- 斑(ハン)【公子】
- 魯の公子。般とも書く。荘公の子。母は孟女。〜B.C.662。
斑は大夫梁氏の娘を愛していたが、馬飼い役人犖が彼女と戯れていたのを見て怒り、斑は犖を鞭打った。
荘公はこのことを聞くと「犖は大力がある。やはり殺したほうがよい。そのままにしておいてはならない。」と言ったが、斑は犖を殺す機会がなかった。
B.C.662荘公が没した。公子叔牙が慶父を推挙したが、
季友を推挙したため、斑は即位した。
10月2日、斑は犖に党氏の邸宅で殺害された。
- 范(ハン)【公子】
- 趙の公子。〜B.C.350。
B.C.350叛乱を起して邯鄲を攻めるが敗れて、戦死する。
- 般(ハン)【神】
- 古代の神。『山海経』にみえる。
弓矢を作ったとされる。
- 繁(ハン)【公子】
- 楚の公子。〜B.C.508。
B.C.508、10月、呉が豫章を攻め破り、勢いに乗じて巣を攻め囲んだ。巣を守っていた公子繁は敗れて戦死した。
- 班(ハン)
- →子如
- 潘尫(ハンオウ)【文官】
- 楚の臣。師叔ともいう。
B.C.611戢黎は命ぜられて庸を攻めたが、反撃にあって部下の子揚窻が捕えられた。
子揚窻は3日して逃げ帰り「庸は大軍で多くの蛮夷が集まっています。句澨の本陣に引き返して楚王の軍を動かし、連合して進撃したほうがよいでしょう」と進言した。
しかし潘尫は「それはいけない。しばらくこちらの弱いところを見せ、彼らを得意にさせよう。
先君蚡冒が陘隰を服従させたやり方です」と言った。そこで楚軍は庸軍と戦い、7回戦って7回とも敗走した。
庸軍は楚をあなどって裨、鯈、魚の3邑の兵だけで楚軍を追撃し、備えもしなかった。
楚荘王が急行して庸を挟撃してこれを滅ぼした。
B.C.597楚荘王が鄭を許し、これと和平することになったとき、潘尫は和平の使者として城に入り、鄭と盟約した。
- 范鞅(ハンオウ)【宰相】
- 晋の宰相、中軍の将。士鞅、范叔、范献子ともいう。公族大夫。范匃の子。
B.C.559夏、晋は諸侯と共に秦を討った。諸侯が退却したとき范鞅は欒鍼とともに突撃して、
欒鍼は戦死したが、范鞅は生還した。そのため欒黶が范匃に「わたしの弟は突撃を望まなかったのに、
お前の子が呼びかけたのだ。お前の子を追放しなければ、わたしが殺してやろう」と言ったので、范鞅は秦に出奔した。
范鞅は秦景公と面会した。
景公「晋の大夫でだれが一番先に滅びるであろうか」
范鞅「きっと欒氏でしょう」
景公「おごり高ぶっているためか」
范鞅「そうです。欒黶のおごりと暴虐ぶりはたいへんなものですが、それでも災いから逃れることができましょう。
きっとその子の盈の時に滅びるでしょう」
景公「それはどういうわけか」
范鞅「武子(欒書)の恩徳は民に及んでいますので、その子を滅ぼしたりはしないでしょう。しかし欒黶が死んだら、
盈が立派な徳をもっていても広く民に行き渡らないから、欒黶の恨みが出てくるでしょう。欒氏の滅びるのはその時です」
秦景公は道理にかなった言葉だと感服し、范鞅のために晋にお願いして帰国させた。しかしこのことで范鞅は欒黶を恨んだ。
B.C.557、1月、晋平公が即位すると、范鞅は祁奚;・韓襄・
欒盈とともに公族大夫に任じられた。しかし范鞅は欒盈と仲が悪かった。
B.C.555晋は諸侯とともに斉を討った。晋軍は逃走する斉軍を追撃した。范鞅は雍門に攻め込んだ。
12月9日、范鞅は臨淄の西北門である揚門に攻め入った。
B.C.552欒盈の母叔キが欒盈を讒言した時、范鞅はそれは事実であると范匃に告げた。そのため范匃は欒盈を追放した。
B.C.550欒盈が斉の進軍に呼応し、絳に侵入した。范鞅は范匃の命で魏献子を迎えに行き、叛乱に加わらないように言い、
「欒氏が賊を率いて都に攻め入りました。わたしの父と二、三の大夫が君のそばに居りますが、あなたをお迎えせよとのこと。どうか一緒に乗ってください」と言うなり、
魏献子の帯をつかまえて公宮に連れ帰った。欒氏は公門に登ってきた。范匃は范鞅に向かって「敵の矢はわが君のお部屋まで来ている。討ち死にの覚悟で戦え」と言った。
范鞅が剣を振るって兵を指揮したので、欒氏は退却した。范鞅は兵車を整頓し乗車して欒氏を追い、敵方の欒楽が進撃してくるのに出会った。
范鞅は「楽よ、しっかりやれ。死んでもお前のことを天に訴えてやるぞ」と言ったので、欒楽は弓で范鞅を射たが命中しなかった。二の矢をつごうとしたとき、
兵車が槐の木の根に乗り上げて顚覆し、范鞅がその肘を断ち切って殺した。晋人は曲沃を包囲して欒盈を殺し、その一族や仲間を残らず殺した。
訾祏が死んだ。范匃は范鞅に「鞅よ、わしは訾祏が居たから晋を補佐し、家を治めることができた。
おまえはまだ一人でやれる能力はないし、相談する相手もいない。どうするつもりじゃ」と言った。范鞅は「わたしは学問を敬い仁者を好み、正道を好み、衆人に相談し、
正しいと思っても必ず目上の人の意見に従います」と答えた。范匃は「災難を免れるであろう」と言った。
B.C.544范鞅は魯を聘問し、杞の城壁工事の援助のお礼をした。
B.C.537夏、莒の牟夷が牟婁・防・玆の3邑をもって魯に亡命し、魯はこれを受け入れた。莒が晋にこれを訴えたため、
晋平公は晋に来ていた魯昭公を捕らえようとした。范鞅は「来朝した者を捕らえることは人をだまして捕らえるようなものです。
魯君を帰して、時が経ってから軍を率いて討つことにしましょう」と言った。
B.C.535、8月、衛襄公が没した。ある大夫が「衛はわが国に対して睦まじく仕えてきましたが、
晋は礼遇せずに孫林父をかばったため、諸侯は晋に対して二心を抱いたのです」と進言した。
范鞅はこれを韓宣子に伝えると、韓宣子は喜んで范鞅を衛に遣わして弔問させ、前に奪った戚の地を衛に返上した。
B.C.521夏、范鞅は魯を訪聘した。そのとき具山と敖山のことを魯人に尋ねたところ、
魯人は魯の献公と武公のいみ名であるとしてその土地の名で答えた。
范鞅は「人は学ばなければなりません。私が笑われたのは、ただ学ばなかったからです」と言い、反省した。
魯の季平子が役人に命じて斉の鮑国に対した礼と同じ礼で范鞅を接待させた。
范鞅は立腹して「鮑国の位は私より低く、その国もわが国より小さい。これはわが国を卑しむものだ。このことをわが君に報告しよう」と言ったため、
魯人は恐れて4つの御馳走を増やして11牢にした。
B.C.519范鞅は晋が捕らえていた叔孫婼に賄賂を取ろうとして冠がほしいと言い、
冠をふたつもらった。
B.C.518秋、鄭の子大叔が来聘した。范鞅は「王室の騒ぎをどうしたらよいだろう」と言うと、
子大叔は「老いぼれのこの身は、自分の国のことさえ治めることができません。どうして王室のことを考える暇がありましょう。これは大国の心配すべきことで、
わたしどもにはわからないことです。あなた様がどうか早く処理して下さい」と答えた。范鞅は諸侯の非難を恐れて韓宣子と相談して諸侯に会合の命を下し、
日取りを来年に定めた。
范鞅の妹董キは董叔に嫁いでいたが、董キが「夫がわたくしを敬いません」と言ったので、
范鞅は怒って董叔を捕らえて、庭の木に縛りつけた。
B.C.515秋、范鞅は宋の楽祁犂、衛の北宮喜、曹の人、邾の人、滕の人と扈で会合した。
宋と衛は魯昭公を都に入れることを強く願ったが、范鞅は季孫氏から賄賂を受けていたため
「魯君は斉にすがっているが3年経っても成功していない。ところが季氏は国の人望を得ており淮夷もこれに味方し、10年も支える備えがあり、
斉・楚の援助もあり、国を守り抜く決意がある。これを討って魯君を入れようとするのは難しいことだと思いますが、ご両人に従って魯を囲みましょう。
成功しなかったらいさぎよく死にましょう」と言った。楽祁犂と北宮喜は恐れて願いを取りさげた。そこで范鞅は他の小国にも話をして、
魯昭公を入れることは難しい旨を晋頃公に報告した。
B.C.511春、晋定公は軍を率いて魯昭公を魯に納れようとすると、
范鞅は「季孫を呼び寄せて、来なかったら不忠の臣としてこれを討ちましょう」と言ったため、晋人は季平子を呼び寄せた。
范鞅はこっそりと人を遣わして内意を告げ「あなたは必ずやってきなさい。とがめを受けないようにわたしが保証します」と言った。
4月、季平子は晋にやってきて晋人と魯昭公に会ったが、魯昭公は帰国することを断った。
B.C.510周が晋に使いを遣わして成周に城壁を築きたいと申し入れた。范鞅は魏献子に「周を守備するよりは城壁を築くほうがよい。
後に事が起きても晋は知らぬ顔をしていてもよい」と言うと、魏献子は承諾した。
B.C.509、1月、魏献子が沢地に出かけて焼き狩りをしてやけどにあい、引き返す途中の甯で没した。そこで范鞅はかわって執政となった。
B.C.506、3月、晋・魯・宋・衛・陳・鄭・許・曹・莒・邾・頓・胡・滕・杞・小邾が楚の召陵で会合して楚を討つ相談をした。
荀寅が蔡昭侯に財貨を出すように要求したが、蔡昭侯はことわった。
そこで荀寅は范鞅に「今やわが国は危険であり、諸侯が二心を持っている。このような時に楚を討とうとするのは困難です。大雨が降る時で病気の多く出る時であり、中山は服従していないのに、
楚との盟いを破って恨みを受けることになる。蔡侯に討つことを断るにこしたことはありません」と言い、そこでそのため晋は蔡のために楚を討つことをことわった。
秋、范鞅は衛の孔文子とともに軍を率いて鮮虞を討った。
B.C.505冬、范鞅は軍を率いて鮮虞を包囲した。
B.C.504夏、魯の季桓子と孟懃子が鄭の捕虜を献上してきた。
孟懃子が「陽虎がもし魯にいられなくなったら、晋の中軍の司馬にしていただきたい」と言うと、范鞅は「わが君にはそれぞれ官職が決まっていて、わたしは関知できません」と答えた。
范鞅は趙鞅に「魯人は陽虎を嫌っている。孟孫は陽虎が亡命する兆しを見抜いて晋に行くものと思っている」と言った。
8月、宋の楽祁が晋に遣いして范氏の家ではなく趙氏の家に宿泊し、趙鞅に楊の楯60を献上した。范鞅は晋定公に
「君命を受けてまだ任務を終えていないのに、非公式の宴を開いて酒を飲むとは、君を君と思わないやり方です」と言って楽祁を捕らえた。
B.C.502趙鞅が晋定公に「諸侯のうち宋だけが晋に仕えています。しかるに今その使者を捕らえておくのはよくないことです」と申し上げた。范鞅は「3年もの間、
捕えておいて何のわけもなしに帰したならば、宋はきっと晋に背くであろう」と言って、范鞅はこっそりと楽祁に
「わが君は宋が背きはしないかと心配してあなたを引き留めたのです。あなたのかわりに御子息をよこしてください」と言ったが、楽祁は従わなかった。
楽祁は宋に帰ったが、その途中の大行山で亡くなった。范鞅は「宋はきっと背くであろう。そのなきがらをとどめて宋との和睦を求めるのがよいでしょう」と言って、
そのなきがらを州にとどめた。
4月、斉が魯を討ったため范鞅は趙鞅と荀寅とともに魯を救った。
秋、范鞅は成桓公と会合して鄭に攻め入り、虫牢を包囲した。晋軍は勢いに乗じて衛に攻め入った。
B.C.497子の范吉射が叛乱を起したので、范鞅は隠退し、范家は急速に衰微に向った。
献子と諡される。
- 樊於期(ハンオキ)【将軍】
- 秦の将軍。
樊於期は秦に罪を得て、燕に逃亡すると、燕の太子丹はこれを受け入れた。
B.C.227太子丹は秦王政を暗殺しようとし、荊軻にそれを委任した。
かくて、日数が経ったが、荊軻は出立しようとしなかった。太子丹は恐れて「秦兵が易水を渡ったなら、あなたにお願いしても、どうしてできましょうや」と言った。
荊軻は「いま秦に行っても信用がなければ、秦王に親近することはできません。ところで、かの樊将軍の首には、金千斤と一万戸の食邑が懸賞されているとか。
もし樊将軍と燕の督亢の地図を持参して秦王に献上するなら、必ず引見いたしましょう」と言った。しかし太子丹は樊於期を殺すことをためらった。
荊軻はひそかに樊於期に会い「秦のあなたに対する仕打ちは、まことに深刻です。宗族はすべて殺戮され、金千が懸けられています。将軍はどうなさるおつもりですか」と言った。
樊於期は天を仰いで嘆息し、涙を流して「どうすればよいか、私にもわからないのです」と言った。
荊軻は「いま燕国の憂いを解き、将軍の仇を報いる策があります。あなたの御首をいただいて秦王に献ずるのです。秦王は喜んでわたしを引見しましょう。
そのとき私が秦王を刺し殺せば、将軍の仇は報いられるでしょう」と言った。
樊於期は「私はいま教えを承ることができた」と言い、みずから首をはねて死んだ。
- 范匃(ハンカイ)【宰相】
- 晋の正卿。中軍の佐。士燮の子。范宣子ともいう。〜B.C.548。
B.C.575鄢陵の戦いで、楚軍が晋軍を圧迫して布陣してきたので晋の軍吏は恐れた。このとき范匃は走り出て「かまどを崩し、井戸を埋めて広場を作れば、
敵との距離を保つことができます」と進言した。
父の士燮は戈を持って范匃を追いかけて「国の存亡は天命である。小僧に何が分かるか。しかも聞かれもしないのに発言するのは罪である。必ず処刑されよう」
と言ってしかった。結局、晋は楚に勝利した。
B.C.574欒書と荀偃は晋厲公を匠麗氏の邸に包囲して、
范匃と韓厥にこれに加わるよう呼び寄せたが、范匃は断った。
B.C.573夏、范匃は魯を訪問して、魯成公が晋を訪問した返礼をした。
B.C.570范匃は晋悼公の命で斉に赴き、斉霊公に会合に参加するよう呼びかけたが、
斉霊公は来なかった。
B.C.568秋、楚が陳に欲を求めていた令尹子辛を処刑した。范匃はこれを聞いて「わが国は陳を失うであろう。
楚はやり方を変えてすぐに陳を討つだろう。陳は楚に近いから、楚に降らないわけにはゆくまい。ただ陳を味方にしておくことは、わが国のやるべきことではない。
陳を失ってこそ、かえって幸いである」と言った。
B.C.565冬、范匃は魯を聘問して魯襄公が晋を訪問したことに返礼するとともに、鄭に軍を出すことを告げた。
このとき范匃は標有梅の詩を歌って、戦いの時期に遅れないで欲しいという意を寓した。魯の季武子はその意を悟り
「どうしてその時期に遅れましょうか。わが君と晋君の関係は全く一体です。喜んでご命令をお受けいたします」と答えた。
B.C.564、10月、晋は諸侯とともに鄭を討った。范匃は智罃とともに魯の季武子、斉の崔杼、
宋の皇鄖をつれて中軍を率いて鄭のセン門を攻めた。
B.C.563范匃は荀偃とともに偪陽を討って、
宋を晋の与国にするべく努力した宋の向戌に与えて欲しいと願い出た。智罃が「偪陽の城壁は小さいが堅固である。
勝っても武勇とは言われないし、勝てなかったら笑いものにされる」と反対したが、范匃は強く願ったので、夏に諸侯と共に偪陽を討った。
諸侯は偪陽の攻略に長い時間かかった。范匃と荀偃は智罃に「長雨になりそうです。帰ることができなくなるかもしれませんので、
軍を引き揚げましょう」と言った。智罃は立腹して肘掛を投げつけて「お前たちは偪陽を向戌に与えると決めてかかってわたしに告げたのだ。
そのとき許さなければお前たちが命令に背いてはと心配して、お前たちのいいなりになったのだ。わが君にお勧めして軍を起こさせ、この老骨まで引き連れてきたのに、
さしたる武功もなくわたしに罪を着せようとしている。わたしはとても重い責任には耐えられない。7日で勝てなければ、お前たちに責任を取らせるぞ」と言った。
5月4日、范匃は荀偃と共にみずから先に立って矢や石をものともせず、8日に偪陽を滅ぼした。
晋悼公は偪陽を向戌に与えようとしたが辞退したので、宋平公に与えた。宋平公は桑林の音楽をもって晋悼公をもてなした。
智罃がこれを辞退しようとしたので、范匃と荀偃は「魯と宋はたいせつな賓客と祭礼の時に用いている。その桑林の楽でわが君をもてなそうとするのは、
たいへん結構なことではありませんか」と言った。しかし晋悼公はこれを辞退した。
周の卿士王叔陳生が伯輿と政権を争って周室が乱れた。范匃は命ぜられてこの騒ぎを治めようとした。
王叔陳生の家老と伯輿の大夫瑕禽は王室の朝廷で対座して裁判に臨み、范匃がそれをさばくことになった。
家老「くぐり戸から出入りするような賤しい者が上の者をしのぐことをしてはならない」
瑕禽「われわれの祖先の七姓の大臣が平王に従って祭りのいけにえを供えました。その子孫のわたしたちが賤しい者でしたら、
どうして周が東へ落ち着くことができたでしょう。今や王叔が宰相となってからは、政治が賄賂で行われているので、
政権にあずからないわたしどもは賤しい者にならざるを得ないではありませんか」
その結果、王叔陳生が晋に亡命し、単襄公が代わって王室の卿士となり、政治を執ることになった。
B.C.562、7月10日、諸侯は鄭を討って、鄭と亳で同盟を結んだ。范匃は「盟いを慎重にしないと、諸侯を逃がしてしまうであろう。
諸侯は遠征に疲れて得るものが無ければ、二心を起こすだろう」と言った。
B.C.560中軍の将智罃が没した。晋悼公は緜上に軍を集めて范匃を中軍の将に任命しようとした。范匃は辞退して「伯游(荀偃)の方が年上です。
わたしは知伯(智罃)について学んだため、その佐にしていただきました。わたしが優れていたわけではありません。どうか伯游の下にしてください」
と言ったので、范匃はそれまで通り中軍の佐となった。
君子は「譲るということは礼の根本である。范宣子が譲ったので、その下の者がみな譲りあった。かくて晋は数世に渡ってその恩恵を受けた」と評した。
B.C.559春、呉が楚と戦って大敗したことを晋に告げてきた。范匃は命ぜられて魯の叔老・季武子・斉の崔杼・宋の華閲・
仲江・衛の北宮括・鄭の公孫蠆・曹人・莒人・
邾人と鄭の向で会合した。范匃は呉が楚の喪につけこんだという不徳を責め立てて呉人を退席させた。また范匃は莒が楚に内通していたので、
莒の公子務婁を捕えた。さらに范匃は諸侯が晋になついていないのは、戎が楚と内通しているからであると疑い、
戎の君駒支を捕えようとした。駒支が弁解したので、范匃はお詫びをして戎を会合に参加させた。
夏、諸侯が秦を討った。この戦いで欒鍼は退却せずに范鞅とともに秦軍に突撃して戦死したが、
范鞅は生還した。欒黶は范匃に「わたしの弟は突撃を望まなかったのに、お前の子が呼びかけたのだ。
お前の子を追放しなければ、わたしが殺してやろう」と言ったので、范鞅は秦に出奔した。
冬、范匃は命ぜられて、魯・宋・衛・鄭・莒・邾と戚で会合し、衛の公子剽の即位を認めた。
范匃は羽で作った美しい旗を斉から借りたままで返さなかったので、斉は晋に対して二心を抱くようになった。
B.C.557冬、魯の叔孫豹が来聘して斉が魯を討ったことを報告してきた。
しかし晋人はまだ先君の忌明けの祭りをしていないことと、許と楚を討って民力が回復していないので、援助できなかったと弁解した。
そこで范匃は叔孫豹に会って「わたしが健在である限り、貴国を安らかにしないことがありましょうか」と言った。
B.C.555、10月、晋は諸侯と共に斉を討った。范匃は斉の析文子に申し入れて「わたしはあなたと懇意の仲であるから実情を申します。
魯と莒は兵車千乗ずつの大軍を率いてそれぞれの方面から攻めることになりました。その大軍が攻めれば、斉侯はきっと国を失います。
あなたはどうして善処しないのですか」と言った。析文子はこれを斉霊公に告げると、
斉霊公は恐れてひとり先に逃げ帰った。
11月13日、范匃は荀偃とともに中軍を率いて京玆を攻め落とした。
B.C.554荀偃が病になったので、范匃は後任を尋ねた。荀偃は荀呉を指名した。
2月20日、荀偃が没した。しかし荀偃は眼を開き、口をつぐんでいたため、物を含ませることができなかった。
そこで欒盈が「あなたが亡くなって、あなたの後をついで斉を討ちましょう」と言うと、
荀偃はやっと眼をつぶり口をあけて含物を受けた。范匃はその場を出て「わたしはまことに浅はかな男であった」と言った。
范匃は荀偃に代わって正卿に任じられた。
魯の季武子が来聘した。范匃はこの席で黍苗の詩を歌って晋が魯を憐れみいつくしむ意を寓した。
夏、范匃は斉を討ち斉の穀まで攻め入ったが、斉霊公が没したことを聞くと引き揚げた。
4月14日、鄭の子蟜が没した。その死を聞いて范匃はB.C.559の秦を討った際によくやってくれたと晋平公に申し上げた。
晋は斉と和睦して、大隧で盟った。范匃は魯の叔孫豹と柯で会合した。
B.C.552欒黶に嫁いだ娘の叔キは、欒黶が死んで未亡人となると、
家臣の州賓と密通し、乱交の末、家がつぶれそうになった。このことを欒盈が心配したので、
叔キは范匃に欒盈が叛乱を企てていると中傷した。そのため范匃は欒氏一族を殺したり、追放したりした。欒盈が亡命すると、
范匃は命令を出して欒氏の臣が君(欒盈)とともに亡命することを禁じ、犯した者は死刑にしてさらすことにした。
范匃はまた箕遺・黄淵・嘉父
・司空靖・ 邴豫・董叔・
邴師・申書・羊舌虎・
叔熊を殺し、伯華・叔向・
籍游を捕えた。しかし祁奚;が
「彼(叔向)こそ実に国家を保つ柱石です。十代の後までもその罪を赦して国のために働く人たちを励まし勧めるようにすべきです」と諫言したので、
范匃は喜び、祁午とともに車に乗って参朝し、叔向を赦してもらった。
B.C.550ある人が「欒氏(欒盈)がやって来た」と言ったので、范匃は驚いた。楽王鮒が「君(晋平公)をお守りして固宮に移られたら、
きっと安全です。それに欒氏には恨みを持つ人が多く、あなたは宰相として国政を執っておられます。欒氏は国外からやってきており、
あなたは宰相です。あなたの方に利があります。何を心配される必要がありましょう」と范匃を激励した。杞孝公の喪があったので、
楽王鮒は范匃に喪服を着用させ、ふたりの婦人のふりをして共に手車に乗って晋平公のところに行き、晋平公を連れて固宮に出かけた。
一方で、范鞅に命じて魏献子を迎えに行かせて叛乱に加わらないようにさせた。范匃は魏献子を出迎えて、
その手を取って曲沃の地をあげようと約束した。斐豹が范匃に「もし(罪を記した)朱書きの記録書を焼いてくれるなら、
欒氏の大力の督戎を殺しましょう」と言ったので、范匃は喜んでこれを許した。
はたして斐豹は督戎を殺した。范匃の手兵は公宮の後ろにいたが、
欒氏は公門に登ってきた。范匃は范鞅に向かって「敵の矢はわが君のお部屋まで来ている。討ち死にの覚悟で戦え」と言った。范鞅が剣を振るって兵を指揮したので、
欒氏は退却した。欒盈は曲沃に逃げ込み、晋人はこれを包囲した。晋人は欒盈に曲沃で勝ち、欒氏の一族や仲間を残らず殺した。
B.C.549春、叔孫豹が晋を訪問した。范匃は近郊に出迎え「私の祖先は舜のときは陶唐氏といい、
夏のときは御竜氏といい、商のときには豕韋氏といい、周のときには唐杜氏といいました。晋が中国の盟主となるや、范氏となり、今日まで代々栄えております。
これを死して朽ちずというのでしょうか」と問うた。叔孫豹は「私の聞いているところでは、それは世禄というもので、不朽というものではありません。
聖徳をそなえた最上の人は立派な徳を立てて世に残し、その次の大賢は、立派な功績をあげて世に残し、その次の賢人は立派な言葉を世に残すもので、
こうした3つのことを不朽というのです」と答えて、范匃をたしなめた。
范匃は晋の政治を行うと、諸侯に多く品物を求めた。
2月、鄭の子産は子西に書面を依頼して、范匃を諌めた。
「もしも諸侯の財貨が晋に集まれば、四方の諸侯は晋から離れるでしょう。そしてもしあなた自身がその財貨を自分の家に集めるとしたら、晋はあなたから離れるでしょう。
わたしは国家の長として民を治める者は、財貨の乏しいことを気にかけないで、立派な名声のあがらないことを憂えるものだと聞いています。それに反して、
あなたが我々の財物をさらい取って生きている、などといわせてよいものでしょうか」と言った。范匃はこれを聞いて大いに喜び、
諸侯に求める幣物を軽くするようになった。
范匃は和大夫と田畑の境界争いをして、決着がつかなかったので、范匃は和大夫を攻めようとして、
羊舌赤・孫林甫・張孟・
祁奚;・籍游・羊舌鮒らに尋ねた。
羊舌赤「わたしの任務は外事であり、軍務ですから、本官以外のことは犯しません。もし軍を出そうとするならわたくしを呼びつけてください」
孫林甫「わたしは旅人の身ですから、あなたの仰せのままです」
張孟「わたしは軍事によって命令を受けますから、軍事でなければわたしの関知するところではありません」
祁奚;「公族と公室と宮中と大夫のことであればわたしの罪です。もし君の官をもってあなたの私事に従うのなら、
あなたは外面では受け入れても内心ではそうではないはずです」
籍游「わたしは斧鉞をもって張老に従います。あの方の命令であれば、どうして叛きましょう」
羊舌鮒「わたくしが彼を殺しますので、お待ちください」
叔向はこれを聞くと「なぜ訾祏に相談されないのですか。
訾祏は実に正直で博学であり、それにあなたの家老です。国家の大事には常法に従い、古老と相談してから実行にうつすものであるといいます」と言った。
汝叔斉が范匃に会って「今、諸侯はみなニ心があるのに、これを憂えずに和大夫を怒るのは、
あなたの任務ではありません」と言った。
祁午が会って「晋は諸侯の盟主であり、あなたはその正卿です。もしあなたが諸侯を安んじ正すならば、
晋国内であなたに従わない者がおりましょうか。なぜ親和しあって、大は諸侯を和し、小は国内の人々と和親しないのですか」と言った。
そこで范匃は訾祏に尋ねた。訾祏は「今あなたが位を継いでから朝廷には姦悪の行為がなく、国家には邪悪の民がなくなったのは、
ご先祖三代の功を享受しているからです。今やまったく平穏無事なのに、和大夫をお怨みなさっています。あなたは何をもって国に報いようとするのですか」と言った。
范匃は喜んで和大夫と境界争いしていた土地を増し与えて仲直りした。
訾祏が死んだ。范匃は子の范鞅に「鞅よ、わしは訾祏が居たから晋を補佐し、家を治めることができた。
おまえはまだ一人でやれる能力はないし、相談する相手もいない。どうするつもりじゃ」と言った。范鞅は「わたしは学問を敬い仁者を好み、正道を好み、衆人に相談し、
正しいと思っても必ず目上の人の意見に従います」と答えた。范匃は「災難を免れるであろう」と言った。
- 范吉射(ハンキツエキ)【武官】
- 晋の臣。范献子の子。ハンキツシャともいう。
B.C.497邯鄲の大夫趙午は趙鞅の怒りを買って殺され、
子の趙稷がそむいた。
趙午は范吉射の姻戚であったため、范吉射はこの乱を援けようとした。また范吉射の娘と荀寅の子が結婚していたので、
荀寅とも親しかった。
10月、荀寅が叛乱を起したので、范吉射もこれに同情して共に趙鞅を討ち、晋陽を囲んだ。
11月、荀櫟・韓不信・魏侈に攻められるが、
これを撃退する。
しかし晋定公に攻められて敗れ、丁未の日に朝歌に出奔した。
B.C.493三晋に朝歌で包囲され、范吉射は邯鄲に出奔する。
B.C.490再び三晋に討たれて、范吉射らは柏人に出奔した。趙鞅はまた柏人を囲み、范吉射らは斉に出奔する。
- 番禺(バング)【神】
- 古代の神。『山海経』にみえる。
船を発明したとされる。
- 樊頃子(ハンケイシ)【文官】
- 周王朝の臣。
B.C.520単穆公が都を出奔したため、
王子環は周悼王を守って単穆公を追って領まで行った。
王子環は召荘公と相談して「単旗(単穆公)を殺さなければ勝てない。
彼と盟うといつわって来たら殺しましょう」と言った。荘公はこれに従った。これを聞いた樊頃子は「士君子の言うべき言葉ではない。きっと勝てないだろう」
と言った。はたして単穆公は計画を見抜いて戻って来ず、逆に王子環は殺された。
- 范蜎(ハンケン)【文官】
- 楚の臣。
甘茂が楚におり、秦は甘茂を秦に送るよう要請した。
楚懐王は宰相を秦に置くことを范蜎に問うたが、范蜎は「わたくしには人物を見る能力がありません」と答えた。
また「甘茂はどうであろう」と問われると、「甘茂は賢人ですから秦に送るのはよろしくありません。向寿のような人物が第一でしょう。
向寿と秦王は若いときからの間柄で、向寿の言うことは何でも聞くでしょう」と答えた。
そこで懐王は申し出て、向寿は秦駐在の楚の宰相となった。
- 范献子(ハンケンシ)
- →范鞅
- 盤古(バンコ)【神】
- この世に初めて生まれた半神半人の巨人。
盤古が死んで、その吐く息が風や雲に、声は雷鳴に、目は太陽と月に、胴体と手足は山になったといわれる。血液は雨や河、肉は耕地、毛髪は星、体毛は草木、
歯や骨は鉱物、そして身体の虫は人間になったという。
また別の神話によると、初め世界は鶏の卵のようであり、18000年経つと天地が分かれ始め、陰と陽が分かれるとき、これら神聖な原始の要素から盤古が生まれたという。
盤古は9回の変態を終えて、神聖で賢くなった。さらに18000年が過ぎると、盤古は十分に成長し、天・地・人という3つの要素を形成した。
ここからのちの三皇が生まれたという。
- 般庚(バンコウ)【皇帝】
- 商王朝18代王。象甲の弟。商王朝の中興の祖。
『史記』では、盤庚とされる。
B.C.1398即位する。
B.C.1384周囲の反対を押し切って亳(安陽)に遷都し、湯王の
政をおこなう。そのため群臣は安堵して商の道がまた興り、諸侯が来朝した。商王朝は再び復興する。
- 范痤(ハンザ)【宰相】
- 魏の宰相。
B.C.266趙は范痤を殺せば方七十里の土地を献じる約束を魏安釐王と行った。
安釐王は役人に命じて范痤を捕らえようとし、范痤は屋上に上って棟にまたがり、使者に言った。
「死んだ痤で取引するより、生きている痤で取引したほうがましでしょう。もし痤が死んでも、趙が王に土地を与えないようなことがあったら、
王はどうなさいますか。だから、趙から土地をもらったうえで、痤を殺したほうがたしかです」
安釐王はこれを聞いて「なるほど」と言った。
范痤は信陵君に書簡をたてまつって「趙は土地と交換に痤を殺そうとし、魏王はこれを承諾されました。さりながら、
もしも強秦が趙にならって、誰か(暗に信陵君をさす)を殺すよう要求してきたとき、あなたはどうなさるおつもりですか」と言った。
そのため信陵君は安釐王にとりなして、范痤を釈放した。
- 范山(ハンザン)【文官】
- 楚の臣。
B.C.618范山は楚穆王に「晋の君は幼少なので諸侯のことなど考えていないようです。今こそ北方に乗り出して諸侯を征服すべき時です」
と進言した。そこで穆王は鄭の狼淵に軍を進めて鄭を討ち、公子堅・公子尨・
楽耳の3将を捕虜にした。
かくて鄭は楚と和睦することにした。
- 斑師(ハンシ)【王】
- 衛公(19(29)代目)。襄公の孫。
B.C.476荘公が出奔したため国人に擁立される。
しかし斉に攻められて捕えられ、公位を失う。
- 潘子(ハンシ)【武官】
- 楚の臣。
B.C.530冬、蕩侯・潘子・司馬督・囂尹午・
陵尹喜は徐を包囲して呉に圧力をかけた。
B.C.529潘子ら5将は徐から帰ったが、呉軍に豫章で邀撃されて、潘子らは捕えられた。
- 盼子(ハンシ)
- →田盼子
- 潘子臣(ハンシシン)【武官】
- 楚の臣。
B.C.504、4月16日、呉の太子終纍が楚の水軍を破って、潘子臣と小惟子は大夫7人とともに捕らえられた。
- 樊須(ハンシュ)【在野】
- 孔子の弟子。字は子遅。B.C.515〜。
樊須は孔子に農耕や園芸を学びたいと請うた。
樊須が退出すると、孔子は「樊須は小人であるわい。上が、礼や義や信を好めば、四方の民は自然に慕い寄るだろう。何も、
みずから耕作を学んで民に教える必要はあるまい」と言った。
- 范雎(ハンショ)【宰相】
- 秦の宰相。字は叔。応侯。魏の人。
諸侯に遊説し、魏王に仕えようと思ったが、家が貧しくて仕官の資金が調達できなかったため、ひとまず魏の中大夫須賈に仕えた。
須賈が斉に使いし、范雎も随行した。斉襄王は、范雎が弁舌に巧みであることを聞き、范雎に金十斤と牛・酒を賜った。范雎は辞退したが、
しかし須賈は范雎が魏の秘密を漏らしたためであると疑った。
須賈は帰国して、宰相の魏斉にこれを告げた。魏斉は大いに怒り、舎人に命じて范雎を鞭打ち、あばら骨を折り歯をくじいた。
范雎が死んだふりをすると、体を簀(スノコ)で巻いて厠の中に置き、かわるがわる放尿した。
范雎は簀の中から千金を与える約束で番人に救いを求めた。番人はこれを容れて、簀の中の死人を棄てたいといつわって請うた。
魏斉は酔っていたこともあり「よろしい」といったので、范雎は脱出できた。
後日、魏斉は范雎の死を確認しなかったことを後悔し、捜し求めた。鄭安平はこれを聞くと、范雎をともなって逃亡し、潜伏して名を変え、
張禄と名乗った。
そのころ秦昭襄王は謁者王稽を使いとして魏にやっていた。鄭安平は身許をいつわって、その従卒となって王稽にかしずいた。
王稽は鄭安平に「秦で遊説させるような賢人がいるか」と問うた。
鄭安平は「わたくしの郷里に張禄先生という人があります。ただ仇に狙われているため昼間は人に会いません」と言って范雎を王稽に会わせた。王稽は范雎の賢を見抜き、
車に乗せて秦に帰国した。
湖(咸陽の西)まで来ると、馬車の一隊が近づいてくるのが見えた。范雎が王稽に「あそこから来るのは誰でしょう」と問うた。
「宰相の穣侯が東方諸県を巡行するのであろう」
「わたしは穣侯が遊説者が入国するのを嫌っていると聞いています。わたしは、しばらく車中に隠れています」
穣侯魏冄は王稽の労をねぎらい、また「きみは諸侯の賓客を同道して来はすまいな」と問うた。
王稽は「賓客など、とんでもない」と答えた。魏冄はそのまま立ち別れた。
范雎は「穣侯は智謀の士だと聞いていましたが、やり方が手ぬるい。疑いながら捜すことを忘れました」と言い、車を降りて「きっと後悔して捜しに来ましょう」と言って逃げた。
はたして騎馬の者が引き返して王稽の車を捜したが、范雎は見つからなかった。
王稽は咸陽に入り、復命した後に范雎を推挙したが、登用されなかった。
B.C.271魏冄が客卿竈のことばを聴き入れ、斉を討ち剛・寿の二県を取って自己の封邑陶を広めたいと思った。
范雎は上書して「明君の政治では、功労ある者はかならず褒賞され、能力のある者はかならず登用されるといいます。わたくしが用いられないのは思うにわたくしが愚純なため、
王の心に触れて訴えるものがないためでしょうか。まさかわたくしを推す者が賤しいために用いないということはありますまい」と言った。
昭襄王は大いに喜び、王稽に詫びて車をもって范雎を召した。
ちょうど王の出御があり、宦官が「王のお出まし」と言ったとき、范雎は「秦には国王などいるはずがない。秦にその人ありと聞くのは、ただ太后と穣侯だけだ」と言った。
昭襄王はこれを聞き、范雎を迎え入れて詫びて「わたしは早くから先生の教えを乞おうと思っていたのだ。謹んで主客対等の礼をもってお話を賜りたいと」と言った。
しかし范雎はこれを辞退し、群臣が去った後に昭襄王と親しく会話した。そこで昭襄王は范雎を拝して客卿とし、ともに兵事を相談した。
B.C.269五大夫綰に命じて魏を討ち、懐を落とす。
B.C.266魏を討ち、邢丘を落とす。
B.C.265范雎は日一日と昭襄王に親しまれ、数年の間、その進言が採用された。范雎は言上して「かつて三代が国を滅したのは、君主が政治を臣下に任せきりであったからです。
いま秦では諸大史、王の左右近侍に至るまですべて穣侯の徒党でない者はなく、ただ王ひとりが朝廷に孤立しているのです。これはひそかに王のために恐れるのであります」と言った。
9月、昭襄王はおおいに恐れ、宣太后を廃し、穣侯・涇陽君・
高陵君・華陽君を函谷関の外に追放し、范雎は宰相となり、応に封じられ、応侯と号した。
B.C.264楚頃襄王が病で倒れ、楚の太子完は帰国を願い出た。春申君が范雎に「いま楚王は病のため、おそらくは再起できますまい。
秦としては楚の太子を帰国させるのがよいと思います。太子が楚王となれば秦に仕えることかならず重厚に、また宰相を徳としましょう」と言った。
そこで范雎が秦昭襄王に言上すると、昭襄王は「まず太子の傅(春申君)を遣わして、病気を見舞わせたうえで取り計らおう」と答えた。
春申君は一計を案じ、太子完をひそかに帰国させて、昭襄王に申し出て「楚の太子はもはや帰国しました。逃がした歇の罪は死に当りましょう。
どうか死罪を賜りますように」と言った。昭襄王は大いに怒り、自害を許そうとしたが、范雎は「歇は人臣として一身を投げ出して主君に殉じたのであります。
もし太子が位に即けば、かならず歇を重用しましょう。だから罰しないで帰国させ、楚と親しむのがよろしいかと思います」と言ったので、春申君は帰国を許された。
B.C.260秦将白起が趙を討ち、長平でこれを大いに破る。
B.C.259韓・趙は秦の進撃をおそれ、蘇代に命じて范雎に説いた。
「武安君は馬服君の子を虜にせられましたか」
「いかにも」
「やがて邯鄲を包囲されますか」
「いかにも」
「武安君の功は周公、召公、呂望も及びません。
趙が滅亡すれば武安君は三公でしょう。そのとき君は、その下風に立つことが我慢で来ましょうか。またこれ以上君が得る土地もなくなります。ここは韓・趙の地を割き取るだけにし、
これ以上武安君の功績を大きくしないのが、よいと思います」
范雎はこれに従って昭襄王に「秦の兵は戦いに疲れております。韓・趙が地を割いて、和を講じるのを許し、わが士卒を休息させてやりたいと存じます」と進言したので、
これを聴き入れ韓の垣雍と趙の六城を取って講和した。
白起はこれを聞き、そのため范雎との間にすきができた。
昭襄王は范雎の仇を報いてやろうと思い、平原君を秦に招きいれて、魏斉を渡すよう脅迫した。しかし平原君のもとにすでにいなかったので、
趙孝成王に書簡を送って魏斉の首を求めた。考烈王は不意に平原君の家を囲んだが、魏斉は夜陰にまぎれて脱出し、
虞卿に救いを求めた。虞卿は宰相の印綬を解いて魏斉と共にひそかに逃げ、信陵君をたよった。
信陵君は秦を恐れて、受け入れるかどうか悩んだが、侯嬴の進言でこれを受け入れようとした。しかし魏斉は信陵君が受け入れてくれないと思い、
憤ってみずから首をはねて死んだ。
孝成王はその首を探し出し、秦に持たせたので、秦は平原君を趙に帰した。
B.C.258、10月、五大夫王陵が邯鄲を攻め秦は援軍を出したが、王陵は五人の将校を失った。昭襄王は王陵に代わって白起を将軍にしようとしたが、
白起は断った。昭襄王がみずから命令したが、白起は引き受けず、さらに范雎が懇請しても、最後まで辞退して、ついに病気と称した。
B.C.257昭襄王は代わりに王齕を将軍としたが、邯鄲は落ちず、多大の損害を受けた。白起は「秦はわたしの言うことを聴かなかったが、今にしてどうか」と言った。
昭襄王はこれを聞いて怒り、強いて白起を起たせようとしたが、白起は重病と称して応じなかった。范雎が懇請しても起たなかった。
そこで白起は罷免されて士卒に落とされ、陰密にうつされたが、病気のため、すぐに行くことができなかった。
B.C.256、11月、昭襄王は范雎や群臣と論議し「白起が陰密へ移る時、心中なお怏怏として承服せず、恨みがましいところがあった」として、白起に剣を与えて自刎させた。
范雎は宰相となっても張禄と称していたので、魏では范雎は死んだものだと思っていた。魏は須賈を使者として秦に遣わした。范雎は姿をやつして須賈に会った。
須賈は「范叔は生きていたか」「はい」
「范叔、おまえは秦王に遊説したのか」「いいえ」
「いまどんな仕事をしているのか」「人の賃雇われをしています」
「秦は張君を宰相としているが、おまえは知っているか」「わたくしの主人は宰相を熟知しています。わたくしに君を張宰相に引き合わさせてください」
范雎は須賈と宰相の邸門のところまで来ると、自分のみ宅に入った。須賈はいぶかしく思って門下の者に
「范叔が出てこないが、どうしたのだろう」と問うた。
「ここには范叔などという者はおりません」
「さっきわたしと車に乗ってきて、中に入った者のことだ」
「あれは、宰相張君であります」
須賈は大いに驚き、頓首して詫びた。范雎はこれを許し、須賈を昭襄王に謁見させてやった。
帰国に及んで、諸侯からの使者を招待して須賈だけを堂の下に座らせ、飼料のまぐさや豆を前に置き、馬食をさせた。そして「わしに代わって魏王に『はやく魏斉の首をもってこい。
さもなくば、大梁を屠ってやろう』と言え」と責めた。
魏斉はこれを聞くと恐れて趙に出奔し、平原君のもとに身を隠した。
范雎はまた王稽を推挙して河東太守とし、鄭安平を将軍に任じた。范雎は自家の財宝を散じ、かつて困窮していた全ての恩讐に報いた。一飯を恵まれた恩にもかならずつぐない、
目を怒らせて、にらまれた恨みにもかならず報いた。
范雎は鄭安平を推薦して将軍とし、趙を討たせた。しかし鄭安平は趙に包囲され2万の兵と共に投降した。范雎はわらを布いてその上に座り、処分を請うた。しかし昭襄王は范雎をかばい、
「みだりに鄭安平のことを言うものがあれば、同罪にする」と布れた。そして范雎には日増しに厚く食物を下賜し、機嫌を損じないようにつとめた。
B.C.254河東太守王稽が諸侯と内通して法に問われ誅殺された。このため范雎は日に日に憂鬱となった。范雎は進み出て昭襄王に「いま大王は朝廷に臨んで憂えに沈んでおられますが、
わたくしは臣下としての罪を請いたいと存じます」と言った。昭襄王は范雎を激励しようとして「いま武安君は死に、鄭安平らは背いて国内に良将がなく、それを案じているだけなのだ」
と言ったが、逆に范雎は恐懼してなすところを知らなかった。
燕の人蔡沢が人をやって范雎に「燕の客人蔡沢は天下きっての俊秀で、ひとたび秦王に謁見するなら、応侯を苦しめ宰相の地位を奪うだろう」と言わせた。
范雎はそこで蔡沢を呼ばせた。蔡沢は「かの商君(商鞅)・呉起・大夫種・
白公(白起)らは国家に忠誠で、功は計り知れないのに最期には殺されました。これは范蠡を見習わなかったためです。
ところであなたの功は極まったのに、高位に坐しておられます。どうしてあなたは宰相の印を帰し、賢者に譲って引退されないのですか」と言った。
范雎は「よろしい」と言い、蔡沢を上客として待遇した。
范雎は数日して、昭襄王に蔡沢を推挙し、蔡沢は客卿となった。また范雎は病と称し、宰相の印を返上したいと請うたが、許されなかったので、重病と称してついに免ぜられた。
そのため天寿を全うすることができた。
- 范昭(ハンショウ)【文官】
- 晋の臣。
斉の国情を観察するため、斉景公にわざと無礼を働いて君臣の関係を見ようとした。
晏嬰がこれを正したので、范昭は帰国して、
晋平公に「斉はまだ討つべきではありません」と進言した。
- 万章(バンショウ)【在野】
- 孟子の弟子。
孟子と問答する。
- 潘崇(ハンスウ)【武官】
- 楚の臣。公子商臣(穆王)の大傅。太師
B.C.626成王が太子商臣を廃して職を立てようとした。商臣は潘崇に「どうしたら実情をつきとめられよう」と言うと、
崇は「王の愛妹江羋を招いて疎略にもてなされるのがよい」と答えた。商臣はこれに従い、
江羋を疎略にもてなすと江羋は怒って「王がそなたを殺し、職を立てたいとお考えになるのは、無理もない」と言った。
商臣「やはり事実だった」
潘崇「職が立ったら、臣下として仕えることができましょうか」
商臣「それはできまい」
潘崇「逃げ出すことができますか」
商臣「それも、できまい」
潘崇「それでは、大事をおこなうことができますか」
商臣「それはできよう」
10月、公子商臣は宮中警護の兵を率いて成王を攻め殺した。
商臣は即位すると太子の頃の家財をすべて潘崇に与え、潘崇を太師に任じて国事を司らせ、さらに近衛兵の長とした。
B.C.616春、楚は麇を討った。潘崇は麇の錫穴まで侵入した。
B.C.613潘崇は令尹成嘉と舒蓼などの小国を討つため、
公子燮と闘克に留守を命じた。しかし公子燮は闘克と謀って、
潘崇と成嘉に罪を得させて、その家財を横領した。さらに闘克と公子燮は郢に城壁を築き、刺客を使って成嘉を殺そうとしたが、成功しなかった。
(『史記』では、闘克と公子燮が潘崇に命令して舒を討伐させたことになっている。
- 樊斉(ハンセイ)【武官】
- 周王朝の臣。
B.C.519、6月21日、樊斉は単穆公・
劉文公とともに敬王を連れて劉文公の領地に出かけた。
- 番生(バンセイ)【文官】
- 周王朝の臣。司徒。
夷王より公族・卿事・大史寮を合わせて官司することを命じられる。
- 范宣子(ハンセンシ)
- →范匃
- 樊仲山父(ハンチュウザンホ)【文官】
- 周王朝の臣。樊の領主。周王の卿士。字は仲山父、諡は穆仲。
B.C.818魯武公が子供らと共に朝見したとき、
宣王が弟の戯を愛したため、戯を魯の太子にしようとした。樊仲山父は
「長子を廃して弟を立てるのは順当ではありません。目下の者が目上の者に仕え、年少の者が年長の者に仕えるのは、正道に従うといいます。正道に逆らえと教えれば、
諸侯はまねをして、王の命令は行われなくなりましょう」と諌める。しかし宣王には聴き入れられなかった。
B.C.796宣王は同族の諸侯で、諸侯を教化できる者を州伯にしたいと思った。樊仲山父は魯孝公が明神を崇敬し、長老に敬事し、
先王の遺訓により政事・刑罰を行っていると薦めたので、宣王は孝公を州伯に命じた。
B.C.789千畝の戦いで、周は姜・氐の戎に敗北する。
宣王は千畝の戦いで江漠地方(南方)の兵を失ったので、太原地方の人口調査をして徴兵しようとした。樊仲山父はこれを諌めて「司民は孤児と死亡人口を調べ、
司商は姓名を調べ、司徒は軍隊を調べ、司寇は犯罪者を調べ、牧人は家畜を調べ、工人は皮莘を調べ、場人は果実を調べ、廩人は穀物を調べますので、
これらは居ながらにして知ることが出来ます。事故もないのに人口を数えるのは、天の憎むところです。政事を害い、後継者のさわりになりましょう」と言ったが、
宣王は反対を押し切って人口を数えた。
- 潘党(ハントウ)【武官】
- 楚の臣。
B.C.597春、楚は鄭を討って、これを降服させた。
6月、晋が鄭を救援するため軍を発し、晋と楚は戦うこととなった(邲の戦い)。
晋の魏錡が楚に合戦を申し入れて帰った。潘党はこれを追撃し、熒沢まで来たとき、魏錡は6頭の鹿が目に入ったので、
その1頭を射止め、ふりかえって潘党に献上し「戦中のこととて、料理人も新鮮な肉にお困りであろう。従者にお届けさせよう」と言った。
これを聞いて潘党は追撃を中止したので魏錡は逃げかえることができた。
この戦いで楚は大いに晋を破った。潘党は「晋兵の屍を収め、大いなる見せしめの台を作ったらよろしいでしょう」と進言した。
楚荘王は「お前にわかることではない。文字からいって戈を止めて用いないというのが武という字だ。
周武王は商に勝つと干や戈を収めたという。
武には七つの徳があるというが、わしには一つの徳もない。いま晋は罪とすべき何ものもなく、さらに晋の民はみな忠をつくして君の命令に生命をささげたのである。
どうしてそのような物を作って得意がろうか」と言って、黄河の神を祭り、先君を祭る廟を作って戦勝を報告して帰国した。
- 潘党(ハントウ)【武官】
- 楚の臣。潘尫の子。
B.C.575鄢陵の戦いのとき、潘党は楚恭王の右役となった。
6月28日、潘党は養由基とともに矢でよろいを7重ねしたものを貫通させ、楚恭王に「君にはこのような弓の名手が二人おります。
心配はいりません」と言った。しかし楚恭王は怒って「お前たちのような智謀のない者は国の大恥だ。あす、弓を射たらその芸で死ぬであろう」と言った。
6月29日、楚晋両軍は大いに戦ったが、楚軍は大敗した。
- 凡伯(魯)(ハンハク)【公子】
- 魯の公子。周公旦の次男。
凡氏の始祖となる。
- 凡伯(周)(ハンハク)【文官】
- 周王朝の臣。
B.C.716冬、凡伯は魯に赴いた。
その帰途、凡伯は楚丘で戎に捕えられ、連れ去られた。これは先年、戎が周に参って公卿たちに贈物を献上したとき、凡伯が戎をもてなさなかったためである。
- 樊皮(ハンヒ)【武官】
- 周王朝の臣。名は皮。
B.C.665樊皮は周恵王に対し謀反を起こした。
B.C.664恵王は虢公に命じて樊皮を討伐させた。
4月14日、虢公は樊に攻め入り、樊皮は捕えられて、周都に送られた。
- 范武子(ハンブシ)
- →士会
- 樊夫人(ハンフジン)【神】
- 仙人。神仙伝に見える。
劉綱の妻。劉綱も道術を心得ていたが夫人にはかなわなかった。昇天しようとしたとき、劉綱は木によじ登ってやっと飛び上がることが出来たが、夫人は正座したまま
雲の立ち上るように徐々に上って一緒に昇天していったという。
- 范文子(ハンブンシ)
- →士燮
- 潘父(ハンポ)【武官】
- 晋の大臣。〜B.C.739。
B.C.739昭侯を弑して曲沃の桓叔を迎えようとする。桓叔が晋軍に敗れたため、
計画は成らなかった。
即位した孝侯に殺される。
- 樊穆仲(ハンボクチュウ)【文官】
- 周王朝の臣。
周が魯公伯御を殺して後継者を探したとき、懿公の弟称を推薦する。
- 曼満(バンマン)【公子】
- 鄭の公子。
B.C.603冬、曼満は楚の王子伯廖に卿になりたいと話した。
王子伯廖は他の人に「徳もないのに欲が深い。3年もたたないうちに滅びるだろう」と言った。はたして一年を隔てて、曼満は鄭人に殺された。
- 范無恤(ハンムジュツ)【武官】
- 晋の臣。
B.C.615冬、秦が令狐の役の恨みを晴らすため、晋を討って羈馬の地を攻め取った。
晋霊公は出陣しなかったが、范無恤は御者として秦軍と戦った。
- 班孟(ハンモウ)【神】
- 仙人。神仙伝に見える。
終日飛行することや、空中に座って人と談話することが出来た。400歳で一層若々しく見えたが、大冶山に入って仙去した。
- 樊余(ハンヨ)【文官】
- 西周の臣。
韓と魏が領土の交換の交渉を行い、西周はそれを不利益であると感じていた。そこで樊余は、楚懐王に説いて
「この土地交換では、韓は2県を手に入れ、魏は2県を失います。それでも魏がこれに応じるのは、東・西周を手に入れようとしているためです。
そうなれば魏は南陽、鄭地、三川の地を有し、さらに西周を取り込むので、楚の方城の北は危うくなります。また韓は上党の地を兼ねるので、
趙は羊陽より南が危うくなるでしょう」と言った。
楚懐王は、趙とともに図ってこの土地交換を中止させた。
- 范蠡(ハンレイ)【宰相】
- 越の宰相。字は少伯。
B.C.496呉王闔閭の侵攻を奇策をもって撃退する。
B.C.494越王勾践が呉を討とうとした。范蠡はこれを諌めて「兵は凶器、戦は逆徳、争いは事の末と聞いております。ひそかに逆徳をはかり、
好んで凶器を用い、身を事の末に試みるのは、天帝の禁じ給うところであって、先に犯したほうが不利です」と言ったが、勾践は聴き入れなかった。
勾践は呉王夫差に破れて会稽山に籠もって「そなたのことばを聴き入れなかったため、こうしたことになった。どうしたらよいだろう」
と言ったので「満を持して驕慢にならないものは、天にのっとり、すでに傾いたのを危うきに定めんとするものは、人に与し、用を節して事を治めんとするものは、
地の利を用います。ことばをひくうし礼を厚うして、財宝を贈られるのがよろしく、それでも許されなければ、ご自身を差し出して後をお考えになりますように」と答えた。
勾践はこれを承諾し、ついに許された。
勾践は帰国すると范蠡に国政を取らせようとしたが「軍事については種は蠡に及びませんが、
国家を治め人民を手なずけるには蠡は種に及びません」と言い、国政は種にまかせ、自身は大夫柘稽とともに和平のため呉の人質となった。
B.C.491范蠡は帰国した。
B.C.487勾践は范蠡を召して呉を討つことを問うた。范蠡は天の時が至っていないとしてまだ待つべきであると答えた。勾践は「なるほど」と言って取りやめた。
B.C.486勾践は范蠡を召して呉を討つことを問うた。范蠡は「人事は出揃いましたが、天の啓示がまだありませんから、しばらくお待ちください」と答えたので、
勾践は戦を取りやめた。
B.C.485勾践は再び范蠡を召して呉を討つことを問うた。范蠡は「天地の兆候が呉の滅亡を啓示していません」と答えたので、勾践は戦を取りやめた。
B.C.484勾践は再び范蠡を召して「呉は稲の害が出ています。これこそ天の啓示である。呉を討とう」と言ったが、范蠡は「人事が十分ではありません。
しばらくお待ちください」と答えた。勾践は怒って「以前、人事は出揃ったといい、今、天の啓示があったのに、また人事は十分でないという。どういうことか」
と問うた。范蠡は「天と地と人事が3つそろってはじめて成功できるのです。王よ、しばらくお待ちください」と答えた。勾践は戦を取りやめた。
B.C.483勾践に招かれ「呉は子胥が死んで王にへつらう者が多い。もう討ってもよいだろう」と言われたが范蠡は「まだその時期ではありませぬ」と答えたのでとりやめた。
B.C.482呉王夫差は精兵を率いて諸侯と会同し、国内には老幼婦女だけが残っていた。
9月、勾践に問われると范蠡は「もうよろしいでしょう」と言ったので、水戦の部隊2000人、
教練された兵4万、親近の志士6000人、軍吏1000人を繰り出して呉を討った。
勾践は范蠡と舌庸に命じて兵を率いて海岸に沿って淮河をさかのぼり、呉軍の帰路を断ち、
呉の公子友を呉都郊外の姑熊夷に破った。夫差はこのことが天下に知られるのを恐れ、越と和睦しようとした。
越は自分の実力では、やはりまだ呉を滅ぼすことが出来ないと考えて呉と和睦した。
B.C.473践が呉を討つことを大夫に謀ると、范蠡は「守備を慎重にすべきですを慎重にすべきです」と進言した。
越軍が呉王夫差を姑蘇の山で包囲した。勾践がこれを許そうとすると、范蠡は「会稽のときは、天が越を呉に賜うたのに呉はこれを受けませんでした。
今は天が呉を越に賜うのです。
どうして天に逆らうのですか。君が朝早くから夜遅くまで政務に励まれたのも、呉のためではなかったのですか。苦節22年を一朝に棄ててもよいのですか。
天の与えるものを取らなければ、かえって咎を受けます。斧の柄をつくるため木を切るものは、いま持っている斧の柄に合わせて切ればよいのです(『詩経』の引用)。
わが君は会稽の苦しみをお忘れになったのですか」と言って諌めた。
勾践がまだ迷っていたので、范蠡は陣太鼓を打ち、兵を進めて使者に向かって「王はすでに政を執事(范蠡)に任しておられるのだ。使者よ去れ。
さもないと撃ちますぞ」と言った。ついに夫差は自殺した。
勾践は北行し、諸侯と会同し、覇者となり、范蠡は上将軍になった。
しかし范蠡は長居はできないとして勾践に書簡をしたため別れを告げて「わたくしは君主が憂えば、臣下はこれに奔走し、
君主が恥辱を受ければ臣下はこれに死ぬものと聞いております。むかし君主が会稽で辱められましたとき、わたくしが死ななかったのは、
恥をすすぐという一事のためでありました。今や既にその恥はすすがれましたので、わたくしは会稽で死ななかった罪に服したいと存じます」と言い、
目方の軽い珍宝や珠玉を荷造りして、一族一党と舟に乗り、海に去った。
勾践は会稽山に表識して范蠡の采邑ということにして、彼を記念した。
范蠡は種に書簡を送って「『飛鳥尽きて、良弓かくれ、狡兔死して、走狗煮らる』とか。越王の人柄は頸長く喙は鳥のように尖っています。
互いに艱難を共にすることはできますが、互いに楽しみを共にすることのできない人です。あなたはどうして越を去らないのですか」と伝えた。
また「計然の策謀は7つあったが、越はその5つを用いて本懐を遂げた。もうすでに国家に施したのだから、
わたしはこれを自分の家に用いよう」と言い、斉に出て姓名を変えて鴟夷子皮と称し、海浜で耕作し、力をあわせて親子で蓄財に励み、数十万の富を得た。
斉がこれを聞き范蠡を宰相にしようとしたが、范蠡は歎息して「家におれば千金の富を得、官におれば卿相の位になる。これは布衣の身の極限である。
永らく尊名を受けるのは不吉である」と言い、財産をことごとく散じて、微行して陶に落ち着いた。
そこで自ら陶朱公と称し、規約を設け規律を定めて親子で耕蓄に励み、商業をして巨万の富をなしたので、その名が天下に知れ渡った。
後年老衰すると、家業を子孫に任せ、子孫は財産を増やしてついに巨万に至った。
このため世に富を云々するものは、みな范蠡を引き合いに出すようになった。
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