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列伝 モ

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蒙毅(モウキ)【文官】
秦王朝の臣。蒙恬の弟。〜B.C.209。
蒙恬が始皇帝に信任されると、蒙毅も親近され、位は上卿にいたり、始皇帝の外出には常に車に陪乗し、宮中でも常に御前に侍った。
蒙恬は外征に任じられ、蒙毅は内政をはかり、ともに忠信を称せられて、ほかの諸将・大臣たちもあえて2人と争おうとしなかった。
あるとき趙高が大罪を犯し、蒙毅は処刑するよう命じられた。蒙毅は法のとおり死罪とし趙高の官籍を除いたが、 始皇帝は趙高が仕事に勤勉であるということで、恩赦して復職させた。このことで蒙毅は趙高に恨まれることになった。
B.C.211始皇帝は出遊の途中で病気になったため、蒙毅をやって山川の神に祈らせた。
B.C.210蒙毅が帰らないうちに、始皇帝は沙丘で崩御した。趙高は胡亥と李斯とはかって、胡亥を立てて太子とし、 公子扶蘇と蒙恬に自殺を命じた。扶蘇は自殺したが、蒙恬は命令を疑って捕らえられたが、まだ死んでいなかった。 また蒙毅も代の獄につながれた。
始皇帝の柩が咸陽に到着すると、胡亥は立って二世皇帝となった。趙高は日々蒙氏をそしり弾劾した。二世皇帝は 「さきに先帝が太子を立てようとしたとき、そなたは太子を非難した。いま丞相は卿の振舞いを不忠として一族を連坐させようとしたが、ただ朕は心に忍びないので、 とくにそなただけに死を賜うこととする」と言った。
蒙毅は「主上はただひとり先帝の行幸に随行されており、これは主上の才能が他の公子たちをはるかに凌いでいるということで、 わたくしも決してそれを疑うものではありません」と弁明したが、聴き入れられなかった。
B.C.209趙高は法律を厳しくし刑罰を重くさせ、大臣や諸公子を殺し、公子12人は咸陽の市場で処刑され、公主10人が杜県で磔にされた。それらの財産を国庫に没収し、 連坐した者は数え切れないほどであった。趙高は郎中令の職権をもって多くの人を殺し、多くの私怨を晴らした。蒙毅もこれによって誅殺された。
孟姜女(モウキョウジョ)【女官】
秦代の列女。范喜良の夫。姓は姜。
斉の人。
孟姜女は新婚3日目に范喜良を長城建設に駆り出された。孟姜女は冬の身支度をして長城に行ったが、すでに范喜良は城壁内に埋められていた。 そこで彼女は城をめぐって哭すと、城は崩れて多くの白骨が現れた。
孟姜女は指の血をしたたらせ、范喜良の骨であれば血を吸収するであろうとして、試して范喜良の骨を見つけ出したという。
孟姜女は悲痛のあまり海に身を投げて死んだ。
斉の杞梁の故事の影響を受けた逸話。
毛女(モウジョ)【神】
仙人。列仙伝に見える。
字は玉姜。華陰の山中に住んだ。秦始皇帝の宮女であったが、秦が滅びて山に入って難を避けていたところ、 谷春に出会って松葉を食べることを教えられ、170余年生きることが出来たという。
蒙恬(モウテン)【将軍】
秦王朝の将軍。内史。蒙武の子。〜B.C.210。
蒙恬ははじめ役人となり、訴訟や裁判の文章を司っていた。
B.C.224李信とともに20万の兵をもって楚を討った。李信は平輿を攻め、蒙恬は寝丘を改め、大いにこれを破った。 李信は兵を引いて西行し、城父で蒙恬と会同した。しかしそこで楚に攻められて反撃にあい、二ヶ所の塁壁を破られ、7人の将校を失い、秦軍は敗走した。
B.C.221斉を攻めて大いに破り、内史(京師を治める官)を拝命する。
B.C.215兵30万を発して北方に胡を討ち、河南(オルドス)の地を取り、長城を築き、地形を利用して険阻な城塞を造った。
長城は臨洮を起点として、遼東まで延長万余里に及び、黄河を越え陽山に拠り、曲折迂回して走った。
B.C.214黄河を渡り、高闕山・陶山・北仮を取り、亭障(関所)を築いて戎人を逐い、流罪人を移した。
蒙恬は軍を境外にさらすこと十余年、上郡を根拠として駐屯した。蒙恬の威力は匈奴を震撼させた。始皇帝は非常に蒙氏を尊重し、 賢人として信任した。そのため弟の蒙毅も信任された。蒙恬は外征に任じられ、蒙毅は内政をはかり、ともに忠信を称せられて、 ほかの諸将・大臣たちもあえて2人と争おうとしなかった。
B.C.212始皇帝の命で、九原からまっすぐ甘泉まで来られるよう、蒙恬に命じて九原・甘泉間の道路を作らせた。
長子扶蘇は始皇帝の怒りに触れ、北方の蒙恬の軍を監督させた。
B.C.210始皇帝が没する。趙高は胡亥と李斯とひそかにはかり、 壐書を破り捨て、胡亥を立てて太子とし、別に扶蘇と蒙恬に賜う詔書を偽造して、二人の罪状を数え、どちらにも死を賜うた。
使者が到着して書簡を開くと、扶蘇は泣いて奥に入り自殺しようとした。蒙恬は扶蘇を押し止めて「もしも、これがいつわりの使者であったらどうなさいます。 どうか陛下に一度恩赦を請われますように。そのうえで自殺されても遅くはありません」と言ったが、扶蘇は生まれつき仁柔であったので「父から死を賜うたのに、 子として恩赦を請えようか」と言い、ただちに自殺した。
蒙恬は命令を疑い、自殺を肯んじず、再度の勅命を請うたが、役人に引き渡され陽周の獄につながれた。
二世皇帝は使者を遣り「そなたは過ちが多いうえ、そなたの弟毅が大罪を犯した。法により内史(蒙恬)をも連坐させる」と言った。 蒙恬は「我が家は秦に仕えて功を積み信を積むこと三代にして、いまやわたくしは兵30余万に将たる身分です。背くこともできる身分ですが、いまなお大義を守るのは、 先帝の恩を忘れないからです。陛下に諫言したうえで死にたいと思います」と言ったが、使者は「わたくしはただ詔を受けて法を執行するまでのことです」と言った。
蒙恬は溜息をついて「わたくしは天に如何なる罪を得、過ちもないのに死ななければならないのか」と言い、嘆くことやや久しく、やがて「わたくしの罪が死に当るのも無理はない。 臨洮から遼東まで長城を築くこと万余里、その中間で地脈を絶ったのだ。これこそわたくしの罪である」と言い、ついに毒をあおって自殺した。




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