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李帰(リキ)【武官】
張楚の臣。〜B.C.209。
B.C.209田臧に命じられて滎陽城を引き続き攻撃した。 しかし田臧は章邯に破られて戦死し、李帰も滎陽の城下で打ち破られ、李帰は戦死した。
李左車(リサシャ)【文官】
趙の臣。漢の臣。広武君。
B.C.205韓信張耳とともに兵数万を率い、東進して井陘に下り、趙を討とうとした。 趙歇陳余は兵を井陘口に集め、兵力30万と号した。
李左車は陳余に説いて言った「韓信と張耳が趙を降そうとするのは、本国を離れ遠く他国で戦うものです。 いま井陘の道は車を並べて行けず、騎馬は列をなして行くことが出来ません。だから行軍数百里にも及ぶなら、糧食は遅れて後方にあることでしょう。 あなたの奇兵3万をお貸しいただきたい。わたくしは間道から敵の輜重を切断しましょう。
あなたは陣を固めて、敵と合戦されぬように。敵は進んでも戦えず、退くともできず、その間に後方を切断すれば10日以内で敵将の首を持参することができましょう」
しかし陳余は儒術を好み、常に正義の戦をとなえ、詐謀奇計を用いることがなかったので「兵法に『十なればこれを囲み、信なればこれと戦う』とあるが、 韓信の兵は実際は数千に過ぎない。また遠くから来ているから極度に疲労しているだろう。このような敵さえ避けていたら、今後大敵が来たときどう対処するのか。 もし諸侯がわが方を卑怯と見れば、軽々しく襲ってくるだろう」と言って聴きいれず、奇兵を用いて輜重隊を討つことをしなかった。 韓信は人を遣って内情を探らせていたが、李左車の策が用いられないことを知り、大いに喜んで敢然と兵を率いて井陘の隘路を下り、 井陘口の手前30里の地で宿営し、韓信は趙軍を挟撃し、大いに破ってこれを捕虜とし、泜水のほとりで陳余を斬り、趙歇を生捕りにした。
韓信は軍に命令して「広武君を殺してはならない。これを生捕った者には、千金を与えよう」と言うと、李左車は生捕りにされた。韓信は紐を解いてみずからは西に向いて対座し、 これを師と仰いだ。そこで韓信は李左車に問うて
「わたしは燕と斉を討とうと思うが、どうすれば成功するだろうか」
李左車「『敗軍の将は勇を語らず、亡国の大夫は国事をはからず』とか。どうしてわたしが発言できましょう」
韓信「『百里奚は虞にいて虞ほろび、秦にいて秦を覇者にした』とか。成安君(陳余)がもしあなたの計を聴き入れたとすれば、 わたしが捕虜になっていたでしょう。どうか謙遜しないでほしい」
李左車「『智者も千慮にかならず一失あり、愚者も千慮にかならず一得あり』とか。それでは申し上げます。いま兵卒は疲れ果てており、 燕・斉を攻めてもおそらく長くかかり屈服させられないでしょう。わたしはいま燕・斉を討つのは誤っていると思います。されば味方の不利をもって敵の有利を討たず、 味方の有利をもって敵の不利を討つのであります」
韓信「それではどういう方策に出ればよいか」
李左車「兵を抑えて休養させ、趙を鎮定して、戦没者の遺児を憐れみ、また士大夫に饗食させ、彼らを燕に向かわせるのがよろしいでしょう。そのうえで弁士を遣わし、 書簡を送ってわが方の有利を明示するなら燕は聴従しないわけにはいかぬでしょう。燕を従わせたのち、弁士を遣って斉に告げたら、斉もかならずや服従するでしょう」
韓信はその策に従って使者を燕に遣わすと、燕は草の風になびくように服従した。
李斯(リシ)【宰相】
秦王朝の宰相。左丞相。上蔡の人。〜B.C.208。
年若くして楚の郷里の小役人となった。役所の厠で鼠が糞便を食らい、人や犬が近寄ると驚き恐れて逃げるのをしばしば見たが、倉に入ると、倉の中の鼠は貯蔵米を食い、 人や犬におびえることなく、広々とした軒下にいるのを見た。
李斯は嘆息して「人の賢と不賢は、たとえば鼠のように、ただ居る場所のちがいによるだけだ」と言った。
そこで荀子に師事して、帝王の術を学び、業を終えると、六国は弱小で功業を建てる余地が少ないとし、秦に入ろうと、 荀子に暇乞いして「秦は天下を統一しようとしています。まさに布衣の士が奔走すべき時であり、 遊説の士にとって緊要なときです」と言い、秦に行き、呂不韋の家来となった。
呂不韋は李斯が賢明であるとし、推薦して郎とした。
B.C.246秦王が立つと李斯はその舎人となる。
李斯は秦王政に説く機会を得て、六国を併合するよう進言した。秦王政は李斯を長史に任じて、その策を聴き入れ、策士に黄金珠玉を持たせて、諸侯に遊説させた。 また列国の名士で、財宝の力で味方にできる者には手厚く賄賂し、動じないものには刺客を放って殺させ、君臣を離間した後に良将を遣って討伐させた。
李斯は客卿(他国人の大臣)となった。
B.C.237韓の鄭国の策が秦の国力をそぐことを目的としていたことが発覚したため、秦の宗室、大臣らは国外出身者を追放するよう秦王政に進言した。秦王政は、国内を捜索して、 諸国からの客を追放した。李斯は自分もその対象になっていたので、李斯は上書して「むかし繆公は、 由余百里奚蹇叔邳豹公孫支を招いて西戎の覇者となられました。 また孝公商鞅の法を採用して国力を増しました。 恵王張儀の計を用いて、巴蜀を併せ、六国の合従を解きました。 昭王范雎を得て公室を強くし、諸侯の地を蚕食しました。
この4人の君主はみな外客を登用して成功したのであります。いま外客を追うて敵国を利し、人民をそこなって仇敵に益すのは得策ではありません」と言った。
秦王政はそこで逐客の令を解除して李斯を復職させ、李斯は廷尉(治獄の官)に任じた。
秦王政は韓非子の孤憤・五蠹の諸篇を見て「ああ、わしはこの著者に会って交遊することができれば、死んでも本望である」と言った。 その著者は李斯と同門の韓非であると説明した。
秦王政は韓非を手に入れるために、李斯の進言で韓を降させることとし、李斯を使わした。そして急に韓を討った。韓王はこれを聞いて大いに憂え、 韓非に秦の力を弱めることを図らせた。
B.C.233そのため韓非は秦に使いする。
韓非は政に気に入られたが、まだ信用して登用されていなかった。李斯と姚賈らは、韓非が用いられると自分に不利と思い、韓非を讒言した。 秦王政はもっともと思い、役人に命じて処分させた。李斯は韓非に毒薬をもって自殺を迫った。韓非は王に陳弁したいと願ったが、許されず、自殺した。
秦王政はこれを後悔したが、韓非はすでに死んでしまっていた。
B.C.221秦が天下を統一すると、丞相王綰は「諸侯が滅んだばかりで、ことに燕・斉・荊(楚)などの地は遠方にあり、 王を置かないと安定しないでしょう。主上には、どうか諸公子を立てて、各地の王とすることをお許し願いたい」と進言した。
群臣は皆それを上策としたが、李斯は「周の文武は、子弟や同姓を封じましたが、後世になると疎遠になり、周の天子は抑えることができませんでした。 諸公子や功臣は国家の賦税で厚く待遇したら、それで充分でありまして、また制御しやすいのです。天下に異心を懐く者のないのが安寧の術であり、 諸侯を設けるのは上策ではありません」と論じた。始皇帝は李斯の言を容れ、天下を36郡(6の数を尚ぶからその倍数とした)とし、郡ごとに守・尉・監を置いた。
秦が天下を統一して、文字を統一し、離宮・別館を造って、帝王が領内を巡幸することを明らかし、対外的には四方の蛮夷を追いはらったことは、 すべて李斯の力に負うところが多かった。
李斯の長男李由は三川郡太守となり、そのほかの男子も秦の公主をめとり、女子はことごとく秦の諸公子に嫁した。
家で酒宴を催した時、李斯は嘆息して「ああ、かつて荀卿は『ものごとは盛大すぎるのを戒めなくてはならない』とあった。わしは上蔡の布衣であったが、 主上はわしの不才を知らずに抜擢され、ついに今日のようになった。わしは富貴を極めたといえよう。我が身の末がどうなるものか、わしにもわからない」と言った。
B.C.213始皇帝は咸陽宮に宴会を開いた。このとき博士淳于越が進み出て、子弟功臣を諸侯に封じるよう進言した。 始皇帝はこれを臣下に下して論議させた。李斯はこれに反対し「五帝時代は同じ政治をふたたびせず、三代も同じ政治を踏襲しませんでしたが、それぞれ治まっていました。 これは時勢に相違があったからです。いま陛下が万世の功を建てられましたのは、もとより愚儒などのわかることではありません。
今は天下がすでに定まり、法令は一途に出て、百姓は農耕につとめ、士人は禁令にふれないようにしています。それなのに諸生だけが当代をそしって人民を惑わしています。 丞相臣斯はあえて申し上げます。このような諸生の言は禁止すべきです。史官の取り扱う秦の記録意外はみなこれを焼き、一般民間にある詩・書・百家の語は焼き払い、 ただ医・卜・農のみ例外とすべきです」と誹謗中傷を行う私学の徒をそしった。
始皇帝はこの言を容れ、医・卜・農以外の百家の書を焼き払った。(焚書)
B.C.211、10月、始皇帝は出遊し、李斯と末子胡亥が伴をした。
B.C.210、7月丙寅の日、始皇帝は沙丘の平台で崩じた。李斯は、始皇帝が都の外で崩じたので、諸公子や天下の者が乱を起すのを恐れたため、 崩御を秘密にして喪を発表しなかった。そしてお棺を轀涼車に載せ、生前と同じように食事をたてまつり、奏事を裁決させた。 趙高は胡亥を説得して、璽書を改竄しようとした。趙高は李斯に説いて
「太子を定めるのは、あなたと高と2人にかかっています。どうしたらよろしいでしょうか」と言った。
李斯は「どこからそういう亡国の言葉が出るのか。人臣として議すべきことではない」と答えた。
「あなたは自ら顧みて、才能では蒙恬とどちらが優れていると思われますか。功績ではどうですか。 将来をはかって失策のないことではどうですか。天下の人から恨まれていないことではどうですか。長子が信頼することでは、どちらが深いとお思いでしょうか」
「この5点とも、みな蒙恬には及ばない。それにしてもなぜそのようなことを聞くのか」
「長子が帝位に即けば、かならず蒙恬を用いて丞相としましょう。あなたも最後には通侯の印を帯びたまま郷里に帰れないことは明白です。あなたにはよく御思案の上、 お決めになりますように」
「おまえは自分の職務を守れ。わしはただ主君の詔を奉じて天命に任すだけだ」
「安泰も転じて危険とすることができ、危険も転じて安泰とすることができ、危険も転じて安泰とすることができます。はからいによって安危を決められなくては、 聖智も貴ぶには足らないのです」
「わしは上蔡の村里の一平民であったが、幸い主上に抜擢されて丞相となり、子孫もみな尊位重禄につくことができた。どうして、この負託にそむいてよいものだろうか。 もう2度と、このことを口にするな。おまえのことばに従えば、わしは罪を犯すことになろう」
「しかし『聖人は物事に拘泥せず、変転して常度なく、変に応じ時にしたがい、末を見て本を知り、旨意を見て帰着を知る』といいます。 あなたはどうしてこの道理がおわかりにならないのですか」
「晋は太子の申生を廃したため、三代にわたって国が安らかでなく、斉の桓公の兄弟は、 たがいに位を争ったため、身を滅ぼしたという。これは天に逆らった結果である。わしとて人間であるからには、どうして天に逆らい謀叛などできようか」
なおも趙高は李斯を説得した。李斯は天を仰いで歎じ、涙を垂れて溜息し「ああ、ひとり乱世に遭うて死ぬこともできず、どこにわが命を託そうか」と言い、 ついに趙高の謀略に手をかした。
そこで壐書を破り捨て、いつわって李斯が遺詔を沙丘で受けたと言い、胡亥を立てて太子とした。 また別に扶蘇と蒙恬に賜う詔書を偽造して、二人の罪状を数え、どちらにも死を賜うた。
B.C.209春、二世皇帝は東方に巡遊し、李斯が付き添った。碣石に行き、海岸線沿いに南下して会稽に至った。
7月、陳勝呉広らが楚の地で叛乱し、自立して陳王を称した。
そこで李斯はしばしば折をみて諌めようとしたが、二世皇帝は許さず、聴き入れなかった。
長子の李由は三川郡守であったが、呉広らの攻撃を支えきれず、章邯に助けれられた。このため李斯は責められ 「君は三公の位におりながら、このように盗賊をはびこらすのはどうしてか」と二世皇帝に言われた。李斯は恐懼して、二世皇帝におもねって赦しを得ようと、書簡で 「君主の職分が定まり、上下の義理が明らかになれば、天下の臣はみな責任を果たして、主君に従わないものはありません。したがって、 ひとり君主だけが天下を制して至上の楽しみを極めることができるのであります」と言った。二世皇帝はこれを聞いて喜んだ。
そこで督責をおこなうことますます厳しく、人民から上手に租税を取り立てるものを明吏とした。
B.C.208反乱者はますます多くなり、関中の兵卒を発して、賊を討った。趙高は李斯に「関東では群盗がはびこっていますが、阿房宮の修築をまだ行っております。 わたしは諌めたいのですが、位が低くはばかりがあります。どうしてあなたはお諌めにならないのですか」と言った。
李斯は「かねがね諌めたいと思っているのだが、主上は宮中奥ふかくにおられ、申し上げることができないのだ」と言った。そこで趙高は 「主上のひまをうかがってあなたにお知らせしよう」と言い、二世皇帝がまさに酒宴を楽しんでいる時を見計らって、李斯に事を奏上するよう告げた。
李斯は謁見を請うたが、会うことができなかった。このことが三度かさなると、二世皇帝は怒って「丞相は平素ひまなときには来ず、酒宴を楽しんでいる時に限って奏上してくる。 わしを年少と見て軽んずるのであろうか」と言った。趙高は「それは危険です。かの沙丘での陰謀には丞相も関与しています。丞相は王になろうとの下心を持っているのでしょう。 また丞相の長男李由は三川郡守ですが、彼は賊と書簡を往復していると聞いています」と讒言した。
李斯はこのことを聞き、上書して「趙高に邪悪放逸の志、危険叛乱のおこないがあります。陛下が今のうちに処置をはかられなければ、謀叛が起こりましょう」と言った。 しかし二世皇帝は「何を言うのか。趙高は人となり清廉努力、下は民情を知り、上は朕の意にかなっている」と反論した。
二世皇帝は李斯が趙高を殺すことを恐れ、ひそかに趙高に事情を告げた。趙高は「丞相にとって邪魔者は高ひとりであります。 高が死ねば丞相は田常の振舞いをしましょう」と言ったので、二世皇帝は李斯を取り調べることとした。
李斯のほかに右丞相霍去疾、将軍馮劫も位を剥奪され、獄吏に下し、余罪を調べさせられた。 霍去疾と馮劫は「将相は辱められるものではない」と言って自殺し、李斯は禁錮された。
李斯は牢獄の中におり、天を仰いで嘆息して「ああ悲しいかな。むかしは関竜逢を殺し、 は王子比干を殺し、 呉王夫差伍子胥を殺した。彼らが殺されたのは忠義を尽くした主君が非道だったからである。 いまわしの知恵はこの3人は及ばず、二世の無道は桀・紂・夫差を凌ぐものがある。わしが忠義を持って死ぬのは当然であろう。 しかし二世の治世はどうして乱れずにおろうや」と言った。
趙高は二世皇帝の命で李斯の罪を調べて、李斯が子の李由と共に謀叛をはかった罪状を問責し、一族賓客をすべて捕縛した。李斯は拷問されること千余たび、 ついに無罪の罪に服した。
李斯は自殺をせず、自らの弁舌と、秦への功労から獄中より上書して赦しを請おうとしたが、趙高に握りつぶされた。
論告求刑が奏上されると、二世皇帝は喜んで「もしも趙君がいなかったら、あやうく丞相にはかられるところであった」と言った。
7月、李斯は咸陽の市場において、腰斬の刑に処せられることになった。李斯は次子をかえりみて「わしはおまえと今いちど黄犬を連れ、 故郷の上蔡の東門を出て兎を追いたかった」と言った。父子は声を上げて泣き、その三族はことごとく根絶された。
李斯は字書『蒼頡篇』を著す。漢代に、趙高の『爰歴篇』と胡母敬の『博学篇』と合わさって『蒼頡篇』と称されるようになった。
李常在(リジョウザイ)【神】
仙人。神仙伝に見える。
蜀郡の人。若年より道術を修め、すでに4500歳にもなるといわれた。歴代これを見かけたが昔のままであったので、名づけて常在といったのである。
李必(リヒツ)【武官】
秦の臣。漢の臣。左校尉。
重泉の人。
李必は騎馬に習熟し、漢の校尉となった。
B.C.205劉邦は騎兵の将になる人物を軍中で選んで、もと秦の騎士である李必と駱甲を任じようとした。 しかし李必と駱甲は「わたくしはもと秦の者であり、おそらく軍はわたくしらを信用しないでしょう。願わくは大王の近臣の中から選んで将となされ、 わたくしらはその介添になりたいと思います」と辞退した。そこで灌嬰が将となり、李必は左校尉となった。
李由(リユウ)【文官】
秦王朝の臣。李斯の子。〜B.C.208。
三川郡の郡守となる。
B.C.209呉広が滎陽を囲んだが、李由はこれをよく守った。
のち呉広は内訌で殺され、章邯が張楚軍を破ったため、滎陽は救われた。
B.C.208趙高は李斯一族を陥れようとして「丞相(李斯)は王になろうとの下心を持っているのでしょう。 また丞相の長男李由は三川郡守ですが、彼は賊と書簡を往復していると聞いています」と讒言した。
7月、李斯は有罪とされ、その三族はことごとく根絶された。
楚の項籍劉邦と共に定陶を攻め、定陶が降らないうちに西方に向かって攻略し、 李由は雝丘で大いに破られて殺される。
劉賈(リュウカ)【王】
前漢王朝の臣。荊王(初代)。〜B.C.196。
劉氏の諸族のひとり。
B.C.206劉邦が南鄭から帰って三秦を平定したとき、劉賈は将軍として塞王司馬欣の地を平定した。
そして劉賈はそのまま劉邦に従って東のほう項籍を討った。
B.C.204劉邦の命で劉賈は盧綰と共に2万の兵と騎兵数百を率いて白馬津を渡って楚の地に入り、 彭越を助けて楚の糧食を焼き払い、楚の民の生業を破って、項籍の軍に食糧を供給できないようにした。
楚軍が攻撃してきたので、劉賈は塁を築き固めて挑戦に応じず、彭越と協力して自ら守った。
B.C.203劉邦は項籍を追撃して固陵に至り、劉賈は命ぜられて南下して淮水を渡り、寿春を包囲し、黥布を迎えて城父を屠った。
また劉賈は黥布と共に九江に入り、周殷を楚に背むかせた。周殷は舒の兵を率いて六を屠り、九江の兵を挙げて、 みな垓下に集まり、項籍を討った。
B.C.202項籍の遺臣のもと臨江王共尉は漢に背いた。劉賈は盧綰と共に命ぜられて九江郡の兵を率いて共尉を討った。 共尉は降らず数ヶ月してようやく降り、共尉を洛陽で殺し、臨江国は南郡となった。
12月、韓信が漢に反したため、韓信は淮陰侯に格下げとなり、楚の地を分けて二国とした。 高祖は詔して「将軍劉賈は軍功があるが、その他、劉氏の子弟で王に適当な者を選べ」と言うと、群臣はみな「劉賈を立てて荊王とし、淮東の52城に封じ、 陛下の弟を楚王とし、淮西の36城に封ずればよろしいでしょう」と言った。
そこで劉賈は荊王に封じられた。
B.C.198、10月、劉賈は諸侯とともに長楽宮に来朝した。
B.C.196、7月、淮南王黥布が叛乱し、劉賈の地は黥布に併呑され、劉賈は富陵に走ったが、黥布の軍に殺された。
竜且(リュウショ)【将軍】
斉の司馬、西楚の将軍。〜B.C.203。
B.C.208田栄のもとで楚の項梁と共に東阿を救援し、大いに秦軍を東阿で破った。
B.C.205竜且は東進してきた漢将曹参灌嬰を、 項他とともに定陶で迎撃したが、討ち破られた。
黥布が楚に反したので、項籍は竜且に命じてこれを討たせ、竜且はこれを破った。
B.C.204項籍は漢の甬道を侵し漢軍は糧食が欠乏し、滎陽でこれを囲んだ。 劉邦は滎陽以西を漢の領土とすることで和を請うたが、項籍は許さなかった。
漢の将陳平は「項王は物惜しみをするので、士もあまりなついていません。項王の腹心骨鯁の臣としては、 亜父鐘離昩・竜且・周殷ら数人しかいません。 数万斤の金を投じて反間を行えば、項王はこれを信じるでしょう。これに乗ずれば、楚を破れること必定です」と進言した。 劉邦はもっともに思い、黄金4万斤を出し、陳平に自由に使わせた。陳平は反間を楚軍に放ち「鐘離昩らは功労が多いにもかかわらず、王に封じられないため、 漢と共に項氏を滅ぼし、王になろうとしている」と宣伝させた。はたして項籍は竜且らを信じなくなった。
B.C.203漢の将韓信が斉・趙を破り、楚を討とうとしていた。項籍は竜且・周蘭にこれを討たせた。 竜且はその兵力を20万と号し、斉王田広の軍と連合した。
戦いに先立ってある人が竜且に言った「漢は故国を遠く離れて戦うから、その鋭鋒は当ることのできぬ勢いがありましょう。斉・楚はおのが地で戦うから、 兵は敗散しやすいでしょう。ここは戦いを避け、斉から降った将兵に働きかければ、かならず漢に背くでしょう。斉の降城がみな背いたら、漢軍は食糧を得るところがなく、 戦わず降服させることができましょう」
竜且「わしは韓信の人柄を知っているが、すこぶる与し易い男だ。また戦わずに敵を降服させたのでは、いったい何の功になろう。戦って勝てば、斉の半ばは領有できるのだ」 ついに両軍は濰水を挟んで対峙した。韓信は夜、一万余のふくろをつくり、砂を満たして濰水の上流をせきとめ、軍を率いて半数だけが河を渡り、竜且を討った。 そして、いつわって勝たずに逃げると、竜且は喜んで「もともと信の卑怯は知っていた」と言い、追撃して河を渡った。韓信はふさいであった砂嚢を決壊させ、 竜且の軍の大半が渡河できなかった。そこで韓信はすぐに急襲して、竜且は灌嬰の部下に殺された。竜且が死ぬと兵は敗走し、田広は逃亡した。
呂齮(リョキ)【文官】
秦王朝の臣。南陽郡守。漢の臣。殷侯。
B.C.208劉邦は関中を目指して陽城に行き、軍中の馬騎を収め、呂齮を犨の東で戦って南陽郡を攻略した。 呂齮は逃げて城を保ち宛を守った。
劉邦は宛を棄てて西方に進軍しようとしたが、張良が諌めて「沛公は急いで関に入ろうとされますが、秦兵は多く、 険要の地を守っています。いま宛を下さなければ、うしろから討たれ、挟撃されてしまいます」と言った。そこで劉邦は夜、兵を率いて還り、夜明けに宛城を三重に囲んだ。 呂齮の舎人陳恢が劉邦に会見し 「いまあなたは関中に早く入ろうとされていますし、宛を棄てられるなら、追撃されることを恐れていることを知っています。 あなたのために謀りますに、宛の守の降伏を許す代わりに、封じて宛を守らせ、その甲卒を率いていっしょに西行するにこしたことはありません。 そうすれば諸城も争って門を開き、あなたをお待ちしましょう」と言った。
劉邦は「よし」と言って呂齮を殷侯とし、陳恢を千戸に封じ、兵を率いて西行した。
呂勝(リョショウ)【武官】
漢の臣。郎中。涅陽侯。
B.C.202垓下を脱出した項籍を追撃した。
呂勝は項籍の屍を手に入れようと他の将と争い、その一部を得たため、涅陽侯に封じられ、万戸の邑を五等分された。
呂臣(リョシン)【将軍】
張楚の臣。西楚の司徒。涓人(侍人)。呂青の子。
B.C.209、12月、陳勝は秦に破られ城父に行った。そこで御者荘賈は陳勝を殺して秦に降伏した。
呂臣は蒼頭軍(みな青帽をかぶった軍隊)を編成し、新陽から起こり、秦を攻め降して荘賈を殺した。
呂臣は再び陳を楚に取り戻した。
秦の左右校尉にせめられ、陳を再び失った。呂臣は逃亡したが、散兵を収拾してまた結集した。そこで黥布と合流して、 再び秦の左右校尉の軍を討ち、青波でこれを破り、また陳を取り戻した。
B.C.208項梁が定陶で敗死すると、呂臣は項籍劉邦と合流して東に帰り、 呂臣は彭城の東に駐屯した。
懐王は恐れて盱眙から彭城に行き、項籍と呂臣の軍をあわせて自らこれを率い、 呂臣を司徒、呂青を令尹とし、劉邦を碭郡の長として武安侯に封じ、碭郡の兵を率いさせた。
呂青(リョセイ)【宰相】
楚の宰相。令尹。呂臣の父。
B.C.208項梁が定陶で敗死すると、楚懐王は恐れて盱眙から彭城に行き、 項籍と呂臣の軍をあわせて自らこれを率い、呂臣は司徒となり、呂青は令尹となった。
呂馬童(リョバドウ)【武官】
漢の臣。騎司馬。中水侯。
B.C.202垓下を脱出した項籍を追撃した。
項籍は呂馬童を見て「おまえはわしの昔馴染みじゃないか」と言い「聞けば漢はわしの首に千金と万戸の邑を懸けているそうだが、 わしはおまえのために恵んでやろう」と言い、自刎して死んだ。呂馬童は項籍の屍を手に入れようと他の将と争い、その一部を得たため、中水侯に封じられ、 万戸の邑を五等分された。
李良(リリョウ)【武官】
趙の臣。
B.C.208武臣は趙で自立し、韓広には燕を、李良には常山を、 張黶には上党を攻略させた。
李良は常山を平定した。武臣はさらに李良に太原を攻略させた。
李良は石邑まで行くと、秦軍が井陘の険を塞いでいて、前進できなかった。秦の将が、二世皇帝の使者といつわって李良に書簡を送り、 故意にこれを封緘しなかった。それには「かつて良は、わしに仕えて顕職と寵遇を得た。もし良が真に趙にそむいて秦につくすなら、良の罪を赦し、位を高くしよう」とあったが、 李良は疑って信用せず、邯鄲に引き返して増兵を請おうとした。
途中、武臣の姉が酒宴から帰っているのに出会った。李良は王の行幸と思い、道端に平伏して謁見の礼をした。王の姉は酔っており、李良であると知らず、 車中から騎兵に命じて挨拶させた。
李良ももとより貴い身分なので、これを恥じた。李良は心中、趙に背こうかと思っていたので、いまや怒りに堪えず、人をやって王の姉を道中で追いつき殺し、 部下の軍を率いて邯鄲を討った。邯鄲では思いもよらぬことだったので、武臣と召騒は殺された。
李良または陳余を討ったが破られ、李良は敗走して秦将章邯の軍に投じた。




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