中国的こころ中国関連書籍晏子春秋>雑上第五
晏子春秋

【目次】
内篇
 ・諫上第一
 ・諫上第二
 ・問上第三
 ・問下第四
 ・雑上第五
   ・荘公晏子を説ばず、晏子地に坐して公を訟へて帰る【第一】
   ・−−−−−−−−−−−−−−−−−【第二】
   ・崔慶、斉の将軍大夫を劫かして盟ふ、晏子与らず【第三】
   ・−−−−−−−−−−−−−−−−−【第四】
   ・景公故人を悪む、晏子退いて国乱る、復た晏子を召す【第五】
   ・−−−−−−−−−−−−−−−−−【第六】
   ・−−−−−−−−−−−−−−−−−【第七】
   ・−−−−−−−−−−−−−−−−−【第八】
   ・−−−−−−−−−−−−−−−−−【第九】
   ・−−−−−−−−−−−−−−−−−【第十】
   ・景公、刖跪の辱を慙ぢて朝せず、晏子直を称してこれを賞せんことを請ふ【第十一】
   ・景公夜晏子に従って飲まんとす、晏子敢て与らずと称す【第十二】
   ・景公、食と裘とを進めしむ、晏子対ふるに社稷の臣なることを以てす【第十三】
   ・−−−−−−−−−−−−−−−−−【第十四】
   ・晏子、景公に酒を飲ましむ、公は火を具せよと呼ぶ、晏子詩を称して以て辞す【第十五】
   ・晋、斉を攻めんと欲し、人をして往きて鑑しむ、晏子礼を以て侍してその謀を折く【第十六】
   ・景公、東門無沢に年穀を問ふ、而るに対ふるに冰を以てす、晏子魯を伐つことを罷めんと請ふ【第十七】
   ・−−−−−−−−−−−−−−−−−【第十八】
   ・景公、紀に游び、金壺中の書を得たり、晏子因って以てこれを諷す【第十九】
   ・景公、魯の昭公が国を去って自ら悔ゆるを賢とす、晏子及ぶことなきのみと謂ふ【第二十】
   ・晏子魯に使いし、事ありて己る、仲尼以て礼を知るとなす【第二十一】
   ・−−−−−−−−−−−−−−−−−【第二十二】
   ・−−−−−−−−−−−−−−−−−【第二十三】
   ・晏子晋に之き、斉纍越石父を睹る、左驂を解いてこれを贖ひ、与に帰る【第二十四】
   ・晏子の御、妻の言に感じて自ら抑損す、晏子薦めて以て大夫となす【第二十五】
   ・−−−−−−−−−−−−−−−−−【第二十六】
   ・晏子、北郭騒に米を遣り以て母を養はしむ、騒は身を殺して以て晏子の賢なることを明らかにす【第二十七】
   ・−−−−−−−−−−−−−−−−−【第二十八】
   ・高糾、晏子の家を治め、その俗を得ず、迺ちこれを逐ふ【第二十九】
   ・晏子喪に居つて、家老に遜答す、仲尼これを善しとす【第三十】
 ・雑下第六



内篇
雑上第五
荘公晏子を説ばず、晏子地に坐して公を訟へて帰る【第一】
晏子は荘公の臣であった。公はこれを悦ばなかった。酒を飲んで晏子を召させた。
晏子は到着して門に入った。公は楽人に歌を演奏させて「やめんかな、やめんかな。寡人は悦ぶことはない。どうしてやって来たのか」と歌わせた。
晏子は入って座った。楽人が三回演奏して、やっとその言っていることがわかった。
晏子は立ち上がって北面して地に座った。公は「夫子よ、席に着きたまえ。どうして地に座るのか」と言った。
晏子は答えて「嬰はこう聞いています。訴える者は地に座ると。いま嬰は君に訴えようとしています。どうして地に座らないことがありましょうか。
嬰はこう聞いています。多人数であるのに義がなく、強力であるのに礼がなく、勇を好んで賢をにくむ者は、禍が必ずその身に及ぶと。公のような者のことを言っております。
そして嬰の言を用いられなければ、請うて致仕いたします」と言った。
よって帰宅し、家に鍵をかけて貯蔵してあった品物を公に返し、お金になる物はこれを市場で投売りにした。
晏子は「君子は、民に財力があれば爵禄を進め富貴を辞退することはしない。しかし民に財力がなければ他郷でくらし、貧しいことをいとわない」と言い、歩いて東方に赴き、海浜に耕作した。
そこにいること数年して、はたして崔杼の乱がおこった。


崔慶、斉の将軍大夫を劫かして盟ふ、晏子与らず【第三】
崔杼は荘公を弑して景公を立てた。崔杼と慶封は、右相、左相となった。太官に穴を掘らせ、 諸将軍大夫及び顕士庶人をその上で自らに味方をするように盟わせた。 壇をつくること24尺、その下に穴を掘って装備した兵士にまわりを囲ませた。誓わされるものはみな剣をはずして入った。
ただ晏子のみがこれに従わなかった。しかし崔杼はこれを許した。
あえて誓わない者があれば、矛で首を引っ掛け、剣を胸に当てて、誓わさせて「崔慶に与せずして公室に与する者は神罰を受けるであろう」と言わせた。誓いの言葉をためらい、血で 誓いをしなければそれを殺した。
殺すこと7人で晏子の番になった。
晏子は杯の血を奉じ、天を仰いで嘆じて「ああ、崔子は無道をなして、その君を弑す。公室に与せずして崔慶に与する者は神罰を受けるであろう」と言って、血をすすいだ。
崔杼は晏子に「子よ、あなたが前言を撤回すれば、斉国をわたしと共にしよう。もし変えなければ、矛は首にあり、剣は胸にあるのだ。よく考えなされ」と言った。
晏子は「わたしは刀で脅されて志を失えば、勇がないことになります。わたしを惑わすのに利をもってして、君主に背くのは、義がないことになります。崔子よ、あなたはこの詩をどのように考えますか。 詩経に『蔓草が木の枝に盛んに伸びる如くに、悌の君子は正直なる行ないを以って大いなる福を受ける』とあります。
いま、嬰はどうして正直なる行いをたがえて福を求めましょうか。曲刀でひっかけ、武装兵で脅しても嬰は改めません」と言った。
崔杼は晏子を殺そうとしたが、ある人が「いけません。あなたはあなたの君の無道をもってこれを殺しました。あなたは有道の士といえます。また晏子を殺さずに、後の教えとすべきです」と言った。 崔杼はついに晏子を許した。
晏子は「大夫のごときは、大不仁をなして小仁をしているのです。どうして道理にかなっておりましょうか」と言い、穴から出て、車の手綱をひいて車に乗った。
御者が馳せようとすると、晏子はその手をおさえて「ゆっくり進みなさい。早く行っても必ず生き延びるとも言えず、ゆっくり行っても必ず死ぬとは限らない。鹿は野で生まれ、 その運命は台所にかかっているものだ。嬰の運命もかかるところがあるのだ」と言った。馬の手綱をおさえて、足並みをそろえて、その後に立ち去った。
詩経に「君子は死生の際に処してその節操を変えず」とあるが、晏子ような者を言っているのだ。


景公故人を悪む、晏子退いて国乱る、復た晏子を召す【第五】
景公は晏子と曲池のほとりに立った。晏子は「衣は新しいのがよいものです。人は古い知り合いがよいものです」と言った。
公は「衣はなるほど新しいのがよいが、古い知り合いは実情を知っているからね」と言った。
晏子は帰って荷物を背負って立ち去る用意をして、人に公に別れのことばを述べさせて「嬰は年老いて、能力がありません。責務に耐えられそうにありません」と言った。
公はみずから国を治め、身は高氏と国氏に弱められ、人民は大いに乱れた。公はおそれてまた晏子を召した。
そうすると諸侯はその威勢をおそれ、高氏・国氏はその政治に服した。田畑は開墾され、養蚕と牧畜が盛んになり、その場所が不足するほどになった。 燕で養蚕し、魯で牧畜をさせ、燕・魯は共に入朝した。
墨子はこれを聞いて「晏子は道を知り、景公は困窮するわけを知った」と言った。


景公、刖跪の辱を慙ぢて朝せず、晏子直を称してこれを賞せんことを請ふ【第十一】
景公は真昼に髪を振り乱して、六頭立ての馬車に乗り、婦人を御者として宮門を出た。足切りの刑を受けたびっこがその馬を鞭打って 「おまえはわが君ではない」と言い、馬車を返させた。
公は恥じて朝廷に出なかった。晏子は裔款に公に問わせて「なぜ朝廷に出られないのですか」と言わせた。公は答えて「かくかくしかじかということがあった。 だから出ないのだ」と言った。
晏子は入って公に見えた。景公は「先日こういうことがあった。寡人は晏子のおかげで百官を率いて宗廟を守ることができている。いまびっこに鞭打たれて、社稷を辱めた。 わしはまだ諸侯の位におれようか」と言った。
晏子は答えて「君よ、そんなに責めないで下さい。臣はこう聞いています。下の者に直辞がなくなれば上の者は悪事を隠し立てするようになります。人民がはばかってものを言わなければ、 上の者におごった行為があります。
昔、明君が上にあれば、下に直辞が多く、君が善を好めば、民がものを言わないことがありませんでした。
今、君に間違った行いがあり、びっこが直辞をもってこれを禁じました。これは君にとっての福です。ですから臣は来朝して慶賀するのです。この者を賞して、わが君が善を好むことを明らかにして、 この者に礼をつくして、わが君が諫言を受けることを明らかにさせてください」と言った。
公は笑って「できるだろうか」と言うと、晏子は「できます」と答えた。
そしてびっこの禄を二倍にして税を免じ、参朝を免じた。


景公夜晏子に従って飲まんとす、晏子敢て与らずと称す【第十二】
景公は酒を飲んで、夜に晏子の家に行った。さきばらいの者が門をたたいて「君がまいります」と言った。晏子は玄端(礼服)を着て門に立って 「諸侯との間で何か起こるかもしれませぬ。国家に何か起こるかもしれませぬ。君はどうして夜宴なぞ行うのですか」と言った。
公は「甘酒の味、音楽を夫子と楽しもうと思ったのだ」と言った。晏子は答えて「むしろを敷き、供物を盛る者はその職分の人があります。臣は宴会にはあずかりません」と言った。
公は「司馬穰苴の家に行こう」と言った。さきばらいの者が門をたたいて「君がまいります」と言った。穰苴は鎧をつけ、戟を手に取り、 門に立って「諸侯の軍が侵攻してくるかもしれませぬ。大臣が叛くことがあるかもしれませぬ。君はそうして夜宴なぞ行うのですか」と言った。
公は「甘酒の味、音楽を夫子と楽しもうと思ったのだ」と言った。穰苴は答えて「むしろを敷き、供物を盛る者はその職分の人があります。臣は宴会にはあずかりません」と言った。
公は「梁丘拠の家に行こう」と言った。さきばらいの者が門をたたいて「君がまいります」と言った。 梁丘拠は左手に大琴をもち、右手に笙をもって歩きながら歌い出てきた。公は「楽しいかな、今夜酒を飲むことは。あの二人がいなければ、どうやって国を治めようか。 この一臣がいなければ、どうやってわが身を楽しもうか」と言った。
君子は「聖賢の君はみな有益な友人がおり、ひまを盗んで楽しむ臣はいない。景公は賢君に及ばなかったので、この両者を持ったのだ。それゆえ滅びもしなかったのだ」と言った。


景公、食と裘とを進めしむ、晏子対ふるに社稷の臣なることを以てす【第十三】
晏子は景公にはべっていた。朝、寒かった。
公は「温かい食べ物をもってきてくれ」と言った。晏子は答えて「嬰は君の奉餽の臣(食事をすすめる臣)ではありません。強いてお断りいたします」と言った。
公は「裘をもってきてくれ」と言った。晏子は答えて「嬰は君の近侍の臣ではありません。強いてお断りいたします」と言った。
公は「然らば夫子は寡人に何をしてくれるのか」と言った。
晏子は答えて「嬰は社稷の臣です」と言った。公は「何を社稷の臣というのか」と言った。晏子は答えて「それ社稷の臣はよく社稷を立て、上下の義を別ち、その道理を明らかにし、 百官の順序を制定し、それを整え、外交上の辞令を立派にして、四方にふれまわることです」と言った。
これ以後、公は礼をなさなければ晏子に見えなかった。


晏子、景公に酒を飲ましむ、公は火を具せよと呼ぶ、晏子詩を称して以て辞す【第十五】
晏子は景公に酒をもてなして、日が暮れた。公は火をもってこいと呼んだ。
晏子は辞退して「詩経に『冠かたむき』というのは徳を失うことをいっています。『踊り踊ってゆらゆらり』というのは容儀をくずすということをいっています。 『酔ってその場をひいたなら、皆が福を受けように』というのは、客と主人とが互いに礼儀のあることをいっています。『酔ってもその場をひかぬならまことに徳を傷つける』 というのは、客と主人とが互いに礼儀のないことをいっています。
嬰は昼のことを占いましたが、夜のことはまだ占っておりません」と言った。
公は「よろしい」と言った。
晏子は酒をもって地を祭り、再拝して出てこなかった。公は「国政を晏子に託して、どうして過ちがあろうか。貧しい暮らしの中で、よく寡人をもてなし、節度をわきまえている。 まして寡人と国政を執ることも同様だ」と言った。


晋、斉を攻めんと欲し、人をして往きて鑑しむ、晏子礼を以て侍してその謀を折く【第十六】
晋の平公は斉を討とうとして、范昭を斉に行かせて国情を探らせた。
景公は彼にさかずきを与え、酒を飲むことたけなわになった。范昭は立って「君の倅(酒がめ)をいただきたい」と言った。公は「寡人のから酒をくんで、客人に進めよ」 と言い、范昭はその酒を飲んだ。
晏子は「を撤去して更えよ」と言った。別のと觶が用意された。
范昭は酔ったふりをして悦ばず、立って舞った。太師(楽官の長)に「わたしのために成周の楽を演奏してくれ。わたしはあなたのために舞おう」と言った。しかし太師は 「わたくしめにはできません」と言った。范昭はついに退出した。
景公は晏子に「晋は大国である。使いの者が来てわが国情を見ようとした。いまあなたは大国の使者を怒らせた。どうしようか」と言った。
晏子は「范昭の人となりは実直で礼を知らないことはありません。これはわが君臣を試したのです。そのためこれと決裂したのです」と言った。
公は太師に「あなたはどうして客のために成周の楽を演奏しなかったのか」と言った。太師は答えて「成周の楽は天子の楽です。これを演奏すれば、必ず人主が舞います。いま范昭は人臣であって、 天子の楽を舞おうとしました。そのため臣は演奏しなかったのです」と言った。
范昭は帰国し、平公に報告して「斉はまだ討つべきではありません。臣はその君を試してみました。すると晏子がこれを正しました。臣はその楽人をだまそうとしました。 すると太師は礼を知っていました」と言った。
そのため斉を討つくわだてをとりやめた。
孔子はこれを聞いて「善いかな。宴席の場から出ることなくして、千里の外に敵の気勢をくじくとは、晏子のことを言っているのだ。 太師もその功にあずかっている」と言った。


景公、東門無沢に年穀を問ふ、而るに対ふるに冰を以てす、晏子魯を伐つことを罷めんと請ふ【第十七】
景公は魯を討ち、許の近くに攻め寄せ、東門無沢を得た。
公は「魯の穀物のできはどうか」と問うた。無沢は「陰冰は凝り、陽冰は厚さ五寸」と答えた。公はこの意味がわからず、このことを晏子に告げた。
晏子は答えて「君子です。年穀を問うて、答えとして氷をもってするのは礼にのっとっています。陰冰は凝り、陽冰は厚さ五寸とは寒温が順調であるということです。 気候が順調であれば刑法政治が正しくなり、政治が正しければ上下の者が和します。和すれば年穀は熟します。
年穀が満ち、衆人が和しているのに、これを討とうとしています。臣は恐れます、民を疲れさせ、兵を費やし、君の意図が達成されないことを。お願いです、魯に礼をつくして、 魯に対する怨みをとめ、魯の捕虜を送還してわが徳を明らかにしてください」と言った。
公は「よし」と言い、魯を討たなかった。


景公、紀に游び、金壺中の書を得たり、晏子因って以てこれを諷す【第十九】
景公は紀国に遊び、金壺を発見した。開いてこれを見たら、丹書が入っていた。それには「魚の片身だけを食し、反面は食するなかれ、のろい馬には乗ることなかれ」 と書かれてあった。
公は「善いかな。丹書にいうとおりだ。魚の片身だけを食し、反面は食するなかれというのは生臭いからだ。 のろい馬には乗ることなかれとは遠くまで行けないからだ」と言った。
晏子は答えて「そうではありません。魚の片身だけを食し、反面は食するなかれとは民力を疲弊さすことなかれという意味でしょう。 のろい馬には乗ることなかれとは不肖者を近づけるなという意味でしょう」と言った。
公は「紀にこのような立派な丹書があるのに、どうして滅んだのだろうか」と言った。
晏子は答えて「滅びるにはわけがあります。嬰はこう聞いています。君子道があれば、 これを村の門に掲げて戒めとした、と。紀にこのような言葉があったけれども壺の中にしまっておきました。これでは滅びるほかはありますまい」と言った。


景公、魯の昭公が国を去って自ら悔ゆるを賢とす、晏子及ぶことなきのみと謂ふ【第二十】
魯の昭公が国を追われて斉に亡命した。
景公は問うて「あなたは統治わずかで、どうして亡命なされたのか」と言った。昭公は答えて「わたしは若いころ、多くの人に愛されましたが、わたしは礼を整えてかれらを親愛することができませんでした。 多くの人が私を諌めましたが、わたしはつつしんでそれに従うことができませんでした。
そのため内に補佐する者がなく、外に力添えするものがなかったのです。
補佐や力添えをする者が一人もなく、こびへつらう者が多かったのです。これをたとえるに、秋風に吹き折られてまっているようなものです。その根をひとつにして枝葉を美しくかざったのですが、 秋風がひとたび吹けば、倒れて舞い散りました」と言った。
景公はその回答をすばらしいと思い、晏子に「この人を国に帰させれば、賢君となるだろう」と言った。
晏子は答えて「そうではありません。愚者は後悔が多く、不肖者は自らを賢くみせようとします。溺れる者は道を尋ねることはせず、迷っている者は道を問いません。
溺れてその後に道を尋ね、迷ったあとに道を尋ねています。これをたとえるに、攻められた後で武器をつくり、飯がのどにつまった後に、井戸を掘るようなものです。はやいといっても 及ぶものではありません」と言った。


晏子魯に使いし、事ありて己る、仲尼以て礼を知るとなす【第二十一】
晏子は魯に使いした。孔子は門弟子に命じて見に行かせた。
子貢は帰って報告して「誰が晏子は礼に精通していると言うのですか。礼に『階段を登るときは、一段ごとに片足をかけて登らず、 堂上では走らず、玉を授かるときに両膝を地につけない』とあります。いま晏子はみなこれに反していました。誰が晏子は礼に精通していると言うのですか」と言った。
晏子は魯君への用事を終えて退出して孔子と会った。孔子は「礼にかくかくしかじかとあります。夫子がこれに反したのは、はたして礼にかなうのでしょうか」と言った。
晏子は「嬰はこう聞いています。両楹の間(堂上)には君臣の相会する位置は決まっており、君が一歩を行く間に臣は二歩行くと。魯君は礼法を無視して足早に来られました。 そこで歴階して登り、堂上に走り、ようやく会見の場に追いついたのです。
また君が玉を低い位置で授けられましたので、跪いて受けたのです。
またこうも聞いています。大いなる礼式は法度をこえてはならず、小礼は臨機の処置をしてもよいと」と言った。
晏子は退出した。
孔子はこれを見送るのに賓客の礼をもってし、帰って門弟子に命じて「礼法をこえた礼法は、ただ晏子のみがこれを行うことができる」と言った。


晏子晋に之き、斉纍越石父を睹る、左驂を解いてこれを贖ひ、与に帰る【第二十四】
晏子は晋に行き、中牟に至り、破れた冠に皮衣を裏返しに着て刈り草を背負い、道端に住んでいる人を見かけた。これを君子とみて、 人に問わせて「あなたはどなたですか」と言わせた。
答えて「私は越石父です」と言った。晏子は「どうしてここに住んでいるのですか」「わたしは人のために中牟でしもべとなり、務め終わって帰ろうとしているのです」 「どうしてしもべとなったのですか」「寒さと飢えとに迫られて、しもべとなったのです」「しもべとなってどのくらいですか」「3年です」「私のところに来ませんか」「いいでしょう」
ついに馬車の左の添え馬をはずして彼に与え、これにのせて一緒に帰った。
家に帰ると、晏子は越石父に一言の挨拶なく部屋に入った。越石父は怒って絶交することを請うた。晏子は人をつかってこれに答えさせて「わたしはまだあなたと友好を交わしていません。 あなたはしもべであること3年でした。わたしは今日それを見て、あがなっただけです。あなたにとった態度が悪かったのでしょうか。なんと絶交のはやいことよ」と言った。
越石父は答えて「臣はこう聞いています。士は己を知らざる人には屈辱も忍ぶが、己を知る人には志を伸ばすと。ゆえに君子は自らの功を誇って人を軽視せず、人に恩恵を受けたとて、 我が身の正道をまげません。わたしは3年人のしもべとなりましたが、己を知られませんでした。
いまあなたは私をあがない、わたしはあなたをして吾を知る人としました。さきにあなたは馬に乗って私に挨拶をしませんでした。わたしはあなたはわたしを忘れたのだと思いました。
今また挨拶をしないで入りました。これでは私はしもべと同じです。私がしもべであるなら、私を売って馬の代価としようとなさるのです」と言った。
晏子はやって来て見えんことを請うて「前はあなたの容儀を見、いまあなたの意見を知りました。嬰はこう聞いています。我が行いを反省する者は、過失をすぐ改める、 人の実情を観察する者は、その人の言葉をはかって絶つことはしないと。
嬰のことばは間違っておりました。嬰はすぐに改めましょう」と言い、けがれを除いて水で清めて席を改め、酒を汲み、これに礼をもってした。
越石父は「わたしはこう聞いています。至恭の礼に対しては、途を避け、尊礼に大しては擯(礼式を助ける人)を避けると。あなたは礼をもってなさりました。私はこれを辞退します」と言った。
晏子は彼を上客としてもてなした。
君子は「俗人は功があったときはこれを徳として誇る。徳として誇れば奢ることになる。晏子は功あって人の危難を助け、またこれにへりくだった。俗人とはへだたりすぐれている。 これは功を全うする道である」と言った。


晏子の御、妻の言に感じて自ら抑損す、晏子薦めて以て大夫となす【第二十五】
晏子が斉の宰相となって退出して来た。その御者の妻は、門の間から隠れてその様子をうかがった。その夫は宰相の御者となり、大蓋をかかげて、 四頭立ての馬車に鞭打ち、意気揚揚として自慢気であった。
彼は家に帰った。その妻は離縁を請うた。
夫はその訳を問うた。妻は「晏子は身長が六尺に見たずして、身は斉の宰相となり、名声は諸侯に行き届いています。いまわたくしはその退出する様子を見ておりましたが、 思慮深く常に自らへりくだっておられます。
いまあなたは身長が八尺もあるのに、人の御者となっております。それなのにあなはた自慢げで満足されています。そのためわたくしは離縁を求めたのです」と言った。
その後、夫は自ら慢心を抑えた。晏子は怪しんでこれを問うた。御者はありのままを答えた。
晏子は彼を推挙して大夫とした。


晏子、北郭騒に米を遣り以て母を養はしむ、騒は身を殺して以て晏子の賢なることを明らかにす【第二十七】
斉に北郭騒という者がいた。兎を取る網を広げ、がまやあしの葉を織ってひもを作り、麻のくつを織り、母を養ったが、まだお金が足りなかった。
晏子の門前に来て晏子に見えて「ひそかに先生の高義をしたっておりました。お願いでございます、母を養う資をお与えください」と言った。
晏子は人に命じて蔵米と府庫の金を分けてこれに与えた。北郭騒はお金を辞退して、米を受けた。
しばらくして晏子は景公に疑われて出奔した。北郭騒の門の前を過ぎて別れを告げた。
北郭騒は身を清めて晏子に見えて「夫子はどこに行こうとなされるのですか」と言った。晏子は「斉君に疑われ、出奔しようとしているのだ」と言った。北郭騒は「夫子よ、がんばってください」と言った。 晏子は馬車に乗り、ため息をついて嘆じて「嬰が亡命するのは当然だ。士を知らないこと甚だしい」と言って去った。
北郭騒は友人を呼んでこれに告げて「わたしは晏子の義を悦び、母の養う資を乞うたことがある。わたしはこう聞いている。自分の親を養ってくれた人に対しては、身を以ってその危難にあたると。 いま晏子は疑われています。私は身をもって死んでこれを明らかにしようと思う」と言った。
衣冠を着け、その友人に剣をとらせ、箱を奉じて従わせた。景公の宮廷に至り、取り次ぎ役を呼んで「晏子は天下の賢者です。いま斉を去ったならば、斉は必ず侵されましょう。 国が侵略されるのを見るよりは、死んだほうがましです。お願いでございます、わたくしの首を以って晏子のことを明らかにさせてください」と言い、その友人に 「わたしの首を箱の中に収めて、奉じて公に託してください」と言って自刎した。
その友人は奉じて景公に託して取り次ぎ役に「これ北郭子は国のために死にました。わたしは北郭子のために死のうと思います」と言い、退出して自刎した。
景公はこれを聞いて大いに驚き、駅伝の馬車に乗って自ら晏子を追った。国境で請うて戻ってくるようお願いした。
晏子は帰国した。北郭騒が死を以って晏子のことを明らかにしたことを聞き、ため息をついて嘆じて「嬰が亡命したのは当然だ。士を知らないこと甚だしい」と言った。


高糾、晏子の家を治め、その俗を得ず、迺ちこれを逐ふ【第二十九】
高糾は晏子に仕えていたが、解雇された。
高糾は「臣が夫子に仕えること3年、禄位を得ずして解雇されました。理由は何なのですか」と言った。
晏子は「嬰の家法は3つあるが、おまえはひとつもできなかった」と言った。高糾は「お聞かせ願えないでしょうか」と言った。
晏子は「嬰の家法では、しずかにゆったりおちついて正道を談じなければ、これを疎んじる。外に在っては人の美点を称揚せず、内に在っては自ら切磋しなければ、一緒にいない。 家事国事に通じて論なく、士におごり知者を軽んじれば面会しない。この3つが嬰の家法であり、いまおまえはひとつもできていない。嬰はただ食禄を与えることを掌る主人ではない。 そのため解雇にしたのだ」と言った。


晏子喪に居つて、家老に遜答す、仲尼これを善しとす【第三十】
晏子は父晏弱の喪に服した。喪服をつけ、粥を食し、仮の庵に住み、草を枕にした。
その家老が「大夫が父を喪する礼にかなっておりません(足りません)」と言った。
晏子は「わたしは大夫のような貴い者ではありません」と謙譲してこれを断った。
曾子は孔子にこのことを問うた。孔子は「晏子はよく危害を避けられる人物だ。自分の正しいことをもって人の非を責めない。へりくだった言葉をつかって禍をさけた。 正道にかなっている」と言った。





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