- 目夷(モクイ)【公子】
- 宋の公子。字は子魚。桓公の子。大司馬。左師。
目夷は、母が正夫人ではなかったため太子となれなかった。
B.C.652桓公は病気となった。太子茲甫(襄公)が目夷に位を譲ると言ったので、
桓公は目夷を太子にしようとした。しかし目夷は辞退して「国を譲れるというのは、これより大きな仁はありません。また庶子のわたしが立つのは道にはずれています」
と言ったので、桓公はこれを取りやめた。
B.C.651襄公が即位すると、目夷は仁者であるとして、左師に任じられて国政に参加した。そのため宋はよく治まった。
B.C.641、3月、襄公は会盟に参加しない滕宣公を捕えて、威を示した。
6月、襄公は曹・邾と曹の南で会盟した。襄公は邾文公に命じて鄫の君を捕らえさせて、東夷を脅して服従させようとした。
目夷は「わが君はひとたび諸侯を会合させただけで滕・鄫二国の君を捕えるというむごい目にあわせている。それでは覇者にはなれない」と批難した。
秋、曹が宋に服従しなかったので、襄公は曹を包囲した。
目夷は「君の徳は今もなお欠けているところがあるのではありませんか。しばらくわが身に立ち返って、わが身の徳を反省なされませ」と諌めたが、
襄公は聴き入れなかった。
B.C.639春、宋は斉と楚と鹿上で会盟して、宋が諸侯の盟主となることを楚に求め、楚はそれを許した。
目夷は「宋は小国であるのに、盟主になろうと争うのは禍のもとです。宋は滅びるかもしれない」と諌めたが聴き入れられなかった。
秋、襄公が盂で会同したとき、目夷は「禍はここから起こるだろう。わが君の野望もここまで来ればひどいものだ。諸侯はどうしてこれに堪えられるだろう」と言った。
はたして楚が襄公を捕え、楚は宋を討った。
冬、楚が襄公を釈放した。目夷は「禍はまだ去っておりません。これだけではわが君を十分にこらしめておりません」と言った。
B.C.638鄭が楚についたので、襄公は鄭を討った。すると楚が宋を討って、鄭を助けた。襄公は楚と戦おうとすると、目夷は「天が商を滅ぼしてから久しいことになります。
君が商を復興させようとしても許されません」と諌めたが、襄公は聴き入れなかった。
11月己巳の朔に、宋軍と楚軍は泓水のほとりで対陣した。楚軍がまだ川を渡ってこないときに、目夷は「敵は多勢で、わがほうは無勢です。渡河する前に討つべきです」
と進言したが襄公は聴き入れなかった。楚軍が渡河してまだ布陣していなかったとき、目夷は「討つべきです」と進言したが「敵の布陣が終わるのを待とう」と襄公は答えた。
そこで楚軍が布陣し終わってから宋は攻撃したため大敗し、襄公は股に負傷した。
襄公は「君子は人の困窮しているさなかに苦しめず、敵の布陣がおわらぬうちに陣太鼓をうって攻めないものだ」と言って気にとめなかった。
目夷は「戦は勝つことがつとめです。そのうえに何を言うことがありましょう。わが君の仰せられるようにしなくてはならないなら、
奴隷として敵に仕えるほかありません。こんなことなら戦う必要などございますまい」と言い残念がった。
目夷の子孫の魚氏は代々、宋の左師となった。
- 木羽(モクウ)【神】
- 仙人。列仙伝に見える。
鉅鹿南和の平郷の人。木羽の母は産婆をしていたが、あるとき赤ん坊が生まれるなり、にこにこ笑った。その夜の夢に司命君を見て、産婆の子目羽に仙道をさずけるといった。
そこで産婆は自分の子供が生まれると木羽と名づけた。木羽が15歳になったとき、車馬が来て「木羽よ、予のために御者をいたせ」といって連れ去られた。のち20余年、鸛
(こうのとり)が朝ごとに魚をくわえてきたので、母はそれを売って100歳まで生きたという。
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