらしたので、文公はこれを気に病んだ。そのとき兵卒が曹人の墓地に陣取れと言っていたので、 文公は軍を墓地に移した。これを見て曹人は夢をあばかれることを恐れて、晋兵の屍を棺に入れて城外に運び出した。
3月10日、晋軍はこれにつけこんで曹軍を攻め、城内に攻め入った。
晋軍は曹に入ったが、文公は釐負羈の宗族の家に立ち入ることを禁じた。先年の徳に報いるためであった。
文公は曹共公に会ってたわむれて「わたしのあばら骨を見せようか」と言った。
魏犨と顛頡は立腹して命令に背いて釐負羈の家を焼いた。文公は彼らを殺そうとしたが、 その才能を惜しんで魏犨が重態ならば殺そうとした。魏犨は使者に会って元気なところを見せたので、文公は魏犨を許し、顛頡を殺してみせしめとした。 文公は魏犨のかわりに舟之僑を用いて戎右とした。
宋が門尹般を使者として晋軍に赴かせ、危急を告げた。文公は大夫たちに「宋を放っておけば晋と国交を断つであろう。 しかし楚に宋を許すように言っても、受け入れないだろう。晋が楚を討っても、斉秦は救援しないだろう。どうすればよいか」と言った。
先軫「斉と秦に、楚を怨むようにさせるのがよろしいでしょう」
文公「そのようなことができようか」
先軫「宋から斉と秦に賄賂を贈らせ、斉と秦から宋を許すように楚に要請させます。わが君は曹と衛の地を分割して宋に与えたなら、楚は曹と衛を親愛してますから、 きっと斉秦の要請を容れないでしょう。そうなれば、斉と秦は必ず楚を怨むでしょう」
文公は喜んで、曹と衛の地を宋に分け与えることとした。
楚成王は宋の包囲を解いて方城に帰り、叔侯を穀から撤退させ、子玉に退却を命じた。 しかし子玉が聴き入れなかったため、成王はわずかの軍勢を子玉に与えた。
そこで子玉は兵を率いて、宛春を遣わして「どうか衛と曹を再建してください。わたくしも宋の包囲を解きましょう」と言い、曹・衛君の復位を迫った。 狐偃は怒って「子玉は無礼である。わが君は1つを取り、自分は2つを取ろうとしている。撃滅してやろう」と言い、 先軫は「楚には内緒で曹と衛に復位を許して楚から離間させ、さらに宛春を捕らえて楚を怒らせ、楚と決戦しましょう」と言った。
文公はこれらの言を容れ、宛春を捕え曹・衛の復位を許し同盟した。子玉は怒り晋軍を討った。
文公は先年の約束どおり三舎軍を退却させた。軍吏が「挑戦を逃げるのは恥じですし、楚軍は疲れていますから必ず敗れましょう」と言ったが、文公はそのまま退却した。
4月3日、文公は宋成公、斉の将国帰父崔天、 秦の将小子憗とともに城濮に陣取った。楚軍は険阻な丘陵をうしろにして陣取った。
子玉は子上を使者として遣わして開戦を挑み「君のご家来と力くらべをいたしましょう。 君にはゆっくりご覧あれ。得臣(わたし)も一緒に見物しましょう」と言った。文公は欒枝に応答させ「承知いたしました。楚君の恩恵は今も忘れておりません。 こうして三舎退きましたが、お聞き入れされないのならば、お伝えください。つつしんで出陣されよ、明朝早くお目にかかりましょうと」と言わせた。
文公は有辛氏の都のあった丘に登って晋軍を見渡し「若者も年上の者も軍礼を守っている。大いに働かせることができる」と言った。
4月4日、晋軍は城濮に陣をしいた。賈佗は下軍の佐として陳・蔡の軍にあたった。子玉は若敖氏の600人を率いて中軍の将となった。 子西は左翼の将となり、子上は右翼の将となった。
賈佗は馬に虎の皮をかぶせて陳・蔡の軍を破り、楚の右翼が崩れた。晋の上軍の将狐毛はわざと退却するように見せかけて、 下軍の将欒枝も柴をひきずって土ぼこりを立てて敗走するまねをした。楚軍は策にかかって追撃した。先軫と郤臻は中軍の兵を率いて側面から楚軍を攻撃し、 狐毛・狐偃と子西の軍を挟み撃ちにした。かくて楚の左翼も破れ、楚軍は大敗した。
4月8日、晋軍は引き揚げた。
4月29日、晋軍は衡雍に帰還し、文公は天子の為に近くの践土に王宮をつくった。
楚と盟約していた鄭は晋と盟約したいと請うた。
5月11日、文公は鄭文公と衡雍で和睦の盟いを結んだ。
5月12日、文公は楚の捕虜を周襄王に献上した。
5月14日、襄王は文公をもてなし醴酒を賜わった。
衛成公は楚軍が敗れたことを聞いて、楚に出奔し、陳に赴いた。成公は一方で元咺に命じて、 弟の叔武の共をさせて盟いを受けさせた。
5月28日、文公は周の王子虎とともに、斉昭公・宋成公・魯釐公・ 蔡荘侯・鄭文公・衛・莒とともに践土の王宮で盟った。
6月、晋は衛成公を衛に帰した。
6月18日、晋軍は黄河を渡って帰国した。このとき戎右の舟之僑はその役目を捨てて先に帰ったので、文公は士会をその代役とした。
7月2日、文公は軍を整え、大いに軍楽を奏して晋都に入り、論功行賞を行ない、狐偃を第一とした。 ある人が「城濮のことは先軫のはかりごとですが・・・」と言うと、文公は「偃はわしに信義を失ってはならないと説き、先軫は勝つことが第一だと言った。 たしかに先軫の言によって勝ったが、これは一時の説であり、偃の言葉は万世の説である。よってこれを首位にしたのだ」と答えた。
さらに一方で諸侯に使者を送って会合させ、二心ある者を討つこととし、舟之僑を殺して国中にふれ知らせた。
かくて晋の民は大いに文公に服従した。
冬、文公は、斉昭公・宋成公・魯釐公・蔡荘侯・鄭文公・陳共公・莒の君・邾の君・秦人と温で会同し、 周の王室に参朝しようとしたが、聞かないものがあるのを恐れた。そこで周襄王に言上し、河陽で狩猟されるよう請い、 文公は諸侯を率いて践土で襄王に朝見した。そこで晋に服従しない衛と許を討つことを相談した。
衛成公は叔武を殺したことについて元咺と言い争いをして晋に裁きを求めた。成公が敗訴となったので、 文公は成公の弁護人の士栄を殺し、 代理人の鍼荘子を足切りの刑に処したが、補佐役の甯兪は忠義者であるとして許した。 かくて成公を囚室にとじこめ、元咺は公子を立てて君とした。
10月15日、文公は諸侯とともに許を攻め囲んだ。
このとき文公は病気にかかった。曹の侯ジュが晋の卜筮者に賄賂を使って曹を滅ぼした祟りであると言わせた。文公は喜んで、 曹共公許してを復位させた。共公は早速諸侯に加わって許を攻めた。
文公は曹の領地を削減して、諸侯に分配した。文公が曹に亡命したとき、曹共公が文公に対して無礼をしたためである。
この後晋が魯に使節を派遣する時には、諸侯より一等を加えて尊んだ。
晋ははじめて三行を編成し狄を防ごうとした。荀林父を中行の将軍に、先縠を右行に、先蔑を左行の将軍とする。
B.C.630春、晋は鄭に攻め入り、鄭を攻め取ることができるかどうか試した。
夏、晋の遠征の隙を狙って狄が晋の与国である斉を侵した。
文公は衛成公を捕らえて周に送り、医者に命じて鴆毒で殺させようとしたが、衛成公が鴆毒をつかさどる者に賄賂を贈って毒を薄めさせ、 死を免れた。さらに文公は天子の命でこれを殺そうとした。襄王は「いけません。下の者が上の者を訴えるようでは、上下の別はなくなります。今、 元咺の訴えは正しいとはいえ、聴いてはなりません。臣下のためにその君を殺すとしたら、誰に対して刑罰を用いるのですか」と言った。
秋、魯釐公が衛成公の釈放運動をしたので、文公は衛成公を許して国に帰した。
9月13日、かつて文公が亡命中に鄭文公が無礼であったため、晋は秦繆公とともに鄭を討ち、城の上の女垣(障壁)を破壊した。鄭は国宝を贈って講和しようとしたが、 文公は許さず「叔詹を出すなら撤兵しよう」と言った。
叔詹はみずから晋軍に赴き「晋君が鄭に来られたとき、私は礼遇するよう諌めましたが聴き入られませんでした。このようになることを分かっていたのは知です。 一身を殺して国家を救うのは忠です」と言い、進んで煮られようとし、鼎の耳をつかんで大声で叫び「これから後は、知と忠で君に仕える者は、わたくしと同じく煮られるのだ」 と言った。これを聞くと文公は叔詹を許し、厚く礼遇して帰国させた。
(『史記』では叔詹は自殺し、鄭文公は叔詹の屍を晋に送った。晋文公は鄭文公を辱しめようとしたが、鄭が秦と密かに誓った為、秦が撤兵し、 そのため晋も撤兵したとしている)
鄭がひそかに秦と盟ったため、秦軍は引き揚げた。狐偃が秦軍を討つべきであると進言したが、文公は「秦の助けが無ければ、今日のわたしはなかったであろう」 と言い、晋軍を引き揚げさせた。
鄭の石甲父侯宣多が、 晋に出奔している公子を迎えて太子に立て、晋との和睦を求めてきた。文公はこれを許した。
冬、魯の襄仲が来朝した。
あるとき晋に飢饉があった。文公は箕鄭にどうすればよいか尋ねた。
箕鄭「信です」文公「何に信があればよいか」
箕鄭「君の心に信があり、文物制度の名に信があり、政令に信があり、民事に信があればよいのです」「そうすればどのようになるのか」
箕鄭「君の心に信あれば善悪こえず、名に信あれば上下犯さず、政令に信あれば農時は功を奪うことなく、民事に信あれば仕事をするに次第があります。 こうなれば民は君の心を知って貧しくても恐れません」
そこで文公は箕鄭を箕の大夫に任命した。
B.C.629狐毛が死んだので、趙衰を後任に命じたが、趙衰は辞退した。そこで文公は先且居を上軍の将に任じた。
秋、文公は「趙衰は3度位を譲った。これを放置するのは徳を棄てるものだ」と言い、清原に蒐をして五軍を作り、趙衰を新上軍の将として、箕鄭を新上軍の佐に任じ、 胥嬰を新下軍の将として、先都をその佐とした。
狐偃が死んだので先且居が上軍の佐の後任をお願いしたので、文公は「趙衰は三譲して義を失わぬ。位を譲って賢人を推薦し、義によってその徳を広くした。 衰をあなたの佐としよう」と言い、趙衰を上軍の佐とした。
文公は読書を賈佗に学んだ。3日目に文公は「わたしはとても行えないが、聞くことは多いなあ」と言った。賈佗は「そうです。多く聞いて行うことのできる人を待てば、 学ばないよりはましではありませんか」と言った。
文公は「はじめわしは国を治めるのは容易だと思ったが、今になって困難なことが分かった」と言うと、 郭偃は「君が用意だと思えば困難がやって来ましょう。君が困難だと思えば容易になってくるでしょう」と答えた。
あるとき文公は賈佗に「わしは陽処父歓(驩)の傅にしようと思うが、どうだろうか」と言った。 賈佗は「それは太子本人にかかっています。性質がよくて、賢人が助け導くならば、必ず大成します」と答えた。
文公は「それでは教育は無益だろうか」と問うと、賈佗は「どうしてそんなことがありましょうか。文教が性質を磨き上げるのです」と答えた。
文公はそこで陽処父を傅とした。
あるとき賈佗が使者の使命から帰る際、郤欠を都に連れて帰って推薦した。
文公「彼の父は、わしを殺そうとした罪があるが、それでもよかろうか」
賈佗「国の賢良は、前の罪は免除します。を死刑にしましたが、 その子を挙げて天子にしました。斉桓公もみずからを殺そうとした管敬子を宰相に登用しました」
文公「何によって彼が賢人だと分かるのか」
賈佗「わたくしは、彼が敬を忘れないことを見ました。敬は徳の慎み深さです。徳を慎んで事を行えば、成就しないことがありましょうか」
ついに文公は郤欠に会って、彼を下軍大夫に任命した。
B.C.628春、楚が闘章に命じて晋に和睦を願い出た。晋は陽処父を遣わして、 楚と晋は友好した。
12月11日、没す。
文公(鄭)(ブンコウ)【王】
鄭公(8代目)。名は踕。厲公の子。〜B.C.628。
B.C.673即位する。
恵王は虢に行幸し、さきに鄭厲公に与えた物よりも貴い玉爵を虢公に与えた。 文公は恵王が虢公を貴び、父を卑しんだと考えて、恵王を憎んだ。
12月、厲公を葬った。
B.C.672、6月2日、文公は斉桓公に朝見した。
B.C.670文公は斉桓公の命を受けて蔡に攻め入り、一方で楚と和平を結んだ。
B.C.667、6月、文公は斉桓公・魯荘公・宋桓公・ 陳宣公と会合して幽で同盟し、陳と鄭は斉に服従した。
B.C.666秋、楚の子元は兵車600乗を率いて鄭を討ち、桔シツの門に攻め入った。楚軍は外城の純門に群がり攻め入り、 市場まで攻め入った。鄭は内城の門を開け放ち、兵卒に楚の言葉で話しあわせた。鄭の落ち着き払った様子を見て、子元は「鄭には人物がいる」 と言って進撃しなかった。
そのうち斉、宋の援軍がやってきたので、楚軍は夜にまぎれて逃げ去った。 鄭軍も桐丘まで軍を引こうとしたが、間諜が「楚の陣営はひっそりとして鳥がとまっている」と報告したので、楚の撤退を知り、移動を中止した。
B.C.665夏、文公は許を討った。
B.C.662楚に攻められる。
B.C.660鄭人は高克を憎んでいたため、狄の侵入に備えるとして高克を黄河のほとりに駐屯させ、 長い間都に呼び戻さなかった。やがて同行した軍も離散したので、高克は陳に出奔した。
B.C.659、7月、鄭は楚に背いて斉についたため、楚に攻められた。
8月、文公は斉桓公、宋桓公、曹昭公、邾と宋の檉で会合し、鄭を救うことを相談した。
B.C.658冬、鄭は楚に攻められ、聃伯が捕えられた。
B.C.657冬、楚に攻められた。文公は楚と和睦しようとしたが、孔叔は「斉はわが国難を憂えておられる。 その恩を捨てるのはよくないことだ」と諌めたのでとりやめた。
B.C.656春、文公は斉桓公、魯釐公、宋桓公、 陳宣公、衛文公、鄭文公、許穆公、曹昭公と会合して蔡を討ち、 勢いに乗じて楚に攻め入った。連合軍は楚と和平の盟いを結んだ。
秋、斉桓公は袁濤塗が軍道を誤らせようとしたのを責めて、宋・衛・鄭・許・曹・魯とともに陳を討った。
B.C.655夏、文公は、斉桓公・魯釐公・陳宣公・衛文公・許僖公・曹昭公・ 周の太子と衛の首止で会合し、太子鄭の地位を固め、周室の安泰を図る相談をした。
このとき、鄭の申侯が諸侯に援助を請うて城壁を築いた。 陳の袁濤塗が文公に申侯を中傷して「立派に城壁を築いて謀反を起こす気でしょう」と言ったので、文公は申侯を罰した。
8月、諸侯は首止で盟いをしようとした。周恵王が宰孔に命じて文公を呼び寄せ「わたしはお前を楚につくようにさせ、 晋にも助けるようにさせよう。そうすれば斉は鄭に手出しはできまい」と言い、太子鄭の地位を固めさせないように謀った。文公は喜んで、諸侯の盟いに参加しなかった。 孔叔が諌めたが、文公は聴き入れず、鄭軍を残して自らは帰国した。
B.C.654鄭は斉桓公・魯釐公・宋桓公・陳宣公・衛文公・曹昭公ら諸侯に攻められて、新城を包囲された。
秋、楚が許を包囲して鄭を助けようとしたが、諸侯が許を救ったので、楚軍は引き揚げた。
B.C.653、7月、文公は、斉桓公・魯釐公・宋桓公・陳の太子・ 鄭の太子と魯の甯毋で会合し、鄭に対する処置を相談した。
この会合で太子華が泄氏、孔氏、子人氏の三族を誅すよう願い出たため、鄭では太子華を罰した。
冬、文公は斉に使者を遣わして盟いに参加させてもらうよう請うた。
B.C.652春、諸侯が会同して洮で盟い、周王室の騒ぎを鎮めることを相談した。文公は斉に服従を求めて会盟に参加することを願い出た。
B.C.651夏、文公は、斉桓公・魯釐公・宋襄公・衛文公・許僖公・曹共公・宰孔と葵丘で会合し、 同盟関係を温めた。
B.C.649賎妾である燕姞が夢で天帝の使者が彼女に蘭を与え「わしは伯鯈(南燕国の祖)といい、なんじの先祖じゃ。 これ(蘭)にちなんで、なんじの子に名づけるがいい。蘭には国香(国中第一の香気)があるのじゃ」と告げた。そこで文公は燕姞を寵愛して子を生み、 蘭と名づけた(繆公)。
B.C.647夏、文公は斉桓公・魯釐公・宋襄公・陳穆公・衛文公・許僖公・曹共公と衛の鹹で会合し、 淮夷が杞を苦しめたことへの対応と、王室の騒ぎについて相談した。
B.C.646秋、狄が鄭に侵入した。
B.C.645、3月、文公は斉桓公・魯釐公・宋襄公・陳穆公・衛文公・許僖公・曹共公と斉の牡丘で会合して、葵丘の盟いを忘れないようにし、 楚に討たれた徐を救うことを相談した。
B.C.644秋、周襄王は戎の侵略に悩まされ、救いを斉に求めたので、鄭は斉桓公の召集に応じて周を守った。
11月13日、文公は太子華を欺いて鄭の南里でこれを殺した。
12月、文公は、斉桓公・魯釐公・宋襄公・衛文公・許僖公・邢侯・曹共公と淮で会合し、淮夷に苦しめられている鄫を救うことを相談した。
B.C.642斉桓公が没したので、文公ははじめて楚に朝聘した。楚成王はこれをめでて銅を与えた。 成王は文公と盟いを立てて、その銅で武器を作らないように言った。そこで文公は3つの鐘をつくった。
B.C.641冬、陳穆公は宋襄公の暴虐ぶりを見て、蔡・楚・鄭と共に斉桓公の徳を忘れないようにするため、斉で会合した。
B.C.640夏、滑が鄭に背いて衛に服従したので、文公は公子士泄堵寇に命じて滑を討った。
しかし滑は鄭軍が引き揚げると、また鄭に背いて衛についた。
B.C.638、3月、文公は楚に行って友好を求めた。
夏、宋襄公は鄭に攻め込んだ。楚が鄭を助けたので、楚軍と宋軍は泓水で戦い、楚は大勝した。
11月9日、楚成王が鄭の都に入った。文公は上公をもてなす九献の礼を用い、庭には100種類の贈物をならべ、ご馳走は籩、豆それぞれ6品を増してもてなした。
B.C.637晋の公子重耳が鄭を訪れたが、文公はこれを礼遇しなかった。 叔詹がこれを礼遇するよう進言したが、聴き入れなかった。
B.C.636秋、文公は公子士泄と堵寇に命じて滑を討った。
襄王が大夫伯服游孫伯を遣わして滑を許すよう請うた。 文公は厲公が周恵王を助けたのに爵禄がなく、また周が衛と滑に与していたので、この2人を捕えた。
周襄王は怒って狄の軍を率いて鄭を討った。
鄭は狄に攻められて櫟を失った。
8月、公子が鷸(シギ)の羽毛でつくった冠を好んでいたが、文公はこれを憎んで、賊を使って公子臧をおびき出して、 陳と宋の国境でこれを殺した。
成公が鄭に来て、鄭と友好した。文公はどのような礼で対処しようかと尋ねると、 皇武子が「宋は前代の子孫で、特別な扱いを受けています。手厚くもてなすことがよいでしょう」と答えたので、 文公はそのとおりにした。
また文公は江から夫人を迎えて公子を生んだ。文公はその後さらに蘇から夫人を迎え、 公子と公子兪弥を生んだが、兪弥は早く死んだ。 泄駕が公子瑕を嫌ったので、文公もこれを嫌い、太子にしなかった。その後、文公は公子たちを追放した。
冬、周襄王が狄に攻められて鄭の氾に出奔してきた。文公は孔将鉏石甲父侯宣多とともに氾に赴き、天子の役人の用いる調度品を整えて献上した。
B.C.633文公は楚・陳・蔡・許とともに宋を攻め囲んだ。
B.C.632、3月、鄭は楚を助けて晋を討った。
4月、楚軍が晋軍に破れたので、文公は晋を恐れ、子人九に命じて晋に和睦を申し入れ、楚との同盟を破棄した。 晋の欒枝が鄭に赴いて文公と盟った。
5月11日、文公は晋文公と衡雍で和睦の盟いを結んだ。
5月12日、晋文公は周襄王に捕虜を献じたが、文公はそのとき周王の介添え役を務めた。
5月13日、襄王は文公に引き出物を与えた。
B.C.630春、晋は鄭に攻め入り、鄭を攻め取ることができるかどうか試した。
9月13日、晋文公は秦繆公とともに鄭を討ち、城の上の女垣(障壁)を破壊した。 鄭文公は国宝を贈って講和しようとしたが、晋文公は許さず「叔詹を出すなら撤兵しよう」と言った。
鄭文公は叔詹が行くのを許さなかったが、叔詹が「ひとりの臣によって百姓を救い、国を安定させることができるのに、君は何故わたしひとりを惜しむのですか」 と言ったので、文公は叔詹を晋に与えた。
叔詹はみずから晋軍に赴いたが、逆に厚く礼遇され帰国した。そこで鄭文公は叔詹を将軍に任じた。
晋が蘭を太子に立てるよう申し入れたため、ともに誓って蘭を太子に立てた。よって晋の兵は去った。
佚之狐が「燭之武を使者として秦君に面会させたら、 秦軍はきっと退くでしょう」と言ったので、文公は燭之武を召した。
燭之武「わたしは若いときには顧みられず、今や老人となり働くことができません」
文公「あなたを用いなかったのはわたしの過ちです。しかし鄭の滅亡は、あなたにとっても不利でしょう」
そこで燭之武は承諾し、秦との停戦の盟いを結んだ。
秦は杞子逢孫揚孫を鄭におらせて、軍を引き揚げた。 これを見て晋軍も引き揚げた。
(『史記』では、晋が叔詹を引き渡すよう要求したため、叔詹は自殺した。文公は彼の屍を晋に与えた。 そこで晋文公はどうしても鄭文公に会い、彼を辱めたいと思っていた。そのため鄭は人を秦軍にやり「鄭を破って晋に利するのは、秦の利益ではありません」と言ったので、 秦の兵は退き、晋も撤兵したとしている。また『春秋左氏伝』では、晋が撤退したのは、秦が鄭と和睦したためであるとしている)
B.C.629公子瑕が、文公と泄駕に嫌われたとして、楚に出奔した。
B.C.628、4月、没す。
文公(虢)(ブンコウ)【王】
虢公。
宣王が籍田の礼を行わなかったので文公は諌めて「いけません、民の大事は農業です。 昔は太史が農業の季節に従って土脈の陰陽の変化を観察し、稷に告げ、稷は王に告げます。そこで王は司徒に命じて公卿百官庶民を戒め、司空に命じて祭壇を神田に作らせ、 農具を用意させます。期日より5日前に、瞽が春のそよ風が来たと報告し、王は斎宮に入り、醴酒を飲みます。そして王は神田を耕し、 公卿百官庶民も耕して千畝を耕し終わります。
このような大事な農業を廃棄し、神の祭祀を欠き、民の資財を困窮させます。このような事では、どうして福を求め民を用いることが出来ましょうか」と言ったが、 聴き入れられなかった。
文公(魯)(ブンコウ)【王】
魯公(19代目)。名は興。釐公の子。母は声姜。〜B.C.609。
B.C.626、正月、文公は即位する。
2月1日、日食があった。
襄王は内史叔服を魯に遣わして釐公の葬式に会葬させた。
4月27日、文公は釐公を葬った。
周襄王は毛伯衛を魯に遣わして、文公に命圭(天子から賜わる爵命を表す圭)を賜わった。 文公は叔孫得臣に命じて周に行かせ、お礼を申し上げた。
秋、文公は公孫敖に命じて晋に行かせ、即位後の最初の聘問をさせた。
冬、公孫敖は斉に赴いた。
B.C.625、2月22日、文公は釐公の木主を作ったが、時が遅れたと譏られた。
襄公が、文公が晋に朝しないので、使者を遣わして責め立てきた。
4月15日、文公は朝したが、晋襄公は顔を出さず、陽処父に命じて会見させて恥をかかせた。
前年の12月から雨が降らず、7月に至った。
8月15日、魯の大廟で吉禘の大祭を行い、釐公の廟を湣公の廟の上に昇らせたが、逆祀であると非難された。
文公は公宮を広めようとして孟文子の邸宅を移転させようと使者をやった。孟文子は「官暑(邸宅)は朝夕に君命を謹んで遂行する所です。 失礼ながらご命令には従いかねます。もしわたくしに罪があれば、俸禄を車服を返納して、官暑から立ち退きましょう」と言って断った。
そこで文公は郈敬子に同様のことを言わせた。郈敬子は「先臣恵伯が司里の官に命ぜられ、 君の祭肉をいただいて数世になります。今わたくしに移転させようとなさいますが、役人にその役を命じるには、遠すぎるのではございませんか。 もし罪によって左遷されるのなら、席次を下して家を移転させていただきます」と言って断った。
ついに文公はふたりの家を取ることが出来なかった。
冬、襄仲は斉に出かけて幣を納めた。
B.C.624春、沈が楚に服従したので、魯は叔孫得臣を遣わして、晋・宋・陳・衛・鄭と会合して沈を討ち、沈は潰滅した。
冬、晋が去年、文公に対して無礼なことをしたのを気にかけ、改めて盟いたいと申し出た。そこで文公は晋に出かけた。
12月24日、文公は晋襄公と盟った。
B.C.623夏、文公は婦姜を斉から迎えた。
秋、衛の甯兪が魯に来聘した。
B.C.622、1月、周襄王が栄叔を魯に遣わして含(死者の口に含ませる米貝)と賵(軍馬)を贈り届け、 召昭公を魯に遣わして成風の葬式に会葬させた。
B.C.621夏、文公は季孫行父を陳に遣わし、親睦をはかった。
秋、文公は季孫行父を晋に遣わした。
10月、文公は襄仲を晋に遣わし、晋襄公の葬式に会葬させた。
B.C.620春、文公は晋が内乱状態であるのにつけこんで、邾を討った。
3月18日、文公は須句を攻め取って邾文公の子をそこの大夫として置いた。
また文公はゴに城を築いた。
夏、狄が魯の西辺の地を侵略したので、文公は晋に報告した。 晋の趙盾は狄に出奔している狐射居に依頼して狄の宰相鄷舒をたずね、 魯を侵略したことを責めさせた。
8月、斉・宋・衛・陳・鄭・許・曹の諸侯が晋の趙盾と鄭の扈で会盟したが、文公はその会盟に遅れた。
冬、徐が莒を討ったため、莒は魯と同盟を結びたいと願った。文公は公孫敖に命じて莒に遣わし、莒と同盟した。
そこで公孫敖は襄仲の妻を迎えることとした。公孫敖は莒の鄢陵まででむいて、城壁からその女を見ると美人であったため、 その女を口説いて自分の妻にしてしまった。
襄仲は怒って公孫敖を攻めることを文公に願い出た。文公は許そうとしたが、叔仲恵伯が文公を諌めたので、 文公は襄仲の願いを禁止した。
B.C.619秋、晋霊公が使者を魯に遣わし、前年の扈の盟いに文公が遅れた罪を責め正した。
周襄王が崩御した。文公は公孫敖に命じて周に行かせて喪を弔わせようとしたが、公孫敖は周には行かず、莒に出奔した。
冬、文公は襄仲に命じて、趙盾と会合して衡雍で盟い、前年の無礼の償いをした。
襄仲はそのまま魯を討とうとしていた伊雒地方の戎と会合して友好関係を結んだ。
この年、宋の司城蕩意諸が魯に亡命してきた。文公は蕩意諸をもとの司城の官職で迎え、その部下も旧官に復職させた。
B.C.618春、周から毛伯衛が来て、周襄王の葬式に用いる金を求めた。
哀姜が斉に赴いた。
2月、叔孫得臣に命じて、周襄王の葬式に参加させた。
冬、楚の闘椒が魯に来聘したが、進物の出し方が傲慢無礼であった。
秦の人が魯にやってきて、釐公と成風の霊に供える礼服を贈った。
B.C.617、3月、臧文仲が没した。
秋、周頃王が即位したので、文公は使者を派遣して周の蘇子と女栗で盟った。
B.C.616夏、叔仲恵伯が晋の郤欠と承匡で会合し、楚に従った諸侯の取り扱いについて相談した。
秋、曹文公が魯に来朝し、即位の挨拶をした。
襄仲が宋を聘問し、魯に出奔していた蕩意諸をとりなして宋に帰国させた。
狄の鄋瞞が斉に攻め入り、乗じて魯を攻めた。文公は叔孫得臣に命じて追い払おうとして占わせると吉とでた。
侯叔夏が叔孫得臣の御者となり、綿房甥が右をつとめ、 富父終甥が4人乗りとして同乗した。
10月4日、魯軍は狄軍を魯の鹹で打ち破り、その君の長狄喬如を討ち取った。
B.C.615、1月、郕伯が亡くなったが、郕の人は太子ではなくほかの公子を君に立てたので、 太子朱儒は夫鐘と郕邽の土地を持って魯に逃げてきた。文公はこれを受け入れた。
桓公が来朝し、叔姫と離婚して他の公女を迎えたいと願い出てきたので、 文公はこれを許した。
2月、叔姫が没した。
秋、滕昭公が来朝した。
康公西乞秫を使者として魯に来聘させ、 晋を討つことを伝えてきた。襄仲は進物の玉を三度辞退したが、西乞秫が 「わが君には周公(旦)と魯公(伯禽)のおかげをもって貴国と友好を結ぶことを願っております」 と言ったので、襄仲は使者に手厚く贈物をした。
冬、季孫行父は軍を率いて諸と鄆に城壁を築いた。
B.C.614、正月から7月まで雨が降らなかった。
7月、魯の祖廟の屋根が朽ち破れた。
冬、文公は晋を聘問し、旧来の友好関係を存続させた。
その途中で、文公は衛成公と衛の沓で会合し、衛は晋と仲直りすることを文公にお願いした。 文公は晋から帰る途中に衛成公と鄭の棐で会合し、再度晋と仲直りすることを話し合った。
B.C.613、1月、文公は晋より帰国した。
魯の弔問の使者が不敬であったので、邾は魯に攻め入って魯の南部を討った。そこで叔仲恵伯が邾を討った。
6月、文公は宋昭公・陳霊公・衛成公・鄭繆公 ・許の君・曹文公・晋の趙盾と会合した。
6月28日、文公は諸侯と新城で会盟した。
B.C.612、3月、宋の華耦がやってきて盟いを結んだ。
夏、曹文公が来朝した。
6月、日食があった。文公は社で太鼓をたたいて犠牲を供えをさせたが、礼にかなっていないと批判された。
秋、斉が魯の西境を侵略した。
11月、季孫行父が晋霊公・宋昭公・衛成公・蔡文侯・陳霊公・鄭繆公・許の君・曹文公と扈で盟い、斉を討つ相談をした。 しかし斉が晋霊公に賄賂をつかったので、斉討伐はとりやめとなった。このとき斉が魯を侵略していたので、文公はこれに参加しなかった。
12月、斉は魯に叔姫を還してきた。
B.C.611、1月、魯は斉と和平を結んだ。文公は病気であったので、季孫行父に命じて斉懿公と斉の陽穀で会合させたが、 懿公は「魯公の全快するのを待ちましょう」と言って、盟いを結ばなかった。
6月5日、文公は襄仲に命じて斉懿公に賄賂を贈ったので、斉のセイ丘で盟うことができた。
あるとき蛇が城外の泉宮から這い出して、魯の国都に入った。その数は伯禽から釐公に至る先君の数と同じ17であった。
8月9日、声姜が没した。魯の人は蛇が不吉な前兆であったと考えて泉台を壊した。
B.C.610、4月5日、声姜を葬った。
斉懿公が魯の北辺を侵略した。襄仲は斉に和平を請うた。
6月26日、文公は斉の穀で斉と盟いを結んだ。
B.C.609斉懿公が魯を討とうとしたが、病気にかかってできなかった。文公は斉懿公の病気を叔仲恵伯に占わせて「どうか出陣の日以前に死んでほしいものだ」と言った。 卜楚丘が判断を下して「斉侯は出陣の前に死にますが、病気によるものではありません。 わが君もその死を聞かぬうちに死ぬであろう。占いを命じた者もとがめを受ける」と言った。
2月24日、文公は没した。
文公(魯)(ブンコウ)【王】
魯公(33代目)。名は賈。平公の子。〜B.C.272。
文公(燕)(ブンコウ)【王】
燕公。武公の子。〜B.C.548。
B.C.571即位する。
文公(燕)(ブンコウ)【王】
燕公。〜B.C.333。
B.C.334蘇秦が遊説に来て、文公に説いて「燕が秦に攻められないのは、趙が障壁として西南にあるからです。 今、秦と趙は争っていますが、燕は趙と合従し、秦にあたるべきです」と言った。
そこで文公は資金として車馬・金帛を蘇秦に与えて趙に赴かせた。
また秦恵王が娘を文公の太子にめあわす。
文公(曹)(ブンコウ)【王】
曹公(16代目)。名は寿、壽。共公の子。〜B.C.595。
B.C.616文公は即位した。
秋、文公は魯を訪れて即位の挨拶をした。
B.C.613、6月28日、文公は魯文公・宋昭公・ 衛成公・陳霊公・許の君・鄭繆公・ 晋の趙盾と会合し、新城で会盟した。
B.C.612、11月、文公は晋霊公・衛成公・蔡文侯・ 陳霊公・鄭繆公・許の君・宋昭公・魯の季孫行父と扈で盟い、斉を討つ相談をした。 しかし斉が晋霊公に賄賂をつかったので、斉討伐はとりやめとなった。
12月、斉に討たれて、外城まで攻め込まれた。
B.C.608秋、楚が陳に攻め入り、勢いに乗じて宋にまで攻め入った。晋の趙盾は陳・宋の二国を助けようとして、文公・宋文公・衛成公・ 陳霊公と鄭の棐林で会合して鄭を討った。
B.C.606秋、曹が宋の武氏の乱(B.C.609)を助けたとして、宋に攻められて包囲された。
B.C.602冬、文公は晋成公・魯宣公・宋文公・ 衛成公と黒壌で会合した。
B.C.600、9月、文公は晋成公・衛成公・鄭襄公・宋文公と鄭の扈で会合し、晋に従わない諸侯を討つ相談をした。陳がこの会合に参加しなかったため、 諸侯は陳を討ったが、晋成公が没したため引き揚げた。
B.C.595、5月12日、没す。
文公(陳)(ブンコウ)【王】
陳公(11代目)。名は圉。平公の子。〜B.C.745。
B.C.755蔡の公女をめとり、佗を産む。
文公(杞)(ブンコウ)【王】
杞公(11代目)。名は益姑。孝公の子。〜B.C.536。
B.C.550、3月28日、孝公が没したので、公子益姑は即位した。
B.C.548夏、文公は晋平公・魯襄公・宋平公・ 鄭簡公・曹武公・莒犂比公・ 邾悼公・滕の君・薛の君・小邾の君と衛の夷儀で会合して、斉を討った。
文公は諸侯と会合し、晋平公は斉に逃れていた衛献公を迎えようとした。
7月11日、斉が降服したので、文公は諸侯と重丘で同盟した。
夏、文公は孝公を葬った。
B.C.545夏、文公は諸侯とともに晋に朝聘した。
B.C.544、6月、晋平公の母は杞の公女であったため、晋は杞の城壁工事をした。
魯が晋の要求により、以前杞から攻め取った田地の一部を返還した。
文公は魯を聘問した。
B.C.536、1月、没した。
文公(衛)(ブンコウ)【王】
衛公(9(19)代目)。名は燬。昭伯の子。母は宣姜。〜B.C.635。
B.C.660公子燬は衛国の内乱を避け、斉に出奔した。
B.C.658斉桓公は衛に政争が絶えないことを見て、諸侯を率いて狄を討ち、楚丘に城を築き、公子燬を立てて国君とした。
文公は粗末な木綿の衣服を着て粗末な絹の冠をつけるという質素な生活をして民と苦しみを共にし、賦税を軽減し、刑罰を公平にし、財源を増やすことに努力し、 農民を導いて農業に励ませ、商人の往来の便宜を図り、工人を優遇し、教育を重んじ、学問を奨励し、生活する適宜な方法を教え授け、才能ある者を任用した。
そのため文公即位時には、衛は兵車30乗であったが、その晩年には300乗を備える強国となった。
B.C.656春、文公は斉桓公、魯釐公、宋桓公、 陳宣公、鄭文公、 許穆公、曹昭公と会合して蔡を討ち、勢いに乗じて楚に攻め入った。 連合軍は楚と和平の盟いを結んだ。
秋、斉桓公は袁濤塗が軍道を誤らせようとしたのを責めて、宋・衛・鄭・許・曹・魯とともに陳を討った。
B.C.655夏、文公は、斉桓公・魯釐公・陳宣公・鄭文公・許僖公・曹昭公・ 周の太子と衛の首止で会合し、太子鄭の地位を固め、周室の安泰を図る相談をした。
8月、諸侯は首止で盟った。
B.C.654文公は、斉桓公・魯釐公・宋桓公・陳宣公・曹昭公と会合して鄭を討ち、新城を包囲した。
秋、楚が許を包囲して鄭を助けようとしたが、諸侯が許を救ったので、楚軍は引き揚げた。
B.C.652春、文公は、斉桓公・魯釐公・宋桓公・曹共公・陳の太子款・許僖公・周王の使者と会合し、曹の洮で盟い、 周王室の騒ぎを鎮めることを相談した。
B.C.651夏、文公は、斉桓公・魯釐公・宋襄公・鄭文公・許僖公・曹共公・宰孔と葵丘で会合し、 同盟関係を温めた。
B.C.648春、諸侯が狄の攻撃を恐れて、衛の楚丘の外城を築いた。
B.C.647春、狄が衛に侵攻してきた。
夏、文公は斉桓公・宋襄公・陳穆公・魯釐公・鄭文公・許僖公・曹共公と衛の鹹で会合し、淮夷が杞を苦しめたことへの対応と、王室の騒ぎについて相談した。
B.C.645、3月、文公は斉桓公・魯釐公・宋襄公・陳穆公・鄭文公・許僖公・曹共公と斉の牡丘で会合して、葵丘の盟いを忘れないようにし、 楚に討たれた徐を救うことを相談した。
文公は諸侯と協力して徐を救った。
B.C.644秋、周襄王は戎の侵略に悩まされ、救いを斉に求めたので、衛は斉桓公の召集に応じて周を守った。
12月、文公は、斉桓公・魯釐公・宋襄公・鄭文公・許僖公・邢侯・曹共公と淮で会合し、淮夷に苦しめられている鄫を救うことを相談した。
B.C.642、1月、衛は宋襄公・曹共公・邾とともに斉を討ち、宋に出奔していた公子を斉に入れようとした。
3月、斉人が無詭を殺したので、衛は諸侯とともに戦いをやめて引き揚げた。
冬、邢と狄が衛に侵入し、衛の菟圃を囲んだ。文公は公族と諸臣を集めて国を譲る決心を伝えて「もし衛を立派に治められる方がいるなら、 わたしはそれに従いましょう」と言ったが、皆は聴かなかった。そこで文公ははじめて衛の訾婁に軍を出して狄軍と対峙した。狄軍は撤退した。
晋の公子重耳が衛を通過したが、文公はこれを礼遇しなかった。甯遠が「晋の公子は善人で、 しかも衛とは親戚(先祖が周文王から出ている)ですのに、君が礼遇されないのは三徳(礼・親しみ・善)を棄てるものです。 晋の公子が帰国して衛が討伐されることを恐れます」と諌めたが、文公は聴き入れなかった。
B.C.641秋、衛は菟圃の役の報復のため、邢を討った。
この年、衛に大旱魃があった。
B.C.639春、狄に攻められた。
B.C.636文公は邢を討とうとした。礼至が「邢の正卿国子を除かないと、 邢を取ることはできません。わたしは兄弟と共に邢に仕えて事をはかりましょう」と言ったので、文公はそれに従った。
B.C.635衛は邢を討った。礼至兄弟が国子を殺した。
1月21日、文公は邢を滅ぼした。
4月、没す。
文公(宋)(ブンコウ)【王】
宋公(22代目)。名は鮑革、または鮑。昭公の弟。〜B.C.589。
公子鮑革は華元の進言によって右師となった。
公子鮑革は国の人々に対して礼をつくし、凶作のときには自分の穀物を貸し与え、老人には食物を贈り、六卿にたびたびお伺いして親密をはかった。 また公子鮑革は美貌であでやかであったので、王姫はその歓心を求めようとして公子鮑革を支援した。
B.C.611宋昭公は無道であったので、国人は公子鮑革を担ぎ出し、王姫の権勢に頼って国君につけようとした。
11月23日、宋昭公は孟諸で狩をしようと出かけたが、途中で王姫は公邑の大夫に命じて昭公を攻め殺した。
公子鮑革は即位して、同母弟の公子を司城に任じた。
華耦が没したので、蕩意諸の弟蕩虺を司馬に任じた。
B.C.610晋は諸侯の軍を率いて宋を討ったが、文公が即位したことを聞いたので、軍を引いた。それほど文公の名声は世間に届いていた。
B.C.609武公穆公の子孫らが昭公の子をそそのかし、公子須をかつぎ出して乱をおこそうとした。
12月、文公は公子須と昭公の子を殺し、戴公荘公桓公の子孫に命じて武氏(武公の子孫)を司馬子伯のやかたで攻めさせ、 武氏・穆氏の子孫らを国外に追放した。
そして文公は荘公の孫公孫師を司城に任じた。
公子が没したので、文公は戴公の玄孫楽呂を司寇に任じて、国人を落ち着かせた。
B.C.608秋、楚が陳に攻め入り、勢いに乗じて宋にまで攻め入った。宋軍は大敗して兵車500乗を失った。 晋の趙盾は陳・宋の二国を助けようとして、文公・陳霊公・ 衛成公・曹文公と鄭の棐林で会合して鄭を討った。
B.C.607春、鄭の子家が楚の命令を受けて宋を討った。文公は華元を将軍に任じてこれを討たせたが、 敗れて華元は捕虜となった。
文公は鄭に兵車100台と良馬400頭を贈物として与え、華元をもらいうけようとした。その半分が鄭に贈られた時、華元は逃げて宋に帰った。 羊斟が魯に出奔した。
(『史記』では、宋が鄭に攻め入ったことになっている)
夏、宋・衛・陳は晋とともに鄭に攻め入り、大棘の役の報復をした。
B.C.606秋、曹が武氏の乱(B.C.609)を助けたとして、文公は曹を討って包囲した。
B.C.602冬、文公は晋成公・魯宣公・衛成公・鄭襄公・ 曹文公と黒壌で会合した。
B.C.600、9月、文公は晋成公・衛成公・鄭襄公・曹文公と鄭の扈で会合し、晋に従わない諸侯を討つ相談をした。陳がこの会合に参加しなかったため、 諸侯は陳を討ったが、晋成公が没したため引き揚げた。
文公は滕昭公の喪につけこんで、滕を攻め囲んだ。
B.C.599、6月、滕が晋を頼みにして宋に服従しなかったので、文公は滕を討った。
B.C.597冬、宋の華椒は晋の先縠、衛の孔達、 曹の大夫と衛の清丘で同盟した。
荘王が蕭を攻めた。文公は華椒に命じて蔡の兵を率いて蕭を救援した。
B.C.596夏、宋が蕭を助けたため、楚が宋に攻め入った。
B.C.595楚の使者が宋を通過したとき、かつての恨みで宋はこれを捕えた。
9月、楚荘王は宋の都を包囲した。
B.C.594文公は楽嬰斉を晋に遣わして宋の危急を告げた。
晋の使者解揚が捕えられて楚に送られた。解揚は楚から晋が救援に来ないと言うよう脅されていたが 「晋は宋を救いにきます。宋はどんな危急に迫られても、慎重に構えて楚に降服しないように。晋の兵はもうすぐ到着しよう」と言ったので宋軍は奮起した。
そこで荘王は宋の郊外に家を作り、引き下がって耕作して持久の計を取った。
5月、宋人は恐れて華元に命じて、夜にこっそりと楚の陣営に忍び込ませて子反に懇願したため、楚軍は引き揚げた。
B.C.589、8月28日、没す。今までになく手厚い葬儀が行われた。
文公(秦)(ブンコウ)【王】
秦公(2(7)代目)。襄公の子。〜B.C.716。
B.C.766即位する。
B.C.765文公は西垂の宮にいた。
B.C.763兵700人をひきいて東方に狩をした。
B.C.762汧水・渭水の合流点に行き「むかし周王は、わが祖先秦嬴をここにおらせたので、 のちに諸侯となることが出来た」といい、ここに住む吉凶を卜したところ、吉と出たので、邑をここに営んだ。
B.C.756初めて鄜畤(祭壇)をつくり、三牢の犠牲を供えて祭った。
B.C.754周王朝と秦との境を岐に定め、周の余民を治めた。
B.C.753初めて史官を置いて、記録を司らせた。
民で同化する者が多かった。
B.C.750兵をひきいて戎を討ち、戎は敗走する。
文公は周の余民を収めて保有し、領地は岐山を境とし、岐山以東を周に献じた。
B.C.747陳宝を得る。
B.C.746初めて三族を罰する法律を作る。
B.C.739南山の大梓・豊・大特を討つ。
B.C.718太子が卒し、諡を竫公とする。そして竫公の長子を太子とする。
文公(許)(ブンコウ)【王】
許公。
B.C.770周幽王が犬戎に殺された後、文公は申侯・ 魯孝公とともに平王を擁立して成周に遷都する。
文公(滕)(ブンコウ)【王】
滕公。〜B.C.575。
B.C.575、4月6日、没す。
文公(滕)(ブンコウ)【王】
滕公。名は宏。定公の子。
文公が公子のころ、孟子に面会して教えを請うた。即位しても、孟子の教えを政治に生かそうとした。
滕が小国であるため、斉・楚に攻められることを恐れ、孟子に相談する。孟子はただ仁政をするようにと説いた。
文公(邾)(ブンコウ)【王】
邾の君。〜B.C.614。
B.C.620、3月18日、魯文公は須句を攻めて邾文公の子をそこの大夫として置いた。
B.C.614文公は都を繹に遷そうとして、その可否を占った。太史が「民には利があるが、君には不利である」と告げた。
文公は遷都しようとすると、左右の臣は「都を遷さなければ、君は命を長らえることができるのに、なぜそうなさらないのですか」と問うた。 文公は「わたしが天から受けている使命は民を養うことである。わが寿命の長さは時に従うもので、どうにもならないものだ」と言い、遷都した。
5月、文公は没した。君子は「君たる使命をわきまえておられた」と批評した。
文公(劉)(ブンコウ)【王】
劉公。名は狄、またはフン。劉献公の庶子。〜B.C.506。
B.C.520太子寿が早く死んだため、 周景王賓起子朝を寵愛して太子に立てようとした。 しかし劉狄は賓起の人柄を憎んでおり、また子朝のことも憎んでいて、これを追い払いたいと考えた。
4月19日、景王が崩御した。
4月22日、劉献公が没したため、劉狄は単穆公に擁立された(劉文公)。
5月4日、文公は新王(悼王)にまみえ、賓起を攻め殺して、王子たちと単氏の家で盟いを結んだ。
子朝は官人や百工で職禄を失っている者や、周霊王・周景王の一族で不満を抱いている者たちを頼って謀叛を起こし、 文公を追い出した。
6月17日、文公は周の揚邑に出奔した。
王子らは周悼王を守って領で文公と単穆公を都に呼び戻して殺そうとしたが、文公は計画を見抜いて領地の劉に赴いた。
6月21日、単穆公は子朝を討った。京の人は北山に逃げ、文公は王城に入った。
7月3日、文公は領地の劉に帰って子朝に備えた。
10月17日、文公は単穆公とともに王の軍を率いて子朝と郊で戦って大敗した。
B.C.519、4月15日、劉文公は牆の人と直の人を攻め取り、単穆公は周の訾を攻め取り、支配下に入れた。
6月17日、劉文公は尹道から、単穆公は阪道から進んで尹を討ったが、敗れた。
6月21日、文公は単穆公・樊斉とともに敬王を連れて劉文公の領地に出かけた。
B.C.518、1月5日、甘桓公が子朝についた。文公は萇弘に 「甘氏もまた行ってしまった」と言うと、萇弘は「何の害もないでしょう。周が興り栄えたのは徳をおさめたからです。君も徳をおさめることに努めて下さい」と答えた。
B.C.516、5月5日、文公は子朝の軍を尸氏で打ち破った。
5月15日、文公は王城の人と施谷で戦ったが、文公は大敗した。
7月18日、文公は戦いに敗れたため、周敬王を連れて狄泉を出た。
7月19日、王城の人は劉氏の邑に焼き討ちをかけた。
冬、周敬王は子朝を楚に亡命させ、文公と単穆公と盟い、ただちに軍を進めて成周に入った。
B.C.510、11月、周敬王の命により諸侯は成周に城壁を築くことになった。晋の士弥牟が城普請の見積もりをして文公に提出した。
B.C.506、3月、文公は晋定公・魯定公・宋景公・ 蔡昭侯・衛霊公・陳懐公・ 鄭献公・許の君・曹隠公・莒の君・邾の君・頓の君・胡の君・滕の君・ 杞悼公・小邾の君・斉の国夏を楚の召陵に集めて楚を討つ相談をした。
7月、文公は没した。
秋、文公は葬られた。
文公(尹)(ブンコウ)【王】
尹公。尹圉ともいう。
B.C.519、6月14日、文公は劉佗をだまして殺した。
6月17日、単穆公が阪道から、劉文公が尹道から進んで尹を討ったが、文公はこれを破った。
6月20日、召伯奐と南宮極が成周の人を率いて尹を守った。
B.C.517、10月16日、文公は鞏から洛水を渡って東訾を焼き討ちにしたが、勝てなかった。
文侯(魏)(ブンコウ)【王】
魏侯(初代)。名は都。魏桓子の孫。〜B.C.387。
B.C.428魏氏の後を継ぐ。
B.C.422少梁に城を築く。
B.C.412子の撃に命じて秦を討ち、繁龐を囲む。その民を城外に出して兵禍を免れさせた。
B.C.409秦を討つ。
臨晋と元里に城を築く。
B.C.408中山国を滅ぼし、撃にここを守らせる。
撃は西行して秦を討ち、鄭に行って帰国する。
雒陰・合陽に城を築く。
B.C.403周威烈王から正式に諸侯と認められ、趙・韓とともに諸侯の列に連なる。
B.C.401秦に攻められる。
文侯は卜商田子方段干木ら賢人を登用し、 国人に仁徳を讃えられ、諸侯の間に名声を得た。
文侯は卜商に問うた「わしは廟中で古楽を聴く時は眠くなるのに、鄭・衛の音を聴くときは、少しも倦むことを知らない。どうしてだろうか」
卜商「君は楽を好まれず、音を好まれているのです」
文侯「それにはどんな違いがあるのか」
卜商「かつて聖人は、父子・君臣の別を設けて紀鋼を正しくし、六律を正し、五声を和し、詩頌をつくりました。これが徳音であり、楽というのです。 鄭の音は道にそむいて度が過ぎ、宋の音は婦人をよろこばせて溺れさせ、衛の音は急に走って志を労し、斉の音は辟(つみ)を軽んじて志を驕らせます。 この四者はみな色に淫らし、徳に害があるので、祭祀には用いないのです」
文侯は西門豹を鄴の令に任命し、訓戒して「村の老人で、真っ先に座席を勧められるような人物には、こちらから出かけて、 その土地の賢良の士を問い、これに師事しなさい。また、他人の美点を覆い隠し、他人の欠点を言い立てる者を捜し求めて、あれこれ参考にすることだ。いったい、 物には似ているようで異なるものが多い。はぐさの若芽と稲の苗、まだら牛と虎、白骨と象牙、武夫という石と玉、これらはいずれも似て非なるものだ」と言った。
B.C.399虢山が崩れて、河水を塞いだ。
B.C.393鄭を討つ。
酸棗に城を築く。
秦軍を注で破る。
B.C.390斉に攻められ、襄陵を失う。
B.C.389秦に攻められ、陰晋を侵される。
B.C.387秦を討ち、これを武下で破り、を捕らえる。
文侯(蔡)(ブンコウ)【王】
蔡侯(15代目)。名は申。荘侯の子。〜B.C.592。
B.C.612即位する。
夏、蔡が新城の盟い(B.C.612)に参加しなかったので、晋の郤欠が上軍と下軍を率いて攻めてきた。
6月8日、晋軍が蔡に攻め入ったので、文公は城下の盟いを結んだ。晋軍は引き揚げた。
11月、文公は晋霊公・宋昭公・衛成公・ 陳霊公・鄭繆公・許の君・曹文公・ 魯の季孫行父と扈で盟い、斉を討つ相談をした。しかし斉が霊公に賄賂をつかったので、霊公は斉討伐をとりやめた。
B.C.593文侯は晋につこうと思っていたが、楚を恐れて実行できずに亡くなった。
B.C.592、2月4日、没す。
文侯(晋)(ブンコウ)【王】
晋侯(10(11)代目)。名は仇。穆侯の子。B.C.807〜B.C.746。
B.C.807条の戦いがあった。この年に生まれて仇と命名された。
B.C.786穆侯が没すると、公子殤叔が代わって立ったので、仇は出奔する。
B.C.780仇は徒党を率いて殤叔を襲って自立する。
B.C.770文侯は周平王の東遷に功があった。
文侯(韓)(ブンコウ)【王】
韓侯(3代目)。列侯の子。〜B.C.377。
B.C.385鄭を討ち、陽城を取る。
宋を討って彭城に至り、宋休公を捕らえる。
B.C.380秦・魏に攻められた(南梁の戦い)。文侯は援けを斉に求めた。 斉桓公田臣思のはかりごとを用い、 いつわって韓を援けると告げた。文侯はそれを信じて秦・魏と戦い、楚・趙は韓を援けた。
文侯は斉を討って桑丘に至った。
この年、鄭が反攻して来た。
B.C.378斉を討って霊丘に至る。また趙・魏とともに晋国を分割する。
文之儀(ブンシギ)【文官】
呉の臣。
闔閭に仕えた名臣。
文之無畏(ブンシムイ)
申舟
文叔(ブンシュク)【王】
許公。伯夷の子孫。
武王が商に勝つと、の時の四獄伯夷の子孫である文叔を封じて男爵とした。
焚如(フンジョ)【公子】
鄋瞞(長狄)の公子。喬如の弟。
B.C.594晋景公士会に命じ、赤狄潞氏を滅ぼした。 焚如は晋に捕えられた。
文種(ブンショウ)
文伯(ブンハク)
孟文子
文賓(ブンビン)【神】
仙人。列仙伝に見える。
太丘郷の人。女房を娶ったが、離縁してしまった。90歳のときにもとの女房に出会い、精力を増す法を教えたので、その老媼もますます壮健になり、 さらに100余年もその姿を見かけたという。
文武丁(ブンブテイ)【皇帝】
商王朝28代王。武乙の子。〜B.C.1065。
『史記』では、太丁とされる。
廟号ではじめて、至上神である帝の名を使う。
蚡冒(フンボク)【王】
楚子(16代目)。名は眴。霄敖の子。〜B.C.741。
B.C.757即位する。
奮揚(フンヨウ)【将軍】
楚の臣。司馬。
B.C.522春、奮揚は楚平王の命で太子を殺すことになった。 しかし奮揚は郢から城父に着くまでに太子建に「太子よ、急ぎ去りたまえ。さもなければ、やがて誅せられましょう」と告げて逃がすよう取り計らった。
3月、太子建は宋に逃げた。楚平王は立腹して奮揚を呼びつけると、奮揚は出頭した。
楚平王「わたしはお前にしか話していなかった。誰が建に告げたのか」
奮揚「わたしです。ご命令に従う気になれませんでしたので逃しました」
楚平王「それならなぜ隠れもせずやって来たのか」
奮揚「王の使者となり命令に背き、召されても参らぬなら、二度も命令に背くことになります。そのような者を受け入れてくれる国はないでしょう」
楚平王「任地に戻れ。今まで通り励むがよい」
楚平王は奮揚を許した。


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