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列伝 ト


徒(ト)【武官】
晋の臣。
歩陽の家僕。
B.C.645韓原の戦いで、家僕徒は恵公の右乗となるが、馬が泥土に入り、進むことができなくなったので、 虢射と交代させられた。
11月、秦に捕らえられた晋恵公は帰国して都城絳の近郊まで来て、慶鄭が都に居ると聞き、家僕徒をやって慶鄭を呼び寄せた。
恵公「鄭を斬れ、自殺させるな」
家僕徒「すすんで刑を受けて死のうとする臣がおれば、その評判はかれを処刑するよりもよいでしょう」
梁繇靡「鄭は命令も聞かず勝手に進退し、自分の気持ちを満足させたために、君を捕虜にさせました。赦してはなりません。 自殺するならば臣は気持ちが済みますが、君は刑罰を失うことになります」
結局、恵公は慶鄭を処刑した。
騰(トウ)【将軍】
秦の臣。内史。
B.C.231秦が韓より南陽の地を譲られると、騰は仮の守となる。
B.C.230韓を討ち、韓王安を虜にし、韓を滅ぼした。
杜宇(トウ)【王】
蜀王。
人々に農業を教え、自ら杜主と号した。
治所を郫邑に移し、また瞿上に移した。
B.C.324戦国の七雄が王を称するようになると、杜宇は帝号を称して望帝と言い、名を蒲卑と改めた。
杜宇は「己の功績や人徳は、他の諸王よりも高いものだ」と考えた。
水害が発生したので、宰相開明に命じて、玉壘山を切り崩して水害を除き治めた。
杜宇はその後、開明に政治を委任し、に禅譲した道理に則り、帝位を開明に譲り、 西山に登って死去した。
死去したのが2月で、ホトトギスの鳴く季節であったので、蜀の人々はホトトギスが鳴くのを悲しんだ。
巴国もまた杜宇の教化に感化されて農業に努力した。
党(周)(トウ)【公子】
周王朝の公子。
B.C.650、4月、王子党は宰孔と斉の隰朋と会合して、 晋恵公を擁立した。
党(呉)(トウ)【公子】
呉の公子。
B.C.560、9月、呉は楚に攻め入るが庸浦で大敗し、公子党は楚に捕えられた。
蕩(トウ)【公子】
宋の公子。司城。宋桓公の子。
董安于(トウアンウ)【武官】
趙鞅の家臣。〜B.C.495。
B.C.501趙鞅が病んで昏睡に陥った。医者の扁鵲は診察の後、董安于に「血脈が平静ですから、昏睡しておられても心配には及びません。
むかし秦の繆公も7日間昏睡されたことがあります。そのとき目覚めて『わしは天帝の所に行って、とても楽しかった。 わしが長らく還らなかったのは、たまたま天帝に学んでいたのである。
天帝によると晋はそのうち大いに乱れようとしている。今後五世の間は安らかではないが、その後は覇者となるだろう。しかし年寄らぬうちに晋でその子が立ち、 父に代わって諸侯に号令にするが、その国は淫らになり、男女の区別がなくなろう』と告げました。
大夫公孫支がこれを記録しましたが、のちに秦の予言書として世に現れました。
晋の献公が内乱を招いたこと、文公が覇権を握ったこと、 襄公が秦を殽で破り、勝ち誇って淫乱をほしいままにしたことは、あなたもお聞き及びのことでしょう。
今、主君の病は繆公と同じであって、3日の後、必ず癒えましょう。癒えれば必ず何かおっしゃることでしょう」と言った。
はたして趙鞅は2日半経つと昏睡から目覚めて、扁鵲の言うとおりとなった。
董安于が趙鞅にこのことを告げたので、扁鵲は田地四万畝を賜った。
董安于は晋陽を統治して、大いに治まった。後年B.C.457趙が中行・韓・魏に攻められたとき、趙は晋陽に篭城し、矢は植木から、やじりは宮殿の柱から取るようにさせたので、 1年以上これを保つことができた。
B.C.497邯鄲の趙稷が乱を起こすと、 荀寅范吉射は趙稷の父趙午と親しかったため、 この隙に晋に乱を起こそうと計った。董安于はこれを知っていたが、言わなかった。
荀寅・范吉射の乱は平定された。
この下邑の戦いで、董安于は功績が多かったので、趙鞅は賞を与えようとしたが、董安于は辞退して「わたくしは前代から全力を尽くして職務を行ってきましたが、 それは記録されませんでした。ところが今、狂暴な戦をして賞すると言われます。これでは狂暴を賞することになりますので逃亡したほうがましです」と言った。 そのため趙鞅は賞せず、そのままにしておいた。
B.C.495荀躒は趙鞅に「范氏と中行氏が、乱を起こしたのは、もとは安于からでたものです。晋の法に 『乱を起こした者は死罪にする』とありますが、他の二人は罪に伏したのに、安于だけがそのままになっておるのです」と言った。
趙鞅は処置に困り、心を痛めたが、董安于は「わたくしが死んで趙氏が安定し、晋国が安泰になるなら、わたしの死ぬのは遅すぎました」と言って自殺した。
陶安公(トウアンコウ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
六安の鋳物師。7月7日、赤い竜がやってきて大雨となり、安公はそれに跨って東南の方に昇っていった。
闘韋亀(トウイキ)【武官】
楚の臣。字は彭生。子文の玄孫。
B.C.538冬、楚霊王は許国を頼に移そうと考え、闘韋亀と公子弃疾に命じて許のために城壁を築かせた。 しかし楚の東方で大水が出たために闘韋亀は工事を終えないで軍を引き揚げた。
B.C.529闘韋亀は楚霊王に領地の中シュウを奪い取られた。
蕩意諸(トウイショ)【文官】
宋の臣。司城。公孫寿の子。〜B.C.611。
公孫寿は父の職を継ぐのが嫌だといって、司城を辞退し、子の蕩意諸を司城にしてもらった。
公孫寿は「君が無道で、自分が君の側近についておれば、禍がふりかかるおそれがある。かといって官を捨てると一族を養ってゆけない。 子というものは親の身代りだ。しばらくわが命を延べることにしよう。わたしが残っておれば一族を滅ぼさないことになる」と言った。
B.C.619宋昭公は宋襄公の夫人王姫を礼遇しなかったため、 王姫は戴氏の一族をたより、その力で襄公の孫孔叔公孫鐘離と大司馬を殺した。
そこで蕩意諸は魯に亡命した。蕩意諸は亡命の際、司城の節を役所の倉番にかえして退官を明らかにした。 魯文公は蕩意諸をもとの司城の官職で迎え、その部下も旧官に復職させた。
B.C.616魯の襄仲が宋を訪れてとりなしてくれたので、蕩意諸は宋に帰国することができた。
B.C.611、11月23日、王姫が昭公をさそって孟諸で狩をして、そのときに昭公を弑そうとした。昭公はその陰謀を知りながら、国の財産を全部持ち出して狩に出かけた。 蕩意諸は「どうして他国に亡命されないのですか」と問うと、昭公は「大夫に親しまれず、祖母ぎみから国人にまで嫌われた。諸侯も誰も受け入れてくれまい。 それに人の臣下となるくらいなら死んだほうがましである」と言い、財産を左右の臣下に与えて逃がした。
王姫は蕩意諸に昭公の側を離れるよう告げたが、蕩意諸は「臣下として仕えながら、君の災難を見捨てれば、どうして後の君に奉公することができよう」と言って断った。
昭公は公邑の大夫衛伯に攻め殺され、蕩意諸も戦死した。
董因(トウイン)【文官】
晋の臣。
B.C.637、12月、重耳が秦から帰国したので、董因は黄河まで迎えに出た。重耳は「わたしは成功するだろうか」と尋ねると、 董因は「天文や占いをみましたが、成功しないはずがありません。君よ恐れてはいけません」と答えた。そこで重耳はそのまま帰国した。
湯王(トウオウ)【皇帝】
商王朝の初代王。名は天乙、履ともいう。成湯ともいう。示癸の子。
湯王は夏王朝の諸侯として仕えていた。
湯王は亳に都をうつした。
湯王は夏の方伯となって諸侯を征し、葛伯が従わなかったので葛伯を討った。
桀王が虐政を行い、荒淫をきわめ、諸侯の昆吾氏も乱をおこした。そこで湯王は軍をおこして諸侯を率いて昆吾氏を討った。
湯王は桀王に幽閉されるが後に釈放された。
湯王は東方を巡って有シン国に至り、有莘氏の娘と結婚し、伊尹を得て宰相とする。
湯王は夏を討ち、兵6000人、兵車70台をもって鳴条の戦いで桀を破り、これを南巣に放ち、夏王朝を滅亡させる。夏の人民に厚く恩徳を施したので、湯王が夏を討ったとき、 人民はこれを喜んだという。
諸侯がみな湯王に敬服したため、湯王は天子の位につき、海内を平定した。
あるとき、湯王が郊外に出たとき、「上下四方の鳥よ、みな、わが網にかかれ」といっている者がいた。湯は「ああ、それでは逃げ場がない」といって、網の三面を取り除いて 「左に行くものは左に飛べ。右に行くものは右に飛べ。命に従わないものはわが網に入れ」といった。諸侯はこれを聞いて「湯の徳は禽獣にまで及んでいる」といった。
旱魃が5年も続き、飢餓によって国民が減っていった。ある占い師が、神々と祖先の魂を静めるために人間の生贄の犠牲とし、旱魃の罪を取り除き、 人間の間違いを許すように言った。そこで湯王は自分がその生贄となり、祈って「もし私一人が罪を犯したのなら民を罰しないで下さい。 もし民が罪を犯したのなら私一人を罰して下さい」と言い、髪と指のつめを切り、手を合わせ水を浴びた。白茅を体にくくりつけて白馬に乗って祭壇に運ばれ、 火がついたちょうどそのとき、どしゃ降りの雨が降ってきて旱魃は終わったという。
在位30年という。
『容成氏』では湯王は他の文献とは異なる人物として書かれている。湯王は夏桀王を補佐するかのように装いながら、さらに悪政を助長させるため、 課税台帳を作製して関所や市場に課税させた。そのため民は怨嗟の声をあげ、初めて疫病が発生し、身体に障害を持つ者が増え始めた。
湯王はさらに陰謀をめぐらし、腹心の部下である伊尹を桀王の補佐として送り込んだ。桀王は伊尹にそそのかされて岷山氏を討ち、ふたりの娘を連れて帰って娶り、 彼女たちのために豪華な宮殿を造営した。これを聞いた湯王は逆に賢者を登用し、公平に恩徳を施して人民を収攬した。
湯王は頃合を見計らって桀王の非道を鳴らし、人心を離反させた上で桀王を討った。湯王は武遂から攻め上り、北門から城内に攻め込み、 門の中に立って自分が城主であることを顕示した。湯王は都落ちした桀王を追撃し、鳴条から攻めくだり、高神の門に攻めかかり、南巣氏に逃げ込んだ桀王をさらに追撃し、 桀王は蒼梧の野に逃走した。
湯王は九州の兵を徴集して天下の全域で大規模な掃討戦を行い、夏王朝の宗族や支持者を皆殺しにして、ようやく天下を平定し、商王朝を樹立した。
悼王(周)(トウオウ)【皇帝】
周王朝25代王。名は猛。周景王の子。〜B.C.520。
B.C.520、4月19日、周景王は急に精神病が起こって崩御したため、王子猛は即位した。
5月4日、劉文公は悼王にまみえ、 子朝を立てようとした賓起を攻め殺して、王子たちと単氏の家で盟いを結んだ。
子朝と劉文公・単穆公の争いが起こり、悼王は単穆公に迎えられて単氏の邸宅に移ったが、王子に連れ去られた。
7月3日、悼王は単穆公に連れられて平畤に赴いた。
8月17日、醜が王の軍を率いて前城で戦ったが大敗したため、工人たちは悼王に背いた。
10月14日、晋の籍談荀躒が九州の戎と焦・瑕・温・原の軍を率いて悼王を王城に入れた。
10月17日、単穆公・劉文公は王の軍を率いて子朝と郊で戦って大敗した。
11月13日、悼王は崩御した。
(史記では、悼王は国人に擁立されて子朝・王子と後継者争いをして、子朝に攻め殺されたとしている。)
悼王(楚)(トウオウ)【王】
楚王(16(32)代目)。名は熊疑。声王の子。〜B.C.381。
B.C.400三晋に攻められ、乗丘まで侵入される。
B.C.398周を討つ。
B.C.393韓を討ち、負黍を取る。
B.C.391三晋に攻められ、大梁と楡関で大敗する。
楚は賄賂を手厚くして、秦と和睦した。
桃応(トウオウ)【在野】
孟子の弟子。
『孟子』にみえる。
唐鞅(トウオウ)【武官】
宋の臣。
唐鞅は宋康王に仕え、王の嗜虐癖をあおった。
闘懐(トウカイ)【武官】
楚の臣。曼成然の子。
B.C.506楚昭王が呉に敗れて鄖に逃げてきた。闘懐は「平王はわたしの父を殺した。 国に居る時は君ですが、国外にいれば仇です。親の仇を見て殺さないのは、人ではありません。わたしが今その子を殺してもよいではありませんか」と言った。 兄の闘辛はそれを許さず「君に仕える者は、国の内外で行為を変えず、君の盛衰によって挙動を変えない。われわれの先祖は善行によって君に仕えて、 名誉を諸侯の間に成就し、闘伯比以来失ったことはない。ここで失うのはよくない」と言ったが、闘懐は昭王を殺そうとした。
そこで闘辛は闘懐が事をおこす前に昭王とともに隋に出奔した。
B.C.505昭王は帰国すると、賞が闘懐にも及んだ。子西が諌めて「一人(闘辛)は賞すべきで、一人(闘懐)は処刑すべきなのに、 君は同じにされました。郡臣は恐懼しております」と言った。昭王は「あの子旗の二子のことか。 一人は君に礼があり、一人は父に礼があるので賞を同じにしてもいいではないか」と答えた。
東郭偃(トウカクエン)【文官】
斉の臣。崔杼の家臣。〜B.C.546。
東郭偃の姉東郭姜は棠公の夫人であった。棠公が死んだ時、崔杼は弔いに出かけたが、東郭姜を見て美人であるのに感心し、 東郭偃に命じて妻に迎えようとした。東郭偃は「夫婦は姓を別にするものです。君は丁公から出ておられ、 わたくしは桓公から出ていますので同姓です」と言って諌めたが、崔杼は妻にしてしまった。
東郭偃は東郭姜の連れ子棠無咎とともに崔杼を助け、 世継の崔成を廃して、東郭姜の生んだ崔明を立てた。 崔成は崔の町に引退して老後を送りたいと願い出たたため崔杼はこれを許した。ところが東郭偃と棠無咎は「崔は祖先の廟のある所で、必ず世継の保つべきところだ」 と言って崔の町を与えることを拒んだため、崔成は彼らを恨んだ。
B.C.546、9月5日、東郭偃は棠無咎とともに崔成・崔彊に殺された。
東郭延(トウカクエン)【神】
仙人。神仙伝に見える。
山陽の人。あるとき数十人の人が虎や豹に乗って迎えに来た。やがて親戚知人に別れを告げ、崑崙山に行くとのだといって去った。
東郭姜(トウカクキョウ)【女官】
棠公、崔杼の夫人。棠無咎、崔明の母。〜B.C.546。
棠公が死んだ時、崔杼が弔いに来たが東郭姜を見て美人であるのに感心し、東郭偃に命じて妻に迎えようとした。 東郭偃や田須無が反対したが、崔杼はこれを妻に迎えた。
B.C.548、5月、東郭姜は斉荘公と密通したため、崔杼は斉荘公を弑した。
B.C.546崔杼の子崔成崔彊が乱を起こして東郭偃と棠無咎を殺した。 そして乱に介入した慶封が崔成と崔彊を殺し、家中の者をすべて捕らえた。東郭姜は首をくくって死んだ。
東郭書(トウカクショ)【武官】
斉の臣。
B.C.501秋、斉は晋の夷儀を討った。東郭書は先を争って攻め込む人々に遠慮して控えていたが、誰も城壁を登らないのを見届けてから登った。 犂弥がそのあとに続いた。犂弥が「他の人にゆずるため、あなたは左に避けなさい。わたしは右に避けましょう」と言ったので、 東郭書はそのとおりにした。しかし犂弥は先に降りて中に攻め込んだ。戦いが終わって休息した時に、犂弥が「わたしが一番乗りをした」と言ったため東郭書は立腹して、 よろいをつけて立ち上がって「さっきは難儀したであろうが、今度はそれよりも難儀するであろう」といって組み打ちをしようとした。 すると犂弥は笑って「わたしはあなたについて行っただけだ」と言ったので、けりがついた。
景公が一番乗りをした犂弥を賞しようとすると、犂弥は辞退して「わたしの前に一番乗りをした者がございます。 わたしはその後についただけです。顔が白く、上下の歯並びが美しくて、たぬき色の外套を着ておりました」と言ったので、 斉景公が東郭書を見させると、犂弥は「この方です。わたしはこの方に賞を譲りましょう」と言った。斉景公が東郭書を賞すると、 東郭書は「わたしは他国から来て仕えた者です」と言って辞退したため、犂弥が賞された。
董褐(トウカツ)【文官】
晋の臣。司馬演ともいう。
B.C.482呉王夫差は黄池で諸侯と会盟した。このとき、越の勾践が兵を率いて呉軍の帰路を断ち、 呉の都を急襲した。夫差は恐れて、早く事を収拾しようとして、3万の軍を編成して早朝に陣立てをし、晋軍との距離は500mほどであった。晋は驚いて董褐を軍使として 「戦を止め友好を進めようとして正午を会合の時としましたのに、今軍を起したのはなぜですか」と問うた。
夫差は「周の天子から勅命があり、貢物が入らないということだったので、すぐ参上したのです。このままで事が不成功に終わり、諸侯に笑われることを恐れます。 わたくしが君に仕えるかどうかは今日決定します(決戦によって盟主を決めましょう)」と言い、決死の兵5人を連れて来て董褐の前で首を刎ねさせた。
董褐は帰陣して趙鞅に報告して「呉王の顔色を見ますに、大きな憂患があるように思われます。寵妾か嫡出子が死に、 そうでなければ越が攻め入ったのでしょう。とにかく戦をしてはなりませんが、無条件で呉を長とすることを許してはなりません」と言った。
そこで趙鞅は夫差の申し出を承諾し、また董褐を遣わして「諸侯には2人の君はなく、 周には2人の王はありません。君がもし王を僭称することなく、呉公と言われるならば、長幼の序に従う(楚を盟主とする)ことにしましょう」と言った。
夫差は承諾して、盟主として先に血をすすり、晋定公が次にすすった。
東関五(トウカンゴ)【武官】
晋の臣。晋献公の側近。
B.C.663驪姫梁五と東関五に賄賂を贈って献公にこう言わせた。 「曲沃は、君の宗家の出た都城であり、蒲と二屈とは国境に近い邑ですから、 王がいなければなりません。太子申生を曲沃の主とし、重耳を蒲城へ、 夷吾を屈へ赴任させるなら、民に威を示して戎狄を恐れさせることができます」
献公は喜んで曲沃・蒲・屈に築城して公子らを居らせ、奚斉を国都絳に居らせた。
董キ(トウキ)【女官】
董叔の妻。范鞅の妹。
董叔が范氏から妻を娶ろうとしたとき、叔向が言った。
叔向「范氏は富んでいます。どうしてやめないのですか」
董叔「范氏の後援を求めたいのです」
あるとき董キは范鞅に「夫がわたくしを敬いません」と言ったので、范鞅は怒って董叔を捕らえて、庭の木に縛りつけた。 叔向がそこを通りかかると董叔は言った。
董叔「わたしのために許しを請うて下さい」
叔向「あなたは後援を求めてつながれました。希望通りになったのに、その上何を請うのですか」
闘キ(トウキ)【宰相】
楚の令尹。
B.C.690楚武王が随討伐の旅先で没した。闘キと莫敖屈重は王の死を隠し、 随に進撃して、道路を切り開き、橋をかけたので、随は恐れて和を請うた。そこで楚は和睦して帰国し、漢水を渡ってから死を発表した。
蕩虺(トウキ)【将軍】
宋の臣。司馬。公孫寿の子。
B.C.611華耦が没したので、蕩虺は司馬に任じられた。
闘宜申(トウギシン)
子西
唐挙(トウキョ)【在野】
魏の人相見。
蔡沢が仕官する前に、唐挙は彼の人相を見て「聖人には人相なし」と判断した。また彼の寿命はその後43年と予言した。
闘御疆(トウギョキョウ)【武官】
楚の臣。
B.C.666秋、楚は兵車600乗を率いて鄭を討ち、桔シツの門に攻め入った。
子元・闘御疆・闘梧耿之不比は旗をおしたてて先陣となり、 闘班王孫游王孫喜はしんがりとなった。楚軍は外城の純門に群がり攻め入り、 市場まで攻め入ったが、内城の門は開け放たれ、鄭の兵卒は楚の言葉で話しあっていた。鄭の落ち着き払った様子を見て、子元は「鄭には人物がいる」 と言って進撃しなかった。
そのうち斉、宋の援軍がやってきたので、楚軍は夜にまぎれて逃げ去った。
堂谿氏(ドウケイシ)
夫概
董狐(トウコ)【文官】
晋の太史。
B.C.608、9月、霊公趙盾を殺そうとし、趙盾はそのため出奔した。趙穿が霊公を弑し、 趙盾を迎え入れた。
そこで董狐は「趙盾、その君を弑す」と記録した。趙盾は「弑したのは趙穿です」と言ったが、董狐は「あなたは正卿でありながら、 逃亡しても国境を出ることができず、復帰しても国乱を鎮めることができなかったのです(趙穿を誅しなかったこと)。君を弑したのは、あなたでなくて誰でしょう」と答え、 自分の考えを曲げなかった。
孔子はこれを聞いて「董狐はいにしえの良吏である。法を曲げないで書き、盾の罪を隠さなかった。宣子(趙盾)は良大夫であるが、 法のために自ら悪名を受けたが、国境を出ておれば汚名を免れたただろうに。惜しいことだ」と評した。
闘梧(トウゴ)【武官】
楚の臣。
B.C.666秋、楚は兵車600乗を率いて鄭を討ち、桔シツの門に攻め入った。
子元闘御疆・闘梧・耿之不比は旗をおしたてて先陣となり、 闘班王孫游王孫喜はしんがりとなった。楚軍は外城の純門に群がり攻め入り、 市場まで攻め入ったが、内城の門は開け放たれ、鄭の兵卒は楚の言葉で話しあっていた。鄭の落ち着き払った様子を見て、子元は「鄭には人物がいる」 と言って進撃しなかった。
そのうち斉、宋の援軍がやってきたので、楚軍は夜にまぎれて逃げ去った。
悼公(斉)(トウコウ)【王】
斉公(27代目)。名は陽生。晏孺子の弟。〜B.C.485。
B.C.489景公が没して斉が乱れたので、陽生は魯に亡命した。 陽生はそこで季康子の妹季姫と結婚した。
田乞により兄を廃し、擁立される。悼公は即位すると、季姫を迎えようとしたが、季姫はおじと密通していて斉に往こうとしなかった。
B.C.487そこで悼公は魯を討ち、讙・闡を取る。魯と講和を成立して、閭丘明を遣わして季姫を迎えたので、 斉は奪った土地を返還した。
B.C.485鮑牧に殺され公位を失う。
悼公(晋)(トウコウ)【王】
晋公(11(13)代目)。名は周。恵伯談の子。B.C.587〜B.C.558。
公孫周は周で単襄公に仕えていた。単襄公は子の頃公に「必ず晋周に善くしてあげなさい。 今に晋の君となるだろう。その行為は文徳がある。また八卦や夢でも、晋周が君となることをいっているのだ」と言った。単頃公は承諾した。
B.C.574晋の欒書が使者を遣わして「郤至が行きますから、是非お会いになるように」と言ってきた。 公孫周は郤至に会ったため、郤至は罠にはめられて殺されてしまった。
公孫周は欒書・荀偃に周から晋に迎えられることとなった。
B.C.573、1月5日、欒書・荀偃は晋厲公を弑した。公孫周は智罃士魴に迎えられて晋に帰国した。
大夫たちが清原に公孫周を出迎えた。公孫周は「このようにならないことを願っていましたが、これも天命でしょう。わたくしは成熟するように努力します。 わたくしは善良ではないために廃されたとしても、誰を怨みましょうか。わたくしが善良なのに諸君が暴虐をもってするならば、それは諸君の専制というものです。
今、決心せよ。大義を成就するか百姓を離反させ常道を破るか、どちらにするか進むも退くも今日決定して下されよ」と言った。
大夫たちは「われわれは君の教訓に従い、君命を辱しめることなく、進んで職務をお受けいたします」と言った。そこで公孫周は諸大夫と誓った。
1月15日、公孫周は大夫たちと盟って都に入り、伯子同の家に宿泊した。
1月26日、公孫周は武公廟に参詣し、晋厲公の佞臣7人を追放した。
2月、公孫周は絳に入り、鶏を殺して国君となった。
悼公はすべての政事を定め、夫役を免じ負債の支払いをやめさせ、賦税を軽くし、財政を節約し、民を使うには農時を避け、百官を立て、門子(嫡子)を教育し、賢良を選び、 旧族を興し、停滞した賞を出し、長い受刑者を終了させ、囚人を赦免し、罪の疑わしきを許し、徳を積む者を用い、孤独な老人に恵み、忘れられた賢人を起用し、老幼を養い、 孤児や廃疾を憐れみ恵んだ。70歳以上の者は、悼公みずから会って「王父、王父、ご教訓を受けないわけにはまいりません」と言ってこれを貴んだ。
また悼公は「わしの祖父、父は難を避けて周におり、そこで客死しました。わしは晋公になろうと願ったこともありませんでしたが、 大夫は文公襄公の御意を忘れることなく、 よくぞわしを立ててくれました。どうして戦々恐々、恐れ慎まずにおられましょう。大夫よ、わしを補佐していただきたい」と言い、先代の功業を修め、民に徳化恩恵を施し、 晋文公が晋に入国した際の功臣の子孫を表彰した。
悼公は「邲の戦いで、 魏錡は上軍の将智荘子(荀首)を輔佐して楚の公子穀臣と連尹襄老を捕らえ、 荘子の子子羽(智罃)と捕虜交換した鄢陵の戦いでは、みずから楚王を射て楚軍を破って晋の覇権を決定させたのに、 彼の子孫で高位にあるものがない」と言い、魏錡の子の魏相を下軍の将に任命した。
また悼公は「彘恭子は范武子(士会)の末子で、文子(士燮)の母弟である。 武子は執秩の法を明らかにして晋を安定させ、その法は今でも用いている。文子は一身を勤労して諸侯を鎮定服従させ、今でもその功に頼っている。 このふたりの徳を忘れてもよかろうか」と言い、士魴を新軍の将に任命した。
また悼公は「昔、潞に勝った戦いで、秦が来攻してきたとき、魏顆は身を賭して輔氏の地でこれを退け、 秦の勇士杜回を捕らえて、その勲功は景公の鐘銘に刻まれた。しかしその子孫は今、世に出ていない」と言い、 魏顆の子の魏頡を新軍の佐に任命した。
また悼公は、士渥濁が前代の記録に従って博識であり、広く教育に通じていることを知って、太傅に任命した。
また悼公は、賈辛がよく計数に長じて仕事を計り、計画を成功させることを知って、 司空に任命して士蔿の修めた法を習わせた。
また悼公は、卞糾が馬を御することに巧みで、軍事を治めることを知って、悼公の戎御に任命した。
また悼公は、荀賓が勇力があって乱暴でないことを知って、悼公の右に任命した。
欒書が公族大夫の任命を願ったので、悼公は「荀家は篤厚慈恵であり、荀会は博文明敏であり、 欒黶は果断勇敢であり、韓無忌は鎮重安静であるから、この4人に任命しよう」と言った。
さらに悼公は、祁奚;が果断で邪淫でないのを知って、これを中軍の尉とした。また、 羊舌職が聡敏で敏捷なのを知って祁奚;を輔佐させた。
また悼公は魏絳が勇敢で乱れないことを知って、これを中軍司馬に任じた。 張孟が智であり詐らないのを知って、中軍の斥候を司らせた。 鐸遏寇が恭敬で信義に強いことを知って、これを上軍の尉に任じた。
また悼公は、籍偃が努めて旧職に従って恭敬敏捷なのを知って、これを上軍司馬に任じた。
また悼公は、程鄭が端正で邪淫ならず、諌めを好んで隠し立てをしないことを知って、賛僕(平時の御者)に任じた。
そして諸卿には御者を省き、新たに軍尉を設けて卿の御者を兼ねさせた。
成公が来て、即位に対する挨拶をした。
11月、楚が宋を討ち、宋の華元が事態の急を告げてきた。中軍の将韓厥が「人を従えようと思うなら、 まずその人のために骨を折ってやるべきです。覇業を成す仕事は、宋を助けることから始めましょう」と進言したので、悼公は軍を進めて宋を助けた。 晋軍は楚軍と宋の靡角の谷あいで出会ったが、楚軍は晋軍を恐れて退却した。
12月、悼公は魯の孟献子・宋平公・衛献公・ 邾宣公・斉の崔杼と虚朾で会合して同盟した。
悼公は張孟に命じて、君の声を四方に伝えて、道に従う者と従わない者とを観察させた。
秋、悼公は鄭を討ち、陳まで行った。
呂相が没したので、趙武が文徳あり、軍の大事に献身するということで、新軍の将に任命した。
B.C.572、1月、晋は宋・衛・曹・莒・邾・滕・薛とともに彭城を包囲し、彭城は晋に降服した。晋は彭城にいた5人の大夫を晋に連れて帰り、 晋の瓠丘に留め置いた。
斉がこの戦いに参加しなかったので、悼公はその罪を責め正した。
2月、斉は謝罪し、太子を晋の人質とした。
5月、悼公は韓厥と荀偃に命じて諸侯の軍を率いて鄭を討たせた。晋軍は鄭の外城に攻め入り、鄭の歩兵を洧水のほとりで打ち破った。 東方の諸侯は鄭の鄶に陣取っていたが、晋軍は勢いに乗って諸侯と連合して楚の焦夷に攻め入り、陳まで攻め込んだ。
悼公は衛献公とともに、衛の戚に軍を留めて援助の体制を敷いた。
冬、悼公は智罃を魯に遣わして従来の友好をつなぎ、諸事を相談した。
B.C.571、6月、悼公は宋平公と衛の甯恵子とともに鄭を討った。
7月、悼公は智罃に命じて諸侯と会合させ、鄭を討つ相談をした。
冬、悼公は智罃に命じて諸侯と会合させ、虎牢に城を築いた。そのため鄭は諸侯と和睦した。
B.C.570春、魯襄公が即位の挨拶のため晋を訪れた。
4月26日、悼公は魯襄公と長樗で盟った。
6月23日、鄭が服従したので悼公は単頃公・宋平公・衛献公・鄭釐公・ 莒の君・邾の君・斉の公子光と会合し、鶏沢で同盟し、呉と仲良くしようとした。
このとき悼公は范匃を斉に遣わして斉霊公の参加を呼びかけたが、こなかった。
成公が楚の侵略を恐れて袁僑を遣わして会合に参加して和睦を申し込んできた。 悼公は和組父に命じて陳が帰服したことを諸侯に伝えた。
この雞丘の会盟のとき、悼公の弟楊干が曲梁の地で隊列を乱したので、中軍司馬魏絳は楊干の御者を斬った。 悼公は羊舌赤に「諸侯を会合している時に、魏絳はわしの弟を辱しめた。やつを逃がしてはならぬ」と言った。
羊舌赤は「絳の志は、有事の際には危難をものともせず、罪があれば刑を避けないと聞きます。必ず出頭しましょう」と答えた。
この言葉が終わるや否や魏絳がやって来て、僕人に書状を渡し、剣の上に伏して死のうとした。士魴と張孟が両側から押さえとどめた。 その書状には「楊干を誅責しましたからには、死ぬ覚悟でございます。聞きますに、軍は命令に従うのを武とし、軍事は死んでも命令を犯さないのを敬とします。 君が諸侯を会合なさるのに、わたくしがどうして敬しないことがありましょうか」とあった。
悼公はこれを読むと、はだしで飛び出して「わしの話は兄弟の礼だ。あなたのは軍の職務である。これからもわしに忠告してくだされ」と言った。
中軍の尉祁奚;が辞任を申し出て、解狐を推薦した。解狐が死んだため、 祁奚;の子祁午を後任にした。
中軍の尉の輔佐の羊舌職が没したので、悼公は後任を尋ねると、祁奚;が羊舌赤を推薦したので、これを任じた。
悼公は雞丘の会盟から帰国すると、魏絳に饗宴を賜った。
魏頡が没した。悼公は張孟を卿に任じようとしたが、張孟は辞退した。悼公は5度任命しようとしたが、張孟は固辞したので、魏絳の徳を買って新軍の佐に任命し、 張孟を司馬に任じ、士富を候奄に任命した。
冬、悼公は智罃に命じて許を討たせた。
B.C.569夏、魯の叔孫豹が来朝し、智罃の訪魯の返礼をした。
10月、魯襄公が晋に出かけて貢物について指示を仰いだ。悼公は魯襄公をもてなすと、魯襄公は鄫の国を魯の支配下にしたいと願ったが、悼公は許さなかった。 魯の孟献子が「わが国は貴国にお仕えしてご命令に背くことは致しません。 ところで鄫は貴国の司馬に対して貢物を奉っておりません。わたくしどもは鄫の助けを借りて貴国への貢物を完納したいと願い出ているのです」と言ったので、 やっと悼公は許した。
冬、悼公の名声は戎狄にまで達し、諸戎が来朝して帰服を請うた。その中で、 無終の君嘉父孟楽を使者として晋に遣わし、魏絳をたよって悼公に虎や豹の皮を差し出して、 戎の諸国と仲良くするように願った。
悼公「戎狄は親愛の情が薄く欲が深い。むしろ討ったほうがよい」
魏絳「今や諸侯がなついたばかりで、陳も和睦したばかりでこちらの行動を注視しています。晋に徳があればなつき、なければ離反しましょう。 戎を攻めて疲れたときに陳が楚に攻められれば、陳を助けることはできないでしょう。戎を手に入れて中国(陳)を失うというのは、 つまらないことではありませんか」
悼公「では戎と和睦するのが一番よいのか」
魏絳「和睦すれば5つの利があります。第一に、戎は財貨を貴び土地を軽んじるので、土地を財貨で買い取ることができます。第二に、戎に接する民の心配がなくなり、 収穫を豊かにすることができます。第三に、戎が晋に服従すると、諸侯は晋を恐れて服従します。第四に、徳をもって戎を治めるので、甲冑武器がいたみません。 第五に、正しい道を行うので遠国の人々は集まり、近国の人はその地に安住します」
悼公は喜び、魏絳に命じて戎の諸国と和睦し、民の耕作を大事にし、農時以外の時を選んで狩りをするようになった。かくて晋は文公以後、再び諸侯の覇となった。
B.C.568春、周霊王が卿士王叔陳生を遣わして戎が周室を侵していると晋に訴えた。 しかし悼公は王叔陳生を捕え、士魴を周に遣わして、王叔陳生が戎に心をよせていると告げた。
夏、魯の叔孫豹が鄫の太子をつれて晋に来朝した。悼公は鄫を魯の属国にすることを正式に認めた。
呉王寿夢寿越を遣わしてきた。そこで悼公は魯と衛に命じて、さきに呉と会合させ、 諸侯との会合の日取りを呉に伝えさせることとした。
9月23日、悼公は魯襄公・宋平公・陳哀公・衛献公・鄭釐公・曹成公・莒の君・邾の君・ 滕の君・薛の君、斉の公子光、呉の人、鄫の人と戚で盟約し、陳を守ることを誓った。
11月12日、楚が陳を討ったので、悼公は魯・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・斉と鄭の城棣で会合して陳を救った。
B.C.567秋、莒が鄫を滅ぼした。悼公は人を魯に遣わして魯が鄫を助けなかった罪を責め正した。 魯は季武子を晋に派遣して魯襄公が即位した挨拶をし、さらに鄫を滅ぼした罪の裁きを受けようとした。
B.C.566、10月、韓厥が隠居を願い出た。悼公はその子の韓無忌を卿に任命しようとしたが、 韓無忌は辞退して弟の韓宣子を勧めた。
10月9日、悼公は韓起を参内させて父の後を継がせ、韓厥はそのまま引退した。悼公は韓無忌を仁者であると言って公族大夫の長とした。
冬、楚が陳を攻め囲んだ。悼公は、魯・衛・宋・曹・莒・邾とともに鄭のイで会合して陳を助けた。
B.C.565春、魯襄公が来聘し、晋への来聘の回数をうかがった。
5月7日、悼公は魯・鄭・斉・宋・衛・邾の大夫を邢丘に会合させ、晋に朝聘すべき回数を命じた。
冬、楚の子嚢が鄭を討った。 鄭簡公王子伯駢を使者として晋に遣わして、 しかたなく楚についたことを報告した。中軍の将智罃は行人子貢に答えさせて 「貴国の君はわが君に報告することなく楚と仲良くされました。それは貴国の君の望んでいることでしょう。 わが君は諸侯を率いて貴国の城下でお目にかかるでしょう」と言った。
B.C.564春、宋に火災があった。悼公は士弱に「宋で火災があり、それによって禍福を降す天の道があることがわかったと耳にしたが、 どういうことか」と尋ねた。
士弱「商人は災禍を調べると、それはきまって火災から始まっていました。そこで今回も火災が禍を予告する天の道であると知ったのでしょう」
悼公「必ず禍がやってくるのか」
士弱「禍の有無は道が行われているか否かによります」
夏、魯の季武子が来聘し、前年に范匃が訪問した返礼をした。
秋、秦が晋の凶作につけ込んで攻め込んできた。
10月、晋は諸侯とともに鄭を討った。
11月10日、諸侯は鄭の戯で同盟し、鄭の降服を許した。このとき鄭は「大国(晋と楚)が鄭に恵みを施さず、武力をもって服従を強要しており、 鄭は神々の祭りを受けることができず、民も土地の利を楽しむことができない」と盟いの文を読んだ。晋はこれをよろこばなかった。
晋は再び諸侯を率いて鄭を討った。
12月5日、鄭の三門を攻めた。
閏12月、陰阪を渡って鄭に攻め入り、鄭の陰口に一時止まって引き揚げた。
魯襄公が悼公が戦いから帰るのを見送ったので、悼公は魯襄公と黄河のほとりで酒宴を開いた。
悼公「魯公は、いくつになられましたか」
季武子「沙随で会合した年に生まれました」
悼公「12歳になられましたな。国君は15歳で子を生むきまりですが、元服してから子を生むというのがさだめです。君には元服をなさるのがよい。 あなたたちはその用意をされてはどうですか」
季武子「君が元服されるときは先祖の廟で行うものです。いまは旅先ですので用意をいたしかねます。兄弟の国で道具を借りて行いたいと思います」
悼公「よろしい」
悼公は国に帰ると、戦に疲れた民を休養させる方法を相談した。魏絳が恩恵を施し、労役を免じるよう申し出たので、悼公は蓄えてある米穀を民に貸し与えた。 公室を始めとして蓄えのある者は残らず出したので、国中の蓄えの米穀はなくなったが、困窮する民はいなくなった。また公室が民の利益を独占することがなくなったので、 利をむさぼる民もいなくなった。
B.C.563、4月1日、悼公は、魯襄公、宋平公、衛献公、曹成公、莒の君、邾の君、滕の君、薛の君、杞孝公、小邾の君、 斉の公子光、 呉王寿夢と楚の柤で会合した。
夏、諸侯は偪陽を討った。
5月8日、諸侯は偪陽を滅ぼした。悼公は偪陽を宋の臣向戌に与えようとしたが、向戌が辞退したため、 これを宋平公に与えた。宋平公は悼公を宋の楚丘でもてなした。そのとき宋が天子の用いる旗を用いたので、悼公は恐れ憚って次の部屋に引き下がった。 そしてその旗を去らせてもらい、宴会を終えて帰路についた。悼公は晋の著雍に着くと病気になった。卜してみると桑林の神のたたりと出た。 智罃は「こちらはあの礼楽をお断りしたのに、先方が無理に用いたものだ。宋にたたるべきだ」と言った。やがて悼公の病気も少し良くなったので、 偪陽の君を連れて都に帰り、晋武公の廟にささげ、これをえびすの捕虜と呼んだ。 しかし悼公は周の内史に依頼して偪陽の一族で後を継ぐ人を選ばせ、晋の霍人に住まわせて先祖の祭りを絶やさないようにさせた。
6月、悼公は智罃に命じて秦を討ち、前年に秦が晋を侵した報復をした。
秋、悼公は魯襄公、衛献公、曹成公、莒の君、邾の君、斉の公子光、滕の君、薛の君、杞孝公、小邾の君とともに鄭を討った。
9月25日、諸侯の軍は鄭の牛首に進撃した。
冬、諸侯の軍は鄭の虎牢に城壁を築いてそこを守った。晋軍は梧と制に城壁を築いて士魴と魏絳にここを守らせた。かくて鄭は晋と和睦した。
楚の子嚢が鄭の救援に来た。
10月、鄭で叛乱が起こり、叛乱を起こした侯晋が晋に亡命してきた。
11月、諸侯の軍は鄭を遠回りして南進し、鄭の陽陵に進んだが、楚軍は退かなかった。
11月16日、諸侯の軍は潁水をはさんで楚軍と対陣した。
11月24日、諸侯の軍が引き揚げたため、楚軍も引き揚げた。
周の卿士王叔陳生が伯輿と政権を争って周室が乱れた。悼公は范匃に命じて、この騒ぎを治めさせようとした。 その結果、王叔陳生が晋に亡命し、単靖公が代わって王室の卿士となり、政治を執ることになった。
B.C.562、4月、鄭が宋を討ったため、悼公は魯襄公・宋平公・衛献公・曹成公・斉の太子光・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・ 杞孝公・小邾の君と会合して鄭を討った。
6月、諸侯は鄭の北林で会合し、鄭の向に軍を進めた。さらに北進して西方に向かい、鄭の瑣に宿営し、それから鄭の都を囲んで南門で威力を示し、 西進して済隧の川を渡った。
7月10日、鄭人は恐れて和睦を結び、鄭の毫で同盟を結んだ。
楚が秦とともに鄭を討とうとした。鄭簡公はこれを出迎えて降服した。
9月、悼公は再び魯襄公・宋平公・衛献公・曹成公・斉の太子光・莒の君・邾の君・滕の君・薛の君・ 杞孝公・小邾の君と会合して鄭を討った。諸侯は鄭の東門で威武を示した。
9月26日、鄭簡公が鄭の軍中で趙武と盟った。
10月10日、鄭の子展が晋の軍中に出かけてきて悼公はこれと盟った。
12月1日、諸侯は鄭の蕭魚で会合した。鄭は晋に女や楽器を献納した。そこで悼公は魏絳に「あなたがわたしに戎狄と講和するよう教えてから、8年になります。 その間に7回諸侯を会合して、わたしの思い通りにならぬものはありません」と言い、鄭の女楽を賜った。魏絳は辞退して「戎狄と講和したのは君の幸いです。 8年間に7回会合したのは君の徳であり、諸将の功労です。どうして臣が独占できましょうか」と言ったが、悼公は「あなたが居なければ、 わたしは戎狄を受け容れることができず、鄭を討つこともできなかった。どうかこれを受けてくだされ」と言った。魏絳は3度まで辞退して、ようやく受けた。
12月3日、諸侯は鄭の捕虜を釈放し、丁重に扱って帰した。また悼公は斥候を呼び戻し、鄭で掠奪することを禁止した。
秦の庶長と庶長が晋を討って鄭を救おうとした。士魴がこれを防いだが、 秦軍は多くないと侮って防備を怠った。
12月5日、庶長武は輔氏から黄河を渡って庶長鮑とかわるがわる晋軍を攻撃した。
12月12日、晋軍は櫟で秦軍と戦ったが大敗した。
あるとき悼公は汝叔斉と高い台に登って眺望して「楽しいなあ」と言った。
汝叔斉「楽しいですが、徳義の楽しみはまだです」
悼公「何を徳義というのか」
汝叔斉「諸侯の行為の中で、その善いものを行い、その悪いものを戒めます。これを徳義と言うことができます」
悼公「誰にできるか」
汝叔斉「羊舌肸が春秋に習熟しております」
そこで悼公は羊舌肸を召し出して、太子の傅とした。
B.C.561夏、悼公は士魴を魯に遣わして、先年に兵を出して鄭を討ったことに対する礼を述べた。
冬、魯襄公が来聘し、悼公に朝礼を行い、士魴の訪問に対する返礼をした。
B.C.560中軍の将智罃と下軍の佐士魴が没した。
悼公は緜上に軍を集めて勢揃いさせ、范匃を中軍の将に任命しようとした。しかし范匃が辞退したので、荀偃を中軍の将とし、范匃は今まで通り中軍の佐とした。 また韓宣子を上軍の将に任命しようとしたが辞退したので、欒黶を任命しようとした。欒黶も辞退したので、趙武を上軍の将に任命し、韓宣子を上軍の佐とした。 欒黶は今まで通り下軍の将とし、魏絳を1位進めて下軍の佐とした。新軍の将、佐がいなくなったが、悼公は適任者を見つけられなかったので、 新軍の隊長たちに所属の兵を率いさせて下軍の指揮下に入らせた。晋の民はこのため大いに和合し、諸侯も仲良くなった。
B.C.559春、呉が楚と戦って大敗したことを晋に告げてきた。悼公は范匃に命じて魯・斉・宋・衛・鄭・曹・莒・邾と鄭の向で会合させた。
夏、悼公は荀偃に命じて魯・斉・宋・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾を率いて秦を討ち、櫟の戦い(B.C.562)の報復をした。 悼公は国境で戦いの結果を待ち受け、6人の卿に諸侯の軍を率いさせて進ませた。しかし諸侯の軍は不和もあって成果が出ないまま引き揚げた。 この戦いで欒鍼が戦死し、范鞅が秦に出奔した。
晋軍が秦の討伐から帰ると、悼公は新軍を廃止した。
衛献公が追放されたことについて、悼公は荀偃に尋ねた。荀偃は「そのままにしておくべきでしょう。衛はすでに君を立てておりますから、 討っても思うようにはいかないでしょう。討つべき時節をお待ちになるのがよいでしょう」と答えた。
冬、悼公は范匃に命じて、魯・宋・衛・鄭・莒・邾と戚で会合させ、公子の即位を認めた。
B.C.558魯が使者を送ってきて、邾が魯を攻めたことを報告した。そこで悼公は諸侯を集めて邾と莒を討とうとしたが、 悼公は発病したため中止となった。
11月9日、悼公は没した。
悼公(魯)(トウコウ)【王】
魯公(26代目)。名は寧。哀公の子。〜B.C.431。
三桓の勢いは公室をしのぎ、魯君は小諸侯に等しく、公宮は三桓の家よりも貧弱であった。
悼公(燕)(トウコウ)【王】
燕公。恵公の子。〜B.C.529。
B.C.536即位する。
悼公(曹)(トウコウ)【王】
曹公(21代目)。名は午。平公の子。〜B.C.515。
B.C.524、3月、平公が没したため、午は即位した。
B.C.521冬、悼公は翰胡を遣わして晋・斉・衛とともに宋を救った。
B.C.515、10月、悼公は宋に参朝したが捕えられ、そのまま宋で没し、曹に帰葬された。
B.C.514、3月、悼公は葬られた。
悼公(杞)(トウコウ)【王】
杞公(13代目)。名は成、伯成ともいう。平公の子。〜B.C.513。
B.C.518、杞平公が没したため、成は即位した。
B.C.516秋、悼公は魯昭公・斉景公・邾の君と鄟陵で盟いを結び、 魯昭公を魯に入れる相談をした。
B.C.506、3月、悼公は劉文公の召集を受け、晋定公・魯定公・ 宋景公・衛霊公・蔡昭侯・ 陳懐公・許の君・鄭献公・莒の君・邾の君・頓の君・胡の君・滕の君・ 曹隠公・小邾の君・斉の国夏を楚の召陵に集めて楚を討つ相談をした。
5月、悼公は会合のときに没した。
秋、悼公は葬られた。
(『史記』ではB.C.525に杞平公が没したとする)
悼公(衛)(トウコウ)【王】
衛公(21(31)代目)。名は黔。〜B.C.461。
B.C.466出公を攻めて自立する。
悼公(宋)(トウコウ)【王】
宋公(28代目)。名は購由。昭公の子。〜B.C.398。
B.C.406即位する。
悼公(鄭)(トウコウ)【王】
鄭公(12代目)。名はヒ(費)。襄公の子。〜B.C.585。
B.C.587春、襄公が没したので、公子ヒは即位した。
11月、公孫申が許の田地を鄭の領地として、その境界を改め直すため出兵したが、許軍に許の展陂で敗れた。そこで悼公は許を討って、 鉏任と泠敦の田地を占領した。
晋が欒書荀首士燮を送って許を救い、 鄭の汜・祭の地を占領した。
楚が子反を送って鄭の救援に駆けつけた。
悼公と許霊公は子反の前で言い争って、そのさばきを求めた。 皇戌が悼公の代理人となって弁じたので、子反はこれをさばくことができず「両国の君には、わが君のところまでおいでください。 そこで話をお聞きすれば、両国は仲直りできるでしょう」と言った。
B.C.586許霊公が鄭がしきりに許を討つということで鄭を楚に訴えた。
6月、鄭悼公も楚に出かけて霊公を訴えたが、悼公は裁判に負けた。楚は鄭を罰するために皇戌と子国を捕らえた。
そこで悼公は帰国すると、公子を晋に遣わして晋と和睦を結ぶよう申し入れた。
8月、悼公は晋の趙同と晋の垂棘で和睦の盟いを結んだ。
12月24日、悼公は晋景公・魯成公・斉頃公・ 宋共公・衛定公・曹宣公・ 邾定公・杞桓公と晋の虫牢で会盟した。
楚に攻められるが、晋の援軍が来たので、楚は退いた。
B.C.585春、悼公は晋に赴いて和平の盟いを結んだことに対するお礼を述べた。公子偃が介添をつとめていたが、 悼公が晋景公に玉を渡すとき、進みすぎて堂の東の柱の東で献上した。 これについて晋の士渥濁は「鄭伯は死ぬでしょう。眼は落ち着かず、歩きかたが早すぎ、席についてもそわそわしていた。 長くはないでしょう」と予言した。
3月、鄭は晋・衛とともに宋に攻め入った。
6月10日、没す。
悼公(秦)(トウコウ)【王】
秦公(16(21)代目)。恵公の子。〜B.C.478。
B.C.492即位する。
悼公(邾)(トウコウ)【王】
邾の君。〜B.C.541。
B.C.554、1月、諸侯は斉の督揚で盟いを結んだ。このとき悼公は晋に捕えられ、B.C.556に魯を討ったことを責められた。 そして諸侯は泗水のほとりに軍をとどめて魯の領地の境界を決め、邾の土地を取り上げて潡水の北の地を魯に帰した。
B.C.549秋、悼公は晋平公・魯襄公・衛殤公・ 宋平公・鄭簡公・曹武公・ 莒犂比公・滕の君・薛の君・杞文公・ 小邾の君と夷儀で会合し、斉を討とうとしたが、大水が出て斉を討つことができなかった。
B.C.548夏、平公は泮から泮水を渡り、晋平公・魯襄公・衛殤公・鄭簡公・曹武公・莒犂比公・邾悼公・滕の君・薛の君・杞文公・ 小邾の君と夷儀で会合して斉を討ち、朝歌の戦い(B.C.550)の報復をした。
悼公は諸侯と会合し、晋平公は斉に逃れていた衛献公を迎えようとした。
7月11日、斉が降服したので、悼公は諸侯と重丘で同盟した。
B.C.546、6月10日、悼公は宋に到着し、諸侯と盟いを結んだ。斉が邾を属国にしたいと申し出たので、悼公はそれに従って盟いに参加しなかった。
B.C.545夏、悼公は魯を聘問した。
B.C.541、6月11日、悼公は没した。
悼公(甘)(トウコウ)【王】
甘公。名は過。甘簡公の弟。〜B.C.530。
B.C.530簡公に子がなかったため、弟の過が立てられた。すると悼公(過)は成公・景公の一族を除こうとした。そのため彼らは劉献公に財貨を贈って加勢を求めた。
10月25日、悼公は成公・景公の一族に殺された。
悼公(許)(トウコウ)【王】
許公。〜B.C.523。
B.C.524冬、許は晋と鄭の脅威にさらされていたため楚平王は公子に命じて許を析に移した。
B.C.523夏、悼公はおこりの病気にかかった。
5月5日、悼公は太子がすすめた薬を飲んで亡くなった。
悼公(滕)(トウコウ)【王】
滕公。名は寧。〜B.C.514。
B.C.514、7月23日、没した。
冬、悼公は葬られた。
悼侯(トウコウ)【王】
蔡侯(19(2)代目)。名は東国。平侯の弟。〜B.C.519。
B.C.522平侯が没すると、その子が立った。
B.C.521公子東国は楚の費無忌に賄賂を贈り、蔡人に「朱は楚の命令を聞かないため、楚王は東国を立てようとしている。 王の考えどおりにしないと、楚はきっと蔡を囲むであろう」と言った。蔡人は恐れて、朱を追い出して東国を立てた。
B.C.519秋、呉が楚の州来に攻め入ったため、蔡は頓・胡・沈・陳・許とともにこれを救ったが敗れた。
棠公(トウコウ)【文官】
斉の臣。棠邑の大夫。
彼の妻は棠公が死んだ後、崔杼に嫁ぐ。美貌であったため、斉荘公と密通する。
滕更(トウコウ)【公子】
滕の公子。滕君の弟。
孟子の門下で学ぶ。奢った態度であったため、孟子から教えを得られなかった。
唐狡(トウコウ)【武官】
楚の臣。
B.C.597、6月、邲の戦いで唐狡は楚荘王に命ぜられて蔡鳩居とともに唐恵侯に 「あなたのお力にすがって楚軍を救いたい」と申し入れて晋軍を大破した。
唐苟(トウコウ)【武官】
鄭の臣。〜B.C.575。
B.C.575鄢陵の戦いのとき、唐苟は鄭成公の右役となった。
この戦いで鄭軍と楚軍は大敗した。唐苟は御者石首に「あなたはわが君のそばにいてくれ。全くひどい負け戦だ。 どうか君を連れて逃げてください。わたしは踏みとどまりましょう」と言って、やがて討ち死にした。
蕩侯(トウコウ)【武官】
楚の臣。
B.C.530冬、蕩侯・潘子司馬督囂尹午陵尹喜は徐を包囲して呉に圧力をかけた。
B.C.529蕩侯ら5将は徐から帰ったが、呉軍に豫章で邀撃されて、蕩侯らは捕えられた。
闘克(トウコク)【将軍】
楚の将軍。字は子儀。闘班の子。申公。大司馬。〜B.C.613。
闘克は楚荘王の師となった。
B.C.635秋、秦と晋が鄀を討った。闘克は屈禦寇とともに申・息の軍を率いて鄀の都の商密を守った。 秦は雑役の衆人を析城の捕虜に見せかけ、夜に商密の城下に穴を掘って牛の血を埋め、その上に文書を載せ、闘克と屈禦寇が秦と和議を結んだように見せかけた。 これを見た商密の人は闘克と屈禦寇が裏切ったと思って秦に降服し、闘克と屈禦寇は秦に捕らえられ、秦に連れさられた。
B.C.627秦は殽の戦いで晋に敗れたので、楚と友好を結ぼうとして、闘克を楚に還した。楚秦は友好を結んだが、闘克は思うような恩賞を受けなかったので、 これを恨みに思った。
B.C.613太師潘崇と令尹成嘉が舒蓼などの小国を討つため、 闘克と公子は留守を命じられた。
闘克は公子燮と謀って、潘崇と成嘉に罪を得させて、その家財を横領した。そして郢に城壁を築き、刺客を使って成嘉を殺そうとしたが、成功しなかった。
8月、闘克は公子燮と共に荘王を奉じて郢を出て商密に行こうとしたが、廬の大夫戢黎叔麇にだまされて殺された。
闘縠於菟(トウコクオト)
子文
道朔(ドウサク)【文官】
楚の臣。〜B.C.703。
B.C.703巴の君が韓服を遣わし、鄧と友好を結びたいと楚に願い出た。 楚武王は道朔に命じて韓服を鄧に行かせたが、鄧の南部のユウの人が彼らを殺した。
唐山(トウザン)
蕩沢
淖歯(トウシ)【武官】
楚の臣。斉の宰相。
B.C.284斉湣王は諸侯に破れ、莒に亡命した。
淖歯は兵を率いてこれを援け、その宰相となった。
淖歯は湣王の罪を責めて「さて臨淄の西北にあたる地に血の雨が降ったことを王はご存知でしょうか」「知らない」
「泰山付近の地で、大地が裂けて黄泉にまで届いたということを王はご存知でしょうか」「知らない」
「宮門のところで人の泣き声がし、探しても姿は見えず、離れるとその声が聞こえる、ということを王はご存知でしょうか」「知らない」
「天が血の雨を降らせることは、天の警告であり、地が裂けるのは地の警告であり、宮門で人の泣き声がするのは人の警告です。天・地・人がいずれも警告しているのに、 王には自戒することがない。これでは、どうして誅殺しないでおられましょうか」と言って、湣王を莒の鼓里で殺し、斉の土地と宝器を燕と分け合った。
桃子(トウシ)【武官】
周王朝の臣。
B.C.636秋、桃子は周襄王の命により、頽叔とともに狄の軍を出させて鄭を討ち、櫟を取った。
襄王が狄の叔隗を皇后にしたが、すぐにこれを廃した。頽叔と桃子は「われわれが狄を使って戦をさせたのだ。 そんなこと(廃皇后)をすれば狄は周を恨むであろう」と言い、桃子と頽叔は叔帯をもりたてて襄王を討った。
董之繁菁(トウシハンセイ)【在野】
孟嘗君の食客。
夏侯章という食客は孟嘗君に礼遇されていたが、口を開くたびに孟嘗君の悪口を言っていた。 董之繁菁は夏侯章にその理由を尋ねると、夏侯章は「わが君はわたしに手柄もないのに手厚い待遇をしているという噂が立ちます。 これこそわたしが自分の身を犠牲にしてわが君に尽くしていることなのです」と答えた。
頭須(トウシュ)【文官】
晋の臣。里鳬須ともいう。
蔵番人の小姓。
頭須は晋文公が亡命した時、蔵の物を盗み出し、後に盗品をすべて賄賂にして文公の帰国の運動を行った。
B.C.636文公が帰国すると、頭須は謁見を求めたが、文公は洗髪中を理由に断った。頭須は「髪を洗えば心もひっくり返り、考えもひっくり返るでしょう。 わたしがお目にかかれないのも当然です。お供した人は従僕の労をとり、国に居た人は国家の守りとなったのですから、どうしてお供しない人を罰するのでしょうか」と言った。 これを聞くと文公はすぐさま頭須を引見した。
竇犨(トウシュウ)【文官】
晋の大夫。〜B.C.491。
趙鞅を補佐し、晋の政事を掌った。
B.C.491趙鞅に殺される。
董叔(趙)(トウシュク)【武官】
趙の臣。
B.C.287魏氏とともに宋を討ち、河陽の地を魏から取る。
董叔(晋)(トウシュク)【文官】
晋の臣。史官。〜B.C.552。
B.C.555冬、楚が鄭に攻め入った。董叔は「歳星(木星)の位置や斗柄(北斗七星の柄)のさす方向は今、北西にある。南方楚は戦うべき時を得ていないから、 きっと成功しないであろう」と言った。叔向はこれを聞いて「戦の勝敗はそんなことより国君自身の徳によるものだ」と言った。
董叔は范氏から妻を娶ろうとしたとき、叔向が言った。
叔向「范氏は富んでいます。どうしてやめないのですか」
董叔「范氏の後援を求めたいのです」
あるとき妻の董キ范鞅に「夫がわたくしを敬いません」と言ったので、范鞅は怒って董叔を捕らえて、 庭の木に縛りつけた。叔向がそこを通りかかると董叔は言った。
董叔「わたしのために許しを請うて下さい」
叔向「あなたは後援を求めてつながれました。希望通りになったのに、その上何を請うのですか」
B.C.552晋平公欒盈を追放し、欒盈の一味である箕遺黄淵嘉父司空靖邴豫・董叔・邴師申書羊舌虎叔熊を殺した。
党叔(トウシュク)【文官】
魯の臣。
B.C.544晋の范鞅が来聘し、魯襄公は宴を開いてもてなした。 饗宴の終わりに射礼にふたり一組の射手を3組そろえるため、君の臣だけではそろわなかったため、 党叔は鄶皷父と一組になって駆り出された。
唐叔虞(トウシュクグ)【王】
唐公(初代)。名は虞、字は子于。周武王の子。
はじめ武王が叔虞の母に会ったとき、天帝が「わしはおまえが子を生んだら、虞と名づけるよう命ずる。わしはその子に唐の地を与えよう」と言った夢を見た。 生まれると、その掌の筋が虞という字に似ていたため、虞と名づけた。
成王が叔虞と戯れていたとき、桐の葉を四角に切って叔虞に与え「これをもっておまえを封じよう」と言った。 ちょうど周公旦が唐に起きた乱を鎮圧していたので、叔虞は唐に封じられる。
唐雎(トウショ)【在野】
魏の人。
B.C.266斉・楚に攻められる。魏は使者をやり秦に援けを求め、冠と車蓋が前後互いに望見できるほど頻繁に使者を送ったが、秦の救援は来なかった。
唐雎はこのとき90余歳であったが、安釐王に謁見して「わたくしを西へやらして下さい。秦王を説得して、わたくしの帰るよりも先に、 秦兵を出させましょう」と言った。
安釐王は再拝して、車を整えて唐雎を秦に送った。
昭襄王は唐雎に「老体には遠くから来られ、まことにご苦労であった。さて魏はしばしば救援を求められるが、 わしには魏の危急がよくわかっているのです」と言った。
唐雎は「魏の危急を知っておられるのに援軍を出されないのは、貴国の謀臣に利害のわかる者がいないからでしょう。これ以上に危急に追い込まれるなら、 彼らは魏の土地を割いて合従を約定することでしょう。そうなると、ひとつの藩刻を失って、斉・楚を強くするだけです。王には何の利益もございません」と言った。
そこで昭襄王は、にわかに出兵して魏を救った。
B.C.258信陵君晋鄙を殺し、趙都邯鄲を救って秦軍を破った。
唐雎は信陵君に「人が自分を憎んでいることは知っていなければなりませんが、自分が人を憎んでいることはいつまでも覚えていてはいけないものです。 人が自分に恩徳を与えてくれたことは忘れてはなりませんが、自分が人に恩徳を施したことは忘れなくてはいけません。
今、あなたさまは、大きな功績がありますが、施された恩徳をお忘れになるほうがよろしいでしょう」と言った。
信陵君は「私無忌は謹んでお教えを賜りました」と言った。
秦が安陵君に500里の地をもって安陵と交換するよう請うた。安陵君は「はなはだけっこうなことですが、この安陵の地は先王から拝領した土地でありますので、 最後までこの地を守り通したく存じます」と答えた。
秦王が不機嫌になったため、安陵君は唐雎を遣わせて秦王を説得しようとした。
秦王は「あなたは天子の怒りというものを聞いたことがおありかな」と問うた。
唐雎は「私はまだ知りません」と答えた。
「天子の怒りとは死骸は百万、流血は千里にも及ぶものだ」
「それでは大王は、布衣(庶民)の怒りというものをご存知でしょうか」
「布衣の怒りとは、冠を脱ぎ、素足になって頭を地面に叩きつけるに過ぎない」
「それは凡人の怒りです。士の怒りとは、専諸聶政や要離などのような行いのことで、 いまわたしを加えて4人になりましょう」と言い、唐雎は剣を抜いて立ち上がった。
秦王は詫びて「先生には、どうぞお座りください。私は充分に分かりました。安陵がわずか50里四方の狭い地でありながら、存続しているのは、先生があってのことでしょう」 と言った。
闘且(トウショ)【文官】
楚の臣。
B.C.507闘且が朝廷で令尹子常に会ったとき、子常は財宝を蓄え、馬を集める道を闘且に尋ねた。
闘且は帰宅して弟に「楚は滅びるだろう。さもなくば令尹は災禍を免れないだろう。楚君の宰相となりながら四方に美名を讃えられることもなく、 民の衰弱は日増しにひどくなるばかりなのに、貨馬を蓄集して満足せず、民の怨みを招いている。 人を礼せず、民を顧みないことは成王霊王よりもひどいから、 自分ひとりでどうやって災禍を防ごうとするのだろうか」と言った。
董子陽(トウシヨウ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
若くして長生の道を知り、博落山中に隠棲すること90余年、ただ桃を食し、岩清水を飲むだけであった。
闘椒(トウショウ)【将軍】
楚の将軍、宰相。司馬、令尹。字は伯棼、または子越。子越椒、伯賁(伯棼)ともいう。子良の子。
子良が闘椒を生んだとき子良の兄子文は子良に「この子を殺しなさい。姿は熊や虎のようで、 山犬や狼のような声を出します。きっとわれわれ若敖氏を滅ぼすことになろう」と言ったが、子良は聴き入れなかった。
子文は臨終のときに一族を集めて「椒(闘椒)が政治を執るようになったらすぐに立ち去るがよい。災難のかからないようにせよ」と遺言し、 泣きながら「若敖氏の霊魂はきっと飢えるであろう」と言った。
B.C.618冬、闘椒は魯を聘問したが、進物の出し方が傲慢無礼であった。
B.C.611楚荘王は庸を討伐し、軍を2隊に分けて両道から進撃させた。闘椒は石溪から、 子貝は仭から庸を攻めてこれを滅ぼした。
B.C.607夏、晋の趙盾が宋・衛・陳とともに鄭を討った。闘椒は鄭の救援に出かけ「諸侯を帰服させようと望みながら、 諸侯を助けるのが難儀であるなどと、どうしていえようか」と言って、鄭に陣営を敷いて晋軍が来るのを待った。 趙盾はこれを見て「彼の一族は楚で盛んである。やがて自滅するであろう。しばらく思うままにおごらせておこう」と言って、軍を引き揚げて帰国した。
子文が没すると、子文の子闘般が令尹、闘椒が司馬、蔿賈が工正となった。
蔿賈が闘般を讒言して殺したため、闘椒は令尹となり、蔿賈は司馬となった。
B.C.605闘椒は蔿賈をにくんで、若敖氏の一族を率いて蔿賈を轑陽に閉じ込めて殺し、勢いに乗じて烝野にたてこもって荘王を攻めようとした。
荘王は文王成王穆王の公子たちを人質に入れようと申し出たが、闘椒は受け付けずに漳水のほとりに軍を進めた。
7月11日、闘椒は荘王と皐滸で戦った。闘椒は荘王を射ると荘王の前にすえてある台の下のどらに突き刺さった。さらに第二の矢を射ると、車蓋の頂上を突き通した。 荘王の軍は恐れて退却したが、荘王が「文王が息を攻めて3本の矢を手に入れ、伯棼(闘椒)はその2本を盗んだが、今やその矢を射つくしてしまった。 もう心配はない」と言い、太鼓を鳴らして進撃してきたので、闘椒は破られて、若敖氏は滅ぼされた。
闘椒の子の苗棼皇は晋に亡命した。
闘章(トウショウ)【武官】
楚の臣。
B.C.658冬、闘章は鄭を討ち、聃伯を捕えた。
B.C.628春、闘章は楚成王の命により晋に和睦を願い出た。晋は陽処父を遣わして、 楚と晋は友好した。
悼襄王(トウジョウオウ)【王】
趙王(3(9)代目)。名は偃。孝成王の子。〜B.C.236。
B.C.245孝成王が没すると、魏に侵攻中の廉頗に代え、楽乗を任じた。
廉頗はそのため楽乗を攻め、楽乗は逃亡し、廉頗も魏に出奔した。
B.C.244魏に備えて大いに辺境の守備を固め、平邑から中牟に道を通じようとしたができなかった。
また李牧に命じて燕を討ち、武遂・方城を抜く。
韓皋に城を築く。
B.C.243龐煖に命じて燕を討ち、劇辛を捕らえる。
B.C.240龐煖に命じて、趙・楚・魏・燕の精兵を率いて秦の蕞を攻めたが、抜けなかった。
そのため兵を移して斉を討ち、饒安を取る。
B.C.239傅抵を将軍として平邑におらせ、慶舎を将軍として東陽に陣を布かせる。
B.C.238長安君を饒に封じる。
魏より鄴を与えられる。
B.C.236燕を討ち、貍と陽城を取る。この戦いが終らないうちに、秦に鄴を落とされる。
闘辛(トウシン)【文官】
楚の臣。曼成然の子。鄖公。
B.C.528、9月4日、曼成然は楚平王を擁立した功をほこって欲望をわきまえず、一味の養氏と組んで要求に限度がなかったため、楚平王に殺され、養氏の一族は滅ぼされた。 しかし闘辛は鄖の地に居住させられて、曼成然の旧勲を忘れないようにした。
B.C.506楚昭王が呉に敗れて鄖に逃げてきた。弟の闘懐が 「平王はわたしの父を殺した。国に居る時は君ですが、国外にいれば仇です。親の仇を見て殺さないのは、人ではありません。 わたしが今その子を殺してもよいではありませんか」と言った。 闘辛はそれを許さず「君に仕える者は、国の内外で行為を変えず、君の盛衰によって挙動を変えない。われわれの先祖は善行によって君に仕えて、 名誉を諸侯の間に成就し、闘伯比以来失ったことはない。ここで失うのはよくない」と言ったが、闘懐は昭王を殺そうとした。
そこで闘辛は闘懐が事をおこす前に昭王とともに隋に出奔した。
B.C.505呉の闔閭が引き上げると、闘辛は呉の人たちが郢に入って邸宅を争いあったことを聞いて 「呉は楚に来て争っている。きっと騒動がおこるであろう。そうすれば楚を平定できまい」と言った。
楚昭王は郢に帰還して闘辛、鐘肩王孫圉闘巣王孫由于申包胥王孫賈宋木、闘懐の功臣に賞を与えた。
闘成然(トウセイゼン)
曼成然
鄧析(トウセキ)【文官】
鄭の臣。〜B.C.501。
鄧析は子産の法治に反対し、訴訟を起した人と契約して、大きな訴訟なら衣服一揃い、 小さな訴訟なら襦袴(上着とズボン)の謝礼で訴訟に勝つ弁論術を教えた。そのため、数えきれぬ人々が鄧析に衣服や襦袴を献じた。
B.C.501また鄧析は子産の法律を不満として「竹刑」という竹簡に書いた刑法をつくった。しかし鄧析は子然に殺されて、 その刑法は採用された。
『荀子』には、鄧析は恵施と相並んで詭弁に巧みな論理学者であるという。
鄧析は子産に殺されたといい、また「竹刑」は子産が作ったものともいう。
闘巣(トウソウ)【文官】
楚の臣。闘辛の弟。
B.C.506冬、楚昭王が呉に敗れて鄖に逃げてきた。闘辛の弟闘懐が楚昭王を殺そうとしたため、 闘巣は闘辛とともに楚昭王を連れて随に逃げた。
B.C.505呉軍が撤退し、楚昭王は郢に帰還して闘巣、鐘肩王孫圉、闘辛、 王孫由于申包胥王孫賈宋木、闘懐の功臣に賞を与えた。
唐太后(トウタイコウ)【女官】
孝文王の母。姓は唐。
B.C.252昭襄王が没し、孝文王が即位すると唐八子は尊ばれて唐太后と称され、昭襄王の墓に合葬される。八子は妃嬪の称号。
悼太子(陳)(トウタイシ)【公子】
陳の公子。名は偃師、または師ともいう。陳哀公の子。母は鄭姫。〜B.C.534。
陳哀公は幼少の公子を愛し、司徒に彼を委託していた。
B.C.548、6月、陳は鄭に攻められて都を陥落された。悼太子は陳哀公に助けられて墓場に逃げ込んだ。
B.C.534、3月、陳哀公が病気になると、悼太子は司徒招に殺された。
悼太子(秦)(トウタイシ)【公子】
秦の公子。〜B.C.267。
B.C.267魏で没し、芷陽に帰葬される。
蕩沢(トウタク)【将軍】
宋の将軍。司馬。唐山ともいう。公孫寿の孫。〜B.C.576。
B.C.576、6月、宋共公が没した。蕩沢は宋の公室を弱体と見て公子を殺した。 右師華元が晋に出奔しようとすると、魚石がこれを引きとめようとした。
華元は蕩沢を討たせてほしいと求めると、魚石がそれを許したので華元は宋に帰り、 華喜公孫師に命じて国人を率いて蕩氏一族を攻めたため、蕩沢は殺された。
鬭丹(トウタン)【武官】
楚の臣。
B.C.704楚が随を討った。随の少師が討って出てきたので、随の速キで戦い、楚軍は随軍を大破した。 随武公は逃げ去ったが、鬭丹は少師を捕えてこれを殺した。
董仲君(トウチュウクン)【神】
仙人。神仙伝に見える。
臨淮の人。若年より呼吸を調え身体を鍛錬して、100余歳になっても老けなかった。無実の罪で誣告され牢につながれたが、死んだふりをしたために、担ぎ出された。 そこで生き返り、尸解して去った。
銅鞮伯華(ドウテイハクカ)
羊舌赤
登徒(トウト)【武官】
楚の臣。
楚王が孟嘗君に象牙の椅子を贈ることとなり、登徒はその役目に任じられた。
登徒は高価な椅子にもしものことがあったらと不安に思い、孟嘗君の門下の公孫戌に 「もしわたくしが参らずに済めば、あなたに亡き父の宝剣を献上しましょう」と言った。
公孫戌は承知して、孟嘗君に象牙の椅子を受け取ることは、孟嘗君の義行を喜び、孟嘗君の清廉を慕っている者にとってよくないことであると説いた。 そのため登徒の思惑通り、この話はとりやめとなった。
滕臀(トウトン)【在野】
孟嘗君の食客。
孟嘗君が滕臀に「先生は、私の欠点をどう補っていただけるか」と尋ねた。滕臀は 「わが君の財を散じて、魏の文侯のもとに田子方段干木のふたりの師がいたようにしたいものです」と答えた。
董伯(トウハク)【文官】
晋の臣。
B.C.535晋平公が夏の郊を祭ったとき、董伯はその尸となる。
蕩伯姫(トウハクキ)【女官】
宋の蕩氏の夫人。魯の公女。
B.C.635夏、蕩伯姫は、自分の子の妻を娶るために魯を訪れた。
鬭伯比(トウハクヒ)【公子】
楚の公子。若敖の子。
B.C.706楚武王は随を討ち、大夫薳章を使者として和睦させた。
鬭伯比は「わが楚が諸侯に威勢をふるうことができないのは、わが国の失策によるものです。三軍の大軍を率いて、諸侯に接するからこそ、諸侯が連合するのです。 楚の弱いところを見せ、随が得意になれば、必ず諸侯の信は薄れるにちがいありません。いま随の少師は驕り高ぶっているから、 楚の兵力を弱めて彼を油断させ、得意がらせましょう」と進言した。
熊率且比が「随には季梁という人がいるので、その策は何の効果もあるまい」と反論すると、 鬭伯比は「あとで役に立つことになりましょう。少師は君の信任を得ているので、きっとこの計略がものをいう時がきます」と譲らなかった。 武王はこれに従った。
武王は軍を減少させて、随の少師を軍中に迎え入れて楚軍の弱体を見せた。 少師は随に戻って楚を討つよう請うた。随侯はこれを許可しようとしたが、季梁が「これはわが随をあざむき誘う策略です。小国が大国に敵対できるのは、 小国が道にかなうことを行い、大国が道をはずれたことをするときです」と諌めたので、随は追撃をせず、政治にいそしんだ。 武王も随を恐れて討とうとしなかった。
B.C.704鬭伯比は「今こそ随を討つべき時です。少師が寵愛され、乗ずる隙があります」と進言した。そこで武王は諸侯を楚の沈鹿に集めたが、黄・随が来なかった。 武王は薳章を遣わして黄を責めさせ、武王みずからは隋を討ち、漢水と淮水の間に軍を進めた。
随の少師が討って出てきたので、随の速キで戦い、随軍を大破した。随武公は逃げ去ったが、少師を捕えてこれを殺した。
秋、随が楚に親和を求めてきた。武王は聞き入れまいとしたが、鬭伯比は「すでに少師は除かれました。もう随に打ち勝つことはできませぬ」と言ったので、 楚は随と和睦した。
B.C.699屈瑕が羅を討つため出陣した。鬭伯比はこれを見送った時、 「莫敖(屈瑕)はきっと負けるであろう。驕り高ぶって足の挙げ方が高い」と言い、武王に見えて軍勢を増加するよう進言したが、武王は許さなかった。
武王の夫人鄧曼はこれを聞いて「鬭伯比は軍の増加のことを言っているのではないでしょう。 おそらく莫敖の驕りを抑えるよう言い聞かせるべきであると申しているのでしょう。どうして鬭伯比は楚の全軍をあげて出陣したことを知らないことがありましょう」 と言った。武王は屈瑕に引き返すよう使者を出したが、追いつけなかった。はたして屈瑕は羅に敗れて自殺した。
唐眜(トウバツ)【将軍】
楚の将軍。〜B.C.299。
B.C.299秦が斉・韓・魏とともに楚を攻め、この戦いで唐眜は殺される。
闘班(トウハン)【公子】
楚の臣。若敖の子。申公。射師。
B.C.666秋、楚は兵車600乗を率いて鄭を討ち、桔シツの門に攻め入った。
子元闘御疆闘梧耿之不比は旗をおしたてて先陣となり、 闘班・王孫游王孫喜はしんがりとなった。楚軍は外城の純門に群がり攻め入り、 市場まで攻め入ったが、内城の門は開け放たれ、鄭の兵卒は楚の言葉で話しあっていた。鄭の落ち着き払った様子を見て、子元は「鄭には人物がいる」 と言って進撃しなかった。
そのうち斉、宋の援軍がやってきたので、楚軍は夜にまぎれて逃げ去った。
B.C.664子元が王宮に住んで文王の未亡人息嬀をものにしようとした。闘班は諌めたが、 子元は怒って闘班を捕えて手かせの刑にした。
秋、子元は叛乱を起こし王宮を占拠したが、闘班はこれを殺した。
闘般(トウハン)【宰相】
楚の宰相。令尹。子文の子。子揚ともいう。
子文が没すると、闘般は令尹となり、闘椒が司馬、蔿賈が工正となった。
蔿賈が闘般を讒言して殺したため、闘般は殺された。
闘緡(トウビン)【武官】
楚の臣。
文王は権を討ち、闘緡にその地を治めさせたが、闘緡は権の民を率いて謀反を起こした。
文王は権を包囲して、闘緡は殺された。
東不訾(トウフシ)【神】
東不訾はの7人の友人であった。
悼夫人(トウジン)【女官】
悼公の夫人。晋平公の母。杞の公女。
B.C.544晋平公は母が杞から嫁いだ関係から、杞の城壁工事をすることにした。
女叔斉が魯を聘問して、魯が以前に杞から攻め取った田地を杞に返すよう要求したが、魯襄公は一部しか返還しなかった。 そのため悼夫人は腹を立て「斉(女叔斉)のやつが魯から賄賂をもらったのであろう」と讒言した。女叔斉は晋平公からこのことを聞くと 「魯は周公の子孫であり、晋と仲良くしてあるので、杞を魯の領土としても結構なぐらいです。魯君や卿大夫は次々と来朝しています。 どうして魯を痩せさせて杞を肥えさせる必要がありましょう」と言った。
董父(トウホ)【武官】
の臣、有飂の臣。姓は己。叔安の子。
董父はたいへん竜を好み、竜のほしがるものを求めて食べさせることができたため、たくさんの竜が彼になついた。そこで董父は竜の飼育によって舜に仕えて、 董姓を賜わり、拳龍氏と名乗って鬷州に封じられた。鬷夷氏はその子孫である。
闘勃(トウボツ)
子上
到満(トウマン)【武官】
秦の臣。
B.C.312魏を援けて燕を攻める。
鄧曼(鄭)(トウマン)【女官】
荘公の夫人。
鄧の人。
祭仲は荘公のために鄧曼を迎え、鄧曼は太子忽(昭公)を生んだ。
鄧曼(楚)(トウマン)【女官】
武王の夫人。文王の母。
鄧曼は鄧から武王に嫁して、文王を生んだ。
B.C.699屈瑕が羅を討つため出陣した。鬭伯比はこれを見送った時、 「莫敖(屈瑕)はきっと負けるであろう。驕り高ぶって足の挙げ方が高い」と言い、武王に見えて軍勢を増加するよう進言したが、武王は許さなかった。
鄧曼はこれを聞いて「鬭伯比は軍の増加のことを言っているのではないでしょう。 おそらく莫敖の驕りを抑えるよう言い聞かせるべきであると申しているのでしょう。どうして鬭伯比は楚の全軍をあげて出陣したことを知らないことがありましょう」 と言った。武王は屈瑕に引き返すよう使者を出したが、追いつけなかった。はたして屈瑕は羅に敗れて自殺した。
B.C.690、3月、武王は楚独特の陣立てを定め、はじめて軍に戟を与えて新兵器とし、随を討とうとした。
出陣の時、武器を廟でものいみしようとしたが、武王は胸騒ぎを覚えたので、鄧曼に言った。
武王「心が動揺して落ち着かない」
鄧曼「王のご運はもうおしまいです。亡くなられた君はそれをご存知で、王の心を動揺させられたのです。王が敵の手にかからずに旅先でおかくれになるならば幸いです」
武王は出陣したが、はたして樠木の下で没した。
棠無咎(トウムキュウ)【武官】
斉の臣。崔杼の家臣。棠公の子。母は東郭姜。〜B.C.546。
崔杼は妻に先立たれて東郭姜を後妻に迎えて崔明を生んだ。 棠無咎は東郭偃とともに崔氏を助け、崔杼が病身であったため、 彼らは崔成の後継ぎをやめさせて崔明を立てた。崔成は崔の町に引退して老後を送りたいと願い出たたため崔杼はこれを許した。 ところが棠無咎と東郭偃は「崔は祖先の廟のある所で、必ず世継の保つべきところだ」と言って崔の町を与えることを拒んだため、崔成は彼らを恨んだ。
B.C.546、9月5日、棠無咎は東郭偃とともに崔成・崔彊に殺された。
東門子家(トウモンシカ)
公孫帰父
東門襄仲(トウモンジョウチュウ)
襄仲
東門無沢(トウモンムタク)【文官】
斉の臣。姓は東門、字は無沢。
斉が魯に攻め込み、斉景公が許に近づいた時に、東門無沢はこれに見える。魯の年穀を問われて「陰冰は凝り、陽冰は厚さ五寸」と答え、 晏嬰に絶賛された。
ドウ羊肩(ドウヨウケン)【文官】
石碏の家老。
石厚が陳で捕らえられ、石碏の命で9月、石厚の処刑に立ち会う。
鄧廖(トウリョウ)【武官】
楚の臣。〜B.C.570。
B.C.570春、楚は呉を攻めて鳩玆の戦いに勝利し、衡山に進んだ。鄧廖は子重に命ぜられて将となり、 組甲の士300人と被練の歩兵3000人を率いて呉に深く攻め込んだ。しかし呉は途中で待ち伏せをして楚軍を攻撃し、鄧廖は殺され、逃げることのできた楚兵は、 わずかに組甲の士80人と被練の歩兵300人だった。
鄧陵子(トウリョウシ)【在野】
思想家。墨家の一派。
五侯の北方グループと二派に分かれた。
東陵聖母(トウリョウセイボ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
海陵の人。劉綱を師として道術を学び、出没自在に形を変えて変化することが出来た。
鬭廉(トウレン)【武官】
楚の大夫。
B.C.703鄧の邑ユウの人が巴の使者韓服と楚の使者道朔を殺した。
夏、鬭廉は武王の命で巴軍と連合してユウを包囲した。鄧の養甥聃甥がユウを救援し、 三度巴軍を追い払ったが、楚軍には勝てなかった。
鬭廉はわざと逃げるふりをして鄧の軍を誘い込み、巴軍とこれを挟撃して大破し、ユウ軍を夜のうちに壊滅させた。
B.C.701莫敖屈瑕は弐・軫の二国と会盟しようとしたが、鄖が随・絞・州・蓼と連合して楚を攻撃しようとしていた。 屈瑕はこれを心配したが、鬭廉は言った。
鬭廉「鄖は自国内で陣をかまえているので、油断しているにちがいないし、四国の援軍をあてにしているので戦意にかけているでしょう。 あなたは郊郢に軍をとどめて四国の軍を防ぎなさい。私は精鋭を率いて鄖軍に夜襲をかけましょう。もし鄖軍を破れば、四国は離反するでしょう」
屈瑕「いま楚の軍勢は足りないから、王に願い出たらよいではないか」
鬭廉「軍の勝利は人心の和合によるもので、軍の多さではありません」
屈瑕「それなら占ってみよう」
鬭廉「占いは心のまどいを決めるものです。心にまどいがない時は、これを用いる必要はありません」
ついに楚軍は鄖軍を蒲騒で破り、予定通り弐・軫と盟いを結んで帰国した。
東楼公(トウロウコウ)【王】
杞公(初代)。夏后の後裔。
武王が商王朝に勝つと、禹の子孫を探し出し、東楼公を杞に封じて、夏后氏の祭祀を奉じさせる。
唐勒(トウロク)【文官】
楚の臣。
文辞を好み、賦の作者として名声があった。
杜回(トカイ)【武官】
秦の臣。力士。
B.C.594晋が潞で戦っている隙に秦は晋を攻めた。しかし杜回は魏顆に捕らえられ、秦は破られた。
屠蒯(トカイ)【文官】
晋の臣。膳宰(料理人)。
B.C.533、6月、智盈が没したが、晋平公はまだ葬らないでいるうちに酒を飲み音楽を催した。 屠蒯は師曠に酒を飲ませて「お前はわが君の耳というべき者で、わが君に代わって聞くことを掌る者である。 わが君は手足という宰相を欠いたのに、お前は音楽を奏した。これでは耳さとく聞くことを掌らぬということだ」と言った。 屠蒯はまた寵臣の嬖叔に酒を飲ませて「お前はわが君の目というべき者で、わが君に代わって見ることを掌る者である。 わが君のふるまいは宰相の亡くなった時にやるべきものではない。しかるにお前は見て見ぬふりをしている。これでは見ることを掌らぬということだ」と言った。 そして「わたしは料理人として味を掌っておりながら、二人の侍臣が役目を誤っても処罰しなかったのは、わたしの罪である」と言った。晋平公はこれを聞いて喜び、 酒宴をやめた。
B.C.525秋、屠蒯は晋頃公の命で周に遣いして、いつわって洛水と三塗山で祭りを行いたいと申し入れた。 晋は祭りをすると見せかけて陸渾の戎を安心させ、これを討ち滅ぼした。
杜赫(トカク)【文官】
楚の臣。
B.C.341斉の田忌が楚に出奔してきた。杜赫は斉の騶忌のために、 田忌を楚に留まらせようとして楚宣王に説いて「田忌を江南の地に封じて斉に帰らないことを示せば、 斉の騶忌は国をあげて感謝するでしょう。また田忌も封地を賜わったら、王のご恩を感じましょう。もし田忌が後日、斉に帰っても斉をあげて楚に仕えましょう。 これこそ二忌を利用する良策です」と言い、田忌を江南に封じるよう進言した。そのため田忌は江南の地に封じられた。
杜赫は楚の将軍景翠を東周で重んぜられるようにしたいと思い、東周の君に説いて 「君は宝物や珠玉をもって、諸侯の機嫌をとっておられますが、相手をよく見なければなりません。重臣に与えても、有り難く思わないでしょうし、 末端の士に与えても無駄になりましょう。ですから君は、今は窮迫しているが、末はかならず重臣になるような人物に与えられるのがよろしいでしょう」と言った。
堵寇(トカン)【武官】
鄭の臣。名は寇、字は兪弥。堵叔ともいう。
B.C.653斉桓公が鄭を討とうとしたとき、管仲が 「鄭には叔詹・堵叔・師叔という良臣が政治を行っているので攻め取ることはできません」 と諌めたので、桓公はとりやめた。
B.C.640夏、滑が鄭に背いて衛に服従したので、堵寇と公子士泄は鄭文公に命ぜられて滑を討った。
B.C.636秋、堵寇は鄭文公に命ぜられて士泄とともに滑を討った。
屠岸夷(トガンイ)【文官】
晋の臣。
B.C.651、晋献公が没すると、 里克邳鄭らは三公子の徒党を率いて乱を起こして、 奚斉悼子を殺した。
里克は屠岸夷を遣って重耳を迎えさせようとした。屠岸夷は重耳に「国は乱れ民は乱れています。国を得るのは乱れた時にあり、 民を治めるのは乱れた時にあります。あなたはなぜ帰国されないのですか」と言ったが、重耳は聴き入れなかった。
屠岸賈(トガンカ)【文官】
晋の臣。司寇。〜B.C.583。
霊公に寵幸され、景公の時に司寇となった。
B.C.598屠岸賈は趙氏を誅しようとして、司寇となると、霊公を弑した犯人を取り調べ、趙盾に疑いをかけた。
屠岸賈は諸将に「盾は事件を知らなかったといえ、犯人一味の頭目です。臣下の身で君を弑しながら、その子孫が朝廷にいるようでは、 どうして罪を懲らしめることができましょう。誅したいと思います」と言った。
韓厥が「趙盾は都の外遠くにいましたし、当時先君も盾に罪はないと思われたので、誅殺されなかったのです。 いまその子を誅すのは先君のご意向にそむいて、みだりに誅するものです。 また君にも申し上げないで処置するのは、君を無視するものです」と反論した。
韓厥はまた趙朔に、 はやく逃げるよう勧めたが、趙朔は「あなたが必ず趙氏の祀りを絶やさないというのなら、わたしは殺されても恨みはない」と拒否した。
屠岸賈は景公の許可を得ず、勝手に将軍たちと共に趙氏を下宮(私邸)で襲い、趙朔、趙同趙括趙嬰斉を殺して、その一族を滅ぼした。
B.C.583韓厥が趙氏の孤児を景公に紹介し、趙氏の復興を請うた。景公がそれを認めたため、屠岸賈は諸将に攻め殺され、一族は滅ぼされた。
杜キ(トキ)【女官】
文公の夫人。公子の母。
文嬴の子襄公が晋君となったので、杜キは文嬴に譲って自分より上に立て、 さらに文公が狄にいたとき世話になったということで、季隗に譲って自分はその下となった。 そのため夫人としての序列は第4番目となった。
杜キはこのように立派であったため、文公はその子雍を可愛がって秦に仕えさせており、秦は公子雍を亜卿とした。
堵狗(トク)【文官】
鄭の臣。
B.C.558堵狗の一族である堵女父が処刑された。
12月、鄭人は堵狗が妻の里の范氏と謀って謀叛することを恐れ、堵狗の妻を奪って晋の范氏のもとへ送り返した。
特宮(トクキュウ)【文官】
晋の臣。七輿大夫のひとり。〜B.C.650。
B.C.650晋恵公が即位すると郤芮は、 邳鄭と七輿大夫を殺した。
徳公(杞)(トクコウ)【王】
杞公(8代目)。共公の子。
徳公(秦)(トクコウ)【王】
秦公(6(11)代目)。武公の弟。B.C.711〜676。
B.C.678武公が没すると、雍の平陽に葬った。
初めて人を殉死させ、死んだ者が66人あった。
B.C.677初めて雍城の大鄭官におり、犠牲三牢を供えて鄜畤を祠った。
梁伯・芮伯が来朝する。
この年、徳公は櫟陽に遷都した。
B.C.676初めて伏の節をおこない、狗を殺して蠱をふせいだ。
犢子(トクシ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
鄴の人。ある時には壮者のごとく、ある時には老人のごとく、美貌にみえ、また醜くも見えたので、当時の人々は仙人であることを認めていた。
陽都女という酒屋の娘がいたが、左右の眉が生え連なり、耳が細く長かったので、天人だといわれていた。たまたま犢子が立ち寄ったところ、陽都女がこれを見染め、 引き留めて身の回りの世話をするようになった。村人たちが彼らの後をつけて追いかけたが、誰も追いつくことができなかったという。
督戎(トクジュウ)【武官】
欒盈の臣。〜B.C.550。
B.C.550、4月、督戎は欒盈に従って曲沃で叛乱を起こしたが、斐豹に殺された。
杜扃(トケイ)【文官】
斉の臣。
景公に仕える。晏子春秋にその名がみえる。
屠撃(鄭)(トゲキ)【文官】
鄭の臣。
B.C.526、9月、鄭で日照りが続いたため、鄭定公は屠撃・祝款竪柎に命じて桑山で雨乞いの祭りをさせ、 山の木を切ったが雨は降らなかった。子産は「山で祭りをするのは山林を守るためだ。その木を切っては罪が多い」と言って、 3人の役と領地を取り上げた。
屠撃(晋)(トゲキ)
先縠
杜原款(トゲンカン)【文官】
晋の臣。太子申生の太傅。〜B.C.656。
B.C.656驪姫の謀略により申生が献公暗殺を計画したとして、責任をとらされて誅殺されることとなった。 杜原款は死ぬ間際に宦官のをやって申生に告げさせた「讒言のためにその身は死んでも、かまいません。後までもなお令名が残ります。 死んでも人に愛され、死後も民に思慕されるのは、よろしいではありませんか」
ついに申生は自殺した。
堵敖(トゴウ)
荘敖
杜溷羅(トコンラ)【武官】
晋の将軍。
B.C.575鄢陵の戦いで韓厥は鄭成公を追撃した。杜溷羅は韓厥の御者であったが、 「早く追いましょう。鄭伯の御者は後ろを振り返ってばかりで、馬のことを考えていません。きっと追いつけます」と言ったが、韓厥は 「二度も国君に恥をかかせてはならない」と言って追撃するのをやめた。
杜摯(トシ)【文官】
秦の臣。
B.C.359商鞅が法律を変え、刑罰を整え、内は人民に耕作を務めさせ、 外は戦士の賞罰を明らかにすることを秦孝公に勧めた。 孝公はこの意見をいれたが、杜摯は反対し、たがいに論争した。
杜摯は「利益が100倍なければ法を変えず、効果が10倍なければ器(礼)は易えないといいます」と反対した。
商鞅は「殷の湯王、周の武王はいにしえにのっとらないで王となり、夏・殷は礼制を変えないのに滅びました。いにしえに背くからといって悪いとするにはあたりません」 と答えた。
結局、孝公は商鞅の法を用いた。
杜摯(トシ)【武官】
秦の臣。
王稽が大将、杜摯は副将として趙の邯鄲を攻めたが、17ヶ月経っても落とせなかった。 さらに王稽は軍の役人に慰労の品を下賜しなかったので、役人は王稽と杜摯が謀反をたくらんでいると讒言した。昭襄王は大いに怒って王稽を誅殺しようとした。
(秦孝公と論争した杜摯と同一人物であるかもしれないが、秦が邯鄲を攻めるのは紀元前3世紀中頃であるから、 時代が合わないため、異なる人物とした>
堵叔(トシュク)
堵寇
堵女父(トジョホ)【武官】
鄭の臣。〜B.C.558。
子駟が自分の田地の溝を手入れした時に、司氏・堵氏・侯氏・子師氏は田地を侵食されたため、堵女父はこれを恨んだ。
B.C.563、10月14日、堵女父は侯晋尉止尉翩司斉子師僕司臣らとともに叛徒を率いて公宮に攻め入り、 子駟・子国子耳を殺した。
子駟の子子西が反撃してきたので、堵女父は宋に亡命した。
B.C.558、2月、鄭がたびたび宋に亡命した堵女父らの返還を要求したので、宋は了承して堵女父らを鄭に送り返した。堵女父は処刑されて塩漬けにされた。
杜洩(トセツ)【文官】
魯の臣。叔孫家の家老。
B.C.538、12月、叔孫豹が没した。魯昭公は杜洩に命じて叔孫豹を葬らせた。 豎牛は杜洩を叔孫家から追い出そうとして、 叔仲帯と季氏の家臣南遺に物を贈ったが、失敗した。
B.C.537、1月、季武子が中軍を廃止して、文書をもって「あなたはかねて中軍を廃止するお考えであったが、今廃止しました」と叔孫豹のひつぎに報告した。 杜洩は「わが主人はそれを望んではおりませんでした」と言って、その文書を地に投げ棄て、家臣らを引き連れて叔孫豹の霊柩に対して哭泣した。
季武子が叔孫豹を魯の西門から葬るよう命じたが、杜洩は「卿のひつぎは朝廷の北門から出すのが魯の礼でございます。 あなたが執政になってから礼を改められていないのに今変更されては、後日このことで殺されはしないかと恐れます」と反対し、葬式を済ませるとそのまま国を立ち去った。
杜伯(トハク)【将軍】
周王朝の将軍。〜B.C.785。
宣王の命で西戎、犬戎、荊蛮、淮夷、戎を討伐して王朝の権威を回復させる。
B.C.785無実の罪で宣王に死罪とされた。杜伯は死の直前に「私は無罪である。我が君は私を殺しても罪とならないが、 もし死者に知覚があるとすれば3年後それを我が君にお知らせしよう」と復讐を誓った。
B.C.782、3年目のある日、宣王は諸侯を集めて大掛かりな狩をした。その真昼間に、杜伯は白馬に牽かせた白木造りの戦車に乗って突然姿を現した。朱の衣服をまとい、 朱の冠をかぶり、朱塗りの矢を小脇に挟んで宣王を追いかけて、これを狙撃した。杜伯の矢は宣王の心臓に命中し、さらに背骨までも打ち砕いた。
人々は、杜伯の亡霊が宣王を殺したのだといいあった。
土伯(ドハク)【神】
后土(黄泉の国)の侯伯。
その身体は九つに曲がっており、土竜と考えられる。三つ目で虎の頭をもち、身体は牛のようで、人の肉を好んで食べるという。
徒父祺(トホキ)【武官】
趙の臣。
B.C.257秦が西周を討ったので、兵を率いて国境を出た。
堵兪弥(トユビ)
堵寇
頓弱(トンジャク)【在野】
秦の処士。
始皇帝は頓弱に会うことを望んだ。頓弱は謁見すると、一万金を資金として賜われば韓・魏の重臣を秦に迎え入れることができると説いた。


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