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セ ン ゴ ク サ ク
戦国策 著者 劉向 時代 前漢時代


戦国策はもともと宮中の書物で、国策・国事・短長・事語・長書・脩書などと言われてました。前漢の劉向がB.C.26に成帝の勅命によって、 天子の書庫、秘府の典籍の整理、校訂にあたったとき、上記の原資料をもとにして『戦国策』と命名されました。

戦国策はB.C.476〜B.C.222までの事件を扱っており、この時代に活躍した戦国遊説の士の策謀をまとめたものです。劉向はこれを33編に編集しています。

西周巻第一東周巻第二 秦巻第三斉巻第四

順番
年代
小題
内容
西周巻第一
1B.C.371頃 厳氏、賊を為す 韓厳の韓哀侯弑殺に関与した陽堅を周君がかくまったため、 韓は周に訪問した。ある説客が周君に智恵を授けた。
2. 周の共太子死す 楚の司馬翦は西周の太子擁立に一役買って、楚の勢力を西周に植えつけようとした。 説客の左成は司馬翦に智恵を授けた。
3. 斉王に謂いて曰く 斉王は司馬悍に命じて西周の太子擁立に一役買って、斉の勢力を西周に植えつけようとした。 説客の左尚は司馬悍に智恵を授けた。
4. 司寇布 司寇布は周君に周最を太子にすることの利を説き、周最のために計った。
5B.C.308 樗里疾をして 秦の樗里疾が軍を率いて周に来たとき、周君はこれを出迎えた。楚懐王は周を詰問したが、 周の臣游騰が懐王を説き伏せた。
6B.C.307 雍氏の役 雍氏の役で、周は韓を支援すると楚の怒りに触れることを恐れた。蘇代は策を授け、 韓に支援せずに楚軍を引き揚げさせた。
7B.C.296 薛公、斉を以ゐて 孟嘗君が、韓・魏とともに秦を攻めようとし、西周に武器と食糧を出すよう申し入れてきた。西周は秦と斉に板ばさみとなったが、 韓慶の策で、斉は秦を攻めない代わりに楚の東方の地を割譲し、楚は秦から懐王を帰すようにさせた。
8B.C.296 三国、秦を攻めて反る 斉・韓・魏が秦を攻めて帰国する時、西周は魏が何かと要求することを恐れた。 ある男が魏襄王を説いて早く帰国するよう言った。
9. 韓・魏・地を易ふ 魏と韓が土地を交換しようとし、それを不利益とした西周の臣樊余は楚懐王に説いて、この交換を中止させた。
10B.C.293 秦、魏の将犀武の軍を伊闕に敗る 秦は魏の犀武を伊闕で破り、周に攻め寄せた。ある男が周のために趙の宰相李兌に説いて、趙にとって周を救うことに利があることを訴えた。
11B.C.293 犀武伊闕で敗らる 秦は魏の犀武を伊闕で破り、周に攻め寄せた。周君は魏に救いを求めたが断られた。 西周の臣綦毋恢は魏昭王に説いて、たくみに援軍を出させた。
12B.C.293 犀武敗る 秦は魏の犀武を伊闕で破り、周に攻め寄せた。西周は周足を秦に遣って和議を講じることにした。ある男が周足に助言を行った。
13B.C.293 蘇厲、周君に謂いて曰く 秦は魏の犀武を伊闕で破り、周に攻め寄せた。蘇厲は周君のために白起に説いて、 病気と称して周を攻めないよう謀った。
14. 楚の兵、
山南に在り
楚将伍得が周を攻めようとしたので、ある男が周君に説いて楚王に伍得のことを疑わせて、それを中止させようと謀った。
15. 楚、道を西周の間に請ひ 楚が東西周の道を通らせてほしいと申し出た。蘇子は周君に韓・魏・斉・秦の力を利用して、楚の申し出を断らせた。
16. 秦、周君を召す 秦が西周の君を呼びつけた時、西周の君は行くことをためらった。ある男が周君のために魏昭王に説いて西周に兵を出させ、 西周の君が秦に行かない口実をつけさせた。
17. 周君、秦に之く 西周の君が秦に出かけたとき、ある男が周最のために、 秦の宣太后におもねって周最の手柄を立てさせた。
18. 秦、周を攻めんと欲す 秦が西周を攻めようとしたとき、周最は昭襄王に説いて、 西周を攻めることは実利が少なく弊害のほうが多いと言い、思いとどまらせようとした。
19. 宮他、
周君に謂いて曰く
宮他は西周の君に説いて、韓・魏の援助を頼みにして、秦を軽んじる危険さを訴えた。
東周巻第二
20. 秦、師を興し周に臨んで 秦は西周に兵を出し、九鼎を要求してきた。顔率は斉湣王に説いて、 兵を出してくれるのなら九鼎を斉に差し出すと訴えた。斉は兵を出し、秦は退却したが、斉が九鼎を要求してきたので、顔率は斉へ運ぶ道がないと出張して巧みに要求を退けた。
21B.C.308 秦、宜陽を攻む 秦が韓の宜陽を攻略することを恐れ、西周の臣周累は、楚将景翠に利害を説いて恩を売りつけ、周の危機を回避した。
22. 東周、西周と戦ふ 東周が西周と戦ったとき、韓は西周を救った。ある男が東周のために韓釐王に説いて西周への救援を取りやめさせた。
23. 東周、西周と争ふ 東周が西周と戦ったとき、西周は楚と韓に助けを求めた。説客の斉明は東周のために、楚と韓を東周の味方につけて西周を弱めようとした。
24. 東周、稲を爲らんと欲す 東周では稲を植えたいと思ったが、川上の西周が水をせき止めてしまった。蘇子は東周の君に説いて、みずから西周に赴いて水を出させた。
25. 昭献、陽翟に在り 楚の宰相昭献が陽翟に来ていたので、東周の君は相国を派遣しようとしたが、相国は気が進まなかった。 蘇厲は相国のために東周の君に説いて、派遣を中止させた。
26. 秦、道を周に假りて 秦は東周に道を借りて韓を討とうとした。東周は秦と韓の板ばさみで苦しんだが、 太史史黶が韓からは土地をもらい受け、秦からは諒解を取り付ける一挙両得の妙案を出した。
27B.C.307 楚、雍氏を攻む 楚が韓を攻めたとき、東周は韓を助けたので、楚は怒った。 ある男が東周のために楚懐王に、東周を恐れさせれば、秦・韓・東周の結びつきを強めるだけであると説いた。
28. 蘇厲、周最の為に 蘇厲は周最のため斉王の信用を得させ、さらに蘇秦も助かる策を授けた。
29. 周最に謂いて曰く ある男が周最のために秦・趙・宋を牽制して、韓と魏に周最を韓・魏の宰相にすべきであると説いた。
30. 周最の為に魏王に謂いて曰く ある男が周最のために、魏昭王に斉と親交のある周最を斉に行かせて、斉と同盟すべきであると説いた。
31. 周最に謂いて曰く 周最は魏の宰相でありながら、旧主の斉君に対する気兼ねから斉を討とうとしなかったが、ある男の策により、 周最が斉に入ることで批判を避けようとした。
32. 趙、周の祭地を取る 趙が東周の祭地を奪い取った。東周の臣鄭朝はわずか30金を使って、趙の太卜に賄賂し、祭地を東周に返還させた。
33. 杜赫、景翠を
周に重くせんと欲して
楚の策士杜赫は、景翠を周で重んぜられるようにするため、東周の君に説いた。
34. 三国、秦を隘す 韓・魏・斉が連合して秦の侵入を防いだとき、東周は相国を秦に行かせようとしたが、軽んぜられることを心配した。 ある男が相国に三国の事情を秦に伝えれば重んぜられると助言した。
35. 宮他、西周を亡げて 宮他は西周を去って東周に行った。西周の君は大いに怒った。西周の臣馮雎は離間策を説いて、 東周に宮他を殺させた。
36. 昭翦、東周と悪し ある男が楚の昭翦と東周の仲が悪いのは東周にとって不利と考え、昭翦にといて、東周と和解させた。
37. 周最、呂礼に謂いて曰く 周最は魏の相という地位の保全のため、呂礼に説いて斉の宰相となり、魏とともに秦に仕えれば列国に重きをなすことができると言った。
38. 薛公に謂いて曰く 魏・秦が斉を討つことを反対した周最は、魏の嫌疑を受けていた。ある男が、周最のために孟嘗君に説いて、 孟嘗君の利をかなえるようにさせて、周最も助かるよう画策した。
39. 斉、祝弗に聴きて 斉は祝弗の進言を容れて、周最を放逐した。ある男が周最のために斉王に向かって愚策であることを説き、巻き返しを策した。
40. 周の相呂倉 呂倉がある説客を東周の君に推薦すると、前の宰相工師籍は讒言されることを恐れて、 あらかじめ東周の君に説客の言を信じないように予防線を張った。
41. 周文君、工師籍を免じて 周文君は工師籍を罷免して呂倉と交代させたが、民から不評であった。ある男が呂倉のために周文君に説いて、 宰相が悪いほうが人君にとって安泰であると言った。
42. 温人、周に之く ある温の人が周に入ったが、周は他国の客を入国させないようにしていた。そこで温の人は、すべての土地や人民は、 周王のものであると主張して入国した。
43. 或ひと周最の為に ある男が周最のために、趙の将金投に説いて斉を討つことをとりやめさせた。
44. 周最、金投に謂いて曰く 周最は趙の将金投に説いて、斉を討つことをとりやめさせた。
45. 石行秦 秦が逐客令を出しているとき、石行秦は白起に説いて、逐客令を解くように言った。
秦巻第三
46B.C.359 衛鞅
魏を亡げて秦に入る
商鞅は魏を去って秦に入り、秦孝公はこれを宰相に任じた。商鞅は変法を行い、 秦は強国となった。恵文君が立つと商鞅は秦を去ろうとしたが、自らが定めた法により処刑された。
47. 蘇秦始め
将に連横せんとし、
蘇秦は秦王を説得しようとしたがうまくいかず、郷里へ帰ったが、冷遇された。蘇秦は発憤して術を学び、 ついに六国の宰相となって再び実家に立ち寄ると、みな前日の待遇を恥じた。
48. 秦恵王、
寒泉子に謂いて曰く
恵文王は蘇秦の合従を破るため、白起を諸侯に使いさせようとした。寒泉子は張儀を遣わすよう進言した。
49. 楚魏、陘山に戦ふ 楚魏が戦ったとき、魏は秦に救援を求めて勝利したが、違約して土地を秦に与えなかった。策士の管浅が恵文君に策を授けて 魏に秦へ土地を与えさせた。
50. 楚使者景鯉、秦に在り 楚の景鯉が、秦王と魏王の会見の席に陪従したので、楚王は怒ってこれを罰しようとした。秦は周最を遣わして景鯉のために弁解した。
51. 楚王、
景鯉をして秦に如かしむ
秦は楚の使者景鯉を抑留して土地を楚に要求しようとした。景鯉はある弁士を昭襄王に派遣して、それが愚策であることを説いた。
52. 楚魏を攻む。
張儀、秦王に謂いて曰く
楚が魏を攻めたとき、張儀は恵文君に説いて、弱小の魏を助けて魏の西河の地を得ようとした。
53. 田莘之、陳軫の為に 説客の田莘之が陳軫のために恵文君に説いて、張儀が陳軫を讒言できないよう予防した。
54. 張儀、
又陳軫を秦王に之く
張儀が陳軫を讒言したが、陳軫は自分が秦王に対して忠誠であればこそ、楚が自分を受け入れようとするのだと弁明して、 辛くも秦に止まることができた。
55. 陳軫、楚を去りて秦に之く 張儀が陳軫を讒言したが、陳軫は秦王を説いて、秦に留まることに成功したばかりか、秦王から厚遇を受けた。
56. 義渠の君、魏に之く 義渠の君は犀首から、秦に欺かれることなく、かえってそれに乗じて秦を討つべきであると説かれた。
57B.C.316 司馬錯、張儀と争論す 司馬錯は張儀と韓を討つか蜀を討つかの論争を戦わして、秦恵文君に蜀を討つことを勧め、恵文君は蜀を討ち取り、秦は豊かになった。
58B.C.313 斉、楚を助けて秦を攻め 楚に斉との交わりを絶たせるため、張儀は楚懐王に商於600里の地を献上しようと欺いた。陳軫はこれを見破ったが、 懐王は張儀を信じて斉と国交を断った。しかし秦から土地はもらえず、斉は秦と同盟した。
59. 楚、斉に絶つ 斉が楚を討った。楚はこの隙に秦に攻められることを恐れた。陳軫は秦に赴いて恵文王に楚を討つ不利を説いた。
60B.C.311 秦恵王死す 秦恵文王が亡くなると、李讎は犀首に張儀を失墜させる策を授けた。
61B.C.310 張儀、秦の兵を假りて以て魏を救はんと欲す 張儀が秦の兵を借りて魏を救おうとしたとき、策士の左成は甘茂に、 兵を貸すことで張儀を秦から去らせることができると進言した。
62. 張儀の
樗里疾を残はんとするや
張儀は樗里疾を排除しようとし、樗里疾を楚に行かせ、楚懐王から樗里疾を秦の宰相にするよう願い出させ、 秦王の不信を引き出した。
63. 張儀、漢中を以て楚に与へんと欲す 張儀は漢中を楚に割き与えるべきだと進言したが、甘茂は変事が起こった際の楚と講和する時の取り引き材料にすべきであると反対した。
64. 魏の為に
魏冄に謂いて曰く
ある男が魏のために、秦と楚を結んで魏を討とうとしている魏冄に向かって、 魏を攻めるよりも斉・魏・韓のために謀るほうが魏冄自身にとって上策であると説得した。
65. 扁鵲 名医の扁鵲が秦武王の患部を見て、これを取り除きたいと申し出た。 しかしお側の者がそれに反対したので武王はこれを中止した。扁鵲は「玄人に相談されながら、素人のためにぶちこわしにされた」と怒った。
66B.C.308 秦武王、
甘茂に謂いて曰く
秦武王は甘茂に宜陽を討たせた時、甘茂は武王が群臣に惑わされて自分を疑うことを予測し、事前に武王と誓って、 ついに宜陽を攻め落とした。
67B.C.308 宜陽の役、馮章 宜陽の戦いに勝利するため、馮章は楚に漢中の地を与えることで楚が韓に味方しないようにさせた。楚が漢中を要求してくると、 秦武王に「それは馮章が勝手に言ったことだ」と言って漢中を与えなかった。
68B.C.308 甘茂、宜陽を攻む 甘茂は宜陽を攻めたが、なかなか落ちなかった。尉官が引き揚げを進言したが、甘茂は自分の立場が瀬戸際であるため、 引き続き攻めて、ついにこれを落とした。
69B.C.308 宜陽未だ得ず 甘茂は宜陽を攻めたが、なかなか落ちなかった。甘茂も戦をやめようとした。左成は、甘茂のために宜陽を落とさなければ窮地に陥ることを伝え、 甘茂はやっと宜陽を落とした。
70B.C.308 宜陽の役、
楚・秦に畔いて
楚は秦に背いて韓についた。秦武王はこれを危惧したが、甘茂はおたがい牽制しあって何事も為し得ないと説き、 武王は安心した。
71B.C.308 宜陽の役、楊達謂いて 宜陽の役のとき、楊達は甘茂の成功を阻止しようと公孫顕を使った。
72. 秦王、甘茂に謂いて曰く 楚からの気の強い使者に秦武王は手を焼いていたが、甘茂は気の弱い使者のことのみ用いるよう策を授けた。
73. 甘茂、秦に相たり 秦武王はひそかに犀首を宰相にしようとした。このことを伝え聞いた甘茂は、犀首がそのことを宣伝していると言い、 武王を怒らせて犀首を追放させた。
74. 甘茂、秦・魏を約して 秦・魏が楚を討とうとしたとき、秦の宰相屈蓋は楚のため、楚と和議をしようとした。 甘茂は、魏を立てて魏に和議を取りはからさせるのがよいと進言した。
75. 秦王謂いて曰く、
臣、ひそかに惑う
ある男が秦武王に、斉・宋と同盟して、楚・韓を攻めるよう説得した。
76. 秦王、中期と争論して 秦昭襄王は中期と言い争って負けた。ある男が中期のために、昭襄王が中期を殺さないようクギをさした。
78. 献則、
公孫消に謂いて曰く
献則は、公孫消に丞相になるためには宣太后に取り入らなければならないと助言した。
79B.C.296 三国、
秦を攻めて函谷に入る
斉・韓・魏が秦を攻めて函谷関に侵入した。 秦昭襄王は楼緩と公子に相談し、ふたりは河東の地を割くか、それとも咸陽まで攻めいれられるかのどちらかであると、 昭襄王の判断にまかせた。
80. 薛公、魏の為に
魏冄に謂いて曰く
孟嘗君は魏冄に、秦は斉と結んで魏を討つより、魏に斉を討たせるほうが魏冄自身にとって都合がよいと説いた。
81B.C.284 泠向、秦王に謂いて曰く 斉が宋を滅ぼしたことを秦王は不快に思ったが、泠向はそのことが秦王の地位を重くし、利益にもなると説いた。
82. 穣侯に謂いて曰く ある男が魏冄に斉を助けて宋を討って、封邑を陶に定めるよう勧めた。
83. 魏冄に謂いて曰く、
楚、秦を破らば
ある男が魏冄に説いて、楚を戦うよりも和平を確立すべきであると言った。
84. 五国、成皋に罷る 秦昭襄王は成陽君を韓・魏の宰相にしようとしたが、宣太后は魏冄のためにこのことを取りやめさせた。
85. 秦、楚の漢中を取り 孟嘗君は秦が楚を破った好機に、楚を攻めようとしたが、楚が秦に助けを求めることを恐れた。ある男が、楚を孤立させる策を進言した。
86. 薛公魏に入って
斉の女を出す
策士の韓春は秦昭襄王のために、魏昭王に離縁させられた斉の公女をめとって魏をおびやかすことを進言した。
87. 魏冄に謂いて曰く、
和成らずんば
ある男が魏冄のために白起の武功を成すことを妨げ、魏冄の権威を保持できるよう策をめぐらせた。
88. 陘山の事 秦と趙は手を結んで斉を討とうとした。蘇代は魏冄に説いて、秦にとって斉を討つよりも、 韓・魏を討つほうが利あることを進言した。
89. 秦の客卿造 秦の客卿造は燕が斉に復讐を果たさせるため、秦の魏冄に斉を討って功を立て、領邑の陶を堅固にすることを勧めた。
90B.C.277 頃襄王二十年 楚の臣春申君は、秦昭襄王に上書して、秦が楚を討つことを思いとどまらせようとした。
91. 段産、
新城君に謂いて曰く
段産は新城君に、新城君のことを秦王に讒言しないので、他人が段産のことを讒言しても信用することのないように言った。
92. 段干越人、
新城君に謂いて曰く
段干越人が新城君に、両者の間を塞いでいる君側の姦人を取り除いて、手腕を発揮させてほしいと求めた。
93B.C.271 范子
王稽に因りて秦に入り
范雎は王稽の推薦で、秦昭襄王に上奏文をたてまつった。昭襄王はこれを容れて范雎を登用した。
94B.C.271 范雎至る 范雎は富国強兵策を昭襄王に進言し、用いられた。
95B.C.265 范雎曰く 宣太后、涇陽君が国政を牛耳っていたので、范雎は昭襄王にこれを追放し、 自ら政権を掌握するよう進言し、クーデターを成功させた。
96B.C.265 応侯、昭王に謂いて曰く 范雎は昭襄王に宣太后、魏冄、華陽君が主権を握っており、 昭襄王は三分の一の権力しかもっていないと言い、主権を取り戻すよう勧めた。
97. 秦昭王、
左右に謂いて曰く
昭襄王が韓・魏が弱小であると軽んじると、それを聞いた中期が智伯の故事を引用してそれを諌めた。
98. 秦宣太后 宣太后が危篤になり、寵愛した魏醜夫を殉死させようとした。庸芮が宣太后に説いて、巧みに殉死を思いとどまらせた。
99. 秦、韓を攻め陘を囲む 范雎は韓の陘を攻めるには、武力を使うのではなく、韓の実力者である張儀の罪を攻めるべきであると説いた。
100. 応侯曰く、鄭人は 蘇代が范雎に、当時の人君が平原君の虚名に幻惑されて、その事実を知らないことを説いた。
101. 天下の士 六国の策士が合縦して秦を攻めようと計ったので、范雎は唐雎に命じて宴会を開いて大金をばらまき、 彼らのまとまりをとりこわした。
102. 応侯に謂いて曰く、
君、馬服君を禽にせしか
ある男が范雎のために、白起にこれ以上武功を立たせることのないようにすべきであると説いた。
103. 応侯、韓の汝南を失ふ 范雎は韓に汝南を奪い返されたのに、それを気に病んでいないと言い張ったため、逆に昭襄王の信任を失うこととなった。
104B.C.258 昭王既に民を息め
兵を繕めて
昭襄王は白起に趙を滅ぼすよう命じたが、白起は自重説を唱えて、病気と称した。何度も出陣を拒否したので、 昭襄王と白起の間に隙を生じることとなった。
105B.C.258 秦、邯鄲を攻め、
17月下らず
王稽は邯鄲を攻略したが、17ヶ月しても落とせなかった。ある男が軍吏に物を賜わって慰労するよう進言したが。 王稽はこれに従わなかったので、讒言された。
106. 秦、趙を攻む。蘇子、
秦王に謂いて曰く
蘇子は秦王に邯鄲を攻める非を説き、趙を滅ぼすことを取りやめさせた。
107. 張儀、秦王に説いて曰く 張儀(韓非?)は、秦の国力は他を凌駕しているのに天下統一ができないのは、 謀臣に人を得なかったからであり、自分に任せれば統一は成就すると説いた。
108. 蔡沢、趙より逐はれて 蔡沢は范雎の地位を奪って宰相となり、また自分を中傷する者が現れると、直ちに宰相を辞めた。そのため4代の秦王に信任された。
109B.C.265 濮陽の人、呂不韋 濮陽の商人の呂不韋は邯鄲で人質となっていた子楚を奇貨であるとし、 これを秦王の位につけるよう工作し、自らは相国となった。
110B.C.236 文信侯、趙を攻め
以て河間を広めんと欲し
呂不韋は燕を味方にして趙を討とうとして張唐を燕に行かそうとしたが、 張唐は断った。12歳の甘羅は策をめぐらせて趙に燕を討たせ、秦がその土地を割譲できるようにした。
111. 秦王、頓弱を見んと欲す 秦の臣頓弱は始皇帝に説いて、一万金の資金を出して、遊説をさせてくれるよう求めた。
112. 或ひと六国の為に
秦王に説いて曰く
ある人が始皇帝に説いて、秦が六国を武力で合わせようとするのは、必ず長くは続かないと前例を挙げて秦の方針をくつがえすよう求めた。
113. 四国、一と為り 四国が共同して秦を攻めようとしたので、始皇帝は姚賈を用いて、 その出兵を中止させた。韓非が姚賈を讒言したが、姚賈は巧みにこれを逃れた。


※参考文献 新釈漢文大系47『戦国策』 林 秀一 明治書院

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