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列伝 モ



孟懃子(モウイシ)【文官】
魯の臣。孟孫氏。名は何忌。孟懿子とも書く。仲孫何忌ともいう。孟釐子の子。
B.C.518孟釐子は病にかかり、死に瀕して嗣子の孟懃子をいましめて「いま孔丘(孔子)は年は若いが、礼を好み、 達人ではないかと思う。わしが死んだら、おまえは是非あの人に師事するように」と言った。そこで孟懃子は南宮敬叔とともに孔子について礼を学んだ。
B.C.517、9月11日、魯昭公季平子を討ち、 郈昭伯に命じて孟懃子を味方にすべく迎えさせた。孟懃子は家の西北の隅に人を登らせて季氏の形勢を見させたが、 叔孫氏の旗を見つけた。そこで孟懃子は郈昭伯を捕らえて都の南門の西で殺し、続いて魯昭公の兵を討った。そのため魯昭公は敗れて斉に出奔した。
B.C.515孟懃子は陽虎とともに鄆に攻め入り魯昭公を奪い返そうとし、且知で魯昭公の軍を破った。
B.C.510冬、孟懃子は晋の韓簡子、斉の高張、宋の仲幾、衛の世叔申、鄭の国参、曹の人、莒の人、杞の人、薛の人、小邾の人と会合して成周に城壁を築いた。
B.C.509、1月、孟懃子は周の城普請に参加した。
B.C.507冬、孟懃子は邾公と郯で盟い、友好を修めた。
B.C.504夏、季桓子が鄭の捕虜を献上するため晋に行こうとすると、陽虎は無理に孟懃子も行かせ、前に晋の夫人が使者を遣わしたことへの返礼をさせた。 孟懃子は晋の范鞅に向かって「陽虎がもし魯にいられなくなったら、晋の中軍の司馬にしていただきたい」と言うと、范鞅は「わが君にはそれぞれ官職が決まっていて、 わたしは関知できません」と答えた。
孟懃子は魯定公と陽虎と三桓と周社で盟った。
孟懃子は季桓子とともに軍を率いて鄆を攻め囲んだ。
B.C.503斉の国夏が魯を攻め、孟懃子はこれを防いだ。
B.C.502、10月2日、陽虎が季桓子を蒲圃でもてなして殺そうと計画し、さらに二家も攻めようとして都邑の兵車に出勤の準備をさせ、「癸巳(4日)に集まれ」と命令した。 すると公父文伯がこれを知って孟懃子に告げて「季孫が出勤の準備をしているが、何があったのか」と聞くと、孟懃子は「わたしは何も聞いていない」と答えた。公父文伯は「それなら謀叛です。 きっとあなたにも災いがふりかかります。これに対する準備をしましょう」と言って、翌日の3日までに兵を集めることにした。
10月3日、はたして陽虎は叛乱を起こして季桓子と孟氏の邸宅で戦い、魯定公と叔孫州仇をおどして孟氏を討った。公斂処父が成の人々を率いて上東門から攻めて来たため、 陽虎は南門の中で戦い、これを破った。さらに棘下で戦うと陽虎は敗れた。
陽虎はよろいをぬいで公宮に行き、勝手に宝玉と大弓を取って外に出て、五父のつじに宿り、ひと寝入りしてから食事を作らせた。 部下が「追手がやってきます」と言うと、陽虎は「魯の人はわたしが逃げたと聞くと、死から免れたとほっとするだろう。どうしてわたしを追う余裕があろうか」と言った。 しかし供の者が「危ういことです。すぐに車に乗って下さい。公斂陽(公斂処父)がおりますから」とせきたてた。はたして公斂処父は陽虎を追いかけようと申し出たが、 孟懃子は季桓子を恐れたため、これを許さなかった。
B.C.500侯犯が郈の人々を率いて叔孫州仇に背いた。孟懃子は叔孫州仇とともに郈を攻め囲んだが、勝てなかった。
秋、孟懃子と叔孫州仇は斉軍の応援を得て再び郈を攻め囲んだが、やはり勝てなかった。
孟説(モウエツ)【武官】
秦の臣。
武王は力があり、力だめしを好んだ。それで力持ちの任鄙烏獲 ・孟説などはみな大官となった。
B.C.307武王は孟説と重い鼎を挙げたため、脛骨を折って、8月に没した。そのため孟説は罰せられ一族は滅ぼされる。
蒙嘉(モウカ)【文官】
秦の臣。中庶子。
秦王の寵臣で、荊軻は秦王政に謁見するために、蒙嘉に厚く賄賂した。蒙嘉は秦王政に言上し、 荊軻は謁見することができた。
猛獲(モウカク)【武官】
宋の臣。〜B.C.682。
B.C.682南宮万湣公を殺すと、 南宮牛と猛獲に命じて、公子禦説を攻めさせた。
冬10月、南宮牛が敗れると、猛獲は衛に出奔した。
宋は衛に猛獲の引渡しを要求したが、衛は拒絶しようとした。しかし石キ子が「それはいけない。天下の悪はどこでも同じである。 悪人をかくまってこれに加担し、旧来のよしみを棄てるのは良策ではない」と反対したので、猛獲は宋に帰された。
猛獲は宋で処刑され、塩づけにされた。
孟楽(モウガク)【文官】
無終山戎の臣。
B.C.569無終山戎の頭目嘉父は晋の魏絳をたより、孟楽を使節として晋との講和を希望した。 晋悼公は魏絳の進言により、諸戎と親和した。
孟戯(モウギ)【神】
秦王朝の先祖。大廉の玄孫。
孟釐子(モウキシ)【宰相】
魯の宰相。孟僖子ともかく。仲孫玃ともいう。〜B.C.518。
B.C.535、3月、魯昭公の介添え役として楚についていったとき、孟釐子は魯昭公の行うべき礼儀を世話することができなかった。
9月、孟釐子は魯昭公とともに帰国した。孟釐子はそれを気に病んで、礼儀を習い、礼儀をわきまえている人があれば、その人について学んだ。
B.C.533秋、孟釐子は斉に出かけて進物を厚くした。
B.C.531夏、孟釐子は邾荘公と会合して祲祥で同盟を結んで友好関係を修めた。
B.C.518病にかかり、死に瀕して、嗣子の孟懃子をいましめて「いま孔丘(孔子)は年は若いが、礼を好み、 達人ではないかと思う。わしが死んだら、おまえは是非あの人に師事するように」と言った。
毛翕公(モウキュウコウ)【在野】
安期生より黄帝老子の書を学んだ。
毛翕公はこれを楽瑕公に教える。
孟敬子(モウケイシ)【文官】
魯の臣。名は捷。孟武伯の子。
孟恵叔(モウケイシュク)
公孫難
孟献子(モウケンシ)【宰相】
魯の宰相。姓は孟孫、名は蔑、諡は献。孟文子の子。仲孫蔑ともいう。
B.C.612祖父の公孫敖が莒でもうけた2人の子が魯にやってきた。孟献子はこれを可愛がり、このことが国内の評判となった。
B.C.600春、周定王は魯に使者を遣わして、周に聘問することを要求した。
夏、魯宣公は孟献子に命じて周を聘問させた。定王は孟献子の振る舞いが礼儀正しいとして手厚く引き出物を与えた。
B.C.595孟献子は魯宣公に「小国が大国からの責めを逃れるためには、卿を使者として聘問させ礼物を贈ることが大切です。 大国から責め立てられてからでは間に合いません」と進言し、宣公は喜んだ。
B.C.594秋、孟献子は高固と無婁で会合した。
B.C.589冬、楚が魯に攻めてきた。臧宣叔が使者になることを拒んだため、孟献子は楚軍に赴き、 贈り物をして楚と交流したいと願い出て、大工・女工・機織女・それぞれ100人を贈り、公子を人質として和睦を申し出た。 楚はこれを承諾した。
B.C.586孟献子は宋に出かけ、前年に来聘した 華元に対する返礼をした。
B.C.585秋、孟献子は叔孫喬如とともに宋を討った。
B.C.578春、晋の郤錡が来聘して秦を討つための援軍を請うてきた。このとき郤錡の君命を伝える作法が不敬であったので、 孟献子は「郤子はやがて滅亡するであろう。礼は身を守る根幹であり、敬は身を立てる基本である。郤子には敬がない」と批難した。
3月、成公は叔孫喬如の勧めで周の都に出かけ、孟献子はその介添となった。周簡王は孟献子に謙譲の徳があるとして、 成公に厚く贈り物をした。
B.C.575、晋の欒黶が魯に来て鄭を討つ援軍を求めた。孟献子は欒黶の謙譲な態度を見て、晋はきっと勝つと言った。
B.C.573、12月、孟献子は晋悼公・宋平公・衛献公・ 邾宣公・斉の崔杼と虚朾で会合して同盟した。 この間に魯成公が没したため、孟献子は諸侯に願い出て先に帰国させてもらい、魯成公の葬儀に参列した。
B.C.572、1月、孟献子は諸侯とともに彭城を包囲し、これを降した。
5月、孟献子は諸侯とともに鄭を討った。
B.C.571、7月、孟献子は華元・智罃孫文子・ 曹人・邾人の戚で会合して、鄭を討つ相談をした。
冬、孟献子は智罃・斉の崔杼・華元・孫文子・曹人・邾人・滕人・薛人・小邾人と戚で会合した。
孟献子「晋の虎牢に城を築いて鄭を威圧しましょう」
智罃「それはよい。前年、鄶の会合のとき、斉の崔子(崔杼)が晋についている不平を言っていた。彼は今の会合に参加していないし、滕・薛・ 小邾も斉を恐れてやって来ない。わが君の心配は鄭ばかりではありません。わたしは今のことをわが君に申し出てみます。もしうまくいけば、 これはあなたの功です。もし斉の承諾を得なければ斉を討ちましょう。あなたの提案は諸侯にとって幸いとなるでしょう」
諸侯は虎牢に城を築いたので、鄭は諸侯と和睦した。
B.C.570春、魯襄公は晋に即位の挨拶に出かけた。孟献子は魯襄公の介添えとなって天子に対して行う稽首の礼をさせた。 智罃が「わが君は恐縮しております」と言うと、孟献子は「わたしどもは東のはずれにおり、斉・楚に接しておりますので、 貴国の君だけを力と仰いでおります」と答えた。
B.C.569、10月、魯襄公は晋に出かけて貢物について指示を仰いだ。晋悼公が魯襄公をもてなすと、魯襄公は鄫の国を魯の支配下にしたいと願ったが、 晋悼公は許さなかった。そこで孟献子は「わが国は貴国にお仕えしてご命令に背くことは致しません。ところで鄫は貴国の司馬に対して貢物を奉っておりません。 わたくしどもは鄫の助けを借りて貴国への貢物を完納したいと願い出ているのです」と言ったので、やっと晋悼公は許した。
B.C.568晋が魯と衛に命じて、さきに呉と会合させ、諸侯との会合の日取りを呉に伝えさせることとした。そのため孟献子は衛の孫文子とともに呉に行き、 呉の善道で会合した。
B.C.563夏、諸侯は偪陽を討った。狄虒弥は大車の車輪を立て、それによろいをかぶせて大楯の代用とし、それを左手に取り、 右手には戟を抜き取って、一隊を作って攻め込んだ。 これを見た孟献子は「これは詩に歌われている『力のあること虎のごとき』という者だ」と言った。
また偪陽の人たちが布を城壁にかけて、これをよじ登れる者があるかと話し合っていたので、孟献子の家臣秦キン父はよじ登った。 上まで登ったところで偪陽の人は布をたち切った。秦キン父が下に落ちると、また布をかけた。秦キン父は息を吹き返しては三度登った。 ついに偪陽側もその武勇に驚いてやめてしまった。秦キン父はその布切れを身にまとって味方の軍に3日間もふれまわった。
5月8日、諸侯は偪陽を滅ぼした。帰国すると孟献子は秦キン父の勇をよみして自分の車の右に任じた。
秋、鄭の子耳は楚に従って魯と宋を討った。孟献子は「鄭にきっと禍があるだろう。軍勢があまりにも勢い過ぎます。 もし禍が起こるとしたら、きっと政治をしている3人(子駟子国・ 子耳)の身にふりかかるでしょう」と言った。
B.C.558、1月、孟献子は魯に来聘した向戌と会った。向戌は孟献子の邸宅が立派なことを咎めて 「あなたはよい評判を受けているのに、こんな邸宅を立派にするのはよろしくありません」と忠告した。孟献子は「わたしの留守中に兄がつくったのです。 つくり直すのは二重の苦労ですし、兄をそしりたくありません」と答えた。
毛公(モウコウ)【在野】
趙の処士。
博徒の仲間の中に隠れていた。
信陵君はその名声を聞き、訪れて親しく語った。
B.C.248魏安釐王は、信陵君がいないため秦に日夜兵を出して討たれるので、使者を遣わして信陵君の帰国を請うた。 信陵君は害されるのを恐れたが、毛公は「もしも秦に大梁を破らせ、先王の宗廟を蹂躙させるというなら、公子は何の面目があって天下に立つことができましょう」と言ったので、 信陵君は急いで帰国して魏を救った。
毛公(周)(モウコウ)【宰相】
周王朝の宰相。
B.C.829師詢の後をついで幼少の太子静を補佐して、執政者として権力を振るった。
共和の政治と考えられたその治世の後期は、毛公の執政時代とされる。
蒙驁(モウゴウ)【将軍】
秦の将軍。斉の人。〜B.C.240。
蒙驁は斉から移って秦昭襄王に仕え、官は上卿に至った。
B.C.250蒙驁は将軍となり韓を討った。韓は成皋・滎陽を献じ、秦はここに三川郡を置いた。
B.C.248趙を討ち、37城を取る。また魏を討ち、高都・波を取る。
B.C.247魏の信陵君が五国の兵を率いて秦を討ち、蒙驁は河外へ退き、軍は解散した。
B.C.245晋陽の叛乱軍を討って、これを平定する。
B.C.243韓を討ち、12城(あるいは13城)を取る。
10月、魏を討ち、畼・有詭を攻める。
B.C.242畼と有詭を落とし、3月に帰還する。
B.C.241魏を討ち、酸棗・燕・虚・長平・雍丘・山陽城を平定して、すべて落とし20城を取り、ここに東郡を置いた。
B.C.240竜・孤・慶都を討ったが、遠征先で没した。
孟公綽(モウコウシャク)【文官】
魯の臣。
B.C.548春、斉が魯の北境を討った。孟公綽は「崔氏(崔杼)は大望をとげようとしている。 わが国を苦しめるというところにねらいはなく、きっとすぐに帰るであろう。心配するに及びません」と言った。果たして斉軍は何もすることなく帰った。
孟孝伯(モウコウハク)【文官】
魯の臣。孟荘子の庶子。名は羯。仲孫羯ともいう。〜B.C.542。
御騶の豊点が孟孝伯に「私の言うとおりにされるなら、孟孫氏の後継ぎになれましょう」と再三言ったので、 孟孝伯は承諾した。
B.C.550孟荘子が病気になると豊点は季孫弥に「もしも羯を後継ぎに立てる加勢をしてくれるなら、 あなたを妨げた臧氏に仕返しをしてやりましょう」と言ったので、季孫弥は承諾した。
8月10日、孟荘子が没した。季武子が弔いに行って、終わってから「あとつぎの秩はどこにいる」と尋ねたが、 季孫弥が「後継ぎの羯はここにいます」と言った。季武子は「嫡男の秩の方が年上だ」と言うと、季孫弥は「それは問題になりません。ただ才能の有無が問題です」 と言った。かくて孟孝伯は立てられたので、孟孫秩は邾に出奔した。
B.C.549春、前年に斉が晋を討ったことに報復するため、孟孝伯は斉に攻め入った。
B.C.546春、斉の慶封が魯に来聘した。孟孝伯は「慶季の車はなんと立派ではないか」と言うと、 叔孫豹が「衣服が立派でも身分不相応であれば、終わりはよくないといいます」と答えた。
B.C.545秋、孟孝伯は晋に出かけて、これから楚に朝して宋の盟いを実行することを報告した。
B.C.544、6月、晋が杞に城壁を築いた。孟孝伯は赴いて工事を援助した。
冬、孟孝伯は晋に使いして、夏に来聘した范鞅に対する返礼をした。
B.C.542、1月、叔孫豹が孟孝伯に「趙孟(趙武)はまもなく死ぬであろう。 彼は一時逃れの無責任ぶりで民の上に立つ者ではない。歳はまだ50にもなっていないのに、くどくどしゃべって8、90の老人のようだ。 次の執政は韓子(韓宣子)であろうか。今のうちに彼と友好を結ぶべきだ。韓子は弱気で、大夫は貪欲だ。 いち早く魯の立場を有利にさせておくべきだ」と言ったが、孟孝伯は聴き入れなかった。叔孫豹は「孟孫はやがて死ぬであろう。孟孫のほうがもっと無責任だ」と言った。
9月18日、孟孝伯は没した。
孟穀(モウコク)
孟文子
孟子(モウシ)【文官】
戦国時代の儒家。姓は孟、名は軻、字は子輿(子車、子居ともいう)。鄒の人。B.C.372〜B.C.289。
孟子は孔子思について学んだ。
魏・斉・宋・薛・滕を遊説して、孔子・子思の説を説いた。
B.C.321孟子は魏の大梁に行き、魏恵王に謁見した。
しかし恵王は言うことが迂遠で現実の事情にうといと思ったため、孟子の言うことを信じなかった。
B.C.319孟子は魏襄王が君主でないとして、魏を去って斉に赴き、宣王に見えた。
B.C.314斉が燕を討ったとき、孟子はこれを諌めたが、宣王は聴き入れなかった。そのため孟子は斉を去った。
当時は商鞅呉起孫臏田忌らが合従連衡に狂奔し、攻伐を賢明とした時代であった。孟子はもっぱら唐虞三代(・夏・商・周)の帝徳を唱導したのであって、時勢の要求に遠いため、どこへ行って説いても容れられなかった。 そこで引退して弟子の万章などと詩経や書経を講述し、孔子の意とするところを祖述して「孟子」7篇を著した。
当時の異端諸説を攻撃し、また性善説を唱え、王道政治を説いた。
孟子は宋代に鄒国公に封じられ、孔子の廟に併せ祀られた。
申しは元代に聖人孔子に次ぐとして亜聖と称せられ、鄒国亜聖公となった。
孟子(モウシ)【女官】
武公の娘。魯恵公の正夫人。
孟子は恵公に嫁いだが、子を産むことなく没した。
孟舎(モウシャ)【在野】
勇士。字は施。
とても勝てない相手でも、敵を畏れず進む気力を持っていた。
『孟子』に見える。
毛叔鄭(モウシュクテイ)【文官】
周の臣。
武王が商を滅亡させ革命の宣言をするときに、明水(鏡をもって月から取った水。祭祀に用いる)を奉じる。
孟女(モウジョ)【女官】
荘公の夫人。孟任ともいう。大夫党氏の娘。
あるとき荘公が物見台を築いて、大夫の党氏の邸宅を見下ろした。そこで孟女を見て、これをものにしようとした。孟女は夫人にするなら許すと言ったので、 荘公はこれを容れ、公子を産んだ。
孟勝(モウショウ)【在野】
思想家。3代目鉅子(指導者)。〜B.C.381。
B.C.381楚の陽城君呉起殺害に加担したため粛王に処罰されることになった。
孟勝はかねて陽城君と親交を結び、彼の采邑防禦を委託されていたので、墨家集団を率いて楚の正規軍と戦ったが、守りきれず敗退した。
孟勝は「人の国を受け持って守ることができなかった。死をもってつぐなわねばならぬ」と言った。
弟子の徐弱は「死んで陽城君に利があるなら、死んでもいいでしょう。利なくして墨者が世に絶えるのは、 よろしくありません」と言った。
孟勝は「そうではない。もしここで死を逃れるならば、たとえ墨者が生き残ったとしても、墨家の信用は失墜して、墨家は活動できなくなるのであろう。 鉅子を宋の田襄子に継がせるので、墨者の活動は維持されるであろう」と答えた。
そこで田襄子に鉅子の譲位を伝える使者として、二人の墨者が立ち、残った墨者180人は孟勝とともに全員自決した。
二人の使者は田襄子に告げ終わると、田襄子の制止を振り切って楚に戻り、皆の後を追って自決した。
毛嬙(モウショウ)【女官】
趙王の美姫。
孟嘗君(モウショウクン)【宰相】
戦国四君のひとり。田斉、秦の宰相。姓は田、名は文。田嬰の子。〜B.C.279頃。
田嬰には40余人の子があった。孟嘗君は身分の賤しい妾との子であった。
5月5日に生まれたので、田嬰はこれを嫌い、育ててはならぬと命じたが、母はひそかに育てた。
のち孟嘗君は成長して田嬰と会った。田嬰はその母に怒って言った。
「わしはこの子を捨てよと言ったのに、どうして育てたのか」
孟嘗君は頓首して「父上が5月生まれの子を育てようとされないのはなぜですか」と言った。
「5月生まれの子は身の丈が戸の高さになると、親を殺すというからだ」
「人は命を天から受けたものでしょうか。それとも戸から受けたものでしょうか」
田嬰は黙然として答えなかった。孟嘗君はさらに言った。
「命を天から受けたものなら、お案じなさるに及びません。命を戸から受けたのなら、戸を高くすればよろしいでしょう」
「おまえ、その話はもうやめよ」と田嬰は言い、会見を終えた。
またしばらくして孟嘗君は田嬰に問うた。
「子の子は何ですか」「孫だ」
「孫の孫は何ですか」「玄孫だ」
「玄孫の孫は何ですか」「わからない」
「父上は政治にたずさわり、斉の宰相として功を積まれ、斉の領土は一向に広まらないのに、わが家は万金の富を積み、しかも門下には一人の賢人もいません。いま父上はなお、 蓄積を重ね、誰かわからない子孫に残そうとしておられます。わたくしは心ひそかに奇怪に思うのです」と言った。
田嬰はそこではじめて孟嘗君を礼遇し、家事を宰領させ、食客を接待させた。
食客は日増しに集まり、名声が諸侯にとどろき、諸侯はみな使いをやって孟嘗君を後継ぎに立てるよう田嬰に請うた。田嬰はこれを承諾した。
田嬰が没すると、代わって薛の領主となった。
孟嘗君は薛で諸侯の食客を招き、罪人までも受け入れた。食客は数千人を数えたが、孟嘗君は貴賎なく、みな自分と対等に遇した。
孟嘗君は客と座談する時、ふすまの後ろに侍史をひかえさせており、客の住所を記録させ、客が帰るとすぐに使いをやってその親戚を訪問させ、礼物を贈った。
ある日、客と夜食したとき、誰かが灯火の光をさえぎった。客は食物の差をかくすためだと邪推し、怒って去ろうとした。孟嘗君は席を立ち、 みずから食物を手にとって並べて見せたので、客は恥じてみずから首を刎ねて死んだ。このようなことで孟嘗君に帰服した者が多かった。
B.C.301秦昭襄王がその賢を聞いて、弟の涇陽君を斉に人質として出し、孟嘗君に会見を求めた。 孟嘗君はこれに応じて秦に行こうとしたが、蘇代がこれを諌めたので、とりやめた。
B.C.298斉湣王は孟嘗君を秦に入国させた。
秦昭襄王は孟嘗君を宰相として礼遇したが、ある者が「孟嘗君は斉の一族ですから、かならず斉の利益を先にして、 秦を後にしましょう。これは危ういことです」と讒言した。そこで昭襄王は孟嘗君を謀殺しようとした。
B.C.297孟嘗君は昭襄王の愛妾のところへ使いをやり、釈放に尽力してくれるよう頼んだ。すると愛妾は狐白裘を求めた。それは孟嘗君が昭襄王に献上したものであり、 他には所持していなかった。
孟嘗君は困って食客にたずねたところ、狗盗(こそどろ)が名乗り出て、夜半狗をまねて蔵に忍び入り、狐白裘を盗み出した。そこでそれを愛妾に献上すると、 昭襄王は孟嘗君を釈放した。
孟嘗君はすぐに出発し、姓名を変え、封伝(手形)を改めて、夜半に函谷関に着いた。昭襄王は孟嘗君を釈放したことを悔い、追手を差し向けた。 関の掟として鶏が鳴かないと門が開かれなかった。孟嘗君は追いつかれることを恐れたが、鶏の鳴き声をまねるものがおり、それにつられてあたりの鶏が鳴き出した。 それで孟嘗君はついに関を出ることができた。
帰途、趙を通過すると、趙人は孟嘗君を見て笑って「薛公(孟嘗君)はさぞ偉丈夫だろうとかねがね思っていたのに、いま見れば、ほんの小男にすぎないではないか」と言った。 孟嘗君は怒って食客たちと一県を滅ぼして、そこを立ち去った。
斉湣王は孟嘗君を秦に遣わしたので、これを恐れたため、孟嘗君は帰国すると宰相となった。
B.C.296孟嘗君は秦を恨み、韓・魏とともに秦を討った。
孟嘗君のことを湣王にそしる者があった。たまたま田甲が背いた。湣王は孟嘗君がそそのかしたと思い、 そのため孟嘗君は出奔した。しかし調べてみると孟嘗君に謀叛の事実はなかった。
そこでまた召されたが、孟嘗君は病気と称して断り、薛に帰って隠退することを許された。
このとき説客の譚拾子が孟嘗君に言った。
譚拾子「君は、讒言した斉の士大夫をお怨みになっていることでしょう」
孟嘗君「もちろんだ」
譚拾子「彼らに報復しますか」
孟嘗君「そのとおりだ」
譚拾子「君は、事には必至があり、理には必然があるということをご存知ですか」
孟嘗君「知らない」
譚拾子「事の必至というのは死のことであり、理の必然とは、富貴になれば人は従い、貧賤になれば人が離れるということです。たとえば、 市場は朝は人が満ちていますが、夕にはいなくなります。朝に市場を愛し、夕にこれを憎むというのではなく、朝には求める物があるから人が集まり、 夕にはないから離れるのです。
どうか君にはお怨みにならないで下さい」
そこで孟嘗君は怨みに思っていた者の名を書いた札500枚を削り去り、決して口にしようとはしなかった。
秦の亡臣呂礼が斉の宰相となり、蘇代を苦しめようとした。蘇代は孟嘗君に「呂礼が重んじられば、斉は秦と連合し、 かならず君は軽んじられましょう。君には、斉と秦の連合を妨げ、諸侯と結ぶようにさせるべきです」と言った。
孟嘗君は呂礼に害されるのを恐れていたので、秦の宰相魏冄に書を送って「呂礼が斉で成功すれば、秦でも重んじられ、 これに反してきみは軽んぜられましょう。あなたとしては秦王に勧めて斉を討つのがよいでしょう。斉が敗れれば、得た地をあなたに封ずるよう請いましょう。 秦もかならずあなたを重んじましょう」と言った。
そこで魏冄は斉を討ち、呂礼は逃亡した。
B.C.284湣王は宋を滅ぼし、ますます驕慢となり、孟嘗君を退けたいと望んだ。孟嘗君は恐れて魏に去った。
孟嘗君は魏で宰相となり、秦と連合して、趙・燕とともに斉を討ち、大いにこれを破った。
斉では襄王が立ったが、孟嘗君は諸侯の間に中立して、いずれにも加担しなかった。襄王は孟嘗君を畏れて、諸侯と和親し、 また孟嘗君とも親しんだ。
没して、諡を孟嘗君といった。
子供たちが後継者争いをしたので、斉・魏に攻められ、孟嘗君の後嗣は絶えた。
毛遂(モウスイ)【在野】
平原君の食客。
B.C.258趙は秦に攻められたため、平原君に命じて楚に救援を請わせた。平原君は「文で勝ち取れるものなら、それでよし。文で取れないなら武力でおびやかし、 血を華屋の下にすすっても、かならず合従を約すのだ。同行の士は、外に求めなくてもわが食客・門下から取れば十分だ」と言い、門下から19人を選んだが、 あと一人は人がなかった。すると毛遂が自薦した。平原君は、
「先生はわしの門下に来て何年になりますか」
「3年になります」
「賢士たるもの、たとえば袋の中に錐があるように、その先端は立ちどころに現れるものである。いま先生は来て3年になられるが、評判を聞いたことがない。お留まりくだされ」
「わたくしを早くからふくろの中におらせたなら、突き出してしまし、穂先だけが現れるどころではないでしょう」
平原君はついに毛遂を同行させた。
平原君は楚考烈王に説いて合従しようとした。毛遂は剣の柄に手をかけ堂に上り、平原君に「日の出から合従を論じ、 日中まで決着しないのはどうしてですか」と言った。
考烈王は「この者は誰か」と問うと平原君は「わしの舎人です」と答えた。
考烈王は叱咤して「どうして堂を下りないのか。わしはおまえの主君と論じているのだ」と言った。毛遂は「王がわたしを叱咤するのは、楚国をたのんでのこと、 いま王とわたしの間は十歩で、王は国の衆を頼むわけにはいきますまい。王の命はわたしの手中にあります。そこでわが君の面前で叱咤するとはなにごとでしょうか。 いま楚は方五千里、兵は百万といいます。しかるに秦の白起は小僧っ子にすぎないのに一戦して鄢・郢を屠り、夷陵を焼き、楚の祖先を辱めました。 これは百世の痛恨事、他国の趙でさえ恥じるところです。それなのに、王は秦を恨むことをご存知ありません。合従はただ趙のためにあるのではありません」と説いた。
考烈王は「もっともだ。まことに先生の言うとおりである。謹んで国家をささげて説に従おう」と言った。
平原君は帰国し、毛遂を上客とした。
孟増(モウゾウ)【武官】
秦、趙の先祖。季勝の子。宅皋狼ともいう。
成王に寵愛される。
孟荘子(モウソウシ)【文官】
魯の臣。仲孫速、孟孫速ともいう。孟献子の子。
B.C.557秋、斉霊公が魯の郕を囲んだ。孟荘子は斉軍を迎え討とうとした。斉霊公はこれを見て 「彼は勇気を好む者だ。逃げて彼の名声をあげさせてやろう」 と言って退却した。孟荘子はすぐに海陘の隘路をふさいで引き揚げた。
B.C.555魯は晋とともに斉を討ち、斉の都まで攻め込んだ。孟荘子は城門に生えていたチュンの木を切って魯襄公用の琴を作った。
B.C.553、1月22日、魯は莒と和睦した。孟荘子は莒人と会合して莒の向で盟った。
秋、孟荘子は邾を討った。魯はたびたび邾に攻められていたが、連年の会合のために報復することができなかった。
猛足(モウソク)【文官】
晋の臣。申生の家臣。
献公は蒸祭のとき、わざと病気と称して出席せず、奚斉に祭を行わせた。
そこで猛足は申生に「伯氏(狐突)は門を閉ざして出ず、奚斉が君侯の代理をしています。どうして善後策を講じないのですか」と言った。 申生は「君命を棄てるのは不敬であり、わたしが命令を作るのは不孝です。その上、父の愛情をひき離して父の賜を善しとするのは不忠であり、 人を退けて自分が成功するのは不貞です。わたしは曲沃に留まります」と答えた。
B.C.655申生は死ぬ前に猛足をやって出廷していない狐突に「貴殿の話を聞かなかったために死ぬことになりました。死ぬのは厭いませんが、わが君は年老い、国家は多難です。 貴殿が朝廷に出ないなら、わが君はどうなるのでしょうか。わが君のために考えて下さるならば、わたくしはその御恩を受けて死にましょう」と言わせた。
孟孫速(モウソンソク)
孟荘子
孟孫秩(モウソンチツ)【文官】
魯の臣。名は秩。孟荘子の子。
B.C.550、8月10日、孟荘子が没した。季武子が弔いに行って、終わってから「あとつぎの秩はどこにいる」と尋ねたが、 季孫弥が「後継ぎの羯(孟孝伯)はここにいます」と言った。 季武子は「嫡男の秩の方が年上だ」と言うと、季孫弥は「それは問題になりません。ただ才能の有無が問題です」と言った。かくて孟孝伯が立てられたので、 孟孫秩は邾に出奔した。
孟縶(モウチュウ)【公子】
衛の公子。公孟縶ともいう。衛襄公の子。母はシュウ姶。〜B.C.522。
B.C.535、8月、衛襄公が没した。衛襄公の夫人姜氏には子がなく、お気に入りのシュウ姶が孟縶と公子を生んでいたが、 孟縶は足が不自由であった。 そこで孔成子史朝は占いを立て孟縶を廃して公子元を立てた。
孟縶は斉豹をあなどって、司寇の職と鄄の邑を取り上げ、労役などがおこるときだけこれを返した。 また孟縶は北宮喜褚師圃を憎んで二人を追い出そうと考えていた。
B.C.522、6月29日、孟縶は蓋獲という郭門の外で祭りを行うこととなった。斉豹はその門の外にとばりをめぐらせて武装兵を伏せておき、 薪の積んだ車の中に戈をかくして、その車を門前に置いて公孟縶のあとを追わせて襲った。 右役の宗魯が孟縶をかばって背で戈を受けとめようとしたが、 その一撃は宗魯の腕を切り落として孟縶の肩をも切りつけ、ふたりとも殺された。
孟仲子(モウチュウシ)【在野】
孟子の従兄弟。孟子の弟子。
孟張(モウチョウ)【宦官】
晋の宦官。
あるとき晋厲公が狩猟したとき、郤至が豚を殺して奉進したが、孟張はこれを奪った。 そのため孟張は郤至に射殺された。晋厲公は「季子(郤至)はわしをあなどっている」と言い、三郤を殺すことを考えた。
毛得(モウトク)【武官】
周王朝の臣。
B.C.524、2月16日、毛得は毛伯過を殺してその地位についた。萇弘は「毛得はきっと滅びるであろう」と言った。
孟任(モウニン)
孟女
毛伯衛(モウハクエイ)【文官】
周王朝の臣。〜B.C.594。
B.C.626毛伯衛は周襄王の命により魯に赴き、 魯文公に命圭(天子から賜わる爵命を表す圭)を賜わった。
B.C.618春、毛伯衛は魯に赴いて、周襄王の葬式に用いる金を魯に求めた。
B.C.594、6月、毛伯衛は王孫蘇と政権を争ったため、王孫蘇に助力した王子に殺された。
毛伯過(モウハクカ)【文官】
周王朝の臣。〜B.C.524。
B.C.524、2月16日、毛伯過は毛得に殺されてその地位を奪われた。
毛伯得(モウハクトク)【武官】
周王朝の臣。
B.C.516冬、子朝は周敬王に敗れたため、 召氏の一族・毛伯得・尹氏固南宮嚚と一緒に周の文書を持ち出して楚へ逃げた。
蒙武(モウブ)【将軍】
秦の将軍。蒙驁の子。
B.C.285斉を討つ。
B.C.224秦の副将となり、王翦と共に楚を討ち、楚を滅ぼす。
B.C.223王翦とともに楚の叛乱軍を討ち、これを破った。昌平君は戦死し、 項燕は自殺し、楚を完全に滅ぼす。
孟武伯(モウブハク)【文官】
魯の臣。名は彘。孟懃子の子。
孟文子(モウブンシ)【文官】
魯の大夫。名は穀。公孫敖の子。母は戴己。公孫穀、文伯ともいう。
B.C.626人相見で有名な周の内史叔服が魯に来た時、公孫敖は自分のふたりの子を面会させた。 叔服は「穀(孟文子)はしもぶくれであるから、子孫が栄える」と答えた。
父の公孫敖は莒に出奔して二子をもうけたが、魯に帰ることを望んだので、孟文子は公室に懇請した。襄仲は家にあって君命を受けるという条件でそれを認めた。 そこで公孫敖は魯に帰ることができた。
文公は公宮を広めようとして孟文子の邸宅を移転させようと使者をやった。孟文子は「官暑(邸宅)は朝夕に君命を謹んで遂行する所です。 失礼ながらご命令には従いかねます。もしわたくしに罪があれば、俸禄を車服を返納して、官暑から立ち退きましょう」と言って断った。 臧孫伯はこれを聞いて「孟孫はよくぞその職を守った。彼は父穆伯の乱行をかばい補って、 子孫が魯で祭祀を絶やさないように守ることが出来よう」と言った。
孟文子は病気にかかったので、君にお願いして「わたしの子(孟献子)はまだ幼少なので、 どうか弟のに継がせてください」と言ったので、文公はこれを許した。
孟文伯(モウブンハク)
孟文子
孟丙(モウヘイ)【文官】
魯の臣。叔孫豹の子。〜B.C.538。
B.C.575叔孫豹は斉に出奔し、斉の国氏から妻を迎えて孟丙と仲壬を生んだ。
B.C.538叔孫豹は病気になった。叔孫豹は孟丙に命じて鐘を鋳させて「お前はまだ大夫たちと接見していないから、大夫たちにご馳走をして鐘の落成祝いをしなさい」 と言った。孟丙は準備を整えて豎牛に命じて叔孫豹に招待の日を伺わせたが、 豎牛は叔孫豹に伺いを立てずいつわって日取りは決まったと報告した。 その日、孟丙が鐘をつくとはたして叔孫豹は怪しんだ。豎牛が「孟さまが公孫明をもてなしておられます」と讒言したため、叔孫豹は立腹した。 豎牛は孟丙を捕らえて邸の外で殺した。
孟卯(モウボウ)【文官】
魏の臣。
B.C.293魏昭王は孟卯を使者として温の囿を周君に贈呈し、周へ守備兵を派遣した。
孟穆伯(モウボクハク)
公孫敖
孟明視(モウメイシ)【武官】
秦の臣。姓は孟、名は視、字は明。百里奚の子。
B.C.628鄭に駐在している杞子から秦に「鄭人はわたしに北門の鍵を預けています。今、鄭を攻めれば、これを取ることができます」 と報告があった。そこで孟明視は出兵した。
B.C.627春、秦軍は周の北門を通過した。兵車の御者は冑をぬいで兵車から降りて都に敬意を示し、また乗った。 これを見た周の王孫満は「軍が軽率で礼儀がない。きっと負けるでしょう」と周襄王に言った。
軍が滑に着くと、鄭の商人弦高が牛12頭を献上した。その落ち着き振りを見て孟明視は、鄭に万全の備えがあると判断して、 鄭を攻めず晋の辺邑の滑を滅ぼして帰還した。
4月15日、晋襄公は怒って兵をおこし、孟明視は殽で大いに破られ、秦軍は一人残らず全滅して、孟明視は捕えられた。
しかし文嬴のとりなしがあったため、孟明視ら三将は帰国することができた。
繆公は白い服(喪服)を着て郊外に出迎えて三人に泣いて 「わしは百里奚と蹇叔の忠言を聴かなかったので、三子を辱めた。三子に何の罪があろうか。 おまえたちは、この後専心恥をすすぐよう努めてくれ」と言い、もとのままの官秩として、いよいよ厚遇された。
B.C.625春、孟明視は繆公の命で晋を討った。
2月9日、孟明視は晋軍と彭衙で戦って大破された。晋の人はこの秦軍を拝賜の師と読んで嘲笑した。
繆公は孟明視が再度晋と戦って大敗しても、なお孟明視を用いて辞めさせなかった。孟明視はいよいよ国政に励み、厚く恩恵を民に施して晋に報復することを謀った。 晋の趙衰は晋の大夫たちに「秦軍はまた攻めてくるだろうが、必ず避けて相手にせぬよう。孟明は敗戦して懼れ退いて徳を修めている。 敵対することのできぬ人物である」と言った。
B.C.624孟明視はさらに繆公に厚遇され、兵をひきいて晋を討った。孟明視は黄河を渡ると船を焼いて生還しないことを期し、 大いに晋軍を破って王官、鄗を取り、殽の戦いの敗北に報いた。
孟姚(モウヨウ)【女官】
武霊王の夫人。呉広の子。
武霊王に寵愛されて、その子何は王となる。
孟陽(モウヨウ)【武官】
斉の臣。〜B.C.686。
B.C.686、12月、連称管至父公孫無知と結託して斉襄公を攻め殺した。
孟陽は襄公の身代わりとなり、寝台で殺される。
目夷(モクイ)【公子】
宋の公子。字は子魚。桓公の子。大司馬。左師。
目夷は、母が正夫人ではなかったため太子となれなかった。
B.C.652桓公は病気となった。太子茲甫(襄公)が目夷に位を譲ると言ったので、 桓公は目夷を太子にしようとした。しかし目夷は辞退して「国を譲れるというのは、これより大きな仁はありません。また庶子のわたしが立つのは道にはずれています」 と言ったので、桓公はこれを取りやめた。
B.C.651襄公が即位すると、目夷は仁者であるとして、左師に任じられて国政に参加した。そのため宋はよく治まった。
B.C.641、3月、襄公は会盟に参加しない滕宣公を捕えて、威を示した。
6月、襄公は曹・邾と曹の南で会盟した。襄公は邾文公に命じて鄫の君を捕らえさせて、東夷を脅して服従させようとした。
目夷は「わが君はひとたび諸侯を会合させただけで滕・鄫二国の君を捕えるというむごい目にあわせている。それでは覇者にはなれない」と批難した。
秋、曹が宋に服従しなかったので、襄公は曹を包囲した。
目夷は「君の徳は今もなお欠けているところがあるのではありませんか。しばらくわが身に立ち返って、わが身の徳を反省なされませ」と諌めたが、 襄公は聴き入れなかった。
B.C.639春、宋は斉と楚と鹿上で会盟して、宋が諸侯の盟主となることを楚に求め、楚はそれを許した。
目夷は「宋は小国であるのに、盟主になろうと争うのは禍のもとです。宋は滅びるかもしれない」と諌めたが聴き入れられなかった。
秋、襄公が盂で会同したとき、目夷は「禍はここから起こるだろう。わが君の野望もここまで来ればひどいものだ。諸侯はどうしてこれに堪えられるだろう」と言った。 はたして楚が襄公を捕え、楚は宋を討った。
冬、楚が襄公を釈放した。目夷は「禍はまだ去っておりません。これだけではわが君を十分にこらしめておりません」と言った。
B.C.638鄭が楚についたので、襄公は鄭を討った。すると楚が宋を討って、鄭を助けた。襄公は楚と戦おうとすると、目夷は「天が商を滅ぼしてから久しいことになります。 君が商を復興させようとしても許されません」と諌めたが、襄公は聴き入れなかった。
11月己巳の朔に、宋軍と楚軍は泓水のほとりで対陣した。楚軍がまだ川を渡ってこないときに、目夷は「敵は多勢で、わがほうは無勢です。渡河する前に討つべきです」 と進言したが襄公は聴き入れなかった。楚軍が渡河してまだ布陣していなかったとき、目夷は「討つべきです」と進言したが「敵の布陣が終わるのを待とう」と襄公は答えた。
そこで楚軍が布陣し終わってから宋は攻撃したため大敗し、襄公は股に負傷した。
襄公は「君子は人の困窮しているさなかに苦しめず、敵の布陣がおわらぬうちに陣太鼓をうって攻めないものだ」と言って気にとめなかった。
目夷は「戦は勝つことがつとめです。そのうえに何を言うことがありましょう。わが君の仰せられるようにしなくてはならないなら、 奴隷として敵に仕えるほかありません。こんなことなら戦う必要などございますまい」と言い残念がった。
目夷の子孫の魚氏は代々、宋の左師となった。
木羽(モクウ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
鉅鹿南和の平郷の人。木羽の母は産婆をしていたが、あるとき赤ん坊が生まれるなり、にこにこ笑った。その夜の夢に司命君を見て、産婆の子目羽に仙道をさずけるといった。 そこで産婆は自分の子供が生まれると木羽と名づけた。木羽が15歳になったとき、車馬が来て「木羽よ、予のために御者をいたせ」といって連れ去られた。のち20余年、鸛 (こうのとり)が朝ごとに魚をくわえてきたので、母はそれを売って100歳まで生きたという。
門尹班(モンインハン)【文官】
宋の臣。
B.C.633楚が宋都を包囲した。門尹班は使者として晋に危急を知らせた。そのため晋は救援の軍を挙げた。
B.C.632、3月、宋は再度門尹班を使者として晋軍に赴かせ、事態の急を告げた。


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